建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

緩い斜面に建てる-1・・・・木造の長屋

2008-05-31 02:04:53 | 設計法

[記述全面改訂 10.19][タイトル変更 6月3日 17.35]

もう大分前になるが(1991年の竣工)、上州・妙義山の麓の緩い傾斜地に、木造の二階建て長屋:集合住宅:を設計したことがある。ある会社の社宅である。

緩い傾斜の場合は、敷地を整地して平坦にするのが一般の方法だろう。
しかし、そうすると、かならず盛り土の部分が生じ、擁壁も必要になる。
そこで、この設計では、敷地が傾斜に沿って細長いことを利用し、既存地形:地面には一切手を加えず(勾配を維持し)、勾配を建物自体で吸収する方法をとった。

各戸は同一平面・同一断面。屋根は切妻。
建物は三棟に分けてあるが、配置図:屋根伏図のように(図の上が南)、東側の二棟は、南側の屋根面を同一面上にそろえ、一戸ごと建物をずらし、床面:基礎面を西へ行くにつれ高くすることで、地面の勾配を吸収する。西側の一棟では、逆に北側の屋根面を同一面にそろえ、同様に床面は一戸ずつ高くなってゆく。

屋根の片面を同一面にそろえたのは、雨水の処理上、なるべく屋根に段差を設けたくなかったから。

この敷地は、もとは桑畑。もちろん、均一な勾配ではなく、緩いところも急なところもあるが、全体としてはほぼ一定の勾配と見なして問題はなく、建物床面=基礎の高さに段差を設けることで敷地勾配を吸収することが可能と判断した。
屋根勾配を決め、計算の結果、各戸の「ずれ」を3尺にすることで、敷地内に問題なく納めることができた(西側の棟だけ、北側屋根面を同一面にそろえたのは、配置上の算段である)。
言うなれば、擁壁を設けて平坦地をつくるのではなく、各戸の基礎が擁壁の代りをしている。

上段の写真は、北側俯瞰(背後は妙義山)および建物北側全景。
二段目の写真は、左が建物北面に生まれる「ずれ」と段差、次は北面詳細、右は南面。


次回は、建物そのものを図面とともに紹介の予定。
建物は、例のごとく「差鴨居」を使う工法。ただし、内部は真壁表しだが、外壁は写真のようにサイディング張り。

オオ タカ ワライ・・・・!?!?

2008-05-28 15:59:54 | 居住環境

[記述追加:5月29日 2.09、2.27][記述変更・追加 5月29日 9.13]

上のコラムは、5月24日付「毎日新聞」夕刊に載っていた記事。

この記事を読んで、いったい、これを真面目な話と見ているのか、それともからかっているのか、どちらの記事なのだろう、と一瞬訝った。
というのも、読んだ瞬間、私には、こういう発想をする人たちの精神構造は、もはや滑稽どころではなく、空恐ろしい、とさえ思えたからである。

記事によると、「絶滅が危惧されるオオタカを呼び戻そうと、自然林を復元した植栽のある高層ビルを・・・建設する。地域の植生にあった木を植え虫や鳥などを繁殖させる。今後、他の再開発ビルにも広げ、オオタカを頂点とする生態系再現を目指す」のだそうである。

『オオタカたちの生態系』つまり、『自然の生き物たちの世界』には、元来、人がうようよする、そして車が右往左往する、しかも夜になっても闇が来ない、そういう「環境」を必ず生み出す高層ビルの如き物体はない。もちろん、そんなものは『自然の植生』に存在しないのも言うまでもない。
人のいなくなった構築物の廃墟ならば、それが「自然の世界」に埋没することは、つまり「自然の一部」になるであろうことは、十分考えられ、実際にその事例も多々ある。
しかし、すでに「生態系の外で、自然とは無縁に暮すことを是とした、あるいは自然と敵対することを善とした」人類がうようよ暮している「物体」の傍に、オオタカが寄り付くとでもいうのだろうか。そういう事例でもあるのだろうか?

今、オオタカは皇居にいるそうである。だからと言って、隣接地の高層ビル群に「自然植生に拠った樹林」を設ければ、オオタカが居つくだろうか?そんなちっぽけな樹林よりは、皇居の緑のほうがいいに決まっている。

また、都心部で増えているカラス対策に、この《計画》は有効だ、とも言う。ということは、都会のカラスは邪魔者、オオタカがそれを追っ払ってくれる、との《考え》なのだろう。
都会にカラスがいて何故いけないのか?
カラスに言わせれば、「都会」の現状こそ迷惑のはず。そういう「環境」をつくった人間に、邪魔だと言われる筋合いはない、と。

私の住む所には、カラスはもちろん、トビなどの大型の猛禽類、フクロウ、コノハズク、ウグイス、シジュウカラ、メジロ、ジョウビタキ、ホトトギス、カッコウ、ヤマドリ、コジュケイ・・シラサギ、アマサギ、カモ・・、と数え上げたら切がないほどの鳥たちがいる。今は、ウグイスが鳴き、ホトトギスが飛び、ツバメが飛び交い、もうじきカッコウも来るだろう。町の農政課は、カラスとカモの駆除をしているが、それは主にレンコン圃場で蓮の芽が出るころ、あるいは落花生など作物の収穫期の限られた時期だけ。
人の住処が少なく、田畑は多いがそれと同等以上の広さの山林・樹林がある。だから、カラスが生ゴミをあさる、というのは、ないことはないがきわめて少ない。

新聞記事の下の地図は、同じ縮尺に調整した東京とロンドンの地図。いずれも「基本地図」(帝国書院 刊)、東京は1975年版、ロンドンは最新版から転載。

両者を比較すると、相対的に見て、市街化地域に対して、東京は緑の部分すなわち公園・緑地がいかに少ないかが分るだろう。[記述変更]
しかも、ロンドンの地図の右下にある「ロンドン周辺」の地図を見ると、都心から20km圏外側に環状の緑地があることが分る。さらに、その緑地ベルトの幅がきわめて大きいことに注目したい。
これは、近代初頭のロンドンの都市計画で決められたもの。
このことを考えに入れれば、ロンドンの緑地は、東京のそれとは、比べものにならないほど広いのだ。

東京にも、戦前につくられた都市計画では、現在の「環状8号線」の外に、環状の緑地:グリーンベルト:が計画されていたことは、以前に触れた(日本に「都市計画」はあるのか?)。
しかし、これは、まさに「計画倒れ」、あえなく変更され、その結果が現在の東京である。つまり、日本には「都市計画」はいまだかつてない、と言ってよいだろう。先回書いたように(滑稽だが、笑えない話)、その場限りなのだ。いつでも、《都合》によって変えられる。
そのご都合主義の結果、東京は、主として西側に向け、のべつまくなし市街地が広がってしまった。
そして今あらたに、「筑波新線:TX」は、利根川を越えて東に向け、《田園都市化》の《大義》をかかげ、市街地がノッペラボウと広がろうとするのを助長している。[記述追加]

「再開発」を言うのならば、また「都市再生」を言うのならば、かつての東京計画にあった環状緑地を再興する、ぐらいの「理念」が必要なのではないか。
ビルも集合住宅も建て、なおかつ、おためごかしに僅かばかりの緑を増やしてオオタカを呼び(呼んでいるつもりになって)、それをブランドにして儲けよう、などという《計画》を知ったオオタカは、大・高笑いをするのは間違いない。
第一、すすんでそこに住もうと思ってくれる殊勝なオオタカがいるだろうか。

   註 おためごかし=御為ごかし
      相手のためにするように見せかけて、実は自分自身の利益を
      はかること。           「新明解国語辞典」による
                               [記述追加]


蛇足:最近聞いた話。

去るとき、「自然と共生する住宅」がテーマのシンポジウムがあった。
その最後に、参加者の意見を募ったところ、20代の女性が、意見を述べた。
『「自然と共生」というタイトルだったので、家の中に沢山の生き物がいて一緒に暮らすことかと思ったんですけど・・・。』

一瞬、会場は白けた。

当然シンポジウムの出席者は、建築を仕事としている人たち。
ちょうどその頃、建築の世界では「共生」が流行り言葉だった。
しかし、当の意見の主は、「確信犯」的見解、つまり、あえて解説を施せば、あなたがたの言う「共生」とは、どんな概念なの?という直球の疑問をぶつけたのだ。
彼女は、建築の仕事のかたわら、スキューバダイビングを楽しんでいるとのことだった。

滑稽だが、笑えない話・・・・オオタカにはかなわない

2008-05-25 13:00:12 | 居住環境

[記述追加 17.33][記述追加・変更 23.35]

筑波研究学園都市を南北に走る「東大通(ひがし おおどおり)」のほぼまんなかあたり、その道路に接して「妻木(さいき)」という集落がある。「妻木」集落の中心部は、上の地図(ゼンリン地図サイトからの転載編集)のように、家がこんでいる。大半が農業。
ここはかなり歴史の古い集落で、集落の神社「妻木神社」(地図の右下。なお、この地図の、家のない所は畑や山林)に毎年奉納される「妻木ばやし」は、室町時代より引継がれていたものだという(「茨城県の地名」平凡社 による)。
「引継がれていた」と過去形で記したのは、近年、《都市化》が急激に進み、後述の集落のまとまりを壊す動きをまともに受け、継承する人たちがいなくなってしまったからだ。[記述追加]

私が筑波に移住した当時は、毎年夏には集落の中央部で盆踊りが開かれていて、よく見に行ったが、その最後は決まって「妻木ばやし」であった。
それは、きわめてゆっくり、ゆったりとした踊りで、特にお年寄りの女性群のそれは、まるで宙を浮いているような、幽玄とでも言うしかないような感じさえ抱くものだった。後になって、秋田県羽後町の「西馬音内(にしもない)」の盆踊りをTVで見て、「妻木ばやし」のテンポが、それとそっくりなのに驚いた。
「西馬音内」は、一度訪れたことがあるが、そのときは盆踊りの行事はまったく知らなかったときだった。知っていたら、もう少し詳しく街を歩いたことだろう。

この妻木集落は、筑波新線がらみの「開発」で、新規の道路で二分されることになってしまったという。
数年前、集落では反対運動が起きていたのは知っていたが、反対運動は潰され(どういう潰し方かはおおよそ想像がつく)、遂に、道路はつくられることになってしまったらしい。そういえば、いつの間にか、反対運動の立て看板がなくなっている。

上掲の航空写真は、GOOGLE EARTH からの転載。
その道路とは、写真右上の「金田(こんだ)古墳」北側に広がる樹林の一帯を「田園都市化」するために、「県道244号線」を、「妻木」集落を分断して東に延伸しようというもの。
この樹林のある一帯は古墳などの遺跡が多数があることでも分るとおり(別掲:周辺の遺跡地図参照)、古くから人が住み着いたところ。
「金田古墳」の脇の道を少し入ると、見るからに古い水田がある。もちろん今は耕作はしていない。自然の湧き水が小さな谷をつくり、そこを水田に使ったもの。いわゆる谷地田である。このような場所は、このほかにも筑波周辺にはたくさんある(たとえば、「宍塚(ししづか)大池」の周辺)。
この一帯は、土浦で霞ヶ浦に注ぐ桜川の右岸にできた段丘で、暮しやすい地域だったのだ。今でも、段丘の裾野に農家が並列し、段丘へ横に埋めたパイプからの湧き水が飲み水。
この遺跡地図は、1977年版。したがって、今ではもっと多くの遺跡が見つかっているのではないだろうか。

要するに、こういう素晴らしい一帯を「開発」しようというのが、茨城県と「都市再生機構」の計画。
「都市再生機構」がなぜ「田園」をいじるのか、また、何が「再生」なのか、は置いておくとして、実は今、この開発計画に二つの大きな障害が生じているのだという。
その障害とは、一つは、あの樹林の一画がオオタカの営巣地であることが分ったこと、そしてもう一つは、予想以上に遺跡があることが分ったこと。
オオタカは「絶滅危惧種」に指定されている鳥で、いかに「大義」のある「開発」といえども、保護が義務。
同様に、歴史遺跡もまた、調査を行い、何らかの手段で保存等後世へ向けての情報を整備するのが、これも義務。
当初、筑波研究学園都市の開発にあたっては、あまり丁寧には行われなかったような形跡がうかがえるが、さすが、それから数十年、無視するわけには行かなくなったのだ。

つまり、既存集落を二分するのは平気でできたが、オオタカと遺跡は、札束では買えなかった、というお粗末。
オオタカには、「計画」者もかなわなかった、というまことに滑稽な、しかし笑えない話。[記述変更]

上掲の一番下の図は、つくば市のサイトからの転載。
この図の説明として、次のような文言が載っていた。
いわく、「桜コミュニティ内の道路体系は、主要幹線道路となる都市計画道路土浦学園線、都市計画道路東大通線を骨格として、県道土浦大曽根線、県道藤沢荒川沖船で保管されていますが、それだけでは十分でないことから、つくばエクスプレス沿線開発に関連した幹線道路網の整備が求められます」

しかし、いったい、何が十分でないのか、「県道244号線」は、集落を分断してまでして、なぜまっすぐに延伸しなければならないのか。その根拠は何なのか。なぜ避けることができないのか。
既存集落の人びとの暮しよりも、『「計画」として《勝手に》描いた道路』の方が大事なのか。なぜ大事なのか。なぜそこでなければならないのか、それについての明快な説明は、まったく書かれてない。
上図から透けて見えるのは、集落がそんな所にあるのは、《計画上》邪魔だ、という考え。もしかしたら、当初から、「妻木集落」は滅ぼす気だったのかも知れない。「計画者」には、そんな「権限」はないはずだ。

さらに次の文言もある。いわく「桜コミュニティには、古い民家が集積した伝統的集落が点在しており、その集落の周辺に農地を抱えた良好な営農環境を保持しています。今後も、農業の基盤を支える農地や落ち着いた佇まいを見せる伝統的集落の保全を図ることが求められます」と。
上の計画図を見ると、「保全を図る」というのは、「田園集落ゾーン」のことらしい。前にも触れたように、図の「田園都市化ゾーン」も含め、一帯はすべて「古い民家が集積した伝統的集落が点在」する地域。この図を見ると、「田園都市化ゾーン」には、伝統的集落の存在を認めたくないらしい。実際、筑波新線沿線はそうなりつつあることは、以前に書いたとおり(「開発」計画・・・・その拠りどころは何なのか)。


オオタカには「種の保存法」という法律がある。遺跡には「文化財保護法」がある。何事も法律がなければ、「理性」が効かないらしい。
であるならば、このような不条理な(私には不条理に見える)「開発」「計画」で、簡単に「人びとの暮し」「既存集落」が滅亡に追いやられないためには、「種の保存法」にならって、「人間の暮しを護る法律」「先住者の暮しを滅亡から護る法律」が必要なのかもしれない。
あるいは、地球環境があやしくなっていて、人が絶滅危惧種になるのも間近いかも知れず、「種の保存法」に人も含めればよいのかも・・・。

本来、「建築基準法」や「都市計画法」こそ、人の暮しを護らなければならないにもかかわらず、まったく逆、むしろ既存の暮しの破壊を奨めている。
以上、滑稽で笑えない話。
無駄・無理な「開発」を阻止するため、オオタカに頼んで、彼らの営巣地を誘致しようか・・・。[記述変更]

鉄道敷設の意味:その変遷-3・・・・「儲けるため」に鉄道をつくる時代

2008-05-22 15:13:16 | 居住環境

[記述追加:18.07、18.17][訂正・註記追加:5月23日 11.19、11.49]
[字句修正:5月26日 9.08]

鉄道敷設が、当初、それまでの街道や水運の代替として考えられたのは、関西においても同様である。

国策としての鉄道は、関西では、「神戸~大阪」間が1874年(明治7年)、「大阪~京都」間が1877年(明治10年)に開通し「神戸~京都」が全通する。

   註 上の地図は、下記より抜粋、筆者が加筆編集したもの
      京阪神地域の現況:「日本大地図帳」平凡社
      明治20年の測量図:「京都府の地名」「大阪府の地名」平凡社

   註 「新橋~横浜間」は1872年(明治5年)開通だから、
      「神戸~大阪」は、その2年後、「京都~神戸」全通は5年後。
      [神戸~大阪間開通和暦年訂正、註記追加:05月23日11.19]

明治20年の京阪、阪神地域の測量図には、すでにこの鉄道が記入されている。

京都~大阪間は、近世末には、「淀川」の右岸:北側の山系の裾を通る「山崎街道(近世以前は「西国街道」と呼ばれていたようだ)」と「淀川」の左岸を通る「京街道」の2ルートが主であった。「淀川」は、「賀茂川」「宇治川」「木津川」など多数の河川が「山崎」のあたりで合流したあと、大阪までの部分の呼称である。

地形的な利点から、古代~中世は、当然ではあるが「山崎街道」が主である。
低湿地を横切らなければならない「京街道」を重視したのは、徳川になってからで、江戸に上る西国の大名が、京都で朝廷に接するのを避けるため、「伏見」から宇治川に沿って「大津」に至る経路を奨めたらしい(以上来歴は、平凡社「京都府の地名」による)。

   註 上の地図の「伏見」の南で、東から「大池」(「巨椋池(おぐらいけ)」)に
      注いでいるのが「宇治川」。
      「巨椋池」は水深の浅い淡水湖で、自然の遊水地だった。
      明治年間から干拓が行われ1941年(昭和16年)に完了している。
      私が学生の頃、奈良線で近くを通ると、一帯はただ茫洋として、
      いつも靄(もや)がかかっていた。

   註 「山崎」については、
      日本の建築技術の展開-18 の補足・・・・妙喜庵のある場所で触れた。

この京阪間の国策鉄道の経路は、地図で明らかなように、「京都」から「山崎街道」に沿って南下し、途中「高槻」(地図に記入の「山崎街道」の文字の下あたり)からは「亀山街道」に沿って「大阪」に至る経路をとっている(なお、「亀山街道」の「亀山」は、現在の「亀岡」市亀山に「亀山城」があったことからの命名、今は「亀岡街道」と呼ばれる)。

「大阪~神戸」の経路は、「山崎街道」が「中国街道」に合わさる「西宮」以西は、ほぼ「中国街道」の山側を並行して敷設されているが、「大阪」~「西宮」は、「中国街道」の北を、かなり離れて通る(それゆえ、「尼崎」駅は「尼崎」の街からは2km以上も離れている)。おそらく、敷設工事にあたり、その一帯が低湿地であることを嫌ったのだと思われる。

この国策の鉄道開通後、鉄道の通らなかった街道筋で、民間による鉄道敷設が始まるのは関西でも同じである。
その中でも早いのが、国策の鉄道が通らなかった「中国街道」を忠実になぞる鉄道で、1905年(明治38年)に「神戸~大阪」間が開通する。現在の「阪神電鉄」の本線である。
次いで、1910年(明治43年)には、「京街道」筋の「京都~大阪」間と、「能勢街道」に沿う「大阪~石橋~池田~宝塚」「石橋~箕面」間が開通している。
前者が現在の「京阪電車」の本線、後者は現在の「阪急電車」の宝塚線である。「池田~宝塚」以外は、旧主要街道の代替と考えてよい。

ところが、明治が終り、大正にはいる頃:1910年代中頃になると、少し様相が変り、近世の陸運・水運の代替とは無縁な鉄道の敷設を考える経営者が現れる。[字句修正]
その最初の例と言えるのが、1920年(大正9年)に、国策の鉄道:現東海道線の北側に並行して開通する「大阪~神戸」間の鉄道:現在の「阪急神戸線」で、「大阪~神戸」間の三本目になる鉄道である。

先行の二本の路線が主に旧街道筋の町々を結んでいるのに対して、この鉄道は、街道筋ではなく、大きな町も少ない六甲山系の山麓に沿って敷設されている。どう考えても、利用者は前二者に比べて少ない。
この鉄道の「発想」は、敷設地域の既存の居住者を利用者と考えたのではなく、「新たな利用者を敷設地域に住まわせる」、すなわち、大阪や神戸周辺の都市生活者向けに鉄道沿線に住宅地を開発し、その人たちに鉄道を利用させることを考えた敷設なのである。そのため宅地購入費用の分割による販売も行った。

その後「阪急」は、「大阪~京都」間にも三本目の鉄道を開設するが(現「阪急・京都線」)、これも同様の考え方で、既存の街道等とは無関係に路線を敷き、観光地「嵐山」への支線も設けている。

おそらくこれは、徳川幕府崩壊後およそ50年、以来進んできた「近代化」思想:「西欧風近代合理主義:資本主義」の考え方が、それまでの江戸期を通じて維持されてきたわが国の「商いの思想」:それは「近江商人の理念・思想」(「近江商人の理念」参照)に代表されると見てよい:を駆逐しはじめた一つの表れと見ることができるだろう。

「阪急」の創業者は、東武鉄道の根津嘉一郎と同じく甲州商人の家の出。福沢諭吉の慶応義塾を卒業後、財閥系企業に就職、後に「阪急」を創設する。
しかし、「神戸線」「京都線」とも、周辺に人口がない段階には、経営は必ずしも成り立ったとは言えなかった。経営の継続には、かつて知己を得ていた関西の銀行筋の支援と、小林の独特の発想が支えになったようだ。
小林は、「大阪~神戸」「大阪~京都」を、既存の二本の鉄道よりも短い時間で結ぶことを考えたのである。それが阪神「急行」電鉄の名のいわれ。「阪急」は「阪神急行電鉄」の略称である。

現在、多くの鉄道は、沿線に遊園地その他「観光施設」等を経営し、利用客を呼ぶことを常道としているが、それをいちはやく手がけたのも「阪急」である。
「阪急」は、その策の一つとして、「大阪~池田」線の最奥の山あいの地に(地図参照)、人寄せのため、1911年(明治43年)に「宝塚新温泉」を、1913年(大正2年)には「宝塚唱歌隊」:後の「宝塚歌劇団」をつくっている。また、集客のために、ターミナル駅に百貨店を併設するアイディアを最初に実行に移したのも「阪急」であった。

この「考え方」は、他の鉄道にも影響を与える。昭和に入ると、既存の「観光地」へ向けて鉄道を延伸したり、新設する動きが生まれ、ターミナルに百貨店がつくられるようになる。
関東では、観光路線として、東武鉄道が1929年(昭和4年)「日光」への路線を延伸し、「小田急(小田原急行電鉄)」によって、1927年(昭和2年)「箱根」に直行する鉄道が「小田原」まで、1929年(昭和4年)「江ノ島」直行の「江ノ島線」が開通する。「小田急」は、創業と同時に「向ヶ丘遊園地」を開設している。

そして、関東の「東急」は、最初から「阪急・神戸線」的発想で鉄道経営を手がけるようになる。「東横線」などがそれで、駅名には「田園調布」「自由が丘」などの名前が付けられる。言葉のイメージで人の心をゆすぶる作戦である。

   註 各地の住宅地や、鉄道の駅名に、雲雀も住めないのに
      「ひばりが丘」、「あざみ」など生える場所もないのに
      「あざみ野」等と名付け、あるいは「粕壁」はイメージが悪いから
      「春日部」に、「十余四」を「豊四季」に変える、などという
      「開発業者」の《習性》も、元をただせばこの時期からのものだ。
      「十余四」は開拓地に付けられた「14番目の新田」の意。
      当然、「十余一」~「十余三」もある。[記述追加]
      なお、「春日部」や「豊四季」の改名は、旧「住宅公団」の仕業。
                               [記述追加]

そういった駅を中心にした「都市計画?」は、今でも残っている。新設の鉄道「小田急」沿線の「成城学園」や、既存の「西武鉄道」の「大泉学園」なども、その影響を受けた例である。
「小田急」「東急」の「急」は、明らかに「阪急」の影響である。


民間の鉄道が、このような「近代合理主義:資本主義」的経営に進む一方、国策の鉄道は、依然として、「地域住民の利便性を重視した、つまり採算度外視の鉄道の敷設・経営」を継続していた。

けれども、戦後間もなくはともかく、1960年代以降になると、いわゆる《高度経済成長》の波の中で、《経済》界の趨勢は、「近代合理主義」を越えて「採算重視:費用対効果重視主義・市場原理主義」の方向へと急激に変ってゆく。端的に言えば、儲からないことはやらない、手を引く、という考え方。
当然、「住民の利便重視・採算度外視」の敷設・経営の鉄道は、存在が危くなる。その結果が、すなわち「国鉄民営化」「地域鉄道の廃線、または第三セクター化」なのである。

理の当然ながら、「採算:費用対効果重視、市場原理主義」に拠るかぎり、人口の多い地域に於いては、「住民の利便」は見かけの上では大事にされているように見えるが、人口の少ない地域に於いては「住民の利便」は無視されることになる。
すなわち、鉄道の利用者は、一見、鉄道会社のサービスの享受者のようでいて、実は、鉄道会社にとっての、単なる商売のための品物:儲けを生むための物品:にすぎなくなった、と言っても過言ではない

このような《最も現代的、最新の考え方》に拠るかぎり、「利益」を生む品物が少なくなれば、「サービス」は行う意味がないから、「サービスの提供」から手を引くことになる。
現実に、都市以外に於いては、その現象が起きている。この「主義」に拠るかぎり、都市以外の地域が疲弊するのはあたりまえなのだ。
都市近辺に住む人は、日ごろ「不便」を感じていないから、この「事実」に気が付いてもいないが、都市以外に暮す人びとは、とっくの昔から、身をもって知っている。[記述追加]


1960年代以降の都市への人口集中とともに、各地で住宅地開発を携えた鉄道敷設や、更なる《経済的発展》を意図した開発が行われるようになる。人口の少ない、土地に空地が目立つと思われる(実際は空地ではないが、開発計画者には、農耕地でさえ空地に見えるのだ)地域は開発対象地として狙われた。「田園都市線」などは、その最たるもので、先に触れたように、都市住民の心をくすぐるような駅名や地名、住宅地名が次々につくりだされていった。

その際留意すべきは、これは先に筑波新線の開発に於いても触れたが(「開発」計画・・・・その拠りどころは何なのか参照)、開発計画地に於いては、数が少ない先住の居住者たちは、それゆえに大事にされず、相手にもされず、その人たちの暮しや居住地の環境が、次々に押しつぶされていくことだ。その先駆的代表・典型は、「成田空港」と「筑波研究都市」の開発と言ってよいだろう。

「成田」の強引な開港の理由は、「羽田」が限界に達しているから、であった筈だが、最近は「羽田」を拡幅し、国際線も受け入れる方向に動き出している。
東京への一極集中を避ける目的で行われた筈の「筑波研究学園都市」は、今、筑波新線の敷設で、東京圏の一部に取り込まれつつある。
どうも、最近の「開発」には、「定見」「理念」がない。仮にあるように見えても、それは「当面を取り繕うための言葉」に過ぎない。咽喉下すぎれば何とやら、人の噂も75日、平然と前言を取り消して知らん顔。
要は、「儲かる」ためなら何でもやり、「儲けにならない」ことは、一切やらなくなったのだ。
明治期の鉄道創業者はもちろん、少なくとも、当初の「阪急」の創業者にも、そこまでの「割切り」はなかった。

このような「費用対効果を最重要視する《現代的な思考法》:簡単に言えば、儲からないことはしないという《理念》」を、私たちは是認していて、はたしてよいのだろうか。
そして、明治の鉄道人は、はたして非合理的、非近代的な思考の持ち主だったのだろうか。彼らの理念は、忌むべきものだったのだろうか。
そしてさらに、明治以前の為政者は、明治の人びとにもまして、非合理的、非近代的だったのだろうか。
そしてまた、江戸時代の商人は、儲けに直結しない「ばからしいこと」ばかりする非合理的、非近代的な考えをする人たちだったのだろうか。[記述追加]


ところで、筑波新線の開業とともに筑波周辺で進んでいる開発事業で、ある「滑稽な、しかし笑えない、事態」が起きているらしい。折りをみて、それを紹介する。

続・急いでコメント・・・・四川盆地の広さ!

2008-05-19 21:42:21 | 地震への対し方:対震

[地図差替え、記述追加 5月20日 10.12]

中国・四川省の地震の被災状況をTVで見ていて、その状況の凄さもさることながら、こともなげに、ある町から別の町へ300km移動、など語られるのにいささか驚いた。300kmといえば、東京から名古屋の手前まで。
そこで、あらためて手元の地図を開いてみた。

上掲の地図は、ともに帝国書院刊の「基本地図」からの転載。中国と日本が収まっているのは1976年版。下の四川盆地のクローズアップは2008年版から。
全体図を1976年版にしたのは、縮尺によるのだろうが、四川省の西に広がる山系の褶曲の様子がはっきり分るからだ。

一帯は、エヴェレストに代表される大陸が押し寄せることでめくりあがった地形の典型と言われる地域。
四川盆地は、多分、その動きによって生じた窪地なのだろう。標高が200~300m、それでいて囲む山は5000mを越えるものがざらにある。地質図も見たくなる地域でもある。
とにかく、すべてが、狭い日本に住んでいると理解できないような、とてつもない大きさ。
「盆地」などと簡単に言うけれども、この「四川盆地」の中には、日本の盆地でいうと、会津盆地などいくつ入ってもまだゆとりがある。九州全部を入れてもまだ余る。それほどの大きさ。盆地の中には、またいくつかの日本的な盆地があるのではないだろうか。
地図を見て、あらためてこの「違い」に気がついたのである。

この盆地で暮す人びとの生業(なりわい)は、報道からはさっぱり見えてこない。山沿いの地域に暮す人びとのそれが、特に分らない。
この盆地周辺には、各種の地下資源が埋まっている。これも、先の地形の変動にともなうものだ。この採掘などにかかわる人びとも、かなり多く暮しているのではないだろうか。


今回の地震は、先に触れた大地が押し合うこと原因があるとされる。圧力に耐えられなくなって、接触面がずれる。
そこで、「理科年表」(丸善刊 2006年版)で、四川省で発生した地震を調べてみた。
「理科年表」には、世界各地の「マグニチュード7.8以上、または死者1000人以上の地震」について、西暦1509年以降2004年までの地震が調べられている。最近500年間の大きな地震の一覧表である(震源の緯度、経度も示されている)。

四川省と言っても、先ほど触れたようにべらぼうに広い。震源が四川省のどこなのかを問わず、四川省で起きた地震を列挙してみると次のようになる(本当は震源を地図にプロットすればよいのだろうが、この作業は省略した)。

1786年6月1日(M7.8)、同6月10日(M7.0)、1816年12月8日(M7.5)、1850年9月12日(M7.5)、1870年4月11日(M7.3)、1923年6月14日(M5.8)、1933年8月25日(M7.5)、1973年2月6日(M7.6)。そしてこの最後の地震から35年後に起きたのが今回。

つまり、大きな地震は、今回を入れて9回。四川省では、巨大地震は、平均して50~60年に一度起きていることになる(500年間の平均であって、データでは、間隔が10年のときもある。1786年の続けざまの例は、どちらかが予震か余震だろう)。一見相当頻繁に巨大地震が起きているように見える。

では、同じ期間、1509年~2004年の間に、日本では大地震がどの程度起きているのだろうか。
数えてみると、何と30回。平均では16年に一度。四川省の大体4倍の頻度で巨大地震が発生していることになる。さすが地震国日本ではある。
察するに、四川省では、滅多に地震は起きないが、起きるときは巨大、ということなのだろう。

「識者」の中には、地震の多発する四川省で、「耐震」建築が建てられていないのが問題だ、と言う人がいたけれども、日本と比べたら、「切実感」がまったく違う、と言えるのではないだろうか。


今回の地震の報道で、中国では、「地震に対すること」を、「抗震」と表現していることを知った。
「抗」の語義は、①「ふせぐ、こばむ、ささえる」、②「あたる、あげる」、③「たかい」、④「わたる、かける」とある(白川 静「字通」)。

日本では「耐震」が一般的。
「耐」の語義は、①「ひげをおとす、ひげをおとす刑」、②「たえる、しのぶ、よくする、あたる」、③「のり、法度」、例として「耐寒:寒さをしのぐ」「耐用:使える」「耐任:我慢する」「耐面:婦人の顔剃り」・・とある(白川 静「字通」)。なお、①の意味は、同書に説明があるが、省略。

ちなみに、「対」は、①「うつ、あげる、土をうつ」、②「むかう、あたる、あう。あいて、つい」③「こたえる、あわせる、たぐえる、むかえる」(同上書)。

鉄道敷設の意味:その変遷-1・2補足・・・・明治20年の地図に見る

2008-05-17 20:16:08 | 居住環境

[図面差替え 22.13][説明追加 05月18日 05.16]

前2回の補足として、1887年(明治20年)編集の地図:測量図を紹介。

当時、現在の国土地理院の前身、陸軍陸地測量部が、全国を測量した。通称「迅速図」と呼ばれている。
平凡社は、各県の地名辞典を編纂するにあたって、各県毎に迅速図を集成編集した。上掲の地図は、そこから抜粋、分りやすくするために、筆者が主な街道を赤、河川を青に塗った。

①は、埼玉平野の中央部。図の上が北。
中山道、陸羽街道、そして中山道線、東北線が記載されている。
青く塗ってあるのは右上が利根川、左下の曲折するのは荒川~隅田川。

②は茨城県南部。図の右が北。①と縮尺を同じにするため、90度右に回転。
見難いけれども、縮尺重視したのでご容赦。
青塗りは、上から(西から)順に、利根川、鬼怒川、小貝川、桜川の流れる範囲。
上を横切る街道(赤く塗ってない)は中山道。
右側の上下に(東西に)通っている赤線塗りが、「小山~水戸」をつないでいた街道。
赤塗りは、上から(西から)順に、「取手~下館」「土浦~真壁・岩瀬」間の街道。

この時代、都市・町・街と農村部は、西欧では現在でもあたりまえな、メリハリのついた様相であったことが分る。

今、日本では、全土を町・街化するのが開発、進歩であるかのように、ノッペラボウに家々が続く様相になりつつある。
それには、ある時代以降の鉄道敷設の思惑が深く関係していると言ってよい。
今回の連載記事は、それを明らかにするのが目的。

できるだけ広い範囲を入れようとしたため、地名などが見難いと思います。何とか想定してみてください。
なお、当時の横書きは、右から左へ並べます。例えば、「東京」は、この地図上では「京東」になります。

鉄道敷設の意味:その変遷-2・・・・採算度外視で鉄道をつくった時代

2008-05-16 08:31:36 | 居住環境

鉄道の敷設に対して、場所によると、反対運動で路線を迂回させた地域もあった。しかし、実際に鉄道が開通すると、その影響は、予想を越えて大きかった。
先回、初期の鉄道は、主としてそれまでの陸路・街道の代替を意図して計画されたことを紹介した。
その際、街道筋でありながら、路線からはずれてしまった地域が生じているが、その地域で、特に鉄道の影響が顕著に現われだす。物流が鉄道に流れ、それぞれの町の拠って立っていた物資集積地としての役割が急激に奪われていったのである。

先回、両毛線、水戸線は、旧来の街道筋であり、かつ、江戸時代の物流の主役の河川舟運の上流拠点を結んでいることを紹介したが、そこに集積された物資は、鉄道により運ばれることとなり、人もまた鉄道利用に変っていった。
その結果、かつての交通・物流の要衝でありながら鉄道からいわば見放された旧街道筋、旧水運筋(河川筋)の町々の衰退は目に見えて明らかになっていく。
例を挙げれば、東北へ向う鉄道が大宮分岐になった結果、唯一鉄道が通らなかった旧主要街道:陸羽街道(現国道4号)の千住~栗橋間がそれである。

その結果、鉄道に反対した地域を含め、鉄道敷設を望む動きが各地で起きるようになる。
先の陸羽街道筋でも、民間の手による鉄道敷設が実現する。

   註 先回紹介した主要な鉄道の敷設にも民間がかかわっているが、
      その場合は、いずれも国の施策に従った形の「民間」である。

1889年(明治32年)、国家的事業の上野~前橋間全通に遅れること5年にして、千住~草加~越谷~粕壁(現 春日部)~久喜・栗橋の間に、街道筋の町を丁寧に結ぶ民間による鉄道が開通する。現在の東武鉄道・伊勢崎線の前身である。

この鉄道のほかにも、主要鉄道の路線からはずれてしまった北関東の町々をつなぐ小鉄道もこの時期敷設されているが、この伊勢崎線の前身の鉄道は、これらの小鉄道を併せながら、北関東各地の「主要鉄道から見放された町々」をつなぎ、遂には伊勢崎まで到達する。そして1910年(明治43年)、現在の浅草~伊勢崎が全通する。

その経路を見ると、各町々に寄るため、路線は曲折を繰り返す。つまり、この鉄道の敷設の最大の意図は、主要鉄道の通らなかった町々に鉄道の「恩恵」を届けることにあった、見てよいだろう。

   註 両毛線が伊勢崎に直行したため鉄道からはずれた旧街道筋の
     前橋~大胡~桐生でも「上毛電鉄」が敷設されている。


しかし、このような鉄道であったため、私が子どもの頃は、東武鉄道は「儲からない鉄道」の代表と言ってもよく、車両もお世辞にもよいとは言えなかった。なぜなら、沿線には町と田畑が交互に広がり(田畑が圧倒的に多い)、沿線人口も少なく、明らかに「儲け」が少なかったからだ。いわゆる「田舎の電車」。
しかし、第二次大戦後、特に1950年代後半以降、沿線の田畑が宅地化され、人口が増え、通勤電車化するにつれ、他の都市内私鉄風に徐々に変ってくる。住宅公団の団地ができてから「粕壁」は「春日部」に変り、そして、古くからの地名であった「杉戸」駅は、「東武動物公園」に変ってしまった。

なお、東武鉄道と言えば、日光直通の観光路線と思いがちだが、日光への路線ができるのは、かなり遅く1929年(昭和4年)である。
この鉄道経営者には、当初、観光による商売という意図はなかったのだ。

このような東武鉄道の経営にあたったのは、「甲州商人」の出の根津嘉一郎である(主体は穀物商。当初からではなく、窮乏を見かねて経営を引継いだ)。

   註 二代目も嘉一郎を襲名。
      南海電気鉄道などの経営に参画。
      「根津美術館」は根津家の収集品を収蔵・展示。
      旧制高校の「武蔵高等学校」の設立にもかかわる。

      なお、以上に記載の各鉄道の建設年次は、
      各「〇〇県の地名」(平凡社)記載のデータを集めたもの。


上の地図(「日本大地図帳」平凡社 より転載)は現在の関東平野東部地域。
この地図上で、先に紹介した「国策鉄道」高崎線、東北線、水戸線のみ残して他がない状況を想像すると、鹿島灘まで、鉄道路線が何もない広大な地域が広がっている。
しかし、その地域には、大きいものだけでも、利根川に注ぐ鬼怒川、小貝川、霞ヶ浦に入る桜川、恋瀬川などの河川がほぼ南北に平野を下っている。そしてこれらの河川は、いずれも、平野の産する物資(穀類、薪炭類、醸造製品など)を江戸に運ぶ重要な水運路であった。それゆえ、これらの河川に沿って、河岸・町が発達し(水海道、下妻、土浦、高浜などには、古い町並みがのこる)、それらの河岸・町を結ぶ街道も、河川に並行して生まれていた。

しかし、「国策」鉄道の開通は、一挙に水運・舟運の需要を減らす。物資は上流の水戸線に集められ、東京に向うようになった。
そこで、先の東武伊勢崎線の前身の鉄道同様、かつての水運路・街道を踏襲代替する鉄道の開設意欲が各地で生まれる。
この地域では、鬼怒川と小貝川の間を南北に取手~下館を結ぶ常総鉄道(現在の関東鉄道常総線)が1913年(大正13年)、桜川に沿って土浦から筑波、真壁、岩瀬をつなぐ筑波鉄道が1918年(大正17年)に開通している。
恋瀬川に沿って、石岡と柿岡を結ぶ鉄道も計画されたが、実現しなかった。
これらはいずれも、1889年(明治22年)全通の水戸線と、1896年(明治23年)に開通した常磐線とを結ぶことを意図したものだった。

すでに少し触れたが、次々に生まれたこれらの鉄道は、現在の鉄道とは異なり、いわば「採算度外視の経営」「儲からない鉄道」であったことは注目してよい。
東武鉄道の経営を引継いだ根津嘉一郎も、鉄道の存続・経営には、おそらく、他の事業で得た資金を注ぎ込んでいたと考えられる。
これは、各地で生まれた後発の鉄道にも共通し、今風に言えば、各地の資産家のいわばボランティアに近い経営であったと言える。
ただしそれは、事業に参画した資産家たちが、今風のボランティアを意識していたのではなく、「それを担うのが当然の義務」と考えていたからなのである。これは、以前紹介した「近江商人」の思想・理念に共通する(近江商人の理念参照)。

   註 根津嘉一郎は、「社会から得た利益を社会に還元するのは
      当然の義務」と言っているという。

もちろん、先に紹介してきた「国策」の鉄道も、現在のように採算第一ではなく、鉄道の持つ役割:住民の利便=「公益性」を重視したものであったことに留意する必要がある。
つまり、採算第一、採算重視であったならば、当初の鉄道はすべて、経営が成り立たなかった、と考えてよい。
当時の「施策」や「社会の気運」を、現在の「《経済》合理主義」で計ることはできないし、計ってもならないだろう。


そして、これら各地に生まれた鉄道は、《合理化》が経営の主流の「思想」となる1960年代以降になると、自動車の普及にともない利用者、物資輸送とも激減し、採算度外視の運営は許されなくなる。
たとえば筑波鉄道は、やむなく1987年(昭和62年)に廃線に追い込まれる(線路跡地は、サイクリングロードとなっている)。
常総線は、辛うじて東京に近いため沿線にベッドタウンが生まれ、乗降人員を確保でき、とりあえず採算がとれ、「当初の意図とは別の形」で生き永らえている。

「採算第一」「《経済》合理主義」「市場原理主義」が重視されるかぎり、経営が成り立つのは、人口:利用者の多い都会周辺に限定されるのは目に見えている。
そして、地域住民の利便重視から採算重視へと「判断の尺度」が変ってしまった結果、かつて、各地に建設された「国策」鉄道もまた、国鉄の民営化以後、廃線や第三セクター化に追い込まれる。各地の「地域間路線」=「生活路線」(いわゆる《ローカル線》)では、特にそれが著しい(「地域間路線」をローカル線と呼ぶのは、語の誤用である⇒山手線はlocal線だ)。
阿仁・異人館で紹介した「秋田内陸縦貫鉄道」もその一例である。

   註 茨城県では、一戸当たり3台程度、自動車を保有している。
      バスを乗り継ぐなどに比べ、移動にとって便がよいからである。
      その結果、バス利用も減り、各地のバス路線は縮小される。
      私の住む一帯は、最近では、土浦までのバスが
      一日5本程度に減ってしまっている。悪循環。
      利用者は、主に高校生と病院通いの高齢者。ダイヤもそれ向き。

次回は、もっぱら「利益を生む」ことを考えた鉄道の出現について。

急いでコメント・・・・中国の巨大地震

2008-05-15 01:56:30 | 地震への対し方:対震
中国大陸内陸部で巨大地震が起きた。建物の破壊も著しい。
日本の地震の《専門家》は、案の定、土や煉瓦、石でつくった建物が壊れた、つまり「組積造の建物が地震で壊れた」と公言してはばからない。
しかし、TVの映像では、石造や煉瓦造でも、地震に遭っても健在な建物が写っている。組積造でも壊れなかった建物があるではないか!。

つまり、彼ら日本の《専門家》の頭には、「組積造は絶対に地震に弱い」という先入観が、根深く巣くっている、はびこっている、と考えてよい。その目でものをみてしまうのだ。あるいは、見もしないでものを言う。
彼らは、正真正銘の「科学者」ではないのだ。

人がある場所に定住することを決めたとき、最初に彼らは何をするか。
それは、「とりあえず、毎日を営むことのできる住まい」をつくろうとすることだ。「未来永劫存在し続ける建屋」をつくることなど、念頭にない。
そして、そこで毎日を暮し続けてゆくうちに、ゆとりを持って毎日を暮すことのできる日も来るだろう。
そしてそのとき、人びとは、それまでのいわば「仮の住まい」を、「未来永劫存在し続けることのできる建屋」に建替えようと考える。そうしてできる建物は、簡単には地震でも壊れない。・・・

このあたりまえの人の営為に目を向けない《耐震》論ほど、虚しいものはない、と私は思う。

いたずらに「耐震補強」を唱える前に、まず人びとが、ゆとりを持って暮すことのできるような状況をつくりだすことこそが、必要なのではあるまいか。

組積造と地震についての西欧の人たちの考え方については、以前紹介した⇒煉瓦造と地震-1煉瓦造と地震-2
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鉄道敷設の意味:その変遷-1・・・・「街道の代替としての鉄道」の時代

2008-05-13 03:32:11 | 居住環境

[記述・註記追加:9.35、11.19][地図追加:21.18]
[記述修正:05月14日2.18]

釜石鉱山には、釜石~鉱山間に鉄道が敷かれていた。それは、鉱山が国営の時代、1880年(明治13年)に、当時の工部省の敷設したもので、わが国では3番目の鉄道とのこと。それほど、鉄が重要視されていたのである。
多くの鉱山は国営で運営されていたが、そのほとんどは経営がうまくゆかず、民間に払い下げられる。これは、小坂鉱山も同様であることは以前に触れた(「公害」・・・・足尾鉱山と小坂鉱山)。釜石の鉱山専用鉄道も、わずか3年で廃線、1884年からは、民間が受け継ぐことになる。

日本で最初の鉄道敷設は1872年(明治5年)の品川~横浜(桜木町)、同年のうちに新橋まで延びる。新橋まで延びた10月15日が鉄道記念日。

その後の鉄道敷設を順に追ってみると、なかなか興味深いことが分ってくる。
東京を中心に調べてみると、新橋~横浜に次いで開通するのは、1883年(明治16年)の上野~熊谷。翌年の1884年に熊谷~高崎~前橋間が開通し、今の高崎線に相当する路線が全通する。

次いで、高崎~横川間が1885年(明治18年)。これは今の信越線にあたる。

今は東海道線が主と考えられているが、明治政府は当初、そうは考えておらず、江戸時代随一の主要街道「中山道」の代替としての鉄道敷設:「中山道線」を考えた。それが、高崎~横川、つまり碓氷峠下までの敷設を急いだ理由である。
だから、現東海道線の着手は、「中山道線」よりも遅れ、横浜~国府津:1887年(明治20年)、国府津~静岡:1889年(明治22年)と、高崎~横川間よりも数年遅い。関西から名古屋、静岡への敷設は進んでいたから、この年に新橋~神戸の輸送路が辛うじてつながる(琵琶湖のあたりは水運に頼ったとのこと)。

   註 関西では、神戸~京都は1877年(明治10年)に開通している。
      ただしそれは、現在の東海道線を意図していたものではなく、
      「東海道」ではなく琵琶湖南岸に沿って「中山道」「美濃路」を
      通っているから、「中山道線」の意図があったのかもしれない。     

一方、現在の東北線は、先の高崎線の大宮を分岐点として進められ、大宮~栗橋(利根川を渡る手前)が1885年(明治18年)、翌年1886年に利根川橋梁が完成し、上野~宇都宮間竣工。盛岡までは1890年(明治23年)、青森まで全通が1891年(明治24年)である。

ところが、「中山道線」は、碓氷峠がネック。横川~軽井沢間の開通は、1896年(明治26年)。どうも、碓氷峠で四苦八苦している頃から、「中山道線」をあきらめ、それは信越方面をつなぐ路線とし、関東関西をつなぐ幹線を東海道線とする方針変更があったらしい。
実際、中山道は碓氷以外にも山地が多く、難工事が予想されるから、当然と言えば当然ではある。

   註 碓氷峠はいちはやく電化されるが、その経緯は下記参照。
      「丸山変電所・・・・近代初頭のレンガ造+鉄骨トラス小屋」

つまり、ここまでを要約すると、①新橋~横浜間に次いで、②上野~高崎・前橋、上野~高崎・横川が完成、続いて③東北方面への上野~宇都宮が、そして④青森までの開通は、東海道線の全通とほぼ変らないことになる。

そして、今では主要路線とは見なされていない両毛(りょうもう)線(前橋~小山)、水戸線(小山~水戸)が、1889年(明治22年)に全通している。
これは、関東平野の北辺を東西につなぐ路線が、重要視されていたことを物語っている。
なお、この両線とほぼ同じ時期に、中央線も着工されている。新宿~八王子:1889年(明治22年)、~上の原:1901年(明治34年)、全通1906年。

ちなみに、常磐線は、水戸方から敷設が始まり、水戸線の友部~土浦が1895年(明治28年)、土浦~田端が1896年と、着工は大分遅れ、さらに現在のように上野につながるのは1905年(明治38年)である。つまり、それほど重要視されていない。

なぜ両毛線、水戸線がかくも早く先行敷設されたのか。
それは、その路線の通っている経路を見れば、自ずと分ってくる。
先ず、両毛線の経路は、「両毛」、つまり「上毛野国(かみつけの の くに)」と「下毛野国(しもつけの の くに)」とを通り、東北へと抜ける古代の「東山道」、「例幣使(れいへいし)街道」(江戸時代、朝廷からの日光:徳川廟を詣でる使が例年決まって通る街道)にほぼ沿っている。
その一帯の道を示したのが上の地図(12月22日に載せた地図:下註:と対照してみてください)。[記述、下記註追加]

   註 鉄道は前橋から東進せず、例幣使街道筋の伊勢崎へと南下し、
      東山道すじの赤城山麓の古い町が、鉄道からは遠くなる。

      この一帯の古代の状況については、07年12月22日の
      関東平野開拓の歴史-2・・・・西関東の古墳分布参照。
      そのあたりの現在の地図も掲載。
 
そして水戸線は、古代「東山道」から分れ、その支線として「常陸国」へと至る街道。江戸時代も、その道筋は重要であった。なお、「常陸国」へは、「東海道」が、神奈川・三浦半島から海を越え房総半島に入り、霞ヶ浦をと至っていて、「東山道」の支線と合流する。そういう構図になっていた。[記述追加]

とりわけ、「東山道」「例幣使街道」の通った関東平野の北辺は、関東平野開拓を担った東国の武士たちの故郷。古代よりの繁栄の地。徳川氏発祥の地もこのあたり。
これについては、07年12月18日記事屋敷構え-4・・・・坂野家・補足に少し紹介している。「記述修正追加]

しかも、江戸時代は、一帯は江戸へ流れ下る諸河川の上流に位置する。
江戸時代の諸河川は、重要な物資の運送路(舟運・水運)。その上流筋には、商業拠点が栄えた。だから、東山道筋には幕府直轄地が多い。一例は関東の蔵の町と言われる「栃木」。
明治政府は、江戸期の重要な街道筋を、時代が変っても、その重要さは変らない、と判断していた、と考えてよいだろう。
このことは、東京・上野~高崎・前橋の経路も同様で、それはまさに江戸期の「中山道」を踏襲している。
「中央線」もまた、「中山道」の脇街道の位置にあった「甲州街道」「信州往還」の代替と考えてよい。

つまり、明治政府にとって、鉄道は、かつての輸送陸路:街道の代替として考えられていたのである。

また、東北線を先行させたのは、古代以来延々と続いている江戸期以前の「征夷大将軍」の「世界観」:そのための陸路:街道を維持するという考え:を引継いだものと考えることができる。

ただ、唯一、代替の鉄道が敷設されなかった主要街道がある。
それは現在の国道4号、かつての陸羽街道(奥州街道)のうちの、江戸~古河・小山間(千住~草加~越谷~春日部~幸手~栗橋~古河)である。
「東北線」が、「大宮」から分離してしまった結果、主要街道の中で、唯一ここだけ鉄道敷設から取り残された。

   註 大宮分岐になったのは外国人技術者の進言によるという。


かくして、関東平野の主要鉄道網は、ほぼ19世紀中に、その骨格はできあがる。そして、関東地方東部:埼玉東部~茨城にかけてだけ、鉄道からいわば見放された地域が生じてしまう。それは、言ってみれば、「国の施策」から見放された地域と言ってもよい。
そこで、この鉄道空白地域では、新たな別の動きが生まれる。
それについては次回。

釜石鉱山・・・・夢の跡

2008-05-08 18:59:30 | 居住環境

[註記追加 5月10日 16.58]

「遠野」から「釜石」へ向う途中で、人気(ひとけ)のない街を通り過ぎた。道がトンネルを抜けた途端、その一画が目に入ってきた記憶がある。
そのときすぐに調べておけばよかったのだが、地図やネットなどで調べたところ、そこは、日本の製鉄業の一大拠点「釜石製鉄所」に供給する鉄鉱石を採掘する「釜石鉱山」の事業所を中心にして、狭い峡谷にできた街「大橋」であることが分った。街の玄関にあたる釜石線の駅は「陸中大橋(りくちゅう・おおはし)」という。
手持ちの国土地理院50000分の1地形図「遠野」(昭和57年:1982年修正)に街が載っている。上掲の地図は、その部分の抜粋。

記憶と写真に写っている地形・風景から、ここの写真に間違いないことが分る。ただ、写っている建物が何だか分らない。では、と考えて「ゼンリン」の地図で検索。ところが、地形図に載っている家並が「ゼンリン」の地図にはない。更地が広がっている。

そこで参考になったのは、かつてそこで暮された方々の子弟が通った小中学校(「釜石鉱山学園」という鉱山会社が設立した私学)についての想い出を載せた「陸中大橋-大橋小学校」に出会ったことだった。これは、HP「想い出の故郷:陸中大橋」の中の記事の一つ。

それによると、現在、大橋一帯の建物は、大半が取り壊されてしまった、とのこと。この写真は1993年当時のもの。だから、それから後、多分、ここ10年の間ぐらいに取り払われたのではないだろうか。最近のゼンリンの地図が空白だったのは、それゆえなのだ。

しかし、そこにはかつての一帯を撮影した航空写真や、街並み案内図が掲載されていて、私の撮ったのが「大橋」であることがより確実になった。

   註 国土地理院の最新の25000分の1地形図には、
      まだ、1982年の地図とほぼ同じ家並が載っている。
      多分、未修正なのではないか。

それらを基に判断すると、①の写真は、多分、「鉱山病院」の建屋と思われる。
なにせ、正月だったからだろうが、まったく人に会えなくて、尋ねることもできなかった。おまけに、旅を終えてすぐに調べればよいものを、調べもしていなかったのだ!!

分らないのが②。
①の建屋のそばにあったと記憶している。建屋の表情から、事務所か、あるいは何か公共の用に供されていたのではないか。航空写真でそれらしい建屋を探したが分らなかった。
もしかしたら「鉱山本部」事務所?
ご存知の方がいたらご教示を。

①と②の外壁は、サイディングはなかったと思うから、板横羽目、ペンキ塗りか。

③は、社宅群。木造二階建ての長屋。一戸あたりの面積は結構広いのでは。
外壁は二種類あるが、白いのは板羽目ペンキ塗り?もう一種類は、「ささらこ下見」。おそらく「ささらこ下見」の方が古いだろう。
一戸ごとに立つ煙突様のものは、汲取り便所の「臭突」。
このときすでに、無住だった。
いずれの屋根も、鉄板葺きペンキ塗り。雪国のゆえだ。
なお、③の左上の写真の雪を被った山は、地図の「六角牛山(何て読む?)」と思われる。

   註 その後、調べたところ「想い出の・・・」に、同じ視角の
      写真があり、それによると、この山は、地図上でもう一つ右手の
      「片羽山」であるらしい。読みは分らない。


鉄は近代化にとって最重要。それゆえ、「釜石線」は、国策として、かなり早く開通したのだという。
製鉄所が盛んであったころ、「大橋」の街は、活気で満ち溢れていたにちがいない。

   註 「陸中大橋」駅を出て遠野方面に向う釜石線の線路に注目。
      トンネルでほぼ一回転:Uターンしたのち西へ向っている。
      普通ならUターンせずに、まっすぐ西へ進むはず。
      多分、鉱区:鉱石埋蔵地を避けたのではなかろうか。

田植の頃の風景・・・・続・水浸しの大地

2008-05-02 11:31:47 | 居住環境

[註記追加 18.18]

毎日見ている田畑の風景。日ごとに風景が変る。あと二週間もすれば、田んぼは、育った苗で、一面の緑に覆われるだろう。

台地の上は、ネギやソラマメの畑が見られる程度。なにも植わっていない大地があちらこちらで作付けを待っている。今は畑作の端境期。

   註 この時期、かつては、畑は一面麦畑だったはずである。
      《わが国のすばらしい農政》の結果、
      農家は間尺に合わない麦の生産から手をひいてしまったのだ。

台地から水田へ降りる斜面は、樹林で被われている。急坂を降りてゆくと、木の間がくれに田んぼが見えてくる。下に湖があるような景色。

田んぼの縁に降りれば、水田は新緑の丘陵で囲まれている。

機械化された耕作でも、細かなところは手作業にたよるしかない。軽トラを降りて、畦の補修をしているようだった。
背後右手の整然とした若葉の林は、クリ林。今はカキの若葉も美しい。一番上の写真に見える手前の低い黄緑色に染まった樹林は、元カキの木畑。

水田は、およそ半分が田植が終ったところ。これからの三連休で、一気に進むだろう。

スナップ・・・・旧 登米高等尋常小学校

2008-05-01 00:49:21 | 建物案内

07年1月06日の「トラス組」に触れたときに紹介した(トラス組・・・・古く、今なお新しい技術-2)「旧 登米高等尋常小学校」のスナップ写真が見つかったので掲載。上の写真。
1993年の正月。東北各地をまわったときのもの。

修理工事は、その3年ほど前の89年10月に終了している。今は「教育資料館」になっているが、当時、開館していただろうか?
なにせ、正月、元旦の午前中かなり早くに訪れていて、中には入れなかったから、外観だけ。

平面図と立面図は、「旧登米高等尋常小学校校舎保存修理工事報告書」から転載させていただいた。

なお、当時、「(財)文化財建造物保存技術協会」の一員としてこの建物を実際に調査され、各種の図面等を作成された石綿吾郎氏からは、たびたびコメントをいただいている。この場を借りて御礼申し上げます。

また、同協会が試行中の「文化財オンライン 建造物修復アーカイブ」(http://archives.bunkenkyo.or.jp/index.html)で観ることができる。
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