建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

とり急ぎ:新訂「日本建築辞彙」刊行!

2011-10-29 17:33:37 | 日本の建築技術
たびたび引用させていただいている 中村 達太郎 著「日本建築辞彙」の新訂版が刊行されました。
下が、その案内パンフレットの一部です。
  註 原本は「いろは」順ですが、この本では「五十音」順に編集されています。



「日本建築辞彙」については、「語彙に見る日本の建物の歴史」 に謂れを書きました。
日本の建築で使われてきた用語は、まずほとんど網羅されているのではないでしょうか。

初版は明治39年。
20年ほど前、筑波の古本市で、何と500円!で購入したのは、昭和4年版です。それほどのロングセラー本だったのです。
その外観が下の写真。ボロボロになりつつあり、触るのがこわい。


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号外-復刊 「在来工法はなぜ生まれたか」:補足

2011-02-10 10:30:07 | 日本の建築技術
[註記追加 16日 9.34]

号外の補足を追加します。

簡単な日本の建築の歴史年表。以前にも載せたと思います(下註)。

  註 http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/204452a7d2d6f4e9b3c8d4df1f7a65b1 
    [註記追加 16日 9.34]

特に技術の面で画期をなしたもの、と私が思った事例を載せています。もちろん、全部ではありません。

元版の字が小さいので、読みにくいかと思いますが、ご容赦。



融資以前の部分以外は、年代欄の幅(縦方向)を年数に応じて決めています。

下の方のグレーに着色した部分が、1950年以降です。
住居の欄の何もない白い部分は、資料が遺されていない時代、つまり、研究者が住居に関心を持たなかった時代、研究をサボったため資料が消えてしまっている時代です。

それはともかく、この年表のグレーゾーンの「幅」に注目してください。
このゾーンこそ、「在来工法」なる《概念》、それを支える《理論》《理論家》横行の時代、つまり、「現代」です。

そして、それ以前に広がる広大な時間。
そこは、《理論家》たちが《科学的思考がない非科学的な時代だった》として見たがらない、しかしながら、長きにわたり地震にも堪えてきた事例が多数つくられた時代(それらは、現在も健在です)。
それはまた、人びとが、そして実業者たちが、自由奔放に考えることができた時代。
グレーゾーンは、人びとが思考を止めさせられた時代。

号外-復刊 「在来工法はなぜ生まれたか」

2011-02-09 19:40:38 | 日本の建築技術
「在来工法」「伝統工法」という《概念》が、相変わらず、建築界を徘徊しているようです。

日本の建築技術は、資料の残っているだけでも、1300年以上の歴史があります。いわゆる「伝統工法」と言われるのは、その系譜の技術です。

一方、「在来工法」と呼ばれるのは、1950年の建築基準法制定以後、法令が規定する木造軸組工法のこと。こちらは、今年現在でも、僅か60年の歴史しかありません。
このことを、よく知って欲しいのです。

日本は、昔から地震国。
なのに、1000年以上、筋かいもなく、基礎に固定することもなく、高温多湿の環境に適した開けっぴろげの建物を、しかも地震に遭っても壊れない建物を、つくってきているのです。
このことを、よく知って欲しいのです。

今から4年前に、表記の題で書きました。
書いた内容は、今もまったく変える必要がありません。

読まれる方の「便宜」のために、以下にまとめてみました。
特に若い方がたには、是非、「事実」を知っていただきたい、と思います。

1)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4b94cbe513aa6931a61a5e1a3d51abe9
2)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/6ca7242c9baf23bf727dfaa955f30a96
3)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/cef93ab0b7bc130c7f47fdb1b3086c4d
4)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/bf981a5eca110e1b76fe045b04754ccb
5)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/1b28f18dca826a4b5f9bbcff2d617ce0
6)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/a90cbf1cbbd68fcf323bf72b3aa60fba
7)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ee235a28f20a31b2d5ffcb2b34b887f3
8)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ea0a3fec36d9f0feb8525b00db0b115f
9)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/2ca8fe70b18a16b92b0ae1bfbfe22925

以下は、西欧の軸組工法の紹介です。
ア)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/653740409b22486607ea61eec6b3f15b
イ)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/07238886f1009bb190a2b01477aca69f

「伝統を語るまえに」

2010-09-22 19:06:14 | 日本の建築技術


キバナコスモス。今年は猛暑だったせいで、よく咲きませんでした。これは昨年の今頃の様子。

  ******************************************************************************************

先般、標記の講習会、無事に終わらせていただきました。
正式な標題は
「伝統を語るまえに:知っておきたい日本の木造建築工法の展開」

かなりの方が、「伝統を語るまえに」という文言に引っ掛かったようです。
私は、配布資料の最後に、その理由を書きました。いわば「あとがき」です。
その全文を下に転載します。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

おわりに

この講習会の標題は「伝統を語るまえに」です。
なぜ、このような標題にしたか、最後に説明させていただきます。

私は、建築基準法が支配する現在の建築界に、往年の日本の建築技術に関心がある方がたが多く居られることに安堵しています。
その方がたが現行法令の規定に悩まされていることも知っています。

しかし、最近、現行法令に、往年の建築技術の仕様:「伝統工法」の仕様:を規定として追加してもらおう、というような動きがあることを知りました。
一方で、限界耐力計算等で、往年の建築技術を現行法令下で実現する:法令をクリアできる・・・などという動きがあることも知っています(下註参照)。
しかし、私には、これはまったく理解できないのです。

なぜ、現行法令とは基本的・根本的に思想がまったく異なる技術を、現行法令下に添わせようとするのか、論理的に全く矛盾するからです。
理(すじ)が通らないではありませんか。

一方で、インターネット上には、いわゆる「伝統工法」を標榜する設計者や工務店のHPやブログが多数あります。
そこで目にしたのは、「伝統工法」の解釈が、実に多種多様であるという事実でした。

最も多く見かけるのは、無垢の木材、それも大寸の木材を「表し」で、つまり真壁でつくるいわゆる飛騨・高山の「民家」風のつくりをもって「伝統」とする例です。
そこから、往年の建物は無垢の大寸の木材を使っていたという誤解、あるいは、大寸にすることで強度が上がり現行法令の規定を充たすという誤解があることを知りました。

すでに見てきたように、住宅の建築で大寸の木材を使うようになるのは明治以降です。
人びとは、言葉の真の意味で、きわめて合理的です。
たとえば、大黒柱は施工上必要だから大寸なのであり、必要がなくなれば大寸の柱を使わなくなることを今井町の豊田家、高木家の例で観てきました。
大黒柱に「意味」を与えるのは、後世の人であることに留意する必要があります。
多くの事例で見たとおり、柱径は4寸2~3分が普通なのです(註 仕上り寸法)。

あるいはまた、手の込んだ継手・仕口を使うことをもって「伝統工法」とする方がたも居られます。
しかし、これも諸事例で観てきたように、多くの例は、きわめて簡単で仕事が容易な、しかし目的を十分に達することのできる継手・仕口を使っていることも見てきました。

浄土寺浄土堂然り、東大寺南大門然り、古井家、箱木家然り、龍吟庵方丈、光浄院客殿然り、そして椎名家、北村家、広瀬家、富沢家、島崎家・・・然り。
手の込んだ仕口を使った豊田家、高木家にも、そうする合理的な理由がありました。
これも考えてみれば当たり前です。

人びとにとって、と言うより、私たちすべてにとって必要なのは、所与の目的を、もっとも簡単にして容易に、しかも確実に達することだからです。
そうであるとき、不必要な材寸の木材を使い、わざわざ手の込んだ仕事をするわけがない。手の込んだ仕事=結果のよい仕事では必ずしもないのです。
よい結果をできるだけ合理的に得る、これがかつての工人たちの基本的な考え方であることを知る必要があります。
先の諸事例が、それを見事に示しているではありませんか。

私は、これらの事例から、その形や形式・技法そのものではなく、その背後にある、それをつくった人びと・工人たち、そしてそれでよしとした往年の人びとの「考え方」をこそ学ばなければならないと考えています。
現代風に言えば、ハードもさることながら、それを生んだソフトが重要である、ということです。

「伝統」はファッションではありません。
「伝統」とは、まさに「前代までの当事者がして来た事を後継者が自覚と誇りとをもって受け継ぐ所のもの」なのです。

半年の間、ありがとうございました。不明な点は、随意・随時、お尋ね下さい。 

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

  註 配布資料の別のところで、限界耐力計算法等の「限界」についてふれていますので、
     その部分を以下に転載します。

     大工・棟梁たちは、木材が一本ごとに性質が異なるのが当然と考えています。
     木材は自然のもの、人間同様各々が異なっていて当然、それをどのように使うかが
     大工・棟梁の普通の技能と考えられていたのです。

     現在「限界耐力計算」法など、木造建築にかかわる種々な計算法が出現しています。
     しかし、いかなる計算法であれ、
     接合部ごとに、使われている各材料の特徴をすべて数値化しないかぎり、
     つまり、アバウトな数値に基づくかぎり、
     いかに演算が精密であろうが、対象とする架構の実体には対応していません。

     簡単に言えば、直観による工人の判断は、計算を超えて優れていたのです。
     本来、科学:science は、通常の感性が基本です。

このことを、もう少し詳しく説明します。
構造計算のためには、材料の諸性能を数値化する必要があります。
鉄やコンクリートは、その性能に大きなバラツキはない、つまり、ほぼ一定と見なすことができますが、木材はそうはゆかないのです。

たとえば、同じヒノキであっても、その強度自体、きわめて大きなバラツキがあります。その他の性質についても同様です。そこは、まったく人間と同じなのです。

現在の建築基準法では、たとえば強度について、これ以上低いものはないであろうと思われる数値にするように規定しています。一定の値にしないと計算ができないからです。しかし、それは、木材の実相とは大きく異なります。

ですから、本当に、実相に合うように計算するには、毎回(建物ごとに)、使用する木材すべてについて、性能の数値化をしなければならないのです。
そんなことはやってられない、というわけで、アバウトな数字で計算する、それが現在の木造についての構造力学であり、建築法令なのです。

したがって、計算は如何に精密であろうとも、実相に合わないことをやっていることになります。
計算が如何に正確で詳しくとも、意味がないことをやっている、ということ。

算数の問題で、計算は正しくなされているが、計算式をつくるにあたってミスがあったならば、それは正解にはならない、というのと同じことです。

この事実について、建築の専門家でさえ、気付いていない、忘れている、ということを、一般の方がたに、是非知っておいていただきたい、と常々私は思っています。

一方、すぐれた工人:大工・棟梁は、木材は一本ごとに性質が異なるということを知っていたがゆえに、その「事実」に従い、「直観」でことにあたっていたのです。実に科学的:scientific ではありませんか。

工事輻輳中

2010-01-31 09:58:04 | 日本の建築技術
工事が錯綜して、滞っています。次回掲載まで、もうしばらく・・・・・・。

先回「神輿のような建屋」の補足で紹介させていただいた大森房吉氏の論文、当該箇所に係わる部分の全体を、下記の第十五編、第十六編で見ることができます。
片仮名の旧仮名遣い文語体ゆえ読みにくく、その上長文ですので、時間があるときにゆっくりお読みください。

「現場」の観察に基づく部分と、「机上」で考えた部分が交錯して、?と思うところもありますが、最近の研究論文、報告書よりも分りやすい印象を持ちました。
ただこれは、あくまでも私の感想ですから、そういう先入観なしでお読みください。

第十五編 構造物と地震との関係
http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0008567833
第十六編 耐震構造に関する注意・結尾
http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0008567834

休憩:椎名家 再訪

2010-01-17 21:36:58 | 日本の建築技術
風もなく穏やかですが寒い一日。
図版づくりを休憩して、晴れ上がった空の下、「椎名家」へ行ってきました。
久しぶりです。

直線距離ではすぐそこなのですが、いつも道に迷います。同じような林と畑が続き、目印もなく、道は地物にしたがって曲がりくねり、頼りは陽射しだけ。
多分あっちの方向、とばかりに細い道に入ったら、進む以外ないほど狭くなり、こんなところで道を踏み外して畑に落ちてたまるかと思いながら、生垣をこすりつつ、やっと広い道に出て、予想をはるかに上回る時間を要して到着。

大変静かな佇まい。ほっとします。
部分的に茅の葺き代えを行なっている様子です。写真の右側(東側)。
管理は大変です。
屋根の右上の電柱のようなポールは、避雷針。建物の裏側に建物とは別に立っています。近くに防火用の地下水槽もあります。

重要文化財。部材に1674年の墨書が見付かり、東日本では、現存最古の住居遺構です。近くには、土壕や土塁が残っているそうです。

現在の椎名さんのお宅は、この建物の奥にあります。



記帳の様子では、最近、以前よりも訪れる方が増えたようです。
よく晴れていたため、室内も思った以上に明るい。



いつ見ても、この架構は素晴らしい。簡にして要を得たつくり。

所在:茨城県かすみがうら市加茂4148。土浦からは比較的分りやすい場所です。

本題の方は、もう少しの準備が要りそうです。

休憩:図版の準備中

2010-01-14 10:42:55 | 日本の建築技術
雨がやみ、強風が吹いて、今日は快晴、穏やか。
冷え込みは強く、おそらく今冬一番。厚さ2cm位の氷。



餌台にいつものように喋りながら集まるホオジロ。
近くの藪のなかが棲家のようだ。

昨日の強風の中でも、一昨日の雨の中でも、同じ時間に集まる。
いくつかの群れがあるらしく、入れ代り立ち代り、餌台は混雑。

今、二回目の集合時間か、お喋りがガラス越しに聞こえている。

ときおり、ヒヨドリも訪れる。
例年なら、ホオジロは追い払われるのだが、今年はホオジロの方が強い。
ホオジロの群れが大きいかららしい。
************************************************************************************
ただいま図版の準備中。思ったものがない・・・・・・。
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技術は突然生まれない・・・・醸成ということ

2009-12-20 10:16:53 | 日本の建築技術


[註記追加 12.16][図版追加 15.16]
1週間ぶりになります。

日本の建築技術の展開を「年表」にまとめてみました。小さくて読みにくいかもしれません。これが目いっぱいの大きさ。

もちろん、分っていることによるもので、そして当然完全ではありません。
ざっとの大きな流れが見えればよいかな、との程度です。
便宜上、「住居」と「寺社等」とに分けてあります。
相互に関係がないわけではありませんが、いかにそれを表記するか、悩みの種。
三次元の表記でもしないと表現できそうもありません。

そこで、今回は、とにかく、基本的なデータだけ載せることに。
と言っても、これもやってみると簡単ではない。
それは、「時間軸を、実際の時間の長さに比例した表記にする」ことにこだわったから。

「実際の時間の長さに比例した時間軸」をA3判の用紙上につくり、事例を書き込む段になって、事例はあるのにスペースが足りない時代がある・・・・ということが明らかになり、やむを得ず、今回は載せるのを割愛した事例がかなりあります(おそらく用紙を2枚つなぎにする必要がありそう)。
あくまでも、現在思案中、ということでご覧ください。

   註 時代区分に特別な意味があるわけではありません。
      一般的な時代区分を書いておいたにすぎません。
      時代区分は、後世の人間のいわば都合に拠るもの。
      ずっとずっと連続的なのが歴史、そう考えます。[追加 12.16]

ここで明らかになるのは、現在、日本で「主流」になっている「建築法令が規定する木造建築」の年表で占める「大きさ」が、いかに小さなものであるか、ということです。
一応基準法制定の1950年を画期としていますが、そうなる前の20~30年を加えても、それが「主流」の時期・期間は、70~80年、日本の歴史の中の、ほんのほんの僅かな僅かな期間なのです。

しかも、そのほんの僅かな期間で「主流」になってしまった「建築法令が規定する木造建築」は、その前に広がる「壮大な歴史的事実」とは「無縁に」つくられてしまったものなのです。
つまり、折角の財産をポイと棄ててしまった・・・・。
こんな国は、ほんとに世界的に珍しい。そう私は思います。

なぜ棄てたのか?
それはきわめて単純な理由です。呆れるほど単純です。
「壮大な歴史的事実」を尊重することよりも、事象を数値に置き換えることの方を《大事に》したからなのです(「建築法令が規定する木造建築」では数値に置き換えられることしか考えていません!)。
数値に置き換えることが科学だと思い込んでいるのですね(今になっても変りありません)。
普通の人には「常識」である「技術は突然生まれるものではなく、醸成されるものだ」という認識がないのです。

これをして科学的だ、などという国は、そして、数多くの「壮大な歴史的な事例」を非科学的なモノとして棄てて平気な国は、他のどこにあるでしょうか?

なお、「住居」の系列では、室町期の「箱木家」「古井家」までに、かなりの空白があります。もちろん、住居がなかったわけではありません。実物はもちろん、資料がないにすぎません。
なぜ、資料がないか?
それは、明治期に生まれた学者・研究者たちの視界には、一般庶民の暮しは入っていなかったからです。
もしも視界にあれば、ある程度は、空白が少なくなっていたはずです。
現に、「箱木家」「古井家」に目が向けられたのは、なんと第二次大戦後のこと、それがなかったならば(伊藤ていじ氏の努力です)、この二つも消え失せていたかもしれません。

追加
図版を左半分、右半分に分けました。[15.16]

               
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お知らせ

2009-12-09 00:05:40 | 日本の建築技術
いつでしたか触れた「木造住宅読本」を資料としての講習会が下記のように事務所協会の主催で開かれます。
「木造住宅読本」は配付されます。

茨城県にお住まいの方を優先に考えていたようですが、昨日の段階で、申込はまだ定員の半分ほど、とのことでした。

近在の方、茨城県外にお住まいの方、もちろん建築を専門としない方にも、参加は開かれています。
下記事務局へ電話で問い合わせてみてください。受講料が高くて恐縮です。


差鴨居の家々が並ぶ集落

2009-11-30 16:51:34 | 日本の建築技術
日曜日の天気予報は、はじめは「曇りのち雨」しばらくしたら「晴れのち曇り・雨」に変っていました。そして実際は、夕方まで晴。とりわけ午前中は、雲一つない快晴。そこで、連れ合いともども、犬たちと散歩に出ました。

近くに「まぎのうち」と呼ばれる集落があります。正式の住所名は別にあり、これは通称。
かなり広い小高い台地上を、いくつかの矩折(かねおり)はあるものの、ほぼ東西に幅1間半ほどの道がまっすぐに通り、その南側の、台地の終る斜面までは畑、道の北側に広大な「屋敷」、そのさらに北側背後には杉、檜、欅などの混交林があり、その一部を開いて北側にも畑が広がります。
道の曲がり角には、江戸の頃のものと思われる石の道案内や道祖神が立っています。

「まぎのうち」と呼ぶのは、かなり昔は一帯が「まぎ:牧」であったからだと思われます。近くにある「椎名家」(「日本の建築技術の展開-26・・・・住まいと架構・その3」)は、馬の放牧をやっていたと言いますから、出島一体では牧畜が盛んだったのかもしれません。
南側の畑の斜面の終わりには、遺跡地図上で中世~近世の墓とされる高低差60㎝ほどの小丘があり(下の写真)、そこだけは開墾されずに残されていますから、古い歴史が埋もれている一帯であることはたしかです。

           
            中・近世の墳墓跡 手前は最近までサツマイモ畑だった。

今は集落沿いの道は生活道路専用になり、南側の畑を横切って車も通る広い道路ができています。
下の写真は、あるお宅を、新しい道路から見たものです。
手前の畑は、今は何もつくっていませんが、秋までは、陸稲と落花生がつくられていました。



屋敷と道の境には、生垣で柵がつくられますが、最近は石の塀に変りつつあります。手入れが大変だからではないでしょうか。
写真の石塀の前を通っているのが、昔からの道です。

集落の家々は、一軒の茅葺を除いて瓦葺きで、多くは平屋建て、二階建てが数戸。
二階建てはその外観から、第二次大戦後に建てられたものと思われます。一時期、二階建てが流行った時期があるのです。どれも天守閣のように異様に背が高い。

平屋建てには、茅葺を小屋だけ変えたかな、と思われるお宅もありますが、多くは最初から瓦葺きで計画したのではないか、と思われます。
建てられた時期は、昭和の初めか大正、ことによると明治末もあるかもしれません。いずれ、調べてみたいとは思っています。

石塀のお宅に近付いてみます。



門を入ってすぐの右手には納屋があります。このあたりでは「までや」と言います。「までる」=「かたづける」という意味だと聞いたことがあります。
納屋の屋根の構成が美しい、見事です。何度か増築をしているらしい。

道は、車のとまっているあたりから先は、今は樹木が繁って通りにくくなっています。
門に近付いて、中を撮らせていただきました。



見えているのは東面、その一番奥に、少し引っ込んで「玄関」があります。
その部分は化粧の「数段の出桁」で屋根を受けています。他の部分の軒も「出桁」ですから、軒の出はかなりのものがあります。
軒高はそんなに高くありません。見ていて安心できる、馴染める大きさです(ある時期から、やたらに背丈を高くすることが流行ります)。

東面のガラス戸の内側には「縁側」があり、「縁側」は矩折(かねおり)に南面へ回っています。
「縁側」がLの字型に付いた典型的な農家住宅。
「縁側」の内側には、多分、二部屋続きの座敷:接客空間があるはずです。
建てられた頃には、ガラス戸はなく、雨戸があるだけだったかもしれません。
「縁側」のL字は、全面が開口部です。

この「縁側」のガラス戸の鴨居位置に、全長にわたって入っているのが、「差鴨居」です。これが、全面開口を可能にしているのです。

「差鴨居」は「縁側」に沿って途切れることなく続き、玄関のところでも矩折に曲がり、玄関の引き戸の上の鴨居:「差鴨居」に連なっている筈です。
そして、一般的な例から推察して、「座敷」の部屋境(「縁側」側も含め)「差鴨居」が入っているものと思われます。

「差鴨居」から小屋の「桁」までの間:「小壁(こかべ)」は、写真で分るように、壁にするか欄間にするか、まったく任意です。
つまり、「小壁」を全面壁にしなくても、構造的に大丈夫なのです。

「方丈建築」や「客殿建築」(いわゆる「書院造」)では、内法位置に「内法貫」を設け、その上の全面壁に仕上げた「小壁」部分、それと「拮木(はねぎ)」でつくった四周にまわした軒(庇)部の架構、この両者で全面開口を可能にしていると考えられますが(下記註参照)、「差鴨居」方式では、「差鴨居」を設けるだけで、全面開口が数等容易に可能となり、しかも「小壁」の扱い:壁にするか欄間にするか:は、まったく任意なのです。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-29・・・・継手・仕口(13):中世の様態・5」
      「建物づくりと寸法-1・・・・1間は6尺ではなかった」
      「建物づくりと寸法-2・・・・内法寸法の意味」

このお宅は、ある部材だけが際立って目に飛び込んでくる、ということのない、これ見よがしのところのない、大らかで素直なつくりです。
各部材が「全体」に馴染んでいる、と言ってもよいかもしれません。
こういうつくりは、一般に、建設時期の古い建物に見られる傾向です(不必要な大きさの材、不必要な量の材料は使わない)。

    こういうつくりの「形式」が定着してくると、「目立ちたい」という気持ちが前面に出てくる、
    そういう傾向が一般にあるように思います。
    人の性(さが)なのかもしれません。今の世の言葉で言えば「差別化」です。
    そんなことをしなくたって、「個性」は自ずと滲み出てくるもの、と思うのですが・・・。
    こういう性(さが)は、建て主だけではなく、つくる大工さんにもあるようです。
    天守閣のような二階建てをつくるのも、その一例と言えるでしょう。


下は、この建物の南面を、塀の外から見たところです。



この集落には、このお宅と同じ姓の方がたくさんおられます。これも調べなければ分りませんが、屋敷構えや建物のつくりなどから、このお宅は「本家」にあたるのではないか、と勝手に想像しています。


このお宅を離れ、道を西に向います。たいてい建物が奥に建っているので、姿が良く見えません。
神社の隣りに、ほぼ全体が見えて写真の撮れるお宅がありました。



最初のお宅に比べ、規模は小さいですが、玄関のつくり方は同じです。
ここでも同じように「差鴨居」の回ったL字型の「縁側」がつくられています。
ただ軸部に対して、小屋:屋根の大きさ:被りが少し大きすぎる、頭でっかちの感があります。軒高と軒の出の関係だろうと思います。

この集落にはもう一つ多い姓がありますが、このお宅は、その「本家」筋ではないかと思われます。

さらに西へ進み、集落の道が終るあたりにも写真の撮れるお宅がありました。
下は、そのお宅の門から見た正面と、南面の写真です。





このお宅の建設時期は、比較的新しい、もしかしたら戦後かもしれません。
「縁側」をL字型にまわすなど、基本的には、先の二軒のお宅と同じですが、玄関のつくり方が大きく違うからです。
切妻屋根の突き出し部分を設け、それを玄関にあてています。
このやりかたが何時頃から始まったのかはよく分らないのですが、二階建ての建物は、皆この方式です。

突き出し部の納まりに苦労していますが、どういうわけか、この形式は今でも望まれているようで、最近つくるお宅にも多く見かけます。
「方丈建築」の入口がこれに似てます(前掲註参照)。言うなれば、はるか昔の「中門廊」への先祖返り?

若干、必要以上に大きな材かな、とは思いますが、この建物の写真が、一番「差鴨居」全体がよく見えます。つい最近、まわりの道路拡幅工事があり、植えられていた庭木の多くが移設されたため、建屋が丸見えになったからです。


本当は、それぞれのお宅に伺い、謂れをお聴きすればよいのですが、まだこの地に暮して10年足らず、もう少しお付き合いができるようになったら、お尋ねしてみようか、と思っています。

以上、散歩がてら、「差鴨居」を使ったお宅を観てきた、その報告です。

書き忘れましたが、これらの建物は、皆、礎石建(石場建て)、土台を使っていますが、礎石に緊結するようなことはしていません。
この一帯は、「幸いなことに」都市計画区域外、確認申請が要りません(工事届だけ)!
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「本来の日本の木造建築の工法」と「研究者の云う伝統的木造構法」

2009-11-28 02:21:10 | 日本の建築技術
  今回は長くなりますがご容赦ください。ただ、図などは、文の近くに載せるように努めます。

[註記追加 10.07]
◇はじめに

09年11月24日付で「伝統的木造軸組構法 静加力実験 結果速報(11月19日版)」が、「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」から公表されています。

それによりますと、この実験の様態ならびにその目的について以下のように書かれています。

    国土交通省の補助により伝統的木造軸組構法住宅の設計法作成及び性能検証事業として
    伝統的木造軸組構法住宅の設計法を開発し
    改正建築基準法に基づく当該建築物の審査に係る環境を整備することにより、
    これらの建築物の円滑な建築に資することを目的としており、・・・
    昨年度は「(財)日本・住宅木材センター」と「(独)防災科学技術研究所」との共同研究により、
    伝統的木造軸組構法の実物大住宅(2棟)の震動台実験が行われ・・・
    今年度は「同協議会」と「(独)建築研究所」との昨年度行った実物大試験体の静加力試験を実施・・した。

    註 いろいろと共同研究の様態が異なり、多面的な研究が行われているかのように見えますが、
       関係する研究者はまったく同じです。
       国土交通省が、なぜこの研究者集団を重用するのか、それについての「疑念」については、
       今回はあえて書きません。

       また、国土交通省ならびにこの研究者集団の「伝統的木造軸組構法住宅の設計法を開発し
       改正建築基準法に基づく当該建築物の審査に係る環境を整備する」などという試みへの
       「危惧」についても、
       深く追求することは、今回はあえてしません。
       先回の記事(下記)をお読みください。
       「『基準』がないと、良いものはできないか・・・・むしろ『基準』は技術を衰退させる」

◇「伝統的木造軸組構法」とは何を言うか、未だに研究者集団は語っていない

すでに昨年の実験について、何をもって「伝統的木造構法」と言うか、はなはだ疑問であると書きましたが、当然ですがお答えは聞いていません。

   註 「伝統的木造軸組構法住宅の実物大実験について-1」以下の連載参照

また、今年6月に出された当該実験の報告書に於いても、「伝統的木造軸組構法」についての概念・定義はまったくなされておりません。

今回の実験に使われた「試験体」は、昨年の「試験体」と同じ仕様で、下の写真のような姿をしています。写真は「速報」6頁からの転載です。



この写真を見て、この試験体について、どのようにお考えになるか、アンケートをしてみたくなりました。

 1)以下の設問で、どちらだとお考えですか。
  ①この試験体は、「本来の日本の木造建築の工法」を踏襲・継承している
  ②この試験体は、「本来の日本の木造建築の工法」を踏襲・継承していない
 2)1)で選択した「お考え」の「理由」をお書きください。
 
◇「本来の日本の木造建築の工法」を特徴をよく示す代表例

これまで私が学んできたことから見て、私が考える「『本来の日本の木造建築の工法』を特徴的に示している」架構の建物の一つは、奈良・今井町の「高木家」です。
この点は、期せずして建築学生用教科書「構造用教材」の編者と同じ判断です。

何度も載せてきていますが、「高木家」の架構分解図と土間の写真を転載します(架構図は「重要文化財 高木家住宅修理工事報告書」から、写真は「日本の民家」からの転載です)。
なお、「高木家」についての詳細は、「日本の建築技術の展開-29・・・・住まいと架構その6」他をご覧ください。



「高木家」は、重要文化財に指定されてはいますが、決して特殊、特別な建て方をしているわけではありません。
「礎石建て(石場建て)」「土台」「足固め」「貫」「差鴨居」を用いた、きわめて質朴なつくりの建物です。
たとえば、「柱」は「通し柱」も「管柱」も、仕上り4寸2~3分角で統一され(いわゆる「大黒柱」はありません)、「差鴨居」をはじめ他の部材も、異常に大きいということはありません。
すべての点で「合理的」な考えで貫かれていると考えることができます。
なお、「高木家」は、建設後、「安政の大地震」に遭遇していますが、その地震をはじめ、以後何回かの地震の影響は受けていないことを「『耐震診断』は信頼できるのか-補足・・・・今井町・高木家の地震履歴」で触れました。

これまでも何度も書いてきていることではありますが、「住まい」の建物をつくるとき、不必要な大きさの材料や、不必要な量の材料を使うようなことはしないのが普通です。
そういう点で、庶民は本当に「合理的」なのです。
そしてまた、どうしたら不必要な大きさの材料を使わないで済むか、どうしたら材料が少なくて済むか、考えます。

もちろんそれは、「住まい」の目的、すなわち、それぞれの地域の特性(当然のことですが、高温多湿の環境や地震や風への対応を含みます)のなかで暮すための要件を充たした上の話です。
これらの「条件」を見事に充たした合理的な架構、その一つの好例が「高木家」である、と私は考えているのです。

◇今井町「高木家」と「試験体」を比較する

では、「高木家」と「試験体」を比べたとき、何が異なるでしょうか。

一番目に付くのは、「試験体」の開口部上部にある丈の大きい「楣(まぐさ)」のような部材ではないでしょうか。
実験の主催者は、これを「差鴨居」と呼んでいるようですが、「本来の日本の木造建築」で使われてきた「差鴨居」は、開口部の上だけに用いるものではなく、また「試験体」のように、「差鴨居」を設けた柱間の隣りに「差鴨居」を入れない狭い柱間を設けるようなことはしないのが普通です。

「差鴨居」は、一定間隔で並んでいた柱を抜く方策として考え出されたと言われていますが(下記註参照)、そのため、抜いた柱の位置には、元の柱が支えたその上の材を支えるため、一般には「束柱」が立ちます。「差鴨居」が梁・桁の役目を持つのです。
しかし、その方法が定着してくると、上の横材と差鴨居とが一体の横材として働くことが分ってきて、以後は、最初からそのように使われるようになります。
「高木家」は、そのいわば習熟・完成した姿と言ってよいのではないでしょうか。

   註 「日本の建築技術の展開-25・・・・住まいの架構・その2-差鴨居の効能」

それに対して「試験体」は、私の目には、きわめて危なっかしく見えます。
「差鴨居」を設けた柱間の隣りに「差鴨居」を入れない狭い柱間を設けているからです。
遠藤 新の言葉で言えば、頑丈な部分と弱い部分が斑(まだら)に並んでいる「不権衡な」軸組になっているからです(「貫」を入れてあるから、「差鴨居」の入った部分と同じだ、などと考える人は先ずいないでしょう)。
その上、直交する軸組には「差鴨居」がありません。これも「不権衡」です。

ものの分る大工さんなら、こういう「不権衡」なことはしないと思います。
また、この実験を主催された研究者の方々も、見て知っている筈です(知らなかったとしたら、とんでもないことです)。
なぜなら、「建築研究所」や「防災科学技術研究所」のある筑波研究学園都市の一帯には、都市化にともない少なくなってはいますが、「差鴨居」を多用した農家住宅が多数現存していて、それらを見れば、余程のことでないかぎり、「試験体」のような使い方をした「差鴨居」はないことが分る筈だからです。

   註 以下は、すでに何度も書いてたことの繰り返しです。
      世の中では、いわゆる民家と呼ばれる農家や商家の建物は、 
      骨太の材を使っている、だから丈夫で長持ちするのだ、と思われています。
      しかしそれは、事実ではありません。
      技術が発展途上のときには、中心になる柱を太くすることが行われました(大黒柱)。
      しかし、技術が展開すると、あえてそうする必要もなくなります。
      地域にもよりますが、温暖な地域では「高木家」のような形に落ち着くのです。
      「箱木家」「古井家」など15世紀の建物でも、材は決して太くはありません(下記参照)。
       「日本の建物づくりを支えてきた技術-41・・・・まとめ・立体構造化に努めてきた人びとの営為」
      ところが、19世紀末頃:江戸末~明治になると、自らのステータスを
      部材の「大きさ」「質」「使用量」で誇示することが流行ります。
      たとえば高山の「吉島家」や塩尻の本棟造「堀内家」などが一例です。
      本棟造では「堀内家」よりもはるかに古い「島崎家」は、柱はすべて4寸3分程度で、
      「差鴨居」もなく、質朴です(下註参照)。
      「島崎家」では、明治年間、世の流行にのって「差鴨居」を接客の部屋にだけ取り付けました。
      解体中の現場で、あまりの不権衡さに驚いた記憶があります(下註)。
      修理工事報告書にも、見栄で入れたのではないか、とあります。

   註 「日本の建築技術の展開-27・・・・住まいの架構、その4」     
      「日本の建築技術の展開-27の補足」

さらに試験体では、「楣(まぐさ)」(「差鴨居」?)と2階床桁との間:小壁部分に、通しで「貫」を入れています。
「本来の日本の木造建築」では、その部分を全面壁にすることはなく、多くの場合、「欄間」を設けることが普通です。これは「差鴨居」の「効能」の一つなのです。
この事例も、研究者諸氏は、筑波研究学園都市の周辺の農家住宅で、見て知っている筈です(知らなかったとしたら、とんでもないこと)。

◇浮かんできた研究者集団の言う「伝統的木造軸組構法」の姿

このようなことを見てくると、そこに、「研究者諸氏が言う『伝統的木造軸組構法』」が如何なるものなのか、その姿が、おぼろげながら見えてきます。
それはすなわち、「本来の日本の木造建築の工法」ではなく、以下のような架構のことにほかなりません。

  ①部材の接合に、「継手・仕口」を使っている。
  ②「本来の日本の木造建築で使われている名称の部材」を一部組み込んである。
    ex:「足固め」「貫」「差鴨居」・・など
  ③ただし、足元は土台使用の場合も含め、地盤に緊結する。

では、なぜそれをして『伝統的木造軸組構法』の建物と言い、実験するのか。

その理由(わけ)は、今回の実験:「静加力実験」を具体的に見ると分ります。
「速報」に、「静加力実験」の仕様が図解されていますので、以下に転載します。
実験は、四つの場合で行われています。


左:短手方向(梁行)「2階床構面」に力を加える          右:短手方向(梁行)の2階床面全面に力を加える


左:長手方向(桁行)の2階床面全面に力を加える          右:小屋桁に力を加える(2階床は固定)

この実験方法を見れば、なぜ足元を地面に緊結するのか、分る筈です。
緊結してないと、水平の力を加えると「試験体」は横滑りしてしまい、「思い描いた実験」にならないからなのです。

   註 横滑りしてしまい実験にならない、だから緊結しよう、と考えたとき
      本当なら、そこで「本来の日本の木造建築」が、
      何故「礎石建て(石場建て)」で地面に緊結しなかったか、
      研究者ならば、その理由に思いを馳せるのが普通です。
      しかし、そうではない・・・。
  
 
ここで「試験体に加えられた水平の力」を、「地震による水平力」と同じであると考えてしまうと、それは大きな誤解を生みますから注意してください。
なぜなら
地震によって建物にかかる力は、決して研究者が実験で考えているように「都合よく」建物・架構にかかるものではないからです。
つまり、床面位置だけ、小屋梁位置だけ、に力がかかるなどということは、地震の際にはあり得ません。
あたりまえですが、静的に力を加えて「試験体」各部に生じる「変化」は、地震によって建物各部に生じる「変化」そのものではない、ということです。

   註 「実験結果速報」には、力を加えた後の「試験体」の写真も載っていますが、転載しません。
      なぜなら、その姿は、実際の地震の際には起き得ない姿であり、
      見る人に大きな誤解を与えかねないからです。
      「速報」には、その点の「見るにあたっての注意」は書かれていません。
      こういう実験を否定するつもりはありませんが、
      「実際の地震とは異なる」ということの明示を、
      研究者であるならば、怠ってはならない、と私は考えます。
     
   註 追加[10.07]
      実際の地震では、地震により生じる力は、架構全体にかかり(正確には生じ)、
      それが各部に伝わる、と考える方が自然です。
      強い部分にだけ力がかかる、などという都合のよいことは起きません。
      だからこそ、架構全体を考えることが大事なのであり、
      だからこそ、かつての工人たちは、
      部材を一体の立体になるように組むことに知恵を絞ったのです。
      そしてそれが「本来の日本の木造建築の工法」に他なりません。


では、なぜ、このような地震の力に相当しない力を加える実験をするのでしょうか。

それは、研究者集団の「脳裡」に、「伝統的木造軸組構法」は軸組内に「耐力壁」効果を持つ部分がなければならない、という思考:仮定があるからに他ならない、と推定して間違いないでしょう。

現在の建築基準法が規定している木造工法は、軸組内に「耐力壁」を適量設けることで外力(地震により生じる力も含む)に対応する、という考え方に依拠した工法です。
つまり、国土交通省と緊密な関係のある研究者集団が考えているのは、
①部材の接合に「継手・仕口」を使い、②「日本の木造建築」に使われていた名称の部材を一部でも組み込んである(ex:「足固め」「貫」差鴨居」など)つくりかたも、
現在の基準法の考え方の延長上になければならない、と考え、その「条件」を充たしている工法を「伝統的木造軸組構法」と呼ぶようにしよう、という「大変恐れ多い試み」を行っているに他ならないのです(「畏れ多い」ではありません)。

「ケンプラッツ」に寄せられたコメントを見ると、あの「長期優良住宅が想定外に倒壊した実験」を援護する人たちの中には、「伝統的木造軸組構法」の諸実験は、法の連続性を維持するための伝統的な工法を律することを目指す有益な行動、と考えているようです(工法の連続性ではなく、法律の連続性を優位に考えているのです)。

したがって、今回の実験も、以前行われた「構面」の実験も(「とり急ぎ・・・・また「伝統的木造構法住宅の震動台実験」参照)、「日本の木造建築の工法」で多用されている「足固め」「貫」「差鴨居」などを「利用した」、現在の建築基準法の規定にはない新たな「耐力壁を探そう」、という実験である、ということになります。

◇これらの一連の実験、その目指すものは、「本来の日本の木造建築の工法」にいかなる状況をもたらすか

今井町「高木家」をはじめとした「本来の日本の木造建築の工法」で使われている「足固め」「貫」「差鴨居」などは、「耐力壁」を設けるために使われていたのでしょうか。
そんなことはありません。
それについては、先の「日本の建物づくりを支えてきた技術-41・・・・まとめ・立体構造化に努めてきた人びとの営為」でまとめてあります。

そもそも、「本来の日本の木造建築の工法」は、「権衡」を第一に考えています。
これは日本だけではありません。
西欧はもとより、どこの地域の建築も、
木造であれ煉瓦造であれ石造であれ、「権衡に留意して」建物をつくるのが「常識」なのです。
それを私は、その性格・特徴から「架構の一体化・立体化」への努力と呼んでいるのです。

一方、建築基準法の木造建築の規定、それを支えている考え方は、
その性格・特徴から「耐力壁依存の考え方」と呼ぶのが相応しいのです。
そしてそれは、世界中のどこを探しても今までなかった、
「きわめて特異な考え方」なのです。

以上のことを真剣に考えてみれば、
現在、国土交通省が、その重用する研究者集団とともに行っている「伝統的木造軸組構法住宅の設計法を開発し改正建築基準法に基づく当該建築物の審査に係る環境を整備する」試みは、
現在以上に「本来の日本の木造建築の工法」の存在を否定する、あるいはこの世から抹殺する方向に働くことは明々白々です。
つまり、「文化」の抹殺行動に他ならないのです。

いったい、一行政機関(の一部の人たち)や、その人たちに重用される一部の研究者集団が、
このような「行動」をとることは、許されてよいのでしょうか。
関わっている研究者集団の各位は、そのことを、どのように「自覚」されているのでしょうか。
それを各々が世の中に広く開陳する必要があります。
そして、開陳しないのならば、私たちにはそれを要求する当然の権利がある、私はそう思っています。

読まれた皆様は、いかがお考えですか。

 ここまで読んでいただいて、本当にありがとうございました。    
コメント (5)

明治の3階建て町家・・・・旧・東松家住宅

2009-11-09 17:55:17 | 日本の建築技術
[註記追加 18.56][註記追加 19.14]

鬱陶しい話題からしばしの安息を!

木造3階建て建物の倒壊実験で、かつて観た明治村の木造3階建て「旧・東松(とうまつ)家住宅」を思い出しました。
これは、どこに出しても恥かしくない建物。ただ3階にすればいい、などと思ってつくった建物ではありません。
昭和49年(1974年)に重要文化財に指定されています(明治村移築後)。

昔撮った写真を探しましたが出てきません。そこで「日本の民家」(学研)、「日本の美術」(至文堂)のお世話になります。
図面は「日本の民家」から転載し、文字等を編集しなおしてあります。

木造の3階建ては、決して珍しいことではありません。
山形県尾花沢の「銀山温泉」には、木造三層四層の旅館が軒を並べています。
たしか、信州上田の「別所温泉」や、群馬の「四方温泉」にもあるように思います。
どこも、100年程度を経ていますが心和む建物です。

温泉街に多いのは、山あいの狭い土地で、建物の容積を大きくとる工夫なのでしょう。そういう技術は、かつての工人たちにとって、難しいことではなかったのです。

「旧・東松家」は、江戸時代の末から名古屋の中心部で油問屋を営んでいます。
名古屋城に通じる「堀川」(運河)に面し、一帯には食料品などを扱う問屋が軒を連ねていたといいます。

「旧・東松家」は、建設当初:江戸の末では平屋建てでしたが、明治28年(1895年)2階建てに、そして明治34年(1901年)3階建てに増改築され、現在の姿になっています。
当然、濃尾地震など幾度かの大地震に遭っています。

戦後に名古屋市の区画整理を機に「明治村」に寄贈され、昭和40年(1965年)「明治村」内に移築されています。
上の外観写真は「明治村」内での写真。両脇に続く街並みがないため、何となくひょうきんです。

しかし、内部の空間構成の妙は、写真にはならない素晴らしさ。実に見事です。
特に2階の茶室のあたりでは、建物の中に居ることを忘れてしまうほどです。

また、町家は一般に薄暗いですが、「東松家」の中が、実に明るかったのが印象に残っています。天窓や高窓からの自然光がふんだんに入ってくるからです。

   註 「通りにわ」の大戸口から見た写真(左側)の「みせ」と「奥」の境には
      欄間が設けられています。
      おそらく往時は「暖簾」が下がっていたのではないでしょうか。

      また、「通りにわ」の奥の2階を斜めに横切る明り障子入りの壁は、
      「茶室」から奥の座敷へ降りる階段への「畳廊下」の壁です。
      外の「露地」を歩いているかの錯覚を覚えます。

      いずれにしても、かつての工人たちは、建物をつくるとはどういうことか、
      よく心得ていたのだと思います。
      [註記追加 18.56]

同じように、中に入って感嘆した建物としては、近江八幡の「旧・西川家」そして、これは商家ではありませんが、京都・清水下の「河井 寛次郎邸」などが思い出されます。
その素晴らしさは、いずれも、実際に訪れないと分らないのではないかと思います。つまり、写真にはならない・・・。

   註 河井 寛次郎は陶芸家で、柳宗悦たちと「民芸運動」を起こす。
      「河井邸」には登り窯もあります。
      「河井邸」は河井 寛次郎自身の設計で、故郷の島根の大工が建てたそうです。

もしも、明治村に行かれる機会がありましたら、「東松家」に、寄ってみてください。

   註 柳宗悦の話を出したので、「日本民藝館」へも、行かれてない方は
      是非一度行ってみてください。
      建物も、織物をはじめとする収集品も素晴らしい。
      東京・駒場にあります。渋谷から井の頭線で直ぐ(駒場東大前下車)。
      宗悦の自邸もあります(いつもは観れません)。
      [註記追加 19.14]

以上、しばしの安息。
コメント (4)

報告:信州・松代「横田家」の「包ほぞ差し」とは

2009-10-31 08:04:59 | 日本の建築技術
[文言追加 9.32][文言追加 10.16][解説追加 14.17][文言追加 14.27][註記追加 11月1日 11.30]

 * 30日の記事「三木のE-ディフェンス」に、神戸新聞の記事を転載しました。

去る9月1日に、「信州・松代『横田家』-3・・・・その架構の考え方」で、
・・・「飛貫」は、材種・材寸、納まりとも、基本的には「内法貫」と同じですが、ただ、端部は柱に「包枘差し」・・・。
とありますが、「包枘差し」の姿が分らない、単なる「枘差し」か、・・・
と書きました。

この判断は、腰の位置にある数段の壁下地になる「貫」様の材も、柱間に「包枘差し」納めとしている (つまり柱を貫いていない)とあったからです。
柱を貫かないで柱~柱に材を仕込むには、後入れしかない、後入れなら「行って来い」(やり返し)で入れられる、と考えたのです。

ところが、先般、千葉県船橋市で設計事務所を構える久保恭一氏から、TECH/木継手・仕口CAD図/継手・仕口No.3/ に各種の「枘差し」の一として紹介されている、とのご教示をいただきました。

   註 数日前にご教示いただき、もっと早く書くつもりだったのですが、
      「3階建て実物大実験」の「倒壊事件」の速報のため、遅れました。

      久保氏のデータの入手先のアドレスは、コメントをご覧ください。[追加 11月1日 11.30]
      
それによると、これは普通に「地獄枘」と呼ばれている「仕口」のこと。

「地獄枘」は、上掲の図のような「仕口」を言い、仕事は以下のように行います。
① 片方の材の端部に「枘」をつくりだし、他材には「枘孔」を彫ります。
   ここまでは普通の仕事。「枘」の長さ、「枘孔」の深さを a とします。
② 「枘」に、鋸で「楔道」をつくります。長さは「楔」の長さ b 以下。
   つまり、b<a です。(図の a、b の文字が見にくくて恐縮!)
   「楔」は1本でも2本でも可。「枘」の大きさによると考えられます。
③ 「枘孔」を鑿(のみ)で、末広がり:バチ型に加工を加えます。
   「枘幅」が開いたときに「枘」を「枘孔」密着させるため、
   バチ型の裾の幅は、「枘幅+楔幅」より、若干狭くします。⑤参照。[解説追加 14.17]
④ 「枘」の「楔道」に「楔」を少し噛ませ、そのまま「枘」を「枘孔」に差し込みます。
⑤ そして、材を打ち込んでゆくと「楔」の厚い部分が「枘孔」底にあたり、
   「楔道」に「楔」が差し込まれてゆき、「枘」はバチ型に広がります。
   [文言追加 9.32]
   小さな「枘」の場合は、「枘孔」は強いてバチ型にしなくてもよいようです。
   「楔」で「枘」がバチ型に広がろうとして、その摩擦で抜けなくなるからです。
⑥ 材を打ち込み終ると、材と相手は、一体になり、抜けなくなります。

一旦取り付けると、端部を鋸で切り、「枘」を鑿で掘り取るしか、はずすことはできません。そんなところから「地獄」の名が付いたのでしょう。

なお、図は、分りやすくするため、「胴附」を設けず、「楔」が1枚の場合で書いてあります。
普通は「胴附」をつけます。
また、この図は、柱に柱と同じ幅の横材を取り付ける場合で書いていますが、横材の幅は自由です。
もちろん、梁・桁などの横材に横材(つまり梁や桁など)を取り付けるときにも使えます(上の図を横にします)。

板材端部全体を「枘」と見なし、その先端に「楔道」を設けるだけでも可能です。多分、「横田家」の壁下地は、このようになっていたのだと思います。[文言追加 10.16]

「地獄枘」は、柱や梁・桁に「仕口」の痕跡を見せずに(たとえば「込み栓」や「割楔」などを見せずに)確実に材を取り付ける、あるいは、既存の材(柱あるいは梁・桁など)に、増改築などで新たに材を取り付けたい、などというときに使えます。
たとえば、「霧除け庇」の「腕木」を柱に取り付ける場合、確実できれいに仕上げるには絶好の「仕口」です。

   註 三尺ほどの長さの材の場合、打ち込まれると、ぶら下がっても大丈夫です。

「地獄枘」は、上の写真のように、「礎石」に「独立柱」を据えるときにも用いることができます。
上の写真は、金属板屋根の「土庇」を支える「独立柱」。
右ができあがり、左は「柱」の脚部の加工。
「柱」の頂部は「重枘(じゅうほぞ)」(「重ね枘」と言う人もいます)にして、折置の「つなぎ梁」とその上に架かる「丸太桁」を差しています。

この場合は、「礎石」にドリルで丸い「枘孔」をあけ、柱脚に「丸枘」をつくり、「楔」を仕込んでから据え付けます。
「枘孔」は末広がりには加工していませんから、ここでは、「枘」と「枘孔」の間の摩擦に頼っていることになります。木の方を「傷めて」いるのです。木だからこそできるのです。[文言追加 9.32]
柱と礎石を金物で緊結せよ、と言われますが、この方が数等確実で、仕上げも良好です(ただしコンクリートの礎石では難しいのでは?やったことはありません)。[文言追加 14.27]

     余 談  
     木造建物の柱頭、柱脚の接合法:仕口の法令上の検討法に
     「N値計算法」というのがあります。
     例の「3階建て木造住宅の倒壊実験」で、試験体-1に用いられていたようです。
     この計算法は、平屋建ての場合
      N=A×B-L で計算することになっていて、中間にある柱では、
       Aは、当該柱の両側の軸組の「壁倍率」の「差」
       Bは周辺部材による「押さえ」の効果を示す係数で 0.5
       Lは鉛直荷重による押さえの「係数」で 0.6
     と決められています(詳細は平成12年建設省告示1460号ただしがき参照)
     もちろん、「耐震診断・耐震補強」の記事で書いたように
     A、B、L は、精密・厳密のようでいて、いずれも about な数値です。

     さて、そうだとすると、
     「独立柱」は、その両側に「壁倍率」のある軸組はありません(だから「独立」という)。
     したがってN値計算をすると、というよりも計算しなくても N=0 。
     つまり、柱脚、柱頭とも、接合法:仕口に気を使わなくてよい、ということ。

     しかし、「土庇」のような場合、特に屋根が軽いときには、
     風による「吹き上がり」を気にしなければならないのが「独立柱」です。
     ところが、法令の「規定」にしたがうならば、何でもいい!

     この話は、N値計算をされたことのある方の間では、周知の事実です。
     つまり、法令の規定に拠るのではなく、
     私たちの「良心」に拠り設計することを第一、と考えた方がよい、
     ということです。
     そうやって設計してあれば、例の実験のような倒壊事件は起きません。

     柱頭、柱脚の接合法の検討に、もう一つ「許容応力度計算」法がありますが、
     木造建築では、理論と実際の整合性がない、と言われています。 
     
横道にそれました。
さて、「横田家」の架構では、「飛貫」はもとより、柱と柱の間に入れる壁下地までも「包み枘」すなわち「地獄枘」であった、ということになります。
ということは、その材は「建て込み」で仕込むしかありません。

つまり、「横田家」は、きわめて丁寧な仕事でつくられていた、ということになるわけです。

久保様、情報のご教示、ありがとうございました。
コメント (1)

信州・松代「横田家」-4・・・・柱の刻み:知ることの意味

2009-09-08 09:51:31 | 日本の建築技術
[文言追加 15.19]

「横田家」の修理工事報告書に、「野帳(やちょう)」と思われる挿図が多数載っていることは、先にも触れました。

   註 野帳:何かの調査で、調査したことどもを書き留めておく
      現場での記録・メモ帳。
      「検地」の際の現地調査記録仮帳簿が語源のようです。

その一例として、「座敷」南西の柱:二階部分との接点の柱:の彫り込み:「刻み」の図を先回転載しました。

「木造軸組工法」では、建ち上げるときに組み込んでしまう部材と、建ち上がった後で追加する部材とがあります。
奈良・今井町の「高木家」など「差物」(「差鴨居」など)を多用する商家の建物では、開口部まわりの部材まで上棟時に組み込まれることが多いのですが(「建て込み」)、書院造やその系譜の武家の建物では、開口部まわりの敷居や鴨居などは、上棟後に取付けること(「後入れ」)がほとんどです。現在の木造の住宅でも、大半が「後入れ」としているでしょう。

「横田家」でも、開口部まわりは上棟後の仕事になっています。
一般に、開口部の縦方向の枠は柱をそのまま使い(そうでないときは「方立(ほうだて)」を立てる)、「敷居」「鴨居」など横方向の部材だけ柱に取付けることになります。
「横田家」の座敷南西の柱には、そこに設けられる開口のための種々な「準備」:「刻み」が施されています。
その準備には、2種類あります。一つは、柱の表面に欠き込みなどを設けるもの。上の柱全体図でオレンジ色に塗った箇所です。
もう一つは、柱に別材を植え込むもの。上図では青色を付けています(小さいので見えないかもしれません)。
なお、灰色の部分は、建て方前に刻まれる「貫」の孔で、柱を貫通しています。
「貫」孔以外は、上棟後に現場で刻まれるのが普通です(「間渡穴:まわたし・あな)」:壁の下地材を差すための穴も同じです)。

柱全体図の1階床近くに、「敷居待枘」「敷居横目違穴」「雨戸一筋仕口」の名称が見られます。
「敷居待枘」は「しきい・まちほぞ」、「敷居横目違穴」は「しきい・よこめちがい・あな」、「雨戸一筋仕口」は「あまど・ひとすじ・しくち」。
「待枘」とは、上掲の解説図のうち「敷居の取付け-1」のように、柱の「敷居」位置に孔を穿ち、堅い木でつくった「枘」を植え込む方法です。「枘」を「雇い」でつくるのです。

「横目違」とは、「横枘(よこほぞ)」を納める孔のことです。
「目違(めちがい)」とは、いろいろな説明がありますが、「突起」した部分、あるいは、反対に少しばかり「入り込んだ」部分を呼ぶようです(「日本建築辞彙」の解説による)。
上掲の図にある「横目違」は、横方向にあけられた「入り込み」の意で、そこには解説図「鴨居の取付け:横枘」にあるような「横枘」が納まります。
上掲の図では、「鴨居」の説明で「横枘」を描いていますが、「敷居」でも使えます。

「待枘」の場合は、柱~柱の内法実長に合わせて敷居材を切り、両端に「待枘」の入る溝を刻んで、水平に保ちながら落し込みます。
さらに、敷居の「見え隠れ」になる側面(たとえば畳で隠れる面)から、柱に向って釘を打つことがあります(「忍び釘」)。

「横枘」納めの場合、「敷居」では両端に「枘」を刻むことはせず、片側は「待枘」にするはずです。なぜなら、両側に「突起」があると、柱の足元、礎石に近い部分では、「突起」が邪魔をして納められないからです。
「待枘」だけでは心許ないため、上掲の解説図「敷居の取付け-2」のように、「待枘」を1個にして、「込栓(こみせん)」を打つ方法もあります。

「鴨居」の場合は、柱間が長いときは、鴨居材の方を若干撓めれば入れることができますが、短いときには柱間を押し広げて入れています(押し広げるための道具もあります)。
なお、「鴨居の取付け:横枘」のように納めたあと、壁で隠れる上側から斜めに柱へ向って釘を打つ場合もあります(「忍び釘)。その際、丁寧な仕事では、釘の頭が納まる三角型の凹みを鑿で刻みます。

これらの方法は、従来はあたりまえの方法でしたが、最近では、手間がかからず早く仕事が終る「忍び釘打ち」や接着剤だけで済ませる仕事が多いのではないでしょうか。
   
   註 何もせずにコーススレッドを捻じ込んでお終い、
      という仕事が普通かもしれません。

余談ですが、このような「手間をかけない仕事」「早く終らせる仕事」を「げんぞう」「げんぞう仕事」と呼ぶようです。語源は分りません。


「敷居」の取付け法には、この他に、「敷居の取付け-3」のような「大入れ」にする方法もあります。
「楔」の分だけ大きめに穴を刻み、敷居端部全体を押し込み、楔を打つことで押上げるのです。
この場合、両端を「大入れ」にしておいて、「敷居材」は、柱間寸法に両方の「大入れ」分を足した寸法よりは多少短くしておき、「行って来い」方式で納めると思います。[文言追加 15.19]
この方法は、確実と言えば確実ではありますが、柱に「樋端(ひばた)」の形を精度よく彫り込まなければなりませんから、きわめて手間がかかります。

「一筋」とは、「引戸」(この場合は「雨戸」)を通す道が1本の「敷居」や「鴨居」のことで、それを取付けるために柱に施す「刻み」をこの「報告書」では「一筋仕口」と言っています。
「長押仕口」「廻縁仕口」なども、「長押(なげし)」「廻縁(まわりぶち)」の柱との取合い部に施す刻みのことです。

上掲の詳細図「敷居・鴨居と柱の取合い:柱の刻み」は、報告書の「野帳」を基に推定したものです。なお、記入してある寸法は概数です。どのような寸法にするかは任意です。
ただ、この「長押」の形は現在常用されるもので、すべてが手加工の「横田家」の時代の「付長押」は、図のような斜めに切った材ではなく、図で濃い色を付けた部分のような長方形の材をえぐってL型に加工した材を使ったのではないか、と思います。その底辺の部分が柱の欠き込みに納まるのです。
図では柱の外面に「長押」があたるように描いていますが、現在の丁寧な仕事では、柱を「長押」のあたる分、欠きとって納めています。

「一筋鴨居」は、鴨居側の「目違い」:「突起」部を「鴨居」の上端に滑り込ませる形をとり、柱ではその「突起」分を欠き込むことになり、それを「報告書」では「鴨居仕口」と呼んでいます。
一般に、このような「溝」を彫ることを「小穴を突く」と呼んでいます(人や地域により異なります)。

推定詳細図では、「一筋敷居」の「目違い」を、「敷居」の横腹の「小穴」に納めるように描いていますが、このように「敷居」の側面の全長にわたり「小穴」を彫り込むことは、手加工ではきわめて手間のかかる仕事であったと思われますから、「鴨居」同様に、「敷居」の下端に滑り込ませる方法を採ったかもしれません。
図のように描いたのは、「野帳」で、「一筋仕口」が「待枘」とほぼ同じ高さに描かれていることからの推量です。

詳細図には「廻縁(回縁とも書く)」や「垂木掛」などは描いてありませんが、これらの仕口も、「一筋」や「長押」と同じと考えてよいと思います。


昔は、普通の人たちも、身近かで大工さんの仕事をする姿を見る機会が多かったため、敷居や鴨居などを取付ける方法・作業も知っていました。第一、現在とは大きく違い、大工さんは依頼主の近在の人でした。
それゆえ、大工さんにとっても、「腕のみせどころ」だったのです。最近は、「技能コンテスト」などでしか「腕のみせどころ」がなくなってしまったようです。

   註 大工さんが大工さんとして「認められる」には、
      とりたてて「試験」などがあったわけではありません。
      「任せられる」と「近在の人びと」に言われることが
      大工さんの「資格認定」だったのです。

現在、設計にかかわる方々の多くは、設計図には仕上がった姿しか描かず、このような「柱」に施す刻みなどは考えないで図面を描くようです。一つは、そういうことは《偉い人》の関わることではないと考え、現場を見たこともなく、知らないからであり、そしてもう一つは、知ろうとしないからだ、と言えるように思います。

もののつくりかたを、自分が手を下すことはなくても、皆が知っているような時代、「技術」は真っ当な方向に成長し、継承されるのではないか、と私は思います。
その意味で、現在の「建築産業」「住宅産業」のありようは、いかがなものか、と私は思います。住宅展示場やショールームは、現場ではありません。

「素人」が、もっともっと「専門家」のやることに口出しすることが必要だ、と私は思います。
それが「専門家養成」にとって不可欠なのです。そうでないと、「専門家」は、どんどん高慢になってしまいます


なお、例の「読本」、MOにこだわらずCDでも構いませんので、どうぞ。

さて、締切り仕事が迫ってきたため、遅れてきた夏休みをとり、1週間ほど、ブログ本題は休業します。

信州・松代「横田家」-3・・・・その架構の考え方

2009-09-01 11:30:36 | 日本の建築技術
[文言追加15.18][図版改編 16.49]

「横田家」の「修理工事報告書」は、本文部分だけでも170頁余あり、他に写真・図版が80頁ほどもある「報告書」としてはきわめて大部です。もちろん本文中にも多くの「挿図」が載っています。
「挿図」のなかには、調査時の「野帳」とおぼしき図も多数あります。
今回は、そのなかから架構に係わる図を転載させていただきます。

上段3枚は、復元「断面図」です。それぞれに室名を追加してあります。
中段の3枚は、上から順に、軸部と横架材の取り合いを示した「架構模式図」、各柱の材種・材寸を記した「柱仕様図」、そして、土台の材種・材寸、継手・仕口を示した「土台伏図」です。
次は「柱の刻み」の詳細図(一例)、最下段は「貫」の伏図です。

「断面図」はどの「修理工事報告書」にもありますが、他の図は、普通は載っていません。

今回は図版が大量になるので「平面図」を省略しました。恐縮ですが先回の図版をプリントしてあわせてご覧ください。

この建物は、東西に長い平屋の茅葺寄棟の建屋に、南に「二階建て」を、北に「式台」になる部分を、それぞれ寄棟で付加した形になっています。
主軸になる寄棟平屋部には、束立ての小屋を載せる「上屋」に、「縁」や「押入れ」になる「下屋」がまわっています(「架構模式図」は、小屋組を載せる部分までの図です)。

この建屋の一つの特徴は、外周や間仕切位置を含め全体に「土台」を設置してあることです。
「柱」の立つ位置には「礎石」(径45cm×厚30cm程度)を据え、外周にはそれより小ぶりの「地覆石」の上に「土台」を据えています。
室内にあたる部分は大き目の礎石:束石を等間隔に並べ、その上に据えてあります。
「土台」は当初材が残っていて、材種・材寸は上の図に記されているように、クリが主で、幅が4~5寸、成・高さが平均して3.5寸の扁平な断面をしています。

「土台」の継手は、大部分が「腰掛鎌継ぎ」、「座敷」東の列に「追掛け大栓継ぎ」、「茶の間」と「勝手」の境に「金輪継ぎ」が使われています(「土台伏図」で相欠きの表記になっているところ)。
「土台」の直交箇所は、「平枘差し・割楔打ち」(「小根枘」の場合もあります)が主で、隅部では「角柄(つのがら)」を出して納めています。

「柱」も、ほぼ当初材が完全な形で残っていたとのことです。
「柱」の材種・材寸は、「柱仕様図」に記されていますが、大半がスギの「芯持材」、ほとんどが台鉋仕上げの3寸8分角以下という細身の材です。
「柱」の「土台」への仕口は「短枘」(3寸×1寸)が主で、「式台」正面両端などに「礎石建ち」の箇所があります。

軸部は「土台」と「横架材」の間に3段の「貫」を通して固めています。すなわち、「足固貫」「内法貫」そして「飛貫」です。
ただし、二階部分にはもう1段加わります。
ただ、足元では、柱間の長い箇所では「足固貫」に代り、3.5~4寸角のクリまたはマツの「足固」を差し渡しています。

「貫」の材種・材寸は、「足固貫」ではクリが主で、2.8寸×0.7寸程度の材を、梁行、桁行とも同じ高さでまわし、梁行では下楔、桁行では上楔とし、柱内で「略鎌:鉤型付き相欠き」、端部は「小根枘」で納めています。
「内法貫」は、材種はスギ、マツが主で、材寸、納まりは「足固貫」と同じです。

「飛貫」は、材種・材寸、納まりとも、基本的には「内法貫」と同じですが、ただ、端部は柱に「包枘差し」とのこと。
ところが、この「包枘差し」の様子が分らない。いろいろ調べましたが「日本建築辞彙」にもないのです。
私の推量では、柱を貫かないで納める単純な「枘差し」のことか?
と言うのは、この建物では腰の位置にも「貫」がありますが、その場合は、柱相互を固めるためではなく、壁の下地材として、すべて柱間に「包枘差し」納めとしている、という記述があるからです。つまり、柱を貫いていないのです。
どなたか、ご存知の方、ご教示ください。

以上をまとめれば、この建物は、土台建てで軸部を3段(~4段)の「貫」で縫い、それに小屋を載せた架構、と考えられます。
「土台」や「柱」など、ほとんどが当初材であることで分るように、この架構で、200年以上健在であったことになります。
しかも、その間、壁であった箇所が開口になるなどの改造が何度も行なわれています。そしてまた、地震にも遭遇しています。

このことは、この建物もまた、「古井家」や「箱木家」と同じく、しかも、それらに比べて細身の材にもかかわらず、「貫」で固めた架構で建ち続けてきたこと、
すなわち「立体に組まれた架構は頑強である」、という「事実」を如実に示している、一つの証である、と言えるのです。
要は、「壁に依存した工法ではない」ということです。[文言追加15.18]


もう一度、現在《主流》の「在来工法」の考え方、その根底の「理屈」を考え直す必要がある、と私は思います。

TVのコマーシャルでは、盛んに広い縁や開放的なつくりの建物が放映されます。それらは、多くは長い年月を経た建物です。そして、現在の「理屈」では「耐震補強」が必要とされる建物です。しかし、事実は、現在の建物よりもはるかに「寿命」が長いのです。地震でも持ちこたえてきています。

いま、「長寿命化」というと、すぐに材寸を太くすればよい、という風に考えがちです。
しかし、それは、誤り、誤解なのです。
4~5寸の柱で、細身の横架材でも、使い方次第で、丈夫で長持ちし、しかも使いやすい、改造も任意な建物がつくれるのです。
これが、「立体に組むことを信条としてきた日本の木造軸組工法」の特徴である、ということを、私たちは今こそ知る必要がある、そう私は思うのです。

なお、柱の刻みの図にある「待枘」や「横目違い」については、別途「補足」で説明します。
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