日本の建物づくりを支えてきた技術-43・・・・まとめ・8:「法令遵守」

2009-06-22 15:50:54 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[註記追加 6月23日 9.13][註記追加 同 9.23][註記追加 同 9.40][註記追加 同 9.51][文言更改 同 16.25]


梅雨らしい雨に打たれながら、スカシユリが咲いています。


今の世では、「古来わが国の環境のなかで培われてきた技術」は、いかに優れていようが、現行法令ゆえに、実行することは難しいのが現実です。

そこで、「いわゆる伝統工法」でつくるために、現行法令の求める「限界耐力計算法」で計算して法令をクリアする、という方針をとる方々がおられることを承知しています。
しかし、私は、そんなに真っ当に法令規定に対する必要はない、と考えています。むしろ、やめた方がよいとさえ考えています。

それは、そもそも「限界耐力計算法」なるものが、「古来わが国の環境のなかで培われてきた技術」の存在、その「考え方」を念頭に置いて生まれたものであるかどうか、疑わしいからです。
もちろん、通常なされる「壁量計算法」「四分割法:壁量均衡配置の検討法」や、「仕口」の仕様を検討する簡易計算法である「引張耐力計算法」なども同様です。そしてもちろん、「耐震補強」法や「わが家の耐震診断」などの「診断手法」もまったく同様です。

ただ、どうせ疑わしい計算法にかかわるのならば、何もわざわざ面倒な方を採る必要はない、と私は考えるのです。

もう一つ私が感じていることがあります。

それは、「限界耐力計算法」でいわゆる「伝統工法」が実現可能になった、と言われる方々の「伝統工法」の建物を見ると、すべてではありませんが、何をもって「伝統工法」と言っているのか、はなはだ疑問に思う例が少なくないのです。

あるとき、「伝統工法」にこだわっている、と言われる大工さんの仕事を見せていただきました。また、木の選別にこだわり、使用材の乾燥の度合いを1本ごとに含水率計で計ってつくる「伝統木造」に詳しいという設計士さんの建物も見させていただきました。
率直な感想を言わせてもらえば、そこで見たのは、いわゆる「民家風」の建物、いわゆる「和風」のつくり、ただそれだけのことでした。

そこで私が感じたのは、こういうことをやっているから、折角の「技術」がないがしろにされてしまうのだ、伝統木造と言うのは「民家風」か「和風」なのだ、と誤解されてしまうのだ、ということでした。
言ってみれば、「伝統」「伝統工法」という言葉だけが独り歩きし、「古来わが国の環境のなかで培われてきた技術」の根底にある「思想」が忘れられているのです。

早い話、「古来わが国の環境のなかで培われてきた技術」の考え方で、いわゆる「洋風」のつくりの建物だってつくれるのですが、そのような建物をつくると、おそらく、「伝統」信仰の方々からは、伝統工法ではない、と言われるに違いありません。

   註 ある「木造建築」を学ぼう、という団体では、
      「木造技術を学ぶ」という企画で、
      「ちょうな削り」の実演をしていました。
      「ちょうな削りができるのが真の木造技術」である、
      かのようでした。
      「ちょうな削り」は不要だ、とは言いません。
      しかし、「木造」「木造技術」に対して
      何か「錯覚」を持っているのではないでしょうか。
               [註記追加 6月23日 9.23]

そしてさらに驚いたのは、こういう仕事をなさる方々のなかに、進んで「限界耐力計算法」を受け入れる方が多い、ということでした。
そして、もっと驚いたのは、「伝統工法」にこだわる、と言われる大工さんのなかに、いわゆる「伝統工法」の各部の仕様:具体的には「仕口」など:の「認定」を受けよう、などと言う方がおられることでした。「認定」を受けておくと、「確認申請」が楽になる、というのです。
あらかじめ、費用を払って実験テストを受け、「認定」を受けておくと、確認申請時に「認定番号」の表記だけで済むのです(実験テストを行なう機関は、大方が国交省の外郭団体です)。

これは、わざわざ進んで自分の首を締めるようなものだ、「古来わが国の環境のなかで培われてきた技術」を担ってきた工人たちが大事にしてきた問題への対応の柔軟な思考、自発性や創造性を損なうものだ、と私は思うのですが、そうは思わないようなのです(工人たちが柔軟で、自発性、創造性を大事にしたからこそ、「技術」が展開し得たのです)。

こういう方々にお会いしていると(こういう方々が結構多いのです)、私は、私の考えている「古来わが国の環境のなかで培われてきた技術」についての理解がおかしいのではないか、と思うことさえあります。

何度も書いてきましたが、私の「理解」は、古来、工人たちは、「架構を一体の立体に組むことに努めてきた」、それがわが国の環境に即して生まれた「考え方」であり「技術」なのだ、というものです。
そして、その「考え方」で建物をつくる、ということは、いわゆる「民家風」や「和風」のつくりにすることではないのです。もちろん「骨太」の部材がギラギラと目に飛び込むような建物をつくることではありません。

   註 「古井家」や「箱木家」そして「高木家」の建屋を見ても、
      「骨太」とは感じないはずです。
      「柱」や「梁」を「見せる」ことを目的にしていないからです。
      最近の建物は、「部材」を見せたがる例が多いようです。
                      [註記追加 6月23日 9.13]

たとえば会津・喜多方の「煉瓦蔵」。そこでは煉瓦が使われ、小屋にはトラスが使われています。それゆえ、それを「洋風」と見なす方がおられます(近代建築史の学者のなかにもそういう方がおられます)。
しかし、それを建てた喜多方の方々には、そんな意識はまったくありません。「形式」や「様式」にとらわれず、「使えるもので、いいものなら使おう」という「健全な」考えの下でつくったのです。
いかなる「形式」や「様式」に似ていようがいまいが、その土地土地の「暮し」「暮しかた」に適応するものだったらよいではないか、私はそう思います。


さて、建物づくりにかかわる現行法令の第一が「建築基準法」です。
その第一条には次のようにあります。この法律の「目的」についての条項です。
すなわち
「この法律は、建築物の敷地、構造、設備及び用途に関する最低の基準を定めて、国民の生命、健康及び財産の保護を図り、もって公共の福祉の増進に資することを目的とする。」

しかし、この法律の規定する「基準」を遵守して、たとえば「耐震」の「基準」を遵守して建物をつくり、実際に地震で壊れたら法律はどのような責をとるか、については、条項のどこを探してもありません。

これまでの事例では、たとえば想定外の地震で被災があると、法令が「改変」されるだけです(私は「改訂」とは言いません)。
建てる時にその時点の法律の求める規定どおりにつくった建物の「耐震補強」の必要性が現在叫ばれているのも、法令が「改変」されたからなのです。
そして、それにかかる費用には、私たちの税金が使われ(個人の建物では、個人の資金が必要です)、法令策定にかかわった人たちは(学者も役人も)、「新耐震基準」を声高らかに吹聴するだけで済むのです(これは、別途書くつもりですが、「耐震補強」のなされた建物:学校校舎が特に目に付くのですが、を見ていると、私にはかえって危なくなったような気がしてなりません)。

     註 改訂:内容などを、改め直すこと。
        直す:ぐあいの悪い所などに手を入れて、
           望ましい状態に改める。
        改変:内容を改めること。
        改める:新しくする。

        要するに、「ぐあいの悪い所が何か」について、
        そして、なぜ「ぐあいの悪いところ」が生じたのかについて、
        正当な説明がない以上、
        ことの当否を問わない「改変」の方が誤解が起きません。
                      [註記追加 6月23日 9.40]

自動車などの製品に問題があると「リコール」という形で、生産者・製造者に改善・修繕が求められます。製造者に責任が求められるのです。
しかし、こと建築法令の過誤は、法令の受容者または民間の責任に転嫁されるのが常です。一時流行った言葉で言えば「自己責任」にされるのです(構造計算「偽装」で問われたのは民間人だけだったのは記憶に新しいところです)。

この「事実」を、私たちはよく認識しておく必要があります。

ならば、私たちは、私たちの建物を、私たちの「知恵」でつくろう。
法令が、どうしても私たちを「護りたい」というのならば、別の言い方をすれば、私たちの「知恵」や「判断」よりも「すぐれていると思いたい」のなら、その「態度」は甘んじて受けようではないか、ということです。

どうするか。
もっぱら、私たちの学んだ「知恵」と「考え方」に依拠して建物をつくるのです。

   註 残念なことですが、
      法令の規定する仕様を足し算してできたような建物が
      多すぎます。
      そこには、「自らの知恵」が見当たりません。
      もっぱら、「確認申請」を通過するための設計になり、
      建物をつくることの本来の「意味」「目的」が
      失せているように思えます。

そして、その私たちの「知恵」や「考え方」を一切変えることなしに、「計算上、法令の規定を充たす」方策を採るのです。

その「計算」では、何も面倒なことをやる必要はないのです。
なぜなら、たとえば規定の数値を計算上充たしたからといって、地震に強い建物になっているわけではないからです。ならば、楽な方策を採る。
そのとき「便利」なのが、「壁量計算法」「四分割法:耐力壁の均衡配置確認法」そして「引張耐力法」なのです。計算が楽だからです。もともとバカバカしい計算なのだから、それならば楽な方がよいではありませんか。

第一、仮にこれらの計算法の考え方が正しかったとしても、いつなんどき、その「基準」値が改変されるか分らないのです。法令はいつでも正しい、と言うのならば、いまさら耐震補強の必要はないはずです。しかし私たちは、新たな「想定外の事態」が生じれば、「基準」は容易に改変されることを、これまで何度も見てきました。

私は、こういう「対・法令の考え方」で木造の建物を設計してきました。
その一例を07年8月の下記記事で、「案」として紹介させていただきました。
また、先回「建て方工程」の写真を載せた事例(下記)も、同じ考え方で設計した初期の例です。

   註 「現行法令化の一体化工法の試み-1」~「同-4」  
      「余録・・・・『建て方』工程写真-1」~「同-4」

「建て方」写真の実例は、今から20年以上前の1985年ごろの設計。これと「案」との大きな違いは、「継手」の位置の違いです。
実例では「持出し継ぎ」として「追っ掛け大栓継ぎ」を使っていますが、「案」では、「柱」上で継ぐようになり、「継手」も至って簡単なものになっています。

「柱」上で継ぐようにすると、「柱」と、その上に載るニ方向の「横材」が、同時に組まれることになり、仕事が数段楽になり、一体化の効果も数段上がる、と考えたからです。
それはすなわち、「浄土寺・浄土堂」「古井家」などの架構法の示唆によるものです。

しかし、「対・法令の策」は、まったく同じです。
すなわち、鴨居位置:内法レベルには、建物全周、間仕切各所に「差物」をまわし(開口部では「差鴨居」、開口のない箇所では「無目(むめ)」になります)、「窓台」を設けることができる場合は、それも「差物」にして建て込みます。
場合によると、開口の有無に関係なく、腰の位置に「差物」をまわすこともします。その場合は、開口のある場合は「敷居」に、ない場合は「無目」になります。

   註 「無目」:建具の入る溝:「樋端(ひばた)」のない材のこと。

一言で言うと、
柱間で、寸面に差のある横材を「鎌継ぎ」「蟻継ぎ」で継いで平然としている「構造用教材」所載の「在来工法モデル」のような架構にはしないで、
先に紹介した今井町「高木家」の架構法に類似する方法
の採用にほかなりません。

「構造用教材」の「在来工法モデル」は、先にも触れましたが、「世界中のどこに出しても恥しい」、「類い稀な木造軸組工法」なのです。

各所の壁は、いわゆる「面材耐力壁」の仕様を「活用」します。「筋かい」は一切用いません。

こうして、「思ったとおりの設計」をしておいて、次に、それが法令の「耐力壁量の規定」に合うように、「計算上」で調整するのです。

設計図上で、壁の部分の「長さ」をひとにらみします。そして、「長さ」が多いと見える箇所の「壁:面材」の仕様は「壁倍率」の小さい仕様、「長さ」が少ないと思われる箇所では「壁倍率」の大きい仕様を採るのです。そして試算します。慣れてくると容易に「適当な」仕様が定まります。
「耐力壁(量)の均衡配置」も、いろいろと「壁」の「仕様」を変え、「計算上で均衡を按配」します。
そして最後に、「仕口」の「耐力」なるものを「引張耐力計算法」で計算します。


これらはいずれも、バカバカしい努力なのですが、法令の下ではやむを得ません。その代り、「限界耐力計算」を「構造専門家」に依頼する、などということなしに、自分でできます。

もちろん、そうして決めた法令規定「仕様」のゆえに、架構の耐力が確保されたわけではありません。
架構の耐力・強さは、先に記した「柱」と「差物」で組まれた「立体自体で確保されている」からです。

これは、「建て方」終了時点で、「壁」がなくても、架構上を歩いてもびくともしない、叩くと架構がビンビン響くことで分ります。
これに対して、部分的に「耐力壁」を設ける「在来工法」の場合、「筋かい」や「壁」がつくられない段階では、架構上を歩くとグラグラします。揺れて歩くのが怖いのが普通です。それらが入れられても、揺れは残ります。

「差物」を多用して全体を一体化する工法でつくった建物は、「差物」で固められていますから、例えば、いつなんどき「壁」を取去っても問題はありません。それで「耐力」がなくなる、などということはないからです。小改造は容易にできます。「気に入った壁」あるいは「開口」に差し替えられるのです。
一方、「在来工法」でこんなことをしたら多分それだけで壊れるでしょう。

多分、「本当のこと」は、大地震が起きれば明らかになるでしょう。
これまでの歴史的事実でも、「古来わが国の環境のなかで培われてきた技術」でつくられた建物の被災事例は、相対的に少ないのです。

「古来わが国の環境のなかで培われてきた技術」を採るか、
「法令規定の在来工法」を採るか、
それは、建物をつくる人に委ねられていいはずです。

   註 現在の法令の行使を見ていると、
      「技術」が「宗教」になり、
      まるで、「一国一宗教」を説いているかのようです。
      「教主」は最高権威、そしてその「独裁」がまかり通る、
      民には「信仰の自由」がないのです。
      民は「思考停止」が求められているのです。
      いったい、どこが「先進国」なのでしょうか。
                 [註記追加 6月23日 9.51]
                 [文言更改 6月23日 16.25]

もしもそれがダメだというならば、何か問題が生じたら責任をとる「覚悟」が必要なのです。
残念ながら、そういう気配は感じられません。
最近生まれた「瑕疵担保保険」制度などというのは、法令策定にかかわる人たちの「責任逃れのための奸計」にほかならない、と私は思っています。

このような「現況」は、
建築基準法第一条の言う「・・・最低の基準を定めて、国民の生命、健康及び財産の保護を図り、もって公共の福祉の増進に資することを目的とする」どころか、
まったく逆の結果を招来しているのです。
最近のわが国の木造建築の寿命が短くなったのは、その一例にすぎません。

                               「シリーズ 了」

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日本の建物づくりを支えてきた技術-42・・・・まとめ・7:その本質は何だったか

2009-06-20 09:37:41 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[追記追加:15.25][文言追加:6月21日 8.30]

昨年の8月から、このシリーズを続けてきました。

その目的は、わが国で古来培われてきた建物づくりの技術についての、私自身のあらためての学習であるとともに、
一般の方々:建築を専門としない方々にもその「事実」を知っておいていただきたい、と考えたからです。
かつては、一般の方々も、建物づくりについて、かなり知っていたものですが、それゆえ、専門家たちもおちおちしてはいられなかったのですが、今ではまるで「他人事」、「専門家」に任せっぱなしになっていて、そのため、「いかがわしい話」が、あたかも真実・事実であるかのように蔓延っています。

さて、今の世の中では、「わが国で古来培われてきた建物づくりの技術」は、過去の古いもの、現代の進んだ科学技術の裏付けのない劣るもの・・・、と言った見かたの下で、ないがしろにされてきています。
その技術によって、建物をつくることも、現在はできません。現在の「理論」とそれを下敷きにした「法令」の指示・規定に添うべく歪められてしまうからです。
どうしてもつくりたいなら、「古来の技術を認めない考え方によって生まれた計算法」で構造計算せよ、というどうしようもない「非科学的な」指示・規定があるのです。これは、現代の『矛盾』の最たる見本と言ってよいでしょう。

日本は西欧に並ぶ「先進国」なのだそうですが、西欧諸国で、自国の技術をダメ扱いする国はありません。
建物づくりの技術というのは、地域の環境によって大きく影響を受けますから、当然地域によって異なります。
ところが、日本は、西欧化=近代化と「理解」したために、進んで自国の技術の廃棄に努めてきました。
この「傾向・風潮」に対する批判は明治時代からあることはあったのですが、多勢に無勢でした。さらに、第二次大戦後はさらにその傾向は「深化」します。そこへさらに「科学技術《信仰》」=「何でも計算優先主義」が追い討ちをかけました。
この驚くべき状況に対して、四半世紀以上前にも建築史家が批判していますが(下記参照)、やはり多勢に無勢、無視され続け、現在に至っているのです。

   註 「桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-3」)。

      なお、「わが国で古来培われてきた建物づくりの技術」が、
      西欧化=近代化を目指す新興の学者・建築家たちによって
      貶められてゆく過程と、彼らの「机上の考え」で生まれた
      「在来工法」については、 一昨年2月の下記のシリーズで
      触れています。
      「『在来工法』はなぜ生まれたか-1」~「同-5」


日本の環境:風をともなった雨がよく降り、湿気が多く、地震が頻発し、台風にも毎年襲われる、というきわめて特異な環境(具体的には、「日本の建物づくりを支えてきた技術-37」で触れています):のなかで「暮してゆくための建物」をつくる技術として、人びとが会得したのは、その環境ゆえに豊富な木材を用いて空間の「骨格」をつくり、「骨格」の間を他材で埋めてゆく方法、通称「木造軸組工法」でした。

「木造軸組工法」は、日本だけではなく、世界の各地域:建物づくりの主材料として木材が使われる地域:にあります。
たとえば上掲の写真は、西欧の木造軸組工法の例ですが(18世紀のスイスの町家)、日本のそれとは、大分趣きがちがいます(日本の方法に似ているのは、東南アジアなどに限られます)。
簡単に言えば、西欧の例では、開口部の位置があらかじめ限定されるのに対して、日本の場合は自由・任意なのです。

よく、日本の家屋の特徴は、屋内空間と屋外空間の融合のさせ方にある、あるいは自然との融合のさせ方にある、などとと言われ、縁側などがその例として挙げられ、ときにはその部分を「屋内」でも「屋外」でもない「中間領域」などと呼ぶ人さえあります。

しかし、その考え方は、居住空間を、「屋内」「屋外」とに二分し、その関係を云々する見かたから生じたものです。言い換えれば、「住まい」を屋根のある部分「屋内」に限定する考え方が根底にある見かたです。
このような対象を分解することでものごとを見る見かた・考え方は、とかく「迷路」に入り込み出口を見失いがちになります。「中間領域」などという「概念」が生まれるのはそのためです。この点については、大分前に、中国西域の農家の住宅を例にして触れています(下記)。

   註 「分解すれば、ものごとが分るのか・・・・中国西域の住居から」
      「分解すれば、ものごとが分るのか・補足」

日本の場合、初めは「壁」で囲われた建屋:家屋だけが「住まい」であったものが、自分の差配できる領域・土地:「屋敷」を「囲う」ことができるようになると(たとえば塀や生垣あるいは屋敷林・・・など)、その「囲い」のなかすべてが「住まい」となり、建屋・家屋そのものからは「囲い」:壁がなくなってくる、つまり開放的なつくりになってきます。

   註 日本の場合は、西欧や中国などのように、
      城壁のような強固な「囲い」をつくることは稀で、
      ときには神社の「結界」のように、
      「目には見えない囲い」で済ます場合もあります。

「寝殿造」の建屋が四周開け放たれているのも、「塀」で囲われた屋敷のなかに建屋があったからなのです(下註)。

   註 「日本の建築技術の展開-1」
      「日本の建築技術の展開-2・補足」

しかし、西欧の場合は、屋敷が囲われても開放的なつくりにはならないのが普通のようです。木造軸組工法による建物でも、開口部が小さく限定された建て方になっているのが普通で、日本のように、開口を任意に設けることは、重視していません。
それは、彼我の環境の違いによるのだと思われます。彼の地では、気候的に、できるだけ開口が少ないほうが暮しやすいのです。
     
日本では、「屋根はかならず設けなければならないが、壁は設けたくない=開口部を広くとりたい」というのがいわば「人びとの本音」である、と考えてよいでしょう。「風通し」を第一に考えたくなるのが日本の暮しなのです。
「寝殿造」での生活を描いた絵巻物などにある暮し方は、決して貴族階級だけの暮し方なのではなく、人びとの共通の「願望」だったのだと思います。
それゆえ、屋敷の設けられない時代の建屋では必須だった「納戸構え」は、「屋敷」を確保できるようになると、本来の役割を失い、建屋全体も、一気に開放的なつくりへと変ってくるのです。

   註 エア・コン依存になってきた最近の日本の住居では、
      省エネのためと称して!?、開口を限るようになっています。 
      環境の特性は、昔も今も同じです。
      どこかでボタンを掛け違えたようです。

日本の場合、このような「暮しに見合う」建物を考えるだけでは済みません。頻繁に襲う地震や台風に対しても当然工夫が必要でした。
いつ起きるか分らない地震や、毎年かならず襲う大きさもさまざまな台風、この「自然現象」への「対応」は、日本の大地に人が住み着くようになって以来、竪穴住居の時代はもちろん、掘立て式の時代、礎石建てになってからの時代を通じて、人びとの言わば「宿命的な課題」であったはずです。

   註 わざわざこのように強調するのは、
      これらの「自然現象」への対応が昔はなされていなかった、
      最近になって考えられるようになってきた、かのような
      言説が飛び交っているからです。
      これはとんでもない誤解。

      この日本に暮す以上、
      これらの自然現象への対応は「当然の課題」であり、
      当然、それに対しての対応策が採られてきていることを、
      私たちは認識する必要があります。

      そしてまた、当然の話なのですが、人びとは、
      先ず、日本の環境下での「暮し」を第一に考え、
      その「暮し」を地震や台風の下でいかに全うさせるか考えてきた、
      ということも忘れてはなりません。
      先に「慈照寺・東求堂」の内法上の「小壁」の工夫を紹介しました。
      内法下を全面開放するために考えられた工夫です。
      (「『在来工法』はなぜ生まれたか-4の補足」参照)。
      現在では、全面開放の「願い」を犠牲にして壁を増やすでしょう。
      今は、「靴に足を合わせる」ことが強要されているのです。


つまり、建物づくりにあたってわが国の人びとに課せられた「命題」は、次のようにまとめられます。

 ① 多雨多湿の環境下で健やかに暮せる空間をつくる。
 ② ①の空間を、地震や風で簡単に壊れないようにつくる。

そして、②には、同時に、その保守・点検・管理(補修)への配慮も含まれます。なぜなら、いかなる材料であれ、永久不滅の材料はなく、かならず老化・風化、すなわち経年変化がありますから、それへの対応も最初から考えておかなければならないからです。
そして特に、木造の場合は、加えて、「腐朽」への配慮が必要になります。
                    [文言追加:6月21日 8.30]

   註 この点について、現在法令等で奨められている木造工法は、
      まったく考えていません。
      言わば「つくりっぱなし」なのです。

そして、この命題に真摯に付き合い、工夫を重ね、実現してきたのが、これまで見てきた日本の木造軸組工法:建築技術だったと私は考えています。

そのなかみは、要約すれば次のようになります。

 ① 空間の形は、可能なかぎり簡潔な形状にする。
 ② 空間を形成する骨組:架構も、可能なかぎり簡潔な形状にする。
 ③ 架構を構成する「柱」「横材」を、一体の立体になるように組む。

   註 以上は、各地域の軸組工法に共通します。
      上掲の写真の例も同様に立体構造になっています。
      ところが、
      現在のわが国の主流である「在来工法」は、
      立体構造化を拒否・否定した、どの地域にも存在しない、
      「類い稀な」工法なのです。

 ④ 一体の立体に組むにあたり、「柱~柱」を、「横木」によって、
    可能なかぎり「鳥居型」「梯子型」に構成する。
   
   註 「鳥居」は、「掘立て」でも「礎石建て」でも同じ形です。
      「鳥居」は要するに「門」です。
      「門」型を自立させる工夫が「鳥居」型です。
      すなわち、2本の柱の上に渡された横木の一段下に、
      横木を柱の間にはめ込むと安定度が増すことは、
      経験によって、古くから知られていたのです。

      西欧のように「斜材」を使用しません。
      「斜材」があると開口部をつくりにくいこと、
      そして何よりも、地震や強風の際、
      「斜材」が架構にもたらす影響(下記参照)を
      知っていて、恐れたからです。
      「『在来工法』はなぜ生まれたか-5の補足」

      追記 [追加:15.25]
      「斜材」を使わなければ、本来、アンカーボルトは不要です。
      日本で、木造軸組工法にアンカーボルトを使い出した「理由」も
      「『在来工法』はなぜ生まれたか」で書きました。
      要は、部分的に「斜材」を入れたためなのです。
      「斜材」を使っても、西欧の例のように、
      「斜材」をくまなく入れると、架構は「立体構造」となり、
      横材を突き上げたりするような現象は起きません。
      西欧の軸組工法にも、アンカーボルトはありません。     
      西欧に地震がないからではないのです。  

      地震∴アンカーボルトなのではなく
      地震⇒部分的「斜材」∴アンカーボルト、となったのです。
      簡単に言えば、立体構造化の努力をやめたからなのです。
     
 ⑤ ④の延長として、架構の垂直各面の柱間を、
    可能なかぎり「鳥居」型に構成する。
 ⑥ やむを得ず材を継ぐときは、無用な手間のかからない
    できるかぎり簡単な方法で、できるかぎり「柱」位置で継ぐ。

   註 主たる横材は、「柱」から持ち出した位置で継がない。

 ⑦ 「柱」と「横材」は、できるだけ簡単な方法で、
    ガタのないように取付ける。

   註 ⑥⑦のために考えられたのが「継手・仕口」です。
      「継手・仕口」は、どの地域の軸組工法にもあります。
      そして、どの地域でも、機械化された現在でも、
      その「考え方」は継承されています。
      「考え方」自体をも認めない点でも、日本は「類い稀」です。
  
      「継手・仕口」は、木材の特性を知らなければ生まれません。 
      最近、木材の乾燥、含水率が話題になります。
      しかし、いわゆる乾燥材でも、含水率が一定でないことは、
      意外と知られていません。
      乾燥材は収縮がない、とさえ思われています。
      それはまったくの誤解です。
      それについては下記で触れています。
      「乾燥材とは何か・・・・木材の含水率とは?」

      乾燥材でも、集成材でも、収縮します。
      したがって、金物を使用するときには、
      完工後常に点検が必要なのですが、
      点検を考慮した例を見たことがありません。
      これもまた「つくりっぱなし」なのです。

      そしてそれゆえ、私は、
      長年使われてきた「継手・仕口」を「信頼」するのです。
      長年使われてきた、ということは、その効能が、
      現場で「確認」されている、ということだからです。


以上要約したようなつくりかたをすれば、地震や大風で、壊滅的影響を受けずに健やかに暮せる空間を確保できる、これが、人びとがたどりついた「結論」だったのです。

この考え方を、「率直に」「明快に」実行したのが「大仏様」であり「古井家」「箱木家」の架構と考えてよいでしょう。すなわち、「貫」工法:「差物」工法です。
すでに見てきたように、「浄土寺・浄土堂」も「古井家」「箱木家」も、きわめて「手慣れた」方法、ごくごくあたりまえにその工法で架構をつくっています。そこには「迷い」がありません。しかし隅々まで考えつくされています。本当の意味で「計算」されています。そして、きわめて「簡にして要を得て」います。

   註 この場合の「貫」は、現在言われる「貫」ではありません。

      また、これもすでに紹介した近世の「高木家」の架構も、
      その「原理」は、この考え方であることが分ります。


もちろん、このような方法:考え方が突然現れたわけはなく、そこに至るまでに、長い過程:試行錯誤があったのは言うまでもありません。
そして、その「過程」こそ、「日本の建物づくりの歴史」にほかならない、と私は考えています。
そして私は、その根底に流れている「考え方」を、それが正当であると思うがゆえに、「数値化できない」からと言って、安易に捨てる気にはならないのです。

この「考え方」を、今、私たちは、どのように正当に、正統に継承していったらよいのでしょうか。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-41の付録・補足・・・・復元「箱木家」の土間まわりの写真

2009-06-15 11:34:52 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

先回載せられなかった「下屋まわりの大壁」の「土間」側の様子の分る写真です。
じっと見ていると、架構の大らかさに比べ、違和感を感じてくる、と書いた壁の表情です。

上は「土間」から「おもて」(左側)「だいどこ」(右側)を望んだ写真、下は「土間」の北側隅を見た写真です。
それぞれに、「下屋まわりの大壁」の内側が見えています。

皆さまは、どう感じられますか。

写真は、いずれも「箱木家住宅修理工事報告書」からの転載です。
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日本の建物づくりを支えてきた技術-41の付録・・・・復元「箱木家」の空間と架構

2009-06-14 22:46:20 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言改訂:6月16日9.45][註記追加:同9.57]。[文言改訂:6月16日 12.50]

「箱木家」の居所は、現在は神戸市北区山田町衝原(つくはら)、中世の「摂津山田荘」、近世の「山田荘・衝原村」にあたり、近世には、一帯には「阪田家」「向井家」「栗花落(つゆ)家」など、数戸の「千年家」と呼ばれる家々があったそうです(余談ですが、「栗花落」と書いて「つゆ」と読むのには参りました!今、栗の花が盛りです。これから丁度「栗花落」の時期に入ります。「梅雨」よりも風雅です!)。
ということは、この一帯の人びとは、「代が変っても、そして暮しの様態が変っても住み続けることのできる本格的なつくりの家屋」を「建てる資力」に恵まれていた、ということにほかなりません。

なぜ一帯は「資力」に恵まれていたか、その理由は諸説あるようですが、一帯が「京」と「西国」を結ぶ陸上交通の要所であったから、というのが有力のようです。
同じように、先に紹介した「古井家」のある兵庫県宍粟(しそう)郡安富(やすとみ)町:現在の宍粟市安富:も、姫路から25kmほど車で走らなければならない山あいの地ですが、近世までは、瀬戸内の姫路と日本海側の鳥取を結ぶ重要な街道筋だったのです(かつては訪れるには1日がかりでしたが、今では「中国自動車道」に近く、訪れるのが楽になりました)。

「箱木家」などのいわゆる「千年家」に建築史の世界で光が当てられるようになるのは、第二次大戦後の昭和23年(1948年)ごろからだそうです。
明治以降生まれた「建築学」では、半世紀以上も、社寺建築ばかりに目を注いできた、ということです。
その間、多くの歴史ある住居が消えていったと思われますから、「建築学」が当初から一般の住居にも光を当てていたならば、「住居の史学」も充実し、そして当然、現在のような「木造理論」も生まれなかったのではないかと思います。
江戸時代の学者なら、そんなバカなことはしなかったはずです。まさに「近代」の残した犯罪的行為であったと言ってもよいでしょう。

   註 昭和4年(1929年)「古社寺保存法」が「国宝保存法」に変り、
      昭和25年(1950年)の「文化財保護法」制定までの約20年間、
      270件余の建物が指定を受けていますが、
      そのうち住居の指定は、僅か2件だそうです。

さて、本題です。

「古井家」は元の敷地で復元されていますが、「箱木家」は、元の敷地がダム工事にかかるため、敷地を変えて解体・移築(復元)されています。
そのため、「箱木家」の修理工事にあたっての調査では、元の敷地の地下発掘調査も行なわれています。

上掲の図版は、モノクロ写真と図面は「箱木家住宅修理工事報告書」から、カラー写真は「日本の民家3 農家Ⅲ」から転載し、編集したものです。
大変恐縮ですが、図版の部分をプリントアウトしたいただき(できれば拡大)、それを片手に読んでいただければ、と思います。

修理時点(昭和52年:1977年)の「箱木家」の「平面図」は上掲の通りで、この図からは「復元建物」の形は想像もできません。
「復元建物」にある外周の「大壁」も、修理時点には、その面影はまったくないのです(修理時点の写真は、図版が増えてしまうため省略しました)。

「報告書」によると、「建物の古式部分は、礎石から小屋組架構に至るまで、当初材と見られる材がよく残されていた」とあります。
具体的には、「柱」が6本、「梁・桁」類は8本、「貫:足固貫、飛貫」は、「おもて」まわりはほぼすべて残っていました。
諸種の調査の結果、まとまったのが、上掲の「復元(想定)平面図」。

建物の解体調査、地面の発掘調査の結果、修理時点の平面図のうちの西側四室(北側の「くちなんど」「おくなんど」、南側の「なかのま」「おくざしき」)は増築されたことが分りました。
さらに、西端の二室は、元来別棟としてあった「離れ座敷」を利用したもので(「離れ」の建設時期は、主屋よりも遅い)、中間の二室が純粋に増築した場所ということになります。
改造は江戸中期と考えられ、改造の過程はいろいろあったようですが、ここでは省略します。

「復元断面図」は2断面ありますが、それぞれに、「貫」に色を付けてあります。
「飛貫」の寸法は、「古井家」では約11×5.5cm程度でしたが、「箱木家」では約11×7.5cmあります。「足固貫」は約12×8cm内外です。これらは各材同一ではなく皆異なりますが、それを上掲図面の最下段「おもて」の「展開図」に記してあります。
「貫」の寸面が「古井家」より太めになっているのは、「柱」の使用材種によるようです。
「柱」の材寸は、展開図の平面詳細には、柱150角になっていますが、実際はそういうラウンドナンバーではなく、たとえば16×14.2cm(5.3寸×4.7寸)であったりしています。しかも、上から下まで同じ寸法でもありません。「ちょうな」仕上げだからです。
使用材種は、「柱」「横材」ともほとんどがマツ(「古井家」は「柱」がクリ、横材は主にスギ)で、「貫」が太めになっているのはそのためかもしれません。[文言改訂:6月16日 12.50]


   註 「報告書」には、調査段階では「飛貫」を「内法貫」と呼び、
      後に「飛貫」に改めた旨の記述がある。
      調査者は「貫」というと直ちに「内法貫」を想起してしまい、
      「飛貫」というのは思い浮かばなかったらしい。
                     [文言改訂:6月16日9.45]

なお、「おもて」には、展開図、写真のように、「長押」が使われています。
これは、「書院造」などで多用される「格式」の象徴としての「長押」が、すでにこの時代に、農家住宅にも使われるようになっていたことの証と言えると思います。
大分前に見た室町時代中期建設の「大仙院・方丈」や書院造の原型と言われる「慈照寺・東求堂」などには(下註参照)、後の「書院造」で大々的に使われる「格式」の象徴としての「長押」が用いられています。
その場合、「長押」の裏側に「(内法)貫」が入っています。「大仙院」よりも前の「竜吟庵・方丈」も同じです。
しかし「箱木家」の例では、そういう「内法貫」はありません。「古井家」と同じように、現在一般に考えられる「貫」とは異なる「貫」が使われているのです。

そしてまた興味深いのは、展開図で分るように、開口部の「鴨居」と「長押」がまったく無関係なことです(「鴨居」は明らかに架構組立て後の後仕事です)。
「大仙院」や「書院造」では、「鴨居」にかぶさる形で「長押」が付くのが常道です。「箱木家」の「長押」は、まことに「取って付けた」という感じがします。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-29」 
      「建物づくりと寸法-2・・・・内法寸法の意味」
                        [註記追加:6月16日9.57]

「下屋」まわりには、当初材はありません。すべて消失していました。
では、なぜ復元できたか?
「壁」の痕跡が発掘調査で見付かったのです。
すなわち、部分的に「下屋」まわりの「礎石」と「土壁」の基底部が残存していたのです。ただ、「柱」などはありませんでした。
当時の壁の工法は、地面に直接「縦小舞」を刺し込み、それに「横小舞」を絡めて土を塗り上げる方法で、「小舞」は竹ではなく、「古井家」と同じく「粗朶(そだ)」(径2.5cm内外の雑木の小枝)が使われていました(地面に残されていた「縦小舞」の形状からの判断)。

「おもて」の図や写真で分るように、「割竹」が壁に張られていますから、「小舞」にも竹が使えたはずで、なぜ「小舞」に「粗朶」を使ったのか、その理由が分りません(「浄土寺・浄土堂」で、「竹小舞」でなく「木小舞」を使った理由も分りません)。

   註 西欧の木造軸組工法の建物でも、壁を柱間につくるために
      煉瓦や石を積む方法のほかに、
      粗朶小舞+土塗り壁を使う例が見られます。
      竹がない地域だから、当然と言えば当然です。
      竹が豊富な日本で、木小舞、粗朶小舞にしたのには、
      何かわけがありそうです。
      ご存知の方がおられましたら、ご教示ください。

この下屋まわりの「大壁」部分を復元するにも、土壁の仕様以外不明です。
そのためか、復元では、近世の「大壁」のような(「高木家」のような)つくり方が採られています。
すなわち、「柱」相互を「貫」で縫った後、「粗朶小舞」を掻き、壁を塗っています。近世とちがうのは「小舞」だけです。
復元建物の土間部分(「にわ」)の写真をじっと見ていると、この部分に、何となく違和感が感じられてきます。
上屋部分の架構の「大らかな」つくりに対して、何か合わない感じがするのは私だけでしょうか。
むしろ、復元「古井家」の大壁部分のつくりかたの方が正解なのではないか、と私には思えます。こういう判断が、「復元」の難しいところなのでしょう。
    

さて、「予告編」で、この下屋まわりの「大壁」は、構造的には役割がない(建物全体の架構の自立維持には働いていない)、と書きました。
それは「(梁行)断面図」と「縁」の写真で分ります。
「箱木家」では、「古井家」とはちがい、「上屋」:本体の「柱」(合掌を受ける「陸梁」を支える「柱」)と「下屋」の「柱」とを繋ぐ部材がないのです。当初の「柱」に痕跡もありません。
下屋の「柱」の頭部には、当然横材:「桁」が載っていますが、それに「垂木」の竹が差し掛けられているだけなのです。
言ってみれば、「土塀」の上に屋根が差し掛けられている、という状態なのです。

先に「大壁」の仕様のところでも触れましたが、下屋まわりの軸組については、何の資料も残されていなかったため、復元担当者の「創造」でつくられています。展開図で、その部分の部材寸法に括弧を付したのはそのためです。


以上のように、「箱木家」の架構は、「柱」と「梁・桁」(「梁・桁」は、これも「古井家」と同じく、「柱」に「折置」です)、「貫(飛、足固)」、「小屋組」を立体に組立てることで成り立ち、それだけで架構が自立しているのです。
「壁」の仕様を見れば、そして、架構本体を残して改修・改造が行われていることを見れば、この事実、つまり「耐力壁依存ではないこと」は、自ずと分ります。
今の考え方によれば、「違反建築」にほかならない建物が、室町時代から現在まで、立ってこられたのです。

「箱木家」は、度重なる姑息な補修のために、修理時点にはかなり傷みが激しい状態でした。
一方、焼失してしまった「阪田家」は、伊藤ていじ氏の写真を見ると、健全な姿で住まわれていたように見えます。その焼失は大変残念な「事件」です。
「古井家」「箱木家」が重文の指定を受け、調査・修理が行われたのも、健在であった「阪田家」の焼失が一つの契機だったようです。


できれば、もう一度、「浄土寺・浄土堂」「古井家」そして今回の「箱木家」の架構、その考え方を見ていただけたら、と思います。
前にも書きましたが、そこに、近世に完成する「日本の建物づくりの技術体系の根源的な形、典型」を見ることができると私には思えるのです。

それはすなわち、わが国特有の環境に見合う建物づくりのための「架構の立体構造化」への試みが、いわば完成の域に達した当初の姿と言ってよいでしょう。
工人たちは、幾多の経験を通じて、木造の軸組と小屋組を、一体の立体に組み上げることが、地震や台風で簡単に壊れず、多雨・多湿の環境の中で健やかに暮せる建物をつくるには最適の方法であると考えたのだ、と思います。

「報告書」のなかに面白い記述があります。
「これは後日の印象であるが、建物解体調査後のこの当初部分の構造体を露にして、軸部や屋根小屋組の素朴な工法が明らかになると、よくもこれで今日まで持ち耐えてきたものだと思われ、今日ではこの新座敷(註 西側の四室部分)の増改築が、千年家保持の大きな支えになったことが理解できた」というのです。

私はこれを読んで、いかにも当代の人の考え方だなあ、と思いました。増改築部分が建物を支持してきた、と考えているからです。

この増改築部分は、江戸時代中期、1700年代後半の工事と「報告書」では見ています。
一方、当初部分は室町時代末の建設、16世紀を降らないだろうと「報告書」は記しています。
したがって、当初建設時期を16世紀の末、1500年代後半と仮定しても、増改築が行なわれるまでには、ざっと200年ほどあることになります。
いったい、その間、当初建物は、何によって、どうやって支持されていたのでしょうか?

こう考えると、この建物は、調査者が言う「軸部や屋根小屋組の素朴な工法」の架構だけで、自立を保ってきた、と考える方が筋が通る、と私は思うのです。

構造の専門家は、どうお考えなのか、訊いてみたい、と思っています。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-41の付録:予告編・・・・復元「箱木家」の外観

2009-06-12 22:29:36 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

室町時代末の建設とされる「箱木家」(「古井家」よりもさらに古いのではないか、と言われています)の紹介用図版を「箱木家住宅修理工事報告書」より作成中です。
結構時間がかかりそうなので、とりあえず予告編として、外観写真を載せます。
「南面」と「北東面」です。

立派な土壁で囲まれています。
修理時には土壁はありませんでしたが、当初は存在していたことが分り、復元されました。
この土壁は、この建物の重要な「構造要素」のように見えますが、実は、建屋全体の構造とは、まったく関係ありません。乞うご期待!
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日本の建物づくりを支えてきた技術-41・・・・まとめ・6:立体構造化に努めた人びとの営為=伝統

2009-06-09 20:56:42 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言追加 6月10日 8.01][註記追加 6月11日 12.26]

「まとめ」として、最近取寄せた「古井家住宅修理工事報告書」を基に、中世:室町時代末の工人たちの仕事、その技術・考え方を詳しく見てきました。
そしてそこに、「日本の建物づくりを支えてきた技術」、世の中で「伝統工法」あるいは「伝統的工法」と呼ばれている技術体系の、いわば「素朴な、本来の、あるいは根源の姿」が在るように、あらためて感じました。

   註 上掲の図版は、「古井家」と、「古井家」よりも古いとされる
      「箱木家」の断面図、および「箱木家」の土間の写真です。
      その架構は「古井家と同じ貫工法」によるものです。
      当時は、これが普通のあたりまえの架構法だったのでしょう。
      だから、「箱木家」もきわめて手慣れた仕事です。
      「箱木家」については、別途紹介させていただきます。
      なお、図のなかの色を付けた材が「貫」です。    

私は以前から、現在、「専門家」や「建築法令」等が奨めている木造軸組工法は、その特徴から、「耐力壁依存工法」と呼ぶべきで、「在来工法」などという意味不明瞭な語で語るべきでない、と言ってきました。
そして、「耐力壁依存工法:いわゆる在来工法」しか認められない世の中になる以前、わが国で普通に行なわれていた木造軸組工法も、「伝統工法」あるいは「伝統的工法」などという、いかようにも解釈される呼称ではなく、その特徴から「一体化・立体化工法」と呼ぶべきだ、とも言ってきました。

なぜなら、ややもすると、「伝統工法」あるいは「伝統的工法」とは、「無垢材」の「太い柱・梁」を使い、「継手・仕口」を使い、「差鴨居」を使い、そして「小舞土塗り壁」を使う・・・、などといわば矮小化した視点、あるいは局部的な視点で語られることが多く、それでは「誤解」をさらに広めるだけだ、と思うからです。
たとえば、「継手・仕口」が使われていようが、それが理に反するものであれば、かつての技術体系とは無縁なのです。第一、それらを工夫し、つくりだした人たちに失礼です。まして、「ちょうな」削りができるのが「伝統的」だ、なんていうのはもってのほか・・・・。

私たちが知らなければならないのは、かつて工人たちが、長い年月をかけて、「日本という環境のなかで暮してゆくのに適応した建物」をつくるために「培い、継承し、つくりあげてきた技術、その根底にある考え方」であって、枝葉末節のことがらを知ることではないはずです。
枝葉末節にこだわると、自ずと、「枝葉末節:部分の足し算=全体」という「考え方」に迷い込んでしまいます。

   註 その「典型」が、現在行われつつある「実物大架台実験」、
      そしてその背後にある「構造理論」:「耐力壁依存の理論」です。

ここまで見てきたように、かつて、工人たちは、架構の「立体構造」化を目指してきた、と言えるのです。
そしてそれは、彼ら工人たちが、「事象の全体」を捉えることに長けていたからです。
「多雨・多湿」で「予測・予知不可能な地震や台風が頻繁に襲う」環境で暮すことのできる空間を、どのようにして確保すればよいか、この「全体」を常に考えてきたのです。それができないのならば、人びとから、「工人」としては認められなかったにちがいありません。
なぜ「全体」を捉えることに長けていたか。
それは、彼らが、「(日本の環境で)人びとが暮す空間」について、「現場で考える」人であって、決して「机上(だけ)で考える」人ではなかったからです。

   註 「耐震」のことだけ考える現在の大方の「専門家」よりも、
      数等「全体」を見渡していたのです。
      「机上(だけ)で考える」人たちが、
      いかに「実物大架台実験」をしたところで、それは
      「現場」ではありません。
      第一、それは「実物」ではありません。
      「実物大」というのは、まさに「語弊」の典型例なのです。
        語弊:言い方が適切でないために起こる相手に与える誤解・・。

工人たちが「立体構造化」をいつごろから意識して目指しはじめたかは資料的には詳らかではありません。
私は、この日本という環境に暮すかぎり、その「環境」が架構に与える影響について、人びとは「掘立て」式の時代からよく分っていたはずで、とりわけ「礎石建て」に変ってからは、より真剣に考えてきた、と思っています。
なぜなら、そういう状況に置かれた人びとが、それを考えないわけがない、と私は思うからです。

わが国の「建築史」では、もっぱら「資料・史料」のある「寺社建築」を軸に語られ、そこでは大陸伝来の技術が「国風化」してゆく、という形で語られるのが普通です。
ときには、わが国には、そのころ、自前の建物をつくる技術がなかったかの印象さえ与えています。
もちろん、そんなことがあるはずもなく、どこの地域であろうと、そこで人が暮す以上は、「その地域の環境に応じた建物をつくる技術」が存在していてあたりまえです。「資料・史料」のないものは存在しない、あるいは、確かなことは言えない、などとは、私は考えません。

おそらく、寺院建築で「長押(なげし)」が発案され「桔木(はねぎ)」が生まれたころには、人びとの間では、すでに「架構の立体構造化」の意識が高まっていたと私は思います。
なぜなら、いろいろ見てきたように、「長押」や「桔木」は、大陸伝来の「形式」を維持しつつ、架構を日本の環境に適応させるための工人たちの「努力」であった、と考えられるからです。

そのころ、寺社以外、つまり一般の人びとの間では、大陸伝来の「形式」とは無関係に、またそうであるがゆえに、「寺社建築」よりも、自前の技術による「立体構造化」への試みが進んでいたと考えられます。
そしてむしろ、そのような一般の人びとの間の技術が寺社建築の架構技術に影響・変化(たとえば「桔木」の発案など)を与えたのかもしれません。
それは、寺社の建物にかかわる工人たちが、一般の人びとの建物づくりの技術について無知であった、などということは到底考えられない、彼らが、普通の暮しをしている人びとの営為を知らないわけがない、と私は思うからです。
簡単に言えば、寺社にかかわる人たちが、一般の人びとから「離れた存在」ではなかった、ということです。

   註 現在では、これは明治の「近代化」以降の現象と思いますが、
      「専門家・技術者=偉い人・人びとの上に立つ人」という構図で
      見るのがあたりまえですが、
      近世まではそうではなかったはずです。
      なぜなら、「専門家であるかどうかの判断」は、
      一に、「人びとの信頼の有無」にかかっていたからです。
      私は、明治以降、そして現在の方が「封建的」だと
      常々思っています。

寺院建築では、平安時代末:鎌倉時代初頭、つまり12世紀末の「東大寺再建」が大きな「事件」でした。
そこで採られた技法、いわゆる「大仏様(だいぶつよう)」が、「前例」や「形式」を越えたものだったからです。
そしてその技法は、寺院建築において初めて現れた「架構の立体構造化を積極的に求めた試み」であったと言えると思います。その具体的な内容は、先に「浄土寺・浄土堂」の例で見てきたとおりです。

   註 下記08年12月30日以降の記事を参照ください。
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-19」 

そこでは、実に簡単な「継手・仕口」すなわち「相欠き」「鉤型付き相欠き(略鎌)」そして「楔」だけで、架構が強固な「立体」に組立てられていることを見てきました。
それを可能にしているのは、「目的とする空間を単純明快な空間構成として捉えることができたからだ」と言ってよいでしょう。
「仏教寺院は、かくかくしかじかの形でなければならない」といった「形式」の呪縛から解き放たれ、いわば心の赴くままに「信仰のための空間」「聖なる空間」の創造・造形に集中したのだ、と私は思います。

   註 そこに「化粧」あるいは「造作」を感じるとすれば、
      部材に付けられた「胴張り」だけだ、と私は思います。
      それとても、架構の一部として、
      それぞれの部材が受け持つであろう
      「力」に従った「表現」となっているがゆえに、
      「無理」を感じないのだ、と私には思えます。

そしてこのことは、「浄土寺・浄土堂」より400年ほど時間が経って建てられた「古井家」「箱木家」にも共通しているのです。
この住居の架構においても、使われている「継手・仕口」は、「(長)枘差し」「重枘(じゅうほぞ)差し」「鉤型付き相欠き(略鎌)」「相欠き」だけです。

これまで詳しく触れてきていませんが、「古井家」の建屋の架構は、「柱」「梁」「桁」「貫:足固貫、内法貫、飛貫」そして「合掌・真束」の部材を組立ててできています。
「梁」を「柱」が受け、その「梁」に直交して「桁」が載る「折置組」です。その「梁」と「桁」を「柱」に固定するのは「柱頭」の「重枘」です。

「桁」は数本繋がなければならない長さですが、その「継手」については「報告書」には説明がありません。写真で見るかぎり、「柱」位置(=「梁」位置)から持ち出した位置で継いでいるように見えませんから、おそらく、柱上(=梁上)で「相欠き」にして、それを「重枘」の二段目の「枘」で縫っているのではないかと思います。こうすれば、「柱」「梁」「桁」は、立体的に組まれることになり強固に固まります。

「合掌」の「真束」を受ける「受け材」(「牛梁(うしばり)」とか「地棟(ぢむね)」とか呼んでいるようです)は、「梁」に直交して載せかけ「太枘(だぼ)」を打込んで取付けてあります。
「真束」は、「梁」位置=「合掌」位置と関係なく、「棟木」の長さを三等分した位置に「枘差し」で立っていますから、「太枘(だぼ)」と重なることはありません(桁行断面図参照)。

各「貫」は「柱」内で継がれ、継手は「鉤型付き相欠き(略鎌)」+「楔締め」です。

こうして見ると、「古井家」の架構法は、ほとんど「浄土寺・浄土堂」と基本的に同じであることが分ります(「梁」の受け方が違うだけです)。
この場合も、「目的とする空間を単純明快な空間構成」として捉え、それをきわめて簡単な「継手・仕口」だけで空間の「骨格」、すなわち「架構」をつくりだしているのです。

考えてみれば(考えてみなくても)、面倒なことをしなくて目的が達せられるならば、それに越したことはないのです。これくらい「合理的」な話はありません。
こういう仕事を見ると、現在の私たちは、もう一度「原点」に立ち戻って考え直す必要がある、と強く感じます。

骨格:「架構」ができあがれば、あとは、その「隙間」:骨組の間をどのように埋めるかだけになります。
先ず屋根を掛けます。多雨のわが国では屋根を先行せざるを得ないのです。
次いで、柱と柱の間を埋めることになります。
そしてこの点こそが重要な点なのですが、ここまで見てきたように、壁にするか、開口にするか、それはまったく任意、随意なのです。
つまり、「架構」は、柱間の装置が何であれ、自立できていたのです。

   註 [註記追加 6月11日 12.26]
      柱間装置、特に「壁」に、構造的な働きを期待していないことは、
      先に見てきたように(下記)、「浄土寺・浄土堂」「古井家」の
      壁のつくりかたで明らかです。
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-39」
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-40」
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-40の補足」
      またそうであったからこそ、改造が行えたのです。
   
中世から近世に至る間の「資料・史料」「事例」がないので詳しくは分りませんが、架構を「立体構造」として捉える考え方は、「進化」はしても、衰えることはなかったと考えられます。
なぜなら、その方が「理に適う」ことは、人びとにとって自明のことであったからです。それは、人びとにとって、建物づくりは、きわめて身近な「事件」ゆえに、「他人事」の問題ではなく、人びとは、工人ではなくても、工人のすること、考えることを理解することができたはずだからです。

室町時代の末ごろから、世はいわゆる戦国時代に入ります。各地の豪族:武士たちは、競って城郭をつくります。それは、地域を支配するために必須の建物でした。そしてその構築にあたり、寺社建築の技術とともに、一般の人びとの技術が融合して使われたことも、以前に触れました。そこでは、「古井家」などで用いられた「貫」の変形と考えられる「差物」が大手を振って使われています(「古井家」などの「貫」とわざわざ断ったのは、「貫」というと、とかく現在の「貫」のイメージで捉えられるからです)。

近世に至るまでには、道具にも大きな進展がありますから、「古井家」「箱木家」のようないわば武骨な仕上げではなく、鉋仕上げの材を使えるようになります。
「胴付」を設けた「枘」を精度よく刻めるようになります。当然、早くからそういう道具を使っていたはずの寺社建築や書院造の技法も伝わっていたでしょう。
そうなると、「略鎌」でなく、より確度の得られる「竿シャチ継ぎ」のような技法もあたりまえになってきます。

また、近世に近づくと、一度つくったら補修以外は手をつけない箇所、手をつけるかもしれない箇所、手をつけなければならなくなる箇所・・・の区別を事前に見抜く「知恵」も備わってきます。これも、長年の経験の積み重ねの結果です。

たとえば、将来とも「壁」のままとなるであろう箇所については、それまではあくまでも壁下地であった「間渡」をも「貫」として使う方法が生まれます。それが徹底したのが、例えば19世紀末の今井町「高木家」と考えることができます。

「高木家」の場合、「貫」下地の「壁」は偏在しています。つまり、「貫」下地の「壁」は東西の両妻壁だけにあり、南北面はほとんど開口部です。現在の考え方では、「耐震補強が必要、と診断される」つくりです。

以前にも触れましたが、「高木家」は「安政東海地震」「安政南海地震」に遭遇しています。いずれもM8.4という大地震です。しかし潰れなかった。
このことは、「壁」の有無は、架構の自立とは関係がないということ、架構・骨組だけで自立を維持できること、これが工人たちの考えていた技術の真髄であったことを示す証と考えてよいでしょう。

つまり、はるか古に「礎石建て」に転換して以来近世に至るまで、「架構を立体構造化することで骨組だけで自立を維持させる」、これがわが国の工人たちの考えてきた技術だった、と総括できると私は思います。
そうすれば、わが国の環境(地域によって微妙に異なります)、そしてときどきの状況に(「暮し」は未来永劫一定ではありません)、随意、任意に適応できる空間をつくることができる、と彼らは考えたのです。[文言追加 6月10日 8.01]

そして、この「考え方」こそ「伝統」と言うものなのではないでしょうか。
「伝統」とは、まことに「前代までの当事者がして来た事を後継者が自覚と誇りとをもって受け継ぐ所のもの」(「新明解国語辞典」)なのです。

大変長い文になり恐縮です。
次回、今私たちに何ができるか、思うところを書いて、このシリーズを終ろうと考えています。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-40の補足・・・・「古井家」の柱間装置・追補

2009-06-06 00:00:59 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

先回、「古井家」の柱間装置、特に「おもて」と「うら」の部屋境:「五」通りの「ち」~「よ」間:の復元にあたっての調査者の「考察」を、「古井家住宅修理工事報告書」からそのまま転載しました。

「報告書」では、その「考察」の前に、「柱間基準寸法」と「土間と部屋」の境:「ち」通り:の「考察」が記されています。
そこで今回、この部分も編集して、上掲のように、転載させていただくことにしました。
もちろん、内容は原文のままですが、分りやすいように項目ごとに段に分けて編集しました。
平面図は、お手数ですが、先回をご覧ください(「日本の建物づくりを支えてきた技術-40」)。

解説文の二段目にある図⑬は、「下屋の出」の検討のための図ですが、同時に、そこには「上屋柱」と「下屋柱」を繋いでいる「内法貫」の仕口詳細が示されています。

先回および以前にも書きましたが、「内法貫」の幅を片側だけ少し削って「上屋柱」を貫通し、「下屋柱」に差し、「楔締め」で固めています。
「下屋柱」の「貫孔」は「貫」の大きさ分あけられ、差されている「貫」は、丈が半分に欠かれていますから、孔の残りは「埋木」されることになります。
これは、「浄土寺・浄土堂」で見たのと同じ手法であり、「埋木」=「楔」になっているのです。
ということは、この手法が、当時あたりまえに行なわれていた、と考えてよいでしょう。

これも何度も書きましたが、この「内法貫」は、現在一般に「貫」と呼ばれる部材の寸面をはるかに越える大きさで、上屋部分では丈11cm(3寸6分)×幅7.4cm(2寸4分)あります。
柱が14.8cm角程度ですから、剤の幅は柱幅の1/2の厚さです。
この「内法貫」の一段上に、場所によって、ほぼ同じ材寸の「飛貫(ひぬき)」が設けられています。その様子は、「日本の建物づくりを支えてきた技術-23の付録」 に写真を載せてあります。

近世の建物の「貫」の厚さは、おおよそ柱径の1/3~1/5程度(高木家では柱4寸2分角で貫厚は1寸3分程度でした)ですから、それに比べてもかなり太いことが分ります。そしてそれは、「浄土寺・浄土堂」つまり「大仏様」の技法を想起させるのです。
なお、「古井家」よりも古い遺構「箱木家」でも、同様の太い貫が使われています(おって紹介したいと思います)。

   参考 最近法令が認めた貫工法(塗り壁も含む)の貫厚は、
       柱10.5cm角に対して
       貫は丈10.5cm×幅1.5cm以上となっています。
       柱を10.5cm角でよい、としていること自体がおかしいのです。
       このあたりのことについて、以前に紹介しましたが、
       建築史家 桐敷真次郎氏が、痛烈な批判の一文を著しています。
       「桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-3」
      
解説文の三段目は、「土間」と「部屋:おもて、ちゃのま」境の「ち」通りの「復元考察」で、上掲写真は「土間」から「ち」通り:「ちゃのま」を見たものです。

以上、中世の「普通の工人たちの仕事」:「架構に対する考え方」を知る一つの参考にしていただければ、と思います。

実は私は、「古井家住宅修理工事報告書」を詳しく見るまでは、「わが国の中世の普通の工人たちの架構に対する考え方」について、まったく分っていなかったのです。
ここで、わざわざ「わが国の」と書いたのは、この工人たちは、当然のことながら、日本という環境に根ざした技術を持っている、ということを強調したいためです(はたして、今の「専門家」には、日本の環境に根ざして暮す、という意識があるでしょうか?)。
中世の工人たちは、軸組を立体構造にすると、地震や風に強く、地域の環境に応じて、任意、随意に壁を設ける、あるいは開放することができることを、身を持って知っていたのです。

これまで私が参考にしてきた「古井家」などについて紹介している書籍、たとえば「日本の民家」(学研刊)などでは、このような視点、「架構の考え方」という点では説明がされてはいないのです。他の本でも同じだと思います。
「修理工事報告書」を取り寄せて読んで、私ははじめて、中世の工人たちの知恵・技術のたぐい稀な深いなかみを知ったのです。それは、まことに“目からウロコ”でした。

肝腎なことが、これまで、一部に秘匿され、広く世の中に知らされていない。
それゆえに、わが国の工人たちが、わが国の環境の下で、古来考え、そして継承してきた建物づくりの技術:いわゆる「伝統工法」が、正当に、しかも正統に、理解されなくなっている・・・。
それが、今回、私が「報告書」のなかみを詳細に紹介しようと思い立った大きな理由なのです。

そして、この「事実」を知ったならば、現在の法令の「木造規定」が、そしてその裏側にある「理論」が、いかに、いにしえの工人たちの考え方より劣るものであるか、自ずと分るのではないか、私はそう思うのです。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-40・・・・まとめ・5:多雨・多湿・地震・台風とともに(2)

2009-06-02 23:15:56 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言改訂、註記追加 6月3日 9.53][註記追加 同9.58]

先に(今年の2月)、現存最古の住居遺構の一つである「古井家」の架構が、「貫」を重用した架構であること、そしてその「貫」の使い方は、現在一般に考えられている「貫工法」とはまったく異なることを紹介しました(下註)。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-23の付録・・『古井家』の・・」

すなわち、現在一般に、「貫工法」というと『「貫+壁」で架構を維持する工法』と考えますが、「古井家」では「貫」だけで架構を維持しているのです。

別の言い方をすると、「壁」は任意に、随意、随時、取付けたり外したりできる、「壁」の有無によって、架構の維持は左右されない、ということです。
これは、原理的には、「浄土寺・浄土堂」、つまり「大仏様」の考え方とまったく同じと言ってよいでしょう。

   註 「浄土堂」の「壁」の仕様については、先回触れました。
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-39」

そこで今回は、「古井家」の架構が、壁の協力なしで軸組だけで維持されていることを詳しく見るために「古井家住宅修理工事報告書」を参考に、先回は触れなかった「古井家」の「壁」について、具体的に見てみたいと思います。
図版・写真はすべて同「報告書」からの転載で、上掲「変遷図」は、原図に加筆しています。

   註 図版が見えにくいときは、恐縮ですが、拡大してください。

「古井家」の解体修理は、1970年(昭和45年)に始まり、翌1971年に竣工しています。
「古井家」の建屋は、室町時代末に建てられたと推定され、建物は、そのころから同じ場所に建っています。
敷地は、上掲写真のように(写真は南側から見た集落の全景と「古井家」の所在です)、西側に迫る山並みの裾を開いた場所で、敷地の東半分が盛土で造成されています。
上の写真は、1970年当時、つまり修理前の状況と、修理後:竣工時の写真で、北東から見た背面全景です。写真の石垣は、盛土の擁壁です。

修理開始時点、上掲写真のように壁も剥落し、棟も下っています。
この最大な原因は、盛土で造成された地面の沈下によるもので、また、建屋周囲の地面のかさ上げによって排水も悪くなり、屋根のいわば姑息な修理による雨漏りなども重なって、かなりの柱は根腐れし、場所によると地盤沈下にともない軸組が変形して座屈・折損している柱もありました。明治以降の修理はかなり姑息な仕事であったようです。


「修理工事報告書」には、解体修理にあたり行われた詳細な調査の報告が載っています。
度重なる改造などで、当初の姿の想定には、相当の苦労があったようです。
その一つが、柱間が、開口装置なのか、壁なのか、いかなる仕様の壁なのか・・の判定です。
その判定は、部材に残された痕跡から判断します。調査者が、相当仕事を知っていないと判断が難しい。

そのあたりの様子が分るように、「報告書」の中から、「おもて」と「うら」の部屋境(図の「五通り」の「ち」通りより西側)の柱間についての「考察」の部分を、そのまま上に転載しました。
図版上編集はしてありますが、文言、図は報告書記載のままです。

   註 [註記追加 6月3日 9.58]
      調査・工事の監督は、当時文化庁に居られた鈴木嘉吉氏。
      工事主任・報告書執筆(本文・図面・写真)は持田武夫氏。
      写真のうち、竣工(修理後)は八幡扶桑氏(姫路市)。

また、「報告書」には、壁の仕様についての記載がありますので、その部分だけ別途写したのが、上掲の「説明」です(緑色文字の図版)。
ただ、壁の厚さなどは、載っていません。
外部「大壁」は、修理前、竣工時の平面図や、上掲「考察」部分の挿図などから判断して、4~4.5寸(12~13.5cm)程度ではないでしょうか。
上屋柱は約16.5cm(5.5寸)角ほど、下屋柱は約12.7cm(4.2寸)角ほどですから、「真壁」部の厚さは当然柱寸法よりは小さく、上掲の「考察」から判断すると、かなり薄いようです。柱材はクリです。

なお、上屋の「梁」は、柱よりやや小さく16cm×11.5cm(5.3寸×3.8寸)、上屋の「桁」は14cm×11.5cm(4.6寸×3.8寸)、「牛梁」(五通りで上屋梁の上に桁行方向に載り棟束を受ける)は約12cm×19cm(3.95寸×6.3寸)です。材料は主としてスギ、一部ツガ、ヒノキ。
全体の架構の様子は、お手数ですが、前記註の記事に載せた写真などを参照ください。

   註 [註記追加 6月3日 9.53]
      梁、桁、特に梁が細身で済んでいるのは、
      小屋組が最も単純なトラス組:合掌になっているからです。

この調査の報告から分ることは、「古井家」の土塗壁は、「雑木」を「横間渡」と「竪(縦)小舞」に用い、「横小舞」に丸竹を使う方法を採っています。
つまり、現在「小舞壁」の語から想像する壁とはまったく違い、現在のような「貫」は入っていないのです。
上に引用した「イ ち五~ぬ五」の説明にあるように、壁下地と思われる3.5cm×1.8cm(1.15寸×0.6寸)ほどの細身の材を、@36~50cmで取付けてあります。
また、その他の箇所の解説から、「板壁」の場合の板厚も、決して厚くはなさそうです。
ということは、土塗壁も板壁も、「いわゆる構造要素」ではなく、あくまでも「柱間への充填材」の一にすぎないのです。

さらに別の言い方をすれば、「柱間装置」として、「開口装置:建具」と「充填装置:壁」がある、と言うことができるでしょう。
つまり、「古井家」の架構は、あくまでも、「軸組+小屋組」で自立していたのです。これは、まさに「浄土寺・浄土堂」で見てきた方法と考え方が同じです。
そして、だからこそ、400年以上、柱間が壁になったり開口になったり、随意・任意であり得たのです。

架構の主役と考えてよい「貫」(足固貫、内法貫、飛貫、そして小屋貫)のすべての寸法は記載されていませんが、「ち」通りの「五」~「八」間の「内法貫」は11cm×7.4cm(約3.6寸×2.4寸)あり、「八」~「九」間は、同じ材の幅を片側2.4cm細めて上屋柱を貫いて下屋柱に達し、先端を楔で締めています。梁行各通りの上屋柱~下屋柱で同じことを、やっているようです。
全体の様子は、先の註記の記事の写真をご覧ください。

江戸時代以降、地盤も含めて、常に、適切な保守・点検・補修が行なわれていたならば、「古井家」は、おそらく修理時のような状態にはなっていなかったと思われます。
なぜなら、現在の兵庫県神戸市北区山田町には、「古井家」よりも古い建設とされる「箱木家」がありますが、この山田地区には、「箱木家」の他に数戸の「千年家」と呼ばれる住宅がかつて存在していて(なぜそんなに多く残っていたのか、理由は詳らかではありません)、その内の「阪田家」は1962年(昭和37年)焼失するまで健在であったことが「箱木家住宅修理工事報告書」中で伊藤ていじ氏撮影の写真で紹介されています。
保守・点検がしっかりしていれば、「軸組工法」は、長持ちするのです。


いずれにしても、「古井家」は、「柱間装置(開口装置、充填装置)」をすべて取去ると、きわめて簡潔・簡素な「立体」が浮び上るはずです。
そして、これこそが、「日本の環境に適応した軸組工法」のまさに「原型・典型」と言ってよいのではないでしょうか。[文言改訂 6月3日 9.53]

   註 [註記追加 6月3日 9.53]
      そのうちに架構模型をつくってみることにしています。

すなわち、当時:室町時代末:の工人たちは、「立体構造」は丈夫・頑丈であるという「事実」を、身を持って知っていたのです。だからこそ、こんな簡素な架構をつくることができたのです。

それはすなわち、有史以来、多雨多湿・頻発する地震、毎年襲う台風・・・という環境の中で暮す建物づくりを、いろいろと考え続けてきて到達した「答」としての技法だったと考えてよい、と私は思います。
なぜなら、「古井家」にしても「箱木家」にしても(「箱木家」の方が建設年代は古い)、「あたりまえのように」この工法で建屋をつくっているからです(「箱木家」についても、いずれ紹介したいと考えています。「箱木家」はダム工事のため、解体移築保存されています)。

工人たちが、いつごろこの立体化工法にたどりついたのかは分りません。
私の想像では、いわゆる「大仏様」と言われる工法が寺院建築に使われるようになる以前から、すでに一般に使われていたのではないか、と思っています(それについては、以前書いたように思います)。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-20・・・」以降の
      「浄土寺・浄土堂」についての記事参照。

しかし、その後さらにこの「立体構造」化を目指す工法は発達します。
例えば奈良・今井町の「高木家」などでは、壁の下地にすぎなかった「間渡」をも「貫」にすることを考え、「内法貫」「飛貫」をも「用」に使ってしまう方法を考え出すのです。それがたとえば「差鴨居」です。

要するに、いわゆる「伝統工法」とは、わが国の環境に適した架構として、「立体構造」を目指した工法だった、ということなのです。
これを「構造要素」の足し算で考えるのが、いかにおかしいか、間違いであるか、分っていただけるのではないでしょうか。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-39の補足・・・・浄土堂・当初の土塗壁

2009-05-30 10:01:49 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

先に紹介した「浄土寺・浄土堂」の「小舞土塗壁」のうち、建設当初のままであった部分の写真を「修理工事報告書」から転載します。

上は、修理時の土壁の状態。かなり剥落していますが、「小舞」は健在です。
もちろん、壁土が剥落しても、軸組に影響は見られません。

下は、塗り土を取去って「小舞」だけにした状態。
多少がたついてはいますが、縄はちゃんとしています。この「小舞」を掻き直して、新たに壁を塗り直しています。

なお、「小舞」に縄を巻くことを「掻く」と言い慣わしています。
これは、「日本建築辞彙」によると、「鳥が巣をかける(架ける)」というときの「かける」と同じ意味で、「掻く」はその当て字とのことです。
「縄をかける」「からげる」という動作からきているのだと思います。

また「小舞」は「木舞」とも記し、これも「日本建築辞彙」によると、多分「小間木(こまぎ)」の訛った言い方で、やはり当て字ではないか、とあります。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-39・・・・まとめ・4:多雨・多湿・地震・台風とともに(1)

2009-05-30 00:48:23 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[註記追加 8.16][文言変更 8.20]
[図版改訂 文字を大きくしました。 6月3日 11.41]

先回、多雨・多湿の環境ではいわば宿命的な「木の腐朽」に対して、古人がいかに腐心してきたか、触れました。
つくった建物が容易に腐ってしまっては困りますから、当然のことです。

一方古人は、それより前に、そのような多雨・多湿の環境で、そして頻発する地震、毎年襲う台風に付き合いながら暮すには、どのようなつくりの空間がふさわしいのか、当然考えていたはずです。

大分前になりますが、建物の原型は住居であり、住居の基本・原型は「出入口が一つのワンルームの空間」であること、そしてまた、古い住居ほど、開口部の少ない閉鎖的なつくりであることについて書きました(下註参照)。
それは、その閉鎖された空間だけが「家人が安心して居られる場所」だったからでした。

   註 「日本の建築技術の展開-1・・・・建物の原型は住居」
      「分解すれば、ものごとが分るのか・・・・中国西域の住居から」

中世の文人が、「住まいは夏を旨とすべし」と言っていますが、このことは、たとえ気象に変動があったにしても、古代においても、それ以前においても、そしてまた現代においても、日本の置かれた環境では当を得た言であることに変りはない、と私は思っています。

   註 現代人はそのようには考えてはいない、と思うかもしれません。
      しかし、電力消費量が最大になるのが真夏である、というのは、
      現代人もまた「夏を旨」とせざるを得ない証でもあります。
                          [文言変更 8.20]

その点では、閉鎖的な空間は、蒸れてくると、しのぎにくい場所になったと思います(もっとも、常時人が暮していないからかもしれませんが、民家園などで、真夏、茅葺屋根で土壁で覆われた閉鎖的な空間に入ると、最近のつくりの住居に比べれば数等しのぎやすい)。


当初の閉鎖的なつくりの住まいも、自分が安心して居られる場所が建屋以外に広がると、つまり、自領の屋敷のなかに建屋がつくることができるようになると、建屋自体が壁の少ない開放的なつくりに変ってきます。すでに、古代においても、貴族の住まいはそうなっています(下註:「寝殿造」参照)。

   註 「日本の建築技術の展開-2の補足・・・・身舎・廂、上屋・下屋の例」


では、「壁の多いつくり」と「壁の少ないつくり」では、架構のつくりかたに、何か違いがあったのでしょうか。

おそらく、現在の「建築構造理論」や木造建築の「仕様」を見慣れている方の多くは、「壁の少ないつくり」では、外力に対する「耐力要素」が少なくなるのだから、それに見合う対策を講じなければ地震や大風で倒れてしまう、と考えるのではないでしょうか。

しかし、これまで見てきたように、そのような事実はありません。
つまり、「壁の多いつくり」の架構も、「壁の少ないつくり」も、「架構」すなわち「軸組」「小屋組」には何の違いも見られないのです。

言い方を変えると、架構のつくりは同じで、随意・任意に壁が付加されていたのです。壁の量の多少と、架構の強さは直接関係がないのです。
壁が一定量なければ保てない架構、そんな暮すに不便きわまりない架構などは考えなかったのです。
そしてそれこそが、多雨・多湿、地震が頻発し、台風に襲われるという環境のなかで培われたわが国の建物づくりの技術だったのです。

以上は、長くなりましたが、今回、この点にしぼった「まとめ」を書くための「前置き」です。

現在の木造建築の「専門家」は、もうすでに何度も書いてきたように、『架構は「耐力部分(要素)」+「非耐力部分」で構成される』と考えています。
そして今、これも何度も紹介してきたように、「いわゆる伝統的工法」をも、その考え方で解析?すべく実験を繰り返しています。
「耐力部分(要素)」として挙げられる一つが「壁」です。

そこで、今回は先ず、以前にも触れていますが、かの「浄土寺・浄土堂」では、「壁」をどのように扱っているかを具体的に紹介します。
記述に正確を期すために、今回は「修理工事報告書」のなかの解説をそのままそっくり紹介します。それが、上掲の図版下の文章です。
「浄土寺・浄土堂」の平面、断面、立面などは、下註記事にありますので、お手数ですが、開けてみてください。

   註 [追加 8.16]
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-19」
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-20」

「浄土寺・浄土堂」は、東大寺南大門同様、建立以来、800年以上もの間健在です。「浄土寺・浄土堂」は、大修理も行われたことがなく一時期荒れていたこともありましたが、倒壊に至るようなことはありませんでした。もちろん、その間、何度も地震や台風にも遭遇しています。

したがって、この建物が健在であり続けた理由を、「現在の木造建築の専門家の考え方」で解釈・説明するには、その建物に、有効な「耐力要素」がなければならないことになります。
「筋かい」は見当たりませんから、残るは「壁」。
この建物の「壁」は、上掲の解説にもあるように、「横板壁」と「小舞土塗壁」です。
「横板壁」の板厚は、0.16尺:約5cm弱。土塗壁は上掲の仕様で厚さ0.3尺:約9cm。
柱間20尺:約6m、柱径1.8~2.0尺(約54~60cm)、軒高約18尺:約5.4mです。
この建物の主な壁は「横板壁」ですが、この板厚では、現在の法令規定の「落し込み板壁」と見なすわけにはゆきません。ゆえに、現在の考え方で言う「耐力要素」になならない。
「小舞土塗壁」にいたっては、上掲仕様で分るように、軸組の大きさから見て、まったく現行法令規定:つまり現在主流の「構造理論」には適合しません。

ということは、現行法令の規定する「耐力要素」が皆無なのに、「浄土寺・浄土堂」の建物は、800年以上の歳月、無事だったということです。

つまり、別の言い方をすれば、架構:骨組みだけで外力に堪えてきたのです。
これは、「偶然」なのでしょうか?
そうではありません。「必然」なのです。

少なくとも有史以来、現場の技術者の間で継承され、成長してきた技術の一つの表れが、12世紀の末に一つの「結果」を生んだのです。だから「必然」なのです。

私は、こういった実例が現に厳として存在することを、現代の「専門家」は素直に認めるべきだ、と考えます。
この厳然とした事実を直視したとき、
「伝統構法は、現代的な科学技術とは無縁に発展してきたものであるだけに、その耐震性の評価と補強方法はいまだ試行錯誤の状態であり、今後の大きな課題である。・・・」(坂本功「木造建築の耐震設計の現状と課題」「建築士」1999年11月号より)
などいう戯言を言うのは「無恥」というものではないか、と私は思います。
そして、現在行なわれている「実験」は、「恥の上塗り」だ、とも思っています。

それとも、「浄土寺・浄土堂」や「東大寺南大門」、あるいは「西本願寺御影堂」等々は特別なのだ、とでも言うのでしょうか。

そうではなく、それが普通、それで普通なのだ、ということを、次回は農民の住居「古井家」の「壁」で見てみようと思います。

これは、もう長いことやってきましたが、「現在の(木造)構造理論」では「事実」が解釈できない、ということの確認のための重ねての試みです。
「現代的科学技術と無縁だから解釈できない」のだ、などとして見ないで済ますようなことは、私の「趣味」に合わないのです。
まして、『「現在の理論」で解釈できないものは、その存在を認めない』などという乱暴な論理?を認めるような「趣味」も、私は持ち合わせていません。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-38・・・・まとめ・3:湿気と木材

2009-05-28 00:57:57 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言追加 8.20][註記追加 9.49]

多雨の地域にあるわが国は、世界の中でも樹木がよく育つ地域であることは、今さら言うまでもありません。
しかし、その事実を「実感」として持っているかというと、かならずしもそうではありません。あたりまえすぎて気が付かないのです。

それを「実感」するために、先回、西安と日本の降雨量を比較してみました。
データを付け加えると、西安の西500kmの蘭州では、さらに雨が降らず年間降雨量は317.0mm、そこからさらに900km西北に敦煌がありますが、そこはもうタクラマカン砂漠の東端で、たしか年間降雨量は100mm以下だったように記憶しています(30mm程度だったかもしれません)。

   註 日本での距離感をはるかに逸脱した距離です!

西域の砂漠の中に、朽ち果てた木の柱が立ち並んだ遺跡の映像を見たことがあると思いますが、あれは、かつて水が湧き出していた低地(盆地):オアシス中心に栄えた町の遺構。そしてあの木柱は、朽ちているのではなく風化したもの。
オアシスに水がなくなってから、腐朽には縁がない地域となり、町の遺構の木は腐らないのです。その代わり、砂嵐でまさに「風化」したのです。
別な見方をすれば、手近に樹木があるならば、人は、一番扱いやすい木で建物をつくる、ということの証でもあります。

日本でも、降雨量は土地によって違い、多いところでは年間4000mmに近いところがあります(三重県・尾鷲:3922mm)。ちなみに、最近30年間で、年間降雨量1000mm以下の場所は、少ない方から網走:801.9、長野:901.2、帯広:920.4です。長野県でも松本は1018.5です。古代の中心、奈良、京都は降水量のいわば平均的な地域だ、ということができます。

木で建物をつくる場合、どの地域でも最初は「掘立て式」でつくります。
上掲の上段の図版は、「竪穴住居」の想定工程で、番号順に仕事が進みます。多分、世界中どこでも同じようなものだと思います(図は「日本住宅史図集」より)。

しかし、建ってからあとは、地域によって大きく違います。日本では、「掘立て」の柱は、すぐに腐りだすはずです。
上掲中段の左から2番目の写真は、4・5年ほど前に私がつくった生垣の支柱。
直径10cmほどのスギの防腐剤塗布済の丸太。30cmほど地中に埋めてあったのですが、グラグラしてきたので撤去したものです。これはまだいい方で、地面のあたりで折れてしまったものもありました。地中の部分は、腐り切って土と化してなくなっていたのです。
防腐剤は頻繁に塗り直さなければ効き目がない、といういい見本。

   註 防腐剤を塗布しても、その後点検できないのが現在普通の仕事。

その左の写真は、平城宮跡から見付かった「掘立て柱」の根元。これは腐らずに残っています。1000年以上前のもの。縄文期の掘立て柱の柱根も各地で地中から見付かっています。
このことは、「木が腐るとはどういうことか」を如実に物語っています。

木が腐るという現象は、現在では、腐食菌が木の組織を食料にするからである、ということが分っています。そして、腐食菌は、一定の水分と酸素がなければ生きられません。そのため、地中や水中では、酸素が足りず腐食菌は生きられない、それゆえ、地中深くでは、数千年経っても腐らないのです。生垣の支柱も、もっと深く埋められていれば、深いところは腐らなかったでしょう。
かつて、軟弱地盤の土地の基礎工事に松杭が使われたのはそのためです。旧帝国ホテルにも使われていましたが、地下水位が下がり、腐ってしまい、不同沈下の原因になりました。

こういう「科学的な理屈」を知らなくても、いにしえの人びとは、地面すれすれのあたりで木が腐ってしまうことを知っていました。地面に近いところは、湿気が多く、また雨もよくあたりますから、どうしても腐りやすいのです。
このことを、いにしえの人びとは、「理屈」でではなく、「身をもって」知っていました(残念ながら、今の大方の人びとは、「身をもって知る」ことをせず、「理屈」がないと信用しません)。
そして柱脚の腐食を避ける方法として、柱を地面から遠ざけて立てる方法へ移行します。それが「礎石建て」方式です。

   註 建替えるとき、以前の柱脚部は、地中に埋め殺しにします。
      それゆえ、地中に遺構が残っているのです。

けれども、むかしの人びとは、「礎石建て」になって柱脚の腐食の問題は解決した、とは思っていません。
礎石の上に立てても、また礎石まわりの水はけをよくしても、柱脚は腐りやすい場所だと考えていました。

上掲中段の右側2列の写真と図は、法隆寺の建物の礎石ですが、礎石中心にあけた柱のダボ穴に水が溜まるのを避けるため、水抜き溝を彫っています。また、より「水切り」をよくするため、下の礎石では、石を2段に彫って座をつくってあります。いかに柱脚部を水から護るか、腐心したのです。

   註 図にある礎石の形状は、多分、現在の構造設計者の想定外のはず。
      今なら、底面を平らにするでしょう。
      耐力面積だけを考えるからです。
      しかし、この形状は、「現場」で生まれたもの。
      据えるとき、きわめて容易に安定の状態になるからです。
      なぜ据えやすいか、それは、実際にやってみればわかります。

上掲下段の写真と図は、浄土寺・浄土堂の柱に施されている「細工」を示しています。
礎石は単に平らに加工した石ですが、写真のように、柱の底に十文字に溝(幅9~12mm、深さ3~9mm程度)が彫ってあり、通気・換気孔と考えられています。堂内になる部分の柱にも刻まれていますから、柱脚部の湿気を気にしているのです。

地面に埋められた石は常に地温になっています。そこに湿った空気が来れば、気温によっては結露します。夏の朝など、雨が降った形跡もないのに、舗装道路が濡れていることがありますが、それと同じです。
多分、そういう現象が生じるのを知っていて、こういう策を講じたのだと思われます。石の方に溝をつくらず、木の方につくったのは、仕事が容易だからだと思います。
しかし、このような工夫をしても、写真の一番左の柱のように、柱底が腐食することが起きるのです。

また、図のように、柱に取り付く「貫」の孔にも、溝(幅9~12mm、深さ3~9mm、奥行は貫を通す孔では150~180mm、大入孔では大入れの深さ分)が彫られています。これも、通気・換気孔ではないか、と考えられています。
木材は、小口:断面が湿気を吸いやすいので、これは、小口からの湿気の侵入を警戒したのではないでしょうか。

浄土寺・浄土堂は、12世紀末の建物、「礎石建て」が主になってから、1000年以上経っています。と言うことは、人びとは、礎石建てになっても、ずっと、木材に無用な湿気は厳禁、と考えていたことになります。
この考えは、近世になっても変りないのです。
そして、腐りやすい柱脚だけを、修理・取替える方法:「根継ぎ」の手法:まで編み出すのです。そうすれば、柱脚だけ腐った柱を、全取替えせずに済むからです。法隆寺に行くと、回廊だけでも多数の「根継ぎ」をした柱を目にすることができます。

考え方が変ってしまったのは、「科学の発達」した近代以降です。
「布基礎」で木部の位置を高めて、水から遠ざけようとした。たしかに地面から遠くはなったけれども、そのとき、床下が湿気てしまうことに気が付かなかった。
これは、「科学の発達」の結果、人は「ものごとを、身を持って知ること」、そしてまた「全体を知ろうとすることを忘れてしまった」からだ、「部分・要素の足し算で考えるようになってしまった」からだ、と言ってよいでしょう。[文言追加 8.20]

簡単に言えば、「現場」を知っていれば、布基礎のような発想は生まれず、仮に実施しても「問題」が見付かれば考え直すはずなのです。
残念ながら、そういう「常識」さえも失せてしまったのが現代なのです。
だから、姑息に姑息な「解決策」を継ぎ足して、袋小路に入り込んで、今は、さらに孔を掘り進んでいる状況。何処まで行けば気が済むのでしょうね?

   註 [追加 9.49]
      最近「ベタ基礎」が流行っています。
      私の「実感」では、「ベタ基礎+布基礎」の床下では、
      湿気を帯びた空気が滞れば、かならずコンクリートに結露します。
      「断熱材」を敷き込んでも変りありません。
      「断熱材」があろうがなかろうが、
      コンクリートは地温になっているからです。
      防湿コンクリート打設などもまったく同じ。
      湿気が地面から上がってくる、と考えるのが間違い。
      余程の低湿地でないかぎり、そしてまわりから水が来ないかぎり、
      建物の床下の地面は乾くのが普通です。[「の地面」文言追加]
      神社の床下がアリジゴクの棲家になるのは、そのためです。
      だから布基礎は、床下の土の乾燥化を妨げるのに「有効」なのです。
     

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日本の建物づくりを支えてきた技術-37・・・・まとめ・2:日本の建物づくりの「命題」

2009-05-24 18:44:56 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

最近とみに「耐震」が叫ばれています。何か、最近になって急に地震が頻発するようになった、あるいは大地震が起きるようになった、かのようです。
そしてさらに、日本の建物は、地震に弱い、日本の建物(木造が主ですが)は地震に弱かった、だから「耐震補強」がいるのだ、という印象そして「誤解」を世の人びとに与えるような言説さえとびかっています。

しかし、地震に弱いのは、残念ながら、戦後の「建築基準法に従った建物」であって、古来の建物は、全部とは言いませんが、実は戦後のそれに比べれば地震に強いのです。なぜなら、古来の経験・体験が反映しているからです。

前にも紹介したことがありますが、「理科年表」(国立天文台編、丸善刊)に、有史以来、日本で起きたM6以上の地震(死者1名以上又は家屋等全壊1以上の被害のあった地震)が年代表にまとめられて載っています。もちろん、古代~中世については、あくまでも「記録のあるもの」で、その他にも地震はあったはずです。

上に、「理科年表(2006年版)」から「世界地震分布図(M≧4.0、深さ100km以下、1975~1994)と「日本付近の主な被害地震年代表」のうちの1頁と2頁を載せます。
「年代表」には、2005年3月までに起きたM6以上の被害地震414件が載っていますが、1~2頁には、416年から880年までのおよそ470年間の記録、22件が載っています。
当然、当時の「記録」は限られていますから、実際はもっと起きていたと考えられます。
また、「地震分布図」は、1975年~1994年の20年間の記録ですが、日本は、地震の発生源の真っ只中に位置しているのです(まさか、これを見て、地震がこの20年間に急増した、あるいは集中して発生したなどと思う人はいないでしょう)。

   註 図版は、恐縮ですが、拡大してご覧ください。

つまり、この二つの「資料・史料」で分ることは、
古来、この日本で暮す限り、人びとにとって、地震は、いわば日常茶飯事の現象だった、
ということです。

建物をつくる、その原点は「住まいをつくること」にある、というのは今さら言うまでもないことだと思います。そして、「住まいをつくることの基本」は、「自分たちが安心して閉じ篭もることのできる空間を確保する」ことにあります。
だから、原初的な「住まい」は、地域によらず、外界に対してきわめて閉鎖的な空間になります。具体的に言えば、外界との接点は、その空間の出入口だけ、そういう空間をつくることです。
これは、いかなる地域に置いても共通の「住まいの基本の形」で、異なるのは、材料の違いだけ、と言ってよいでしょう。たとえば、乾燥地域では土が主材料で屋根も勾配は不要、多雨の地域では木が主になり急な勾配の屋根になる・・・などの違いです。

   註 「日本の建築技術の展開-1・・・・建物の原型は住居」

そのような「住まい」をつくるとき、地震などに縁のない地域ならば、普通は、重力だけ考えてつくれば済みます。
ところが、日本の場合は、重力だけでは済みません。地震が頻発し、毎年のように「台風」にさらされます。しかも、日本は、多雨地域であり、かつきわめて高温・多湿の地域でもあります。
簡単に言えば、日本では、「多雨多湿」でしかも「地震が頻発」し、「毎年台風が襲来」するなかで「自分たちが安心して閉じ篭もることのできる空間を確保」しなければならないのです。このような地域は、世界の中でもきわめて特殊と言えるかも知れません。

そのような状況のなかで暮す人びとは、当然、それらの状況・事情(最近の言葉で言えば「環境」です)を勘案しながら住まいをつくるはずです。つまり、「多雨多湿や地震の頻発、台風の襲来にどのように立ち向うか」は、日本で暮す場合のいわば「宿命的な課題」だったのです。

けれども、古代、主に寺院建築で使われた中国伝来の技術は、日本とはまったく異なる性格の地域で生まれ育った技術でした。
日本と交流のあった隋や唐は、中国大陸でも「黄土高原」の東端、現在の西安、当時の長安を中心とした国家です。
西安のあたりは、黄土高原では比較的雨の多い地域ではありますが、しかし日本とは比較になりません。
たとえば、西安の年間降水量は、最近30年の平均で555.8mm/年、東京は1466.7mm、奈良1333.3mm、京都1545.4mmです。この傾向は、古代にあっても同様であったと考えてよいでしょう。
それゆえ、彼の地の植生も日本とは大きく異なります。当然、建物に使われる木材の樹種が違います。彼の地では楊樹の類が多いのです。

第一、木材が建物づくりの主材ではありません。黄土高原の東部は、土と木の複合でつくるのが主だと言ってよい地域です(西部の方は土が主です)。そのため、日本に伝来した技術はそのままでは通用しない場面が多々見付かり、徐々に改良が加えられてゆくことはすでに見た通りです(下註)。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-6」
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-7」

つまり、日本では、そのはじめから、建物をつくるにあたって、自国の「独特の環境」に適応する策を考えざるを得なかったはずなのです。
もちろん、当事者たちは、その環境を「独特」と考えていたわけではなく、彼らにとっては「あたりまえ」のことです。
そして、中国の技術が伝来した頃にも、すでに、その環境に適応した何らかの対応策を持っていたと考えてよいでしょう。
その意味では、仏教寺院建築のために導入された中国の技術によって、「自前の技術」は、いわば「まわり道」することを強いられた、と言えるのかも知れません。

すなわち、今の人のように「耐震」などという「大それた」ことは考えてはいませんが、古来、この日本という地域に暮す人びとが建物をつくる場合、多雨多湿のなかでいかに暮すか、とともに、常にその念頭には、地震や台風の問題があったことは間違いありません。

それゆえ、古来、日本で暮す人びとにとっての「建物づくりの技術」の「命題」は、次の三つに要約されるはずです。
 ① 多雨多湿の環境で暮しやすい空間を確保すること。
 ② ①を充たした上で、地震や台風で簡単に壊れないようにすること。
 ③ そして、常時保守点検ができ、壊れた場合でも、補修・修理が行えること。
そしてこの「命題」は、現在においても生きているはずです。

このシリーズで、これまで見てきたように、わが国の建物づくりとその技術を見直してみると、古来人びとが、ついこの間までは、この「命題」に対して真摯に向き合ってきたことが分ります。
ところが、残念ながら、この1世紀足らずの間に、この「命題」が、建築の世界から喪失してしまったのです。
たとえば、現在「耐震」を唱える人の頭には、①も③もまったくないように見えます。現在の「耐震」を見ていると、「人は耐震のために一生暮す」かの錯覚さえ覚えます。

   註 ただ、ここで考えなければならないのは、人が建物をつくるとき、
      はじめから「本格的なつくりの建物」をつくるわけではない、
      ということです。
      「とりあえずのつくりの建物」で済ます場面もあるのです。
      「台風で吹き飛ばされないように」とか、
      「地震で壊れないように」とかは考えず、とにかく当面、
      「多雨多湿の環境で暮せる」ことだけ考える場面もあるのです。
      むしろ、これが普通の様態と言ってよく、その過程を経て、
      本格的なつくりを考えるようになるのだ、と言えるでしょう。
      しかし、そのような「とりあえずの段階」であっても、
      地震や台風の問題は人びとの頭の中では大きな領分を占めています。
      地震や台風で「壊れるかもしれない」ということは念頭にあり、
      しかし「とりあえず」で済まさざるを得ないのです。

      運悪く「とりあえずのつくりの建物」が多い状態のときに
      地震や台風に遭うと、大きな被害が生じてしまいます。
      明治年間に起きた地震による都市の被災にはそれが多く、
      それだけを見て「うろたえた」学者たちが考えたのが
      いわゆる「在来工法」であったことはすでに見たとおりです。
       「『在来工法』はなぜ生まれたか-4」

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日本の建物づくりを支えてきた技術-36・・・・まとめ・1:まとめに入る前に

2009-05-21 11:54:46 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

若い頃、私に「勇気」と「自信」を与えてくれた文章がいくつかありますが、今、あらためてそのいくつかを思い出しています。

なぜ「あらためて」なのか、それには「理由」があるのですが、それについて触れるのは後にして、先ずその文章を紹介させていただきます。
もしかしたら、以前に載せたことがあるかもしれませんが、何度読んでも含蓄のある文なので、気にしないことにします。

・・・・
我々は、ものを見るとき、物理的な意味でそれらを構成していると考えられる要素・部分を等質的に見るのではなく、ある「まとまり」を先ずとらえ、部分はそのあるまとまりの一部としてのみとらえられるとする考え方すなわち Gestalt 理論の考え方に賛同する。・・・・ギョーム「ゲシュタルト心理学」(岩波書店)より

・・・・
かつて、存在するもろもろのものがあり、忠実さがあった。
私の言う忠実さとは、製粉所とか、帝国とか、寺院とか、庭園とかのごとき、存在するものとの結びつきのことである。
その男は偉大である。彼は、庭園に忠実であるから。
しかるに、このただひとつの重要なることがらについて、なにも理解しない人間が現れる。
認識するためには分解すればこと足りるとする誤まった学問の与える幻想にたぶらかされるからである
(なるほど認識することはできよう。だが、統一したものとして把握することはできない。
けだし、書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質、すなわち、おまえへの現存が欠けることになるからだ。
事物をかき混ぜるなら、おまえは詩人を抹殺することになる。
また、庭園が単なる総和でしかなくなるなら、おまえは庭師を抹殺することになるのだ。・・・)・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より

・・・・
それゆえに私は、諸学舎の教師たちを呼び集め、つぎのように語ったのだ。
「思いちがいをしてはならぬ。おまえたちに民の子供たちを委ねたのは、あとで、彼らの知識の総量を量り知るためではない。
彼らの登山の質を楽しむためである。
舁床に運ばれて無数の山頂を知り、かくして無数の風景を観察した生徒など、私にはなんの興味もないのだ。
なぜなら、第一に、彼は、ただひとつの風景も真に知ってはおらず、また無数の風景といっても、世界の広大無辺のうちにあっては、ごみ粒にすぎないからである。
たとえひとつの山にすぎなくても、そのひとつの山に登りおのれの筋骨を鍛え、やがて眼にするべきいっさいの風景を理解する力を備えた生徒、まちがった教えられかたをしたあの無数の風景を、あの別の生徒より、おまえたちのでっちあげたえせ物識りより、よりよく理解する力を備えた生徒、そういう生徒だけが、私には興味があるのだ。」・・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より

・・・・
私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、そしてついに、絶頂の吹きさらしで域をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。
言葉で示すことは把握することではない。・・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より

・・・・
言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。・・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より

このほか、1955年になされたハイデッガーの講演記録、その真っ向から現代の思考・思考法の「性癖」を、見事に解き明かしてくれている論説にも感銘を受け、「勇気」をもらいました。「放下」という標題で出版されています。
半世紀も前になされたその指摘は、現在でも、いや現在だからこそ、私たちが立ち止まって一考すべき指摘である、と私は考えています。
文章の全文を、2007年9月、下記で、私の「感想」付で紹介していますから、ここでは載せません。長いですが、お読みいただければ幸いです。なお、各回のタイトルは、便宜上、私がつけたものです。

   「打算の思考-1・・・・当面やりすごせばよいのか」
   「打算の思考-2・・・・『科学技術』への追従」
   「打算の思考-3・・・・『打算』から脱け出す」


まだありますが、このくらいにして、以下に、今あらためてこれらの文章を思い出し、あえてまた紹介する気になった「理由」を記しましょう。

ご存知の方もあるかと思いますが、5月19日付で、「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」なる団体と「財団法人 日本住宅・木材技術センター」の連名で、次のような件の「募集」が報じられています。

伝統的木造軸組構法実験項目(試験体)案の募集について
       
伝統的木造軸組構法は、その構造性能について十分には解明されていないのが現状であり、 新しい設計法の確立が望まれています。また、建築基準法においては、このような建築物の安全の検証として、 限界耐力計算等の高度な構造計算を要することが多くなっています。
そこで、一般社団法人木を活かす建築推進協議会では、当該建築物が改正建築基準法における円滑な審査に資するよう、国土交通省の補助を受け伝統的木造軸組構法住宅の設計法の開発を進めています。
その設計法の開発にあたり、伝統的構造要素の構造耐力実験を行います。
伝統的構造要素の実験は、事業者の皆様のご要望の構造要素等についても実験を行うこととし、実験項目(試験体)案を募集いたします。 
ついては、下記によりご応募いただきますようお願い申し上げます。

応募対象 : 伝統的木造軸組構法の構造要素(壁、床、軸組、接合部、その他)

この実験を担当するのは、もうお判りでしょうが、先に私が問題点を指摘し批判した2008年12月の「伝統的木造架構住宅の実物大実験」、2009年2月の「伝統的木造住宅を構成する架構の震動台実験」(下註をご参照ください)の実験をした人たちと同じく、現在、国土交通省の建築基準法がらみで、「木造指針」作成をいわば牛耳っている毎度お馴染みのメンバーの一員です。さらに付け加えれば、このメンバーは、同じ大学・大学院の研究室の「同窓生」で、主宰者はその研究室の主であった人。国土交通省側にも多分いるはずです(未調査)。知れば知るほど旧弊のイヤな世界です。

   註 「『伝統的木造架構住宅』の実物大実験について-1~」
      「『利系の研究』・・・・『伝統的木造住宅を構成する架構の震動台実験』」

「伝統的木造軸組構法は、その構造性能について十分には解明されていないのが現状であり・・」と案内文にあります。
この文言は、私に言わせれば、当実験主催者の「理解・認識」不足を示しています。「科学的に」正確に言うならば、「現在主流をなし、建築法令の基礎となっている構造理論では、十分理解されていない」と言うべきなのです。それはあたりまえ、「伝統的木造軸組構法」は、現在主流の理論によるものではないのですから。

この方々は、性懲りもなく、と言いたくなるほど頑迷に、「伝統的木造軸組構法」を自分たちの「理論」に組み込むべく、「建物あるいは架構は構造要素の足し算である」という考え方にのめりこんでいる、としか思えません。それはもう、彼らの思考を止める「呪縛」と言ってよいのでしょう。

実験の募集要項には、「構造要素」の例として、各種の「継手・仕口」や、各種の「壁の仕様」などが挙げられています。

いったい、それらの足し算で建物あるいは架構が出来上がるなどと、どうして考えられるのでしょう?実際に設計したことがあるのですか?不思議です。

それは「建築の要素の辞書づくり」なのだ、と言うのかもしれません。
しかし、言語の辞書、たとえば「国語辞典」「国語辞書」には、かならず「用例」が例示されます。
けれども、今行なわれている前記の「理論」あるいは「実験」では、「用例」が示されたことはありません。仮にあったとしても、きわめて恣意的に「例」が持出されるのが普通です。
「用語の羅列」「要素の羅列」は、無意味です。
「単語・用語」を知っていたからといって、それに何の意味があるのですか?

それにしても、なぜ、資料はいっぱいあるのに、「用例」を数多く示したがらないのでしょう。もしも、いろいろと「用例」を調べれば、「要素」の実験、「要素の足し算」では「本質に迫れない」ことが分る筈なのです。それが嫌なのか、と疑いたくなります。

この人たちのやっていること、やろうとしていることは、まことに、「書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質を見失い、本質を抹殺する」ことなのです。

私の若い頃、まわりはほとんど皆、「要素への分解」でものごとが分る(判る)、という考えの持ち主でした。ものごとは「要素の足し算」だというのです。
今でもはっきり覚えていますが、「本質」という語は禁句でした。「本質などというものはない」とサトサレたものです。
そんなことが、引用したいろいろな著作を読み漁った当時の理由。いずれも、20世紀の「思潮」に危惧を抱いた人たちの著作です。
そして、建築の世界では、状況は、その頃よりも一層悪くなっている、というのが私の実感です。

「まとめ」に入る前に、鬱陶しい話で長くなり恐縮です。
でも、私たち皆が、「王様はハダカだ」「王様の耳はロバの耳」と「臆面もなく言い続ける」には、どうしても「見かたの転換」「このような見かた・考え方」が必要だ、と思うがゆえに紹介させていただきました。     

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日本の建物づくりを支えてきた技術-35の補足・・・・「寄せ蟻」:「日本建築辞彙」の解説

2009-05-16 19:24:19 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

はじめに調べておけばよかったのですが、「寄せ蟻」について、「日本建築辞彙」には、次のような解説が図とともに載っていましたので紹介します。

よせあり:寄蟻
釣束ニテ格縁(コウブチ)又ハ鴨居等ヲ釣ラシムル場合ニ用フル仕口ニシテ之ヲ「送蟻(オクリアリ)」トモ称ス。
先ヅ釣束(ツリヅカ)下ニ図ノ如ク蟻枘(アリホゾ)ヲ設ケ次ニ釣ラルル木ノ上端ニ蟻穴及び迯穴(ニゲアナ)を彫リテ蟻枘ヲ迯穴ニ差込ミタル上いざらして蟻穴ニ差入ルルナリ「にげあな」ヲ見ヨ。

にげあな:迯穴
「すあな」トモイフ。釣束ニテ格縁(コウブチ)又ハ鴨居等ヲ釣ル場合ニ釣束下ニ蟻枘ヲ設ケ次ニ釣ラント欲スル木ノ上端ニ二様ノ穴ヲ連ネテ彫るナリ。一ハ図ノ「ニ」ノ如ク蟻枘ノ幅ニ等フニシテ矩形ニナシ他ハ「ア」ノ如ク上ヲ狭メテ彫ルナリ。仍テ枘ヲ先ヅ「ニ」ニ差込ミタル上之ヲいざらして「ア」ニ差込ムナリ。其「ニ」ハ即チ迯穴ニシテ「ア」ハ蟻穴ナリ。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-35・・・・継手・仕口(19):「送り蟻」

2009-05-16 03:55:30 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

今井町の「高木家」のおよそ180年前に建てられた「豊田家」が、「高木家」同様、「差鴨居」を主軸に据えた架構であることは大分前に紹介しました(「日本の建築技術の展開-28」)。
「豊田家」は、「土台」を使わず「貫」も「高木家」に比べるときわめて少しです。
間仕切の交点を「通し柱」にして、「通し柱~通し柱」を「差鴨居」で結ぶ手法は「高木家」と同じですが、「高木家」がすべての柱を4寸2分(12.7cm)角で統一しているのに対して、「豊田家」では「大黒柱」を使い、他の柱も5寸角内外で少し太めです。このあたりは、上掲の軸組架構図を「高木家」の架構図と比べるとよく分ります(「日本の建物づくりを支えてきた技術-32」参照)。

「豊田家」も「差鴨居」がいわば主役ですが、「柱と差鴨居」の「仕口」は「高木家」のそれとは大きく違い、「豊田家」では、上掲の図のように、「シャチ栓」は使ってはいますが「竿シャチ継ぎ」ではありません。

ここでは先ず、図のような、取付け用の「部材」を柱に差して据え、次いで「差鴨居」を柱に差し、先の「部材」の「シャチ」道に「シャチ栓」を打ち込み固定する、という方法です。
この部材を「雇い枘」と呼ぶようです。「枘」を別材で誂えた、という意味でしょうが、「雇い竿」の片側だけを「蟻」で柱に取付けよう、という考え方ですから、「半雇い竿」とでも言った方が分りやすいかもしれません。
このような「仕口」を、「文化財建造物伝統技法集成」では「送り蟻」(「雇い枘」)と表記しています。

「鴨居」を梁などから吊るとき、「寄せ蟻」という方法が使われます。
「吊り木」の下端を「蟻型」に加工し、「鴨居」の方には「蟻型」の頭の幅の箇所に続いて「蟻型」を刻んでおき、吊り木下端を一旦広いところに入れ、横に滑らせ「蟻型」を噛み合わせる、という方法です。手が込んでいますが、きわめて確実な技法です。
この「寄せ蟻」の手法を垂直方向で使い、それに「シャチ栓」を打ったのが「送り蟻:雇い枘」と言えばよいでしょう。

上掲の図の最下段、仕口分解図は、下から見上げた図です。錯覚を起こすかもしれませんが、こうしないと、「送り蟻」:「寄せ蟻」にする部分が見えないのです。恐縮ですが、視角を矯正しながら見てください。
なお、南側に入る「差鴨居」は省略しています。

柱と柱の間の横材に荷がかかれば、横材は下に湾曲しようとします。そのとき、横材の上面側は、柱から離れようとします。ですから、この技法は理屈としては適っています。
もっとも、今の「計算が得意の構造屋さん」は、「蟻」で耐えられるか?という疑いの目で見るでしょう。そして、実際に引張ってみないと気がすまないかも、納得しないかもしれません。しかし、こういう事例は寺社建築でもあたりまえだったようです。ということは、「歴史という実験室」で、すでに確認されている手法・技法なのです。

この部分を詳しく知ろうとしたのですが、取り寄せた「豊田家住宅修理工事報告書」には、「高木家」のそれのようには詳しい図面が載っていません。

また、部材寸法についても、
たとえば、
柱に付いては「当初材の材種は、大黒柱二本は欅材、その他は殆ど檜材を用い二階柱二本は栂材であった。・・・南の大黒柱は断面が一番大きく33.7cm角の面取りに仕上げられ、面内(めんうち)32.2cmであった。北柱(註 「ほ・十二」柱)も次いで断面が大きく28.9cmあり、・・・その他の通し柱は平均15cm(5寸)内外のものが多く、正方形ではなく一辺が長くなっているものが多かった。・・柱の断面平均寸法を14.5cm(4寸8分)と推定し、畳寸法を1.91m×0.955m(6.3尺×3.15尺)とすると・・・柱間寸法は二間であれば・・柱眞々の寸法は13.08尺、一間半では・・9.93尺(となり)・・・この建物は畳を基準とし平面を定めているものとしか思われない。・・」、

「差鴨居」については、「差鴨居の丈は『東なかのま』廻りが最も大きく、大体42.8cm(1.41尺)あり、その他の部屋は27.8cm(9寸2分)程度のものが多く・・・」
と触れてある程度です。

それゆえ、上掲の図は、これらを基に、この仕口の「原理:理屈」を示すために、各部の寸法を推定の上描いたもので、実際の寸法ではありません。

「高木家」の「仕口」は、「差鴨居」の端部を「竿」に刻んで柱を貫き通す方法:「本竿シャチ継ぎ」です。「豊田家」の時代に、この方法がなかったわけではありません。「雇い」の方法も、その時代にはあります。
つまり、「豊田家」でも、「本竿」にすることも、「雇い竿」にすることも可能だった筈です。
では、なぜ「送り蟻」にしたのでしょうか?

これから先は、まったくの私の推測、憶測です。
「本竿のシャチ継ぎ」にするには、大黒柱では、最大で竿の長さが軽く2尺を超えてしまい、長すぎて工事中の維持が難しい。また精度も要求される。
「雇い竿のシャチ継ぎ」とするには、柱の両側について精度が要求される。しかし、そういう精度を得るのは難しい。それは、報告書にあるように、柱の材寸が、それこそ一本ずつ異なることからも分ると思います。

片側だけの「送り蟻」ならば、それなりの精度は確保できる、少なくとも「本竿」「雇い竿」で要求される精度を得る苦労よりも半分の苦労で済む。
おそらく、こういう判断がなされたのではないでしょうか(もちろん、「蟻」で取付くことに何ら問題がないことは経験で知っていたのでしょう)。

つまり、「高木家」の時代に比べ、刻みの精度がよくなかった、いわば、「現場合わせ」:現場で垂直・水平を確保する仕事だった、のだろうと思います。そしてそれが、「豊田家」では、調査・修理担当者が、仕口の詳細な採寸を報告書で報告しなかった理由なのではないでしょうか。

「高木家」建設の頃は、いわばきわめて「近代的」なプレカットができるような時代だったのかもしれません。

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