広島土砂災害被災地は、古代遺跡:古墳:の密集地域でもある

2014-08-26 09:38:42 | 居住環境
[各所文言、言い回し 改訂 14.55]

今回の広島の土砂災害、そのすさまじさに驚愕しています。
亡くなられた多数の方に哀悼の意を表するとともに、被災地の皆様にお見舞い申し上げ、これ以上災禍が拡大することのないよう祈念しております。

広島という大都市の市街地でこのような規模の土砂災害とは?と、最初は信じられませんでした。
というのも、私は広島の街を訪れたことがなく、今回の報道で、名前だけは知っていた安佐南区安佐北区が、これほどまでに山に迫った場所であるとは考えてみたこともなかったのです。
広島の市街というのは、太田川のつくりだしたデルタ地域に拡がっている、とばかり思っていたからです。

そこで、各種の地図と「日本歴史地名体系 広島県の地名」で調べてみました。
この二つの区、安佐南区安佐北区は、広島市が昭和55年(1980年)に政令指定都市になった際の誕生で、広島市のもともとの市街ではなかったようです。

下に国土地理院発行の「20万分の1地形図」から当該区域を転載します( non scale ですが、ほぼ同一縮尺です)。
左は平成元年(1988年)編、右は明治21年(1888年)編の地図からです。両者の間にはちょうど100年の開きがあります。
   明治の地図は「広島県の地名」の附録で、国土地理院の前身、陸軍陸地測量部作成の「迅速図」(急いで作成という意)と呼ばれている地図です。[追補]



明治の地図から、安佐南安佐北一帯は、広島城下からおよそ10数㎞北に位置し、太田川が山地を離れて最初につくりだした沖積平野の縁:山裾に生まれた集落:村、町であったことが分ります(現太田川の西に旧水路「古川」が蛇行しています)。

そして、現在の地図から、今回の被災地、安佐南区・八木(やぎ)、同・緑井(みどりい)のあたりは、近世には大きな集落(いわゆる町場を含みます)に発展していたことも分ります。街道が通り、それをなぞるように鉄道が敷設されているからです。
   いわゆる街道は、大きな集落をつないで生まれます。そして、近代初頭の鉄道は、その街道の人や物の流れの代替を意図してつくられるのが普通でした。
   今は、道路、鉄道を先ず敷設し、そこに人を集める、人が集まる、と考えるのがあたりまえですが、それは「現代の《求利》的な発想」に拠るものです。
    このあたりについては下記で触れています。
     「建物をつくるとはどういうことか-16
     「鉄道敷設の意味・その変遷-1
     「鉄道敷設の意味・その変遷-2
     「鉄道敷設の意味・その変遷-3」 
   地図にある可部線は、山陽本線の横川駅(広島駅の一つ西側の駅です:地図参照)を基点として明治42年(1909年)に民間の手により創設された鉄道です。
   この鉄道が、横川を起点とするのは、多分、横川が、街道や水運(太田川)の拠点の街だったからではないでしょうか。
   なお、横川の西側にある河川は、太田川放水路で、昭和7年(1932年)広島中央市街地の洪水防止のために設けられたもので明治にはありません。
                                                                            (以上は「広島県の地名」などに拠る)

「広島県の地名」によると、この緑井八木一体には古代遺跡:貝塚や古墳が多数存在することが紹介されています。特に古墳は、想像を絶する数に上ります
いささか驚きました。このことは、どの報道でもまったく報じられていません。

そこで、広島県の遺跡地図を広島県教育委員会のHPから検索しました。「広島県の文化財」から閲覧できます。
下に、「広島県の遺跡地図」から、当該地域の「遺跡分布図」と国土地理院の「5万分の1地形図・広島」(昭和45年:1970年:編・平成元年:1988年:修正版)を転載します。縮尺は同一に編集してあります。

右図が「遺跡地図」の抜粋、その右上の赤い字で埋め尽くされているところ、つまり遺跡が密集している一帯が緑井八木の地にあたります。
左図が「地形図」の抜粋です。図上部の鉄道・可部線と横一文字に川を渡る道路の交点あたりに緑井の駅、そして、鉄道を右上にたどり、地図を出たあたりが八木駅、地図を出る直前に梅林(ばいりん)駅があります。集落:町は、鉄道の左側:北西側の山裾に拡がっています(地図参照)。



このように古代遺跡:古墳などが多数存在する、ということは、一帯が、古代、きわめて豊饒な地であったということの証左にほかなりません。
以前、小出 博 著「利根川と淀川」に、古代、西南日本:簡単に言えば関西地域:が東日本よりも早く繁栄したのは、西南日本の地質が真砂(まさ:花崗岩の風化してできる土)主体であるため、広大な天然の良田:豊饒な地が多く、それゆえに、一帯が繁栄した、権勢を誇り得たのだ、とあることを紹介しました。

   けれども、そういう土地は限られています。それゆえ、利用が隅々にまでゆきわたれば、先がありません。繁栄に限界がありました。
   それゆえ、天然の耕地を利用し尽した以降(古代末~中世以降)、東国に繁栄の座が移るのです。
   それは、東国は天然の良田は少ないけれども、「可耕地(手を加えれば耕地化できる土地)」は多く存在したからです。
   このあたりの事情については、下記で触れています。
    「関東平野開拓の歴史-1
    「関東平野開拓の歴史-2
この緑井、八木の南東、山裾から太田川に至るまでの土地は、火山灰土が主体の関東なら湿地帯になり、排水の手立てを講じないと良田にはなりませんが、真砂ゆえに豊饒な土地だったのです。
広島県の地名」によれば、それゆえに、一帯には幾つもの「(水田の)条里制遺構」があったようです(「あった」と過去形表現になっていますから、多分、現在は知ることができないのだ、と思われます)。
このような豊饒な土地であるならば、当然、豪族が誕生してもおかしくありません。
そして、彼ら一族が、おそらく、広大な耕作地を前面に見渡せる後背地の南東向きの緩斜面(この緩斜面も、真砂の地質ゆえに生まれた地形です)に居住地を構えたことも容易に想像できます。
そしてまた、これも当然のように、権勢のシンボルとして、墳墓をも一画に設けたのです。それがいわゆる「古墳」です。

   私の暮す茨城県の出島は、火山灰地、典型的な関東ローム層の地。赤茶色をしています。
   ただ比較的水はけはよく、谷地田は良好な水田です。谷地田を囲む関東ローム層の台地は、層が厚く、堅固です。気候も温暖。
   この水田と周辺の山の幸と霞ヶ浦の幸で、この地は古代大いに繁栄し、常陸国の一画となります。国府は、出島の付け根に在ります。今の石岡です。
   一帯にも縄文期~古墳時代の古代遺跡が多数あります。その立地も、緑井八木と同様の小高い丘陵状の地です。
   しかし、出島は、周辺に比べ遺跡群の多い地域ではありますが、緑井八木のように密集はしていません。

広島県の遺跡地図」には、別表で、各遺跡が一覧表にまとめられています。その中から、緑井八木の一部を下に転載します。

この表は最新のもので、この原本になった「旧表」があるようです。「旧表」の遺跡番号がこの表の右辺にある「旧番」です。「旧番」があるけれども、備考欄に「消滅」あるいは「全壊」とあるものは、最新の地図(前掲の「遺跡分布図」)には載っていないようです。

私がこの一覧表をみて不思議に思ったのは、これだけの数の古墳がありながら、集落・住居址が少ないことでした。
これはおそらく、古代の集落・住居址は、その後も引き続いて各時代の居住地となったからなのではないでしょうか。
あくまでも推測ですが、たとえば、近世の住居を調査・発掘すると、前代までの住居遺構が重なっているのが見られるかもしれません。
   前掲一覧表のトップにある375番遺跡(集落跡)は、詳しく知りたい遺構です。概要欄の「テラス状遺構」が気になるからです。
   これは、傾斜地に無理なく構築するための古代人の工夫ではないか、と思います(ただし、盛土面ではなく切土した面の利用と思います)。
     現在は、土地の「有効利用」として、盛土面の利用も当たり前ですが、古代の人びとは、盛土面に建物をつくることは考えなかったようです。
     この点については、東大寺の伽藍配置を例に以下で触れています。
     「再検:日本の建物づくり―2

もう一つ、一覧表で驚いたのは、遺跡番号405番~408番の備考欄の「宅地造成により、全壊、消滅」という記述です。
先の遺跡番号375の集落跡も、発掘調査後、「住宅団地造成で消滅」とあります。
他にも「消滅」と記された例がかなりありますが、いずれも似たような経緯ではないかと推察します。
   古代人が、今回の土砂災害を知ったならば、彼らは「山が怒った」と思ったにちがいありません。

遺跡・遺構所在地に手を付けるにあたっては、最低限、発掘調査を行い「報告書」を作成するのが「常識」ではないか、と思いますが、その調査が行われたとの記述事例はきわめて少ないようです。
   出島一帯の古墳、住居址などで、調査もされず消滅し、という事例はないようです。私の居所にも竪穴住居址がありましたが、調査済とのことでした。
   と言うより、私の暮す近在では、あの畑の中のこんもりした小山は何か、と思って調べてみると、大抵は墳墓の跡です。時代は中世、近世さまざまです。
   古墳なども、周囲が畑地として多少削られてはいても、消滅、全壊というのは見かけません。祠があったり、指標となる樹木が一本立っていたりします。
   近在に暮す方がたが、祠を建て、樹木を植え、「尊重」してきたのです。
   この経験から言って、この一覧表の記述には大いに驚きました。

古墳時代とは、通常、4世紀から7世紀頃のことを指します。最短でも今から1300~1400年前のことです。古墳は、その頃の人びと・工人が築いたのです。

今回の土砂災害の因は、一つに地域の土質:真砂(まさ)にある。そういう地質の地に異常な豪雨があって表層崩壊・土砂災害は起きた、と解説されています。

しかし、この地域が一大古墳密集地域であることを知って、私は、この「解説」に疑問、違和感を感じました。
そうかもしれない。しかし、古墳が築かれてからの1300~1400年の間に、土質に変化があったとは考えられず古墳時代真砂の地であったはずだ。また、1300~1400年の間に、今回のような異常な降雨が一度もなかった、などということも考えられない。
むしろ、この長い年月の間には、この真砂の地域は、数多くの天変地異に遭っている、と考える方が無理がない。
であるにもかかわらず、古墳時代につくられた古墳は、この1300~1400年間健在だった、天変地異による破壊消滅はなかった、ということです。

遺跡番号375番の集落跡や405番~408番の古墳群も、「人為的に壊されなければ、現存したはず」なのです
つまり、消滅、全壊という事例は、いずれも、人為によるもので、自然の力に拠るものではない、と言い切ってよいのではないでしょうか。

   もちろん、中には自然消滅した例もあるでしょう。そうだとしてもなお、これだけ多数の事例が、1300~1400年間健在だったのです。

この地に、遺跡群を壊して多くの宅地造成が行われた、という事実を知り、私が報道で感じていたもう一つの疑問が解けました。
その疑問とは、被災地が歴史のある地域・街であるのに、被災映像には旧い建物や旧い街並の被災例を一つも見かけないのはどうしてなのだろう、という疑問です。
現地を見ていませんから、あくまでも推測ですが、被災は、おそらく大半が、造成宅地と、そこに建てられた建物だったのではないでしょうか。


私は、安佐北、安佐南全域について、何処が被災し、何処が被災しなかったのか、旧い街並や建物、あるいはまた数多くの遺跡群・古墳群が被災したのか、どの程度被災したのか、あるいは被災しなかったのか・・・を含み、知りたいと思っています。
それは、「被災状況」だけを知るのでは片手落ちだと考えるからです。「被災しなかった状況」を知ること、実はそこにこそ大きな「示唆」があるはずだからです。

   残念ながら、非被災地域の状況はもとより、遺跡・古墳群の状況は、一切報道されていません。ご存知の方、ご教示いただければ幸いです。
   なお、被災事例だけを見て、非被災事例を見ない「悪しき習慣」の問題点については、以下の記事でも触れています。
    「地震への対し方-1・・・『震災調査報告書は』事実を伝えたか

このような被災・非被災の具体的な状況のデータをも踏まえ、次の「何故」を考えるとき、単に「真砂」と「異常気象」にだけ因を求めて済ますのではなく、今回の災害の真因に迫れるのではないか、と私は考えています。
  何故、古墳は、1300~1400年の間、天変地異に拠っても消滅することがなかったのか?
  何故、現代の人びと・工人は、古代人の構築物:しかも墳墓:を壊してまでして、この地に住宅地をつくろうとしたのか? 
  何故、現代の人びと・工人がつくった「造成宅地」は、数十年も経ずして、容易に崩れ去ってしまったのか?


以上、今回の「災害」について、考えたことを、雑然と書き並べました。
現地はまた雨のようです。無事を祈ります。
コメント (7)
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近時雑感 : 「お守り言葉」

2014-08-18 09:00:00 | 近時雑感

いつも散歩の時の通り道です。
ここしばらくの雨で、(オギ)が一気に繁ってしまいました。
人の丈ほどあります。朝は露で通れません。
近日中に、刈払いの予定です。刈りがいがありそうです


8月15日の新聞の社説を、web 版で読み比べました(毎日、朝日、読売、東京、信州毎日)。
その中で、私の印象に強く残ったのは、朝日が引用していた次の文言でした。

  ・・・・政治家が意見を具体化して説明することなしに、お守り言葉をほどよくちりばめた演説や作文で人にうったえようとし、
  民衆が内容を冷静に検討することなしに、お守り言葉のつかいかたのたくみさに順応してゆく習慣がつづくかぎり、何年かの後にまた
  戦時とおなじようにうやむやな政治が復活する可能性がのこっている・・・
(原文のまま転載)

これは、哲学者 鶴見俊輔氏が、敗戦の翌年に発表した論文にある一節、とのことでした。
お守り」とは、「新明解国語辞典」によれば、「それを持っている人を、神仏が災難から守るという札(物)」のこと。
お守り言葉」とは、社説の文言をそのまま引くと次のようなこと(段落を変え、一部を太字にしてあります)、

  ・・・・「お守り言葉」とは、社会の権力者が扇動的に用い、民衆が自分を守るために身につける言葉である。
  例えば戦中は「国体」、「八紘一宇(はっこういちう)」、「翼賛」であり、
  敗戦後は米国から輸入された「民主」、「自由」、「デモクラシー」に変わる。
  それらを意味がよくわからないまま使う習慣が「お守り的使用法」だ。
  当初は単なる飾りに過ぎなかったはずの言葉が、頻繁に使われるうちに実力をつけ、最終的には、自分たちの利益に反することでも、
  国体と言われれば黙従する状況が生まれる。
  言葉のお守り的使用法はしらずしらず、人びとを不本意なところに連れ込む。・・・・

社説は、現下の首相が、「特定秘密保護法」「集団的自衛権」あるいはまた首相が多用する「積極的平和主義」なる「概念」について、何ら具体的な説明を施すことなく、たとえば、それに異議を唱えると「見解の相違」として突き放す、その「行為」を批判的に論じ、ぞの文脈の中で、鶴見氏の論文を引用していたのです。
この論調は、東京、毎日、信毎にほぼ共通していたと言ってよいでしょう。「説明して理解を得る努力をする」とは、首相の口から何度も出された言ですが、未だに聞いたことはないように思います。

一方、訳の分からない「積極的平和主義」を「集団的自衛権」とからめて「丁寧に解説」してくれたのが読売の社説でした。「首相の代弁」と言えるかもしれません。
読売は、社説を次のような文言で締めくくっています。
  ・・・・・
  軍事と外交を「車の両輪」として機能させ、(テロや紛争などの)抑止力を強めることが肝要だ。
  それこそが、8月15日以外に、新たな「終戦の日」を作ることを防ぐ道となろう。
    註 (  )内は、前後の文意をもとにした筆者の加筆。

私は、「独特の論理」の文章にてこずりながら、やっとの思いでこの文言に辿りついたとき、すぐさま、先に紹介した白川 静氏の「字通」の「安全」の解説にあった次の文言を思い出していました。 
   「安全」 : 危うげなく、無事。[顔氏家訓、風操]兵は凶にして戦ひは危し。安全の道に非ず。・・・・
だいたい、武器を片手の「外交」とは、いったい何なのでしょう?
武力を持つ諸国が、武力の増強に努めるのは何故でしょうか?
それは、「武力」を示すことで「外交」を有利にすすめようという思惑、端的に言えば、腕力の強い者が勝つ、という《思考》を強く持っているからではありませんか?
そういう諸国と肩を並べて武力を競う国、それが「普通の国」なのか?そういう国に再びなること、それが「日本を取り戻す」ということなのか?そんなことを思いました。
このあたりを「やんわり」と皮肉っていたのは、13日の東京新聞の「私説・論説室から」の「歴史までコピペするのか」という一文。
  ・・・・
  コピペ行為には思考停止に陥る危うさがある。他人の意見やアイデアを都合よく盗み取り、自分の頭では考えないからだ。
  そこには努力や真心の結晶はかけらも残らない。
  広島と長崎の原爆の日。安倍晋三首相のあいさつは核や原爆症をめぐる内外の動きを紹介したくだりを除き、去年のコピペに等しかった。
  平和の尊さに思いをはせた痕跡は感じられず、安易に官僚任せにしたに違いない。
  立憲主義を骨抜きにし、日本を戦争ができる国に変える。負の歴史までコピペするのは無邪気では済まされない。
  誰の悪知恵の盗用なのか。厳しく審査しなくては。
 (大西隆)

そしてまた、13日の毎日朝刊「水説」(毎水曜日に載る論説の名称)でも、同様の論を「視点」を変えて論じていました。これは全文を web 版から転載します(段落変え、太字化は筆者)。

  水説 :「民」はどこへ=中村秀明

  広島と長崎の「原爆の日」の式典で、安倍晋三首相のあいさつの冒頭3段落分が、昨年とほとんど同じだったことが議論になっている。
  6日の広島。「68年前」が「69年前」になり、雨だったので「セミしぐれが今もしじまを破る」は削られた。それ以外は一字一句同じである。
  「使い回しなんて被爆者に不誠実だ」という抗議を受け、3日後の長崎ではどうするのかと注目した。だが、やはり「68年前」が「69年前」になっただけだった。
  平和と核廃絶への重い決意が感じられない、と首相への批判は根強い。
  一方で、慰霊の場が時々の権力者のパフォーマンスに利用される方が問題だ、との声も聞く。
  実は、使い回し以上に気になったことがある。違ったところ、変えた表現である。ほとんど同じだった部分の後、4段落目が微妙に違う。
  広島も長崎も、昨年はこうだった。
  「私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民であります。そのような者として、我々には、確実に、『核兵器のない世界』を実現していく責務があります」
  今年は違った。
  「人類史上唯一の戦争被爆国として、核兵器の惨禍を体験した我がには、確実に、『核兵器のない世界』を実現していく責務があります」
  核なき世界を目指す主語が「国民」から「国」になった。「民」は消えた。
  どっちでも同じじゃないか、というかもしれない。国民が国になり、働きかけが強くなった、というかもしれない。そうではない、と思う。
  作家・村上春樹さんのあいさつを思い出す。2009年2月、エルサレム賞の授賞式。
  「卵と壁」にたとえ、私たち生身の人間と、国家や組織、社会制度という強固なシステムとの対立を語った。
  「私たちはみな、形のある生きた魂を持っています。システムにはそんなものはありません」
  「システムに自己増殖を許してはなりません。システムが私たちをつくったのではなく、私たちがシステムをつくったのです」

  5年たって、村上さんの問いかけは重い。
  今、世界のあちこちで「民族」や「自衛」、「宗教」、「経済発展」といったもっともらしい装いをまとい、国家や組織が自己増殖しつつある。
  そして、個が押しつぶされそうな息苦しさが広がっている。
  それは、この国も決して例外ではない。首相あいさつの同じではなかった部分にそう思った。(論説副委員長)

考えてみるまでもなく、自分にも理解できない、ゆえに自分で説明もできない、そういう言葉で、書いたり、あるいは、話したりすることは、できない、してはならない、私はそう考えています。



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「日本家屋構造・下巻・参考篇」の紹介-4・・・・「(四)障子及び襖の部」

2014-08-16 09:37:00 | 「日本家屋構造」の紹介


少し間が明いてしまいました。

今回は、「(四)障子及襖の部」の紹介になります。
図は第十九図から第二十三図まで。そのうち、第二十一図~第二十三図は、障子の組子の「意匠」の図です。
今回も、図とその解説を組になるように編集し転載することにします。
   ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
はじめに第十九図の解説と図。

第十九図 甲 腰付障子(板腰付障子) 全高は内法高(敷居~鴨居の高さ)より3分伸ばす(鴨居・敷居への「のみこみ」分の意と解します)。
         縦(竪)框:見付0.9~1寸×見込1寸
         下桟:成(見付)1寸4分×厚さ(見込)9分5厘
         中桟:成(見付)1寸×厚さ(見込)9分5厘
         上桟:成(見付)1寸5分×厚さ(見込)6分
            框の見込寸法から、敷居・鴨居四・七溝にしていることが分ります。
              四・七溝:敷居・鴨居の中央部に幅4分の凸部:樋端(ひばた)を残し、両側に幅7分の溝(深さ≒5分)を彫る場合の呼称。
              見込1寸の引違の戸の隙を1分にするために、四・七溝となる。
              第二〇図 乙のように、見込1寸1分の戸のときは、五・七溝(中央の樋端の幅を5分、溝幅7分)になります。 
         組子:厚さ(見付)2分5厘~3分×幅(見込)5分~5分5厘
            縦(竪)組子3本、横組子10本
            小間(横組子の間隔)の割り方は美濃紙(短辺の長さ9寸)全長を二小間となるように割る(組子の上端~下端≒9寸)。
         腰板:杉四分板を用いる。
        註 美濃紙の寸法については、次項の註を参照ください。
           紙をぎりぎり使ったときの、内法高5尺7寸の腰付障子の腰の高さ(下桟下端~中桟上端)を求めてみる。
           二小間の組子外面=9寸 ∴ 小間内法=[9.0寸-(0.25×3)]/2=4.125寸
                           ∴ 中桟上端~上桟下端=4.125寸×11+0.25×10=45.375寸+2.5寸=47.875寸
                           ∴ 腰の高さ=全高(内法高)-上桟の見付-[中桟上端~上桟下端]
                                    =57.0-1.5寸-47.875寸
                                    =7.625寸
             通常は、腰の高さをこの寸法近辺にして(たとえば7寸5分あるいは8寸)、後は上桟の見付寸法で調整すると思います。
             当然、障子の姿の検討は、その障子が、その場の surroundings として妥当かどうかの検討が前提になります(後註参照)。

第十九図 乙 雨障子(あま しょうじ) 図は水腰障子の例
          材寸は図 甲に同じ(∴各材の材寸を再掲します)
         縦(竪)框:見付0.9~1寸×見込1寸
         下桟:成(見付)1寸4分×厚さ(見込)9分5厘
         中桟:成(見付)1寸×厚さ(見込)9分5厘
         上桟:成(見付)1寸5分×厚さ(見込)6分
         組子:厚さ(見付)2分5厘~3分×幅(見込)5分~5分5厘
            縦(竪)組子3本、横組子11本
         仕口:すべて包込み枘差しとし、糊併用で組む。
        註 雨障子:雨のかかるおそれのある場所に設ける明障子のこと。
                 西の内和紙など厚手の紙を使い、糊には酢を加え、貼って乾いた後油を塗る。油障子ともいう。(「日本建築辞彙」などによる)。
           水腰障子(みずこし しょうじ):腰を設けない明障子(腰を見ず?!)
        註 美濃紙の寸法
           現在の規格では、
           美濃判394mm×273mm(1尺3寸×9寸)となっています。
           一方、「わらばんし」などの呼称で普通に使われている半紙(一般的な書道用紙)も規格紙です。
           半紙判333mm×242mm(1尺1寸×8寸)
           現在市販のロール状障子紙には、この規格に合わせ、幅9寸もの8寸ものとがあるようです(その他に大判ものもある)。

           水腰障子・横組子11本の場合、内法高5尺7寸として、小間の間隔は、(57寸-2.9寸)÷12≒4.51寸
           すなわち、一小間≒4寸5分=美濃紙短辺の1/2になり、紙に無駄が生じない。
           一般に、内法高5尺7~8寸の水腰障子横組子11本の障子が多いのには、それなりの謂れがあるのです。 
           組子の割付けは、単に《意匠:デザイン》だけでは決められません。     
第十九図 丙 ガラスを嵌め込んだ腰付障子の例 
第十九図 丁 横繁障子(よこしげ しょうじ)の例
         上級品は檜、椹(さわら)、腰板に神代杉、杉柾板などを用いる。
           材寸は、組子以外、前者(甲)に倣う。
         組子:厚さ(見付)1分5厘~2分×幅(見込)5分
             縦(竪)組子3本以上、横組子15本を普通とすし、3小間を紙1枚の長さ:幅(9寸)とする。
             付子(つけご)を設け、面腰を押す場合もある。
        註 水腰障子横繁として、乙に倣い計算すると、小間の間隔は、(57寸-2.9寸)÷16≒3.4寸 となり、3小間では紙の規格を超えます。
          ちなみに、原文の図は、解説とは異なり、腰付障子で、横組子は16本あります。
          また、横組子15本に拘ると、上下桟合計≧57寸-(16小間×3寸)=57-48寸=9寸 となり、上下桟の成:見付が大きくなりすぎます。
          普通は、組子一小間がおよそ4寸5分以下になることを念頭に置き、横組子の本数と上下桟成:見付とを勘案して決めていると思います。
             現在は大判の紙があるので、そこまで考えずに《任意の意匠》で組子を決めるのが普通になっているかもしれませんが・・・・。
第十九図 戌 便所 窓障子 
           註 おそらく、嵌め殺し(fix)が一般的だったのではないでしょうか。
         縦(竪)框:見付6分×見込9分
         下桟:幅(見付)8分×厚(見込)6分
         上桟:幅(見付)1寸×厚(見込)6分
         組子:厚(見付)1分5厘×幅(見込)4分5厘
             縦2~3本、横は高さにより決めるが、3小間を上1枚(9寸)とする。
         仕口:包込み枘差しとし、糊併用で組む。
        註 付子、面腰を押す包込み枘差しなどは、「『日本家屋構造・中巻:製図篇』の紹介-24」参照。
   ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 
続いて第二十図解説(上段)と(下段)。


第二十図 甲 硝子入障子
         横繁障子(第十九図 丁)に硝子を嵌め込んだ障子
第二十図 乙 中障子 杉戸障子を嵌め込んだ建具を呼ぶ。
         縦(竪)框:見付1寸4分×見込1寸1分
         上下桟:幅(見付)は縦框の2分増し、厚さ(見込)は縦框に同じ
         中桟:見付1寸4分(竪框に同じ)、厚さ(見込)は縦框に同じ
           この見込寸法は、樋端五・七溝とした寸法です。
         仕口:すべて二枚の包込み枘差し、または鎌枘差しとし、面腰を押しで組み立てる。
        註 鎌枘差し第二〇図 巳のような仕口をいう。
第二〇図 丙 横繁障子組子の組み方
         図の四周の材を付子(つけこ)という。
         横繁障子組子の間隔は、紙の長さ:9寸の間に2本以上入れる(図の点線で示す)、すなわち3小間≒9寸ほどとする。
        註 原文の、「そのは(組子の枘の意と解す)付子を貫通して框に差す・・」がイメージできません。どなたかご教示を!
           普通は、組子の見込幅の小穴を浅く突いておき、そこに付子を嵌めていると思います。
           付子半幅の小穴の場合もあります(付子側も半幅决る)。 
第二〇図 丁 襖の仕上り姿図
第二〇図 戌 襖の張付組子の構造図
         材料:上級品では檜、椹、普通品は杉を使う。
         化粧縦縁:6分角(見付6分×見込6分)
         化粧下桟(下縁):見付7分×見込6分
         化粧上桟(上縁):見付9分×見込6分
         定木縁(定規縁):見付は縦縁に同じ。見付面は蒲鉾形あるいは大面取りとする。
            註 化粧縁は、現在、一般には、次のようにしているようです。(学芸出版社「和室造作集成」などによる)
              化粧縦縁:6分5厘角
              化粧上桟:見付9分(縦縁見付幅+鴨居溝呑込み分2.5分)×見込:6分(縦縁の面内∴縦縁見付-5厘)
              化粧下桟:見付7分(縦縁見付幅+敷居溝呑込み分0.5分)×見込:6分(縦縁の面内∴縦縁見付-5厘)
         組子(外周分):見付5~7分×見込5分5厘
         組子      :見付3~4分×見込5分5厘
         力骨      :見付6~8分×見込5分5厘(見付を組子の2倍程度にする)。本数は、縦1本横3本。
                   組子と力骨の総本数:縦3本×横11本(図参照)。
         入子縁(いれこ ぶち)の場合
           註 入子縁とは、化粧縁側面に組子の厚さ(見込)分の溝を彫り、組子に嵌め込んで納める方式の化粧縁、と解しました。
                「日本建築辞彙」所載の「入子縁」は、襖の用語ではありません。他の参考書でも見つかりませんでした。
                それゆえ、原文文意から、上記の意に推察しました。他の解釈がありましたら、ご教示ください。
              縦框:見付8分~1寸×見込9分または1寸
              上下桟:見付縦框の見付の2分増し(ただし、見えがかり:溝外の寸法)
              組子:見付7分×見込5分5厘
              仕口:隅は、襟輪目違いを設け糊併用で組み立て、木あるいは竹釘で固定する。 
                  縦縁(框)の上下は、図のように角柄を出し、上下桟の上下にて頸切りを施す。
                  四隅の力板および引手板を取付け、現場で実際に嵌め込み建て合せを調整の後、紙貼の工程に入る。
                  紙貼りの工程:骨縛り:下貼→太鼓貼→美濃貼→視の縛り→袋貼→上貼
              化粧縁の取付け法
                 通常:外周張付縦組子側面に仕込んだ折釘に送り込みで取付け。
                 入子縁の場合:外周張付縦組子に樫製のを@8寸ほどに植え込み、化粧縁側に彫った蟻孔をそれに掛ける。
                 その際、上下の化粧桟(縁)は、端部に鎌枘をつくりだし、縦框(縁)の木口に彫った枘孔に嵌め込む(図 巳にならう)。
           註 「折釘」「紙貼り工程」などは、「製図篇」の「仕様書」紹介の項をご覧ください(「『日本家屋構造・中巻:製図篇』の紹介-24」)。
   ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 
次は第二十一図。いずれも、組子を文様に組む模様組子の例。図では縦框、上下框(桟)を省いてある。

第二十一図 甲 松川菱組(まつかわ ひしぐみ)
           欄間や小障子(嵌め殺しなどの小さな障子の意か)に用いるときの組子は、見付7~8厘×見込3~4分。付小も同寸が普通。
           このような模様組子の留意点は、その割り方、配置にあるから、各隅の明きの形などは、極力均一になるよう努める必要がある。
第二十一図 乙 霞組障子(かすみ くみ しょうじ) 図では霞障子組(かすみ しょうじ くみ)
           付書院、窓などに用いるとよい。
              縦框:見付5分5厘×見込8~9分
              組子・子:厚さ(見付)8厘~1分×幅(見込)4分
              仕口:包込み枘差し
第二十一図 丙 菱井桁継(ひし いげた つなぎ)障子 図では井桁継組(いげた つなぎ ぐみ)
第二十一図 丁 竹之組子障子(たけのくみこ しょうじ) 
           煤竹などを両面から削り落として組子に用いるもので、大変雅美なものである。
            註 いずれも、開閉については触れられていません。
               また、近世初期の書院造などには、使用事例がないようです(初期の付書院などの障子は縦繁程度が普通です)。
   ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 
第二十二図  図では縦框、上下框(桟)を省いてある。 

第二十二図 甲 麻の葉及三重亀甲組(あさのは みえ きっこう ぐみ)
第二十二図 乙 角亀甲組(つの きっこう ぐみ)
第二十二図 丁 菱蜻蛉組(ひし とんぼ くみ))
第二十二図 丙 三つ組手の仕方 
            甲乙丁のような組子は、主要部のみ図のように組み、他の個所(という)は糊付だけとする。
            の厚さ(見付)は、組子の厚さ(見付)の1/2とする。
   ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 
最後は第二十三図

第二十三図 甲 香路組(こうじ くみ)
           上等の障子に使われる組み方。
           第二十図 乙の中障子に適す。
           この場合には、腰板の高さを1尺5寸、上の板の丈を8寸ぐらいとして、他(残り)を障子とするのも」よい。
           註 「日本建築辞彙」には「香字組」とあります。
              日本の古来のゲーム「香合せ」(五種類のを各五包、計二十五包を混ぜ、五包を取り出してその同異をあてる競技)で、
              その結果を五条の線のつなぎ方で示し、それを「香の図」と呼んだ。
              この組子の組み方に「香の図」に似た箇所があるための呼称と考えられます。 
              なお、胴差床梁あるいは差物の柱への差口に、狂いを防ぐための凹凸を刻むことも「香の図(通称「鴻の巣:こうのす」)」と呼んでいます。
              下記中の解説をご覧ください。
             「『日本家屋構造』の紹介-9

第二十三図 乙 流れ亀甲組(ながれ きっこう ぐみ)
           付書院などに用いる。


           **********************************************************************************************************
 
以上が「四 障子及襖の部」のすべてです。

次回は「五 床棚の部」の項を紹介します。

   ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
後 註  「部分」と「全体」

第二十一図~第二十三図で紹介されている「模様組子」は、ほんの一例にすぎず、前掲の「和室造作集成」などには、実に多様な、驚くべき数の「意匠」例が紹介されています。

しかし、このように多種多様な障子が現れるのは、近世末期以降のようです。
簡単に言えば、「建具一枚をしげしげと眺める」ような「習慣」が「普及する」ようになってから現れる、そのように思います。
それはちょうど、商家や農家など一般住居で、不必要な寸面の大ぶりの柱や差物を多用するようになる「現象」と軌を一にしているように思われます。
    いわゆる「民家」では、太い柱や差物を用いるものだ、という「誤解」は、それにより生まれたのです。
    必要最小限の大きさの材を、近在で集めてつくる、それが当たり前のつくりかたなのです。

初期の方丈建築や客殿建築には、このような「模様組子」の例は、まず見かけません。初期の茶室でも同様です

本来、障子の組子は、「紙を貼るための下地」です。
紙はきわめて貴重でしたから、組子の間隔は、先ず第一に、貼る紙の大きさに応じる寸法でなければならなかったのです。

しかし、組子は、紙を貼っても外から見えます。陽が差せば、一層くっきりと見えてきます。
おそらく、その「経験」から、組子の存在が、surroundinngs にとって大きな「役割」を担っていること、たとえば、組子の数の多少は、障子を通しての明るさに微妙にかかわる、組子の方向性は、その部屋の空間の広がりの感じに微妙にかかわる、・・・などということに気付いたのだと思います。
たとえば、第十九図 甲あるいはのような障子が縁側に接する間口いっぱいに入っていると、横に広い感じになるはずです(その障子が縦繁であるとすると、様相はがらりと変ります)。
   このような「効果」を用いた好例が大徳寺孤篷庵の本堂・客殿(方丈)~書院のの接続部につくられている茶室忘筌の西側の開口部です。
     大徳寺孤篷庵については、「日本の建築技術の展開-19」「同-20」をご覧ください。
   この記事から、大徳寺孤篷庵の平面図と忘筌の写真を再掲します。

    
   先ず、この西面上部の障子が、忘筌の静謐な空間の造成に大きく関わっていること、
   そしてまた、この障子の組子が、縦繁や最近多い方形だとしたら、忘筌の surroundinngs が台無しになること、が分ると思います。
   つまり、ここでは、障子それ自体は、単なる「鑑賞」の対象ではなく、「忘筌」の surroundinngs をつくりだすための、「一要素」として考えられているのです。

   いわゆる客殿建築の「襖絵」も、現在は、取り外して美術館などで展示・陳列して「鑑賞する」のが当たり前のようになっています。
   しかし、「襖絵」も、本来そのような「鑑賞」の対象として描かれたのではありません。
   第一、そういう「襖絵」のある客殿を訪れた客人が、主人の方ではなく「襖絵」に向って座って絵を見ている、などという場面はあり得ません。
      奈良のある古寺の客殿に、現代の有名日本画家が新調した襖絵を展覧会で見たことがあります。
      そのとき、このが入れられた客間の空間を想像して、これでは空間に馴染まない、絵だけ浮いてしまう、と思ったものでした。
   障子も襖(絵)も、往時の人びとは、surroundings の造成、「心象風景」の造成に大きく関わる、と考えていたのです。人びとすべてが分っていたのです。
   それが、いつの間にかすべて忘れられてしまった・・・・!もったいないことだ、と私には思えます。

   本書が模様組子のいくつかを、いわば唐突に、取り上げているのは、明治期の都市居住者の間に、建物の「構成要素の一部」を「鑑賞」の対象と見做し、
   その見栄えの「良し悪し」で建物の「価値」が定まる、と考える「風潮・願望」が強くあった
ことを示しているのではないでしょうか。
   そういう「風潮・願望」に応えるべく、この書は、「見栄のはりかた」の最も簡便な「方策」の手引書の役目を一定程度果たしていた・・・のかもしれません。
   そうだとしたら、それは既に、「となりのクルマが小さく見えます」に代表される「現代の人の世の様態」の「予兆」だった、と言えるのではないでしょうか。

   最近の建物づくりにも、surroundings よりも見栄、見えがかり、他との差別化・・・に執心する、そういう「気配」が濃い、そのように私は思います。

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近時雑感 : 「分ること」 と 「伝えること」

2014-08-11 14:52:35 | 近時雑感

椎名家の大戸です。ボケてます。あしからず。


[末尾にリンク先追加 19.25」[更に追記 13日 7.20]
先日、「高次脳機能障害」についての研究者であり、「言語療法士」(「言語聴覚士」とも呼ぶようです。Speech Therapist:STの邦訳)でもある方の、自ら脳梗塞を発症、高次脳機能障害に陥り、リハビリで復帰した経験談をTVでみました
   「私のリハビリ体験記 関啓子 言語聴覚士が脳梗塞になった時」 : 13日の午後1時からNHK・Eテレで再放送があるそうです。

一言で言えば、「高次脳機能障害研究者」として「分っていた(と思っていた)こと」と「自分が実際に陥った状況」との間には、まさに「雲泥の差」がある、ということを、あらためて「知った」、逆に言えば、まったく分っていなかった、ということを「知った」、ということになるのではないでしょうか。

これはまさに「真実」だと思います。

私の場合、「話す」ということ、ものを「認知する」ということには、幸いなことに特に支障はありません。
しかし、たとえば、左手指先に遺っている「しびれ」の様態を他の人に知ってもらうことは、容易ではありません。むしろ、不可能と言い切ってもよいでしょう。実状をうまく「伝える」ことができないのです。
どういう様態か、言葉で言い表してみると、たとえば、こんな具合になります。
左手で、たとえばネコの背中をなでる、そのとき、あのネコの毛触りが「ザラザラ」として感じます。右手で感じるそれとはまったく違います。
これは今の様子。発症時は、なでる、さわっている・・・、ことさえ感じられなかった・・・!
そしてまた、「回帰の記」でも触れましたが、左手で眼鏡をはずそうとすると、左手が「目的地」に行き着かないでイライラする・・・。
あるいはまた、水道の水で手を洗う。今でも、水が最初に左手先にあたると、一瞬ですが、棘が刺さったように感じます。「冷たい水である、と認識する」まで、若干時間がかかるのです。だから、もしもこれが熱湯であったとすると、火傷することは間違いないでしょう。これは、OTの方から、気を付けるように何度も念を押されたことでもあります。
「しびれ」というとき、大方の方は、長いこと座っていて「しびれがきれる」その「しびれ」を想起するようです。しかし、その「しびれ」とは、どこか違うのです。そして、これを健常な人に的確に伝えることは、不可能に近いのです。
   今、毎朝のシャツを着るときの「ボタン掛け」の動作は、体調のバロメーターになっています。左手の指先の調子がいいと早いのです。

ところが、少なくとも私が会った理学療法士(PT)、作業療法士(OT)、言語療法士(ST)の方がたは、「私の陥っている様態を適確・的確に理解していた」、そう私には思えました。
なぜなら、彼らの「指導」(というより「示唆」と言う方がよいかもしれません)で、必ず一定程度、様態が「好転する」からです。

もちろん、彼らが、私の陥っている様態と同様な事態を、自ら経験したことがある、それゆえに「知っている」というわけではないはずです。
また、私が彼らに私の様態を正確、如実に、「伝える」ことができていたわけでもありません。

しかし、「適確・的確な示唆ができる」ということは、私が陥っている様態が何に起因しているか、彼らが(一定程度)「分っている」からである、と言ってよいはずです。

TVをみながら、私は、「分る」「分りあえる」ということはどういうことか、またまた考えていました。
本当に分るためには、ありとあらゆる事態・事象を「経験」しなければならないのか?
これは療法士の世界の話には限りません。どういう場面であっても同じです。
しかし、そのようなことは、それこそ「絶対に」あり得ません


しかし、そうでありながら、私たちは「分りあえる」ことができているのではないでしょうか。
もちろん、まったく「寸分の狂いなく分りあえる」わけではありません。
あえて言えば、「概念的に分りあえている」。それで「用が足りている」のです

しかし、こういう「分かりあえる」は、「いわゆる(近代)科学の世界」では、「分ったことにはならない」はずです。そこでは、「分る」とは「《精密に》分ること」、具体的には、数値的に鮮明に示されること、のはずです。
けれども、私たちの日常の「分りあえる」様態は、そうではないのです。このあたりについてはだいぶ前になりますが、
冬とは何か」で触れました。
そしてこれが、まさに、「 communication の『真髄』」なのだ、ということになります。

では、どうやって「概念的」に「分りあえる」ことができるのか。
いろいろ考えてみると、それを支えるのは、私たちそれぞれの「想像力」以外のなにものでもない、という「事実」に辿りつきます。
そして、この「想像力」を培うには、幾多の経験が必要、ということになります。

しかし、単に経験の数を増やしても意味がない。
常に、経験した事象を観察し、経験した事象の「構造」を読み取ることが必要になる、実は、その繰り返しがあってはじめて「経験・体験」になるのだ。そのように私は思います。「構造の読み取り」を欠いたならば、それは「経験・体験」ではない、ということです。

私が会った療法士さんたちは、多くの患者さんと接するなかで、それぞれの患者さんが抱えている「『様態』の『構造』を読み取るコツ」を学んでいたのだ、と考えると納得がゆきます。
彼らは「想像力」を駆使していたのです。「想像力」を働かせないと、患者と communicate できないのです。


では、患者である私はどうするか。どうしたか。
私は、うまくゆかないことは承知の上で、「いつものような」動作をするように、極力努めました。しかし、すべてがうまくゆくわけがない。時には、何をしようとしているのか、傍からは分らなかったに違いありません。つとめて、やらんとしていることを口にしましたが、しかし、うまく説明できているとは限らない。それでも「伝える」べく努める。そうこうしているうちに、こちらの「意思・意志」はそこはかとなく、伝わる、つまり「分ってもらえる」のです。

私のリハビリのときに、インターンの学生さんがいました。その方に、テレビのリモコンを左手では操作できない、しかし何度かやってるうちに何とかなるようになった、と話したところ、彼は、その動作を「復活」するには、どういう「訓練」がいいか、一晩考えたようでした。おそらく彼は、一晩中、患者である私の様態に近づこうとして、「想像力」を駆使し続けたのです。翌日、考え出した訓練法を彼は披露してくれました(残念ながら、具体的な内容は忘れてしまいましたが・・・)。ちょっとしたことで、私の様態が彼に「伝わった」のです。私と彼をつないだのは、お互いの「想像力」だった、と言えるでしょう。

これは、私たちの「日常」も同じだと思います。「想像力」を欠いたとき、「思い」は満足に伝わらない、伝えられない、のです。


時あたかも、広島、長崎の原爆の日。首相の「挨拶」は(昨年のコピペと揶揄されていますが)まったく心に響きませんでした。
単なる文字・単語の羅列で、そこに、広島、長崎への「想像力」を駆使しての「思い」がまったく感じられなかったからだ、そう私は思いました。
もしかすると、首相は、「いわゆる近代科学の世界観」にどっぷり浸かってしまい、抜け出せていないのかもしれません。
そう考えれば、原発再稼働や原発の輸出に、何の躊躇いも感じていないことも「納得」がゆきます。


台風が、一段と暑さを運び込んだようです。
暑さ寒さも彼岸まで・・・。お盆だというのに、彼岸が待ち遠しい毎日がしばらく続きそうです。

残暑お見舞い申し上げます。

今回に関連することを「『分ること』と『感じること』」でも書いています。[追加 19.25]



 学生時代に読んで、以後の私の考えかたを支えてくれた諸著作の抜粋を一部、下記に再掲します。


・・・・
我々は、ものを見るとき、物理的な意味でそれらを構成していると考えられる要素・部分を等質的に見るのではなく、
ある「まとまり」を先ずとらえ、部分はそのあるまとまりの一部としてのみとらえられるとする考え方
すなわち Gestalt 理論の考え方に賛同する。
                                    ・・ギョーム「ゲシュタルト心理学」(岩波書店)より
・・・・
かつて、存在するもろもろのものがあり、忠実さがあった。
私の言う忠実さとは、製粉所とか、帝国とか、寺院とか、庭園とかのごとき、存在するものとの結びつきのことである。
その男は偉大である。彼は、庭園に忠実であるから。
しかるに、このただひとつの重要なることがらについて、なにも理解しない人間が現れる。
認識するためには分解すればこと足りるとする誤まった学問の与える幻想にたぶらかされるからである
(なるほど認識することはできよう。だが、統一したものとして把握することはできない。
けだし、書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質、すなわち、おまえへの現存が欠けることになるからだ。
事物をかき混ぜるなら、おまえは詩人を抹殺することになる。
また、庭園が単なる総和でしかなくなるなら、おまえは庭師を抹殺することになるのだ。・・・)
                                    ・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より
・・・・
それゆえに私は、諸学舎の教師たちを呼び集め、つぎのように語ったのだ。
「思いちがいをしてはならぬ。おまえたちに民の子供たちを委ねたのは、あとで、彼らの知識の総量を量り知るためではない。
彼らの登山の質を楽しむためである。
舁床に運ばれて無数の山頂を知り、かくして無数の風景を観察した生徒など、私にはなんの興味もないのだ。
なぜなら、第一に、彼は、ただひとつの風景も真に知ってはおらず、また無数の風景といっても、世界の広大無辺のうちにあっては、
ごみ粒にすぎないからである。
たとえひとつの山にすぎなくても、そのひとつの山に登りおのれの筋骨を鍛え、やがて眼にするべきいっさいの風景を理解する力を備えた生徒、
まちがった教えられかたをしたあの無数の風景を、あの別の生徒より、おまえたちのでっちあげたえせ物識りより、
よりよく理解する力を備えた生徒、そういう生徒だけが、私には興味があるのだ。」
                                    ・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より
・・・・
私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、
そしてついに、絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。
言葉で示すことは把握することではない。
                                    ・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より
・・・・
言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。
ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。
                                    ・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より

更に追加すれば、まだあります。いくつか、次の記事で紹介しています。
  「形の謂れ・補遺」 [追記 13日 7.20]
コメント (2)
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立 秋

2014-08-08 15:00:00 | その他


昨日は立秋
午前中の涼しい頃を見計らって、椎名家に行ってきました。
いつもは戸が開いているのですが、閉まっていました。案内では金・土・日が指定されていますが、普段はいつでも自由だったのです。
しかしそれはそれでよし。
前面の庭は膝ぐらいまでの雑草が茂っていました。その写真です。

庭は、まわりの林から、何かが出てきて寄合でも開いていそうな、そんな感じでした。
しかし、私が逢えたのは、・・・・多数のやぶ蚊・・。

今日は昼前後から久しぶりに俄か雨。乾ききり土煙りを立てていた畑の土も喜んだでしょう。
ここ2週間ほど、当地ではまったく雨がなかったのです。

雷雲は、北から来ても西から来ても、いつも出島の手前で雲散霧消・・・。ことによると筑波山系がバリアなのかもしれません。
今日は、だから、ほんとに久しぶりの、まさに慈雨。おかげで気温も下がりました。

いま、ミンミンゼミが賑やかに鳴いています。暑さはまだ続くようです。

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「日本家屋構造・下巻・参考篇」の紹介-3・・・・「(三)戸の部」

2014-08-02 13:14:00 | 「日本家屋構造」の紹介


今回は、「(三)戸の部」の項の紹介です。内容は、雨戸、舞良戸、格子戸、帯戸、唐戸など、いろいろな戸とその材料、一般的な材寸などの仕様についての解説です。

図版は第十七図と十八図の二図。今回は、第十七図とその解説をA4一枚に、第十八図と解説をA4二枚にまとめました。
   ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
はじめに第十七図について

第十七図甲は、普通の雨戸のうち戸尻(閉めた時に戸袋寄りの最後の一枚の戸の呼称)にあたる戸の図。
第十七図乙は、幅に尺の便所の開き戸の姿。
第十七図丙・丁は、雨戸の構造(框の組み方、板の張り方)を示す。便所開き戸もこれに倣う。
以下に、戸の材料、框などの材寸、仕口などの一般的仕様を記す。
上等雨戸 
       材料:框、桟は檜無節。各部とも削り仕上げ。
       縦框:見付1寸2分×見込1寸1分
       上桟:見付1寸8分×見込1寸5厘
       下桟:見付1寸6分×見込1寸5厘
       中桟:見付1寸1分×見込7分
       組み方など:上桟、下桟は二枚枘差板决り(いたじゃくり)を設ける。
                中桟は一枚枘差
                竪框の板决り(いたじゃくり)は深さ2分程度。
                組立ては糊付け併用、枘差部は楔締めで堅める。
       板:杉本四分板赤身無節両面削り、三枚矧ぎ。中桟位置に合釘。桟への釘は@2寸。
       下桟の下端には厚さ3分ほどの樫材の「辷り」を取付ける。ゴムあるいは金属製の戸車を付けることもあるが、金属製は音に留意。
       召合せ:噛合わせ高さ2分程度の実决り(さねじゃくり)とする。
       戸締め:戸尻の戸には上げ猿落し猿および横猿二か所を設ける。 
         註 図丙の左端の突起物は枘と楔の形を示していると思われますが、端部の半円状のものは何か不明です。
中等雨戸 
       材料:框、桟は樅。
       材寸:上等雨戸に同じ。
       組み方など:仕口は一枚枘差
       板:杉並無節三枚矧ぎ、横猿は一箇所。
       召合せ:噛合わせ高さ2分程度の合决り(あいじゃくり)。
下等雨戸 
       材料:框、桟は杉。
       材寸:前者に同じ。横桟は上桟、下桟とも6本。
         註 上等、中等雨戸は『日本家屋構造・中巻:製図篇』の「仕様書」では、横桟は上桟、下桟とも7本とあります(下記を参照ください)。
       板:杉四分板生小節四枚矧ぎ。上端は打流し(うちながし)とする。
         打流しとは、上桟中桟と同寸の材を用い、板を上桟より上に伸ばして張ることをいう。
       他は上等、中等雨戸に同じ。

以上の内容は、「『日本家屋構造・中巻:製図篇』の紹介-24」と重複の個所がありますので、あわせご覧ください。
  「『日本家屋構造・中巻:製図篇』の紹介-24」
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次に、第十八図について。
上段に解説文、下段に図をまとめてあります。


第十八図は、:普通の舞良戸(まいら ど)、乙:格子戸(こうし ど)、丙:帯戸(おび ど)、丁:唐戸(から ど)の姿図を示す。
第十八図-甲
普通舞良戸 押入、便所などの片開き戸に使用する。大きさは使用箇所により異なる。 
       材料:檜が最良で、樅、杉がこれに次ぐ。
       竪框:見付1寸5分以上×見込1寸1分 
       上桟:成(見付)1寸6分×厚さ(見込)1寸1分
       下桟:上桟に同じ
       中舞良子:6分角、中央の1本は、左右移動を自在とし、横猿として用いる。
       板:杉四分板、糊併用の樋舞倉矧ぎ(ひぶくらはぎ)とし、四方は、竪框・上下桟に設けた小穴(板决りの意と解す)に入れる。
          雨戸と同じく、裏面より釘打ちとすることもある。
上等舞良戸 玄関あるいは社寺などの雨戸に用いることが多い。
       材料:上記に同じ
       縦框:柱間により異なるが、大抵は見付1寸5分以上×見込1寸1分
       上下横桟:縦框の見付を見廻し(同寸で廻す意と解す)あるいはその2分増しとすることもある。
       中舞良子:縦框の8分どり(8/10)とし、明きは横桟の見付の1.5~2倍程度とする。
       仕口:二枚枘差面腰押(めんこしおし)とする。
       板:普通舞良戸に同じ。
第十八図-乙
格子戸
       縦框:雨戸に倣う。
       中格子(竪子):見付7分×見込8分
       貫:幅(見付)竪子の見付の9/10×厚さ(見込)2~2.5分程度とする。
          竪子は、柱間6尺二枚建てのときは、普通は13本、やや繁くするときは15本にする。
          貫は5通り差し、竪子の歪み防止のため、中央の1~2通りは、掛子彫割貫(かけご ほり わりぬき)とする。
第十八図-丙
帯 戸 室内の間仕切、または押入あるいは廊下などの仕切りに用いる板戸(廊下に用いるときは杉戸と云い、片面には帯桟:おびさん:を設けず鏡板とする)。
       縦框:見付1寸8分以上×見込1寸1分
       上下横桟:縦框の見付を見廻し(同寸で廻す意と解す)×厚さ(見込)1寸1分
       帯桟:見付2寸6分×見込1寸1分(見付は縦框の見付の1.3倍ほどとする)。帯桟の取付け位置は、全高の中央を帯桟の上端とする。 
       仕口:上下横桟は二枚枘差とするか、または鎌枘で上下の木口より嵌め込む。
            註 鎌枘:端部に鎌形を刻んだ桟を、框側に彫った鎌形に嵌め込む方法。次回第二十図で紹介。
          帯桟は二枚の包込み枘(つつみこみほぞ)とする。          
          各材隅部は面腰押とする。
       板:糊併用の樋舞倉矧ぎ(ひぶくらはぎ)とし、四周は小穴に嵌める。
第十八図-丁
唐 戸 社寺などの外回りの雨戸に用いることが多い。開き戸、引戸両様あり。
       縦框:見付は柱間の1/24~30以上、見込はその見付の8/10程度とする。
       上下横桟:縦框の見付の2/10増し(1.2倍)。
       中桟:縦框の見付に同じ。
       中桟の位置:全高の3/5を下から(下桟を含む)5本目の桟の中心位置とする。
              図中、上中下の同寸の三ヶ所の明き寸法は、縦框見付の裏目(√2倍)、下方の二段は等分とする。
          註:原文の「上・中・下の三ヶ所の明きは・・・」の部分、「図中(イ)(ロ)・・」の表示が図にないので、上記のように、想定で解しました。           
       仕口:両面とも几帳面面腰押とする。面の大きさは七つ面とする
          註 七つ面:見付総幅の1/7を両側の面に配分すること。ゆえに、面自体は見付の1/14。(「日本建築辞彙」による)
       各種の門の戸の木割も、唐戸の木割に倣う。その場合、縦框の見付は門柱間の横内法幅の1/22~24、見込はその8/10とする。
          註 原文の「柱の横内法幅」とは、戸の入る門柱間の内法の意と解しました。

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後 註
 
  面腰押樋舞倉矧ぎ掛子彫割貫包込み枘などについては、  「『日本家屋構造・中巻:製図篇』の紹介-24」で説明を加えています。

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以上で「戸の部」は終り。次回は「四 障子及び襖の部」を紹介します。      

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