園城寺(三井寺)光浄院客殿が書院造の原型と言われていることは先に触れた(2月26日)。
写真でも分かるように、この空間を整えているのは、柱、付長押(内法長押、蟻壁長押の二段)からなる真壁の壁面、そこに設けられる開口部、そして竿縁天井である。
竿縁天井は、上層階級の建物では、中世以降一般的に用いられるようになる方法である(11月7日に天井の変遷について大まかに触れた)。
天井は空間の様態を左右するから、同じ竿縁天井でも、竿縁に面を付けるなど、様々な工夫がなされている。
その中でも、竿縁の割付けには、特に気が配られる。
光浄院客殿では、正面に向って竿縁が流されているが、押板と違い棚の境の柱:床柱に相当:の芯に竿縁がこないと見苦しい。しかし、左右の壁間を単純に等分すると、かならずしも柱芯に竿縁がくるとはかぎらない。むしろ、狂うのが普通である。
この問題を解消するために考案されたのが「蟻壁」だと言われている。一旦、「付長押:蟻壁長押または天井長押」をまわして真壁と縁を切った後、その上部を大壁にして、その壁厚で竿縁の割付を調整するのである。
この「蟻壁」が空間の上部、天井際を一周するため、ややもすると重くなる天井面が、軽快になる。
こうなることを見込んでいたのか、結果としてこういう効果が生まれたのかは不明だが、この手法が好まれたことは確かである。
註 昨今は、回縁で調節するようだ。
なお、この建物では、床に向って竿縁が流れている。
通常「床刺し」と称して嫌われるが、それは後世の「習慣」である。
また、「付長押」の裏側には、3寸×1.3~1.5寸程度の「貫」:重要な構造部材が通っている。
開口部の上部は、内法貫下位置で、柱間に鴨居を渡し、両面に内法長押をまわす。下部は、床板上に柱間に敷居を渡す。敷居の厚さは畳厚と同寸。外側には「地長押」をまわす。
この建物の場合、上掲の図のように、通常鴨居に彫られる「樋端(ひばた)」ではなく、別材を隠し釘で取付けてつくっている(「付樋端」)。樋端の幅は、遣り戸1本分の厚さ、通称ドブ。戸と戸の間に3分の隙間があくので、建具の端部に隙間を塞ぐ材が付けられている(召し合せの一種)。
現在のような「樋端」になるのは、溝彫り工具が普及してからのこと。
いずれにしても、少ない要素だけで、空間をまとめ、整えるのは、日本の建物づくりの特筆すべき点と言ってよいだろう。
上掲の図、写真(モノクロ)は「日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰ」より転載、加筆したものである。
カラー写真は「原色日本の美術」より。
この建物は、寺務所に申込むことで、拝観できる。
しかし、一番内側の溝に水腰障子が建つため、ふすま絵の全景を観ることができません。
ある人からは、真ん中の溝に水腰障子を建てるのが本来だという説を聞いたことがあります。
でもこれだと障子が雨に当たってしまいますね。
どうやってふすま絵を鑑賞したのでしょうか?
障子の横組子の間隔は、障子紙の規格で決まっていたはず。
当時の障子紙は、横組子二間分の幅で、長さは色々あったと思いますが、戸幅よりも狭かったはず。つまり障子紙は必ず石垣張りという張り方だったと思います。
ちなみに私が今住んでいる北陸では、加賀藩時代は障子紙として五箇山和紙が比較的広範囲に流通していたとのことで、五箇山で漉かれる和紙は8寸×1.2尺の規格だったと言います。
実際障子戸の横組子の間隔は二間で8寸弱という寸法をもつ物がよく見られました(この点まだ管見の域を出ないので断言はできないのですが)。
先生のお住まいの地域はどんな寸法がよく見られますでしょうか。
障子紙の話。
当地では、最近の大判の紙とともに、昔ながらの障子紙が2種類、売られています。
幅8寸と、もう少し幅の広いものです。
この二つとも、規格品なのだと思いますが、なぜ二つあるのか、今度、あらためて調べてみます。
もしかしたら、生産地の違いかも・・・。この辺では、山梨が多いようです。