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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-2

2014-11-30 17:12:19 | 「学」「科学」「研究」のありかた



[所感追加 12月1日 9.00]

以下、本書を読むことにします。
文意が通るべく誤訳・誤読のないように十分留意したつもりではありますが、なお至らない点があるかと思います。ご容赦ください。
不明、不可解な点がありましたら、コメントをお寄せください。

分量が多いので、原文にはない「小見出し」を付けました。

     *************************************************************************************************************************

INTRODUCTION序章

〇本書(調査研究報告書)の目的
この書“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”は、RCHMEが行なった「ケント地域(州)の建築:domestic architecture」 に関する調査研究の3報告書の内の一つで、特にこの書は、次の課題を明らかにすることを目的としている。
ア)中世後期の建物の時間的展開・経緯(chonological development)について。
イ)中世後期に建てられ現存する建物と、それらを建てた人ひとの置かれていた社会・経済的状況との関係について。
   註 RCHME:ROYAL COMMISSION on THE HISTORICAL MONUMENTS of ENGLAND
     「英国の歴史的建造物に関わる委員会」、日本の「文化財保護委員会」に相当か。その沿革は以下の通りです。
      The Royal Commission was established in 1908, twenty-six years after the passage of the Ancient Monuments Protection Act 1882,
      which provided the first state protection for ancient monuments in the United Kingdom, and eight years after the passage of the wider-ranging
       Ancient Monuments Protection Act 1900.
     参考:日本の同様機構に関係する法律の沿革概要
          明治30年(1897年)に「古社寺保存法」制定、同法が昭和4年(1929年)が「国宝保存法」に変る。
          昭和25年(1950年)に現在の「文化財保護法」制定。

〇当該研究の現状と課題
建築物を歴史的な文脈で語る書物は、近年、国レベル、地域レベルで多数刊行されている。ただ、その多くが、居住者:建設者についての資料を得やすい16世紀以降の事例に集中している傾向は否めない。
しかし、中世の建築についての研究が、まったく無視されていたわけではなく、各地域の中世初期の遺構を探し出そうという多くの研究者の熱意で、「中世の家々」は、国レベル、各地方レベルで、大いに注目されるようになり、たとえば、国レベルでは、1950年代に為された上層階級の家々についての既往研究に対しても、再考しようとの機運が高まっているし、「より小さな家々」についても、この書の刊行まえにいくつかの重要な研究報告がなされている。また、近年、「構築法や大工技術」が注目され、数多くの個別建物についての研究も各地域で盛んになされ、報告されている。
一方、歴史学の分野では、その時代の人びとの遺した諸資料を基に、その時代の各階層(上層~小作農)の人びとの生活様態を明らかにしようとする研究も数多く報告されている。
けれども、同じ地域、時代が対象であるにも拘らず、建築分野と歴史分野の研究は、相互に無関係のまま進められているのが現状である。
その理由は、問題の複雑さと、それぞれの分野の研究方法の違いに拠ると考えられる。
近刊の「イングランド及びウェールズの農業史」は、考古学と建築についてかなり割いているものの、建物については、農業や経済の一般的な問題とはまったく別扱いとなっていて、建築への関心が社会・経済史の対象になっているとは言い難い。各地の小作農についての研究報告でも、建物についての項目を立てる例は少なく、触れている例でも、事例の要約列挙する程度にとどまっている。

それゆえ、現在、次の諸点についての研究:その方向性の策定:が緊急の課題と考えてよいだろう。
すなわち、
ア)家々の「格」の判定・評価が、その建物の形式・姿に拠っているのか、あるいは単に「それが希少な存在である」がゆえなのかを見究めること、
筆者所感 
   旧くて希少であると「格」が高いと見なしてしまう傾向は、彼我に共通するようです。

イ)現在の形態になったのは何故か、また、どのような過程を経てその形態に至ったのか、その経緯を明らかにすること、
ウ)その建物の建設年代の判定の確度・精度を高めること、
の三点である。

もちろん、問題は他にも多々あることは明らかである。
しかし残念ながら、これらの問題解決に向けた多様な試みが為される間も、しばらくは、「中世の家々についての研究」と「中世の社会・経済史の研究」は、それぞれ独自の道を歩むに違いない。

ア)社会的階層(小作農、自作農・小地主)と建物の「定型」「格」について
小作農の人びとの家々と、より上層の人びとの家々との違いは必ずしも明確ではない。
社会的階層で最上位に属する人びとの建物は、容易に見分けることができる。普通の層の人びとの家々も、そのなかのどの層に属すかにより明らかに微妙な違いがあるが、しかし、それを最小・最貧の人びとの家々に至るまで明確な線で区分することには無理がある。
最近の歴史学の研究でも、上層階級、yeoman:自作農・小地主と小作農の区分は難しい、という事実を明らかにしており、建築史の研究でも、これらの階層別に家々を分類すること、たとえば、現存する遺構の中で小作農の家の占める割合を明示するなどということさえ容易ではないとしている。つまり、「階層」⇔「その階層の家の定型」を単純に判定することはできないのである。
   註 yeoman:ヨーマン:自作農・小地主、昔の「自由民」:独立自営農民、gentleman より低い地位の自由所有権保有者。(研究社英和中辞典)
ケント地域が、他の地域に比べ自由な社会構造を有する地域であったことは、既に17世紀に明らかにされているが、現在でも、上層階層が明瞭に区分できるのに対して、自作農・小地主と小作農の違いは、明確には明らかにされていない。
一般には、近世になり、イギリスでは、建築が地位の象徴や社会的野望表現の道具として使われることが多くなる、と言われてきているが、ケント地域では、特に中世には、そのような気配は感じられない。
いずれにしろ、この問題は、家屋の形式、大きさ、一戸がどの程度の人数が暮せるか、などをも勘案した詳細な検討が必要になる。

イ)建物個々の履歴について
二番目の問題は、ある建物が、そもそも誰のためにつくられ、何時頃から現在の形になったか、など、その建物についての「編年史」を作製することである。
考古学的研究がかなり行なわれているにも拘らず、現存する建物と取り壊された建物との間の関連、一度つくられた建物が、継続してつかわれてきたのか、それとも改造・回収されて使われてきたのか・・・、といった問題についての研究は、建築史の分野で、ようやく緒についたばかりなのである。
それゆえ、現在のところ、現存する中世の家々を系統的に整理して概観することは、不可能である。
すなわち、現在まで健在であり得たのが、その架構の構造が当初から強固であったからなのか、それとも華奢な造りだったものがが丈夫に変えられてきたのか、あるいはまた、消え去った事例には、構造以外の別の消え去る理由があったのか・・・、などについて、今は確かなことは言い得ないのである。
したがって、この書の研究目的は、現存する中世の建物を、遺されている各種の断片的資料の分析を通じて、その変遷・展開の経緯について、より確かな理解に至ろうとすることにある。

ウ)建設年代の判定について
第三のテーマは、年代判定に関わる問題である。より正確な年代が判明しない限り、ある建物を歴史的文脈のなかに正確に位置づけることは難しい。上層階級の建物の場合は、遺されている文献やその建物のスタイル:形式により年代を特定出来ることもあるが、より小さな建物の場合は、特に中世の建物では、それはほとんど不可能である。各種の仕口や繰型の形態から建物がつくられた年代を判定しようという研究も為されているが、現在は、その有効性が論議されている段階である。いずれにしても、建物の建設年代の判定には、未だに種々なレベルの問題が残っているのが現状である。
幸い、本研究の始まったのが、いくつかの木造建築の建設年代が「年輪編年法( Dendrochronology )」により科学的判定が可能になった時期と重なっていたのは幸いであった。この研究はNottingham University Tree-Ring Dating Laboratory(NUTRDL)との共同研究で、木材の試料は、74の建物から採取された。この技術は、ケントの建物の年代判定にとって欠かせない手法となり、この書全般の結論は、それに負うところが多い。

すなわち、本書は、以上三つの問題点を常に念頭に置きつつ、単なる狭義の建築史、社会史ではなく、それら多くの家々・建物を建て、そこで暮した中世の「人びとの実像」を描き出すことを目的としている。
筆者所感
   残念ながら、この「人びとの実像」を描き出すという視点が、これまでの日本の建築史研究(いわゆる民家研究や住居史を含む)には、欠落していたように、
   私には思えます。
  

〇ケント地域の中世の建築遺構概観
従来から、ケント地域は、中世の建物が他地域に比べかなり多く遺されていることが知られていた。
その量、質ともに、イングランド(グレートブリテン島)南東部の木造建築は注目されてきたが、中でもケントのそれは並外れていて、既に、その豊かな遺産についての価値ある研究もかなりの為されている。代表的なのは、ケント建築考究の基点になっている1960~70年代の故 STUART RIGOLD 氏による中世ケント建築についての「概要」、また、 KENNETH GRAVETT 氏によるケント建築に関する多くの興味深い資料・情報を収集・整理、個々の建築や建築群についてのすぐれた研究書(特に E W PARKIN 、THE CANTERBURRY ARCHAEOLOGICAL TRUST 、そしてJANE WADE 氏らのグループによる諸著作)が挙げられよう。
   註 STUART RIGOLD :wikipedia によると、ケント生まれの考古学をはじめとする多分野の研究者とのこと。なお、次のようにあります。
                  ・・・・ He had a special interest in medieval architecture on which he wrote extensively, and was a pioneer student of timber framing.・・・・
  THE CANTERBURRY ARCHAEOLOGICAL TRUST :同じくwikipedia によると以下のようにあります。
                Largest professional unit working in Kent archaeology. Consultation, evaluation, excavation, surveys, building recording, education
                service.
                イギリス発祥のNATIONAL TRUST 同様の性格の団体と思われます。
                TRUST は、自然環境、歴史的構築物、遺構などの維持・保全・継承を目的に、寄付を基金に、財団、NPO、NGOなどの組織を通じて活動
               を行う組織・機構のことを言います。

     JANE WADE :不詳です。

筆者所感
   住居・庶民の住まいについての研究が日本で広く行われるに至るまでには、
   今 和次郎 氏や川島 宙次 氏らの表舞台からは隠れた地味で地道な事例収集が重要な役割を担っています。
   また、建築史学における住居史の分野確立に努めた伊藤 ていじ 氏も忘れることはできません。
   箱木家、古井家など兵庫のいわゆる「千年家」の存在を発掘し、その重要性を世に広く知らしめたのが伊藤氏です。
   箱木家の近くにあった「阪田家」の火災消滅を機に、全国的にいわゆる「民家緊急調査」が行なわれたのも、伊藤氏の提言が基になっています。
   

ケントの中世建築の価値の高さは、よく認識されてはいるものの、建物遺構の総数も推定にすぎず、その年代別分布の様態も明らかでないのが現状であった。
現在のケントは、広さが1440平方マイル、319の行政区からなっている。したがって、このような広大な範囲の中世建築探索は、行政区ごとに行うしか方策はない。そのための、効率的な探索法は、できるだけ狭い範囲ごとに調査を行ない集積する方策であった。
ケント地域は、その大きさ、多様性にもかかわらず、歴史的には一体として発展してきた地域である。ケント地域の慣習や土地の所有形態は、近隣地域のそれとは明確に異なる。それゆえ、この実態の全貌の理解のためには、どうしても、方法論の違いを越え、歴史学、建築学両者共同の下での研究がより重要と考えられた。

〇調査地域:ケント州の概要と、中世建築遺構の調査研究方法の策定に至る経緯
ケント全域を考慮に入れたうえで一つの資料収集策が講じられた。
最初に採られた方策は、農家の建物を集中的に調べることであった。
中世後期のケントの町場の発展をもってこの地域の歴史と見なすことはできず、町屋までを対象にすることは考えなかった。
なぜなら、町場の建物は、農村のそれとは別種の特性がある。すなわち、建物の規模も配置も限定され、そこから農村部には見られない町場特有の性格が形となって現れるからである。それゆえ、町場の建物は、個々の町の特性の探求とともにその町の建物独自に研究されなければならない。それゆえ、本書の研究では、町場の建物は対象外とした。
ケントは、いくつものまとまった小集落が散在する州である。それは、イングランド中央部の大部分を占める農村社会とは違い、どちらかと言えば、市場を持つトレーディングセンター、小さな町と呼んでいい。
CHILHAM、ELHAM、SMARDEN、WROTHAM、などの場合は、中核部は教会を中心にした住居群で構成されており、BRASTED、CHARING、などの場合は、家々は互いに肩を寄せ合って建ち並び、立派な街路を形成している。なかには意図的につくられたと見られる例や、建物の規模が限定されているように見える例もまったくないわけではないが、本格的に町場形成を意図していると思われる事例は、これらケントの小集落ではほとんど見られない。とは言っても、それらをまったく対象外とするのは不自然であるので、今回の調査対象には含むことにしている。ただ、これらの事例の研究結果から、この地の様相は、必ずしも他の地で見られるそれと同様ではない、ということは、既によく知られている事実でもある。したがって、これらの町場の建築については、別途探求される必要があろう。

本調査の主題:ケント地域の中世遺構の木造架構について
およそすべての研究には、その境界部にグレイゾーンがあるのが普通である。
この書の研究主題は、14世紀~15世紀の木造架構にある。
しかし、この問題は、石造、木造を問わず、初期の上層階級の家々と切り離して考えることはできず、本研究の一部となる。けれども、城郭、宮殿、キリスト教関連の施設などまでを対象とするのは難しい。それゆえ、それらについては、必要に応じて触れる程度とする。

ケント地域全体の考察のため、不作為に分けたグリッドごとに地域を調査する方法も考えられたが、既知の数多くの歴史的状況とは相いれない点があり、この方法は採用されなかった。
なぜなら、ケント地域の地理的、歴史的環境から、ケント地域の様態が多様であることは既に知られていて、地形・地勢も集落形態、農業形態も多様であり、その上、場所によって社会的、経済的状態さえも異なっている。したがって、調査対象地区を選定するにあたっては、これら諸点を考慮しなければならなかったのである。
旧荘園の範囲ごとの調査も考えられたが、その範囲の時代ごとの変遷などが明らかでないため、この方法も不可とされた。

〇採用された調査研究方法とその概要
上記のような消去法を繰り返した結果たどり着いたのが、「教区:parish 」ごとに調査する方法であった。
「教区」は、単に宗教的・歴史的意味だけではなく、現在の「行政単位」をも意味していた。その「範囲」は、例外はあるものの、大きく異なることはない。「教区」はその地域にとって歴史的意味を有し、それゆえ、この方法は、ランダムに地域を選ぶ方法よりも、地域の歴史的背景と建物の様態の関係を、より容易に知り得る方策であると考えられた。
たとえば、中世の建物の健在事例を教区:村単位に収集・記録することにより、建物を地域の人口や経済状況と関連づけて考察することが可能になった。そしてまた、教区ごとの調査は、中世遺構の一定区域内での形態やその変遷に関わるのが、地形・地勢の違いと地域の歴史的環境のどちらであるのか、というような問題を考えることをも可能にした。そのいくつかの興味ある結果は、本書の最後に論じられるはずである。

結局、Figure1(下図:再掲)のように、全319「教区」のうち、現在(1974年現在)も行政単位になっている60「教区」が調査対象となった。

この60教区は、ケントの全教区の19%、面積ではケント州の24%に相当する。60「教区」の選定にあたっては、できる限り地理的、歴史的背景の異なる事例を含むように考慮し、最近開発された地域を含む教区は、中世の家々が少ないために対象から除いた。
なお、これらの特定地区での資料収集に加え、建築的視点で稀有かつ重要と見なされた他の中世の家々は、その立地如何に関わらず収集・記録することに努めた。

中世の建物には、Figure2(下図)の例のように、後の時代の改装によって中世の様相の隠されてしまっている事例も多くあるが、各調査区域ごとに、これらの「隠れた事例」を精査することは難しく、それゆえ、かなりの中世遺構が埋もれてしまっていることは否めない。

他にも、中世遺構とおぼしき建物で、調べられなかった事例が多々あることは確かで、今回の調査によって、ケントの中世遺構のすべてが調査されたというわけではない。けれども、個々の建物相互、並びに州内の地域間に浮かび上がってきた顕著な差異から、調査によって明らかになった地域内の中世遺構の分布状態は、歴史学的観点で確かなものと見なして問題はないはずである。

今回の調査により、調査対象の60教区から380戸が調査された。また、他の地域から70の中世の建物が調査された。これらには、見逃すことのできない、そして当該地域の代表例とし得る14世紀中期および初期の遺構が含まれている。これら450の建物は、他の調査により得られた50を超える事例とともに、ケント地域の中世の家々の特性および発展について考察するための基幹資料となった。実際、既に、事例のいくつかは、各種の研究に引用されている。

本書の触れる調査研究のの概要は以上の通りである。
しかし、13世紀、14世紀初期の家々の規模とその利用の様態については、なおいろいろな問題が残されている。
収集された遺構はどれも小作農よりも上層の人びとの家ではあったが、その中には、富や地位の差別化を意図して建てたと思われる例は一例もなく、その家族形態と居住形態は実に多様であった。
ただ、調査総数が多くはないので、この様態を地域全体にまで広げ一般化して言うことはできない。また、調査の進行にともない、このような初期段階の上層の建物は、必ずしもがケント州内の各地で出現しているわけではないことも分ってきた。その分布には、石造か木造かによらず、あるパターンがあることが見えてきたが、この点についても、より詳しい調査と解釈が必要になろう。

ケントの中世遺構のなかで最も時代をさかのぼる事例は、14世紀中に建てられた上流より一段低い層の人びとの家々である。この事例は、世紀末には確実に増えてくるのだが、この傾向が何時頃から始まったかは、確定するのが難しい。第一、規模が大きく且つ立派な「小作農の住まい」と数少ない「上層の人びとの住まい」とを区別することも容易ではない。遺構の可能性のある多くの建物の歴代の所有者をたどることが難しく、それゆえ、どのような状況であったかを文献資料だけで明らかにすることも難しい。個々の家々の由来を確定するには、記録資料と建物とを総合的に調査解析をすることが基本なのだが、今回の調査では、残念ながら、必要な記録資料の収集ができなかった。
しかし、ある型の家が一定程度存在するならば、それを、「豊かな小作農」あるいは「自由民:上層地主層」の住まいを代表する事例と見なして問題ないことは分ってきた。さらにまた、調査範囲を広げた教区調査と年輪年代学(DNDROCHRONOLOGY)による正確な年代判定によって、このような展開には地域差があること、すなわち、すでに14世紀後期に出現した区域と、それより遅れて出現する区域とがあることも明らかになった。
「小作農の家々」と「上層階級の家々」を識別することは、中世後半を通しての重要な課題である。なぜなら、14世紀中期から15世紀後半にかけて建てられた「上層階級の人びと」の建物の実数が明らかに減少している一方、同時期に「小作農の人びと」の建てた建物が激増しているからである。この現象が、社会の変化の現れなのか、他に理由が求められるのか、まだ十分検討されてはいない。
こういった諸問題を考察するために、先ず、多様な事例を建物の用途、建設時期、規模、分布状況などの観点で、正確に見極める必要があった。

筆者所感
   たとえば、「古井家」について、いろいろ調べても、あの地域で、「古井家」だけが何故健在であったのか、
   同じ集落の他の家々は、どのような過程で、現在に至ったのか・・・、つまり、「集落自体の変遷」については知ることができません。
   これは、研究者の関心が、個々の建物にのみ注がれているからではないか、と思います。
   個々の暮しは、集落全体との係わりの中で成り立っているはずです。
   どうしたらこの問題に迫れるか、見当もつきませんが、この視点は欠かせないように思います。
[文言追加 12月1日9.00]

14世紀後期前の木造架構は Aisled form または Quasi Aisled form が大半である。
   註  Aisled form :「身廊・側廊」形式 日本の「身舎・庇」=「上屋・下屋」形式に相当。
      Quasi Aisled form :Quasi は、類似または疑似の意。現段階では具体的には不詳だが、後に説明があるものと思います。
Aisled 形式の架構は、15世紀中を通して用いられるが、14世紀末には新しい形式の架構が出現する。
有名な Wealden house は、かねてから、中世の木造建築の完成型として見なされ注目されてきた。 Wealden house は、おそらく1400年前後に出現し、その後おそらく80年~100年間、すなわち1430年~1530年ぐらいが最盛期ではないか、と考えられている。
   註 Wealden houseWeald 地方特有のつくりかたの建物の意のようです。
     日本で言えば、たとえば「本棟造」などに相当する用語と思われます。
     その事例の詳細は、次回以降で紹介。
       Weald は、ケント地域南部の森林地帯です。「地理学的区分図」(下に再掲)および前回の同図の註解を参照ください。
         
実際、Wealden house の形式は、英国内の他地域に見られる cruck 同様に大きな関心を呼び、数多くの研究も為されている。
   註 cruck :土台から屋根に向って架けられる湾曲した梁。以前、下記で紹介・解説してあります。
     「The Last of the Great Aisled Barns-7」
    また、「the Last of the great aisled barns-4」に Aisled form の事例と説明があります。
      なお、今回紹介の書は、上記記事で紹介している書物の内容を補完する一資料でもある、と考えてよいでしょう。
Wealden house は、ケントでは、1970年までに、既におよそ350例の存在が確認されており、明らかに改装されていると思われる事例が多数見受けられるから、実際には、少なくてもその2倍は存在すると考えられる。このような様態は、ケント州の中央部、MEDWAY(ケント州北西部の町:ロチェスターの近傍)から STOUR (ケント州東部のカンタベリー近くに STOUR スタワ川という川がある)の間、特に MAIDSTONE南東部に集中している。
    註  MEDWAY、STOUR(川)、ロチェスター、カンタベリー、 MAIDSTONEは地名。 MEDWAY以外は、前回掲載のケント地域の地図にあります。下に再掲。

     
この地域には、他にも Wealden house よりも早くからあると考えられている end jettyの名で知られているつくりが存在するが、それと Aisled form 、Wealden house との関係、それぞれの発展の経緯や分布などを整理することを通じ、詳細に識別することにも注意が払われた。たとえば、14世紀中・後期につくられた建物の多くが、Wealdenあるいは end jetty に分類できる、とは必ずしも考えられないからである。
したがって、組織的な調査によって、ケント地域に存在している中世の建物を、形式、建設年代、規模ごとにその分布様態を洗い出すことが必須であった。

   註  end jetty 型とは、下の写真のように、建物の一辺(多くは桁行方向)の上階部分を突出すつくりをいう。本書後半に事例説明がある。
     日本の出桁に類似したつくりかたと見なせるか?



〇この調査・研究で「分ったこと」、「分らなかったこと」、その概要と意義
これらの調査の結果、ケント地域に遺されている中世の家々は、その年代、分布密度、その質の点で、かなり地域差があることが明らかになった。これは、既に、RIGOLD とEVERITT によって指摘されていた事実であるが、この事実は、ほとんどの社会・経済史の研究では、見過ごされていると言ってよい。中世のケント地域の社会の変容の様態について分るための文献資料は、まったく寄せ集めでばらばらだ、というのが実情なのである。たとえば、教会関係資料は、一般信徒よりも教会の聖職者など上層階級に係わるものが圧倒的に多いから、歴史分野の研究も、必然的に、教会関係の上層階級の面から語らざるを得なくなってしまう。
   註 RIGOLD :前註参照。
     EVERITT :調べましたが不明。
結局のところ、16世紀中期以前の時期のケントの経済的状況については、、文献資料の少ないケント中部・西部よりも、北部・東部地域の様態が、より多く明らかにされた。
どこに記録資料:文献資料が遺されているか、誰にも分らない。何故なら、そういう資料は、特別な目的で記録されるのが普通だからで、それゆえ、「中世の一般の人びとの生活の全容」は、まだ大部分が不明のままであり、今後の更なる研究が必要である。
そのとき、今回の調査・研究で明らかになったケント地域の中世の建物遺構の存在が、その地域の経済的な状況や社会構造を明らかにする上で、貴重な材料を提供してくれるであろうことは確かである。
また、これらの収集・集積され考証された建造物という資料は、今後、現在の各種の知見間のギャップを埋めて行く上でも、重要な意味を持ってくることも明らかである。                                                
                                                                               〈序文 了〉

     *************************************************************************************************************************

   序文全文を読んでの筆者の感想
   日本の研究報告書の類では、このような「序文」は、多分、全くないでしょう。
   ここでは、たとえば、調査研究の方法策定をめぐり逡巡した状況まで詳細に述べられています。
   一方、わが国の場合、そういうことは全く触れられず、その研究で採られた方策が、あたかも唯一最高の当然のものであるかのように記すのが普通です。
   そしてまた、どの報告書の類も、似たような《形式》を踏襲するのが当たり前のようでもあります。
   つまり、「学術論文・報告」としての《形式》の方が、優先してしまうのです。
   したがって、そこでは、それが何のための研究であるか、という本質的なことでさえ、陰にかくれてしまいがちになります。
   その一つの《典型》は、最近の原子力規制委員会の、「原発の安全審査報告書」。
   どんな問題が問われ、どんな意見が出たか、「結論」はどのような討議、論議の経過を経て出されたか、などについては、一切示されておらず、
   あたかも《天啓》のごとく、《結論》が語られる。
   それは、「議事録」に委ねられる事項だ、というのかもしれませんが、「議事録」の開示を求めれば、多分、難色を示し、黒塗りで見せられる。
   ところが、この「序文」は、言うなれば「内情」を「開けっぴろげ」にしています。
   しかし、それにより、本書の調査・研究の目的はもちろん、考えなければならない諸問題が、よりリアルに読者に伝わってくるのです。
   これは、関わった研究者・学者諸氏が、たがいに「論議する」ことを是とし、自らの「知見」を「囲い込む」ことをきらい、常に広く「開いている」ことの証左だと
   思います。
   日本の多くの研究者・学者諸氏は、そうでない場合が多い、自分の領域に垣根を築きたがり、知見を囲い込たがる、そのように私には思えます。
   そうすることで「斯界の権威」が保証される、と思い込んでいるからでしょう。

   
   そのようなわけで、この「序文」は、きわめて新鮮で、一層先が楽しみになってきました。

   さりながら、長文の英文との「格闘」は、受験勉強を思い出させるものがありました!


     *************************************************************************************************************************

   大変長くなりました。お読みいただき有難うございました。

   次回は “Historical background” の章の紹介になります。
   また時間がかかるかと思います。ご了承ください。   

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うちなーんちゅ うしぇーてーならんどー

2014-11-22 10:48:11 | 近時雑感
    「“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介」 Introduction のたった9頁の英文に四苦八苦しています。
    もう少し、時間をいただきます。

    
    解散、選挙で、世の中騒がしくなっています。そこで感じていることを書きます。


標題に記したのは、沖縄県知事に選ばれた翁長氏が、選挙に出るにあたり、集まった人々に語りかけた言とのこと。
うちなーんちゅ うしぇーてーならんどーとは、「沖縄の人間を馬鹿にしてはならない」という意味の沖縄方言だそうです。
一昨20日の毎日新聞朝刊の「記者の目」で知りました。是非多くの方に読んでいただきたい、と思い、転載させていただきます。新聞のコピーでは読みにくいので、web 版からプリントアウトします。


沖縄の人びとでなくても、うしぇーてーならんどーと叫びたい人は、たくさんいるはずです。記事の中にもありますが、前知事が、時の首相から「《振興》予算」なるものを示されて、「いい正月になるなぁ」と言ったと報じられたとき、知事の「感覚」にも驚きましたが、時の政府の「やりかた」に憤りを覚えたのは、私だけではないと思います。これは、「最後は金目」との例の発言に通じます。
原発事故で避難生活を強いられている方がたはもちろん、多くの福島の人びとが、沖縄の人びとと同じ思いを抱いていると思います。
これは、例の「原発起因の放射能汚染土など」の「《中間》貯蔵施設」建設を強いられている地域の方がたも同じはずです。
「原発起因の放射能汚染土など」の処理を、一般の生活起因のゴミと同じく、発生地域内で処理するというリクツらしいですが、どう考えたってこのリクツは筋が通らない。
このゴミは、人びとの生活が生み出したゴミではないのは自明。それをヘリクツで押し通すそうとしたときに出た発言が「最後は金目云々」だったと記憶してます。
人びとは、札ビラを見せればダマル、懐柔できる、というのが、時の政府のエライ方がたに通底する考えかたのようです。
急遽決まった師走選挙を行なうリクツは、消費税10%増税時期を先送りし、その際に軽減税率を設ける、ということの《信を問う》ことだそうですが、これも、税負担を軽減すると言えば人びとはダマル、と思っているからでしょう。
もしも「信を問う」ならば、「集団的自衛権の拡大解釈」「秘密保護法の制定」「原発再稼働」についてこそ、「信を問う」のがスジというものです。どれも、「普通の人びと」の重大な関心事だからです。

沖縄の人びとは、自らの誇りにかけて、「甘言」に乗らなかった!!
では、ヤマトンチュは???


今日付けの東京新聞のコラム「筆洗」もどうぞ・・・。

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-1

2014-11-15 14:26:56 | 「学」「科学」「研究」のありかた



イギリス・ケント地方とは、どのような所なのでしょうか?
本書に入る前に、「ケント地方」について、その概略を見ておくことにします。

はじめに、手元の地図帳:昭文社版「世界地図帳」からケント地方を含むイギリス「グレートブリテン島」南東部の地図を転載します。
A「当該地域地図」


“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の「第一章 ケント地域の沿革」に、B「地理学的区分図」C「地勢図」:土地の高低及び河川の流域(排水域)を示した図が示されています。また、INTRODUCTION:序章には、D「B地理学的区分図上に市街化地区およびparish:教区をプロットした図」が載っています。これらの図を以下に並べます。
   筆者感想
   日本の建物についての「報告書」「学術書」「解説・案内書」等で、建物所在地域の「詳細な地形図」「地質図」「地勢図」などを載せてある例は、ほとんどない
   と言ってよいでしょう。
   「案内図」さえない場合が多く、別途地図等を探し場所を比定することになります。当然、地形・地質などは、まったく触れてさえいません。
   この事実は、日本では、研究者をはじめ建築関係者の視線が、専ら、建「物」だけに注がれている、ということを如実に示していると言ってよいでしょう。


   
B「地理学的区分図」

  図中の凡例は、次の通りです。
  Marshland : 沼沢地
  Northern uplands :直訳すれば「北部高地」となりますが、次の「地勢図」で判るように、標高は数十メートルに過ぎません。
            それゆえ、marshland と比べての相対的呼称で、「台地」と呼ぶ方がふさわしいのかもしれません。
  Downs(chalk):白亜質の草原地帯(樹木が少ない)。
  Clay-with-flints :礫混じりの粘土。
  Vale of Holmesdale :Holmesdale谷、Holmesdaleは、同名の大学などがあるので一帯の総称地名と思われます。日本の「等々力渓谷」などにあたるか?  
  Chart hills :Chart hills という名のゴルフクラブがあるようですから、これも一帯の総称地名と思われます。日本で言えば「多摩丘陵」などにあたるか?
    Vale of HolmesdaleChart hills ともに、図から想定して、台地状の地形ではないかと推察します。多分、河岸段丘か?
    どなたか詳しい方、ご教示ください。
  river valleys :河川筋
  weald :粘土、砂岩、石灰岩、鉄鉱石などからなる粘土質の地層。Low weald、High weald は、次図と対照すると標高の差か。
      英和中辞典には、Weald地方=「Kent,Surrey,East Sussex,Hampshire の諸州を含むイングランド南東部;もと森林地帯」とあります。
    地図A地域図の中央あたりの Chart hills 該当域の中に、SEVENOAKS という地名があります。日本なら、「七本松」「一本杉」とでも言うところでしょうか。
    おそらく、この地域の代表的樹木が oak であることを示していると考えられます。

C「地勢図」:土地の高低及び河川の流域(排水域)を示した図


D「市街化地区、教区をB地理学的区分図上にプロットした図」(市街化部分の着色は筆者加筆)。

   Parishes surveyed : parish は「教区」、調査済の教区、historical monuments の調査が済んでいる、という意味に解します。

     parish 「教区」について、平凡社「大百科事典」の解説を、抜粋転載します。 
         「キリスト教会の地域的分割。その語源のギリシア語パロイキア paroikia は、もと近所に居住している者の集団。・・・」
         とあります。
         「・・・イングランド全体はアングリカン・チャーチの約12,500の教区に分割され、おのおのが教区牧師をもっている。
         ・・・多くの教区はアングロ・サクソン時代からきまった領域を保有し、つい最近まで宗教的教区ecclesiastical parish は地方政府の基本的単位で
         あった・・・。」
           ゆえに、parish は、日本の場合の最小行政単位、小字名の付く「」に相当すると思われます。教会は、さしづめ村の鎮守社か。
           地図Dの、調査済の60教区とは、この地域に、日本で言えば、調査済60ヶ村、という意に解します。

         
以上の地図から、その地域での人びとの暮しのありようを、おおよそ想像できます(各「教区」の領域と地形、地勢、地質と対照してみてください)。
すなわち、Northern uplands、Downs(chalk)、Chart hills 、Low weald、一帯では、牧畜や農業が、High weald では林業が、海岸では漁業、そして河口周辺の低地では、商工業が営まれることが想像されます。
そのあたりについて、平凡社「大百科事典」の解説を、以下に抜粋要約します。
   「(ケント地方は)・・・気候はやや大陸性で、イギリスのうちでは寒暑の差が大きく、降水量も少ない。
   古くから農牧業が盛んで、穀作のほか、ロンドン市場を控えて近郊農業が発達し、またホップ栽培も盛んである。・・・
   ・・・丘陵地、谷筋では果樹栽培も行われ、その作付面積はイギリス各県のうち最大である。
   ・・・牧羊業はイギリスの重要な地域の一つ・・・。
   15世紀ごろから・・・羊毛工業が始まり、wealdの鉄鋼と森林を基礎として製鉄業も行われていた。
   沿岸では漁業が盛んで、特にカキの養殖は、ローマ時代から知られている。・・・
   ・・・製糸業も産業の一であった・・・・(⇒ケント紙)。」

   筆者感想 
   一帯は、江戸時代の江戸近郊を想起させます。
    地図Aは、最近の地図です。おそらく一帯は、東京周辺地区のように野放図に市街化せず、中世、近世の姿を継承しているのでしょう。
    これは、イギリスの「地域計画」「都市計画」の結果だと考えられます。
      詳細をご存知の方が居られましたら、ご教示ください。
     

     *************************************************************************************************************************

分量が多くなりました。今回は、ケント地域についての予習・事前学習だけで終わりにし、次回以降、INTRODUCTION:序章 から順に見てゆくことにします。

INTRODUCTION では、1990年代までのケント地域の「建築・民家研究」の状況、ならびにそこで明らかになった問題点が整理されています。
そこで触れられている諸点は、わが国の「建築・民家研究」の「ありかた」を考える上で、多くの示唆を与えてくれるように思います。

分量が多いので、原文の読解にかなり時間がかかりそうです。ご了承ください。

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予告 : イギリスの古「民家」研究 : “THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介

2014-11-09 11:29:38 | 「学」「科学」「研究」のありかた


20年ほど前に購入し、図版はパラパラと見たものの、中味を詳しく読んでいなかった書籍があります。上の写真はその表紙です。

直訳すれば、「中世・ケントの家々・・・歴史的一考察」とでもなるでしょうか。
ここで「中世」とは、13世紀初頭から14世紀後半までを指しているようです。
日本では、中世の住まいはほとんど遺っていないと言ってよいと思いますが、イングランド・ケント地域には、いろいろな形でかなりの数現存しているようです。
   日本の場合、13世紀、14世紀の住居の遺構は一つも現存しないはずです。千年家と呼ばれる「箱木家」でも推定15世紀末の建設です。
   箱木家古井家をはじめ、文化財として多くの住居:いわゆる「民家」が、現在保護されていますが、それらを保護・保存することになったのは、
   日本では、何と第二次大戦後のことなのです。
   明治の近代化以来、日本では、「過去」を見捨ててきてしまったのです。
   このあたりの経緯の概略は「日本の建物づくりを支えてきた技術-41の附録」で触れていますが、当該部分を以下に転載します。
     ・・・・・
     「箱木家」などのいわゆる「千年家」に建築史の世界で光が当てられるようになるのは、第二次大戦後の昭和23年(1948年)ごろからだそうです。
      明治以降生まれた「建築学」では、半世紀以上も、社寺建築ばかりに目を注いできた、ということです。
      その間、多くの歴史ある住居が消えていったと思われますから、「建築学」が当初から一般の住居にも光を当てていたならば、「住居の史学」も充実し、
      そして当然、現在のような「木造理論」も生まれなかったのではないかと思います。
      江戸時代の学者なら、そんなバカなことはしなかったはずです。まさに「近代」の残した犯罪的行為であったと言ってもよいでしょう。
      
        註 昭和4年(1929年)「古社寺保存法」が「国宝保存法」に変り、昭和25年(1950年)の「文化財保護法」制定までの約20年間、
           270件余の建物が指定を受けていますが、そのうち住居の指定は、僅か2件だそうです。
        ・・・・・

   
ケントは、英国グレートブリテン島南東部の地域を言います(下の地図の赤の〇で囲ったあたり。詳細地図は次回用意します)。ケント紙は、この地域産の紙の名です。
一帯は白亜層つまり軟質の石灰岩主体の地層、比較的肥沃な土地のようです。


編著は、ROYAL COMMISSION on THE HISTORICAL MONUMENTS of ENGLAND(略称 RCHME)
刊行は、HER MAJESTY'S STATIONERY OFFICE (略称 HMSO)1994年刊行 A4判変形195頁

RCHMEは、直訳すれば「英国の歴史的建造物に関わる委員会」、日本の「文化財保護委員会」に相当するものと思われます。
おそらく、英国の「歴史的建造物保存・保護」の「動き」は古く、明治以降、日本から留学生が訪れた頃にも、既にそういう「動き」はあったと思われます。いったい、彼らは何を学んできたのでしょう?

RCHMEの沿革は、Wikipediaには、以下のようにあります。
The Royal Commission was established in 1908, twenty-six years after the passage of the Ancient Monuments Protection Act 1882, which provided the first state protection for ancient monuments in the United Kingdom, and eight years after the passage of the wider-ranging Ancient Monuments Protection Act 1900.
Critics, including David Murray in his Archaeological Survey of the United Kingdom (1896) and Gerard Baldwin Brown in his Care of Ancient Monuments (1905), had argued that, for the legislation to be effective, a detailed list of significant monuments needed to be compiled, and had made unfavourable comparisons between the policies of Britain and its European neighbours. Learned societies including the British Archaeological Association, the Society of Antiquaries of London, the Royal Institute of British Architects and the Royal Society of Arts also lobbied for action to be taken. Brown had explicitly proposed that the issues should be addressed by a Royal Commission, comparable to the Royal Commission on Historical Manuscripts. His suggestion bore fruit, and led to the establishment in turn of the Royal Commission on the Ancient and Historical Monuments of Scotland on 14 February 1908; the Royal Commission on the Ancient and Historical Monuments of Wales in August 1908; and, finally, by Royal Warrant dated 27 October 1908, the Royal Commission on Historical Monuments (England).
・・・・
つまり、少なくとも半世紀日本は遅かった!

   
HMSOは、英和中辞典には、「(王室)用度局」とありますが、官公庁などの刊行物の出版も行なっているようです。
日本のかつての「大蔵省印刷局(現国立印刷局)」に相当すると考えてよいようです。

本書の内容は、日本で言えば、いわゆる「民家」研究になりますが、その研究の方法:手順・過程が日本で見慣れた方法と異なり、きわめて新鮮に感じられ、建物特に「住居:住まい」についての(歴史的)研究の「ありかた」について、あらためて考えさせられます。

長文の英文ゆえ、辞書を片手の作業で大いに手こずりそうですが、是非多くの方に知っていただきたいと思い、無謀にも要約紹介を試みようと考えています(一時、やめようかとも思ったのですが、思い直しました・・・)。
そんなわけで、各回の準備にかなり時間がかかり、掲載が間遠くなると思いますが、なにとぞご了承ください。

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「文化の日」を前に思う・・・・私たちは、「言い伝え」を遺せるか

2014-11-01 15:55:26 | 「学」「科学」「研究」のありかた

背の高いアメリカセンダングサなどに囲まれていたからでしょう、背伸びして咲いています。


[追記追加 11月3日 9.30]
「百舌の高啼き75日」ということわざ(諺)があることを、先日書きました。ある気象予報士の方のお話です。
百舌の啼く声が聞こえるようになると、あと75日もすれば霜が降りるぞ、ということのようです。百舌が啼くようになったら、農作物の霜の対策を考えなければならない時期だという、農業をなさっている人びとに蓄えられた「知恵の言い伝え」なのだと思います。
気象予報士の方の話では、調べてみると、実際には75日ではなく、地域により幅があるそうで、75という数値そのものに意味がある訳ではないようでした。要は、そのくらいの余裕を持って準備しておけ、冬は近いぞ、という「教え」なのです。
数値にのみ意味を認めたがり、何でも数値化してそれを最高の指針としたがる現代の人びとの間では、こういう諺は決して生まれないでしょう。

数日前、散歩から帰って、玄関に入ろうとしたとき、扉がガタガタと音を立てているのに気付きました。体では感じられなかったのですが地震でした。家内に、今の地震だよね、と話したところ、地震を感じる直前に、林で雉が啼いた、とのことでした。
地震の前に雉が啼く、雉が啼くのは地震が起きる知らせだ、ということは、古代から言われているようです。
   「歴史のなかの大地動乱――奈良・平安の地震と天皇」(保立道久著)に、そのあたりの事例が紹介されています。
   この書を読んだ感想が下記です。
   「歴史のなかの大地動乱――奈良・平安の地震と天皇」(保立道久著)を読んで

こういう「言い伝え」がある、ということは、そういう「事態」を多くの人びとが実際に経験していて、その結果「言い伝え」として成り立った、と考えてよいでしょう。
「雉が啼く」という現象の後、「地震が起きる」という現象が、並行して起きる、しかもそういう並行現象が度重ねて起きている、そこから人びとは、雉が啼いたら地震がくるかもしれない、と思うようになったのです。日頃の「観察」が「認識」へと昇華したのです。
もちろん、雉が地震の因ではありません。しかし、人びとは、雉の能力に感じ入ったのです。雉は日本の「国鳥」となっていますが、もしかしたら、そう見なされるには、その姿の美しさもさることながら、天変地異を人よりも先に知ることのできる雉への畏敬の念があったのかもしれません。

このような「諺」、「言い伝え」は数多くあります。
このような自らの経験の結果生まれた「諺」、「言い伝え」が多数存在するということは、往時の人びとは、「身の回りの事象を、日常的に、よく観察していた」ということの証左である、と言ってよい、と思います。
「ことわざ(諺)」「言い伝え」とは、辞書には次のように解説されています。(「新明解国語辞典」)
   ことわざ(諺):その国の民衆の生活から生まれた、教訓的な言葉。
   言い伝え   :先祖から口づてに伝わってきたこと。昔から多くの人びとが口で伝えてきた話。伝説。
往時、人びとの暮しを支えてきたのは、おそらく、こういう「言い伝え」であった、と考えてよいでしょう。暮してゆく上の「知恵」を、世代を越えて引き継いできたのです。先の霜への準備の時期の示唆などの営農上の「知恵」は、そのほかにも各種あるようです。
住まいづくりの面でも、もちろん、いろいろとあったはずです。成句は忘れましたが、住まいを営む場所の選択に際して守るべき要点を示す「言い伝え」があったように記憶しています。その中に、がけ地、がけ崩れ跡、谷筋、低湿地などは避けるべきことが示されていたように記憶しています。
建物づくりそのものについても同様です。日本という独特の風土で、人びとは、それぞれの地域の特性に応じて、工夫を積み重ねてきたはずです。それが、日本の建物づくりの「技術」なのです。それを支えたのも、代々継承されてきた「知恵」の集積だったはずです。
   この点については、「再検・日本の建物づくり」シリーズでまとめてありますので、ご覧ください。      
ところが、いつの間にか、こういう「言い伝え」「知恵」を「継承する習慣」が途絶えてしまったのです。
何故途絶えたのか?
このような「知恵の継承」を途絶えさせてしまったのは、《科学》の名の下で押し進められてきた各面での「学的理論」だった、と私は考えています。
簡単に言えば、《科学》が、人びとの間に存在した「過去の経験に拠り蓄積された『知恵』」の放擲を奨励してしまったのです。それどころか、《科学》の名の下に、いわゆる《安全神話》と呼ばれる「虚構の言い伝え」をつくりだし、人びとの感覚を欺くまでになっています。

なぜこのような話を書くか。それには訳があります。
先日、「伝統木構造の会」の方が、お見えになりました。
そこで、奈良今井町の高木家の耐震性を「限界耐力計算法」により解析した結果について教示いただきました。
結論から言うと、「限界耐力計算法」で解析したところ、高木家の架構は、耐震性なし、という結果が出た、とのことでした。

木造軸組工法の建物の耐震性の確認法として、現在、法令で認められているのは、従来からの「壁量規定による確認法」のほかに、平成20年の法令の改訂に伴い、「許容応力度計算」「限界耐力計算」による方法が推奨されるようになっています。
   註 それぞれの方法の概説(私なりの理解によるものです。誤解などがありましたらご指摘ください)
   壁量計算法:地震時の水平力及び台風時の水平力に対し、建物の床面積及び外壁見付面積に応じた量の耐力壁が必要という考え方。          
            必要壁量は、規定された壁係数を床面積または見付面積に乗じて算出。地震力と風圧力に必要な壁量の多い方(安全側)を必要壁量とする。
   許容応力度計算法:鉛直荷重、水平荷重に対して構造物の応力を求め、これにより生じる各部材の応力度が、その部材の許容応力度以下になるように
                 設計する方法。
   限界耐力計算法:限界耐力とは、建築物が地震発生時に、その地震力にどこまで耐えられるかという指標。
               「許容応力度計算」で基準値を求めていた方式を改め、「限界耐力計算」で得た計算値:指標を基準値にして設計する。
   いずれも、外力に抵抗するために、架構の各方向(通常は直交する二方向)にその力に抵抗する部分(耐力構面:耐力壁)を設ける考え方が「前提」です。
   この「前提」についての私見は、下記で書いています。そこで紹介した日本建築学会の「一般向け解説」は、《噴飯もの》ですので、是非お読みください。
      「現行法令の根底にある『思想』」
今井町・高木家は、19世紀末建設の商家です。
この建物は、下記に詳細を書いてありますが、建設以来、約150年の間に、何度も大地震に遭っています。しかし、地震に拠る被災はまったく認められません
ということは、この建物の架構は耐震性があったということになります。ところが、その事実を、限界耐力計算法は認め得なかったのです。
つまり、その耐震性「評価」法は、事実・ reality に対応していない、ということを意味している
のです。
同様に、建築学会の推奨するいわゆる「我が家の耐震診断」法によって「診断」しても、高木家は要耐震補強建物になってしまいます。
       「耐震診断・・・・信用できるのか」
       「『耐震診断』は信用できるのか・補足・・・・高木家の地震履歴」

この歴然たる事実、法令と実際との齟齬は、往時のつくりの建物が多く現存する地域、特に関西では、悩みのタネであるようです。この地域で、いわゆる「伝統工法」の架構についての構造計算法、設計法の確立に向けて、いろいろな試行がなされているのは、この齟齬の解消のための「格闘」「努力」と考えてよいでしょう。
京都や金沢では、商家建築:いわゆる町屋のつくりかたを、現行法令の下で如何にしたら継承してゆくことができるか、研究が進められているようです。この方がたの「格闘」「努力」には、頭が下がる思いです。

しかし、その一方で、何世代も、何年もの間、無事であったことが事実として明らかなのに、その継承のために、何故このようなエネルギーを費やさなければならないのか、不条理をも感じざるを得ないのです。
何世代も、何年もの間、無事であったものの「存在」を、素直に認めることのできる「理論」が、何故存在しないのか、ということです。これは、根本的な「疑義」なのです。


医学の世界に「疫学」という「研究分野」があります。風土病、流行病などの原因追究などから始まった分野のようです。
その方法は、いわゆる「公害」の状況確認の際にも応用されています(公害裁判で、「疫学的証明」という立証法が認められているとのこと)。
疫学とは、現象を具に観察することを通じて、ある事象、現象群に通底する「論理」「理」を見つけ出す方法と言えばよいでしょう。つまり、「現実」「 reality 」の「観察」が基点なのです。
私は、この研究方法は、「実態」「 reality 」にきわめて即した方法だ、と考えています。
なぜなら、目の前に存在する「現実」「reality 」に基づくことを前提にしているからです。
考えるまでもなく、「現実」「reality 」の「存在」を説明できない仮説・推論は、意味がありません
   言い方を変えれば、机上での研究仮説・推論に於いても、「現実」「 reality 」との相称性の確認を、常に、問い続ける必要がある、ということです。
   昨今の「研究」「理論」には、「現実」「 reality 」に対応しない simulation で考えられたと思われる例が多いように思えます。
   「実物大実験」なども然りです。多くは、「結論先にありき」のご都合主義以外のなにものでもないと言っても過言ではありません。
   このような「研究・学問」が蔓延るのは、研究者・専門家・学者の「研究倫理の欠如」、と言ってよいでしょう。
   だいぶ前に、理系の教育機関の教師の方が、「心ある技術者」育成のために、として、次のように語っていました。
   すなわち、「誤った前提の上にいくら精密な推論を重ねても、結論は無意味であることを、きちんと教育しなければならない」と。
   これについては下記をお読みください。
    「buzzcomunicationをこそ・・・ある教師の苦悩」
   世の中一般に、数値で示すことを「厳密」と見なす風潮が見受けられます。それは、誤りです。このことについては、下記で触れています。
    「厳密と精密」

冒頭に例として出した「ことわざ:諺」や「言い伝え」の類は、人びとの日常の「 reality 」の「観察」が結果したものであって、その意味では、人びとは、日夜、期せずして「疫学的研究」を行っていた、と言えるかもしれません。それは、研究のための研究ではありません。日常の暮しのための日常的営為だったのです。そして、それこそが、現代の人びとが亡くしてしまった大事な「習慣」である、と私には思えます。
私たちは、はたして、次の代に、有用、有効な「言い伝え」「ことわざ」の類を、遺すことができるでしょうか?

「日本の建物づくりでは壁は自由な存在だった」というシリーズは、いわゆる「耐力壁」に相当する「壁」の存在しない建物、しかもそれでいて数百年天変地異に堪えてきた建物を集めてみたものです。
手元に「資料」がある事例の中でも、これだけあるのです。しかも、いずれも「耐震診断」を行なえば、「要耐震補強」になるものばかりです。
要は、長期にわたり健在であるという「歴史的事実」と、机上の「計算結果」、そのどちらを「真実」「真理」と見なすのか、という点について、scientific な判断が求められる、ということです。
何度も書いていますが、震災などの被災に際して、「被災事例の調査」のみが行われるのが常ですが、並行して「被災しなかった事例の調査」をも行うのが scientific な姿勢ではないか、と私は考えます(下記参照)。
   「地震への対し方-1・・・・震災調査報告書は事実を伝えたか」

私たちは、私たちが前代から引き継いできた「謂れのあるものごと」を、私たちの日常の観察を通じてあらためて確認しなおす作業を行い、さらに補足発展させ、次代へと引き継ぐ作業を行い続ける、それが私たちに課せられた義務である
、と私は考えます。
その時初めて、「伝統」:「前代までの当事者がしてきた事を後継者が自覚と誇りをもって受け継ぐ所のもの」:が、「伝統」として活きてくるのではないでしょうか。
そしてまた、「言い伝え」も途切れることなく伝承され、また新たな「言い伝え」も生まれる可能性があるのです。

言うまでもありませんが、「耐力壁理論」などが、「言い伝え」になってはならないのです。
そのような悪しき状況・事態を避けるには、私たちが、私たちの「感性」に信を置き、常日頃の暮しの営為のなかで「感じていること」を、ありのままに表出し続けること、おかしいことをおかしいと言い続けることだ、と私は考えています。
すなわち、私たちの「感性」で、諸現象を具に「観察」し、事態を「認識」し続け、知ったこと、思ったことを、互いに伝えあうことです。唯々諾々と長いものに巻かれていてはならないのです。“ buzzcomunication”こそが肝要なのです。 


民の力の結集を訴える文化の日の信濃毎日新聞社説を信毎web から転載させていただきます。[追記11月3日9.30]


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