先回の建物が「正統」トラス組の建物とすれば、今回紹介する建物は、「正統」には属さない、いわゆる「擬洋風」と呼ばれる建物で、明治21年(1888年)の棟札がある「旧登米高等尋常小学校」校舎である(ただ、明治20年代には、明治10年代のいわゆる擬洋風を離れ、和風との折衷が多くなるという)。木造二階建て桟瓦葺き。日銀京都支店の18年前の竣工。
登米(とよま)町は宮城県の北東部、石巻と一関のちょうど中間、北上川の西岸にある町。現在は登米(とよめ)市・登米(とよま)町。
一帯は北上川の氾濫原のため、宮城有数の米どころ。北上川水運で繁栄し、明治の建物が多く残されている。ただし、地盤は極めて悪い。
設計者は、当時宮城県技手の職にあった山添喜三郎、工事は登米村(当時)の大工棟梁・三島秀之助、同佐藤朝吉が請け負った。
山添は明治5年(1872年)、ウィーンの万国博日本館の設営のため大工として渡欧、終了後も数年滞在し西洋の建築を視察、帰国後宮城県の技師になり、以後40年間、宮城県内に多数の建物を設計した人物という。
建物は念入りな地業(礎石下に3尺6寸角厚約1尺の三和土:たたきをつきかため、その下には長さ1尺の割栗石が小端立てに敷詰め)を行い、切石の礎石を設ける。きわめて悪い地盤にもかかわらず、目立った不同沈下は見られなかったという。
教室になる部分は、四周と部屋境に土台をまわし、廊下外側の柱は礎石建て。
教室部は、廊下側および背面側を@1間(1821㎜)の通し柱(約5寸角)とし、1階床位置では、桁行方向に「足固め」を1間ごとに「雇いシャチ栓」で建て込み、足元まわりを固めている。
2階はおよそ丈1尺2寸の梁(@1間、梁行4間)を通し柱に差口(枘差し込み栓)でおさめて、根太を渡り腮(あご)で掛け床をつくり、小屋は軒桁上にキングポストのトラス組(@1間)を渡り腮で架けている。母屋はトラス合掌に渡り腮。
この建物でも、トラス組は天井で隠されているが、唯一、六角形半割りの屋根の昇降口には天井がなく、放射状に組んだトラスが表れている。
註 「足固め」:礎石建ての柱の一階床面位置に柱に差口で納める部材。
柱脚部を固める役割を担い、「布基礎+土台」方式以前の
日本の木造建築は、この方法があたりまえであった。
足固めは一般に大引、根太を受け、また敷居を受ける。
「差 口」:横架材を柱に枘差し、楔締め、込み栓、またはシャチ栓で
固める仕口をいう。
トラスの中途には片面に「添梁」を打ち付けているが、キングポストの場合、この補強は必要ないと思われる。しかし、「日本建築辞彙」の木造の図にも添梁があるから(12月29日掲載分参照)、ことによると、キングポストのトラスでも、合掌が開く恐れがある、と思われていたのではないだろうか。
この点については「建築学講義録」の説明が参考になるので、追って紹介する。
大分前になるが、松島から北上し、石巻から登米へと向う途中、石巻の手前の右手に、明らかに人工河川と思われる水路が見えた。あとになって調べたところ、明治14年(1881年)に完成した「北上運河」と言い、明治政府が計画した港湾計画の名残りとのことだった。
明治当初、鉄道が敷設されるまでの間、河川は、流通手段としてきわめて重要視され、北上川もその一つ。その河口に大きな港湾を計画したのである。
登米も、北上水運の重要拠点として隆盛を誇っていたゆえに、当時としては斬新な建築が多数つくられたのだ(地元では、東北の明治村、と呼んでいた)。
今から20年前に登米小学校の修理工事に関わった者です。
こちらで掲載していただいた図面も私が描きました。
その後私が関わった建物では、指定物件では
りませんが、山口市の菜香亭という建物が非常
に興味深い技術的な変遷をたどっておりました。
時々お邪魔いたしますがこんごともよろしく御願いいたします。
昔の建物は、みなほんとに真面目ですね。昨今の建物で、後世の人が感心するようなものは、はたしてどのくらいあるものか・・。
菜香亭の調査報告書が一般にも頒布
されておりました。
http://www.city.yamaguchi.lg.jp/dannai/soshiki/kyouiku/bunkazai/etc/rekisi.htm
報告書に、概要を載せております。
早速「報告書」を取り寄せようと思います。
ありがとうございました。