「水田の風景・・・・ものの見え方」 1982年6月 

2019-05-31 10:30:02 | 1982年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №3」1982年6月 A4版12頁 

     

       水田の風景・・・・ものの見えかた・・・・    1982年度「筑波通信 №3」

〇水田風景、それは驚異的である

 筑波の近在では、ちょうど四月末から五月初めへかけての連休の前後が田植えの季節である。(茨城に隣りあう利根川の向う側の埼玉県では五月九日でもやっと田をおこしているだけだった。) いま、水の張られた田んぼが、少し大げさに言えば、はてしなく延々と続いている。その昔、私の小さかったころ、田植えどきには、これも大げさに言えば、田んぼという田んぼは人で埋まっていた。しかしいまは、田植え機という機械がそのおかしげな手を振りまわして、あっという間に植えてしまう。それはそれなりに見ていて面白い。(人の手によっていたとき、苗は実にみごとな直線をなして植えられていたものだが、機械によるようになってからというものは、ぎくしゃくした平行線が描かれるようになってきた。ぎくしゃくというのは、すなわち機械の走った軌跡なのである。こんなに不ぞろいの線でも構わないのなら、人手にたよっていたときの、糸を張ってまで一直線に植えようとした、あの努力はいったい何であったのかと思わずにいられない。)こういう田植えのやりかたのせいで、見まわしても、人はあちらに二人、こちらに三人といった具合にほんとにまばらにしか見あたらない。昔の活気あふれる田植えどきを見知っているものの目には、まるでうそのような、なにか気のぬけた、妙な言いかたかもしれないけれども「これで大丈夫なのかね」という不安感さえわいてくる、そんな光景である。中国の畑作地帯で見かけた、これも大げさに言えば、地面が見えなくなるほど人が群がりながら土地を耕していた姿、これで農業の機械化をしたときこの人たちはどこにゆきつくのかと考えた、そんな光景が対比的に私の頭をよぎっては消えた。とにかくそういうわけで、この人のいない水平面の連続は、なお一層広々と見える。

 いつもこの水の張られたときの水田を見て思うことなのだが(というのも、他の季節、たとえば刈入れどきにはそのように見えないからなのだが)およそ人間のやってきたことのなかでなにが一番驚異的といってこの水田開発ぐらいすごいことはないのではないかと思う。

 この水平面これは天然自然の海原や湖水ではない、全くの人工の水平面なのだ。それもただの水平面ではない。ただの水平面なら、大きな穴でも掘って水をためればすぐできる。しかし、水田のそれはそんななま易しいものではない。水平面の連続と先に書いたけれども、それは決して一つの水平面なのではなく、言わば無数に近い異なった水平面で構成されているのである。それぞれの水平面が一定の水深を保ちつつ、水上から水下へと微妙な段差で隣りあう。水は、幅広い水面を成しながら、わずかな落差のひな段形の滝を落ちつつ時間をかけて流れてゆく。その落差なのだが千分のー、つまり千メートル行って1メートル落ちるという程度の場合などざらにある。建物などの排水の場合のそれは、どんなにゆるくても百五十分の一程度なのだから、水田のそれがいかにゆるいものなのか分るだろう。しかも、水田をゆっくりと流れ下ってきた水の末端は、いまでこそ排水ポンプがあるからどうにでもなるけれども、そういう便利なもののない時代では、自然の流下で河川に戻らなければならないのだ。

 つまり、末端は河川より少しでも(しかも河川の増水で逆流しない程度に)高くなければならない。大規模住宅団地の土地造成で排水計画をたてたところどうやっても末端で排水ポンプで吸み上げることになってしまうのに、ふと隣りあう水田はと見てみれば、そこでは平然と自然流下にまかせてあり、あらためてその水田造成技術の卓越さに舌をまいたという話をきいたことがあるが、ことほどさようにこれはそんなに簡単なことではないのである。自然の流下にまかせたまま延々と続く水田風景は、だから、ただ単にのどかな水田風景として見て済ましてしまうにはまことにおそれ多い、人間が成した一大偉業なのである。驚異的なのである。

 もっとも、いま私が目にしているのは、もともと自然流下にたよって開かれたものを、農業の近代化によりした、機械による給排水に切りかえた水田である。田んぼの水の源になる河川は深く掘り下げられ排水を容易にし(それによりずぶずぶの深田も適度になる)その代り給水はポンプで吸み上げることになる。そして、河川は掘り下げられたのだから全長の高低差はつじつまが合わなくなり、ところどころで排水ポンプの厄介にならざるを得なくなる。こういった近代化にたよれば、いままでは到底考え及びもしなかったようなところにも水田をつくることが可能になり、だから丘のてっぺんに田んぼがあっても別にそう珍らしくもないし、山林の一部が伐採されて田んぼが突如できていたりする。昔からの田んぼを知っているものの目には、こういう風景は異和感を伴って映ってくる。しかしその異和感は、単に私自身のなかにできあがってしまっていた田んぼというものについてのイメージと比べてのそれだけではなく、よくまあそこまで割りきって機械にたよれるものだ、機械が動かなくなったら(たとえば台風などで停電でもしたら)どうするのだろう、そういうような思いを抱かせるような、機械に対する絶大な信頼に対しての異和感でもある。

 

〇水田風景、その成りたちの背景

 このような機械力にたよる近代農法が水田の拡大・整備をそれなりにすすめたことは確かではあるけれども、しかし、その基になっていた、普通私たちが「田んぼ」ということばでイメージする広々とした水田地帯の風景自体もまた、その成立の時期はそんなに旧いものなのではないのである。たとえば、関東平野の中央部、利根川の南(埼玉県の北部にあたるが)その一帯に見ごとに拡がる一面の水田風景:夏の午後ともなればむんむんとした草いきれに充ちじとっと汗ばんでくる、そして収穫期ともなればその夏の姿がまるでうそのように軽快な一面の黄金色の大地になる、その背後の遠景に、それぞれの季節それぞれの風情をかもしだしながら村々の森がここそこにぽっかりと浮いている、こういった典型的とも言える農村風景:これは高々三百年、徳川の世になってから徐々に開かれその基ができあがってきたのである。水を引き、その自然流下にまかせた幡広くそして延々と続く水田の開発という一大農業土木工事が営々として行なわれてきたのである。しかも、かくも見ごとになったのは:全面的に埋めつくされるようになったのは、むしろ最近ということばの範囲に入る時期の話だと見てよく、明治期にはまだあちこちに手のつけられない湿地帯:池沼が残っていたようである。初期の機械化はそういった湿地の解消すなわち排水に向けられたのである。各地の排水機場のそばに行くと、いかにその地の農事が水とのたたかいであったかなどということを綿々と書き記した石碑がよく建てられているけれども、それはある施設が完成したことを単に記し残しておくという以上の思いがこめられているはずなのだ。(これは、明治以来数度にわたり編集しなおされてきた国土地理院の地図を、その年代順に見比べてみると極めてよく知ることができる。

(こういった見かたでは、日本図誌体系など種々の地理学の成果があるが、残念ながら、地理学の範囲外では問題にされないようだ。地理は地理学のためにのみあるのだろうか。)

 

 つまり、いま私たちが目にする水田風景が成りたつ少し前に、あちこちに池沼を残したままの状態、何度もしつこくその水田化をはかりつつも一進一退を余儀なくさせられていた時期が、しばらくの間続いたのである。それを、単に技術がなかったからだと見るのは簡単な話である。技術というのはそうやたらに天から降ってくるものではない。本来的に技術というものは、間題の解決のためにあみだされる。問題意識の高まりが新らしい技術を生みだす下地となる。だから、むしろこの時期は、それなりの問題はかかえていても、解決のための技術が思いつかない時期だったと見るのが素直なのだ。彼らには、排水をすればよいのだということは分っていても、水は高きから低きへ流れるといういかんともしがたい原理を大々的にくつがえすやりかたが見つけられなかっただけなのだ。だからこそ、排水ポンプという機械の導入とともに、問題意識の高まりをおさえていたせきが切れ、あっという間に低地水田化が進んだのである。

 いま私たちは、とかく、技術というものがあって、それをいかに利用するかという発想をとりがちなのだが、そのやりかたで全てを律してしまうのは、当然のことながらまちがいである。技術の意味をほんとに知ろうとするならば、そのときどきの問題とその意識がどう高まり、それがどう解決されてきたか、その過程を見なければならないだろう。技術の利用というのも、本来、それを利用する側にある解決すべき問題が確として存在していて初めて可能なのだ。(そうであるにも拘らず、現在では、多くの場合それが逆転している。)

 もしも、いまの私たちが更地(手のつけられていない土地)の関東平野を目の前にして、そこに水田を開こうとしたらどうするだろうか。おそらく、私たちはもう実に色々な水田つくりについての知識を持っているから、私たちはそれらの知識を総動員して、低湿地の解消:乾地化から手をつける、あるいは手はつけなくてもそのことを念頭において事をすすめるだろう。(というのは、更地としての関東平野には、もともと自然現象としての湿地・低地が各所に散在しているのである。) つまり、平野全体を総体的に見まわした上で、低・高のつじつまを考慮に入れ、低地から高地へと攻め上ってゆく発想法を採るだろう。なぜなら、最低部は東京湾の海面に他ならず、そこを基準面にして上へ上へと考えてゆくのが合理的というものだ。

 

 しかし、現実にこの平野で行なわれてきたことは、全くこれとは逆であった。高地から低地へと攻めてきたのである。しかも、高地から低地、そして更に次の低地へと、順次そのつどその局面での高低のつじつまだけを考えて攻めてきたから、低地がより低地になればなるほどつじつま合わせが苦しくなるのは明らかで、最終的には既存の自然現象として在った湿地帯に行きつき、そこで足踏みしてしまうか、あるいは、その自然の湿地帯を、更に輪をかけた形で拡げ、一層始末におえない湿地帯にしてしまったのである。江戸期末、明冶の初め、多分平野はこういう状態であったと思って、まずまちがいない。当時までの考えつくされた技術(それは、高地から低地へと攻め下るに際し順次獲得されてきたのだが)では、そこまでだったのである。しかし、そこで手をこまねいていたわけではないことは先にも書いたとおりであり、一進一退の状況つまり、それまでの比較的順調な水田面積の増加がしばらく足踏み状態となる状況が、初期的な機械の導入がはかられるまでのしばらくの間続くのである。

 

〇なにが合理的か

 先に述べたいまの私たちならするであろうやりかたと比べたら、この現実にやられてきたことは、極めて非合理的である。しかし、それをして合理的でないと見なすのは容易なことだ。だが、そう思うことは、むしろ根本的に誤まりだろう。それは結果論にすぎない。結果を見てどうこう言うことぐらい楽なことはない。

 現実にこの平野の開拓に係わってきた人々は合理的ではなかったのだろうか。「合理的」なることを、いまの私たちならするであろうことで全てであると見るならば、確かに彼らはそうではない。しかし、私たちにとって「合理」であると見なされているやりくちというものは、あくまでもいまの私たちにとってしか意味がないということは忘れるべきではないだろう。彼らもまた、彼らにとって合理的なやりくちをしてきたという意味でも合理的であったのだし、ことによると、ことの本質的な意味では、いまの私たちよりもずっと合理的であったのかかもしれないのだ。彼らは、いま私たちが機械にたよって水の流れのあの単純な原理:高きから低きに流れる:にさからってまでして(しかも自然の良田を一方で休耕田と称して荒地に変えながら)開田をしている様を見たら、なんという無茶な、非合理な、と言うにちがいない。


・・・・研究者は近代合理主義と経済合理主義を強く押し出して、解釈しがちになる。しかし河川開発は、時に思わぬ猛威をふるう自然現象に対する人間の挑戦である。とくに江戸時代初期の自然河川に相対したとき、いわゆる近代科学を足場とする近代合理主義で理解できない部分が非常に多い。・・・・(小出博「利根川と淀川」より)

 

 では、関東平野の開田で、何故低地から高地へと上るのではなく、実際には高地から低地へと下りてくるやりかたがとられたのか。おそらくその理由は簡単な話なのだ。人は、そのとき抱いている所期の目的を達成するために、そのときの状況において最もよき結果を生むだろうと予測され、しかもそのときの状況で最も彼らにとって容易なやりかたをとろうとするものだからである。

 この原理は、いまの私たちだって変りあるまい。稲を栽培することに拠って生きることを見つけた人たちがいたとする(実際、縄文時代の後期にそういう人たちがいたわけだ)。彼らは初めに稲作に適する土地とはかくかくしかじかなりという研究をしつくし、それによりしかるべく土地を造成し、しかる後いよいよ稲の栽培にうつる、などということをやるだろうか。いまの私たちなら、おそらくそうするかもしれないが、彼らはそんな気長なことはしなかった。もっと手っとり早く、既存の自然現象としての地形のなかで適当な所を探しだした。深すぎもせず浅すぎもせず、洪水ですぐ洗われることもない、ほんのたまり水程度の湿地帯、つまり先号のあとがきで記した「ぬた」「のた」「やち」「うだ」などと呼ばれるようなちょっとしたわき水や小川のそば、そういうほんのちょっとした山あいのねこの額ほどの谷状の所をそのまま(手も加えずに)利用することから始まったのである。そういう所を探しまわっては、住める所に人は定住しだしたのだ。何故なら、彼らにとっての所期の目的は、そういう土地で十分に達せられるからである。そしてそこから、実にそういう場所から、人々の開田という壮大なドラマは始まったのである。人々が定着し、人口も増え、従って拠るべき水田も増やさなければならなくなる。所期の目的のなかみが変ってくる。人々はそこで初めて、彼らがかつて自然地形のなかに探し求めたと同じような状況の土地を「造りだす」ことを覚え(そのための技術を覚え)かつての自然田に続く下流へと、徐々に平野へ向けて下りだすのである。自然利水の段階から、次々に利水の技術が、人々の目的の変化に応じて生みだされる段階へと変っていったわけである。(これは何も関東平野についてだけ言えるのではなく、およそどこの平野・盆地においても同様の経過を見ることができる。)

 つまり、人々が最初に定着したのは、平野をとりかこむ山々のへりの部分からだったということだ。それが、人々にとって極めて合理的な営為だったのである。だから、古代から中世にかけての関東平野では、いまでこそ全体万遍なく手がつけられ人々は最低地部に集中しているけれども、いまの県名で言うと埼玉西部、群馬、栃木にかけてが中心になり栄えたのである。これらいま書いてきたようなことは、(遺跡)地図上に、初期の稲作依存に拠った人々の住居・村跡、水田の条里制遺構、古墳、国府の所在地、東山道の道すじ(道とは先ずもって人が住む所をつなぐ。まして支配を企てたものがつくる道:官道は、そのとき最も栄えている所を通ることに意味がある)、有力荘園の所在、古代豪族の拠点とした地、あるいは中・近世の村の位置、等々の分布性向を、時代をおって確かめることによって、自ずと明らかになることだろう。

 (関東北辺の古代文化などは、普通、学校の歴史ではあまり教わらないだろう。飛鳥・大和がクローズアップされる。ところでこの飛鳥の地もまた、この関東の辺地の古代の中心と同じような、言わば山あいのねこの額のような所なのである。大和平野のまんなかではない。)

 

 

 遺構・遺跡、それは人間がなにかを考え、なにかをやった、その名残りだからである。けれども私は、そういったことについては門外漢である。そこで、こうした平野開発の常道について述べた専門家の解説を掲げておく。この人の著書は大変勉強になった。

 

・・・・(鎌倉時代、埼玉平野の)古利根川筋、中川筋の湖沼・沼沢地帯に大規模な開発工事を行なうことは、たとえ鎌倉幕府の強い権力を背景とし、関東武士団が・・・・多くの農民層の労役を駆使したとしても、技術的に不可能であったと思われる。技術的にという意味は、当時この低地を乱流する利根川、渡良瀬川、荒川を治めることがむずかしいため、開発ができなかったということではない。この考えはいかにももっともらしく、良識的である。しかしわが国水田の開発経過をみると、治水が利水に先行して行なわれた場合はほとんどなく、治水を前提としなければ水田開発ができない場所はごく限られ、河畔の局部にわずかに分布するにすぎない。農民による水田開発がある程度すすんだ段階で、はじめて治水が取り上げられ、生産の場の安定と整備の役割を巣すというのが普通であって、これが沖積地低地開発の常道であった。この意味で、利水は常に治水に先行する。従ってこの場合、問題は利水(水田化)のむずかしさにあったといわなくてはならない。湖沼・沼沢の開発は、技術的に非常にむずかしい多くの間題をもっている。まず湖沼・沼沢の排水をどうするか、排水に必然的に伴う用水の確保は可能か、ということは開発に当って直面する重要な課題である。その解決は、当時まだ経験的に知られていなかっただろうし、ことに水田農業ですすんだ技術をもつ西南日本で(も、そういう場面はほとんどないから)、ほとんど経験のないことである。従って広大な湖沼・沼沢に(対し、その水田化へ向けて)深い関心をもったとしてもただちに大開発をすすめることはできなかったにちがいない。湖沼・沼沢を取り囲む自然堤防に居を構え、地先を部分的に排水して低湿田とし、可能な場合にかき上げの囲堤を設け、不安定な水田を開くことがせいいっぱいで、まず農民の発想でこれが行なわれたのではないだろうか。・・  太字著者 (小出博「利根川と淀川」より)

 

〇風景の見えかた

 都会の雑踏をのがれ、あるいは日々の生活をはなれ、言わゆる田舎に出向いたとき(いま都会型の生活をしている私たちを想定しているわけだが)私たちの目の前に拡がる山々や川や湖沼や森や林、そして田園風景。考えてみると、最近私たちは、そういった風景を単に映像としての風景:景観としてしか見ないようになっているのではないか。いまここで書いてきたような見かた、つまりそののどかな風景、すばらしい風景の背景とその奥行の深さについて思いをめぐらすような見かたを、私たちの大部分はしなくなってしまったのだ。

 人と大地の係わりだとか風土と人間の関係などについては確かにあちこちで語られてはいるけれどもその多くは観念的でリアリティを欠いている。水田と言った瞬間から既に稲を植えるために仕立てた土地のことというが如き辞書的説明が頭に描かれ、それは実は人間がつくったのだという事実についての思いはついぞ頭にひらめかない。そこで見えていることは、まさに映像としての風景にすぎず、それと人間一般とをただつきあわせたところで、人と大地、風土と人間の係わりが分る道理もないのにも拘らず、相変らずそういう見かたが横行している。

 稲を植えるために「仕立てた」のは、その稲で、稲に拠ってその土地で生きなければならなかった(一般的な意味のではなく特定の)人々であったという理解が見失なわれてしまったのである。私にとってもこのことが身にしみて分ってきたのは、というより分るいとぐちが見えてきたのは筑波に移り住んで実際にそういう風景の一画に身をおくようになってからのことだった。おそすぎたなあと何度思ったかしれない。いままで何度も私は、いまの小・中・高の学校教育で教えられている地理や歴史の教えかたに対して文句を連ねてきたけれども、その文句のなかには、そこにおいて単に「知識」を並べたてるのではなくそれらの「見かた」について触れられていさえすれば、もつと早く気づいたのに、という私の愚痴が半分以上含まれている。

 

 もしも私たち全般に、一つの風景を単に映像としての風景としてのみ見て終らすのではなく(まして、それを一つの思いいれの見かただけで見て済ますのではなく)その背景にまで思いを至らしめて見ようとする習慣があたりまえになっていたならば、たとえば畑や山林一つをとってみても、単にそれを〇〇が栽培されている畑、〇〇の植わっている林、として扱い済ますのではなく、これはあの村の、そしてこれはこの村の人たちが営んでいる畑でありまた山林である、あるいは、それがいまのような形になるまでにはかくかくしかじかの過程があったにちがいない、といったまさに人と風土との係わりが目に見えてくるはずなのだ。そして、そうであれば、仮にそこを貫いて新しい道を一本通さなければならない場面にぶつかったときでも、いい加減なことはできないという正当な「ためらい」が心にわき上ってくるはずなのである。

  町村合併の促進がまた言われだしている。しかし、村の拡がり、村塊、あるいは村という単位:まとまりは、決していま言う行政区画:行政単位としてあったのではなく、むしろ、もともとは村が先にあった。村をなして入々はこの太地の上に住んでいた。その単位を行政の巣位として利用したのである。いったいだれが行政のために(支配されて)生きることを、はじめから望むだろう。村と村の間の合議というのはしばしばあったろうが、自らすすんで合併しようとすることは、おそらくなかったろう。合併の発想は、支配し易さ、つまり行政の発想なのである。行政にとって掌握し易くなる合併は、逆に人々にとっては村を掌握し難くする。

 

 この連休、憲法記念日、それほどよい天気ではなかったが、久しぶりに自転車で散歩に出た。かねてから土浦市の自然保護団体がその保存を叫んでいる宍塚(ししづか)大池を見に行ってみようと思いたったのである。いま私が住んでいるあたり一帯は、全般的に霞ヶ浦に続く低地なのであるけれども、そのなかにもあちこちに小高い丘陵が谷地(やち)を刻みこみながら点在している。そういう丘陵地のなかに、谷地に水のたまった池が数多くある。宍塚大池というのはその一つなのだ。

 その池は私の住んでいる所から東に四・五km行ったあたり、わが桜村と土浦市との境にある。舗装された道で近道をするのも面白くないからわざわざ集落の点在する丘陵地をぬって自転車を走らせた。微妙にひだが入りくんでいるから、道は激しく上ったり下ったりする。それとともに林があり、田んぼがあり、池がある、また林があり畑が拡がる、といった風景が次々に展開する。そんな山林のなか、草でおおわれて辛うじて道らしいとしか思えない言わばあぜ道風な道が交又していて、はてどちらに行こうか、まあいい、いずれにしろ大したまちがいはないだろう、などと思って自転車を草を分けてこぎだそうとする。と、その草のかげに、なんと道しるべ、石の道しるべが立っている。宍塚へ〇丁、古来〇丁、古瀬へ〇丁、上の室へ〇丁。因みに古来は「ふるく」、吉瀬は「きせ」、上の室は「うえのむろ」と読む(古来吉瀬は土浦から学園都市へ通ずるバスの停留所名にあるのだが、初めてそのバスに乗って「ふるく」「きせ」と告げられても、どういう字か分らなかった覚えがある)。これはどれも集落の名前である。明治の町村合併以前は村の名前であった。

 いま私が目の前にしている道が草ぼうぼうで右も左も分らないからこんな道しるべが建てられたわけではない。そうではなく、いま私の目の前にある道は、ほんのついさっきまで、これらの集落をつないでいた主要な道だったのだ。ここを村の人たちは歩いたのだ。その人たちのための道案内。私にはあらためて、この丘陵地のこの地方でもつ意味、集落の立地、道の意味‥‥こういったことが実感をもって見えてきた。自動車の都合で低地のまん中を走るようになってしまった現代の道の上を走るバスの中からこの丘陵をながめていて、いったいどれだけの人が、あの丘の上をつないでかつて主要道が走っていたなどと思うだろうか。大抵の場合、いまも昔も変りなく、道はここを走っていたと思うだろうし、またそう思ってあたりまえなのだ。

 道しるべに従ってかなり無理して(というのも道はもう道の態をなしてないから)走らせると、右手下にほんとに静まりかえった水面が見えてきた。かなり大きい。まちがいなく目ざす池はこれだ。まわりをかなり濃く繁った森にとり囲まれ、木々の枝が水面にかぶさっている。季節には渡り鳥が安心して群れているというのももっともだ。つり人が数人糸をたれている。岸辺のあちらこちらによしが群生して枯れた幹をつきだしている。私は東京の井の頭(いのかしら)公園、しかも子どものころのそれを思いだした。井の頭の池もこんな感じだった。その池から小さな川:神田(かんだ)川が台地の間の低地を蛇行しながらゆっくりと流れ、低地一面が(いまは川もコンクリートのかたまりとなってまっすぐになり見るかげもないが)水田であった。この池も同じ、谷地がより低地へと続き、その頭の部分にあるのがこの池だ。わき水でもあるのだろう。これはそのまま「公園」になる。

 しかし、そう思った次の瞬間、そう思った私自身のなかに、ある種の異和感とでも言うべき思いがわいてきた。「公園」?「公園」って何だ。私に「そのまま公園になる」と思わせたわせたのは、いったい何か。いったいこの近在にながく住んでいた人たちも「これは公園になる」と思うだろうか。彼らはそうは思うまい。「しょうもない」沼地、むしろそんな風に見るのではないか、見てきたのではないか。私が「これは公園になる」と思ったのは、こういう景観:映像としての風景は「公園」のものだという見かたが、既にてんからあたりまえのものとして私のなかに在ったからなのではないか。一つの映像は、一つの見えかたでしか見えない、そう勝手に私は思いこんでいたのだ。これはまちがいだ。

 

 一つの映像としての風景が、見る人の見かたにより別の見えかたになる、こんなあたりまえなことはないではないか。この池を「しょうもない」沼地と見る(だろう)近在のいまの農民の見かたも、それはいまの見かたなのであって、古代の農民なら逆に、この沼地をもってこいの田だと(まわりが田になる所だと)見たかもしれないのである。それを、一つの見かたで一律に処理することがどんなに危険なことか。私たち、都会に育った私たちは、これまでどんなにまちがった見えかたを押しつけてきたことか。

 この池を見ていて私の頭のなかに去来したこと、思い至ったこと、それは久しぶりに私にとって衝撃的なできごとであった。

 帰りはバス道路を行こうと思い、往路と逆に谷地沿いに走りだした。谷地沿いに、これはもういまの通常の水田では目にすることも少なくった昔ながらの不整形の田が、見るからにほそぼそと(そう見るのも通常の田を見慣れているからだが)耕されていた。傍に苗代があり、田植えはこれからである。ふと見ると、苗代の端に向いあわせに二本の太めの竹がつきさしてあり、その先から何か黒い物がぶら下っている。遠くから見ると鳥のような形にも見える。何だろうか。近くに寄ってみた。鳥であった。カラスの死骸である。合点がいった。これは鳥よけなのである。これも衝撃的であった。といって、なんと残酷なことを、などという意味ではない。大げさに言えば、ここには近代以前がある。まわりの水田の形といいこのカラスといい、これは近代以前の姿ではないか。ゴンベが種まきゃカラスがほじくる、いまでこそそれは歌のなかでおかしげにうたわれるだけだけれども、考えてみれば、近代以前、田畑はずっと森に近く在り、従ってカラスも沢山いて、こんな状景も単なる戯歌のなかの話ではなく、日常的なことだったのだろう。自分の身うちの死体があればカラスも寄ってこないのではないか、そう考えたのかどうかは知らないが、言わばまじないに近い鳥よけが、近代農法とともに在る。この鳥よけは、おそらく先代から営々として引きついできたやりかたなのにちがいない。あるいはそうではなく、期せずして先代と同じような状況におかれて、その状況に対する解法としていまあらためて思いだしたやりかたなのかもしれない。いずれにしろ、近代が近代以前と同居しているのである。近代は突如として近代という形をなして私たちの目の前に現われたのではない。近代はそれ以前を、そしてまたそれはそれ以前の、常にその前代の人間の営為をひきずっている、そしてそれはことによると同じいまに共存することだってあり得るのだ、そのことをこのカラスは、まさに身をもって見せてくれているではないか。それが私にとって衝撃的だったのである。

 

 実は、この大池めぐりの自転車散歩においての私にとって衝撃的な体験、それが今回の一文を書く動機になったのである。

 

知ること、分ること、「ためらう」こと

 ほんの数ページ前で私は、現代の道の上をバスで走っていて、どれだけの人が昔はあの丘の上を道が走っていたと思うだろうか、大抵は、いま走っているこの場所を昔もいまも変らずに道は通っていたと思うだろうし、それであたりまえだ、と書いた。そうなのだ。それであたりまえなのだ。いまの日常の生活は、いまの現実との対応であけくれるのだから、それであたりまえなのであり、それは都会から新にここへ移り住んできた人にとっても、代々ここに住んできた人にとっても、現象としては同じだろう。第一昔はどうだったかなどとも思いはしまい。しかし、同じだというのは、あくまでも現象としてなのだ。都会からきた人たちは単純に知らないからそう思うのであり、代々住んできた人たちは知ってはいたけれども現実の生活のなかで忘れてしまったからなのだ。地つきの人たちは、言わば意識下にそういったことをしまいこんでしまっているのである。だから、やろうと思えばカラスの死体をぶら下げるやりかたを、この近代農法の世のなかで、持ちだすことがいつでもできるのだ。思いだす、つまり、しまいこんでいたものをほこりをはらって持ちだすことができるのだ。それを非合理だとか残酷だとか言って笑うのは、意識下になにもしまっていない人、近代・現代が突如として近代・現代という形をなして目の前に現われたと思いこんでいる人だ。

 考えてみれば、それぞれの土地で人々は、そのときのいまを、そのときの昔を意識下にしまいながら、生き、そしてそのいまを、そのいまでの生活を基におき、変えてきたのである。いや、それが人々の「生活」というものなのだ。そのときのいまに生きているそのさなかにある人々にとって、そのときの昔はさしづめ空気のようなものでしかない。だからそれらは日常的には眼中にないし、またよほどのことでもない限り頭に浮かんでこないだろう。それが先に言ったあたりまえだということだ。

 

 そしてまたおそらく、近代以前にあっては、その土地に新らしく移り住んできた人たちが先ずやったことといえば、その土地の空気のようなものを知ろうとすることだったろう。なぜなら、そうすることがいまその土地で生きることだということを、そこへ移り住む前の生活で身をもって知っていたはずだからである。そして多分、そこでなにごとかを行なうにあたっては、必らず、これでいいのだろうかという「ためらい」を抱いただろう。それはしかし単なる新入りの遠慮のそれではなく、正当な「ためらい」だったはずである。

(「昔」のことを知るのは歴史家だけに必要なのだろうか。歴史は歴史家のために、郷土史は郷土史家のためにのみ存在するのだろうか。彼らはそれでしあわせかもしれないが、私たちにとっては、環境破壊以上に恐ろしいことなのだ。)

 いま私たちは、ともすると、そのわずかな期間現代に暮した経験だけを基に(多くの場合、しかも都会で経験することこそが絶対だと思い)、一つの映像としての風景に一つの見えかただけをあてがい、一律に処理して済ましてしまっている。そしてまた、ともすると、いま現在の私たちがとる見かた、そしてその見かたを醸成した私たち自らの(現代における)経験に対して、私たちの意識下ある昔空気のような昔、が大きな比重を占めていることに気づかず、なにごともみな自らがあみだしたかのように思ってしまっている。とりわけ、近代合理主義的な思考方法に徹すれば、むしろ卒先してこんな「空気のようなもの」は切り捨てようとするだろう。というより、そんなものの存在を認めてないのである。吸ってきた「空気」の存在を知らず認めず、現代が現代という形をして突然現れたと思っている、いかんともしがたくしあわせな人。考えてみると、いまや、多くの建築や地域の計画の専門家という人たちはこういうタイプの人たちだ。こういう人たちは、いまに生きているそのさなかにある人(彼らは「空気」を吸っている、しかしいまに夢中でそれに気づかないだけ)にはなり得ないし、まして、その人たちを知ることさえ、分ることさえ、できないのである。できるわけがないのである。彼らはそれでしあわせかもしれないが、私たちにとっては、環境破壊以上に恐ろしいことなのだ。

  いまに生きるそのさなかにいる人がその吸っている「空気」に気づかない、それは先にも書いたように、あたりまえだ。しかし、専門家は、専門家こそ、専門家である以上、このいまに夢中の人たちが気づかない「空気のようなもの」を積極的に、意識的に見ようとすべきなのではなかろうか。そして、そうであれば、専門家はなにごとかを成すにあたって、しばし、正当に「ためらう」はずなのだ。一つの風景を映像としてのみ扱い済ますはずもなく、一つの見えかただけで律しようと思うはずもないのである。

 

 あとがき

〇「風土:大地と人間の歴史」(平凡社選書30)の著者玉城哲氏の随筆「水紀行」のなかの一文を、ある人からわざわざコピーして送っていただいた。著者が奥入瀬(おいらせ)川のそばをバスで通ったとき、その川の管理上の名(建設省の呼ぶ名前)が相坂川であることを見つけ、いったい地元ではどちらの名で呼ぶのかと思って、乗りあわせていたおばあさんに尋ねたところ、そのおばあさん、知らない、よその人はオイラ・・とか言うらしいけど、と言う。いささか驚いて、川の名前知らないの?と重ねてきくと、知らない、そこに松の木があれば「松の木川」さ、というこたえがかえってきて二度びっくりした、そういう話である。要するに、一つの川には一つだけ名がある、そうでなければならない、いくつもあれば不都合だからーつに統一する、などと思っているのは、思いあがりもはなはだしいのではないか、そうやって当然と済ましているものの見かたは、実は根本的に誤まりなのではないか、というのである。私たちの足元をゆすぶる、非常にいい話である。おばあさん万歳!

〇しかし、あいかわらず、一つの風景を、―つの統一された、しかも期待される見えかたで見ることを教えたがる人がいる。内申書裁判判決。

〇ときどき私は、私が大学を出るまでに教えられてきたことを、ことごとくひっくり返してみようとしているのではないか、そんな気がしてならない。私は別に、そんなにへそまがりだとは思えない。ただ、教えられたことによると、つじつまのあわないことが多すぎる。それだけのことだ。教えられたこと、いったいそれは何だったのだろうか。

〇ひっくり返しついでにもう一つ。いま国鉄の経営改革が話題になっている。民営化への答申もでたようだ。しかしふと考える。いずれの議論も、国鉄は企業であるという前提を、当然のこととして設定している。くだいて言えば、商売だというのである。その前提をとっぱらったらどうなるか。つまり、企業でないとしたらどうなるか。自衛隊は企業である。そう悪う人がいるか?(もっとも自衛隊が企業だと空恐ろしいことになる。採算のために、戦争が商品になる。)国鉄職員の怠慢は、企業性の欠如のせいだ、というのと同様に、自衛隊員の士気はその企業性の有無による、などと言えるか?この前提を疑ったとき、初めて国鉄のほんとの意味が見えてくるのではないか。独立探算、どうしてそうでなければならないのか(と疑わないのか)。自衛隊への探算を無視した投資の何分のーかの投資で、国鉄は国鉄になる。その方がよほど国を守るからである。それに文句をつける国民が、どこかにいるか。

〇あと十日もすると、田んぼは一面の縁となって水面は見えなくなり、その代り、田んぼをわたるそよ風が目に見えるようになる。今夜、ほととぎすが鳴いた。

〇それぞれなりのご活躍を!そして、その共有されんことを!

    1982・5・19                                                         下山 眞司

 


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「第Ⅲ章-3 中世の典型ー3:方丈建築」 日本の木造建築工法の展開

2019-05-25 12:02:39 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章ー3-1」A4版6頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

Ⅲ-3 中世の典型-3:方丈建築・・・柱間はすべて開口装置

  禅宗様の寺院には、他の寺院とは異なり、住職・住持の居所的建物:塔頭(たっちゅう)に、方丈(ほうじょう)建築と呼ばれる独特の形式の建物が設けられるようになります。これは古代の寝殿造の姿をのこし、後に客殿建築書院造(しょいんづくり)へと連なり、さらには近世の武士階級の住居に大きな影響を与えるつくりの建物です。 

 註 塔頭:禅宗で大寺の高僧の没後、その弟子が師徳を慕って塔の頭(ほとり)に構えた房舎。 転じて、一山内にある小寺院。大寺に所属する別坊。  方丈:(一丈四方。畳四畳半の広さの部屋。)寺院の長老・住持の居所。(広辞苑による) 

 方丈建築には、中世初頭までの、特に上層階級の建物づくりで見られた技術的な展開が、すべて注ぎ込まれていると言っても過言ではありません。

 さらに特筆すべき点は、鴨居敷居樋端ひばた)を設けて建具を滑らす画期的な技術の発案により、間仕切を、壁ではなく建具、特に引戸に置き換えていることです。その事例を古い順に見てみます。 

 

1.東福寺(とうふくじ) 龍吟庵(りょうぎんあん) 方丈 1428年頃建立  所在:京都市 東山区 本町15丁目

 現存最古の方丈建築。杮葺き(こけらぶき)。 応仁の乱(1467年~1477年)以前は、基準柱間は1間:7尺前後が普通で、その後は6尺5寸程度になると言われる。

 この建物は基準柱間が1間:6尺8寸で計画された、応仁の乱以前の工法の貴重な遺構である。

  

東福寺 地域 航空写真      google earth より   円で囲んだ箇所が龍吟庵 その西南が東福寺の境内          

 

方丈を南西から見る(竣工写真) 土塀の右手が玄関 玄関の屋根(唐破風)は、方丈の屋根とは独立し、軒下に入り込む。 重要文化財 竜吟庵方丈修理工事報告書より 

 

                  

玄関       日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより     修理前の南面全景   修理工事報告書より      

 玄関独立の屋根が、軒下に入り込む。(こけら)葺き。寝殿造中門廊(ちゅうもんろう)~主屋の接続法の継承と考えられる。なお、近世の客殿建築になると、玄関の位置が変り、屋根も主屋と一体に取込まれるようになる

  方丈の南面 広縁 修理工事報告書 

 基準柱間が6尺8寸のため大らかな感じを受ける。柱径広縁側柱(がわばしら)以外、仕上りで4寸8分角広縁側柱は、2間+4間+2間の構成。(平面図参照)

 室(しっちゅう)の中央2間が戸口で、双折(ふたつおり)両開き桟唐戸(さんからど)。 室中の残りの両端1間、上間(じょうかん)下間(げかん)の室中寄りの1間は、外側に1間幅の蔀戸(しとみど)内側に明り障子2枚引違い(平面図参照)

 

 原色 日本の美術10より

 方丈西側:破風の壁は、木連格子(きづれごうし)(桁行断面図参照)。

 継手肘木柱芯位置。上間3間のうち中央部1間は、外側に両開き板戸内側に明り障子4枚引分けその他は、北面開口も含め舞良戸(まいらど)2枚+明り障子1枚の構成。(平面図参照)

  舞良戸(まいらど)2枚+明り障子1枚の開口装置は、雨戸が発案されるまでの標準的な仕様。

  日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより              

 平面図 基準柱間は6尺8寸。 空間は、下間(げかん)南~室中(しっちゅう)~上間(じょうかん)の3室と、北側の3室の2列で構成。北側の3室は、私的な用途に使われたと考えられている。 室中北面の壁は、縦板張りの壁(写真参照)。

 

 桁行断面図 断面図で色を付けた部分は小屋裏 桔木登り梁は、室中(方丈)を囲む諸室の小屋裏四周に設ける。破風(はふ)には木連格子(きづれごうし)が入っている(西側写真参照)。  

 実線赤丸箇所:、破線赤丸箇所:大引足固@1間。足固以外のは、付長押の内側小屋は図の通り。 

 寸法は、内法位置:厚1.2寸×丈3.0寸蟻壁位置:厚1.1寸×丈2..8寸(後の詳細図参照)。

  

 (「Ⅲ-3-1 室中  写真」へ続きます。) 


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「Ⅲ-3 東福寺 龍吟庵 方丈 」

2019-05-25 12:02:10 | 日本の木造建築工法の展開

(「Ⅲ-3-1」より続きます。) 

 

  

室中しっちゅう(方丈)内部 見えているのは上間(じょうかん)南室     室中(方丈)使われている状況   日本の美術より 

 仏堂が別にあるため、龍吟庵方丈には仏壇がない。 天井際を回る白壁(大壁)部分を蟻壁(ありかべ)と呼ぶ。これは、竿縁の割付のための工夫。天井を浮かせて見せる効果がある。   

 蟻壁真壁との見切りの横材は蟻壁長押(ありかべなげし)と呼び、鴨居レベルの長押内法長押(うちのりなげし)と言う。いずれも付長押(つけなげし)。室中には、蟻壁長押内法長押の中間にも長押がまわり、この長押は、上間(じょうかん)下間(げかん)蟻壁長押へ連なる(後述)

 

  

室中方丈)南面を見る 下間南室境             上間北室 上間南室から見る。右手は方丈室中)  白黒写真3枚は日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより 

 

  竿縁天井竿縁は、南側3室の南北部屋境間に架かる大梁から吊木で吊られ、竿縁の向きはそれによって決まっている(下図参照)。

梁行断面図 日本建築史基礎資料集成十六 書院Ⅰ より転載・編集

 

梁行断面図 着色部分:小屋裏 引き渡し勾配4寸5分   右が庭側(南側)  赤丸箇所にが入る。の仕様は詳細図参照。桁行足固は、根太が代行。小屋のは図の通り。 広縁側柱通りでは、柱間を飛ばすため、柱・化粧垂木受けの桁・化粧垂木・桔木受けの大桁・桔木・野母屋・野垂木の構成。

参考 諸事例の屋根    引渡し勾配 法隆寺伝法堂約4寸  新薬師寺本堂約4寸5分  唐招提寺・当初:約5寸  秋篠寺約5寸  浄瑠璃寺約6寸5分  法隆寺大講堂約5寸5分  浄土寺浄土堂約6寸  東大寺南大門:約6寸  

 

 

龍吟庵方丈 各所の詳細、継手・仕口  各詳細図は文化財建造物伝統技法集成(発行 文化財建造物保存技術協会)より

1)大引兼足固貫の継手、柱との仕口

 

  

 

 

 上図は、断面図赤枠内の大引足固の詳細。黄色部は埋木)。 室中部では丈5寸×幅3寸大引・足固材を、北側の柱間が1間になる箇所からは丈3寸×幅1.5寸に削り、次の柱内で相欠き・埋木めで継いでいる。胴付を設けたと同様の効果がある。これは、浄土寺 浄土堂で使われていた技法と同じである。註 胴付(どうづき)():枘の根元まわりの平面をいう。英語ではshoulder。

 

2)切目長押隅部仕口、切目長押(きりめなげし)と室内側床板の仕口床板の矧(は)(例示箇所:上間南室・西南隅柱)

  

  

 

大面取り、仕上り4寸8分角 。  室内床ととの見切りに設けられる横材を、切目長押と呼ぶ。構造材ではない。 室内にを敷く場合は柱通りに敷居を置く。 床板の厚さは0.8寸 太枘(ダボ)の厚さ0.3寸 これらの細工は、不陸を避ける目的

 

3)小屋束~母屋の仕口、小屋貫の継手

     

              

 

上左図 小屋束と母屋の仕口:小屋束に枘をつくらず、束柱、母屋双方を刻み、母屋を束柱に落し込んでいる。この方法を、一般に輪薙(わなぎ)込み)と言う。 註 一の木を他木に食ますこと  日本建築辞彙による

上右図 小屋貫継手相欠き部の全長が3寸(片側1.5寸)であるため、図に示されていないが、束柱は3.5寸角程度で、小屋束内にて埋木めと推定される。

                                    

4)蟻壁長押、内法長押の詳細、長押吊束仕口

 

   

 

 断面図の赤枠で囲んだ箇所の詳細図。 左側が室中、右は下間南室室中側上段の付長押蟻壁長押中段は下間側蟻壁長押と同一レベル、下段が内法長押蟻壁長押天井長押とも呼ばれる。内法長押と中段の付長押の裏側に、が入る。

 吊束は天井裏のから下がり、と同寸(4.8寸)面取りの下端を長押に当たる部分だけ面をとらず図のようにバチ型に刻み、長押側も図のようにバチ型に刻み長押を取付ける。鴨居は上反り加減に材を使い、柱両端に納める。

 現在は、先に吊束鴨居寄せ蟻で取付け、長押鴨居に載せ釘留めにするのが普通の方法。なお、鴨居は溝を彫らず、樋端(ひばた)隠し釘で取付ける付樋端(つけひばた)。 この図から、の断面寸法が分る。

 

5)内法長押継手 

 

 

 長押は、吊束位置で継ぎ、継手鎌継ぎ(図は、吊束位置の場合)。鎌継ぎの使用は、材を密着させるためと考えられる。  幅1寸3分、丈3寸5分の中に、丈2寸4分の鎌継ぎを刻む精緻な仕事が室町初期には可能だった。

 

6)広縁と広縁端部の片面虹梁づくり側桁との仕口(図は、東端部の場合)

 

天井見上図 断面 平面共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより    

 

 側桁は、外壁面で角、広縁側では虹梁(こうりょう)を装う。 図は東端部を描いているが、西端部も同じ。前出の西面外観写真で、広縁上部の側桁の内側は虹梁型につくられている。これは、意匠のために無理をした仕事。 後出の慈照寺 東求堂参照。

各詳細図は文化財建造物伝統技法集成 発行 文化財建造物保存技術協会 昭和61年より


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「善知鳥によせて・・・土地・土地の名」  1982年5月

2019-05-19 09:23:52 | 1982年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №2」1982年5月 A4版10頁 

         善知鳥によせて・・・・土地・土地の名・・・・  1982年度「筑波通信 №2」

 信州塩尻の近くに善知鳥峠という名の峠がある。松本平から伊那谷へぬける道すじ:三州街道にある中央高地に別れをつげる峠である。上代の東山道もここを通っていたのだという。問題は、これを何と読むかである。全く読めずに、私はしばし途惑った。

中央本線に並行しているのが三州街道。両者はこの地図右側(南方)辰野町で分れ、鉄道は諏訪へ、街道は伊那へ向う。

 

 「うとう」峠と呼ぶのだそうである。あちこち歩いていて、およそ土地の名ぐらい読むのに苦労するものはない。連取町と書いて何と読むか。「つなとり」町というのだそうだ。これは伊勢崎市内で見かけた名前である。たまたま入った喫茶店のマッチに書いてあったローマ字のおかけで判ったのである。この場合には、言われてみれば、ああそうか、そう読めないこともないなと思うけれども、善知鳥はどうやったって「うとう」とは読めない。「うとう」という音があって、それに漢字の音をあてだ、そういうあて字かとも思ったけれども、それは無理というもの。どうひっくりかえしたってそういう音はない。まして、ひらがなで「うとう」などと書いてみると峠道を越えるのが疎ましいというので「うとう」なのかな、などと全く勝手な想像が頭のなかをかけめぐるのだけれども、それにしたってそれが善知鳥となるには合点がゆかない。要するに分らない。

 ところが、もし私に能楽の素養でもあったなら、すらすらと読めたに違いない。というのも、手元の辞書によれば世阿弥の作に善知鳥(うとう)というのがあるのだという。そして善知鳥(うとう)という名の鳥がいるのだそうである。海鳥の一種で、中部以北の海岸にすむ鳥だそうである。その鳥の生態か何かにからむ物語があって、それが善知という意味の字を与える何かのきっかけにでもなっているのではあるまいか。

大言海」昭和7年発行 合資会社冨山房

  

 そこまで判ってきたとしても、海鳥の名が、この海とはおよそ縁もゆかりもない中央高地の地名になるというのは、さっぱり分らない。そのとき、その辞書の「うとう」の書きだしに、アイヌ語で突起していることをいう、とあるのが目についた。「うとう」という鳥の口ばしのつけ根ちょうど鼻のあたりに、こぶのような突起がある。それが識別の示標になるらしい。(私は実物を全く知らない。百科事典の解説と図によっているのである。〉そうだとするとこれは、形状を形容するアイヌ語からきているのかもしれない。「うとう」峠は、地形の形状かな、アイヌが中央高地にまでいたという話もきいたことがあるし。そこで思いついて、百科事典の地図の地名索引で「うとう」と引いてみた。引いてみて一寸驚いた。善知鳥という字がつく地名が、この峠を含めて、少なくともこの地図による限りでも、三つあるのである。善知鳥崎、これは青森湾に面する海岸:ここにはこの鳥がいてもおかしくない。善知鳥そのものずばり、これは秋田の山の方:海より離れている、平野から山へかかりだす尾根のとっぱなにある場所のようにも見えるけれども詳しい地図ではないから分らない、そしてこの善知鳥峠。この他にもその索引には「うとう〇〇」という読みかたで別の漢字をあてる地名がまだかなりあった。

 別の本によれば、全国各地に「うとうざか(坂)」という所があり、謡坂と書いたりして、そこを越えるときにはうたをうたってはならないなどという言い伝えがあったりするという。これなどは、ことによると、謡の字を「うとう」にあてたことから逆にそうなったのかもしれない。また、もしやと思って、漢字の音どおりに「ぜんちちょう」と辞書を引いてみたところ、なんとちゃんとあるではないか。ぜんちちょう:うとうという鳥のこと、そうでている。    

 閑にあかせて、こういう「知識」を拾い集めていると、その量に応じて段々と何かが分ってきたかのような気分になってくるのだけれども、実は、別に何かが分ってきたわけでは少しもない。むしろ、考える材料が増えただけであって、「うとう」はさっぱり分らないままだ。強いて分る足しになることといえば、各地の山中、それも坂や峠のような所の名としてあるらしいということだけである。それだって、あくまでもらしいである。

 

  私がこの「うとう」峠に興味を持ったのは、先日塩尻近くの宿場町や民家を見て歩いたとき、そのとき持ち合わせた地図がすっかり役たたずで(というのも、やたらにバイパスやら新しい道がついてしまって、出だしからして勘が狂ってしまったのだ)筑波に帰ってから地図を見なおしていたときのことである。はじめ、全く読めなかった。というより、いろんな読みかたをしてみて、そのどれにも自信が持てなかった。そこで地名大系を引っぱりだしてみて、初めて「うとう」と読むのだと知りなかば驚嘆したのである。漢字だけでさえいささか驚いていたのに、その読みがその漢字にあてられていること、そして純粋にその「うとう」ということばのもつ響きにも心ひかれたのである。なかなか心地よい響きのことばでないか。いったいどういう意味なのか、そう思ったのが運のつき、いろんなものを次々に拾い読みする破目になったのである。

 そしてつまるところ、「うとう」という心地よい響きをもつことばは、その意味がよく分らないまま残ってしまい、相変らず気にはなっているわけなのだが、そうこうしているうちに、ふとおかしなことに気がついた。つまり、例えば「うすい」峠などといった場合、少なくともいま、そして少なくとも私は、それが何を意味しているのだろう、などとは少しも思わずにいるということに気がついたのだ。言ってみれば、そういう名のついた峠、それで済ましている。思いめぐらしてみると、明らかに、その意味を知りたく思う場合と、ただ単にそういうものとして済ましている場合とがあるのである。こういう二つの場合があるということ、これは明らかに私の側の問題である。私がその意味を気にするか、していないか、それによるのだといってよい。

 その名前がすっかり私の身についてしまっているような場合、それにも色々な場合があって、具体的に身についている場合、具体的には知らなくてもそういうものなのだということ:知識が身についてしまっている場合、そういうような場合には、あまりことばの意味など気にはしないようだ。「うすい峠」などは、私にとっては、この例である。子どものころから「うすい」峠という名の難所のあることは(知識として)身についてしまっていて、具体的にどんな様相なのか全く知らないままでも「うすい」峠は私のものになっていた。もちろんそうだからといって、分っていたわけではない。しかし、もし子どものころ、「うすい」峠って知ってるか、などと言われたり、関東から信州に向う中山道あるいは信越線の最初の難関は何、などと尋ねられたりしたら、それこそしたり顔で「知ってるよ」だとか「うすい峠!」などと競ってこたえたものだろう。単に、そういう難関につけられている名前として知っているわけで、極端に言えば、別の呼称でもよかったはずである。そして私の場合、その名前よりも、難関であるという(教えられた)知識が言わば印象に残っていて、どんな所なのか実際に知りたく(つまり実際に経験するという意味で知りたく)思っていたに違いない。中学生のころであったか、遠足で連れていかれて(もっとも汽車に乗ってなのだが)「これがあの碓氷峠か」と思ったことをいまでも覚えている。そして、実際に道で峠越えをしたのは、自動車に乗るようになってからであり、未だに歩いてはいない。こういった私の「うすい」峠とのつきあいのなかで、「なんでうすいなのか」「うすいってどういう意味なのか」とか、それほど深く思いをめぐらしたことはないように思う。

 ところが、同じ遠足で(これは小学校でのことだが)相模湖へ連れていかれたとき、昔の遠足はほんとに遠足で、最寄りの駅から目的地まで峠越えの道を歩かされた。多分甲州街道だったはずである。みんなあごをだしはじめると「もうすぐオオダルミだ、峠だ、そこからは下りだ」と元気づけられる。峠に石碑が建っていた。大垂水峠とあった。「おおだるみ」と読むと教えられたのか、自分でそう読めたのか、そこのところは覚えていない。そばの山の岩はだから水が少しばかりしたたりおちているのを見て、それで大垂水?もっと水がでているところあるんじゃないの?などと言いあったような覚えがあるから、そのときは子ども心にもそのことばの意味を考えたのだ。この場合は全く突然、何の予備知識もなくそのときはじめて「おおだるみ」に出くわしたのだ。このことばは、そのときまでの日常では全くききなれないことばであった。だからそのことばの意味に思いがいったのだと思う。もし日常のことばのなかにあったなら(例えばその近くに暮していたり)そしてあるいは予め知識として(そういう名の峠があるということを)知っていたならば、やはりその名の由縁に思いをはせるなどということはしなかっただろう。

 

 こうして考えてみると、私が日常慣れてしまっている名前に対しては先ずその名の由縁など気にしないと言ってよさそうだ。そこのところをもう少し詳しくみてみると、その場所を私なりに具体的に知っているような所に対しては、その名前を見たり聞いたりした瞬間、すぐにその場所の具体的な姿が頭のなかに浮かんでくる。言ってみればそれは交通信号の色みたいなもので、極端に言えば別の名前だったっていい。上野、新宿、渋谷‥それらはみな、私なりのその名をもつ町の具体的な姿をすぐ目の前に浮かび上らす。その名の由縁が気になったりするのは、他の場所で同じ名を見つけたりしたときだ。例えば同じ都内で別の新宿を見つけたり、伊賀上野などという名のあることを知ったりしたとき、あらためて新宿は新・宿だったか、などと気がついたりする。

 そしてまた、私のなかに(どういうわけでか)つめこまれ教えこまれた「知識」の体系を形成するための言わば一要素として土地の名が表われてくる場合にも、それはその「知識」体系を表示する記号のようなものでしかない場合が多い(学校の地理の時間に教えられたことなどは多分これだ)。利根川という名をきけば、「利根川」という川を具体的に知らなくても、関東平野をうるおす重要な河川という「知識」が浮かびあがる。それは、どちらかと言えばそういう河川についての抽象的なイメージを呼び起こすのだといってよい。それが「知識」なのだ。平野:関東平野とはこれこれ、利根川という川はこれこれ・・・・それについて具体的に知らなくても「知識」は集積できる。(少なくとも日本の場合、地理の教科での優等生とは、これらの「知識」をできるだけたくさん忘れずに覚えこんだ者をいう、というのは大分まえに書いた通りである。)そして、実際に、具体的にその土地を知らないのに、「知識」として教えられたことが、あたかもその土地の姿であるかのように思いこんでしまっている場合さえある。津和野などは、私にとって、まさにそれであった。二年ほど前に初めて尋ねてみて、聞くと見るでは大違い、私が「知識」として持っていたイメージは、もろくも潰え去った。ただ、どちらかと言えば、「知識」だけあって自分は具体的には知らない場合には、その「知識」の周辺に、その名前そのものが私のなかにつくりだすイメージがまつわりついている場合がある。萩、津和野・・・・こういった名前は、その「知識」に加えて、その名前の字そのものの持つイメージがとりついていたりするのである。字の意や読みの響きが一つのイメージを独自に生起させ、それがその土地のイメージへ(理由もなく)かぶさってしまうわけだ。萩などは明らかにそれで、その字そのものがある風情をどうしても思い起こさせてしまう。私が住む桜村の桜は、しかし、少なくとも私にとっては、そういう風情を抱かせない。それは、現実に私がそこに住んでいて頭に思い浮かべるなどという場面にいないせいもあるかもしれないけれども、やはり桜という字:ものの抱かせるものが(私にとっては)萩ほどではないからだろう。

 こういうような字や響きが一つの情景を何となく思わせてしまうというのではなく、その名前を構成する字が、一般的なもの(例えば野のような)ではなくてある特定のものを具体的に示すような場合にも(とりわけその名前しか知らず、具体的にその土地を知らない場合はもとより知識もない場合には)その名前の由来が気になりはじめる。先の塩尻などはその例で、塩尻、塩の尻ってなんだろう、と問いただしたくなってくる。もしそれがその土地に住んでいたりよく実際に知っていたりしたならば、先に書いたように、その名前で直ちにその具体的な町の姿を思い浮かべてしまい、名前の由来を問おうなどという気は、まずほとんどわいてこないだろう。ただ、そういうような場合でも、この塩尻などという字の名前のときには、例えば中野などという名前に対するときとは違って、ふとさめて考えてみたりしたような場面で、やはりその由縁を尋ねてみたい気が起きてくるのは確かである。塩と尻がそれぞれあまりにもある特定のものを指し示す字だからである。塩といえば海のもの、ここは海岸ではないのだから岩塩でもあるのだろうか、尻というのは終りか果ての意か・・などといろいろ思いたくなるのも人情というもの。だから一時、塩尻とは、太平洋でとれる塩:南塩と日本海産の塩:北塩の輸送路の終点:尻にあたる地点だからで、というもっともらしい説明がなされたりしている(もっともらしいと書いたのは、そうではないという説が最近言われているようだからである)。

 

 古今の地誌や地名考で、その名前の由来について語られたりしているのも、その多くは、こういった類のその名前そのものが何らかの特殊なイメージをわかせたり特定のものを指し示したりするような場合ではないだろうか。言わば平凡な、あるいは一般的な名前の場合は、そのまますんなり気にもかけずに済ましてしまう。もっとも、風土記のように、その地に住み慣れた人でなく、どこかよそからきた(中央から派遣されてきたような)人たちが編んだような場合には、名前が自分より先に、自分と係わりないかたちで存在していたせいだろうか、やたらに地名の由来が書かれている場合もある。

 それは、いま私たちが初めての、知らない土地の、初めて目や耳にする名前、とりわけ興をそそる名前にぶつかって、その意味を問いたくなる心境と似ているだろう。なにしろ初めての所なのだから、目の前に拡がる当の土地の他の手がかりといえば、その名前しかないのである。土地のことが分る手っとり速い方法としてその地につけられた名前の(ことばの)解釈にとりかかりたくなるというのも、これも人情というものだ。まして風土記の場合には、中央からの命令の、嘉き字二字をもって土地の名を整え報告することと関連していたはずであるから(ということは、それまでは漢字のあてがわれない土地の呼び名があったわけだ)名前に漢字を与えるために、なおさらその呼び名の由来(というよりそういう漢字をあてがう理屈)を考えざるを得なかったのである。

 「大言海」より


 ちょうど明治のころ北海道のアイヌ語の地名に漢字をあてたのと同様のことが行なわれたのである。もっともこの場合にはまずほとんどの場合、漢字の音や訓があてがわれたわけで、漢字の意味を考えだしたらわけがわからなくなる。(私の知っているので元のアイヌ名にも土地の状況にもあっているように思える漢字名はカムイコタン:神居古潭ぐらいである。)

 

 考えてみれば、このように、地名のほとんど全部を漢字の組み合わせで書き表すようになったというのがくせものなのだ。しかもそれが、もう千年以上の昔から、それぞれの土地にそれぞれの土地の呼び名があった。呼び名をつける側の立場について考えてみれば当然なのであるけれども、それらの呼び名がその土地につけられるには、それなりの理由:つまりその呼び名に意味があっただろう。そこへよそもの(つまり呼び名が何を意味するものであったか、なぜそういう呼び名で呼ぶようになったか知らない人たち)が来て、その呼び名に対して(苦労して)漢字の音や訓をあてがってしまった。ところが幸か不幸か、漢字は表意文字一字一字に独自に意味を持つ。漢字にした名前が、その字から出る意味を担ってしまうのである。それが元の呼び名の意味することと同じであるならばまだしも、まずそうなることの方が少ないと見てよいだろう。

 そして、一旦漢字に置きかえられたものは、それこそ随時同じように読める別の漢字にまた置きかえられるなどということが、極端に言えばひっきりなしに行われてきたのである。春日部という町が埼玉にあるが、ほんの少し前までは、粕壁と表記されていたはずである。信州の千曲川も筑摩の地を流れる川筑摩川がちくま河と書かれたり千熊河と言われたりしてきて、千曲川に落ちついたのは江戸期の初めごろらしいという。ちくまがわという呼び名だけは変らなかったわけだ。多分筑摩という地名が先行しただろうが、そういう変遷の過程に気がつかないと、千の曲りか、なるほどね、などと納得しかねない。これなどは、あて字にしては、川の様相にぴったりなのだ。そして、こういう具合に一且漢字で表記するようになると、元々の呼び名はさておいて、漢字の持つイメージが独り歩きをはじめてしまう。あたかも連想ゲームをやっているようなものだ。

 甲州の塩山という所を笛吹川という川が流れているが、そのあたりの地図を見ていたら、その小さな支流に琴川(ことがわ)というのがあった。琴川とはまた優雅な、と思っていたら、いえ鼓川(つづみがわ)もありますよ、と教えてくれた。要するに、笛・琴・鼓とそろえたというわけで、おそらくそう名づけてにやにやした人がきっといるに違いない。笛吹という漢字名が先行して、琴・鼓がそれにひきずられて生まれたのではないかと思う。(このあたりの学校や農協の名称では「笛川」と書かれている。もともとは「吹」の字がないのかもしれないが、不明。)

 私の住む桜村に、松見・竹園(これは私の現住所)・梅園という地名があるのだが、これも似たようなもので、原野が開拓されたときの拠点に松竹梅のめでたき字を配ったのにはじまるのだという。そう旧いはなしではなく、戦後の入植だったようだ。北から順に松竹梅で並んでいる。もうこうなると、単なる記号と同じで、要はその漢字の持つイメージだけが問題にされ、その土地に根ざした呼び名とは全く無縁になってくるのである。住居表示で改名された名前や、新しく開発された所の地名は、ほとんどこれである。

 

 冒頭に書いた「うとう」峠は、命名の過程が更にこみいっている。おそらく「うとう」という呼び名は相当旧くからあったのだろう。一方で「うとう」という鳥がいた。それにまつわる伝説がある。調べていないから詳しくは分らないが、その鳥の親子の情愛の深さについてのものらしく、それを基にした能楽が書かれているようだ。そういう解釈がおそらくあったのだろう。これには「善知識」という仏教語の意味がからんでいるかもしれない(これは全く私の勝手なあて推量である。善知ということばを調べていたら、善知鳥の一つ前の項目にでていたのでそう思ったにすぎない)。そこで、うとうという鳥は「善知」鳥だということになった。以後「うとう」は「善知鳥」、「善知鳥」と書いて「うとう」と読む、そのようになった。おそらく、細部はまちがっているかもしれないが、そういう漢字に置きかえた名づけの構造は、こういうものだったはずである。こうなったら、話を知らない限り、読めといったって読めるわけがないのである。いま一寸思いつかないけれども、こういった類の名前も沢山あるに違いない。

 

 要するに、ついそうしてみたくはなるのだけれども、漢字で書かれた地名の由来を、その漢字の意味にこだわって考えだしたりすると、多くの場命、それはとんでもない結果に陥ってしまうということだ。旧い呼び名を相続しているような名前の場合(それがそうであるかどうかの判別はなかなか難しいと思うが)その漢字をとっぱらって元の呼び名に戻してみてそのことばの意味を考えてみるというぐらいが、せいぜいできることなのだ。

 第一、確かにその呼び名:名前の意味を分ろうとすること、分ることに意味のある場合もあるかもしれないが、より大事なのは、この言わば無限に拡がる大地の上の特定の場所を、そこを区切りとってある呼び名で呼ぶようになった、人々のそういう営為のなかみに思いを至らしめてみることではなかろうか。なぜそこにある呼び名を人々共通のものとして(というのは、ある一人にだけ通用する呼び名では地名にならないから)つけなければならなかったか、そうさせたのは何であるかということだ。すなわち、物に名をつける、物に名がつけられる、物がある呼び名で呼ばれる、そのつけられた名前そのものに対してではなく、名を与える、名づけるということは(私たち:人々にとって)いったいどういうことだったのか、どういうことなのか、これに思いを至らしめる方がよっぽど大事だということだ。そうしなければ、物あるいは土地の、私たち(=人々)にとってのほんとの意味が分らなくなるはずだからである。私たちにとって土地や物は、あくまでも私たちにとっての土地や物なのであって、私たち土地や物なのではないからである。

 

 いままでにも何度か私は、私たちのものについて考えるのならば、そのものの辞書的解説からはじめるべきではないと書いてきた。それもこういうことなのである。辞書にあるものの解説は、それは決してまちがっているわけではない。しかしそれは、辞書というものの性質上、そのものについての言わば抽象的な説明に終始し、そのもの(の名)の名づけ親としての私たちの存在、私たちにとってのそのものの(存在すること)の意味を、(それはもう当然のこととして)その背後に隠してしまっている。そして私には、この背後に目を注ぐこと、注いでみること、これが、その辞書的な解釈の範囲にとじこもって右往左往するよりも、先ずなされなければならないことだと思えるのだ。

 

 善知鳥峠にはじまって、慢然と思うところを書いてきたのだが、ふと私たち漢字:表意文字表記の国でなく、表音文字表記の国では、書かれたものの名前に対して、どういう感じかたをするのだろうかと、少しばかり気になってきた。たまたま故あって手元に置いてあった本をぱらぱらめくっていたところ、土地の名について述べている箇所が目にとびこんできた。少し長いけれど、そのまま一部を書き写してみる。

  ・・・・こうした町なり旧跡なりはその名によって、それ自身だけのもつ名:人名と同様に固有な名によって指示されるがために、更に個性的な何ものかをいかにたくさん持ったことであろう。言葉というものは、それの指し示す事物の明瞭にして尋常な一一たとえば仕事台、鳥、とはいかなるものかという例を児童に示すために教室の壁にかけておく絵、あの同一種類のすべてのものの標準として選ばれたもののように、明瞭にして尋常なあるささやかな映像をわれわれに思いうかばせる。ところが、名というものは、人なり町なりのーーというのは、町もその名で呼ばれるために、われわれにはいつも人物同様個性的な独自のもののように思われがちなものだから一一その町のある漠とした映像を思いうかばせる。この映像は、その名とその名の音の明朗とか沈鬱とかの響きによって色彩を導きだす。映像はこの色彩によって、ちょうど全紙が青または赤の一色で描かれているビラのように一一それも材料の都合や手を省かねばならぬためとか、装飾画家の気まぐれのために、空や海のみならず小舟も教会堂も通行人も、みんな青か赤の一色になっているあのビラのように、一様に塗りつぶされているものなのだ。「パルムの僧院」を読んでからまず行きたい町の一つになったパルムの名は、私には緻密な、滑らかな、すみれ色の、そしてやわらかな感じとして思いうかべられていたから、私の宿になるかもしれぬパルムのどんな家の話がでても、私には、清らかな、緻密な、すみれ色の、そしてやわらかな感じのする住居に住むのだろうと思う喜びがひきおこされた。そして、そうした住居は、イタリアのどの町の住居とも似もつかぬものなのだ。というのは、なんの抑揚もないパルムという名のあの重いシラブルと、スタンダール風な甘美さやパルムすみれの花びらの光沢から、パルムという名に私の含ませたすべての心象との助けをかりて、初めてその住居を想像したからである。・・・・    プルースト:失なわれた時を求めて、土地の名・名 より

 

 おそらく、未だ具体的に知らない土地のイメージが醸成されてくる構造は私たち日本人とさして変っているわけではなく、違う点は、その名前の音の響き:語感が前面にでてくることぐらいだろう。もしここに引いた例の場合、「パルムの僧院」が読まれていなかったとしたら、その名前のつづりと発音だけが頼りとなるわけである。考えてみれば、私たち日本人が表音文字圏の町の名に思うことは、ここに引いた例とそんなに違っていない。文学や人の話や、そういったことを通しての諸々の知識が、その町の名前にとりついて、イメージがどんどんふくらんで、それと町そのものとどちらがどちらだか分らなくなったりさえしてしまう。その辺のことについては、ある日本人の書いた次の文章が的をついている。      

  ・・・・一年前に、あるいは二年前に、芸術と思想との充ちた町パリは、私を歓喜の念でいっぱいにした。

 その時私のしたことは、私がこれらの美しいと思ったものに、私の知っている名前や言葉をやたらにつけたことである。ノートル・ダムは崇高だ、重厚だ。・・・・セーヌは静穏で、ほのかないぶし銀の照り返しのように輝いている。等々・・・・。そしてそれには必ず自分がそれが「好き」だという甘い感傷が伴っていた。しかしこれらの言葉は何か。それは全然別の内容をもって私の過去の生活経験を通して与えられ、あるいは教えられたものであった。言葉とその言葉に対する感激、もちろんそればかりではない。私は実物に接した以上、それから感動の幾分かはうけていたに相違ない。しかしそれは安易な言葉と感激によって、たちまちうすめられ、混乱させられてしまっていたのではなかったか。私は自分の貧しい過去の色ガラスを通して映るパリの姿をよろこんでいたのである。これは錯覚以外の何だろうか。しかしこの色ガラスそのものは、一つの感覚的経験の蓄積され形成されたものである以上、私が一つの生活圏を場所的にはなれた時、徐々に崩解しはじめていたはずである。それがある程度以上になったとき、私は、私の主観的な錯覚から次第に分離してくる、そこに在る、パリそのものの姿をみ、その複雑な裸形の姿の厳しさに茫然とするばかりである。それはまずその硬い物理的性質をもった石の町として、更に冷たい町として迫ってきた。・・・・      森 有正:砂漠に向って より

 

 私たちが、私たちそれぞれの色ガラスを通してものを見ているということは否定し得ないだろう。しかし、だからといって私たちにとっての問題は、どれだけの色ガラスがあるのかと数えあげることでもなく、ましてそれらのなかのどの色ガラスが好ましいかと論ずることでもない。言葉とその言葉に対する感激をとやかくあげつらえばよいということではないのである。

 

 あとがき

〇私が「うとう」を気にしているのを伝えきいて、その語源について触れている本を見つけて、わざわざコピーをとり寄せてくれた人がいた。それによれば、「善知鳥」と書き「うとう」と呼ぶ地名の場所が、同じ信州のなかに他に三・四ヶ所もあるのだそうである。それはいずれも、川の源泉のようなところで小川(水深三~五寸、偏二~五尺ほど)のまわりが湿地状になっている、そんな様相の所の地名だという。そういう所はどこも、かなり早い時期から稲作が行なわれていた形跡がある(つまり、稲作に拠って早くから人が住みついた所である)。そういうような初歩の技術でも稲作が可能のような(言いかえれば人が先ず住みつけた)土地は「ぬた」「のた」「やち」あるいは「うだ」など各地それぞれの呼びかたがあり、「うだ」は関西に多い言いかただという。そして、この人に言わせると、「うとう」はこの関西系の「うだ」のなまりではないか、というのである。そして、そういう地形は当然傾斜しているわけで、それゆえ後になって「うとう坂」というようになるのだと。

〇そして、わが「善知鳥峠」のあたりもまた、山間の地で早くから水田が開けていた所なのだそうである。

〇ことほどさように、語源考というのは尽きるところをしらない。唯一確かなことは、同じような呼ばれかたをする場所というのが、同じような様相を呈しているということだ。

〇しかし、その本には、「うとう」がなぜ「善知鳥」になるかについては触れられていなかった。(以上「信州地名新考」という本による。)

〇なお、この人の「うとう」考のなかで、「うだつがあがる」というのは、「うだ」が水田に仕上ること、それゆえ「うだつがあがらない」=水田に成し得なかったこと:一人前の生活が営めないこと、なのではないかという説が語られている。私がきいてきたのはそうではない。町家(つまり商家が多いわけだが)で、「うだつ」と称される隣家との境をなす壁が屋根を越えてたちあがるかどうか(権勢が一定程度を越えるとそうすることができた)からきているのだ、あるいは、「うだつ」と呼ばれる棟木を支える柱は、いつもおさえこまれていて思うようにはならないから、それに例えたのだ、とかいうものだった。もっともこの私がきかされてきた話では、なぜそれらを「うだつ」というのかについては明らかにされていなかったように思う。こんな新説をきくと、なんだかこの方がずっと生活に密着しているようにも思え、「うだつ」の意味もなんとなく分かったような気にもなり、ほんとらしくきこえてくるから面白い。これは言ってみれば、農民的発想の解釈である。

私の住んでいる公務員宿舎には小さな庭がついている。色々な花の盛りである。その名を知っているものもあれば、名を思いだせない花もある。そして、名も知らず従ってその名を忘れたわけでもない、しかし見たことのある花もあり、全く初めての花もある。そういう意味で色々だ。ふと、その昔の小学校の夏休みの宿題の一件を思い出した。ある女の子が植物採集をやってきた。一通りそれぞれの草花の名前が記してあるなかで、一つだけ「名もなき草」と書いたラベルが添えてあった。その時は皆笑いだしたのであったけれど、いま考えてみると、その子は(そして多分その子の母親も)大変に衝撃的なことをやってくれたのだと私には思えてくる。そのとき私たちは笑ってはいけなかったのだ。それは、「名がある」「名を知る」ということがどういうことか、子どもたちがそれを知る絶好の機会だったのである。しかし、私がいまだに尊敬してやまないそのときの担任の先生も、そのときそこまでは気が付かなかったようであった。その子はちょっと近より難くすてきな子であった。

〇それぞれなりのご活躍!そして、その共有されんことを!

    1982・4・23                     下山 眞司

 

投稿者追補

「カムイコタン 神居古潭 北海道旭川市西部、上川盆地を出た石狩川が夕張山地を横切る峡谷。函館本線の神居トンネル付近約10kmの間は、いわゆる神居古潭系の各種の岩石(ジャ紋岩、輝緑片岩等)が早瀬をつくり、鬼神の足跡といわれる深さ2~3mにも及ぶ甌穴(おうけつ)や夫婦岩などの奇岩怪石も多い。岩や川や産物にちなんだアイヌ伝説があり、神と悪魔の争いの地としてカムイ(神)コタン(住家、世界)とよび、神聖視している。下流は淵(ふち)をつくり、春の桜、秋の紅葉は美観で、地名の別儀〈美しい所〉の名にふさわしい。左岸の林中に竪穴(たてあな)住居あと(コロボックルの住家とも伝える)が50余り散在する。旭川や札幌の人々の行楽地で、怪石は庭石に利用される。なお同義の地名は小樽、日高支庁三石ものある。」  世界大百科事典 平凡社より 


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「Ⅲ-2 中世の典型ー2:鎌倉時代の寺院」 日本の木造建築工法の展開

2019-05-13 09:58:16 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章ー2」A4版7頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

Ⅲ-2 中世の典型-2:鎌倉時代の寺院・・・大仏様は継承されなかった

 木造架構をで強化する工法:貫工法は、中国から伝来した大仏様に始まり、その後普及する、とりわけ、一般庶民の建物に使われるのは近世以降である、と考えられています。

 しかし先に触れたように、きわめて計算しつくされ完成度が高い浄土寺 浄土堂の設計・施工から考えて、中国から導入された工法・技術が僅かな時間で花開いたとは考えられず、また実際、中国の建築史図集等にも、大仏様を想起させる寺院建築は見あたりません(住居には見られます。65頁参照)。

 これらのことから、先に触れたように、を用いて架構を固めることは、古来工人たちにとっては手慣れた工法であったにもかかわらず、中国伝来の工法を重視する古代寺院に於いては使われることがなく、それが平安末期(鎌倉初期)になり、古代的な権威の凋落ともあいまって、東大寺の再建という大事業に採用されたために脚光を浴びるようになった、と考えた方が無理がありません。 

 

 一般に、いわゆる大仏様貫工法のみが注目されますが、より重要な点は、その空間のつくりかたにある考えられます。

 すなわち、中国伝来の工法・技法にならった古代の寺院建築は、屋内の空間は架構そのものによって形づくられていましたが、すでに見たように、その架構方式を日本の環境に馴化する過程で生まれた二重屋根(野屋根)工法:桔木(はねぎ)の活用:の普及により、平安時代に入ると、架構と空間上部の意匠を分離して考える建物づくりが「常識」になってきます。  

 それに対し、東大寺再建事業で採られた建物づくりの方法:いわゆる大仏様は、この「常識」をくつがえし、単にを駆使しただけではなく、建物の原初的なつくりかた、すなわち、架構そのもので空間をつくるというつくりかたを復活してみせたのです。それは、日本の環境に適合し、なおかつ空間の構成のために、化粧だけが目的の付加的部材は一切必要としないつくりかたにほかなりません。 

 しかし、東大寺再建以後、つまり鎌倉時代、大仏様が全面的に寺院建築で継承されたわけではありません。鎌倉時代はそれ以前の時代に比べ多くの建造物遺構が現存していますが(1980年代で、重要文化財建造物が約333棟、そのうち寺院157、神社53、石塔等123、住居の遺構はない)、その大半は先に紹介した秋篠寺浄瑠璃寺と同じく、桔木を用いた二重屋根で、空間上部を化粧屋根・天井で覆い、化粧斗栱を付し、古代寺院を想起させる形体の建物です。

 たしかに東大寺再建の仕事を通じて世に広く示されたで架構を固める方法は、寺社建築でも長押に代り徐々に使われるようになりますが、大仏様の重要な特徴であった架構=空間とするつくりかた:空間を架構だけでつくりあげる方法を継承した事例は、皆無と言ってよいでしょう。 

 大仏様が全面的に継承されなかった理由は、一つには、架構=空間のつくりかたは、その実現に熟考を要するのに対して、化粧でいかようにも繕える野屋根によるつくりかた(いわば書割かきわりのつくりかた)は容易だったからと考えられます。以下に、鎌倉時代の特徴を示す寺院建築事例を挙げます。                   

 

 

大報恩寺 本堂 1227年(安貞元年)建立  所在 京都市上京区    

 

 全景 日本建築図集より

 平面図・断面 日本建築史図集より

 

   

  隅 部 見上げ    文化財建造物伝統技法集成より    内 陣          日本の美術198 鎌倉建築より

 大報恩寺は、京都市街に現存する最古の建造物。通称千本釈迦堂。密教系の寺院。

 一間四面堂に前庇を付加し、その四面にまた庇を設ける、という形を採っている。 四周庇部は、念仏を唱えながら巡るための場所という。部分的に引戸が使われている(後補?)。ここでの桔木(はねぎ)は、軒を支えるためのもの。

 東大寺再建後間もない頃の建設ではあるが、大仏様工法の影響は見られない。 

 下の断面図の頭貫(図の赤色部分)の継手および根太(黄色部分)の継手は、原理的には目違い付き相欠き(下図継手詳細)。 これらは、当時、常用される方法であったと考えられる。 赤丸部は、主たる梁上の小屋束を挟んで取付いている二重梁。断面図の次に分解図。束柱を優先。見えがかりを気にしないで済む野屋根ゆえにできる方策。

   桁行断面図

梁行断面図

  

 全般にの使用は見られない。柱~柱をつないで大引が入っているが、足固の意識は感じられない。組入れ天井上の屋根がさらに二重になっている。その理由は不詳。

 

 

                        根太継手大引上か。 目違い付き相欠き栓打ち

 

 

棟木継手は、下側の棟木肘木束柱上に設けることで、継ぎ位置を直上:芯に置ける。これは、古来の方法。 は、束柱の箇所だけ、を挟み、他の箇所では、片側だけに通る。を介しての継手と考えることができる。

桁行断面図梁行断面図継手詳細は、文化財建造物伝統技法集成より

 

 

蓮華王院本堂三十三間堂 1266年(文永3年)再建(創建1164年) 所在 京都市東山区

 三十三間四面の堂 二重屋根・桔木を駆使した典型的な例。 繋梁を挿して取付ける、大引き足固め扱いにするなど、大仏様の技法が部分的に使われている。

  平面図 

 

   桁行断面図 

 

梁行断面図

梁行断面図 正門部

  庇部(外陣)

 

 南東からの外観                 図面・写真:日本建築史基礎資料集成五仏堂Ⅱより

 

(「Ⅲ-2 大善寺」に続きます。)


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「Ⅲ-2 大善寺 元興寺 明王院」

2019-05-13 09:56:18 | 日本の木造建築工法の展開

(「Ⅲ-2 三十三間堂」より続きます。)

 

大善寺(だいぜんじ)本堂 1286年(弘安9年)建立  所在 山梨県 甲州市 勝沼

 平面図

桁行・梁行断面図 建築史基礎資料集成七仏堂Ⅳより

 床組伏図文化財建造物伝統技法集成 より)

 密教:真言宗の寺院。 鎌倉時代には、畿内だけではなく、全国各地域に密教系、禅宗系の寺院が建立されている。概して西国に多いが、大善寺は東国進出の一例。

 基本的には、二重屋根でつくる平安期に多いいわゆる和様の建築であるが、床まわりに足固貫を入れてある点に、大仏様の影響がうかがわれる。四周の軸部の横材は、足固貫長押頭貫で構成。 ただ、長押は床位置の切目長押(きりめなげし)は四周全部、内法位置の内法長押は開口部上のみで、古代の方式にならっている(56頁、新薬師寺本堂参照)。  なお、足固貫は、外周だけ四周に入れ、内部では梁行方向だけ入れ、桁行は根太が代行している(上図床組伏図参照)。

 鎌倉時代の仏堂には、内法長押を用いず、頭貫の下に飛貫を通す大仏様の方式にならう事例もあるが、数は少ない(次 元興寺参照)。

 

 

元興寺(がんごうじ) 極楽坊(ごくらくぼう) 本堂および禅室 1244年(寛元2年)再建   所在 奈良市 中院町

  

外観     日本建築史基礎資料集成 七 仏堂Ⅳ より      詳細 長押に代り飛貫を仕込む。日本の美術198 鎌倉建築 より

 飛鳥時代に蘇我氏により飛鳥に創立、平城京遷都に際し移設された寺院。 後に僧房を残し消滅。 鎌倉時代初期、本堂禅室に分離され、さらに1244年(寛元2年)現状の姿に改修。 長押に代り飛貫を入れ、頭貫の端部は、大仏様風。

  

左:禅室 右:本堂 平面図  日本建築史図集より


 

明王院(みょうおういん)本堂 1321年(元応3年)建立  所在 広島県福山市草戸町

 真言宗の寺院。 頭貫の一段下に飛貫を入れ、長押はない。足固貫も採用。  大仏様の技法と、禅宗様の意匠が見られる。

 

 桁行断面図

梁行断面図

 

 平面図                     

 

 

 外観 頭貫の下に見える横材は飛貫

図・写真は、日本建築史基礎資料集成 七 仏堂Ⅳ より 

 

 鎌倉時代の寺院建築では、大仏様の技法は局部的に用いられるが、架構の造成をもって空間とするつくりかたは、まったくみられない。

 

 

 以上のいわゆる和様の寺院建築のほかに、鎌倉時代には、中国から移入されたとしか考えられない建築様式があります。禅宗とともに入ってきたいわゆる禅宗様の建築です。 

 禅宗様の建築は、その装飾的な形式に特徴があり、明らかにわが国の建築にはなかった形です。ただ、禅宗様の建築も基本的には貫工法ですが、工法・技法の面で他の建物に大きな影響を与えたわけではなく、禅宗寺院にのみ用いられたと言ってよいでしょう。

 なお、現存する禅宗様の建物で鎌倉時代につくられたものは少なく、禅宗様の代表とされる円覚寺舎利殿も15世紀初め:室町期の建設です。 

 禅宗様の建築は大仏様とはちがい、下の写真のように、中国にそのモデルが存在します。   

  

 浙江省 延福寺大殿 1324~1327   図像中国建築史より    円覚寺 舎利殿 15世紀前半      日本建築史図集より

 

 禅宗が武士階級に好まれた結果、禅宗様の寺院は鎌倉幕府の所在地である鎌倉だけではなく、京都にも建てられます。そのうち、京都五山(きょうとござん)と呼ばれた臨済宗天竜寺相国寺建仁寺万寿寺そして東福寺には、壮大な伽藍が建立されます。下はその一つ京都の南部、宇治の近くにある東福寺三門禅堂の外観および三門断面図です。  

  三門正面

   禅堂          写真は日本建築史図集より

 断面図         文化財建造物伝統技法集成より

 

 三門の架構は大仏様に類似しているが、に割裂が生じていることが解体修理時に判明した。これは、浄土建寺 浄土堂、東大寺 南大門の架構に比べ、挿肘木の間隔が近接しているためである(69頁~86頁を比較参照)。

 各層の小屋組を二重にしていることから見て、挿肘木も、構造よりも意匠に重点が置かれ、それゆえ、割裂の危険性への配慮が欠けたものと考えられる。                                                                                                                                      


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「十人十色・・・・人それぞれ、それぞれの人」  1982年4月

2019-05-07 08:36:05 | 1982年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №1」1982年4月 A4版10頁   

      十人十色・・・・人それぞれ、それぞれの人    1982年度「筑波通信 №1」

 降ったとも知らずにいた夜来の雨で、乾ききっていた地面も生気を帯び本来の土の色にもどっていた。空気も湿り暖かく、あたりもかすんでいる。もう少し日ざしが強まれば陽炎の季節だ。山々の葉の落ちきった木々も、いつの聞にか、冷たい灰色から暖か味を増した灰色に変っている。しかし、ふと目を遠くにかすむ少しばかり高い山の方に向けると、そこには未だ冬が残っている。昨夜の雨もそこでは雪だったらしく、新雪がまばゆく輝いている。そちらの方から下りてくる風も、心なしか冷たく感じられる。

 こういうころ、山あいの村々を歩くのが私は好きだ。ここ二年ほど、ある仕事のため、関東平野を東西に、もう数えきれないほど往復してきた。平野のそれぞれの季節の情景も、そして季節が少しずつ移り変ってゆくさまも、一見の客の目に映るようなものとしてではなく、より確かな目で見れるようになってきたように思えている。全く同じ一つのものも、見るたびに新鮮に見え、それとともに、そのものが、その存在のさまが、より確かなものとなって私のなかに定着してくるようなのだ。今日もまた、夜来の雨が新しい情景を描きだしてくれたせいか、全てが新鮮に見えてくる。いま私は、後方:東の方に広くかすんだ関東平野を遠く望みながら、平野の西端、言わゆる関東山地のふもとの町や村の中を車で走っている。

 昔ながらのつくりの店や現代風なそれがごちゃごちゃとならぶ街なみをはずれ、道は多分地形なりについているのだろう、微妙に曲りくねりあるいは小さな起伏をくりかえし、気がついてみると川沿いに少しずつ山あいへと向って登っている。

 そういうとき、突然目の前に、実に見ごとな屋なみ:屋根の重なりあいがつくりだす村の風景が拡がることがある。思わず、いいなあ、ということばが口をついてでる。ほっとする。安心して見ていられるのだ。このあたりの家々は大概切妻づくりの総二階、屋根は瓦ぶき。と言ってもてらてらとは光っておらず、どちらかと言えばにぶい色を放っている。切妻づくりの単純な形とその勾配のせいか、重くもなく軽すぎるでもなく適度な重さをもって見えてくる。ときおり混じる土蔵の白壁が、やけに白く目に映る。家々のまわりに遠く近く、屋なみの背景をなすあの温か味を帯びた灰色の山林のなかに散らばるぼやっとした白いかたまりは、あれは多分いまが盛りの梅の花だ。

  こういう見ごとな屋なみの光景は、別の季節にも、もう何度となく見てきているのだけれども、木々が葉をつけているときは、屋なみもまた木々の緑に埋もれてしまい、こうはくっきりと見えないのである。もちろん四季折り折りの光景もそれぞれがそれなりの風情をもってはいるのだが、例えば真夏の暑さのなかでじわっと静まりかえっているのもきらいではないけれど、ちょうどいまごろの、冬の静けさからさめ、これから先のにぎわいを予感させるような風光が、私は好きなのだ。

  

 おそらく、こういう屋なみを初めて見る人には、家々がどれもこれも同じ家のように見えるはずである。先にも触れたように、この辺の家は四寸か四寸五分勾配の総二階切妻づくり、大体東西に長い長方形の平面で棟も東西に走る。庇の出は四周とも深く、ときには六尺近くもあろうかと見えるものもある。二階の長手には:つまり南面ということになるのだが:出し桁づくりと通称する手法による出窓様のつきだしが延々と全面にわたってついている。先ずどの家も同じだと言ってまちがいではない。屋根面も従ってかなり大きい長方形となる。そういった家々が、南へ向いたゆるい斜面に、ほぼ等高線に平行に長辺をそろえてならんでいるので、山はだは同じ向き、同じ形をした瓦屋根で幾重にも重なったようにおおわれてしまうことになる。自然、同じ家が同じ向きにひしめきながらならんでいるように見える。だから、ときおり混じる寄せ棟や入母屋づくりの家は、何か異様のものに見えてしまうほどだ。

 けれども、このどれもこれも同じように見える家々も、二度三度と見てくると、あるいはじっくりとながめてみると、実は一軒として同じもののないことに気がつく。同じようでいながら、一軒一軒にそれなりの顔がある。だから、そういう村うちの道を歩いていて、目の前に次々と表われる家々は、一軒一軒違っていて、我が筑波研究学園都市の公務員住宅のなかの道(一般的な例で言えば、各所の公団住宅団地内の道)で体験するような、ここもあそこもみな同じに見える、などということはまずない。ここでは、一見同じようでいて、十軒十様の顔をしているのである。

 この山あいの村に入りこむ前、町の街なみをはずれたあたりで、向いの山の斜面に、最近関発されたらしい住宅地を見かけた。そこにも、建設中のも含め、住宅がひしめいていた。と言っても、都会周辺のそれとは違い、かなりゆったりと建ち、ことによるとその家々の混みかたは、この辺の村々のそれと大差ないのかもしれないと思えた。しかし、これが村々の屋なみと全く違う点なのだが、この住宅地の屋なみは、まさに見るからに一軒一軒が異なり、はっきりと十軒十様のさまを呈している。

 ここで私は、同じ十軒十様ということばを用いているのだが、明らかにその内容はそれぞれ異なっている。この二つの風景は、質が違うのだ。いったい、この違いは何なのか。何故なのか。単に、社会が変り、生活が変り、技術が変り・・・・そして人が変った、そのせいなのか。そして、だから、昔といまで違いがあってあたりまえ、昔のもの、それは消えてゆくもの、違いは何なのか何故なのかなどと問うこと自体無意味なことなのか。私はそうは思わない。むしろ、この違い、この違いを生じさせているなにものか、そこに重要な問題があるはずなのだ。この違いは、一考に値するのだ。

 

 結論から先に言えば、このいまと昔の風景の違いは、その成りたちの違いであり、それは、唐突に聞こえるかもしれないが、「人それぞれ」ということ、つまり個人ということ、に対しての、いまと昔の理解のしかたの違いに拠るのだ、そのように私は思う。

 私はいままで度重ねて「人それぞれ」ということに対して、あらためて見直すべきだと書いてきた。なかには、何をいまさら、と奇異に感じた方もあったのではないかと思う。あの戦前、戦中の八紘一宇の時代ならいざしらず、この戦後の民主主義の時代では、そんなことは言うまでもないではないか。個人は個人、人はそれぞれ、それはあたりまえであって、いまさらことあらためて言うこともない、と。

 しかし、人それぞれということは、そんなに単純なことなのだろうか。人それぞれということ、それはいったいどういうことなのか、考えなおしてみる必要もないほど、それは分りきったことなのだろうか。

 

 いったいいま、私たちの極く一般的な設計や家づくりの場面では、この人それぞれということに対して、どのような態度がとられているか。

 あたりまえだと思われているのは、個人が建てる言わゆる個人住宅はその個人個人に応じてそれぞれなりに建てられる、しかし、現代の都市化社会の必然として生じた大量供給の住宅づくりの場面では、個人個人に対応するというわけにはゆかなくなる、つまり、対象の個人を特定するわけにゆかず、言わば不特定の多数を相手にすることになる、だから一人一人に対してそれぞれの住宅を用意することは現実間題として不可能である、そうかと言って住宅の形が決まっていなければ建てられない、そこで、ある一つの形を決め、それをその多数に対応させざるを得なくなる、ざっとこういう考えかただと言ってよいだろう。要するに、その根底には、人はそれぞれそれぞれがまるで違うのだから、本来、その家も一軒一軒人それぞれに応じて全く違う形をとらなければならない。あるいは別々の形をとって然るべきなのだ、とする考えがあるのだ。そうであるから、個人が特定できない大量供給の住宅や、あるいはその利用者・使用者を特定の個人に限定することのできない言わゆる公共建築の設計の場面では、この不特定多数の数だけある使用・利用のさまをどう一つに括りこむかが大問題である、と考えられるようになる。

 実際ここ三・四十年、この不特定多数の人々:使用者・利用者のニーズをどうとらえるか、あるいはどうやってその最大公約数を算出するか、これこそが個人の建てる住宅のようにはその対象が限定できない言わゆる公共住宅、公共建築の設計の場面で(そして全く同様に大量生産品言わゆる工業製品の設計の場面で)設計者・デザイナーそして関係の研究者たちの頭を占領していた問題だったのだ。

 そしてこの間、この考えかたに対し、さしたる疑問をだれも抱かなかったと言っても、決して言いすぎではないだろう。使用者・利用者あるいは注文者としての普通の人たちもまた、こういう考えかたにいささかも疑いをもたず、それ故、個人で住宅を建てることができる場合には、せいいっぱいその個性:それぞれの違いという意味での個性:を具体化するものだ、そう思ってきたと言って、これもそれほどまちがっていない。これは、いま新聞その他ではなやかに宣伝されている〇〇ハウス、〇〇の家‥‥などの、その買い手に対するセールスポイントを見れば、そこに明らかだろう。これらは個人で家を建てるその個人を対象としているわけで、その底に流れているのは、いかに人それぞれであることを発揮せしめるか、言い換えれば、いかに他人との違いを(そうすることが人それぞれを示す近道であるとするが故に)形あらしめるか、という考えに他ならない。

 まるでそれは、人それぞれということは、人それぞれがその見えがかりに表われる違いを競いあうことにより表出するものなのだ、とでも言うかのようだ。(実際にいま、大量生産品のデザイナーの最大の関心事は、その買い手である個人の、人と違うという意味での人それぞれ感を個々人にいかに抱かせるかにあるのだそうである。となりの〇〇が小さく見える!とか、これには〇〇がついてます、とかいう宣伝は、まさにこのことを示していると見てよいだろう。)

 大ざっぱに言って、これがいま普通にものづくりの場面で考えられている人それぞれだとみてよいと私は思う。

 

 そして、端的に言って、こういういまの普通のやりかた、すなわち、人はそれぞれまるで違うのだから、それに対応するものもまた本来それぞれ全く違って当然で、しかし対応相手が特定できないときは止むを得ず何らかの形で一つにしぼりこむという考えかた、その結果が現代の街並み・屋なみをつくりだしたのである。一方で全く画一的で同一の文字どおり寸分違わぬ建物が建ちならぶかと思えば、その一方では全く逆に見るからに十軒十様の建物が建ちならぶ、こういう全く対極の風景が次々にこの同じ考えのはてに生みだされ、そしてこの二つの分極した風景のはざまに、まさに所在なさげに、昔ながらの村々の風景が残っている、これがいま私たちの目のあたりにする街なみ・屋なみの全景に他ならない。

 それでは、このはざまにはさまれて、もはやその存在さえも危うくなりつつあるあの昔ながらの村々の風景:よく見ればそれぞれの顔を持ってはいるが、一見する限り同じように見える風景:これはどう解釈したらよいのだろうか。それを成りたたしめた時代、人それぞれがそれぞれであるという考えがなかったからなのか。封建時代・制度のもと、人々はその個性の表出を制限されていたからか。しかしいずれにしろ、いまあたりまえの考えかたでは、その解釈はできないだろう。過去の遺産、そう切って捨てるしかないはずで、現にそうしつつある。価値を認めるとすれば、文化財として、そして観光資源としてのみだ(いま、文化財=観光資源となっているのはまことにいまをよく象徴する興味ある現象だと私は思う)。

 

 十人十色ということばがある。辞書によれば、人の好む所、思う所、なりふりはそれぞれに違うこと、とある。人はそれぞれだということである。しかし、それは単純な意味でさまざまだということなのだろうか。

 そこで、私たちがこの十人十色という言いかたをする場面をいろいろと考えてみると、それは決して単にさまざまだとかいろいろあるだとかいう場合に使われるのではなく、かなり限定された場面においてのみ使われるということに気づく。さまざまな国のさまざまな人が集まっているからといって、あるいはスキー場でいろとりどりのスキーウェアが花咲いているからといって、それを言うのに十人十色だとはまず言わないと思う。このことばが私たちの口をついてでるのは、ことあらためて人それぞれということを、私たちが意識させられたときなのだ。

 つまり、普段は人それぞれだとか、あるいは互いに互いを意識するなどということもなく、まずなにごともなく平然とすごしていたのが、あることをきっかけに、急に互いに互いの違いが目に見えてくる、そんな場合にこのことばが使われるようなのだ。例えば、ある目的のための具体的な行動の方針を決めようとするような会合で、目的自体はなにごともなく了解されているのに、具体的なやりかたについていろいろな案がだされ、それぞれ一理あって決め手を欠き、どうにも一つに決めあぐね、まとまる見通しもたたないままお開きとなり、なんとなく白けた気分で、似た考えをもったもの同志、あらためて考えの多様さに気がつき、先を思い、なかば嘆くようにぼやく、そんなとき「十人十色だからなあ」などという具合にこのことばはとびだすのだ。辞書の説明の言う「思う所」の違いである。

 あるいはまた、これは辞書に言う「好む所」の違いにあたるのだろうが、ある場面で、そういう場合めったに見かけないような格好の服をきた人が現われ、それが意外とその人にも場面にも合ってさまになっていたりして、そんなときにも、これもなかば感嘆の気もちをこめて、このことばを口にする。つまり、このことばには、互いに互いの違いをあらためて発見し、感嘆、驚嘆、あるいは慨嘆する、そんなニュアンスがこめられていると言えるだろう。

 ここで注目しなければならないのは、この十人十色ということばが意味する人それぞれのそれぞれの人というのは、決してその人それぞれが互いに無関係なのではなく、むしろ全く逆で、互いに関係しあう「お互い」の一員である、という点である。すなわち、互いにある場面・局面を共有していて(しかもそのことは普段意識しておらず)、その上で、人それぞれのふるまいかた、思う所、好む所がそれぞれに違う、そういうことをこの十人十色という成句は言っているということだ。

 こうしてみてくると、私たちはそれほど深く考えもせずにあっさりと「人それぞれだ」と思っているけれども、人それぞれである、ということばの意味には、そのそれぞれの解釈のしかたにより、明らかに二様あり得るのだということが分ってくるように思う。すなわち、無関係のものが多種集まっているが故のそれぞれ:多様という意味と、同種のものが集まった上でのそれぞれ:多様という意味、この二様である。簡単に言えば、根っから違うのか、それとも根は同じであるか、この二様である。そして、十人十色で意味するものは、先に見てきたとおり、明らかにこの後者の意味に他ならない。

 そして、あらためて考え直してみるまでもなく、いまの私たちにとってはなかばあたりまえになっている言わゆる現代的な考えかたでは、人それぞれということ、あるいは個人ということについて、明らかにこの前者の意味、すなわち、多種でありそれ故の多様であるという意味で考えられているのである。人は互いに、もう根っから違うものなのだ、これが当然のごとくに前提となっている。従って、人の集団とは、この根っから違う個人の群れであり、だから互いに無関係であり、互いに共通の場面というものは、そもそも存在しない、それぞれが独自の場面をもっている、そういうことになるはずだ。ただ、現代的な考えかたのなかみがこういうものであるということについて、そのなかに埋もれこんでしまっている私たちは、少しも気づいていないのである。

 

 私たちは、よく対話あるいはコミュニケーションが不足しているとか、だからそれを回復しなければならない、ということを言ったり聞いたりする。しかしいったい、互いに無関係な間がらの人と人の間のコミュニケーションというのはどうしたら可能と考えるのか。コミュニケーションを回復しなければならないということは、言うまでもなくそれが存在していないからこそ言われるのであって、そうであるならば、ただ単に回復させようと説いたり唱えたりさえすれば済むわけがなく、いったい何故それが存在しないのか、しなくなったのか、それをこそ先ず問われて然るべきだろう。そうすれば直ちに、互いに無関係な人の集まりなのだという前提を私たちが固持している限り、コミュニケーション:対話というものは、そもそも存在し得ないのだということに、私たちは気づくはずである。それは、ある局面を共有できるという前提があってはじめて成りたつものなのだからである。

 つまり、現代的な人それぞれ観を持つ限り、対話は存在しなくてあたりまえなのであり、コミュニケーション不足を嘆くこと自体が矛盾したはなしなのだ。であるにも拘らず、私たちはその不足を嘆き、回復を望み、そしてその必要を説く。

 ならば、私たちは、その前提を問いなおさなければなるまい。

  いったい、私たちにとって、「人それぞれ」ということの正当な意味は何なのか。


 和辻哲郎がその著書「風土」の冒頭で、私たち(日本人)がよく交わす時候のあいさつについて触れ、次のように書いている。

 ‥‥寒さを体験するのは我々であって単に我れのみではない。我々は同じ寒さを共同に感ずる。だからこそ我々は寒さを言い現わす言葉を日常のあいさつに用い得るのである。我々の間に寒さの感じ方がおのおの異なっているということも、寒さを共同に感ずるという地盤においてのみ可能になる。この地盤を欠けば他我の中に寒さの体験があるという認識は全然不可能であろう。‥‥‥(太字は原文)

  人それぞれとは、言い換えれば個々のということだ。と他人の関係について述べたこの文章ほど、人それぞれということについての、簡にして要を得た、そして説得力のある説明はないと私は思う。人それぞれというのは、本当はこういうことなのだ。先に、十人十色ということばの使いかたを検討したときに見えてきたそのことばの意味、すなわち互いにある共通の基盤を認めあった上で、それに対する個々のふるまいかた:身の処しかた、つまり「思う所」「好む所」はそれぞれに違うのだということ、それこそが「人それぞれ」ということなのだ。そしていま、私たちは、そもそも人と人との関係はこうであったということ、いや人であるということはこういうことなのだということ、それをすっかり見失い、忘れてしまっているのではなかろうか。

 考えてみれば、もしこうではなく、私たちが何の共通の基盤もない、持たない、持とうとしないそれぞれであったのならば、私たちの間にはもはや、ことば:言語など存在しないはずであるし、そもそも存在しなかったはずだろう。先号でも書いたように、私たちが〈冬〉ということばを持っているのは、私たちそれぞれがそれぞれの冬の事象にめぐりあい、それぞれ違うイメージを抱きながらも、「冬」という概念を共有し得ているからなのだ。だからこそ、互いに冬を語ることができる。

 そして、このことを更に理解しようとするならば、「方言」というものの存在、あるいは「地名」のつけかた、などを思い浮かべていただければよいだろう。まさにそれは、ある土地に住む人たちの共通基盤の存在をもの語るものだからである。

 

 このように考えなおしてみると、あの昔ながらの村々の風景の成りたちが、よく理解できる。

 その土地に住む人たちは、その土地に対して共通の認識を持っている、ひらたく言えば、同じものを見ているし感じているのである。そして、その上で彼らは生活をしている。その土地との係わりかた、彼らにとってのその土地の意味、そういう所で生活を営むことの意味、それは共通なのだ。互いに違う点は、その共通に認識していることの、個々人の言わば運用のしかたの違い、あるいは、そのとりこみかたの違い、つまりその共通の基盤に対しての思う所・好む所の違いにすぎないのである。

 家の間取り、屋根のかたちも、屋敷の構えかたも、そして敷地の選定についても、長い間のその土地での体験の蓄積のなかで、その土地で生活してゆく上での適切なやりかた:方針(それは思想と言ってもよく、必らずしも目に見える形をなしているわけでないから、一見の客には直ちに見えるとは限らない)というものが共通に認識されていて、違ってくるのは、個々人のそれぞれの家でのその方針の具体化の場面においてなのだ。だからこそ、同じようなものはあっても同一のものはなく、逆に同じような点が何一つないなどというものもないのである。場合がそれぞれ違うからといって、方針を崩すわけではなく、あくまでも同じ方針のもと、個々それぞれの場合に応じて、言わば臨機応変にその具体化にあたっている、と言ってよい。

 そしていまは、ある土地に家を建てる人たちは、その土地に対しての共通の認識を持たず、また持とうともしないのだ。それぞれは、それぞれの地面としてのそれぞれの土地:敷地に対してのみ、しかも彼だけにのみ分る、認識を持つだけなのだ。

 

 「突然目の前に、実に見ごとな屋なみ、屋根の重なりあいがつくりだす景色が拡がることがある。思わず、いいなあ、ということばが口をついてでる。ほっとする。安心して見ていられるのだ。」 私はこの号の初めで、こう書いた。私のこの感想は何か。私はそこに何を見たのか。私はそこに、単に美しい絵を見たのではない。言ってみれば、そこに私は、そこに住む人たちの共通基盤を見たのである。より正確に言えば、その土地に私が住むとしたら、私がその基盤とするであろう、同じものをそこに見たのである。私がその土地を見て得たものが、そこに住む人たちの得ているものと変らない、私もまた彼らと共通の基盤を共有できる、つまり私がやるだろうと思われることと、彼らがやっていることが一致する、すなわち、分った(という気になれた)のである。だから素直にその世界になじんでゆけ、それがあの感想となるわけなのだ。

 しかし、現代の住宅地の風景には、残念ながら私は、私と共通になる基盤はもとより、そこに建っているそれぞれの家の間の共通基盤をも、全く見ることができない。けれどもそれは、私に見る力がないからなのではない。それらがもともと共通基盤の存在を否定したところで生まれたものだからなのだ。最初から、互いに分るということが拒否されているからなのだ。人それぞれとは、根っから違うこと、そう思うことに根ざしているからなのだ。だから、他人は絶対にその世界にはなじめない。

 大抵の場合。こういう風景は雑然としてめちゃくちゃな印象を与え、それを前にすると必らずと言ってよいほど、「環境との調和」ということが説かれるのであるが、私には、このことばをそのまま素直に受けいれる気には少しもなれない。なぜなら、調和があるとか、調和がないとかいうことは、単純にその見えがかり:表に現れた形の上だけでの話であるはずがなく、従って当然、よく言われる修景などという表面的な処理だけでことが済むようなことであるはずもなく、そもそもその因は、先に書いたように、その表面にあるのではなく、その成りたちの根底にひそんでいるのだからだ。

 

 おそらく、設計という作業において基本的になされなければならないことは、ある場面・局面における(人々あるいは私たちの)この共通の認識となるもの共通の基盤を探すことなのだ。それは先ず、いかなる局面におかれているかを見ることであり、そこにおける十人を、根っから違う十人としてではなく、その局面におかれている十人だとして見ることからはじまるだろう(昔はこれがあたりまえだったから、意識せずしてそうしていた。いま私たちは、意識してやらねばならない)。従ってその十人に対して、根底から違う十品を用意するのではなく、その十人にとって共通の認識たり得る一品を探すことが、この作業の主たるなかみとなるのである。(そして、ふと考えてみれば、この共通の認識となるものこそ、私たちがつくるものの言わゆる機能というものなのではなかろうか。)それから先の個々の違いは、それは全く臨機応変的に言うならば応用問題を解くことにより生ずることでしかない。そこにおいて、好む所・思う所の違いがでてくる、これが正当なことなのだ。

  しかし、ここで誤解されては困るのだが、この共通の認識、共通の基盤というのは、あの戦前・戦中の八紘一宇的に、私たちの外から一方的一元的に与えられるものではない。決してそうではなく、また決してそうあってはならず、そして決してそうなるものではない。それは、あくまでも、私たちのもの、私たちの内から生まれるもの、前号の言いかたで言えば、私たちが私たちそれぞれの冬を語るうちから生まれるものなのだ。私たちが私たちの感性に自信をもって依拠することによって生まれるのだ。

 戦後、あの八紘一宇の崩解を目ざして、根っから違うという意味での人それぞれが強調されたのも、それは歴史のゆきがかり上、むしろ当然であっただろう。しかし、この対極へ走ったために生じた互いの共通基盤の無視は、それがためにまたいつ八紘一宇的共同意識の効用が説かれるきっかけとなるか、しれたものでない。反動がまた反動をよぶのだ。対極へ走ったものは、また容易に対極へ走るだろう。既にその徴候が各面で現れている。

 だからこそ、私たちは「私」たちであり「私たち」でなければならないと私は思うのである。それ以外に、どうしたら人がそれぞれであり得ようか。人間的であるということがあり得ようか。



あとがき ・・・・通信続行のことばに代えて

一年が過ぎ去るのは速い。私がこういうことをやってみようと心に決めたのが、ちょうど昨年の今日であった。その一週間ほどまえであったか、卒業する学生が私を訪ね言いおいていったことばが、その数日間というものずっと私の頭にこびりついていた。なにかしなければだめです、そう言われたって、いったい何ができるだろう。そしてその日、その学生が再び、筑波を離れるあいさつのため寄ってくれた。そうか、今後は何か疑問が生じても、こういう貝合に話しあうなどということができなくなるのだな、そう思ったとき、実はこの通信という方法が頭にわいてきたのである。そして、深くも考えずに、あとはご承知のとおり、無我夢中のぶっつけで一年が飛び去った。

それにしても、私の拙い文章、勝手な言い分を我慢してお読みいただいたことに対しては、お礼の言いようもない。

それに甘えてことしも、少しはましな文章、内容をと心がけつつ、続行しようと思う。昨年同様、ご批判いただければ幸いである。

 ・・・・学生時代は、物にはその物がそうあらねばならない形(機能?)というものがあり、そしてそれにより美しい形:スタイリングを与えると考えていました。・・・・(しかし)人間が自分の趣味・好みを超えて美しいと思うものというものはなく、その物がよいとかいう意識は、すべて個々の人間の好みによっているのではないでしょうか。・・・・

〇だとしたら、デザインとはどういうことか。これは、いまある家電メーカーのデザイン部に勤めているインダストリアルデザインを専攻した卒業生からの便りの一節である。

今号のテーマは、この便りを読んでいるうちに思いついたのである。しかし問題は多岐(の局面)にわたり、一回で済みそうもなく、今回はそのうちのほんの一部についてしか考えてみることができなかった。それが「人それぞれ」ということなのである。けれどもそれは、根本的な問題なのではないかと私は思っている。

昨年度最終号「冬の情景」に対しては、かなりの人から〈それぞれの冬〉が寄せられた。冒頭の冬の情景の描写が、それぞれの方の内にあった冬の情景を呼び起こしたもののようである。あるいは、日常の忙しさに紛れて見失っていたことを思い起こさせたもののようである。それは全くこの冬の情景の便りを寄せてくれた人の描写:感性のしからしむるところであって、残念ながら私の文章のせいではない。私はただ、それを使わせてもらっただけだ。先号のテーマは、実は、この便りに触発されたのである。

 それぞれなりのご活躍を! そして、その共有されんことを!

    1982年3月25日                   下山 眞司 


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「Ⅲ-1 中世の典型ー1:浄土寺 浄土堂」 日本の木造建築工法の展開

2019-05-01 11:36:18 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開 Ⅲー1」A4版19頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

「日本の木造建築工法の展開  Ⅲ  中世」 

 

・・・・現代物理学の発展と分析の(結果得られた)重要な特徴の一つは、自然言語の概念は、漠然と定義されているが、・・・理想化(された)科学言語の明確な言葉よりも、・・・安定しているという経験である。・・・既知のものから未知のものへと進むとき、・・・我々は理解したいと望む・・・が、しかし同時に「理解」という語の新たな意味を学ばねばならない・・・。

いかなる理解も結局は自然言語に基づかなければならない・・・。というのは、

そこにおいてのみリアリティに触れていることは確実だからで、だからこの自然言語とその本質的概念に関するどんな懐疑論にも、我々は懐疑的でなければならない。             

ハイゼンベルク「現代物理学の思想」より

 

・・・・かつて、存在するもろもろのものがあり、忠実さがあった。

私の言う忠実さとは、製粉所とか、帝国とか、寺院とか、庭園とかのごとき、存在するものとの結びつきのことである。その男は偉大である。彼は、庭園に忠実であるから。

しかるに、このただひとつの重要なることがらについて、なにも理解しない人間が現われる。

認識するためには分解すればこと足りるとする誤まった学問のあたえる幻想にたぶらかされるからである(なるほど認識することはできよう。だが、統一したものとして把握することはできない。けだし、書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質、すなわち、おまえへの現存が欠けることになるからだ。事実をかき混ぜるならば、おまえは詩人を抹殺することになる。また、庭園が単なる総和でしかなくなるなら、おまえは庭師を抹殺することになるのだ)。・・・

サン・テグジュペリ「城砦」より

 

 ・・・・彼の言葉のなかで、私にいちばん強い印象をあたえたのは、・・・廊下を歩きながらスタインバーグが呟くように言った言葉である。  その言葉を生きることは、知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中で、どの都会でも、殊にニューヨークでは、極めてむずかしいことだろう。  「私はまだ何の専門家にもなっていない」と彼は言った。「幸いにして」と私が応じると、「幸いにして」と彼は繰り返した。   

加藤周一「山中人閒話・スタインバーグは言った」より

 

  

主な参考資料 原則として図版に引用資料名を記してあります

日本建築史図集(彰国社)  日本住宅史図集(理工図書)   日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版)  奈良六大寺大観(岩波書店)  国宝 浄土寺 浄土堂修理報告書(極楽山浄土寺)  重要文化財 龍吟庵方丈修理工事報告書(京都府)  文化財建造物伝統技法集成(文化財建造物保存技術協会)  古井家住宅修理工事報告書(古井家住宅修理工事委員会)  箱木家住宅(千年家)保存修理工事報告書(重要文化財 箱木家住宅修理委員会)  日本の民家(学研 絶版)  日本の美術 (至文堂)   滅びゆく民家 川島宙次(主婦と生活社 絶版)      

          

 

 Ⅲ-1 中世の典型-1:浄土寺 浄土堂・・・貫工法の詳細、その原理

 浄土寺 浄土堂は、1194年に上棟した東大寺の荘園内に重源の指図でつくられた堂で(大工:豊後介紀清水と記録にあります)、1間20尺の3間四方(60尺四方)の整然とした平面で、屋根は方形(ほうぎょう)です。

 堂内の阿弥陀如来、観音などの立像は快慶作で、堂と同時につくられました。

 浄土寺 浄土堂については、詳細な「国宝 浄土寺 浄土堂修理報告書」極楽山浄土寺 発行 が刊行されています。その修理報告書を基に、大仏様を紹介します。 (ここでの図版・写真は「国宝 浄土寺 浄土堂修理報告書」からの転載になります。)

 その特徴は、古代以来の寺院建築の形式にとらわれず、それまでの寺院には見られなかった柱を何段かので相互に縫うことで架構を立体的に強固に固める架構法を採っている点にあります。

 浄土堂では、下から、足固貫胴貫飛貫(ひぬき)そして三段の虹梁で固められています。頭貫ではありませんが、古代寺院とは違い柱頭を固くつなぐ方法を採っています。 註 飛貫(ひぬき)は近世以降の建物では見かけない。また、浄土堂では、胴貫の箇所は数箇所。   

[図は左が南]

柱の太さ(径):柱は下から上へと細まり、径は1本ごとに異なるが、平均すると以下のようになる。 外周柱:柱頭1.9尺 柱底2.0尺  外周柱(平柱):柱頭1.7尺 柱底1.8尺  内陣柱:柱頭1.9尺 柱底2.1尺

図の着色箇所は、飛貫および頭貫

 

 

 架構の見上げ 下図矩計図に対応する部分

主要部矩計図

 

各架構部材の組立て分解図・解説

 以下に各レベルの横材肘木虹梁など)の平面・分解図伏図を、下から順に掲載します。

 伏図は、左が南、右が北です(分解図は、国宝浄土寺浄土堂修理工事報告書から転載・編集した図です)。ただし、図の掲載順は建て方の順ではありません。建て方の順は、伏図・壁仕様の次の頁を参照ください。

 継手・仕口には、きわめて簡単な相欠き(あいがき)(合欠き継手仕口双方に使われています(下図説明)。

 

1)足固貫(あしがためぬき)

 の脚部を相互につないで固める役割。近接して胴貫のある箇所を除き、各を平面格子状に繋いでいます。

 

 

 足固貫は、南北方向、東西方向とも断面は4.3寸×3.0寸の平角材で、柱~柱間で一材としています。したがって、各方向とも内で長さ6寸落差0.5寸の鉤型(かぎがた)の付いた相欠き:略鎌:で継いでいます。 双方は、3.5寸の段差を付けて内で交叉します。それゆえ、二材は0.8寸の相欠きで噛み合うことになります。 

 に彫られる貫孔は、下図のように、南北方向は4.5寸×3.5寸、東西は5.0寸×3.5寸、したがって埋木くさびの寸法は異なります。埋木を打込まない段階は、ガタガタです。

 

外周側柱(平柱) 柱頭:1.7尺 柱底:1.8尺

 

内陣柱 柱頭:1.9尺 柱底:2.1尺

 

 普通、に使われる継手は略鎌と呼ぶ。相欠き合欠き)とは、材の双方を同型に欠いて嚙み合わせること言い、継手・仕口両方で使われるが、特に継手で材の先端に鉤型(かぎがた)を付けた場合が略鎌。下図は略鎌の各種の変形。

 

  

文化財建造物伝統技法集成より編集 略鎌の語源は不祥

 

 

2)飛貫(ひぬき)(樋貫・肘木    

 飛貫(ひぬき)は、柱列の上部を固める役割。飛貫(ひぬき)は近世の建物では見られませんが、中世の住居には使われています。

 鳥居の二段目の横材を飛貫(ひぬき)と呼びます。鳥居が門型を維持できるのは、そのためです。

 浄土堂には、足固貫飛貫までの間に胴貫(どうぬき)があるが、使用箇所が少ないために省略します。

 飛貫は、隅柱では柱を貫通し、柱を飛び出す部分は、上端を3.5寸欠きとり、南北方向を上木、東西方向を下木として柱内で相欠きで噛み合せ、肘木として使う。

 なお、秋篠寺(8世紀末~9世紀初頭建立)は、当初南面の庇部が吹き放しで、その際、頭貫の下に横に入る長押の取付く横材を飛貫と呼んでいる。

 

 

 

  側柱位置での肘木は、最下段はを貫通、下から2段目:飛貫と同高位置:は柱に大入れ、3段目はを貫通、4段目は堂内側だけで大入れ、最上段は堂内外に伸び、頭貫相欠きで載っている(上掲の断面図および大虹梁仕口分解図を参照)。

 

 

3)頭貫(かしらぬき)  と呼びますが、本来、ではありません。

 「古代寺院」の頁で触れましたが、寺院建築では、古代以来、柱頂部に柱相互を結んで載る部材を頭貫と呼んでいます。  浄土寺 浄土堂でもその呼称を使っています。

 ただ、浄土寺 浄土堂の場合は、隅柱上で直交する頭貫が、互いに相欠きで噛み合い、頂部に固定されるような工夫がされ、古代の寺院建築の頭貫とは異なり、相互を固く結ぶのようになっている。

 

 柱底は平坦で、礎石上に据え置かれているだけである。 各段ので固めれば、架構全体が一つの立体となり、その立体が礎石からはずれることは容易には起き得ないことが分っていたため、柱底を平坦のままにしたと考えられる。

 柱底には、15mm角ほどの大きさの通気口(通気溝)が彫られている。防湿のためと考えられている。

 柱 底部の通気口(通気溝)

 

解体時、礎石柱底との隙間に、上図のような深さで、調節のための飼い物(ヒノキの木片)が挿入されていた。字は飼い物の厚さ。内陣の柱四天柱は解体しなかったため、厚さだけで長さは不明。

 

 

4)大虹梁および各部材の取合

一つ置いた次の図は、この部分の、飛貫、肘木などと柱との取合い分解図

 

 

 木鼻があると組むことができないため、分解し後付けにしている(埋木:楔により、ほぼ一材と同様になる)。

 

 

に差してあるだけだが、埋木によって固定されると、同時に固定され、肘木の役割を果たす。同じく も、 に挟まれ固定され、肘木として働くことになる。下図もおなじような考え方。

 

 

 5)遊離尾垂木(ゆうりおだるき)と母屋(もや)、その取合

 

 

 

  

  

   

 

 

図版・写真は「国宝 浄土寺 浄土堂修理報告書」極楽山浄土寺発行 よりの転載になります。

(Ⅲ-1 浄土寺 浄土堂の壁仕様 に続きます。) 


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「Ⅲ-1 浄土寺 浄土堂の壁仕様」

2019-05-01 11:35:36 | 日本の木造建築工法の展開

(Ⅲ-1-5 より続きます。)

 

浄土寺 浄土堂の壁仕様――壁に耐力を求めていない

 

 

  

当初の小舞 竹小舞ではなく木小舞               当初の土壁

 

 国宝 浄土寺 浄土堂修理工事報告書」より

 ・・・・浄土堂では、)建具の入る部分以外の壁面は、飛貫より下の比較的面積の大きいところは横板壁とし、面積の小さい飛貫・頭貫間および頭貫・母屋間とは土壁としている。

 註 横板壁嵌板(はめいた)幅1.35尺×厚0.16尺(約41cmx4.8cm)程度    外周 隅柱:直径2尺(約60cm)。 平柱:直径1.8尺(約54cm)

 壁下地は、間柱(まばしら)横間渡(よこまわたし)小舞(こまい)よりなる。

 間柱は見付0.20尺×見込0.25尺(約6×7.5cm)の断面をもち、飛貫・頭貫間では3等分して2本、頭貫・母屋間には柱間中央の遊離尾垂木(ゆうりおだるき)によって2分された区画内に1本ずつ立てる。 この間柱の上下両端はともに(ほぞ)を造り出し、下端は枘穴にすべり込ます。

 横間渡は、この間柱の上下方に各1本ずつ、計2本通し、それぞれ締め(くさびじめ)とする。その断面は0.20×0.05尺(約6×1.5cm)。 小舞はすべて割り肌そのままの木小舞で、当然のことながら寸法は一定せず、ほぼ幅は0.05~0.10尺(約1.5×3cm)、厚さは0.02~0.03尺(約6×9mm)程度である。 小舞の掻きつけは、先ず幅広のものを間柱1区画内に4本あて間渡に縄がらみし、これを支持体として横小舞を一定間隔に間渡側に掻きつける。 そして後、縦小舞を両面にあてがい、小舞縄を前後に出し入れしながら千鳥に順次掻きつけて行く。

 この縦小舞を留める縄は、上間渡の上方と下間渡の下方にそれぞれ1通り、および両間渡間に2通りの計4通りである。結局、小舞は中央に横材を、その両面に縦材を用いるいわゆる三重小舞で構成されることになる。

 この結果、小舞としての厚みは、すべてで約0.10~0.12尺(約3~3.6cm)程度となり、先の間柱の見込み0.25尺(約7.5cm)の範囲内に納まる厚さである。 これらの小舞材は、すべて杉材を用い、また小舞縄は、稲藁を4~5本より合せた直径約1分(約3mm)程度の太さのものであった。

 ・・・・ 当初の壁は、前記壁小舞荒壁を塗立て、その上に直接仕上げの上塗りを施しただけの単純なもので、後世のようなむらなおし中塗りなど工程を重ねるものではなかった。壁厚も比較的薄く、上塗りを含め全体で0.30尺(約9cm)程度で、このことは、荒壁土の組織が粗でしかも藁苆(わらすさ)の混入も少ないこともあって、亀裂や剥落のしやすい状態にあった。

 ・・・・当初の上塗り材は・・・いわゆる白土(はくど)と呼ばれるもので・・・あった。 註 白土:火山灰または火山岩の風化した土。二酸化珪酸・珪酸アルミニウム。

 

 現在、木造軸組工法による架構の耐力は、軸組間に設けられる壁によって得られると見なされ、それゆえ、文化財建造物についてもその考え方によって補強・補修等が行なわれています。

 しかし、浄土寺浄土堂東大寺南大門など約800年を越える年月を建設時の姿を維持してきた大仏様:貫工法の建物では、上記解説のように、壁は軸組間の充填材にすぎず、構造耐力は架構それ自体によって得られる、と考えていることは明らかです。大仏様以前でも、寝殿造など壁の少ない建物が古代以来可能であった事実から推察すると、古代以来、壁はあくまでも軸組間の充填材に過ぎないと考えられていたものと思われます。そして、壁は軸組間の充填材であるという考え方が日本の軸組工法の基本であったことは、古今を問わず、軸組間を壁あるいは開口に、随意、任意に置換している事例が多々ある事実に示されています(壁に耐力を期待していたならば、このようなことは不可能です)。

 

(Ⅲ-1 浄土寺 浄土堂の建て方手順 に続きます。)


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「Ⅲ-1 浄土寺 浄土堂の建て方手順」

2019-05-01 11:35:01 | 日本の木造建築工法の展開

(Ⅲ-1浄土寺 浄土堂の壁仕様 より続きます。)

 

 浄土寺 浄土堂の建て方手順 国宝 浄土寺 浄土堂修理報告書」極楽山浄土寺発行より抜粋要約)

 

 

 

 浄土寺浄土堂の場合、修理工事調査担当者は、いろいろ検討の結果、を立て、先ず飛貫(ひぬき)を通し、軸組を固めることから始めた、と判断しています。

 その理由は、四周全体に取付く胴張り付きの飛貫は、側柱内で(かぎ)型付きの相欠き(あいがき)(略鎌りゃくかま)で継ぎ、しかも隅柱内での仕口も相欠きであるため、を立てながら取付けて行かねばならない:つまり建て込みにしなければならないからです。

 たしかに、飛貫が組まれると、軸組:柱列が固まります。これは、古代の寺院建築では考えられないことです。 註 足固(あしがため)は、後から差し込むことができます。  胴貫(どうぬき)は数が少なく、飛貫とともに組めばよく、頭貫(かしらぬき)は、と言っても、柱を貫通してないので上から落し込めば済みます。

 次に、どこから始めるかを考えるにあたり、調査者は、最後の飛貫を、どこに、どのように建て込むかを考え、正面の入口部で飛貫方立(ほうだて)(建具:扉を納めるための縦枠)で二分されているので、ここで逃げられる、と判断しています。

 更に、入口左側の[柱3]か、隅の[柱4]か、を考えた末、飛貫が柱内で交叉する東南角の隅柱[柱4]から時計まわり:右まわりで進めるのが妥当、と判断しています。 註 [柱1]から、反時計まわりで進めることも可能です

 以下、順を追って、「報告書」の内容を、先の図を参照しつつ、要約紹介します。 

 図中の赤い〇で囲んだ数字(ex①、①イ・・・)は、建て方の順番を示し、また①イ・・・は、①の工程の中の順番を示します。その工程ごとの説明が、以下の①・・・に対応します。

 

第1工程 

・・・・[柱4]:東南隅柱を据える。この柱内で、飛貫+肘木相欠きで交叉する。 南側の飛貫+肘木上木(うわっき)、東側:正面側が下木(したっき)

①イ・・・南側の飛貫+肘木(上木)を[柱4]に差す。

①ロ・・・差した飛貫+肘木(上木)を1.05尺高の差口(さしくち)いっぱいに押上げ、その下側に東側の飛貫+肘木(下木)を通す。  上木を落して下木に噛み合わせる。 註 仕口は先に下木を据え、上木を噛ませるのが普通。

  ・・・ 上木を先行させる理由の解説図が、「柱4飛貫仕口分解図」です。  普通、相欠きの噛みあう部分:高さは上木下木同寸。つまり、噛みあい部の高さの1/2ずつにします。ところが、この例では、上木の欠き込みは4寸、下木は3寸になっています。また、下木の差口が7.5寸×4.8寸であるのに対して、上木の差口は、幅は下木と同寸ですが、高さは飛貫の高さ1.05尺のままになっています。通例どおり下木を先に据えると、上木差口の残りは6.5寸×4.8寸しかありませんから、高さ7寸の上木を差すことができません。それゆえ、上木を先に差し、高さ1.05尺の差口上端まで目いっぱい持ち上げ下木を差す、という手順になるわけです。

  ・・・欠き込み寸法を2等分ではなく差をつけたのは、おそらく、下木の欠き残りをなるべく大きくして、下木が欠き込み部分で折れる危険を避けるためではないか、と考えられます。上木側は、欠き残りが小さくても折れる心配はありません。

  ・・・正直のところ、欠き込み寸法の差の影響が分るまで、そして、上木側の差口が大きい理由、埋木:の高さが3.5寸もある理由が分るまで暫しの時間を要しました。 

 ・・・・[柱5]を飛貫継手分(1.6尺)定位置より西側に仮に立て、[柱4]からの飛貫を[柱5]に差しながら定位置に戻します。 この場合、下に割竹を敷いて滑らします。別の方法として[柱4](東南隅柱)を、飛貫を通したまま継手分東に傾け、傾きをもどしつつ[柱5]に飛貫を差す方法があります。     

      これは、上木側差口の3.5寸の埋木の余裕を使う方法で、調査者は、これが正統の方法かもしれない、と見ています。たしかに、3.5寸の「余裕」の意味も分ります。

・・・・飛貫を[柱4]に差します:①ロと同時の作業。

・・・・[柱3]を、[柱4]からの飛貫を差しながら据えます。

⑤⑥・・・飛貫を差しながら[柱6]を立てます。 次の西南隅の[柱7]がやっかいです。 [柱7]を定位置に立てたのでは、南側最後の飛貫+肘木が差せません。そこで、

⑦イ・飛貫の[柱6]への挿入分(1.6尺)[柱7]を西にずらして仮に立て、

⑦ロ・・・更に図のように南側に少し回転させ飛貫+肘木を[柱7]に差し、

⑦ハ・・・回転して戻しながら[柱6]に飛貫東先端を差口にあてがいつつ、

⑦ニ・・・[柱7]を、飛貫を[柱6]に差しながら、定位置に戻し固定します。この作業は、[柱7]の下に割竹を敷いて行ないます。 なお、②で触れた「別方法」も可能です。

・・・・これからは飛貫と同時に胴貫も建て込みになります。 [柱7]へ飛貫を①イ、ロと同様の方法で差します。

・・・・胴貫を[柱7]へ差します。

・・・・[柱8]を、②の[柱5]と同じ方法で、[柱7]からの飛貫、胴貫を差しながら立てる。

・・・・次の間の飛貫、胴貫を[柱8]に差す。

・・・・⑩と同じ方法で、[柱8]からの飛貫胴貫を差しながら[柱9]を立てる。

次は[柱4]と対称位置の隅柱[柱10]なので、①と同じ方法を採ります。

⑬イ・・・[柱10]を飛貫の継手分北側(右外側)にずらし仮立てし、

⑬ロ・・・はじめに北側面の飛貫+肘木を差します。飛貫+肘木を差したまま北側に回転させ、 [柱10]に差した上木飛貫+肘木差口上端目いっぱいに押上げ、

⑬ハ・・・西面北の間に入る飛貫胴貫を、押上げてある[柱10]の飛貫+肘木の下に差し、飛貫+肘木を落し飛貫に噛ませます。

・・・・北面、西面の各をつけたまま、回転を戻し、西面の飛貫、胴貫を[柱9]に差します。

・・・・[柱11]を、[柱10]からの飛貫を差しながら、定位置に据えます。

・・・・[柱11]に、北側中の間の飛貫を差します。

・・・・[柱11]からの飛貫を差しながら[柱12]を定位置に立てます。

⑱イ・・・[柱1]を東側にずらし、時計まわりに少し回転させて仮に立て、

⑱ロ・・・北側面の飛貫+肘木を[柱1]に差し、

⑱ハ・・・回転を戻し、

⑱ニ・・・全体を西に戻しながら飛貫を[柱12]に差し、[柱1]を定位置に据える。

・・・・北側の飛貫+肘木(上木)を押上げておき、正面北の間の飛貫を[柱1]に差します。

・・・・[柱2]を、[柱1]からの飛貫を差しながら立てます。

最後に、[柱2][柱3]の足元を左右に開いておき、胴貫を入れた後、を定位置に戻します。

 

第2工程 次の工程は、頭貫の据付けですが、これは落し込みでできるので簡単です。

 

第3工程 内陣については、この修理では解体をしなかったそうです。内陣も建て直すとするならば、内陣から先に建てるのが普通です。当初も、当然内陣を先行したと思います。内陣は1間四方ですから継手はなく、どこからでも工事は行えます。

図上の順番は、一つの方法です。

 

第4工程 内陣頭貫を据付。これも簡単な仕事です。

第5工程 足固貫を入れる。南面、北面の下木を先に、次いで東面、西面の上木を入れます。これは、飛貫に比べれば簡単です。 ただ、足固貫1本の長さが柱間芯々寸法より長いため、柱間に入れるとなると、材を柱径一つ分以上反らせなければ穴に入りません(通常の「」では、反らして貫通させています)。しかし、この場合は平角材ほどの寸法の材ですから、簡単には反りません。貫穴が横にも広く開けてあるのは(横にも埋木:楔を入れたのは)、このことを考えたのかもしれません。

 ところで、解体してみたところ、足固貫材は、ほとんどが湾曲していたため、柱間に通すのに都合がよかったそうです。もしかしたら、意図的なものだったのかもしれない、と調査者も考えています。註 自然の収縮では、そんなには湾曲しないのでは、と思います。

  以上、言葉で工程を説明するのは難しく、「報告書」に書かれていることも理解するには時間がかかりました。それにしても、きわめてよく練られている「設計」です。

 

 得てして現今の設計は、できあがりの姿に固執するあまり、その姿に至るにはどのようにするのかを考えてある例は、きわめて少なくなっています。しかし、「設計」する以上は、「工程」まで考えられていてあたりまえです。

  浄土寺浄土堂東大寺南大門などの工事にあたって、どのような図面が用意されていたのか(それともなかったのか分りませんが、建て方前、木材を加工する:刻む前に、ありとあらゆることが考えられていなければ、このような建物づくりを実行することは不可能です。  という字には、本来、つくるにあたって必要なありとあらゆることを考える、という意がある。

 しかも、使われている継手・仕口は、原理的には相欠き埋木締めも含む1種類のみ相欠きの原理を、場所ごとで応用し* 、すべてを律しています。 * 単なる相欠き鉤型を付けた相欠きなど、大きさ、形状を場所ごとに変えている。 

 また、一人でこの仕事をしたはずがなく、協働者がいたはずです。そのためには、「事前に考えたこと」つまり「設計内容」を、工人同士が「共有」していたと考えられます。その方法は詳らかではありません。

  東大寺大仏殿の後に建設されたとしても、その4年後に、このような熟達した仕事がこの地で行われたことを見ると、大仏殿の再建が、宋の技術者の指導だけで行なわれたと考えるのは、かなり無理があるように思えます。


内陣正面 木造阿弥陀如来及両脇侍立像(国宝) 国宝 浄土寺 浄土堂修理報告書」極楽山浄土寺発行 より:昭和34年発行、平成5年重版


(Ⅲ-1 参考 東大寺南大門 に続きます。)


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「Ⅲ-1 参考 東大寺南大門」

2019-05-01 11:34:11 | 日本の木造建築工法の展開

(Ⅲ-1 より続きます。)

 

参考 東大寺 鎌倉再建 南大門

 

 垂木先端には、鼻隠しを取付け。鼻隠しは、垂木先端に数本おきに刻まれた蟻型で取付けられている。図・写真共に奈良六大寺大観 東大寺より

 

   

 同面で納まる仕口は下図)                 挿肘木に架かる通肘木仕口は下図)

 

 

文化財建造物伝統技法集成(文化財建造物保存技術協会)所載の図版を基に作図

 

 は柱の内部で継がれ、同一高さで交叉している。 継手は、材端部を縦に二分し、鉤型(かぎがた)の付いた相欠きに刻み、直交交差する鉤型を引っ掛ける方法で継がれている。つまり、直交する材を介して継がれている。その結果、柱、直交する2本が、立体的に編まれることになる。

 通肘木は、突き出た肘木群の振れ止めで、下方への動きはで受け、挿肘木大入れ蟻掛け(全蟻で架けている。

 

 

参考 東大寺 鎌倉再建 大仏殿 想定図

 

:貫先端肘木  赤:挿肘木(両側) 白:挿肘木(片側)

 

 

参考 東大寺寺域内に現存する大仏様建築

 


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