日本の建物づくりを支えてきた技術-26・・・・継手・仕口(10):中世の様態・2

2009-02-28 18:52:04 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言追加 3月1日 9.03]

先回載せた「中世の継手・仕口の様態」を少し詳しく見ることにします。
今回はア)からエ)まで。

東大寺再建でいわゆる「大仏様」が寺院建築に使われてから、100年足らずの間の建物がア)~エ)です。
資料にした「文化財建造物伝統技法集成」には社寺の例だけしか載っていませんから、自ずと社寺の例に限られることになります。もっとも、この時代の一般の建物は、現存していませんが・・・。

ア)~エ)で手元の資料で図面などが見つかったのはア)。

ア)の「大報恩寺本堂」は鎌倉時代前期(初期)、1227年建立の密教寺院で、上の図・写真のような建物です。写真・図は「日本建築史図集」からの転載・編集。
図の左手が南です。
断面図のように、1間四方の「内陣」を囲む3間×3間の堂のまわりに「庇」東、北、西面の回廊)、南面に「孫庇(正面礼拝口)」を設けています。なお、3間四方の部分を「内陣」と説明している資料もあります。
3間四方の平面だけ見れば、「浄土寺浄土堂」と同じです。

右側に、比較のために、同じく3間四方の平安時代末の同様の建物である1160年に建てられた「白水阿弥陀堂」の図を載せました。断面図は、上が縦断図、下が横断図です(大きな平面図・横断図は、「日本の建物づくりを支えてきた技術-11の補足」にあります)。

分りやすいように、これらを時代順に並べれば
  「白水阿弥陀堂」1160年
     約30余年
  「東大寺大仏殿」1190年
  「浄土寺浄土堂」1194年
  「東大寺南大門」1199年
     約30余年
  「大報恩寺本堂」1227年
ということになります。

ア)の図は、「大報恩寺本堂」の「頭貫」と「根太」の継手です。
「頭貫」は、古代~平安期の方法ではなく、継手は「大仏様」の「鉤型付き相欠き:略鎌」を使って柱上で継いでいます。
ただ、横腹に凹部をつくりだし、柱側につくられた凸にかみ合わせることで柱に「頭貫」を固定する手法は、古代の手法を踏襲しています(「日本の建物づくりを支えてきた技術-7の補足・続・・・・頭貫の納め方の変遷」参照)。
「浄土寺浄土堂」では、その方法ではありません(「日本の建物づくりを支えてきた技術-22・・・・継手・仕口(6)」参照)。

床部分の図面が梁行断面図しかないのでよく分りませんが、桁行方向には「根太」と上端を揃え、梁行は「大引」上端揃えで「足固貫」を入れているように見えます。あるいは、床高が低いので、梁行は「大引」で兼ねているのかもしれません。

「大仏様」の足元まわりの固め方:「足固貫」の設け方、継手・仕口は、先に見てきました(「・・・の技術-19・・・・継手・仕口(4):鉤型付きの相欠き」参照)。

「大仏様」以前の「白水阿弥陀堂」の足元まわりの固め方は、少し見にくいかもしれませんが「横断図」の床下で、太い材が柱を挟んで設けられ、その上に、「縦断図」のように、太い「根太」が架けられていることが分ります。この根太も柱を挟んでいます。
つまり、「長押」の手法が床下でも使われていたと考えてよいと思います。

これが、時代的な差によるのか、地域的な差によるのか、「白水阿弥陀堂」に影響を与えた平泉・「中尊寺」ではどうなっていたのか、調べてみようかと思います。


「大報恩寺」の「根太」は、「大引」上ではなく、持ち出した位置で継ぐためにこのような縦方向の「相欠き」手法をとったのだと思われます。
この図の場合は、どちらを先に取付けてもかまいません。しかし、端部に「目違い」(小さな凸部をつくりだし、相手の凹部に納める)を設けてありますから、継ぐ作業は横から水平に材を動かして継ぐことになります。作業のためのスペースが横に必要です。
さらに、納まった上に「栓」も打ってありますから、先ず確実な継ぎ方と言えると思います。

   註 鉤型:噛みあい:の部分が、この図では垂直になっていますが、
      それを斜めにすると、より確実に密着させることができます。
      ただ、噛みあい部分を斜めにすると上木、下木の別がでてきます。
      作業は「下木」を据え、次に「上木」を落し込む順番になります。
      したがって、横に作業スペースは不要です。
      「上木」は、自ずと滑り落ち、少し叩くだけで密着します。
      後に「追っ掛け大栓継ぎ」などへ発展する原型と言えます。

次にイ)「円光寺本堂」とウ)如意寺阿弥陀堂」の継手・仕口。
この二つの建物の様子の分る資料が手持ちになく、紹介できません。
しばらく見かけなかった「鎌継ぎ」がこの建物では使われていますが、いずれも主な構造部材には使っておらず、どちらかというと、「見えがかり」が気になる部分に用いているように思えます。
それは、イ)の「垂木」の仕口に表れています。
ここでは、接合部にわざわざ「垂木」を納めるように継がれる2材に「垂木」の仕口を半分ずつ刻むという面倒な仕事をしています。「垂木」を掛けると、継いだ箇所が、下からは見えなくなることを考えたのでしょう。
図がないので分りませんが、継手位置は、多分、柱から持ち出した位置ではないかと思います(折をみて調べてみます)。

ウ)も化粧を意識していて、この場合は、「垂木」~「垂木」の1/2の位置に継目線が来ることを考えているようです。これも持ち出した位置で継いでいるものと思います。
それにしても、この「面戸板」(めんどいた:「垂木」と「垂木」の間にできる隙間をふさぐための板)の細工には恐れ入ります。たしかにこのようにすれば仕上りもきれいでしょう。しかし工事には細心の注意が必要の筈で、工事中に折れなかったのかな、と心配になります。

現在なら、主な構造部材の継手にも使う「持ち出し・鎌継ぎ」は、どうやら、この時代には、「見えがかり」を気にする場所で使うものであって、主要構造部には使わなかったのではないか、と考えられます。
おそらく、近・現代の新興建築家諸氏は、このことを知らず、「見えがかり」の化粧部分を主要構造部であると勘違いしてしまい、平気で主要構造部に使うようになってしまったのではないでしょうか。

エ)の「太山寺本堂」の例は、なんでこんなことをするんだろう、と思ったために載せた例です。
当然これは、人の目につかない天井裏の仕事です。
普通ならこういう縦に分けた「相欠き」ではなく、上下に分けた「相欠き」にするはずです(「台持継」)。
おそらく、上下に分けると薄くなって弱くなる、と考えたのでは、と思います。
それにしても、普通の「相欠き」にしなかったのはなぜなのか、分りません。
ア)の「根太」のような考え方があってもよかったのではないか、と思います。
上部に18㎜角の小さな栓が打ってありますが、これは転倒防止、開き防止のためでしょう。下は「枕木」で位置が固定されますが、上には2材を繋ぐ用意がないからです。


中世の寺院は、密教系が多いのですが、政権の所在地だけではなく、各地域につくられます。
多分、そこでは、寺院建築に詳しい工人とともに、寺院には詳しくない地着きの工人たちもかかわっていたものと思われます。いろいろな手法が見られるのもそのためではないでしょうか。

一方で、そこで技術面の交流が行なわれたと思います。「貫」の効能などは、そういう機会を通じて広まったのでしょう。
昔の人びとは、《偉い人》や「法律」に盲目的に従う、あるいは従いたがる現在の人たち(もちろん全部ではありませんが・・)とは違い、自分たちにとっていいものはいい、という真っ当な判断ができた人たちだからです。そういう「自由」が保証されているとき、技術は進展するのだと思います。[文言追加 3月1日 9.03]

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ただいま図面捜索中

2009-02-27 12:08:36 | その他

次回に触れる予定の「継手・仕口」を使っている建物の、姿ぐらい知りたいと思い、図面などを捜索中です。
もう少し時間がかかりそうです。

外は雪。畑の向うの竹林が煙っている。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-25・・・・継手・仕口(9):中世の様態

2009-02-21 19:36:38 | 日本の建物づくりを支えてきた技術
[図版を濃くしました:22日9.53]

図版の工事が終りましたので、ようやく「続き」に入ります。

長いことかけて「浄土寺浄土堂」をはじめ、いわゆる「大仏様(だいぶつ よう)」と呼ばれる建物のつくり方を見てきました。
そこで改めて気付いたのは、「大仏様」の建物では、それ以前に使われていた「鎌継ぎ」の類が、まったく使われていないこと、そして、これは古代と変らないのですが、柱と柱の間で横材を継ぐ、つまり持ち出したところで横材を継ぐという仕事が一切ないことでした。

その後の時代はどうなのかと考え、「文化財建造物伝統技法集成」を概観して見たところ、鎌倉時代以降の建物では、古代に主要部に使われていた「鎌継ぎ」は、散見されますが、多くは、力のさほどかからない「丸桁・母屋」や「棟木」などに限られるようです。「浄土寺浄土堂」では、その場所にさえ、「鎌継ぎ」を使っていないことは、先に紹介したとおりです。

そして、鎌倉時代以降の建物では、主要部には「大仏様」方式が使われることが多くなっているような印象を受けます。主要な横材:梁や桁などに「鎌継ぎ」を使う現在とは大違いなのです。

「文化財建造物伝統技法集成」の中から、桃山時代までの(鎌倉時代中期~室町時代の)建物の「継手・仕口」について、主に「鎌継ぎ」に焦点をあてて15例を集めてみたのが上掲の図版です。
図版は、同書から転載し、できるだけ分りやすいように編集してあります。

もちろん他にもいくつかあるのですが、これだけでも大きな変遷を見ることができるように思います。図版には、時代順にア)~ソ)の記号を付しています。
なお、これらのうち、私が実際に観ているのはきわめて僅かで、「龍吟庵方丈」「慈照寺東求堂」「大仙院本堂」だけです。

今回は、とりあえず、15例の図を載せるだけにして、次回から数例ずつ見てゆきたいと思います。
コメント (1)
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「・・・の技術-25」の図版工事中のお知らせ

2009-02-19 15:41:34 | 日本の建築技術

[例の「震動台実験」の担当者からの「返答」に対する私の返答を、末尾に追加公表します。20.34]


「・・・の技術-23」で触れた「鎌継ぎ」の行方を捜しています。
「伝統技法集成」掲載されている中から、室町時代までの事例を捜索中です。
縮尺もまちまちで、小さい字もありますので、編集に手間がかかっていますが、なかなか興味深いところがあります。
もうしばらく時間をいただきます。

なお、例の「震動台実験」、担当者にブログのコピーを送ったところ、「構面」に他の面が影響を与えないように心がけている旨の返答をいただきました。本当は、返答全部を紹介したいのですが、一応私信であるので、それはやめます。
返答への私の返答は、公表しようかと考えています(これへの応答はいまのところありません)。

以下に公表することにしました。どのような「返答」があったかは、ご推察ください。

お忙しいところ、早速ご見解をお聞かせいただき
ありがとうございました。

貴下も、直方体を試験体とすることによる対象「構面」への
他の「構面」の影響を心配?されていることを知り、
少しばかり安心いたしました。

貴下が「心配」されているように、
直方体を構成する各面、各辺が互いに関係しあうのは当然です。

ですから、私がかねてから問題と考えているのは、
「互いに関係しあうという事実」を無視して、
なぜ、各面、各辺に分解して考えるのか、ということです。
必要なのは、「互いに関係しあうという事実」そのものを知ることのはずであって、
その「事実」は、「各面、各辺のデータの足し算」では解明できません。
「互いに関係しあうという事実」≠「各面、各辺のデータの足し算」ということです。


私は、いわゆる「伝統的」と言われる架構法について、
いろいろな建物を実際に観ること、
歴史的資料(主に、重文建造物の修理工事報告書)を観ることで、学んでいます。
そして至ったのは、
かつての工人たちは、常に「立体」で考え、「立体」で外力に対応することを
考えている、ということです。
「架構・立体」を構成する各部材に、相応の役割を持たせるようにしています。
もちろん、耐力上強い箇所、耐力の弱い箇所が生じないように考えています。
耐力壁だけで外力に対抗する=「耐力壁依存」ではないのです。

残念ながら、貴下の現在目指し進めておられると思われる「構築指針」は、
私の見る限り、強弱の部分をつくることに連なるはずです。
それは「伝統的」構築法を抹殺することになります。

「互いに関係しあうという事実」つまり架構全体をひとくくりに捉えることが
難しいことは百も承知です。
だからといって「便宜」に走るのは、おかしい、と私は思います。
そしてそういう「便宜」で「伝統的建造物」を観るとしたら、
そしてもちろん、指針など出されたら、かつての工人たちは嘆く筈です。

そして、今でも、代々受け継いできた技術で仕事をしている大工さんたちが、
基準法の諸規定で難儀を強いられています。
貴下のお考えの「指針」では、新たな「難儀」を強いることになるのは
間違いありません。

先日、兵庫・三木で行なわれた「実物大」実験についても、
主宰者に疑義を伝えましたが、返答はありませんでした。
今回は、早速返答をいただき、実のところは、驚きました。
ありがとうございました。

是非、「現場」の意見にも耳を傾けてください。そして、
「実験」だけではなく、
たくさん実例のある「伝統的建造物」、そしてその「資料」をも
参考にしてくださることをお願いいたします。
長い年月を経ても健在である、ということは、
いかなる「実験」にも勝る実験なのです。

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「利系の研究」・・・・「伝統的木造住宅を構成する架構の震動台実験―伝統技術の活用のために―」

2009-02-16 19:20:48 | 構造の考え方

[註記追加 2月17日 9.10][同 9.40][同 9.48][文言追加 9.58]

16日二度目の記事です。「感想」が冷え込まないうちに・・・・。


今回の実験は、昨年に行なわれた実験(下註参照)の続きだそうです。

   註 「木造建築と地震・・・・驚きの《実物》実験」

文章は(あるいは言葉づかいは)、自ずと、その文章の書き手の「思考の構造」を表してしまうものです。
上掲の文章は、今回の実験の趣旨、目的について書かれたもので、今朝の(深夜の)記事でも掲載しました。ただ、今回は、私の「気になった」箇所に傍線をふってあります。

この文章は、主に、報道関係者へのプレスリリースを目的としているものと思われますが、報道と言うのは、広く一般に公開されるのがあたりまえですから、より正確な物言い、言葉づかいが必要になるものだ、と私は思います。
どうせ一般は専門的なことは分らないのだから、「適当に」説明すればいいや、などというのはもってのほか、むしろ一般向けにこそ、丁寧で間違いのない説明が求められるのではないでしょうか。

おまけに、これは、「科学的な実験」なのですから、なおさら、実験の趣旨も文章も正確でなければならない、と私は思います。
そこで、私が疑問に感じた箇所に傍線をひいたわけです。
文章の順序とは関係なく、「気になる箇所」を見て行きます。

一番気になるのは、「研究概要」中の「垂れ壁と柱から構成される『架構』面を対象として」という箇所です。註書きに、「架構」とは「柱、はり及び壁などから構成され、建物を支持する構造体」とあります。
そして、「実験の目的」には、その「対象」が「伝統的木造建築物の耐震要素となる垂れ壁と柱からなる構面」と言い直されています。

実は、ここに最大の「思考上の問題」があります。
それは、実験担当者の頭の中に、「伝統的木造建築」も、現行の「在来工法:法令の推奨する軸組工法」と同じく、「耐震要素となる部分」と「耐震要素にならない部分」とから成っている、という「思い込み:先入観」があることです。

これは決定的に誤りです。
わが国の工人たちが行き着いた建物の架構のつくりかたは、「架構体」全体で外力に対応する(「対抗する」ではありません)という考え方です。
部分の足し算では考えるようなことはしていません。
もちろん、強いところと弱いところをわざわざつくることは決してしていません。

これは、工人たちが「現場」で行き着いた結論と言ってよいでしょう。
実際に現場で建物をつくっていれば、むしろ、そのような結論になるのが当然なのです。
そしてまたそれは、詳しく日本の建築の歴史:技術史を見れば、誰にでも(専門家でなくても)、自ずと分る、理解できる「事実」です。

   註 「・・・の技術」シリーズで、ここしばらく「浄土寺浄土堂」
      そして「古井家」などの架構法を見てきて、あらためて私は
      わが国の工人たちの考えた架構法は「一体化立体化」である、
      という考え方に確信を持つようになりました。   

残念ながら、この実験者は、この「事実」を無視しているのです。
そうでありながら、この実験者は、「伝統的木造建築物の耐震要素となる垂れ壁と柱からなる構面」の「性能評価」をするのだと言っておきながら、実験にかける「試験体」を見ると、「構面」を組み合わせた「箱:立体」を「試験体」としています。
しかも、直交する面は、構造用合板による「伝統的木造住宅」にはあり得ない頑強な「箱」です。[文言追加 2月17日 9.58]
これでは、「構面」の実験ではなく、「構体」の実験です。
「構面」の性能評価をするのならば、このような立体をつくっては実験の趣旨・目的に反します。
実験の趣旨に従うのであれば、1枚の「構面」だけを実験しなければ趣旨・目的に反します。「科学」の常道をはずれています。

   註 物理学ならば、「構面」のデータの取得と「宣言」したならば、
      なんとかして 「構面」を自立させ、実験するでしょう。
      そして、そもそも物理学ならば、「架構体」を「在来工法」的
      に分解して扱わないでしょう。
      つまり、ありのままに「架構体」の挙動を観ようとするでしょう。
                      [註記追加 2月17日 9.48]

では、彼はなぜ試験体を「構面」ではなく「箱」:「構体」にしたのでしょうか。
それは、彼が、「構面」だけでは自立できないことを知っていたからです。そこで「常識」が働いたのです。建物の「架構」とは「立体」である、という「常識」です。
この実験で、実験者のいうところの「構面」に生じる諸現象のデータは、実験にかけられた「箱」:「構体」を構成する「一構面」に生じたデータなのであって、純粋「構面」のデータではない、ということに気が付かなければなりません。
はたして実験者は気付いているのでしょうか。

   註 「概要」文中に言う「木造住宅の一部を取り出し
      簡略化した架構面からなる試験体のため、
      1方向の加震実験により評価に必要なデータを
      取得することが可能・・」の文言に、
      この「実験」が「データのための実験」であって、
      「伝統的木造住宅そのものの挙動を知る実験」ではない、
      ということが如実に表れています。
      これは、先に行なわれた「実物大実験」と同じです。
                   [註記追加 2月17日 9.10] 

      もしかして、「各構面の足し算が全体である」とでも、
      考えているのでなければ幸いです。
                   [追加 9.40] 

そして、もしも気付いているのならば、根底の考え方、すなわち「伝統的木造建築物」を「在来工法」的な観方で扱うことを改めなければなりません。      

そして、もしもこのことに気付いたならば、たかだか2年ほどの、誤った理解の下での実験で得られたデータをもって、耐震設計法の構築に資する、などと言うのも誤りであることに気付かなければなりません。

「在来工法」がはびこる以前のわが国の「建築架構技術」は、気の遠くなるほど長い年月の「現場」の実験で鍛え上げられてきた技術です。
それを、たかだか数年の「実験」結果だけで指針を与え指導する、などというのがいかに非科学的な所作であるか、認識して欲しい、と思うのは私だけなのでしょうか。

   註 もしもこういう実験を基に、
      「伝統的木造住宅」に耐力壁を設ける、というような「指針」や、
      「差鴨居」上は小壁にせよ、というような「指針」を出すなどと
      いうことを「目的」としているならば、
      それはすでに、「伝統的木造住宅」を否定していることなのであり、
      「活用」どころか「伝統技術」を抹殺することに連なるのです。
                       [註記追加 2月17日 9.10]

ここまで書いてきて、私は、このブログを読んでいただいている方から聞いた「ある言葉」を思い出しました。
すなわち、

いわゆる「工学系」の学者・研究者は、「理系」ではなく「利系」である。

どういうことかと言うと、「理:すじみち」を究めることよりも、「利:功利に走る」から・・・。

そう言われて見ると、この実験も、そのように見えてきました。
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とり急ぎ・・・・また「伝統的木造住宅を構成する架構の震動台実験」

2009-02-16 01:56:48 | 構造の考え方

「シリーズ」の図版を工事中に、2月18日に標記のような実験がある、とのニュースを知りましたので、紹介します。

正式な実験の「標題」は、以下の通りです(上掲図版にあります)。

「伝統的木造住宅を構成する架構の震動台実験――伝統技術の活用のために――」

今回は、先ず、このブログを読まれている方が、この「実験」について、それぞれにお考えいただくのがよいと思いますので、私はここでは「論評」を控えます。

図版は、主催者である建築研究所、防災科学技術研究所のHP所載の「ニュース:プレスリリース」から、研究概要、実験の目的、今回の試験体の図面(別紙1)、試験体の写真(別紙3)のみを転載しました。
その他は実験主体、事前に実験した試験体図面(別紙2)、入力地震波、実験スケジュール、取材申込法などです。それらを知りたい方は、上記研究所のHPをご覧ください(「挨拶前文」以外、どちらの研究所HPでも同じです)。

次回に、この研究・実験についての、私なりの「感想」を書かせていただきます。
そのため、「シリーズ」の方は、少し先になってしまいますが、ご了承ください。
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「休工中」の楽しみ・・・・大工さんたちと話す

2009-02-15 08:11:49 | 建物づくり一般
昨日14日、茨城県北部の大工さん、工務店さんたちの集まりで、いろいろ話を聞いてきました。ゆえに、「シリーズ」の方は、休工。

県北部は、田園と山林に囲まれた気分のいいところ。おまけに昨日は昼過ぎの気温24度近い暖かさ。一昨年も今ぐらいの時期に訪ねたことがあるが、そのときはみぞれまじりの雨が降っていた。

なんでも、その一帯、今年から都市計画区域に指定され、確認申請が必要になるのだ、とのこと。それまで、いわば従来どおりのやりかたで仕事を進めてきたのが、できなくなる。
おまけに「瑕疵担保保険」まで課せられる。これも皆にとっては不愉快極まりないこと。
いわば終生付き合いを切ることのできない地域で仕事をする以上、保険の有無にかかわらず、そして5年だとか10年だとか期限を切ることもなく、これも終生、不具合が起きたら対応するのはあたりまえ。
そういう仕事をするのがあたりまえなところに、なんで保険が必要なのだ、というわけである。

簡単に言えば、法令をつくる人たちは、世の中すべてが人を欺く商売がはびこる都会地域であるかのような「考え」が念頭にあり、そういう世界とは無縁な地域にまで、一律に法令の網をかけようとする。
逆に言えば、互いに信頼しあい、安全で安泰な地域を、互いを不信の目でみる社会にしよう、とでもいうかのようだ。

100年住宅だとか200年住宅だとかいう「施策」もまた、この地域の大工さんたちにとってはバカラシイ限り。従来どおりの仕事をすれば、そんなのはあたりまえだ。しかし、建築基準法に従った仕事をしたら、木造建築の寿命が短くなるのは決まってるではないか、というのである。
まったくその通り。

そこで、従来どおりの仕事で、どうやって法令:確認申請をクリアするか、どうやって瑕疵担保保険のムダを省くことができるか、「知恵の出し合い」をしてきた。
具体的なことは、ここでは書かない。

いろいろ話し合った「結論」は、いまの法令をどうしても維持したいのなら、人を欺く商売がはびこる都会地域限定にするか、いっそのこと法令は「精神」だけを規定して、細かなことをさっぱり捨てるべきだ、ということになった。

どういうことかと言えば、人を欺く商売をせいいっぱいはびこらせればいい、そうすれば、そういう商売のはびこらない地域が浮びあがり、人を欺く商売のはびこる地域のバカラシサもまた浮び上るではないか、そして、どちらがいいか、住む人暮す人の選択にまかせればよいのだ・・・。

第一、そうすれば法令にかかわる役人の数が、確認申請検査も含め、不要になり、財政上も好ましいではないか・・・。
夢みたいな話だけど、そういうことを思っている人が、各地域にたくさんいるのである。
私は、そういう方たちと居るほうが楽しい。「健康」にいい・・・・。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-24・・・・継手・仕口(8):またまた「相欠き」

2009-02-09 14:55:05 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言追加 17.59][註記追加 18.40][文言追加 19.54]

間が空きましたが、「浄土寺浄土堂」の小屋組の基となる「梁」:「虹梁」をどのように納めているかについて紹介します。

上の写真や以前に紹介した断面図で分るように、「梁」は3段あります。「報告書」では、「側の柱」と「内陣の柱」を結んでいる一番下の「虹梁」を「大虹梁(だい こうりょう)」、二段目を「中虹梁」、三段目を「小虹梁」と呼んでいますので、ここでもその呼称を使います。

各「虹梁」の納め方はほぼ同じ方法の繰り返しと言えます。ここでは、基本となる「大虹梁」の納め方を紹介することにします。

上掲の図版は、写真と図が組になっています。
上の組が、「側の柱」への「大虹梁」の取付けを、「大虹梁」の「内陣の柱」への取付きを示したのが下の組です。

   註 写真、図とも「国宝 浄土寺浄土堂修理工事報告書」からの転載です。
      なお、図については、「報告書」の「図面編」と「本文編」の図を
      集成編集し、加筆してあります。
      写真は組立中の写真ですが、「大虹梁~内陣柱」の写真は、
      「大虹梁~側柱」に使った写真を、向きを図と同じにするため、
      反転して使っています。      [註記追加 18.40]
     

「側の柱」への「大虹梁」の取付けは次のような順番になります。
「柱」上に「頭貫」を落し込んだ後、「大斗」を据えます。
「頭貫」の納め方の際に説明しましたが、「頭貫」の上端は「柱頭」より一段高くなっています(古代の事例では、普通、「柱頭」と「頭貫」は上端は同一です)。そこへ「大斗」を落し込みます。
「大斗」は上の「分解図」で示してあるような形に加工されていて、「斗」の底部の縁が「頭貫」をまたぐような恰好で納まります。

以前にも触れましたが、古代の「斗」は、底部の「太枘(ダボ)」で脱落を防いでいますが、ここでは「太枘」の必要がありません。「頭貫」の「凹み」に落し込まれ、なおかつ「大斗」は「頭貫」の端部を押え込んだ形になり、脱落はもちろん移動もできなくなるからです。

「大斗」が据えられると、そこへ「大虹梁」の尻(「下小根」にしぼられています)を「大斗」に載せ掛けます。
ただその段階では、梁の長手方向に動くことができ、固定されていません。
そこへ直交する「秤(はかり)肘木」を落し込みます。その部分の「仕口」は「相欠き」で、「大虹梁」の尻は「下木」、「秤肘木」は「上木」に加工されていて、落し込むと「大虹梁」の「下小根」部分と上端はそろいます。

「秤肘木」が「大斗」に刻まれた「凹み」に納まるように「大斗」の位置を調整し(ということは、、「大虹梁」の尻を動かし、「柱頭」の位置を微調整することですが)、「秤肘木」が「大斗」に納まると、「大虹梁」も所定の位置に納まったことになるわけです。

先の「大斗」の固定法と同じように、ここでも、「秤肘木」を落し込むだけで、他に何の細工もせずに、「大虹梁」と「側の柱」は、「大斗」「秤肘木」を介して、所定の位置に確実に固定されてしまいます。

つまり、「秤肘木」は、「巻斗(まきと)」「実(さね)肘木」を経由して「母屋」を支える役割を担うと同時に、「大虹梁」を固定する役割をも担っていることになります。一人で二役ということです。

しかし、先に、「大虹梁」と「側の柱」を固定するわけにはゆきません。
それを先に納めたのでは、「内陣の柱」へ「大虹梁」を取付けることができなくなるからです。
「梁」を架ける前に、「内陣の柱」は既に立っています。「大虹梁」をはじめ、各段の「虹梁」は、「内陣の柱」の側面に挿し込む形になります。
それゆえ、「大虹梁」の取付けは、「内陣の柱」側から仕事を始めることになります。
「内陣の柱」には、同じレベルで3本の「大虹梁」が取付きます。「側」へ向う直交する2本の「大虹梁」と、「隅の柱」へ向う「大虹梁」の3本です。

この3本の「大虹梁」の納め方を図解したのが、下段の写真と図です。
「大虹梁」はいずれも端部を「下小根」にしぼってあります。「小根」の部分の断面の大きさは8寸×4.8寸。ただ、「下小根」の根元部分は、8寸×6.5寸と少し太くしています。「胴付」と見なしてよいでしょう。この太い部分で重さを受けると考えているものと思われます。

直交する2本は、直交させるために、さらにその「下小根」部分を「下木」「上木」にして「相欠き」で交叉させます。
普通、「相欠き」では、「上」「下」同寸、つまり、交叉部を2等分しますが、ここでは「下木」側は欠き込みが3.5寸、残りが4.5寸、「上木」側はその逆で欠き込み4.5寸、残りは3.5寸です。
そして、「上木」側の端部では、図のように、先端の部分:「木鼻(きばな)」と言います:を別誂えにしてあります。
これはなぜか、なぜ2等分の「相欠き」にしなかったのか。なぜ「木鼻」を別誂えにするのか。

これは、隅柱に向う「大虹梁」の取付けのためだ、と考えられます。
「隅行の大虹梁」は、図のように、「胴付」の先は、きわめて薄く厚さ3寸になります。この上に「側へ向う大虹梁」が載る形になるからです。
したがって、「側へ向う大虹梁」のうち、「下木」側の「小根」の部分には、下部に「隅行の大虹梁」の先端部をまたぐ欠き込みが必要になります(斜め45度の欠き込みです)。その欠き込みの深さ寸法は2.5寸(詳細図参照)。
この欠き込みを設けると、等分の「相欠き」だと残りが1.5寸になってしまうため(欠き込みは斜め45度ですから、正確に言うと、全面が1.5寸厚になるわけではありません。1.5寸になる部分が生じる、ということです)、「下木」側の欠き込みを0.5寸だけ小さくして3.5寸にした(残り部分は4.5寸)と考えられます。[文言追加 17.59]

そうなると「上木」側の「小根」の先端の厚さが心細い寸法になる。
それが、先端:「木鼻」を別誂えにした理由と考えられるのです。
よく見ると、別誂えの「木鼻」と「上木」側の本体も、「鉤型付相欠き」で継がれるようになっています。

整理すると、手順として、「隅行大虹梁」を柱に挿し、次に「下木」側の「平行大虹梁」を「隅行」の上に載せ掛けながら挿し、その上に載せ掛けながら「上木」側の「平行大虹梁」を挿し、その次に「木鼻」を挿す。
そして最後に「埋木(楔)」を「平行大虹梁」、「木鼻」上に打込むと、ガタガタだった3本の「大虹梁」は「内陣柱」に固定されるのです。「埋木(楔)」がきわめて重要な役割を担っていることになります。

ただし、この「埋木(楔)」の打込みは、それぞれの「大虹梁」の「側の柱」への固定が終ってからです。

後世になると、「木鼻」を単に形を整える「化粧」のために取付ける例が増えてきますが、この「木鼻」は、そうではありません。「木鼻」を挿し、「埋木(楔)」を打ってはじめて「大虹梁」が柱に固定されるようになっているからです。「木鼻」もまた大事な役割を担っていることになります。

結局のところ、「浄土寺浄土堂」は、「仕口」は「相欠き」、「継手」は「鉤型付相欠き」だけで組み上がっていることになります。
そして、どの部材も、役割を持っていて、遊んでいる材は一つもない、と言ってよいでしょう。[文言追加 19.54]

しかし、これには「綿密にして緻密な計算」がなければ行ない得ません。それには、当然ながら、どのような順番で仕事をするか、についての「計算」も含まれています。
この目配り・気配りには、そして一から十まで見通す洞察力には、ただただ感嘆するのみです。
どう考えても、突然こういう仕事はできない、かなり手慣れていたのではないか、と思うのはそのためです。

振り返ってみて、こういう無駄のない、真の意味で合理的な設計(当然、施工までを含めての「設計」です)をしてきただろうか、と思わざるを得ません。

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工事中のお知らせ

2009-02-06 19:22:31 | その他

ただいま、次回の図版の作成工事中です。
時間がかかりそうです。
開通までしばらくお待ちください。

近くの神社裏にある梅が、今年はもう咲き出しました。
コメント (2)
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日本の建物づくりを支えてきた技術-23の付録・・・・古井家の「貫」から「貫工法」を考える

2009-02-03 08:00:00 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言追加 8.30][註記追加 12.25][文言追加 2月4日 9.41、9.56][文言訂正 2月6日 11.02]

先に(1月29日)、「浄土寺浄土堂」の架構は、「貫工法」と言うよりも「差物工法」と言った方が分りやすい、との旨書きました。
その理由をもう少し詳しく言えば、いま一般に、「貫工法」というと「貫+何らかの壁」というように理解されがちなのに対して、「差物工法」と言えば、壁の有無に関係なく「差物」をいわば主役として考えられるからです。

1月29日の記事(下註)では、16世紀末:室町時代末の建設と考えられている兵庫県の「古井家」の架構でも、「浄土寺浄土堂」と同じように、壁塗りなしで「太目の貫」「飛貫」だけで架構を固めていることを紹介しました(外周にはいわゆる「貫+壁」のところが多少あります)。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-23」

そこで、簡単に「古井家」の架構を、上掲の写真と平面図・断面図で、「太目の貫」「飛貫」に焦点をあてて紹介します。
写真、図とも「重要文化財古井家住宅修理工事報告書」から転載、編集加筆しています。

平面図の灰色を掛けてある部分は「下屋」にあたる部分です。
断面図で色を付けてある部材が「貫」「飛貫」です。それ以外の「貫」には色を付けてありません(床面の位置には、「足固貫」があり、外周の壁に「貫+壁」のところがあります)。

写真①は、「にわ」(土間)から居室部:「おもて」「ちゃのま」:側を見たところ。
写真②は、同じく「にわ」から「ちゃのま」を見ています。

「にわ」と「ちゃのま」の間は隔てがなく常時つながっていますが、「おもて」へは板戸1枚があるだけの板壁で仕切られています。ただ、鴨居から上は抜けています。なお、鴨居は「貫」の下に別途に設けられています。

写真③は、「ちゃのま」から「にわ」を望んだもの。

柱寸法は、「上屋の柱」(「おもて」や「にわ」の室内に表れている柱)が平均して約16.5cm(5.5寸)角、「下屋の柱」(建物外周壁の柱)は約12.7cm(4.2寸)角。太さには1本ごとかなりの差があります。

「上屋」の「梁」や「桁」は、ほとんど「柱」と同寸程度の材が使われています。
このような細身の材で屋根が組めるのが「又首(扠首)組:さすぐみ」の利点・特徴です(原初的なトラス組にほかなりません)。
なお、「又首(扠首)組」の中央に「束」(「真束」のように見える)がありますが、桁行断面図で分るように、これは「又首」通りに入っているのではなく(つまり「真束」ではなく)、「棟木」を支えているだけです。[文言追加 8.30、再追加 2月4日 9.41]

「柱」材はクリ。「梁」「桁」材は主にスギ、一部ツガ、ヒノキです。

「貫」は、平均して11.6×5.3cm(約3.8寸×1.8寸)程度。
幅は平均柱径の約1/3にあたります。かなり太目の材です。材料はスギ。
直交する場合は、写真のように、段差を付けて、同レベルでの交叉を避けています。
この材に「胴張り」を付ければ(あるいは「胴付き」を設ければ):たとえば本体を11.6cm角にして端部を柱に差すように刻めば:「差物」になります。

そして実際、「にわ」~「ちゃのま」境の「内法貫」は11cm×7.4cm(3.6寸×2.4寸)ほどあり、この「貫」は、写真②の右手の「上屋の柱」を貫いて「下屋の柱」まで通っています(写真に3.6寸×2.3寸とありますが、誤記です)。

上屋柱は、ここでは14.8cm(約4.9寸)角、下屋の柱(外周の柱)は15.8cm(約5.2寸)角です。
その方法は、上屋の柱の左(内側)で「貫」の片面を2.4cm(0.8寸)ほど削り取って幅を5cmほどにしぼり(つまり、材の片側に2.4cm(0.8寸)の「胴付」を設けたことになります)柱を貫き、下屋の柱へ繋いでいます。「差物」にかなり近い寸法・仕様です。

下屋の柱の「貫穴」は、「貫」の全寸法(11cm×5cm)があけられていますが、「貫」は、その高さの下半分5.5cmだけが貫通しています(「下小根」)。したがって、上半分には「埋木:楔」が打込まれます。これはまったく「浄土寺浄土堂」の方法と同じです。

これと同じ仕様の梁行方向の「貫」(「内法貫」)は、この部分のほかに、平面図でいうと、「うまや」と「にわ」の境の通り、「ちゃのま」と「なんど」境のとおり、の計3箇所に入っていて(桁行断面図〇印[文言追加 8.30])、これと、桁行棟通り:「おもて」と「ちゃのま」「なんど」の境の通り:に設けられた「内法貫」および「にわ」部分の「飛貫」(「内法貫」の上に設けてあります:写真、桁行断面図参照)とが、この建物の架構の重要な役を担っているのです。
ただ、各貫の材寸は報告書にはありませんが、多分、先ほどと同程度の寸法かと思います。

「継手」は、現在も普通に使われる方法:柱内で「略鎌」で継がれています。「楔」は「楔型」:三角形をした材を、柱ニ方から打っています。
下註の「石川県、那谷寺書院・庫裏の小屋貫の継手」に同様の方法がありますので参照ください。

   註 「報告書」が継手について触れていないと書きましたが、
      それは、私の見過し。
      修理工事の仕様に、「柱内で略鎌」と明記してありました。
      上記のように文言を訂正します。[文言訂正 2月6日 11.02]

   註 「日本の建物づくり・・技術-19の補足・・・・通称『略鎌』」参照

かつては当たり前であった「小舞土塗壁」は、「貫」の上に小舞を掻き、土を塗るものでしたが、戦後の「建築基準法」は、この仕様は耐震性がないとして、いわば禁止に近い状態に追いやってきました。
ところが、最近の「建築基準法」の変更で、「小舞土塗壁」も「耐力壁」として認められるようになりました。

   註 何と半世紀以上も、認められていなかったのです!
      その結果、左官業は衰退してしまいました。
      それはすなわち、日本の文化の衰退でもありました。
      法令変更に際して、それへの「責任」と「謝罪」は
      まったくありません。[2月4日9.56 追加]
     
     
けれども、ここで留意しなければならないのは、この「変更」で認められているのは、あくまでも「貫+小舞土塗壁」である、ということです。

つまり、「土塗壁」のない「貫」だけでは、あいかわらず耐力は認められていないのです。

   註 1990年に「貫」に面材を張った壁を真壁仕様の「耐力壁」に認定。
      2003年に「貫」+「小舞土塗壁」を真壁仕様の「耐力壁」に認定。
      なお、この場合の「貫」は、90mm×15mm以上と規定。
      ゆえに一般には15mmが使われている。[註記追加 12.25]

しかし、昔の工人たちは、「貫」工法そのものの効能を知っていて、その上に塗る「小舞土塗壁」は、彼らにとっては「プラスα」にすぎなかった、と考えてよいように思えます。
それを如実に示しているのが、「浄土寺浄土堂」であり、「古井家」の架構法なのではないでしょうか。

つまり、「貫工法は、その上に面材を張ったり、小舞土塗壁を塗ったりしてはじめて効力が得られる」という考え方から脱しないと、「貫工法」を理解したことにはならない、と言ってよいでしょう。

簡単に言えば、「貫」だけで、かならずしも「壁」をともなわない「東大寺南大門」や、清水寺の舞台:いわゆる「懸崖造」をこそ「貫工法」の典型と考える、ということです。

   註 「斜面に建てる・・・・懸崖造」

いわゆる「差物工法」は、その「典型」が発展し「編曲」された方法である、と見なすことができるのです。
それゆえ、その工法でできた軸組の隙間に充填される壁は、それがどのような仕様であれ、「プラスα」なのです。

そして、「プラスα」だからこそ、かつての工法による日本の建物は、壁をはずして開口にする、などという改造・改修が行えたのです(現在の「耐力壁に依存する在来工法」や「2×4工法」では、改造・改修はほとんど不可能です)。
コメント (3)
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