建物をつくるとはどういうことか-15・・・・続・何を描くか

2011-02-25 18:55:14 | 建物をつくるとは、どういうことか
[文言追加 26日 8.33][文言追加 26日 8.37] [註記追加 26日 11.20][説明追加 26日 11.33][関連参照記事 追加 26日 18.47][註記追加 26日 21.40][註記追加 27日 9.15][註記追加 27日 23.35]

だいぶ間が空いてしまいました。続けます。

先回の文中で、
  ・・・・
  建物をつくるというのは、単に、建屋をつくることではない。
  建屋とは、必要とされる「諸室」を嵌めこめばよい、というものではない。
  ・・・・
と書きました。

けれども、「この考え方」は、昔も今も、簡単に通用するわけではありません。
とりわけ、公共的な建物については、
諸種の「建築計画学的研究成果」の結果、いろいろと「指針」が出されています。
したがって、それに「抵抗する」ようなことは、なかなか難しい。


それを初めに痛感したのは、数十年前、ある病院の設計チームに参画したときのことでした。
   註 この病院は、「東京都職員共済組合青山病院」。
     設計主体は、(株)共同建築設計事務所。
     このチームに大学研究室の一員として参加。
     この病院は、4年ほど前に廃院になり、解体され、現在はありません。


「病院」は、通常、外来診療部、入院診療部、検査部、手術部、薬剤部、事務部、給食部・・・などの部局に分かれます。各「部」は、病院の規模によって、さらに「科」「課」に細分されます。

そこで病院の設計では、多くの場合、 これらの各部、各科・課を、如何に「合理的に」配列するか という点に意が注がれるのが普通です。

   これは、住居の設計に於いて、
   必要諸室を(数え上げ)如何に「合理的に」配列するか、というのと同じ方法と言えます。
   これがいわゆる 「建築計画学」的設計の「真髄」 にほかなりません。

   今は何と言うか分りませんが、昔はこれを「動線(導線)」計画などとも呼び、
   「合理的な配列にした相関図」を「機能図」などと呼んだものです。

極端に言えば、その「各部、各科・課」に必要面積が与えられ、それがそのまま平面図になる
そして、その立ち上がった「壁面の操作」、つまり見かけの姿:立面をどのようにするか、設計者の腕のみせどころ!

実際、1950年代以降、つまり戦後に建てられた病院建築には、こうしてできあがった例が多いのです。
つまり、画一的になる。というより、ならざるを得ない。
それゆえ、電車で窓の外に流れる風景をボウッ眺めていても、あれは病院と、すぐに見分けがつきます。
これは学校建築でも同様です。

1980年代以後は少し変ってきますが、それは単に、その画一的な外観に「化粧」が加わったこと。
そのわけは、経済のいわゆる「高度成長」にともない、一時に比べ、工費面に「ゆとり」ができ、それが「化粧」にまわされるようになったからです。その「化粧」を剥せば、中味は相変わらず。

   最近の設計は、中味よりも、この「化粧」に凝っているように見えます。しかも、競って・・・。
   先回紹介の保育所の外壁の色彩も、この「化粧」の一つと言ってよいでしょう。
   簡単に言えば、病院なり学校なり、もちろん住宅なり・・・の「使い勝手」「暮しやすさ」よりも、
   その「造形」(の他との「差別化」)に設計者の関心があるようです。
   と言うことは、建物の「造形」の意味・意義も下落している、ということ。
   私は常々、戦後間もない頃の建物、1950~60年代につくられた建物の質は、
   最近のそれよりも高い
、と思っています。
   なぜそうなるかと言うと、少ない工費を如何に有効に使うか、真剣に取組んだからでしょう。

さて、私もチームの一人として加わった病院の設計でも、すでに、「病院の専門家」による「合理的な配列にした相関図:基本設計図」ができあがっていました。
   このときの「病院の専門家」は、参画した「建築計画学」の研究者。
   
当の病院の敷地は、ほぼ長方形。当時廃止されたばかりの都電の青山車庫北側に広がるかなり急な北西向きの斜面(下の地図の黄色で塗った箇所)。どういうわけかその東側の一角に小さな池がある。そこで水が湧き出しているらしかった。
南と北では、約5mほどの落差があったように思います。
敷地の南端に立つと、視界は自ずと斜面に沿って導かれる。当時、視界に入ってくるのは人家の家並(今は、多分ビルだらけ)。
   註 この地図は、国土地理院HPからの抜粋転載(2万5千分の1)。
      この病院の建物の姿が地図上に書かれていますから、4~5年前の版だと思います。
      [註記追加 26日 11.20]



「基本設計図」は、こういう敷地の状況とは一切関係なく、それこそまさに「机上」の「紙」上でつくられたもの。どうやって敷地に「置く」ことを考えているのか?

私は何をしたらよいか?

そこで、一晩考えて、きわめて簡単な模型をつくりました。
それは、観てきた敷地の概況を念頭に、その敷地に「納まる」のは、こういう構成ではないか、といういわば「敷地利用の概念」を示す模型

そのとき私の中にあったのは、「各部・科の合理的相関図」ではありませんでした。

すなわち、
病院には誰が来るか?⇒病を気にしている人たち、つまり患者。
何しをしに来るのか?⇒病についての「相談」、つまり「診察・診断」すなわち「医療」を受けに。

そうであるならば、
1)「各部・科」は、「患者」にとって「都合のよい」位置に在ればよいはずだ。つまり、「各部・科」は、「患者」のまわりに、「患者」の「必要度の順」に応じて在ればいい。   
必要度の順とは何か。それは「患者の側から見た診療にとっての必要度」の順。
   これは、自分が病院に行った場面を想定してみると、おおよそ見当がつくのではないでしょうか。
   外来診察で診断を受けた患者は、次に何が必要か。
   たとえば、X線検査は、直ちに全ての患者にとって必要ではない・・・。
   以前に、
   農民の暮す領域は、「係わり」の「濃度」に応じて自分の住まいのまわりに同心円状に広がることを紹介しました。
   この農民の位置に「患者」を置き、その「必要」の「濃度」に応じて「各部・科」がある、
   と考えればよいのではないか、ということです。 

   註 これは、つまるところ、
      「公共」「公共の建物」とは何を言うか、についての解釈・認識の問題だ、と思っています。
      「公共」とは、「その他大勢、不特定多数」のことを言うのではなく、
      あくまでも「個々人」の集まりのこと、でなければならない。
      ゆえに、「公共建築」とは、
      単に、「大勢の人、不特定多数」が使う建物ではない。
      あくまでも、使うのは「個々人」。
      使うのは、のっぺらぼうの大勢ではない、
      あくまでも、はっきりとした顔を持つ個人。
      [註記追加 26日 21.40]

もう一つ、
2)診療所程度の大きさならともかく、大きな規模になったときの最大の問題は、患者自身が、常に、自分がいったい病院の何処に居るか、自分の感覚で分ること。これは、案内板に頼らないで、という意味。
   これについては、「道:道に迷うのは何故・・・(迷子になる病院)」で書いています。

   註 この文中では、「公共」を、「不特定多数」としてではなく、
      「個々人(の集まり)」として扱うべき「理由」についても
      簡単に触れています。     
      また、「壁は自由な存在だった-7」の末尾の「蛇足」の項で、
      この考え方を支えてくれた「論」を紹介してあります。
      それはすなわち、「十人十色」とは何か、の「解釈」に連なります。
      [註記追加 27日 9.15]

      また、これはかなり前になりますが、
      『「冬」とは何か・・・言葉・概念・リアリティ』で、
      「概念」とは何か、触れています。[註記追加 27日 23.35]

以上の2点と、敷地の持つ特徴を勘案してつくったのが簡単な「概念模型」でした。
そして結局、この「概念」の下でまとまったのが最終案。
その「概念」は、下の「配置図」に示されている、と言えると思います。



   この図では、表入口が西側の狭い脇道から入ることになっていますが、
   当初は、南側つまり青山通から真っ直ぐ入ることになっていました。
   図にある「6階」・・などの書き込みは、その部分の建屋の階数を示しています。
   ただ、この建物の1階は、斜面北側地面に接する階。主入口は2階にあたります。
   [説明追加 26日 11.33]

図の「外来」と書いてある所には、大きなホールが設けられ、そこをいわば中心に「各部・科」が患者の必要濃度に応じて展開する、という構成。

また、そこに至る過程で、建物が威圧的に迫ることを避けるため、このホールの部分は低層にしています。
下は、そのあたりの分る「完成模型」写真と竣工後の姿。





左側の外階段を3階まで登ると、「管理外来」、つまり、健康診断などのための部門があります。つまり、健康な人のための「健康管理」のための場所は、「患者」とは別にする、ということです。
   実際は、この部分は管理事務諸室になってしまいました。

「ホール」の様子は次の写真。竣工後5年ほど経ってからの撮影で、画面も汚れています。



当時、天井を板張りにすることが認められていた時代。今は、難燃処理をしないと不可のはずです。
この「ホール」のまわりに外来診療室や検査諸室を必要度に応じて並べています。
下が「ホール」のまわりの諸室が分る平面図です。
黄色に塗った吹抜け空間のまわりに、必要度の高い諸室が並んでいます。何処に行っても、「此処」との関係で、どこに居るかが分るはずです。



   主入口階を2階としています。
   その1階下に(表から見ると地下にあたります)サービス部門や救急入口などがあります。

この病院では、病室の天井も板張りにしました。残念ながら、手元に写真がありませんが、割と評判のよかった病室だったように記憶しています。
   これについては、共同建築設計事務所のHP、Archive 欄で知ることができます。


前に、敷地に立って、そこに在るべき空間の姿を観る、と書きました。
そうすることによって、住居なら住居、病院なら病院、図書館なら図書館、学校なら学校・・・の建物が、そこにどのように展開すればよいか、ほとんど決まってしまうのではないか、と私は思っています。私の言う「一つ屋根の塊りを観る」こと。

そしてそのとき、病院・・・・の中身の理解として、決して、いわゆる機能図的な、つまり「必要諸室の合理的相関図」で理解しないことが最低の必要条件。

なぜなら、そういう理解は、あくまでも、「結果物」のいわば「鳥瞰図的理解」であって、そこに「在る」人の「理解」ではないからです。
簡単に言えば、前にも書きましたが、
外来者は(患者は)設計者とは違い、全体平面図を知らない、のが普通。
外来者は、そこでの自分の体験を通じてその建物の平面を、自分の係わりの範囲で、知るに過ぎない。
以前使った言葉(たとえば、「建物をつくるとは・・・-5」参照)で言えば、「自分の地図を描く」ということ。[関連参照記事 追加 26日 18.47]
この「事実」を設計者は気が付かない場合が多いのです。[文言追加 26日 8.33]

たとえば、病院の場合、調剤室は必ず必要です。
しかし、患者に必要なのは、調剤された薬を受け取ること。その「奥」の様子は詳しく知る必要がない。
つまり、「窓口」が患者と「病院」の接点:フロント・前線。
設計としては、そのフロントがどこにあるかが問題。それが妥当な位置に決まれば、調剤室は、その奥に繋がっていればよいことになります。

ところが、いわゆる「必要諸室の合理的相関図」式の理解では、得てして、患者の視点、すなわち、患者にとってのフロントが何か、その肝腎な点が見えなくなってしまうのです。
そのとき為されるのは、諸部門の「合理的」配備。「あれ」と「これ」の間の動きが激しい、だからそれを近接させると「ムダ」がない・・・。
この「思考」の操作の間、患者は念頭から消えてしまう
のです。

   前にも書いたように、多くの設計がそのようになってしまった結果
   急増したのが、「案内表示」、いわゆる「サイン(標識)」なのです。

これは、「必要諸室の合理的相関図」から入る設計法の陥る決定的な落し穴。

つまり、私たちは、病院計画の専門家になったつもりのスケッチではなく、もちろん、造形作家になったつもりのスケッチでもなく、「そこに在る」とき、人が思い描くであろう「感覚」を基に、そこに在ってほしい空間の姿を「描く」必要があるのです。[文言追加 26日 8.37]
建築が「造形」であることは間違いありませんが、しかし、単なる造形ではない。
絵画や彫刻なら、押入れ・倉庫にしまうことができる

ところが建築はそれができない。
だからこそ「注意」が必要なのです。
下手をすると、他人に「害」を与え続けるのです。

私が、多くの先達の残してくれている事例を観て感じるのは、彼らは、決して単なる「専門家」ではなく、もちろん「造形作家」でもない、という事実です。まずもって、普通の人だった、ということ。普通の感性を持っていた。
そこには、押入れに片づけてしまいたくなるような、そういう事例がありません。

今、私たちのまわりには、できることなら押入れにしまいたくなる、そういう建物で満ちあふれているのではないでしょうか。
世の中、「専門家」と「造形家」で満ちあふれてしまった・・・。
そのように感じるのは、私だけなのでしょうか。  
コメント (2)
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日曜の朝

2011-02-20 11:36:59 | その他
昨日、水戸の会合を終え、ひとまず、ほっと一息。体勢を立て直します。

今朝の毎日新聞書評欄に、気になる書物の書評が載っていました。
以下がその全文です。



医療についての話ではありますが、「人のかかわる事象」に共通する問題のように思えます。「人のかかわる事象」は、すべからく、本質的に「複雑系」に他ならないからです。

わざわざ「複雑系」という概念が使われるのは、本来輻輳し、複雑であるのが当たり前の世の中の事象を、「まったくの《便宜・都合》で単純化した《公式》」だけで把える《方法》:著者はこれを 「偽りの分かりやすさ」 と言っています:が、大手を振って歩いているからだと思います。

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号外-再集:日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった

2011-02-16 10:27:39 | 「壁」は「自由」な存在だった
「建物をつくるとは・・・15」準備中ですが、週末まで、未だ落ち着きません。

できあがるまでの「空白」を埋めるため、
先日の「号外-再刊:在来工法・・・」を補う意味を込めて、
日本の建物づくりでは、架構の自立を「壁には依存していない」という事実を、事例で観たシリーズを、
以下にまとめます。

このシリーズは、「耐力壁に依存する現在の木造建築」は、日本の建物づくりの歴史では、きわめて「異質」である、ということの実証・確認のために記したものです。
そしてそれは、その「異質な時代」は、日本の建物づくりの長い歴史の中では最近の僅か60年余にすぎない、という事実の確認のためでもあります。

私たちの頭のどこかの一画に潜んでいる「架構の耐力は壁にある」「壁がないと架構は自立できない」・・・という「先入観」を一旦脇に置いて、「事実」を観てほしい、と思って書いています。

1)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/0e5f84e9e6a05960941c6bf7addf0784
2)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ba65df2182d48e8c06cddb11d35cac23
3)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/79463d3e28a18d29713ccade385bbec1
4)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/53341d0e4ef1e1ead5a20475be1bd6e7
5)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ff5c01cb975024f20a6c378226019f10
6)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/69179419bccd3d1ef2663bee5dc88f1c
7)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/643e57cf3fa000d41843c853830dc1d3
8)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/af0e7b3f276b1782f4697e8dc2eea94a

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号外-復刊 「在来工法はなぜ生まれたか」:補足

2011-02-10 10:30:07 | 日本の建築技術
[註記追加 16日 9.34]

号外の補足を追加します。

簡単な日本の建築の歴史年表。以前にも載せたと思います(下註)。

  註 http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/204452a7d2d6f4e9b3c8d4df1f7a65b1 
    [註記追加 16日 9.34]

特に技術の面で画期をなしたもの、と私が思った事例を載せています。もちろん、全部ではありません。

元版の字が小さいので、読みにくいかと思いますが、ご容赦。



融資以前の部分以外は、年代欄の幅(縦方向)を年数に応じて決めています。

下の方のグレーに着色した部分が、1950年以降です。
住居の欄の何もない白い部分は、資料が遺されていない時代、つまり、研究者が住居に関心を持たなかった時代、研究をサボったため資料が消えてしまっている時代です。

それはともかく、この年表のグレーゾーンの「幅」に注目してください。
このゾーンこそ、「在来工法」なる《概念》、それを支える《理論》《理論家》横行の時代、つまり、「現代」です。

そして、それ以前に広がる広大な時間。
そこは、《理論家》たちが《科学的思考がない非科学的な時代だった》として見たがらない、しかしながら、長きにわたり地震にも堪えてきた事例が多数つくられた時代(それらは、現在も健在です)。
それはまた、人びとが、そして実業者たちが、自由奔放に考えることができた時代。
グレーゾーンは、人びとが思考を止めさせられた時代。

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号外-復刊 「在来工法はなぜ生まれたか」

2011-02-09 19:40:38 | 日本の建築技術
「在来工法」「伝統工法」という《概念》が、相変わらず、建築界を徘徊しているようです。

日本の建築技術は、資料の残っているだけでも、1300年以上の歴史があります。いわゆる「伝統工法」と言われるのは、その系譜の技術です。

一方、「在来工法」と呼ばれるのは、1950年の建築基準法制定以後、法令が規定する木造軸組工法のこと。こちらは、今年現在でも、僅か60年の歴史しかありません。
このことを、よく知って欲しいのです。

日本は、昔から地震国。
なのに、1000年以上、筋かいもなく、基礎に固定することもなく、高温多湿の環境に適した開けっぴろげの建物を、しかも地震に遭っても壊れない建物を、つくってきているのです。
このことを、よく知って欲しいのです。

今から4年前に、表記の題で書きました。
書いた内容は、今もまったく変える必要がありません。

読まれる方の「便宜」のために、以下にまとめてみました。
特に若い方がたには、是非、「事実」を知っていただきたい、と思います。

1)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4b94cbe513aa6931a61a5e1a3d51abe9
2)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/6ca7242c9baf23bf727dfaa955f30a96
3)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/cef93ab0b7bc130c7f47fdb1b3086c4d
4)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/bf981a5eca110e1b76fe045b04754ccb
5)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/1b28f18dca826a4b5f9bbcff2d617ce0
6)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/a90cbf1cbbd68fcf323bf72b3aa60fba
7)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ee235a28f20a31b2d5ffcb2b34b887f3
8)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ea0a3fec36d9f0feb8525b00db0b115f
9)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/2ca8fe70b18a16b92b0ae1bfbfe22925

以下は、西欧の軸組工法の紹介です。
ア)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/653740409b22486607ea61eec6b3f15b
イ)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/07238886f1009bb190a2b01477aca69f

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“CONSERVATION of TIMBER BUILDINGS” :イギリスの古建築-4

2011-02-06 13:49:42 | 建物づくり一般
[図版更改 7日 8.15][註記追加 8日 10.44]


しばらく間が空いてしまいましたが、“CONSERVATION of TIMBER BUILDINGS” から、イギリス中世の、地中海沿岸の石造をモデルにつくられた「頑強にして不動の」木造建築の事例の紹介を続けます。

ここまでイギリス中世の木造建築:主に bahn の建物のつくり方を見ながら、思ったこと。

それは、地震国の日本でも考えられないほど頑強なつくりである、ということ。
地震の心配などまったくないのに、「頑強にして不動」の木造建築を求め、その策として、構築物全体に斜め材 brace をありとあらゆる箇所に入れて固めてきた。

一方、地震国日本では、明治以降、建築学者を先頭に、「頑強、不動」の木造建築を求め、その策として、「架構の一部に頑強な部分:耐力部:を設ければよい」という「考え方」を採った。現在の法令仕様の木造建築は、いわばその集成と言ってよいでしょう。

そのまた一方、「耐力部を設ける方法」が推奨される以前は、
日本の建築は(大半が木造建築)、分っているだけでも千数百年にわたり、「頑強、不動」の立体などを求めたことなどはまったくなく、むしろ、「柔軟な(風にそよぐが如き)」立体架構をつくることに専念し、それでいて地震で壊れない建物を多数つくってきている(少なくとも、南大門などは800年を越えて健在である)。

この三様の発想の違いは何なのだ?何に起因するのか?


ときおり、道を歩きながら高圧線などの鉄塔を見ていて、「突拍子もないこと」を考えます。

高圧線などの鉄塔は、等辺山型鋼(通称アングル:L型の鋼材)でつくられた先細りの梯子(はしご)で塔の4面を構成し、その各面の梯子の各段がつくる四辺形(台形)には、斜め材( brace )が入っています。
こうした4面でつくられた鉄塔は、一つの「かたまり」になって地上に立ち、外力にはその全体で対応しています。
仮に、その斜め材( brace )が1本でもはずれたりしたならば、鉄塔は「かたまり」ではなくなり、抵抗力を失います。

   註 brace :動詞は「~を締める、引き締める」「~につっかい棒を入れる、支える」
           名詞は「突っ張り、支柱」「副木、添え木」「締め付けるもの」・・・
           [註記追加 8日 10.44]

   斜め材( brace )を入れると頑強になり、しかも使用鋼材も少なくて済むことは、
   鉄鋼造が橋などの構築物に使われだして以来、現場での試行錯誤の結果得られた重要な知見です。
   エッフェル塔など初期の構築物では、斜め材( brace )をX型に入れていますが、
   さらなる試行錯誤の結果、
   すべてをX型にしなくてもよいことを知り、対角線1本だけで済ます事例も増えてきます。
   これは、すべて構造力学が発展を見る以前のこと、
   むしろ、そういう現場の知見が構造力学の展開の後押しをしたことは以前にも書きました。

   そして、そういう架構形式を、
   日本では「トラス」あるいは「ラチス」という語・概念で括って呼ぶ「習慣」があります。
   しかし、この「習慣」は、その奥に潜む「ものを構築するにあたっての考え方」に迫らず、
   「トラスという構造」の「形式」を「知識として収集しただけ」で終わる「危険」と背中あわせです。
   なぜ「危険」かというと、「思考」が停止してしまうからです。
   キングポストなどの名称を知り、その各部材にかかる力の性質を知る、それはそれでいい、
   しかしそれだけでは、
   「ものを構築するにあたって、何を、どう考えたらよいか」という「境域」には達することができません。
   この「危険」を避けるには、先に紹介した「建築学講義録」の「洋小屋」の解説(下記)が参考になります。
   それは、梁を掛ける距離:梁間が増えるとともに、
   梁の架け方にも工夫が生まれる、その結果、各種の小屋形式が生まれる、という解説です。
   この「過程」を知ってから(「考えて」から)「構造力学」に入っても遅くはない、と私は思います。
    http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/16c9b15026d4e8bb0fe224f2acf8ffab
   
実際、改めて日ごろ見慣れている高圧線鉄塔を眺めてみると、その使用鋼材の細さには感動を覚えます。

「突拍子もないこと」とは、この鉄塔を、現在の木造建築の構造規定の根拠となっている「理論」で設計したら、どうなるか、ということ。
現在の木造の考え方によるならば、鉄塔の一部に外力に耐える「耐力部」を設ければいい。
たとえば、鉄塔の4面それぞれに、通常見るよりも断面の大きい鋼材でX型に斜め材:「たすきがけ筋かい」:を入れるとか、あるいは分厚い鉄板を張った「耐力部」を、「バランスよく設ければ」、その他の箇所にはあえて brace を入れなくてもよいことになります。

けれども、もしこのような鉄塔がつくられたなら、おそらく直ちに、電線の引張る力だけでも倒壊するでしょう。
実際、そんな鉄塔は見たことがない。現場もまた、そんな鉄塔は承服しないにちがいない。

しかし、なぜ、現在の法令規定の木造建築では、これが許されるのでしょう?

鉄鋼造と木造は異なる、と言うかもしれません。
縦に伸びる構築物と横に広がる構築物は、同じに扱えない、と言うかもしれません。

しかし、根底の「理論」は同じでなければならない、「場面ごとに異なる理論」がある、などというのでは、それでは「理論」の名にもとる。私はそう思います。

この私の「妄想」について、構造を専門とする方がたのご意見を、ぜひうかがいたいと思います。


かなり横道にそれてしまったようです。
このあたりで、“CONSERVATION of TIMBER BUILDINGS”の紹介に戻ることにします。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

先回まで、どの地域でも見られる「垂木構造・合掌構造・又首組」が、梁間の長大にともない「母屋桁を用いる構造」が生まれてくる過程を見てきました。

ただ、イギリスの(多分西欧の平原部一般の)母屋桁( purlin )を使う方法は、日本の母屋(桁)に垂木を掛ける方法とは、異なるようです。
ここで見てきたイギリス中世の方法は、「母屋桁と斜め材:brace そして垂木、屋根板」でつくられる屋根面を、一つの「丈夫な面」とすることに意をそそいでいるように見受けられます。

もちろん、日本の場合でも、母屋に垂木を掛け野地板を張れば、結果として「面」にはなりますが、しかし、イギリスのそれほどには頑強ではありません。

   一般に、「面」として働く、ということを「剛性がある、あるいは強い」と言いますが、 
   日本の場合、かつての建物づくりでは、そこまで頑強にすることは、重要とは考えていないようです。
   普通の幅の狭い板を張ったのでは剛性が足りない、合板ならいい、とか
   面の四隅に「火打ち」を入れなければならない、などと日本で言われだしたのは、
   建築構造学者が生まれてからのこと。

母屋桁方式のつくりが行なわれているうちに、さらにその先へ展開します。
それを、同書では、Post-and-truss 方式の工法と呼んでいます。
これを日本語で言うのは難しい。トラスという語を使うと、まえがきで触れたように、日本で一般に浸透してしまっているトラス概念で捉えられてしまう。
ここで言っていることを意訳すれば、「柱相互を桁で固める」工法、ということになるかと思います。

   新英和中辞典(研究社)によると
   truss :「けた(桁)構え」「けた(桁)構えで支える」とあります。
   ところで、「桁」とは、新明解国語辞典(三省堂)では、
   「柱と柱を結ぶように渡して、その上に構築する物の支えとする材」とあります。
     蛇足 「算盤の珠を貫く縦の棒」のことも「桁」と言います。
        十の桁、百の桁・・の「桁」は、そこから来ています。

同書の Post-and-truss 方式の工法の解説を、そのまま以下に転載します。
   


この解説では、 Post-and-truss 工法は、「母屋桁屋根部( purlin roof )と壁体部( wall- frame )とを結合した、構造の考え方の点で、また建て方の点でも、最もよく総合的に考えられた工法である」とした上で、この方法は、結果としては over-strong であったろうと述べています。
実際、この姿を見ると、日本の古来の木造建築を見慣れた目には、あきれ返るほど over-strong に見えます。地震国日本の建物でさえ、ここまでしなくても大丈夫・・・。

さらにこの Post-and-truss 方式は展開し、Cruck という独特の工法に行き着くようです。いわば、 Post-and-truss 工法のムダを省いた方法と言えるようです。

   Cruck とは、湾曲した木材で尖塔型のアーチをつくる方法で、
   このシリーズの「その1」および下記で紹介しています。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/7cd6ef4e90665a1accadc3e83fe0c6c4 

下の写真は、この書の紹介している Cruck の例。上記にも他の例が載ってますのでご覧ください。それにしても、豪快!



Post-and-truss と Cruck の違いを説明したのが下図。



右の着色した部分が Post-and-truss 工法、左側が Cruck 工法。

Cruck 工法は、湾曲した材料を使うことで、たしかに施工は合理化されます。もっとも、湾曲した材料を集めるのには苦労したと思いますが・・・。
   前にも記しましたが、Cruck とは、新英和中辞典(研究社)によると
   「中世の建物の土台から屋根の頂まで延びて屋根を支える湾曲した一対の大角材の一」を言うようです。

Cruck 工法に至る過程の姿と考えられる事例が次の写真です。


   
先回にも触れましたが、この Cruck 工法の木造建築は、石造建築がモデルになっているようです。
モデルになった石造建築は、次の写真のような建物。
これは、平たい石材を少しずつ「迫り出し」ながら( corbel :迫り出す)積んでつくった尖塔型のトンネル状(ヴォールトと呼ぶ)空間の Gallerusu 礼拝堂( Gallerusu は固有名詞?)。



Dingle Peninsula はアイルランド南西部の小さな半島。
Eire は the Republic of Ireland のアイルランド語名。その Kerry 郡に現存する礼拝堂。 Kerry は山岳地帯だそうです(以上は、新英和中辞典による)。

アイルランドには、たしか、石造の遺跡や建物が多かったように記憶しています。
   蛇足 文化はギリシアに始まり、そこを起点に文化が各地に流れていった、という「文化伝播説」を
       くつがえす契機になるギリシア以前につくられたすぐれた石造構築物がアイルランドにあった!

   石や煉瓦あるいは日干し煉瓦を少しずつ迫り出して積んで屋根をつくる方法は、
   木材の得にくい地域:乾燥地域:なら、どこでも見られるようです。
   この例では、平行する2枚の壁の上に内側に向って迫り出していますが、
   これを円形状平面で内側に迫り出しながら積んでゆくとドームをつくることができます。
   サラセン文化:イスラムの大ドームはこの方法でつくられた例が多いようです。
   この迫り出し法の最大の特徴は、「形枠」が要らないこと。
   いわゆる「アーチ(それを連続させたヴォールト)工法」には形枠が必要です。「形枠」は普通木製。
   つまり、「迫り出し工法」なら、足場が多少要る以外、まったく木材不要なのです。

この石造建築と Cruck 工法とを比較したのが次の図解です。



図中の Eaves course とは、軒線、つまり屋根の最終ラインというような意味だと思います。
Tie beam は(a)の立面には見えませんが、尖塔型の下部が拡がるのを防止するために引張り材が入っているのだと思われます。材料は不明です。木?

Cruck の脚部は、互いに「土台」様の木材で繋げられています。「土台」を流し、それに噛ませる形で Cruck を立てるのでしょう。
その「土台」へ Cruck を固定するためには木製の「栓( peg )」が使われているようです。
下はその部分の解体時の写真。

 

ただ、「土台」は地面に(多分石が敷いてある)置いてあるだけのようです。
脚部を繋げば、建物全体がきわめて頑丈な立体架構になるわけですから、地面に置くだけで、風で飛ばされるなどということはないのです。

   日本の現在の法令仕様で、土台を地面に緊結せよ、というのは、架構を立体に組むことを考えず、
   一部分に斜め材を入れて済ませるため、その斜め材を経て、土台を持ち上げるなどという事態が起きるからなのです。
   イギリスのように、入れられるところ全てに斜め材を入れる場合には、そういう現象は起きません。
   このあたりにのことついては、かなり前に「在来工法はなぜ生まれたか」のシリーズで触れています。
   基礎への緊結については、下記参照。
    http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/1b28f18dca826a4b5f9bbcff2d617ce0

そして、Cruck 工法の棟の部分には各種の納め方があり、その事例が次の写真。

 

こうやって一定の完成形に到達した Cruck 工法による建物の典型の内観を、同書は透視図スケッチで紹介しています。
多分著者 F.W.B.Charles、Mary Charles 夫妻の手になるものと思われます。分りやすい!


 

同書では、このあと、 Cruck 工法の細部の接合法:仕口や建て方が詳細に記されますが、今回は容量を超えそうですので、ここまでにします。

   註 事例のいずれも屋根が急勾配なのは、北海道よりも緯度の高い地域の建物だからです。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

   詰まっていた作業の一つは完了、しかしまだ、今週いっぱい、水戸の次回講習会用資料の作成と、
   地盤調査書が届いた心身障碍の方がたが暮す建物の断面図の検討・作成に追われそうです。
   ゆえに、次の記事(「建物をつくるとは・・・」の続きの予定)は、来週以降になると思います。

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ちょっといい話

2011-02-02 18:43:17 | その他


“CONSERVATION of TIMBER BUILDINGS” の続きを編集工事中です。
その合間に、「いい話」を見つけたのでお知らせします。

「権利」(英語 right の訳語)は誤解の元だ、「権理」が語義に合う、という話です。
下記をご覧ください。
  ブログ「リベラル21」 
  http://lib21.blog96.fc2.com/
  の2月1日付け
  松野町夫氏(翻訳家)の書かれた『権利は「権理」としたほうがよい』という記事です。

日本語は、漢字という表意文字を使っています。語が意を伝えてしまうということ。
日本の science 観を変形させたのも、「科学」という訳語が一因。
「権利」という訳語も、right を誤解させてしまっているのではないか、というのです。
ご一読ください。

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