建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

号外-集成・「再検・日本の建物づくり」

2011-05-18 19:55:29 | 再検:日本の建物づくり


今、田畑のわきの道端で、あやめ の群生が盛りです。昨年より、一週間ほど遅いようです。
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[関連記事リンク追加 20日8.55、20日 11.33、19.21、28日 9.39]

各地で、宅地造成地での液状化による建屋の損壊が話題になっています。
こんなにまで多く、しかも各地で、そのような宅地が造成されているなどということは、私にはまったく思いもかけないことでした。
そして、二つのことを考えました。

一つは、いわゆる「技術」の(考え方の)劣化。
これは、簡単に言えば、「工学技術」への信仰に近い《信頼》。これは、原発事故にも連なります。モノが見えなくなっている・・。
もう一つは、被災された方がたにはきつい言葉に聞こえると思いますが、一般の方がたの「偉い人依存」思考の増加。
つまり、多くの人びとが、自分で考え、判断しなくなった、ということ。
かつては、各自が適切に判断できた・・・。そのような所に住まいを設けるなど、当然のこととして考えなかったはずだ・・・。

そんなとき、私の深夜のお好みのTV、「NHK高校講座」の「日本史」で、「明治維新」についての講義をたまたま観ました。

たとえば、「明治維新」で高らかに唱えられた「四民平等」、当然、「国民皆兵」の場面でも四民平等であるかのように見えるでしょう。
しかしそうではなかった。
士族(江戸時代の武士階級)、華族(江戸時代の公家)の子弟は免除、そして、当時の金額で270円を納めた者も免除だったとのこと。
この金額は、とんでもない額。ゆえに、「兵」になったのは、農民の二・三男・・であった・・・、という「事実」。

おそらく、「近代化」以降、こういう「建前」で庶民を「欺く」手法が「発案」され、それは、何と、現在まで続いている・・・。
「教育」も、「義務」化され、しかし、そこで念入りに進められたのは、上意下達であった・・。そのころから、各自の判断停止が進められた、と見ることができます。
   以前に使った言い方をすれば、
   天は人の上に人をつくらなかった、が、人は人の上に人をつくった!

もちろん、「高校講座」の講師(都立立川高校の先生でした)は、ここまでは語らず、ただ「事実」だけを示してくれていました。
けれども、その「事実」を知れば、その「事実」の向う側に見えてくるのは、「現代」の様相にほかなりません。
   私の高校で学んだ「日本史」では、これらの「事実」は、示されていませんでした・・・!

今、建物づくりを含め、私たちは、「上」からの指示に従うことがいわば強制され、人それぞれの思考・判断が疎まれています。
しかし、少なくとも近世までは、そうではなかった。

「建物づくりの技術」の場面でも、「技術」は、普通の人びとが、それぞれの「現場」でつくりあげてきたのであって、決して一部の偉い人がつくりあげ、人びとに従うことを指示したものではなかった、というこについて先に書きました。2009年~2010年にかけて書いた「再検・日本の建物づくり」シリーズです。
このシリーズでは、「建物づくりの技術」そのものよりも、それを支え、担ってきた人びとの「考え方」について考えてみたシリーズです。

以下に、まとめて見ました。
かつて、人びとは、液状化の起きるような場所を埋め立てたり、山を削って盛土したような場所には、決して住もうとはしなかったのです。もちろん、そんな「開拓」はしなかった!そういうことをやるのは「技術」者として、恥だったのです。

再検・日本の建物づくり-1:人は何処にでも住めたか
再検・日本の建物づくり-2:人は何処にでも建てたか
再検・日本の建物づくり-3:日本は独特な環境である
再検・日本の建物づくり-4:四里四方
再検・日本の建物づくり-5:遺構・遺跡・遺物
再検・日本の建物づくり-6:「掘立て」の時代がなかったならば・・・
再検・日本の建物づくり-6の補足:最新の遺跡地図
再検・日本の建物づくり-7:掘立ての時代から引継いだもの
再検・日本の建物づくり-8:しかし、すべての建屋が天変地異に耐えたわけではない
再検・日本の建物づくり-9:「技術」の「進展」を担ったのは誰だ
再検・日本の建物づくり-10:「名もなき人たちの挑みの足跡」
再検・日本の建物づくり-11(了):「専門家」を「専門家」として認めるのは誰だ

なお、関連の記事に、最近の「建物は、『平地・平場』でなければ建てられないか?」があります。[追加 20日8.55]
近世の「技術者」が、どのように「今の技術者」と違うか、「地方巧者」の紹介に際して触れていますので、リンクしておきます。[追加 20日 11.33]
その他、関連記事
「危ない所が街になったのは・・・・江戸の街と今の東京の立地要件は同じか?」[追加 20日 19.21]
「わざわざ危ない所に暮し、安全を願う?」[追加 28日 9.39]

再検・日本の建物づくり-11(了):「専門家」を「専門家」として認めるのは誰だ

2010-02-22 01:18:44 | 再検:日本の建物づくり
[註記追加 8.36][文言改訂 12.45]「語句改訂 15.32][標題に追加 26日16.09] 

今、茨城県の建築士たちの間で「ひそかに」話題になっているのは、ある町とある設計事務所にかかわる「入札妨害」「談合」事件です。
建設工事がらみでは数多見られる話ですが、設計業務がらみで挙げられるのは、きわめて珍しいようです。

なぜ「ひそかに」なのか。
それは、その設計事務所代表が、茨城県建築士会土浦支部の支部長だからです。茨城県建築士会の理事をも務めています。
そしてまた、当然ながら、談合にかかわったのは他の設計事務所で、具体的に名前は公表されていませんが(ある町とは最近の合併で市になった茨城県神栖市。その入札状況・結果は公開されていますから、そこから特定できますが)、その代表たちもまた茨城県建築士会の会員で、なかには役員を務めている者もいるようです。

   [事件を伝える「茨城新聞」2月12日記事]の抜粋
    神栖市教委が発注した小学校改築工事の設計業務委託の入札で、予定価格に近い価格を業者に漏らし、
    特定業者が落札できるよう便宜を図ったとして、鹿嶋署と県警捜査2課は11日、競売入札妨害の疑いで、
    神栖市産業経済部長、笹本昭(59)と同市教委教育総務課副参事兼課長補佐、沼田清司(55)の両容疑者ら
    計4人を逮捕した。
    県警は笹本容疑者が業者に便宜を図った経緯などについて調べを進めている。
    ほかに逮捕されたのは、同業務を落札した由波設計(土浦市)社長、由波(よしば)久雄容疑者(61)と、
    同社の営業を担当している設計会社顧問、黒沢周三郎容疑者(67)の業者側の2人。
    4人の逮捕容疑は神栖市立波崎西小学校の校舎改築工事に絡み、2008年5月の同工事設計業務に関する
    指名競争入札で、黒沢容疑者の依頼を受けた笹本容疑者が沼田容疑者に口利きし、由波設計を含む計5社を
    指名業者に選定させた上で、沼田容疑者が由波容疑者に非公表の予定価格に近い価格を漏らして落札させ、
    公正な入札を妨げた疑い。
        中略
    同業務は由波設計が予定価格の92・55%に当たる2400万円で落札し、改築工事は継続している。
    笹本容疑者は入札の約1カ月前の08年4月中旬ごろ、業者選定にかかわり予定価格を知る立場にあった
    沼田容疑者に、黒沢容疑者の意向に沿った指名業者の選定案を作成するよう指示した。
    由波、黒沢両容疑者は「この5社を入れてくれ」と笹本容疑者に依頼したという
    沼田容疑者は神栖市内で由波容疑者に会い、予定価格に近い価格を教えたという。
    笹本容疑者は08年4月から神栖市産業経済部長。由波容疑者は県建築士会の理事で、08年度から
    同会土浦支部長を務めている。

一般に、建築士の加入する団体には、建築士会の他に建築士事務所協会、建築家協会などがありますが、今回の「事件」に関係した設計事務所は、茨城県建築士事務所協会の会員でもあり、なおかつ代表は同会の役員でもあります。

   註 私も、両会の一会員です。[註記追加 8.36]

つまり、この「事件」にかかわった者たちが、茨城県建築士会、同建築士事務所協会を動かしている人たちであるがゆえに当惑し、表だって話すには気がひけ、ひそひそ話となるわけなのです。

もっとも、茨城県内の建築士が全て茨城県建築士会に加入しているわけではなく、同様に建築士事務所が全て茨城県建築士事務所協会に加入しているわけではありません。
そして、加入していない人たちの中には(もちろん会員の中でも)、この「事件」を、冷やかな目で見ている方々が少なくないようです。

なぜか?
理由は二つあるように思います。

一つは、茨城県建築士会、茨城県建築士事務所協会の運営を仕切るのが、県域のいわゆる大手事務所の代表たちであり、市町村をはじめとする公共団体の大きな仕事は、余程のことでもないかぎり、それらの事務所が請け、それを覆すのは容易ではありません。
「大きいことがいいこと」だと考え、そうなりたく思う人たちは、いろいろと既存の「権力・権威」(「語句改訂 15.32])に擦り寄ったりするようです。
先の「事件」で「談合仲間」になる、などというのも上方志向の強い人たち特有の、日ごろから「仲良し・仲間」をつくっておこうという「傾向・性向」の一つの現れ、結果であると見ることもできます。
こういう「上層部」およびその周辺の「動き」に、すべての会員が同感の意を表すはずはないのです。

「冷やかな目で見る」理由のもう一つは、「建築士会とは、会員の協力によっての品位の保持、向上を図り、建築文化の進展に資することを目的に、建築士法第22条の2に基づいて都道府県ごとに設立された社団法人です。茨城県建築士会土浦支部は、建築士資格(一級・二級・木造建築士)を持つ個人(正会員)及び将来建築士をめざす個人(準会員)、また会活動をサポートする賛助会員(法人)で構成された公益法人です。」(茨城県建築士会土浦支部HPから)という「建前」とは裏腹な「行動」を日ごろ目にしているからです。

どういう「行動」か?
視線が個々の会員建築士に向うのではなく、「上」に向いているからです。
その端的な一つの例として、建築士法の改変にあたって、明確な意思表示を示さなかったことが挙げられるでしょう。
いま建築士は、3年に一度講習を受けなければならず、事務所を営む場合には、別途の講習を同様に受けなければなりません。建築士として適正であるか「審査」を受けるということ。
一見すると、建築士としての「資質」のチェックをするのだから妥当な方策だ、と思えるかもしれませんが、そうではない。

一番の問題点は、審査をする側の「資質」は、常にノーチェックである、ということ。
審査する職として適切であるか否かは問われないのです。
具体的には、行政にかかわる建築士、大学など教育にかかわる建築士は、定期講習をまったく免除されているのです。そういう方々が「審査」にかかわり「講習会の講師」となる・・・。
つまり、建築士という資格は同じでも、その資質が「常に適切である」とされるグループと、「常に資質が疑われる」グループとの「階層」に分類されていることになります。

当然ながら、建築士会としては、このような二分法についてノーと言うべきなのですが、押し切られています。辛うじて、せめて5年ごとにしてくれ、という「見解」がボソボソと出てくる程度。

なぜそうなるか?
「会員の協力によって、品位の保持、向上を図り、建築文化の進展に資する」は建前にすぎず、会の運営費は大半が会員の会費ありながら、実際は、行政の代行機関の役割の方が大きいのです(ちなみに、茨城県建築士会土浦支部の事務局は、土浦市役所 建築指導課内にあります。水戸支部も同じ。他府県でもそういう例が多いのではないでしょうか)。
言うなれば、行政と持ちつ持たれつ。ゆえに、大きな声を出せない。ややもすると「御用機関」になってしまいがち。
そこは「医師会」とはまったく違うのです。

そして、こういう会の運営にあたる「上層部」のからむ今回の「事件」。どうやら氷山の一角に過ぎないようです。
この「氷山」の全容が陽の目を浴びないかぎり、そして建築士会や建築士事務所協会の「自浄能力」が発揮されないかぎり、そしてまた、建築士会や事務所協会が、建築士の人権にかかわる「不条理な侵害」に対して異議を唱えることもできないのならば、会員数は、さらに減少の一途をたどることは間違いないでしょう(もともと、建築士会、協会への加入は、建築士の「義務」ではなく、最近は入会者が減っています)。

したがって、真面目な建築士たちは、自らの「権利」を、自らで護らなければならない状況にあることになります。
私はそれでよい、そう思っています。
そのような「自覚」が持って人びとが集まり、新たな「自立した建築士会」をつくればよいのです(建築士会という名称である必要はありません)。

       

ところで、現在のような資格試験の存在しなかった時代でも、「専門家」「専門職」は存在しました。明治の頃の用語で言えば「実業家」です(下記参照)。
私も、各地の「実業家」:大工さんにいろいろと学ばせていただきましたが、上の写真は茨城の大工さんたちのチームです。[グループの語をチームに変えました。その方が適切だからです。12.45]

   「『実業家』・・・・『職人』が『実業家』だった頃」

「実業家」の多くは「世襲制」であったようですが、全てが一家の子弟に世襲されたのではありません。「弟子」が代を継ぐことがあったようです。
そこでは、次代を継ぐに相応しいかどうかの「選定」がなされていました。
しかしそれは、現在のような「試験」に拠るものではありません。
そもそも、「世襲制」の「祖」自体も当然「実業家」です。
では「祖」は、どのようにして「実業家」として認められたのでしょうか。もちろん、そこでも認定試験などがあったわけではありません。

先に、現在「伝統建築文化を継承・発展させるための法整備を求める」署名運動が行なわれていることを紹介しました(下記)。
そのなかで私は、「技術」が自由に羽ばたける環境をつくるならばともかく、法が「技術」にかかわること、「技術のありよう」を法に依存することは間違い・誤りだ、したがってそれを「要望する」こと自体を訝る旨、書きました。

   「再検・日本の建物づくり-9:技術の進展を担ったのは誰だ」
   「再検・日本の建物づくり-10:名もなき人たちの挑みの足跡」

その署名運動では、同時に、「大工職人の資格認定制度」「育成・教育制度」の「法整備」も求めています。
私はこれにも首をひねります。
なぜなら、その挙句は、さらに悪い状態になることが目に見えるようだからです。

こういう「認定制度」「認定試験」は、「漢字検定」や流行の「ご当地検定」などと同一視されてはなりません。
「資格認定」の「認定」は誰が行なうのでしょう。
そこに、認定者と被認定者の差別が必ず発生します。
しかもその選定差別は、かつての「実業家」たちの世襲の際の選定法式ではなく、法の名の下のそれですから、「法の名の下で認定者が被認定者を統制する状況」が必ず生じます。
それでいいのでしょうか?
第一、大工職人の「資格」について、「固定したイメージ」を持ってはいませんか?
「育成・教育制度」について言うとき、現行の「建築教育」の状況・実体について、真っ向からの「分析」は済んでいるのですか?そして、どんな「制度」をイメージしているのですか?

なぜこうまでして法に依存したいのか分りません。
法治国家とは、生き方や暮し方、日々の行動を、法に依存することではありません。私はそう思います。
法に依存しないと、何をしでかすか分らない、とでも言うのでしょうか。
法に定められた「方法」が、最善、最適な方法である、とでも言うのでしょうか。
それでは現在の建築法令の世界と何ら変りはありません。新たな「法という土俵」を求めているに過ぎないような気がしてなりません。それとも、これと違う「法」をイメージしているのでしょうか。

かつて、各町村に各種の「実業家」:「職人」がおられました。現代風に言えば「専門家」です。
では、彼らは、どうして「実業者」:「専門家」であり得たのでしょうか?
誰か「偉い人」がそのように認定したのでしょうか?
そうではありません。その町村に暮す人たちが、彼らを「実業者」:「専門家」と認めたからなのです。
では、「認める」とはどういうことか。

もともと、町村に、その最初から「実業者」がいたわけではありません。
当初は、たとえば住まいをつくるにあたっては、近在の人びとが集まって協働で作業をしたはずです。
その過程で、例えば木材を加工するのが他より上手な人、組立てる作業にすぐれた人・・・など、作業ごとの「達人」が分ってきます。これが「実業家」の発生紀元なのです。
つまり、その地域に暮す人びと全てから認められて「実業家」が生まれたのです。

そして、一旦「実業家」として人びとから認められたものの、いい気になって振る舞い、手を抜いた仕事でもしようものなら、二度と仕事を頼まれなくなる・・、それが人びとの行なう「厳格な」「認定・選定」なのです。

では、人びとは、なぜ、仕事の達人を見抜けたのでしょうか?
それは、人びとが皆、仕事に(仕事の仕方に)通じていたからです。通じていたからこそ、上手、下手が見抜けたのです。
前提は、「人びと皆が建物づくりを知っている」ということなのです。したがって、建物づくりに通じていて、なおかつ仕事が上手い人が建物づくりの「達人」、すなわち「実業家」だったのです。


ひるがえって現在を考えてみましょう。
建築士は、たとえば「専門の学校」を出て「資格試験・認定試験」を通ればなれます。「専門の学校」次第で受験資格が一級か二級かに分けられます。そうして生まれる「建築士」は、「専門家」でしょうか?
きつい言い方をすれば、「試験」だけ通れた「専門家」も生まれているのです。そして、3年ごとの講習を受ければ「専門家」を持続できます。
それで本当にかつての「専門家」と同じ、あるいはかつての「専門家」以上の「専門家」になっていると言えるのでしょうか。
そんなはずがありません。
かつての「実業家」たちは、日々学ぶことを厭いませんでした。だからこそ、歳をとるほど円熟したのです。
ところが、今の「専門家」は、必ずしもそうではありません。


何故こんな事態になってしまうのでしょう?
その根本は、現在のあらゆる「専門家」に存在する「特権意識」にある、と言えるでしょう。そして、その「特権意識」は、現行の「資格検定」に拠って生まれているのです。あるいは「実業家」養成制度:「教育」に拠って生まれてしまっているのです。
冒頭に触れた「事件」もまた、その「特権意識」の為せる一つの結末なのです。

かつてのように、(普通の)人びとが「専門家」を進んで認定できるようになるには、「知見」を一握りの人たちに堆積・滞積させてはならないのです。
今の状況を変える策は、私に思い浮かべることのできる最上の策は、先回までに書いたこととまったく変りありません。


すなわち、再掲すれば、
・・・・建物づくりの「技術」は、実際に建物をつくらなければならない人びと、「現場」で実際に建物をつくることにいそしんだ人びと:職方、その双方の手と頭脳によって、太古以来、進展を続けてきたのです。
これは、歴史上の厳然たる事実です。
それにブレーキがかかったのが明治の「近代化」、そして現在、完全に「進展」の歩みは止められてしまいました。
誰により止められたか。「官・学」によってです。
「官」も「学」も、近世よりも衰えたのです。
この事態の打開は、「官」「学」が、人びとの暮し、生活に「ちょっかい」を出すことをやめること、そして人びとも、「ちょっかい」を「官」「学」に求めることをやめること以外にありません。
・・・私たちは、私たちの「知見」を広く共有し(一部の人たちの占有物にしないで)、それを基に、臆せず語ること、皆で語り合うことが必要なのです。
そうして来なかったばっかりに、「偉い人」たちを生んでしまったのではないでしょうか。


ボタンの掛け違いを直すのは、今からでも決して遅くはない。
私はそう思っています。

再検・日本の建物づくり-10:「名もなき人たちの挑みの足跡」

2010-02-13 21:41:59 | 再検:日本の建物づくり
     
       先回の架構模型を正面から見たもの。正面だと製作のアラがよく見える!
     
       「古井家」の建設時からの間取りの変遷。「上屋」部分には、時代を通じて不変の「壁」はない。
       この架構が、「壁」に依存していなかった証拠。
       四周の「壁」(「下屋」の四周)は、「上屋」部分とはいわば独立している。[変遷図追加 14日 11.03]

[文言追加 14日 11.19][文言改訂 15日 16.19][文言追加 15日16.33][文言追加 15日 18.23]
先回書いた内容については、あまりにも極論だ、と思われる方々が多いのではないでしょうか。
しかし、私は、事実に基づかないこと、非論理的なことは書いていないつもりです。
こと「技術」に関して、こまごまとした「指針」を決め、それ以外を認めない、それ以外の方法を採りたければ、データを持って来い、という現行の行政のありかたの「おかしさ」「不条理」を指摘しただけにすぎません。

この「おかしさ」「不条理」は、大方が認めていて、だからこそ「法律」の見直しを、という「運動」が起きるのだと思います。
けれども、仮に「法規」が見直されたとしても、もしそれが相変わらず「技術」の中味を一律に決めてしまう形式を採るのであれば、それは、単にこれまでとは異なる「基準・規制」をつくることに過ぎず、新たな悪弊を生み出すことは必至です。

これは「なしくずし」で、言い換えれば「小手先の改良」で、更に別の言い方をすれば「姑息な手直し」で、ことが済むような問題ではない、というのが私の認識です。

現在私たちが置かれている状況に慣れてしまわず、「姑息な手直し」で済ませてしまわないためには、問題がどこにあるか、問題が何であるか、問題が何故生じているのか、皆で根本に立ち帰って考えることが必要のはずです。
私は、現在の状況のいわば対極に位置する考え方を目の前に示してみることで、皆で問題を考える一つの契機になることを願っています。


先回の一文を書いた後、文化財建造物の保存修理に携わっておられる方から、その方がまとめられた修理事例の報告書をお送りいただきました。
ざっと目を通したとき、本題の修理建造物についての本編に至る前に私が引っ掛かったのは、「耐震補強」の項目でした。耐震補強は、耐震専門(構造設計)の方の担当です。

耐震診断、耐震補強は、当然の如く、法令の「指針・基準」に拠っています。
先ず、当該建物の地震履歴が語られ、M6~M8の地震に10回遭遇していることが調べられています。M8は、濃尾地震です。
その内のM8の濃尾地震のとき、当該建物の建つ場所では、震度5の揺れだったと推定されています。それはそれでよいでしょう。
問題は、次の展開です。この履歴から、当該建物は、震度6以上の地震に遭遇したことがない。ゆえに、震度6に相当する地震では不安である。ゆえに診断、補強を・・・という論理?展開になっているのです。
このとき、万一震度6で壊れて人命に被害が出たらどうするのだ、という「究めつけの論拠」「反論しにくい論拠」が語られます。

私は、当該地の地震歴を調べてみました。また、内閣府の「地震のゆれやすさ全国マップ」で当該地の「ゆれやすさ」も見て見ました。地震歴で先の10件とは別の地震を見てみると、先の10回と大差ない大きさです。したがって、当該地の震度も同程度と考えてよいはずです。「ゆれやすさマップ」でも、揺れやすい地域をはずれているようです。
そこで私は、以前に書いたことを思い出しました(「耐震診断・耐震補強の怪-1」)。
この記事で紹介している「理科年表」所載の地震頻発地を示した地図上でも、当該地ははずれているように見えます。
にもかかわらず、震度6強の地震に遭う、という前提?で診断が始まるのです(そのあたりについてのコメントは前掲記事にあります)。

診断は、既存の「土壁」を耐力壁と見なしての「解析」で行なわれます。算定用の荷重を設定し、それに規定の水平力がかかったらどうなるか、を解析ソフト(SAP2000というソフトだそうです。私はそのあたりの知識は皆無です)を使って解析し、柱の歪みなどを図化してあります。
   地震の頻発する日本で建てられた木造建築は、
   「耐力」を「壁」だけに期待する考え方ではなかったことは、
   すでに何度も書いてきました。
   先回架構模型を紹介した室町時代に建てられた「古井家」なども、その一例です。
   「古井家」の場合、「解析」しようにも、「上屋」部には「壁」がありませんから、
   「解析」以前に「補強」が要る、と言われてしまうでしょう。
   ところが、400年以上、健在だったのです。

   もしも建物が喋ることができたなら、
   現在の「耐震診断」なるものを知ったとき、
   そんな風な変な目、変な見方では見ないでくれ、と怒るに違いありません。

ところで、診断「解析」の前提になる荷重の設定・算定は、きわめて「大雑把」なものです(法令の数値がそもそも「大雑把」です)。
しかし、その後の図化までの過程は、ソフトに拠るものだ思われますが、「おそろしく精密」です。前提を疑わずに、ただ演算するだけですから、それはあたりまえ。計算だけは間違いがない、というヤツです。
そして描かれた「図」は、視覚的表現であるだけに、これまた「おそろしく《説得力》」があります。普通の人は、地震でこんなに柱が歪んでしまうんだ、と思ってしまうでしょう。

しかし、この「解析」には重大な盲点があります。
先の荷重算定の「大雑把」さもさることながら、建物にかかる地震の水平力の大きさ:数値には、この建物が「礎石建て」であることが反映されていません。
つまり、地震によって建物にかかってくる(水平)力の発生過程についての考察なしに、直ちに「教科書どおり」に「地震時には建物に水平力がかかる」として、「解析」が「精密に」進められてしまうのです。
この「発想法」は、以前紹介した日本建築学界のパンフレット(「現行法令の根底にある『思想』参照)にある文言、「木造軸組工法の住宅が地震にあうと、柱、はり、すじかいで地震のカを受け持って、土台、アンカーボルト、基礎、地盤と力が伝わります。」と同じです。
そのとき私は、建物にかかってくる「地震の力」は、いったいどこから来るの?と問うたはずです。建物と地震の関係が如何なるものかを、まったく考えていないのです。
したがって、「解析」が精密」であっても、いかに「結果」が数値で語られようが、「前提が大雑把」である以上、「結果もまた大雑把」なものだ、私ならそう思います。

更に、水平力によって架構が歪むという解析・図化にあたっては、「壁」ばかりを考え、柱相互を縫っている「貫」の働き、つまり「立体としての架構」の働きは、まったく考えられていません。
なぜなら、壁材を張らない「貫」だけの働きについては、法令の「指針・基準」では(つまり、「学界」では)認められていないからです。
それゆえ、実際の架構は、ソフトが解析・図化したように歪まないはずなのです。

一言で言えば、「大雑把」な前提で、「現実にはあり得ない仮説」を基に、「精密な図」を描き、こんなに怖いのだ、というのが診断結果。
だから、霊感商法と同じ、と言うのです。

そしてその診断の結果為されたのは、土壁を構造用合板下地にしたり、鉄骨製のバットレスを設けたり、耐力を与えられた壁の浮き上がり防止をアンカーボルトで止めたり・・・・という「補強」です。
   註 アンカーボルトで耐力壁を止めれば、水平力による浮き上がりは止まるかもしれません。
      しかし、その「水平力」は、地震が惹き起こすもの。
      地面に固定するということは、建物が地面とともに動け、ということ。
      このあたりについて、如何に考えているのでしょう?[文言追加 14日 11.19]
そうして軸組のなかに生まれてしまった甚だしい強弱は、実際に地震に遭ったら(震度6に達しない場合でも)、とんでもない現象を軸組に生じさせるのではないか、と私には思えました。

修理を担当された方は、このような「文化財ツーバイフォー化補強」が広く行なわれるようになり、この先どうなるのか、見通しが立たないこと、こういう耐震補強を見て多くの「途惑い」を覚える人たちも、「地震で倒壊したら中にいる人の人命はどうするのだ?」という「論」に物言えなくなっているようだ、との旨、語られていました。
このような「文化財の補強」は、阪神の震災以後、もっぱら目先(10年先くらい)のことだけを見て実施され、事例数も増えてきているので、あらためて耐震補強の問題点を見直し、そのありようについて考える時期に来ているのではないか、と指摘されています。[文言改訂 15日 16.19]
   文化財までもツーバイフォー化されるようになったのは、平成11年(1999年)4月の
   文化庁から出された「文化財建造物耐震診断指針」以来のようです。
   先回架構模型の写真を載せた「古井家」のような場合は、どのように補強するのでしょうか。

私は、しばし逡巡しました。
現場では、仕事の進行のために、「これでいいのか」と疑問を抱きつつも、「指針」に従わざるを得ない方々がたくさんおられる。一方の私はといえば、いわば傍目八目的に言いたいことを言っている。そこに齟齬を感じたからです。

しかし、結局、今のまま言い続けることにしました。
私も実際の設計では、「指針・基準」と「格闘」してきました。本意でない計算をして、しかしそれで、本意に大きく反しないで「指針・基準」に従っている?形をとってきました。
それはあくまでも「形式」です。
そうする一方で、やはり、おかしなことはおかしいと言ってきたし、やはり、言い続けないと、ますます悪くなるだけだ、そう思い直したのです。[文言改訂 15日 16.19]

このような「おかしさ」「不条理」を感じておられる方々の多くは、この状態から脱け出すためには、現行の法令の根拠になっている「木造建築の構造解析法」を改めればよいのだ、と考えるはずです。
先に触れた現在進行中の「伝統木構法にかかわる法整備」「大工職人の育成制度の整備」を国会に求める署名運動では、同時に「伝統木構法の科学的検証の推進」をも求めています。これも「構造解析法」を改めればよいのだ、という考え方によると見てよいでしょう。

しかし、あわてないで、冷静になってください。
なぜ、現行の「構造解析法」が生まれたか、その理由を冷静に考えてみてください。
それには、「材料力学」「構造力学」という「学問」の発生・発展過程と、それの「(日本の)木造建築」への適用において、何が生じたか、についての冷静な考察を必要とするはずです。
その要点は、「樹木」「木材」を、如何なるものとして捉えるかにかかっています。

「木造建築」を奨める方の多くは、「木は生きもの」という文言を使います。間違いではありません。樹木は生きものですから、それから製造される「木材」もまた、生きものの様態を維持しているのは当然だからです。
しかし、多くの場合、そこでオシマイ。
「生きもの」とは何を意味するかが問われないのです。
「生きもの」であるということの一つの特徴に、「千差万別」である、ということがあります。それは「人間」と同じ。同じ樹種でも、一本ずつ、その特徴、性質は異なります。

木造の建物は、そのような「千差万別」の性質をもった木材を集めてつくられます。
このことは、「材料力学」「構造力学」の概念を「木造」建築に適用するにあたっての最大の「ネック:妨げ」であったはずです。
なぜなら、「材料力学」「構造力学」発展の契機となった「鉄」や「コンクリート」とは大きく異なり、「一律の数値、一律の定式で考えることができない」からです。
たとえば、木材の強度一つとっても、きわめて「悩ましい」ことなのです。ましてや「ヤング係数」などの諸定数・係数を一律に設定することは、一層「悩ましい」。
だから、現在の法令の中では、これらの数値は、きわめて「大雑把」なのです(強度にしても、これ以下にはなり得ないだろう、という数値にしています。これを安全率と称しているようですが、それは言い訳にすぎません)。
しかし、一律の定式化を行なえないと、「材料力学」「構造力学」の適用ができない。
そこで強引につくられたのが現在の「在来工法」の考え方だったのです。

この過程については、すでに「在来工法はなぜ生まれたか」で概要を書きました(下記)。

   「在来工法は、なぜ生まれたか-5・・・・耐力壁依存工法の誕生」

要は、「材料力学」「構造力学」の一般的概念・方法にのっかるようにするための「便法」が、現行の法令の根拠になっている《もの》なのです。
なぜ《もの》と書いて「学」と書かないかは、自明でしょう。ご都合主義の便法に過ぎない代物だからです。それは「学」ではなく、単に「材料力学・構造力学風」に見せるための「装い」に過ぎないからなのです。
建築構造学者・研究者:専門家たちは、それが「事実」に合っているか、ではなく、「材料力学」「構造力学」風になっているかどうか、の方を重視してしまったのです。


つまり、日本の木造に関する建築構造学者・研究者:専門家たちのやってきたことは、science ではない、「現象・事象・対象の存在の理を究める営為ではない」ということです。

「近代主義」「合理主義」を旨とする明治政府は、「千差万別」の人びとを差配することに苦慮しました。 
そこで為されたのが、「千差万別」の人びとを「一律化」する「試み」でした。「一律」なら、簡単だからです。
そこで使われたのが「教育」です。
人びとを、「一定の範型」に鋳直すことができれば、事が簡単に進む、と考えたのです。確かに《合理的》です(これは日本だけではなく、ある時期、西欧の国々でも行われたことです)。   

   註 「標準語教育」も、その一環と言ってよいでしょう。
      最近になって、「共通語」に言い直されました。[文言追加 15日 18.23]

戦後でさえ、「期待される人間像」などということが説かれています。
ひるがえって、近世の「教育」を見ると、そこでは、そういうことが行なわれた、という形跡がありません。
「近代化」の名の下で国家により人びとに対して行なわれたと同様なことが、木造建築の世界でも為されたのです。


冷静に考えてみれば分ることですが、
木造の建物の架構・構造を「材料力学」「構造力学」的に理解するためには、個々の建物ごとに、そこで使われている木材の「性質」を1本ごとに調べ、また各接合部の力の伝わり方を箇所ごとに調べ上げ、それぞれを数値化しなければならないことになります。
スーパーコンピュータを使えばできるかもしれません。しかし、仮に解析ができたとしても、それは、常に「特殊解」であって「一般解」ではないのです。
だから、と言って、面倒なことには目をつぶった、そのために「事実」とは異なってしまった、それが現在の「木造の構造学」
なのです。

では、この「問題」に立ち向うには、何が残されているでしょうか。
それには、
はるか昔からの「技術」は、どのように進展してきたか、を考えればよいはずです。
この「再検・・・・」シリーズで触れてきたように、現在のような「学問」の存在しない時代から、「技術」は進展を遂げているからです。
そして、数百年も、この日本の環境のなかで壊れることなく存在し続けてきた建物・構築物をつくってきたのです。この「事実」を直視すればよい
のです。

私はそれを「疫学的研究・観察」と言いました。数々の先達たちの残してくれた財産を観察することを通じて、そこに流れる「考え方」を思い遣ればよいのです。
ただしそのとき、「材料力学」「構造力学」、まして「現在の木造構造学」の援用は無用・不用です。もちろん、数値化にこだわる必要はありません。数値化しないと科学ではない、などという時代遅れのことを考えるのをやめましょう。


多分、このような観察のなかから、私たちの目の前にある先達たちの育てた「技術」は、偉い人たちがつくりだしたのではなく、もちろん「学問」がつくりだしたのでもなく、建物をつくるにあたって「名もなき人たち」が挑み続けた、その「足跡」なのだ、ということが分ってくるはずです。
「名もなき人たち」こそ、私たちの先達なのです。
そして、「名もなき人たち」の営為の素晴らしさが見えてきたとき、私たちには、もう一度私たち自らの力を取り戻す、再確認する「自信」がよみがえってくるはずです。偉い人任せから脱却できるはずです。私は、そう思っています。私たちの生き方を、偉い人任せにする必要はない、私はそう思います。
そして、私たちに、私たち自らの手による営為が可能になったとき、そのとき初めて「自己責任」という言葉が、真に生きてくるのです。「自己責任」を、偉い人たちや行政にに説かれる謂われはありません。


私たちは、「偉い人」たちの「よらしむべし、知らしむべからず」という考えに毒され、「偉い人」たちに媚を売ってこなかったでしょうか?
私たちは、私たちの「知見」を広く共有し(一部の人たちの占有物にしないで)、それを基に、臆せず語ること、皆で語り合うことが必要なのです。
そうして来なかったばっかりに、「偉い人」たちを生んでしまったのではないでしょうか。
[文言追加 15日16.33]

   「名もなき人たちの挑みの足跡」は、小椋佳の曲にある言葉です。
   曲名を忘れました。                                                                      

   なお、来週は、週末の講習会資料作成準備のため、間遠になると思います。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               
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再検・日本の建物づくり-9:「技術」の「進展」を担ったのは誰だ

2010-02-09 22:25:25 | 再検:日本の建物づくり


   15世紀末ごろの建設と考えられる「古井家」の架構モデルと桁行断面図、そして
   解体修理後、架構組立て中の様子(写真は「修理工事報告書」より転載)。
   おそらく、「古井家」としては二代目以降の建物と思われます。

   この簡潔な工法は、誰かに指導や指示をされたものではなく、
   大工さんをはじめ地域の人びとの永年の知見による工夫の結果。

   模型は1/30。部材等も、極力原寸に近い寸法に調整してあります。
   敷地地盤自体は、北西方向に緩く登っています。
   それに即して礎石を据えてありますから、柱の寸法は、すべて異なります。
   模型ではそこまでできないので、西側にだけ登っているように変更しました。
     註 地盤自体は、原寸通りではありません。
        模型の台は水平です。礎石を、桁行手前の通りの礎石高さに合わせました。
                                [註記追加 10日 15.21]
   それでさえ、大変でしたから、当初、どのようにして材料を加工をしたのか、
   考えてしまいました。   

   このきわめてスレンダーな架構でも、組んでゆくにつれ、ビクともしなくなります。
   なお、模型では、柱は礎石に糊付けしてあります。
   実際は礎石に載っているだけです。

   糊付けを除去すると、模型全体を、形を保ったまま、持ち上げることができます。
   つまり、立体になると、架構は強くなる。
   耐力壁など不要なのです。
   このことを人びとは身をもって知っていたのです。
   現代の「学問」は、数値化できないゆえに、それを理解できない・・・・。

[文言追加 10日 12.20]
今の世に生きる人びとは、建築の「専門家」をも含めて、その国の建築にかかわる法律に従えば、あるいは法律の定める「技術指針」に従っていれば、「優れて適切な」建物ができあがる、と考えているようです(更に言えば、そのような「技術指針」がなければ、「優れて適切な」建物は生まれない、と考える人たちもいるかもしれません)。
と言うより、そうしないと、建物づくりができない、というのが現実
なのです。
もちろん、そんなことはない、法律がネックだという「専門家」がいるかもしれません。

しかし、もしも、その法律を突如取り去ったとき、今の人びとは、建築の「専門家」をも含めて、「優れて適切な」建物をつくることができるのでしょうか。
はなはだ疑わしいと私は思っています。
建築の「専門家」をも含めて、もちろん法律がネックになっていると言う「専門家」も含めて、多くの人びとが、途方に暮れるのではないか、
と思うからです。

今の人びとは、あたかも三蔵法師の掌の上で踊る孫悟空のように、法律という土俵の中でのみ振舞わざるを得ない、そういう日常にあまりにも慣れ過ぎてしまっていますから、土俵がなくなることは、「恐怖」に近いはずです。法律がネックだという「専門家」も同じでしょう。
なぜなら、法律がネックだという「専門家」たちの多くが、法律の中の、自分たちのネックになっている(と思っている)箇所を直してくれればよい、と考えている気配が感じられるからです。

たとえば、最近、「伝統木構法による建築が建て易くなるように、建築士法、建築基準法の抜本的見直しをはじめとする法整備」、「大工職人の資格認定や育成・教育制度、森林の整備等、伝統建築文化を継承するための社会制度の整備」を国会に要望する署名運動が行なわれつつあります。

たしかに、「伝統的木造建築の実物大実験」などに見られる現行の法律の下で為されている建物づくりへの「ちょっかい」は尋常ではありません。

   ちょっかい:ネコなどが用心しながら前足を使って、ちょっと物をかき寄せること
   転じて、おせっかい  ・・・・・・「新明解国語辞典」より

だからと言って、この「要望」は、「ちょっかい」の中味を、今のものから別のものに変えてくれ、という要望にほかなりません。
別の言い方をすれば、「『法律』が技術に係わってくること、『ちょっかい』をだすこと」を相変わらず望んでいる、言い方がきつければ、容認している、ことにほかならないのです。

有史以前からの長い長い歴史の中で、建物をつくる「技術」は「発展」を遂げてきました。近世には、当時の道具の下で、一定の体系にまで完成していたと言ってよい、と私は思っています。

今、私たちの目の前には、主としてその頃にできあがったいわゆる「伝統的」と称される「技術」、建物づくりの方法:「工法」があります。  
しかしそれを、「形」「形式」としてとらえ、それを引継いでゆかねばならぬ、引継がないのはけしからん、と思うことは自由ではありますが、それは本末転倒だ、と私は考えます。
なぜなら、一定程度完成の域に達している体系であるからといって、それ以上の「進展」があり得ないと考えるのは早計で、状況に応じてなお変容を遂げるべきものだ、と思うからです。
これは、有史以来、何時でもそうだったのです。常に、具体的には目に見えませんが、「変容」「進展」のベクトルは、実際に暮している人びとの中に存在しているはずだからです。


では、そのとき、更なる「進展」は、どのようにして為されてきたのでしょうか。
「技術」の「進展」を促し、庇護する策が、国家の手により、あるいは地域の支配者の手によって講じられてでもいたのでしょうか。
そのような事実を私は知りません。


あるいは、「技術」の「進展」は、日本の場合、常に、他国からの「技術」の移入によって、それを機会に為されたのでしょうか。
こういう見方は、学界の中に隠然としてあることは承知しています。
たとえば、東大寺再建の際の「大仏様(だいぶつよう)」。「宋」の技術者による技術移入である、というのが一般的な説。

しかし、冷静に考えれば、そんなことはあり得ません。
僅か数人の「宋」の技術者だけで、ものがつくれるわけはなく、かと言って、彼らの差配の下で、多くの此の地の職方が、初めて見る工法を手際よくこなす、などということもあり得ないからです。
職方自体が、同じような工法を知っていたからこそ可能だった、と考えるのがきわめて自然なのです(これについては、すでに「浄土寺・浄土堂」や「古井家」「箱木家」を紹介したときに触れました。

これらの記事は、何回も書いていますので、「最新記事」の「もっと見る」から適宜アクセスしてください)。


すなわち、「技術」の「進展」は、常に、「上」や「他」の「指導」「指示」の下で為されるのではなく、「現場」で建物づくりにかかわる「職方」たち自らの手と頭脳によって為されたのです。
残念ながら、近代以降、この「事実」は、人びとの目から隠されてしまいました。
そして、まったく逆に考えるようになってしまいました。


近世の政権の下には、多数の「地方巧(功)者(ぢかたこうじゃ)」が重用されています。しかし彼らの行なったことは、ときの政権がこと細かく指示・差配したのではなく、彼ら自らの判断、進言が基になっています。
たとえば、政権は、「開拓、干拓」を、と言うより「農地の増大:可住地の増大」策を彼らに指示しただけ。具体的な選地、方法などは、彼らに委ねたのです。
もっとも、政権にある者自身も、諸事には精通していました。精通していたからこそ、「上」に立てた、と言えるかもしれません。単に地位が「偉い」だけではなかったのです。そこが現代との大きな違い。
これは「普請奉行」などでも同様です。

大分前に、「孤篷庵」を計画した小堀遠州に触れました。江戸から職方に指示は出していたようですが、それはあくまでも大筋についてのみ、「技術」について指示はしていません。

つまり、「技術」の「進展」に係わったのは、「現場」の人びと:職方たち(および地域の人びと)であって、「上」の人びとではなかったのです。
そして「現場」の人びとは、実際にそこで「暮す」人びとのことがよく分っていたのです。これも現代との大きな違い。
そしてだからこそ、地域の特性に応じた多種多様な「技術」が生まれ育ったのです。

この大きな歴史の流れを変えてしまったのが、明治の「近代化」です。
「人の上に人をつくらず」という文言とは裏腹に、各界で、「上」から「下」への「一方通行の方程式」がつくられてしまったのです。
その「一方通行の方程式」の確立のために利用されたのが「科学」です。

   science の訳語として「科学」は適切ではない、むしろ誤りであることは以前に触れました。

「科学」の名の下に、「科学」の範疇に入らないものは、非科学的のレッテルを貼られて棄てられました。
「科学」の進んだと言われる現在、その傾向はますます激しさを増しています。
「技術」も然りです。「技術」が、「現場」のものでなくなって来たのです。「人びと」のものでなくなってきたのです。
「現場」から「科学」へという歴史上の厳然たる事実を無視して、それとはまったく逆に、「科学」が「現場」を差配することが主流になってきました。
法律が「技術指針」をこと細かに規定する、というのは、まさにその具現化にほかなりません。


これでは「技術」にこれ以上の「進展」は望めない、と私は思います。
しかし、世の中はそうではないらしい。
法律がネックになっていると言う「専門家」たちまでが、法律での「庇護」を望んでいるからです。
それどころか、木造工法の科学的検証の推進を国に求めています。なぜ、国がやらなければならないのでしょう?


それゆえ私は冒頭で、「もしも、法律を突如取り去ったとき、今の人びとは、建築の『専門家』をも含めて、『優れて適切な』建物をつくることができるのでしょうか。はなはだ疑わしいと私は思っています。」と書いたのです。

建物づくりの「技術」は、実際に建物をつくらなければならない人びと、「現場」で実際に建物をつくることにいそしんだ人びと:職方、その双方の手と頭脳によって、太古以来、進展を続けてきたのです。
これは、歴史上の厳然たる事実です。


それにブレーキがかかったのが明治の「近代化」、そして現在、完全に「進展」の歩みは止められてしまいました。
誰により止められたか。
「官・学」によってです。
「官」も「学」も、近世よりも衰えたのです。
この事態の打開は、「官」「学」が、人びとの暮し、生活に「ちょっかい」を出すことをやめること、そして人びとも、「ちょっかい」を「官」「学」に求めることをやめること以外にありません。

建築にかかわる法律は、もし必要だというならば、「安全で安心できる建物をつくることに専念する」、この一言だけあればよいのです。
なぜなら、そういう法律がなくても、建築の技術は見事な進展を重ねてきているではありませんか。
そして、その進展が止まったのは、近代以降ではありませんか。個々の人びとの頭脳を信用しなくなったのは、近代以降なのです。少なくとも日本では。


実は、最近、私の所にも、「伝統を未来につなげる会」から、入会案内と先の国会への「要望」への署名を求める書類が届きました。
受け取ったとき、ある種の「違和感」を感じました。直観です。
一番の違和感は、「伝統を未来につなげる」という文言でした。これはいったい何だ?

そもそも、前にも書きましたが、
「伝統」とは、「前代までの当事者がして来た事を後継者が自覚と誇りとをもって受け継ぐ所のもの」(「新明解国語辞典」)。
私は、この解釈に賛成です。きわめて「明快」で「明解」だからです。
   「広辞苑」の解説は次のようになっています。
   「伝統」:伝承に同じ。また、特にそのうちの精神的核心または脈絡。
   「伝承」:①伝え聞くこと。人づてに聞くこと。
         ②つたえうけつぐこと。古くからあった「しきたり」(制度・信仰・習俗・口碑・伝説などの総体)を
         受け伝えてゆくこと。また、その伝えられた事柄。
   
したがって、「伝統」という語は、それ自身のうちに、伝える、受け継ぐ・・・と言う意味を含んでいるのです。
ですから、「伝統を未来につなげる」という言葉遣いからは、「伝統」なるものに、ある「形」を設定し、その「形」を未来につなげるのだ、送るのだ、そういう「認識」が垣間見えるような気がしたのです。

私の考える「自覚と誇りをもって受け継ぐ所のもの」は、「形」「形式」ではなく「ものごとに対する考え方、認識のしかた」以外の何ものでもありません。

もしもそうではなく、「『形』『形式』を受け継ぐことだ」とするならば、その「形」「形式」が固定されてしまうことになります。
しかし、「制度」や「技術」・・というものは、本質的に「固定化」とは相容れない類のものです。下手をすれば、直接的に人の生き方をも固定化するからです。

つまり、「制度」や「技術」・・は、人の生き方・暮し方に応じて変容する、それがあたりまえの姿です。
人びとは何を考えて「変容」をもたらすのか。それこそが最大な要点である、と私は思います。
それを、「官」「学」任せにどうしてできるのでしょう?
はるか彼方の昔から、この日本という環境の中で生きてゆくことを通じて培われ、何代もの人びとに継承されてきた「環境への対し方・考え方」、私は、それこそが、「自覚と誇りをもって受け継がなければならないもの」なのだと思います。
そしてそれは、人に言われてすることではないのです。
私たちは、私たちの多数の先達たちとともに、私たち自身の「能力」を、もっともっと信じてよいはずなのです。

再検・日本の建物づくり-8:しかし、すべての建屋が天変地異に耐えたわけではない

2010-02-07 12:30:55 | 再検:日本の建物づくり
[補訂追加 17.33]

先回、「礎石建て」で建物をつくる「技術」は、長い「掘立て」の時代に培われた知見を基にしているだろう、という勝手な推量を書きました。

そのように書くと、「掘立て」の時代も「礎石建て」になってからも、すべからく建屋は日本という環境に応えることのできるものであった、かのように聞こえるかもしれません。
もちろん、そんなことはなく、天変地異に対応できる建屋は、むしろ極めて少なかった、と言ってよいでしょう。

なぜなら、いかなる時代にも共通することですが、日本の場合、建屋を建てるとき、つまり「住まい」を構えるとき、「とりあえずの建屋」「当面の用に間に合う建屋」で済ませてしまうことの方が多いはずだからです。
と言うより、時代によって比率は異なるでしょうが、こういう建屋で済ます事例の方が、圧倒的に多いのではないでしょうか。
   「とりあえず」とは、「取るべきものも取らずに」ということ。
   「新明解国語辞典」の解説に拠れば、「最終的にどうするかは別問題として行なう臨時・応急の措置」。
   「当面の」とは、「さしあたりの--」ということ。
つまり、いつ起こるか分らない地震や台風などの天変地異に備える、などということを念頭に置かないでつくる建屋、ということです。

「とりあえずの建屋」「当面の用に間に合う建屋」にも二通りあるように思います。

下は万葉集・巻五にある有名な「歌」のコピーです(岩波書店刊「日本古典文学大系 万葉集二」より)。

     

時代は、天平。仏教が(上層階級に)広まり、多くの寺院が建立され、そして仏像が造立された一見華やかな時代。
多くの農民は、きわめて貧しかったようです(農民が人口の大半を占めていたのではないでしょうか)。
東大寺大仏殿の工事には、全国から人が呼び寄せられましたが、そのすべてが生きて生国に戻れたわけではない、そういう時代。

   この歌の作者は山上憶良。今で言えば、いわゆるキャリア官僚。今の官僚がこんなことを書けば、
   内部告発・・・・などと言われるかもしれません。
   しかし、そういう歌が、これもいわば国定の詩歌集に載っている。
   時の政府が、「事態」を認識していた、ということなのでしょう。
   今の官僚の人たちなら、ほとんどが見て見ぬふりをするのでは・・・・。

この農民たちが、はじめから「天変地異に応えることができるつくりを求める」はずはありません。そんなゆとりはないのです。
彼らの多くは、竪穴からは脱しても、それとほとんど変りのないつくりの建屋で暮していたと思われます。歌のなかにもあります。「つぶれたような、傾いだ家の中に、土に直かに藁をばらばらにして敷いて・・・」。
「天変地異に応えることができる」ことなど、考える余裕はないのです。
   
もちろん、すべての農民の住まいが「とりあえず」であったとは限りませんが(もちろん、すべての上層階級の住まいが「本格的」であったとも限りませんが)、いずれにしろ、
それぞれが、その置かれた状況に応じたつくりの「住まい・建屋」で過ごしていたことは間違いありません。そして、基本的には、現代に於いても同じと考えられます。

もう一つは、余裕はあっても「当面の用」を第一に考え、いつ起きるか分らないような事態に備えることには、「余裕」を使わない場合です。
これは、「考えない」というよりも、「考えたがらない」と言った方がよいかもしれません。
つまり、はるか昔からの経験・体験の積み重ねを見ないで、あるいは、見ても見ぬふりをして、知ろうとしないで、ただつくればよい、という「とりあえず」です。
これは、今の世ではきわめてあたりまえな話ですが、実は、どの時代にもあったことと考えてよいでしょう。ただ、その程度は、現代ほどではなかったでしょう。
「危険」が差し迫っていないときは、得てしてこうなります。
そして、こういう場合が圧倒的多数だったのではないか、と思います。

このことは、上代(奈良・平安時代)の地震の記録を見るとよく分ります。
「理科年表」にはM6以上の地震の年表が載っていますが、そこから上代の記録を抜粋すると、次のようになります。
一部は「東大寺大仏殿の地震履歴」のときに載せた記録と重複します。
   原本の文字が小さく、判読できるようにしたため、長い表になっていますがご了承ください。

     

ここには、東大寺の鎌倉再建までぐらいの約770年間を転載してありますが(数頁にわたる原本の拡大コピーを、一表にまとめています)、その間に記録に残されているM6以上の地震は37回あります(当時の記録に書かれない地震が、他にもあったかもしれません)。建物にかかわる事項にアンダーラインを付しました。

ほぼ20年に一度はどこかで地震がある、これが日本列島の姿なのです。
年表から分るように、各地域で(当時の「情報網」の下では、「全地域」の地震情報が、畿内へ伝えられたとは限りません)、官も民もなく、多くの建物が被災しています。各地の「正倉」というのは、地域の政庁の正式倉庫。結構被災しています。
   畿内:畿とは王城のこと。ゆえに「畿内」とは、国を統治している政府所在地、または直轄地域。
   近畿とは、王城に近い一帯のこと。

一方で興味深いのは、畿内の有名な寺社、たとえば、法隆寺、東大寺、唐招提寺等々・・、の被災の記録がないこと。

各地の「正倉」が倒壊している記録はあるが、東大寺「正倉院」については、そのような記録はない。
東大寺側の記録にも、鐘楼の鐘が地震で落ちた、大風で戸が倒れた、塀が壊れた・・・などの記録はあっても、大仏殿をはじめとして建屋が地震で被害を受けたという類の記録がないことは、以前にも触れました(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/792cba3b7d2c718ef5671822c66625dd)。
そして、実際、地震の影は建物には刻まれていません。

これは何故なのでしょうか。単なる記録漏れでしょうか。被災したことを明示することを嫌ったからでしょうか。

多分、使い物にならなくなるような被災は、実際なかったのでしょう。


各地に残る旧家の「履歴」を見ると、たとえば記録が残っている例で言えば、約300年近く住み続けられてきた長野県塩尻の「島崎家」の建屋は、その建屋が建てられる前に、同じ土地に先代の建屋がありました(「島崎家住宅」については、http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/b1cceff176f783b66cf4e8c161bb7a55で紹介してあります)。

つまり、「島崎家」は、代々その土地に根付いて暮し、約300年近く住み続けられてきた現在の「建屋」は、少なくとも二回目の建築ということです。
同じ土地に同じ一家が暮し続け、建屋が二代、三代と建替えられた事例は、他にもかなりあると考えてよいでしょう。
かならずしもそれは、人間の方の世代交代と一致はしません。
ある代は先代から引継いだ建屋に暮し、ある代は建替えにかかわる・・・。
これは今でも農村地域ではあたりまえです。

何故建替えるのか?
簡単に建替えられることは、(日本の)木造家屋の特徴の一つです。それができるからこそ、「とりあえず」で済ますこともできるのです。

おそらく、初代の建屋は、先に触れた「とりあえずの建屋」「当面の用に間に合う建屋」であったと考えられます。
当然、材料も選んだわけでもなく、つくりも念を入れたつくりではありません。
それゆえ、暮しているうちに、不便な箇所、不都合な箇所、傷みやすい箇所・・・などが明らかになってきます。もしもそんなときに地震などに遭えば致命的です。
そして、地震などに遭わなくても、終に、建替えようという「気運」が持ち上がります。

そして、その「気運」が高まってゆく過程で、建物づくりの「要点」を学び、身に付けると言ってよいと思います。
まわりのものを観て、古いものを観て、他地域のものも観る・・・。何がよいか、どうすればよいのか、身に付けるのです。
その結果つくられる二代目(あるいは三代目・・・)の建屋は、念には念を入れた天変地異にも応えられる「本格の建屋」になるのです。
   実は、街並みも、こういう繰返しが、街中で継続して行なわれることを通じてできあがるのです。
   多くの場合、似たようなつくりの建屋が連続します。
   詳しく観ると、それは単なる「形状」の模写ではなく、
   たがいに「つくりかた」のなかみを切磋琢磨していった結果である、と考えるとよく理解できます。

   補訂 二代目(あるいは三代目・・)の建屋を、別の土地を求めてつくる場合もあります。[追加 17.33]

では、初代の建屋づくりから、「本格の建屋」をつくる場合はあるでしょうか。
その例が、畿内の主たる寺社建築、とりわけ寺院建築であったと考えられます。
仏教に帰依することを基幹にした国家運営にあたって、「とりあえず」の建屋はつくれません。
その建築にあたって、それまで蓄えられていた、そして表には顔を見せていなかった「知見」が、形をもって現われ、そこに大陸から伝来の「技術」が加わった、と考えてよいと思います。

   通常、当時の建築の技術は、もっぱら、大陸から渡来の技術者がもたらしたもので、と説かれます。
   しかし、いかなる地域でも、「技術」やより広く「文化」の交流はありますが、
   そのとき、一方から他方へのみ「流れる」というようなことはあり得ません。
   最近になって、朝鮮半島に、日本風の墳墓が見つかったと言います。
   朝鮮半島に渡った日本の人たちがいたからなのです。それが「交流」の姿なのです。
   したがって、古代においても日本にも「技術」は存在し、それと大陸伝来の「技術」との「交流」がなされた、
   それが古代の建築群と言ってよい、と私は考えます。
   そのとき、日本側では、伝来技術の取捨選択がなされます。しかし、それはいきなりではありません。
   その特徴の「理解」には時間が要るからです。

そしてつくられた古代の建築群は、言葉の真の意味で「好い加減」、そこではそれまで蓄えられていた「知見」は役に立っていたのです。
そしてそれゆえに、軒先は垂れ歪み副柱をしながらも、ほぼ400年、東大寺大仏殿は天変地異に耐えてきたのです。そして消失したのは、人為的な焼き討ちが因だった・・・・(先の「巨大建築と地震」参照)。

以上のように、日本の場合、一般の人びとの間では、住まいを構えるにあたって、その初めから「完璧」を目指すことはなく、先ず「当面の用」を充たす「とりあえず」の建屋で済ませ、そこでの暮しを続けるなかから、「建替え」の気運が生まれ、そしてようやく「本格的な」建屋を構えるに至る、というのが大筋であった、と考えられます。
別の言い方をすれば、蓄えられた「知見」は、即刻反映されるのではなく、ある醸成期間を経た後にようやく姿を現す、それが日本の建屋づくり、と言えるのです。

そして、これがきわめて重要なことだと思うのですが、建屋は「とりあえず」であっても、建てる場所の選択は真剣であった、つまり「本格的」で「とりあえず」ではなかったということです。
それゆえ、余程のことがないかぎり、「とりあえず」の建屋でも、一定程度永らえることができた、つまり「とりあえず」であっても、「必要条件」については考慮されていた、ということです。

ひるがえって現代に目をやると、「科学」への盲目的信仰の隆盛の結果、「必要条件」の内容の斟酌もなく、まして「十分条件」への目配りもなく(そもそも、「必要条件」「十分条件」の認識もなく)、「とりあえず」の段階から天変地異への対応の必要が説かれ、その結果、「とりあえず」の段階の建屋が動きもとれないまま固定化してしまう、という状況が隆盛を極めています。
そこでは、「ものごとの推移」の「過程」「経過」が無意味なものとして、見捨てられ、黙殺されています。「日本のつくりかた」の無視です。


日本とは自然環境の異なる西欧では、建屋が、日本とは比べ物にならないほど大きいのが特徴です。
それは、日本のように、「建替えや改造があたりまえではないつくり」だからです。
日本の場合、たとえば、手狭な建屋は増築・改築で対応が可能でした。
彼の地では、そういうことは滅多にないし、つくりの点でもまず不可能ですから、そのため、初めに容量・容積の大きいものがつくられます(全体も室自体も)。
そのためには、用地も広く必要になります。それは、彼の地では住まいを構えるにあたっての大きな「必要条件」なのです。

ところが昨今の日本では、きわめて狭隘な用地で、西欧的なつくりかたをするようになってきました。また、官・学(?)ともにその方向を推進しています。長期優良住宅・・・などはその一つにほかなりません。
しかし、狭隘な用地ゆえに、それでは早晩二進も三進も行かなくなるのは目に見えるではありませんか。
まして、耐震と称してがちがちに固めるために、長年の内には、使用に堪えなくなり、廃墟にならざるを得ないのは自明です。

日本の場合、今の用地の面積、その狭隘さが改められないかぎり、長期優良住宅などということは存在し得ず、至るところ、廃墟の山になる、私はそう思っています。
そしてそれは、「必要条件」の「整備」のみをもってよし、とする風潮の結果なのです。

少なくとも、近世まで、「ある土地」には(あるいは「地域」には)、人が住める「容量」がある、という認識がありました。
たとえば、各地で開拓を行なった近世の「地方巧(功)者」たちには、あたりまえのように、その「認識」がありました。
近世以前、度を越した「容量」を想定する、設定することは、まず皆無だった、と言えると思います。
けれども、近代になってから、その「認識」は消えてしまいました。というより、初めからそのような「認識」が欠如しています。現代にいたっては、まったく影も形もありません。


この「再検」は、そのあたりのことまで考えないといけないのではないか、そう思って書きだした次第です。
ところが、これが結構難しい。どういう「資料」で語るのがよいか、思案にくれるからです。それゆえ、投稿も間遠くなりますが、ご了解、ご容赦ください。
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再検・日本の建物づくり-7:掘立ての時代から引継いだもの

2010-02-01 18:27:02 | 再検:日本の建物づくり
[文言追加 22.51]


きわめて長い時間をおくった「掘立て」の時代、人びとは多くの天変地異に遭遇したはずです。
そして、そのような天変地異にも負けずに生きてゆく方策も見出したでしょう。
もちろん建物づくりでも同じです。
日本という環境で、天変地異にも応えられる建物づくりの「根幹」「基本」は、その頃に見出されていたと考えてよいと思います。

寺院などの建物については、古代から遺構が現存していますが、一般の人びとの住まいについては、残念ながら、「掘立て」の時代から千年家:「古井家」「箱木家」までの間の遺構が存在しません。
したがって、その間の経緯については、「住まいをつくるという視点で想像してみる」しかありません。

「掘立て」の時代が途方もなく長いと言っても、人びとがいつまでも「竪穴住居」に安住していたとは考えられません。
地面よりも一段高い所の方が、「竪穴」よりも暮しやすいとの認識があって当然と思われるからです。

暮しの場を地面から一段高くする方法としては、土を段状に積み固める方法と、木材で床を組む場合があったと考えてよいでしょう。
土を段状に積む方法とは、先に紹介した中国西域で現在も行なわれている方法と同じです(写真をhttp://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/129999f445a867ee7ca2254e041fc62cに載せてあります)。
日本でも寒冷の地域では、土の保温性を活かせることと、隙間風が生じないなどの点で、近世まで普通に行なわれていたといいます。

  参考 日本の土座 第二次大戦前までは、普通に見られたといいます。


一方、地面は湿気を帯びやすいため、湿気が問題になりやすい地域では、かなり早くから木材で床を組む方法が行なわれていたと考えられます。

つまり、生活面を土で高くしたり、木材を組んで高くする方策は「掘立て」の時代からあった、と考えてよいと思います。

「掘立て」の建物で床を木で組む一番簡単なのは、おそらく、地面の上に木材を転がして並べ、その上に小舞や板を並べる方法です。
板は簡単には手に入れにくいため、15世紀末ごろの建設と考えられる「古井家」の「ちゃのま」と同じように竹を並べて竹簀子(たけすのこ)をつくったり、あるいは小枝を並べ、莚のような敷物を敷くのが普通だったかもしれません。

当然、柱と柱の間にも小舞や板を受ける木材:横材を据えることになります。
そのようなとき、単に転がして置くだけではなく、柱に固定することも考えたでしょう。
なぜなら、幾度か経験すれば、木材を転がすにあたって、はじめに高さの基準を決める必要があることを知り、基準は柱の通りに決めるのがよいことも知るはずだからです。

横材の固定の方法としては、はじめは木材を土や石で固める策を採ったかもしれませんが、すぐに、柱に横材より少し大きめの孔を穿ち、木材を嵌めこみ、隙間に埋木をする方策を考え出してもおかしくありません。その方がしっかり固定でき、基準としても確実だからです。

ここに想定した床をつくる方法は、「礎石建て」になってからの建物に多数の例があり、その諸例を基にした推量です。
以下に「礎石建て」の場合の例をいくつか挙げます。

奈良時代の建設とされる「法隆寺」の西院伽藍わきにある「妻室(つまむろ)」には、床に板が張ってあります(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/3846ea9d088099fb0c6d534e19df8bb7参照)。

この建物の場合、床がどのようにつくられているかは、図面が見つからず分りませんが、写真で判定するかぎり、地面に据えた石の上に横材:「大引(おおびき)」を転がし、その上に板を張っているものと思われます。床を張る一番簡単な方法です。   
     

外観の写真の柱間の足元に入っている横材は、後から柱間に置いた材:「地覆(ぢふく)」で、壁の足元を納めるとともに、床板を受ける役割をも持っていると考えられます。
したがって、転がした横材「大引」と、上面が同じ高さのはずです(と言うより、転がした横材の高さを、この「地覆」の上面にあわせた、と言う方が適切です)。
なお、室内側では、壁の見切り:幅木様の材:を別途設けているものと思われます。
   この材を「地覆」の内側だとすると、床のレベルは「地覆」の下端ほどになりますが、
   外観で見ると「地覆」と地面との距離がなく、別材と考えられます。

奈良時代の建物である「室生寺・金堂」の床も板張りですが、その床は、下の断面図のようになっています。
     
オレンジ色に塗った材が「根太」を受ける材:「大引」ですが、柱通りでは、「大引」の両端は柱の礎石上に載せられ(右側の「庇」部と「孫庇」部との境の柱では柱に納めてあるようです)、中途は石で支えています(「庇」部の中途は角材かもしれませんが不明です)。
多分、柱通りの「大引」は、単に柱の礎石に載っているだけではなく、何らかの形で、柱に噛ませてある(たとえば「大引」大の孔を浅く彫ってある、など)のではないかと思います。

さらに、法隆寺・伝法堂の床は、地面に転がすのではなく、一段高くする床の形式を採っています。下の図は、その分解図です。
   ただし、右側の囲んだ図の手前の柱の「床束」とあるあたりの図解は正しくないと思われます。
   多分、作図者が、描図の際、「地長押」と「床桁」との区分を間違えたものと思います。
   その部分については、左側の図を参照してください。その図にある板を受けている材が「床桁」です。
   この「床桁」を受ける「床束」が、柱の内側にあります。

この建物では、柱と柱の間に設けられた「床桁」に、以降のような「足固め」の意識はないものと思われます。
しかし、結果として、このような簡単な納め方でも、柱脚部の柱間に入れられた材が、思った以上に架構を固めることを知ったのではないでしょうか。


以上見てきた礎石建て建物で行なわれている床組の方法は、何も寺院建築特有の方法ではなく、当時の一般の人びとの間でもあたりまえの方法であったように思えます。

たとえば、15世紀末の「古井家」では、「大引」を石で受ける方法が採られています。これは、おそらく、ごく普通に行なわれていた方法だと思います。
下は、「古井家」の梁行断面図と解体修理の際、「おもて」の床板を剥いだ時の写真です。いずれも「修理工事報告書」からの転載、ただし、図面には手を加えてあります。

図でオレンジ色に塗った部材は、丸太の「大引」で、地面に自然石を積んで支えています。1/2間ごとに入っていて、梁行の柱通りは「足固め」を兼ねています。
なお、断面図には描かれていませんが、中央の柱列(桁行方向)には、床レベルに「足固め」の「貫」が入っていることが写真で分ります。「大引」は丸太、「根太」との取合いでは欠き込みで床面を調整しています。

[以下 文言追加 22.51]
「大引」を支えるには、おそらく、「室生寺」のような方法、あるいは「束」で支える方法なども一般の人びとの住まいでも用いられていたと思われます(その古い例がないだけなのではないでしょうか)。

   註 「日本建築辞彙」によると
      大引:尾引とも云ふ。地層床の根太を承ける横木にして束上にあり。
          英語:sleeper
          大帯木なりといへる説あり、又大負木なりともいふ。
      根太:床板を承くる横木。
          英語:bridging joist, floor joist, joist   [文言追加 了]


以上は、「礎石建て」の場合の例。
この「礎石」の上端を「地面」と考えれば、同じようなことが「掘立て」の建物の場合でも行なえたと考えられます。
と言うより、そのような体験が「掘立て」の時代にあったからこそ、「礎石建て」になっても行なえた、と考えた方がよさそうです。
いつでも「一から始める」ということはないはずだからです。
   註 現代人(のある部分)は、すべて新たに「一から始められる」、と考えているようです。

そして「掘立て」から「礎石建て」への移行も、おそらくスムーズに行なえたと思われます。
なぜなら、「掘立て」の時代に床を木を組むことを通じて、柱の足元が床組などで固められれば(柱の上部だけではなく下部も横材で繋がると)、仮に柱の脚部が腐朽で地面を離れても、風に吹かれてもそのまま移動する、地震に遭っても形を維持している・・・・、つまり、「地上部の立体に組まれた架構」は安定している、ということを体験で知っていたはずだからです。


以前に、法隆寺の建物の礎石を例に出しました。
そこでは、柱を礎石の上に立てるために、礎石に孔を穿ち、柱の側の「太枘(だぼ)」を落し込むようにしたり、逆に、礎石の側に枘をつくりだし、柱側の孔を納める、などの工夫がなされていました。
    
ところが、1190年(平安時代~鎌倉時代の過渡期)に建てられた浄土寺・浄土堂では、そのような用意はまったくされていません。
下は、すでに浄土堂の解説の際にも載せた、柱の底部の写真ですが、平らです。礎石の上部が平らに均されていて、柱はその上に置いてあるだけ、ということになります。
        

なぜ、12世紀末には柱を礎石に置くだけになったのでしょうか。
その理由は、床を張るか否かの違いに拠ると考えられます。
浄土堂の建て方手順の解説ですでに触れましたが(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/46152cfa4f8c9450e6fbdfe2c9d99745)、浄土堂では、柱間20尺の3間四方の平面に対して、縦横に「足固貫」が入れられていて、しかもその組込みは建て方の最終段階でした。最終段階で、「足固貫」を組込むことで、柱間を設定どおりの位置に調整可能だったのです。
一方、床を張らない法隆寺の時代には、柱位置の建て方終了後の調整は難しく、はじめに柱位置を設定箇所に据える必要があったのだ、と考えられます。「太枘(だぼ)」は、定位置確保のための用意と考えることもできるのではないでしょうか。
もしかすると、「長押」は(特に「地長押」は)、「大引」や「足固め」の役割を担う材として発案されたのかもしれません。

   なお、法隆寺も浄土寺・浄土堂も、礎石建てにしてもなお柱脚の湿気・腐朽を気にしています。
   これは、日本の工人たちが、時代を越えて木材の腐朽防止に如何に腐心してきたか、を如実に示しています。
   一方でこれは、現代、最もないがしろにされていることの一つです。


以上、想像に想像を重ねてみました。

要は、建物の架構を「立体に組上げる」という発想・構想(これこそが、日本という環境で育てられた「日本の木造建築の真髄」だと思うのですが)は、「掘立て」の時代からの長い長い体験の積み重ねの中で会得されたものだ、と考えてよいのではないか、ということなのです。

そして、そうやって見てくると、架構を各面に分解し、各面に耐力部を用意することで架構の安定化を図る、などという現代の理論が、浅ましく見えてきてならないのです。
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再検・・・・-6:の補足・「神輿のような建屋」の補足

2010-01-29 10:15:56 | 再検:日本の建物づくり
     
      今日は、このあたり一帯だけ、どういうわけか雨模様。雷もなっています。
      そんななか、いつものように来訪者。ツグミです。
      カキの枝にとまって、しきりに身づくろい。雨に濡れたからでしょう。
      以上は、本題とは無関係!

[表記を正確に修正 31日 9.55]

先般の「気になった言葉」へのコメントに、久保恭一氏から貴重な「資料」の紹介が寄せられました。
建物と地震の関係についての研究では大先達にあたる大森房吉氏の、「明治37年11月6日に起きた台湾地震」について1906年(明治39年)に出された「調査報告」の中の論文です。[表記を正確に修正 31日 9.55]

コメントの一画に置いておくのはもったいないので、先回の「神輿のような建屋」の補足として、別項設けさせていただきます。

簡単に言えば、「神輿のような建屋」、「礎石上に据え置いただけの建物の耐震性」についての論説です。

   註 大森房吉(おおもり・ふさきち)1868年(明治元年)~1923年(大正12年)
     福井県福井市生まれ。明治・大正時代の日本の地震学の指導的研究者の一人。
     関東大震災の報を知り、豪州から帰国の途次、倒れた。
     
以下、久保氏の前文を除き、そのままコピーします。読みやすいように、段落は変えてあります。


  ・・・(略)構造物を耐震的ナラシムルニハ、
  (甲)地震動ヲシテ成ルベク構造物ニ破壊的作用ヲ及ボサヾラシメ又、
  (乙)構造ヲ堅固ニスルヲ要ス
  ・・・・・・
  普通ノ日本造リ家屋ハ、弱小ナル地震動ノトキハ、
  土台石(註:礎石のこと)ヨリ辷リ動カサルヽコト無ケレバ、
  地面ニ固定セルガ如クニ振動スレドモ、
  大地震トナリテ震動激烈ナルトキハ、水平地震力強クシテ、
  木造家屋ノ下底ト土台石トノ間ニ存スル摩軋(註:ま・あつ:摩擦のこと)ニ
  超過スルコトアルベク、
  斯カル場合ニハ家屋ハ土台石ヨリ離レテ多少移動スベク、
  即チ実際ニ地震ノ激動ノ幾分ヲ遮断スルノ効果アルナリ、

  木造家屋ハ、ソノ柱ガ挫折スル事ナケレバ、決シテ全体トシテ転倒セザレバ、
  少シク注意シテ構造スルニ於テハ、
  如何ナル大地震ニ際スルモ倒ルヽコト無カルベキナリ、
  明治二十四年ノ濃尾地震、同二十七年ノ庄内地震ノ如キ、
  大地震ノ震央地ニテモ、存立セル農家アリキ・・・・

今からおよそ1世紀前の研究者は、現在の研究者のように自らの《理論》をもって現場を見てしまうのではなく、虚心坦懐に、先入観をもたずに現場を観察されていることが分ります。

   註 最近の研究者は、一般の人に向けて、平然と次のように語ります。
      《木造軸組工法の住宅が地震にあうと、柱、はり、すじかいで地震のカを受け持って、
      土台、アンカーボルト、基礎、地盤と力が伝わります。》
      地震の力は、いったいどこから来るのでしょう?
      詳しくは、「現行法令の根底にある『思想』・・・・学界の木造建築観、耐震観」参照。
      
大森氏のなされたような「観察に基づく認識」が、なぜ後世に引継がれなかったのか、奇怪至極です。
おそらく、木造の建物の構造計算:数値化のために、「事実の観察」すなわち「リアリティ」を無視、歪曲したのでしょう。
「机上の空論」をもって「事実」を見る、その結果、「事実」は捻じ曲げられてしまう。本末転倒の《典型》です。そしてそれが現行「建築基準法」の《異常さ》をつくりだしてしまったのです。

 紹介いただいた久保氏に篤く御礼申し上げます。
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再検・日本の建物づくり-6:の補足・続・・・・最新の遺跡地図

2010-01-25 17:38:46 | 再検:日本の建物づくり
「再検・・・・-6」で、霞ヶ浦に飛び出ている「出島」地区の遺跡地図を載せました。
昭和53年(1978年)版であまりにも古いので、茨城県教育委員会に問合わせたところ、最近は出版物ではなく、ネット上で最新データを公開しているとのこと。
  いばらきデジタルマップ: http://gis.asp-ibaraki.jp/jam_ibaraki/portal/index.html

そこから、先回とほぼ同じ地域をコピーしたのが次の地図(航空写真もあります)。
マークが鬱陶しいですが、薄いグリーンの色をかけた所は埋蔵地。マークは、出土した遺物などを示しています。

グリーンのところは、現在ほとんど畑と居住地(畑が大部分)。

実は、一帯がこんなに埋蔵地で埋め尽くされていたとは知りませんでした(他の地域と比べても埋蔵地が圧倒的に多いのです)。



おそらく、各県でもこのような地図があるはずです。
一般には、開発業者や建設業者が、この地図を利用しているようです(事前に遺構調査費がかかるかどうかのチェック)。私の問合せも、そのように受け取られたらしかった・・・。

再検・日本の建物づくり-6:の補足・・・・神輿のような建屋

2010-01-25 12:30:06 | 再検:日本の建物づくり
先回末尾で紹介した青森県・七戸で見かけた牛飼いの農家の写真を追加します。
今回の写真は、上から順に、建屋の東側の牛舎から南へとまわり、西側の面までの写真です。
長押のような材は、外付け引戸(雨戸も含む)のための「一筋」鴨居かもしれませんが、それにしては丈が大きい・・・?

1980年代の写真ですから、この建物は、今はもうないかもしれません。

      
   
よく見ると、この建物は、元の場所で、土台下に飼いものをして、建物ごと「かさ上げ」したようにも思えます。

考えてみれば、祭の「神輿」は、いわば小さな建屋を担いでいるわけです(何トンというような大きいものもあるようですが・・・・・)。
建屋は「地面の上に置いてあるものだ」「持ち運びできるものだ」「そういうようにつくるものだ」・・・・という「認識」は、
(近・現代以前の)日本人にとってはごく普通だったのかもしれません。

   神輿はひっくり返って地面に落ちても全壊した、という話は聞いたことがないように思います。
   耐震性抜群なつくり!?
   神輿が現在推奨されるつくりだったら、どうなるでしょう?

「建物」を担ぐ、などという形の祭は、日本以外にもあるのでしょうか?
少なくとも、石造の地域では、建物を担ぐなどという発想は生まれないように思えますが・・・・。
どなたかご存知でしたらご教示ください。
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再検・日本の建物づくり-6:「掘立ての時代」がなかったならば・・・・

2010-01-23 21:00:15 | 再検:日本の建物づくり
[図版更改 24日 8.14][説明追加 24日 8.22][文言追加 24日10.16][註記追加 24日10.30]

建物を掘立てでつくる時代は、縄文期から古墳時代、ときには奈良・平安まで*、それ以降の現在に至るまでの期間よりも遥かに長い、気の遠くなるような長さなのですが、実は、この長い時間こそ、その後の日本の建物づくりに大きな影響を与えたいわば「建物づくりの技術の揺籃期」と言えるのではないでしょうか。
   * 江戸時代、あるいは明治になっても、場所によっては掘立ての建屋はありました。

先回、現代の開発により、縄文期をはじめとする多くの遺構が発見されたことに触れました。そして、現在のように開発や工事の際に、「遺構調査」の「義務」がなかった頃には、おそらく、多くの遺構が消失してしまったのではないかと思います。

私が非常に興味を覚えるのは、「開発」で破壊されたにせよ、「健在のまま眠っていた」遺構が、かなりの数発見される、という「事実」です。

きわめて長い間には、各種の天変地異に遭遇したはずなのに、「健在のまま眠っていた」ということは、天変地異に遭遇しても健在であり得る場所にあった、ということにほかならないからです。

つまり、最近よく耳にしまた目にする「地震による土砂崩落や地盤破壊」などは、それこそ太古以来数限りなく起きていたはずなのに、そういう事変で、被害を大きく被った痕跡のある遺構の事例がないらしいからです(浅間山噴火で埋まった江戸時代の鬼押出しのような例も多々あり、私が寡聞にして知らないだけかもしれません。ご存知の方がありましたらご教示ください)。

もちろん、はるか太古には、天変地異で消え失せた集落もあったであろうことは想像に難くありません。しかし、少なくとも、時代が経てば、そういう例が少なくなり、ついにはなくなったのではないか、と私は思います。
長い時間の間に、居を構えるに相応しい場所を見きわめる「知」が備わり、今とは違い、その「知」は時代を超えて引継がれていたはずだからです。

下の地図は、1978年(昭和53年)に刊行された「茨城県遺跡地図」(茨城県教育委員会 編)からの転載です。
場所は、霞ヶ浦に飛び出している半島状の「出島」と呼ばれる一帯です*。赤丸印は貝塚です。
   * 私はこの半島で暮しています。


貝塚がある場所には、近接して住居があります。
多くの場合、住居址は開拓などによって消えてはいますが、土器片などを今でも容易に見つけることができます。
私の暮すところの隣りの畑では、耕されるたびに、また、雨が降った後などに、かならず土器片が見つかります。貝殻も尽きることなく出てきます。その量から、時間の長さが分ります。

すべてを見て歩いたわけではありませんが、この出島で住居が構えられていたと考えられる場所は、まず全てが、安定した地盤で水捌けもよく、良好な井戸水が得られ日当たりもよく、今でも住居を構えるに適した安心して暮せる場所です。そのように感じられない場所には、住居の痕跡もない。これは筑波山麓の集落散在の理由と同じです(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/31a97d11acdc29d010ec4d548e7df7b5参照)。

つまり、現代のような「どこでも構わない」「どこでも住んでしまう」ということはない。現代の居住地は、「現代の技術」がそれを可能にしたのであり、縄文・弥生期にはそういう技術がなかったからだ、とも考えられるかもしれません。
けれども、「現代の技術」でつくられた居住地は、多くの場合、天変地異には敵いません。神戸の惨状がそれを物語っています。被害の大きかった地区が限られていることに注意する必要があります。

日本だけではなく、世界各地域での地震による被災状況を見ても、「かつては建てることのなかった場所」に建てた建物の被災が相対的に大きいことが分っています。
煉瓦造や日干し煉瓦造の建物でも*、古い建物、つまり「建てるとき場所を選んだ時代の建物」には被災例が少ないことは、周知の事実です。
   * 煉瓦造、日干し煉瓦造を、頭から、地震に弱いつくり、と考えるのは間違いです。
     地震多発の地域で、煉瓦、日干し煉瓦でしか建物をつくれない地域があるのです。
     そういう場所では、当然ですが、つくりかたを工夫します。
     木造の日本だって同じこと。工夫しなくなったのは「現代」になってから。

これは、遥か昔の人びとには「場所を選ぶ目」があったということ、そして、「知識量」の増えた現代人は、それに反比例して、「場所を選ぶ目」が失せてしまった、あるいは、「場所を選ぶ目」を働かせなくなった、いうことにほかならないのです。
現代人は「現代の技術」を過信しているのかもしれません。しかし、あたりまえですが、「古の技術」の方が、根本・基本を押さえているだけ(「現実」に根ざしているだけ)、現代のそれよりも「現実」に即している、と言ってよいでしょう。

もう一つ、むしろこちらの方が重大なのかもしれません。
すなわち、「場所を選ぶ目」を持っていても、それを自由に行使できない人びとが増えた、という事実です。
簡単に言えば、貧困による格差です。先に高地の斜面に暮すボリビアの例を出しました(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/129999f445a867ee7ca2254e041fc62c参照)。
何も好んで人びとはそこに暮すわけではないのです。
「格差」は、人びとから、「場所を選ぶ目」の行使を奪ってしまうのです。

最近のハイチの地震、ドミニカとの境界にあたる山地の写真をナショナルジェオグラフィックで見ました。



写真の左半分がハイチです。森林を伐採し燃料にする、伐採した木を売って生活の資にする・・・・。その結果、山地は丸裸になり、余震で土砂崩れが予想されるとのこと。そして、ハイチでも、かつては人が住まなかった急な斜面に多くの住まいがあったようです。



木材で建物をつくる地域では、日本もそうですが、とてつもなく長い間、「掘立て」で建物をつくってきました。
そして日本の場合は、地震は最近になって急に増えたわけではありませんから、とてつもなく遠い昔から、頻繁に地震に遭ってきたでしょう。

「掘立て」の場合、建物が、地面の動きとともに動きます。
しかも、地震による動きは突然、急激に襲いますから、いわゆる「慣性」の力も働きます。
簡単に言えば、建屋の足元は地面とともに動き、建屋の上の方は、それまでの位置を保とうとしますから、その二つが重なって、激しい動きに見舞われます。

おそらく、はじめのころは、地震で壊れてしまう建屋が多くあったでしょう。
いつまでもそれで満足する筈はありませんから、工夫が重ねられます。
おそらく、ある時期以降は、地震に遭っても簡単には壊れない掘立ての建物がつくられるようになった、と考えるのが普通ではないでしょうか。
  それとも、壊れたらすぐにつくり直す・・・・を繰り返していたのでしょうか。
  それはあり得ないように思います。

特に、掘立て柱に横材(梁・桁)を取付け床を張り屋根を架ける「高床式」の建物の場合は、地震の影響をまともに受けたと思われます。
高床式の建屋は、多くの場合、貯蔵庫に使われたようですから、その被災の影響は計り知れません。
そこでなされた工夫は、二つあったように思えます。

一つは、掘立て柱への横材の取付け方を丈夫にする工夫。
地面より上になる部分が強固な立体に組まれれば(立体形状が維持されれば)、地面に埋められている柱脚部は、相手がコンクリートのような固体ではなく土という一定程度弾力のある可塑性に富む物質であるため、地震で生じた動きに応じて移動することができるのではないでしょうか。言うなれば、土という海の中で動くわけです。ただし、その前提は、地盤がよい土地であること。
吉野ヶ里遺構での貫を使った高床建物の復元は、この方式のように思われます。

もう一つは、掘立て柱部と、上部架構とを分離する「正倉院」や「綱封蔵」のような方法(下図)。
すなわち、上部架構は掘立て柱部の動きにそのまま追随して動かない。上部架構の柱の根枘の部分で、下部の動きは、中継の際に減殺されるのです(梁行の台輪、桁行の台輪、そして柱と、接合部が三段あります)。[説明追加 24日 8.22]

高床式の復元にあたっては、「正倉院」や「綱封蔵」を参考にしたようですが、むしろ、「正倉院」や「綱封蔵」は、礎石上に建てるようになっただけで、掘立て柱時代の方法を継承したのではないか、と考えられます。



一方、竪穴住居の方は、意外と地震の被害は少なかったかもしれません。なぜなら重心が低く、慣性の影響が少ないからです。竪穴住居の場合は、むしろ、差し掛けられた垂木の地面際での腐朽の方の影響が大きかったように思われます。垂木は細い丸太だからです。以下に復元竪穴住居の例を再掲します。



垂木の足元が腐朽すると、少しの風でも屋根は崩れ始めるでしょう。そうならないためには、垂木の頂部、つまり棟のあたりの取付けが決め手になります。たとえば、上の図のような場合なら、垂木の頂部がしっかりと結わえられていたり、あるいは棟木に留められていれば、垂木の根元が腐っても、屋根は原型を保つはずです。
下の写真は、長野県塩尻郊外にある縄文~古墳期の遺跡:平出(ひらいで)遺跡のなかの古墳時代の大型竪穴住居の復元です。



垂木は地面を離れています。おそらく、そのように推定される形跡があったものと思われます。
垂木を地面から浮かすことができる、という判断が、幾多の経験からできるようになった、と考えてよいでしょう。

しかし、屋根が地面から離れると、新たな問題が生じたはずです。竪穴の中に立てられていた掘立て柱の腐朽が早まるからです(屋根が全面を覆っていたときは、雨水の影響は、一定程度避けられました)。
もしも、基幹部を形づくる掘立ての柱脚が腐るとどうなるか。
おそらく、直ぐに全体が壊れることはありません。
しかし、風が吹いたり地震に遭うと、基幹部は形を保てずに変形しはじめます。そのとき、その変形の進行をとめる工夫が編み出されるはずです。
柱脚部相互を、柱間を保てるように、新たな木材で繋げばよいのです*。言うなれば、「足固め」の原型です。
  * 明治の学者なら、斜材:筋かいを入れたでしょう。
    しかし、古代の人びとは、柱の足元が掘立てのときと同じ位置にあればよい、と考えたのです。
                                        [文言追加 24日10.16]
 
そして、その方策があたりまえになれば、「土座」から「床座」への移行はもう目の前です。
おそらくそのような経緯のなかから、地上に出ている部分を立体的に固めると、簡単には壊れないことを学んだはずです。それは、高床式の建物がたどった道筋と変りはありません。

こうなれば、つまり、地上の部分の組立が肝心だということが分れば、掘立てをやめて、地上の石の上に建てるまでにはもう直ぐのはずです。
しかし、それまでに目を見張るような長い時間を要したのです。
けれどもそれは、決して無駄な時間ではなかったのです。
なぜなら、石の上に建物を建てるのがあたりまえになったとき、きわめてスムーズにことが運んでいるのは、それまでの「蓄積」があったからにほかならないからです。
その「蓄積」は、人びとの間で、継承されてきた「知恵」なのです。

たまたま昔撮った写真をひっくり返していたとき、地上に載る部分が固まっていれば問題がない、ということを如実に示している写真を見つけました。
四半世紀ほど前に、青森県七戸(しちのへ)町から八甲田へ向う途中で見かけた牛飼いの農家です。[図版更改]



写真のように、この家屋は、実に簡単に石の上に載っています。心なしか、弓なりに反っているようにも見えます。もしかしたら、家の中を歩くと、ぐらぐら揺れるかもしれません。
そして、もしも引張れば、あるいは押せば、おそらく石の上を滑ってゆくのではないでしょうか。
この建物は、端無くも、掘立ての時代を経て行き着いた「日本という環境下での建物づくりの極意」を示している、私にはそのように思えました。

   註 [註記追加 24日10.30]
      青森・七戸は旧「南部」藩に属します(太平洋側になります)が雪は降ります。
      また、三陸沖、あるいは十勝沖震源の地震もたびたびあります。
      この建物は、「土台」を使っています。また、内法上の「貫」も繁く入っています。
      大戸位置の土台は、後から切ったように見えます。
      なお、雪は、多くて1mくらい積もります。

      興味深いのは、建物外側の内法位置に「長押」様の材が一周していることです。
      しかも、通常の「付長押」のような寸法ではありません。
      「差鴨居」があるようには見えませんので、この材は、立派な構造材なのかもしれません。
      「うまや」(今は牛舎)の大戸は、この「長押」を使った引戸のようです。

      これを見ていると、別の所から曳家してきたのかも、などとも思いたくなります。
      しかし、所在地は、たしか上り坂の街道筋だった・・・・。


ところで、今、私たちは、なにがしかの「知恵」を先代から継承しているでしょうか、そして後世に継承するなにものかを持っているでしょうか。
むしろ、継承することを、わざわざ拒否しているのではないでしょうか。しかも、「科学」の名の下で・・・・。


以上は、まったくの私の想像です。
けれども、この想像は、実証する術がありません。ただ、そういう場面・状況に置かれたとき、人はどうするだろうか、と想像するだけなのです。

再検・日本の建物づくり-5:遺構、遺跡、遺物

2010-01-18 18:17:00 | 再検:日本の建物づくり
[註記追加 19日18.57]

  またまた長くなります。恐縮です。

日本建築史の教科書:「日本建築史図集」は、縄文~古墳時代の住居跡と復元家屋の図から始まります。
そして、そこでは、この図集の中では唯一と言ってよいのですが、集落遺構の全体図が載っています。

日本の建築紹介の図書では、建築物単体だけを紹介するのが普通で、どういうところに建っているのか、まわりはどうなっているのか・・・・などは、別途調べないと分らないのが普通です。
おそらくこれは、建築関係者の「意識」「思想」の「程度」を端無くも示していると言えるでしょう。

その点、この図集の縄文~古墳時代の住居の項は、少なくとも、個々の住居跡を載せるだけではなく集落図を載せている点、稀有の例なのです。

  いつか紹介させていただくつもりなのですが、
  フランス各地に残る歴史的農家住居を、地域ごとに収集した全20巻を越える全集があります。
  さすが百科全書のお国柄、その編集は実に見事です。
  図版でいうと、各地域ごとに、地域全図があり、日本で言えば「郡」レベルの地図があり、
  次いで「町村」レベルの図があり、その中の掲載する住居周辺図があり、屋敷図があり、
  そしてやっと、その住居の図面が出てくるのです。
  それゆえ、その住居を観ることを通じて、その地域、地区についてはもちろん、
  ある程度は暮しぶりまで分ってくるのです。
  日本のいわゆる「民家」関係の図書で、このような編集をした例は見たことがありません。
  「修理工事報告書」の類でも滅多にありません。

「日本建築史図集」で紹介されている縄文時代の住居址は、千葉県船橋市の「高根木戸(たかねきど)」遺跡です(常磐線松戸から総武線津田沼を結ぶ新京成線に「高根木戸」という駅があります)。
集落図とそのなかの一住居・51号住居跡(集落図で色塗りした住居跡)が次の写真と図。



しかし、解説には、「船橋市習志野台(ならしのだい)の舌状台地にあり、・・・・」とだけ書かれていて、どのような場所なのかは判然としません。
たしか、1960年代の初め、当時の日本住宅公団によって一帯の開発が行なわれ、それにともない発見された遺跡ではないでしょうか(近くに、1961年:昭和36年にできた高根台団地があります)。

そこで、船橋市の資料館などのHPで調べたところ、標高が25m程度の台地の縁で、現在は小学校が建てられているらしい。
つまり、調査の後、遺跡自体は埋められてしまったようです。記録と発掘物だけが残っているだけ。

地図を見ても、一帯は開発住宅地で埋め尽くされ、遺跡の存在も地形もまったく想像できません。
下は、高根木戸遺跡のあった場所の現在の様子を示す航空写真です。
  なお、今回使っているのは、goo の地図検索で得られる航空写真です。



これでは舌状台地もなにも、まったく分りません。
ただ、図上、曲がりくねっている線は、この住居・集落の成り立ちとも関係あるはずの、小河川です。これだけは、遥か昔から変っていない、というより、変えられなかったのです(もっとも、小河川とは名のみ、単なる排水路になっているのではないでしょうか)。

この地域を、さらに上空から眺めると、ようやくその一帯の様子を知ることのできるようになります。大きな地形が見えてくるからです。それが下の写真。赤のマークが遺跡のあたり。



つまり、高根木戸住居址は、東京湾に向って下る小河川の残した台地にあったらしいことがわかります。
縄文期は海進の時代。察するに、私の今居る霞ヶ浦に飛び出した出島に似た状況、海がもっと近かったと思われます。そこで水辺のものの採集で暮していた。
近くには貝塚も多くあり、その一つにつくられた「飛の台史跡公園博物館」に発掘物は移管、保存されているようです。

住居址の背後の高台に小学校が建てられ、他の場所も整地され住宅地になってしまいましたから、遺構・遺跡のあったことなど、皆目分らないでしょう。
皆そんなことも知らずに暮しているのでは・・・・。
だから、普通はたいてい復元される竪穴住居なども、現地にはないようです。

次に「日本建築史図集」で紹介されているのは、下の図。
第二次大戦の敗戦も近い昭和18年(1943年)頃見つかり、戦後の世の中を賑わした弥生期の農耕を営んだ人たちの住居・集落址「静岡・登呂(とろ)遺跡」です。水田跡が見つかっています。



これは安倍川に近い微高地そばを流れる小河川の縁にあります。
下は、その一帯の航空写真です。
ここはかなりの部分が保存され、近くの「記念館」に遺物などが保管されています。



「日本建築史図集」には、もう一つ、住居址が紹介されています。東京・八王子にある「中田遺跡」で、縄文期から奈良・平安頃までの住居跡があり、特に古墳時代の遺構が多いとのことです。



この遺跡は、都営団地を建てるにあたって発見され、ここでは、遺跡の一部が公園としてあるようです。
航空写真で見ると、おおよそどんなところだったか分ります。
画面を左上から斜めに流れる川は、多摩川の支流「淺川」、赤マークの上を横切っている線は「中央道」です。



戦後の「開発」によって、各地で遺跡が見つかっています。
青森の「三内丸山」や佐賀の「吉野ヶ里」などもそうだったと思います。
信州では、「中央道」の工事にともなって多数の縄文期の住居址が見つかっています。

縄文期は、今よりも暖かでした。
「中央道」の工事以前から有名な「水煙渦巻文土器」の見つかった「井戸尻遺跡」は標高約1000mの富士見町にあります(井戸尻とは、湧き水のある場所のことを言います)*。
「井戸尻遺跡」は、縄文期にすでに農耕が行なわれていた、とする「縄文農耕説」発祥の遺跡。農耕用と思われる「器具」が見つかっているからです。
   * 井戸尻遺跡、水煙渦巻文土器は、下記井戸尻考古館のHP参照
     http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri.html

以上、縄文、弥生、古墳期の住居址の立地を見ても、これまでの「再検」で触れてきた「住まいの立地の必要条件、十分条件」を見て取れる、つまり再確認できるのではないか、と思います。
日本という環境で暮してゆく条件は、時代によって変ることはないのです。


これらの遺跡のうち、「登呂」では、遺構を基に、家屋の復元(復原とも書きます)が行なわれています。
おそらく、ここで行なわれた復元が、以後各地で見られるようになった「復元」のモデルになったのではないかと思います。
  なお、登呂遺跡では、昭和18年(1943年)の第1次調査の際、多数の木の株も発見され、
  周辺に森林のあったことが確認されていて、スギ16本、シラカシ4本、イヌガヤ3本、ナツグミ2本、
  エノキ、クスノキ、タラノキ、マユミ、イヌマキ、ネムノキ、各1本の立ち株が残っていたといいます。
  (この項、登呂記念館の資料から)
  現在の農村と変らない、森林を背負った集落の姿を髣髴とさせます。


建物の「復元」にあたっては、遺構の様子と、類似例を参考に「想像」され、「創造」されるのが普通です。
しかし、掘立てのころの建物は、残っていても建物の柱の地面に埋まっていた部分だけ、上の部分はまったく分りません。

下は、登呂遺跡で復元されて「竪穴住居」の外観とその架構、および参考とされた山陰地方に伝わる「砂鉄精錬小屋」の架構図です。
「砂鉄精錬小屋」は「高殿(たたら)」と呼ばれ、山陰地方の製鉄業で代々引継がれていた建屋で、何の部材などの遺物のない竪穴住居の復元は、この「高殿」を模したものになったのです。



登呂遺跡では、倉庫に使われたと考えられる高床の建物も復元されています。



この復元にあたって参考になったのは、古代の寺院でつくられた高床の蔵・倉:東大寺の正倉院や法隆寺・綱封蔵など:だったと思われます。
下は法隆寺・綱封蔵ですが(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/7ecf40c1b2f5bb15a592dd5cfa3c3279参照)、ここでは先ず床面までを礎石建てでつくり、その上に本体を設けています。正倉院も、そこまでは同じです。
復元建物は、壁を正倉院の方式:校倉のようなつくりですが(私には、校倉までやったとは思えませんが)、床面までは綱封蔵と同じでしょう。
大きく違うのは、柱が掘立てか、礎石建てか、だけで、つくりかたの基本は同じです。
  もっとも、吉野ヶ里の復元は、これとは異なるようで、むしろ、後の中世のつくりに似ています。
  その方があたっているかも知れません。

                       


さて、このような遺跡・遺構を見てみると、それらの「処遇」が大きく二つに分れていることが分ります。
一つは、発掘調査を行って記録をつくり、遺物は資料館などで保管し、現地は埋めてしまう、多くの場合は、新たな「開発」が加えられ、遺構そのものは消失してしまう場合。「高根木戸遺跡」はこれにあたります。
一つは、遺跡を一部だけ残し、そこを「公園」や「観光」施設とする場合。
公園にした例が「中田遺跡」、観光的施設を兼ねた(歴史)公園の例が「登呂遺跡」です。後に各地に生まれる「風土記の丘」公園などの源流と言えるでしょう。

しかし、
なぜ遺跡・遺構あるいは遺物を保存するのでしょうか。
なぜ、古い時代に建てられた建物を保存するのでしょうか。
なぜ、昔のおもむきを残す街並みを保存するのでしょうか。

私の観るかぎり、これらの保存は、単に「歴史的に価値がある」あるいは「資料としてかけがえのない」・・・・という点が理由になっているように思えます。
では、何をもって「価値がある」「かけがえのない」と判断するのでしょうか。

私には、このような視点による保存は、それら遺構・遺跡・遺物を「今の世界の対岸に置いて眺めている」だけのように思えてなりません。
それらと私たちの間には、何の関係もない、そんな風に見えるからです。そしてだから、これらは「観光資源」としてしか扱われないのではないでしょうか。

それでは「もったいない」と思うのは、私だけなのでしょうか。
それらの遺跡・遺構・遺物を観ることを通じて、その背後にある人びとの考え方をこそ思い遣るべきなのではないか、と私は思います。つまり、これらは私たちの対岸にあるものではない、そう思うのです。それとも、現代人は、これらの時代の人びととはまったく違うのだ、とでも思っているのでしょうか。

遺跡・遺構・遺物は、歴史学、考古学という学門のためにだけあるのではなく、もちろん、歴史趣味、好古趣味のためのものでもありません。
「今」にとって意味のないものならば、人は「歴史」「HISTORY」なるものを生みださなかったでしょう。「歴史」は、「今」の「指標」になる、だからこそ存在したはずなのです。

前には触れませんでしたが、東京が野放図に広がってしまった理由の一つに、都市計画や建築に係わる人たちの「脱歴史」「歴史無視」思想が挙げられると私は思っています。今回見た「高根木戸」も同じです。
そうでなかったならば、もう少し節度ある「開発」になったはずです。
「脱歴史」「歴史無視」思想は、人の「節度」を亡くしてしまうのです。「必要条件」だけで、ものごとを考えてしまうようになるのです。
そして、今盛んな「耐震診断」「耐震補強」も、「必要条件」だけでものごとを考えてしまう一つの例と言えるでしょう。
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再検・日本の建物づくり-4:四里四方

2010-01-08 17:04:33 | 再検:日本の建物づくり
[文言追加 9日 11.52 17.34]

毎日新聞の元日・茨城版に、調理士養成専門学校の方の興味ある談話が載っていました。
  ・・・・・・古くから4里の中で取れたものを食べて生活すると、おのずと体は丈夫になるという
  『四里四方』という言い伝えがあります。この中を走り回って材料を確保するから『ご馳走』と書く。
  まさに『地産地消』の原点です。
  全国各地においしい名産品がありますが、私は現地に行って食べればいいと思っています。
  その土地の気候風土で食べるからこそおいしい。

  日本の食料自給率の低さが問題視され、その観点から地産地消が推奨されています。
  しかし、どうもこの発想は逆のように思えてなりません。
  確かに自給率が高いにこしたことはありませんが、先ずは地元の旬の食材を良く知ること。
  それは結果的に生産者と我々の生活を守ることにもつながる。
  おのずと自給率は上がってくることでしょう。
                    (中川学園調理技術専門学校 真嶋伸二 実習部長 談)

私もまったく同感です。

建築の世界でも、林業の再生の為に、国産材を使って家を建てよう、国産材をたくさん使おう・・・・などと、「国」を挙げて叫ばれています。
「木を活かす・・・・協議会」などというのは、それに乗って一旗挙げようという「民間?」の動きにほかなりません。
これも順番が逆です。
木材を使わなくなった、国産材を使わなくなったのは何故なのか、それについて考える事が先ず先決だと私は思います。

  そして、これも「国」をあげて、日本の本来の木造の建物* をつくるにあたり、
  大きな制約・障害になっている建築関係の法規制を、
  「簡単に」 に適用できるようにする、との名目で諸種の実験等が行われているのも、そのためなのです。
    * いわゆる「伝統工法」です。
  けれども、これも順番が逆、本末転倒の論理。

  「日本の本来の木造の建物づくりを衰退させた」法規制そのものを検討し直すのが先なのです。
  既存の諸種の法規制の中味ををそのままにしておいて、それを「保存・温存するため」に、
  いろいろな「策」を講じる。
  いま行なわれている「振動台実験」の目的も、その「策」のためのもの。

  そもそも「日本の本来の木造の建物づくり」には「存在しなかった《理屈》」を、
  「日本の本来の木造の建物づくり」に「適用」しようというのが、論理的に無理無体。
  だから、「本来の木造の建物に《似たような》試験体」をつくるなど、実験に苦労しているのです。
  これではますます辻褄のあわない「規制・制約」が増えるだけです。
  これを世間では、普通、「姑息」と言います。
  掛け違ったボタンは、早いうちに掛け直すのが普通の常識ある行動です。

もしも日本が、中近東や中国西域のような乾燥地帯* だったなら、人は建物を何を使ってつくったでしょうか。
   * 最初から乾燥地帯であったわけではないようです。
     あえて言えば、乾燥地帯に簡単になってしまう、そういう気候の地帯。
     ギリシャも、元は森林国だったと言います。だから、木造に倣った石造建築が生まれた・・・
     と言われています。たしかに、石を使うつくり方には思えません。

     
      柱を先ず立て、柱と柱の間に、横材:梁を載せる。
      横材を受けるため、柱よりひとまわり大きい「座」を設ける。
      「座」:「柱頭、キャピタル」は、
      木造の「斗」あるいは「肘木」と同じ理屈。

当然ですが、日本が乾燥地帯だったら、そのときは、先回紹介の中国西域や中近東あるいはアフリカ、南米などの乾燥地帯のように、「土」を使って建物をつくったでしょう。そして、まわりの土が、扱いにくい砂のような土だったならば、砂の元の「石」を使ったかもしれません。

だから、日本の建物づくりで「木」が使われたのは、「暖かな、人に優しい」材料だからではなく、「手近に木がたくさんあった」からに過ぎないのです。
もちろん、まわりには「土」も「石」もありました。
しかし、主材料としては、「木」の方が数等扱いやすかったからなのです。
  これはいつの時代も、いつの日も同じだった筈です。
  それがなぜ(近)現代になっておかしくなった、あたりまえにつくれなくなったのか。
  そこに問題の根源があります。

  いま木造振興を唱える人たちの《祖》が、ほんの少し前(1970年代)まで、木造からの脱却を
  叫んでいたことを、多くの人が知りません。下記の冒頭の引用文参照。
  これを説いて、20年も経つと宗旨替えをする節操のなさ。[文言追加 9日 11.52 17.34]
  「20年前に考えていたこと・・・・なにか変ったか」 

ところで、今でも、木材は木曽のヒノキ、吉野か秋田のスギ、何はどこそこの・・・・といった具合に、「有名な」材料を集めてつくるのがいい建物づくりだ、と思われているフシがあります。
しかし、これが普通の建物づくりだった、と考えるのは大きな間違いです。
こんな風なつくりが流行るようになったのは、幕末、明治初期からのようです。
武士の力が衰え、商家の力が増大すると、その中の一部の人たちに、そういう「流行」が生まれるのです*。
   * 不思議に思うのは、近江商人の町では、それを見かけないことです。

普通の建物づくり、住まいづくりは、食べ物と同じく「四里四方」の材料でつくるのがあたりまえだったのです。
それは別に「地産地消」を考えたからではありません。
もちろん、林業の振興のためでもありません。
それはまったく、中国西域の人びとが、足元の土で住まいをつくるのと同じ、足元の、手近なところにある木を使ってつくったからに過ぎないのです。

もう一つ大事なことは、その際、必要以上の量の材料、必要以上に大きな、太い材料は使わない、という点です。
必要とする大きさの空間を確保できるに足る木材であればよいからです。
  これは、土でつくる場合も同じです。
  土の場合、必要以上の土を使うのは、労力の点でも無駄だからです。

考えてみればあたりまえです。この「判断」こそ、きわめて「合理的」と言うべきではないでしょうか。
  その判断の「根拠」、今の言い方で言えば「基準」は、実際にものをつくる経験で培われたものです。
  現場でものをつくる人びとは、「経験」から「理屈」を会得するのです。
  実は、これこそが science の「原点・出発点」なのですが、現在の「科学」では、
  多くの場合、この「原点・出発点」を忘れた「机上の空論」が蔓延っているのです。
  建築という「ものづくり」にかかわる「科学」で特に著しいのは不可解です。

古代、多くの寺院は、奈良盆地近在の木材を使ってつくられました。以後、多くの寺院の材料も同様です。
その結果、平安時代末期(鎌倉時代初頭)、東大寺再建の際には、奈良近在ではすでに必要な木材はなくなっていて、遠く周防:山口まで材料を集めに行ったという記録が残っています(下記に載せた東大寺建立~再建の年表に、重源が木材を求め周防に赴いた記録があります)。
   「日本の建物づくりを支えてきた技術-12・・・・古代の巨大建築と地震」
   

ただしそれは、寺院に使う大径木の話、一般庶民の材料は、まだ十分近在で得られたはずです。

  奈良・今井町は難波に注ぐ大和川の近くにありますが、そこに材木商が店を構えています。
  今井町・豊田家の前の持ち主の牧村家は材木商でした。
  材木の取引がそこで行なわれたわけではなく、いわば本店業務、
  実際の木材はさかのぼった上流の山地にあったようです。
  そこで扱われたのは、おそらく、一般の建物用だったと考えられます。
  今でも、今井町より上流にあたる桜井のあたりには多数の木材市場があります。

大分前に紹介した長野県塩尻にある「島崎家」* の材料について、「島崎家住宅修理工事報告書」には詳しく調べて報告されています。
   *「日本の建築技術の展開-27」
    「日本の建築技術の展開-27の補足」
    

下の航空写真は、「島崎家」のある塩尻周辺の航空写真です。
写真で分るように、塩尻は、標高約750m、日本列島の分水嶺になっているところです。
塩尻地内を流れる河川は日本海へ注ぎますが、少し南で峠を越えると、太平洋へ注ぐ天竜川(諏訪湖から始まる)、木曽川があり、いずれも古代以来の街道が通っています。それゆえ、塩尻は、古代以来の交通の要衝でした。 



以前の記事内容と一部重複しますが、「島崎家住宅修理工事報告書」によりますと、柱には、居室部にはカラマツ、サワラ、一部にケヤキ、馬屋まわりにはクリが使われていて、この他6本のサワラの「転用材」が当初から使われています。いずれも130mm(4寸3分)角に整えられています。

「転用材」は、次のように他の部材にも使われていました。
  大  引:マツ丸太、マツ平角の小屋梁の古材
  根  太:サワラ心持材の棟木、母屋の古材を二つ割して使用
  小屋梁:マツ、サワラ、クリ、カシの小屋梁の古材
  小屋束:サワラの柱古材(正面の妻壁はカラマツの新材)の切断使用
  小屋貫:サワラの貫の古材(正面はカラマツの新材)、材寸4寸×1寸
  棟木・母屋:約3割がサワラの母屋・棟木古材

建替えにあたって、元の建物の材料を転用することはありますが、島崎家の場合は島崎家の前身建物の材ではなく、その形状、加工法、材種などから、これらの転用材は、島崎家と同規模の切妻板葺きの「本棟造」形式の1軒の建物に使われていた材料であろう、と推定されています。
  なお、この旧建物は、母屋を柱が直接支える「棟持柱形式」* のつくりで、
  妻梁はなく、横の繋ぎはすべて貫で、島崎家をはじめとする本棟造とは異なる姿をしていたようです。
   * 棟持形式については、下記で触れています。
    「続・日本の建築技術の展開・・・・棟持柱・切妻屋根の多層農家」」
    

当時、塩尻近在では「家売」「くね木売」がかなり行なわれていたという記録が残っており、古材の転用は、ごく普通に行なわれていたようです。

「家売」とは、農村の年貢収納などによる困窮で手放したもので、ほとんどは「くずし売」、つまり解体して「木材」として売却することを言うようです。
なかには8間×8間、6.5間×7間など、形から「本棟造」と思われる建屋の「家売」も見られます。
多分、島崎家に使われている古材は、こういう「家売」で手に入れたものでしょう。

「くね木」とは、垣根や屋敷内の樹木のことで、ケヤキやサワラが多く、元々、建築用材としてその家が育てていた樹木と考えられます。これらの樹木も、売りに出されていたのです。
「板屋、くずし売、6.5間×6.5間、くね木87本」などという記録もあります。
  私の子どものころの住まいの近在の農家は、皆屋敷内にケヤキやスギ、ヒノキを持っていました。
  現在暮している集落の農家でも、大きなケヤキやヒノキ、スギが屋敷内にあります。
  木小屋に各種の木材を保管しているお宅もあります。修理、改築、新築のための用意です。

これらのことは、かつては、まさに「四里四方」で手に入れられる材料によって建物をつくるのがあたりまえであった、ということを示していると言ってよいでしょう。
塩尻の「四里四方」は、写真のように、森林です。サワラやカラマツは、天然ものが、地場の木としてたくさんあったのでしょう。
  修理時には、カラマツの天然心持材は入手困難で、ネズコに代えたという。
   ネズコ:黒檜(クロベ)、木曽五木の一。堅牢、耐朽性大。
  すでに、天然カラマツは使い切っていた、ということだと思います。  

各地に、多くの住居の遺構があります。それらは、東大寺再建のように、遠くまで材料を集めにゆくなどということはあり得ず、その建物をつくった頃、手近で得られる材料でつくられたはずです。
そこから逆に、その使用材種を調べると、建設当時の建設地周辺の植生が分るのではないかと思います。
その点から考えると、住居遺構は、できるなら現地で保存するのが最良なのです。
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再検・日本の建物づくり-3:日本は独特な環境である

2010-01-05 21:05:52 | 再検:日本の建物づくり
   機械の故障で、掲載が遅れました。
   そのためとは無関係に、少し長い文になりますが、ご容赦のほど。

先の2回で書いたことをまとめると、日本の場合、当初山裾の湧水点近くに居を求めた人びとは、「必要条件」の獲得技術:井戸の掘削技術などの利水技術(ダムや水道も含まれます):の進展をともないながら、徐々に平地へと進出するようになります。

  実際、関東平野の場合、今でこそ東京が「中心」:最も発達・発展しているように見えますが、
  そうなったのは、歴史で言えば、つい最近、徳川の世になってからのこと。
  関東平野に人びとが住み着いたのは、平野を形づくり囲んでいる山なみの山麓、
  水に恵まれ、自然の可耕地も広がる一帯。
  とりわけ、平野北部の上州:群馬県の南部、利根川上流左岸のあたりです。

  上州の南部一帯は、何もしないでも使える水が豊富でしたから(「大泉」「小泉」などの地名があるとおりです)、
  人が早く住み着き、その人びとの中から、後の「東国の武士」の祖になる豪族が生まれます。
  一帯が古墳だらけであること、時の政府が、官道・東山道をこの一帯へ通したのも、この一帯の繁栄を
  物語っています。
  なお、徳川も、元をただせばこの地の出です。

  現代の感覚では、「利水」のためには先ず「治水」、と考えたくなりますが、最初人びとはまったく逆、
  「利水」:目の前にある使える水を利用すること:から始めたのです。
  高崎あたりの標高は80~90m、そのあたりから始まった開拓ですから、その後の開拓で、
  埼玉南部あたりで、すでに0mに達してしまい
  その水処理の対策として、各種の土木技術が発展する* という皮肉なことも起こります。
     * 川が川を越える、などという場所もあります。

   註 関東平野の開拓については、下記で触れています。 
       「関東平野開拓の歴史-1」
       「関東平野開拓の歴史-2」

普段気がつきませんが、日本は、「必要条件を整える「術」を用意することがきわめて容易な地域なのです。
その証拠が、「必要条件」を整え、隈なく家々で埋め尽くすことを実現してしまった東京にほかなりません。
「必要条件」が簡単に整えられるため、「都市計画」も簡単に変更可能、その上、「必要条件確保の容易さ」に寄りかかり、「十分条件」について思い遣ることを忘れてしまった結果が東京の姿なのです。
こういうことは、他の地域では、普通に見られることではなく、日本という特別な地理的環境ゆえの姿だと言ってよいと思います。


一度だけ、中国西域・敦煌を訪ねたことがあります(四半世紀以上前のことです)。
西安から蘭州そして敦煌への鉄道沿線で見た風景は、まことに強烈な印象でした。
山脈が延々と続くにもかかわらず、その山肌は赤茶色、日本なら人が住み着くはずの山麓にはまったく人家の影が見えないのです。




 敦煌周辺地図 「基本地図帳」帝国書院 刊より

この乾燥度の高い地域一帯では、人は、日本とはまったく逆に、一帯のなかで標高が最低の地に住み着いています。
天の授かりものとしての「人が暮すための必要条件」は、彼の地では、そこに於いてはじめて確保できる、そこでなければ、水が簡単には得られないのです。
山に雨季に降る雨雪は、地中に深く浸みこみ、やっと最低地点で地表近くに顔をだす、それがいわゆる「オアシス」です。
仏像群で有名な敦煌もその一つでしたが、今は砂漠が近くまで押し寄せています。
日本で言えば盆地の底にあたりますから、昼間は暑く、夜は冷えます。日本で人びとが最初に選ぶ土地ではありません。

このオアシス以外の場所の「必要条件」の整備は、並大抵のことではありません。
先に紹介した茨城・小貝川周辺を開拓した伊奈備前守忠次をもってしても、その何倍もの知恵と労力を必要とするはずです。
なぜなら、拠り所となる水源、河川は遥か彼方。
仮に水路を設けたとしても、大部分の水は、目的地にたどりつく前に大地に吸い込まれてしまう。西域には、海に注ぐ河川はありません。
水路を水を吸わない材料でつくるか、吸い込まれてもなお流れるだけの大量の水を流すか、蒸発しない地下水路をつくり汲み上げるか・・・・。

  最近のTVで、南米ボリビア、アンデス山脈の標高4150mにある人口89万の街エルアルトが紹介されていました。
  エルアルトだけで、そこから500~600mほど下にある(標高3650m)ボリビアの首都ラパスの人口を越えてしまった
  といいます。

   
    ボリビア・ラパス周辺 「基本地図帳」帝国書院 刊より

  当然、乾燥地帯。まわりは赤茶けた斜面。この地では農業はできません。
  昼夜の気温差は30度を越えるそうです。昼間20度、夜-10度。
  しかし、ますます人口が増える傾向にあるといいます。
  ここは緑の溢れる眼下の街ラパス周辺に土地を求め得ない庶民が集まって暮す「下町」なのです。
  農業を生業とする人びとは、農業可能なもう少し下で農業を営み、作物をエルアルトやラパスで商う。
  商いを生業とする人たちも、この街を拠点にして暮す。
  普通の都市では、「下町」は「山の手」より低地にできる。だから「下町」。
  これが逆になっているのです。

  なぜこのような高地に「下町」ができたのか。可能にしたものは何か。
  それは、その町のある斜面は、標高6000m近い万年雪をいただく山の中腹。その万年雪が水道の水源。
  近代的道具:重機と近代的材料:コンクリートがその水を使う水道の設置を可能にしたからなのです。
  つまり、最近になって可能になった・・・・。

  むしろ、このような高地に「下町」をつくらざるを得ない社会構造の方が問題になりそうです。
  人が暮しやすい標高の低く、緑溢れる地域は、かつて侵出した西欧の人びとによって占められているらしい。
  エルアルトに暮す人びとは、先住民(この言葉は嫌な言葉です。むしろ「本住民」と言うべきでしょう)、
  モンゴル系の顔立ちの方々でした。


中国西域では、このような様態にはなりません。というより、なれません。
近くに、商うにも大都市はないからです。
そこで、西域で行なわれているのは、荒蕪地の農地化です。
これも、遥か遠くの黄河から近代的技術:コンクリートによる水路建設が可能にしたのです。

以下は、敦煌鎮、つまり敦煌村で行なわれていた開拓地の写真。
開拓は、道路に沿って運河を築き、そこから網の目のように、灌漑用の水路を敷設することから始まります。


  これは開拓中の場所 一旦土を掘り起こして放置すると、土中の塩分が滲出してきて、
  先ずそれを取り除くようです。白く見えるのが塩分(いわゆる「にがり」)。
  この塩分の濃い土を固めたのが、このあたりの「舗装」道路。日本の土間の「たたき」の理屈。

開拓が進んだところは下の写真のようになります。


  開拓が進んでかなり時間の経ったところ。左の写真はキビの畑。
  右の写真の樹木が生えているのは、水が近くまできているから。
  左の写真の遠くに見える並木のあたりにも灌漑水路がある。
  
中国西域とボリビア・エルアルトに共通するのは、建物が「日乾し煉瓦:アドベ」でつくられることです(中国の場合には版築もありますが、エルアルトでは見かけないようです)。

   * 「日乾し煉瓦:アドベ」は、足元の土を掘って材料にします。
     そのため、住まいが増えてくると、あたりは穴だらけになります。
     そこで、西域では、焼成煉瓦用の窯があちらこちらに築かれていました。
     燃料となる石炭を鉄道で運んで来れるようになったからです。
     それ以前には、焼成するにも燃料がなかったのです。
     一説によると、例の「兵馬俑」を焼成するために、周辺の樹林が丸裸になった、
     と言われています。多分、間違いないでしょう。


このような環境の建物づくりを観ると、建物づくりとその材料の関係が、実に明快に分ります。
近ごろ日本で言われる「木は暖かく人に優しいから木でつくる」などというのは、まさに戯言に聞こえてきます。

下は、開拓地につくられたお宅です。私の「住居観」をいわば決定的にした住居です(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/96fa99810f1b340e57b5b01db1b38e7b)。
このお宅の概略の平面は、上記の記事で紹介しましたが、再び載せます。

基幹の水路から、細い灌漑用水路が引かれ、その際に構えています。


  幹線道路からわき道に入り近付くと、木が茂り、畑が耕され、そして家の門が見える。
  門は頑丈な板戸で閉ざされていた。


  扉を開けてもらって入ると、塀で囲まれた光輝く空間が広がる。
  左は、門から見たところ。右は、振り返って門を見る。
  「房」(居室)前には枝や草を積んだパーゴラがある。枝や草は、乾かして燃料にする。

「房」に入れていただいた。


  主たる「房」。 寝室にもなるようだ。一段高いところ(45cmほど)も土でつくってある。電気は細々と来ている。
  屋根は木造。四周の壁の上に架ける。樹種は楊樹。
  上は粗朶(小枝)などを敷詰め、土塗り。
  
通訳の方に頼んで、「飛び込み」で見せていただいたのだけれども、よいつくりのお宅でした。

楊樹は非常に撓みやすい木のため、写真でも分るように、アーチ状に曲げることができます。
楊樹の特徴をよく示している例を、西安* の近くの工事中の建物の小屋組で見ました。


  左は建屋の基幹になる日干し煉瓦による壁の構築中。
  右2枚は小屋組の様子。

この施工中の建物の小屋を見たとき、咄嗟に、奈良時代の寺院で、当初、垂木を円形断面に加工した理由が分った気がしたことを覚えています。
彼の地では、垂木に丸太を使っていたのです。

ことによると、日本に来た大陸の工人には、垂木とは円形のもの、あるいは丸太を使うもの、という「観念」が深く染み付いていたのかもしれません。
そして、それに対して、日本の工人は、わざわざ角材から先端だけ円形に加工した垂木をつくっています。
そのとき、日本の工人は、寺院の垂木は、円形断面でなければならないのだ、と思ってしまったのかもしれません。

この小屋に粗朶(そだ)などの小舞を掻き、土を塗り、瓦を敷き並べると、当然ながら、壁から壁に渡した棟木は撓んできます。そして垂木も撓みます。
すでに人の住んでいるまわりの家屋の棟や屋根面が反っているのは(左端の写真)、言うなれば「自然現象」なのであり、ことによると、中国の建物の屋根の反りの曲線の「原理」は、意外とこんなところにあるのかもしれない、とも思ったことを覚えています。

   * 西安は、敦煌より数百km東に位置しますから、乾燥度はかなり落ちます。
     それでも、日本とは比べものにならないほど雨量は少ない。
     だから、日乾し煉瓦で建てることができるのです。
     しかし、敦煌よりは雨が降りますから、屋根を土塗りで仕上げるわけにはゆかず、
     勾配をつけた瓦葺きになります。
     壁も日乾し煉瓦の上に漆喰を塗る例も少しありました。雨による剥落防止です。
     更に東に、つまり大陸を海側に近付くと、日乾し煉瓦を漆喰仕上げたり、瓦を張る例も増え、
     終には、日干し煉瓦ではなく、焼成煉瓦の使用が増えてきます。

     中国大陸の東から西へ、材料とつくり方の違いが、きわめて図式的に観られたのは、驚異的でした。
     日本では、はっきりと見えないのです。


さて、このような西域の例を少しばかり紹介したのは、
日本独特の「暮しやすい環境」にどっぷりとつかっているためか、
日本では、住まうことの「必要条件」「十分条件」についての「認識」なしに「事」が運ばれている、
しかもますますその傾向が強くなっている、と思ったからなのです。

これについても、折に触れて書いてきたつもりではありますが、この際、正面から書いてみようという気になったのです。
その一つの契機は、日本の建築を貶める昨今の動きにあります。
どういうわけか、最近になって、支離滅裂に、しゃにむに、貶める作業が行なわれています。

日本というのは、そんなに無思想の人間ばかりだったのでしょうか?

  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

以下に、正月特別付録?!として、もしかしたら、日本に暮す人たちの自らの足元を見直す刺激剤になるかもしれないと思い、西域の建物づくりのいくつかの写真を紹介します。


  左は、乾燥中の日乾し煉瓦。数日も経たず、できあがります。
  右は、建物づくりの現場。足元の土を練り、この場合は版築による「囲い」づくり。
  水を入れてある「フネ」は、もしかしたら古墳の「石棺」かも・・・・。

日本ではとかく忘れられがちな、「住まい」とは、先ず外界に対して「囲い」をつくること、という「事実」をよく物語っています。
同様な例をもう一つ。


  2枚とも、一族が大勢集まって「住まい」をつくっている現場です。
  すでに、「住まい」の大枠:「囲い」の「塀」が仕上がり、「門扉」が入っています。これが彼らの「上棟」なのです。
  大部分は、手仕事です。

最後は、かつて日本の政治家が、《まだ地面に掘った穴で暮している》と言ったので有名な、大地を穿って「住まい」をつくる例です。


  左は、崖状の場所で横穴:「房」を掘る例。
  右の2枚は、大地そのものを掘り込んでできる「崖」に「房」を掘る例。
  穴の大きさは15m四方程度が多い。
  いずれも、仕事は大半が手作業です!
  「房」の上を畑にしている例もありました。
  温度が一定で、とても暮しやすいそうです。土蔵造と同じ。
  いずれも西安の近く、秦の始皇帝の陵墓の近くの山腹にあります。
  残念ながら、中には入れませんでした。

  とにかくまわりは土また土。どこが元の地面なのか分りません。
  それほど激しく大地は「加工」されているのです。

  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

大変長くなってしまいましたが、ここまで読んで下さり、ありがとうございます。
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再検・日本の建物づくり-2:人は何処にでも建てたか

2009-12-30 09:21:17 | 再検:日本の建物づくり
[文言補訂 31日 2.18、10.07 1日 23.50]
今、建物は何処にでも建てられています。
どんな低湿地だろうと、どんな吹き曝しであろうと、どんなに盛り土をしたところであろうと、・・・・お構いなく建てられています。そしてそれが「技術」の進歩の成果だとも思われてもいます。

では、そういう《現代的な「技術」》のなかった時代はどうだったのでしょうか。

先回、集落は「必要条件」「十分条件」で立地が選ばれる、と書きました。
「必要条件」が揃っていても、更に「選択」が行なわれるのがあたりまえでした。
その「選択」は、住む人たちの、その場所に対する「感じ方」が決め手になっていたのです。

下の写真は、私の暮す集落のいわば「原点」とでも言うべき、この集落で最も古いと考えられる屋敷周辺の遠景です。
赤茶色の屋根が、この集落で最も古いお宅の長屋門(元は茅葺だったと思われます)、そこから更に50~60m入ったところに主屋があります。
最も古いことを示しているのは「地番」で、ここは当集落の1番地なのです。
なお、背後の森とそこから右へと(東に)広がる森がこのお宅の持分で、森は斜面にあって、森の内側の台地部分は、広大な畑が切り開かれています。
このお宅の左側(西にあたります)の瓦屋根のお宅が、多分、この集落で次に古いお宅です。


屋敷遠景

写真では分りにくいですが、最も古いお宅の屋敷は、地形的に、水田から少し引っ込んだ「潜み」にあります。それは、この地区の地図を見ると分ります。
下の地図の〇で囲んだところが写真の範囲で、並んでいる建物の右手側の一群が最古の御屋敷。
地図で網を掛けてあるのは、標高25m以上のところ、と言っても、台地はそのぐらいの高さで続いており、それ以上際立って高いところはありません。


周辺図 「出島村都市計画図」より

地図でも分るように、この集落への道は、台地上に通じていて、そこから急坂を下ることになっています。
しかしそれは、2・30年前にできたもの。それ以前からも台地上に道はありましたが、いわば山道で、車などは通れなかったと言います。

往時の主要な道は、〇で囲んだところの中腹を等高線沿いに通る道と、水田の縁の道。中腹の道も西へとずうっと続いていたらしい。今は〇で囲んだところにだけ残っています。幅は広くても1間。
なぜ、往時の道と分るかというと、電気の配線、つまり電柱がその道沿いにあるからです。

地図の等高線間隔は5m、写真に写っているガードレールのある道の標高が、約6m、この道は、一帯の水田の区画整理の際にできたもので、道幅は5mほど。田んぼの縁を通っていた道を拡幅したもので、幅1間ほどの旧道も、等高線沿いに、ところどころに残っています(今の道は、車を通すため、かなり強引につくられています)。
そこから2mほど下がったあたりから水田が始まります。

この田んぼの縁の道に沿って、往時の水路跡もところどころに残っています。
上流の堰から引いた水路。そこから田んぼに水を落とし、田んぼを潤した水が中央の川へと落ちる、そういう構造(規模は小さいですが、伊奈備前守の行なったのと同じ、いわば田んぼの構造の基本*)。
今は、田んぼ用の水道が通っています。
   * http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ae49f624f8e51ddd70a526b9b83e99b1

話がそれましたが、最古の屋敷は、自然の地形の潜みをそのまま使って、それに応じて建屋が建っています。長屋門からは、少し高みになります。つまり、自然の緩い南傾斜面。

最近建った家では、と言っても2・30年前と思われますが、丘陵の斜面を削り取って平坦な場所をつくり、そこに建屋を建てています。自然の平坦地には、すでに先住者がいるからです。
重機を使って、建屋の裏手には3、4階建ての高さぐらいの切り立った削りっぱなしのローム層の崖。大丈夫かな、と心配になるほど。たしかに、重機があれば簡単にできます。
往時は、こういうことせず、もう少し、適地を探して建てたのではないか、と思います。

しかしそれは、重機がなかったから、という理由だけではありません。
「無理」はしなかったからです。
自然の理で、いずれは侵食され、崩落する、だからそういうことはしなかったのです(このあたりのローム層は、かなり締っていて、ときには半分砂岩のような粘板岩のようなブロックになっていて、雨の後など、崖下に落ちていたりします)。


最古のお屋敷の長屋門から主屋へ向う「線」は、屋敷内の建屋の基準線になっています。いわゆる「軸線」。
この軸線はどうして決まっているのでしょうか。もちろん磁石の南北とはまったく関係ありません。
これは地図からはなかなか分りません。

しかし、実際に現地に立つと直ちに分ります。
水田の縁の道から屋敷の方を見るとき、視線の方向と長屋門~主屋の線に何の違和感も感じない、つまり、そこで自然に人の目が向かう方向、それが軸線になっているのです。逆に、屋敷内から外:水田の方を見るときも同じです。

では、なぜ、目が自然とその方向に向くのでしょうか。

一言で言ってしまえば、人の目は、視界の中に、いわば「重心」をとっさに見分けるからだ、と言えばよいでしょう。そこを「重心」にすると、安定する、安心するのです。それによって、自分の「いま在る位置」を確認・比定できるからです。
「重心」を見出せ、人を安心させる、それが、人びとが「必要条件」に加えて求める「十分条件」にほかならない、と言ってよいと思います。[文言補訂]

逆に、目に見える「風景」に「重心」を見出せないと、人は不安になり、やむを得ず、単純に前へ歩を進めることになります。これは、かなり前に、「人を不安にさせる病院」を例に書いたことにほかなりません(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/d17820975974c21230a13c527f26af2d)。


屋敷配置図 goo地図検索から

これは古代の建築でも同じです。
法隆寺の伽藍は、「軸線」が磁北からやや西に振れています。
現在の法隆寺は再建されたものというのが定説になっていますが、当初の法隆寺の伽藍ではないかと考えられている遺構の軸線は、更に西に振れていて、その振れは磁北から約20度です。
つまり、磁北にこだわっていないのです。
いったい、その軸線の決め手は何か。

下の図は、法隆寺の寺域図です。
これを見ると、伽藍は、西北から南東方向への緩やかな斜面に建っていることが分ります。ですから、回廊も北へ向かって緩い登りになっています。
西北方向には、丘陵があるのです。


法隆寺 寺域図 「奈良六大寺大観 法隆寺一」より

航空写真を見ると、法隆寺の立地がよく分ります。
奈良盆地の西、盆地の南から流れてきた大和川が、山あいを西の難波に抜ける、その近くの丘陵の南端に法隆寺は敷地を求めています。
なぜこの地が選ばれたのかは、書物にも書かれていませんが(私の知る限りです)、難波からの入口=難波への出口に近いことが一つの理由だったのではないか、と思います。異国の文化は、このルートを通って大和に入ってきたはずだからです。


法隆寺周辺 航空写真 google earth より

航空写真に白い線を描き込んでありますが、これが磁北から西へ20度振れた線です。白い線の先端のほんの少し左が法隆寺の伽藍、線の左脇に見える黒い直線が、現在の参詣道の並木です。
下の方を曲りながら流れているのが大和川です(大和川は、平城京の中を流れますが、そこでは条理に合わせて改修されています)。

おそらく、地上でこの方向で写真を撮ると、安定した図柄になるはずです(今は、手前が建て込んでいるために、よく撮れないかもしれません)。
西へ20度振れた線は、多分、視界の「重心」の位置、方向を示しているのです。
つまり、当初の法隆寺は、建てる場所の「環境」に素直に応じて建てられたのではないか、と私は考えています。

これは先に見た農村集落内の屋敷の構え方と同じ考え方です。
そして、この「感覚」、自分の居るまわりの様相に「意味」を感じとる「技」は、ことによると日本人独特のもので、それが後の「方丈建築」「書院建築」や「茶室」を生み出す素地となっているようにも思えます。

では、再建法隆寺は、なぜ振れが少なくなったか。おそらく、平城京の条理に合わせて寺域の南を通っている街道(奈良から難波へ向かう重要街道)の位置が改められ(極力「条理」に合わせたと考えられますが、東西軸からは多少ずれています)、それに直交する形で建てられたものと思われます。
おそらく、自らの「感覚」と、「条里制」という「規制」との狭間でのやむを得ない判断だったのではないかと思います。


条里制が施行されると、建物もまた条理に合わせるようになってきます。
それを東大寺の伽藍で見てみます。


東大寺伽藍 配置図 「奈良六大寺大観 東大寺一」より

今もって分らないのが、なぜ東大寺は平城京の条理をはずれた東北角にはみだしてつくった理由です。これも私の知る限り、納得のゆく解説は見たことはありません。

それはともかく、東大寺の伽藍の内、大仏殿の後の講堂を取り巻く大伽藍の東半分は、若草山の西斜面を大がかりに切って平坦地をつくり、そこに条理に合わせて計画されています。
上の図で、等高線が伽藍の東側に沿って曲がっているのが分ります。

ここで留意する必要があるのは、伽藍は「切り土」した場所で計画されていることです。
「切り土」した以上、大量の土が出たはずですが、それがどこに積まれたのかは詳らかではありませんが、等高線の様子から、「大仏池」の北側、正倉院の南西側の建物の建っていないあたりかもしれません。
「大仏池」の西側は堰堤様に見えますから、もしかしたら、これも切った土を盛ってつくったのかもしれません。

このように、「盛り土」したところには、少なくとも東大寺関連の建物は建てなかったのではないかと思われます。

興味深いのは、主要伽藍を離れ、東側の斜面に建つ建物(二月堂、三月堂など)は、建屋自体は条理に従い東西南北に合わせていますが、かなり周辺「環境」に馴染ませることに気を遣っていることです。
ここでも、当時の工人たちは、「条理に合わせること」と馴れ親しんできた「環境に合わせること」との間で悩んだに違いありません。

   註 これは私の直観的感想ですが、おそらく「条里制」は、普通の人びとにとっては、
      受容できない「制度」だったのではないかと思います。
      この国に暮す人びとにとっての「感覚」とは齟齬があったからです。
      この国に暮す人びとの「感覚」は、「環境に合わせること」だったのです。
      広大無辺の場所で生まれた「条里制」は、性に合わなかったのだと思います。[文言補訂」


以上見てきたように、人びとにとって、「建物をつくる」ということは「既存の地物:環境と共にある場所・空間をつくること」である、という認識があたりまえだった、ということにほかなりません。
なぜそうするか。
それは、「自分たちの居場所をつくること」「自分たちが在る場所をつくること」が「目的」だからです。
そのとき、自らの「感性」「感覚」にそぐわない場所:空間をつくるわけがないのです。

つまり、「建物をつくる」ということは、建「物」をつくることではないのです。そしてこれが、人びとにとって、あたりまえな「建物をつくる論理」だったと考えてよいでしょう。
この「論理」は、少なくとも、明治の「近代化」までは、人びとの間に脈々と受け継がれてきた、そう私は思っています。

では、それに代る建物づくりの「論理」が、現在あるかというと、残念ながら、何もない。
それが証拠に、最近都会につくられるビル群をはじめとする建物の節操の無さは、度を過ぎている、私はそう思っています。強いて挙げれば、そこにあるのは「利」を貪る「貪欲の論理」だけです。
そういったものをつくる人たちには、環境や景観を語る資格はありません。

私が古代~近世の建物や農山村の建物に惹かれるのは、そのつくり方の「論理」や「技術」が、人の感性を尊重し、なおかつ「合理的」だからなのです。

「自分たちの居場所をつくること」という「論理」にそぐわない技術も、それは「本当の技術」ではないのです。
たとえば、現在の「耐震化」「耐震補強」の技術は、「本当の技術」ではありません。
なぜなら、私たちの居場所に制約を強制するからです。人は、耐震のためにだけ居場所を構えるのではない、ということを考えていないからです。
「自分たちの居場所をつくること」を保証する「耐震化」「耐震補強」の技術になっていないからです。
同様に、建築基準法の諸規定も、建物をつくるとは人にとってどういうことなのか、その基本・根本を考えないまま設けられているのです。それをして「基準」とは、これ如何に![文言補訂]
「技術」が一人歩きしたとき、それは「本当の技術」ではありません。

私が、今回、このようなことから書き始めたのは、これまで「技術」という点に絞って書いてきて、ことによると「技術が技術として成り立つ『前提』」を見忘れ、「歪んだ」理解を広めてしまうのではないか、と思ったからなのです。

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今年は、これでお終いにします。
明年も、よろしくお願いいたします。
よい年になりますように!

これから、ねこの破いた障子の張替え作業に入ります。
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再検・日本の建物づくり-1:人は何処にでも住めたか

2009-12-25 19:14:10 | 再検:日本の建物づくり
[文言補訂 26日 3.27、10.21]

先回の末尾で、「・・・・これまで使った図版などを使いながら(足りない場合は補足し)、もう一度、しつこく、日本の建築技術を再見・再検しようと考えています。
というのも、講習会の参加者の年齢が、9割までが1950年以降の生まれ、そして、大半が都会育ち。当然日本の木造建築を見る機会が少なく育ってきた・・・・、そういう印象が強かったからです」と「予告」しました。
そこでさらに考えて、「技術」というと、どうしても狭く考えられがちなので、「建物づくり」にあたって人はどのように考えていたか、という視点で書いてみることにしました。その視点で「技術」を考えることになります。いわば「技術」がどうして育まれたか、ということになるでしょう。
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今回は、「人は何処にでも住めたか」という話から始めます。「建物」以前の話ですが、それについて、つまり、何処になら住めるか、という認識がないと、建物はつくれなかったはずだ、と私は考えています。
しかし、このような話題:人は何処にでも住めたか:は、建築の人はあまり好みません。「つくること」が先ず頭に浮かぶからなのだと思います。
それでいて「環境」「景観」は、建築の人がよく使う言葉です。いったい、何を指して言っているのか、いつも不思議に思います。

以前にも書いたことですが(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/85d87afbf1d9ecf62918814fb62cf2ae)、東京・新宿から中央線で西へ向う車窓からは、「高尾」を過ぎるころまで、視界の一帯がすべて屋根また屋根の連続、高架化が進んだため、遠くの果てまで屋根で埋め尽くされているのが分ります。ほっとするのは吉祥寺のあたりで緑のかたまりが見えるときぐらいです。井の頭公園です。

こういう風景に見慣れてしまうと、人はどこにでも住めるのだ、と思ってしまってもおかしくありません。

しかし、べったりと屋根で埋め尽くされたのは、そんなに昔からではありません。
下の地図は、1955年と1987年の東京西部、環状8号線あたりの国土地理院の地形図です。
約30年の隔たりがあるのですが、1955年(昭和30年)当時は、環状8号線以西には、家々の建たない部分がかなり残されています(地図の白い部分)。
この地図は先の記事で使用したものです(縮小したので見にくいかも知れません。大きい地図は、先の記事で見られます)。



私の育ったのは、このあたり、後に環状8号線となる幅6~7mほどの道路から西へ300mほど入ったところ。
まわりには杉林がたくさんあり(人工林で、「四ツ谷丸太」と呼ばれ足場の丸太に使われていたのだそうです)、欅の枝が道に覆いかぶさっていました。麦畑が広がり、茅葺農家も点在し、のどかで落ち着いていました。
後の環状8号は砂利道で、牛車や馬車が時折り通っているだけ(坂道では後から押し、下りの時にはぶらさがったりしたものです)、人は堂々と道の真ん中を歩いていました。

それが変りはじめるのは、昭和30年代以降、環状8号で市街化区域打ち止めという都市計画が、あっさりと変更になってしまってからです(先の2007年のときにも書きましたが、これが、東京が西欧の都市とはまったく異なる様相を呈すようになった原因です)。

とは言っても、簡単に住宅が増えていったわけではありません。
当時、一帯には上水道がありませんでしたから、井戸水が頼り。下水道もありませんから、汚水は地下浸透。家々が密集してくると、井戸水は汚れる一方。お金をかけ余程の深井戸にしないと飲めない地域が増えていたからです。
それでも人口の都会への集中が激化し、それを追うように水道敷設地区が増え、それをあてにしてまた住宅が増え、林や畑は次から次へと侵食され(例の「八っ場ダム」は、この頃の人口増:飲料水需要増を踏まえた計画だったはずです)・・・・・・そして現在の姿になってしまった、というわけです。

こういう経緯を知っている私たちの世代は、都会育ちであっても(あるいは都会育ちであるがゆえに)飲料水の確保や汚水の処理がいかに重要であるか、よく知っています。
けれども、初めから上下水道完備の場所に住んでしまうと、おそらく、人が住むための「必要条件」が忘れられるのではないでしょうか。

人が住むことができるための「必要条件」、それは「食料」「飲み水」が得られることです。
そして、この「必要条件」が、「集落」の原初的な段階の「立地」選定の根本的な指標になるのです。日本の場合、「飲み水」は湧き水や井戸が頼り、「食料」は主食の米が得られること、手近に稲が栽培できること、でした。

今の東京は、最初に触れたように、どこもかしこも建物で埋め尽くされていますが、この東京でさえ、最初に人が住み着いた、つまり「集落」が生まれたのは、「必要条件」の確保できるごく限られた場所でしかなかったのです。そして、「必要条件」を確保するための「技術」の進展とともに、最初の「集落」の周辺に、新たな集落が生まれる、この連続が、現在の東京をつくったのです。

では、西欧の都市では、なぜ建物で埋め尽くされるようなことが起きなかったのでしょうか。
それは、人びとが「必要条件」だけで「事」を決めなかった、「十分条件」をも考慮したからだ、と言えると思います。
この場合の「十分条件」とは、言ってみれば、「人間的」あるいは「感性的」な「条件」と言えばよいかもしれません。
これは、例えて言えば、弁当持参で山道を歩いていて、腹がへったから、といって、所構わずにどこででも弁当を開く、ということはなく、通常は、あたりを見まわして、弁当を食べるのに相応しいと思える場所を選ぶことを思い出してもらえばよいでしょう。
この無意識に行なっている「選ぶ」という判断、そうさせるもの、それが「十分条件」の中味と言ってよいでしょう。[文言補訂]
    もっとも、コンビニの駐車場の縁石に腰を下して食事をしている最近の若者たちを見ていると、
    いまや、「必要条件」さえ充たせばよい、というようになっているのかも・・・・などと思ったりもします。

少なくとも近世までは、日本のどの街も、この「十分条件」は考慮されていたと考えてよいでしょう。「必要条件」がそろっているからといって、隈なく住むなどということはなかったのです。それゆえ、西欧の都市と同じように、市街地のまわりには田園が広がっていました。市街地の汚物なども綺麗に片づけられていました。江戸の街は、当時の諸外国の街に比べて数等綺麗で清潔であった、と訪れた西欧人が書いているそうです。
    今の東京は、「必要条件」だけでよしとした、別の言い方をすれば
    「貪欲が支配する社会」を象徴する姿、と言えるのかもしれません。


「集落」の成り立つ「必要条件」「十分条件」を充たして生まれ、建物で埋め尽くされることなく、いまだに当初の姿を残している地域の例で見てみます。
下の地図は、最近とみに侵食が激しくなりつつある筑波山麓一帯の、まだ静かだった20年ほど前の地図です。



網を掛けてあるところは水田です。水田が東の方へ伸びています。地図でAと記した部分です。
このような地形は、東側の山から流れてきた川によってつくられています。地図には、北側と南側に東に向う道が2本あります(北側は広く、南側は山道で細い)。いずれも坂道で、鞍部を越えて山向うの集落に至ります。と言うより、地質上、水が流れて鞍部が生まれた、その谷沿いに歩いて峠越えの道ができた、と言う方が正しいでしょう(この場所では、谷にいつも水が流れているわけではありません)。[文言補訂]

さて、このAの部分は、何の手も加えずに稲を育てることのできる絶好の場所、天然の田んぼでした。しかも裏山では綺麗な水が湧いています。「必要条件」はそろっています。そのような所を見つけて人は住み着きます。それゆえ、Aは古代の条里制の水田遺構があったところなのです。
そして集落は、おそらく山裾の田んぼの縁にあったのだと思われます。Bと付した東側の「六所」「立野」そして、田んぼの南の「館」などのあたりです。どこも飲み水には恵まれています。

網をかけた水田の北の縁、筑波山の南麓に沿って、ほぼ等高線上にBと付した場所が並んでいます。現在、集落のあるところです。
この集落の中には、北側に自噴する泉水のある庭を設けている家があります。
この等高線のあたりは、筑波山に降った雨水が地下水になって地表近くに表れる地点なのです。

しかし、等高線のどこでもいい水が得られるのに、Bと付した集落は連続せずに途切れ途切れに並んでいます。
これは、「必要条件」が揃っていれば、かならずそこに住み着くとは限らない、ということにほかなりません。ここで「選択」が行なわれているのです。
そして、その「選択」にあたっての指標になるのが「十分条件」なのです。
これは、あたりを実際に歩いてみると直ちに納得します。
集落のない場所は、まわりに比べ、それほど気分のよい場所ではないのです。
東京の近くだったら、所構わず家が建つでしょうが、このあたりでは、人はこういう「選択」をすることができるのです。

さて、天然の田んぼの容量には限りがあります。天然田んぼだけで暮せる人口には限りがあるのです。
そこで次に人が住み着くのは、天然田んぼよりは見劣りはするけれども水田化できる場所です。
それが河川のつくりなした「自然堤防」や「中洲」です。地図ではCという符号を付けてあります。

当然、Bのような良好な地下水が手近に得られるわけではなく、井戸が頼りです。井戸の水質のよいところが集落の拠点になります。
Cには自分たちでたどりついて開いた場合と、周辺のBのような集落から、意図的に住み着く「新田」の場合とがあります。

この地図の地域にはありませんが、時代が下れば、時の政府の指示による大規模の開発による「新田」もあります(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ae49f624f8e51ddd70a526b9b83e99b1参照)。

このほかに、この地図には見当たりませんが、奈良盆地などで多く見かける「環濠(かんごう)集落」と言われる集落があります(関東平野でもあります)。
これは、さらに条件の悪い低湿地に住み着く方法で、周辺に濠を掘り、その土を築き上げて居住地をつくるのです。
濠が排水先になり、居住地は一定程度居住条件がよくなります。当然飲み水は井戸が頼りです。

以上が、この地域の(多分、各地域の農業集落に共通の)諸相なのですが、1960年代頃から、大きく変ってきます。
その要因は、簡易水道の普及です。
自給体制:農業や商業は早くから大きく変っても、飲み水に頼ることだけは変りませんでしたから、住居の立地は相変わらず集落内でした(「必要条件」とは、人が生きてゆくための条件なのですが、その具体的な姿は時代により変るのです)。
これが簡易水道の普及で大きく変り、集落の外に出るようになるのです。中には田んぼを埋め立てて、そして住宅メーカーも進出し始めています。
集落の「秩序」が大きく変り始めた、と言うより、新たな「秩序」が見出せないまま集落が崩れてゆく、と言う方が当っているでしょう。

観ていると、都会のあとを追いかけているのではないか、とさえ思います。なぜなら、自然環境はまったく以前と変っていないのに、「都会の環境?」向きのつくりが多く見られるようになっているからです。
「必要条件」は所によって変ることはありませんが、「十分条件」は、地域によって当然異なります。
各地域なりの「十分条件」を考えない「都会風の貪欲化」が農村地域にも現われ始めている、そんな風に思えます。

「必要にして十分な条件」を備えて初めて建物はその地の建物になる、そう私は思います。
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