建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

虚ろな言葉の羅列

2015-09-25 14:11:05 | 近時雑感
彼岸が過ぎて、涼しさを通り過ぎ、「寒い」と感じる朝夕です。そこはかとなくモクセイの花が香っています。
道路わきで白花のハギが盛りなのですが、夜半からの雨に降り篭められ、写真を撮れていません。

今日の東京新聞 web 版で、「その通り!」と思わず思ったコラムがありました。以下にコピー転載します。

現総理の記者会見はもちろん、国会での「発言」には、私はいつも「不快」感を抱いています。いつも内実の伴わない文字の羅列に過ぎないからです。TVのニュースなどで総理の顔が写ると、チャンネルを変える「習慣」になっているほどです。

このような現総理が率いる政治をして、「理不尽」と断じたのが同紙の24日付朝刊の記事です。
現政権の行なっている数々の「理不尽」に抗する人びとの声を集めて記事にしたのです。これもコピー・転載させていただきます。
人びとは、明らかに「理」が通っています


この全国集会を記事にしない新聞もありました。敢えて名を書く必要はないでしょう。


“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-19

2015-09-23 15:09:21 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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     6 The evolution of the late medieval house 

はじめに
現存する事例は、多くの建物が14世紀中期、1340年代から1370年代に建てられたことを語っている。世紀を三等分したとき、いくつかの建物は14世紀初めの三分の一の頃:1300~1340年頃の建設、あるいはその頃の建て方の特徴を持つ、と見なすことができるが、年輪に拠る年代判定法に拠ると、多くは14世紀の最後の三分の一:1370年~1400年頃の建設、と比定されている。けれども、確証をもって、この間の時期:1340年~1370年頃:に建てられたと判定できる事例は、きわめて少ない。
新しい形式の家屋は1370年あたりから現れ始めるが、これらの新しい建物群と、14世紀初期から残存している建物群との間には相違点がある。初期に比べ、石造の建物はほとんど目にしなくなり、新しい建物は、大多数が、木造架構になっている。新しい家屋で、aisle 工法base cruck 工法を採る事例は最早見られない。木造家屋では、hall の端部の二階建て部分は、open hall のまま保たれることが多く、その配置やつくりは、明らかに初期の事例のそれとは異なっている。
これらの新しい事例は、完成形で出現する場合が多い。つまり、前例が存しないところで存在している、ということである。人びとは、常に、数世代にわたり好まれる丈夫な木造家屋をつくるべく努め、欠陥が見つかれば取り壊し改良したつくりに建て直すことをすることを厭わなかったから、常に新品の姿をもって出現したのである。しかし、それに伴い、前代の「工夫」が全く消え失せたわけではなく、その改造や造り替えの理由を考察するに足る遺構・痕跡は十分遺されている。
地域一帯に遺っている中世後期の住居建築の大部分は、ほとんどが14世紀後期あるいはそれより少し遅れてその姿を見せ始める新しい時代の形式の一群である。これらは、建設年代、型式、規模で分類できる。この三項目は、互いに密接に関係し、また、建て主の財産・要望の違いをも反映している。その多様さを知ることは歴史的変遷の理解のために重要であり、詳細に検討されなければなるまい。

Late medieval house types  中世後期の家屋のタイプ分け

新しい形式の建物群は、いずれも「同一の課題」に対しての「異なる解答」の結果したものと言えるだろう。
それらはすべて、中央に open hall を置き、両端に私室群を置く形を採る。
初期の事例もこの基本形を採るが、後期の事例とは相違点がある。
最も重要な点は、 aisled 型式、あるいは quasi-aisled 型式のつくりを single span の軸組・小屋組への造り替えの仕方、そして open hall の両側の二階に、大きな付属諸室を設ける仕方にある。
hall と同じ幅のなかに付属室を造るとなると、二階部分だけではなく一階部分も改造せざるを得ないから、二階部分および hall の両サイドの外壁を高くすることになる。この方策が採られるようになれば、新しい工法の開発も自由になる。そしてその試行が、いくつかのタイプに結果することになる。
それぞれのタイプの室の数や配置はきわめて一定していて、分類はまったく外見の違いに拠っているが、実際の相違点は外見だけではない。各タイプは、広さ・大きさと建設時期に拠って分類が可能であるが、それらのタイプは、建て主たちが任意・恣意的に選んだわけではなく、彼らの社会的・経済的立場に拠るところが大きいようだ。

fig49 は、この時期に比定される事例を分類した図である(下図)。

fig49afig49b は、hall とそれに直交する建屋で構成する事例で、いずれも、付属の諸室は hall の端部(片側と両側の場合がある)に hall に直角に離れて配置される。
fig49a は早い時期の事例で、高さの低い hall と hall の片側あるいは両側端部の寄棟屋根の建屋で構成される例で、多くは当初の木造の建物を改造したものと思われる。しかし、14世紀後半には hall は、ほとんど aisled 形式を採らなくなっており、両端の建屋は全面二階建てとするようになっている。fig49b は、15世紀になると当たり前になる高さの一段高い hall直交する建屋とで構成する事例である。両端に寄棟の建屋を持つ場合と片側だけの場合があり、時にはこの図のような寄棟ではなく切妻屋根の事例もある。

直交する建屋をもつ事例は、ケントで一般的な形ではないが、全体として見ると、現存する事例:遺構の四分の一近くがこの形を採っていることは注目すべき事実である。残りの四分の三は、両端の部分を hall と同じ幅に揃え、一体の一つ屋根にしている例が普通である。そして、この一体形式が、ケント地域の典型的なつくりと見なされてきた。
この一体型のタイプは、fig49c49d のように、端部の梁間が前面:側面に突き出ているか、fig49e のように、端部:妻側だけ突き出ているか、あるいは、fig49f のように突き出し部がまったくないか、のいずれかに分類できる。しかし、この図のように分類できる事例の他に、全体の四分の一ほどにあたるが、主に hall だけ遺っていてその他の痕跡が不分明で、分類するには無理がある事例もある。

既定のカテゴリーに分けることが容易な中世後期の多くの事例と、13世紀と14世紀前半の断片ではっきりしない木造建築の付属部の遺構事例との間の違いは、敢えて言うまでもなく、きわめて顕著である。それゆえ、新しいタイプの詳細について論じる前に、新しいタイプがなぜ、どうして誕生したのか、またそれらに前代の工法の何らかの痕跡が遺っていないかどうか、考察することが妥当と思われる。

The partial survival of houses

少なくとも中世末期以前には、一つの工法だけでつくられた木造家屋というのは稀有であると認識することは重要である。すなわち、ケント地域で、 the Black Death 以前に建てられた農家の建物で、現存するのは断片・部分であり、建屋の建築が再び盛んになってからも、一つの工法にのみに拠る建物は少なく、いろいろな工法のが混用が普通である。
今回の調査で記録された事例の半数以上の建て方:工法は、実に多様である。しかしこれらの事例は単に後世に拡張されたわけではなく、そのような事例もないわけではないが、多くは、当初の大きな建物の部分が断片的に現存している事例と考えられる。これらの増改築は、近年になってからの工事に拠るものだが、多くの事例は、数世代にわたって建設が為されており、部分の改造は、各世代で必要に応じて行われたと見なされる。それゆえ、一帯には、断片的な遺構が多いのである。そのため、我々が、その土地に当初の建物を目にすることはほとんどなく、我々が目にするのは、単に、増改築の連続の後に遺った当初の形態の痕跡に過ぎないのである。
このような多様な工法混用の建築は、時とともに稀になるが、しかしこういう事例が調査事例の70%以上を占め、建設時期は14世紀後期から15世紀前期にわたる(その後になると、一つの工法で造られる傾向が見られる)。1400年頃に建設された部分が遺る事例のいくつかは、中世の終わるころまでには再び改造されているが、他の多くは、16世紀後~17世紀あるいはそれを過ぎるまで改造されなかったように見える。
この地域のなかに遺っている当初期の建物が、初めから頑丈な耐久性があることを考えて構築されたものであるか否かについては、多くの論者によって論議されている。
最近は、当初の建物が脆弱で耐久性がなかったとする見解は疑問視されている。石造の基礎上に建てられた木造架構で耐久性がないとすれば、それは、掘立て形式の建物に多く見られる「地面起因の木部の劣化」(「木部の腐朽」の意と思われる)に拠るのではなく、上部の架構に無理がある場合である。13世紀以降、地域によっては、小農の家屋でも、堅固な基礎の耐久性のある家屋の建設が奨められている。
ケント地域で、はたして、残存し得たはずの多くの建物が消失してしまったと考えてよいのか、また、そうであったとするならば、それらが一体どのような形態であったのか、それが何故改造・改築され消失しまったのか、その状況・経緯が精査されるる必要があるだろう。
14世紀中期以前に建てられた木造建築の特徴の一つは、長寿を可能にしたそのよく考えられた方法で、open hall にその痕跡が遺されている場合が多く、付属諸室には例がない。14世紀後期~15世紀になると、現存する架構構造は一層多様になる。1370年~1440年頃と比定される71の事例の他に、11事例は hall の建屋だけが現存し、14例は、 hall の建屋はなく別棟だけが遺っていて、2例は当初の open hall に付属してはいるが(改造が加えられていて)その原型ははっきりしない。
他の事例のすべては、hall に最低一棟の付属棟を端部に有しているが、その全体が一世代のために建てられた住居用建屋と思われる事例は僅か19例に過ぎない。
   註 数世代にわたって手が加えられている、という意と解します。
このように、大多数の遺構から得られる断片的な状況は、当初の建物の段階的な更改が繰り返されたことを示している。しかしながら、その更改・改築の過程をたどれる事例はきわめて少なく、それゆえ、それらが当初頑丈な建て方であったのかそれとも脆弱であったのか、つまり、耐久性があったのか否かは、容易には解明できないのである。
しかしこれは、すべての事例については言えることではなく、多様で多量の痕跡・形跡群が、よく造られた建物でも、きわめて多数の事例が、用途に対し大きすぎるという理由で取り壊されたことを示している。しかも、この状況は、ある特定の時期に集中しているわけではなく、取り壊された部位には、当初の時代だけではなく15世紀になってからのものもあり、このような建屋のつくりの更改・改造は、中世の間はもちろん、それ以降になっても為されていたのである。
中世後期になり側壁の高い上階を持つ新しい形式のつくりが普及するまで、木造架構の家屋は、いかに頑丈に造られていても、状況が変化したときに対応できない不利な点が多く在ると見なされた(更改が重ねられ)たために、原型のまま全体が存続する機会が失われたのである。
このような対応できない不利な点:欠陥は、ある家屋は一つ、ある事例は二・三しかなかったと思われるのだが、それらで今日まで生き永らえた事例は少ない。明らかに、これらの建物が建てられたときには、これらの点は欠陥ではなく、用途の変更に伴い時が移り欠陥と見なされるようになったのである。これは、すでに中世の間にも起きていたと思われるが、場合によるともう少し時代が進んで顕著になったのかもしれない。
つまり、現存する建物の、現在に至るまでの道筋・過程には、いくつかの転機となる重大な時期・時代が存在するのは確かである。
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今回は以上です。次回は下記の節の紹介になります。

The insertion of first floors in low open halls 

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筆者の読後の感想
一通り読んだところ、時代とともに家屋の形態が変り、同時に工法・技法・技術も変っている、と述べているように感じました。
つまり、工法・技術が時代とともに別のものになっている、・・・。

しかし、そのようなことは、日本に於いて近世から近代に至る過程で為されたような人為的な「過去の抹消行為」:大工技術の否定:でもない限り、通常は起きない、と私は考えます。
つまり、生まれる形態こそ異なっていても、一度獲得した知恵:「技術の原理」は、時代を越えて継承される筈だからです。
たとえば、中世の東大寺大仏殿や南大門や浄土寺浄土堂と近世の庶民の住居や武士・上層階級の建物は明らかに外見の形状は異なります。しかし、柱と梁・桁でつくる直方体の架構を「貫で固める」という点で見れば、基本的には変りありません

これはイギリスに於いても同様ではないでしょうか。
イギリスの場合の「原理」は、梁・桁を柱頭だけで支えるのではなく、柱頭と柱から二~四方向に出す brace斜材=方杖とで支えるという方法である、と私は理解しました。
   これにより、柱と梁・桁の接合が強固になるのです。
   そして、この延長上に、いわゆるトラス組があるのではないでしょうか。
brace はアーチ状に湾曲した材を用いる場合が多く、これは多分 base cruck 工法、更に言えば、直材の得にくい広葉樹の森林地域でいわば自然発生的に生まれた技術、からの影響ではないかと思います。いくつか紹介されていた crown-post も明らかに base-cruck の「応用例」と言えます。

原初的には、人は、身近な所で得られる材料・もので住まいをつくる・暮しを維持するのが当たり前だからです。

更に続けて読むと、このあたりが説明されているのかもしれません。

忘れない!

2015-09-21 09:56:54 | 近時雑感
忘れてはならない《記念日》が増えました。9月19日です。言わずと知れたいわゆる「戦争法案」が国会を通過した日。

多くの場面で、法案の「違憲訴訟」を起こす動きとともに、賛成票を投じた議員は、次の選挙で、放逐しようという動きが始まっているようです。
東京新聞は20日の朝刊で、いち早く、現職議員の「投票行動」の一覧表を掲載しています。下記で見ることができますす。web 版からコピー・転載も考えたのですが、文字が小さくなり読めないので諦めました。

東京新聞 9月20日朝刊記事

続・鬼怒川の決壊・・・・教えられたこと

2015-09-16 15:40:32 | 居住環境
[末尾に追記 追加 9.21 9.00am]

川島 宙次 氏の名著「滅びゆく民家」三部作の「屋敷まわり・形式」編の「災害に備えて」に、河川氾濫多発地域の「水塚(みづか、みつか、みずつか)が紹介されています。
洪水の予想される平坦地で、屋敷全体ではなく、建物を建てる範囲だけ盛り土をして、その上に建屋を建てる方法で、その盛り土部を「水塚」と呼ぶのです。そこに建てる建物に必需品の備蓄をし、災害に備えておく方策です。万一の時の居住場所にもなります。

以下に、同書から、「水塚」の事例の写真を、一部転載させていただきます。


写真の51、52 は、利根川流域・栗橋の事例とありますが、「水塚」の周囲は、大谷石を積んで「護岸」としてあります。
大谷石の段数からおよそ7尺以上盛り土してあるものと思われます(大谷石は、1尺×5寸×3尺が標準的な大きさです)。写真52 に、遠くに利根川の堤防が写っていますが、それを見ると、敷地がかなりの低地であることが分ります。
盛り土を7段程度の高さにする判断は、おそらく、「過去の経験」に拠るものでしょう。
   註 栗橋(埼玉県)は利根川本流に面し、今回の被災地域、常総市境町の西側にあたります。
     周囲に大谷石が使われるのは、石の産地の栃木県の大谷に近いからでしょう。
     法面に石を積まず、樹木を植えて保護している場合もあるようです。
私も栗橋の少し上流、北川辺町(埼玉県)のあたりで、実例を見たことがあります(写真を撮ったのですが直ぐにみつかりません・・・)。
写真53 の事例の在る五箇町(ごかまち)は、境町から利根川を越えた西隣の町で、利根川を越えてはいますが茨城県です。
   註 茨城県の西の県境は、大きく見れば利根川に」沿っていますが、この部分では、権現堂川になっています。
     この川は、利根川の旧流路です。
     このように、流路が変ってしまった結果、行政区画が川で分断されている場所は、鬼怒川、小貝川流域に数多く在ります。
     また、一帯には、蛇行していた旧流路の遺った三日月状の池沼も、いくつか見かけます。

この五箇町の事例では、主屋自体も盛り土の上に建てられ、そこから更に10段ほど石段を登った場所に納屋・離れ屋が建っています。階段の段数から判断して、主屋の地盤から更に7~8尺は高いと思われます。建物の1階床面はその敷地面から2尺程度は高いでしょう。
主屋の土地は2~4尺は盛ってありそうですから、納屋の建つ地盤は、一帯の地盤よりは9~12尺は高いと考えられます。つまり、一帯が10尺:3mほど浸水しても、納屋・避難小屋は浸水を免れるのです。
私が見た事例の納屋の軒先には、木造の小舟がぶら下がっていました。最悪の場合の用意です(写真がなくて残念・・・)。川島氏の著書にも載っていますが、「上げ舟」と言うそうです。

これらはいずれも、明治・大正あるいは昭和初期の建設と思われます。現在のような「情報網」もなく、「知識」も少なかった時代です。しかし、人びとには、自分たちで身に着けた『知識』があったのです。おそらく、その地に住み着いた頃から、世代を超えて引き継がれ蓄積されてきた「その地で暮す上での必須知識」です。それは、河川の氾濫・洪水を完全に防ぐのではなく、「浸水しても、それに堪えてゆこう」、とするための「知識」だったと言えばよいかもしれません。水の流れ方・性質をよく知り、それに徒に抵抗しようとはせず、自然の流下に任せよう、という「姿勢」だった、と言えるかもしれません。

この考え方は、おそらく現在でも採ることができるはずではないか、と私は思います。
ものの見事に一階部分が浸水し、早々に機能しなくなってしまった常総市役所の建物は、たしか、昨年新築されたばかりのはずです。
設計者は、耐震にばかり気を使い、市役所の場所が洪水多発地域であることを失念していたのでしょう。あるいは、堤防がしっかりしているから(しっかりしていれば)洪水など起きないと思い込んでいたのかもしれません。いずれにしろ、洪水多発地域であった、という事実に対し無関心・無知であったのは確かです。
   印象に残っている映像に、布基礎で囲まれた床下に水が溜まっている様子がありました。
   布基礎がダム・堰堤になって水がはけにくいからです(当然、湿気も抜けにくい・・・)。
   かつての石破建てでは、まずそういうことはないでしょう。それは前掲の写真53 の建屋の床下に水が流れ込んだ場合を想像すれば分ると思います。

洪水多発地域の愛知県のある町では、街中に、河川の堤防の標高と過去の氾濫水位を記した標識を立てているそうです。住人に「氾濫した場合の町中の姿」を日常的に、かつ具体的に知っておいてもらうため」とのことです。人びとにその「認識」があれば、建物を建てる時に、あるいは実際に洪水に見舞われた時に、行動に反映されることを願ってのことのようでした。

私たちは、自分の暮す場所、建物を建てる場所の「素性」を、よく知っておかなければならない、このことを、今回の鬼怒川の氾濫は、あらためて私たちに教えてくれているように思います。

追記 下記に、近世以前の「治水」例を簡単に紹介してあります。お読みください。[9.21 9.00am追記]
   「閑話・・・・最高の不幸・最大の禍
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鬼怒川の決壊

2015-09-11 15:18:25 | 居住環境
「鬼怒川、決壊」のニュースはまさに驚きでした。
戦後間もなくの、利根川が栗橋で決壊、東京の下町一帯が水浸しになった洪水を思い出しました。

被災地の皆様の無事を祈念いたします。

「自然」は、人間の「制御」が破たんすると(「制御」は簡単に破たんするのです!)、もののみごとに、「本来の姿」を取り戻してしまうのです。太古以来の「自然の流路」を「復元」してしまうのです。
次の図は、以前の記事で載せさせていただいた小出博 著「利根川と淀川」所載の「古代の関東平野」の地図です。



この図には、一帯を流れる多数の古来の河川の流路が描かれています。
これらの河川のつくりだした湿地帯、それが関東平野の基底である、と言ってよいでしょう。

図に「毛野川」とあるのが「鬼怒川」です。「毛野」を流れる川という意と思われます。常総市は毛野川と小貝川の間に在ります。
   註 「毛野」とは、現在の群馬~栃木の一帯の古称です。
     群馬=上毛野(かみつ けの)→「こうづけ」、栃木=下毛野(しもつ けの)→「しもつけ」。
     一帯を東西に走る鉄道は、ゆえに「両毛線」。
     ここは、古代、東山道の通っていたところ。群馬の方が、時の都:京都に近いゆえに「 毛野」。

こういう河川の下流域は肥沃の地。そこに目をつけたのが徳川。「開拓」に精を出します。関東平野は、江戸幕府のまさに「基盤」だったのです。
このあたりについて、以前以下の記事で簡単に触れています。
関東平野開拓の歴史-1
関東平野開拓の歴史-2
地方巧者・・・経済の原義
屋敷構え-4・・・・坂野家・補足
再検・日本の建物づくり-1
TVの映像で印象に残ったのが、一面の濁水の中に小島のように浮かぶ樹林でした。この辺りは、茨城に移り住んだころよく歩き回ったところですが、この「小島」は、多分、既存の集落の「屋敷」で、「屋敷」の周りに濠を掘って、その土でかさ上げして家を構えているところ、と思われます。いわゆる「環濠」です。建屋の周りには、季節風を防ぐ樹林を設けています。これが小島のように見えているのです。
これに対し、周辺に建っているのは、最近の住宅群のようでした。おそらく、田んぼに盛り土をしただけでしょう。

私たちが、「自然」から学ばなければならないことは、まだまだたくさんある、あらためてそう感じています。

慇懃無礼(いんぎんぶれい)

2015-09-09 17:12:37 | 近時雑感



涼しくなったので、晴れた先週末、夏の間手を抜いていた草刈りをしました。
すると、生繁ってしまった草(4~5尺はありました)に埋もれていた道路際の植え込みの一画で、
見事に実をつけているムラサキシキブが「発掘」されました。少しばかり、草の重みで押し倒されていました・・・。上の写真です。
その近くで花を咲かせているのは俗称クサハギです(ヌスビトハギ科のシバハギが本名とのこと)。花は可憐ですが、これはしぶとい草で、一面に根を張ります。下の写真です。
その後の雨続きで、草刈りはやむなく中断、ここしばらく、連日、文字通り「降り籠められて」います


降り篭められていると、新聞を隅々まで読む機会が増えます。
そこで、あらためて気づいたのは、現政権の(人びとに対する)甚だしい慇懃無礼さです。彼らが最近際立って口にするのが、「理解いただけるように丁寧に説明・・・」という文言。いわゆる戦争法案:安保法制については、「国民の皆様・・に」、沖縄の辺野古移設問題では「県民の皆様に・・」という「対象」者特定の文言が付く。
いずれも、多くの人びとの「反対」も、憲法学者などいわゆる有識者の「反対」も、「法案や施策の中身を『理解』しての上での『反対』」なのであり、それでもなお「理解を求める」というのは、それは「理解」ではなく「同意を求めている」に過ぎないのです。言い方を変えれば、「同意しないのは『理解』が足りない」からだ、と言っているに等しい脅し、脅迫に他なりません。これほど人をバカにした言い方はありません。だから、慇懃無礼なのです。

私のところに、ときどき「売り込み」の電話がかかってきます。たとえば、「お宅の電話の契約を変えると云々・・」「事業者向けの太陽光発電云々・・・」「お宅のコピー機を何々に変えれば云々・・・」などです。これへの対応で効果があるのは「そのようなこと頼んでいません。頼んだ覚えはありません」という応答。たいてい、ムニャムニャ言って電話を切ります。
しかし、現政権の慇懃無礼には「そのようなこと頼んでいません。依頼した覚えはありません」というのが通用しません。見てのとおり、まったく聞く耳を持たないからです。
彼らに耳を傾けさせる方策、それは、次の選挙の時に、「そのようなことは頼まない」という私たちの意思を示せばよいのです。
そういう論旨の読者投稿も、最近多く目にするようになりました。
この思いを、次の選挙の時まで、忘れないで、持続したいと思います。

露見した設計・デザイン界の底の薄さ

2015-09-03 11:01:43 | 近時雑感
昨日の毎日新聞夕刊の特集「読書日記」に気になる書物が紹介されていました。
スイスの建築家ペーター・ツムトアの「建築を考える」という著書の邦訳本の紹介です。
私は不勉強で、ツムトアをまったく知らなかった。記事は、松家 仁之 氏によるこの書の紹介です。下に、記事全文をコピー・転載します(文字が小さくて恐縮です)。

その「見出し」の「無用の主張をしない建築」という文言に目がとまり全文を読ませていただきました。
書き出しの松家 氏の文言、「建築の種類を思い切ってふたつに分けてみる。ひとつは、見る人を驚かせ立ち止まらせるもの。もうひとつは、ぼんやりあるいていたら見落としてしまうほど風景に馴染んでいるもの。・・・・」はまさに現在の「建築」の「姿」を見事に腑分けしていると私は思いました。
そして、ツムトアが「後者の建築をてがけたら右に出るものがいない存在」であることを事例を挙げて紹介しています。

時あたかも、国立競技場の設計やオリンピックのエンブレム問題が話題になっています。
この二つの「問題」は、ともに、「デザイン、設計」とは何か、という「根幹」についての「認識:思考」が、「デザイン・設計界にかかわる『いわゆる専門家』に欠落している」ことから発している、と私は思っていましたが、松家氏の「腑分け」は、まさにその点を突いているのです。
事態は、この「欠落」の論理的帰結に過ぎないのです。「根幹についての専門家たちの認識・思考の欠落」が、彼らの間にいわゆる「差別化」意識だけを生んでしまった、と言えばよいかもしれません。そこでは、「競技場とは何か」、「エンブレムとは何か」、という「本質」が置き去りにされ、「差別化競争」にのめり込むのです。

その意味で、今回の騒動は、期せずして、設計・デザイン界の底の薄さを、広く世に知らしめる効果があった、と私は思っています。そう、「いわゆる専門家」の化けの皮がはがされた・・。

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