年の瀬 雑感-3: 数 値

2010-12-31 11:07:10 | 「学」「科学」「研究」のありかた
一昨日:29日の毎日新聞投書欄に、「安心する」投書が載っていました。

     

一票に対応する人口に差がある。それはたしか。しかし、その「差」を直ちに「格差」とみなしてしまう「そそっかしさ」。
それに対し、このように真っ当に考える方が居られる、
数の大小を比較し、それだけで「云々する」、あるいは、数の多さを「誇る」、世の中そういう人たちばかりでない、
それで安心したのです。
しかし、今の世の中で、こういうことを言うのは「勇気」がいります。

   註 この件については、私も何度か書いています(下記)。
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/59f3cef740afb422c7d0e467333dfd6b
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/f8ef77f2085412cf444490064b27f8f2

市場原理主義という言葉がありますが、それと併行するのが数値至上主義あるいは数値化至上主義、さらに言えば、計算至上主義。

世の中に存在するものには、数字で表わせない事象が多数あるにもかかわらず、
むしろ、数字で表わせない事象の方が多いにもかかわらず、
数値化できないものは見ぬ振りをして切捨て、数字で表わせるものだけ数値化し、
時には、数字で表わせないものまで無理に数値化し、
さらに、計算できると全てが分ったかのように思い込む。
しかもそれを、「おかしい」とは思わない。

最悪は、「イイカゲンな数値化で得た数値」を基に、「精密な計算・演算」をして、
あたかも「真実に厳密に迫った、かのように思い込む錯覚」。
そしてそれを「科学的」だと思ってしまう・・・。
そしてさらに、それを信じてしまう人が意外に多い・・・。
私は、これほど怖ろしいことはない、といつも思っています。
   註 これについては、下記でも触れました。
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/91f0346a0764677b82bba703899ed15d

そんな世の風潮の中での冒頭の「投書」、まことに清々しく感じられたのです。

  ******************************************************************************************

今年もあと僅か。
明日は今日の続きに過ぎないと思っても、やはり一つの区切り。
外は寒風。

今年一年、お読みいただき、ありがとうございました。

よい年をお迎えください。



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年の瀬 雑感-2: 自 然

2010-12-29 10:40:42 | その他


「野の仏」の近くで撮った写真。
もう少し近づくと、こんな様子。



畑の表面です。
大型の耕運機で耕したばかり、つい最近まで平坦だった。
何か作物をつくるための準備ではなく、雑草がはびこるのを避けるための耕運。

これは地割れではありません。先日の時ならぬ暴風雨の際、雨水がつくった水の道の姿。
埋まっていたマルチのビニールの残材が顔を出しています。
あちらこちらの畑でも同じ光景に会います。

この土は、典型的な関東ローム層。数十m掘っても、こんな土です。山砂として重宝する土質らしく、掘られた跡があちこちにあります。乾くと、もう少し黄色っぽくなります。黄土色。

畑の全貌が下の写真。奥の方が北になります。



手前は谷地田へ向って下っています。
じっくりと眺めていると、測量をしなくても、水の道の付き方から、その土地の性向:傾斜の実相:等高線のおおよその姿が見えてきます。

耕運機で土を均質にほぐし、ほぼ平坦に均しても、決して完全・絶対に均質になることや、平坦になることはありません。
それで当たり前。だから、こういうことが起きる。

見ていると、最初のうち土に浸み込んでいた雨水は、そのうち浸みこまなくなり、探していたかのように水は僅かな低地を見つけ、そこに水溜りをつくります。一帯の大きさに応じて、いくつもできます。

まわりから見て、そこが最も低い場合はそのまま水溜りが大きくなるだけですが、もっと低い所がまわりにあると、あるとき、水はそれが分っていたかのように、あたりの中で「弱い」場所を選んで、そちらへ向って流れだします。
水の道は、一帯の大きさにより、1本から数本になります。この畑は、著しい。
部分だけクローズアップすると、あたかも「大峡谷」のよう。

相対的に弱いところ弱いところへと、水は重力に素直に従って下ってゆき、できた溝は深く深くなってゆきます。
それはまるで、「地形の誕生の実験」をしているかのようです。
川はどういう所を流れるのか、平野はどのようにできるのか、なぜ川の河口が「湾」を形づくるのか・・・・も、よく分ります。
川のまわりの平野は、地盤が悪い。それは、川が運んだ堆積物のためだけではなく、元々、弱い地質・地盤のところなのです。だから川道ができた。
逆に言うと、強い地質・地盤のところは侵蝕に耐える。私の居る霞ヶ浦に飛び出している出島や房総半島もその一例。
房総半島の南端に暮す方が、茨城県沖や千葉県東北部、茨城県南部を震源とする地震でも、揺れを感じない、と語っています。逆に、遠方の地震で揺れるのだそうです。地盤が堅固らしい。

畑の侵蝕を防ぐ手立ては、地表が露わにならないこと。
ダムをつくってもだめです。土嚢を積んで防ごうとした畑もありましたが、うまくいっていません。「自然」はそれこそ人智を超える。
農業者は皆よく知っている。畑は道路よりも一段高くする。道路から水が流れこまない(後から道路が造成され、畑が一段低くなっているところもありますが、そういうところは苦労しています)。
ただ、土が道路に流れ出る。時折り、掬い上げる。それでも決して擁壁はつくらない。ダムになり畑が水溜りになるからです。

耕作物がよく育ち、あるいは雑草が繁っているときには、こういうことは滅多には起きません。
農閑期のこの季節、普通はこういうことは起きません。裸地でも問題がない。この季節にしては、雨の量が異常だったのです。
この季節、普段なら、強い風で乾燥した土が舞い上がる。この写真で奥に見える青い帯は、防風ネット。ソラマメ畑を風から護っています。ススキの穂が、この季節の風の向きを物語っています。

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年の瀬 雑感-1:イイカゲン

2010-12-26 15:18:40 | 「学」「科学」「研究」のありかた
[誤字訂正 18.05][解説追加 27日21.08]

        今年もあと僅か。
        シリーズものは、年末年始、休ませていただくことにします。

        

         この写真は、近くで見つけた野の仏。その表情の穏やかなこと。
         十九夜とは「十九夜講」、女性だけの講。これは如意輪観音とのこと。
                             [解説追加 27日21.08]
         享保18年?とあります。
         享保17年、大飢饉があったといいます。ただ、西日本が主とのこと。
         この地が、この飢饉と関係があったのかどうかは未詳です。

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「好い加減」というのは、本当は一番望ましい状態。
「イイカゲン」というのは、逆に最悪の状態。
なぜ、「音」では同じ文言が、正反対の意味に使われるのだろう。

先日、受講者の大半が建築に係わる若い方がたの講習会で、次のような試みをしてみました。
初めに、ある文を読んでもらいました。
その文は、次のようなもの。

   木造軸組工法の住宅が地震にあうと、柱、はり、すじかいで地震のカを受け持って、
   土台、アンカーボルト、基礎、地盤と力が伝わります。

     これは、何度も引用していますが、
     日本建築学会のHPの「市民のための耐震工学講座」にある文言の一部です。
     全文は下記に転載してあります。
       http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/05257b17a8877ce16db40233141e1805

読み終わった頃を見はからって、質問しました。
では、この「地震の力」はどこから来たのでしょう?

残念ながら、答えてくれた方がいませんでした。
恥かしいから手を挙げない、というのではなく、困惑している様子でした。

しかしこれは、若い方がたが、学習不足のせい、だからだけではないでしょう。
若い方へ接する指導的立場の方がたが「イイカゲン」なことを「教えて」きたからなのです。

   だからと言って、若い方がたが今のままでいい、と言っているのではありません。
   もっと理詰めに考えれば、考えるクセをもっていれば、
   この文言の「不条理」は指摘できる筈だからです。
   普段、何を「観て」いるのでしょうか。
   「自らの観察と認識」、この過程を経ないで、「出来上がりを(他から)頂こう」と思っているのでは・・・。
   たまたま見ていたTVで、若い人に、「(元気を)もらう」という言い方が流行っているけれども、
   それは、自分で(元気を出すべく)努めるのをやめ、
   「(元気を)外注すること」だ、と喝破された方がおられました!
   なんでも「外注」の世の中。
   5Wで考えずに、WhichでHowを「外注し」「選択する」・・・。

この「地震の力」の「来し方」について、ある建築構造設計の専門の方も、そのブログ(下記)で、その「間違い」について書かれていますので、一部転載します。
   http://kubo-design.at.webry.info/

この方は、このブログで、現在主流の「耐震理論」が、明治に「建築学者」が誕生して以来、どのように形成されてきたのか、その経緯・過程を文献で克明に調べて紹介しておられます。[誤字訂正 18.05]
それによりますと、その過程では、「本人の考えにとって好い加減」な解釈(つまり「恣意的」「イイカゲン」な解釈)がなされることも、ままあったようです。

以下の引用は、その2010年3月7日の記事の一部です。
  なお、最近書き込みが中断しています。健康でも害されたのか、と気になっています。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

・・・・
私の手元に日本建築学会から出された1冊の基準書があります。

 「木質構造設計規準・同解説 -許容応力度・許容耐力設計法-」

2002年に発行された第3版です。初版は1973年になりますが、今都合で手元にありません。

この基準書は“不動の構え”を前提にして作成されているため、それを頭において見なければなりません。

   引用者註 “不動の構え”:建物は「地面に固定しなければならない」という考え方

78ページ「2.構造計画および各部構造」201総則の解説文では、
「・・・地震力・風圧力などを総称した水平荷重に対して、・・・」或いは「鉛直荷重・水平荷重が作用することによって軸組・壁組等に生じる応力が無理なく地盤まで伝達されるようするためには、・・・」などと書かれています。

風は地上の現象です。建物周囲の気流の変化となります。従って、その風圧を建物が受け、地盤に伝えるとの力の流れは理解できます。風圧力は上からやって来ます。

しかし同様に地震も上からやって来るのでしょうか。
・・・・・
私が知っている現象は、地震は地面からやって来、それによって建物が振動します。

風圧力と地震力を同レベルで扱い、地震力を上から来るものするこの基準書及びそれを是とする多くの学者先生の考え方は間違っていると思います。

「応力解析のため、便法として地震力を上からやって来るものとして扱っている」と言う方もいるでしょう。実際、私もその考えで多くの構造物の設計計算をして来ました。
しかし、間違いは間違いです。
目的は、応力解析ではなく、構造物の安全を図ることですから。
便法を使うことにより、構造物を危険側にもっていくこともあり得ると考えています。見直さなくてはなりません。
・・・・・

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

建物には、外から、あたかも重力の如くに、あるいは空気が動く風のように、しかし重力とは異なり「地震のときだけ」、
出所不明の「地震の力」という水平力が、建物に襲いかかる、
そのように建築構造学者が考えている、
そしてそれが、斯界で最高とされ、法律の諸規定の根拠となる「基準」になってしまっている、ということです。

帰る際、EVで一緒になった受講者の一人が、「そんなこと言ったって、建築基準法の中で仕事をしなければならないんだから・・・・」と呟かれました。
つまり、あんたは、気楽に文句を言ってられるかもしれないが、私(たち)は、そんなわけにはゆかないんだ、ということなのかもしれません。

若い方がたは、この状況を、「よし」としているのでしょうか。「好い加減だ」と思っているのでしょうか。
しかし、そうだったならば、講習会には来ない筈・・・・?。


なお、この「地震の力」については、講習会では次のように要約、説明させていただきました。

1.地震の際、建物には、2つの動きが生じる
  ① 地面・地盤の揺れに追随した動き
  ② 地面・地盤の揺れにより建物に生じる慣性による動き
     注 慣性の動きは、地面・地盤の動きの逆向きに生じる
        慣性(の大きさ)は、物体:建物の重量と重心の位置が係わる

したがって、

2.建物が地震により受ける影響は、建物の地面・地盤への接し方により異なる 
  ア)掘立柱、組積造、RC造など地面・地盤に固定している場合(英語では earthfast と言うらしい)       
    建物には、上記の①②の双方の動きが生じ、しかもその向きは逆
    (たとえば、足元は前に、上部は後にもって行かれる:バスが急発進したとき、立っている人に起きる現象、
    それゆえ、背の高い大人ほど、影響が大きい)  
  イ)地面・地盤の上に置かれただけの場合
    上記①の動きは、地面・地盤と建物間の摩擦の大きさ次第で決まる
    それゆえ、①の動きは、ア)の場合よりも小さく、②による動きが主になる
    たとえば、地面が勝手に動くだけの場合もある
     
 注1 木造建築では、洋の東西を問わず、掘立て方式を脱した後は、地面・地盤の上に置く方法が一般的である
 注2 地震国日本でも、礎石立て形式になって、有史以来1000年以上にわたり(奈良時代以降1300年)、
     地面・地盤の上に置くだけであった(緊結の《一般化》は、建築基準法施行:1950年以後僅か60年)
     ただし、奈良時代初期には掘立ても併用
 注3 高層建物やRC造などで「免震」が言われるのは、地震により建物に起きる現象が理解されているから

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建物をつくるとはどういうことか-11・・・・建物をつくる「作法」:その1

2010-12-23 21:41:54 | 建物をつくるとは、どういうことか
[図版更改 24日 7.53][解説追加 24日 7.53][註追加 24日 10.14][誤字訂正 25日 14.50]



上の航空写真、
左は、長野県の旧城下町松代。ほぼ中央にある空地の北側が、いつか紹介した「横田家」。
ここは武家の屋敷があった一帯。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/dac1f08f6f94048c9a901238889f7d9e参照
右は、最近の比較的敷地が大きい分譲住宅地。1戸当たり平均約250㎡。
ほぼ同じ高さからの撮影(若干、右が低い高度から)。

そして下は、左が松代の通りの風景(航空写真とは別の場所)、右は上の住宅地の東側の通りの風景。

明らかに、この両者は、上から見ても地上で見ても、違いがあります。
この違いに(違いが生じることに)、重要な意味がある、と私は思っています。



  ******************************************************************************************

先回の記事は、10000字制限を越えてしまい、お終いのあたりで、かなり端折らざるを得なくなり、紹介するはずだった、ある方のブログの「失われた『作法』」を問う記事を載せることができませんでした(「伝統的建造物群保存地区」に指定された町で建築設計事務所を自営されている方のブログ。紹介の了承は得ています)。

そこで、今回あらためて要約、抜粋して紹介させていただくとともに、その話題をきっかけに、このシリーズの「本題」に近づきたいと思います。
   なお、地名や建物名などの固有名詞は、変えたり消したりしてあります。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

・・・・・
私の住む「伝統的建造物群保存地区」の裏手に建設中のある公共施設の建物を見つめながら想うこと。
それは、この地域に、何故このような造形の建物なのかな?ということ。
・・・・・
遠くから見ると、結構目立つのです。
まだ建設途中ですので、どんな感じの建物になるかはよくわかりませんが、素朴にその「形」の意味を問いたくなります。
・・・・・ 
私は決して「伝統的建造物群保存地区」だからといって「伝統的な造形」を期待しているのではありません。
公共施設は住宅に比べ規模も大きく目立ちます。
だからこそ、地域においてはシンボリックな建物になります。
「伝統的建造物群保存地区」周辺には「景観形成協定」に従う区域が定められています。
この公共施設の建設地は協定区域外ですから、協定は関係がないということなのかもしれませんが、
そこは、設計者の良心といいますか、造形に関しては・・・設計者に委ねられている領域であるが故に、
もう少しだけ配慮があっても良いのでは?と思ったのです。
・・・・・

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

これは、この方が住む町内に建つ新築中の建物への感想です。
現在の《建築の世界》では、同業者は、他の方が係わる仕事に、だんまりを決め込むもの、まして同じ町内ならなおさらです。
それを、堂々と発言されたことに、私は敬意を表したいと思うのです。
そうであって初めて世の中はよくなる筈、そう私は思うからです。
しかし、今は、「意見を言うこと」「批評すること」を「非難すること」と勘違いして、誰も意見を言おうとしないし、人の意見を聞こうともしない・・・。

そしてまた、「伝統的建造物群保存地区」に暮しながら設計を業とされているこの方が、「伝統的な造形」を期待しているのではない旨語っていることも、私は共感を感じます。
「伝統的建造物」と「同じような形の建物をつくる」ことが「よいこと」であって、「同じ形をつくらないと保存地区がダメになる」というのが普通の考えだからです。
何度もいろいろなところで書いてきましたが(下記など)、問題は「形」ではない、そのような「形」に至った「考え方」が大事なのだ、そのように私は思っています。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/5dbdeed98070cf36ba0536d48231dc94 
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/448089f04f15d7c77597d27b15d7625b [註追加 24日 10.14]

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記事には、工事中の遠景と、模型を俯瞰した写真も載っていました。
模型は敷地全体がつくられ、樹木等も配されています。
遠景の写真を見ると、たしかに周辺の風景に馴染まず、「浮いて」見える。

私は次のようなことを推測で読み取りました。
多分、この建物の設計は、「敷地図の上」でのみ、考えられたのだろう、
その「形」もまた、その平面の上で、平面を上から見ながら考えたのだろう、と(模型も使ったかもしれませんが、それも上から見ていたに違いない)。

現在、役所に提出する設計図書(「づ・しょ」と読む)には、敷地の範囲を示す「敷地図」とともに、その敷地がどこにあるかを示すための「案内図」を付すことが要求されます。
だから、設計者は、敷地周辺の地図を求める。多くの場合は、市町村が発行する「都市計画図」。この地図は、基本的には「地形図」です。つまり地形・地勢と地物が書き込まれている。
しかし、昨今、この地図はもっぱら「案内図」のために使われるのが普通のようです。地形・地勢などは余計なもの。


ここで、紙上で一つの「実験」をしてみたいと思います。

ある計画のための「敷地」があるとします。
その敷地には、一辺に接して道があるとしましょう。敷地には、その接線上のどこからでも取り付くことができるわけです。

初めて敷地を見に行くとき、その道を歩いて、あるいは車で近づきます。
車の場合でも、どこかに道を置いて、歩いて敷地に近づくでしょう。
場合によると、車を敷地の中に置くことがあるかもしれませんが、たいてい敷地の外に出て、道を歩いてみる。
多分、道を右から歩いたり左から歩いてみる筈です。そして、特に、普段その敷地に近づく方を重点的に歩いてみる筈です(そうするのが当たり前だと私は思いますが、そうしない人もいるかもしれませんし、あるいは敷地も見ない《達人》もいるかも知れません・・・)。

そのとき人は、敷地に接する道の「ある所」で立ち止まって敷地の方を見るものです。
ところが、この「立ち止まる『ある所』」は、人によらず、ほぼ同じ辺りなのです。
ただ、この「事実」に気付いている人は意外と少ないかもしれません。
ほんとかな?と思われる方は、どこか初めての場所で験してみてください。

これは何を意味しているか。

敷地内はもとより、敷地の四周には、かならず、いろいろな地物、あるいは、いろいろな建物が「既に」あります(当然、道を挟んだ向い側にある地物・建物も含みます)。

そのような敷地の前に立ったとき、人は誰もが、「敷地(測量)図」に示されている「単なる平面的広がり」を見ているのではなく、これらの地物・建物などによって「その敷地に生まれている空間」を「見ている」のです。
とりわけ、四周の既存の地物・建物がそれに大きな影響を与えていることに、特に注意したいと思います。
そしてそれは、「見ている」と言うより、「感じている」と言った方が適切でしょう。
なぜなら、そのとき人は、物理的な意味での三次元の「空間」の形を見ているのではないからです。
人は、敷地のそこここに、ここはイヤだな、暗いな、とか、気持ちがいいな、気分が高まるな・・・という「場所」を感じている、見て取っている筈なのです。
しかもそれは、人が「無意識のうちに」、しかも「咄嗟に」やってしまっている「作業」なのです。

これも、ほんとかな?と思われる方は、どこかで験してみてください。

   この「咄嗟の」判断は、子供たちにもあります。と言うより、子供たちの方が敏感かもしれません。
   かなり昔のことですが、ある方の設計した住宅団地内に建つ幼稚園を、その方の案内で見に行きました。
   幼稚園には、保育室に接してベランダがつくられていました。
   それは北向きで、その前方には北に向って緩い傾斜地が広がっています。
   なんでこの位置にベランダ?と私は思いました。誰も出ていません。物置きになっている様子。
   そのとき、設計者の方は、折角つくったのに使ってない!もったいない、と呟いたのです。
   えっ?と私は思ったことを覚えています。
   もう半世紀前、学生だった頃のことです。

   その頃のもう一つの先輩に連れられての「印象的」な「見学」。
   対象は、当時盛んにつくられていた公団住宅。
   そこで2つのバルコニーを見ました。
   1つは、バルコニー全体が建物から外に飛び出しているタイプ。
   もう1つは、建物に引っ込んでつくられ、側壁が1面ないしは2面、壁になっているタイプ。
   私が引っ込んでいる方( reccessed balcony と言う)が気分がよさそう、と言ったところ、
   バルコニーはバルコニーで、役目は同じだ、との先輩の言・・・。 

   こういういくつもの「些細な経験」が、私の「学習意欲」を高めてくれたことは否定はしません。
   建物づくりで、新たな「モノ」をつくるって、どういうことなのか?


「敷地に接する道のある所で立ち止まって敷地の方を見る」、その「ある所」は、この「無意識で咄嗟の作業」の「然らしめる結果」に他ならないのです。
ただ、これは一度の「体験」ではなく、日をあらためて行なうと、滅多にはありませんが、「ある所」が変る場合もあります。しかし、普通は同じ所に立ち止まるものです。

もちろん、このとき、「道を歩いてきた、そして敷地の辺りにきた」という過程も大事です。
私たちの日常的に体験している空間は、「常に連続していて途切れることはない」のが普通です(車や鉄道に乗る場合は、「途中」がなくなります。それを「途中の喪失」と唐木順三氏は呼んだ)。

   《都市デザイン》の用語に sequence というのがあります。本来はこのことを指しています。[誤字訂正 25日 14.50]
   これは「重層的に醸成された町・街」の少ないアメリカの研究者が、
   西欧のいわゆる『伝統的』町並の「素晴らしさ」を「研究した」結果見出した「概念」なのですが、
   残念ながら日本では、単なる「視覚の変化の演出」と見なされてしまっています。
   これについては、以前、清水寺の参詣道の話で書きました。
    http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/262176cccda7b41acd735a3d8f2732ac

この「ある所」、これは、「その敷地に取り付くには一番適した位置」といってよい筈です。なぜなら、そこで、自然に、無理なく、足が止まるのだからです。

この「感覚」は、かつて、ある土地に定住する人びとが働かせた「感覚」と同じものといってよいでしょう。住まう場所を選ぶときの「十分条件」を嗅ぎとる「感覚」、いわば「動物的」な「感覚・感性」。昔使われた言葉で言えば、「本能」。

もちろん、現代人は、かつての農耕者たちのように、農耕に適した土地を探すという切迫した状況にはないのですが、しかし、「住むによい」場所を選ぶという「感覚」は、未だにある筈なのです。

これも、ほんとかな?と思われる方は、日常の行動を振り返ってみてください。

たとえば、親しい人と昼食をとるために食堂・レストランに入る。運よく、空いていた。
そのとき、空いてりゃどこにでも座ってしまいますか?
どこにでも座ってしまうのは、急いでいるとき(あるいは、連れの人数が多すぎて、どうしようもないようなとき)。
普通は、咄嗟に見渡して、空いている席の中で、ここだ、という席を選ぶ筈です(もう少し詳しく言えば、そのときの「気分」:「楽しい話」をするのか、「深刻な話」をするのか:が強く影響しますが・・・)。
この「選ぶ」時の「感覚」、これが「十分条件を嗅ぎとる感覚」なのです。


ある敷地に建てる建物の設計は、「その敷地に取り付くには一番適した位置」を「見つけること」から始まる、と私は考えています。

たとえば、先々回の農業者の集落、その場所の地形図から、そこに定住を決めた人たちが見たであろう当初の地形を推定復元してみました。下図です。



この図の網を掛けた一帯は、多分湿地帯。川がどこを流れていたか、まだ明治の地図を見ていないので不明です。
現在はかなり地形に人工の手が加わっているようですので、じっと眺めて、こうだっただろう、と推定したのがこの図の等高線です。5mおきに簡略化してあります。
定住地を探し歩いていた人たちは、この場所を見つけて、いったい、どのあたりで立ち止まったでしょうか。

そして、何百年後かの現在の一帯の地図が下図。これは以前に載せたものと同じ(下記)。[図版更改 24日 7.53]
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/bf4d7fd4ed032ca0d9e5135552610c60



本当は現地で考えてみるのがよいのですが、この場所のように、耕地整理や新設道路が設けられていると、当初の様子は分らなくなっています。
そこで、推定復元地形図上で、当初の姿を想像してみるのです。
図のオレンジの線で囲ったところは、地形を加工した場所。ここでは、切り土して前面に盛り土しています。ただ、盛り土部には母屋は建てない。
左から三つ目の囲いのところは、道路新設にともなう切り通しの箇所。
黄色に塗った箇所は、往時の田んぼの縁が残存しているところ。[解説追加 24日 7.53]

   私の「楽しみ」に、いろいろな所を訪れたとき、特に山村・農村では、
   最初にこの地のどこに住み着いたか、どこから人が住み着きだしたか、想像する「楽しみ」があります。
   その集落で一番いいな、と思える場所に屋敷を構えているのが、その集落の村役である場合が多い。
   そして、その辺りから住み着きだした、と考えると、大体の場合、納得がゆく。


建築の設計とは、建「物」をつくることではなく、「空間をつくることだ」、ということは以前に書いたと思います。それは、もちろん、建物に内包される空間のことではありません。
すなわち、「その敷地に存在していた空間とは異なる空間をつくってしまう」ことです。
別の言い方をすれば、「既に存在していた空間を『改変する』こと」です。
さらに言い方を変えれば、「既存の空間を『破壊する』こと」でもあります。

それゆえ、その敷地に新たに建物をつくるときには、「そのような改変・破壊をしても構わないかどうか」「問題は生じないかどうか」ということについて考えなければならない、と私は考えるのです。

なぜなら、「改変・破壊を気まま勝手にしていい」という「権限・保証」を、私は誰からももらっているわけではない筈だからです。
それとも、敷地の持ち主、すなわち建物の建て主は、私に、その「権限」を与えてくれているのでしょうか。
仮にそうだとして、敷地の持ち主、すなわち建物の建て主は、そこを気まま勝手にしていい、という「権限・保証」を、持っているのでしょうか。誰からもらったのでしょうか?
その土地:敷地は、自分が自分の金で購入したのだ、だから私の「自由である」ということなのでしょうか。土地代で、「気ままに振舞う権限」を手に入れたのでしょうか?
もしそうだとするならば、ローンで買った場合、完済しない限り自分のものではない、その間は「自由にはならない」ことになりますが、そのときは、貸主に権限があるのか?

実は、ここが大きな「分かれ道」。

かつて、人は、自分の土地だからと言って、私有権の優先、主張を唱えなかった。「かつて」とは、つい最近、今からほぼ半世紀前、1950年代までのこと。
その後、人びとの感覚が変ってしまい、現在に至っている・・・。これについては、先回触れました。

今では、建築の設計に係わる人の中で、「ある土地に建物をつくる」ことは、「そこに既に存在していた空間を改変・破壊することだ」と考える人はきわめて少なくなってしまったようです。
それでいて、「建築家」も「建築評論家」も、環境、調和・・・を語る。これは、まさに「矛盾」の論理以外の何ものでもない。

皆、「まわりを見ずに、敷地の中だけで」ものごとを考えている。
「敷地という板」の上で粘土細工でもするように、好みの造形をする。それはたしかに「楽だ」。見えているのは板だけなのだから。
しかし、「粘土細工の載った板」なら、「押入れに仕舞う」ことはできる。
しかし、敷地というのは、それはできない。そのことを忘れている。

今回の初めに引用させていただいたブログの記事は、このことを問うているのだ、と私は思います。

   最近の「建築家」の中に、自分の「思い入れ」を建物という形にする方が居られます。
   なかには「環境造形」などと言う方がたもいます。
   その場合、「環境」とは、彼らがその「思い入れ」を描くキャンバスに過ぎないのです。
   それが、その方のものであるならば(つまり、自分が全費用をまかなっているならば)、
   まだいいでしょう(もちろん、傍にとっては迷惑ですが、そんなことは気付かない)。
   しかし、誰かが、特に公共的団体などがまかなうのでしたら、それは論外だ、と私は思います。
   けれども、そう思うのは「異端」らしい。「建築評論家」は、皆そういうのを称賛しています。
   そして「悪いことに」、偉い人がそう言うのだからとして、一般の人もそれを追いかけ、もてはやす・・・。


またまた大分長くなってしまいました。
敷地にやっとたどり着いたところで、この続きについては、次回に考えることにします。

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“CONSERVATION of TIMBER BUILDINGS” :イギリスの古建築-2

2010-12-21 13:19:29 | 建物づくり一般
[図版更改 15.20][文言追加 15.31][文言追加 15.38]

Rafter roof :垂木構造の続きです。

先回、中世西欧の木造建物では、斜材:brace を交叉させたり、補助的な部材を付加する場合に、 lap-joint 、half lap-joint が多用さている、と紹介しました。
これは、ヨーロッパ大陸からイギリス、デンマーク、ノルウェイなど北欧地域の bahn や教会の建物に多く使われているようです。

イギリス中部の町 Hereford:ヘリフォードに、19世紀末に改造された「交叉する brace 」で構築した鐘楼(鐘塔)があり、その復元想定図が下の図です。19世紀末には、点線のように脇から支えられていましたが、half lap-joint の痕跡から想定復元された姿です。
この点線で描かれた鐘塔の外に付く部分、これが aisle の効能の一つ。最初は、ツッカエ棒のようなものだったのかもしれません。



この鐘塔の姿を鉄骨に変えると、高圧線鉄塔に似てきます。
産業革命後、イギリスでは、橋をはじめ鉄を使った構築物がつくられますが(下記)、そのヒントは木造の構築物にあったと言われています。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/550bf074ff8bf3e9caa4befca172e345

日本の火の見櫓などでは、「斜材」使用がないのはなぜだったのでしょう。このような使い方なら、「部分的に入れる筋かい」が惹き起こす問題は生じない。ことによると、材料となる木材の樹種の違いか?

lap-joint の図解が下図です。[図版更改 15.20]



lap-joint というのは、2材がぶつかり合う箇所で、互いを欠いて接続させる日本でいう「相欠き」に相当するのではないかと思います。

図の a と b の場合、「斜材」の「柱」に当たる部分に「欠き込み」(赤い枠のところ)がある。
多分、はじめの頃は設けずに、ただ「斜材」を柱に当てて「栓」を打つだけだったのだと思います。そのうちに、「欠き込み」を設けると、「斜材」が引張られたとき、その「欠き込み」が引っ掛かって「栓」と共同して、より強くなる、それで設けるようになったのだと考えられます。
c は、逆に、押されたときに効く「欠き込み」(赤い枠のところ)と思われます。だから、引張られることに対しては、「栓」を2本打つことで対応しています。

このとき、「栓」を打つ位置が、直ではなく:「木理」上にはなく:斜めにずらしていることに注目したいと思います。
こういう仕事は、現場でなければ生まれません。13世紀の仕事だそうでうす。  
   日本の現在の木造建築で推奨される「ホールダウン金物」の取付けボルトは、
   平然と「木理」に沿って直線上に並べています。
   10cm径の柱に13Φのボルトを数多く並べるとなるとやむを得ないかもしれないが、所詮割烈の奨め・・・。
   それを承知で奨める・・・。これはどういうこと?  

d は、「欠き込み」を表に見せない方法。仕上りでは「欠き込み」が見えず、材は直のまま。これは、仕口など刻みの仕事が徐々に見栄えのよいやりかたに変ってゆく過程を物語っています。
notch とは、V字型の「切り込み(欠き込み)」のことを言う、と辞書にあります。

英語の joint は、一語で、日本の「継手」「仕口」の両方を指しているようです。

なお、探してみてはいますが、材を「持ち出した位置」つまり、支点~支点の中間で継ぐという事例が見当たりません。
これは、近世までの日本の建物づくりと同じで、材を中途で継ぐという発想は、かつての工人:現場の人たちにはなかったのでしょう。
考えてみれば納得がゆくように思います。材を継ぎたくなったら、そこには支点になるものを置く、これが素直な考え方だと思えるからです。

   斜材の先端:柱に lap する端部に「刳り形」がつくられているのは、
   先端が「ぶっきらぼう」なのを嫌ったからだと思います。
   日本で「木鼻(端)」を細工したくなった感覚と同じだと思います。[文言追加 15.31]


このような brace を多用するつくりかたで、earthfast posts による Fyfield Hall という建物(多分教会堂だと思います)が、ここ数百年健在だったことが発見されたとあります(具体的には図などが示されていません)。
earthfast とは、「地面に固定した」という意味にとれますから earthfast posts というのは「掘立柱」のことではないかと思います。
このように「斜材:brace 」をとにかくたくさん入れるつくり方は、下図の Hereford:ヘリフォードにある The Bishop's Palace の大ホールのようなつくりかたが生まれる過渡期の工法だったと考えられる、と同書は説明しています。
「斜材:brace 」の入れ方を、いわば「整理する」「要るものだけにする」までの過渡期、という意味だろうと思います。[文言追加 15.38]
The Bishop's Palace とは、Hereford 地区を統轄する司教の官邸?
いつの建設かは書いてありません。
下図は、そのThe Bishop's Palace の大ホールの断面図。



brace を多用する建物をつくっているうちに、力の流れに、より無駄なく対応できる方策に気がついた、その一つの到着点の姿と言えるのでしょう。

私がこの断面図を見て「なるほど!」と思うのは、下屋:aisle の Rafter:「垂木」(オレンジ色)の勾配・角度が、上屋の上部に設けられた「方杖」(黄色)の勾配・角度と同じで、しかも同一直線上にあることです(原図には色は付いていません)。

これによって、Rafter:「垂木」は、単に屋根の重さを支えるのではなく、建物全体の架構を構成する重要な部材として働くことになっているのです。
つまり、brace :「斜材」の役割を、Rafter:「垂木」にも担わせた、ということです。

もしも、下屋の「垂木」が、この図の位置よりも下になっているとすると、つまり、「方杖」の取付いている位置よりも下で「柱」に取付くと、屋根に載っている荷物の重さで、「柱」には上の方では外側に、下の方には内側へ押す力が生じてしまいます。「柱」には、垂直方向の力の他に、横に押す力が、しかも上下で逆方向の力がかかってしまう、その結果、ことによると「柱」が折れてしまうことも起きかねない。
逆に、位置が上になっても、ほぼ同じようなことが起きるでしょう。

おそらく、そういう経験を繰り返しているうちに、直線上に置くことの効能を知り、
しかもその直線は45度に近い角度がよいことにも気付いたものと思われます。
つまり、この「勾配」「角度」もダテではない、ということ。
   ダテ(だて・伊達):内容を充実させることには意を用いず、外見(だけ)を飾る様子。(「新明解国語辞典」)


ところで、Rafter roof :「垂木」構造に力がかかったとき、基本であるA型のフレームを構成する各材に、変形を起こそうとする力がかかります。
この様子を図解したのが下図です。



一番問題が起きやすいのは、合掌の頂部。
ところが、フランス以外の地域では、不思議なことに、このことを考慮した仕口はないのだそうです。つまり、合掌の頂部が離れてしまう事故を起こしやすい。
そのフランスで見られる仕口、解説では ridge joint 確実な接合となっているのが、下図のような方法。



これは、以前に紹介したことのある奈良時代建立の「法隆寺東院・伝法堂」の方法と同じです。参考のために、「伝法堂」の場合の写真と分解図を載せます。

        

異なるのは、フランスの場合、「枘」に相当する部分が dovertailed tenon になっていること。 dovertailed tenon とは、ハトの尾のような形、つまり、先が広がるバチ型の「枘」、辞書には「ありほぞ」とあります。 tenon が「枘」。
「伝法堂」では、ここまでの細工はしてありません。

要するに、これも、「現場で考えることは、洋の東西を問わず同じ」ということを示しているわけです。
建物をつくるに当たって、工人たちは、同じような問題に直面し、同じような解答を見つけ出すのです。これはまったく地域によらないことなのです。
私たちに必要なのは、「机上」で考えるのではなく、常に工人たちの立場に立つ、すなわち
「現場」の発想を大事にすること。それが、構築技術を考える際の「要(かなめ)」だと私は思っています。

今回の最後は、先に出てきたイギリスの Hereford:ヘリフォードの辺りの地図。
ロンドンの北西、バーミンガムの南西、オレンジ色の○で囲んであります。



次回からは、Purlin roofs 「母屋(桁)」方式の屋根を持つ建物について。
いろいろな継手、仕口が使われています。
コメント (6)
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建物をつくるとはどういうことか-10・・・・失われてしまった「作法」

2010-12-17 18:38:12 | 建物をつくるとは、どういうことか
[註記追加 18日 8.00][文言追加 18日 8.19][文言改訂・追加 18日 10.32][文言改訂 18日 19.07、20日 7.16][誤字訂正 1月5日 14.48]

先回、農業者集落、商業者集落・・など、その原初的な「集落」の諸相について見てきました。
人びとが、それぞれの暮らしに応じて「適地」を選んで「定住」し、それぞれの仕事・業種を越えて交流する、その拠点が「集落」であった、と言えるでしょう。[文言改訂 18日 19.07]
そして、この場合の「人びと」は、「任意に集まった人びと」ではなく、「その場所で暮すことに意義を認めている人びと」の筈だ、とも書きました。「意義」は「必要」と置き換えた方が分りやすいかも知れません。

通常、「村」「町」・・も、「聚落」「集落」の概念に含まれる、とされてきましたが、現在の都会の「町」をもこの概念に位置付けるのには躊躇いがある、とも書きました。
「互いに無関係だ」と思い(思い込み)、「たまたま集まったにすぎない」と思っている人びとが暮している一帯を、「聚落」「集落」概念に含めることができるのか、含めていいのか、ということです。

なぜなら、「今風な町の姿」を見慣れてしまうと、それが「本来の町の姿」だという「思い込み」が生じてもおかしくないからです。
さらに、一番気になるのは、建築の設計や都市の計画に係わる方がたが、そのあたりを十分に認識・理解しているように「思えない」からなのです。それでいて「町」の話をしている・・・。

   世の中に「筋かい」を入れる木造建物が増えた結果、
   それが、木造建築の唯一・絶対の姿であるかの「思い込み」が《常識》になった。
   「町」についても、同じ現象が起きているのではないでしょうか。
   
下の航空写真は google earth の筑波研究学園都市の開発地区と非開発地の接点部分を撮ったもの。
撮影は比較的最近、2007年4月。筑波新線(通称TX)開通の2年後。写真に付いている経度・緯度は消しました。   



写真のAと記した場所は、この一帯に点在していたかつての農村集落の姿をとどめている既存の集落の一部。

   学園都市の開発地域で、消失した集落はありません。
   学園都市の開発地域内は、飲み水:井戸に恵まれず、集落は生まれなかった。
   第二次大戦後、入植が試みられましたが、撤退しています。
   開発地域は主に山林や畑地。水田も変りはありません。ただ、田の水質は悪くなった・・。

Bは、開発によってつくられた公務員宿舎群。緑色の屋根は(緑色は、陸屋根のシート防水の色)、大半が二階建ての連続住戸。
Cは、元は樹林や畑地だったところで、かなり初期に、開発地の隣接地につくられた新興住宅。と言ってもほとんどが二階建ての小世帯向けの共同住宅。
そしてD。ここは、元はBの続きの公務員宿舎があった場所。[誤字訂正 1月5日 14.48]
筑波新線開業にともない、居住者が減ったため取り壊され、跡地を民間に転売。そこに新たに建った二階建ての分譲戸建て住宅。一戸あたりの敷地はおよそ150㎡。
《筑波新線効果》で地価が上がったので、このくらいにしないと採算が合わなかったからだそうです。

   筑波新線の開業以来、筑波研究学園都市の当初の「ベッドタウンにはしない」という「理念」は破綻しました。
   沿線は、日本の「常識的、現代的」開発がされ、駅前には東京と間違いそうな高層集合住宅の群れ。
   研究学園都市の研究機関に勤める方がたにも、この「都市」に住まない人が増えた。
   そこで、多くの宿舎群が民間に売却されたのです。 


そこで、A、B、そしてDについて、その地への「定着のしかた」を比較してみたいと思います。

Aは、先回触れた一般的な農村集落と構え方は同じです。そのクローズアップが下の写真。



全景の写真で分るように、ここは、西北から東南に流れる霞ヶ浦にそそぐ小河川のつくった低地へ下る緩やかな東~南向き斜面。低地は水田(この写真は圃場整備後の姿。かつては、小川が蛇行していた)。
樹林のあるあたりが台地の最高所。
緩斜面のやや高い位置にある「屋敷」は高所の樹林を背に、東~南に向いて、
川に近い場所では北~東に樹林を残し、やはり東~南に向いて構えているのが分ります。
これは、台地上を吹き抜ける北西風や、川沿いに吹いて来る風を避けるためと考えられます。
樹林はいずれも現在は人工林ですが、当初は台地一面が原生の樹林:混交林だったでしょう。
そういったところに屋敷を構え、そのまわりの台地の樹林を切り開き畑地とし、河川沿いの田んぼで耕作を営んだのです(この地域では、近くても耕作向きではないところが多くあった)。そして、江戸時代初期には、村の形が定まっていたようです。

   先回紹介した集落の墓地には、元禄の年号の入った墓誌がありました。
   ここは、それよりも新しいようです。

   ここまで集落の紹介はしましたが、農耕の内容を触れていませんでしたので、あらためて紹介します。

   細谷益見という方が著された「茨城県町村沿革史」という書が出版されています。
   自身の資料として編纂したものが明治30年に篤志家の手で刊行されていて、
   昭和51年(1976年)に地元の出版社:崙(ろん)書房が復刻(影印版:写真による復刻でしょう)。

   それによると、この地域の物産は、米・麦を主、その他大豆、茶、藍、綿、繭(養蚕)、煙草などとあり、
   各集落で産品は異なり、自家の用を越えた分は、外へ出荷していました。
   それを扱ったのが、先回触れた交通の要衝に定着した近在の商業者たち。

    註 この地域の鉄道について
       水戸線 小山~水戸 1889年(明治22年)全通
       常磐線 田端~友部 1896年(明治29年)全通
       したがって、明治30年には、地域の南北に鉄道があった。
       しかし、一般の利用は当時は少なかったと思われる。
       この書の記述内容は、江戸末~明治初期の状況だろう。[註記追加 18日 8.00]

   現在でも、ところどころに茶畑も残り(もっぱら自家用のようです、今が花時)、
   放置された桑畑(これが桑?と目を疑うような大きさにまで成長しています)、
   煙草の乾燥小屋も残存しています。
   どの集落の近在にも、自家用の薪炭のための山林がありました。その姿が「雑木林」。
   薪炭を特産としていた地区もあります(水運で江戸へ送っていた)。
   薪炭が不要な時代になり、薪炭林は元の混交林に戻りつつあります。
   今「里山」という新語で呼ばれているのが、主にこの薪炭林。
   地域の暮しがつくりだした人工風景で、「自然」の風景ではありません。
   薪炭の需要が減り樹林は「元の姿」に戻りつつあります。「荒れた」のではない。

屋敷の大きさは、小さくても一戸当たり1500㎡はあると思われます。Dの戸建て住戸の10倍以上はあります。

先回の農家の屋敷の解説では触れませんでしたが、
「屋敷」には、「母屋(おもや)」、「離れ(隠居)」、「までや」(この地の呼び方で納屋:までる=片づける)、そして各種の小屋(木小屋、農具小屋、資材小屋・・・)が構えられます。
「母屋(おもや)」と「離れ(隠居)」は平屋建て。
一般に「隠居」は「母屋」の半分より小さく、八畳二間程度に便所が付く。
「母屋」に当主一家、「隠居」に先代の当主夫妻が暮す。
このパターンを代々繰り返す。「屋敷」は「二世代住居」になっているわけです。

「までや」は二階建てが普通で、前面に吹き放しの1間~1間幅の「下屋」が付くつくり。
「下屋」は一方~二方に付く典型的な「上屋・下屋」形式。「上屋」部分が土蔵造になっている場合もあります。
「までや」には、比較的「重要な」ものを納めていたようです。
しかし最近では、その2階部分を、母屋の子どもが自分たちの部屋にしたり、子ども夫婦の住居にする例も増えています(そうなると三世代居住です)。
1階は、たいてい農作業をしたり、農機具が置かれていたりします。

どの「母屋」でも、その正面に玄関があります。南向きの家なら南に、東向きの家なら東に付きます。
これは、かつての大半の武家の住宅と同じ。道が北側にある場合でも、わざわざ南に回り込んで玄関があるのが普通のようです(以前に紹介した裏側:北面に玄関のある長野・松代の武家住宅「横田家」は、異例かもしれません)。
   私の住まいは、そういう集落の中で、北側が玄関。珍しがられたようです。

では、Bでは住戸はどのように構えられているのでしょうか。下がそのクローズアップ。



部分の写真では分りにくいですが、全景の写真で、緑色の屋根の一帯の中央を、左下(南西)から右上(北西)に走る樹林の帯があります。これは、歩行者専用の道です。
この左下にさらにしばらく行くと、バス停とショッピングセンター。そこから伸びてきて、その全長は約1kmほど。
   
各住戸の玄関へは、この歩道から通じます。
先の斜めの歩道に直交して櫛の歯型にやや細めの樹林の帯が見えますが、それが各戸の玄関に至る歩行者用の道です。

この地域では車は不可欠。公共交通機関:バスを使うと、時間がかかる。
車ではどうやって各戸に近づくか。
この緑色の屋根の住宅地を囲んで舗装道路があります。それに直交して、先の細めの樹林の帯と交互に平行している樹林の少ない細い道が見えます。これが各戸への車の専用道。

つまり、歩く場合と車を使う場合では、住まいの出入りが原則別ルートなのです。

これは、筑波研究学園都市の開発計画の《理念》の一つ、《歩車分離原則》に則ったもの。

   この《歩車分離原則》は、大半の公共的施設にも「適用」されているため、多くの混乱を来しました。
   多分、今も後遺症があるのではないでしょうか。
   建物には、必ず歩・車それぞれ専用の出入口が必要。
   「計画主導者」から「歩」を優先することが求められ、歩道側が表口になる。
   ところが、多くの人は、来客も含め、この町では車を使う。
   そこで、人は常に、裏口、非常口のような玄関から入るハメになる。

だから、この住居から外へ出るには、車か歩きかで、出向く方向が違うのです。
車で出かけるとき、すべてがそうではありませんが、極端な場合は玄関を出て目の前に歩道を見ながら住戸の裏側へ向うことになります。
歩いて出かけるときは、違和感はありませんが、この歩行者専用道を歩くのは、人さまの庭先を過ぎることになるため、気分はよくありません。
専用歩道は、幅は樹林帯を含めると結構幅があるのですが、そこから各住戸までの距離がない。
この構想の源は、欧米の都市郊外住宅地の道から各戸までの間に芝生が広がるイメージだと思われますが、欧米のそれに比べると、圧倒的に「幅」「距離」が足りない。それゆえ、人さまの目と鼻の先を過ぎる恰好になってしまうのです。
ここを歩くのを嫌って、わざわざ街区のまわりの車道に出て、そこの歩道を歩く人が結構います。たしかに気分はいい。第一、見通しがきいて分りやすい(学園都市の歩行者専用道は、いろいろと《デザイン》されているため、分りにくい)。

何十台、何百台という車が往き来する道ならともかく、この程度の車の往来に対して歩車分離をする、という「発想」は、どう考えても腑に落ちません。
この地域では、今や車は生活の必需品。車で動くことは「悪」ではない。
農家の屋敷に行けば、屋敷内には車が3台から5台は並んでいて、いずれも、堂々と「正面」から屋敷に入ります。何の不都合もない(屋敷は、これらがとまっても問題のない広さがある)。Bの住戸に暮す人たちも、車は必需品。車2台が多い。しかし駐車場がない・・・。

この住宅地の「構想」者には、「住まいとは何か」、という根本的な問いが欠けていたのではないか、と私には思えます。  
写真を見ると、各建物が、道路(車道、歩道とも)に対して、微妙に角度が触れています。
これはなぜなのか。
一つは、なるべく南向きにすること、もう一つは、道に平行では「単調だ」、ということではないか。それ以外の理由は、私には見つからない。

新聞や折込広告の、建売り住宅あるいは分譲宅地の広告で、「物件」の説明として記されるのは、所在地、面積、部屋数、価格、最寄り駅までの距離(時間で示す場合もある)、法的規制、上下水道の有無、周辺公共施設、商業施設等の状況・・・。時には、日当たりのよしあし、平坦・・・などが特記されています。
実は、先の「構想者」の考えている「要件」は、これと大差ないのです。
「住まい」は、このような「条件」を充たせばよいのだ、これが人びとが「住まい」に求める要件だ、と考えられている、ということに他なりません。

けれども、この要件は、人びとが考えていたことではなく、戦後に専門家がつくりだしてしまった「住居像」に基づくものなのです。
その典型が、部屋数が多いほど高品質かの誤解を生んでしまった「住居」の中味をL・D・Kと部屋数で表わす表示法。


ところで、この宿舎に住戸暮す人たちは、車で10分~20分ほどの勤め先へ向います。買い物などをする場所は、大体その途中のどこかにある。
したがって、ここに暮す人の「世界」は、自分の居所と勤め先を「点」と「線」で結んだ鉄道路線図のような形で描かれ、その「線」の途中に、行きつけの商店・食べ物屋・飲み屋、あるいは郵便局・銀行や役所・・などが、これも「点」として描かれていることになります。「線」の両側には、「未知」の世界が広がっています。
しかも、「線」は、ほとんどの人が「車」で描く「線」。当然ですが、この鉄道路線図は、人により異なります。

こういうタイプの生活の場合、農村居住者の描くような同心円状の世界は、描けるとすれば職場の中だけ。しかし、どうやらそれも怪しげなようです。
農村集落に暮す人びとは、互いに互いの同心円を想像することができる。しかし、ここではできない。
つまり、人が、それぞれ勝手に、町や勤め先という器の中で、ブラウン運動まがいの動きをしている。

そして、この新開地の最も大きな特徴は、そこに暮す人びとが、「互いに無関係だ」と思い(思い込み)、「たまたま集まったにすぎない」と思っていることではないでしょうか。
これは、まさに、現代の大都会の生活の縮小版。
むしろ、多くの「計画」で、建築や都市計画の専門家たちが、そうなるべく積極的に推し進めてきた、と言えるように思います。
その根底に、専門家たちの描く「住居」、「町」の「像」があると考えてよいでしょう。

都市「計画」という概念が生まれたのは、産業革命が契機と言われています。そして、最初に考えられたのが「田園都市」。
都市に多くの人びとが集中し、高密で劣悪な環境の地区が生じてきた。それを「回復」しようとして生まれたのが、田園:農村への回帰の「思想」。「形」「姿」を整えれば解決する、と考えられたのです。それが「田園都市」構想。
問題は町の「形」「姿」の話ではなく、「社会の構図・構造」の問題であったにもかかわらず、建築や都市計画の専門家たちには、それは念頭に浮かばなかった。今でもその点は同じようです。皆「形」「姿」に走る。その方が「手っ取り早い」。

   田園:農村に「好ましい環境」の「秘密」がある、という「着眼」は正しかったと思います。
   ただ、それを「形」「姿」にのみ求めたために袋小路に陥った、と私は思います。

おそらく、近世までには(近世以前にもあったことだと思いますが)、日本でも、始原的な「町」とは性格を異にする「その土地との関係に必然性のない人が集まる」町ができ、「賑わい」をもつくりだしていたものと思われます。
そのとき、人びとは互いに「無縁」、「互いに無関係だ」と思い(思い込み)、「たまたま集まったにすぎない」、だから、それぞれ「自由勝手に」振舞っていいのだ、と考えていたでしょうか。
たとえば、ある街に「新人」が来て、商売を始めるために、土地を求め居を定める。今だってある話。そのとき彼はどうしたか。
決して、自由勝手には振舞わなかった筈なのです。

その明らかな「証」は、かつての「町並」に示されます。

現代生まれている「町並」で、100年、200年後、「伝統的町並」として保存しよう、と思いたくなるような「町並」は、おそらく皆無でしょう。

いわゆる「伝統的町並」は、なぜ選定されたのでしょうか。
それは、そこに、今の町並には見られない、私たちの「感性」を「揺さぶる何か」があるからです。
簡単に言えば、その町並・家並が、そこを訪れ通る人びとに「敵意」を抱かせない、あるいは、あたかもそこで暮しているかの「錯覚」をも起こさせる、そういう感覚を抱かせるからだと言えるでしょう。それが「馴染める」ということ。


   誤解のないように付け加えると、
   現在、とかく「人がたくさん通る、訪れる」ことをもって「活性化」とみなす風潮がありますが、
   それと、「馴染める」こととは、まったく別次元の話です。
   「人寄せ」(イベントという)で人を集め、人の多いことが「いい町だ」という思い込み。
   その根にあるのは、儲けた金の嵩で価値を決める「クセ」。[文言追加 18日 8.19]

では、どうして「馴染める」町並になったのか。

それは、人がある土地へ定住・定着するときの「作法」を、そこに住み着く人びと各々が、心得ていたからだ、
と見るのが最も「理(すじ)」の通った考え方ではないか、と私は思っています。

そしてその「作法」は、人びとの間で、代々蓄積・継承されてきた「作法」。
つまり、古に、農耕者たちが自らの足で探し求め、そして探し出した土地に定着するときに抱かずにはいられなかった「感覚」に基づく「作法」に源がある。
その「感覚」とは、
「土地は、天からの預かりものであって、人の勝手で扱ってはならないもの(自然の理に従うこと)」という感覚であり、
「新たにその地に定住する者は、既にその地にある『もの』(隣人の住まい、既存の地物など一切)の存在を無視できない、してはならない」という感覚です。
   地鎮祭とは、預かりものとしての土地を使わせてもらうことを願う儀式。
   今のような、単なる安全祈願ではなかった。


私の見たところ、少なくとも第二次大戦後間もなくの頃までは、この「感覚」は人びとの間に普通にあったように思えます。

私が高校生であった1950年代後半、通学途中で新しい住居がつくられるのをいくつも見ました。畑の中に100~200坪程度の敷地を求め、平屋建ての住居をつくる。
材料は決して豊かとは思えませんでしたが、高校生の私の目にも、まわりへの気配りの行き届いた、質の高い設計のように思えました(今見直すと、いい建物は、その頃のものに多い!)。
当時、土地は容易に手に入れられるが、建設費が高かったのです。住宅金融公庫はそのためにつくられた・・・。

しかし、これが一変します。
「私有の権利」を最高位に置き、法律の範囲内で、最高の利益を得ることに精を出す「現代的な開発」をもってよしとする風潮が、1962年(昭和37年)に始まった「全国総合計画」を契機として(これを「一全総」:第一次全国総合計画の略:と呼び、以後何度も改変)、一気に蔓延るようになるのです。
その結果人びとの感覚もおかしくなり始めます。
それは、端的に言えば、「地価の上昇」をもって「地域経済の活性化」を諮ろうという施策、「土地は天からの預かりもの」という感覚の「廃棄を勧める施策」に他なりません。
   この施策の立案の中心人物は、建築畑の人物です。時の国土庁長官。

「土地」は、投資・投機の対象となり、地価の上昇を待ち望むようになります。
地価の下落を「悪」と見なす傾向が普通にさえなっていきます。地価の下落を、誰も喜ばない。半世紀前の世情とは雲泥の差・・・。
そして、期を同じくして、「現代的な公害」や「環境汚染」「日照権、景観権争議」が多発しだします。

その約半世紀後の結果の「最新の」姿、いわば「成れの果て」の姿が、今回の写真のDの「住宅地」の姿ではないでしょうか。
なるほど、販売者は「十分に」利益を得たことでしょう。しかし、そこに生まれているのは、何か?
売り出しのポイントは「庭付き一戸建て」とありました。それは、隣家の壁との「隙間」のことでした。
こういう計画を平然としているのも、建築の「専門家」なのです!


しかし、こういう現代的開発が進んだ結果、皮肉なことに、質の高い町並は、「現代的な開発」の波及しなかった「遅れたと見なされる」地域に多く残されるようになったのです。
私は、その存在を、きわめて貴重な財産だと考えます。
もちろん、観光資源として貴重だ、という意味ではありません。
今や、そこにのみ、かつての私たちの先代たちが心得ていた「作法」、かつての人びとの多くの人びとと共に暮すための「知恵」を知ることができるからなのです。
そういう所で暮せるということの素晴らしさ、何と幸せなことか!現代的開発のされた地区には、探してもない!
[文言追加 18日 10.32]

私が、「伝統的町並」や「文化財」を、単なる観光資源としてのみ扱うことに異議をとなえるのは、そのためなのです。
かつての人びとのつくりだした「もの」で「経済効果」を上げようなんて、それではあまりにも失礼ではありませんか。
[文言改訂 20日 7.16]

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工事遅延のお知らせ

2010-12-15 17:47:04 | その他


18日の資料の編集に思いのほか手間取り、今日上げるはずだった「建物をつくるとは・・・10」、遅れています。

そこで、写真で隙間を埋めます。
柿を食べに鳥たちが来る頃になりました。これは、少し前の状態。今は渋柿だけ残ってます。
山茶花にはメジロ、ホオジロが来ています。

今日は寒くなりました・・。もしかしたら明日は氷が張るかも。

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“CONSERVATION of TIMBER BUILDINGS” :イギリスの古建築-1

2010-12-09 18:20:50 | 建物づくり一般
   はじめに、お知らせ。
   先に紹介させていただいた講習会「日本の建物づくりを知ろう」(下記参照)、
   まだ余裕があるそうです。
   関心のある方は、主催者まで、ご連絡ください。
    http://www.kenchiku.co.jp/event/detail.php?id=2416

  ******************************************************************************************

[註記追加 9日 21.51][註記追加 10日 10.16]


“CONSERVATION of TIMBER BUILDINGS”(F.W.B.Charles,Mary Charles 著 Hutchinson & Co.Ltd 刊) という書物があります。
1984年に初版が出ています。
イギリスの(木造)古建築の「保存・修復」について、実例を基に書かれた書。

この書物に、先に紹介した aisled bahn では載っていなかった bahn をはじめ中世の(イギリスの)木造建築の詳細が載っていましたので、「建物をつくるとは・・・」と交互に紹介することにします。


これは、きわめて地味な書物です。しかし、内容は濃い。
この書の意義を紹介する「推薦文」が表紙カバーにありましたので、そのまま掲載します。



イギリスは近・現代建築で常に先駆者でしたが、同時に常に「原点」を大事にするお国柄。だからこそ「先駆者」たり得たのでしょう。
この点は、進んで「原点」を見捨てる日本の近・現代(の建築界)との大きな違いだと私は思います(この点については、http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ff5c01cb975024f20a6c378226019f10などで何度も書いてきました)。

この書を見ると、一般に、「継手・仕口」が日本固有・特有のものである、あるいは、西欧の木造建築は金物万能である・・・かのように思うのは、まったくの「思い込み」であることがよく分ります。「誤解」です。
「理」をもって事象・事物に対する人びとの営為には、日本も西欧もないのです。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

STRUCTURAL TYPES として、(イギリスの)木造建築には、古来、‘box-frame’‘post-and-truss’‘cruck’‘base-cruck’ の四つのタイプがある、とされてきたようです。

‘box-frame’というのは、「箱の枠」ですから、いわば「軸組」のイメージと考えてよいでしょう。
‘post-and-truss’とは、柱とトラス梁で組む方法、‘cruck’ は湾曲した木材を、地面から尖塔型に組む方法、‘base-cruck’ とは、後掲の図のように cruck を基礎の上に(中に)組む方法のようです( cruck、base-cruck の実例は、http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/7cd6ef4e90665a1accadc3e83fe0c6c4参照)。

しかし、この分類では、それぞれの意味する範囲が曖昧である、として、著者は、きわめて単純に、Rafter roof であるか、Purlin roof であるかで分けています。

Rafter とは「垂木」のこと、したがって Rafter roof とは、「垂木」「合掌」だけで小屋を組む方法、
Purlin とは「母屋(桁)」のこと、それゆえ Purlin roof とは、「母屋」を設け、それに「垂木」を架ける方法を言います。
この図解が下図。



日本でも、古いものは「垂木」「合掌」だけで小屋を組んでいますが、後に「母屋」を入れるようになります。「母屋」を組めば、「垂木」「合掌」は細身の材でよく、「母屋」の上で材を継ぐこともできます。
日本の場合、たとえば桂離宮のように、任意の形に屋根をつくることが可能になります。


同書の最初は Rafter roof の解説。これがきわめて明快。

Rafter roof の起源は、3本の「棒」の端部を縛って三角をつくると、強固な枠:フレームになるという発見にあり、そして、その理屈:三角形安定の原理は、居住用に十分な大きさのA型をした枠:フレームをつくることなどに応用されている、と。

   この「三角形の理屈」が、日本では、明治時代、当時の「学者」たちによって、きわめて狭く利用された。
   それが「筋かい」の輝かしき「発祥」です。
   しかし、この書の解説にあるのは、そんな「狭い」ものではありません。
   構築の全体を見ている。つまり、机上ではなく、あくまでも工人:現場の視点。

同書は続けます。

この理屈・原理の最大の効能は、容易に扱える大きさの birch(カバ)、poplar(ポプラ)、willow(ヤナギ)、conifer(イトスギなど)などの丸太だけで、すべてがまかなえる点にある。
そして、次に、より高い空間を得るために、この三角形のA型フレームを掘立柱の上に載せる方策が考案される。
この解説の図解が次の図です。
これは、イギリスの典型的な掘立柱による「小作農の住まい」の構築法だそうです。



何か「古井家」を見ているような気になります。

図の解説にあるように、先ず、建設場所の地上で、a)中央に使われるA型フレームをつくり、b)次いで端部になる部分を組み、c)全部材を所定の大きさ・形状に並べ、d)組まれた足元の四周に ring-beam をまわす。ring-beam は、日本の建物の軒まわりの桁・梁に相当する部分。
次に、e)この外形に合わせて地上に掘立柱を立てる。柱頭は、枝がY字型になる部分を使うようです。そして、f)地上に組んでおいた小屋組を持ち上げて骨格の完成。
外壁は cladding of cob 、wattle-daub 、turf 、stone など、表情の違う方法が地域に応じてあるようです。
wattle-daub というのは、小枝を編んで土や石灰を塗り付けた仕上げ、日本の小舞壁のこと。 cladding of cob は「荒土でくるむ」意のようですから、いわば「塗り篭め」。ただ、wattle-daub とは区別されていることから、つくりかたは、練った土を積む「版築」のようなものと思われます。
turf には「芝」の意もありますが、stone と並んでいることから、「芝」ではなく「切り出した泥炭の塊」のことと思われます。
つまり、版築、小舞壁、石や泥炭を積む、という異なった方法が、地域ごとにあったのです。
この方法は、円形、楕円形、長方形、正方形・・その他どんな形にも対応できるので、石器時代このかた、使われたはずだ、と同書は解説しています。

でも、小さなものならばともかく、大きな建屋になれば、持ち上げることは不可能です。
その場合は、小屋組をいくつかに分解して持ち上げたようです。
分解法は説明がありませんが、図のd)f)で分るように、ring-beam はいくつかの丸太を継いでいますから、その部分が分解の目安になったものと思われます。

この Rafter roof のつくり方では、空間の大きさに(特に幅:梁間:スパンに)限界があります。大きくしたいときはどうするか。
それが aisles の方法です。
先の図が「上屋」であるとすると、それに「下屋」をつけて大きくする方法。「上屋」が nave 、「下屋」が aisle 。
これはまったく日本の場合と同じです。

下の図の左は、イギリス南西部のチェダーにあった1120年頃に建てられた the Royal Saxon Palace の East Hall と呼ばれる BAHN の梁行断面図。復元想定図のようです。
しかし、Rafter roof 構造では、いささか大きすぎて、しばらく経って、大きさを縮小したのだそうです。それが右側の図。



また、地域によっては、掘立柱を用いず、地面・基礎から cruck :「湾曲した登り梁」を組む方法をとる事例があり、その場合の断面図が下図。
この実例は、前掲の先のシリーズの記事で紹介しました。



Rafter roof の特徴は、X型に交差する場合も含め、長い斜め材:brace の多用にあるようです。
解説には Rafter roof の組み立ては、brace の取付けを含め、lap-joint によっている、とあります。
lap-joint とは?
英和辞書では「重ね継ぎ」とありますが、どうもしっくりこない。
日本でなら何と呼ぶのが適切か。

それについては、図解があるので、次回に考えることにします。

   註 斜材:brace の使い方について  [註記追加 9日 21.51、10日 10.16]
      ここに示されている斜材:brace の使い方を、
      日本の木造建築で「推奨されている筋かい」の使い方とを比べてみてください。
      あるいは、RC、鉄骨造で「耐震補強」でなされている使い方とも比べてみてください。
      いかに現代日本のそれは「みみっちい」使い方であるかが分ります。
      この「みみっちさ」に、現在の日本の構造理論の限界が表れている、そのように私には思えます。
      中世の工人たちの方が(洋の東西を問わず)、全体が見えていた、ということ。
      そして、その大らかさ!
      柱間の一部に「ちまちま」と入れるなどということをしていない。
      第一、柱間は、人の通る空間なのだ。建物は人のためにつくる。
      それに比べ、日本の構造理論家たちの、何と「こざかしい」ことか!
      彼らは、建物は「耐震」のためにつくるもの、と勘違いしている。
      人の生きる空間を「耐震化」する、という視点を見失っている。
          

なお、チェダーという町は、チェダーチーズの発祥の地。下の地図の赤丸で囲んだサマーセット州の小村。探したけれども、載っている地図がありませんでした!




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建物をつくるとはどういうことか-9・・・・続・「世界」の広がり方

2010-12-06 22:55:53 | 建物をつくるとは、どういうことか
[文言追加 7日8.27][文言追加 8日 9.10][文言追加・改訂 8日 10.18][註記追加 8日 10.35]

先回まで、集落誕生の始原の状態、すなわち、土地との密接なつながりゆえに生まれる「ある場所に定着する」姿について触れました。当然ですが、「農業者」たちの集落です。そして、そのとき、そこには、まず「非農業者」はいません。始原の状態では、集落は「第一次産業」従事者によってつくられるのです。

ところで、「ある場所に定着した」ということは、当たり前ですが、天から舞い降りてきたわけではなく、自らの足で、「どこ」からか「そこ」へ「たどり着いた」ことになります。では、どういう「ところ」をたどってたどり着いたのか。

定着が進行する以前に、すでに、人びとが行動する「ルート」はできていたものと考えられます。つまり、いろいろと歩き回っていた。しかし、そのつど、勝手気ままに歩き回ったわけではない。
たとえば森林・樹林あるいは山の中へ採集に向う場面でも、そのつど新たな「ルート」を開いたのではなく、自ずとでき上がっていた「ルート」を使ったに違いありません。いつの間にか「前進基地」がつくられていたのです。

   もちろん、彼らには、今のような「地図」はありません。
   あるのは、「頭の中に描かれた地図」だけ。

しかし、「ルート」や「前進基地」は、無差別に、どこでも構わず設定されたわけではありません。それらは、ある「原理・原則」の下で設定されていた。
この点については、第5回で、現在の事例で簡単に触れました(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/419bda1f19b90b3fa13f19d175f38811)。

また、人びとが「道」をつくりだす「原理・原則」については、かなり前に、「清水寺の参詣道」を例に触れています(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/262176cccda7b41acd735a3d8f2732ac)。

   たとえば広大な欧亜大陸に生まれた通称シルクロード。
   交易等に使われた場面で取り上げられることが多いのですが、これも「交易者」たちがつくりだしたというより、
   それ以前から、一帯で暮していた人びとによって「開拓」されていた「道」が複合したものと考えられます。
   これは、日本の古代の「官道」に於いても同様で、古代日本の最も重要な「道」であった「東山道」は、
   各地域に暮す人びとによって、すでにつくられていた「道」を「つなげた」もの。

   だから、先回例に挙げた私の暮している集落の周辺にも、集落が生まれる以前に、いくつかの「ルート」があり、
   そういったところを歩き回っているうちに、例の「潜み」を知ったに違いありません。
   いわば、人のつくる「けものみち」。「けものみち」にも、一定の「原理・原則」があるようです。

   先に挙げた参考図書(?)「十五少年漂流記」にも、「定住地」の確保に至るまでの「過程」が描かれています。
   注目すべきは、漂流しなければ、彼らは、「非農業者」であり続け、
   農耕を視野に入れて「定住地」を探すような状況には、決してならなかった・・・。


では、「土地」との直接的な係りを必要としない「非農業者」たちの「世界」はどのようになっているのでしょうか。
「非農業者」ですから、農耕の視点で土地を選択、探す必要はない。

「非農業者」たちの土地の選定の要件は、当然ですが、「非農業」が、どのような内容であるかによって決まります。

「集落」が安定してくると、各「集落」間に「交流」の機会が訪れます。
それを積極的に進める、それに専念する人たちも出てきます。その人たちが、集落の人びとに代って「交流」の代役をつとめる。当初は、農耕のかたわら、歩き回ったものと思われます。
これが「交易」の原点。「商い」の原点。集落の主である農業者たち:「第一次産業」者にとって不可欠な存在。だからこそ「『第二次』産業」者と呼ばれる。

   現在、「商業」をして「第二次産業」と呼ぶことがなくなったようです。
   それは、現在の「商」「商い」が、始原的な意味での「商い」ではなくなったからでしょう。
   だから、始原的な「商い」「交易」をして、現在の《商売》《ビジネス》の目で見てしまうと誤解を生みます。
   以前に紹介した「近江商人」たちの「商い」は、
   ずっとずっと、この始原的な「商い」の姿に近いのです(参照記事:後掲)。
   同じ「商」の字があるからといって、現在の「商」と同一に見るわけにはゆかない。
   現在の「商」に係る人たちは、「商」の始原について、
   思いを馳せたことがあるのだろうか、ときどき、考えてしまいます。
   「商い」とは、ただ「金儲け」に「いそしむ」ことなのか?

この「第二次産業」者たちは、「第一次産業」者とは別な土地に住み着きます。

下の地図は、以前に載せた地図の再掲です。
今から30~40年前の筑波山麓の一帯。



この地図の左端に、Dと符合をつけたところがあります。「洞下(ほらげ)」と呼ぶ集落で、かつては、この地域の商業の中心の一つでした。

現在は(この地図でも)主要な道は、図の中央、水田の真ん中を南北に通っていますが、往時は、水田を挟む東西の微高地に2本ありました。
東側は山の麓を等高線に沿う道、したがって曲りが多い。西側は南北に長く続く低い丘陵の尾根筋の道、真っ直ぐに走っています。ともに「道の原理・原則」通りの道です。
この東西の山・丘陵の形は、中央を流れる川:「桜川」がつくりだしたもの。
この内の西側ルートは、この一帯の南北にある他地域:南は「谷田部」から「取手」、北は「真壁」:を結ぶには近くてきわめて至便。つまり、古くからの南北を結ぶ主な街道筋。

一方で、この地域を東西に結ぶ古くからの「道」もあった。西は「下妻」「下館」、東は「土浦」「石岡」へと至ります。
この南北と東西の道が交叉する場所、それが「洞下」なのです。それゆえ、往時はこの地域の「物流拠点」。
おそらく、人びとが定着する以前には、「市」が立ったものと考えられます。そして「専業者」は徐々にこの地に定着した。今はもう「商い」はしていませんが、道に面して商いをし、奥では小さな畑をつくって暮していたのです。畑は残っています。

もう一箇所、この地域の南部にあった「第二次産業」者の定着地を紹介。
筑波研究学園都市の「開発」によって、その地位が大きく損なわれた例。

下は、現在筑波研究学園都市の中心部になっている一帯の1970年(昭和45年)当時の国土地理院地形図を基に編集した図です。まだ、「開発」が初期の頃の姿。点線で示したのが、「筑波研究学園都市開発」の計画主要道路。左が北になるように編集してあります。
なお、この地図は、ほぼ今回と同じことを書いた
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/a23a9e9e6fc0cd0a949482ccca728a3aで掲載したものと同じです。[文言追加 7日8.27]



下は、この地域を含んだ航空写真。1945年(昭和20年)の米軍が撮影したもの。これは、下記の記事で一度載せたことがあります。

   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/0fe1c2bafa47b7e3f4e9849d845e85f1
   なお、ここでは、今継続している長々しい話のいわば「結論」を、要約の形でまとめています。
   今回のシリーズは、なぜ私がそういう「結論」に至ったかを、要約ではなく「くどく」書いているわけ。



上の地図と写真で赤い線で囲んだのは「刈間(かりま)」という集落で、先の「洞下」と同じ程度の「第二次産業」者の定着集落。
ここは、先の「洞下」からも続く南北の道と、東は「土浦」、西は「谷田部」「石下」へと至る東西の道の交叉点。

1970~80年の頃、ここをよく通りましたが、なかなかいい雰囲気の場所でした。そのまま姿を維持していたら、つまり、開発から「取り残されていた」ならば、数十年後、伝統的街並として保存が叫ばれたかもしれない!しかし、その雰囲気は、開発により消し去られました。

   伝統的街並保存とは何か、考えるには恰好の事例です。
   つまり、新たな「開発」が、従前の「街並が持っていた雰囲気」をつくり出せないがゆえに、
   振り返ってみたら、開発から「取り残された街」の素晴らしさに気がついた、だから「大事に」しよう、ということ。
   けれども、残念ながら、それを「観光《資源》」として扱い、何がそういう結果を生んだのか、
   いったい何をしなければならないのか、考える人が少ない。

   このところ盛んに読まれている以前に書いた記事「遠野・千葉家の外観」で私が「遠野」について書いた感想も、
   同じく「大内宿」について書いたことも、(下記)
   つまるところ、それ。皆、目先の《商売》に気をとられている・・・、という思い。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/5a75fa6c161af6de05771cbf2dbc088c
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ad84f2c5e8cd2729e059fd68ad355a6e
   「復刻:遠野:千葉家の外観」もご覧ください。[追加 10月4日]
   
これらの例を観ることから見えてくるのは、往時の「第二次産業」者の定住地の設定は、「第一次産業」者の存在なくしてあり得ない、という「当たり前の事実」です。
だから、別の言い方をすれば、彼らは「第一次産業者」の「世界」に通じていたのです。
これは、当たり前と言えば当たり前です。
なぜなら、彼らの暮しは、「第一次産業者」があってはじめて成り立っていた。そして、先ず第一、彼らも、元をただせば「第一次産業者」だったのです。
それゆえ、彼らの定着地での「住まい」のつくり方も「第一次産業者」のそれに倣ったものであり、その「世界」の「広がり方」の原理・原則も、「第一次産業者」のそれと変ることはなかったのです。[この段落 文言追加・改訂 8日 10.18]

しかし、その「世界」の広がり方は、「第一次産業者」のそれとは比べものにならないほど広く、大きかった。
そして、その「世界」で得た彼らの「知見」は、出し惜しみすることなく、「第一次産業者」にも伝えられたのです。それゆえ、想像の域ではあっても、「第一次産業者」の「世界」もまた広がった。
もちろん、「知見」は「他地域の人びと」へも伝えられました。それが、地域間の「交流」の原点です。
それを代表する好例が、各地域での「近江商人」の行動です。それについては下記で書いています。

   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/1797ceeaa88c6f3e3393dc4d6aa022d7

   なぜ「第二次」と呼ばれのか、その理由もそこにあります。
   「第一次」なくして「第二次」もない・・・。
   現在、こういう区分け方がされなくなったのは、
   互いに無関係、無縁の存在になってきたからではないでしょうか。
   

このように、往時の(始原的な状況下の)「第二次産業」者の土地選定にも、必然的な「要件」があった。

残るのは、それ以外の人びと、いわゆる「第三次産業」者の場合。
これを定義するのはきわめて難しいですが、あえて言えば、往時では、「第一次産業」者、「第二次産業」者たちを差配しようとした人たちがそれにあたると思います(そこには、いわゆる宗教者も含まれるでしょう。元はと言えば、集団を守る呪術者の一群)。それがどのように生まれてくるのか。

各集落で、集落を「統率する」者が必ず居たことは確かです。
しかし、彼もまた「集落定着者の一」にすぎない。いわゆる「豪族」と言えども、それには変りがない。「豪族」がなぜ豪族たり得たか、と言えば、それは、基盤である「集落」に通じていたから、信頼されていたからに他なりません。
つまり、往時の「第三次産業」者もまた、「第一次産業」者、「第二次産業」者の延長上にあった。
だから、彼らの定着地、その場合は居住地と言った方が適切なのでしょうが、その「選定・設定の原理・原則」は、「第一次産業」者、「第二次産業」者と変ることはなかったのです。
公家も武家も宗教者も、「第一次産業者の居住の原理・原則」からはずれることはなかったのです。
別の言い方をすれば、「人の感性は、皆同じであった」、ということです。
幾多の事例がそれを物語っています。


さて、厄介なのは、現代の「非農業者」。つまり、「土地」との係りに必然性がない(と思っている、そして、そう思われている)人たちの場合です。
別の言い方で言えば、「土地」を、あるいはすべてのものを、単に、その「呈する姿」の「付加価値」で「測ろう」とする時代に生きる人たちの場合。

その場合、往時の人たちの持っていた「感性」は、すでに通用しなくなってしまっているのでしょうか。
そうではないことは、すでに、このシリーズの初めの頃に、いくつかの事例で触れてきていることの中で示してはきました。

そこで、次回、あらためて考えてみることにします。

   最近、「里山を本来の姿に戻そう」という「運動」があるのを知りました。
   これなどは、「付加価値」で「土地」を判断する典型のように私には思えます。
   「本来の姿」とは何?
   それについての言及はない。
   「集落の人びとの暮しの必然」で生まれた樹林帯を、今の集落の人たちの暮しの様態を考えもせず、
   「求めよう」「再生しよう」・・・という。私には不遜に映る。[文言追加 8日 9.10]

   註 土浦の西郊で、この数十年にわたり、その地域にある丘陵の様態の維持に係っている方が居られます。
      この方の場合、その発端は、住宅公団が住宅用地として一帯を買上げようという動きを知ったことでした。
      以後、現在まで、営々としてそれに努めている。
      その間、何人もの方が賛同して現われ、そして消えていった。
      継続しているのは、この方とそのまわりの方がただけと言ってよいかもしれません。   
      この方は、この丘陵の近くに、そういう地を求めて移り住んだ方であったと思います。
      そして、「里山」ブーム?で、その地を見に来る人が増えている・・・。 これまた「観光」?
      この方は、それによって地域を《活性化》しよう、などとは考えてはいませんでした。
      たくさん人が訪れればよい、などとは考えてはいないのです。[註記追加 8日 10.35]

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とり急ぎ ご案内・・・・喜多方登り窯再構築完了、今年もやるぞ煉瓦焼成!

2010-12-04 08:20:44 | 煉瓦造建築
喜多方から、久方ぶりの便りがありました。
そのままコピーして掲載します。
今年もやるそうです!煉瓦の焼成。その日程表も掲載します。そこには、今年の登り窯再構築の様子も載っています。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

皆様、ご無沙汰いたしました。金親です。

今春から三津谷の登り窯は、大改修工事を行なっておりました。
(現在までの、延べ作業日数:約50日、延べ作業参加者:約300人)
全ての場面を手探り状態で行ってきた改修工事ですが、ついに目処が立ってまいりました。

模範解答が無い、先が読めない、未知のリスクが伴うという、ハラハラドキドキの連続、
故あって進捗情報の拡散をためらっておりましたが、ここまで来ればもう勝手知ったる世界、
どんどん情報を広めたいと思います。

再生プロジェクト3年目
今年も窯に火入れをします!

当初の予定では例年通り、11月の末を目標にしておりましたが、作業が難航したため12月にずれ込みました。
12月17日~12月20日で窯を焚くべく工程を進めます。

ここからは雪との格闘が待っているかもしれません。
皆様のお力添えを切に願います。

当面の作業予定を作成いたしましたので、添付します。
(情報の拡散をお願いいたします。)

写真を見ていただくと判りますが、ここまでは完全に「ガテン系」の乗りでした。
汚い、危険、きつい、苦しい、暗い(窯の中が)、臭い(ネコの糞が)...... 5K? 6K?

ここからの作業は「華」があります。
まあ肉体労働ではありますが、ボディのシェイプアップになると思えば。

白銀の世界と炎の舞
皆さんも是非体験してください!



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建物をつくるとはどういうことか-8・・・・「世界」の広がり方

2010-12-01 18:04:22 | 建物をつくるとは、どういうことか
[文言追加 2日 9.55][括弧内解説追加 3日11.42]

先回、「ある山村の土地利用模式図」を転載しました。
そこでは、「屋敷」を中心に、自分の係わる範囲が、その「係わり方の濃度」に応じて同心円状に広がっていることが示されていました(下の図)。



けれども、この場合、「屋敷」が最初から整えられていたわけではありません。
この図は、その土地にある程度住み着いてから、つまり「定着の度合いが強くなってから」の状態、「結果」の姿なのです。最初からこういう形で定着したわけではありません。そういう姿もイメージしてはいなかったでしょう。

そこに住み着くことにした当初は、「屋敷」はなく、「建屋」だけがあったはずです。そこで、図に赤い丸を追加しました。それが「建屋」。
「建屋」とは、とりあえず夜を安心して過せる屋根のある場所。そのときの、最大にして最小の砦。
「安心して過せる」ために、「砦」への出入口は、できる限り少ない方がいい。ゆえに大抵一つ。出入口が一箇所のワンルーム(このことについては何度も書いてきました)。

これは乾燥地域の人びとも遊牧民も同じです。
違うのは、屋根のつくりの「程度」。日本では、「天幕」のような屋根の例はないようです(羊毛のような、水をはじく材料がなかった)。
当初は、その「建屋」のまわりのみで農耕につとめた。そして、周辺へ採集にも出かける、そんな暮しをしていたと思われます。
当然、そこを出て遠くに行けば行くほど「心細くなった」はずです。そして、いざとなれば「砦」に戻る。それを色分けで示してみました。

「ある山村」、これは「畑作」を想定しています。けれども、立地条件を変えれば「水田耕作」の場合も、この図と同じような模式図が描けると思われます。
「水田耕作」の場合は、イネの栽培ができる土地でなければならない(もちろん、畑作でも作物の栽培ができる土地でなければならないことは同じですが、イネの場合は条件がさらに厳しい)。
当初、水田耕作のできる場所、それは、何も手を加えることなくイネを植えつけられるところ。その一つが「谷地」。「谷津」とも言います。その上流で水が湧いているのです。その水の流れが低地をつくりだした。
ヤチとは元はアイヌ語だそうです(「新明解国語辞典」)。千葉県習志野には「谷津」という字・町名がありますが(他の地域にも見かけます)、多分、そういう地形だったはず。

現在は焼失して在りませんが、茨城県の筑波山東麓:現在の石岡市下青柳に重文の「羽生(はにゅう)家」がありました。
これは、「谷地」田の縁に建っていた江戸時代の農家住宅。
幅の狭い「谷地」の向うには鬱蒼と繁った樹林が迫っている。きわめて狭い田んぼ。
建物が健在であったころ訪れたとき、これこそ「水田耕作」の初期の姿に違いないと思ったものです。
そういうところから始まって徐々に下流へ、より広いところへと広げてゆく。そのころには、地形を人工で改変するようにもなる。このことも、以前、関東平野の開拓の歴史で触れました。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/7cda390abe72f02b14dae5d6ef7ddbc8
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/3b5b92a6d936456b59ae67a34c1f9b88

けれども、この図は、あくまでも模式図。
実際に同心円状に世界が広がっているわけではありません。

「実際の姿」に応じて模式図を描き直せば、下の図のように、「自分の住まいから、片寄って」世界が広がっている、別の言い方で言えば、「広がり方に方向があった」と考えた方がよいと思います。



もちろん、実際の「世界」はこのような円形に広がるわけではありません。
実際の姿は、目の前に見えてくる「地形」が大きく係ります。
目の前に「畑作」向きの土地が広がっている、あるいは「水田耕作」向きの「谷地」があるからと言って、そのどこにでも住まいを構えるわけではありません。

   実は、「どこにでも住まいを構えるわけではない」という「事実」は、現在、とかく忘れがちです。
   「どこでも構えられる」と思ってしまう。とりわけ、「日本の都会」の生活に慣れてしまっている人たちは、そう思う。
   このことは前にも書きました(下記)。
   「必要」条件だけでことは決められない、そう思うのが「普通」の感覚だと私は思うのですが、それが失せている。
   特に、建築に係る人たちにその「感覚」が乏しいように思えます・・・。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/31a97d11acdc29d010ec4d548e7df7b5


これらのことについて、私の暮す集落で、「水田耕作」を主体に古くから住み着いたと思われる方の「屋敷」の例で見てみます。
多分、この方が、この集落で一番古く、定着者の「統括者」であったと考えられます(現在の当地の地番では「1番地」)。
このお宅は、この地に江戸の初期にはもう住み着いていたようですが、詳細にお話をうかがえるほどには未だ親しくなっていませんので、あくまでも推測です。

まず、その屋敷を含む集落の航空写真(以下の航空写真は google earth 2010年3月撮影からです)。
赤い円で囲ったあたりが、この集落のなかで最も歴史があると考えられる一帯、つまり「古い」一帯です。



そのあたりの現況を地図で見たのが下の地図(町の1/2500都市計画図から)。
地図中の赤い円内が、最古と考えられる方の現在の「屋敷」。



その部分を拡大した写真が下。「屋敷」を赤い線で囲ってあります。地図と照合してください。



この地域一帯は、一枚目の写真で分るように、狭い低地(「谷地」)と標高25m前後の低い丘陵(丘陵言うより「台地」と言った方がよいかもしれません)が交互に並んでいます。
比較的大きな河川は、写真、地図上に見えるものともう一本あるだけで、あとは「谷地」です。
「谷地」は、現在も水田として使われているところと(最近は「蓮田」が増えている)、かつては水田だったけれども耕作をやめてしまったところ(多くは葦原になっている)とがあります。

   ここは、これからの季節、多くの渡り鳥が集まってきます。困るのは、蓮田を覆う防鳥網。
   もう何度も引っ掛かった渡り鳥を援けていますが、援けられなかった鳥も・・・。
   地元のJAにも何とかするよう頼んではいるのですが・・・。

丘陵・台地上は、写真でも見えるように、現在はほとんど耕地化されていますが(赤茶色のところ)、江戸時代はもとより、古代・古代以前には、鬱蒼とした混交林に被われていたと考えてよいでしょう。今は、丘陵の縁:斜面にだけ、混交林は残っている。

ところで、この集落のある丘陵の縁で集落があるのは、写真で分るように、ここだけです。ポツポツと建物が見えますが、どれも新しい。[文言追加 2日 9.55]
この集落の主要部を、ここに来た当時に訪れたとき、そこが著しく西に向いていて、後背の丘陵の樹林の陰になり、朝陽があたるのはかなり遅くなる、しかも梅雨時にはきわめて湿気ることを知り、なぜここが定着地に選ばれたのか、不思議に思ったものです。

しかし、しばらく暮してみて合点がゆきました。
この地は春先(冬から梅雨時ぐらいまで、時には夏場でも)、かなりの「やませ」が吹きつけるのです。
「やませ」は、東方の冷たい海を吹き渡ってきた北東風。東北地域に冷害を及ぼす元凶。その風が、当地にも及ぶのです。
選ばれた一帯は、それを避けるには、絶好の「潜み」だったのです。

「潜み」の様子は地図によく表れています。
これは、多少は手が入っているとは思いますが、原型は自然の地形。ここでは水が湧いていたものと思われます。おそらく今も井戸があるはずですが、奥まで入っていないので不明です。
当初、「住まい」として、この南西に向いた「潜み」の最奥に「建屋」が建てられたと思われます。

私が今住んでいるのは、丘陵の尾根近く。まわりは耕地化されています。
最初は気付かなかったのですが、春先には「やませ」がまともに当たり、冬の北西風で土が舞い上がる・・・。
しかし、丘陵一帯には、縄文、弥生時代の住居址が多数残されています。
「やませ」「冬の北西風」はその頃からあったと思われるのに、なぜ、平気だったのか。
それは、その当時、一帯が鬱蒼とした混交林に被われていたからだ、と思われます。
そういった樹林を切り開いて、彼らは住んでいたのです。まさに raum の語源通りの「空間」がつくられていた。混交林は、言ってみれば、天然の「防風林」。

   その頃は海進の時代、霞ヶ浦はの水位は高く、淡水ではなく、海あるいは汽水であったと考えられます。
   貝塚で見つかる貝には淡水系でないものが多数あります。
     

「世界」の広がりの「方向」についての「本題」に戻ります。

このお宅の場合、南西に向いた方角が世界の広がりの主軸だった、と考えられます。
目の前に広がる川の脇の水田は、春から秋までの仕事。そこへは100mほど歩く。他の耕作は、田の縁までの潜みの一画で営んだのではないでしょうか。

写真では、このお宅の東側の丘陵・台地上に、赤茶けた地面の部分が広がっていますが、これは広大な耕作地です。主に、クリの栽培と樹木の苗木の圃場です。
この耕作管理もこのお宅がされている。言ってみれば、このお宅の「裏」のようなもの。

しかし、ここまで耕地化が進んだのは、当地への定着が安定してからのこと、それも比較的近年ではないかと思います。
なぜなら、これだけの広大な樹林を耕作地に変えるのは並大抵ではありません。すごい時間がかかるはず。もしかしたら、ここまでになったのは、機械化が進んでからのことかもしれません。

   丘陵上の道路は、幅6mほどの舗装道路ですが、これは1970年代に整備されたもの。
   なお、この地図にある水田は、1970年代に行なわれた捕縄整備事業の結果の姿です。
   それ以前、中央部を流れる川も蛇行し、水田も等高線なりの畦がうねっていたはずですが、
   その頃の姿は昔の地形図・測量図でも見ないと分りません。
   ただ、ところどころに、縁を走っていたかつての幅が1間もない道と、堰からの用水路の跡が残っています。
   もちろん堰による用水はずっと後につくられたもの。
   当初の水田は、近場の湿地をそのまま使ったものだったと思われます。
   このお宅の丘陵縁、長屋門を出たすぐの水田脇に、今なお水神様を祀った小さな溜池があります。
   これがかつての水田の名残なのではないかと思います(地図・航空写真の道の脇に見えます)。
                                   [括弧内解説追加 3日11.42]

このお宅では、「世界」は「建屋」から南西に向い開かれていて、集落から「外」へもそこが起点・基点になっていたのです。
しかし、「外」はそんなに近くにはなかった!「世界」は「狭かった」のです。

   この集落へ土浦から嫁いだ方から、ここへは歩いてではなく、霞ヶ浦を舟で来た、という話を聞きました。
   歩くより舟の方が早かったのだそうです(土浦まで直線で15km弱、今は車で25分)。
   今70歳前後の方ですから、50年ほど前の話です。
   別の方からは、つい最近まで、尾根の上の道はあったことはあっても軽トラがやっと、
   集落へ降りるのが急坂で難儀だった、という話も聞きました。
   実際、新設の舗装道路は、尾根から集落へはかなりの急な「切通し」になっています。
   「外」へ行くのは、大変だったのです。

下は、このお宅を水田の中を流れる川から見た写真です。正面の赤い屋根が「長屋門」。
   


赤い実線で囲んだあたりが「屋敷」。点線で囲んだのは、このお宅の農地が広がる部分。
「長屋」門から6.70m入ったあたりが母屋。当初の「建屋」もそのあたりにあったのでしょう。

現在の「屋敷」の広さは、軽く3000㎡を超えます。1000坪以上です。
しかし、住み着いた当初に、このお宅が、この「範囲」を「誰か」から取得した、というわけではありません。
このお宅の先祖が住み着いたこの「潜み」は、「誰か」の持分であったわけではなく、この「範囲」も、このお宅がその「持分を主張した」わけではないのです。現在の不動産取引の「感覚」は通用しません。

あえて言えば、この「潜み」の「当初の持ち主」は、「自然・天然」。
当時の人なら、そこは「天の持分」と思っていたでしょう。だからこそ「地鎮」の考えが生まれるのです。
そして、小さな砦:「建屋」を基点に、周囲を営々と耕作する。それに応じて耕地も広がる・・・・。
そうして何代ものうちに、いつのまにか、このお宅の係る耕地が広がり、「持分」が決まり、そして「屋敷」を構えるようにもなる。
おそらく、そういう過程を経て、現在の姿の原型が生まれたものと思われます。
そのお宅の営農努力が「持分・範囲」を決めた、と考えてよいのではないかと思います。
当初は、人の手が付かない「天の持分」のままの土地がいっぱいあったのです。
山林原野まで持ち主が決められたのは、明治になってからではなかったでしょうか?その点詳しく調べてありません。

   多くの場合、集落の統括者はその地の最古参で「篤農家」。それゆえ、営農地も広くなる。
   そして大概、後に「地主」になっているようです。

   「現在の姿の原型」と書いたのは、第二次大戦後の農地改革、そしてその後の圃場整理によって、
   「持分」に大きな変化が起きているからです。
   「ある集落」の人たちが営々として開いた農地に、「他の集落」の方の農地があったりします。
   かつては、屋敷の目の前がそのお宅の農地であるのが普通でしたが、必ずしもそうではなくなったのです。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

さて、なぜこのような話を延々としてきているのか?
農耕生活者たちの集落のできかたや農家の営農の話は分った、しかしそれが「建物をつくる」ことと何の関係があるのか。そう思われる方がかなり居られるのではないでしょうか。

これまでの私の経験では、建築に係る方がたの多くは、都市計画などに係る方がたも含めて、こういう話をきらいます。

けれども、ここに書いてきたような、拠点:砦としての「建屋」(場合には「屋敷})を起点・基点に、つまり、「自分の住まい」を起点・基点に、「ある方向」へそれぞれの「世界」が広がる、というのは、土地への密着の度合いが全く異なる非農業者の生活(昔の言葉で言えば、第二次産業、第三次産業に係る人たちの生活)も、つまり、現在の多くの人びとの生活の場面でも同じだからなのです。
しかし、この「事実」も、ややもすると忘れられている、そのように私には思えます。

そこで、次回以降、この点について考えたいと思います。

   註 ここに書いてきたことを「味わう」ことができる小説があります。
      今では読む人も少なくなってしまった小説。
      「十五少年漂流記」(「二年間の休暇」)1888年 ジューヌ・ヴェルヌ著
      「ロビンソン・クルーソー」1719年 ダニエル・デフォー 著
      いずれも、無人の地にどうやって住み着いてゆくか、その過程が描かれます。
      18~19世紀の人は、現代人より数等想像力が豊かだった、と思います。
      そして「原点」と「過程」を大事にした。「結果」だけを見なかった・・・。
   

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