閑話・・・・最高の不幸、最大の禍

2007-01-27 01:01:27 | 「学」「科学」「研究」のありかた
以下に掲げるのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの書き残した言葉である。原文は一つだが、和訳が二つある。

  「最高の不幸は理論が実作を追いこすときである」
  「意見が作品より先にすすむときこそ、最大の禍である」

おそらく原文を忠実に訳すと後者、意訳すると前者になるのではないか。

甲州に「信玄堤」と呼ばれる土木遺産が遺されている。武田信玄が差配したとされる河川工事の代名詞である。
多数の河川が流れ込んでつくられたのが甲府盆地だが、南アルプスの北麓から流れ来る釜無川(富士川の上流)は名前の通り、釜:淀みのない急流で、巨大な岩石が押し流され、堆積し、しばしば洪水を引き起こした。

そこで考えだされたのが、両岸から川の中央に向って、小石を詰めた「蛇籠(じゃかご)」を集めて棒状の簡易堤を枝のように多数突き出し、水はそれにあたって岩石もろとも川の中央を急流となって流下する、という構想。岩石は、下流の川幅の広くなった所に堆積するので、それを処理すればよい。

これは、断面と流速の関係についてのベルヌーイ(1700~1782)の定理を、彼以前に使った構想であった。もちろん、そんな定理を知る由もない。地域の人びとの釜無川の実状の観察から得た知見による構想である(そのような構想の指揮をとる者を、後の世では「地方巧者:ぢかたこうじゃ」と呼ぶ)。こどものころ疎開していた釜無川の近くの町・竜王で、「これが信玄堤だ」と教えてもらった記憶がある。

  註 地方巧者については、別途紹介。

「信玄堤」は、今でこそ歴史・文化遺産として認識されているが、つい最近まで、「最新の土木技術」に比べて劣るものと見なされ、全面が改修されようとした時期があった(土木学界は、建築学界よりいち早く近代以前の技術を見直す動きを始めている)。

このほかにも、近代的理論、近代的科学技術が確立する前、特に近世になされた驚嘆すべき仕事は、この日本の中でもたくさんある。先に紹介した「猿橋」や「愛本橋」(昨年10月14日記事参照)、城郭建築の石垣、そして各地の開拓や土木工事・・・。

   註 「木材だけでつくった長さ30mの橋」
 
しかし、こういった構築物や工事を今やるとなると、かならず、特に建築の世界では、横槍が入るのは必至である。いわく「現代科学で解析できていない」、「実験をやってデータを出せ」、「法令に適合するように直せ」等々。まことに「最高の不幸」「最大の禍」である。

なぜこうなってしまったのか。
私は、明治以降進められた「近代化」の必然的な結果であると考えている。
日本の「近代化」は、「一科一学」を身につけた「選ばれた指導者」が先導して人びとに「近代化」の道を歩ませる、つまり、人びとを「指導者」と「被指導者」とに二分することによって進められてきた。今なおそうだ。
そこでは、「指導者」の示す「理論」「指導・規制」は、人びとが生活現場で打ち出す構想・提案よりも優れたものと先験的に決められ、人びとの発想は捨て去ることが強要される。
建築の分野で言えば、近代化・西欧化を唯一・無二の目標と見なしたエリートたちが、長年の経験の積み重ねを基に現場の人びとが生み出した自国の建物づくりの技術について、まったく知ろうとしなかったことは別稿(12月29日記事参照)ですでに触れた。

   註 「語彙にみる日本の建物の歴史」

「指導者」:エリートの大半が士族出身者であったことも、この傾向に拍車をかけたのではないか。「士」が最高位、という考えは無意識のうちに継承されたように思える。これに対し、明治の経済界を卓抜した構想力で引張った渋沢栄一が農民の出身であるというのは、まことに象徴的である。

こういう「近代化」の普及の役割を担ったのが近代の「教育」であった。そこでは、ここに述べた「構図の安定化」を目的に据えた教育が行われた。教育もまた、国によって統制される。
 
そして、「机上の理論」の「現場」に対する先験的優位、「指導者」対「被指導者」の構図、「指導者」による人びとの闊達な発想の無視・抑圧、という指導者:エリートたちの思想・思考は、この「民主主義」と言われる時代に於いてなお、何も変っていない。似非民主主義がはびこっている(1月11日記事参照))。

   註 「閑話・・・・今は民主主義の世の中か」 

日本人、特に若い世代の「創造力」「構想力」の低さが問われ、「指示待ち人間化」が問題にされ、それは「教育」の責任であるかのように「識者」は言う。
しかし、本当の病根は、当の「識者」(専門家、学識経験者・・)の頭の構造:思想・思考法にあると言った方がよい。この、明治以降、エリートに深く巣くっている思想・思考法、「近代化の構図」が一掃されないかぎり、転換はかなり難しいのではないか、と思う。

昨今の一連の「構造計算偽装、改ざん」は、この構図が、まさにしっぺ返しを受けた事態と言えるだろう。「規定の計算がやってあればいいんでしょ・・」という《発想》の延長上のできごとにすぎない。
規定の計算を充たしていれば、本当に耐震なのか、誰も疑いもせず、いつのまにか、計算の結果が規定を充たせばOK=耐震、という構図ができあがり、リアリティとの関係を問わなくなってしまっている。
これを「最高の不幸」、「最大の禍」と言わずして他の何を言うか。

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