古墳群のある村:玉里村・・・・補足・地名小考

2008-03-30 17:32:09 | 居住環境
玉里村の「たまり」という名は、古墳群があることでも分るように、古代以来の名:呼び方のようだ。
「茨城県の地名」(平凡社)の「玉里村」の項からそのあたりについての記述を以下に要約紹介する。

・・・・村名は「常陸国風土記」にある「田余」にちなむ。村の大部分は、石岡台地東端の舌状台地上にあるが、園部川河口に霞ヶ浦に面した肥沃な水田地帯をもっている。・・・・明治22年(1899年)の町村制施行により田余村、玉川村が成立し、昭和30年(1955年)田余・玉川両村が合併して玉里村となる。

  註 田余村:上玉里、高崎、田木谷(たぎや)、
          栗又四箇(くりまたしか)の四村の合併
    玉川村:下玉里、川中古(かわなかご)の二村の合併
    これら旧村名は、字として残っている。

「和名抄(わみょうしょう、倭名抄とも書く)」では、上玉里、下玉里は「田余郷」の本郷の地であると記されている。

  註 和名抄:「倭名類聚鈔」の略称:承平年間(931~938年)に
     編まれた日本最古の分類体の漢和辞書

「常陸国風土記」には、「たまり」の由来について、次のようにあるという。
・・・郡の東十里に桑原の岳あり。昔、倭武の天皇、岳の上に停留まりたまひて、御膳を進奉りし時、水部をして新に清井を掘らしめしに、出泉浄く香しく、飲み喫ふに尤(いと)好かりしかば、勅したまひしく、「能く渟れる(たまれる)水かな」とのりたまひき。是によりて、里の名を、今、田余と謂ふ。・・・

これは、もしかしたら、「たまり」という呼び名が先にあって、それに漢字があてられたのかも知れず、あるいはまた、字の如く、余るほど広い田が広がっていた:たあまり:ことの謂かもしれない。

土浦の東部、霞ヶ浦に沿って「木田余」という字名の一帯がある。玉里の田余と似たような地形の地である。
「木田余」は「きだまり」と読む。これも玉里の名と関係があるのか、調べてみたが分らない。
ただ「木田余」は、永禄7年(1564年)の文書には「きなまり」と書かれていて「木滑」という字があてられているという。

私の住む字は「男神」。「おがみ」と読むが、近くに「女神」とでもいう地があるかというと、ない。正保・元禄以前は「小神」と書いていたのだという。
「おがみ」という呼び名が先にあって、それに漢字が適宜あてられたのかもしれない。

平成の市町村合併で、古来の名のいくつかが、字名からさえも消えてしまった。ことによるとそれは、土地土地の歴史の喪失に連なるのではないだろうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古墳群のある村:玉里村

2008-03-28 11:56:18 | 居住環境

[文言変更:3月29日 9.05]

昨年の暮に、東関東の古墳の話の続きで、石岡郊外の舟塚山古墳、かすみがうら市の富士見塚古墳の航空写真を載せた(12月25日)。
霞ヶ浦は、半島状の出島(現在のかすみがうら市)をはさんで、西の「土浦
入り」、東の「高浜入り」とに分かれるが、「高浜入り」の東側へは訪れたことがなかった。
そこは、石岡から南東へ行った一帯で、舟塚山のある台地の続き。つい最近までは玉里(たまり)村(現在は、小美玉:おみたま:市:小川町、美野里町、玉里村の頭一字をつなげた名前!)、さらに南へ行けば玉造(たまつくり)町(現在の行方市:なめがた:)である。
上掲の地図は、茨城県教育委員会編「茨城県遺跡地図」(1/50000)からの転載。昭和55年(1980年)の刊行だから、道路など大分現在とは異なり、たとえば「霞ヶ浦大橋」はまだない。

春めいた一日、旧玉里村を初めて訪れた。
驚いたのは、私の住む出島とさほど離れてはいないのに、きわめて暖かいこと。水仙が満開だった。樹林も多く、出島よりも照葉樹が目立つ。あたかも房総の雰囲気。
霞ヶ浦の縁をつくる台地には、小さな谷が数多くあり、どうやらそこが古代の居住地であったらしい。
全面に海、背後に山:森、そして泉(井戸)が各所で湧いている。土壌も肥えている。しかも暖かい。これだけ条件がそろえば、暮すには絶好の場所だったろう。
しかし、地図にある古墳群は、どれも現在の地形に埋没していて、すぐには判別がつかない。神社がまつられていたりすることから判断するしかない。じっくりと歩いてみないと分らないようだ。

湖畔からやや急な谷筋道を上がったところが急に開け、茅葺の屋根が見えた。そこはかつて小学校だったらしく、煉瓦造りの門だけが残っていて、敷地は公園になり、そこに村内にあった古い農家が移築されていたのである。玉里村の「文化財」として保存管理されている。それが上の写真。
この建物の特徴は、南から西へ続く「かねおり」の縁。そして、縁との境の建具は蔀戸。縁の外観に一部写っている。写真下段が、その内観。
久しぶりに気分が和んだ。一つには、民家園の建物とは違って、そこの土間に近在の人が座り込んで話に花を咲かせていたこと、板の間の囲炉裏では薪がはじけて燃えていたこと。つまり、家の中に「人の日常」の気配が感じられたのだ。

しかし、残念ながら、あたりの住まいには、この系譜の建物が少なくなり、きわめて閉じた感じのする建物が増えていた。このような温暖な場所で、なぜエアコンに依存し、《省エネ》に意を尽くすのか、まったく分らない。そして残念ながら、そうなる原因の元には、建築関係者の《思想・発想》がある、としか思えない。
いったい、現在建てられる住まいで、後世になって、「これは保存しておきたい」、と思わずにはいられなくなるような事例は、はたしてあるのだろうか?

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「手描きの時代」育ち-9・・・・前川國男建築事務所の図面(4)

2008-03-26 00:21:48 | 設計法

この建物は、タイル打ち込みコンクリート工法の、いわば完成形。
コンクリート打ち放しの外面劣化対策として考案された方法。すでに「埼玉県立博物館」でも使われているが、ここでは、いわばさらに進化している。

なお、つくばにある「洞峰公園体育館」(大高正人設計)の妻面に高い煉瓦壁があるが、ここでは、煉瓦積みで外殻をつくり(一度に3m、一層分)、それを形枠がわりに直接コンクリートを打設した、という話を、その煉瓦工事にかかわった方から聞いたことがある。つまり、タイル打ち込み方式のタイル外側の合板形枠を用いない方法。
ただ、煉瓦積が1枚であったか半枚であったかは覚えていない。多分1枚だったと思う。近くを通ったときに確認してみたい。

私の経験では、540mm角、高さ2mほど門柱で、煉瓦1枚積みの外殻だけで、完全に硬化はしていなかったが、コンクリートを打つことができた。
セメントモルタル目地の1枚積みで、目地が硬化した後なら(つまり、煉瓦壁が自立したならば)、ある程度の高さまでは十分に打設できるように思える。

平面図(部分)の原図は、縮尺1/100、矩計図(部分)は1/20ではなかろうか。また、タイル割立面図も1/20のように思われる。

どの図面も、きわめて丁寧で、ごまかしがなく、見やすい図面。このような図は、最近の設計図では見たことがない。CADで、どこまでこの図に迫れるのだろうか。


なお、打ち込みタイルの詳細図(ただし、印刷用のトレース図面)も同書に掲載されているが、今回は紹介省略。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うれしい話・・・・喜多方・登り窯の再稼動

2008-03-23 18:31:09 | 煉瓦造建築

会津・喜多方の登り窯に火が入るかもしれない。
ここ四半世紀、ほとんど火が入れられず、窯の傷みも激しくなる一方だったのだ。

数日前、喜多方市役所の方からの連絡。
昨年秋、経済産業省の「産業遺産」選定事業で、「建造物の近代化に貢献した赤煉瓦生産などの歩みを物語る近代化産業遺跡群」の一つに喜多方の煉瓦造やそれを生産した登り窯が選ばれ、喜多方市としても、何とかして登り窯を再稼動させようと動き出した、とのこと。

2006年の12月16日、19日、22日に、会津・喜多方の煉瓦造について触れた。
喜多方の「登り窯」、それは、もとは瓦を焼くためにつくられた窯だった。
鉄道敷設工事(現在の磐越西線の敷設)にともない煉瓦も焼くようになり、そこでつくられる煉瓦が建物に使われだし、それが、今でも喜多方に残る多数の「煉瓦蔵」を生み出したのである。1960年代(昭和30年代)でも、喜多方周辺の地域ではまだ「煉瓦蔵」はつくられていた。
なお、このあたりの経緯や「煉瓦蔵」の特性については、前掲記事で簡単に触れている。詳しくは下記図書で。

しかし、この登り窯は、1960年代(昭和30年代)、各地に大規模生産の瓦焼成工場がつくられ、運輸革命:トラック輸送の普及によって、それらの製品がこの地域にも流入し、その結果、生産をやめざるを得なくなった。
しかし、登り窯は火入れをしないと傷んでしまう。そのため、採算度外視でときおり火を入れてきた。
上の写真は、いまから24年前、1984年(昭和59年)の保全用の火入れのときのもの、まるで海原を行く船の如き姿であった。

焼成のため、数日間火は燃え続ける。燃料は主に薪(重油バーナーも併用)。温度は1000度を超える。
一度の火入れで、煉瓦にして約1万本が焼成される。

焼成時間は約40時間。つまり2日弱。その間、作業は夜を徹して続けられる。
火を止めて2日後、窯が冷えて、製品を取出す。
1万本の素地を窯のなかに積み込む作業にも数日を要するから、焼成のサイクルは、最低1週間ということになる。
その一方で、窯に入れる素地の成型も並行して行わなければならない。
なお、登り窯での製造過程・工程の詳細については、あらためて紹介する。

この窯では、明治43年には、年間煉瓦5万本、瓦5万枚が生産されていたという記録があり、大正期には、その数倍が生産されていたようだ(福島県統計資料)。ということは、最盛期には、月に1回以上稼動していたのである。


さて、今回再稼動させるとなると、問題がいくつもある。
一つは、素地つくりにも焼成にも人手がいるということ。人手さえあれば、まだ、かつて焼成にかかわったことのある方々が、幸い健在、その方々に指導をお願いできる。

そして、もう一つは、窯の稼動によって生まれる約1万本の煉瓦を使う場面を確保すること。
煉瓦1枚積み(壁厚210mm)で、壁面1坪をつくるには約430本の煉瓦を使う。約130本/㎡である。1万本は、約23坪=約77㎡分。
半枚積みなら、約46坪:154㎡分。
平に張るならば132枚/坪:約43枚/㎡だから、1万本は約75坪:約230㎡分。

つまり、1回の焼成で生産される1万本をさばくには、これだけの需要が必要。
逆に、必要数がこの数字をはるかに越える大口の場合、たとえば1枚積みで50坪となると21500本の煉瓦が必要になるから、最低2回以上の火入れが必要。ということは、一定程度の在庫を用意しておかないと、即時出庫というわけにはゆかない。
このあたりをどう調整したらよいかが問題。

次に、喜多方の煉瓦は、写真のような色合いをしている。これは、焼成前の素地:日乾し煉瓦に釉薬をかけるからである。これは、凍害防止のための処置。釉薬は当初は灰汁だったが、後には益子焼の釉薬を使っている。
釉薬は、写真のように、見えがかりになる部分に施される。もちろん、釉薬なしの煉瓦もつくれる。
いずれにしろ、大量生産工場の焼成品とは異なり、整形ではなく、独特の風合いがある(今風に言えば、「てづくりれんが」)。ただし、焼成温度が高いから、昨今の輸入煉瓦に比べ、質は数等良い。しかし、「てづくり」ゆえに、当然、価格は高くなるだろう(さらに、登り窯から遠い地域の場合は、運賃も余計かかる)。

喜多方市役所では、担当課の商工課を核に、建設課も動き、そのあたりを模索中のようである。
何ができるか分らないが、私も、よろこんで協力させていただこうと考えている。

こういう煉瓦を、上記のような生産量、条件の下で使いたい、使える、という方がおられるならば、登り窯の火入れ:再稼動は順調に再開されるはずである。
いろいろな面で、登り窯再稼動に協力できる方々が、大勢おられることを願わずにはいられない。

写真、図は下記書籍より
『会津喜多方の煉瓦蔵発掘』(普請帳研究会 刊)
『喜多方の煉瓦蔵』(喜多方煉瓦蔵保存会 刊)
『住宅建築 1989年11月号:特集 煉瓦造建築』(建築資料研究社 刊)
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「手描きの時代」育ち-8・・・・前川國男建築事務所の図面(3)

2008-03-20 12:49:36 | 設計法

[字句追加 16.38]

「東京文化会館」の写真と図面である。
「東京文化会館」は、1961年:昭和36年の竣工。つまり、京都会館の翌年である。前川事務所では、質の高い(設計密度の濃い)建物を、続々と設計していたのである。
1960年代というのは、コスト的にはきわめて厳しい時代。
しかし、当時建てられた建物には、前川事務所の設計に限らず、現在のような金に飽かしたフヤケタ建物はなかったように思う。


竣工直前の現場を見学する機会があり、何といっても、あの大きな庇に驚いたものである。

写真は、『前川國男作品集』(美術出版社 刊)より。だから、1988~89年当時の姿である(ホール内部は渡辺義雄氏、外観は村井修氏の撮影)。

図の内の配置・各階平面図は、「建築文化」1961年6月号から。この図は、印刷用に製図されなおしたもの。

他の図は、『作品集』に載せられた図で、原図を撮影したもの。
おそらく、トレペ鉛筆描きで、竣工(功)図と思われる。
トレペを撮影するため、どうしても、ところどころに、線に揺らぎが出ている(たとえば、大庇の屋上スラブ)。

大ホールの平面図は、2頁にわたっているため、やむを得ず部分をスキャンしている。原図の縮尺は1/200か。

大庇、ホール観客席の矩計図の原図の縮尺は、おそらく1/20であろう。
この図も2頁にわたり、しかも片側は見開きになっているため、これも部分のスキャンである。[字句追加 16.38]

どの図も惚れ惚れとする図である。

   註 大庇の、上のスラブと下のスラブの間の空洞部分、
      形枠を埋め殺した、という話を、
      現場できいたような記憶がある。
      たしかに、下面に取り出し穴を開けるわけにはゆかず、
      かといって、上のスラブに穴を開けると、
      防水に亀裂がはいってしまうからだ。 


「建築文化」誌には、より多くの各部の詳細図面(たとえば、木製手摺など)が載っているが、それはいずれも印刷用にトレースしたもの。こんなに詳しい図面を描くんだ・・と、夢中になって誌面をみたものである。久しぶりに探し出してみたら、背中が大分傷んでいた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「手描きの時代」育ち-7・・・・前川國男建築事務所の図面(2)

2008-03-18 20:42:47 | 設計法

東京文化会館や埼玉会館、・・へと続く一連の事例の原点とでも言える建物。コンクリートの打ち放しと器質タイルという外観。まだタイル打ち込みではない。

1960年(昭和35年)の竣工だから、ほぼ半世紀前の設計。すっかり「貫禄」がついている。最近建つ建物は、半世紀後、「貫禄」がつくのだろうか。

写真、図面とも『前川國男作品集』からの転載。
この書物の上では、この建物の設計図は鮮明ではない。
矩計図は、2頁にわたっているため、部分だけ掲載。

当時学生だった私は、先ず雑誌でこの建物に接し、その後、京都の古建築を見るついでに訪れた記憶がある。
雑誌上の図面は、雑誌掲載のために描きなおされていて、現物の図面(のコピー)を見るのは、この作品集がはじめてであった。

ちょっと分りにくいと思うが、図面は非常に詳しく描かれている。特に、矩計図はそれが顕著で、ダテに「形」を描いているのではなく、どのようにしてつくりあげるか、十分に検討した上で図面が描かれているのである。
もっとも、この図面の「凄さ」が分ったのは、自ら図面を描き、現場に行くようになってからのことである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余談:美しい国・・・・民主主義とは?

2008-03-17 02:21:48 | その他

[文言追加:8.36]

「会いたい」という曲で有名な沢田知加子が、「美しい国」という戦後間もない頃に書かれた詩を歌っていた。
沢田は、すべての人が、この詩、その心を知って欲しい、と思いこれをうたうのだという。

私は、その詩を、いままで知らなかった。
それは、永瀬清子(1906~1995)という方の詩。沢田がうたったのは2005年とのこと。
たしかそのころ、某国の首相が《美しい国》を掲げていなかったか?しかし、沢田の惹かれた永瀬清子の詩のなかみは、某国の元首相のとなえた《美しい国》とは、まったく異なる。


     美しい国  永瀬清子     1948年(昭和23年)2月 作

はばかることなく思念(おもひ)を
私らは語ってよいのですって。
美しいものを美しいと
私らはほめてよいのですって。
失ったものへの悲しみを
心のままに涙ながしてよいのですって。

   敵とよぶものはなくなりました。
   醜(しう)というものも恩人でした。
   私らは語りましょう語りましょう手をとりあって
   そしてよい事で心をみたしましょう。

ああ長い長い凍えでした。
涙も外へは出ませんでした。
心をだんだん暖めましょう。
夕ぐれで星が一つづつみつかるやうに
感謝と云う言葉さへ
今やっとみつけました。

   私をすなおにするために
   貴方のやさしいほほえみが要り
   貴方のためには私のが、

ああ夜ふけて空がだんだんにぎやかになるやうに
瞳はしずかにかがやきあいましょう。
よい想いで空をみたしましょう。
心のうちにきらめく星空をもちましょう。


永瀬清子は、別のところで、次のように語っている。

「・・・民主主義というのは、自分の心を自分でちゃんと知ること、それが第一で、また、それをはっきり表現できることだと思うのです。
第二には相手の心がわかること。
第三に、共に協力し進歩していくこと。
この三つが揃ってはじめて本当の民主主義なのではないかと思います。・・・」


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

建築写真・・・・何を撮るのか

2008-03-15 11:23:11 | その他

先回、村井修 氏と渡辺義雄 氏という二人の建築写真家の名前を挙げた。
村井氏の写真は、前川國男建築事務所の設計図面とあわせ紹介できるので、ここで、渡辺 氏の傑作をほんの僅かだが紹介したい。
『奈良六大寺大観』(岩波書店 刊)の建築写真は、すべて渡辺 氏の撮影。
その「東大寺 一」から、南大門の写真2枚を選んだのが上掲の写真(以前にもモノクロの写真を紹介したことがあると思う)。

『奈良六大寺大観』の版面は、横30cm×縦36.5cmという大判。
正面の写真は、上下2枚にわけてスキャンして合成したので、質はかなり落ちる。
また、内部の架構の見上げは、見開き2頁にわたっているので、ここでは、やむを得ず、一部だけスキャンした。それゆえ、これも、原版の迫力に比べ、数等劣る。

『奈良六大寺大観』は、大きな図書館なら必ず所蔵されているので、是非本物をご覧いただきたい。

建物の実際の姿をあますところなく写真で伝えるのは至難の技。多くの場合、建「物」だけが撮られ、そこに存在する「空間」はなかなか写真からは読み取れないのが普通。とりわけ、最近の建築写真には、それが多いように思う。もっとも、建築自体が、建「物」づくりに精を出す世の中だから、やむをえないのかも知れない・・。

私が、両氏の写真を好むのは、実際の建築・空間を髣髴とさせるように撮られているからだ。
土門 拳という写真家がいる。山形県酒田市の生まれ。同市に記念館があり、多数の写真が展示、保存されている。
たとえば仏像を撮った土門 氏の写真は、実際の仏像を目の前にしたとき以上の感銘を受ける。というより、気付かなかった「実像」に気付かせてくれる、と言った方がよいかもしれない。
村井、渡辺両氏の建築写真は、それとは若干ちがうようにも思えるが、建物の「実像」をありのままに、うそ偽りなく伝えてくれることは共通している。

最近の建築写真には、いったいどうしたらこんな風に見えるのか、と思うような写真がある。なぜそういう視角で撮るのか?写真映りがよいからだ。しかし、実際そう見える視角に立つことは絶対にありえない・・。
それは、写真家の好みというより、設計者の《願望》の表れの場合が多いようだ。それが設計者の《設計のめだま》だからである。設計の眼目、意味が大きく変ってきているのではないだろうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「手描きの時代」育ち-6・・・・前川國男建築事務所の図面(1)

2008-03-14 19:01:23 | 設計法

そろそろ知る人も少なくなるのではないか、と心配したくなる前川國男建築事務所の設計事例とその図面をいくつか紹介したい。
私の学生時代、『建築』という雑誌があった。創刊5年間ぐらいは編集がしっかりとしていて、ときどき特集が組まれ、その中に「前川國男」特集があり、夢中で見たものだった。

前川國男 氏は、1986年没。ここに紹介するのは、1990年に刊行された『前川國男作品集』(前川國男作品集刊行会 企画、宮内嘉久 編集、美術出版社 刊)から転載させていただいた。

写真は、この作品集のために、村井修 氏が全国をまわり撮影されたもの。
村井修 氏は、渡辺義雄 氏とともに、当時最もすばらしい建築写真を撮る方であった。単なる映像ではなく、建物:空間が目の前に髣髴とわきあがってくるがごとき写真。最近の建築写真にはない迫力。
渡辺義雄 氏は「奈良六大寺大観」(岩波書店 刊)のすばらしい写真を担当されている。

上掲の前川國男・自邸は1941年の建設。
図は竣工図にあたるものと思われる。もちろん手描きである。
平面図は、縮小しないで、半分だけスキャンさせていただいている。

この建物は、元は東京・上大崎にあったが、現在は都立小金井公園内の、「江戸東京たてもの園」に移設、保存されている。上掲の写真は、移設前の姿。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「手描きの時代」育ち-5・・・・アアルトの設計図面 (4)

2008-03-12 08:47:06 | 設計法

[図版差替え:10.24]

上の図は、先に紹介の Saynatsalo Town Hall 、図書館部分の外壁開口部詳細図。
前掲書 ATELIER ALVAR AALTO からの転載。一部、文字書き込み。

ここは前面の道路から見れば2階。この外壁の煉瓦は、コンクリートの柱で支えられたスラブ上に積まれているものと考えられる。残念ながら、当該箇所の詳細断面は見つからないので、煉瓦壁下部:階下開口部上端との納まりが不明。階下のコンクリートの柱まわりの詳細は、P断面図の左側の図。

階上の図書館部分の重い煉瓦積壁面が、いわば宙に浮いている形になっていて、普通なら違和感を感じるものだが、不思議とそれはない。それに、もしこの部分が階下から煉瓦積だとすると、かえって重く見えてしまい、逆に違和感を感じるのではないだろうか。

図面は、木造の開口部の図面。縮尺は、書物上の縮尺。原図と同じかもしれない。L1、M1図の傍に、棒尺を書き込み追加した。

ガラスの押縁など、凝った形状をしている。この細工は手間がかかる。ガラスを押縁の「面」で押さえるのではなく、「角」で(つまり線で)押さえる工夫。面よりもガラスをしっかりと押さえられるのかもしれない。シーリング材を使っている気配はない。
銅板の水切など、日本のような吹き降りの雨だったら、簡単に水が侵入しそうな納まり。


このような図を見ると、この設計者は、何を考えてこういう形にするのか、推測する楽しみがある。彼は多分こんなことを考えていたのだ、と推定し、その目で全体を見わたして、その推定で間違いなさそうだ、と分ったときが楽しいのだ。

また、このくらいの縮尺の図は、描いていても楽しい。描きながら、たとえば、この場所の方立は、そこで起きるであろう事態に対して、どういう形状であるべきか、などといろいろ考えるからだ。単に見えがかりの「形」の格好よさを考えているのではない。

はじめてこの図を見たとき、断面のハッチングに驚いた覚えがある。ハッチングの線は、できるだけ等間隔にしなければならないと思い込んでいたからだ。あるいはそのように教えられていたのかもしれない。ところがこの図は、間隔不定のハッチング。しかも、その方が、なんとなくリアルではないか!また、コンクリートの表現もうまい。
それ以後、線の間隔など気にしなくなった。要は、「それらしく」見えるように描くことのようだ。

CADで図面を描くときには、どのような楽しみを味わえるのだろうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

怪談・・・・「あこぎな」話

2008-03-11 03:31:08 | 専門家のありよう
[註解追加:9.57]

先般、人から聞いた話。

山に囲まれたある県。山の辺の村々では、いわゆる「限界集落」化が、静かにしかし確実に進んでいるという。

そこに目をつけた自称《コンサルタント》が、これも自称《建築士・建築家》ともども、「限界集落に暮す人びと」を一箇所に移住させ、空き家となった家々を、田舎暮らしが願望の都会の人びとに貸し出す、あるいは売りに出す、という《提案》を行政に持ちかけた(あるいは、持ちかけている)と言う話。
村の人口が増え、限界集落ではなくなるではないか、という《限界集落再開発計画》案なのだそうだ。そして、なによりも、自分たちの《仕事》も増える!

ところが、そんなに簡単にコトは運ばない。なぜか。
「限界集落に暮す人びと」はモノではないからだ。
《コンサルタント》《建築士・建築家》は、そのことを忘れていたのだ。いやしかし、本人たちは「忘れている」のではない。彼らはそこに暮している人たちを「無視している」のだ。彼らは、金儲けの仕掛け話に目がくらんでいるにすぎない。

限界集落、それは第三者の呼び方。
そこで暮す人にとっては、まさにふるさと・故郷。長年にわたって「つくりだしてきた」場所。
そこを捨てて簡単に移住できると考えるのは、都会暮らしに慣れて、「土地」とは無関係に暮している流浪の民。
山の辺の民は、足元の土地を耕して暮しているのだ。
だから、そこを離れて移住しろなどというのは、とんでもないこと。自分はそこで一生を終えたい。それで、村から人がいなくなったとしても、それは自然の成り行きというもの。

限界集落になり、そして村が消失して、本当に困るのは誰だ?
農村が疲弊して、農家がなくなって、本当に困るのは誰だ?
そして、そんな状況にしてしまったのは、いったい誰だ?

そしてそれを金儲けのネタにしようという「あこぎな」人たち。

ひるがえって、地震にかこつけての「耐震診断」「耐震補強」の「奨め」も、考えてみれば「あこぎな」やり方ではあるまいか。
まして、1981年:昭和56年前の旧耐震基準の建物は、診断、補強が必要、などと人ごとのように言う行政の態度を「あこぎ」と言わずして何と言うべきか。

旧耐震基準なるものの策定にかかわった人びと(調べれば直ちに分るはず)、その《普及》につとめた行政関係の人びと、特に大元の国の行政機関の人びと(これらも分るはず)が、率先してその責任を負ってよいはずではないか。

国の《指導》に従っただけの民が、診断・補強に費用を出すのは不条理。まして税金で補助するなどもってのほか。

しかし、彼らはその不条理に気付かない。それどころか、震災の恐怖をあおって脅迫を加えている。こんな「あこぎな」話はないだろう。

それにしても、なんという専横な行政・政治の横行。江戸時代は民が圧政の下にあったと言われるが、それは明治政府のタメにする作り話が大半。
江戸時代、民はもっと大事にされていた。民がいなければ、幕府も成り立たないことを、重々承知していたからだ。
それにひきかえ、いまは民主的な装いの下、民は押しつぶされる。
そして、それによりかかり、悪乗りをして、金儲けをたくらむコンサルや建築士たち・・・。何という構図だ!

ところで、
4月1日(火)19.15~ 文京シビックホール小ホールで、
『改正建築基準法はいりません!』というシンポジウムが開かれるとのこと。
「建築ジャーナル」誌主催、参加費一般2000円。
  申込は FAX 03-3861-8205まで。
  問合せ先:03-3861-8104(中村さん)。

   註 「あこぎ」とは、元は地名だという(三重県の「阿漕の浦」)。

      「広辞苑」によると
      「逢ふことを阿漕の島に引く鯛のたびかさならば人も知りなむ」
      の歌から、
      ①たびかさなること
      ②転じて、際限なくむさぼること。また、あつかましいさま。

      「新明解国語辞典」では
      非常にずうずうしいやり方で、ぼろいもうけをねらう様子。
     

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「手描きの時代」育ち-4:補足・・・・設計図面 (3)の補足

2008-03-09 18:08:11 | 設計法

[字句追加:03月10日 8.00、9.56]

先に載せたアアルトの設計図のうち、C部、D部の図面が鮮明でなかったので、つくり直しました。キープランは省きます。

また、先回の図で、「A部断面」、「B部断面」の表記が逆になっていましたので訂正した図面に差替えました。

図中の縮尺は、ATELIER ALVAR AALTO 上の図版の縮尺。原図は原寸かも知れない。

C部断面の外壁面の表記  
 外側 ETERNIT:石綿版、内側 HOLZSCHALUNG:合板 [説明追加]

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「手描きの時代」育ち-4・・・・アアルトの設計図面 (3)

2008-03-09 12:25:10 | 設計法

[図面の断面表記間違いのため、図面を差替えました:03月10日 8.33]

ATELIER ALVAR AALTO所載の Saynatsalo Town Hall の屋根の詳細図。ここに載せるために、編集し、文字も追加してある。

屋根は葺き材が二段に分かれ、上部が亜鉛メッキ鋼板の瓦棒葺き、下段が銅板の平葺き。
ただ、回廊が回っているコの字型の部分の屋根(図のC部)と、図書館の屋根は仕様が変っている。前者は雨樋がまわっているが、後者にはない。

図書館では、上の図のように、上段の亜鉛鍍鉄板部分の先端に堰板がV字型に設けられ、そこに集められた水を排水する形をとっている。言ってみれば、瓦棒葺き部分の先端そのものが樋。下段の銅板葺きの部分の水は垂れ流し。
なぜ二つの方法をとっているのか、よくわからない。
コの字部分の排水は、多分、中庭の池に集められるのだろう。図書館から池までは距離があるので、図書館の屋根の水を引くのをきらったのかもしれない。

Town Hall(議場)へと登る階段部分の屋根がD部。ここは銅板平葺き。

「けらば」や「水切」「水返し」などは銅板だが、それは手作業による加工。
水をどうやって切るか、どうやって侵入を防ぐかについて十分に配慮のなされた、現在の機械加工ではできない細かな細工がなされている。
特にD部の欄間開口上部への気遣いはまさに心憎い。各所の凹凸の加工はダテではない。いかにして水を切るか、押さえるか・・・入念に考えられている。

手描きの時代では、こういう部分を描くには、その部分の備えなければならない要件を考えながら描かなければならないから、自ずと、実例や先達の図面などを調べざるを得ない局面に立たされる。そうやって、「詳細」「納め方」を覚えていったのである。なかでも一番参考になったのは、職人さんの仕事を直かに見ることであった。

なお、このような配慮・細工は、かつて、日本の板金でも普通に行われていて、それと形はほとんど変らない。

現在は、シーリング材にたよるからか、きわめて粗っぽいつくりが多い。また各種建材メーカーから既製品も売り出されているが、それらも機械加工ゆえに、細かな配慮はどうしても欠けるようだ。
第一、設計自体が粗くなっているような気がする。その一つの理由は、最初から、若いときから、CADまかせになっている、CADにたよってしまっているからではないか、と私は思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「手描きの時代」育ち-3・・・・アアルトの設計図面 (2)

2008-03-07 12:11:35 | 設計法

先回紹介したSaynatsalo Town Hallのスケッチ、コンペ図面など、アアルトの直筆図面を紹介する。

  図は“Alvar Aalto :Between Humanism and Materialism”から。

Saynatsaloは、フィンランドの中の島の一つ。第二次大戦後、その開発が行われた。この建物は、その一環の建設。
  
  なお、aの字には上にウムラウト:¨が付く。以下同じ。

最上段は、1947年作成のSaynatsaloのマスタープラン。トレーシングペーパーにインク、鉛筆、色鉛筆描き。
この建物の建設用地には、別の形の建物が描かれている。Alvar Aalto Foundation 所蔵。

次の図は、プリントコピーされた「敷地図(Site Plan)」(42×59.3cm)上での、鉛筆による建物の平面、立面の検討スケッチ。
次のモノクロの図は、トレーシングペーパー(24.3×77cm)上で、鉛筆による平面、立面の検討スケッチ。両図ともCollection Alvar Aalto Family。


横並び2枚ずつの図面計6枚は、コンペティション図面。
いずれもトレーシングペーパーに鉛筆と色鉛筆描き、紙の大きさは約48cm角。
City of Jyvaskyla/Saynatsalo Town Hall Archive の所蔵。

上段2枚は「議場レベル平面」、「東立面および断面」。
次の2枚は「1階平面」、「2階平面」。
下段は「西立面、断面」と「南立面、断面」。

これらの図の掲載されている前掲書“Alvar Aalto :Between Humanism and Materialism”は1998年の刊行。いまから10年ほど前。
それゆえ、私が最初に接した書物はこの書ではなく、先回紹介した1954年刊のATELIER ALVAR AALTO と、1963年に初版が出ている ALVAR AALTO 作品集(全3巻)である。「作品集」は写真が主体、ここに載せた図は載っていない(出版用に描き下ろしたと思われる図版が載っている)。もっとも、スケッチなどは、時折り海外の雑誌などで見ることがあった。
だから、私にとって衝撃的で、影響が深かったのは、ATELIER ALVAR AALTO に紹介されていた設計図面であった。

“Alvar Aalto :Between Humanism and Materialism”に接して驚いたのは、建物はもとより、設計図、スケッチが大事に保存されていることであった。ひるがえって、日本ではどうなのだろうか。

こういう図面を通して、「手描きのすばらしさ」をあらためて見直していただければ幸いである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「手描きの時代」育ち-2・・・・アアルトの設計図面(1)

2008-03-06 18:33:39 | 設計法

[副題:番号追加 03月07日 9.57]

上掲の写真と図は、アルバー・アアルト設計の「セイナッツァロの町役場(civic centre)」の外観と設計図の一部。1949年の設計競技で入賞。1952年に完成。

   写真は “ALVAR AALTO:Between Humanism and Materialism”
               The Museum of Modern Art,New York 刊
   図面は  Finnish Buildings
        “ATELIER ALVAR AALTO 1950-1951”
               Verlag fur Architektur 刊

ここでは、いわゆる一般図として、「周辺図」「平面図」「屋根伏図」を掲載。
実施用の烏口による墨入れの図面と考えられる(この頃には、ロットリングの類はなかったように思う)。
設計競技に提出された図面は別にあるので、これも別途紹介。

万博フィンランド館の「うねる壁面」の意味が分かるまで、しばしの時間がかかった、ということを以前書いた覚えがある(2006年11月12日)。
しかし、その意味が分ってからというもの、アアルトの設計する建物、そこに表われる建築や設計に対する考え方、そしてその設計図面の描き方に、すっかりはまりこんでしまった。アアルトにかかわる著作もできるだけ集めた。

彼の図面には余計なものが描かれない。そして、描かれる線は鋭利で(烏口だからではなく、鉛筆でも同じであることは06年11月12日紹介の図で分る)、しかし、そこから暖かな空間が髣髴と浮びあがる。そこには、彼が考えていることを示すのに必要なことのみが、要領よく描かれている。
逆に言えば、彼の考える空間を正確に示すために、図を描いているのである。考えてみればあたりまえのこと。

たとえば上の周辺との位置関係を示す図。これは、当の建物の設計が固まった段階の図で(つまり実施設計)、周辺との関係をいろいろ考えている最中の図:スケッチも残されている。
図に示されている斜めの道を役場へ向ってゆくとき、どのように場面が展開し、建物にどのようにたどりつくか、それを示すための図がこの図なのだ。図を見る側にも、それが見えてくる。
つまり、これは、通常図面につけるおざなりの配置図、周辺図、案内図ではない。アアルトは、「役場へ向う過程」をきわめて重視しているのである(これは後に紹介するスケッチによく表われている)。

平面図に於いても、煉瓦壁と他の壁:木造とをメリハリをつけて描くから、紙の上に空間が浮き上がる。

線の描き方の細部は、屋根伏図で分る。一気に引いたのびのびとした線が、全体を形づくる。屋根は瓦棒葺きと平葺き部分とに分かれているが(この部分の詳細も別途紹介)、手描きゆえに、瓦棒は機械的な均等の間隔では描かれず、棒の太さも一様ではない。これがかえって屋根面をリアルに浮びあがらせている。
注目したいのは、出隅部分。
線が僅かながら角からはみ出す。線が角の一点で交叉するのである。そうすると角がはっきりするのだ。線を角で止めてしまうと、角が丸まって見えてしまうのである。
製図の時間、角はそのように描け、と教えられてもいたが、出すぎてもよくないから、なかなかうまくゆかない。どこで筆を止めるか、が問題なのだ。

そんなこと、どうでもいいじゃないか、と言われるかもしれない。
しかしそうではない。空間の展開を二次元で表す上で、一点一画が重要なのである。少なくとも私はそう思う。そのようにメリハリをつけて描いた方が、意図が伝えやすい、伝わりやすい、逆に言うと、見る方も意図が分りやすいように思えるのだ。
そのためには何が重要であり、何を省いてよいか、分ることが求められる。しかし、これは容易なことではない。

1960年代、いまもあると思うが、フィンランドの月刊の建築雑誌に「ARK」というのがあった。そこに掲載される建物の図面は、大半が上掲の図と同様な描き方であった。建物にも、アアルトの影響が色濃く出ていた。これもいずれ紹介したい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする