懸造(かけづくり)・・・・斜面に建てる

2007-01-30 12:42:46 | 建物づくり一般

 阪神・淡路地震の後の改訂で、建築法令は、ますます「設計仕様書」の如き様相を呈するようになった。
 たとえば、基礎については、地盤の強さ:地耐力に応じて基礎形式を杭打ち基礎、べた基礎、布基礎のいずれかとし、さらに各所の寸法まで細かく規定されている。
 構造計算をした場合はこの限りではない、との但し書きはあるものの、ほとんど設計者の出る幕はないと言ってもよいほどだ。

 では、京都・清水寺のような場合は、今ではどうしたらよいのか?規定は書かれていない。かと言って、布基礎、ベタ基礎ができるわけはない。
 おそらく、法令の世界では、斜面に建物を建てるなどということは想定外、多分、斜面は平地化して建てることを前提にしているのかもしれない。
 けれども、斜面の平地化ほど危険なものはない。特に、清水寺ほどではないにしても、急傾斜:勾配3/10を越えるような斜面では、平地化するには城郭の石垣でもつくる気にならないと、多分、平地化した地面の安定は保てないだろう。

 日本は平地はむしろ少なく、山地の方が多いことは、日本地図全図を見れば明らか。そこで建物をつくるにあたり、常に平地化をするなど、とんでもない。
 そのような場合、日本の建物で使われたのが、清水寺に代表される束石の上に柱を立て、束柱相互を貫で縫うつくりかたである。床下が弾力性のあるラーメン状の架構となり、きわめて強固である。通常「懸造(かけづくり)」「懸崖造」などと呼ばれる。
 日本各地にあり、茨城には石岡の筑波山系の東面の中腹に建つ「西光院」があり、足元まで近寄って懸造の詳細を見ることができる。
 清水寺の場合、すでに350年以上経過しているが、今なお健在である。もっとも、束柱の点検・修理は年中行われ、舞台床も頻繁に替えられている。
 実は、点検・修理が容易に行え、部材の取替えも可能なこと、これがかつての日本の木造技術の特筆すべき特徴だったのだが、残念ながら、現在の法令規定の木造建築は、点検、修理、部材取替えがほとんど不可能になってしまった。
 
 上掲の図と写真は、清水寺の断面実測図および模型(再建時に使われた検討用の模型)と、この方式を利用して設計した事例二つ。 
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閑話・・・・最高の不幸、最大の禍

2007-01-27 01:01:27 | 「学」「科学」「研究」のありかた
以下に掲げるのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの書き残した言葉である。原文は一つだが、和訳が二つある。

  「最高の不幸は理論が実作を追いこすときである」
  「意見が作品より先にすすむときこそ、最大の禍である」

おそらく原文を忠実に訳すと後者、意訳すると前者になるのではないか。

甲州に「信玄堤」と呼ばれる土木遺産が遺されている。武田信玄が差配したとされる河川工事の代名詞である。
多数の河川が流れ込んでつくられたのが甲府盆地だが、南アルプスの北麓から流れ来る釜無川(富士川の上流)は名前の通り、釜:淀みのない急流で、巨大な岩石が押し流され、堆積し、しばしば洪水を引き起こした。

そこで考えだされたのが、両岸から川の中央に向って、小石を詰めた「蛇籠(じゃかご)」を集めて棒状の簡易堤を枝のように多数突き出し、水はそれにあたって岩石もろとも川の中央を急流となって流下する、という構想。岩石は、下流の川幅の広くなった所に堆積するので、それを処理すればよい。

これは、断面と流速の関係についてのベルヌーイ(1700~1782)の定理を、彼以前に使った構想であった。もちろん、そんな定理を知る由もない。地域の人びとの釜無川の実状の観察から得た知見による構想である(そのような構想の指揮をとる者を、後の世では「地方巧者:ぢかたこうじゃ」と呼ぶ)。こどものころ疎開していた釜無川の近くの町・竜王で、「これが信玄堤だ」と教えてもらった記憶がある。

  註 地方巧者については、別途紹介。

「信玄堤」は、今でこそ歴史・文化遺産として認識されているが、つい最近まで、「最新の土木技術」に比べて劣るものと見なされ、全面が改修されようとした時期があった(土木学界は、建築学界よりいち早く近代以前の技術を見直す動きを始めている)。

このほかにも、近代的理論、近代的科学技術が確立する前、特に近世になされた驚嘆すべき仕事は、この日本の中でもたくさんある。先に紹介した「猿橋」や「愛本橋」(昨年10月14日記事参照)、城郭建築の石垣、そして各地の開拓や土木工事・・・。

   註 「木材だけでつくった長さ30mの橋」
 
しかし、こういった構築物や工事を今やるとなると、かならず、特に建築の世界では、横槍が入るのは必至である。いわく「現代科学で解析できていない」、「実験をやってデータを出せ」、「法令に適合するように直せ」等々。まことに「最高の不幸」「最大の禍」である。

なぜこうなってしまったのか。
私は、明治以降進められた「近代化」の必然的な結果であると考えている。
日本の「近代化」は、「一科一学」を身につけた「選ばれた指導者」が先導して人びとに「近代化」の道を歩ませる、つまり、人びとを「指導者」と「被指導者」とに二分することによって進められてきた。今なおそうだ。
そこでは、「指導者」の示す「理論」「指導・規制」は、人びとが生活現場で打ち出す構想・提案よりも優れたものと先験的に決められ、人びとの発想は捨て去ることが強要される。
建築の分野で言えば、近代化・西欧化を唯一・無二の目標と見なしたエリートたちが、長年の経験の積み重ねを基に現場の人びとが生み出した自国の建物づくりの技術について、まったく知ろうとしなかったことは別稿(12月29日記事参照)ですでに触れた。

   註 「語彙にみる日本の建物の歴史」

「指導者」:エリートの大半が士族出身者であったことも、この傾向に拍車をかけたのではないか。「士」が最高位、という考えは無意識のうちに継承されたように思える。これに対し、明治の経済界を卓抜した構想力で引張った渋沢栄一が農民の出身であるというのは、まことに象徴的である。

こういう「近代化」の普及の役割を担ったのが近代の「教育」であった。そこでは、ここに述べた「構図の安定化」を目的に据えた教育が行われた。教育もまた、国によって統制される。
 
そして、「机上の理論」の「現場」に対する先験的優位、「指導者」対「被指導者」の構図、「指導者」による人びとの闊達な発想の無視・抑圧、という指導者:エリートたちの思想・思考は、この「民主主義」と言われる時代に於いてなお、何も変っていない。似非民主主義がはびこっている(1月11日記事参照))。

   註 「閑話・・・・今は民主主義の世の中か」 

日本人、特に若い世代の「創造力」「構想力」の低さが問われ、「指示待ち人間化」が問題にされ、それは「教育」の責任であるかのように「識者」は言う。
しかし、本当の病根は、当の「識者」(専門家、学識経験者・・)の頭の構造:思想・思考法にあると言った方がよい。この、明治以降、エリートに深く巣くっている思想・思考法、「近代化の構図」が一掃されないかぎり、転換はかなり難しいのではないか、と思う。

昨今の一連の「構造計算偽装、改ざん」は、この構図が、まさにしっぺ返しを受けた事態と言えるだろう。「規定の計算がやってあればいいんでしょ・・」という《発想》の延長上のできごとにすぎない。
規定の計算を充たしていれば、本当に耐震なのか、誰も疑いもせず、いつのまにか、計算の結果が規定を充たせばOK=耐震、という構図ができあがり、リアリティとの関係を問わなくなってしまっている。
これを「最高の不幸」、「最大の禍」と言わずして他の何を言うか。

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地震への対し方-3・・・・「耐」震の意味するもの

2007-01-26 01:58:49 | 地震への対し方:対震
 建築の世界で使われる語には、誤解を与える語が多いように思う。
 たとえば「断熱」「断熱材」という語。
 「断熱」を字の通りに理解すると、「熱を断つ」という意。だから、「断熱材」でくるまれた空間は、外からの熱が断たれることになる。もしもこういう材料でつくられた魔法瓶:ジャーがあれば、一度入れた熱湯は永遠に熱湯の状態を維持できる。しかし、そのような材料はこの世には存在しない。
 ゆえに、「断熱」「断熱材」はいわば『誇大表示』、せめて、「保温」「保温材」と言い直すべきなのだ。
 しかし、「断熱」の語は一人歩きし、誤解をばらまいている。そしてその誤解は、一般の人のみならず、専門家にさえ蔓延している。

 「耐震」という語も同様である。
 「耐震」を字の通りに理解すると「地震に耐える」すなわち「地震に遭っても平気」という意になる。当然、一般の人は、その意に理解するだろう。
 たとえば、「震度7程度の地震に耐えるという国の規定する耐震基準を充たしている(とされる)共同住宅」に住んでいる人は、「震度7の地震に遭った後も住み続けることができる」と理解するだろうし、実際そう思っている人が多い。
 しかし、本当のところは、「震度7程度の地震に耐えるという国の耐震基準を充たしている」建物は、「震度7程度の地震に遭った後も住み続けることができる」ことを保証しているわけではなく、ただ単に「人命に損傷を与えるような破壊は生じない(だろう)」ということを意味しているにすぎない。これも『誇大表示』。
 この理解のギャップはきわめて大きいが、詳しく説明がなされているとは思えない。
 第一、「基準」自体、基準法制定後わずか50余年の間に、数回、10~20年に一度改変されていることは前回触れた。コンピュータソフトのように改訂があれば自動更新されるならばともかく、一度つくられた建物は、新耐震基準がつくられたとたん、「新・違反建築」に変ってしまうだけだ。そして、それに対しての「責任」はうやむやのまま・・。

  註 私は、今全国的に行われている「耐震補強」にかかわる
    つもりはまったくない。なぜなら、「耐震補強」策の拠
    りどころになっている「耐震」の考え方に同調できない
    からである。それによって生じるであろう結果に責任が
    持てないからである。

 これを書いているたった今、新たな構造計算偽装が発覚したというニュースが入った。
 これについても前から疑問を抱いていたから、ついでに書いてしまおう。
 いったい、ここで言われる「構造計算」とは何のことなのか?
 19世紀、微積分学とともに進展を見た材料力学、構造力学の体系化とともに、従来、技術者の経験によって裏打ちされた直観的な判断のみに委ねられていた構築物の計画を、学問的知見を駆使して事前に数値で計算し確認する、そのために生まれたのが元来の構造計算であったと私は理解している。
 正確に言えば、技術者が(直観的に)描いた構想を、そのときまでに得られている学問的知見を駆使して事前に確認してみる、それが構造計算だったのではないか。重要なのは、先ず、技術者が、自らの経験を基に(直観的に)構想する、という段階があったことだ。そこでは当然、技術者の経験で描いた構想と、計算で得られる結果との間に、いわば[壮絶な闘い]があったはずだ。
 しかし、構造計算法が生まれてから、技術者に怠慢がはびこったように思えてならない。かつて、石造のアーチをつくるとき、計画し差配した棟梁は、最後の要石を据えるとき、自ら据えた石の上に立ったという。そういう「必死さ」がなくなったのだ。
 特に、昨今の《構造計算》とは、《計算ソフトに数値を入れる》ことを意味するにすぎず、数値を入れる本人が、構築物の計画を頭に描いているとは到底思えない。単純に計算を充たせば、それでよし。何かドリルをやっているかの風情。つまり、計算することがリアリティに結びついていないのである。だからこそ、数値の改ざんが行われるのである。
 
 そして、更なる問題は、そのような「計算ソフト」の拠って立つ前提は何か、ということにある。つまり、「耐震」とは、何を言うのか?
 
 「地震に耐える」という以上、耐える相手が分らなければ耐えることはできないのは当然である。そこで、いまの《耐震理論》は、地震というものの実態を仮定して組立てられる。
 ところが、地震の実態は何かというと、これがまったく定まらない。実態が、地震ごとに全く異なる。だから、地震次第で理論も変らざるを得ない。それゆえ、大地震があるたびに基準を変えざるを得ないのだ。
 いつの日にか、地震の実態はかくかくしかじかなるものと一定に確定する日が来るのだろうか。私の答えは否。そうなることはあり得ない。
 もしも仮に、そうなる日がいつか来るとしたとしても、いつだか分らない。そのいつかが来るまでの間は、不確かなままだ。その間、そういう不確かなものを相手に、どうやって耐えようというのだ。
 つまり、今の構造計算の拠りどころは、仮定に仮定を何重にも積み重ねた《理論》の上に成り立っているのであって、それがリアリティと結びついているとの保証はまったくないに等しいと言ってよいだろう。
 

 かつて、人びとは、このような不確かなものを「人智の及ばないもの」として理解した。そう理解することを「恥ずかしいこと」「劣ること」などとは少しも思わなかった。そして身のまわりはその類のものだらけだった。地震もその一つ。しかし、その中で暮してゆかなければならない。
 日本は有史以前から地震の頻発する地域。当然、建物を建てるときには地震を考慮せざるを得なかったはず。しかし相手は「人智の及ばない」力。
 私の見るかぎり、そこで人びとが到達した結論は、「地震にまともに立ち向かうな、耐えようなどと考えるな」ということだった。
 それはつまり、まともに立ち向って死んでしまっては元も子もない、柳に風と受け流そう、という考えと言ってよいだろう。

 この考え方を具体化したのが、近世までに確立したわが国の木造技術、一言で言えば、部材を一体に組んで強固な立体にする方法である。これは通常「伝統工法」と呼ばれる。このようにしてつくられる立体格子を地面の上に置けば、地震に遭っても、立体が地面の上を動くだけで立体は壊れない。地面の上を動くにあたって何らかの抵抗を受ければ、骨組の間に充填された壁、あるいは屋根の上の瓦は振り落とされるけれども、立体は壊れない。阪神・淡路で見たいくつかの健在の実例が、このことを如実に語ってくれている。そこにこそ学ぶ点があると私は思う。

  註 ある木造建築の「専門家」は、「伝統工法」に対して、次の
    ような一文を書いている。
    「・・・・(伝統構法の木造建築は)いずれも、ある程度の
    耐震性はもっているが、きわめて強い地震に対しては不安な
    ものが少なくない。
    伝統構法は、現代的な科学技術とは無縁に発展してきたもの
    であるだけに、その耐震性の評価と補強方法はいまだ試行錯
    誤の状態であり、今後の大きな課題である。・・」
           坂本功「木造建築の耐震設計の現状と課題」
                  (「建築士」1999年11月号)
    この一文は、現代の学問では「伝統工法」を理解することが
    できない、つまり、現在の構造学の土俵の外に「伝統工法」
    はあり、ゆえに分らない、との告白と見てよいだろう。
    そのような場合、真にscientificであるならば、自らの視点
    ・視座を改め、どうしたら理解できるか考えるのが普通だが、
    そういう兆しはまったくない。

 「耐震」という言葉はなかなか勇ましい。人類が自然を制覇できるかの響きを持つ。しかしそれは所詮無理、ドンキホーテ的な考え方だ。
 そのような無謀な考えは捨て、「耐震」ではなく「対震」のしかたを近世までの古人に学んだ方がよいのではないか、と私は思っている。

  註 大正・昭和の初めにつくられたと思われる建物や土木構築物は、
    阪神・淡路の地震でも、意外と被災した例が少ない点は注目して
    よいのではなかろうか。
    その当時はまだ構造学は初期の段階にあり、それら構築物は、
    技術者の自身の判断によるところが大きかったからではないか、
    と私は考えている。
  
 

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地震への対し方-2・・・・震災現場で見たこと、考えたこと

2007-01-23 12:47:15 | 地震への対し方:対震
 
以下に、阪神・淡路地震の被災地での私の見聞を、木造建築の場合にかぎって述べる。

神戸で被災が甚だしいのは、JRよりも海側の、地盤が悪く埋立ての多い一帯である。
明治期に敷設された鉄道は、既存の居住地(開発地)を避けて通すのが普通で、神戸の場合も既存居住地の南側:海岸寄りに敷設されている。
軟弱な地盤には、余程のことでもない限り建物を建てないのがかつての常識、だから居住地にはならなかったのだ。ゆえに、この地区の建物は、ほとんど第二次大戦後、戦災復興期の建設が多い。

戦災復興期の建物には応急的建物が多く、柱も3寸5分~3寸角(仕上りで100mm角以下)で架構も簡易なものが大半を占める。
特に、「継手・仕口」を簡略化し、「横架材」を「梁間」に応じ材寸を増減した例では、建物は簡単に倒壊していた。
これらの例には大抵「筋かい」が入っていたから、基準法制定後の建設と見てよいだろう。
基準法の「筋かい」の奨励によって増えた簡易な架構では、「筋かい」を通じて増幅された地震の力で、短い枘がはずれ柱と横架材がバラバラに分解してしまったり、補強金物がむしられている例が多数あった。
ことによると、「筋かい」があるために、却って損壊を促進させてしまった例もあるのではないだろうか。

また、部材に残された痕跡から判断して、当初の応急的な建物を増改築をし、そのために架構が弱くなったと考えられる事例もかなりあった。
「筋かい」を入れた建物は、原理的に増改築は無理なのだが、やむを得ず増改築を行ってしまったからではないだろうか。
「報告書」が指摘している「耐力壁の不足」「耐力壁の不均衡配置」の多くは、無理な増改築により生じたと考えられる。

さらに目立ったのは、防火構造や断熱材の封入により木部が腐朽した例や(鉄骨の場合は錆びてボロボロ)、金物の取付けボルトによって木部が割裂した事例である。
木部の腐朽などは、保守点検が常時なされていれば手を打てるのだが、防火構造や大壁仕様は竣工後の点検が行えないため、放置されてしまうのである。

昔ながらの「土居葺瓦屋根」、「竹小舞土塗壁」の建物では、
  ア)倒壊した建物
  イ)瓦がずれたり落下し、壁も崩落しているが、倒壊を免れている建物
  ウ)まったく損傷を受けない例(先回紹介の寺の場合など)
とに大きく分かれるように思われた。
そして、イ)の例には、軸組に異常が生じた建物は先ず見当たらなかった。

この違いは、基礎と木造軸組の接続の仕方(緊結の有無)と架構の組み方、瓦の固定の仕方に関係しているようであった。

ア)の倒壊例は「土台」が「基礎」に緊結されている場合、あるいは架構が簡易な場合に見られる。
軸組が基礎に緊結されていると、地震による慣性力は、重心位置が高い瓦葺建物ではきわめて大きくなり、組み方が簡易な軸組が破損に至ったものと考えられる。
特に、瓦が野地板に固定されている場合に激しい。

イ)は地震で生じた慣性力で、土居葺の瓦が野地板上で踊ってしまい、壁も崩れてしまう場合である。
これには、a:軸組が基礎に緊結されていても架構が確実に組まれている場合、あるいは、b:軸組は基礎に緊結はされていないが、摩擦などで一定程度の抵抗を受ける場合に起きているようであった。

aは、架構が確実に組まれていたため、地震によって建物に生じた慣性力は、瓦をずらし、壁を崩落させることに費やされ、軸組の破損に至らなかったと考えられる場合である(簡易な架構ならば、一気に全体が倒壊に至るだろう)。

淡路島には、「布基礎」ではなく、「布石(「延石」:のべいし:ともいう)」に「土台」を敷き柱を立て、1階床位置に「足固め」を設けるつくりが多く、2階建ての建物全体が「布石」上を横滑りした例を多数見かけた(10cmほど滑っている)。
見た限りでは、瓦がずれたり壁が落ちる事例は皆無だった。これは、架構全体がしっかり組まれているからと考えてよいだろう。

つまり、「土台」を「基礎」に緊結せず、架構を一体に組む往年の工法による建物では、軸組が致命的な被害を蒙る例が少なかったのである(先回紹介の尼崎の例も同じ)。
そして、この場合も、摩擦など何らかの抵抗を受けて「布石」上で滑らない場合には、壁が落ち、瓦がずれる現象(上記のb)が生じるにちがいない。

このようなことから、一般に、瓦のずれ落や壁の崩落は、とかく大被害のように見られるが、軸組が安泰であるならば、瓦も壁も修復が可能であり、その意味では致命的な被害ではないと考えた方がよいのではないか。
致命的な被害とは、架構本体、つまり軸組が修復不能に陥ったときを言うべきなのだ。
 
しかし、往年の工法(「伝統工法」)による建物がすべて安心というわけではない。
私の見た例で印象に残っている事例は、3寸5分角の柱で、柱間2間半に丈が1尺2寸以上はあろうかという「差鴨居」を取付けた平屋建ての商店の建物である。
「仕口」は昔ながらに丁寧に刻まれてはいたが、いかんせん「柱の径」と「差鴨居の丈」の落差があまりにも大きすぎ、柱は仕口部で折れていた。伝統的な継手・仕口の形式的な(理屈を考えない)使用も危険なのである。
 
ところで、私が不可思議に思うのは、基準法制定以来、地震に弱いとされてきた「竹小舞土塗壁(貫下地)」が、伝統工法の見直しとして、2003年の告示で突然、当初の《基準》の2~3倍の能力を持つ耐力壁として認められたことである。
いわゆる伝統工法は耐力壁だけに耐力を期待する工法ではないから、「小舞土塗壁」をも耐力部と見なす考え方はそもそもおかしい。

しかし、それにしても、告示の仕様は基準法制定以前の一般的小舞土塗壁よりも優れたものではなく、貫厚などはむしろ劣るくらいなのだ(かつては20mmはあたりまえだったのに、告示では15mm)。

基準法制定から50余年、その間小舞土塗壁は弱い危ないと言われ続け、そのため、どれだけの左官職が転業を余儀なくされたことか!
なぜ今まで危ないとしてきたものを、今になってよしとしたのか、その整合性を問われてしかるべきだろう。
しかし、説明はもとより、「謝罪」の言葉はどこを探してもない。

先回触れたように、法令はこの50余年の間に何度も改訂され、《基準》もひっきりなしに変っている。しかし、なにごとにも「説明責任」が求められる現在、《旧基準》の「責任」については、いまだかつて問われたことがない。
もちろん、改訂は、その間の学問の進歩による、などというのは理由にはならない。
もしそうならば、《いい加減なもの》を《基準》にしてきたことへの釈明があって当然だからである。

次回は、そのあたりについて、私見を書くことにする。

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地震への対し方-1・・・・「震災調査報告書」は事実を伝えたか

2007-01-20 23:29:46 | 地震への対し方:対震

 かつては9月1日、そして最近は1月17日、新聞もTVも震災の話で持ち切りになる。

 12年前の地震の際、今でも強く印象に残っているのは、たしか地震の翌日のTVで見た被災状況について見解を問われた《構造専門家》の第一声である。彼は「新耐震基準は間違いなかった」と言ったのである。新耐震基準とは、1981年に改訂された建築基準法の構造規定のこと。
 私は不快な思いを抱いた。そして、関東大震災をRC:鉄筋コンクリート造普及の絶好の機会とみた人たちのことを即座に思い出した(12月23日に紹介した「大正大震火災誌」中の《意見》参照)。震災は、《専門家》の《理論》の実証や《専門》の普及のためのチャンスであるらしい。
 
 阪神・淡路地震の被害調査報告書がある。たしかに「被害調査」なのだから「被害を受けた建物」を調査するのはあたりまえではある。が、しかし、報告の内容を見ると、かなり恣意的だ。つまり、《科学的》ではあるがscientificな報告書では決してない。

  註 「科学」「科学的」と「science」「scientific」の
    大きなしかも重大な違いについては、
    昨年10月31日の一文で解説。

 何故なら、たとえばRCの建物については、1971年の前か、1981年の後か、それとも1971年~81年に建てられたものか、によって被害程度を調査分類している。
 1971年は十勝沖地震(1968年)を経ての法改正、1981年は宮城県沖地震(1978年)後の法改定が行われた年のこと(《耐震基準》は、1950年の基準法制定以来、大きな地震があるたびに、10~20年を経ずして変るきわめて不確かな《基準》なのである)。

  註 この部分は、「建築士のための指定講習会テキスト」2003年版の
    「岡田恒男:近年の地震被害の傾向」の内容の要約である。

 つまり、この「調査」は、最初から《耐震基準の違い》で被害実態を見る、いわば「先入観」を持った調査と言ってよいだろう。
 scientificな研究法では、「仮説」を立て、それを検証するのが常套手段だが、こういう「先入観」は到底「scientificな仮説」とは言いがたい。

 木造建築についても、①「屋根が土居葺瓦屋根、壁が竹小舞土塗り壁、筋かいが少ない」場合、②「屋根が土居葺瓦屋根、壁が竹小舞土塗り壁、筋かいを入れる例が多い」場合、そして③「屋根は桟瓦葺、壁はラスボードまたは木ずり塗り壁、あるいはサイディング、筋かいを入れてある」場合とに分け、さらに①は昭和30年(1955年)以前に建てられた建物(ただし何時までさかのぼるかは明らかではない)、②は昭和50年(1975年)以前、③をそれ以後の建物に対応させている。
 それぞれの仕様を指標とする理由、その年代区分もまた、RCの場合同様、きわめて恣意的である。つまり、《土居葺瓦屋根や小舞土塗り壁は地震に弱い》、《筋かいは木造軸組工法の必需部材である》、という現代構造学の《通説》を下敷きにした分類にほかならない。

 そして、「①②で倒壊または大きな被害を受けたものは、屋根が重いにもかかわらず筋かいがないかあるいは少ないもので、もともと耐震性に乏しい上に、老朽化の影響があったと思われる。これらはいわゆる新耐震基準以前のものである」とし、③で見られる被害の「要因」については「耐力壁の不足、不均衡な耐力壁の配置、柱・土台の接合耐力不足、不適切な筋かいの設置と端部の緊結不良、腐食・蟻害、不適切な基礎構造、・・」が挙げられている。

  註 ここに挙げられた「要因」が、
    すべて2000年の法改訂で追加された「仕様」(ホールダウン金物の
    使用規定など)に対応していることに気付かれるはずである。

  註 上記の木造建築に関する部分は、
    「建築士のための指定講習会用テキスト2003年版」中の、
    「坂本功:既存戸建て木造住宅の耐震性の評価」から要約。

 私が不思議に思うのは、同じ地震で、しかも同じ地域で、被害を受けなかった建物、あるいは被害が軽微であった建物についての調査がまったくなされていないことだ。つまり、「関東大震火災誌」での岡田信一郎のように事態を「冷静に観察する」人が、調査者:被害調査団に一人もいなかった、ということにほかならない。

  註 「関東大震火災誌」および岡田信一郎については、
    「学問の植民地主義」」参照。

 私も地震後現地を訪れた。現地近くに実家のある人からは、昭和初めに建てた家の様子について話を聞いた。
 私は西宮の駅前で、瓦屋根の寺(江戸末か明治初めの建設?)が何事もなく建っているのを見た。その寺の四脚門は、形を維持したまま(瓦屋根を載せたまま)、1mほど跳んでいた。また、土居葺瓦屋根、竹小舞土塗り壁、筋かいなしの住居で致命的な被害を受けなかった事例も多数あった(しかし「報告書」には、その「報告」はまったくない)。
 当時、瓦屋根の《危険性》や、木造軸組工法に対する2×4工法の《優位性》がまことしやかに語られたが、それは「為にする話」のように私には思えた。
 そして尼崎に実家のある人の話では、昭和初めの建物は、少し基礎石からずれたけれども、曳き家で戻せる、とのことであった。

 次回は、私が現地で見た率直な感想を、調査報告書についての論評ともども、書くことにする。

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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-7

2007-01-17 03:09:38 | トラス組:洋小屋
 
 トラス組の話は、木造トラスを使った設計の紹介(上掲写真)でひとまず終り。
 いずれもキングポストではなく、シレンの用いた方法(丸鋼で陸梁を引張る)によっている。キングポストはとかく重い感じとなるが、この方式(力の大きさが逆になる)では、軽快に仕上がる。また、陸梁の垂下がり(水平)を、トラス取付け後、丸鋼の突っ張りで調整できる利点がある。

 北条幼稚園はおよそ35年前の設計で屋根は片流れ。木造軸組にトラスを架ける方式。
 丸鋼の端部のナットで調整するのではなく、昔懐かしいターンバックルを使っている。よく見ると、陸梁と束を「かすがい」で留めている。本来これは必要ないはず。陸梁は105㎜角だったと思う。
 壁際の火打梁はトラスの直交方向の揺れ防止のため。

 下2葉は、10年ほど前に設計したM小学校の例。北条幼稚園と同形式だが切妻屋根。ただし、RCの躯体にトラスを架ける。
   RCの躯体に鉄骨トラスの屋根を架けたのが竹園東小(昨年10月26日記
   事)。
   なお、M小学校の体育館では、75㎜のアングルだけで構成した鉄骨トラス・
   アーチ梁を架けている。機会を見て紹介。

 ここでは揺れ止めのために、束を挟んで2本のつなぎ材をトラスに直交して抱かせ、その間を電気配線、照明器具設置に利用。陸梁は杉120㎜角。少し太い感じがする。105角で十分だったかもしれない。
 
 筑波第一小学校体育館(昨年10月18日掲載)でもトラスを考えたが、結局ああいう形となった。

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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-6

2007-01-16 00:34:13 | トラス組:洋小屋

 きのうの続き。フィンランドの建築家の設計になる建物のトラス。

 上はヘイッキ・シレンのオタニエミの森の中の教会(近くにはアアルトのオタニエミ工科大学などもある)。学生時代に書物でこの建物の紹介を見たとき、この清冽な空間に驚いた覚えがある。単純にして、明快。

 下はアアルトの設計した「教育大学」の学生食堂の内部。これも単純にして明快。空間を物理的に維持する構造が、そのまま空間の構成要素になる。

 両者とも、私には、建物づくりの理想の姿に思え、大きな影響を受けた。

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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-5

2007-01-15 19:40:30 | トラス組:洋小屋
 
 この数葉の写真とスケッチは、1950年、アアルトの設計で建てられたフィンランド・イマトラの小さな町役場(town hall)の議場の屋根・天井を支えるユニークなトラス。
 ここでは、トラスは隠すものではなく、空間を構成する重要な要素として活躍している。

 このように構造と空間を一体に考える例は、アアルトの設計には多く、フィンランドの他の建築家の設計(次回)にも見られる。

図と写真は、下記より転載
Atelier Alvar Aalto 1950~51(Verlag fur Architectur,Erlenbach-Zurich)
Alvar Aalto(The Museum of Modern Art,New York)



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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-4(改・補)

2007-01-13 10:10:37 | トラス組:洋小屋

 長野県塩尻市の周辺には、興味ある建物が多数ある。
 塩尻は、鉄道で言うと、中央東線、中央西線、篠ノ井線の分岐点、街道で言えば、中山道(江戸~京都)、三州街道(伊那往還:塩尻~伊那谷~遠州)、そして北方へは松本を経て糸魚川へ通じる糸魚川街道(千国道)あるいは長野・善光寺への北国西脇往還(善光寺道)の交差点として栄えた場所。「塩尻」とは太平洋あるいは日本海から届けられる「塩」の最終到着地だから名付けられた、という説があるくらいだ。
 
 このあたりには、建屋を、石置き板葺きで緩勾配の大屋根でくるむ通称「本棟造(ほんむねづくり)」と呼ばれる建物が数多く残っており(今は瓦葺きに変っている)、それらのつくりなす街道筋の街並みも見ごたえがある。
 一般には、「堀内家」が「本棟造」のいわば代表として紹介されている。
 しかし私は、むしろ、「島崎家」と上掲の「小松家」を観ることをお勧めする。いずれも塩尻市の郊外、字片岡にあり、両家は数百メートルほどしか離れていない。

 「島崎家」は「本棟造」の原型と言ってよい建物で、「堀内家」に比べると数等細身の材で造られている。それでいながら、当初の建物を、改修によって約250年以上にわたり住み続けてきた住居である。材の寸面の大小は、そのまま直ぐには構造面での強さと結びつかない、という良い例。

 いわゆる「民家」は骨太と一般に理解されているようだが、骨太になったのは幕末から明治初めの頃のこと。庶民は、無駄に材料は使わない、必要最小限の材で、しかも手近で得られる材料でつくるのがあたりまえだった(《銘木》などという感覚とは縁がないのが庶民)。「島崎家」はその典型と言える建物。

 「島崎家」についてはいずれ紹介するとして、上掲の「小松家」は、「島崎家」の直ぐ近くにありながら「本棟造」とはまったく異なる茅葺の「上屋」だけからなる農家。
 屋内の写真はないので、断面図で想像していただくしかないが、きわめてすっきりしていて、呆気にとられるくらい単純な架構である。一種のトラス組と言ってよいだろう。断面図は、「しもざしき」での断面(右手が「しもざしき」)。

 もちろん、トラスなどという意識のもとでつくられたわけではなく、合掌の垂れ下がりを陸梁からの「つっかえ棒」で支えよう、という発想だ。これは、「現場でなければ生まれない発想」と言えるだろう。机上の知識では、こういう発想は生まれまい(知識としてのトラスが頭に浮かび、こんなのありか、と考えてしまう)。
 註 西欧の各地域の農家の建物にも、同様に、現場で生まれた技が数々あり、
   そしてそれが各地域独特の形状として結果している(これもいずれ紹介)。

 私は、こういう「建築家なしの建築」に潜んでいる溌剌とした発想・技に常に感動を覚える。そこに学びたいと思う。こういう新鮮で溌剌とした発想が、今の「建築家」にできるだろうか?
 最近建てられる建物を見ていると、今の「建築家」の目線は、どこか「建物づくり」とは無縁なところをさまよっているように思えてならない。 

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閑話・・・・今は民主主義の世か?

2007-01-11 02:13:44 | 論評
 防衛庁が防衛省になった。このことについて「不安」を感じるのは、新聞の投稿欄などを見ていると、その多くは60代後半の方々のようだ。幼少時に「戦前」を知っているからだ。第一、自衛隊の前身「警察予備隊」の誕生の経緯さえ、すでに話題にならない。

 戦後、日本は「民主主義国家」になったという。
 「民主主義」とは、「人民が主権を持ち、人民の意思をもとにして政治を行う主義」のこと。では、今の日本は「民主主義」国家だろうか?本当に人民が主権を持ち、その意思をもとに政治が行われているか?
 そうではないことは、先般来問題になっている《タウンミーティング》なる「催し」、あるいは《有識者》による各種《審議会》を見れば明らかだ。つまり、これらは皆、《人民の意思を尊重しているかの装いを見せるための装置》なのだ。

 よく、江戸時代、徳川幕府の時代は「封建主義」、すなわち「支配的な立場にある人が、下の者を、文句を言わせずに服従させるやりかた」がまかり通った時代と言われ、暗い時代と言われる。
 しかし、いろいろ調べてみると、そういう話の大半は、明治新政府が「為にした」作り話が多いように思える。
 たとえば、江戸時代の新田開発(地域開発)や、あるいはいろいろな分野での卓越した技術の誕生などを見てみると、江戸時代は一般庶民が自由に発想し、自由に振舞える今よりも数等「民主」の時代であった、という感を禁じえない。
 これに対し、昨今の政治を見ていると、今の世の方が数等「封建的」に見える。時の政府が、一般庶民の自由な発想を禁じ、一律の方向に向うことを指示する。しかし、その指示が誤っていても(誤っていることが明らかになっても)、絶対に責任はとらない。それは、昨今の「構造計算偽装問題」の結末を見れば明らかだ。「偽装」を見逃した行政の「責任」は不問のまま終ってしまった。
 始末が悪いのは、その施行が、常に、一見《民主的》な装いをとっていることだ(《審議会》《公聴会》や《タウンミーティング》がそれ)。

 江戸時代なら、多分、こんな政治が行われたなら必ず「一揆」が起きたに違いないが、明治以来の政治は、それを押さえ込む手段も同時に《民主的に》つくり上げてきたと言ってよいだろう。これは新たな「封建時代」の到来と言ってよいと私は思う。 

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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-3

2007-01-09 03:08:32 | トラス組:洋小屋
 
 今回は、一般への西欧風建築の普及に影響力のあった「建築学講義録」でのトラス組について。
 ただし、同書にはトラスという言葉は使われず、いろいろな「(西洋式の)屋根のつくりかた」の一つとしていわゆるトラス形式が解説されている(「日本小屋」の解説もある)。

 上の図は、同書から屋根:小屋組解説用の図を抜粋、編集したもので、用語も同書に拠っている。
 ただ、同書では、「垂木」には、[偏が「木」+つくりを「垂」とした字]、また、queen postには、[「夫婦○」:○は、偏を「木」+つくりを「短」とした字]があてられているが、読みも分からず(「めおと△△」と読むらしい)、フォントもないので、queen postのままにしている。

 解説は、張間に応じて、屋根を「どのようにつくるか」という視点でなされている(他の部位についても同様に「どのようにつくるか」が解説される)。
 以下、「屋根のつくりかた」についての同書の解説を意訳してみる。

 ①の「踏張垂木小屋」の「踏張」は「ふんばり」と読むのだろう(coupleは「一対の」という意味で、建築用語では「合掌」に相当)。
 これは、最も簡単な屋根架構法で(現在の通称「垂木構造」)。「垂木」を拝み合わせて、脚元は桁に、頭は棟板の両面で向い合せ釘打ち。 
 図の点線のように、壁を押出す(開こうとする)ので、それを防ぐ必要があり、煉瓦壁のときでも梁間12尺(約3.6m)を越えるときは使わない方がよい。
 木造の壁の場合は、@1間(約1.8m)に「繋梁(つなぎばり)」を渡して左右の壁を繋ぐ。煉瓦壁の場合でも、壁厚が厚いとき以外は、同様に「繋梁」の使用が望ましい。

 ②の「尻留垂木小屋」は、「しりどめ」と読むと思われるが、①の「垂木」の「尻」:根元ごとに「繋梁」を取付ける方法。
 「繋梁」は、通常は天井の「野縁(のぶち)」を兼ねるか、あるいは野縁の「吊り木」を取付けに利用されるため、天井の重さで「繋梁」の中央が垂下することがあり、梁間が12尺(約3.6m)を越えるときは、上部に「帯梁(おびばり)」を添えるとよい。

 ③の「帯梁小屋」は、壁の高さが低いとき、または屋内高を高くしたいときの方法。
 「繋梁」の代りに一段高い位置に梁(「帯梁」)を設ける。
 collarは「襟」のこと、collar-beamは建築用語になっている。
 この方法は、図の点線のように、「帯梁」の下にあたる部分の「垂木」が曲がり、壁を押出すことが起きやすく、上等な構造とは言えない。
 また、@8~10尺(約2.4~3.0m)ぐらいで同様の形状の組物(「帯梁」を設けた「合掌」と考えてよい)をつくり、「帯梁」と「合掌」の取合い箇所に「母屋」を取付け垂木を掛ける例を見かけるが、壁の一部だけに屋根の重さがかかることになり、その結果、壁が多少でも外に傾けば「帯梁」が引張られ、「合掌」も曲げられることになるので好ましくない。
 ただ、②の「尻留垂木小屋」形式に取り付けた(「繋梁」を設けた上、追加した)「帯梁」はきわめて有効である。

 ④の「中釣垂木小屋」(「中釣」は「なかつり」または「ちゅうづり」?)は、②の「尻留垂木小屋」の「繋梁」の垂下を防ぐために図のように棟から「釣ボルト」で梁を釣る方法。
 梁間14尺(約4.2m)以上のときは、「垂木」の中央へ点線のように「帯鉄」を取付けることもある。
 いずれにしても、④の方法は、壁も押出さず、梁の中央の垂下も起きない好ましい方法である。

 ④の架構を大きな梁間に使うと、屋根の重さで「垂木」が下方に曲がり気味になるので、「垂木」の中央を他材で突張る必要がある。この材を「斜柱(しゃちゅう)」と呼ぶ(現在の「方杖(ほうづえ)」)。
 「釣ボルト」では「斜柱」の取付けが難しいので、「釣ボルト」に代り木材の「釣束(つりつか)」を使う。「釣ボルト」を使うときは、小屋梁上に「斜柱」の脚元を受ける鉄製の沓金物を使う(図省略)。

 このように、「合掌」(2本)、「釣束」(1本)、「斜柱」(2本)、「小屋梁」(1本)の計6本の材だけでつくられる最も多用される方法のため「普通小屋」と呼び(図の⑤)、梁間20尺(約6m)以上30尺(約9m)の場合に最適である(現在の通称「キングポスト・トラス」)。

 「普通小屋」を①②の「垂木小屋」のように狭い間隔で並べるのは合理的でないので、図のように組んだ架構(小屋組)を@6尺(約1.8m)で壁上の木製の「敷桁」(壁にボルトで固定)に据え置き、「母屋」を渡して「垂木」を取付ける。「敷桁」に代り石材による「梁受」を設ける方法もある(10月28日掲載の「旧丸山変電所」の鉄骨トラス受けに石材の「梁受」が使われている)。

  註 「普通小屋」については、各仕口の詳細、各部材寸等が詳しく述べられて
    いるが、ここでは省略する。

  註 キングポスト形式の屋根づくりがきわめて「普通」で容易であったから、
     日本での普及も早かった(例:喜多方に於ける木造建築での利用)と
     言えるかもしれない。
     その意味では「普通小屋」の呼称も納得がゆく。

 張間が「普通小屋」が担える長さを越えるときに使われるのが⑥の「二重梁小屋」である(通称「クィーンポスト・トラス」)。

 「小屋梁(現在の通称陸梁:ろくばり)」の張間の両端から1/3の位置のところに立てる2本のqueen postで両端から登る「合掌」の頭を受け、queen postの脚部から「斜柱」を合掌の中間点へ向けて取付け「合掌」にかかる荷を受け、2本のqueen post間は、上部は「二重梁」で、下部は「添梁(そえばり)」で突張る。
 さらに「二重梁」を支える「斜柱」を図のように取付け、「合掌」の「斜柱」取付き位置から、「小屋梁」に向け点線の位置に「釣ボルト」、または「釣束」を設けるのが一般的である(こうすると、いわゆるクィーンポスト・トラスの一般的形状が完成する)。

  註 「二重梁小屋」という呼称は「クィーン・ポスト組」という呼称よりも
     明快である。

 以上紹介したように、現在の建築構造のトラスの解説では、軸力のプラス・マイナス、圧縮か引張りかをベクトルで解析して説明するのが普通だが、「建築学講義録」では、単純な「合掌」から始めて、張間の増加にともない生じる問題の対策として生まれた代表的な小屋組を順に説明し、最終的に通称トラス組に至っている。
 おそらくこの順番は、古人がトラス組の「発明」に至る過程そのものと言ってよい。
 このような解説は、日ごろ「現場」で建物づくりに接している「実業家」たちには、それが「実感」をともなう説明であるため、きわめて分かりやすいものだったに違いない(この書がロングセラーとなった理由の一つだろう)


 残念ながら、これに対して、現在の建築構造の教科書は、先達たち(「実業家」たち)の努力で得られた成果(架構の方法)の分析から生まれた理論:構造力学:が先に立ち、そこから逆に語られるために、理解を難解にしているきらいがあるように思える。
 その意味でも、「常に原点に戻って考える」必要を強く感じる

 
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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-2

2007-01-06 23:39:54 | トラス組:洋小屋

 先回の建物が「正統」トラス組の建物とすれば、今回紹介する建物は、「正統」には属さない、いわゆる「擬洋風」と呼ばれる建物で、明治21年(1888年)の棟札がある「旧登米高等尋常小学校」校舎である(ただ、明治20年代には、明治10年代のいわゆる擬洋風を離れ、和風との折衷が多くなるという)。木造二階建て桟瓦葺き。日銀京都支店の18年前の竣工。

 登米(とよま)町は宮城県の北東部、石巻と一関のちょうど中間、北上川の西岸にある町。現在は登米(とよめ)市・登米(とよま)町。
 一帯は北上川の氾濫原のため、宮城有数の米どころ。北上川水運で繁栄し、明治の建物が多く残されている。ただし、地盤は極めて悪い。

 設計者は、当時宮城県技手の職にあった山添喜三郎、工事は登米村(当時)の大工棟梁・三島秀之助、同佐藤朝吉が請け負った。
 山添は明治5年(1872年)、ウィーンの万国博日本館の設営のため大工として渡欧、終了後も数年滞在し西洋の建築を視察、帰国後宮城県の技師になり、以後40年間、宮城県内に多数の建物を設計した人物という。

 建物は念入りな地業(礎石下に3尺6寸角厚約1尺の三和土:たたきをつきかため、その下には長さ1尺の割栗石が小端立てに敷詰め)を行い、切石の礎石を設ける。きわめて悪い地盤にもかかわらず、目立った不同沈下は見られなかったという。
 教室になる部分は、四周と部屋境に土台をまわし、廊下外側の柱は礎石建て。
 教室部は、廊下側および背面側を@1間(1821㎜)の通し柱(約5寸角)とし、1階床位置では、桁行方向に「足固め」を1間ごとに「雇いシャチ栓」で建て込み、足元まわりを固めている。
 2階はおよそ丈1尺2寸の梁(@1間、梁行4間)を通し柱に差口(枘差し込み栓)でおさめて、根太を渡り腮(あご)で掛け床をつくり、小屋は軒桁上にキングポストのトラス組(@1間)を渡り腮で架けている。母屋はトラス合掌に渡り腮。

 この建物でも、トラス組は天井で隠されているが、唯一、六角形半割りの屋根の昇降口には天井がなく、放射状に組んだトラスが表れている。
 
 註 「足固め」:礎石建ての柱の一階床面位置に柱に差口で納める部材。
          柱脚部を固める役割を担い、「布基礎+土台」方式以前の
          日本の木造建築は、この方法があたりまえであった。
          足固めは一般に大引、根太を受け、また敷居を受ける。
   「差 口」:横架材を柱に枘差し、楔締め、込み栓、またはシャチ栓で
          固める仕口をいう。

 トラスの中途には片面に「添梁」を打ち付けているが、キングポストの場合、この補強は必要ないと思われる。しかし、「日本建築辞彙」の木造の図にも添梁があるから(12月29日掲載分参照)、ことによると、キングポストのトラスでも、合掌が開く恐れがある、と思われていたのではないだろうか。
 この点については「建築学講義録」の説明が参考になるので、追って紹介する。

 大分前になるが、松島から北上し、石巻から登米へと向う途中、石巻の手前の右手に、明らかに人工河川と思われる水路が見えた。あとになって調べたところ、明治14年(1881年)に完成した「北上運河」と言い、明治政府が計画した港湾計画の名残りとのことだった。
 明治当初、鉄道が敷設されるまでの間、河川は、流通手段としてきわめて重要視され、北上川もその一つ。その河口に大きな港湾を計画したのである。
 登米も、北上水運の重要拠点として隆盛を誇っていたゆえに、当時としては斬新な建築が多数つくられたのだ(地元では、東北の明治村、と呼んでいた)。
 
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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-1

2007-01-04 12:40:54 | トラス組:洋小屋

 会津・喜多方では明治30年代から(註:明治30年=1897年)小屋組にトラス組が用いられていたことを以前紹介した。
 トラス組の技術は明治の近代化にともない日本に紹介された技術で、日本では古い農家建築の合掌組以外にはその例がない。

 註 合掌組 陸梁(ろくばり)上に三角形に合掌を組むトラスの原型。
         合掌材には主に丸太が使われる。
         合掌の尻は陸梁の両端に穿った穴に差される。
         本来は真束(棟位置の束)はないが、設ける場合もある。

 トラス組は、小断面の、しかも少ない量の材料で、大きく梁間をとばすことができる方法だが、最近の日本では見かけることが少ない。木造の大架構というと、大断面の集成木材を、鉄骨造では大断面のH型鋼を使う例が多いようだ。
 多分、トラスは小屋裏に隠すもの、見せるものではない、と思われているからかも知れない。
 たしかに、明治以来、木造はもとより鉄骨造でも、校舎や講堂などに使われることが多かったトラス小屋組は、大抵が天井を張られ、外からは見えないのが普通だった(先に紹介した「旧丸山変電所」は、変電所施設であるため、鉄骨トラス表しである)。
 現在でも、各地にのこっている第二次大戦前に建てられた学校の校舎や講堂(体操場)の天井裏に、トラス組が隠されているはずである。

 上に載せたのは、「旧日本銀行京都支店」の建物の断面図とトラス組の写真。
 この建物は、二階建て一部地下一階、煉瓦組積造、小屋組をトラス組、スレート・銅板葺きの屋根の建物(煉瓦は、化粧煉瓦を含め、地階4枚、一階3枚半、二階3枚のイギリス積)。

 設計は、当時日本銀行の工事顧問だった辰野金吾(工部大学校第一回卒業生)と日本銀行技師長・野宇平治。明治39年(1906年)に竣工(会津・喜多方で、さかんに木骨煉瓦造の建物が建てられ始めたころである)。

 このトラス組は、工部大学校で教授されていたいわば「正統」のトラス組の例と言えると思われる(煉瓦積も同じく「正統」と言えるだろう)。

 現在、この建物は、「京都府立平安博物館」として公開されている。
 所在地は、京都市中京区三條通高倉西入る菱屋町。一帯は、明治期の商業活動の中心地。その他にも同時期の建物が多数残っている。

 この建物の由来等の解説は「重要文化財旧日本銀行京都支店修理工事報告書」に拠った。なお、調査の結果、外壁まわりの基礎、床束礎石には大きな沈下は見られなかったという(京都市内は、盆地ゆえ、一般に地盤は悪い)。

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東大寺・鐘楼(しゅろう)-2・・・・続・進化した大仏様

2007-01-01 19:20:45 | 建物づくり一般

 昨日の紹介では、説明不足の点がありました。
 貫の詳細ならびに説明を、「文化財建造物伝統技法集成」(財団法人・文化財建造物保存技術協会刊)から、そのまま転載します。
 なお部材説明用写真は「奈良六大寺大観 第九巻 東大寺一」から借用した写真に文字を入れたものです。写真は、西面を見ています。
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