日本の建物づくりを支えてきた技術-19の補足・・・・通称「略鎌」

2008-12-31 21:05:56 | 日本の建物づくりを支えてきた技術
「相欠き」の一種である「略鎌」のいくつかを「文化財建造物伝統技法集成」から転載します。
いずれも、細物の「貫」が使われるようになった江戸時代の建物の例です。
このようなときに用いられる「相欠き」を「略鎌継(りゃくかまつぎ)」あるいは略して「略鎌」と呼ぶようです。
何が「略」なのか、意味不明です。ご存知の方、ご教示ください。

これは、柱径の1/3~1/5程度の幅の「貫」を使うときの一般的な「継手」で、普通は柱の内部に「継手」を設けますが、ときには上掲の例のように、中途でも使っているようです。こんなことでいいのかな、と思いますが・・・。

一方で、「浄土寺・浄土堂」「東大寺・南大門」などの太物の「貫」で使われた「相欠き」は、最下段に図を載せた「布継」や「台持継」、さらに「金輪継」「追っ掛け大栓継ぎ」などへと発展する可能性を秘めていたのです。
その意味で、「相欠き」は基本的な「継手」と言ってよいと思います。

あらためて、よいお年を!そして、よい年にしましょう!

次回

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日本の建物づくりを支えてきた技術-19・・・・継手・仕口の発展(4):「鉤型付きの相欠き」

2008-12-30 19:05:45 | 日本の建物づくりを支えてきた技術
[註記追加 31日 0.10][同 0.22]

「実物大実験」に付き合っていたら、どこまで書いていたのか思い出すのに時間がかかり、さらに図版の編集にも思った以上に時間がかかってしまった!


上代から平安の頃までに使われる「継手」は、ほとんどが「鎌継ぎ」のようで、そのいろいろな方法を見てきました。

「継手」としては、「鎌継ぎ」のように、材の端部を「凸型」と「凹型」をつくって凹凸を嵌めこむ方法とは別に、仕事が簡単な、継がれる二材を同型に刻む「相欠き」の方法(ただし、上下、あるいは左右が逆の型になります)、およびその発展型として、「相欠きの先端を鉤型に刻み、二材を引っ掛ける方法」があります。
後者つまり「鉤型相欠き」は、いろいろ探しましたが、上代~平安の例が見当たりません。ご存知の方が居られましたらお教えください。

   註 「鉤型相欠き」に似た「継手」に、「略鎌継ぎ」があります。
      ただ、「略鎌継ぎ」は、主に「南大門」や「浄土堂」の例より
      厚さが薄い「貫」に対する場合の継手で、少し感じが異なります。
      「鉤型相欠き」だと、その先の発展が予想できますので、
      ここでは、こういう呼び方をしています。
                  [註記追加 31日0.10、文言改訂 11.10]

上掲の最上段の図は、先に紹介した「法隆寺」の諸建物の「頭貫」の納め方・継手の変遷を示した図の一部の再掲です(下記註参照)。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術‐7の補足・・頭貫の納め方の変遷」

ただ、先回は、変遷を建物名だけで追っていましたが、今回は建物の建立年代を併記し、再掲しています。

これを見ると、「鉤型相欠き」は、確かではありませんが、寺院の建築では、いわゆる「大仏様」で「貫」を継ぐ時に多用されて以来(つまり、1200年代に入ってから)、使われるようになったような印象を受けます。
「大仏様」の「貫」の「継手」については、すでに「東大寺・南大門」の「貫」について紹介しました(下記参照)。
「大仏様」の場合の「貫」は、「貫」といっても、現在、梁や桁に使われる「平角(ひらかく)材」に等しい断面の材料です。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-14」

東大寺の鎌倉再建と時を同じくして、兵庫県の現在の小野市に、東大寺再建と同じく僧「重源(ちょうげん)」の下で、「浄土寺・浄土堂」が建てられていることは大分前に紹介しました。

   註 「浄土寺・浄土堂・・・・架構と空間の見事な一致」
      「浄土寺・浄土堂、ふたたび・・・・その技法」
      「浄土寺・浄土堂、更にふたたび・・・・続・その技法」

以前の紹介の際には、「浄土寺・浄土堂」は1192年に建てられた旨書きましたが、あらためて調べてみたところ、「国宝 浄土寺 浄土堂修理工事報告書」では、建久5年(1194年)上棟、とあります。1192年というのは、たしか「日本建築史図集」の記載によるものだったと思います。

「奈良六大寺大観 東大寺一」によると「東大寺大仏殿」の上棟は建久元年(1190年)、「東大寺南大門」は正治元年(1199年)上棟とありますから、1192年、1194年のいずれにしろ「浄土寺・浄土堂」は、「大仏殿」の上棟と「南大門」の上棟の間の時期に建てられたことになります。

「浄土寺・浄土堂」にかかわった大工は特定できているようですが、その大工一門が東大寺再建にもかかわっているのかどうかは分りません。

大仏殿再建に使われた技法の詳細は分りませんが、「浄土堂」と「南大門」は、ほぼ同一と考えてよさそうです(「再建大仏殿」の復元推定は、「南大門」の技法で考えられているようです)。
ただ、技法は同じようでいて、「南大門」は剛毅そのもの、「浄土堂」からは豪快ながら たおやか、そのような印象を私は受けます。

現代と違って、奈良と兵庫・小野はきわめて遠い距離です。
時期が近いこと、場所が隔たっていること、仕上りの感じも違うこと、などから考えて、両者は、異なる大工棟梁一門がかかわったのだ、と考えた方が自然かもしれません。
しかし、年代はほぼ同時期に、遠く離れた両地で、同じような「技術・技法」が、どのようにして展開し得たのでしょうか。

上に掲げたのは、「国宝 浄土寺 浄土堂修理工事報告書」に載っている「浄土堂」の「足固貫」の「分解伏図」と「仕口の分解詳細図」です。
掲載するにあたって、原版を基に、編集しなおしてあります(上記註の記事で紹介した「文化財建造物伝統技法集成」より抜粋した図版も、原図はこの「修理工事報告書」からのものです)。

これを見ると、「架構というものの本質」を見抜き、仕事の方法を整理し、極力同一の方法で、無駄なく目的を達する、つまり「合理性で貫かれている」という点で、先に紹介の「南大門」の「貫」の仕事とまったく同じ考え方で仕事がなされているように、私には見えます。

具体的に見てみると、平面自体、20尺格子の3間四方という単純な平面。
立面でも軒に反りがなく水平で、おまけに「鼻隠し」まで付いている。
隅の垂木は「扇垂木」で、それまでの寺院の垂木とは違い、単なる恰好ではなく、ちゃんと屋根を支えている(上掲の天井見上げ参照)。それまでの寺院では考えられない姿です。しかし、理屈は通っています。

   註 「扇垂木」は中国技術の援用と言われています。
      よく分りませんが、古代以来、この方法は伝わっていた筈ですが
      日本では軒の隅だけ垂木が平行でないのを嫌ったようです。
      平行にすると、垂木を受ける桁:支点からはずれる部分が生まれ、
      そこでは垂木がぶら下がる形になります。
      「配付垂木(はいつきだるき)」と言いますが、もしかしたら
      「張付き垂木」の訛りかもしれません。[註記追加 31日0.22]

今回は「足固貫」をとり上げますが、「足固貫」は、高さ4.3寸×幅3寸の平角材を、東西方向(図の上下方向)の各柱通りを「下木」、南北方向(図の左右方向)の各柱通りを「上木」として、それぞれ柱を貫通し、上端で0.35尺(3寸5分)の段差をつけて設けてあります(断面図の中2本の柱の「足固貫」に塗った黄色が見えなくなっていますが、そこにも「貫」はあります)。
「下木」は天端が「大引」と同じ、「上木」は「根太」と天端が同じです。

   註 「分解図」中の「組立ての分解姿図」は、
      「△上」という表記の側を上方として見た姿です。

部材は各方向ともすべて一材の長さを柱間1間分とし、柱内で継いでいます。
柱と「貫」の取合い、すなわち仕口と継手は、上掲の図の通りで、基本的にすべて同一です。
「貫」を貫通させる穴は、高さ、幅とも「貫」の寸法より一回り大きくあけられていて、「貫」を通した後、下と横に「埋木(楔)」を打込んで固めています(「南大門」の「貫」には、横の「埋木(楔)」はないようです)。

ただ、正面側の中の間には、分解図のように、継手部分だけが柱内に残り、柱間には「貫」がありません。一旦入れたものを後で切ったのではないか、と見られていますが理由は分らないそうです(なお、柱内に残された部分の図には、「下木」への掛かり部分の「欠き込み」の書き込みが抜け落ちているのではないかと思います)。
また、西側の柱通りの内、南側の2間には「貫」がなく(柱には「貫」を通す穴はあけられています)、北側の1間には、途中で継いだ「貫」がありますが、このようにした理由も、調べてみても分らなかったそうです。

   註 もしかしたら、後世に、何かの理由で抜いて、後補しなかった?

不明な点はあるにしても、ここに見られるのは、基本的に、きわめて単純明快な計画です。しかも筋が通っています。真の意味で合理的です。
こういう仕事は、「その場しのぎのやり方」「出たとこ勝負のやり方」ではできません。
当然、部分だけ見ていてもできません。全体を見通し、整理し、統一するという工人たちの「強い意志」を必要とします。

私はそこに、「現在の仕事」には見られなくなった「近代初頭の仕事」に通じる点を見出すことができるようにさえ思います。
近代初頭、多くの人びと:「技術者」が、過去の「しがらみ」を脱し、当たり前のように、真の意味で「合理的な発想」でものをつくるべく努めていました(下註参照)。

   註 「コンクリートは流体である・・・・無梁版構造」
      「アンリ・ラブルースト・・・・architect と engineer」  

時代は、まだ、いわゆる「大仏様」:「貫」の使用が、寺院建築では、一般化・普遍化していない、というより「公認されていない」時期です。
そういう技術・技法が、遠く離れた土地で、ほぼ同時に、用いられていたというのは驚きです。なぜ可能だったのか?

詳しく調べてみたところ、「大仏殿」再建のための木材を確保するため、「重源」は、文治2年(1186年)に山口へ赴き、翌年の文治3年(1187年)10月に主要木材が奈良へ運ばれています。柱の立て始めが建久元年(1190年)7月、上棟は同年10月です。材料を得てから上棟まで3年かかっていることになります。
現在ならば、同じ工人集団が、奈良と兵庫を行き来して仕事をする、ということも考えられます。
しかし、「浄土寺・浄土堂」を、「大仏殿」にかかわった工人集団が、「大仏殿」上棟後、兵庫へ移動してつくった、ということは時間的にみて無理があるように思えます(「浄土寺・浄土堂」にかかわった工人たちが「南大門」の再建にかかわることは、時間的には可能性がないわけではありません)。

むしろ、奈良と兵庫それぞれに、同じような架構技術・技法を使える工人たちがいた、つまり、同じ技術・技法を用いることのできる工人は限られた人たちだけではなく大勢いたのだ、と考える方が自然のように思えます。

では、なぜ、こういう技法が、突然のように現われたのでしょうか。
もちろん、現在のようにな「設計の細部までこと細かく規定する法律」があったわけではありません。
誰か強力に指導する力のある人物が各地を行ったり来たりして指導した、とも思えません。
仮にそういう人がいたとしても、その存在だけで、直ちに「再建東大寺」「浄土寺浄土堂」のようないわば完璧な形に結果するわけがありません。

「東大寺」再建と「浄土寺浄土堂」建立に、僧「重源」という人物がかかわっていたのは確かです。
しかし、彼が付きっ切りで仕事場に張り付いていたとは、到底考えられませんし、第一、技術的な面について、「重源」が大工職同様の知識を有していた、とも思えません。


一般に、いわゆる「大仏様」は、入宋数回におよぶ「重源」が、中国で見てきたことを基にして生まれた、と言われています。
中国南部福建のあたりでは、軸組を「貫」で縫う建て方があるのは事実です(下註)。
これは、「重源」が知っていた日本の(寺院建築の)建物のつくり方とは大きく違い、それに彼が注目したのは事実だと思います。
また、東大寺再建がらみで、大仏鋳造のため宋から来ていた鋳師も「重源」に呼ばれていたといいますから、当時の宋の技術についてはかなり知っていたのかもしれません。

   註 「余談・・・・中国の建築と『貫』」 

寺院建築にかかわる大工職は、現在でも「宮大工」と称され、「一般の大工」よりも格が上である、と見られています。しかし、実態はそうではないのではないか、と私は感じています。
私がそれを感じたのは、「薬師寺」金堂の再興に使われる木材が展示されているのを見たときです。それが上棟時にいわば儀式的に扱われる、というので展示されていたのではなかったか、と思います。

その巨大な径の材料の端部に刻まれている「仕口」(「蟻」だったかもしれない)が、それは他の材に取付く材なのですが、現在の構造専門家でなくても「補強したい」と思いたくなるような代物だったのです。こんな大きな材を、こんなきゃしゃな仕口で取付けるのか?、これは何だ?

そこで直観的に感じたのは、もしかしたら、「宮大工」というのは、寺社建築の「形体上の慣習:形式」に通じている「大工職」にすぎないのではないか、ということでした。
つまり、長い時間の間に、「架構の理屈」よりも、「形式」だけを重く考えるようになってしまった人たち、ということです。
もちろん、そうでない方々も居られることは重々承知です(そういう人たちは、どちらかというと、自ら「宮大工」などとは言いません)。

   註 先般の「実物大実験」にも参画している、
      いわゆる「宮大工」のNPO法人のHPを見たとき、
      この方たちの考える「伝統建築技術」は、
      私の考えているそれとは大きく異なることに気付きました。
      たとえば、「伝統技術」として、すぐに「ちょうな」削りが
      出てくるのです。
      それを通じて、「何を学ぶのか」が判然としないのです、

なぜ、こういう余計なことを書くか、というと、平安時代の末、「平安な」世のなかで、「形式」だけにこだわっていればよい、という人たちが増えていた。言って見れば沈滞していた。工人たちのなかでもそういう傾向があったと考えられます。

そんなとき、「重源」たちから聞いた中国の福建あたりの木造建物のつくりかたは、一部の「形式」や「因習」「しがらみ」に うんざり していた工人たちを刺激したのではないかと思うのです(一般に、すぐれた工人は、過去のことを知ったうえで、常に先を見るものです)。「高僧が、一般の人たちの技術を認めている!」、そう思ったに違いありません。
簡単に言えば、「我が意を得たり」ということです。
そして、もしかしたら、「重源」自体が、平安末期の「仏教界」の実態:「しがらみ」に うんざり していたのかもしれません。

おそらく、多くの工人たちは、柱と柱の間に横材を、柱にあけた穴に差し込み埋木する方法:現在「貫工法」と呼ぶ方法:を、寺院建築以外では、当たり前に用いられているのを知っていたのではないでしょうか。
日本建築史上、あるいは寺院建築史上では、鎌倉時代に突如「新工法」が出現したかのように見えても、実は、その「下地」は、一般にはすでに存在していた、と考えられるように思えるのです。

   註 「吉野ヶ里遺跡」の復元建物に「貫」を用いた構築物があります。
      建築史家の中でも、「貫」の方法は昔からあった、と考える方が
      居られるのだと思います。
      「吉野ヶ里遺跡」は「弥生時代」の遺構です。

「貫」の工法は、「大仏様」以降一般にも普及した、と考えられてきました。
私もそう思い、そう書いてきました。
しかし、あらためて考え直してみると、鎌倉時代以前の一般の建物の遺構は存在しません。住宅遺構で最も古いものでも室町時代後期です。
だから、もしかしたら、一般では、「大仏様」以前にも、「貫」は当たり前な方法として使われていたのかもしれません。ただ、その例が残っていないだけなのかもしれないのです。
残念ながら「遺構」がありませんから、これは私の推量です。

そうだと仮定すれば、北から南までの全国各地に現存する多くの一般の住宅遺構で(多くは近世以降の建物ですが)、「貫」が非常に手慣れた形で使われている理由が、判然としてくるように思えます。
     
それゆえ、「重源」の示唆は、工人たちに、そういう一般で使われていた架構法を、寺院で用いる方向に走らせた、そして、長い間現場で蓄えられていた力が、一気に噴出し、「寺院建築の新工法」としてまとまっていった、そんな風な「筋書き」を私は想像しているのです。

言ってみれば、それまで一部の「格の高い工人」の独占していた寺院建築に、「一般の工人」の知恵が堂々と入り込んでいった、そういう構図です。
同じようなことが、後の「城郭」の建築に於いても起きているように私は思います(そこでは、寺社の建物では見られない「差物」「差鴨居」が当たり前のように使われています)。
以上のことは、すでに「浄土寺・浄土堂、更にふたたび・・・・続・その技法」で書いたことの再確認と言ってよいでしょう。


先回までしばらく、「伝統工法を法律で律しようとする人たち」の「野心」と、「それに迎合しようとする《伝統工法愛好家》の人たち」の共同作業:「伝統的構法住宅実物大実験」の実態について、私なりの見解を述べてきました。それと併行して、今回の図版づくりをやってきました。

そして、あらためて「修理工事報告書」を読んでみて、このような調査をされてきた方々が、多くの「報告書」を残しているのに、どうして「偉い人たち」「愛好家たち」は参考にしないのか、これもあらためて不思議に感じました。

一つには、そういう資料が広く公刊されていないのも理由であるとは思います。
しかし、少なくとも、「伝統的構法の研究者」であるならば、少しはこれらの報告書を参考にしたらいかがなものか、と思います。

本当は、ああいう「大実験」の実行委員会に、「建築史」畑の人、特に多くの建物の解体修理に係わってきた方々が加わらない、ということ自体、おかしいのです。


大変長い文になってしまい恐縮です。最後までお読みいただきありがとうございました。
今年はこれでお終いにします。来年は、「浄土寺・浄土堂」の続きで「技術」について考えることから始めたい、と思っております。

よいお年を!


次回に補足

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「伝統的木造構法住宅の実物大実験」について-5・・・総括・私の見解

2008-12-23 18:48:31 | 「学」「科学」「研究」のありかた

   ・・・・・今の世では、嘗てなかったほどに
   物たちが凋落する――体験の内容と成り得る物たちがほろびる。
   それはそれらの物を押し退けて取って代るものが、
   魂の象徴を伴はぬやうな用具に過ぎぬからだ。
   拙劣な外殻だけを作る振舞だからだ。さういふ外殻は
   内部から行為がそれを割って成長し、別のかたちを定めるなら、
   おのずから忽ち飛散するだらう。
   鎚と鎚のあひだに
   われわれ人間の心が生きつづける。
   あたかも、歯と歯のあひだに
   依然 頌めることを使命とする舌が在るやうに。
   ・・・・・

今から40年以上も前、大学の研究室で「研究」の手伝いをしていた頃、私は、その「研究」の「目的」に、ほとほと嫌気が差していた。
それは、今では普通に住宅の「間取り」を指す言葉として使われている「1K」・・・「3LDK」などの語を生み出した住宅公団の集合住宅の「標準型を設定するための研究」であった。

この「研究」は、住宅の「住まい方調査」を基とするのが「定式」であった。これは、もうその名を知らない方が多いのではないかと思うが、故 西山卯三氏の方法論を継承したものとされていた(私は、少しばかり違うのではないかと思っているが・・・)。

   註  「実体を建造物に籍り....・・・・何をつくるのか」

あるときの「調査」事例のなかで、それはたしか「2DK」の公団住宅であったと思うが、「折角の」DKで食事をせずに、畳の部屋で食事をしている一家の例があった。
それを見て、研究のリーダーである教授は、こともなげに、「これは遅れた住まい方だ」と切り捨てた。
私には解せなかった。
どこで食事をとろうが、それは居住者の自由だ。それがこの居住者の暮し方なのだ。その何処が、何が悪いのか。

   註 私は、住宅金融公庫のつくった「(公庫推奨)仕様」と、
      公営住宅、住宅公団住宅の「標準型」は、
      日本の戦後の住宅の質を貶めた元凶だ、と考えている。
      なお、遠藤 新も別の視点で日本の住宅にかかわった
      建築家の責任を論じている(下記記事)。

      「日本インテリへの反省・・・・遠藤 新のことば」

木造建物のつくりかたの話をしているのに、なぜ、関係ない公団住宅の標準型の話が出てくるのだ、と訝る方もおられるだろう。
この話を書くのは、ここに(戦後の)建築界の「研究」の姿が、端的に表れていると思うからだ。

この「研究」の場合、「研究主導者」の頭の中に、人の暮しは「食寝分離の住まい方でなければならない」という「考え」が、あらかじめ凝り固まっている、決まっている上での「研究」なのである。つまり、「調査」もまた、その「あらかじめの結論」へ到達するためのもの。
要するに「予定調和」的研究。どう考えてもこれは変だ。

しかし、考えて見ると、このような研究の姿は、何も戦後になって表れたのではなく、明治以来の建築界の姿そのものだ、と言ってよいだろう。
その姿とは、すなわち、「建築学者としての地位を得た者は、一般の人びとの建物づくりはもとより、暮し方をも先導・指導する役を担っている」との「思い込み」である。
この「思い込み」は、明治以降、建築界のみならず各界にも見られるが、なぜか「建築界」では異常に顕著なのだ。

なぜ異常に顕著なのか、その理由は未だによく分らない。
しかし、一つには、近代以降、建築界では、建築:建物づくりの「結果」、すなわち個々の建物を、「作品」として扱うことが普通になってしまったことが大きく関係しているように思える。

すなわち、かつては、「いい建物はいい」、これで済んでいた。誰がつくった、設計したなど、あえて問われなかったのではないか。
その建物を計画し、実際に材料を集め、刻み、建てた諸々の人たちも、それで構わなかった。いわゆる「無名性」。

ところが、明治以降、どうも様子が変わってきた。
係わる人たちの間に「功名心」が目立ってきたのである。
「結果」を急ぐ。「過程」よりも「人より早く『結果』を出すこと」が大事、それが当たり前になる。今の言葉で言えば「差別化」である。
このような傾向は「研究」においても表れる。

たとえば医学の世界での「疫学的」調査など、10年以上かけるのは当たり前だ。人の命に係わることなのだから、それで当たり前。
これに対して、建築の「研究」では、じっくりと時間をかけて、あらゆる場面、あらゆる事例を観て、考える、という過程を経た「研究」を(特に技術面での)私は知らない。そういう過程をとらずに「結果」を急ぐ。

特に、生活・社会を律することになる法令制定に関わってくる「研究」の場合は、いかなる分野といえども、拙速は禁物である。
ところが、建築の場合、拙速が多い。「耐震理論」などは、その最たるものだろう。

多分、「法令制定に係わること=偉い」、ゆえに、早く「結果」を出して法令制定に係わるような研究者になろう・・・・という心理が、働いているのではないだろうか。これも「功名心」の表れと言ってよいだろう。

   註 わが国の場合、ひとたび「法令制定に係わる研究者」になると
      「世襲制」で「継承」される傾向が強い。いわゆる「閥」の誕生。
      そこでは、「研究」の内容が問われず、「問題」があろうと
      そこにはらむ問題ごと、継承されるのが常だ。
      多くの「学識経験者」がこれ。
      そして、今回の「伝統的・・・・」の実験を主導する人たちも、
      名簿を見れば分るが、ある「閥の一族」が主体である。


さて、今回の「実物大実験」。
一言で言えば、「実験趣意書」にある「目的」、すなわち「・・・建築基準法においては、このような建築物(註 伝統的木造軸組構法の建物)の安全の検証として、限界耐力計算等の高度な構造計算を要することが多いため、本事業は、伝統的木造軸組構法住宅の設計法を開発し改正建築基準法に基づく当該建物の審査に係る環境を整備することにより、これらの建築物の円滑な建築に資すること・・・」を「目的とする」のが、そもそも、拙速のそしりを免れない。

こういう「目的」(私には、「歪んだ」目的に見えるのだが)を、一度や二度の「いいかげんな試供体」での実験で(何が「いいかげん」かについては、前4回で触れてきた)事を決めようなどという考え方、まして、建築基準法制定以前に各地域で行なわれてきた建物づくりを、現行の法令の考え方、すなわち「耐力壁に依存する考え方で律しようという先験的結論」を導こう、などという考え方は、まったくの論外、学問・研究の埒外に放擲しても構わないぐらい非科学的極まりない。

もし立派な科学的実験だという自信・自負があるのならば、他の学問・研究分野の方々に、見解を問うてみることをお奨めする。

古来、わが国では、木造軸組工法主体で建物をつくってきた。それゆえ、古いものから新しいものまで、実例は1000年以上の幅で存在する。
木造軸組工法は、建築基準法の規定する建物だけではないのである。

むしろ、建築基準法に準拠して建物をつくるようになったのは、高々半世紀余にすぎない。その20倍以上の歴史が日本の(木造の)建物づくりにはある、という事実を直視しようではないか。
もしも、そんなのは「建築史」の専門家が係わればよいことだ、として済ますとしたら(そういう気配がうかがえるのだが)、まったくの間違いだ。

建築の専門家諸氏は、とりわけ、構造の専門家を自認する方々は、こういう実験に直ぐ飛びつかないで、一旦、頭にこびりついた「理論」も、「耐力壁依存の考え方」も捨て去って(それがいやなら、とりあえず倉庫にしまって)、
①虚心坦懐に、わが国の木造建築の技術の展開を観ること、そして体感すること、
②そういう建物をつくった工人たちの技術を継承している方々が、未だに各地域に大勢居られのだから、彼らの仕事のなかみを、彼ら工人たちと同じ目線に立って(絶対に上から見下ろす見方をしてはならない)知ろうとすること、
そして、これがもっとも欠けている点だと私には見えるのだが、
③事物・事象を「部分:要素の足し算で見るクセ」をやめ、「相対的な全体像として、論理的に、かつ合理的にとらえ描く『習慣』」を身につけること、
から始めるべきなのではなかろうか。

要は、リアリティを欠いた、あるいはリアリティからかけ離れた、「机上の空論」はやめる、ということ。

それでも、どうしても揺さぶってみたい、壊してみたい、というならば、先のような「目的」なしの「単純な遊び」として、ご自由になさりなさい。
ただし、税金を使ってはならない。自前でどうぞ。


冒頭に掲げた一文は、オーストリアの詩人リルケの「ドウィノの悲歌」のなかの「第九の悲歌」の一節。
20世紀初頭、ヨーロッパにもアメリカ流の「物質文明」がはびこりだしていた。彼はそれをいわば嘆いていたという。ここには掲げなかったが、「敷居」だとか「窓台」だとかには「人の思い」が込められている。にもかかわらず、そういう「物」が古くなると捨てられてゆく・・・、要約すると、それは人のやることではないだろう、との思いを謳いあげた詩である。

40余年前、日本でも物質至上主義的な考えが、と言って悪ければ、非常に視野の狭い合理主義(似非合理主義)がはびこりだしていた。
いわば思いつきに過ぎないような「目的」を掲げ、短兵急にその「目的」へと突き進む。
建築の「研究」では、先の「功名心」とあいまって、それが著しかった。
仮に結果に問題があることが判明しても、姑息な手段を弄して辻褄を合わせ、決して根本に戻ろうとしない。
「筋かい」⇒「柱と土台の緊結」⇒「アンカーボルト」⇒「ホールダウン金物」・・・これなどは根本に遡ろうとしない「好例」である。

私たちの先代、先々代・・・の人びとが行なってきた建物づくりに目をやることは、一番簡単な「根本に戻る」作業なのだが、過去のものは「遅れていて役に立たない」という見方が先験的に頭に定着している、あるいは定着させるのが最も進んでいる考え方、と見なされていたのである。

そんなとき、そういう偏狭な「合理主義」(似非合理主義)に抵抗する「理論武装」のために、私は建築以外の本にそれを求めた。その過程で知った一つが「第九の悲歌」だった。

今もまだ、状況は変わらない。むしろ、はるかに悪くなっている、と言った方がよいかもしれない。
今回のような「実験」が、「科学」の名の下に平然と行なわれるのは、状況が悪くなっていることの明らかな証明・証拠にほかなるまい。


次回からは、ようやく明るい話に・・・。

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「伝統的木造構法住宅の実物大実験」について-4・・・・試供体B棟の「実態」

2008-12-21 12:30:06 | 「学」「科学」「研究」のありかた

[図面更改 16.12][文言追加 18.42][註記追加 22日 15.34]

この「実物大実験」の実施を「歓迎」する声が、まわりから風にのって聞こえてくる。
私はこれを恐れているのだ。

詳細が分らないまま、あるいはあやふやな情報のまま、「『伝統工法でつくった建物』の実物実験があったんだって」という話になってしまうからだ。
「うわさ」が、いつのまにか「真実」であるかのように「変身」してしまう。つまり「風評」が生じる。
こうなることを狙っているのではないか、とさえ「疑う」のは私だけなのか。

   註 それは少し猜疑心が強すぎる、と思われる方もいるだろう。
      「李下冠を正さず」、疑われないように
      「明確な情報を開示すること」が肝腎。
      まして、法令に係わるかも知れない実験なのだ。
               [註記追加 15.34]

私は、日本の各地に住まわれている方が、その地域で、これまでの大きな地震でも倒壊することなく(多少の修理は必要であっても)健在である実例を数多くご存知のはずだ、と思っている。鳥取でも能登でもそして阪神でも宮城でも多数存在するはずだ。
そういった実例を集積し、比べ、見てみることで、かつて日本各地の方々が行なってきた「建物づくりの知恵」(それが「伝統工法」なのだが)について、かなりのことが分かるのではないか、とも思っている。いわゆる「疫学的」な調査。あるいは、「民俗学的」な調査と言ってもよい。
そしてそれは、架台に載せた実験などよりも、はるかに優れた「実験」のはずなのだ。しかも、一つや二つではない。数多いはずだ。
残念ながら、こういう「調査」を、なぜか建築の専門家・研究者はやりたがらない。[文言追加18.42]

かつては、「知恵」は一部の偉い人たちの独占物ではなかったのだ、ということを知らしめるためにも、各地域の方々が、そういった実例が存在すること、しかも数多く存在することを、声高く世の中に公開していただくことを、私は期待している。そして近ごろ、大地震のたびに、少しずつ、そういう「声」が聞こえてくるようになった!「権力」による文化の差配を避けるには、有効な方法ではないだろうか。

もしかすると、今回の実験を準備不足のまま強引に押し進めるのは、この「近ごろの動き・気配」が、偉い人たちは怖いからなのかもしれない。


それはさておき、今回は「試供体B棟」を見てみたい。

「試供体B棟」は、関東間のモデュールでつくられている。
しかし、先回も触れたけれども、モデュールだけが関東であって、建物が関東式であるわけではない。何を考えて、モデュールを変えているのかは不明である。

だから、今回の実験を、関西式と関東式それぞれの建物で行なった、あるいは、農山村の方式と都会の方式という方式の違う建物で行なった、などのように理解したり、あるいは報じられてはならない。
まして、かつての工法で建てた建物:「伝統工法」のつくりを実験した、などと報じられたり、理解されたり、あるいはそのような「理解」を強要したりするのはもってのほか。


「仕様案」の内容から見てゆこう。黄色の色を掛けたところに注目。

先ず「土台」の項。
「試供体B棟」では、「試供体A棟」とは異なり「土台」を設ける方法をとっている。
土台の材寸は高さ135mm×幅120mm。
これを、礎石にあたる場所では、礎石に合わせ欠き込みをつくり、礎石に噛ませ、さらにアンカーボルトで固定している。

このような矩形断面の材を土台に使うとき、私の知っているのは、平に使うやりかた、つまり、幅を135、高さを120として使うやりかた。たとえば、4寸角主体のとき、4寸×5寸(五平:ごひら:と呼んでいるようだ)を平に使う、など。
しかし、この「試供体」の場合は、「土台」は120mm角でよいのだが、礎石に15mm噛ませるので、その欠けた分の15mmを足したのだろう。

幅120mmのところへ150mm角の柱を立てるため、「通し柱」の項に説明があるように、土台の上に柱を立てるが、150mm角柱は、柱が土台下端まで延びているように見せているようだ(柱の側面を一部残して土台に食い込ませる。「わなぐ:輪薙ぐ」と言う)。
隅部では土台はT字型に組まれている。具体的な「仕口」の説明はないが、多分「蟻掛け」ではないだろうか。
かつては隅部でも「土台」はT字型に組むのは当たり前で、直交する「土台」2本と柱の三者を固めるため、「蟻掛け」ではなく「平枘差し・柱重枘」も普通に行なわれていた。

   註 T字型にぶつかる側の土台に水平の枘:「平枘」をつくり、
      相手の土台に差す。
      柱の「枘」は、「重枘」:二段構の枘(ex一段目柱全幅、
      二段目は中央部のみ角型にする)。
      土台の「平枘」の中央部に、この角型の穴を開けておく。
      柱を落し込むと、三者が一体になる。
   
   註 現在は一般に、大壁で土台を隠すため、
      隅部で角(つの)を出すのが嫌われる。

もっとも、T字型の隅部に150mm角の柱を「土台」下端まで落すと、妙な納まりになるが・・・。


分らないのは、「土台」を礎石に噛ませ、さらにアンカーボルトで固定していること。
架台を揺らせたとき、架台から跳びだすことを心配しているらしい。

しかし、「土台」を礎石に噛ませ、アンカーボルトで固定すると、架台の動きつまり震動が、モロに試供体にかかるはずだ。そうさせたいのだろうか。
たしかに、「在来工法」では、建物が地面の揺れに追随するようになっている。
つまり、「在来工法」は、地震そのものの動きと、慣性により生じる動きの両方が生じることを、いわば「推奨する」つくりかた(瓦の野地板への固定を「推奨する」のも同じ)。

もしも礎石に噛ませず、アンカーボルトで固定しなかったらどうなるか。
「試供体」は礎石の上を横滑りする(礎石が自然石で「ひかりつけ」がしてあれば、多少は抵抗を受ける)。その分「試供体」自体に「生じる力」は小さくなるはず。
実際、淡路島で、土台付き・アンカーなしの建物が、「延石」上を滑っているのを見た(建屋に被害なし)。
   
   註 「試供体」が「受ける力」と書かないのは、
      この場合、「試供体」にかかる力は、
      「架台が揺れることにより生じる慣性力」だからである。
     
      以前紹介した日本建築学会のHP内の一般向けの情報
      「わが家の耐震診断」では、木造軸組工法についての
      「驚くべき」説明とともに、「地震の力がどこか外から
      飛んできて」建物を襲うかのような説明をしている(下記参照)。
      一般の人たちを、バカにした説明で、呆れる。

      「『在来工法』はなぜ生まれたか-2の補足」参照。

      なお、この記事の前後の「『在来工法』はなぜ生まれたか」で
      次項の「足固め」関連について触れています(上記記事から
      アクセスしてください)。

もしかして、この実験では、わざと大きな力が「試供体」に「生じる」ことを狙っているのだろうか?

同じ疑問は、次の「足固め」の項でも同じ。
判然としないが、「足固め」架台にボルトで留めつけられているようだ(図面には記載がない)。
これも、同じ「心配」なのだろう?

しかし、この「試供体」の「足固め」は、ボルトで留めつけていることを除けば、仕様説明と伏図に見るように、「仕口」も確実で、本格的。
この点だけは「伝統工法」と言ってよいだろう(「伝統《的》工法」ではない、ということ)。

「柱」については、なぜ通しを5寸としたのか、曳き割り寸法なのか仕上りか、「試供体A」同様、説明はなし。

今回の「実験」では「試供体B」は、「柱」の「根枘」を「長枘差し」とし「込み栓」を打たない仕様のようだ(「A」ではホールダウン金物で架台に固定)。
このことにわざわざ触れているのは、おそらく、地震のときに柱が土台からはずれるかどうか、気にしている、あるいは「たしかめたい」からだろう。

いったい、「柱」が「土台」からはずれる、というのはどんな場面だろうか。
それは「柱」に上方へ向う力がかかった場合だ。いわゆる「引き抜きの力」。
どんなときにそのような力がかかるか。簡単に言えば、「柱に引き抜きの力が生じるような架構」の場合に起きる。その代表が「筋かい入りの架構」。

では、たとえば「今井町・高木家」(「構造用教材」で「伝統和風」として掲載)の場合はどうだろう。
この建物を、壁や屋根や床など全部とり払った骨組だけにして、あたかもサイコロを転がすように放り投げても、多分、立体の外形は、多少の傷はできても壊れずに転がるだろう。それは、竹ヒゴでつくった虫かご、鳥かごを転がすのと同じ。

ということは、柱を土台からはずすような力は、柱にかからない、ということ。
もちろん、無事に転がるには、柱と横材の仕口がしっかりしてなければならない。少しの傾きが生じたときはずれる可能性のある「短枘」を避けてきたのは、そのためだ(サイコロのように転がしたとき、瞬間的には、架構が歪むことがあるだろう。そのときに「短枘」だと、あっさり抜けてしまい、そこから損壊が始まる)。

「足固め」があるとどうなるか。
「足固め」は、「土台」が使われるようになる前からある技法。
架構の上部は「貫」や「小屋組」、時代が経つと「差鴨居」も加わり固めることができるが、礎石建てだと、足元だけが弱い、つまり、丈夫な虫かごにならない。
多分、そのあたりから生まれたのが「足固め」の技法だろう。「足固め」があれば、「土台」なしで、礎石の上に据えるだけでも問題がない。
「今井町・高木家」では、「足固め」もあり、「土台」もある。
おそらくそのとき、「土台」は施工上の利点(水平の台をつくる)から用いられたのだ。「土台」から上の「立派な虫かご」を置く台、それが「土台」の役だったに違いない。
つまり、しっかりした「足固め」の入った「試供体B」の場合、「柱」の「根枘」を気にする必要はないように私には思える。


注目してよいのは「貫」。
この「試供体B」では、27mm×115mm、つまり9分厚の材が使われていること。今井町・高木家に比べれば薄いが、しかし妥当な範囲。
この点も、「伝統《的》工法」ではなく、「伝統工法」に近くなっている。

次に「差鴨居」。
これは、「試供体A」同様、私には「差鴨居」には見えない。
たとえば「四通り」軸組図。1階の「差鴨居」は、せめて「い」~「り」間に設けるのが普通ではないか。
「差鴨居」の発生過程を追ってみるならば、「試供体A、B」のような「差鴨居」はあり得ない(なお、「四通り軸組図」には、1階の根太を書き忘れている)。

   註 今井町・高木家の例では、構造の主体は「差鴨居」にあり、
      2階床は、「差鴨居」の支える「大引」程度の材に根太を掛けて
      支えている。
      「試供体B」の場合、は
      床梁を支える「胴差」を主体に考ているのではないか。

「ほ通り軸組」を見ると、梁行の「差鴨居」がない(「伏図」ではあるように見える)。「仕様案」の説明でも分らない。
いずれにしろ、「差鴨居」は、コマギレに入れてあるようだ。私は、このような「差鴨居」の例を知らない。

「2階床梁」「小屋組」の項では、材寸や「継手」の仕様が明記されていないが、「母屋」の「継手」を「追っ掛け大栓継ぎ」にしている以上、「胴差」も「軒桁」も四通りの桁行の材も同様と考えられる。

なお、「2階差鴨居伏図」にある「差鴨居」が、「軸組図」には書き込まれていないのでは?
あるいは、2階には「差鴨居」は入れてないのか?
「差鴨居」の入れ方の詳細が分からないが、「試供体B」は、「試供体A」に比べると、格段にしっかりした架構となっている。
この「試供体B」の場合、あえて「差鴨居」を設ける必要はないのではなかろうか。

例えば1階の「四通り」。
このような中途半端な位置だけに「差鴨居」を設けると、「ほ通り」の「通し柱」に、他の「通し柱」とは違う「異常な」力がかかる恐れがあるように、私には思える。
全体を見たとき、そこだけ架構の均衡が崩れてしまうからだ。しかも、この案では、「わざわざ」悪くしている、と言ってもよい。
もしも「い」~「り」間、つまり「通し柱」~「通し柱」が「差鴨居」であるならば、その恐れは低減すると思われる。

「今井町・高木家」をはじめ、初めから「差鴨居」を念頭に建てられた建物では、「差鴨居」を設けるならば、徹底して設けている。
これは、おそらく、「架構全体の均衡」(一部だけを異常に強くしたり、あるいは弱くするようなことはしない)を考えていたからではないだろうか。

「試供体A、B」のように、架構の一部にだけ「差鴨居」を設ける例は、寡聞にして私は知らない。実例があれば、どなたかご教示を。

   註 なお、「大梁は通し柱に胴差」とあるが、
      具体的な「仕口」は示されていない。
      質問をしたが、お答えはいただいていない。 

こんな納め方をするの?と思ったのは、2階の「床梁」。
「通し柱」通り位置(「い」「ほ」「り」「わ」通り)以外の@3尺の「梁」を、「胴差」に「渡り腮」で掛けていること。
確かに確実ではあるが、外壁面に飛び出ている部分は、どう処置するのか?
普通なら「胴差」と「床梁」の材寸は、納め方とともに検討して決めるのでは?
まあ、これは末葉のこと。


架台へのアンカーボルトでの固定など、不可思議な点はあるが、「試供体A」に比べれば、「伝統《的》工法」ではなく、より「伝統工法」に近い。
しかし、「架台へのアンカーボルトでの固定」はいわば致命的な問題点であるように、私には思える。その一点だけで、この実験は、言うまでもなく「伝統工法」の実験ではなく、もちろん「伝統《的》工法」の実験でもなくなるのである。
折角「伝統工法に近い」試供体建物にしたのだから、この点も「伝統工法に近い」方法で「実験」を行なうべきだったのではないだろうか。

あらためて、この「伝統的構法住宅実物大実験」の「真意」が問われよう。


長い長い話を、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

なお、この二つの「試供体」による「実物大実験」に対しての私の「総括」は、次回に書くことにします。

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しばしの気分直し

2008-12-19 00:22:29 | 居住環境

ここしばらく、そしてこの後も「陰鬱な」話をしなければならない。
しかし、黙っていてはならない、と私は思う。
それは、私たちのまわりから「専制的策動」を廃絶するためだ。
簡単に言えば、権力を笠にして、人びとの暮しを脅かして平気な人びとを弾劾するためだ。

この写真は、常陸国の国府であった現在の石岡市、その霞ヶ浦よりの高台に構えられている「舟塚山古墳」(前方後円墳)の上から見た筑波山。
12月初め、素晴らしく晴れた日、ここを訪れて撮った写真。

この姿が、古来、人びとが愛し、歌謡などにうたわれた筑波の山の姿。
現在のつくば市側から見る姿とはまったく異なる。

陰鬱な話ばかり続けなければならないので、しばしの「気分直し」。

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「伝統的木造構法住宅の実物大実験」について-3・・・・試供体A棟の「実態」

2008-12-18 12:23:30 | 「学」「科学」「研究」のありかた

[文言追加 15.48][文言再追加17.02][再々追加 17.15][更に更に文言追加 21.59]

上掲の図版は、今回の「伝統的木造構法住宅の実物大実験」に使われた試供体「A棟」の仕様と設計図面である。
掲載にあたり、文字が小さいため、当方で編集のうえ必要な文字等を加えてある。

また、図中の黄色く網を掛けた箇所は、以下の説明を分りやすくするため、当方が加えたものである。その塗りわけは、仕様、図面に記されている通り、たとえば図で差鴨居と称している部材を黄色に塗ってある(その当否は問うていない)。

図版の細部が見えるようにしたため、おそろしく長い図版になってしまったけれど、何度も戻りながら見てください。

では、「A棟試験棟仕様案」から順に見てゆこう。
これは、寸法を京間で計画したもののようだ。

「地伏土台」とは「地覆」のことだろうか。寡聞にして私はこの言葉を知らない。
「地覆」は、壁・開口部の下端の見切りであって、「土台」の役目は負っていない、と私は理解している。したがって、通常は「後入れ」である。柱脚と柱脚の間に入れるだけ。
「仕様案」の説明に、「通し柱、管柱とも柱勝ち」とあるのは、先に「地伏土台」を設置し、そこへ柱を落し込む、というような「仕口」である、ということを意味しているのだろうか?よく分らない。

「台敷」という言葉も、寡聞にして私ははじめて聞いた。関西ではあたりまえの用語なのだろうか?どなたかご教示を。

「台敷」なる材は、「四通り軸組図」から判断して、「四」「七」通りでは「ほ通り通し柱」と「ろ通り管柱」および「ち通り管柱」の間に「差物」扱いで入れてあるようだ。
なぜ「一」通りでも同じことをしないのか、意味が不明である。
第一、この材を「差物」扱いとするときは、「い」~「ほ」間、「ほ」~「り」間、つまり、通し柱間に設けるのが普通だ。なぜそうしないのか、理由が分らない。

この位置に入る材は、普通「足固め」。柱の根元を固めるために、途切れることなく柱間をつなぐ。
しかし、「四通り軸組図」「立面図」を見ると、部分的にしか入っていない。だから、「足固め」ではない。
「仕様案」の説明では、「開口のある壁(垂れ壁のみの壁)に設ける」とある。ますます「足固め」ではない。
なお、「1階床伏図」と「四通り軸組図」「立面図」には、喰い違いがある(「台敷」の位置が異なる)。

通常は、たとえば、「足固め」を桁行方向の柱通りに「差口」で納め、梁行方向では、柱通りの「大引」を同じく「差口」で入れる(「大引」に「足固め」の役割を負わせる)。これは、関西、関東を問わず、そして商家、農家、書院造あるいは社寺などを問わず、普通に行なわれる。
しかし、この「試供体」のような方法を採っている例は、寡聞にして私は見たことがない。関西にあるのだろうか。実例をどなたかご教示を。

ついでに「1階床伏図」を先に見てしまおう。
分らないのは、「台敷」が「一」通りにないことだ。「大引」を柱で直接受けている。
ということは、「一」通りでは、壁が「地伏土台」まである、ということだ。
ところが、「立面図」をよく見たら、先の開口部の箇所以外、すべて壁が「地伏土台」まである仕様になっていた。
普通の住宅でこのような例は、私は知らない。強いて挙げれば「土蔵造り」ぐらいだろう。関西ではこれが一般的か?そんなはずはない。

次に、「仕様案」の「通し柱」「管柱」の項。
なにゆえに柱の径をこの寸法としたのか、その理由が示されていないことはすでに書いた。
明治に近い幕末に建てられた今井町の二階建ての商家・高木家では、通し柱も管柱もすべて仕上り約4寸3分角で済んでいる。一般的に、住宅の柱はこの程度なのだ。
また、二階建て並の高さのある「園城寺・光浄院」など初期の「書院造」でも一般に5寸角程度、それを継いだより住居的な「大徳寺・孤篷庵」などでは4寸3分角程度が普通になる。[文言再々追加 17.15]
だから、なぜこの寸法にしたのか、その根拠・理由を知りたいのである。

次に、同じく「通し柱」「管柱」の項にある「ずれ防止」のための「30mm径の鉄製のダボの設置」と「ホールダウン金物の設置」、そして「ダボによる割れ防止のための鉄製のタガ」の設置。
これには頭をひねらざるを得ない。何故だ?
実験主導者たちの「伝統的」が何を指しているのか不明であることは既に触れてきたが、もしもそれが「現在の法令が規定する工法」以前の工法を指すのだとするならば、このようなことは絶対にしていない。こんな「余計な心配」をしない。これでは「在来工法」だ。

ますます、実験主導者の方々の「伝統的構法」の定義を聞きたくなる。

   註 たまたま昨日、この実験を見てきたという大工さんに会った。
      まわりに大工さんがたくさんいたそうだが、皆、これを
      訝っていたとのこと。
      なお、実験そのものは、双眼鏡で見ないと見えなかった
      とのこと。遠くからしか見ることができなかったのだ。

次は「貫」の項。
「貫」は15mm×105mmだとのこと。
たしかに現在市場に出回っている「ヌキ」と称する材は、この程度の寸法。そして最近「建築基準法」関連法令が認めるようになった「貫工法」の「貫」もこの寸法。

しかし、「現在の法令規定以前の工法」で使われた「貫」の厚さは、最低でも柱径の1/5または1/4の厚さが普通だ。
つまり、柱が仕上りで5寸ならば、厚さは1寸~1寸2分以上。今井町・高木家の「貫」は、35mm×115mm、つまり1寸2分×3寸8分程度である。

ちなみに「書院造」のアンチョコ「匠明」では、柱径を a としたとき、「内法貫」(鴨居レベルに入れる貫)の寸法は[0.33a×0.8a]としている。柱が5寸角なら、1寸7分×4寸程度。

つまり、この試供体の「貫」は、いわゆる「在来工法」の「貫」なのだ。
いったい何の実験をしているつもりなのだろう。

   註 厚15mmの「貫」は、多分、戦後の材木が不足していた時期、
      やむを得ず柱を細くしたつまり100mm角を「当たり前」にした
      時期に始まったものと思われる。戦争中の乱獲で、
      山は荒れ放題だった。
      そして60余年、戦後の植林の成果が、今、山にあふれている。
      ついでに言えば、「建築基準法」は、
      いまだに、その頃の「しがらみ」から脱け出せないでいる、
      と言えるのかもしれない。
      「桐敷真次郎『耐久建築論』・・・・建築史家の語る-3」参照。

さて、次は「差鴨居」の項。

「四方差」の「仕口」には「在来工法」の「仕口」を含め、各種ある。ここではいかなる「仕口」を用いているのか、先回触れたように質問させていただいたが、今現在返答なし。ゆえに分らない。

各階「差鴨居伏図」および「軸組図」の黄色に色付けした材を「差鴨居」と呼ぶ例を見るのは、私は初めてだ。

「ほ通り軸組図」の「四」~「二」通りの「差鴨居」を、なぜ「一」通りまで伸ばさないのか。
同じく、「四通り軸組図」で、1階差鴨居をなぜ「通し柱」まで伸ばさないのか。

そしてまた、「2階差鴨居伏図」あるいは「立面図」の2階「七通り」の各開口部上の「鴨居」や、同じく「一」通りの開口部上の「鴨居」を「差鴨居」と呼ぶのも、私にとっては初めてだ。


私の理解では、この試供体で「差鴨居」とされている材は、「差鴨居」に相当しないものなのだ。
通常「差鴨居」と言えば、「構造用教材」に「伝統和風」の名の下で紹介されている「今井町・高木家」などで行なわれている方法を言う。
この私の理解は誤りなのだろうか?
これは、私の学習不足で、関西、京都では、こういう部分的な、単に「鴨居」にしか過ぎない、ただ柱への仕口が「ほぞ差し込み栓」になっているものならば、なんでも「差鴨居」と呼ぶのだろうか?どなたか、ご教示いただきたい。

   註 さらに言えば、
      このように途中で途切れる「差鴨居?」のある室内を
      真壁の場合、どうやって仕上げるのだろう。
      「展開図」を頭に描いてみれば、いかに異様か分る。

この「仕様案」にはないが、先回載せた「仕様概要」の「瓦葺き」の項に、「瓦はガイドライン構法:瓦1枚ずつ釘打ち」とある。
これは、現在の法令規定仕様だ。これも実験主導者が何を「伝統的構法」と指しているのかは不明なのだが、かつての瓦葺きは、建物の揺れに瓦が追随することを嫌い、むしろ瓦の野地面への緊結を避けていたはずだ。

「瓦葺き」にすると自ずと重心位置が高くなる。それゆえ、瓦を建物:野地板に緊結すると地震の際、それが建物の揺れにもろに影響する。しかし、緊結されていなければ、建物と瓦は別個の動きをとり、屋根の上で瓦がずれたりする。ときには落下する。しかし、建物はそのおかげで大きな影響を受けない。あらためて瓦を葺き直せば復旧する。これがかつての考え方だった、と私は理解している。
では、なぜ、この「伝統的構法住宅の実験」で、「在来工法」的心配をするのだろう。私には理解できない。


以上長々と見てきたように、この「試供体A棟」は奇怪至極な建物と言わざるを得ない。何が奇怪か。
この「試供体A棟」は、かつての日本の工人が考え出した「真の意味の『伝統工法』」の建物ではないことは確かである。これをして「真の意味の『伝統工法』の建物」と見なす人がいるとすれば、それも間違いだ。

これは私の推測だが、実験を主導された方々は、「真の意味の『伝統工法』」を、「在来工法」の考え方で理解しようとしているのではないか。

たとえば、なぜ、「掃き出しの開口部」の上に入れた鴨居を、両脇の柱に「ほぞ差し込み栓で納めた」だけで「差鴨居」と呼ぶか。また、開口の下端になる材(ここでは「台敷」と呼んでいる)を「差物」にするか。
それは、実験主導者の一部に、「差鴨居、差物の入れられた構面」を「耐力壁」として考えよう、という「発想」があるからだと思われる。

つまり、「法令以前に行なわれていたかつては当たり前だった工法」を、強引に現在の「在来工法」理論の埒内に押し込めよう、という発想である(下註の記事で紹介した昨年の「実験」内容を見ると、今回の実験もその延長上にあることが分る)。
だからこそ、尻切れトンボの「似非差鴨居」を「差鴨居」と呼ぶのだろう。

   註 「木造建築と地震・・・・驚きの『実物』実験」 

そういう目でこの「試供体」を見てみると、「構成の違う構面」をいろんな箇所に仕込んでいるようにも見える。それぞれを「調べる」ためかもしれない。しかしそうだとしたら、きわめて乱暴な話だ。[文言追加 15.48]

そしてまた、「土塗り壁」の仕様をやたらと気にしているように見えるが、これも、近年「耐力壁」として認めた「土塗り壁」の「耐力壁としての効能の再検証」を意図していると見ることもできそうだ。[更に更に文言追加 21.59]

今後、もしもこういう「構成の違う構面」や「土塗り壁」などについて、単体としての「研究報告」がどこかでなされたならば、「私の推測:仮説」は、はしなくも「実証」されることになる。[文言 再追加 17.02]

しかし、「耐力壁理論」で、かつての工法:「真の意味の『伝統工法』」を理解しようとするのは、「理」が通らない。理科系の人は、こういう不条理をしてはならない。

結論。
今回の実験に供された「試供体A棟」は、「伝統工法風の色を付けた在来工法の建物」である。
したがって「伝統的構法住宅実物大実験」そのものも、「伝統工法風の色を付けた在来工法の建物の実物大実験」にすぎない。

実は、試供体の建物自体、こんな形の建物は、先回寄せられたコメントにもあるように、かつての建物にはない。
それについては、試供体B棟をじっくり見てから触れたいと思う。

以上、長くなって恐縮です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
コメント (2)
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「伝統的木造構法住宅の実物大実験」について-2・・・・何のための「実験」か?

2008-12-15 20:04:17 | 「学」「科学」「研究」のありかた

[註記追加 12月16日 0.52][文言追加 同 1.53][註記追加 17日 11.27]

今回の「伝統的構法住宅 実物大実験」には二つの試供体が用意されている。
その仕様の概要、A、Bの相違点を簡単に示しているのが、上掲の表。それぞれの詳しい仕様は、次回以降に掲載。

「伝統的構法住宅」を、具体的にいかなるものとして考えているか開示のないこと、簡単に言えば定義がないことはすでに前回指摘した。

さらに、試供体をA、Bにした理由、それぞれの仕様を上掲の表に示されるような内容にしたことについて、探したけれどもどこにも説明がない。

モデュールの項に、A棟は985mm、B棟は909mm、壁仕様にA棟は京都仕様、B棟は関東仕様とあることから、察するに、関西と関東の工法に違いがあるとの「認識・前提」の下、関西、関東という地域による違いで分けたようにも見える。
しかし、「通し柱」以降の各項に示されているA、Bの仕様の違いは、関西と関東とは関係がない。
たとえば、通し柱。Aの仕様が関西の方法で関東にはなく、Bの仕様は関東の方法で関西にはない、などということはまったくない。つまり、通し柱の仕様に、関東関西の違いはない。

したがって、各項とも恣意的に、適当に、仕様を決めた、としか思えない。


物理学などで言う「実験」とは、「理論や仮説が正しいかどうかを人為的に一定の条件を設定してためし、確かめてみること」(広辞苑)を言う。
たとえば、昨年世の中に広く伝わったカミオカンデにおけるニュートリノ確認の「実験」、これはまさに、「理論・仮説の確認のための実験」である。

しかし、今回の「実験」の場合、理論や仮説があるわけではない、もしあるのならば、その理論、仮説はあらかじめ明らかにされていなければならないが、そういう事実はない。

そうだとすると、今回の「実験」は何なのだろう。

あらためて、先回掲載した実験の趣意書の「目的」を読み直してみる。そこには次のようにある。
「・・・建築基準法においては、このような建築物の安全の検証として、限界耐力計算等の高度な構造計算を要することが多いため、本事業は、伝統的木造軸組構法住宅の設計法を開発し改正建築基準法に基づく当該建物の審査に係る環境を整備することにより、これらの建築物の円滑な建築に資することを目的としております。」

簡単に言うと、「伝統的木造軸組構法住宅」なる建物、すなわち、現在の建築基準法の規定する木造軸組工法(いわゆる「在来軸組工法」)による建物とはまったく異なる形で、基準法の規定と関係なく従来各地でつくられてきた建物を「審査する(=規制する)指針」づくりのためのデータを、この「実物大実験」によって得よう、ということだろう。

   註 趣旨「目的」の文言の端はしに、「基準法」があるにもかかわらず
      法令に従わない建物を勝手につくるとは何事だ、けしからぬ、
      という実験主導者たちの「思い」が見え隠れしているように思える。

それにしてはあまりにも安易な考えだ。
たったこれだけの「実験」で得られたデータで「指針」などつくられたらたまったものではない。
何をそんなに急ぐのだろう。
何か、差し迫った理由があるからに違いない、と思いたくなる(それは次回)。

これをして「科学的な実験」だと思っているのならば、「科学」ということを根本から学び直して欲しい。私が「科学」に強い、などと言っているのではない。「科学」と言う言葉を使い、あるいは数字を並べて、あたかも真実かのように振舞うことは、それは詐欺に近い、いや、「近い」どころか詐欺そのものだ、と言っているのだ。

   註 詐欺では言葉がきつすぎるというのならば、「偽装」だ。
      もっとも本質は同じ。
      今日のニュースでは、ついに、偽りの生産者の顔写真を
      印刷した偽の「国産たけのこ」が現われたらしい。
      この「実験」も似たようなもの、そういえば「羊頭狗肉」という
      古語もあった・・・・。 [註記追加 17日 11.27]

第一、この「実物大実験」は、先に触れたような「物理学」などで行なわれている「理論・仮説の実証のための実験」ではないことは明らか。
なぜなら、何度も言うが、実証すべき「理論・仮説」があるわけではない、開示されているわけではないからだ。

だとすると、この「実物大実験」は、「建築基準法が規定している木造軸組工法」(通称「在来軸組工法」)ではなく、「昔から日本の各地域で当たり前であった工法による建物」を揺さぶってみたい、ということだ、と考えるのが妥当と思われる。

しかし、そうだとすると、次に、この実験の試供体A、Bが、はたして「昔から日本の各地域で当たり前であった工法による建物」に該当するかどうかが問われることになる。
それについては次回触れるが、はたして、今回の実験にかかわった関係者各位が全員一致で「昔から日本の各地域で当たり前であった工法による建物」に該当する試供体である、と認定したのであろうか。
どうしてこのような試供体にしたのか、これで実験することをよしとした経緯(審議経過)の説明がまったくないのも、非科学的と言わざるを得ない。

   註 このような「実験」の意味も曖昧な「非科学的な実験」を
      恥ずかしげもなく、なぜ大々的にマスコミをはじめ各界に
      「公開する」のか疑問に思っていた。
      カミオカンデの実験を公開するなら、何をどう確かめるのか
      明確に説明される筈だ。
      しかし、この場合には、それはない。むしろ「隠して」いる。
     
      ふと気がついた。
      そうやって世の中に知らされることで、内容そっちのけで
      あたかも「正当な実験」がなされたかの情報だけが広まることを
      考えた「情報操作」なのではないか、と。
      新たな規制を設けても、「公開実験という公明正大な方法」を
      とったのだ、だから文句はつける余地はない、として
      「正当化」できる。「ご都合主義」も甚だしい。
      考えてみれば、これも「民主的」を装った
      「専制」の手段なのではあるまいか。[註記追加 16日 0.52]
    

なお、この「趣意」や「仕様の概要」を概観して、11月19日に、「日本住宅・木材技術センター」宛に、次のような質問をさせていただいた。

「昨日は早速ご連絡いただき、ありがとうございました。
お教えいただいた各PDFを拝見させていただきました。

拝見させていただいた仕様、図面で、
いくつか分らない点がありましたので
お尋ねさせていただきます。
ご教示いただければ幸いです。

①2階床梁は「通し柱に胴差。」とありますが、
  その仕口をお教えください。

②日本建築学会編「構造用教材」に掲載の
  「高木家」のように、
  「差鴨居」は「通し柱~通し柱」に設けるものと
  私は理解していました。
  しかし、この「実験棟」では
  「開口部」部分だけ「通し柱~管柱」間、あるいは
  「管柱~管柱」間に設け、
  「通し柱~通し柱」間ではない箇所があります
  (A棟の 「ほ通り」「四通り」軸組図の1階部分)。
  このようにする理由をお教えください。

  なお、私の住む近在(茨城県)には、
  差鴨居を多用した農家住宅が多数ありますが、
  この実験棟のような例は見かけません。

③「ほ-四」柱では、差鴨居が交差していますが、
  そのときの仕口をお教えください。

④通し柱径がA棟では5寸角と7寸角、B棟では
  5寸角になっていますが、
  この寸法は仕上り寸法なのでしょうか。
  お教えください。

⑤ また、柱をこの寸法にした理由もお教えください。
  なお、「高木家」の柱は、通し柱、管柱とも
  仕上り4寸3分角程度であったように 記憶しています。
  また、近在の農家住宅でも、普通のお宅では
  ほとんど同様の寸法の柱です。

私の理解の行き届かない点があるかもしれませんが、
いまのところ分らない点をまとめてみました。

お忙しいところ大変恐縮ですが、
以上、ご教示たまわりたく、お願いする次第です。」
   
実験もすでに終っているが、今日現在、お答えはいただいていない。お忙しいのでしょう。

   註 ②③については、次回にて解説。[註記追加 16日 0.52]

   註 「構造用教材」では、「今井町・高木家」を、
      「伝統和風木造」という「分類」にしていて、
      「伝統的木造軸組構法」という言い方はない。
      「在来軸組構法」という語は使われている。
      ここから、「伝統」と「在来」という語の意味の
      「混乱」が始まる!
      「伝統」は「在来」ではないのか、という「困惑」。
                [文言追加 16日 1.53]

また、先回(13日)書いたことに対して、次のようなコメントがありました。全文はコメントでお読み下さい。一部を抜粋します。

・・・・・・・
「古民家は風雪には耐えてきたが地震には耐えてこなかった」というような記述のある地震と木造住宅に関する本を目にしたことがあります。全く事実に反することですし、現在の耐震基準を満たす住宅の方こそ濃尾地震クラスでもつのか、風雪や100年以上の年月に耐えるのか、はなはだ疑問です。
 実大実験はどうせならば、現在の数値化された基準である耐震基準や限界耐力計算で低い数値でありながら実際に地震や風雪に耐えたものあるいはそれに近いものを実験して欲しいと思います。
 私は建築は全くの素人ですが、私から見て今回の実験の建物は形状の点で昔ながらの住宅といえないと思います。下屋がついたり大きな開口部には土庇がついたりするのが自然な気がします。それらは構造的な強さにも寄与すると思います。・・・

まことに正当な、というより当たり前な、お考えだと私は思います。
建築関係の人たちは、もちろん建築構造の専門家たちは、こういう当たり前の発想ができないようです。
建築に関係のない方々に、当たり前な見方ができる方が多い、というのは厳然たる「事実」です。
だから私は、建築にかかわる人に、本当に「理科系」なのか、といつも問うのです。
「理科系」というのは計算が上手にできることではない、ものごとを理詰めに考えられることが「理科」のはずです(本当は、こういう「分類」を私は好まないのですが・・・)。
残念ながら、「理科系」の人ほど、理詰めに考えることができないようなのです。もちろん全てではありませんが。
・・・・・・
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「伝統的木造構法住宅の実物大実験」について-1

2008-12-13 21:09:52 | 「学」「科学」「研究」のありかた

[図版更改 21.15][文言追加 12月14日 3.29][註記追加 14日 9.14]

11月末と12月初めに、「伝統的構法の設計法作成および性能検証の事業」の一環として、実物大実験が行なわれた。「実物」としてA、B二つの建物があてられた。

この件については、いろいろな方々が関心をもっているらしい。
私も、一体どんな「実物」を実験するのか興味が湧き、「(財)日本住宅・木材技術センター」のHPから、資料等を一式プリントアウトした。

今回は、上に掲げた、この実験の「趣旨」と、実験にかかわる「委員会のメンバー」について、先ず考えることにする。A、B二つの建物については次回以降に考える。なお、「趣旨」の5項以降は、実験の日程等の件なので、掲載を略させていただいた。

先ず知りたかった、というより開示すべきは、いかなるものを「伝統的木造軸組構法」と言うのか、その「定義」についてである。
残念ながら、どこにも定義らしき文言はない。まして、「伝統的木造軸組構法住宅の設計法」を作成するのだ、という以上、「定義」をするのが「科学的」な思考法のはずだ。
また、「目的」の項で書かれている「伝統的木造軸組構法の建物は、これまで一般的に技術の伝承としての仕様に基づき建設されてきましたが、構造的な安全の検証が求められています」も意味不明な、というより曖昧な文言。

「これまで一般的に技術の伝承としての仕様」とは、たとえば、どのようなことを指しているのか、少なくとも、一例ぐらい例示したらいかがなものか。

また「構造的な安全の検証が求められています」というとき、誰に求められているのだろうか、求めているのは誰か。
もっともらしくするために「曖昧な文言」を積み重ねないで、単刀直入に、「建築基準法の論理にのるような設計法」が欲しい、と言えばよいではないか。

それにしても絶対に欲しいのは、いかなるものを「伝統的木造軸組構法」と言うのか、その「定義」である。

委員会メンバーには、毎度おなじみの「常連」のほかに、驚くほど多方面の人が入っている。中には、これまで、「建築法令に噛みついてきた」方の名前もある。あるいは、社寺等の建築に携わってきた方々もおられる。
このメンバーを見ると、おそらく「伝統的木造軸組構法」なるものに対する「解釈」「理解」言い換えれば「定義」は、十人十色だろう。それはそれで一向にかまわない。
しかし、「設計法を作成する」など大上段に振りかぶるのであるならば、「委員会としての共通の定義」が必要なはずだ。しかし、うやむやのまま。

どうやら、目的は「限界耐力計算に基づく設計法」の構築にあるらしい。「性能の検証」という文言がそれを示している。[文言追加]
しかし、その先・行き着く先は、最初から見えているように私には思える。

なぜか。
計算をする以上、部材の諸元が必要になる。
しかし相手は木材。木材は手に負えない材料であることは今さら言うまでもない。諸元は材料ごとに異なるのが木材の特徴。
ほかの材料とてバラツキはある。しかし、木材のそれはきわめて幅が広い。それが木材というものの特徴。それを怪しからぬ材料だなんて考えること自体がおかしい。
幅があること、材料ごとに異なること、これを前提に考えるのが「科学」というものだ。

それは、「人間」を考えるのと同じ。「人間」を「一つの典型」に集約して扱えるようになると楽、これがある時代の教育の「目的」だった(現在は?)。「人間」は木材同様、一人一人が異なってこそ「人間」。

残念ながら、近代化の名の下、明治以降、それを嫌う「風習」が、「先導者と自認する人たち」の間で顕著に根付いてしまった。それは、言うところの江戸時代の封建主義なんてものではすまないほど甚だしい。

江戸時代は、人びとの頭脳・能力を「上の人」が蔑んだ形跡はない。地位が上だからといって、商人の知力が武士の知力より劣る、などと武士が思った形跡はない。

人の上に人をつくらずと高らかに宣言したのは明治政府だ。しかし実際は、「考えること」にまで口を出すようになったのは明治以降の方が、そして第二次大戦後の方が著しい。やっかいなのは、戦後は「民主的」を装ってそれをやることだ。

こういう「思想」が、「建築学」の場面でも当たり前になった(それを当たり前だと思うのは、本当は、科学ではなく似非科学だ)。
だから、自分たちの勝手に作った「計算法にのせるための都合」で、無理やり木材の諸元を一定値にせざるを得なくなるはずなのだ。これは、これまでもやってきたではないか。その考えは、人間を一典型に絞り込もうという考えとまったく同じ。

つまり、既存の「構造計算法」は、木造には適さない。無理やり適合させるならば、そのとき木造は似非木造になってしまう。
[以上、文言変更・追加]

最初に「限界耐力計算法ありき」ではなく、もっと素直に、どのように考えたら「かつての日本の木造建築を理解できるか」(あえて「伝統」とか「伝統的」とか言う言葉は使わない。「かつて」とは、明治以前、あるいは「基準法」以前でもよい)と考えるべきではないだろうか。
それが本当の「科学的な所作」、つまり「科学的」ということだろう。

「実験」に対するときも同じこと。数値化データをとるもよいだろう。
しかし肝腎なのは、どういう挙動になるかを「体感」することなのではないか。そしてまた、挙動を体感、想像できるようになることではないか。

もしもそれができないならば、設計はできるはずがない。計算で設計が出来上がるわけがない。計算は、あくまでも「気休めの」確認作業。
「科学」とは、「理を究めること」であって、単に「数字化」「数値化」すればよいことではない。

「自然」という対象は人間の浅はかな「知」を凌駕する。建物づくりも相手は「自然」。
私は19世紀末から20世紀初頭の「技術」「技術者」こそ、「技術」「技術者」の鑑だと思っている。「理論」は彼らの後からついてきた。


そうは言っても、近いうちにまたぞろ、構造規制が強まることは目に見えている。


委員会の名簿を見た時、とっさに私に読めたのは、うるさい連中を引き込んでしまえば文句の出ようもないだろう、という「発想」が根底にある、ということ。
この「委員会」は、民主的衣装を被った「大政翼賛会」だ、それが私の偽らざる思いだった。[文言追加]

   註 「大政翼賛会(たいせい・よくさんかい)」をご存知ない方へ
      「大政翼賛会」は、1940年:昭和15年の10月、いわゆる
      「大東亜戦争」(第二次大戦)を起こす前年結成された
      国民統制組織。各政党が解党、合流。産業報国会、翼賛壮年団、
      大日本婦人会を統合、部落会、町内会、隣組が末端組織。
      1945年:昭和20年解散。以上「広辞苑」による。
      私は1937年生まれ、「国民学校:現在の小学校)」にいた頃は、
      ほとんど毎日空襲にあった。学校の記憶がない。隣組と回覧板・・・。
      すべてが「右へならえ」であったことは、子どもでも分った。
      そして不思議だった。
      今の中堅の世代は、「右へならえ」が好きなのだろうか。
      人びとを「右へならえ」させたいのだろうか。[註記追加]


少し極端なことを言わせてもらえば、もしも今後、このような「実験」をもとに、今以上に「かつての工法」私の言い方で言えば「一体化・立体化工法」に対する規制が増えたならば、その責任は、この実験にかかわっているメンバー全員にかかる、つまりメンバー全員共同正犯だ、ということだ。
かかわっている「団体」(特にNPO団体)、メンバーに、はたして、その認識があるのだろうか。[文言追加]
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日本の建物づくりを支えてきた技術-18の補足・・・・法隆寺・綱封蔵の外観ほか

2008-12-10 18:31:44 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

「法隆寺・綱封蔵(こうふうぞう)」の東側全景と吹き放し部分を東側から見た写真を載せます。「奈良六大寺大観 法隆寺一」からの転載です。スキャナーの関係で、原版の一部しか載っていません。
吹き放し部を通して見えるのは、「妻室」「東室」「金堂」の屋根と「五重塔」の頂部です。

右下の写真は、茨城県石岡市郊外の「常陸風土記の丘」に復元された高倉の床下です。
この倉は、常磐道の工事で発見された「鹿の子遺跡」の一角にあったものの想定復元の倉です。

「鹿の子遺跡」は、奈良時代から平安時代初めにかけての常陸国府の国衙、直営工房で、この倉はその一角をなす倉と考えられています。一帯は、東北地域支配のための前衛基地の役割をはたしていたようです。

この写真は、その高床の倉の床下。
この復元では、束柱の頂部に梁行・桁行とも「頭貫」を通し、「台輪」は桁行と、妻面の梁行だけに据えてあり、写真のように、中途の柱列にはありません。梁行が短いからでしょう。「想定復元」ですから、どこかに参考にしたモデルがあるものと思われます。
筑波山の麓、北条の近くの「平沢官衙」跡にも「想定復元」による高床の倉が復元されていて、これも近寄って見ることができます。


次回

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日本の建物づくりを支えてきた技術-18・・・・継手・仕口の発展(3)

2008-12-08 19:15:57 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言追加 12月9日 3.09、3.19]

今回も「角鎌継ぎ」ですが、今の私たちでは到底思いつきそうもない事例です。

法隆寺の寺域に「綱封蔵(こうふうぞう)」という高床の蔵があります。「妻室」の東側にあり、建物には近づけませんが、目の前で見ることはできます。
寺院の高床の蔵というと、「正倉院」などのような「校倉造」を思い浮かべますが、この建物の外観は、上の写真のような普通の土壁です。

「校倉造」の蔵だと、どうしても「校倉」部分に目がいってしまいますが、高床式の実際を知るには、校倉ではないこの建物が分りやすいのではないでしょうか。
そのためには断面図がいります。ところが、建築史関係の図書には、私が知る範囲では載っていません。唯一、「文化財建造物伝統技法集成」には、技法解説の参考として断面図があるのですが、その断面図はかすれていて材寸など細部が見えません。
そこで、「重要文化財 法隆寺綱封蔵修理工事報告書」(奈良県文化財保存事務所 刊)の複写を国会図書館に依頼していたのですが、著作権の問題で複写できない旨の連絡があり、やむを得ず断面図は掲載できません。そのため「奈良六大寺大観 法隆寺一」所載の写真と解説から想像することにします。なお、「継手・仕口」図は、「文化財建造物伝統技法集成」からの転載・編集したものです。

この蔵は、正倉院などと同じく、二つの蔵を並べ、中間に吹きさらしの部分を設けて一つ屋根をかける方式を採っています。
二つの蔵は、平面図のように、それぞれ1間約2.6mの3間四方、中間部も同じ大きさです。平面図の左方が北だと考えてください。つまり、図の上側は東になります。そちらが正面です。

中間部は床を張ることがありますが、上段右側写真のように、「綱封蔵」では床が張ってありません。中途に見える左右に走る横材は、後で触れる「台輪」と「頭貫」です。なお、上側の材「台輪」には、金属板(だと思われます)が被せられています。
蔵は、外部は土塗り壁、内側には床から1.6mほどの高さまでは、6cm厚の板が柱に彫った溝に嵌め込まれているそうです。

建物は、先ず「高床」になる部分をつくり、その上にあらためて軸組を建てる方法を採っています。

なお、こういうつくり方では、今の法令下では、「軸組」部と高床部をホールダウン金物で補強せよ、と言われるに違いありません。要するに建てられない!

何度も改修が行なわれていて、後述の高床を構成する「束柱」と「台輪」の7割程度が当初材のほかは後に補われた材のようです。
また、建設時期をはっきり確定できる資料もなく、解体修理時に礎石の下から天平時代末~平安時代初期の瓦が見つかっていることから、当初の建設は平安初期:9世紀頃ではないか、とされています。

しかし、ということは、「高床」+「軸組」方式で、1000年以上、架構は健在だったということを意味します。
現在の構造の専門家は、これをどう考えるのでしょうか?実験してデータをそろえなければ分らない・・・のかな。
私には、たとえ、大きな改修が何度なされていようが、この架構方式で1000年以上存続してきたこと自体、どんな実験室での実験よりも立派な「実験」、立派な「データ」だと思えるのですが、この「論理」は、今の「科学者・研究者」には通じないのです。

つい「わきみち」にそれました。
実は、この「高床」部分の工法で使われている「継手・仕口」を今回の話題にしたいのです。

建物は高さの低い「土壇」の上にあります。「土壇」上に自然石の「礎石」を据え、高さ1.8mほどの「束柱」を立てます。
「束柱」は、真ん中あたりがふくらんだ形をしていて(「胴張り:どうはり」と言うようです)、胴張り部で径54.6cm、底部で51.2cm、頂部は50.6cmの大きさ。頂部は円周の角に丸面をとり、天端の径を45cmにしてあります。これは、その上に載ってくる「台輪」の幅に揃えるためと思われます。

「台輪」は幅が45cm、高さが25cmあります。他の例に比べると、高さが大きいそうです(普通の「校倉」では、高さは12cmほど)。

平面図、写真のように、梁行:短手方向には4本並ぶ列が10列あります。各列の「束柱」の頂部には、16cm角の「頭貫」が落し込まれ、その上に「梁行台輪」を載せます。
「梁行台輪」は、短手各列に乗っています。「頭貫」「台輪」とも、外方に向って跳びだしています。
桁行方向:長手の「束柱」上には「頭貫」はありません。梁行だけに「頭貫」を渡すのは、時代が古いやり方だそうです。

「台輪」は「束柱」に刻んだ「頭枘(かしら・ほぞ)」で納められているようです(この図には判然としないところがあり、私の想定です)。

長手:桁行には、外側の柱列上にだけ、梁行「台輪」に直交して、桁行の「台輪」が「渡腮(わたりあご)」でかけられています。

軸組の柱は33cm角で、どれも「台輪」の上に立てられていますが、両側面:東西の側面の柱は、この「桁行台輪」の上に立てられることになります(梁行の中間の柱2本は「梁行台輪」に立てられますから、側面の柱よりも材長が長くなります)。
この「柱」と「桁行台輪」の仕口の解説図が、上段の分解図です。

「桁行台輪」は当然どこかで継がれることになります。しかし、「文化財建造物伝統技法集成」では、どこで継がれているかは説明がなく、「台輪」と「柱」の仕口は2種類ある、とだけあります。

この解説図から、この建物でも、これまで紹介してきた例と同じく、「継手」箇所に柱を立てる方法、つまり「継手」箇所に「仕口」を設ける方法を採っていることが分ります。

図の左側は、「角鎌継ぎ」の首の部分を通常より長めにとり、その両脇に柱の「根枘」を2枚刻んで落しています。「根枘」の先端は、「梁行台輪」に達していますから、「軸組柱」「梁行台輪」「桁行台輪」そして「束柱」は一体に組まれることになります。
私が驚き、「感激」したのは、この箇所の「継手・仕口」です。
いくら材寸が大きいからと言っても、「鎌継ぎ」の首の両側に2枚の「根枘」を差す、そのために首を通常よりも長くする、などという発想は、私には到底思いもつかないからです。

図の右側は、図から想定するかぎり、左右の「梁行台輪」に「片腮」でかけ突き付け、その接続箇所上に、「角柱」の太い「枘」を差しています。
「枘」には先細の傾斜が付けられていますから、下手をすると左右の材を押出すことになる、つまり「継手」がはずれるように見受けられます。その意味では「継手」と考えるには無理があるように思えます。本当のところを知りたいと思います。

私の想定では、図の左側の「軸組柱」「梁行台輪」「桁行台輪」「束柱」を一体化する方法は、蔵の外壁の交点で継ぐ時、図の右側の方法は、中間で継ぐ場合の方法なのではないか、と思えます。残念ながら、詳しいことが分りません。

なお、図の下段は、「台輪」と「頭貫」の「継手」だけを示した図です。ただ、分解図には、「渡腮(わたりあご)」の部分が書かれていません(下の側面図にはある)。[解説文言追加 12月9日 3.09]

それにしても、かつての工人の発想の豊かさ、自由さには恐れ入ります。それは、「現物」を目の前にしているからだ、と私には思えます。
私の持論に近い考えですが、「近代科学」が「下手に」発達・発展した結果、人が自ずから備えている筈の「想像力」「発想力」そしてなによりも「直観力」が衰えてきたように思えてなりません(下註参照)。
「科学理論」の学習を重んじ、「現物」をつくる、さわる、という「経験」「体験」をないがしろにするようになっていないでしょうか。

そしてまた、過去の工人たちの仕事を、単に昔のものだから、というだけで無視、黙殺しているのではないでしょうか。
それはすなわち「歴史」というものを無視・黙殺することにほかなりません。
もっと簡単に言えば、「今日」は「昨日」があっての「今日」、「明日」は「今日」があっての「明日」だ、ということを無視・黙殺することです。


ところで、最近、「伝統《的》構法の建物の実大実験」なるものが大掛かりに行なわれたようです。
しかし、なぜ「伝統工法(構法)」と言わずに「伝統《的》工法(構法)」と言うのでしょうか。

これは私の推量ですが、《的》の一字を入れることで、自らの「知」をごまかそうとした、あるいは「追求」を避けたかった、のではないでしょうか。

なぜなら、中国語では「的」は「・・・・の」という意味ですが、日本語で《的》を使うときはこの意味ではなく、「名詞や句に添えて、その性質を帯びる、その状態をなす意を表す」(「広辞苑」)ための用語だからです。つまり、「伝統《的》構法」と言うときは、「伝統工法風の」、「伝統工法のような」で済むのです(実際、実験建物を見るとそのようです)。

これに対して、「伝統(工法)」と言うと、「ある民族や社会・団体が長い歴史を通じて培い、伝えて来た信仰・風習・制度・思想・学問・芸術など」(「広辞苑」)、「前代までの当事者がして来た事を後継者が自覚と誇りをもって受け継ぐ所のもの」(「新明解国語辞典」)ということになります。

つまり、今回実験を行なった方々は、この「伝統」の語意が恐ろしくて、「伝統」とは言い切れなかった、と考えられるのです。
これは、「軸組工(構)法」で済むものを、わざわざ「在来工(構)法」などという意味のあいまいな《新語》をつくって「目くらまし」をかける、つまり「伝統工法の存在をうやむやにする」やりかたと、どこか共通しています。[文言追加 12月9日 3.19]

この「実験」について、おってあらためてとり上げたいと考えています。

  註 「鋳鉄の柱と梁で建てた7階建てのビル・・・・世界最初のⅠ型梁」

次回に補足

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とり急ぎ・・・・喜多方登り窯再稼動:喜多方市の広報誌による報道

2008-12-05 17:38:54 | 煉瓦造建築

喜多方市の広報誌「広報きたかた」の12月号(上掲はその表紙)に、今回の「登り窯」による煉瓦焼成が報告されています。
表紙は薪を窯に投入する作業。喜多方工業高校の生徒さんたちだと思います。

下記のうち1~7ページが特集記事です。

「広報きたかた:平成20年12月号」

また、喜多方市商工課HPの「地域資源活用」の中で、「登り窯・煉瓦関連施設」について簡潔に紹介されています(下記)。

「登り窯・煉瓦関連施設(近代化産業遺産)」

詳細はいずれ。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-17の補足・・・・(角)鎌継ぎの諸相

2008-12-03 12:06:13 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[註記追加 12月4日 2.07]

法隆寺の上代の建物には、先端が方形の「鎌継ぎ」が多いことを紹介しました。その形から、「角鎌」と呼ばれますが、古い時代によく使われている、ということから「古代鎌」とも言われています。

「文化財建造物伝統技法集成」に、「角鎌」についての解説が載っていますので、紹介したいと思います。上掲の図は、同書所載の図を転載・編集したものです。

「(角)鎌継ぎ」の基本的な原理は、左端の図のとおりで、黄色く色をかけた材に右側の材を落し込むことで2材が継がれます。
この工作の要点は、図に記載の a、b、c の箇所が密着することです。
しかし、a、b、c の箇所を密着させるように加工する:刻む:ことは、手加工では、実際には容易ではありません。

図Aでは、鎌の先端が円く加工されていますから、先端には「遊び」:隙がありますが、用は足りています。
おそらく、a、b、c の箇所の精度を上げるために、先端の部分に「逃げ」をつくったのではないかと思います。先端までぴたっと合うようにすると、余計な手間がかかる、という判断なのでしょう。

図Bでは、a の箇所に隙間があり、後から埋木をしています。こうすれば、加工:刻みは、「鎌」と「首」の幅にだけ注意を払えばよいことになります。そして「埋木」を打ち込めば、軸方向が密着することになります。
こうすると、おそらく、全体を精度よくつくって落し込むよりも、密着:接着の度合いは強くなるものと思われます。

このような「結果」は、工人たちの予想外のことだったかもしれません。
そして、この「埋木」によって2材が密着するという「経験」が、後の「布継ぎ」や「金輪継ぎ」「シャチ継ぎ」など、「栓」を打って密着させる技法のヒントになったのではないでしょうか。
「大仏様」の柱内での「貫」の継手で採られた方法も、原理は同じと考えてよいでしょう(下註参照)。[註記追加 12月4日 2.07]

   註 「日本の建物づくり・・・技術-14・・東大寺・鎌倉再建:新たな展開-2」

何度も書きますが、こういった「技法」は「現場」で生まれたもので、机上では絶対に発案されません。

こういう加工:刻みは、手加工の場合、材に加工する形の「墨」を打ち、それに従って仕事をします(「墨出し」)。
ところが、「墨」は「線」です。「線」にはいくら細い線でも幅があります。
そのため、たとえば「線」をガイドに鋸で切る場合、「線」のどこに鋸をあてるか(線の右外か、左外か、はたまた真上か・・・)は人によって異なります。言ってみれば、仕事をする人の「癖」です。その結果、仕上りの寸法にも微妙な差がでてきます。それゆえ、ある箇所の仕事を、2人以上ですると、狂いが生じる場合があるといいます。

なお、現在では、NC制御による加工機械があり、「鎌継ぎ」も簡単に加工できるようになっています。ところが、精度はきわめてよく、あまりに精度がよいため、寸法どおりに加工すると、下の材に上の材を落し込めない、と言います。そのため、たとえば、上になる材を、設定寸法よりも0.1mmの単位でひとまわり小さく加工するのだそうです。
そういう気配りをせずに寸法どおりに機械加工し、現場で強引に打ち込んだ結果、割れてしまっている現場を見たことがあります。

図Cは、a の箇所、「鎌」の引っ掛かり部分に傾斜をつけたやりかたで、鎌倉時代になると盛んに使われるそうです。
「鎌継ぎ」の箇所に、軸方向で強く引張る力がかかったとき、「鎌」の「引っ掛かり部分」が欠け飛ぶ可能性があります。しかし、このような傾斜を付けると、その危険性は減ります。力が木目(木理)の方向ではなく、それに対して斜めにかかるようになるからです(簡単に言えば、引張る力が継手部にかかったとき、傾斜面に直交する力に変換されるからです)。これは、中学・高校の理科で習う「力の分解・合成の原理」にほかなりませんが、もちろん、工人たちは、現場でこの原理を修得したのです。

ただし、このような「鎌」の「引っ掛かり部分」が欠け飛ぶような事態は、普通の場合、つまり、この「継手」の特性に見合った場所に使う限り、起きることはないはずです。

次回

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