建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

再検・日本の建物づくり-2:人は何処にでも建てたか

2009-12-30 09:21:17 | 再検:日本の建物づくり
[文言補訂 31日 2.18、10.07 1日 23.50]
今、建物は何処にでも建てられています。
どんな低湿地だろうと、どんな吹き曝しであろうと、どんなに盛り土をしたところであろうと、・・・・お構いなく建てられています。そしてそれが「技術」の進歩の成果だとも思われてもいます。

では、そういう《現代的な「技術」》のなかった時代はどうだったのでしょうか。

先回、集落は「必要条件」「十分条件」で立地が選ばれる、と書きました。
「必要条件」が揃っていても、更に「選択」が行なわれるのがあたりまえでした。
その「選択」は、住む人たちの、その場所に対する「感じ方」が決め手になっていたのです。

下の写真は、私の暮す集落のいわば「原点」とでも言うべき、この集落で最も古いと考えられる屋敷周辺の遠景です。
赤茶色の屋根が、この集落で最も古いお宅の長屋門(元は茅葺だったと思われます)、そこから更に50~60m入ったところに主屋があります。
最も古いことを示しているのは「地番」で、ここは当集落の1番地なのです。
なお、背後の森とそこから右へと(東に)広がる森がこのお宅の持分で、森は斜面にあって、森の内側の台地部分は、広大な畑が切り開かれています。
このお宅の左側(西にあたります)の瓦屋根のお宅が、多分、この集落で次に古いお宅です。


屋敷遠景

写真では分りにくいですが、最も古いお宅の屋敷は、地形的に、水田から少し引っ込んだ「潜み」にあります。それは、この地区の地図を見ると分ります。
下の地図の〇で囲んだところが写真の範囲で、並んでいる建物の右手側の一群が最古の御屋敷。
地図で網を掛けてあるのは、標高25m以上のところ、と言っても、台地はそのぐらいの高さで続いており、それ以上際立って高いところはありません。


周辺図 「出島村都市計画図」より

地図でも分るように、この集落への道は、台地上に通じていて、そこから急坂を下ることになっています。
しかしそれは、2・30年前にできたもの。それ以前からも台地上に道はありましたが、いわば山道で、車などは通れなかったと言います。

往時の主要な道は、〇で囲んだところの中腹を等高線沿いに通る道と、水田の縁の道。中腹の道も西へとずうっと続いていたらしい。今は〇で囲んだところにだけ残っています。幅は広くても1間。
なぜ、往時の道と分るかというと、電気の配線、つまり電柱がその道沿いにあるからです。

地図の等高線間隔は5m、写真に写っているガードレールのある道の標高が、約6m、この道は、一帯の水田の区画整理の際にできたもので、道幅は5mほど。田んぼの縁を通っていた道を拡幅したもので、幅1間ほどの旧道も、等高線沿いに、ところどころに残っています(今の道は、車を通すため、かなり強引につくられています)。
そこから2mほど下がったあたりから水田が始まります。

この田んぼの縁の道に沿って、往時の水路跡もところどころに残っています。
上流の堰から引いた水路。そこから田んぼに水を落とし、田んぼを潤した水が中央の川へと落ちる、そういう構造(規模は小さいですが、伊奈備前守の行なったのと同じ、いわば田んぼの構造の基本*)。
今は、田んぼ用の水道が通っています。
   * http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ae49f624f8e51ddd70a526b9b83e99b1

話がそれましたが、最古の屋敷は、自然の地形の潜みをそのまま使って、それに応じて建屋が建っています。長屋門からは、少し高みになります。つまり、自然の緩い南傾斜面。

最近建った家では、と言っても2・30年前と思われますが、丘陵の斜面を削り取って平坦な場所をつくり、そこに建屋を建てています。自然の平坦地には、すでに先住者がいるからです。
重機を使って、建屋の裏手には3、4階建ての高さぐらいの切り立った削りっぱなしのローム層の崖。大丈夫かな、と心配になるほど。たしかに、重機があれば簡単にできます。
往時は、こういうことせず、もう少し、適地を探して建てたのではないか、と思います。

しかしそれは、重機がなかったから、という理由だけではありません。
「無理」はしなかったからです。
自然の理で、いずれは侵食され、崩落する、だからそういうことはしなかったのです(このあたりのローム層は、かなり締っていて、ときには半分砂岩のような粘板岩のようなブロックになっていて、雨の後など、崖下に落ちていたりします)。


最古のお屋敷の長屋門から主屋へ向う「線」は、屋敷内の建屋の基準線になっています。いわゆる「軸線」。
この軸線はどうして決まっているのでしょうか。もちろん磁石の南北とはまったく関係ありません。
これは地図からはなかなか分りません。

しかし、実際に現地に立つと直ちに分ります。
水田の縁の道から屋敷の方を見るとき、視線の方向と長屋門~主屋の線に何の違和感も感じない、つまり、そこで自然に人の目が向かう方向、それが軸線になっているのです。逆に、屋敷内から外:水田の方を見るときも同じです。

では、なぜ、目が自然とその方向に向くのでしょうか。

一言で言ってしまえば、人の目は、視界の中に、いわば「重心」をとっさに見分けるからだ、と言えばよいでしょう。そこを「重心」にすると、安定する、安心するのです。それによって、自分の「いま在る位置」を確認・比定できるからです。
「重心」を見出せ、人を安心させる、それが、人びとが「必要条件」に加えて求める「十分条件」にほかならない、と言ってよいと思います。[文言補訂]

逆に、目に見える「風景」に「重心」を見出せないと、人は不安になり、やむを得ず、単純に前へ歩を進めることになります。これは、かなり前に、「人を不安にさせる病院」を例に書いたことにほかなりません(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/d17820975974c21230a13c527f26af2d)。


屋敷配置図 goo地図検索から

これは古代の建築でも同じです。
法隆寺の伽藍は、「軸線」が磁北からやや西に振れています。
現在の法隆寺は再建されたものというのが定説になっていますが、当初の法隆寺の伽藍ではないかと考えられている遺構の軸線は、更に西に振れていて、その振れは磁北から約20度です。
つまり、磁北にこだわっていないのです。
いったい、その軸線の決め手は何か。

下の図は、法隆寺の寺域図です。
これを見ると、伽藍は、西北から南東方向への緩やかな斜面に建っていることが分ります。ですから、回廊も北へ向かって緩い登りになっています。
西北方向には、丘陵があるのです。


法隆寺 寺域図 「奈良六大寺大観 法隆寺一」より

航空写真を見ると、法隆寺の立地がよく分ります。
奈良盆地の西、盆地の南から流れてきた大和川が、山あいを西の難波に抜ける、その近くの丘陵の南端に法隆寺は敷地を求めています。
なぜこの地が選ばれたのかは、書物にも書かれていませんが(私の知る限りです)、難波からの入口=難波への出口に近いことが一つの理由だったのではないか、と思います。異国の文化は、このルートを通って大和に入ってきたはずだからです。


法隆寺周辺 航空写真 google earth より

航空写真に白い線を描き込んでありますが、これが磁北から西へ20度振れた線です。白い線の先端のほんの少し左が法隆寺の伽藍、線の左脇に見える黒い直線が、現在の参詣道の並木です。
下の方を曲りながら流れているのが大和川です(大和川は、平城京の中を流れますが、そこでは条理に合わせて改修されています)。

おそらく、地上でこの方向で写真を撮ると、安定した図柄になるはずです(今は、手前が建て込んでいるために、よく撮れないかもしれません)。
西へ20度振れた線は、多分、視界の「重心」の位置、方向を示しているのです。
つまり、当初の法隆寺は、建てる場所の「環境」に素直に応じて建てられたのではないか、と私は考えています。

これは先に見た農村集落内の屋敷の構え方と同じ考え方です。
そして、この「感覚」、自分の居るまわりの様相に「意味」を感じとる「技」は、ことによると日本人独特のもので、それが後の「方丈建築」「書院建築」や「茶室」を生み出す素地となっているようにも思えます。

では、再建法隆寺は、なぜ振れが少なくなったか。おそらく、平城京の条理に合わせて寺域の南を通っている街道(奈良から難波へ向かう重要街道)の位置が改められ(極力「条理」に合わせたと考えられますが、東西軸からは多少ずれています)、それに直交する形で建てられたものと思われます。
おそらく、自らの「感覚」と、「条里制」という「規制」との狭間でのやむを得ない判断だったのではないかと思います。


条里制が施行されると、建物もまた条理に合わせるようになってきます。
それを東大寺の伽藍で見てみます。


東大寺伽藍 配置図 「奈良六大寺大観 東大寺一」より

今もって分らないのが、なぜ東大寺は平城京の条理をはずれた東北角にはみだしてつくった理由です。これも私の知る限り、納得のゆく解説は見たことはありません。

それはともかく、東大寺の伽藍の内、大仏殿の後の講堂を取り巻く大伽藍の東半分は、若草山の西斜面を大がかりに切って平坦地をつくり、そこに条理に合わせて計画されています。
上の図で、等高線が伽藍の東側に沿って曲がっているのが分ります。

ここで留意する必要があるのは、伽藍は「切り土」した場所で計画されていることです。
「切り土」した以上、大量の土が出たはずですが、それがどこに積まれたのかは詳らかではありませんが、等高線の様子から、「大仏池」の北側、正倉院の南西側の建物の建っていないあたりかもしれません。
「大仏池」の西側は堰堤様に見えますから、もしかしたら、これも切った土を盛ってつくったのかもしれません。

このように、「盛り土」したところには、少なくとも東大寺関連の建物は建てなかったのではないかと思われます。

興味深いのは、主要伽藍を離れ、東側の斜面に建つ建物(二月堂、三月堂など)は、建屋自体は条理に従い東西南北に合わせていますが、かなり周辺「環境」に馴染ませることに気を遣っていることです。
ここでも、当時の工人たちは、「条理に合わせること」と馴れ親しんできた「環境に合わせること」との間で悩んだに違いありません。

   註 これは私の直観的感想ですが、おそらく「条里制」は、普通の人びとにとっては、
      受容できない「制度」だったのではないかと思います。
      この国に暮す人びとにとっての「感覚」とは齟齬があったからです。
      この国に暮す人びとの「感覚」は、「環境に合わせること」だったのです。
      広大無辺の場所で生まれた「条里制」は、性に合わなかったのだと思います。[文言補訂」


以上見てきたように、人びとにとって、「建物をつくる」ということは「既存の地物:環境と共にある場所・空間をつくること」である、という認識があたりまえだった、ということにほかなりません。
なぜそうするか。
それは、「自分たちの居場所をつくること」「自分たちが在る場所をつくること」が「目的」だからです。
そのとき、自らの「感性」「感覚」にそぐわない場所:空間をつくるわけがないのです。

つまり、「建物をつくる」ということは、建「物」をつくることではないのです。そしてこれが、人びとにとって、あたりまえな「建物をつくる論理」だったと考えてよいでしょう。
この「論理」は、少なくとも、明治の「近代化」までは、人びとの間に脈々と受け継がれてきた、そう私は思っています。

では、それに代る建物づくりの「論理」が、現在あるかというと、残念ながら、何もない。
それが証拠に、最近都会につくられるビル群をはじめとする建物の節操の無さは、度を過ぎている、私はそう思っています。強いて挙げれば、そこにあるのは「利」を貪る「貪欲の論理」だけです。
そういったものをつくる人たちには、環境や景観を語る資格はありません。

私が古代~近世の建物や農山村の建物に惹かれるのは、そのつくり方の「論理」や「技術」が、人の感性を尊重し、なおかつ「合理的」だからなのです。

「自分たちの居場所をつくること」という「論理」にそぐわない技術も、それは「本当の技術」ではないのです。
たとえば、現在の「耐震化」「耐震補強」の技術は、「本当の技術」ではありません。
なぜなら、私たちの居場所に制約を強制するからです。人は、耐震のためにだけ居場所を構えるのではない、ということを考えていないからです。
「自分たちの居場所をつくること」を保証する「耐震化」「耐震補強」の技術になっていないからです。
同様に、建築基準法の諸規定も、建物をつくるとは人にとってどういうことなのか、その基本・根本を考えないまま設けられているのです。それをして「基準」とは、これ如何に![文言補訂]
「技術」が一人歩きしたとき、それは「本当の技術」ではありません。

私が、今回、このようなことから書き始めたのは、これまで「技術」という点に絞って書いてきて、ことによると「技術が技術として成り立つ『前提』」を見忘れ、「歪んだ」理解を広めてしまうのではないか、と思ったからなのです。

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今年は、これでお終いにします。
明年も、よろしくお願いいたします。
よい年になりますように!

これから、ねこの破いた障子の張替え作業に入ります。
コメント (3)

速報・・・・「3階建て木造住宅倒壊実験・試験体」詳細の事前開示について

2009-12-28 18:48:57 | 「学」「科学」「研究」のありかた
去る21日に問い合わせた件について、
「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」事務局から、先ほどご回答をいただきました。
今回は、そのまま(差し障りのある部分は消去して)転載させていただきます。
今日は、この内容についての私のコメントは書きません。
この回答内容について、皆様は、どのようにお考えですか?



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今年最後の記事は、29日~31日の間に載せるべく、ただいま準備中です。

再検・日本の建物づくり-1:人は何処にでも住めたか

2009-12-25 19:14:10 | 再検:日本の建物づくり
[文言補訂 26日 3.27、10.21]

先回の末尾で、「・・・・これまで使った図版などを使いながら(足りない場合は補足し)、もう一度、しつこく、日本の建築技術を再見・再検しようと考えています。
というのも、講習会の参加者の年齢が、9割までが1950年以降の生まれ、そして、大半が都会育ち。当然日本の木造建築を見る機会が少なく育ってきた・・・・、そういう印象が強かったからです」と「予告」しました。
そこでさらに考えて、「技術」というと、どうしても狭く考えられがちなので、「建物づくり」にあたって人はどのように考えていたか、という視点で書いてみることにしました。その視点で「技術」を考えることになります。いわば「技術」がどうして育まれたか、ということになるでしょう。
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今回は、「人は何処にでも住めたか」という話から始めます。「建物」以前の話ですが、それについて、つまり、何処になら住めるか、という認識がないと、建物はつくれなかったはずだ、と私は考えています。
しかし、このような話題:人は何処にでも住めたか:は、建築の人はあまり好みません。「つくること」が先ず頭に浮かぶからなのだと思います。
それでいて「環境」「景観」は、建築の人がよく使う言葉です。いったい、何を指して言っているのか、いつも不思議に思います。

以前にも書いたことですが(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/85d87afbf1d9ecf62918814fb62cf2ae)、東京・新宿から中央線で西へ向う車窓からは、「高尾」を過ぎるころまで、視界の一帯がすべて屋根また屋根の連続、高架化が進んだため、遠くの果てまで屋根で埋め尽くされているのが分ります。ほっとするのは吉祥寺のあたりで緑のかたまりが見えるときぐらいです。井の頭公園です。

こういう風景に見慣れてしまうと、人はどこにでも住めるのだ、と思ってしまってもおかしくありません。

しかし、べったりと屋根で埋め尽くされたのは、そんなに昔からではありません。
下の地図は、1955年と1987年の東京西部、環状8号線あたりの国土地理院の地形図です。
約30年の隔たりがあるのですが、1955年(昭和30年)当時は、環状8号線以西には、家々の建たない部分がかなり残されています(地図の白い部分)。
この地図は先の記事で使用したものです(縮小したので見にくいかも知れません。大きい地図は、先の記事で見られます)。



私の育ったのは、このあたり、後に環状8号線となる幅6~7mほどの道路から西へ300mほど入ったところ。
まわりには杉林がたくさんあり(人工林で、「四ツ谷丸太」と呼ばれ足場の丸太に使われていたのだそうです)、欅の枝が道に覆いかぶさっていました。麦畑が広がり、茅葺農家も点在し、のどかで落ち着いていました。
後の環状8号は砂利道で、牛車や馬車が時折り通っているだけ(坂道では後から押し、下りの時にはぶらさがったりしたものです)、人は堂々と道の真ん中を歩いていました。

それが変りはじめるのは、昭和30年代以降、環状8号で市街化区域打ち止めという都市計画が、あっさりと変更になってしまってからです(先の2007年のときにも書きましたが、これが、東京が西欧の都市とはまったく異なる様相を呈すようになった原因です)。

とは言っても、簡単に住宅が増えていったわけではありません。
当時、一帯には上水道がありませんでしたから、井戸水が頼り。下水道もありませんから、汚水は地下浸透。家々が密集してくると、井戸水は汚れる一方。お金をかけ余程の深井戸にしないと飲めない地域が増えていたからです。
それでも人口の都会への集中が激化し、それを追うように水道敷設地区が増え、それをあてにしてまた住宅が増え、林や畑は次から次へと侵食され(例の「八っ場ダム」は、この頃の人口増:飲料水需要増を踏まえた計画だったはずです)・・・・・・そして現在の姿になってしまった、というわけです。

こういう経緯を知っている私たちの世代は、都会育ちであっても(あるいは都会育ちであるがゆえに)飲料水の確保や汚水の処理がいかに重要であるか、よく知っています。
けれども、初めから上下水道完備の場所に住んでしまうと、おそらく、人が住むための「必要条件」が忘れられるのではないでしょうか。

人が住むことができるための「必要条件」、それは「食料」「飲み水」が得られることです。
そして、この「必要条件」が、「集落」の原初的な段階の「立地」選定の根本的な指標になるのです。日本の場合、「飲み水」は湧き水や井戸が頼り、「食料」は主食の米が得られること、手近に稲が栽培できること、でした。

今の東京は、最初に触れたように、どこもかしこも建物で埋め尽くされていますが、この東京でさえ、最初に人が住み着いた、つまり「集落」が生まれたのは、「必要条件」の確保できるごく限られた場所でしかなかったのです。そして、「必要条件」を確保するための「技術」の進展とともに、最初の「集落」の周辺に、新たな集落が生まれる、この連続が、現在の東京をつくったのです。

では、西欧の都市では、なぜ建物で埋め尽くされるようなことが起きなかったのでしょうか。
それは、人びとが「必要条件」だけで「事」を決めなかった、「十分条件」をも考慮したからだ、と言えると思います。
この場合の「十分条件」とは、言ってみれば、「人間的」あるいは「感性的」な「条件」と言えばよいかもしれません。
これは、例えて言えば、弁当持参で山道を歩いていて、腹がへったから、といって、所構わずにどこででも弁当を開く、ということはなく、通常は、あたりを見まわして、弁当を食べるのに相応しいと思える場所を選ぶことを思い出してもらえばよいでしょう。
この無意識に行なっている「選ぶ」という判断、そうさせるもの、それが「十分条件」の中味と言ってよいでしょう。[文言補訂]
    もっとも、コンビニの駐車場の縁石に腰を下して食事をしている最近の若者たちを見ていると、
    いまや、「必要条件」さえ充たせばよい、というようになっているのかも・・・・などと思ったりもします。

少なくとも近世までは、日本のどの街も、この「十分条件」は考慮されていたと考えてよいでしょう。「必要条件」がそろっているからといって、隈なく住むなどということはなかったのです。それゆえ、西欧の都市と同じように、市街地のまわりには田園が広がっていました。市街地の汚物なども綺麗に片づけられていました。江戸の街は、当時の諸外国の街に比べて数等綺麗で清潔であった、と訪れた西欧人が書いているそうです。
    今の東京は、「必要条件」だけでよしとした、別の言い方をすれば
    「貪欲が支配する社会」を象徴する姿、と言えるのかもしれません。


「集落」の成り立つ「必要条件」「十分条件」を充たして生まれ、建物で埋め尽くされることなく、いまだに当初の姿を残している地域の例で見てみます。
下の地図は、最近とみに侵食が激しくなりつつある筑波山麓一帯の、まだ静かだった20年ほど前の地図です。



網を掛けてあるところは水田です。水田が東の方へ伸びています。地図でAと記した部分です。
このような地形は、東側の山から流れてきた川によってつくられています。地図には、北側と南側に東に向う道が2本あります(北側は広く、南側は山道で細い)。いずれも坂道で、鞍部を越えて山向うの集落に至ります。と言うより、地質上、水が流れて鞍部が生まれた、その谷沿いに歩いて峠越えの道ができた、と言う方が正しいでしょう(この場所では、谷にいつも水が流れているわけではありません)。[文言補訂]

さて、このAの部分は、何の手も加えずに稲を育てることのできる絶好の場所、天然の田んぼでした。しかも裏山では綺麗な水が湧いています。「必要条件」はそろっています。そのような所を見つけて人は住み着きます。それゆえ、Aは古代の条里制の水田遺構があったところなのです。
そして集落は、おそらく山裾の田んぼの縁にあったのだと思われます。Bと付した東側の「六所」「立野」そして、田んぼの南の「館」などのあたりです。どこも飲み水には恵まれています。

網をかけた水田の北の縁、筑波山の南麓に沿って、ほぼ等高線上にBと付した場所が並んでいます。現在、集落のあるところです。
この集落の中には、北側に自噴する泉水のある庭を設けている家があります。
この等高線のあたりは、筑波山に降った雨水が地下水になって地表近くに表れる地点なのです。

しかし、等高線のどこでもいい水が得られるのに、Bと付した集落は連続せずに途切れ途切れに並んでいます。
これは、「必要条件」が揃っていれば、かならずそこに住み着くとは限らない、ということにほかなりません。ここで「選択」が行なわれているのです。
そして、その「選択」にあたっての指標になるのが「十分条件」なのです。
これは、あたりを実際に歩いてみると直ちに納得します。
集落のない場所は、まわりに比べ、それほど気分のよい場所ではないのです。
東京の近くだったら、所構わず家が建つでしょうが、このあたりでは、人はこういう「選択」をすることができるのです。

さて、天然の田んぼの容量には限りがあります。天然田んぼだけで暮せる人口には限りがあるのです。
そこで次に人が住み着くのは、天然田んぼよりは見劣りはするけれども水田化できる場所です。
それが河川のつくりなした「自然堤防」や「中洲」です。地図ではCという符号を付けてあります。

当然、Bのような良好な地下水が手近に得られるわけではなく、井戸が頼りです。井戸の水質のよいところが集落の拠点になります。
Cには自分たちでたどりついて開いた場合と、周辺のBのような集落から、意図的に住み着く「新田」の場合とがあります。

この地図の地域にはありませんが、時代が下れば、時の政府の指示による大規模の開発による「新田」もあります(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ae49f624f8e51ddd70a526b9b83e99b1参照)。

このほかに、この地図には見当たりませんが、奈良盆地などで多く見かける「環濠(かんごう)集落」と言われる集落があります(関東平野でもあります)。
これは、さらに条件の悪い低湿地に住み着く方法で、周辺に濠を掘り、その土を築き上げて居住地をつくるのです。
濠が排水先になり、居住地は一定程度居住条件がよくなります。当然飲み水は井戸が頼りです。

以上が、この地域の(多分、各地域の農業集落に共通の)諸相なのですが、1960年代頃から、大きく変ってきます。
その要因は、簡易水道の普及です。
自給体制:農業や商業は早くから大きく変っても、飲み水に頼ることだけは変りませんでしたから、住居の立地は相変わらず集落内でした(「必要条件」とは、人が生きてゆくための条件なのですが、その具体的な姿は時代により変るのです)。
これが簡易水道の普及で大きく変り、集落の外に出るようになるのです。中には田んぼを埋め立てて、そして住宅メーカーも進出し始めています。
集落の「秩序」が大きく変り始めた、と言うより、新たな「秩序」が見出せないまま集落が崩れてゆく、と言う方が当っているでしょう。

観ていると、都会のあとを追いかけているのではないか、とさえ思います。なぜなら、自然環境はまったく以前と変っていないのに、「都会の環境?」向きのつくりが多く見られるようになっているからです。
「必要条件」は所によって変ることはありませんが、「十分条件」は、地域によって当然異なります。
各地域なりの「十分条件」を考えない「都会風の貪欲化」が農村地域にも現われ始めている、そんな風に思えます。

「必要にして十分な条件」を備えて初めて建物はその地の建物になる、そう私は思います。
コメント (2)

再び、「3階建て木造住宅倒壊実験」その後

2009-12-22 01:31:32 | 「学」「科学」「研究」のありかた
     
       夕暮れ

[註記追加 23日 8.16]
ピンと張り詰めたような冬の日が続いています。ここしばらくなかった久しぶりの感覚です。

11月の18日に、標記実験の試験体の詳細について「木を活かす建築推進協議会」問い合わせていたところ、事前公開の準備中、今しばらくお待ちください、との回答を得たことを、お知らせしてから一ヶ月経ちました(下記)。
   註 http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/c8854afb5c02e393d41f8c7afbcfd9fe

その間、例のケンプラッツでは、実験時の震動台への入力の数値が訂正されたり、あるいは、4個あった試験体の残り2個の実験が非公開で実施された、などの情報はありました。

しかし、例の実験に関しては、そんなことはなかったかのようにいたずらに日が過ぎてゆきます。
当然ですが、このまま「準備中」が続き、「今しばらく」が永遠に続く可能性もないわけではありません。

そこで、一ヶ月目の18日は金曜日でしたので、週明けの月曜日:21日に、下記のような「督促」の FAX を「・・・・協議会」あて送りました(段落は変えてあります)。

   註 それにしても、自分たちで勝手につくった団体に、
      「協議会」という普通名詞の名を付けるとは、
      まことに恐れ入ります。
      自分たち(だけ)で、協議した、と言うのかな?

こういう件は、人の噂も75日、にしてはならないのです。

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

  一般社団法人 
  木を活かす建築推進協議会 殿
  (〇〇 〇〇 様)
                               下山 眞司
                               (住所・電話番号略)


前 略

「3階建て木造住宅の倒壊実験」の試験体の詳細等を開示願いたい、との
小生の問合せ(11月6日、10日、そして17日にFAXにてお願いいたしました)に対して、
去る11月18日、貴会から、事前公開に向けて準備中ゆえ、しばらくお待ちいただきたい
旨のご連絡をいただきました。

以来すでに、1ヶ月を経過いたしました。
準備は進展したのではないかと思います。早急にお知らせくださるよう、お願いいたします。
私以外にも、詳しい状況を知りたいとお考えの方が多数居られますので、
試験体の詳細資料等は、貴会および日本住宅・木材センターのホームページでも
早急に公開されるよう、お願いいたします。
もしも、現在もなお準備中の場合には、
手間取っている理由と、いつごろ公開いただけるか、ご連絡いただければ幸いです。

なお、残りの試験体2棟の実験は、すでに終了した、という話を聞いております。
この実験は、なぜ公開されなかったのでしょうか。

年末のお忙しいところ大変恐縮ですが、よろしくご回答のほど、お願いいたします。

                                         敬 具

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

次回から、「年表」がらみで、これまで使った図版などを使いながら(足りない場合は補足し)、もう一度、しつこく、日本の建築技術を再見・再検しようと考えています。
というのも、講習会の参加者の年齢が、9割までが1950年以降の生まれ、そして、大半が都会育ち。
当然日本の木造建築を見る機会が少なく育ってきた・・・・、そういう印象が強かったからです。

技術は突然生まれない・・・・醸成ということ

2009-12-20 10:16:53 | 日本の建築技術


[註記追加 12.16][図版追加 15.16]
1週間ぶりになります。

日本の建築技術の展開を「年表」にまとめてみました。小さくて読みにくいかもしれません。これが目いっぱいの大きさ。

もちろん、分っていることによるもので、そして当然完全ではありません。
ざっとの大きな流れが見えればよいかな、との程度です。
便宜上、「住居」と「寺社等」とに分けてあります。
相互に関係がないわけではありませんが、いかにそれを表記するか、悩みの種。
三次元の表記でもしないと表現できそうもありません。

そこで、今回は、とにかく、基本的なデータだけ載せることに。
と言っても、これもやってみると簡単ではない。
それは、「時間軸を、実際の時間の長さに比例した表記にする」ことにこだわったから。

「実際の時間の長さに比例した時間軸」をA3判の用紙上につくり、事例を書き込む段になって、事例はあるのにスペースが足りない時代がある・・・・ということが明らかになり、やむを得ず、今回は載せるのを割愛した事例がかなりあります(おそらく用紙を2枚つなぎにする必要がありそう)。
あくまでも、現在思案中、ということでご覧ください。

   註 時代区分に特別な意味があるわけではありません。
      一般的な時代区分を書いておいたにすぎません。
      時代区分は、後世の人間のいわば都合に拠るもの。
      ずっとずっと連続的なのが歴史、そう考えます。[追加 12.16]

ここで明らかになるのは、現在、日本で「主流」になっている「建築法令が規定する木造建築」の年表で占める「大きさ」が、いかに小さなものであるか、ということです。
一応基準法制定の1950年を画期としていますが、そうなる前の20~30年を加えても、それが「主流」の時期・期間は、70~80年、日本の歴史の中の、ほんのほんの僅かな僅かな期間なのです。

しかも、そのほんの僅かな期間で「主流」になってしまった「建築法令が規定する木造建築」は、その前に広がる「壮大な歴史的事実」とは「無縁に」つくられてしまったものなのです。
つまり、折角の財産をポイと棄ててしまった・・・・。
こんな国は、ほんとに世界的に珍しい。そう私は思います。

なぜ棄てたのか?
それはきわめて単純な理由です。呆れるほど単純です。
「壮大な歴史的事実」を尊重することよりも、事象を数値に置き換えることの方を《大事に》したからなのです(「建築法令が規定する木造建築」では数値に置き換えられることしか考えていません!)。
数値に置き換えることが科学だと思い込んでいるのですね(今になっても変りありません)。
普通の人には「常識」である「技術は突然生まれるものではなく、醸成されるものだ」という認識がないのです。

これをして科学的だ、などという国は、そして、数多くの「壮大な歴史的な事例」を非科学的なモノとして棄てて平気な国は、他のどこにあるでしょうか?

なお、「住居」の系列では、室町期の「箱木家」「古井家」までに、かなりの空白があります。もちろん、住居がなかったわけではありません。実物はもちろん、資料がないにすぎません。
なぜ、資料がないか?
それは、明治期に生まれた学者・研究者たちの視界には、一般庶民の暮しは入っていなかったからです。
もしも視界にあれば、ある程度は、空白が少なくなっていたはずです。
現に、「箱木家」「古井家」に目が向けられたのは、なんと第二次大戦後のこと、それがなかったならば(伊藤ていじ氏の努力です)、この二つも消え失せていたかもしれません。

追加
図版を左半分、右半分に分けました。[15.16]

               
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『帝国ホテル(旧)』は、なぜ関東大地震で被災しなかったか・・・・「構造学者 建築を誤まる」

2009-12-13 17:44:24 | 構造の考え方
[註 追加 21.50][図版更改 14日 0.53]
大正12年(1923年)9月1日は、関東大地震の発生した日ですが、その日、竣工式を行なっていたのが『帝国ホテル(旧)』でした(着工は大正8年:1919年)。

この建物の設計については、当時の「専門家:構造学者」の多くが危険視していましたが、被害はありませんでした。

その翌年、大正13年、雑誌『科学知識』(大正13年1月号)に、F・L ライトの右腕として建築にかかわった遠藤 新(えんどう あらた)が、『帝国ホテルの構造について』と題する小論を寄稿しています。

彼はそのなかで、「構造学者 建築を誤まる」として、地震後の東京の建築は必ず悪くなる、と心配しています。
まことに核心を突いています。東京どころか、日本中の建築がおかしくなったのですから・・・。

   雑誌『科学知識』の関東大地震の前年、大正11年4月号には、
    F・L ライト自身が、「新帝国ホテルと建築家の使命」と題して寄稿し、
   何を考えて設計したかを述べています(訳 遠藤 新)。

『帝国ホテルの構造について』において、遠藤 新は、
沼沢地に等しかった東京・日比谷での、当時の「専門家の常識」をくつがえす構築の工夫について詳述し、
あるいはまた、
「鉄筋コンクリートは木に準じて使うべし」、「柔道の理論は建築にも当て嵌まる」など、
当時はもちろん、現在の専門家は決して考え及ばない、瞠目すべき考え方をも記しています。

また、当時の建築(構造)界が、震災後、こぞって建物の「剛体化」へと動いていた様子や、
F・L ライトは、初め構造学を専修した人で、明快な構造学の見識のある人物であったこと、なども紹介されています。

一読すると、F・L ライトが(遠藤 新 もまた)、ものごとへの対し方・考え方がいかに柔軟であったか、いかに構造についてセンスがよかったか、よく分ります。

当初、抜粋し、概略をまとめて紹介しようかとも考えたのですが、全文を紹介した方がよいと判断し、「遠藤 新 作品集」から、そのままスキャンして転載することにします。鮮明でなく、また文語体で読みにくいかもしれません。

なお、ライトの『新帝国ホテルと建築家の使命』も、機会をみて紹介します。

   これから1週間ほど、仮称「建築技術史年表・試案」作成の思案のため、
   お休みをいただきます。
   なお、18日には、ちょうど1ヶ月経ちますので、「木を活かす・・・協議会」へ、
   「資料公開開示」の督促をする予定にしています。

   註 帝国ホテルの平面図等は、下記をご覧ください。[追加 21.50]
      「再び、設計の思想・・・・旧帝国ホテルのロビーに見る」



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《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が「あたりまえ」になるには-その3 (完)

2009-12-11 15:02:59 | 専門家のありよう
      
       会津・喜多方の蔵造り 
        会津では、蔵造りの建屋が人びとの「願望」であった。
        煉瓦蔵は蔵造り相応の暮し易さがあり、蔵造りの技術を継承・発展させ、
        昭和30年代まで、つくられ続けていた。


[今回で終りですが、また長くなります。]

大学入試の社会科で受験生に最も敬遠される科目は、日本史と世界史であるという。
実際、入学した学生に問うてみると、高校で日本史を学んだ学生は半数にも満たない。中学校で学んだのが最後で、以後日本史とは無縁であり、ほぼ完全に忘れている。
仮に覚えていたとしても、平安京に何年に遷都したか、平安時代の文化を代表する作品は何であるか、などということだけで、それさえ覚えているのは珍しい。
当然世界史についても同様である。

《国際化》が叫ばれ、《国際交流》《国際関係》あるいは《比較文化》に関心を持つ学生が増えているが、そういう学生たちでも変りはない。
《国際的》とは、外国語が喋れ、外国に行くこと、と勘違いしているのかもしれない。そして、そういう時代だから、もはや(各国の)『歴史』を学ぶことなど無用である、とさえ思っているのかもしれない。留学生の方が日本について知っていたりすることも不思議でない。

それも無理もない。
わが国の学校教育自体が受験目当てになっているからである。受験が終われば忘れてしまうのである。
おそらく、何故歴史を学ぶのかということの認識が教育の現場から喪失しているのだろう。
とりたてて年号や作品名を覚えることを教えなくてもよいから、何故歴史を見るか、その重要なことだけは教えておいてくれないか、というのが私の願望である。
それさえあれば、逆に、時代や時代の文化の特徴も、ことによれば名前も、そして何よりも、文化とは何か、人の営為とは何か、考える姿勢が自ずと身についてくるはずだからである。

しかし、これも驚くにはあたらない。
大学の建築教育も(建築教育以外でも多分同じだと思われるが)、そしてそれを支えているはずの《大学教師》も、欧米の最新事情には(相対的に)通じてはいても、日本(の建築)の歴史を知らない、踏まえていないのが《あたりまえ》だからである。
日本の建築史は「日本建築史」の講座担当者が知っていればことが済む、おそらくそういうことなのだろう。すでにして、建築を学びあるいは教えることにとって、『歴史』を知ることがいかなる意味を持つのか、その認識が欠如しているのである。

   追記
   国際的:international この互換は、それぞれの語の意味の上で間違っていません。
   国際的:国-際 的 
   「際」:出合うこと、会うこと、交わり の意
   international:inter-national
   inter: 中の、間の、相互の という意
   ゆえに、いずれの語も、「国」「national」が、前提になります。
   その前提がないと、この語は、ともに成り立たちません。

考えてみれば、土地柄から、木材で構築物をつくるのがあたりまえであったわが国で、多くの《建築専門家》が木造を知らない、分らない、難しいと言い、木造を多少でも知っていると自ら《木造建築専門家》と称して憚らない、などという最近* の事態ほど異様なことはない(* 1993年当時の「最近」ではあるが、現在も変らない)。
そしてそれを、少しも異様と思わない《専門家の世界》は、常軌を逸していると言わねばならないだろう。

『建築史』の碩学が、いたずらに様式や細部の差異だけに目をやらず、
人びとにとって建物をつくるとはどういうことであり、
そしてそれをどうやって、何を使ってつくろうとしたか、
それが何故、どのように変ってきたのか、変らなければならなかったのか、
人びとの営為とのかかわりで建築の歴史を見る視点を確立していたならば、

また『技術史』の碩学が、技術を天から降って湧くものとしてではなく、いたずらにそのルーツを探すのでもなく、技術とはそれぞれの地域の人びとの生活を営む上での勝れた知恵の結集であるとの視点で見ていたならば、

そしてまた、『構造』の碩学が、木造を最初からダメなものと決めつけず、過去幾多の事例とその技の移り変りのなかに、人びとの知恵の結集を見るだけの素直な視点があったならば、

そしてさらに『建築計画』の碩学が、過去の生活の姿を、いたずらに《遅れた、改良すべき》生活とは見なさずに、そこに「人びとの生活」=「人びとの営為の真の姿」を見るべく努め、やたらに人びとの生活を《先導的に》《指導・改善》しようなどという大それたことばかりを考えなかったならば、

おそらく、いま目にする建築界の異様な状況は結果しなかっただろう。


かつて、《近代化》にために脱亜入欧が標榜された明治時代、将来の《先導的指導者》を約束されていた当時の帝国大学の学生たちは、捨て去るべきは過去の日本であるという「信念」の下、専ら西欧の《知識》の収集につとめたのであるが、彼らは留学先で日本のことを尋ねられ、はじめて「日本のこと=自国のことについて知っておくこと」も必要らしいと気がつく。
たとえば、わが国のおそらく最初の日本建築にかかわる辞典である『日本建築辞彙』の編著者である中村達太郎でさえ、書簡に「・・・・私は当時石灰は英国の何処に生産するかを知っていましたが、日本のどこに産出するか皆無知っていませんでした。日本建築構造も皆無知りませんでした。・・・・」と記している。
彼はその無知を知り、帰国後、それまで彼らが黙殺しようとしてきた大工・棟梁について日本の建物づくりの技を学び、先の著作にとりかかるのである。

おそらく現在、わが国の大半の《専門家・研究者・建築家》は、「日本建築について皆無知らない」し、知らなくてよいとさえ思っているのではなかろうか。そして、それを改めようとの気配は、ないに等しい。
それでいて日本の建築について《先導的・指導的》であろうとした場合、幾多の誤まった考え方を《先導》してしまうことさえ、十分にあり得るのである。
その一つの例を挙げよう。

会津・喜多方は蔵の多い街である。多くは土蔵であるが、それに混じって多数の煉瓦造の蔵がある。しかも町なかに限らず農村地帯にまで煉瓦蔵はある。
他の地域に例がないこの「異様な事実」に対する解釈として、東北地域の民家研究の第一人者を任ずるある研究者は「・・・・明治30年代にこの地で(煉瓦の生産が)開始(されたが)、必ずしも販路が順調では(なく)、その結果(煉瓦製造者は)出資者への配当や燃料代の支払いも滞りがちで、製品の煉瓦や土瓦を現物で引き取るよう要請されたとも伝えている。『煉瓦造蔵は作りたくて作ったのではない、作らせられたのだ』という住民の苦笑まじりの述懐もあるから、おそらく喜多方の・・・・煉瓦造は似たような事情で増加していったものだろう・・・・」(「喜多方の町並Ⅱ:伝統的建造物群保存調査報告書」より)、「・・・・昭和の初め頃まで、この付近一帯に増加した(木骨に煉瓦を被覆した)煉瓦造は、(煉瓦の吸水のため)内部の木柱が土蔵よりも腐食しやすいなどの欠陥が分って新築が後を絶った。・・・・それでも在来の白い土蔵と茅葺の集落のなかでも結構調和して見えるから奇妙である・・・・」(図説・日本の町並」より)と述べている。

同じく喜多方の蔵を紹介した『写真集・蔵』では、高名な建築技術史の権威は「明治24年の濃尾大地震後、煉瓦造は地震に弱いという評判が地下水のように地方の人々の耳に浸み込んでいた(ので、煉瓦造は日本には定着しなかった)・・・・」と記し、大正12年の関東大震災以後には、地方でも煉瓦造建築は完全に途絶えてしまうという《通説》を展開している。

       
        喜多方郊外の散村 土蔵と煉瓦蔵(手前)が並ぶ

おそらく、何も知らない人が、これら学術図書の部類に入る報告書や解説書・紹介所の類を読めば、そこに述べられている《事実》を「真実」としてそのまま信じてしまうだろう。
なぜなら、学者・研究者が真実の探求者であるとの「通説」が信じられるならば、その言説も真実であると思い込むだろうからである。
考えてみれば、これほど怖ろしいことはない。

噂、伝聞が誤まった情報を伝えることはよく言われることである。流言蜚語(飛語)の名のとおり、その多くは、文書によらない伝聞の過程中に捻じ曲がるのであり、発信源は必ずしも誤まっているわけではあるまい。
しかし、発信源が誤まっており、しかもそれが《権威ある学者の著した文書》に明記されていたならば、これはとんでもないことになる。
《権威》のお墨付きで《世論操作》がきわめて容易に行なわれることは、明々白々だからである。

ところで、喜多方の煉瓦造建築は、明治30年代、登り窯による煉瓦製造の開始とともに始まり、大量生産工場による他地域の廉価な(しかし喜多方向きではない)煉瓦や瓦に圧倒され、登り窯の操業が経済的に困難になる昭和30年代までのおよそ60年以上にわたり建て続けられ、しかも、その後も喜多方産の煉瓦による地元の人びとの煉瓦蔵建設の潜在的需要は変らずに強かったというのが事実である。
喜多方の人びとにとっては、喜多方向きにつくられた地場産の煉瓦は、喜多方の建物づくりにとって重要な材料の一つとなっていたのである。
つまり、喜多方の煉瓦造は、他の地域がどうあれ、喜多方の人びとの、それをよしとする独自の判断によりつくられてきたのである。

ということは、先に引用した《学者・研究者・権威者》の著述はすべて《嘘》《いいかげん》であるということになる。
考えてみれば、借金の返済のために、嫌なものを60年もつくり続けるほど喜多方の人びとがお人よしのはずはなく、木柱が腐るような建て方を、60年も黙って認めるはずもない。
そして、大地震の被害のニュースを知っても、彼らは彼らの煉瓦造を断念しなかった。彼らには喜多方の煉瓦造に自信があったのである。

   註 喜多方の煉瓦造建築についての詳細は下記参照
      「『実業家』たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-1」

いったい、なぜ先の著作に見られるような《嘘》や《いいかげん》な著述が平然となされるのか。
それは、《専門家・学者・研究者》が、地域を見る目を持たない、しかも養わないからである。
彼らにある《視点》は、常に《中央》からの視点である。
《地方》は、常に《中央》のおこぼれにあずかるもの、このいかんともしがたい『地方』蔑視、地域に生きる人びとへの蔑視が、先のような著述を平然と生み出す真因になっていると見なして、まず間違いない。
地域・地方研究を標榜する一群の《研究者》たちでさえ、はたして『地方蔑視観』を根底から拭い去っているかどうか、はなはだ疑わしい。地域は単なる一つの《研究対象》にすぎないかもしれないのである。

研究社の英和中辞典の“local”の項には、わざわざ注釈として「首都に対するいわゆる『地方』の意ではなく、首都もまた local である」と記されているが*、このような注釈が施されるということは、わが国にいかに『地方蔑視観』が根強いか、『地方』“local”という語が誤解されているか、を如実に示していると言ってよい。

   * 研究社「新英和中辞典」の local の項には次のようにある。
     ①場所の、土地の
     ② a (特定の)地方の、地元の、地域特有の〈首都に対するいわゆる「地方」の意には
       provincial を用いる;首都もまた「一地方」なので local である〉。
       ・・・・
       b 以下略

かつて人びとは、ものごとの真実を自らの身をもって判断していた。判断の「基準」は、それぞれの地域の人びと自身のものであった。同じものごとが、異なる地域によって別の意味、別の理解を与えられることも、またあたりまえであった。
むしろそうであるからこそ、明治以前、人びとは、他国を含めて他の地域との『交流』により、いろいろなことを虚心坦懐に学び得たのである。

すなわち、判断の基準が、地域により、人により、つまり(それぞれの)「生活の必然」の違いにより異なり、画一的ではないこと、これが人びとにとっては当然すぎるほど当然の認識であった。
その意味では、古代以来江戸時代までの日本人は、現在よりも数等『国際的』であった、と言うことができるかもしれない。

しかしながら、おせっかいな人たち(先の《肩書》の人たち=《先導的》であることを自負する人たち)は依然として、地域により、人により基準がまちまちでは、ものごとがいいかげんになる、と思っているようだ。

しかし、よく考えてみよう。
人は、自らのために、自らの生活遂行のために必要なものごとを、いいかげんに為すものだろうか。
人びと=「一般大衆」は、それほど愚かなのだろうか。
《学者・研究者》は、それほど賢いのであろうか。


ここでもう一度喜多方の煉瓦造に触れれば、煉瓦を多用した喜多方の人びとには、とかく一般にありがちな、煉瓦でつくれば洋風になる、という考えはなかったことに注目すべきである。
彼らにとって煉瓦は、たまたま目の前に現われた、彼らの建物づくりに使えると判断された一材料にすぎなかったのである。

彼らは、《中央》の人たちのような煉瓦造に対する思い入れはなく、それまでに培われていた自前の技でそれを巧みに使いこなしたにすぎないのである(使えないと判断すれば、使わなかったに違いない)。

そして、これも重要なことなのだが、煉瓦を使うようになっても、それ以前の技術はもとより、職人の仕事も、決して切り捨てることがなかったことも、注目してよいだろう。それまでの職人組織が破壊されることなく、新たに生まれた「煉瓦職」とともに共存したのである。

この柔軟さこそ、本来、地域の人びとそれぞれが持っていた力なのであり、その連続的行使が明治以前の日本の建築の歴史であったということを、いまあらためて確認する必要があるだろう。
そこには明らかに、現代の切り捨て・廃棄が当然の《合理主義》とは根本的に異なる「思想:考え方」が背景にあったのである。


木造に関するここ数年の動きをいろいろ見聞きするなかで、私によく分ったのは、関係者はもとより、木造に関心を持つ人びとが、あまりにも、わが国固有の木造建築技術・その歴史について、そして、わが国の木造建築が現在の状況になった『いわれ』について、知らない、知りたがらない、触れたがらない、ということであった。
私には、最近の動きは、《単なる木造に関心を引くためのキャンペーン》にすぎないように見えた。《この春の流行は〇〇色・・・・・・》という化粧品のキャンペーンと何ら変らない一過性の動きにさえ見えたのである。熱が冷めれば、季節が、時代が変れば、また関心は別の所に向いてしまうかもしれない、そういう類の動きである。

わが国の木造建築をとりまく状況は、たしかに早急な対症療法とリハビリテーションが必要に思える状態であることは事実である。出血があれば止血しなければならず、社会から遠ざけられていたからには社会復帰のためのリハビリテーションも必要であると考えたくなるのも事実だろう。

けれども、その「症状」の原因の認識を欠いた《姑息な》対症療法・リハビリテーションは、単なる病の転化にもなりかねない。必ず、症状の真因を究める必要があるはずである。
残念ながら、最近の木造再興に関する論議には、この視点がまったくない。

   追記
   この文章を書いてからおよそ15年、相変わらず木造で林業振興を、国産材を使おう、という動きはあります。
   しかし、山林の多くは相変わらず荒れたままです。
   一部の《篤林家》が居ることは居ますが、それを《ブランド》にしてしまう場合も多く見かけます。
   どこまで行っても、稼ぐことが先行する、ここでも近江商人がいないようです。
   しかしそれは、林業家のせいではない、けしかける《建築家・専門家そして行政》のせいなのです。
   「症状」の原因の認識を欠いた《姑息な》対症療法・リハビリテーションを考えるからなのです。
   そして一方では、原始林を伐採した廉価な外国産材が相変わらず大量に輸入されています。
   極端な話、外国産材の量が減れば、否が応でも国産材を使うはずなのですが・・・・。

この「真因」:わが国の木造建築の現在の悲しむべき状況を生みだした根本的な原因については、・・・・「新建築」誌1987年6月号の「流浪の木造校舎:木造建築の悲哀」* において概略のべさせていただいたが(* 先回転載してあります)、
一言で言えば、(「真因」は、)木造建築を取り巻く《専門家・建築家》の世界の《異様さ》にあると考えている。

しかし残念ながら、この《異様さ》は、建築界では一向に実感されていないように思われる。《異様さ》は気付かれもせず、気付こうともしない。
《異様さ》が日常になる、それに気付かなくなる、これは最も怖ろしい症状である。
私自身も、ともすれば、その《異様な日常》に埋没してしまいかねない。
それを放置したままでの木造再興論議は、かつての建築界の過ちを再び犯すことになるだろう。

今回私が、「木造建築を増やすための提案」という趣旨の編集者の依頼に反して、いろいろな局面の《異様な》症例を多々書き連ねてきたのは、《建築界の異様な日常》をより詳しく具体的に示すことにより、《異様さ》を思い起こす一つの契機になれば、と願ったからである。


これからのわが国の学校などで木造建築が増えてくるには、木造でそれらの建物をつくることが、何ら特別のことではなく、かつてのように『あたりまえ』に扱われるようになることが必要だろう。
したがって今後、木造建築が増えるために必要なのは、木造が『あたりまえ』になるための条件・環境整備である。
すなわち、『異様さ』を改めることである。《専門家》はそれに係わる必要があるだろう。

しかしそれは、木造復活のためと称するまた新たな《先導・指導》《管理》のための画策を企図することではない。
《専門家》自らが率先して、自らの考え方、その拠って立つ立脚点を正常に戻すことである。
そして、わが国の建築の歴史について、わが国の木造技術について、その持つ豊饒(豊穣)な可能性について、あらためて根本的に学び直すことである。

もちろん、このような根底に戻る、文字通りの radical な論議は、やっている暇がない、それほど事態は切迫している、との異論を唱える人もいるだろう。
しかし、この《異常さ》は、普通の人びとの意志とは関係なく、
《専門家》と称する一握りの人たちの手によって、ここ1世紀以上という長きに* わたって(* 明治以降)、
「それ以前の人びとの営みの積み重ね」=「歴史」を徹底的に破壊し、切り捨てることにより、人為的につくられてきたものである。

その結果として生じた《異常さ》の修復が、一朝一夕でできると考えることの方がおかしい。
田畑の耕土は、一朝一夕にはできない。耕土にするための人びとの長い年月をかけての営みが必要である。
しかし、その耕土を破壊することは容易である。一日でもできる。
そして、一度破壊された耕土の復活には、ほとんどゼロからの出直しに近い営みが必要なのだ。

もしも《専門家》が、これを一晩で再興できると思っているのならば、
あるいは対症療法で再興できる程度の認識でことにあたっているのならば、
そのような木造復権論議は、あまりにも事態の認識が浅すぎる。事態の理解が甘すぎる。

そうであれば、そうであるからこそ、今先ず必要なのは、
『《専門家》のノーマライゼーション』なのではあるまいか。

    ・・・・たとえば、農村、漁村、散村、どれもこれも国土の大事な一部分です。
    そこに住んでくれる人がいなくては荒廃してしまう。住む人なしでは、
    そこに祖先が長い歳月をかけて育て上げ、そして伝えてきた文化も消えうせてしまう。
    それぞれの土地の食事や祭といった文化を担っているのはあくまでも人です。
    その人がいなくなっては、なにもかもなくなってしまう。
    ・・・・・・・・
    自分たちの食事や自分たちの祭りを手放すということは、
    自分たちの立っている大地と切れてしまうのと同じこと、やがてわたしたちは、
    どうして自分たちがこの日本という土地に住んでいるのか分からなくなってしまいそうです。・・・・
                       「毎日新聞」1992年10月26日『井上ひさし 響談』より  
                                                      〈完〉

   追記
   おしまいまで読んでいただきありがとうございました。

   正直な気持ちを言えば、
   ノーマライズできない人、したくない人、現状のままでいたい人・・・・は、
   「名誉専門家」の称号を差し上げますから、今すぐ引退していただきたい、という思いです。
   普通の人びとを馬鹿にしてはいけません。
   フランス映画だと思いますが「自由を我らに」というのがありました。
   そうなのです、「自由を我らに!」なのです。何か封建領主との斗いみたいですが・・・。    

《専門家》のノーマライゼーション-その2:補足

2009-12-09 12:09:56 | 専門家のありよう
[語句追加 14.45][註記追加 22.41]

明治の「近代化」以降現代に至るまで、わが国の建物づくりでは、ひたすら「木造からの脱却」を目指した策が講じられてきました。
その実相を「新建築」誌1987年6月号に「流浪の木造校舎―木造建築の悲哀」で簡単に記したことに触れました。

   註 全文は下記を [註記追加 22.41]
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/2b5bd8ad052da3130502a112256b5a2e

その中から、学校校舎の場合について、その「策」の変動の様を如実に示す文書を紹介します。
実に僅か25年ほどの間に、「変動」が意図的に起こされたことが分ります。

先ず、1959年(昭和34年)の文書から。これは「鉄骨校舎のすすめ」です。
ここでは、第二次大戦後、学校校舎の建物について、何がなされてきたか、おおよその経緯も書かれています。言い回しが変な文ですが、原文のままです。

     

そして、そのおよそ25年後、1985年(昭和60年)の文書から。これが「木造校舎のすすめ」。

     

こんな風にコロコロ変るのは「指導」ではありません。朝令暮改の見本です。

ところで、この木造からの脱却を説き、そして木造への復帰を説く、実は、その背後に、建築側として(語句追加 14.45)、見え隠れしているのが同一人物とその周辺の人たちである、と知って驚かない人はいないでしょう。
節操のない、恥を知らない《専門家》の代表です。
そして、勘のいい方は、おそらく推定できる筈です。そうです。例の「一統」の「祖」となる方たちなのです。変り身の早さ、抜群の方たち。その《自分たちの伝統》は、実に見事に継承されているのです。

暮しやすく、安全な建物づくりのすべてを、人びとに任せれば、かつてのように(近世までのように、近現代なら昭和初頭までのように)、ずっとよいものができるはずです。
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お知らせ

2009-12-09 00:05:40 | 日本の建築技術
いつでしたか触れた「木造住宅読本」を資料としての講習会が下記のように事務所協会の主催で開かれます。
「木造住宅読本」は配付されます。

茨城県にお住まいの方を優先に考えていたようですが、昨日の段階で、申込はまだ定員の半分ほど、とのことでした。

近在の方、茨城県外にお住まいの方、もちろん建築を専門としない方にも、参加は開かれています。
下記事務局へ電話で問い合わせてみてください。受講料が高くて恐縮です。


《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が「あたりまえ」になるには-その2

2009-12-08 18:07:27 | 専門家のありよう

本題と関係ありません。神社の杜の様子です。

[前回の続き:今回も長くてくたびれるかもしれません。ご容赦を]
[文言追加改訂 23.07][文言追加 9日 15.14][註記追加 9日 22.20]


かつて、日本中の学校はほとんどが木造であった。
そのとき、木造であることを高らかに標榜した《意欲的》な建物があったろうか。《斬新な》技術を示威した建物があったろうか。
あるいは鉄筋コンクリート造の学校が現われたとき、《斬新さ》や鉄筋コンクリート造であることを示威的に標榜した《意欲的》な建物があったろうか。
そうではないだろう。
最近の学校建築に比べて、一般的な木造校舎や、敗戦直後の鉄筋コンクリート造の学校建築(たとえば、昭和25年:1950年建設の「西戸山小学校」など)の方が、よほど清々しく、空間としてよく考えられていたように思えてならない。




私が通った小学校は、当時の木造の標準的な校舎であったが、窓まわり一つをとっても、その神経の行き届いた配慮・丁寧さは*、最近の設計とは比べものにならないほどよく考えられていた。

   * 腰壁から上、窓は3段の構成になっていて、どれも引き違い戸でした。
     1段目は、窓台から座った子どもの頭くらいの高さまで、2段目は、そこから内法高まで、
     そして3段目は、内法から天井近くまで、いわゆる欄間、子どもの手ではなかなか開けられない。
     ときどきの気象状況に応じて、開ける窓を選べたのです。
     ある年代の方々は、こういう学校で育っていて、知っています。

そのような「使える建物」を考えた設計による建物は、当然「使いこなし」「維持」も容易である。なぜなら、それこそが設計の焦点だったからである。
そして当然そこでは、子どもの神経がさかなでされるようなことはなく、使われた材料をこれみよがしに示威するようなところも、また設計者の存在を誇示するようなところも、いささかもない。そういう意味では、少しも《意欲的》でもなく、《斬新》でもない。

しかし、「使える建物」をつくるという点では、きわめて「意欲的」であり、常に「斬新的」であったのではなかろうか。
いかなる材料であれ、当時の「建築家・専門家」は、学校という子どもたちの住む(暮す)空間をつくる、という一点に神経を払っていた。
これに対して、最近の木造建築は、木造で建物をつくるのではなく、専ら《木造の表現》にうつつをぬかし、それに反比例して、こまやかな配慮が抜け落ちているように私には見える。

明治のはじめ、若き伊藤忠太は「建築とは『実体を建物に籍り(かり)意匠の運用により真美を発揮する』ことである」と定義したが、いま《建築家》は、建物に名を借りて、巨大な《積木遊び》に夢中になっているのかもしれない。
要するに、《建築家》は木造を「あたりまえ」に扱っていないのである。

もちろん、最近の木造建築は、《木造であること》を社会に強く印象づけること=キャンペーンをはることが、木造の復権のために必要なのだ、という《政策的》考え方の反映としてあるのかもしれない*。

   * 私は、木造建築で林業の振興を、という論に乗ることを拒否してきました。
     それを言わない、といって非難もされました。
     しかし、その考えは、今でも変りありません。
     建物をつくるのは、林業のためではないからです。
     林業が衰退したのは、木造建築がないがしろにされたこともありますが、
     それよりも、低い関税で外材を輸入する策にこそ、最大の原因があるのです。
     日本の環境に適さない2×4工法を導入することと、外材の大量輸入は併行しています。
     これが最大の原因なのです。[文言追加改訂 23.07]
     「木造推進⇒林業振興」に触れた文書を、9日に「補足」として載せました。[文言追加 9日 15.14]
    
しかしながら、いま、《専門家・建築家》には、そのようなキャンペーンを展開する前に、あらためて思い起こしてもらいたいことがある。

一つは、すでに冒頭にも触れたが、明治以来のわが国の建築の歴史は、《先導・指導的》であらんとする(人びとを管理したがる)《専門家》による、あるときは鉄筋コンクリート、またあるときは鉄骨をと、ひたすら木造からの脱却を目指したキャンペーンの連続であったこと、そしてその結果こそが現在の木造建築衰退の状況である、という歴史的事実についてである*。

    * これについては、事例をあげて論評した一文があります。
      「流浪の木造校舎」(「新建築」1987年6月号)
      9日に「補足」として、事例の「文書」を載せてあります。[文言追加 9日 15.14]
      なお、この一文は、下記に全文を載せてあります。[追加 9日 22.20]
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/2b5bd8ad052da3130502a112256b5a2e


そしてもう一つは、そもそも《建築家》と呼ばれる《専門家》は、明治以来の《近代化》策とともに、それまでわが国の建物づくりを担ってきた大工・棟梁の系譜とは一切無縁に、むしろ進んで縁を切ることを目指して発生した存在であった、という事実についてである。

この認識の作業は、すなわち、《専門家》の行為のありようとその基盤についての「歴史的再認識」の作業にほかならない。
しかしながら最近、《専門家=学者・研究者・建築家》は、これらの経緯についてなかなか振り返りたがらない。
過去の世代の引き起こしたことには、関係がないと思っているのかもしれない。
過去よりもこれから先を急ぐことが大事なのだというのかもしれない。

つい先日世を去ったドイツのブラント元首相は、「国民の半数はヒトラー時代の責任とまったく関係ない世代になったが、それでもだれ一人、歴史から免れることはできない」と語ったという。
残念ながら、最近のわが国では、歴史は《免れるため、忘れるため》にあるようだ。
「日本の歴史教育は忘れることを教え、ドイツのそれは想い出すことを教える」。これは最近、新聞紙上で読んだある評論家の言葉である。


もちろん《専門家》たちの歪みは、ただ木造建築についてのみならず、(建築にかかわる)ありとあらゆる局面にわたっている。
・・・・「筑波研究学園都市」に・・・・数年前* に話題になった鉄筋コンクリート造の学校がある(* 1993年当時の数年前)。
《新しい世代の学校の創造》として《専門家》の間で《評価》が高いようなのだが、私にはその理由がまったく分らない。
これは「やりきれないな」というのが私の正直な感想である。
感受性豊かな子どもたちの感性を、日ごと「やすり」で削り落とすような建物だからである。

《F・Lライトの本質に学んだ》という[設計者の理念]が盛られた《単調に陥らないデザイン上の数々の工夫》(《 》内の文言は、日本建築学会「作品選集」からの引用)は、子どもたちの前に「もの」として、「視覚風景」として立ちはだかり、知らぬ間に彼らの感性に傷をつけ、ひいては子どもたちの「創造力「想像力」さえ奪ってしまうだろう。

なぜなら、本来私たちは日常、それぞれなりに、またそのときなりに、私たちのまわりに空間を感じ、その意味を読み取りつつ生活をしている。それを通じて、私たちそれぞれのなかに、それぞれなりの「心象風景」が形成される。

これに対して、強制的なあるいは一方的な意味の押し付けとなるようないわば威嚇的なまでの「視覚風景」の存在は、私たちの空間での自由を束縛することになりかねない。
形状面での《単調に陥らないデザイン上の数々の工夫》は、かえって逆に人の「心象風景」を画一的・単調にしてしまうという単純な事実が分っていないのである。

この学校に見られるような、子どもたちの「心象風景」の形成を無視した「視覚風景」の造成は、単なる設計者の勝手な思い込み、あるいは《遊戯》にほかならず、子どもたちの感性にとっては「やすり」同然となる。
いったいライトの設計思想のどこに、このような考えがあったのだろうか。
「師」と仰がれたライトが唖然・呆然としていることは間違いない。
何もこの例だけではない、私たちが生活の中で接する最近の建物には、概してこういう傾向の建物が多いのである。

   追記
   幼稚園、保育所というと、多くの場合、《大人の幼児感》が建物の形に表れる。
   たとえば、はでな色彩、童話をモチーフにした形、などなど・・。
   私には、これは《大人の(勝手につくった)感覚》の押売りにしか見えない。

もとより《建築家》各々が、誰に学ぼうと自由である。
何を考えてつくろうが、それをどのように説明しようが、それもまた自由である。
学校建築の《専門家》を自負することも自由である。
そしてまた《専門家》の集まりである《学会》が、あるいはまた《評論家》や《ジャーナリズム》が、そのお先棒を担ぐのもまた自由である。
実際、いま*《建築界》では、これらの自由は見事に花開いている。

   * 1993年当時の「いま」であるが、今もまたあいかわらずである。

けれども、ここに唯一、行使されていない『自由』がある。『批判と論議の自由』である。
いかに崇高なる考えの下で設計がなされようが、おかしいものはおかしいのである。
おかしいと思う者が、誰もいないなどということはあり得ない。
おかしい、と相互に批判がなされてよいはずなのである。それがあたりまえである。

この素朴な論理が通用せず、互いに顔色をうかがい、そういう考えもあるだろうと仲良く認めあい、『批判と論議の自由』の権利が放棄されている《建築家》の世界は、どう考えても「あたりまえ」ではない。

そもそも、先のような自薦他薦の《解説》が学会の名の下で平然とまかり通り、相互に何の批判も論議も交わされないまま放置されるのであるならば、《学会》もまた学会とは名のみの「異常な集団」といわなければなるまい。それとも「学会」とは同業者の「権利(利権?)を護る寄合い」にすぎないのだろうか*。

   * そういう「批判・文句」があるのならば、学会に加入してそこでやれ、とよく言われたものです。
     「異常」だから入らないのだ、ということが分らないようなのです(今でも)。
     それゆえ、私のような「発言」は、なんとかの遠吠え、と見られるらしかった。


かつて、建物をはじめ、ものごとのよしあしは『普通の人びと』により判断された。
そして、よいもの、間違いのないものをいつでもつくれる工人は、人びとから安心して仕事をまかせられ、尊敬された。
つくるものが人びとのものであって、工人のためのものではなかったからである。
というより、工人の考えることと人びとの考えることが一致していたのである。
彼らは『何をつくるのか』『人びとの生活が何を必要としているか』『人びとの必然は何か』、あたりまえに分っていたから、あたりまえのように『人の住む空間』がつくれたのである。
それゆえ、そこに生まれる空間は、《単調に陥らないデザイン上の工夫》などという姑息な手段で装う必要もなかったのである。
それができること、それこそが『専門家』の専門家たる所以であった。
したがって、彼がどこでその技を磨こうが、何を考えようが、最後は人びとにより、できあがったものにより判断されてきた。

残念ながら、昨今、ものごとの判断が他人まかせとなっている。
というより、人それぞれに判断がまかされることが疎まれている。
人びとにまかせると判断を誤まるとでも思うのだろうか、判断の絶対的《基準》をつくり、絶対的《評価》を下したがるおせっかいな人たち=各界の《権威者・識者・専門家》がいる。
しかし、誰が、いつ、彼らに「判断」を委ねたのであったろうか。

おそらく人びとも、このおかしさに気が付いているはずである。疑問に思っているはずである。ただ言わないだけなのである。あるいは、言えないだけなのである。
長年飼い慣らされた結果であろうか、《権威》に盾ついても所詮だめ、との諦観に達しているのかもしれない。
(近現代の)日本はいわれるほど「民主的」でない。閉鎖的である。素朴に、率直に、「王様は裸だ」と声を出さねばなるまい。孔に閉じこもらずに、「王様の耳は驢馬の耳」と叫ばねばなるまい。

   追記
   私にとって、ブログは、予想外の、またとない手段でした。
   何の気兼ねもいらずに、言いたいことが言え、それへの「反応」が直に伝わってきます。
   いわば、自由な「一人出版社」。   
   それでいて嘘は言えない。本名で書くのは、その保証のため。
   おそらく、いま転載している一文を読まれる方の数は、掲載誌上で読まれた方よりも
   多いのではないかと思っています。
   そして、読まれる方の「熱心さ」も違うように思います。
   
いまから20年近く前* のことになろうか(* 1970年代の中頃のこと)、南会津の村を訪れたときのことである。
村の中心部の一画に、見るからに倒れそうな小屋が一軒建っていた。何の変哲もない鉄板屋根の小屋である。
住宅のようでも集会所のようでもあり、とにかく外目にはその用途を推し量ることはできなかった。
村人の話では、これはこれから先も取り壊すことのできない大事な建物なのだという。
何故このようなボロ家が彼らにとって大事なのか、不審そうな表情が私の顔に浮かんだのだろう、彼らは説明を加えてくれた。

かつて四周を山に囲まれたこの村は、冬季交通が途絶し、夏季は冷害に悩まされ、自給できる人口に限りがあり、次男三男は婚姻を許されず、長男が嫁を迎えると居づらくなり、そのような者達が寄り合う場所として自力でつくりだしたのがこの小屋なのであるという。
いまでこそそのような事態が解消されたとはいえ、その彼らの言い知れぬ苦労を考えたら、その小屋を取り壊すなどという哀しいことが、どうしてできるか、というのである。

農業経済学が専門の玉城 哲氏も、その著『水紀行』の中で、氏にとって衝撃的であったある体験を語っている。そのまま引用しよう。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

・・・・冷害の青森県上北地方(かみきた)をあるいていたとき・・・・《田舎のバス》はそのうち橋にさしかかった。
橋のたもとに「一級河川・相坂川」という看板がでている。・・・・建設省が掲げたものである。

相坂川といっても、ほとんどの人はどんな川か知らないであろう。私も・・・・あの有名な奥入瀬川が「相坂川」であるとはまったく知らなかった。
そこで、私もいささかいたずら心をおこして、隣りのおばあさんにきいてみた。
 「おばあさん、この川の名前知っているかね」
 「おら知らねえな、よその人はオイラとかいうがな」
たぶん、そんなような返事だったと思う。私はいささか唖然として、思わずききかえした。
 「おばあさん、川の名前知らないのかね」
 「川の名前など、おら知らねえ、松の木があれば松の木川だ」

そのときうけた私のショックを、ここで表現することは容易ではない。私はしばらく、何と言ってよいかわからないまま、まったく沈黙に陥り、車窓の風景を眺めるだけであった・・・・。

私たちは気軽に、地図に書いてあるからということで、利根川とか、淀川とか、木曽川などといっている。そして、それが地元で何と呼ばれているかなどということなど考えてみもしない。ところが、それはしばしば地元の人びとにとってはよそ者のいい方なのかもしれないのである。・・・・

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――    
考えてみれば、建物を建てるのも、ものに名前を付けるのも、それにはすべてそれなりの『そこに生きる人びとにとっての必然』があるからである。
そうであるならば、そうしてつくられた建物の場合、それがいかに貧弱であろうと、いかにみすぼらしかろうと、そしていかに壊れそうであろうと、人びとにとって大事であることに変りはない。

おそらく、いかなる建物であれ、あるいはまた行事や慣習であれ、名前であれ、およそ人びとの為してきたこと=営為は、それが目に見えるものであれ、見えないことであれ、それらを為すための技をも含め、すべて人びとにとって大事なものごとなのであり、好き勝手に、また簡単に、捨て去り、切り捨て、忘れ去ることのできるはずのものではないのである。

このことを、ふと忘れてしまいそうになっていた私にとって、南会津での体験は実に衝撃的であり、玉城氏の述べられた事例もまた同様であった。
よそ者が(《専門家》が)背後に隠されたその地の「物語」を知らずして地域に介入したり、地域のものごとの当否や価値を勝手に決める:流行の言葉で言えば《評価する》:などという、いま世の中で通例になっているやりかたが、いかに無意味にして重大な誤りであるか、あらためて気付かされたのである。

最近* 知った話であるが、地域主義、地域の復権を唱え、各地の自治体などをまきこみ、《共同体的設計組織》をつくり、その実、その組織を多弁な弁舌で言葉巧みに牛耳ることで仕事を増やしている《東京在住の建築家》がいるそうである(* 1993年当時のことだが、いまも変らない)。
東北のある町での彼の仕事を見たが、単にその地域のつくりを形状だけまねたものにすぎず、その地域独特の技術や材料について、まったく何等顧みられていない、その唱える《地域主義》とはいったい何なのか、と思わざるを得ない内容であった。
地元の人もおかしいと思ってはいるが、《民主的》装いをとる組織を牛耳る詭弁に近い多弁さゆえに、口下手な地域の人びとは、意見が言いづらいのだという。

ここまで巧妙になると、私は絶句するだけだ。「唾棄(だき)すべき」という表現は、まさにこういうことへのための言葉としてあるのだろう。
《専門家》の唱える「民主的」「地域主義」のなかみは、概してこの程度なのである。

   追記
   何か「木造建築」をめぐる現在の動きと似ているところがありますね。
   実は、この方は、現在、日本の木造建築を引っ掻きまわしている「一統」と
   同じ研究室の出身なのです。
   この研究室は、どういうわけか、そういう「性向」があるみたいです。
   ちなみに、教師時代、学生たちに、将来郷里に戻るのならば、
   卒業後直ぐに戻るべきだ、故郷に錦を飾ろう、などというのはやめなさい、
   と私は言ってきました。   
   これを傍で聞いた私の元同僚(この方も「一統」の一人で、例の「木の建築フォラム」の理事です)に、
   「各地に網を張る準備ですね」と言われました。
   私がその「意味」に気が付いたのは、ずっと後になってからのこと。
   これなども「一統」の「性向」の一端を示す例と言えるでしょう。

かつて、各地域では、建物をはじめ当代以前の人びとの手により営まれつくられてきた事物は、すべて、先の南会津のエピソードで触れたような意味で、人びとによって大事にされてきていた。彼らの生活の場である「環境」に対してもまったく同様であった。

彼らには、現在のような《文化財》や《環境》という概念は存在しない。
彼らには、基本的に、その事物が立派だから、代表的なものだから、資料として価値があるから、という類の《選別基準》《評価基準》はないのである。
しかし彼らは、現代の《文化財》概念や《環境》概念を持つようになった人びとよりも、環境や先人の為してきた事物を、大事に、大切に扱ってきたのである。

彼らにあったのは、彼ら以前の人びとの営為を尊敬し、尊重する精神であった。
彼らの『今』は、彼らにとっては『過去』、彼ら以前の人びとの『今』があってはじめてあり得たのだという『歴史』認識、現在ではすっかり消滅してしまった理解・認識がごくあたりまえに彼らの内に在ったからだと言ってよいだろう。
したがって、かのボロ家が物理的に崩壊してしまったあとでも、彼らは何らかの「証」をその地に刻む作業を、当然のごとく行なったにちがいない。それが彼らの『今』を保証してくれたものだからである。

残念ながら、このような『歴史認識』は、いま、《専門家》の意識から完全に欠落し、そしてそれが《あたりまえ》であるかのように事態は進行しており、また誰もそれに気付かない。気付いていても言おうとしない。そのまま見過すのがまた《あたりまえ》だと思われている。

むしろ、《専門家》は、次から次へと新たな《評価基準》をつくることに汲々としているとさえ言ってよいだろう。
いわば勝手に《基準》をつくり、それから落ちこぼれるものは廃棄する、切り捨てる、考えてみると(考てみるまでもなく)これは怖ろしい《思想》である。

いったい、どうして《専門家》に一義的に、一方的に《価値》を定める権利があるのだろうか。
いったい、いつ、誰が彼らにそれを委ねたのであったろうか。

[長くなりました。以下は次回にまわします]

付録
先回、体育館の地盤が転石だらけの急斜面、と書きました。
ここは、筑波山で有名な「男女川(みなのがわ)」の源流近くで、一説によると、中世には寺院があったが、土石流で流され、以降放置されていた、と言われています。
転石だらけでボーリングなど不可能な土地です。
この場所での基礎の施工の様子の図版を載せます(「住宅建築」1987年7月号)。
場合によると、巨岩の上に鉄筋を組み立て、コンクリートを打って岩に一体化する方法も採っています(写真右)。





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《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が「あたりまえ」になるには-その1

2009-12-05 00:06:37 | 専門家のありよう
倒壊した「木造3階建住宅・震動台実大実験」の試験体について、主催者の「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」に、その設計図・仕様などの詳細な資料の「事前開示」を要望し、先月(11月)19日に「事前開示の準備中、今しばらくお待ちください」との旨の連絡をいただいてから、半月近く経ちました。
おそらく準備に手間がかかるのでしょうから(設計図はあったはずだから、普通はそんなに時間がかかるとは思えないのですが・・・)もう少し待ってみようと考えています。

本当は、今回の「倒壊」事件の検証は、実験当事者ではなく、「第三者委員会」で検討すべきことがらではないか、とも思っています。
なぜなら、実験だからよかったものの、もしも実際の建物であったならば大ごとで、当然、設計者ではない第三者が原因究明にあたるはずだからです。

ところで、「(財)日本住宅・木材センター」のHPから、当該実験についてのニュースが消えたことはすでに触れましたが、「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」のHPでも、そのニュース:「実験の案内PDF」:が読めません(それ以外の記事:PDFは、時間が経ったものでも載っています)。
それゆえ、その実験がどんな実験だったかを知るには、「公式」には「(独)防災科学技術研究所」のHPの報道機関向け9月28日付け「案内」だけになりました(ケンプラッツの10月30日記事は見ることができます。4日には最新のコメントも入りました。http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20091030/536517/)。

その一方で、「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」「(財)日本住宅・木材センター」HPでは、ニュース筆頭に「木造建築のすすめ」「伝統的木造軸組構法実大静加力実験結果速報」の「PDFによる公開」が掲載されています。
まるで、「木造3階建て住宅の震動台実験」が行われ、そして想定外の事態が起きた、ということ自体が、この世になかった、かのようです。

その実験以外の記事の記載は残っているわけですから、人の噂も75日、今は静かに静かに、「噂」が頭上を通り過ぎるのをひたすら待っているのでは、と言うより、そうありたい、という願望が、「歴史的事実」の抹消に走らせたのかもしれない、などと思ったりもします。

しかし、いやしくも専門家・研究者集団です。しかも国費の補助も受けているのですから、そんなことはないと信じて、約束の履行を待っています。


先回、四半世紀前に書いた一文を載せました。
その10年後、1993年に、「《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が『あたりまえ』になるには」という標題で、当時の《木造建築推進》の動きと、それに係わる建築家、専門家・研究者の様態について論評した一文です。やはり「尖がった」文でした。
これは、「建築設計資料 40:木造の教育施設」(1993年 建築資料研究社 刊)に、「筑波第一小学校体育館」(下の写真・図版)を載せていただくにあたって書かせていただいたものです。
今でも通用する話なので、転載します。

これは先回のよりも長く、一回では紹介しきれませんので、数回に分け、また中途を略して載せさせていただきます。


筑波第一小学校体育館 原設計の模型・平面図・断面図(「建築文化」誌1987年5月号より)  
原設計は、小屋(屋根)の架構に「甲州・猿橋」「越中・愛本橋」の工法を援用していた

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  《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が「あたりまえ」になるには

    ・・・・彼の言葉のなかで、私にいちばん強い印象を与えたのは、
    ・・・・廊下を歩きながらスタインバーグが呟くように言った言葉である。
    その言葉を生きることは、
    知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中で、どの都会でも、
    ・・・・極めてむずかしいことだろう。
    「私はまだ何の専門家にもなっていない」と彼は言った。
    「幸いにして」と私が応じると、「幸いにして」と彼は繰り返した。 
          加藤周一「山中人話・スタインバーグは言った・・・より」

最近*、木造の学校建築が増えてきているという(* 1993年当時のこと)。
周知のように、文部省もそれを支援する「通達」を出すまでになっている。
明治以来、第二次大戦敗戦後も含め100年を越える年月をかけて、わが国は《専門家》を中心に、官学あげて《木造からの脱却》に向けて邁進してきたわけであるから、これが本当に方向の転換を意味することであるならば、まことに画期的であり、結構なことと言わねばなるまい。

ところで、私は、最近にわかに活発になってきた木造推進の動きと、各地につくられている木造建築に対して、いくつかの疑問を感じている*(* 1980年代後半~1990年代初め頃の動向)。

一つは、木造を推す理由についてである。

たとえば、昭和60年(1985年)に出された「文部省教育助成局長通達」には、「ゆとりと潤いのある環境の確保」と、《林業振興の一環としての木材需要拡大促進》のため、《柔らかで温かみのある感触を有する》木材を用いて《温かみのある》教育環境をつくることを推奨している。

木造の建物は《暖かで、人間的である》、だから木造を、という趣旨は、木造推進を唱える人たちの口からよく聞く言葉である。

最近のTVでも、東北の村の木造の廃校を借りて夏季市民大学を主宰している高名な文化人類学者が、木は生き物、木材になっても生きている、石や煉瓦に比べ質感が暖かい、だから木造建築は人間的である、木造の学校がよい、と説いていた。

しかし、私は、この論には強い疑問を感じている。あまりにも短絡に過ぎる論理であるからである。

この論理にしたがえば、西欧の石造や煉瓦造の建物は、その無機質の質感ゆえに、すべからく冷たく、非人間的な建物であるということになるだろう。
しかし誰もそうは思うまい。

むしろ、西欧をはじめとする諸国の古来の石造や煉瓦造の建物の方が、最近のギラギラした日本の木造建築よりも数等人間的である。
私も木材という材料は、煉瓦や石などとともに好きであるが、このような・・・・一面的な視点からの木造復権論議は、贔屓の引き倒し、かえって建物をつくることについて、建物と材料の関係について、誤解をひきおこす恐れがあるように思えるのである。

私は、建物を木材でつくれば、あるいは仕上げに木材を使えば、直ちに学校校舎が人間的になる、よい建物になるなどとは、いささかも思っていない。そのような考え方は誤りであるとさえ思っている。
鉄筋コンクリートであれ、鉄骨であれ、はたまた石や煉瓦であれ、その主たる材料が何であれ、よい建物をつくることができる。
現に、人は昔から、その住む地域で最も得やすい材料を使いこなし、自らの住む空間をつくってきた。

材料が木材であるか石であるか、はたまた土そのものであるかは、まさに、その人が住まねばならない地域の特性次第であった。
人びとは、得られる材料で、住める空間=「人間的な」空間に仕上げたのである。
要は、つくりかた、材料の使い方次第なのであり、それに先立つ第一の問題は、『何がよい建物なのか=人が住む空間とはいかなるものか』ということなのである。
最近の木造建築推進論議には、この肝心な点についての論議が抜け落ちている。

もう一つの疑問は次のような点についてである。

すなわち、最近の木造建築が、そのどれもが《木造でつくったこと》を《高らかに》標榜すること、そしてさらに《意欲的》で《斬新な木造》であること、を《追求すること》にのみ神経が払われているように見えることである。

そしてまた、何でもよいから木材を多量に使えば、木造振興⇒木材利用・木材需要の拡大⇒林業振興・地域振興に連なると単純に考えているように見えることである。

私が先年その設計にかかわった「筑波第一小学校*体育館」(* 現在は廃校になり他施設に貸し出されている)・・・・は、(地盤が転石だらけの急斜面であったがゆえに)木造で設計することにしたのであり、「木造を見せる」ことや「構築法を見せる」ことはその第一の目的にはなく、もちろん《斬新》であることも念頭になかった・・・・。
しかし、残念ながら、・・・・訪れる見学者の多くは、木造の特殊な構築法と誤解し、骨組みを見上げるばかりで、「体育館」は見てゆかないようだ。

この体育館を木造で設計することにしたとき、私は、在来* の普通の技法の応用でつくれることを念頭においていた(* 語彙の本来の意味。在来工法の意味ではない)。特殊な技術・工法を採ることは考えなかった。
特殊な技量や技術をもつ人だけがつくれる構築法ではなく、誰にもあたりまえにできる方法でつくろうとしたのである。
木材も多量に使っているように見えるが、特に多いわけではなく標準的な量である。

最近*、かつて林業で生きていた町村が、その林業再建振興策の一環として、公共施設を木造でつくることが流行している(* 1993年当時のこと)。・・・・話題に(なっている)例を見ると、その多くは特殊な工法:たとえば木材をボールジョイントを用いて接続する工法など:を前提とした設計である。
ある事例の設計者によれば、「《ほぞや継手のような目を見張る名人芸》によって組み立てられるかつての木造工法を復活普及させるのは、職人がほとんど姿を消してしまった現在、不可能である」から、ボルトナット工法も積極的に受け入れるのがこれからの新しい方向である、という*(* 現在でもこう考える方々が多い)。

この工法の場合、たしかに木材の継手に、かつての工法を必要としないが、その一方で、ボールジョイントの製作を必要とする。しかし、この部材は、町の金物屋で容易に手に入るものではなく、町の鉄工所で簡単につくれるものでもない。いわば特注品であり、製作所も限定され、作業にも特殊な技術を必要とするから、町の職人・技術者に普通に扱えるとは限らない。
それゆえ、施工は町の業者(ではなく)大きな企業に発注することになる。つまり、町の支出する費用は、町の外へ持ち出され、町の経済的振興にはならないことになる。
したがって、こういうやりかたが《あたりまえ》である限り、林業の町のシンボルとして木造の建物が華やかに誕生しても、木造普及の波及効果はまったく期待できないだろう。木造は面倒だと思われるだけである。

たしかに、町や村に職人・技術者は少なくなった。しかし、木材をいかに大量に使っても、これ以上さらに彼らにできる仕事を減らして、何がいったい地域振興なのか。それは彼らの「切り捨て」である。
切り捨てることが本当に「必然」なのか。彼らを切り捨てる権利が《建築家*》にあるのか。
《建築家*》のこういう単純で底の浅い《合理化思想》は、払拭しなければなるまい。
なぜ「職人・技術者」が少なくなったのか、その根本的な理由を、《建築家*》はいま、率先して考えてみる必要がある(* この《建築家》は、建築にかかわる人たち、という広義の意味である)。

・・・・・中略・・・・・

最近の《建築家》は《斬新》であることを非常に好む。《新しい》という言葉にとりわけ弱い人種である。おそらくそれは、自らの《独自性》、いわゆる《アイデンティティ》の表出が、《新しい》《斬新》であることによってのみ可能なのだ、と信じているからだろう。

しかし、「新しい、斬新な創造」とはいったいどういうことなのだろうか。
あるノーベル物理学賞受賞者は、「豊かな創造」は「過去のしがらみにとらわれない」ことにより生まれると語ったという。
しかし、この言葉が、過去との訣別、過去を忘れることだと理解されたなら、発言者の真意にもとるだろう。それは大きな誤解だからである。
われわれは、いったん出来上った一つの結果=形・形式にとらわれやすいという性向がある。それにしたがっていると無難に思える。
そのとき、いったいそれがなにゆえの結果=形・形式であったかが忘れられる。
そうなれば、それから先、そこに何の進展もないのは明らかである。

「過去のしがらみにとらわれない」という言葉の真意は、ものごとを根本的に、根源的に*考えろ、ということであって、過去を忘れろということではない(* 英語の radical は、根源的な、という意味で、根源的に考えるとその時代の「普通の考え方」に比べ「過激に見える」ため、「過激な」と訳される)。

同様に、「新しい」「斬新」ということは、決して、過去との訣別、過去を忘れることではない。
しかしながら、過去を全否定し、というより、過去の蓄積についてまったく知らず、知ろうともせず、一見《目新しい》こと、いままでにないことを行うのが創造であると誤解されがちだ。

かのノーベル賞受賞者は、物理学の過去の蓄積について十分に知った上で、事象の解釈の理論を「新たに」構築しなおしたのである。

それに対して、過去について十分に知らず、知ろうともせず、適当に、恣意的な(ほとんど思い込みに近い)理由を付け、《目新しい》ことに突っ走るのが《新しい》と思い込んでいる、それが現代の建築の《専門家》である。

鎌倉時代、東大寺の勧進であった重源(ちょうげん)は、「新しい」構築法により東大寺の再建を行なった。いわゆる「大仏様(だいぶつよう)」といわれる貫を多用する、前代までの工法に比べ、まさに「革新的」な技法である。
これは、当時の中国・宋の技法の導入といわれ、重源の元には宋の技術者もいたようであるが、調べてみると、宋の方式を丸のまま移入したわけではないようである。

彼らは、わが国において前代までに到達していた技法にも精通しており、当然、平安末期には技術が停滞し、形式化・様式化していたことも十分に知っていた。
それゆえにこそ「過去のしがらみ」=「形式・様式」からの脱却、技術の根本的な見直し、建物をつくることと技術の関係についての根本的な見直し、真の意味での合理化を彼らは行ない得たのである。
それは決して過去の技術や職人との訣別を意味するものではなく、もちろん切り捨てでもない。むしろ、その延長上の革新であった。だからこそ「革新的」なのである。
もちろん、《時代》を表現しよう、《目新しさ》を示そう、などということは彼らの念頭にはなかった。彼らの目的は、唯一、それまでに蓄積されてきた技術を真に合理的に駆使して、東大寺を再興することであった。

ところで、先のボールジョイントを多用した事例の設計者は、重源を引き合いに出し「・・・・コンクリートと木造の混成、大架構立体トラス、バットレスの採用など、かつて鎌倉時代の初期に重源が東大寺の建立に際して創出した唐様(からよう)の現代版と自負していいのではないかと考えている。唐様によって、和様のスケールをはるかに越す巨大建築を可能にしたようにである。しかも文化的にもまったく新しい形を世に示すことでもあって、あの時代の革新、公家から武家社会への転換を見事に表徴したようにである。・・・・(原文のまま)」と記している。

おそらく、比べられた重源がこれを知ったら、驚き、呆れることは間違いない。
重源の仕事のなかみはもとより、日本の歴史、文化や建築の流れについての理解が、あまりにも浅薄すぎる。手前みそすぎる。
「歴史」が形式的にしか見えておらず、むしろこれは、最近の《建築家》の多くに見られる恣意的な思い込みをまさに《表徴》する文章といってよい。

[長くて、お疲れ様でした。以下は次回です]

コメント (3)

ボタンのかけちがい・・・・「伝統再考」・考

2009-12-02 18:03:39 | 「学」「科学」「研究」のありかた

そういえば、と思い出した四半世紀前に書いた文章があるので載せます。
1983年に書いた「伝統」という言葉についての一文です。その頃、「伝統再考」論議が盛んだったのです。
これは、「住宅建築」1983年7月号で、群馬県の妙義山山麓に設計した2軒の住宅を紹介していただいたときの文章です。
一つは1970年、一つは1982年の竣工。後者の紹介を兼ねて前者も載せていただいたのです(下の遠景写真の左が1970年、右の平屋が1982年の建物)。下段の図と写真は1970年の方の平面と内観です。この2軒は、親とその子息の住まい。

1970年当時は、木造は学習中。怖くて「架構即空間」にはできなかった頃です。真壁仕様は座敷部分だけで、他は大壁仕様です。
ただ、下仁田の大工さんは一国者で、柱の中途に入る材は差物扱い。当時は東京に居て、加工場へ頻繁に行けなかったのが、かえすがえすも残念な現場でした。

併載の文の標題は、「ボタンのかけちがい・・・・伝統再考・考」となってましたので、そのまま。送り仮名、段落などは、変えてあります。

大分尖がっているので、思わず自分でも笑いだしました。
ご笑覧ください。

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          ボタンのかけちがい・・・・「伝統再考」・考

近年*、「伝統的工法」であるとか、 「伝統的(あるいは歴史的)町並み」などということばをよく目にし、また耳にするようになった(* 1983年当時のことです)。
周知のようにこれは、そういう工法や町並みの価値を見なおし、できることなら保存しよう、というフレーズのなかでしきりと言われるようになったことばである。そしていまや、それらのフレーズ・ことばを発すること自体、絶対的善であるかの気配さえ感じられる。

だが、私はこれらのことばが「きらい」である。
こういう言いかたは、多分、はなはだ感情的な言辞に聞えるかもしれないが、決してそのつもりはない。
というのは、むしろ、これら伝統、歴史的・・・・といったことばこそ、はなはだ感情的・恣意的に発せられ、しがもそうでありながら、あたかも論理的必然あるいは学的必然の発言であるがのごとき装いをとっていることが、私には論理的に納得がゆかず、はっきり言わせてもらえば誤りだとさえ思うからである。
そして、更に言わせてもらえば、そのような言われ方である限り、いわゆる伝統的なるものの保存など、無用である、むしろしない方がましというものだ、とさえ私は思っている。

それはなぜか。
それは、これらのことば・フレーズを口にする人びとの多くに、ある一つの特有の姿勢、しかもリジッドな姿勢が見られるからである。
その姿勢とは、そういったいわゆる伝統的なものごととは無縁の対岸に立ち、いわば川越しに、あたかも異国のものごとを覗き見するかのごとくにそれらを見ようとする姿勢である。
それらいわゆる伝統的なるものと彼らの立場の間には、歴然とした一線が画されているのである。そうでなければ、伝統的・歴史的・・・・といったことばが生まれる所以がない。

現代の眼をもってそれら「伝統的なるもの」を照射する、などと言えばはなはだ聞こえはよいが、それはむしろ彼らの思いあがり、あえて言えば侵略主義的・殖民地主義的思考の端的な現われに他ならない。
あるいはまた、一見謙虚に、それらの優れたいわゆる伝統的なるものから学ぶのだ、と言うのかもしれないが、その場合もあいかわらず一線は画されているのであり、それはまた、あえて言えば侵略主義的・殖民地主義的思考の裏返し、その昔の拝西欧的思考と何ら変るところがないように私には思われる。

いったい、そこに歴然として引かれている一線は、何らかの論理的必然、それこそ歴史的必然によって引かれたものであったのだろうか。
そうではない。
それはあくまでも人為的、恣意的な一線だったはずである。
そしてその恣意的な一線にまどわされて右往左往することに、いったいいかなる意味・意義があるのだろうか。

考えてみれば明らかなのだが(そして、本当は考えるまでもないことなのだが)、人間の営為のなかで、「きのう」と「きょう」の間に一線を画することによって成りたった営為というものは、本来存在しない。
過去と現在の間に一線を画することはできないのである。
なぜなら(言うまでもないことなのだが)ある時代の人間の営為というものは、常に、その時代の人びとにとっての必然的な問題意識の下に営まれるのであって、その問題は、その時代において突然(あたかも天から降ってわいたかのごとくに)出現するものなのではなく、かならず前代のいわば尻尾を引きずっているものだからである。 
「きのう」と「きょう」の間には(そして「あした」へ向っても)連綿としたストーリーが展開しているのであり、この事実は仮に革命が起きても変りはない。革命もまた、きのうがあっての革命なのだからである。 
そして、この過去から現在への(人間の営為の)連綿としたストーリーの存在に気づき、関心を持つたからこそ、人間は「歴史記述(history)」に意義を認めたのではなかったか。

本来、歴史への関心は、いわゆる歴史的事象:過去の事象そのもの、その羅列にあったのではなく、それを成さしめた人間の営為にこそあつたはずなのだ。 
しかしいま、多くの場面で、いわゆる過去の事象は、その上っ面こそ撫でさすられはしても、それを在らしめた人びとの営為に対しては、かならずしも関心が払われているわけではない。それは目に見え、撫でさすることのできるものではないからである。

過去の時代の事物、たとえば建造物を「文化財」として保存することも、無論悪いことではない。
だが、それを「財物」として規定したとき、はたして、それら建造物が、その時代の人びとの営為の結果物であった、との視点がそこに含まれているだろうか。
私には、はなはだ疑問に思えてならない。

この私の疑問は、端的に言って、いわゆる「伝統的町並み保存」の場面で、矛盾となって現われている。
すなわち、それらの建物などを、一方で「財物」として規定しようとしたとき、実は一方で現実には、その建物が財物としてではなく日常生活の場として扱われている事実に当面してしまう。
建物はともかく、日常生活は「保存のきく」ものではない。第一、人間の営為というものは、常に定型を保たないという意味で無常である。営為は人びととともに変るのが常だ。建物も変る。町にも栄古盛衰がある。これであたりまえなのだ。
そして、変えたのは、他でもないその時代の人びとであった。そして人びとは、かつて、決して前代の営為の結果としての事物の形体そのものを保ったりはしなかった。そうでないというなら、私たちはいまでも竪穴住居に住んでいなければならない。
人びとが保ち継承してきたものは、「形」ではなく、先述のことばて言えば、ストーリーだったのだ。そしていま、町並みの保存を言うとき、そこに人びとの営為のストーリーが読めているか。

いわゆる技術もまた、各時代に突発的にそれぞれの技術が生まれたわけではない。これもまた、人びとの営為のストーリーの展開の上で(人びとにより)生みたされたものなのだ。
現代の技術もまた、元をただせば、そのときまでの技術の継承上にあった。
しかしそれは、以前と違い、営為としての継承ではなく、「既存の技術の形体」を近代合理主義的な思考法で理解することによってであったから、ストーリーはみごとに断ち切られてしまったのである。

技術だけてはない、建物づくりそのものの考えかた自体がそうであった。 
全ては「ものの形体」の問題に置き換えられ、それはまた「諸機能・諸性能という分解されたエレメント」の集合の結果物として理解された。そこでは本来のもののありかた、人びとの営為との関係が見失われてしまう。
それはすなわち、人びとの「生活」自体が見誤られたことに他ならない。
とりわけてここ2・30年*というもの、合理主義の名のもとに、似非科学主義・似非客観主義が蔓延し、人びとの営為という視点は、視界から消えてしまった(* 1983年起点、ゆえに1950~70年代のこと)。 

当然の結果として、過去と現在の間には、越すに越されぬ一線が画される。しかしその一線は、近代的思考の持ち主たち自らが、いわば自らの側で、勝手に引いたものであって、歴史がその必然によって引いたものではない。

そしていま、この近代的思考がある種の行き詰まりを覚えたとき、彼らは川向うの他人の芝生に目をやった。そこでは、かつて、非近代的・非合理的なものとして彼らが捨て壊すべく努めてきた過去の遺物が、たまたま彼らが潰し忘れたものが、目くるめくばかりの姿をして輝いて見えた。 
彼らはそこに、彼らの到達した現代にはないものを見た。それを付加すれば、自らの行き詰まりが補えると考える。彼らは強引に川を越え、あの豊かなものであふれている他人の土地へ侵略を開始した。 
まさにこれこそが、いわゆる「伝統再考」の実の姿なのである。

彼らの思考法は変っていない。 
彼らは、彼らの行き詰まりが、そもそも彼らの「ボタンのかけちがい」のせいであつたことに気づかない。 
いや、ことによると気づいているのかもしれないが、かけなおそうとしない。
彼らにとつて、「既にかけてしまったボタンは絶対的に正しい」のであるらしい。

私は大分、いま世のなかで言われ為されているいわゆる伝統の再考の動きに対して、水をかけるような言い方をしてきたけれども、もとより私はいわゆる伝統的工法や伝統的町並みの再考を否定しているわけではない。 
私は、それらいわゆる伝統的なるものを「伝統的なるもの」として対岸に押しやつた、つまり、人びとの営為の正当な展開:ストーリーの展開:に水をかけてしまったのが、実は、現にいま伝統再考を口にしている人たちであったこと、そして彼らはそのことについて何ら気づいていないこと、その証拠にあいかわらずボタンをかけちがったままであること、を指摘したかったのである。

このような指摘をすると、大抵、何であれ、しないよりはましではないか、などとなだめられる。建築に係わる人たちは、お人好しばかりなのだ。
一個人のまったくの趣味ならばともかく、心底から考えなおそうとする以上、こういう安易な、非本質的な伝統再考は慎むべきだ。
そうでなければ、伝統をつくりなした人びとの営為を冒涜することになってしまう。そして、このような非本質的な言動が続く限り、事態はまたいつなんどき恣意的に変えられてしまうかわからない。

私はいま、私が学生時代の伝統論争を思い出している。そのとき伝統とは、コンクリートで和風木造建造物を模すことであった。そしてしばらくたつたいま、あちこちに瓦屋根をのせた和風様の集合住宅が推奨され建ちはじめている*(* 瓦葺きの原理ではなく、形だけを模していることを指している)。

このような「伝統復権」を手放しでよろこんでよいか。私には、またぞろ新しいパターンの画一化がはじまったとしが思えないのである。要するに、伝統的「形体」がファッションになったのだ。(1983年7月)