建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

続・鬼怒川の決壊・・・・教えられたこと

2015-09-16 15:40:32 | 居住環境
[末尾に追記 追加 9.21 9.00am]

川島 宙次 氏の名著「滅びゆく民家」三部作の「屋敷まわり・形式」編の「災害に備えて」に、河川氾濫多発地域の「水塚(みづか、みつか、みずつか)が紹介されています。
洪水の予想される平坦地で、屋敷全体ではなく、建物を建てる範囲だけ盛り土をして、その上に建屋を建てる方法で、その盛り土部を「水塚」と呼ぶのです。そこに建てる建物に必需品の備蓄をし、災害に備えておく方策です。万一の時の居住場所にもなります。

以下に、同書から、「水塚」の事例の写真を、一部転載させていただきます。


写真の51、52 は、利根川流域・栗橋の事例とありますが、「水塚」の周囲は、大谷石を積んで「護岸」としてあります。
大谷石の段数からおよそ7尺以上盛り土してあるものと思われます(大谷石は、1尺×5寸×3尺が標準的な大きさです)。写真52 に、遠くに利根川の堤防が写っていますが、それを見ると、敷地がかなりの低地であることが分ります。
盛り土を7段程度の高さにする判断は、おそらく、「過去の経験」に拠るものでしょう。
   註 栗橋(埼玉県)は利根川本流に面し、今回の被災地域、常総市境町の西側にあたります。
     周囲に大谷石が使われるのは、石の産地の栃木県の大谷に近いからでしょう。
     法面に石を積まず、樹木を植えて保護している場合もあるようです。
私も栗橋の少し上流、北川辺町(埼玉県)のあたりで、実例を見たことがあります(写真を撮ったのですが直ぐにみつかりません・・・)。
写真53 の事例の在る五箇町(ごかまち)は、境町から利根川を越えた西隣の町で、利根川を越えてはいますが茨城県です。
   註 茨城県の西の県境は、大きく見れば利根川に」沿っていますが、この部分では、権現堂川になっています。
     この川は、利根川の旧流路です。
     このように、流路が変ってしまった結果、行政区画が川で分断されている場所は、鬼怒川、小貝川流域に数多く在ります。
     また、一帯には、蛇行していた旧流路の遺った三日月状の池沼も、いくつか見かけます。

この五箇町の事例では、主屋自体も盛り土の上に建てられ、そこから更に10段ほど石段を登った場所に納屋・離れ屋が建っています。階段の段数から判断して、主屋の地盤から更に7~8尺は高いと思われます。建物の1階床面はその敷地面から2尺程度は高いでしょう。
主屋の土地は2~4尺は盛ってありそうですから、納屋の建つ地盤は、一帯の地盤よりは9~12尺は高いと考えられます。つまり、一帯が10尺:3mほど浸水しても、納屋・避難小屋は浸水を免れるのです。
私が見た事例の納屋の軒先には、木造の小舟がぶら下がっていました。最悪の場合の用意です(写真がなくて残念・・・)。川島氏の著書にも載っていますが、「上げ舟」と言うそうです。

これらはいずれも、明治・大正あるいは昭和初期の建設と思われます。現在のような「情報網」もなく、「知識」も少なかった時代です。しかし、人びとには、自分たちで身に着けた『知識』があったのです。おそらく、その地に住み着いた頃から、世代を超えて引き継がれ蓄積されてきた「その地で暮す上での必須知識」です。それは、河川の氾濫・洪水を完全に防ぐのではなく、「浸水しても、それに堪えてゆこう」、とするための「知識」だったと言えばよいかもしれません。水の流れ方・性質をよく知り、それに徒に抵抗しようとはせず、自然の流下に任せよう、という「姿勢」だった、と言えるかもしれません。

この考え方は、おそらく現在でも採ることができるはずではないか、と私は思います。
ものの見事に一階部分が浸水し、早々に機能しなくなってしまった常総市役所の建物は、たしか、昨年新築されたばかりのはずです。
設計者は、耐震にばかり気を使い、市役所の場所が洪水多発地域であることを失念していたのでしょう。あるいは、堤防がしっかりしているから(しっかりしていれば)洪水など起きないと思い込んでいたのかもしれません。いずれにしろ、洪水多発地域であった、という事実に対し無関心・無知であったのは確かです。
   印象に残っている映像に、布基礎で囲まれた床下に水が溜まっている様子がありました。
   布基礎がダム・堰堤になって水がはけにくいからです(当然、湿気も抜けにくい・・・)。
   かつての石破建てでは、まずそういうことはないでしょう。それは前掲の写真53 の建屋の床下に水が流れ込んだ場合を想像すれば分ると思います。

洪水多発地域の愛知県のある町では、街中に、河川の堤防の標高と過去の氾濫水位を記した標識を立てているそうです。住人に「氾濫した場合の町中の姿」を日常的に、かつ具体的に知っておいてもらうため」とのことです。人びとにその「認識」があれば、建物を建てる時に、あるいは実際に洪水に見舞われた時に、行動に反映されることを願ってのことのようでした。

私たちは、自分の暮す場所、建物を建てる場所の「素性」を、よく知っておかなければならない、このことを、今回の鬼怒川の氾濫は、あらためて私たちに教えてくれているように思います。

追記 下記に、近世以前の「治水」例を簡単に紹介してあります。お読みください。[9.21 9.00am追記]
   「閑話・・・・最高の不幸・最大の禍
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鬼怒川の決壊

2015-09-11 15:18:25 | 居住環境
「鬼怒川、決壊」のニュースはまさに驚きでした。
戦後間もなくの、利根川が栗橋で決壊、東京の下町一帯が水浸しになった洪水を思い出しました。

被災地の皆様の無事を祈念いたします。

「自然」は、人間の「制御」が破たんすると(「制御」は簡単に破たんするのです!)、もののみごとに、「本来の姿」を取り戻してしまうのです。太古以来の「自然の流路」を「復元」してしまうのです。
次の図は、以前の記事で載せさせていただいた小出博 著「利根川と淀川」所載の「古代の関東平野」の地図です。



この図には、一帯を流れる多数の古来の河川の流路が描かれています。
これらの河川のつくりだした湿地帯、それが関東平野の基底である、と言ってよいでしょう。

図に「毛野川」とあるのが「鬼怒川」です。「毛野」を流れる川という意と思われます。常総市は毛野川と小貝川の間に在ります。
   註 「毛野」とは、現在の群馬~栃木の一帯の古称です。
     群馬=上毛野(かみつ けの)→「こうづけ」、栃木=下毛野(しもつ けの)→「しもつけ」。
     一帯を東西に走る鉄道は、ゆえに「両毛線」。
     ここは、古代、東山道の通っていたところ。群馬の方が、時の都:京都に近いゆえに「 毛野」。

こういう河川の下流域は肥沃の地。そこに目をつけたのが徳川。「開拓」に精を出します。関東平野は、江戸幕府のまさに「基盤」だったのです。
このあたりについて、以前以下の記事で簡単に触れています。
関東平野開拓の歴史-1
関東平野開拓の歴史-2
地方巧者・・・経済の原義
屋敷構え-4・・・・坂野家・補足
再検・日本の建物づくり-1
TVの映像で印象に残ったのが、一面の濁水の中に小島のように浮かぶ樹林でした。この辺りは、茨城に移り住んだころよく歩き回ったところですが、この「小島」は、多分、既存の集落の「屋敷」で、「屋敷」の周りに濠を掘って、その土でかさ上げして家を構えているところ、と思われます。いわゆる「環濠」です。建屋の周りには、季節風を防ぐ樹林を設けています。これが小島のように見えているのです。
これに対し、周辺に建っているのは、最近の住宅群のようでした。おそらく、田んぼに盛り土をしただけでしょう。

私たちが、「自然」から学ばなければならないことは、まだまだたくさんある、あらためてそう感じています。

広島土砂災害被災地は、古代遺跡:古墳:の密集地域でもある

2014-08-26 09:38:42 | 居住環境
[各所文言、言い回し 改訂 14.55]

今回の広島の土砂災害、そのすさまじさに驚愕しています。
亡くなられた多数の方に哀悼の意を表するとともに、被災地の皆様にお見舞い申し上げ、これ以上災禍が拡大することのないよう祈念しております。

広島という大都市の市街地でこのような規模の土砂災害とは?と、最初は信じられませんでした。
というのも、私は広島の街を訪れたことがなく、今回の報道で、名前だけは知っていた安佐南区安佐北区が、これほどまでに山に迫った場所であるとは考えてみたこともなかったのです。
広島の市街というのは、太田川のつくりだしたデルタ地域に拡がっている、とばかり思っていたからです。

そこで、各種の地図と「日本歴史地名体系 広島県の地名」で調べてみました。
この二つの区、安佐南区安佐北区は、広島市が昭和55年(1980年)に政令指定都市になった際の誕生で、広島市のもともとの市街ではなかったようです。

下に国土地理院発行の「20万分の1地形図」から当該区域を転載します( non scale ですが、ほぼ同一縮尺です)。
左は平成元年(1988年)編、右は明治21年(1888年)編の地図からです。両者の間にはちょうど100年の開きがあります。
   明治の地図は「広島県の地名」の附録で、国土地理院の前身、陸軍陸地測量部作成の「迅速図」(急いで作成という意)と呼ばれている地図です。[追補]



明治の地図から、安佐南安佐北一帯は、広島城下からおよそ10数㎞北に位置し、太田川が山地を離れて最初につくりだした沖積平野の縁:山裾に生まれた集落:村、町であったことが分ります(現太田川の西に旧水路「古川」が蛇行しています)。

そして、現在の地図から、今回の被災地、安佐南区・八木(やぎ)、同・緑井(みどりい)のあたりは、近世には大きな集落(いわゆる町場を含みます)に発展していたことも分ります。街道が通り、それをなぞるように鉄道が敷設されているからです。
   いわゆる街道は、大きな集落をつないで生まれます。そして、近代初頭の鉄道は、その街道の人や物の流れの代替を意図してつくられるのが普通でした。
   今は、道路、鉄道を先ず敷設し、そこに人を集める、人が集まる、と考えるのがあたりまえですが、それは「現代の《求利》的な発想」に拠るものです。
    このあたりについては下記で触れています。
     「建物をつくるとはどういうことか-16
     「鉄道敷設の意味・その変遷-1
     「鉄道敷設の意味・その変遷-2
     「鉄道敷設の意味・その変遷-3」 
   地図にある可部線は、山陽本線の横川駅(広島駅の一つ西側の駅です:地図参照)を基点として明治42年(1909年)に民間の手により創設された鉄道です。
   この鉄道が、横川を起点とするのは、多分、横川が、街道や水運(太田川)の拠点の街だったからではないでしょうか。
   なお、横川の西側にある河川は、太田川放水路で、昭和7年(1932年)広島中央市街地の洪水防止のために設けられたもので明治にはありません。
                                                                            (以上は「広島県の地名」などに拠る)

「広島県の地名」によると、この緑井八木一体には古代遺跡:貝塚や古墳が多数存在することが紹介されています。特に古墳は、想像を絶する数に上ります
いささか驚きました。このことは、どの報道でもまったく報じられていません。

そこで、広島県の遺跡地図を広島県教育委員会のHPから検索しました。「広島県の文化財」から閲覧できます。
下に、「広島県の遺跡地図」から、当該地域の「遺跡分布図」と国土地理院の「5万分の1地形図・広島」(昭和45年:1970年:編・平成元年:1988年:修正版)を転載します。縮尺は同一に編集してあります。

右図が「遺跡地図」の抜粋、その右上の赤い字で埋め尽くされているところ、つまり遺跡が密集している一帯が緑井八木の地にあたります。
左図が「地形図」の抜粋です。図上部の鉄道・可部線と横一文字に川を渡る道路の交点あたりに緑井の駅、そして、鉄道を右上にたどり、地図を出たあたりが八木駅、地図を出る直前に梅林(ばいりん)駅があります。集落:町は、鉄道の左側:北西側の山裾に拡がっています(地図参照)。



このように古代遺跡:古墳などが多数存在する、ということは、一帯が、古代、きわめて豊饒な地であったということの証左にほかなりません。
以前、小出 博 著「利根川と淀川」に、古代、西南日本:簡単に言えば関西地域:が東日本よりも早く繁栄したのは、西南日本の地質が真砂(まさ:花崗岩の風化してできる土)主体であるため、広大な天然の良田:豊饒な地が多く、それゆえに、一帯が繁栄した、権勢を誇り得たのだ、とあることを紹介しました。

   けれども、そういう土地は限られています。それゆえ、利用が隅々にまでゆきわたれば、先がありません。繁栄に限界がありました。
   それゆえ、天然の耕地を利用し尽した以降(古代末~中世以降)、東国に繁栄の座が移るのです。
   それは、東国は天然の良田は少ないけれども、「可耕地(手を加えれば耕地化できる土地)」は多く存在したからです。
   このあたりの事情については、下記で触れています。
    「関東平野開拓の歴史-1
    「関東平野開拓の歴史-2
この緑井、八木の南東、山裾から太田川に至るまでの土地は、火山灰土が主体の関東なら湿地帯になり、排水の手立てを講じないと良田にはなりませんが、真砂ゆえに豊饒な土地だったのです。
広島県の地名」によれば、それゆえに、一帯には幾つもの「(水田の)条里制遺構」があったようです(「あった」と過去形表現になっていますから、多分、現在は知ることができないのだ、と思われます)。
このような豊饒な土地であるならば、当然、豪族が誕生してもおかしくありません。
そして、彼ら一族が、おそらく、広大な耕作地を前面に見渡せる後背地の南東向きの緩斜面(この緩斜面も、真砂の地質ゆえに生まれた地形です)に居住地を構えたことも容易に想像できます。
そしてまた、これも当然のように、権勢のシンボルとして、墳墓をも一画に設けたのです。それがいわゆる「古墳」です。

   私の暮す茨城県の出島は、火山灰地、典型的な関東ローム層の地。赤茶色をしています。
   ただ比較的水はけはよく、谷地田は良好な水田です。谷地田を囲む関東ローム層の台地は、層が厚く、堅固です。気候も温暖。
   この水田と周辺の山の幸と霞ヶ浦の幸で、この地は古代大いに繁栄し、常陸国の一画となります。国府は、出島の付け根に在ります。今の石岡です。
   一帯にも縄文期~古墳時代の古代遺跡が多数あります。その立地も、緑井八木と同様の小高い丘陵状の地です。
   しかし、出島は、周辺に比べ遺跡群の多い地域ではありますが、緑井八木のように密集はしていません。

広島県の遺跡地図」には、別表で、各遺跡が一覧表にまとめられています。その中から、緑井八木の一部を下に転載します。

この表は最新のもので、この原本になった「旧表」があるようです。「旧表」の遺跡番号がこの表の右辺にある「旧番」です。「旧番」があるけれども、備考欄に「消滅」あるいは「全壊」とあるものは、最新の地図(前掲の「遺跡分布図」)には載っていないようです。

私がこの一覧表をみて不思議に思ったのは、これだけの数の古墳がありながら、集落・住居址が少ないことでした。
これはおそらく、古代の集落・住居址は、その後も引き続いて各時代の居住地となったからなのではないでしょうか。
あくまでも推測ですが、たとえば、近世の住居を調査・発掘すると、前代までの住居遺構が重なっているのが見られるかもしれません。
   前掲一覧表のトップにある375番遺跡(集落跡)は、詳しく知りたい遺構です。概要欄の「テラス状遺構」が気になるからです。
   これは、傾斜地に無理なく構築するための古代人の工夫ではないか、と思います(ただし、盛土面ではなく切土した面の利用と思います)。
     現在は、土地の「有効利用」として、盛土面の利用も当たり前ですが、古代の人びとは、盛土面に建物をつくることは考えなかったようです。
     この点については、東大寺の伽藍配置を例に以下で触れています。
     「再検:日本の建物づくり―2

もう一つ、一覧表で驚いたのは、遺跡番号405番~408番の備考欄の「宅地造成により、全壊、消滅」という記述です。
先の遺跡番号375の集落跡も、発掘調査後、「住宅団地造成で消滅」とあります。
他にも「消滅」と記された例がかなりありますが、いずれも似たような経緯ではないかと推察します。
   古代人が、今回の土砂災害を知ったならば、彼らは「山が怒った」と思ったにちがいありません。

遺跡・遺構所在地に手を付けるにあたっては、最低限、発掘調査を行い「報告書」を作成するのが「常識」ではないか、と思いますが、その調査が行われたとの記述事例はきわめて少ないようです。
   出島一帯の古墳、住居址などで、調査もされず消滅し、という事例はないようです。私の居所にも竪穴住居址がありましたが、調査済とのことでした。
   と言うより、私の暮す近在では、あの畑の中のこんもりした小山は何か、と思って調べてみると、大抵は墳墓の跡です。時代は中世、近世さまざまです。
   古墳なども、周囲が畑地として多少削られてはいても、消滅、全壊というのは見かけません。祠があったり、指標となる樹木が一本立っていたりします。
   近在に暮す方がたが、祠を建て、樹木を植え、「尊重」してきたのです。
   この経験から言って、この一覧表の記述には大いに驚きました。

古墳時代とは、通常、4世紀から7世紀頃のことを指します。最短でも今から1300~1400年前のことです。古墳は、その頃の人びと・工人が築いたのです。

今回の土砂災害の因は、一つに地域の土質:真砂(まさ)にある。そういう地質の地に異常な豪雨があって表層崩壊・土砂災害は起きた、と解説されています。

しかし、この地域が一大古墳密集地域であることを知って、私は、この「解説」に疑問、違和感を感じました。
そうかもしれない。しかし、古墳が築かれてからの1300~1400年の間に、土質に変化があったとは考えられず古墳時代真砂の地であったはずだ。また、1300~1400年の間に、今回のような異常な降雨が一度もなかった、などということも考えられない。
むしろ、この長い年月の間には、この真砂の地域は、数多くの天変地異に遭っている、と考える方が無理がない。
であるにもかかわらず、古墳時代につくられた古墳は、この1300~1400年間健在だった、天変地異による破壊消滅はなかった、ということです。

遺跡番号375番の集落跡や405番~408番の古墳群も、「人為的に壊されなければ、現存したはず」なのです
つまり、消滅、全壊という事例は、いずれも、人為によるもので、自然の力に拠るものではない、と言い切ってよいのではないでしょうか。

   もちろん、中には自然消滅した例もあるでしょう。そうだとしてもなお、これだけ多数の事例が、1300~1400年間健在だったのです。

この地に、遺跡群を壊して多くの宅地造成が行われた、という事実を知り、私が報道で感じていたもう一つの疑問が解けました。
その疑問とは、被災地が歴史のある地域・街であるのに、被災映像には旧い建物や旧い街並の被災例を一つも見かけないのはどうしてなのだろう、という疑問です。
現地を見ていませんから、あくまでも推測ですが、被災は、おそらく大半が、造成宅地と、そこに建てられた建物だったのではないでしょうか。


私は、安佐北、安佐南全域について、何処が被災し、何処が被災しなかったのか、旧い街並や建物、あるいはまた数多くの遺跡群・古墳群が被災したのか、どの程度被災したのか、あるいは被災しなかったのか・・・を含み、知りたいと思っています。
それは、「被災状況」だけを知るのでは片手落ちだと考えるからです。「被災しなかった状況」を知ること、実はそこにこそ大きな「示唆」があるはずだからです。

   残念ながら、非被災地域の状況はもとより、遺跡・古墳群の状況は、一切報道されていません。ご存知の方、ご教示いただければ幸いです。
   なお、被災事例だけを見て、非被災事例を見ない「悪しき習慣」の問題点については、以下の記事でも触れています。
    「地震への対し方-1・・・『震災調査報告書は』事実を伝えたか

このような被災・非被災の具体的な状況のデータをも踏まえ、次の「何故」を考えるとき、単に「真砂」と「異常気象」にだけ因を求めて済ますのではなく、今回の災害の真因に迫れるのではないか、と私は考えています。
  何故、古墳は、1300~1400年の間、天変地異に拠っても消滅することがなかったのか?
  何故、現代の人びと・工人は、古代人の構築物:しかも墳墓:を壊してまでして、この地に住宅地をつくろうとしたのか? 
  何故、現代の人びと・工人がつくった「造成宅地」は、数十年も経ずして、容易に崩れ去ってしまったのか?


以上、今回の「災害」について、考えたことを、雑然と書き並べました。
現地はまた雨のようです。無事を祈ります。
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大丈夫と言えば大丈夫?

2011-08-01 18:15:36 | 居住環境
犬たちとの散歩コースの一つに、近在のクヌギの並木道があります。道幅は1間弱。山林の中の道です。クヌギは、根もとで径4~50cm。
そのクヌギの根元の洞は、昆虫や蜂や蝶たちの食堂。
写真は、夕方4時ころの様子です。カブトムシとマダラチョウが食事中。
このときは蜂はいませんでしたが、日によると、スズメバチも群れています。
こんな風景、このあたりの子どもたちは、当たり前すぎて、知らん顔のようです。



  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[追加 2日0.08][追記 15日 19.21]

「形の謂れ-6」は、現在編集にかかっていますが、追い込み仕事の関係で進んでいません。

そんなときに、知人から「情報」提供がありました。

東京新聞webで、先日の衆議院厚生労働委員会で、児玉龍彦氏(東京大学先端科学技術研究センター教授 東京大学アイソトープ総合センター長)が、「厳しく深刻な」参考意見を述べられた、という記事を読みました。

知人から、その具体的内容の載った記事を紹介いただきました。下記に転載します。

「7万人の人が自宅を離れて彷徨っている時に、国会は一体何をやっているのですか!」

この「実況」動画を、コメントで紹介いただきました。コメントからアクセスできます。[追加 2日0.08]

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気になった毎日JPのコラム「セシウムさん」を転載します。[追記 15日 19.21]

児玉氏とのインタビュー記事を追加。
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とり急ぎ:放射線汚染警戒区域のペットは 一時帰宅時に連れ出しできます 

2011-05-12 08:09:29 | 居住環境

飯館村の乳牛は、全頭殺処分だといいます。何故?

これまでともに過してきた犬や猫たちも、放って置かれたまま、連れて避難できない、と言われています。
が、しかし、・・・

『犬猫救済の輪』動物愛護活動ドキュメンタリー さんのブログより転載いたします。

    「警戒区域のペットは一時帰宅時に連れ出し出来ます。」

     転載お願いします。2011年05月11日15:46

     前回のGWの保護のように国に情報操作されるといけませんので、
     これまで水面下で伝達していましたが、
     一時帰宅が始まり、緊急を要しますので、本日関係者了承のもと、
     以下の情報を 全面公開いたします。

     日本は私たちの国です。一部の人間のものではありません。

     命は見捨てるのではなく、救う為にあります。
     救う為に現地で頑張っている多くの方がた、
     何十もの被害で苦しんでいる飼い主さんと、瀕死のペットたちのために
     以下の情報を至急転載、拡散お願い いたします。

  詳細は、こちらをご覧ください。

農地は 一朝一夕には 生まれない

2011-04-29 11:55:25 | 居住環境
[図版更改 18.02][文言追加 18.13]
[「原発一個動かなくても関係ない都会!」へリンク追加 1日 23.24]
[毎日新聞 投書欄から投書転載追加 3日 12.10]

先に、飯館村について、少しばかり触れました。

そのあとで、私は、吉野せい さんの書かれた「洟をたらした神」という随筆を思い出し、書棚から引っ張り出して、あらためて読んでみました。
同書は「弥生書房」から、1975年4月15日初版で刊行されています。

吉野せい さんは、1899年福島県 小名浜(おなはま) の生まれで、詩人であった小作農・吉野義也:三野混沌:と結婚し、平(たいら)の町のはずれの山地の開墾に従事した方、そして、夫 混沌の没後、70歳を過ぎて著作を始めた方です(元々、平の牧師をしていた詩人・山村暮鳥などを知り、文筆を志していたのですが、結婚を機に、それまで書いたものを全て焼いてしまった、といいます)。
同書の あとがき で「・・・一町六反歩を開墾、他に一町歩の梨畑、自給のための穀物作りに渾身の血汗を絞りました。」と、記しています。


飯館村の方がたは、避難を強制されるようです。

報道で聞こえてくる話に拠れば、事故を起こした張本人は、賠償をできるだけ少なくしたい、同時に、国にも賠償の支援を求めたい、と考えているらしい、とのこと。
その話の えげつなさ もさることながら、その思考の向うに、何ごとでも金で解決できる、という考えも透けて見えてきます。
おそらく、原発立地も金で可能になったし、住民だってそれで潤っているはず、潤したのは我われだ、だから、原発被災も金で・・・という「発想」なのだと思われます。
しかし、飯館村は、原発の地元ではありません。原発とは無縁の豊かな山あいの地。[文言追加 18.13]

私が「飯館村」の話から、吉野せい さんのこの一冊を思い出したのは、
そこに、かつて、農地は、どのようにして開かれていったのか、如実に、しかしさりげなく、開墾に携わったた方自らの手で描かれていたことを思い出したからだ、と思います。
現代の人びとが造成された宅地を買うような、そんな形では農地は農地にならない、従って、それを簡単に「金」で何とかしよう、とするような考え方には、到底ついてはゆけないのです。人びとの代々の営みを、金に換算できますか。
「耕す」ことを英語では cultivate と言いますが、culture はその派生語。耕さなければ生まれないものが culture なのです。そして、農業は agri-culture 。 agri の語源は「土地」のことらしい。
農地の破壊は一日もかからずにできる、しかし農地は一朝一夕では作れない、このことを、今回の事故の張本人たちは、忘れていないだろうか(知らないのだろうか)?
金勘定する前に、先ず、張本人たち総動員で、土壌除染に向けての作業をなさったらいかがですか(下請け任せにしないで・・・)。

   吉野せい さんを広く世に紹介した 串田孫一 氏は、同書の「序」で、
   「書くことを長年の仕事としている人は、文章の肝所を心得ていて、うまいものだと感心するようなものを作る。
   それを読む者も、ほどほどに期待しているから、それを上廻るうまさに驚く時もあれば、また、期待外れという時もある。
   ところが、吉野せい さんの文章は、それとはがらっと異質で、私はうろたえた。
   たとえば鑢紙での仕上げばかりを気にかけ、そこでかなりの歪みはなおせるというような、
   言わば誤魔化しの技巧を秘かに大切にしていた私は、張手を喰ったようだった。
   この文章は鑢紙などをかけて体裁を整えたものではない。
   刃毀れなどどこにもない斧で、一度ですぱっと木を割ったような、狂いのない切れ味に圧倒された。
   ・・・・」

「洟をたらした神」の最初は、「春」という一文です。
以下に、同書からスキャンして、そのまま転載します。[図版更改 18.02]

文末の数行は、実に凄い。

版面を変えたくなかったので、字が小さいと思います。恐縮ですが拡大してお読みください。

吉野せい さんの著作は、他に、作品集「道」(弥生書房)、評伝「暮鳥と混沌」(草野心平 跋 弥生書房)があります。
   草野心平 氏の愛した 川内村 も素晴らしいところ。ここも、避難地区になってしまった![文言追加 18.13]








2007年の中越地震で柏崎原発が停止したときの柏崎市長の言を紹介したことを思い出しましたのでリンク。
「原発一個動かなくても関係ない都会!」。[リンク先追加 1日 23.24]

5月3日付毎日新聞、投書欄から転載 [記事転載追加 3日 12.10]

とり急ぎ・・・・こういう企業もあるんだ!

2011-04-24 18:10:38 | 居住環境


[追記 20.52][追記 21.12]

新緑のころ、よくある風景です。
今にも降りそうな気配でしたが、雷は音だけ響かせて、通り過ぎて行きました。

ところが、南に去ったと思っていた雷雲は逆戻りしてきたような恰好で、頭の上で雷鳴、近くに落ちたらしい。そして、猛烈な雨。8時過ぎに止みました。 [追記 20.52]

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東京の南部に拠点を置く「城南信用金庫」のHPに、今回の原発事故を機に、「思いを新たにする」との「宣言」が載っているとのこと、早速見てみました。発表は4月1日。

下記です。

「原発に頼らない安心できる社会へ」

原発に電力の3割を依存しているのなら、3割の節電をすればよいではない、
という
いかなる原発推進論者をもってしても反論できない非常に明快な論理です。
あまりのことに驚きました。世の中には、こういう経営者もいるんだ!

とり急ぎ、お知らせまで。

このニュースは下記で知りました。[追記 21.12]
alterna

とり急ぎ ご案内:「ミツバチの羽音と地球の回転」上映会+鎌仲監督トークinいわき市

2011-04-16 20:12:30 | 居住環境
先に触れた標記映画の上映会を、福島県いわき市で行うことになった、という連絡を、
三函座リバースプロジェクト実行委員会 からいただきました。

下記のとおりです。

第一回
日時 2011年 5月 4日 (水曜日)
場所福島県いわき市平字5-15-1 (地図)
説明「ミツバチの羽音と地球の回転」上映会+鎌仲監督トークinいわき市
【会場】burrows(バロウズ)/いわき市平字​5-15-1
【プログラム】12:10開場/第1回上映12:35/監督トーク15:00/第2回上映16:00
【参加費】大人1000円/学生…主催者にお問い合わせ下さい
【主催】三函座リバースプロジェクト実行委員会
【問合せ先】burrows(バロウズ)/0246-24-7772

第二回
日時 2011年 5月 5日 (木曜日)
場所福島県いわき市平字5-15-1 (地図 第一回の地図参照)
説明「ミツバチの羽音と地球の回転」上映会inいわき市
【会場】burrows(バロウズ)/いわき市平字​5-15-1
【プログラム】12:50開場/第1回上映13:15/第2回上映​16:00
【参加費】大人1000円/学生…主催者にお問い合わせ下さい
【主催】三函座リバースプロジェクト実行委員会
【問合せ先】burrows(バロウズ)/0246-24-7772

なお、他の地域での上映会については、下記をご覧ください。
「ミツバチの羽音と地球の回転」上映カレンダー
コメント (2)

「一票の格差」の是正=「不条理」の是正?

2011-04-02 19:16:01 | 居住環境


路傍のシデ コブシ。
例年より開花が遅れています。
シデは「垂ず(しず)」という動詞の連用形、その名詞的用法、とのことです。言うならば「しだれ辛夷」なのでしょう。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

[註追加 3日 8.50][註記追加 3日 20.03][註記追加 4日 10.30]

昨年の大晦日、毎日新聞の投稿欄にあった「人口だけで一票の格差を考えるな」という投書を紹介しました。
世の大勢のなかでは少数ですが、まことに当を得た、理の通ったお考えである、と私は思います。
「民主主義」の名の下で、単純に数値の大小でものごとを決める悪しき「習慣」が流行っていることは、既に何度も書いてきました(「数値の軽重・・・・数の大小でものごとは決まるか?」「本末転倒の論理」)。

しかし、世の大勢は、相変わらず数字の大小に比例することを望むようで、最高裁で「一票の格差」を認める判決が出され、「一票の格差の是正」を求めていた原告(各地域の弁護士たちです)が、会見で「判決が妥当である(半ばですが)」旨の見解を表明していました。

ところで、次の数字から、何が見えてきますか?
茨城県:299、栃木県:201、群馬県:202、埼玉県:702、東京都:1227、千葉県:604、神奈川県:869、山梨県:88、静岡県(の約1/2):189、以上合計4352。

これは、東京電力の配電している地区に属する各都県の2006年の人口:単位万人(「最新基本地図帳 2008年版」より)。
静岡県を約1/2にしているのは、富士川以西は中部電力の地区になっているからです。
   註 各都県に「住所がある人」の数です。
ここから、概算で、東京都に隣接するいわゆる「都会」「市街地」地域の人口が、東電の管轄区域の2/3を占めると見てよいでしょう。
単純に考えると、各都県の電力使用量も、ほぼこの人口比率に比例すると言えます(昼間人口はこの数字ではないでしょう)。
それを考えると、他地域の電力会社の名称が、北海道、東北、中部・・・と配電地域名を付けているのに、関東・山静だけ「東京」である理由が分ります。「都会」以外は、その他大勢・・・。

   註
   茨城県は、被災地域ということで「計画」停電を免れています。
   東京23区でも、江戸川など東部の川向うの区以外は免れているとのこと。
   配電網が、「都心部」を念頭に構築されている関係かもしれません。
   「首都・東京」を護る電力配電網。
   因みに、都心から半径50~70キロの辺りには、環状線状に、
   東京へ配電する高圧線・鉄塔が並んでいます。  


現在、わが国の総電力量の3割程度が原発によるものと言われています。
関東・山静の電力は、新潟と福島で、その1/3を生産している、と、福島県の知事が語っていました。
因みに、福島県の人口は210万、新潟は244万です(同資料による)。

   註 福島、新潟は東北電力の管轄です。
     たしか、青森県の東通村にも東電の原発がある(建設中?)はずです。
        [註記追加 3日 20.03]

原発は安全なのだそうです。核燃料廃棄物の処理も安全に行われるのだそうです。
であるならば、なぜ、需要の多い地区に近接して、例えば東京湾沿いに、建設しないのでしょうか?配電網もローコストで済みます。
なぜ、廃棄物処理場は六ヶ所村なのでしょうか。近くでいいじゃありませんか。これもローコストで済みます。


これは何度も問われてきた「根本的・根源的( radical )な問」ですが、いつもうやむやのまま、「安全である」、「安全に処理できる」、との「専門家のご託宣」に基づいて、時の政府が「認可」し、建設されてきてしまったのです。

福島原発の建設にあたっても、当然「専門家のご託宣」がありました。
「ご託宣」とは、すなわち専門家の「想定」のこと。「工学的設計」が拠るべき「目標値」です。
そしてそれは、自分の立てた「想定」が実際と違った場合には、それは「想定」が悪いのではない、それを越えた地震・津波がワルイのだ、と言って済ませることのできる「想定」です。そういう事態が起きたら、「再評価」すればよいのです。


例の構造計算事件の姉歯氏は、賠償を命じられました。
原発の設計要件の「想定」は、偽装どころか、「工学的設計」が目指すべき「基本値」の設定。
もしかすると、「都合のよいように誂えた想定」:「捏造」(事実であるかのように作り上げること)だったのかもしれません。
この「ご託宣」を告げた専門家は、今何処で何を?
それを《金科玉条》に認可した「担当者」は今何処で何を?
すべて「東電の責任」で済ませばよいのでしょうか?だから、国も負担するのだそうです。しかし、元はと言えば、税金なのです。


原発立地が、そこで暮す人びとの人権:「居住権」を侵害しているのは明らかです。
では、「一票の格差は民主主義にもとる」と説く弁護士諸氏は、この原発立地の「偏り」「格差」について、「民主主義にもとる」と主張するのでしょうか、しないのでしょうか?

論理的には当然主張しなければならないはずです。その延長上に、専門家の責任の糾弾も見えてくる・・・。
技術者と同じく、弁護士諸氏の「人権」観が問われるのでしょう。

   註 福島原発も、例の「新耐震基準」相応の補強はしてあったそうです。
      ところが、今回の地震では対応できていないことが分った、とのこと。
      つまり「新・新耐震基準」が必要、という見方が出てきているようです。
      どこまで続く「近代思考の泥沼」・・・。

現在、私の住まいの「最寄りの駅」を通る常磐線は、「計画節電」で、1時間に1本です。
私が茨城に移住した1970年代後半に戻ったような感じです。
車に頼るしかないけれども、ガソリンがなく、省燃料運転で、本当に必要なときしか乗らない。それはそれで、何とかなっています。

どうでしょう、都会も、1970年代あるいはもっと遡って1950~60年代の暮し方に戻ってみては。電車も通常の半分でいいではありませんか。乗れるのだから・・・。
福島の放射能被災者にだけ、不条理な暮しを押し付けるのは、まさに不条理なのです。

電気が足りないと経済が衰える、だから原発、という論理は、既に破綻しています(もともと破綻しています)。私はそう思います。
足りないものは足りないのです。「足りない」と言うのがそもそも理が通らない。
「足りない」のではない。「それだけしか ない」。
   註 思わず戦時中の「標語」、「足りぬ足りぬは工夫が足りぬ」(だったかな)を
      思い出しました。

   註 政府に乗り越えられた新聞
     今後の原発建設の「是非」について何も触れないジャーナリズムについての論評です。
      「リベラル21」の4日の記事に載っていました。[註記追加 4日 10.30]

「足りない」論理を延伸すると、国土が狭い、足りない、だから他人の暮す場所を頂いてしまえ、つまり侵略の論理に連なります。
原発被災者は、「足りない」論理で経済振興:原発建設を主張する人びとに、その日常を「侵略された」と言えるのかもしれません。
   註 震災のニュースを見ようと、たまたま覗いたTVで、
      《有名な》女性の「経済評論家」が、「原発必要」論なのでしょうか、
      「原発事故で、死者が出ましたか・・・」、という旨の発言をしているのを聞いて、
      耳を疑い、TVのスイッチを切りました。
      死人が出なければ、大した話ではない、ということらしい!

   註 今日の毎日新聞朝刊「万能川柳」から抜粋転載 [註追加 3日 8.50]
      皆、ちゃんと見てる!

       私等は電力会社選べぬし
       問題ない けれど避けろと放射能
       下請けが原発管理?そりゃないわ
       想定外 ただ考えていないだけ
       安全といってた人は いまどこに

此処より下に家を建てるな・・・

2011-03-31 11:10:39 | 居住環境
読まれた方もあると思いますが、読売新聞ONLINEのニュースに
此処より下に家を建てるな
という記事がありました。
二度の津波に遭った三陸の町に立っている石碑に刻まれている文言。
集落は、海抜60mの高台にあり、海の仕事には坂をくだってゆくのだそうです。
集落は、津波に被災しませんでした。

先人の「経験」が、その地に暮すにあたっての「必要条件」を教えてくれていたのです。
この集落の先人は、「ここに暮すには防潮堤を築けばいい」という「アイディア」は考えなかったのです。
しかし、現代人の多くは、この先人のような「応対」はしないでしょう。「科学・技術には不可能はない」と信じてやまないからです(現に、防潮堤は今後30m以上必要だ、などの発言が聞こえてきます)。

たとえば、現在では、先人たちなら決して暮そうとは考えないような低湿地に、人びとは平気で住み着きます。
関東平野の中心、埼玉県でも、ある新興住宅地で液状化現象が起き、多数の家屋が傾いたというニュースをTVで見ました。
海岸でもない内陸で何故?
理由はきわめて簡単でした。
その住宅地は、当該地区の自治体が、「区画整理」事業により、沼沢地を埋め立てた場所だったのです。

次の地図は、大きな被害を蒙った仙台市若林区のあたりの明治20~23年頃の地形図です(「日本歴史地名大系 宮城県」より)。
海岸から少し入った市街地が(黒い部分)、当時の仙台市街。
弓なりの海岸、ここに「計画住宅地」がつくられたのだと思われます。すぐれた「景勝」の海浜だったようです。そして、多分それが、この住宅地のウリだったのでしょう。
一帯は津波で跡形もなくなりました。砂浜ですから、多分液状化も起きていたと思われます。



このような事業の立案・計画には、かならず「建築を専門とする技術者」が係わっているはずです。
そしてまた、そこに建てる建物の計画・設計にも「建築を専門とする技術者」が係わり、おそらくどの住戸も、建築法令どおりにベタ基礎で計画されているでしょう。

多くの「建築を専門とする技術者」は、科学・技術には「不可能」はない、と考える人たちと考えてよいでしょう。それが理系、工系の所以である、とばかりに・・・・。
しかし、「建築を専門とする技術者」であるならば、本当は、そのような場所の開発や、まして埋め立て造成はやめるべきであり、なおかつ、そのような場所での建設もやめるべきだ、と説かなければならないはずなのです。
大分前に、研究学園都市開発地域のなかで、よく霧が発生する一画があるが、それは湿地を埋め立てた場所である、ということに触れた記憶があります。
表面を「健全」そうに装っても、地下水の動静まで改変してしまうことなど不可能であり、地面深くまで「健全」にすることなど、できないからなのです。まして、そんな場所でベタ基礎などにしようものなら、床下が湿気てくることは明らか。

そういうことを指摘してやめることを説くのが、本当の「建築を専門とする技術者」でなければならないのです。それが「理」というものなのです。
残念ながら、むしろ、今の「建築を専門とする技術者」の多くは、逆に、こういう「計画」を率先して推進する側に立っています。

たとえば、山本周五郎の世界の舞台であった浦安で起きた壮大な液状化。おそらく、先人たちは、そこを市街化するなどということは考えもしなかったはずなのです。そして多分、お台場も・・・。

今回の震災では、津波の巨大さに圧倒され、「耐震」の話が出ていませんが、津波がなかったならば、震災がクローズアップされ、またまた「耐震基準」の見直し(斯界では「再評価」と称します)が為されたのではないか、と思われます。
そして、M9に対応する「基準」の制定の結果、おそらく、コンクリートの塊のような建屋が推奨されることになるでしょう。木造建築は、多分、金物だらけ・・・。「耐」震、ここに極まるわけです。

先人たちだったならば、そんな無思慮なことをしないでしょう。
わざわざ「危ない場所」に建てることはせず、もちろん、わざわざ力ずくで巨大な力に立ち向うこともしなかったはずです。そして、暮す場所の備えるべき「必要条件、十分条件」に対して、もっと真摯に考えていたはずです。
何度も触れてきたように、それがかつての地震多発国・日本の工人たちの「対」震策、建物づくりのコツだったのではないでしょうか。だからこそ、数百年も健在の建物が現存しているのです。

「建築を専門とする技術者」たちは、それでもなお、これまでの「続き」を、まだ続けるのでしょうか。停電になれば歩いて階段を登らなければならない高層建物を、低湿地につくり続けるのでしょうか。私には信じられません。
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無事です

2011-03-12 11:22:08 | 居住環境
[12日 16.50 追伸追加]

経験したことのない揺れでした。
畳一畳大、深さ50cmの遊水池の水が大きく波打ち、外に跳び出しました。

地震発生時から、今朝の午前9時ごろまで、停電が続き、電話も不通。
久しぶりに、戦時中の灯火管制の夜を思い出しました。
それにしても寒かった!

周辺にも被害は見あたりません。

追伸 地震の激しい揺れに怯えて、三毛猫が南側の藪に避難、一晩帰ってきませんでしたが、
    先ほど、無事に戻ってきました。一安心。
    大きな揺れが少なくなってきたのが、分ったのでしょう。
    それでも、不安げな様子で家中を検査していました。[12日 16.50 追加]


今回の地震、宮城沖から茨城沖まで400~500キロの線上に震源が連続しているようです。
たしか、安政の大地震のときも、信越、三陸、東海、南海、山陰、山陽・・と大地震が連続して起きたということを思い出しました。
岩盤が大きく割れると周辺に広がるのかも・・・。

そのときの年表(「理科年表」から)。
・・・・・

1853年(嘉永 5年) 1月26日 信濃北部 M6.5
1853年(安政 1年) 3月11日 小田原付近 M6.7
1854年(安政 1年) 7月 9日 伊賀・伊勢・大和 M7.25
1854年(安政 1年) 8月28日 陸奥:三戸、八戸 M6.5
1854年(安政 1年)12月23日 東海・東山・南海 M8.4
1854年(安政 1年)12月24日 畿内・東海・東山道・北陸・南海・山陰・山陽 M8.4

1854年(安政 1年)12月26日 伊予西部・豊後 M7.3~7.5

・・・・・
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続・一休み:もう一つの記事

2010-10-15 00:00:00 | 居住環境


10月13日の毎日新聞(東京版)には、もう一つ気になる記事がありました。
「発信箱」の同じ頁の「記者の目」。
これを、私のコメントなしで、そのまま載せます。少し字が小さいかもしれません。ご容赦。


一休み:別の地図の話

2010-10-14 10:58:49 | 居住環境


叢になっている庭の一画のムラサキシキブ(コムラサキ)。
別の場所に植え替えたはずだったのに、根が残っていたらしく、植え替えた方よりも健やか!さすが山野草。

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[図版更改 15日8.19]
昨日の毎日新聞(東京版)朝刊のコラム「発信箱」に、興味ある一文が載っていました(下記)。



人は常に自分中心の「地図」を描いている。
ところが時に、その地図が、唯一にして絶対のものと勘違いする場面がある。
そしてそれは時に、中華思想に連なる。簡単に言えば、ひとりよがり。

   註 中華:自国を、世界の中心に在る、最もすぐれた国と見なしたこと(新明解国語辞典)。

人それぞれがそれぞれの地図を描き、なおかつ互いにその地図が分る。そうあってはじめて共通の地図が生まれる。私はそう思っています。

TVのニュースの時間の始まりには、どのTV局も、かならずと言ってよいほど、バックに都会の映像が流れます。
なぜ、農山村の映像がないのか、私はいつも不思議に思っています。農山村の映像が出てくるのは、「ふるさと・云々」というような番組のときだけ。「ふるさと」って何?

おそらく、製作者の頭の中には、そういう「地図」が「固定・定着」しているのでしょう。
そういうニュースの中で、「限界集落」がどうのこうのと言ってみたところで、リアリティに欠けるではありませんか。

そんなことを思わず思ってしまった記者の発言でした。
そしてそれは、日本中にいかんともしがたく蔓延っている、中央と地方、都会と田舎、という固定的な二項対立的発想をも思い起こさせてもくれました。
これについては、以前、下記で、ある論説を紹介させていただいていますhttp://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/09699199453fa9aa7c71caa15a2ba471

とり急ぎ・・・・「沈黙の春」再来?

2010-08-14 11:45:25 | 居住環境


ちょうど昨年の今ごろ撮ったハスの花です(今年は撮りに行ってませんので・・・)。

[文言変更 14.40]
最近、ミツバチがいなくなった、スズメを見かけなくなった・・・などのニュースをよく聞きます。
幸い、当地ではそういうことは未だ起きていないようですが、たまたま見た下記のブログに、その理由を推察している投稿論文がありました。
「ネオニコ系」と呼ばれる農薬がその因ではないか、と各地の「観察」「報告」を通して触れています。家庭用の殺虫剤などにも含まれているようです。

著者は、新たな「沈黙の春」の再来を危惧しています。
私なりに理解すると、農薬の「殺虫の性能」だけに「着目」した「科学的開発」が進んだ結果と言えそうです。[文言変更 14.40]

http://lib21.blog96.fc2.com/

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ところで、次回の記事は、講習会資料の編集に手間取っていて、若干遅れます。

少しは涼しくなりましたが、残暑は続きそうです。ご自愛ください。

一息ついて・・・・

2010-07-12 13:05:13 | 居住環境
テキスト編集、発送が一段落してほっと一息、蒸し暑い中、休憩中。
これから次回分の工事に入ります。

いつもは樹林のなかの冠のように花を付ける合歓木。今年はあまりよく咲いてません。日射が少ないせいだろうか?