F・L ライトの付け縁:trim-補足・・・・trim は何のため?

2007-02-28 02:10:21 | 設計法
 
 ライトは、trim を設ける手法を、煉瓦主体の建物でも使っている。その一例が上のボック邸。

 自由学園は trim はそれほど目立たないが、ライトの息が直接かかった建物の一例として紹介(遠藤新が協力者)。なお、上掲の写真は、保存修理前の状態。 

 開口部の枠回りの材:額縁なども、壁面を引き締める重要な役割を持つ。ライトはその点にもかなり気を使う。

  註 trim には、整える、仕上げる、飾る、飾りをつける、
    ・・の縁を飾る、などの意味がある。

 日本の場合は、開口部は軸組に「敷居」「無目」「鴨居」ときには「方立」を組み込むことでつくられるのが普通の方法だった。
 したがって、組み込まれる材がそのまま表われ、空間の雰囲気をつくりだすのに大きな影響があった。
 だから、かつては、材の寸面はもとより、材と材の取合いにも細心の注意が払われた。
 この点に特に気を配ったのが茶室である。小さな空間では、壁の中のそれらの材に自ずと目がゆくからである。

 しかし今、こういった「作法」は、大壁の流行とともに、なくなりつつあるのではないか。

  註 「作法」とは、「形式」や「様式」をなぞることではなく、
    ものごとの「原理・原則」あるいは「意味」(建築の場合は、
    「空間」の意味)を考えること。

  写真・図は先回と同じ書の「1907-13」「1913-23」より

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F・L ライトの付け縁:trim・・・・表情のつくりかた

2007-02-27 15:50:05 | 設計法

 上の写真と図は、1900年代初め、ライトが設計した住宅。
 この頃のライトの住宅としては「ロビー邸」が有名だが、これはその前の設計で、ロビー邸の構想は、この建物で醸成されたらしい。

 1900年代前半のライトの建物:住宅で目に付くのが、壁面や天井を走る化粧縁:付け縁である。trimと呼ぶようだ。平坦な面が、それによって表情が一変する。
 この建物ではそれ程でもないが、ときに「付長押」を思わせる例もある。
  
 この建物は、いわゆる「2×4」工法。したがって、表面に表われる部材は、すべて「張り物」であることが、下の詳細図で分かる。
 日本の建物の場合、いわば張り物にあたるのは「付長押」ぐらい、あとは大半が構造部材であるから、その点、ライトのつくり方とは異なる(昨日の「光浄院」の室内写真参照)。
 なお、ライトは、煉瓦造でもtrimを多用した例をつくっている。

  註 最近、重要文化財に指定された「自由学園・明日館」(1927年)も、
    2×4工法である。
    山手線の目白駅から歩いて直ぐ。公開されている。
    ライトの協働者、遠藤新の設計した講堂も観ることができる。

 しかし、ライトが帝国ホテルをつくって以来(1923年)、ライトの建物が日本人に好まれているのは、この見かけの上の「趣き」のせいではないだろうか。この頃の建物に、ライト風の建物が多い(旧・官邸など)。

 そしていまなお、ライトもどきは、住宅メーカーの建物でも見ることができる。もっとも、空間はライトのつくる空間に似ているとは言いがたい。
 単なる形体の模倣に終ってしまうのは、おそらく、ライトは trimの線の持つ意味を十分に考え(ということは、空間の意味を考えることなのだが)、 trimの幅や面からの出、形状を決めているのに対し、いわば《ライト様式》として捉えているからではなかろうか。

  写真と図は、FRANK LLOYD WRIGHT MONOGRAPH 1907-1913より 

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建物づくりと寸法-2・・・・「内法寸法」の意味

2007-02-26 01:00:12 | 建物づくり一般

 先回、柱間の寸法が、応仁の乱以後、ほぼ6尺5寸に落着いたことに触れた。
 わが国の建物づくり(もちろん、木造の軸組工法)では、この柱間の寸法①と、柱の太さ②、そして内法寸法、つまり、人の出入口(遣り戸や明り障子が入る)の切目長押上端から付長押下端までの寸法③が、空間をつくる決め手であった。

  註 現在では、「敷居上端~鴨居下端」の寸法、つまり開口の高さを
    「内法」と呼ぶのが一般的である。

 これは、おそらく、構造部材として「長押」が使われたころからの言わば「習慣」ではなかろうか。
 主に奈良時代に使われた構造部材の「長押」は、足元、腰、出入口上部などにいわば任意に設けられたが、その内の出入口上部の「長押」(後に「内法長押」と呼ぶようになる)は、出入口の建具取り付けにも使われ、また腰の「腰長押」は、窓の窓台の役割も担っている。その結果、長押の設置位置は、同時に、開口部の高さ方向の規準線の役を果たすようになったものと思われる。

 構造用部材としての「長押」は、鎌倉時代初め(平安時代末)「貫」にその役割を譲る(「大仏様」、「禅宗様」)。
 しかし、「長押」はそこで姿を消したわけではなく、出入口上部:内法位置の「長押」は、化粧部材の「付長押」として継承される(もちろん、材の寸面は「長押」よりも小さくなる)。
 「長押」は、建物の水平ラインを強調するが、それが日本人に好まれた、ゆえにその必要がなくなってからも、「付長押」として残った、だから「和様」の象徴、と一般に言われる(2月14日に紹介の「東大寺法華堂」の立面図で、「長押」使用と「貫」使用の表情の違いを見ることができる)。
 たしかにそういう見方もできるが、長押の位置が開口部の高さを整え、空間の様態を決めるのに有効と判断されたことの方が大きかったのではないだろうか。この「付長押」の位置が空間構成上有効であるという認識が、多分、矩計において内法寸法を重視する「作法」となったと考えるのがごく自然だろう。

  註 本人は日本の影響は受けていない、と言っているようだが、
    F・Lライトが壁面に多用した「付け縁」は、「付長押」の
    効果の援用と考えていいだろう。
    特に書院造で多用される「蟻壁」を見るとその感を強くする。
    「蟻壁」とは、上掲の断面図で天井際の「付長押」と天井の
    間の大壁部分のこと。これについては別途紹介の予定。

 さて、上掲の写真、図は滋賀県大津市の園城寺:おんじょうじ(通称「三井寺(みいでら)」にある「光浄院客殿(こうじょういん・きゃくでん)」である。
 1601年の建設と伝えられ、書院造の原型・典型と言われる建物である。

  註 客殿とは、字の通り、接客専用の、当主に客が面会する場所である。

 この建物に若干遅れて、1608年、徳川御用の大工棟梁平内(へいのうち)家のいわゆる秘伝書と言われる木割書「匠明」がつくられた。要するに、建物の各部の寸法を決める方法を示した「教科書」である。その中に、「光浄院客殿」類似の平面が「殿屋」の標準形として載っている。上掲の図がその矩計である。

 このような書物の存在が明らかになってからというもの、いつのまにか、この書の記載事項が、あたかも書院造などの寸法の絶対指標のごとくに見られる傾向も生じた。この書の示す数字に合わない建物は、正統ではない、などという見方をする学者が出る始末。何か、現在の、法令の指示が絶対である、と思い込むのにも似て、面白い。

 しかし、実際を見てみると、むしろ、この書の指示通りの数字をとっている例は少ない(下註)。
 柱間寸法は、先回触れたように、応仁の乱以後、15世紀後半からは6尺5寸近辺になるが、柱寸法で、「匠明」のいう6寸あるいは柱間の1/10、つまり6寸5分という例は、普通の大きさの建物にはなく、16~17世紀を通じ、5寸前後である。西本願寺書院の、縁まわりで9寸角(ただし、6尺5寸の3個分のスパン)、内部で7寸角が大きい方だ。実際、普通の建物で、6寸、6寸5分角というのは感覚的に太すぎる。

 註 東福寺龍吟庵(1387年ごろ) :柱間6尺8寸、柱4寸8分角
   慈照寺東求堂(1490年ごろ) :柱間6尺5寸、柱4寸弱角
   大徳寺大仙院(1513年)   :柱間6尺5寸、柱5寸弱角
   園城寺光浄院(伝1601年)  :柱間6尺5寸2分、柱5寸角
   園城寺勧学院(1600年)   :柱間6尺5寸1分5厘、柱5寸角
   修学院離宮中御茶屋(1682年):柱間6尺5寸、柱 縁4.8寸角、室4.2寸角
 
 おそらく、こういう「木割書」の示す数字そのものは、あくまでも目安にすぎず、最終的には、建物をつくる人自身の感性に委ねられるべきものなのだ。

 ただ、尊重すべきは、「内法寸法」を判断の基準とする点であろう。おそらく、工人たちの間に、長い間、「内法寸法」を拠りどころにする「習慣」があり、「匠明」もそれに従わざるを得なかっただけ、と言ってよい。

 また、先回触れた日本の開口部:建具が、内法からの下り寸法で呼ばれているのも、この「習慣」の延長であったのだ。逆に言えば、その習慣に従うことに、まったく支障がなかった、ということである。

 たしかに、実際にこの手法で設計してみても差し障りがない、むしろ決めやすいく、しかも統一感が得やすいことが分かる。

 しかし今、多くの(木造建築の)設計では、この「作法」が忘れられているようだ。それはすなわち、「建物における開口の持つ意味」が忘れられたということだ。多くの設計では、開口は、単なる立面図の《装飾》のためにあるらしい。
 そして、そういう状況の存在が、先回触れた「建具寸法の簡素化」を推し進める背景にあるのではないだろうか。

 あらためて、建物における開口、開口装置の「意味」について考えてみる必要があると思う。

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建物づくりと寸法-1 の補足・・・・「龍吟庵方丈」補足

2007-02-24 10:51:41 | 建物づくり一般

 「龍吟庵 方丈」の内部の写真と、桁行断面図を補足・追加。
 出典は「日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰ」より。図には寸法を加筆。

 他の「方丈」建築では、中央の室:「室中」に仏壇があるが、別棟に「昭堂」があるので、この建物にはない。

 この建物は、構造や開口装置など、いろいろの視点から観ることができるので、いずれ別の機会で再度触れることになると思う。

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建物づくりと寸法-1・・・・1間=6尺ではなかった

2007-02-24 00:44:02 | 建物づくり一般

 数年前、アルミサッシの規格寸法が変った。いわゆる「住宅商品・建材への新寸法体系」の導入の一環である。
 1997年、建設省、通商産業省によって設置された「建材の品質簡素化に関する検討委員会」の下部委員会で「住宅サッシ部門の問題点と方向性」が検討され、1998年、住宅サッシの標準化について答申が出された。新寸法体系は、この答申に基づくものである。

 従来と大きく変ったのは、高さ寸法である。これまでは、木造建築(住宅)に於いて一般的に使われていた建具寸法に準じて多様な規格が用意されていたのだが、200㎜ピッチに整理されてしまったのである。 

 かつて、木造住宅の高さ方向の寸法は、内法:床から鴨居下端までの寸法:「内法寸法」を基に考えられ、建具=開口も、内法(鴨居下端)からの下り寸法で決め、その寸法に応じて、それぞれに呼称が付いていた。逆に、その呼称で、ただちに高さが分かったのである。
 一例を挙げれば、床まで開口の建具は「掃き出し」=内法寸法(5.7尺、5.8尺、5.9尺、6尺)、高さ1.2~1.5尺(1.2尺、1.5尺)は「小窓」、2~3.5尺(2尺、2.5尺、2.8尺、3尺、3.5尺)は「高窓」、3.9~5尺(3.9尺、4尺、4.5尺、5尺)は「肘掛け窓」などといった具合である。そして、この寸法に応じた木製の既製建具が関東間、京間等にあわせて売られてもいたのである。

 たしかに、高さだけでも多様の寸法がある。
 しかし、意味なくこれらの多様な寸法があったわけではない。
 これらの多様な大きさは、室内を構成してゆく上で必要なもので、むしろ、よくここまで整理したものだ、と思う。なぜなら、内法を決め、これらの小窓~肘掛けを微妙に使い分けてゆくだけで、空間を上手に構成することができるからだ。

 これらを200㎜単位で整理する、という乱暴な論理はどこから生まれたのか、はなはだ疑問に思う。第一、なぜ200という数字になるのか分からない。合理的な判断とは、到底言い難い。
 おそらく、審議した学識経験者諸氏は、かつての建具の寸法体系の意味が分からなかった、つまり、日本の建物づくりの方法を知らなかったのではなかろうか。

  註 こういう「審議会」がものごとを決めてゆくのだ、と考えると
    恐ろしくなる。なぜなら、文化遺産の破壊にほかならないからだ。


 建物をつくるとき、寸法はきわめて重要であることは言うまでもあるまい。
 そこで、日本の建物づくりと寸法について書いてみようと思う。

 上掲の建物は、京都の東福寺(とうふくじ)にある塔頭(たっちゅう)、龍吟庵(りゅうぎんあん)の「方丈」である。

  註 京都駅からは南にある。奈良線あるいは京阪で「東福寺」下車。

 東福寺は、天竜寺、相国寺、建仁寺、万寿寺とともに京都五山と呼ばれた禅宗寺院。
 塔頭というのは、禅宗寺院で、その寺の高僧の没後、弟子が師徳を慕い、塔の頭(ほとり)に構える房舎を言う。そして、「方丈」とは、住持の居所の呼称。

 なぜこの建物を最初に取り上げるか。
 外観写真を見ると、何となくゆったりしているように見えるはずだ。
 それは、高さは他の普通の方丈建築と変らないのだが、基準の柱間1間が6尺8寸あるからだ。いわゆる「京間」と呼ばれるのは6尺5寸、他の「方丈」も6尺5寸が一般的。それより3寸も大きい。
 一説によると、「応仁の乱」(1467~1477年)以前は、柱間7尺近辺が多かったが、「応仁の乱」以後、6尺5寸にほぼ統一される、という。
 たしかに、1513年に建てられた大徳寺の塔頭・大仙院は柱間6尺5寸、江戸初頭の光浄院も6尺5寸、1630年の西本願寺も同じ。

 つまり、龍吟庵は、応仁の乱以前の貴重な例と言える。

 関東で主流の、関東間、江戸間、田舎間などと呼ばれる柱間:1間=6尺というのは、秀吉の太閤検地以来だと言われる。1間を従来より小さくすることで、租税を稼ごうとしたらしい。以後、武家が主に治めることになる関東では、基準尺度が1間=6尺で建物もつくられるようになった。しかし、関西では(正確に言うと、名古屋あたりから西では)、以前のまま継承され、現在に至っている。
 関東間の四畳半は狭いが、京間の四畳半は、狭い感じがしない。千利休の妙喜庵は二畳だが、京間の二畳だから、関東間の二畳とは大分印象が違う。

  註 関東でも、古い農家では、6尺5寸程度が基準の例もある。
    茨城県かすみがうら市の「椎名家」など。

 先ほどの「新寸法体系」では、どうやらメートル制への移行を考えているようだが、現在メートル間と呼ばれている1間=2mというのよりも、龍吟庵はまだ6cmほど大きい(6尺6寸≒2m)。
 西欧ではヤードポンド法がメートル制と共存しているのに、日本は尺貫法をどうしても捨て去りたいらしい。

 真壁つくりが主体のわが国の建物では、この「柱間寸法(=1間)」と、先に触れた「内法寸法」、「内法から天井までの寸法(小壁の丈)」、「建具寸法:開口の大きさ」、そして「柱の見付寸法」が空間の決め手として重要であった。
 なぜなら、わが国の建物は針葉樹の直材でつくられるため、部材のつくりだす壁面の姿(柱や横材がつくる形状)が、空間構成上の重要な意味を持ってくるからである。茶室は、その最たるものだ。

 残念ながら、最近、真壁のつくりが減っている。使用部材が表に表われるため、その使い方に気を配る必要があるのだが、どうも、それが敬遠されるらしい。しかし、真壁でつくれば、いいかげんな木造建築は減るはずなのだ。

 次回は、高さについて。 

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閑話・・・・西欧の軸組工法-2

2007-02-22 13:43:18 | 建物づくり一般

 [16時すぎに、註を追記しました]

 上の図は、スイスとドイツの木造軸組工法で使われている継手・仕口の、ほんの一例である。
 日本と同様の方法が彼の地にもあることが分かる。
 考えてみればあたりまえ。たとえ日本では地震が多いからと言って、どのように木材を組めば壊れない立体になるか、と考える事においては、彼我の違いがあるはずがない。そして、一体の立体物に組み上がれば、そう簡単には壊れないのだ。

 ドイツでは金物による継手や仕口の考案が多数なされているが、よく見ると、金物以前にあたりまえに使われていた継手・仕口が十分に研究されているようだ。ただし、ここで「研究」というのは、力の伝わり方、あるいは継手・仕口部の耐力を数値化することではない。
 「今の」日本の専門家は、すぐに数値化に走ってしまうが、部分を仮に数値化できたからといって、その足し算で立体物の強さが決まるわけではないのは、言うまでもあるまい(註)。
 彼の地の書物を見ると、こういう立体物の、こういう場所では、かくかくしかじかの理由で、こういう継手・仕口が使われる、といういわば「定性的」な押さえがしっかりとできている(定量化にこだわらない)。
 言うなれば、彼の地では「森を見て木を見る」のだが、「今の」日本では「木を見て森を見ない」というのが一番分かりやすい言い方かもしれない(註)。

 何度も言うけれども、「今の」日本の建築に関わる人たちは、多くはいわゆる《理科系》なのだが、「今日は突然今日になる」とでも思っているらしい。つまり、「歴史」を疎んじる、「歴史」を学びたがらない性癖があるようだ。そしてさらに、最近は、「現場」(現場と現場に関わる人)をも疎んじる。「現場」からは、絶対にホールダウン金物のごとき金物は生まれてはこないはずだ(註)。

  註 「今の」人たちとは、「近代的教育」、すなわち
    「一科一学」の教育の下で育った人たちの意である。
    近世以前の人は、「森を見て、そして木も見る」のが
    あたりまえ、当然「歴史」も、そして、「現場」も
    ないがしろにはしなかった。

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閑話・・・・西欧の軸組工法-1

2007-02-21 00:40:53 | 建物づくり一般

 上の写真と図は、スイスの現存する18世紀の木造建物群とその軸組分解図。ドイツの建物に類似している。
 「筋かい」を導入するとき、これらの事例を参考にすれば、現在のような事態にはならなかったのではないか。
 しかし、近代化=西欧化を使命とした人たちは、西欧を訪れても、こういう「無名の」建物は見向きもしなかったのだ。自国にあっても、それは変らない。昨年12月26日に、日本の実情を皮肉交じりに論評した遠藤新の言葉を紹介した。要所を再掲する。

 「・・・かつてブルーノ・タウトは桂の離宮を絶賛したと聞いております。そして日本人は、今さらのように桂の離宮を見直して、タウトのひそみに倣うて遅れざらんとしたようです。しかし私は深く信じます。タウトは桂離宮に驚く前にまず所在の日本の百姓家に驚けばよかったのです。そしたら日本に滔々として百姓家を見直すということが風靡したかもしれませぬ。従来とても我々の間に『民家』の研究という種類のことはありました。しかし、この研究には何か『取り残されたもの』に対する態度、『亡び去らんとするもの』に対する態度、したがって、ある特殊の趣味の問題として扱われているのが現状です。・・・」
 もしかして、(法令規定以前の)日本の木造技術(いわゆる伝統工法)は「たぐい稀な技術だ」と異国の偉い人に褒められると、少しは考え直すのかも・・・。

 ところで、スイスの工人たちは、あたりまえだが、日本の工人と同じようなことを考えている。
 要点は、柱や斜め材を、何段もの横材で縫うこと。これは、日本の差物や貫の考え方と同じ。違うのは、彼の地では日本ほど開放的にする必要がないこと(だから、壁が多く、そこにはすべて斜め材が入れられる)、そして、材料が針葉樹か広葉樹かという点だけだろう(広葉樹は堅木のため、短い枘でも込み栓が打てている)。軸組も基礎に据え置くだけだ。
 日本の「耐力壁依存工法」(柱を横材で縫うことを考えていない)の理論家たちは、このような共通点をどう見るのだろうか。
 聞いた話だが、上の図のように、「筋かい」の途中を横材でつないだところ、「筋かい」の効き目がなくなるからダメ、と言われたという。

 私は実物を観たことはない。書物で観るだけである。
 上の写真、図は“Fachwerk in der Schweiz”(Birkhauser刊)からの転載。 

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「在来工法」はなぜ生まれたか-5 の補足・続・・・・ホールダウン金物の使用規定が示していること

2007-02-20 03:14:31 | 《在来工法》その呼称の謂れ

少し見にくいかも知れないが、2000年に出された告示第1460号「木造の継手及び仕口の構造方法を定める件」について、「改正建築基準法令集」「改正建築基準法(二年目施行)の解説」から表、図を抜粋、筆者が編集、解説したもの(網掛けおよび*印)。
いわゆるホールダウン金物(図の[へ]~[ぬ])の使用規定である。

   注 ホールダウンとはhold down、つまりhold upの逆。
      hold upは、「押上げる」「支える」の意。
      hold downはその逆で、「引寄せる」「引きつける」の意。
      つまりホールダウン金物とは、二材を引寄せる金物のこと。

網掛けしたのは[へ]~[ぬ]のいずれかを使えと指示された箇所。
解説に記したように、全部で11箇所あるが、内9箇所は「何らかの筋かい」を入れた軸組。

ところで、表二の「上階および当該階の柱が共に出隅の柱の場合」とは何だ?
これは、「基準法施行令第43条5項」の「階数が2以上の建築物におけるすみ柱又はこれに準ずる柱は通し柱にしなければならない。ただし、接合部を通し柱と同等以上の耐力を有するように補強した場合においては、この限りではない」の但し書き部分への具体的方法を示したものだ。
しかし、二階建ての隅の柱を管柱で、つまり上下2本の柱で仕事をする人は、先ずいない。難しくて(面倒で)仕事にならないから、通し柱にするのが常識・常道。よってこの5箇所の場面は現実には存在しないのが普通だから残るのは6箇所。

表二の「上階の柱が出隅の柱で、当該階の柱が出隅の柱でない場合」とは何か?これは平屋建てに、奥行は同じで間口の小さな2階を載せた場合のこと。
このような場合、仕事を大事にする人なら、当該箇所を通し柱にする。その方が仕事もしやすい。

そうなると、法令上どうしてもホールダウン金物が要るのは、*印を付けた3箇所のみとなる。いずれも何らかの「たすきがけ筋かい」を入れた場合である。これ以外は不要ということ。
そして、「面材耐力壁」にした場合、該当箇所がないことに注目してほしい。これはすなわち、先回の「補足」で触れた、「筋かいと面材を入れた軸組の挙動の違い」、「筋かいは怖い」ということを如実に示している。

しかしながら、現実には、多くの木造建築の現場では、いまやホールダウン金物のオンパレード。「入れてあれば文句ないだろう」という態度の表れと見てよいだろう。実際の話、確認申請を審査する側も杓子定規、出隅の通し柱の2階胴差の上下をホールダウン金物でつなげ、という審査官がいたという。「何のためだ」と訊いたら、「規則だから」と言われたそうだ。つまり「入れてあれば文句は付けない」ということ。
大体、柱の足元あるいは頭部に、ボルト孔を数個一列に木目に沿って開けるなどというのは、いわばミシン目、「割れてくれ」と頼んでいるようなもの。
 
しかし、どうしてここまでして《怖い》「筋かい」に拘るのか。
一言で言えば、「数字で表したい」「数字にしないと分かった気がしない」という呪縛にとらわれている、としか言いようがない。

昨年11月25、28日に書いたが(下註参照)、「scientific:科学的であるということ」=「何でも数値化すること」と思う人が多い。
つまり、数値化できないとscienceでないと考える人びとだ。
世の中には数値化できないものがある、この事実を認められないのならば、それはscientificではない。

   註 「『冬』とは何か・・・・ことば・概念・リアリティ」
      「東大寺・南大門・・・・直観による把握、《科学》による把握」

そして、現行の木造に関する法令を支えている「理論」は、数値化できないものを、あるいは、数値化できないのに、あえて数値化するために編み出された論であって、現場の必然として生まれたものでないのである。
もしも、そうではない、立派な理論だ、と言うなら、わが国の古来の建築を、その理論で解説できなければ嘘である。ところが、理論の支持者は「・・(それらが)現代科学技術とは無縁に発展してきたものであるだけに、(その評価・・)はいまだ試行錯誤の状態であり・・」と言う。

真にscientificならば、ここで立ち止まらなければならない。私たちの目の前に厳然としてある古来の木造建築を無視して(分からなくて)、なぜ木造建築の理論が成り立つのか?

以上見てきたように、「耐力壁依存工法」:在来工法は、つまるところ、リアリティに即していない理論に拠った工法、ということになる。

  註 私は「筋かい」を否定しているのではない。
     もしも「筋かい」を使うのならば、西欧の木造建築のように、
     全面的に「筋かい」を入れればよいのである。
     「筋かい」:「斜材」を多用している西欧の木造建築を、
     近日中に紹介する。
     そして、西欧にも「継手・仕口」があることも。
      
コメント (8)
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「在来工法」はなぜ生まれたか-5 の補足・・・・耐力壁(筋かい、面材)の挙動

2007-02-18 19:44:55 | 《在来工法》その呼称の謂れ

 木造建築には「筋かい」を入れる、というのが《常識》《習慣》になってしまってからというもの、「筋かい」を入れた軸組に横からの力が加わると、軸組にどんな変化が現われるか、原点に戻って考えることをしなくなってはいないだろうか。
 同様に、1981年および1990年に追加された「面材」による耐力壁を設けたときの軸組の挙動はどうなのか、「筋かい」と「面材」で、軸組の挙動に違いがあるのかないのか、同じ効力があると考えてよいのか・・、こういう点についても原点に立ち返って考えているようには思えない。第一、法令およびその解説自体、そういう点についての解説はまったくなされていないのである。

 2000年に出された告示第1460号「木造の継手及び仕口の構造方法を定める件」を詳細に見ると(これはホールダウン金物の使用規定と言ってもよいのだが)、「筋かい」の場合と「面材」の場合では、対処の仕方に大きな違いがあることが分かる。しかし、そこでは単に使用の規定だけで、なぜそうするのかは説明されてない(解説書にもない)。
 要するに、理由はともかく(理由など考えなくてもいいから)、指示・規定に従っていればよい、ということなのだろう。

 だから、いろいろ話を訊いてみると、とにかく「筋かい」「ホールダウン金物」を取付けておけばいいんだ、その方が確認もとりやすいから・・、という仕事が増えているようだ(設計図を「確認する方」も同じ「感覚」らしい)。取付けることが安全側とは限らない、と言うことを考えないのである。
 「筋かい」も「ホールダウン金物」も、ただ取付けてあればいい、というものではないだろう。「ホールダウン金物」については次回。


 上掲の図は、以前、茨城県建築士会の会報に連載した「シリーズ木造」で使った図の再掲である。
 これは、「筋かい」や「面材」を入れた単純な軸組に、横から力を加えると、軸組にどんな挙動が起きるか、何が違うか、そして、実際の軸組ではどうなるか、について考えるための解説図である。
 結論から言えば、「筋かい」と「面材」では、挙動がまったく異なる、ということだ。ところが、法令では、この二者を併用してもよいことになっている。こういうハイブリッドは危険きわまりない。なんでもいいから耐力壁が設けられていればよい、というのだろうが、あまりにも乱暴な話だ。

  註 「シリーズ木造」は、茨城県建築士会のホームページでみる
    ことができる。ただ、紙面の関係で、説明が十分でない。
  

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「在来工法」はなぜ生まれたか-5・・・・耐力壁に依存する工法の誕生

2007-02-17 16:29:02 | 《在来工法》その呼称の謂れ
[6.00PMに補足を加えました]

1900年代に入り、西欧の最新技術、鉄骨造や鉄筋コンクリート造が、それにとって不可欠な「材料力学」「構造力学」の導入ともども盛んになってくる。

鋳鉄の構築物への利用は、すでに明治の初めから行われていた(昨年10月12日紹介の「神子畑鋳鉄橋」:1871年:など。下記参照)。

   註 「鉄の橋-2」

しかし、建築への鉄やコンクリートの利用は、大分遅れる。
一つには、当初の「建築の近代化:西欧化」が、西欧の「様式建築」の導入に重きが置かれていたからである。

しかし、たまたま各地で起きた大震災を契機に、鉄骨造や鉄筋コンクリート造の普及することを願っていた一部の建築学者から、他の工法に比べ、鉄骨造やRC耐震性にすぐれる、木造、煉瓦造、石造は地震に弱いと盛んに喧伝された(12月23日下記記事参照)。

   註 「学問の植民地主義」参照)。

わが国の建築学の世界での、材料や工法に優劣を付けたがる「性癖」は、おそらくこの頃から始まるのだろう。

しかし実際は、地震で壊れるかどうかは、単純に材料や工法によるのではなく、設計と工事の質によるところが大きいことは既に触れた(前掲12月23日付け「学問の植民地主義」中で紹介の「関東大震火災誌」中の岡田信一郎の論文や、1月20、23、26日の「地震への対し方」参照)。

   註 「地震への対し方-1・・・・『震災調査報告書』は事実を伝えたか」
      「地震への対し方-2・・・・震災現場で見たこと、考えたこと」
      「地震への対し方-3・・・・『耐』震の意味すること」
 
大工・棟梁たちにとって「地震はよくあること」だったが、学者たちには驚愕すべき出来事で、ここ数回触れてきたように、彼らの木造建築についての考え方に大きな影響を与えた。

また、大工・棟梁たちの「経験と勘:直観にたよった仕事」は、学者たちにとってはきわめて「非科学的」に見えた(その見方は現在でも変らないことは、1月26日付前掲「地震への対し方-3」中で紹介した坂本功氏の一文でも分かる)。

折しも、西欧から入ってきた「材料力学(材料の力学的な性質についての理論)」「構造力学(力学や材料力学を駆使して構築物に働く力を分析する理論)」は、「経験と勘:直観:による技術・工学」の「科学的な技術・工学」への転換への動きに拍車をかける。

明治の後半から帝国大学の教壇に立った佐野利器が、自らが学んだ教育を「何の科学的理論もない・・」と批判しているように、教育や研究の場面でも「科学的理論の裏付け」が必須のものになり始めていたのである(12月5日下記記事参照)。

   註 「日本の『建築』教育・・・・その始まりと現在」参照)、


鉄骨造やRC造は、それまでの工法とは異なり、材料を成型する、あるいは形を成型するという過程、滝大吉の言を借りれば「自然の品に人の力を加へて製したる品」が必ず必要である(12月10日の「建築学講義録」:下註参照)。

   註 「『実業家』・・・・『職人』が実業家だった頃」

鉄骨造や鉄筋コンクリート造では、この「どのような形の品を製するか」が設計上重要で、「材料力学」「構造力学」は、まさにそのために大きな展開を見せ、事前に形状を算定する上で、大きな成果を得るようになった。同時に、「理論」の体系化以前になされた多くの「勘:直観による仕事」がすぐれたものであったことも、「理論」によって後付けされた(10月16日に紹介したワットの鋳鉄製Ⅰ型梁を使った7階建て建物の設計など:下註参照)。

   註 「鋳鉄の柱と梁で建てた7階建てのビル・・・・世界最初Ⅰ型梁」

   註 「構造力学」等によって事前に確認を行うのが常道化した一方、
      従前のような溌剌としたアイディアに充ちた計画が減ってきた
      ことは否めない。
      「理論」が発想を萎縮させるのである(次の記事参照)。
      「閑話・・・・最高の不幸、最大の禍」参照)。

「科学的理論」で扱おうとの試みは、木造建築(木造軸組工法)にも及ぶこととなる。そうすれば、経験と勘:直観に委ねることから脱却できる、と考えられたのである。

ところが、ここで難題にぶつかる。木と言う材料は、鉄やコンクリートと違い、一筋縄では扱えないのである。
たとえば、材料の強度一つをとっても、樹種によって異なり、しかも同一樹種でも一本ごとに異なるからである。さらに、木材には、一本ごとに異なる捩れや収縮などの癖がある。かと言って、それを制御することはできない。

これは、「自然の品」特有の性質:特徴にほかならないのだが、一律の値で扱える鉄やコンクリートに比べ、「欠陥がある劣る材料」と見なされた。
現在、木材の強度を、「これ以下の値はあり得ないといういわば最低の強度」を当該樹種の強度と定めているのは、「一律」の値にこだわった結果と見てよいだろう。
この基準強度に素直に従うと、同じ梁間に架ける梁の寸面が従来の2割増し程度になってしまう(材の組み方にもよるが、2間の梁間に対して、従来なら8寸×4寸程度で済んだ梁が1尺×4寸程度必要になる)。
使用する木材について、施行令第41条は「・・節、腐れ、繊維の傾斜、丸身等による耐力上の欠点がないものでなければならない」と規定しているが、腐れはともかく、節や繊維の傾斜、丸身などを気にしていたら、無節の柾目材という簡単には得られない材料を探さなければならなくなる。
しかし、一般庶民はそんな材料を簡単に得ることはできない。一般庶民の住居、いわゆる「民家」を見ると、節があり癖もある材料を使って、なおかつ百年以上生き永らえることのできる建物を多数つくっている。
 
材料の強度や品質を一定になるように規定できたとしても、しかしなお、木造には理解しがたい点、科学的な一律の公式にのらない点が多々ある。
木材には弾力性・復元性があり、しかもその程度は、材料ごとに異なるのである。
 
たとえば、外力が梁から柱にどのように伝わるか、鉄骨やRCではほぼ一律と見なすことができるが、木材の場合はそうはゆかない。算定するには、各接点ごとに、使われている材料の特徴を数値化しなければならない。

つまり、鉄骨やRCでできる一律の計算式、公式が木造にはつくれないのである。これが、鉄骨同様にすべてを(一応)一律に扱える「集成材」の推奨される理由でもある。

   註 従来の、つまり、いわゆる伝統的な木造建築では、あるいは
      大工・棟梁たちは、木材が一本ごとに性質が異なるのがあたりまえ
      と考えていた。
      木材は自然のもの、人間同様各々が異なっていて当然、
      それをどのように使うかが大工・棟梁の技能であった。
 
そこで木造建築の「理論的理解の方法」として着目されたのが「筋かい」であった。
木造建築の構造において最大の問題は、地震への対策であると考え、それへの対策として彼らが打ち出した「筋かい」を(2月12日記事「在来工法はなぜ生まれたか-4:下註:参照)、木造の構造の決め手と考える方法、すなわち、「木造建築は外力に対して壁の部分で耐えている」とする考え方、「耐力壁の理論」である。
これならば、たしかに「壁量」を計算できる。言ってみれば、計算できることが目的だったのだ。
したがって、壁以外の軸組部分は、重力を支えているだけとなる。

   註 この考え方は、「机上で考案されたものであって、
      現場での経験の裏打ち、現場の必然的な要求から
      生まれたものではない」ことに留意する必要がある。

   註 「『在来工法』はなぜ生まれたか-4:なぜ基礎へ緊結することになったか」

具体的には、木造の軸組をXY方向に分解し、各面に入る「壁」の量の総和で、地震:水平力に抵抗しようという「理論」であり、「壁」のうちで最大の効力を持つとされたのが「筋かい」を入れた壁であった。

その際、日本の建物ではあたりまえであった「小舞土塗り壁」は最も地震への耐力がない壁と見なされた。
周知のように、そして「地震への対し方」でも紹介したように、《小舞土塗り壁は地震に弱い》という説が、《屋根瓦は危険》という説とともに喧伝された。

   註 基準法制定後31年経った1981年、大壁仕様で「面材」を張った壁も
      耐力があると見なされるようになり、その9年後の1990年、つまり
      基準法制定後40年経って、真壁仕様の「面材」も認めるようになる。
      さらに最近、2003年12月には、「小舞土塗り壁」も従来の法規定の
      2~3倍の耐力があると認められた。
      しかしこの間約半世紀、左官仕事がなくなり、左官職も激減した。
      一介の法令が、貴重な文化遺産:技能を滅亡の淵に追いやった一例
      と言えるだろう。

「壁:耐力壁」によって架構を維持する考え方が推奨された結果、「耐力壁」の仕様に気を使う一方で、軸組の組み方そのものに、大きな変化が表れる。

すなわち、①継手・仕口を簡略化し金物で補う方法が一般化し(推奨され)、②張間に応じて横架材の材寸を増減する仕事が増加した。さらに2000年の告示による「耐力壁」の配置の規定によって、③従来のような開放的なつくりの建物をつくることは一段と難しくなった。
これらの特徴を示すモデル図が先に2月5日に掲載した図である(「構造用教材」所載の図)。

以上のようにして生まれた「現行法令の規定する軸組工法」を、「在来工法」と呼ぶのは決して適切な表現とは言えず、むしろ、その特徴から、『耐力壁依存工法』と呼ぶのが妥当だろう。

ところで、この『耐力壁依存工法』(在来工法)には、一般にあまり知られていないが、「改造・改修・増築・補修などが行いにくく、また耐力壁部分が損傷すると直ちに全体が破損する」という特徴がある。これは、2×4工法と同様の特徴である。

   註 「筋かい」を取り除き増築し地震で被災した例が多いことは
      「地震への対し方」で紹介した。
      また、2×4工法の建物では、増築を思い立ったとき初めて、
      増築ができないことを知る人が多い。
      2×4工法のキャッチフレーズには、地震に強いとはあっても、
      増築が難しい点については触れていないからである。

では、法令規定以前の工法、いわゆる「伝統工法」はどのような特徴があるか。 これについてはいずれその体系化の過程について触れるが、要は、「木材の不均一性を欠陥とは考えず、むしろ、その性質をありのままに活用し、部材を一体の立体に組上げる点」、そして、そのために、改造・改築・増築・補修などが可能であり、また、一部の損壊が直ちに全体に及ぶこともない。

一見複雑な「継手・仕口」も、伊達につくられたのではなく、一体の立体に組むための必要に迫られて工夫考案されたのである。
この特徴から「伝統工法」ではなく『一体化・立体化工法』と呼ぶ方が、その性格を正確に伝えられ、また誤解も少なくなるはずである。

   註 法隆寺は世界最古の木造建築と言われるが、その部材には、
      当初材のほかに、修理しあるいは取り替えられたものが
      きわめて多い。
      古い住居にも、部材の取替えや改造が積み重ねられた例を
      多く見かけることができる。
      西欧の建物は「継手・仕口」はなく「金物」が主流である
      かのように思われる傾向があるが、それは誤解で、日本と
      同様な「継手・仕口」が使われている。
      金物使用があたりまえなのは、北米で盛んになった2×4
      工法のみと言ってよいだろう(北米の古い建物には、継手・
      仕口がある)。

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閑話・・・・版築の基壇

2007-02-14 22:54:39 | 建物づくり一般

 奈良時代の寺院では、中国にならって版築で基壇をつくったけれども、直ぐにやめてしまったことを如実に示す事例がある。上掲の東大寺・法華堂である。
 この図は側面図。向って左側は奈良時代の建築、右は鎌倉時代の増築部分で、「大仏様」でつくられている。
 奈良時代の建物は、かなりの厚さで基壇がつくられ、表面を漆喰で塗り固めてある。亀の腹に似ていることから「亀腹(かめばら)」と呼ばれている。
 右側の鎌倉時代の建築では、礎石下だけの地形(地業)。

 ここには、基礎の他にも、建設時期を象徴する注目すべき点が表れている。
 すなわち、「長押(なげし)」による工法と「貫(ぬき)」による工法を比較することができるのである。
 まったく違う工法でいながら、見事に統一がとれている。増築で、このようにできるということは、めったにない。

 「長押」から「貫」への進展については、後に触れる予定。

 なお、法華堂では、日光、月光など、素晴らしい仏像群を観ることができる(これらの仏像は、いずれも、本来この堂にあったものではないらしい。だから、堂の空間には、ぴったりこない)。


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「在来工法」はなぜ生まれたか-4 の補足・・・・日本の建築と筋かい

2007-02-13 13:46:32 | 《在来工法》その呼称の謂れ

すでに、昨年12月29日の記事で紹介したが、わが国の文化財建造物を数多く調査してきた財団法人文化財建造物保存技術協会が刊行した「文化財建造物伝統技法集成」に、「日本の建物に於ける筋かい」について解説があるので再掲する。
 
・・・鎌倉時代には、柱間に筋違いを設け、間渡し材を密に入れ壁を塗ることが行われたが、間もなく使われなくなり、主に小屋束まわりの補強に用いるだけになる。中世以降、軒まわりに桔木を使い、桔木上に小屋束を立てる小屋組が増える。桔木には1本ごとに形状の異なる丸太が使われるため、桔木上の小屋束の寸法が決めにくく、屋根の反り・流れを決めて母屋を所定位置に仮置きし、束を1本ずつ現場合せで切断し、桔木、母屋に枘なしで釘打ちとする粗放な手法が増え、その転び止めとして筋違いが使われた。近世になり、あらかじめ地上で梁、桔木ごとに墨付を行う技術が確立、梁・桔木・母屋に枘差しで束を立て貫で固める小屋組が普通になり、筋違いの使用は減る。・・

   註 同書では、「筋かい」に「筋違い」の字を用いている。


同書には、上掲の写真・図のような、きわめて特異な事例が紹介されている。
これは、「内法貫」上の小壁を「力板」や「たすき掛けの斜め材」で補強して、広い開口を維持しようとした慈照寺・東求堂(1490年ごろの建設)の東面の例で、このような方法は、他にまったく類例がないという。

   註 内法の鴨居は、農家等の差鴨居ではなく造作材である(→断面図)。
      同書では、この「たすき掛けの斜め材」を「筋違い」と呼んでいる。
      「筋違い」は、斜めに材を使うときの総称であったようである。
      現在では、この例のような使い方は「筋かい」とは呼ばないだろう。
      現在の用語では、その役割、形から、「ラチス(梁)」と呼ぶのが
      相当ではないだろうか。

断面図で分かるように、東求堂の足元まわりも典型的な「礎石建て+足固め」方式で、もちろん礎石の上に据え置かれているだけである。

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「在来工法」はなぜ生まれたか-4・・・・なぜ基礎へ緊結することになったか?

2007-02-12 02:23:11 | 《在来工法》その呼称の謂れ
礎石上に建てるようになって以来、日本の建物は、「基礎(礎石・布石)上に据え置くだけ」であったことはすでに触れた(2月9日、10日)。

では、なぜ「土台の基礎への緊結」が必要とされるようになったのか。
これには、「建築学者の誕生」と、彼らによる「筋かい」導入の提案が関係している。

昨年12月5日の「日本の建築教育・・・・その始まりと現在」で、1870年代初めに、建築の近代化=西欧化のための学校がつくられ、近代化を指導するエリートの養成が始まったことに触れた。当初の卒業生は、年に10人程度、まさにエリートである。これがすなわち「建築家」・「建築学者」の誕生である。

それ以来、現在に至るまで、日本の建築技術者には、従来の大工棟梁:「実業者」の系譜(12月10日記事参照)と、学校出の人たちの系譜の二系統が存在することになる(同時に、建築家・建築学者が実業者よりも優位との誤解も生まれ、これも未だに引継がれている)。

これもすでに触れたが、近代化を使命と考える建築家・建築学者は、当初、日本の建築およびその技術は捨て去るべきものと考えていたため、それらについて無知に等しく、また知ろうともせず、(12月29日掲載記事参照、現在はどうだろうか?)、それでいてなお、近代化へ向けて人びとを先導・指導することを使命と考えていた(この傾向も、一部に引継がれている)。

この建築家・建築学者たちを驚かせたのが、明治24年(1891年)の「濃尾地震」であった。大きな地震は、古来、日本では頻繁に起きていたのだが、彼らにとっては初めての経験だった。そして関東大地震はさらに彼らを驚かした。

もしも彼らが、自国の建物について多少でも関心があれば、古来の日本の建物づくりの技術は、多雨多湿、頻発する地震、毎年襲う台風など、日本の環境の中で生まれ、培われた技術であることを知っていたはずであるが、彼らはそうではなく、大地震に遭遇してただ驚愕し、まったく違う反応を示した。

これらの大地震では、多くの建物が被災した。当然、大半が木造建築である。

しかし、木造建築と言っても、すべてが同様のつくりであったわけではない。
これは、建物を建てる場面を考えれば明らかなのだが、建物をつくるにあたっては、「とりあえずの住み家を建てたい」という立場から、「今後代々住み続けることができる建物をつくりたい」という立場まで、多様な立場がある。

この立場の違いは、当然、建物のつくり方に素直に反映する。
「とりあえず」の建物は「とりあえずのつくり」になる。そして、そういうつくりの建物に被災例が多かった。
これは、阪神・淡路地震でも同様である(1月23日下記記事参照)。

   註 「地震への対し方-2・・・・震災現場で見たこと、聞いたこと」

つまり、建物が地震で壊れるには理由がある。
材料や工法の違いは、直接は関係ない。
いかなる材料、工法であれ、壊れるのは「壊れるべくして壊れる」のである(12月23日下記記事参照)。

   註 「学問の植民地主義」

今でもそうだが、震災があると、人の目は壊れた建物に行く。建築家・建築学者も同じであった(現在も変らないこともすでに触れた)。
被災地には、致命的な被害を受けない建物も多数あるのだが、彼らはそれを見なかったのである。そして、見ようともしない。

多くの被災建物は、本来「長方形」であるべき柱と横架材で構成される軸組が、「平行四辺形」に変形している場合が多い。
建築学者は、この変形を防げば地震で壊れない、「長方形」の対角線に斜材を入れ、安定した三角形をつくれば変形が防げる、と考えた。
たしかに、傾いただけの建物ならば、引き起こして斜め材を入れると、一定程度は本来の形を復活・維持できる(そのまま長持ちするかどうかは別である)。

しかし、被害の少ない建物を見ていれば、そこから別の「対震」の知恵を見出すことができたのではなかろうか。

その後、建築学者からは、この斜め材を、建物をつくるとき、最初から入れておくという提案がなされ、積極的に奨められ、実施例も増えた。
これが「対震」部材としての「筋かい」の誕生である。
そして、「筋かい」を入れるためには、軸組を長方形に構成するため、柱の足元に「土台」を流すことが不可欠であった。

ところが、「筋かい」を入れた建物が地震に遭うと、「予想外の現象」が起きることが判明する。
すなわち、「引張り筋かい(薄い板の筋かい)」では柱が土台から引き抜け、あるいは、基礎から土台ごと持ち上がり、「圧縮筋かい(角材などによる筋かい)」では、横架材が押し上げられ、柱から抜けてしまうのである。

   註 たとえば、縦横比が3:1、つまり横1m×高さが3mの軸組に
      「引張り筋かい」を設け、たとえば上辺を水平に1の力で引くと、
      「筋かい」の下端の取付け箇所では、垂直方向に3の力がかかる。
      「筋かい」が、水平の力を増幅し垂直方向の力に変えてしまうのだ。
    
そこで、その対策として、新に、「土台を基礎に固定する」こと、「柱と土台、柱と横架材を金物(当初は「かすがい」が一般的)で補強する」ことが提案される。
土台を基礎に固定するためのアンカーボルトの誕生である。

つまり、「土台を基礎に緊結する」工法は、「筋かい」を設けたことから派生的に発生したのである。

けれども、土台をアンカーボルトで布基礎に緊結した結果、新たに別の事態が起きることになる。土台が基礎=地盤に固定された結果、建物は、地震すなわち地盤の揺れに追随し揺さぶられることになったのである。
簡単に言えば、地盤の動きと一緒に(地盤が上に動けば上に、右に動けば右に・・)建物も動く。

その結果、地面が揺れている間、「筋かい」によって増幅された垂直方向の力によって土台と柱、柱と横架材の接合部は、衝撃を受け続けることになる。当然、接合部が抜けたり外れたりする事態が一層起きやすくなる。 

   註 このような現象への対応策が、「ホールダウン金物」の使用規定を
      示した国土交通省告示第1460号「木造の継手及び仕口の構造方法を
      定める件」である。
      告示内容を精査すると、「ホールダウン金物」取付けを要するのは、
      「筋かい」使用の場合に限られることが分かる。
      「土台の緊結」と「筋かい」が引き起す現象の大きさが、予想以上
      だったからであろう(この点については、いずれ解説する)。

では、基礎=地盤に固定されない場合(法令規定以前の建物)はどうなるか。
「だるま落し」のゲームと同じで、建物は地震の起きる直前の状態を維持しようとするから(いわゆる「慣性」)、建物は地盤の動きには追随しない(1月20日記事23日記事参照)。つまり、地盤の動きと同じ動き、同じ力が、建物にかかり続けることはない。

多くの瓦屋根の寺院が、震災を免れているが、それはおそらく、非常に重量のある建物が(その重量は大部分瓦である)礎石上に置かれているだけだからだろう。重量が重い分、その慣性で(つまり、その場に居続けようとするので)、倒壊しにくいものと思われる(ただし、架構そのものが強固でないとそうはゆかない)。

逆に、もしも、架構を礎石に緊結したならば、慣性が大きい分、倒壊の危険は大きくなる(上部が現状位置を保とうとしているのに、基礎に結ばれた下部は、地面とともに動くからだ)。
現在盛んに言われる「重い瓦屋根は危険、という《通説》」は、架構が基礎に緊結されている場合の話なのだ。

古来、日本の技術者たちが、木造架構を礎石の上に据え置くだけで、緊結を特に考えなかったのは、長年にわたる経験の中で、その必要を感じなかった:認めなかったからにほかならない。

しかし、以上のような点を根本的に見直すことなく、いわゆる「在来工法」=「法令の規定する軸組工法」を支える「理論」が、「筋かい」ともども、「緊結」にこだわるには、理由がある。
次回以降解説する。
 

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「在来工法」はなぜ生まれたか-3 の補足・・・・法令仕様以前の足元まわり

2007-02-10 03:04:07 | 建物づくり一般
 
 [午前3時記載の内容に、若干手を加えました(2月10日午前9時20分)]

建築法令の規定する仕様が広く普及している今、法令仕様以前の工法(いわゆる「伝統工法」)について知る人は少ないのではないかと思われる。
そこで、前回の補足として、いわゆる「伝統工法」の標準的な足元まわりを図で紹介する(上掲の図)。
 
上段の図は、現在の工法紹介図書と、明治年間の教科書で紹介されている「法令仕様が普及する以前の標準的な足元まわり」=「伝統工法」。
中段の図は、奈良時代の建物、法隆寺・伝法堂の断面図。
下段は、江戸時代の商家の断面図。

柱を地面に据えた「礎石」上に立て、1階の床は、地面から一段上った位置で柱の中途に設けるのは、古来、日本の建物づくりの普通の方法であった(通称「高床」)。
「礎石」の下については、念入りな「地形(地業:ぢぎょう)」が行われる(前回記事参照)。

   註 奈良時代には、当初、中国風に、建物の建つ場所全体に、
      「版築」で地盤整備を行っている。
      中国の平野部は地盤が悪いからである。
      しかし、日本ではその必要がなく、柱の立つ部分だけの
      地形(地業)で済ますようになる。

   註 地面と床面との間には風通しのよい空間があり、
      この間の木部に腐朽が生じることはきわめて少なかった。
      しかし、この高床は腐朽防止を目的としたものではなく、
      多湿な環境での生活のために採られた方法であり、
      結果として木部の腐朽防止にも効果があったため、
      長期にわたり、この方式が受け継がれてきたものと思われる。
    
伝法堂では、「床桁」を柱と柱の間に渡し架け、「根太」を載せ床板を張っている。柱間に渡された「床桁」は、現在の「大引」と考えてよい。この「床桁」は、後の「足固め」の前身の姿と言ってよいのではないだろうか。 

なお、伝法堂は当時の貴族の住居を移築したものと考えられているが、当初建物では、「根太」はなく、「床桁」間に厚い床板(厚3寸:90㎜程度)が架け渡されていたという。

高木家では、「足固め」が「大引」を兼ねている。これは、上段の明治の教科書に載っている方法と同じと言える。

「足固め」は、床を支える役目を持っているが、それ以上に、礎石上に立つ柱相互を結びつける重要な役割を持っていた(礎石:布石上に土台を流し柱を立てる場合でも、床位置に「足固め」を設けるのが普通の方法)。

柱と「足固め」との仕口:接合法は上段の図に詳しいが、これは「通し柱」に横架材(「胴差」や「差物:差鴨居」)を取付けるときの仕口と同様のきわめて丈夫な仕口で、法令仕様以前には、ごくあたりまえに使われていた(註)。

   註 「竿シャチ継ぎ」と呼ばれる。
      この仕口の刻み:加工は、現在でも容易にできる。
 
いずれの場合も、柱あるいは土台は礎石上に置かれているだけで、緊結はされていない。緊結することを必要とは考えていないのである。

   註 礎石が自然石の場合は、礎石の形状にあわせ
      柱または土台下部を刻み込む。「ひかりつけ」と呼ばれる。  
      礎石天端を平らに均す場合は、柱がずれないように、
      柱下部にダボ(太枘)を造り出し、礎石に同型の孔を穿ち、
      柱を立てる。
      布石を敷く場合は、土台は布石上に置くだけ。

上記のように、軸組(土台)を基礎に緊結することは従来はなく、緊結するようになるのは、日本の建築の歴史上では、ごく最近のことなのである(1世紀も経っていない)。

緊結が奨められるようになった理由について、次に考える。 
 

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「在来工法」はなぜ生まれたか-3・・・・足元まわりの考え方:基礎

2007-02-09 01:46:27 | 《在来工法》その呼称の謂れ

建物はかならず地面の上に立つ。先ず、そのあたりから調べてみよう。
 
木造軸組工法の足元まわりについて、建築法令では建築基準法施行令第38条で「基礎」について、第42条で「土台と基礎」について規定している。
特に、「基礎」については、2000年の法令の変更で、地耐力別に基礎の仕様が規定された(同時に出された「告示第1347号」が細かく仕様を規定している)。

   註 基礎について、設計者は何をすればよいのか、と考えてしまうほど
      規定が細かい。

木造建築についての基礎の推奨例が図の2段目の「布基礎」「ベタ基礎」である。
法令による「ベタ基礎」の推奨・規定化は今回の変更からのはずである。

従来「布基礎」が推奨されてきたため、現在では、木造建物には「布基礎」を設けるものだという《常識》が一般の人の間にも広まっている。

さらに、これも従来と基本は変わらないが、施行令第42条は、原則として(註1)、最下階の柱の下には「土台」を設け、「土台」は基礎に緊結しなければならない(註2)、としている。

   註1 平屋建てで「足固め」使用の場合、柱を基礎に直接緊結した場合は、
      「土台」を設けなくてもよい。
      「足固め」については、次回に触れる予定。
   註2 軟弱地盤でない敷地で、延べ面積50㎡以下の平屋建ての建物では、
      「土台」を基礎に緊結しなくてもよい。
 
上掲の図で明らかなように、法令の規定する軸組工法では、「布基礎」、「ベタ基礎」にかかわらず、「立上がり」をかならず設け(寸法も推奨値がある)、その「立上がり」上に「土台」を設置することを指示している。

では、「布基礎」の目的は何か。また、なぜ「立上がり」を設け、その上に「土台」を置くようになったのか。
 

明治以降、幕藩体制の崩壊とともに、職を求める人びと(多くは旧武士階級)が都会に集中するようになる。しかし、すでに、居住地向きの土地は都会には少なく、それまであまり人の住まなかった低湿地にも居住地が進出するようになる。しかも、とりあえずの居住が目的であるため、建屋も、いわば応急的な建設が多数を占めた。
そのような状況下で起きた地震(1891年の濃尾地震、1923年の関東大地震など)は、それらの建物に大きな被害を与えた。その一つが、低湿地に建つ建物の「不同沈下」による被害であった。
  
   註 都会の建物に影響があったのは関東大震災であり、
     「建築学者」を最初に驚愕させたのが濃尾地震である。
      この「驚愕の様相と結果」については次回以降説明。

この不同沈下を防ぐために「建築学者」により提案されたのが、「基礎の強化」のための「布基礎」で、現在のようなコンクリート製の「立上がり」をもった「布基礎」が現れるのは、おそらく、コンクリートが普及し始めた関東大地震後ではなかろうか(明治の一般的な矩計図には布基礎はない:次回)。
それまでにも、土台下に「布石」を敷く方法はあったが、石では全体が一体にはならないため、一体成型できるコンクリートが奨められたのである(その基本は、コンクリートの「地中梁」と言ってよい)。

しかし、なぜ、「立上がり」を設けるのか。鉄骨造やRCのように、地中設置の地中梁ではだめなのか。

多分、この「立上がり」は、「土台」を地面から離すことが目的であったと考えられる。「土台」が地面に近いと、腐朽の機会が多くなると考えられたのではなかろうか。

たしかに、地面に近い「土台」は、雨もかかりやすい。
しかし、それだけで腐朽することはない。腐朽菌の繁殖がなければ木材の腐朽は起きないのである。
腐朽は、常に木部に適度な水分と空気:酸素が供給される場面で生じ、普段乾燥状態が維持されていれば、ときおり雨がかかる程度では腐朽は起きない。現に、地面すれすれに置かれた「土台」でも、腐朽しない事例は多数ある。

   註 常に湿潤、あるいは水中にある場合は、酸素の供給が少ないため
      腐朽は起きない。だから、古代の掘立建物の柱脚が残存発見される。

おそらく、この腐朽という現象の詳細な考察抜きで、「立上がり」を設けることが《常識》になってしまったと考えられる。 

ところが、「立上がり」を設けた「布基礎」は、予想外の問題を引き起こした。
すなわち、「土台」面より下が「布基礎の立上がり」で閉鎖され、床下空気が淀んでしまい、床下に位置する木部(土台や柱下部、床束柱など)に腐朽や蟻害、虫害が頻発するようになったのである(木部の腐朽を引き起こす最適な条件がそろってしまったのだ)。

そこで提案されたのが、「布基礎の立上がり」部への「換気口」の設置である。
後に、防火構造や大壁仕様の増加にともない木部の腐朽(蟻害)はさらに起きやすくなり、現在では、布基礎の換気口の設置とともに、防腐・防蟻措置:防腐・防蟻剤の塗布や散布:が法令で指定されている(施行令第49条)。

けれども、「換気口」が満足に機能しないこと、防腐・防蟻剤の塗布、散布がいわば気休めであり、根本的な解決策でないことは、多くの設計者・施工者にとって周知の事実である(防腐・防蟻剤の効能は永遠ではない。しかし、隠蔽された箇所への再度の塗布は不可能である)。

つまり、法令で規定しなければならないほどの問題:木部の腐朽や虫害の多発は、「布基礎」(の「立上がり」)で床下を閉鎖し、床下の木部を外気から遮断したこと、すなわち「布基礎」方式自体に起因している、と考えてよい。

建物の不同沈下ならば、「立上がり」のない普通の地中梁方式でも防ぐことができたはずであり、各柱ごとの基礎:「独立基礎」であっても、不同沈下の防止は十分可能である。
たとえば、既に紹介した北上川の氾濫原に建つ1888年(明治21年)竣工の「登米高等尋常小学校」(1月6日記事)では、「独立基礎」でありながら(2階建てだが「足固め」方式を採用している)、念入りな「地形(地業)」が行われていたため(詳細は同記事にて紹介)、竣工後120年近く経過していたのに不同沈下はなく、「土台」にも腐朽は見られなかった、と報告されている。

   註 「トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-2」


このように見てくると、「立上がり」を設けるなど、法令が仕様を一律に規定してしまうことは、fool proof化にほかならず、かえって、設計・施工者を安易に走らせ(自ら現場に合わせて慎重に考える習慣あるいは意思を喪失させ)、悪しき結果を生み、技術を固定化し、技術の進展を途絶えさせてしまう危惧があるのではなかろうか。
 
   註 「法令の規定に合せること」=「設計」になってはいないか?
      昨今の、構造計算偽装事件も、この延長上に発生したのではないか?
 
次回は、なぜ「土台」を「基礎」に緊結する規定が生まれたのか、考えたい。

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