建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

復刻 : 遠野・・・・千葉家の外観

2011-02-14 09:24:22 | 住まいの構え方
以前にも触れましたが、2008年5月6日に載せた「遠野・・・・千葉家の外観」を読まれる方が、毎日、20名前後居られます。少し奇妙な「現象」と思っています。
そこで、1月の終りから、この記事を「下書き」段階にセットしました。つまり、「公開」からはずして見ました。そうして半月を過ぎた今も、相変わらず20名前後の方が、毎日のように、この記事に寄られる。
と言うことは、この記事を読んでいるのではなく、単に、「閲覧数」を増やしてくれているだけ。ここしばらくのこのブログの閲覧数のうち、約20前後は、無意味な数字、というわけです。
なぜ、この20名前後の方は、毎日のように、せっせと「寄る行為」だけをするのか、相変わらず疑問のままです。

そんなにまでして「寄る行為」だけ増やすのならば、それがどんな内容かもあらためて公開するのもいいではないか、と考え、今日から、再び「公開」に切り替えました。2008年5月6日の記事は、以下から寄ることができます。
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/5a75fa6c161af6de05771cbf2dbc088c

わざわざ、そこへ移動しなくてもよいように、ついでに、まったく同じ記事を、以下に復刻します。

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登米を訪ねたあと、気仙沼、高田を経て、遠野にも立ち寄った。写真は、遠野といえば必ず紹介される「千葉家」。今から15年前、1993年の頃の姿。今はどうなっているだろうか。

遠野の町・盆地に入った瞬間、違和感を感じたことを覚えている。それは、大変突飛だけれども、最近の八ヶ岳山麓の清里・野辺山で感じるそれと同じであった。

清里・野辺山へは、八ヶ岳登山で、もう半世紀以上前、中学の教師に連れられて行ったことがある。当時、小海線は蒸気機関車。貨車に人も乗った時代。清里・野辺山一帯は寒冷地での必至な開拓農業が行われていた。足もとは、雨が降ればぬかるむ。人気もほとんどない。
しかし、最近のそれは、「都会」を「高原」に持ち込んだ単なる「観光地」。空気が涼しいだけの原宿、渋谷がそこにある。

それと同じような感覚を、遠野に入った瞬間に感じたのだ。目の前にあるのは、「その地の本来の姿でない」、という違和感であった。

柳田國男が遠野を世に紹介したのは、紹介したかったのは、あの山間の地で、山間の地ゆえに遺されていた「記録」を基に、山間の地という厳しい風土の中で、人びとが重層的な密度濃い「文化」を醸成した、その人びとの生活そのものであったはずなのだが、そしてそれは、どの地域にも共通することだ、ということのはずなのだが、そこで見たのは、そういう人びとの過去の「遺産」を、時間を止めて見世物にしているだけに思えたのである。


「千葉家」の写真をあらためて見てみると、そのときの私の関心は、もっぱら、敷地・土地に対するつくりかた、構え方にあったようで、そういう写真ばかりである。石垣上の姿など、いろんな角度で撮っている。それを歩んでゆくときに見える順に並べたのが上の4枚。下の1枚は、石垣の跳ねだし部の詳細。もう1枚は、蔵の妻面の風雪よけの詳細。板壁が土壁面から3尺ほど浮かせて吊られている。

遠野から釜石へ向ったが、丁度、釜石製鉄所の火が消えて間もなくの頃。釜石の町なかには製鉄所の高炉?が赤錆びてぽつんと遺されていた。
途中の山間で見た鉱山跡?も印象に残っている。そのせいだろう、その写真も多く撮っている。

暑中お見舞い・・・・落水荘

2009-07-18 16:50:06 | 住まいの構え方

[文言追加 17.56]

暑苦しい日が続いているので、涼しげな画像を載せます。
“FALLING WATER”(abbeville 1986年刊)掲載の写真のいくつかです。ほぼ原版のままです。

F・Lライトが設計して、1935年に発表されたFALLING WATER、日本では「落水荘」として知られています。そのとき、F・Lライト69歳。

当時、西欧で建物づくりの世界で脚光を浴びていたRCに拠る建物です。

この設計からは、「建築」とは何をする仕事か、そして、その仕事の遂行にあたって「技術」はいかなる意味を持つか、この点についてのF・Lライトの考え方:思想を読み取ることができるように思っています。
そして、そのいずれにも、私は賛意を表したいと思っています。
なぜなら、私たちの日ごろの「感覚」に「忠実」で、論理的に筋が通った考え方に思えるからです。

私の「建築」や「設計」についての考え方に影響を与えたのは、A・アアルトとF・Lライトでした。私にとって、しっくりくる考え方に思えたからです。
その考え方は、「心象風景の造成」に意をそそぐわが国近世の「空間づくり」にかかわった人や工人たちに共通するところがある、と私は思っています。

そこで、ここ数回、「落水荘」を事例に、「建築」とは何をする仕事か、そして、その仕事の遂行にあたって、「技術」はいかなる意味を持つか、考えてみたいと思います。
多分、「建築」とは何をする仕事か、について触れるとき、「軒の出は、どうやって決めるのですか」という問に対する幾分かのお答えができるのではないか、と考えています。[文言追加 17.56]

遠野・・・・千葉家の外観

2008-05-06 08:48:35 | 住まいの構え方


登米を訪ねたあと、気仙沼、高田を経て、遠野にも立ち寄った。写真は、遠野といえば必ず紹介される「千葉家」。今から15年前、1993年の頃の姿。今はどうなっているだろうか。

遠野の町・盆地に入った瞬間、違和感を感じたことを覚えている。それは、大変突飛だけれども、最近の八ヶ岳山麓の清里・野辺山で感じるそれと同じであった。

清里・野辺山へは、八ヶ岳登山で、もう半世紀以上前、中学の教師に連れられて行ったことがある。当時、小海線は蒸気機関車。貨車に人も乗った時代。清里・野辺山一帯は寒冷地での必至な開拓農業が行われていた。足もとは、雨が降ればぬかるむ。人気もほとんどない。
しかし、最近のそれは、「都会」を「高原」に持ち込んだ単なる「観光地」。空気が涼しいだけの原宿、渋谷がそこにある。

それと同じような感覚を、遠野に入った瞬間に感じたのだ。目の前にあるのは、「その地の本来の姿でない」、という違和感であった。

柳田國男が遠野を世に紹介したのは、紹介したかったのは、あの山間の地で、山間の地ゆえに遺されていた「記録」を基に、山間の地という厳しい風土の中で、人びとが重層的な密度濃い「文化」を醸成した、その人びとの生活そのものであったはずなのだが、そしてそれは、どの地域にも共通することだ、ということのはずなのだが、そこで見たのは、そういう人びとの過去の「遺産」を、時間を止めて見世物にしているだけに思えたのである。


「千葉家」の写真をあらためて見てみると、そのときの私の関心は、もっぱら、敷地・土地に対するつくりかた、構え方にあったようで、そういう写真ばかりである。石垣上の姿など、いろんな角度で撮っている。それを歩んでゆくときに見える順に並べたのが上の4枚。下の1枚は、石垣の跳ねだし部の詳細。もう1枚は、蔵の妻面の風雪よけの詳細。板壁が土壁面から3尺ほど浮かせて吊られている。

遠野から釜石へ向ったが、丁度、釜石製鉄所の火が消えて間もなくの頃。釜石の町なかには製鉄所の高炉?が赤錆びてぽつんと遺されていた。
途中の山間で見た鉱山跡?も印象に残っている。そのせいだろう、その写真も多く撮っている。

野の仏

2008-01-03 01:28:25 | 住まいの構え方

[記事、註記の内容追加:1月3日18.57]

私の暮す旧「出島村男神集落」界隈では、石に彫られた仏様を数多く見かける。
今は、その多くが墓地などにまとめられているが、おそらくあちらこちらから集められたか、あるいは各墓地の「近代化」にともなって集められたか、そのどちらかなのではないかと思う。

上の写真は、その一つ。
仏様を挟んで、右に「十九夜供養」、左には「享保十八年十月十九日、同行十四人」と読める。
「十九夜」というのは「十九夜講」であるらしい。そして、十九夜には如意輪観音に願いをかけたという。だから、この仏様は、「如意輪観音」と思われる。とても柔和ないい顔をしている。
昔から「月待ち」という行事が人びとの間で広く行われていたという。「十五夜」はよく知られているが、他に「十三夜」「十九夜」「二十三夜」など。このうち「二十三夜」は男の、あとの大半が女性の行事で、集落の人びとがその日に集まり、仏様に願をかけたりしたとのこと(近くで、「十三夜・・」「二十三夜・・」の石碑もよく見かける)。
「十九夜」講は、集落の若い女性が安産を願う集まりだとも言われている。そのときの仏様が「如意輪観音」。「如意輪」とは「思いのままに願いをかなえる宝珠」という意味。

ただ、「享保十八年」というのが気にかかる。なぜなら、あたりで見かける石仏に刻まれている年号に、「享保」、それに「天明」が多いからである。

「享保」年間というのは、西暦で1716年から1735年にあたる。徳川八代・吉宗の時代である。
そして、調べてみると、享保16年の冬から気候が不順で、翌年の享保17年(1732年)が、後に「享保の大飢饉」と呼ばれる年なのだ。
「享保の大飢饉」は、梅雨時から長雨・冷夏が二ヶ月以上にわたって続き、主に関西、特に瀬戸内の凶作が著しかったと言われている。
当然、関東地域がその影響を蒙らないわけがない。なぜなら、今でも茨城は、冬の終わりから梅雨時ごろ、東海上からの北東気流の影響を受けやすい地域。オホーツクから流れ下る海流起源の冷たい北東風が吹きつけ、寒い夏になる場合がある。いわゆる「冷害」は、この北東気流によるのであり、東北ではこれを「やませ」と呼んで忌み嫌っている。

「男神」は、稲作主体の集落である(12月7日の「屋敷構え-3」で紹介の一帯が中心)。

   註 「茨城県の地名」(平凡社)によると、男神村は「天正期以降佐竹藩、
      慶長7年(1602年)佐竹氏が秋田に移封後は水戸藩領となるも、
      正保3年(1646年)以降は天領。元禄郷帳では村高117石余。
      享保13年(1728年)の人数44人、宝暦9年(1759年)の戸数14、
      人数63」とある。 
     
おそらく、石仏がつくられた享保十八年の前年、つまり「大飢饉」の年、ここでも亡くなられた方々(多分、幼い子どもたち)がおられたのではなかろうか。
その供養のための石仏だったのでは。日ごろの「十九夜」講で、石仏をつくるとは考えられない。
「同行十四人」というのは、註記したデータから考えて、集落を構成する各戸と解釈できるのではなかろうか。

そして石仏に多い「天明」。これも飢饉の年。天明3年(1783年)の、主に東北地域を襲った飢饉である。少し他の石仏を調べてみようと思う。

屋敷構え-4・・・・坂野家:補足

2007-12-18 10:59:08 | 住まいの構え方

茨城県南部~埼玉県一帯は、古代、関東平野を囲む山地から流れ出る河川によって、いわば水浸しの地帯であった。上掲の図は、古代の利根川周辺の推定図。

しかし、水浸しであることは、逆に言うと、水さえ引けば肥沃な地になることを意味していた。

このことに着目したのが徳川。
肥沃な地の少なくなった(開拓されつくした)関西・近畿よりも、広大な関東平野の将来性を見据えたのである。これが幕府を関東平野に置いた最大の理由。

   註 なぜ江戸が中枢に選ばれたか、については、いずれ。

徳川は、元は関東、今の群馬県太田市世良田(せらだ)が発祥の地。いわゆる「東国の武士」、土豪であった。関東山地の縁の肥沃な地で土豪にのし上がったのである。
だから、同地にも東照宮がある(世良田東照宮)。

   註 新田義貞もこのあたりの出。「新田」と言う地名も存在する。
      新田(にった)すなわち新田=開拓して生まれた農地。

太田市をはじめとする群馬県邑楽(おうら)郡一帯は、自然地形に恵まれた肥沃な土地。そこから南へ開拓をすすめ、そこでの生活を通して、土地の利用、水の利用:利水の技・知恵を身につけていたらしい。
それゆえ、徳川は、有能な「技術者」:「地方功者」を重用し、多くの人物を集め、そして、彼らこそが徳川幕府の礎を固めたと言っても過言ではない。

おそらく、飯沼干拓にあたっても、坂野家たち篤農家を援けた「地方功者」がいたのではないだろうか。

   註 「地方功者(ぢかたこうしゃ)」(巧者とも書く)
      については、「地方功者(ぢかた こうしゃ)」・・・・「経済」の原義参照。
      ここでは、谷和原村、伊奈町周辺(現、つくばみらい市)の、
      水のない一帯に灌漑用水を敷設することによる開拓。
     
      飯沼では、逆に排水路の整備による開拓(干拓)。
      いずれも「水」に対する卓抜した「技・知恵」がなければできない。

      現代のような「理論」も機材もなかった時代の話。
      
江戸の末、明治の初めでも、関東平野南部には、多くの湖沼が残っていたらしい(場所によると、大正・昭和になっても湿地だったという)。
今では、平野のいたるところが居住地になってしまっているが、そうなったのは、ごく最近のことなのだ。

屋敷構え-4・・・・坂野家

2007-12-17 17:19:19 | 住まいの構え方

茨城県西部、鬼怒川と利根川との間に挟まれた南北に長い低湿地帯際の丘陵に、「坂野家」がある。
所在は、水海道(みつかいどう)市 大生郷(おおのごう)。現在は合併で常総市になっている。
この低湿地帯には、かつて「飯沼」という沼沢地が広がっていた。
江戸時代の末に、その干拓によって現在見るような水田地帯に変貌するが(航空写真参照)、この干拓事業の中心的人物の一人が坂野家であり、その屋敷、住居がこの建物である。坂野家は中世以来の土着の農家と言われている。

   註 写真の水田区画は、戦後の区画整理によるもの。
      なお、このような干拓地は、このあたりから埼玉南部にかけて多い。

まわりを濠に囲まれたような丘陵の頂部一帯が鬱蒼とした樹林で覆われ、その中に屋敷が潜んでいる。どこまでを敷地と言えばよいのか考えてしまうほど広い。
その樹林の中に垣(塀)まわされ、そこに写真のような茅葺の門が構えられている。
主屋は一見曲がり屋だが、元は「ひろま、ちゃのま、ぶつま、なんど」の四室と、その南側の一間幅の縁状の部分が主体で、それに「どま」がつながっていた。その部分は18世紀前半の建設と考えられている。
現在の広大な「どま」(平面図の網掛け部分)と、「ぶつま」の南に一列に続く「さんのま」~「いちのま」:「書院」は19世紀中頃の増築とされる。
写真では見えないが、西側には明治以降増築された部分がある。

国の重要文化財に指定されており、解体修理が昨年終了したばかり。
「修理工事報告書」(未刊)でそのあたりの詳細が明らかにされると思われる。

現在は、「水海道風土博物館」として公開。また、映画撮影にもよく使われている。

  航空写真はgoogle earth、地図は国土地理院1/25000地形図より。
コメント (1)

屋敷構え-3

2007-12-07 11:41:08 | 住まいの構え方

先回までは、台地上の屋敷。今回は、その台地から下った水田際の集落内の屋敷。
台地の上と水田との標高差はおよそ10~15m。
この集落は、水田から数m高い、丘陵が湾状に凹んだ南向きの斜面に肩を寄せ合うようにして家々が並んでいる。西~北~東と樹林の繁る丘陵に囲まれているから、ここには北西風はまったくあたらない。つまり、家々を囲む自然の樹林が(自然と言っても、当然手がはいっているのだが)、屋敷林の役を果している。屋敷面積は広い。

この一帯への人びとの定着は古く、今住まわれている方々は、大半が稲作を主な生業として住み着いた人たちの末裔である。調べてみると、戸数は江戸時代とほとんど変らないようだ。耕地面積との関係だろう。

先回までの紹介で書き忘れたが、このあたりは、秋・冬から春先にかけての北西風のほかに、春先から梅雨時までの間、ときには夏にも、北東風が吹きつけることがある。東海上の冷たい空気をもってくる風。東北地方で「やませ」と呼ぶのと同じで、ときに冷害をもたらす。だから、台地上の集落は、東側にも屋敷林を持つ場合が多い。
この水田際の集落では、地形ゆえにこの北東風もあたらない。

ただ、夏場は、水際にあるのと盆地状の地形ゆえに、湿った空気が溜まって動かず、きわめて湿度が高くなる。台地の上から下りてくると、へばりつくような湿気に驚く。
こういう気象を体験すると、日本の建物のつくりかたの理由がよく分る。屋敷を構え、軒を深くして直射を避け、開口部を多くとり、対流を起こし、空気を動かすことで涼をとる。そうでありながら丈夫なつくり、そういうつくりを編み出してきたのだ。
ところが、こういう一帯にも、息がつまらないか、と心配したくなる年中空調に頼らなければ暮せないような、高気密・高断熱の建物が、若い世代の間で増えつつある。

今回紹介の①は、多分この集落では一番古く住み着かれた方の屋敷。
空中写真で屋敷の北側から東側への丘陵一帯は、すべてこのお宅の土地で、手広く畑や栗の栽培、栗の苗木の生産などをしている。
屋敷の奥行が深く、長屋門を入ってから大分先が主屋。台地上の道路から、屋敷を見下ろすことができるのだが、樹林に隠れて建屋は見えない。

このお宅に道一本隔てて並ぶのが②のお宅。このお宅も旧家。姓も①と同じ(一帯には同姓が多い)。目の前の水田のほかに、台地上にも広く畑地を持っている。
①②ともに篤農家の専業農家(この集落でも、兼業農家が増えている)。
②は門構えもなく、樹木を植えているだけで、生垣にもなっていないが、屋敷内は落ち着いている。

主屋の建屋はいずれも平屋の瓦葺き。間取りは台地上の例と同じで、南側の玄関脇に接客空間、右手奥に日常の居住の部屋が並ぶ。高気密・高断熱の建物が増える一方で、最近でもこういう建物をつくるお宅があるので、機会をみて紹介する。


「限界集落」という言葉をよく聞くようになった。人口の半分以上が65歳以上の集落。共同体が維持できなくなる限界にある、という意味のようだ。
この一帯も、高齢者が増え、専業が減り、兼業が増えてはいるが、いまだに三世代居住が多く、したがって子どもも大勢見かける。小学校まで、歩いて50分、夕方には道草をしながら帰る子供たちの姿を目にすることができる。その点、研究学園都市などよりは「健全」である(学園都市は、かつての「団地」同様、高齢者がいたって少なく、子供たちは道草のしようもない)。

屋敷構え-2

2007-12-05 12:47:13 | 住まいの構え方

今回の屋敷は、先回紹介した事例(地図の①)の南側にある(地図の②、空中写真の〇で囲んだ部分)。

  註 空中写真はgoogle earth、地図はゼンリンのデータによる

先回、今回の事例は、比較的広い標高20~25m程度の丘陵上の集落の一画。一帯の古くからの通称名には「牧」の字が付いていて(住所表示は別名)、古代~中世には牧があったらしいが、今は畑作が主体。
ある時期までは養蚕が行われていたから、御用済みになって巨木になった桑の木が、今でもあちこちに残っている。茶畑もあったらしく、葉を摘まれないまま大きくなった茶の木も散在し、今花の盛りである。

こういう風景を見ていると、いわゆる名園といわれる庭のつくりの源は、「農」にある、そこでの体験・経験があってこそ、造園という行為があり得たのだ、と思えてくる。そうでなければ、樹木、草木の癖や、その醸しだす微妙な気配を身につけることはできなかったと思えるからだ。


この台地の南側にある河川沿いに水田が広がり、台地上の農家の水田もそこにある。今回紹介する屋敷の東側を通る道は、集落から水田へ下る道の一つ。集落共同の籾の乾燥小屋が道の下り口にある(写真)。

この屋敷の主は、どちらかというと、遅くなってから(と言っても江戸期の末ぐらい)移り住んだのではないかと考えられる。このあたりには少ない姓で、集落の主要部から離れていることからの私の推測。
北から西へと屋敷を囲む樹林も、広大で背丈も高いが、先回の事例に比べると年数は経っていないように見える。欅も混じっているが、丈は低く、針葉樹に埋もれてしまっている。

屋敷自体も先回の例に劣らず広いが、屋敷のすぐ南にある畑も当家の畑地で、屋敷の数倍はあり広大。
畑地の南は急斜面で水田に落ち込むが、その縁にも樹林が並んでいる。畑地になる前は、一帯が山林だったと思われる(遠くから見ると山林に見える場所があたりに数多くあるが、その多くは、行ってみると、樹林はまわりだけで、中は見事に開墾されている場合が多い)。

屋敷の中には主屋のほかに蔵が二棟、「までや」二棟、と数多いが、一時に建てられたわけではなく、徐々に形づくられたもの。門や塀も数年前に、生垣にかわってつくられたばかり。建屋は全部瓦葺き。
主屋は、門から全部は見えないが、「玄関」の左に縁側をともなった接客空間が広がり、かねおりの先に離れ・書院があるようだ。
この「玄関」は普段は戸を閉じたままの客専用玄関。つまり、「武家住居」の写し。

この玄関とは別に「内玄関」がひっそりと脇にあり、家人の常時の居住は、その玄関の右奥のあたり。夜は、そのあたりからだけ光がこぼれ、正面は真っ暗。このあたりの農家は皆同じである。

屋敷構え-1

2007-12-03 18:50:49 | 住まいの構え方

今年の紅葉は、平地でも見事。
紅葉が進むにつれて、その濃淡と常緑樹との対比でめりはりがついて、普段は気付かない林の奥行が見えてくる。

私の住むあたりは農家が多く、大抵見事な屋敷林で屋敷が囲まれている。今、紅葉の盛り(今日の雨で大分散ってしまった)。
そのいくつかを紹介したい。
このあたりでは、冬から春先にかけて、北西からの風が強い。ちょうど北西方向に筑波山が見えるから、まさに「筑波下し」。

今回紹介の例は、地図の網かけ部分、空中写真で〇印を付した屋敷。

  註 空中写真はgoogle earth、地図はゼンリンのデータ。上が真北。

屋敷全体は大きく、少なく見積もっても2500㎡はある(境界ははっきりとは分らないが、多分、樹林の茂っている部分が屋敷と考えられる)。最近の分譲地なら、軽く10戸は建ってしまう。
しかし、大きいと言っても、このあたりでは決して珍しくはない大きさ。
屋敷の内の建屋も多い。大抵三世代居住。

このお宅の南側に沿って、かつては主要道が通っていたようで、現在の道路(写真Cを撮った場所)は、車社会になってから新設されたようだ。
お宅の前の道の幅は1間半程度で、東へ進むと屋敷が三つほど連なるのだが、奥の方は道の痕跡だけ残っていて、今はほとんど誰も歩いていない(この並びの一番東側のお宅は、今は、その東側を通る南北の道を使っている)。

この細い道に接する面、つまり屋敷の南面は、高さ2.5mほどの生垣で(それゆえ、普通には中が見えない)、その手前に一段低い1m程度の生垣を設ける二段構成になっている。だから、生垣の厚み:見込みは1.5mほどはあるのではないか。
この手法は、このあたりの生垣に多く、人の背丈を超える生垣が、道行く人に圧迫感を与えないための工夫と思われる。
低い方は、多分この場合はマサキやモチノキの類、高い方はシラカシ、シイの類、いずれも常緑。サザンカも混じっているかもしれない。

これに対して、屋敷の西側には、二階建て建物の優に2~3倍近く背の高い樹林帯が設けられている。樹種は、ヒノキ、スギが主体で、一部にケヤキなどの落葉広葉樹が混じる。中でもケヤキは、写真でも分るように、背が高い。
夏場は薄暗いのだが、この季節、下草も枯れ、広葉樹が色づくと、華やいでくる。
こういう林が、屋敷の北側にもまわる。それに続く畑地は、多分、このお宅のものだろう(南の道を挟んだ向いも、おそらく同じ)。

東側、つまり隣家との境は、写真に少し写っているが、2~3mの高さの生垣だが、それほど密ではない(写真でも分る)。

屋敷の中の主屋は、多分、東~南側全面にL字型に縁がまわっているはずだ(訪ねたことがないから詳細は分らない)。
ただ、そこは居住空間と言うより2~3室の部屋が並ぶ接客空間。いわゆる書院造の系譜。縁まわりは、「差鴨居」で全面が開口となる。
このあたりの農家では、こういう造りが、最近でも主流。
余談だが、例の〈耐震診断〉で、こういう造りのお宅には、〈専門家〉は皆悩んでいるとのこと。

こういう風景は、見ているだけで心和む。