原型・・・・差物工法の模索

2007-08-31 17:29:43 | 設計法

 先般、「現行法令の下で・・」において、最近の試みを紹介させていただいた。
 この「試み」で使った差物工法を本格的?に使いだしたのは、今から20年ほど前の設計。それが上掲の建物。もちろん(!?)、確認申請は、便宜上、壁量の計算ですませた。

 写真に見える柱間の横材は、すべて差物になっている。というよりも、鴨居レベルだけのつもりでいたら、大工さんが全部差物にする、というのでそうなった。
 この大工さんには、当時60代だったけれども、加工場でも現場でも、いろいろ教わった。
 ただ、設計が施工手順をよく考えてなかったから、現場では手こずった箇所があった。

 茨城の農村には、屋敷のなかに「までや」と呼ばれる建屋が建てられていることが多い。納屋でもあり作業場でもある。
 多くの場合、本体:上屋に下屋を差し掛け、下屋は吹き放しが多い。下屋は一面だけの場合もあるし、二面にL型に回る場合もある。
 この単純な上屋+下屋形式を、そっくりいただいた計画。

 筑波の台地の縁には古代遺跡が多いが、この建物は、古墳を背中にして建っている。前面には水田が広がる。川を越えれば土浦。学園都市の東はずれだから、当分、この環境は維持されるのではないか。

 約20年を過ぎて、いまのところ健在。
 なお、筑波は冬の冷え込みがきついので、温風床暖房を施してある。夏は、冷房要らず。よく風が吹き抜ける。

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20年前に考えていたこと・・・・何か変わったか?

2007-08-28 20:01:52 | 専門家のありよう
 眞島健三郎氏の論説は、約80年前の建築界の状況を教えてくれる。
 そこで、今回は、20年前に書いた文章を載せることにした(「新建築」1987年6月号)。 文字が小さいので、拡大してお読みください。

 80年前に比べて、建築界は、少しは変ったのだろうか、それを知ってもらいたいと考えたからだ。
 実は、何も変っていない。あいかわらずご都合主義が蔓延し、むしろ退行現象が進んでいると言ってよいのではないか。その一端を知っていただければ幸い。

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紹介:眞島健三郎『耐震家屋構造の撰擇に就いて』・・・・柔構造論の原点

2007-08-26 15:08:19 | 地震への対し方:対震
[記述・註記追加 8月27日8.09AM]

 先の中越沖地震に際しては、いつも大地震があるとかならず世上を賑わす専門家たちの「耐震」「耐震補強」論議がほとんどなかったのが奇妙だった。
 それを解き明かしてくれる一つの鍵は、先にも紹介した新潟大学災害復興科学センターの被災調査報告にある。
 その報告には「砂地の丘陵の裾にある刈羽村の2集落の15戸は、中越地震(2004年10月)と今回の地震の二度にわたり被災した。内訳は①全壊し新築したが今回大きく損壊した例:2棟、②大規模補修で再建したが大きく損壊した例:6棟、③全壊して新築したが軽微な被害があった例:3棟、④修繕して軽微な被害があった例:4棟であった。補強により生命にかかわる倒壊は防げたとも言えるが、後背の丘陵全体の対策など大規模な対策が必要で、集団移転も選択肢の一」とある(毎日新聞7月30日記事より要約)。

 ここで為された「新築」や「大規模補修」は、当然、基礎の設計を含め「現行の建築法令」あるいは「耐震補強指針」に基づいて行われた筈。
 したがって、この調査報告が示している事実は、現行法令の耐震のための規定や、国を挙げて進められている耐震補強の指針には、何ら「耐震の効果がなかった」ということを意味している。
 事実は強い。耐震の専門家も、この事実を目の前にしては、さすがに「耐震」「耐震補強」を論じることを躊躇せざるを得なかったのだと思われる。

  註 「報告」が、現行規定の、基礎や全体の構造について、
     つまり「耐震」の考え方そのものを再考することなく、
     集団移転等に言及するのはどうか? 
     現に、他の地区の例では、隣の家屋が被災しているのに、
     建物の被災はおろか、室内の家具さえ転倒しなかった例が
     あったという。
     大分前にも書いたことだが、被災例だけではなく、
     むしろ、無事であった例を精密に調査すべきではないか。

 今から25年ほど前、昭和5年(1930年)伊豆半島北部で起きたM7.3、震度6の地震(「北伊豆地震」)の被災状況を視察した眞島健三郎氏が、当時の朝日新聞に寄稿した「同じ木造建築でも、差鴨居・差物を柱間に組み込んだ架構には被害が少ない」旨の報告を読んだことがある。
 私がそれを目にした1980年代は、すでに木造の軸組を筋かいで固めることが《常識》になっていたから、その論は驚きでもあり、新鮮だった記憶がある。

 眞島健三郎氏は、1873年の生れ、札幌農学校工科出身の海軍省の土木技術者。日本の鉄筋コンクリート構築物の先駆者で、明治37年(1904年)には佐世保軍港の施設を、明治42年(1909年)には同所に高さ45mの煙突も設計している。
 また、「建物の耐震=剛構造化」が主流であった当時の学界の中で柔構造化論を展開、関東大震災(大正12年:1923年)後から昭和初年にかけての、剛構造化を説く帝大の佐野利器との間で行われた柔剛論争は有名。
ただ、論争は決着のないまま、うやむやのうちに消滅。世のなかは剛構造化に突っ走る。

 眞島氏は土木学会会員で、多数の論説を発表している。
 その一つの関東大震災の翌年、大正13年(1924年)4月『土木学会誌』第10巻第2号に発表した『耐震家屋構造の撰擇に就て』は、氏が柔構造(氏の用語では「柔性建築」)を主張する根拠を述べたもの。16頁にわたり詳述されている問題点には、現在でも通用する点が多々あるので、その概要を以下に紹介することにする(上掲のコピーはその冒頭部分)。

   ただし、要約の文責は筆者にあり、詳しく全文をご覧になりたい方は
   『土木学会震災関連デジタルアーカイブ学術誌別リスト:1926~1994』で
   検索・閲覧できる。

 
 関東大震災を機に、鉄筋コンクリート造を耐久性があり耐震・耐火性に富む構築法として高く評価する専門家が急増した。しかし、20年以上にわたり鉄筋コンクリート造の実例にかかわり、経年変化の問題などその実態を熟知していた眞島氏は、安易な鉄筋コンクリート造推奨論:剛構造化論に危惧を抱き、五つの問題点を挙げ注意を喚起したのがこの論説である。

◇第一は、鉄筋コンクリートの耐久性の問題。
 コンクリートは、経年変化で表面が粗雑になり小亀裂も増え、
 鉄筋被覆の劣化等、10~15年で致命的な痛手を負う例が多い。
 僅か1~2寸の被覆では鉄筋を外部の作用から絶縁することはできず、
 モルタル塗り、タイル張り等でも外部の作用を避けることはできない。

◇第二は、コンクリートと鉄筋の相性の問題。
 鉄筋コンクリートは、石材同様の脆く割れやすいコンクリートを、
 鉄筋の性質で補うという原理でつくられている。
 しかし、コンクリートを鉄筋に付着させることは容易ではなく、
 また鉄筋がその効力を十分に発揮した場合には、被覆コンクリートは
 耐えられずに損傷する。
 さらに、一旦コンクリートに損傷が生じると、コンクリートが負担すべき
 外力をも鉄筋が負うことになり、損傷はより激しくなる。
 特に、柱・梁による架構は、この問題が生じやすい。
 これを避けるため、壁式の架構が推奨されるが、壁(特に外壁)は自然の
 影響を受けやすく、20~30年の歳月を経ずして問題が生じる。
 つまり、耐久面を考慮すると、鉄筋コンクリート造は、
 専門家の多くが危険視する煉瓦造よりも危険を伴うことが考えられる。

 ちなみに、煉瓦造では、床や屋根を木造にした建物に被災例が多いが、
 司法省や海軍省の建物のように、床が鉄筋コンクリート造の例は
 被災を免れている。
 また、東京芝にあった専売局の4階建ての工場は、地盤の悪い土地に建ち、
 床も木造だったが大きな被害はなかった。
 これは全体の形状がよかったからだと考えられる。

 このことは、煉瓦造の壁に粘靭性を与える工夫をすれば、
 鉄筋コンクリート以上に耐久性のある耐震・耐火構造が可能なことを
 意味している。

   筆者註 眞島氏は、大分前に紹介した岡田信一郎氏同様(12月23日)、
        あらかじめ材料や工法に優劣の順を付ける観方をとらない。 

◇第三は、基礎の問題。
 基礎に変動が生じると、剛性が高く脆弱な煉瓦造や鉄筋コンクリート造は、
 大きな影響を受ける。
 しかし、地震動によって微動だにしない基礎をつくるには莫大な費用を
 要する。
 それゆえ、多少の不動沈下が生じるのはやむを得ないと考え、
 基礎に変動が生じても害が少なく補修が可能な上部構造を選ぶ方が得策で
 ある。

◇第四は、施工の問題。
 鉄筋コンクリートを設計時の想定どおりに施工・実現することは、
 他の構造に比べ、数等難しい。
 それゆえ、設計時に想定した耐久・耐震・耐火性能が、竣工後十全に機能する
 と考えることはできない。

◇第五は、設計上の問題。
 木造や鉄骨造と異なり、種々な材料の配合でつくるコンクリートは、
 仮定に仮定を積み重ねて設計される。鉄筋への付着の程度なども、
 完成品を調べなければ真の性能は分らない。
 設計にあたり、これらの点を心得て適切に按配できる能力と経験に富む
 設計者が必要だが、現実には難しい。
 「設計指針」を整備しても、理想の構築物が設計されることはあり得ない。

◇では、いかなる耐震構造を考えればよいか。
 耐震法には、
 西欧建築のように、壁体を剛強にして地震動に正面から腕ずくで対抗する方法
 日本の木造建築や鉄骨造の如く、撓みやすい架構として地震動を避ける方法
 の二つがある。
 前者の壁体で剛強な建物は自己振動周期は1秒以下、
 後者の柔軟な建物のそれは1秒以上と考えられ、
 前者1秒以下のものを剛性建築、後者1秒以上を柔性建築と定義する。

 大地震の周期は平均して約1~1.5秒、関東大地震のそれは1.5秒。
 ただ、その数値は地盤により異なり、東京下町では1秒内外で、
 建物の周期が地震のそれに近い場合、建物は大振動を起こす。
 当時の西洋建築物の振動周期は0.3~1秒で地震の周期に近かったから
 被災を避け得なかったのも当然と言える。

  註 ここに挙げられているデータは、当時の研究者の実測によるもの。

 「耐震構造」を考えるには、建物の固有振動周期と地震の周期の関係を
 無視することはできない。

 剛性建築を耐震にするには、その固有振動周期を常に0.5秒程度以下とする
 必要があるが、建物が多少でも損傷すると振動周期はそれを越え1に近づく。
 それゆえ、粘靭性を欠く壁体で、地震に完全に対応することは難しい、と
 考えるべきである。
 
 明治に導入された西欧の剛性建築は、数度の大地震を経て
 その剛性補強策が進歩したはずだが「昨年の一撃に遇ふて脆くも大敗した」。
 関東大震災を機に改正された「市街地建築物取締規則」では、
 震度0.1以上の水平力で設計することを規定しているが、
 これを充たしても、地震周期に合致する建物が生じることを避けられない。
 この規定は、洋風建築に加えられてきた局部補強法を単に数値化したに
 すぎず「何処迄行ったらよいのやら霧中をぶらついている様なもの」である。

   註 市街地建築物取締規則は、現在の建築基準法の前身にあたる。

 これに対し、「(たとえば)波浪に翻弄(ほんろう)さるる小舟に乗じて
 我々は剛直に立つことは一瞬も出来(ないが)、若し姿態を柔順に保てば
 転倒を避くることは左まで難事ではない(のと同じように)・・
 地震の急激なる衝動を一時吸取し、或は之れを消失し、或は緩徐に之れを
 吐出し以(もっ)て被害を少からしむる(ことは可能で)・・
 基礎や本体の剛柔に依って其受くる震力に相違あるべきは
 推定に難(かた)からざる処(である)。
 (実際)木造日本家屋の如きは一振二振で壁ちりが切れ木材の仕口が弛み
 急に剛性を失ふて緩く大きく揺れ出(すが)、爾(じ)後(ご)の振動には
 耐へて居る」。
 また日本では、「(幾度か大地震に遭ってきた)頭の巨(おおき)い高い
 重い荷を負っている大寺院も、殆んど四方明け放しで、耐震壁も、筋違も、
 ボールトも、短冊鉄物もなく、それで百千年厳然と立って居る・・。
 之に筋違を入れたり、耐震壁を設けたり、ボールトで締付けたり
 耐震補強を(することは)鉄道客車から緩衝装置を取り外したと同様で
 折角の柔性を損し危険率を増す・・」ことは明らかである。
 日本に古来剛性建築が一つもないのは、地震の多い日本には不向きなことを
 知っていたからだろう。

 「要するに、壁に重きを置く剛性建築は耐震上は恐るべき」ことなのである。


 以上が眞島氏の論の概要で、氏は具体的な耐震建築の仕様も例示ているが、ここでは省略する。

 氏の論理は、方法論としては現場・経験・過去の事実・・から真理を探る「帰納法」と言ってよいだろう。それに対し、片や、中央を牛耳っていた剛構造化を主唱する「帝大派」のそれは、机上でつくり上げた論を「一般的な原理」と見なした「演繹法」の論理であり、問題は、その「一般的原理」がリアリティの裏づけなしのもの、つまり、事実に反するものであった点である。

 この論を読むと、冒頭に紹介した「耐震」規定・指針の効果がなかった中越沖地震による被災の要因を、ある程度想定することができる。
 このあたりで立ち止まって「耐震の考え方」を根本的に見直さなければならないのではなかろうか。

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現行法令の下での一体化工法の試み-4・・・・試案その3:越屋根、保温材の取付け他

2007-08-23 02:41:04 | 設計法

 [註記追加:8月23日8.57AM]

 以上の試案は、つまるところ、架構を「半ばラーメン状」の、弾力のある、しかし強固な立体架構に組むというかつての考え方を継承したにすぎない。
 もちろん、「構造力学的な解析」が根にあるわけではないから、《専門家》の方々からは、根拠を示せとのクレームが出て当然と考えている。
 しかし、それに対しては、そうであるならば、何度も書いてきているように、たとえば、「東大寺・南大門」はなぜ800年以上無傷なのか、あるいはまたたとえば「奈良今井町・高木家」がなぜ健在なのか・・について、「科学的に解析し説明してくれ」、と私は言う。それができないで、近世までの工人が生み出した工法を、非科学的云々と否定し、黙殺することを私は認めない。それは、これも何度も書いてきたが、決して科学的:scientificな態度とは認められないからである。

  註 私は、知ることのできる範囲の資料(かつて主流であった工法でつくられ
    現存する建物:したがって文化財が多い:の資料)から、
    いわば帰納的に推量してみる方法で、データを得てきている。
    また、今の大工さんの意見も折りにふれて聞いてきた。
    何よりも、「現場」で得られたものは、机上で仮定に仮定を重ねて
    得られたもの、あるいは部分の試験体の実験で得られたもの等と異なり
    リアリティそのものだ、と考えるからだ。
    そして、かつての「技術の進展」もまた、このような過程を経て
    得られたはずなのである。

    かつての工人も「仮定」を立てて見ることはあっただろう。
    しかし彼らは、常に「現場」の事実・リアリティと対照し、
    決して一度立てた「仮定」に固執することはなかった。
    ところが、現在はどうか?「仮定」のはずのものが、
    あたかも真理であるかのように世に憚っていないか。
    事実・リアリティとの対照作業を怠っていないか?
    これをして「科学的」と呼んでいいのだろうか?

 すでに各地で起きているようではあるが、「王様はハダカだ」「王様の耳はロバの耳」という素朴にしてあたりまえな感覚による異議申立てを、より一層行わなければならない時期に来ている、と私は思う。

 一つ「目新しい事態」が起きている。今回の「中越沖地震」の被災状況に対して、「国を挙げて取組んでいる『耐震補強指針』は正しかった」という声が、《専門家》から起きていないことだ。むしろ、《専門家》は沈黙している。
 先に(8月1日)、新潟大学災害復興科学センターの刈羽村の被災調査報告を紹介した。そこでは、「中越地震」後に新築した建物や、大規模改修した建物(それらは当然現在の法令や「耐震補強指針」に従っているはず)が、今回の地震(「中越沖地震」)で大きく損壊した例が多数あったのである。
 そこが砂質地盤だから特殊だ、という言い訳もできない。なぜなら、そういう地盤での基礎の仕様まで、法令は細かく規定しているのだから。つまり、規定や指針に従ってもダメだった、ということ。

 これは、人間よ、そんなに驕らずに、「耐震」という考え方を見直しなさい、という「自然界からの声」なのではないだろうか。
 

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現行法令の下での一体化工法の試み-3・・・・試案その2:柱~横架材

2007-08-21 17:15:18 | 設計法

 解説は、次回にまとめることにして、今日は上掲の資料だけを添付。

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現行法令の下での一体化工法の試み-2・・・・試案その1:基礎~土台~柱

2007-08-20 19:36:37 | 設計法
 
 「布基礎」方式は、「床下の空気が淀む」という「常識」は、すでに広く知れわたっている。
 ところが建築関係者には、「木造建築は布基礎」という《常識》が行き渡っている。
 この「常識」と《常識》の齟齬は、建築法令が根本的に見直されないかぎり、解消できない。
 なぜなら、建築関係者は、「お上」に弱いからである。まさに「泣く子と地頭には勝てない」、「常識」は《常識》に勝てないのである。

 土台と柱の関係については、必ず柱の引抜きを《懸念》して、補強が必要と言われる、だから、柱脚部をはじめ、各部位にかかる力を計算する方がいい、という方々が多数おられたのだが、私は賛意を表さなかった。
 理由は簡単である。
 たしかに、木造の設計参考書等を見ると、たとえば耐力壁に横力がかかると、柱にどれだけの引抜きの力がかかるか、あるいは、継手・仕口や各種金物はどれだけの力に堪えられるか・・といったデータが、実験値を基に載っている。
 最近復権した土塗壁等の「壁倍率に係る技術解説書」に具体的な実験の様子が紹介されているが、あくまでもその実験は、当該部分だけの「試験体」に力をかけるもの。それによって「結果」が出るのはあたりまえ。
 しかし「本当に知りたい」のは、あるいは、「知らなければならない」のは、「実際の架構体に外力がかかったとき、当該部にどのような力がかかるのか」、その実態のはずだ。
 当該部に外力がもろにかかる、と考えるのはたしかに「安全側」ではある。しかし一方で「精密さ」を言いながら、当該部に実際にかかる力の「査定」となると一挙に「精密さ」を欠く。それを「安全率」というタクミナ語でゴマカシテいると言ってよい。「精密さ」あるいは「科学的」とはいったい何を言うのだ?
 このあたりのいわば「ご都合主義」については、2月に数回連載した『「在来工法」はなぜ生れたか』で詳しく触れた。

  註 先の「解説書」では、「差鴨居」も実験され壁倍率の答申がなされたが、
    《壁式構造として評価できない》! として見送られた、とある。

 参考書・教科書の類に出ている継手・仕口や金物の「耐力データ」は、数値が示されているゆえに《科学的》に見えるが、実は、ほとんどがこういう「仮定」の下で算定されているのであって「実態」とはかけ離れたもの(だから、そういうデータを基にした「在来工法」の材寸:特に横架材の材寸は、かつての建物に比べ異様に大きくなる)。

 私には、このような《科学的データ》よりも、常に現場で「実態」と向い会いつつ仕事をしてきた人たちのつくりなした「結果」、つまり「実際の建物、特に、長きに亘り健在な建物の観察を通して得られるデータ」の方が、より「実態に即した科学的なデータ」と思える(これを「疫学的調査」によるデータと私は呼ぶ)。これが、「構造計算」に賛意を示さなかった理由である。

 さて、やむを得ず布基礎方式にしているが、土台は極力基礎の天端から浮かすことにしている。いわゆるネコ方式だが、ここではネコ部以外を厚25㎜の形枠で蓋をし、一度に打ち込むことを考えている(実際に試みたことがあるが、精度よく仕上がる)。なお、基礎の天端幅を、目地棒により土台幅より小さくし、天端上に万一の際の雨水が滞留しないようにしている(25㎜は目地棒の寸法)。

 アンカーボルトは、あくまでも軸組部の基礎からの外れ防止として理解している。
 緊結して「地面と一緒に揺れなければならない理由」はないからである(架構が十分に組まれると考えられる場合には、ボルト孔の逃げを大きくとり、ナットも強く締めないことがある)。

  註 中越沖地震に際し、ボランティアで柏崎を訪ねた人から、
    砂質状地盤に建っている2軒並んだ住宅で、
    片方は建物も傾き、屋内は家具が転倒していたのに、
    もう一軒は、建物も健在で、屋内は家具一つ倒れていなかったという。
    前者は布基礎方式。後者は礎石建てであったとのこと。
    後者の場合、堅固に組まれた軸組の下で、地面が勝手に揺れた、
    ということだろう。
    写真を見せていただくことになっているので、その際あらためて報告。
    
    なお、清水寺に代表される懸崖造は、その載っている礎石に不同沈下が
    生じて束柱が礎石から浮いても、直ちに床面に歪みが生じることはない。
    これは、基礎と軸組との関係を考える大きなヒントになるはずなのだが
    完全に無視されてきている。

 柱の引抜き対策については、上掲の「参考」頁に解説。

 次回は、この続き。    
コメント (3)
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現行法令の下での一体化工法の試み-1・・・・確実な架構の木造建物をつくるために

2007-08-19 21:33:57 | 設計法

[タイトル変更:8月20日2.13AM]

 8月9・10日に、「木造住宅の住宅低寿命化傾向への対応策」の検討について若干触れた。
 その検討・対応策の一例として提案した「住居の質」「工法の質」確保策の概要を紹介したいと思う。乞うご意見!
  

「基本仕様」

1.敷地の立地条件
  戸建住宅とする場合は、建蔽率は5/10~6/10以下とする。
  建蔽率がこの数値を越えるときは、戸建てにこだわらない。

   註 (戸建て)住宅の質は、建物そのものではなく、
     建屋を含んだ敷地全体の質で考える必要がある。

2.建物の計画基準寸法
  メートル法と尺貫法との整合性を考慮し、1間=6尺6寸=1999.8㎜とする。

   註 関西間・京間の6尺5寸で十分だが、一般に進行中のメートル間との
     整合性を考慮し、この寸法とする。

3.建物規模(面積)
  柱間1間角(1コマ)を単位として、40コマ以上とする。

   註 多くの事例が「基準柱間×基準柱間」(1コマ)を単位にして
     40コマ(関東間で言うと40坪)以上であることによる。

4.敷地面積
   上記1)2)3)より、80~67コマ=319.9~267.95㎡以上とする。

   註 過去の事例では、一反=300坪≒1000㎡が屋敷の単位であったが
     現況にそぐわないため、ここでは建蔽率から逆算した。
     
 以上は、「住居の質」の確保のための要件。

 以下は、「工法の質」の確保のための要件。
 要は、現行法令の下で、どうすれば「一体化・立体化工法」のもつ特徴を具現化できるか、ということ(建築法令が日本の正統工法を正当に反映したものであったならば、こんなことに苦労する必要もないのだが・・)。

5.工法(次回以降、解説図を紹介予定)

   註 現存する建物の工法の様態を検討した結果、以下にまとめた。

  「軸組工法・真壁仕様」とし、基礎、材種、材寸、継手・仕口等は、
  以下を原則とする。

   註 法令も「真壁仕様」の推奨に転換しつつある。

  ア)基礎・地形(地業)
    「布基礎+束立て」方式を原則とする。
    傾斜地等の場合には、「礎石+土台+足固め」方式も検討する。
    布基礎の場合の床下通・換気口は、ネコ方式とする。
    アンカーボルトは架構の基礎からのずれ落ち防止と理解する。
    床下となる地面は、GL+60㎜以上とする。

     註 「礎石+土台、足固め」方式が床下の環境維持上最適だが、
       現行法令上やむを得ない。
       ただし、不同沈下対策は、布基礎でなくても可能のはずである。
     註 中越沖地震で、砂質地盤等では地盤そのものを改良しないかぎり、
       基礎の形式・形状では対応できないことが判明した。

  イ)使用木材
    現行市場流通品規格以外に新たな規格を設定する(別表)。
    柱寸法は、最低仕上り4.3寸角とする。

     註 現行規格は、現在でも関西間・京間地域では「間尺に合わない」。
       柱の最低寸法は、強度、見えがかり両面から、文化財等の事例に
       ならった(「日本の建築技術の展開」中でも触れた)。
       なお、現在、大径材が増えているため、良材を確保しやすい。

  ウ)構造計画
    
    過去に地震に際し健在であった文化財等の事例を参考にし、
    耐力壁、金物に頼らない。

   a 上屋+下屋方式とし、奥行2.5間×n間の本体:上屋を構成し、
     その二面以上に付加部分:下屋を追加、所要空間を確保する。
   b 屋根は瓦葺とし、下屋部は本体屋根の葺き下し、または段差を設ける。
     本体部分の屋根勾配は4.5/10以上とする。
     下屋部分は、本体部分の葺き下しの場合を除き4/10以上とする。

      註 町家を参考にし、前面道路からの視覚的な効果を考慮し、
        下屋部の屋根勾配を本体より緩くする。

   c 小屋梁は、入り側柱に「折置」で納める。

      註 「折置」方式に対して、法令は金物補強を要求していない。

   d 二層の場合、本体=上屋の入り側柱を@1~2間で通し柱とする。
     床梁は通し柱に「差口(竿シャチ継)」で納める。
     各層の間仕切位置を一致させる。

      註 「差口」については、法令には金物補強の規定はない。

   e 横架材の長さは、最大スパン2.5間=16尺5寸=4999.5㎜程度とし、
     継手は柱位置に設け、柱間に継手を設ける方法は採らない。

      註 材長を柱間寸法で加工でき、施工上も利点。

   f 一階にあっては、内法レベルに「差鴨居」を設け、
     二階では、腰部(開口部敷居または手摺位置)を「差物」とする。

      註 差鴨居、差物の架構上の効用を活用する。     

   g 一階床は大引上に板(厚5分スギ板)を流し、根太を敷き並べ、
     空隙を設けた上、床板を張る。
     保温材を設置する場合は、この空隙に敷く。
     二階床は、小梁上に床板(厚1寸)直張り、下面表し。
   h 屋根下地は、垂木(表し)上に地板(室内側表し)を張り、
     枕木を介し野垂木を流し(軒先部は表し)、野地板を張る。
     軒先部で二重垂木の間から吸気し、上部で排気する(上昇気流)。
     保温材を設置する場合は、この空隙の枕木間に敷きこむ。
   i 造作を含め、上向き作業を要する工程は、極力避ける。

      註 かつての工法では、上向きの作業を極力避けている。

   j 法令の要求する耐力壁は、面材耐力壁の規定を援用する。

      註 法令の規定をクリアするための仕様である。
        面材の下地としては、受け材方式、貫方式を適宜使用する。
        水平面の剛性は、架構そのものと床面、屋根面に張る板に求め、
        火打ち材を用いない。

  エ)継手・仕口等

    下記条件を確保できる継手・仕口を採用する。
    a 簡単な刻みで加工できる(機械加工ができる)
    b 汎用性に富む(各所に応用可能)
    c 強度的に安定している
    d 部材を表しにできる(金物補強を要しない)
    e 分解・解体が可能である

   概要(解説図参照:模型写真・分解図で各部位ごとに解説:次回以降)
   1)土 台  
     入り側柱の要所ならびに各隅柱を通し柱とする。
     通し柱~通し柱の土台を一本ものとし、土台に継手を設けない。
     通し柱および隅柱は土台に「蟻落し」で納める。

      註 土台の継手の省略可能。
        「蟻落し」箇所への金物使用規定は法令には見えない。
        ただし確認申請審査員の見解は未確認(次回「参考」参照)。
           
   2)土台と柱
     通し柱、隅柱以外は、土台に「長枘差し・込み栓打ち」とする。

      註 筋かいを用いないかぎり、法令上補強不要。

   3)横架材  
     床梁、小屋梁とも、原則として継手を設けない。 
     桁、母屋は、柱直上で「目違い付き・雇い竿シャチ栓継ぎ」で継ぐ。 

      註 次回、図で説明

   4)横架材と柱
     管柱は、根、頭とも「長枘差し・込み栓打ち」とする。
     通し柱への胴差、床梁、差鴨居、窓台等は「雇い竿・シャチ栓継ぎ」。
     竿は、原則として上小根とする(作業性よく、下面を表しにできる)。
     小屋梁は、柱の頭枘を「重枘」として折置で納め、
     桁は「渡り顎」で梁に架け、頭枘の「重枘」で固定する。

      註 「渡り顎」については、法令は金物補強を要求していない。

  オ)仕上げ、造作等
    壁 
     原則として内外とも真壁納め、塗壁仕上げ(漆喰など)。
     外部は、真壁仕上げの上、外壁下部(土台~一階内法下)に
     大壁(縦羽目・横羽目板壁、煉瓦積壁、大谷石積壁等)を追加。

      註 塗り壁下地は、原則として木ずり直塗り、石膏ラスボード。
        壁量が不足の場合は塗壁下地用構造用合板等を適宜使用。
        羽目板壁の場合は、取替え可能な取付け方法による。
    屋根
     原則として、瓦葺(53A型いぶし瓦)とし、軒の出を極力確保する。
     霧除け庇等は、金属板葺き。
    室内床
     原則として、一階はヒノキ厚6分縁甲板、捨床はスギ板厚4分張り。
     二階はスギ厚1寸板張り。
     原則として、畳、カーペット等は、この上に敷く。
    天井
     原則として、一階は踏み天井、二階は地板表し。
     天井を設ける場合は、「天井パネル」を取付ける方法とする。
    開口部
     外部は原則として外付けアルミサッシ(引違い)とする。
     柱間に木製建具(明り障子またはガラス戸)を設ける。
      註 サッシ外部枠回りには木製額縁を設ける。 
     内部建具は木製とする。
  カ)設備
    給排水設備の配管類は、保守点検、交換可能な位置に設ける。
    電気設備幹線は、軒裏を利用し、壁内で分岐(配管を設ける)。  
     
6.必要材寸表(特注材)

材 料 ヒノキ、スギ

正角材 挽割寸法(cm) 仕上り寸法(寸)   長さ(cm)
    16.5×16.5 5.3×5.3 350.0 450.0 550.0 650.0
    13.5×13.5 4.3×4.3
    12.0×12.0 3.8×3.8
    10.5×10.5 3.3×3.3

平角材 24.5×13.5 8.0×4.3 450.0 550.0
    21.5×13.5 7.0×4.3
18.5×13.5 6.0×4.3
    15.5×13.5  5.0×4.3

    註 高さを最大仕上り8寸とする。これ以上の寸面を必要なときは、
      二材を合成して対応する。
       例 上:8×4.3寸+[3.5×1.6寸]+下:4.3寸角
         0.8寸角(または0.8寸径)ダボ@16.5寸
      横架材の見えがかりを小さく押えるための策(9.0寸以上になると
      横架材だけが目立ちすぎる)。

平割材 13.5×5.0 4.2×1.6 450.0
    11.0×5.0   3.5×1.6
8.0×5.0 2.5×1.6
5.5×4.5   1.8×1.3

板 材 15.5×3.3   5.0×1.0 450.0 
15.5×2.0 5.0×0.6
15.5×1.8 5.0×0.5
15.5×1.5 5.0×0.4
13.0×3.3 4.0×1.0
13.0×2.0 4.0×0.6
13.0×1.8 4.0×0.5
13.0×1.5 4.0×0.4

その他は市場流通品による。

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過渡期の体験

2007-08-15 23:06:31 | 論評
[タイトル変更:8月16日0.18AM」[記述修正:8月16日8.08AM]

そのとき、甲府盆地の西端の町、山梨県中巨摩郡竜王町(最近、甲府市に合併したらしい)の「国民学校」3年生だった。1年の終りごろか2年の初め(昭和19年の初めごろだったろう)、東京から疎開していたのである。「集団疎開」に対して「縁故疎開」と呼んだ。伝手をたどっての疎開と言う意味。大きな農家の土蔵を借りていた。甲府盆地は夏暑く冬寒いところ。あとから考えてみると、土蔵の中は、たしかに夏涼しく冬もそんなに冷えなかった。

   註 「国民学校」はドイツの真似であった(Volks Schule)。

その日、8月15日はものすごく暑く、空は抜けるように高く、空気はカラカラに乾いていた。ただ、どういうわけか、雨滴が落ち、乾いた赤茶色の土煙を立てたことを覚えている。夕立でもあったのか、そのあたりはよく覚えていない。

1年のときは東京郊外の学校、しかし、学校での風景は記憶にない。防空頭巾を持ち登校し、着いたと思うとほとんど間髪をいれず、それを被って走って帰ったものだ。家まで約300m。9時ごろには決まって警戒警報、空襲警報が出たからである。もう戦争も末期に近く、B29の空襲はもちろん、艦載機による攻撃も始まっていた。夜の空襲では、地上からの高射砲の軌跡はB29のはるか手前で屈折し、昼間の地上からの戦闘機も、近づく間もなく撃墜されていった。これは無理だ。それが急遽疎開することになった理由だった。

しかし、疎開した先も決して安泰だったわけではなく、甲府も空襲で焼けた。竜王の町の南隣の村には、非常用の滑走路があり、日本軍虎の子の僅かばかりの戦闘機が藪かげに隠されていた。学校にも軍隊が駐留していた。しかし、幸い、それらは攻撃の対象にはされず、空襲警報に怯えることなく、終戦・敗戦を迎えた。
農村とはいえ、食糧は足りなかった。野蒜などの野草の類を集めに歩きまわった。サツマイモの蔓も食べた。食糧を求めて、炎天下、近くの農村を訪ね歩いたりもした。

ここでも学校での風景はあまり記憶になく、あるのは、近在のガキ大将に連れられて歩き回った野や川での風景だ。
竜王の町のすぐ西を釜無川という暴れ川が流れている。富士川の上流にあたり、信玄堤で有名な川。石を詰めた何本もの竹で編んだ蛇籠が川岸に直角に並べられていた。後で知ったのだが、それが信玄堤と称される治水法だった。
農家では養蚕やスモモづくりが盛んで、甘いものがなかった時代、桑の実(たしかガミとか呼んでいたようだ)を採って食べ、ときにはスモモを丸かじりした。

   註 当時の中央本線は、甲府以西は電化されておらず、
      蒸気機関車が牽引する時代。
      竜王から西は小淵沢に向けてかなりの登り坂。
      機関車は気息奄々、汽笛を吹鳴しながら登ってゆく。
      「遠くで汽笛を聞きながら」という歌をきくと、
      いつもその情景を思い出す。
      とりわけ、夜の機関車の響きと汽笛は
      あたり一帯にこだましてうら寂しいものだった。 

東京に戻ったのは4年生のとき。まだ「国民学校」だったと思う(名称が「小学校」に再び戻ったのは、5年生のころではなかったか)。
しかし、学校で何か学習があったという記憶がない。教室で、何となくざわざわとすごすばかりだった。教師が教室に出てこないのである。後から想像するに、教える内容が、定まっていなかったからにちがいない。教科書は、古いもの。墨を塗る「作業」も経験した。どこかを探すと、しまってあるかもしれない。
教科書が新しくなったのは、たしか5年生になってから。新しくなったといっても、ちゃんと製本したものではなく、製本以前の大判の紙に裏表印刷され裁断前のままが配られ、各自で製本をする。これはそれなりに楽しい作業だった。

学校には、「新制中学」も同居するようになった。これまでの中学・「旧制中学」は高校になる。旧制と新制とが同居した時代である。高校に行っても大学に入っても、常に近くに、旧制の高校生、大学生がいたから、その両方の様態を知ろうとしなくても知ってしまった。

今考えてみると、このようないわば過渡期を過ごしたこと、すなわち、昨日と今日が簡単に眞反対になる事態、一日で平然と宗旨替えをする人たち・・・、を目の当たりにして、何が妥当で何が不当か、常に「自分の感覚」で考えなければならないこと、常に「自分の感覚」で考える癖を、自然と身に付けてしまったらしい。


戦後使われるようになった「言葉」には、いろいろ考えさせられる語がたくさんある。例えば、「教育基本法」、そして例えば「建築基準法」。
「基本」と「基準」、似ているようでまったく異なる。「基本」はまだ分る。しかし「基準」は、少なくとも「建築基準法」の場合は不可解である。なぜなら、「基準」と言いながら一定せず、頻繁に変るからである。そういうのを「基準」と呼ぶことは、「基準」の語の意味を逸脱している。例えて言えば、それは、メートル法の基準である1mの長さ(メートル原器)を随意に変えるに等しいからだ(昔と今では、1mの規定の仕方こそ変ったが、1mの長さそのものは変っていない)。

ところが、「建築基準法」の「基準」は安易に変えられてきた。そういうのを見ると、「これは怪しい」と過渡期の暮しで身に付けた「癖」が動き出し、基準法そのものの規定、規定の仕方を疑いだす。私が「在来工法」なる「学術用語」に疑義を抱いたのも、私の「癖」のなせること。
簡単に言えば、おかしなこと、おかしいと感じられることは、とことんおかしくなくなるまで考え続けよう。これが私が「過渡期」で学んだこと。

世のなか、おかしくなりつつある。「右へ習え」が、そして、「一色に染める」こと、「一色に染まる」ことが、またぞろ好まれる時代が来そうな気もする。それで本当にいいのだろうか。

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日本に「都市計画」はあるのか?・・・・あるのは「都市計画税」だけ....

2007-08-14 03:44:32 | 居住環境

[記述追加:8月14日9.25AM、15日8.00AM]

 先回、日本の住宅の低寿命化は、その工法もさることながら、経済政策そのもの、簡単に言えば税制に大きな原因があると書いた。そればかりではない。日本では、居住環境の劣悪化を促進するがごとき政策が次々と打ち出されてきた。そして、その根本を是正することなく、「景観法」なる不可思議な法律で、居住環境の景観が「回復できる」というお粗末な発想。

 上掲の地図は、東京西部の1955年(昭和30年)頃と1987年(昭和62年)頃の国土地理院発行の地図(「地図で見る東京の変遷」国土地理院発行より部分を転載)。なお、上掲の地図は、短辺の長さが、およそ12.5kmである。
 
 東京駅から中央線に乗ると、窓の外には、終点の高尾はおろか、最近では大月あたりまで、余程の山地を除き、延々と切れ目なく密集した家並が続く。これが西欧ならば、ものの30分も乗れば、窓の外には緑濃い田園が広がりだすのが普通ではないだろうか。かつてケンブリッヂを訪ねたことがあるが、やはりそうであった。
 筑波研究学園都市の計画には、そのようなイメージがあったはずだ。だから、当初の「理念」は、東京のベッドタウンとしてではなく、学園都市を中心とした独自の圏域の生成が主眼となっていた。
 実際、常磐線で研究学園都市に行くとき、ロンドンからケンブリッヂに向かうのと同じ「感覚」を味わったものだ。東京に遊びに出て筑波へ帰る学生たちには、当時流行っていた「津軽海峡冬景色」の替え歌:上野発の普通列車降りたときから土浦駅は・・・:が人気だった(当時の上野駅は薄暗く、物寂しく、そして土浦駅は木造の駅舎、駅前の平屋建ての商店街?からは軍歌が流れていた:映画「米」で撮られている昭和30年代の姿とさほど変っていなかった)。

 しかし、そのような「理念」はとうの昔に消え、筑波新線:通称TXの開通は、結局のところ、東京のベッドタウン化へと拍車をかけている。筑波と東京の間に広がっていた田園を消し、均質な家並に変える動きが始まった。どうしてこうも簡単に、半世紀も経たないうちに、宗旨替えをして平気なのだろうか。
 かつて、成田空港をつくるときの「理由」は、羽田は新滑走路をつくることができず満杯だから・・・、であったはずだ。それが今、羽田では、国際便の発着を目指し、新滑走路の工事が着々と進んでいる。この「変心」を、誰も問わない。土地を収用された農民たち(ほとんどが戦後の開拓農民)が、これでは浮かばれまい。

 昭和20年代から30年代、私が中学~高校生の時代、サラリーマンにとって、「土地は簡単に手に入るが、建物が高くてね」というのがあたりまえであった。だから、「住宅金融公庫」の創設は、家屋新築の補助が目的だったはずであるが、これもいつのまにか変質した。

 上掲の昭和30年(1955年)頃の地図には、まだ「環状8号」はできていない。その予定線あたりから西側には、白い場所:田畑・山林:がかなりあるのが分る。成城学園や田園調布は、私鉄が行なった「田園のなかの住宅地」建設の典型(これは、大正~昭和初年、関西で阪急が六甲山麓で行った鉄道と宅地の並行開発:芦屋など:の関東版)である。玉川上水も御茶ノ水へ流れる神田川(これも江戸時代の江戸の上水)も、往年の風情をまだ保っていた。
 しかし、その約30年後、昭和62年(1987年)頃の地図では、玉川上水は中央道に潰され(一帯住民のの鎮守の杜も潰された・・)、神田川は単なる排水路に変ってしまっている。

 そしてこの頃、たしか、環状8号沿いに幅20㎞ほどのグリーンベルト構想があったはずである(調べているのだが、詳細を知るに至っていない。20という数字もうら覚えである)。
 そのグリーンベルトの内側が市街化区域、そこから出るゴミの処理は、グリーンベルトの中に設ける清掃工場で処理する、つまり、グリーンと一体化した清掃工場を、という計画。清掃工場だけは「計画」どおりにつくられたから、今見ると、住宅密集地という不可思議な場所に清掃工場がある(当初の「理念」は、僅かに砧緑地の中の清掃工場に見ることができる)。

 しかし、この「理念」「計画」は、「地価の上昇=地域経済の活性化」という「全国総合開発計画(第三次を《さんぜんそう》、第四次を《よんぜんそう》などと呼ぶので、知っている方も多いはず)」で消滅した。
 特に、田中角栄の列島改造論の後ろ盾となり、《新産都市》などを提唱し、国土を滅茶苦茶にした張本人の立案者(当時の建設省のトップ)は、未だに健在である。こういう「変容」をいったいどのように考え、どうおとしまえをつけるのか、一度訊いてみたいものだ。
 こうして、東京近郊一帯の均質な家並化が現在にまで続き、そして、サラリーマンは、「建物をつくる費用はあるが、土地が高くてねえ」、と嘆く時代に結果し、人びとは、安い土地を求め、外へ外へと出て行き、延々と家並がつづく異様な光景が広がる原因となったのである。「景観法」でそれを改善できるわけがないではないか。

 はたして、この現代の日本には、「都市計画」あるいは「計画」という概念があるのだろうか。そうは到底思えない。あるのは都市計画税という税制だけではないか?江戸時代の方が、余程「計画」「理念」があった。
 その意味では、日本の「近代」は、お役人の質も含め、あらゆる局面で、江戸期からの「退化」以外のなにものでもないように思えてならない。
 現代日本にあるのは「金儲け」という意味での「経済観念」だけ、と言ってよいだろう。それは、容積率、建蔽率などの安易な変更によく現れているではないか。居住環境についての「理念」など、何もないと言ってよい。

 ここでも近世の「近江八幡」の町(6月26日から数回触れた:近江商人の理念および近江商人の町・近江八幡参照)や、「地方功者」(6月9日に触れた:地方巧者・・・・「経済」の原義参照)が、対比的に思い出されるのである。

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違和感・・・・原発一個動かなくても関係ない都会!

2007-08-12 04:21:25 | 論評
 8月11日のasahi.comに、次のような記事が出ている。
 『柏崎市長「影響ない首都圏に違和感」地震の原発停止で』
 内容は、こういうこと。全文を写す。


 柏崎市長の会田洋市長は10日、「(原発の電力供給先の)首都圏の電力に影響が出るだろうと考えたが、何も影響を受けていない。上京した時、そのことに非常に違和感を持った」と述べた。
 首都圏への電力供給の最大基地である同市が震災に苦しむ中、首都圏がこれまでと変わらない生活を享受していることへの反発を吐露したものだ。会田市長は「節電に努めるなど、被災地の痛みを分かち合うところがあってもいいのではないか」と対応を求めた。


 当然の感想・思いである。
 もっと言えば、何も影響がないのならば、常に危険を内包する原発は存在しなくてもよい、ということに他なるまい。
 だいたい、原発なしだと電力生産にコストがかかる、温暖化対策にならない、だから原発、という論理は正しいか?
 原発なしだとコストがかかり、温暖化対策にならないというならば、総使用量を減らすようにすればよいではないか、使用者に請求すればよいではないか。

 要は、電力をがぶ飲みする都市のありかたの再考。超高層ビルなどが成り立つ前提を考え直すこと。それが最大の「温暖化対応策」!大量の電力を前提にした超高層ビル。そのために電力が要るから供給しよう、そのために危険を都会以外に押し付けよう、という電力会社、そして政府の「欲」と論理は、私には無意味、無用に思える。
 エレベーターが動かなくなったら、歩きなさい。エアコンが動かなくなったら、汗をかきなさい。そういうものなのだ、と思いなさい。
 なぜなら、都会人は、そういう「思い」を、常に、他のところには平気で押し付けてきたのだから・・・。

 その点、脱原発を進めるドイツは一歩も二歩も先へ進んでいて、太陽エネルギー、風力エネルギーの積極的な利用は目覚しいものがあると言い、日本の生産する太陽電池の主な提供先は、いまやドイツをはじめヨーロッパが主なのだという。ドイツでは、太陽電池の導入経費は10年で元がとれるらしい。日本では20年以上。これは先日の毎日新聞の記事。
 無資源の国・日本⇒原発依存、この浅薄な論理から脱するのが先決。
 そうすれば、使用済み燃料の廃棄場所で苦労することもない。専門家はなぜそれを説かないのか?その点、日本の「科学者」「専門家」は極めて遅れている、としか言いようがない。

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住宅の低寿命化はなぜ起きたか

2007-08-10 20:39:14 | 建物づくり一般

[記述、一部修正:8月11日8.13AM]

 日本の住宅の寿命が、欧米のそれに比べて極端に短い、と言われるようになって久しい。そして、多くの場合、日本の住宅の大部分を占める木造建築そのものに問題がある、と言われる。
 その問題の比重が大きいことはたしかであるが、一方で、まだ使える建物が「やむを得ず」廃棄される例が多いこと、その原因を考える必要があるだろう。

 私が育った住まいは、昭和15年(1940年)の竣工。もうじき築70年になるが、いまのところ問題箇所はない。
 建設当時は東京の郊外。周辺には山林(平地林)、畑が広がり、茅葺農家も多数あった。そういう一画が住宅地として売り出されていたのだ。だから、あたりには、同じような規模の住宅が、同じような風情で、既存の農家と共存する形で多数建っていた。大体の敷地規模は1反:300坪程度。中にはその倍程度を持ち、半分は畑:いわゆる家庭菜園にする例も多かった。だから既存の農村風景と、何ら違和感がなかった。

 しかし、1970年代頃から、あたりの山林・畑は消えはじめ、かつての「新興」の家々の数も少なくなり、敷地は細分化され、小さな建物が密集しだす。
 なぜそうなったのか。
 理由は単純である。「地価の上昇=経済の活性化」と見なす政策がとられだしてからというもの、相続税、固定資産税が高くなったからである。
 地下の上昇によって税額は支払い能力を越え、相続にあたっての一部切売りや、固定資産税を減らすための敷地細分化=狭隘化、それにともなう建物の建替えが行なわれ(ときには、その地から逃げ出す場合もある)、その結果、本来ならまだ十分使えるはずの建物が、多数消えていった。

 かつての高級住宅地・田園調布も、高い税金の払える僅かな富裕層の住宅と、細分化した敷地に身を寄せ合いながら建つ住宅、税金対策で売り払った敷地に建てられた中層集合住宅、それらの混在した一帯に替わってしまい、昔の「高級」住宅地の面影はすでになくなった。
 つまり、今の税制は、既存建物の廃棄を迫り、住環境悪化を促進する税制と言ってよいだろう。
 
 1970年代以降に急激に増えてきた細分化された土地に建つ木造建物には、その低寿命化をうながす別の要因が付随する。
 一つは、敷地面積の狭隘化にともなう建物総面積の減少である。いろいろ事例を見てくると、農家をはじめ、一戸の規模は、最低でも40坪程度が標準のようだ。40坪といっても、関西なら1坪は6尺5寸角、つまり約3.84㎡、関東では3.3㎡。だから、関西では約150㎡、関東では130㎡。ところが、最近では、ひどいところでは、敷地そのものが130~150㎡。
 一例を挙げれば、筑波研究学園都市では、当初敷地面積は200㎡以上という規定があった。関東尺で言うと約70坪。分割による細分化防止のために、境界杭のほかに青い標杭を打たされたものだが、地価の上昇とともに、いつのまにか規定が消失。150㎡程度の宅地が普通になってきた。売却された公務員宿舎跡などは、歩道沿いの見事な樹林まで伐採され、平均150㎡の敷地に建売り住宅が密集、当初の「学園都市のコンセプト」とは程遠い、見るに堪えない姿に変貌した。
 
 当然、狭隘な敷地に建つ住宅の規模は自ずと小さくなる。それでいながら、部屋数だけは確保しようとするから、当然のことながら、部屋自体の面積が小さくなる。かつて、六畳間というのは、次の間とか予備室などの大きさで、居住空間としては八畳間が最小であったのだが、今ではめったに八畳間は見かけない。かつては小物置などの大きさであった四畳半大の部屋が居室と称されるのだ。

  註 このような「部屋数確保」主義は、戦後、
    建築設計法の主流となった「建築計画学」の悪しき名残りと言える。
    所要室を数え上げ、その合理的な連係を考えるという設計法が、
    部屋の大きさを小さくしてでも部屋の員数をそろえる、と言う方向へ
    走らせたのである。これが現在の「間取り」法。
    かつては、総規模が小さければ小さいなりに、部屋数の員数あわせ
    ではなく、全体の妥当な構成を考えるのが「間取り」だった。
    なお、この点については、3月15日にも触れている。

 こういう小さな部屋の集積は、生活の変容にはついてゆけない。かといって増築も改造もできない。
 それは規模の制約もさることながら、工法:現行の法令が規定する工法:自体、増・改築が不可能だからである。
 当然ながら、もし暮らし続けるとするならば、取り壊して新築ということにならざるを得ない。
 そして第一、法令の奨める工法自体が、すでに桐敷真次郎氏も「耐久建築論」で触れている(6月13日に紹介)ように、建物の老朽化を促進するがごとき工法なのだ。

 つまり、「資産価値の高い住宅ストック」(国の進める「長寿命木造住宅推進プロジェクト」の眼目)など、根本が見直されないかぎり、絵に描いた餅以外の何ものでもない。

  註 法令規定の工法は、耐力壁に依存するから、
    耐力壁を一定量設けることが要求される。
    だから、改造はきわめて難しい。
    この点は、2×4工法や、ログハウスと全く同じである。  
    
    日本の伝統的な工法は、耐力壁に依存しないから、
    言ってみれば、改造、増築は任意であった。
    両者の比較は、7月13日に表としてまとめてある。

 以上で明らかだが、単に建物単体についていじくりまわしても、耐用年数が延びるわけがない。
 先ず、住宅とは、建物だけではなく、敷地全体の空間を言うべきなのであるが(昨年12月12・13日に触れた)、現在の日本では、敷地全体を見ると、欧米に比べきわめて劣悪であること、さらには劣悪化を推進するがごとき「政策」がとられていること、を認識する必要がある。

 いま、わが国で「ストック」となる住宅の建設は、地価の安い、現行法に束縛されないで済む無指定の地域(都市計画区域外:極めて少なくなってはいる)において初めて可能だ、と言ってよいだろう。
 なぜなら、そういう地域ならば、欧米並みの居住環境を確保することができるからだ。もちろん、生活上の利便性には欠けるのだが・・・。

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温度差・・・・《地域性》のいろいろ

2007-08-09 12:05:02 | 建物づくり一般
 公的な依頼を受け、ある公的な団体で、地域産の木材利用振興のための木造住宅建設プロジェクトにここしばらくかかわってきた。この依頼には、最近の木造建物が低寿命化していることへの対応が、大きな理由として挙げられていた。
 その「対応策」として何を考えたかを含め、詳しい内容は、おって紹介・解説することとして、 昨日開かれた中間報告の会議の席上で遭った「驚くべき事態!」を紹介しよう。

 このプロジェクトには、地域の木材業の組合がかかわっている。地域産の木材の利用を促進したい、との考えとのこと。
 昨日の会議のため、今回、プロジェクトとして提案した設計例について、当方で部材ごとの「木材調書」を作成し、町場で実際に仕事をしている大工さんと、この木材業組合の双方に、積算書の作成をお願いした。この提案の木材費がどの程度になるか、一般的事例と比較するためである。
 「驚くべき事態!」とは、寄せられたその結果のことだ。

 提案した設計例は、瓦葺き二階建て、基本的に内外真壁仕様(外回りは内法下を、真壁の上に保護用に板壁張り大壁)。
 1間=6尺6寸≒2000㎜の設計で総計40コマ(1階:28コマ、2階:12コマ)、つまり、1間=6尺で計算すると40坪の大きさである。
 そして、主要部材の総木材量(壁下地材、内外装材を除く)は、約35㎥、内0.6㎥がヒノキ、残りはスギ。

 私の概算では300万程度。
 双方から出た見積もり金額の「項目別比較表」を作成して資料として配付した。
 大工さんからの積算書は242万。妥当だし、むしろ安いくらい。大工さんによれば、これであたりまえとのこと。
 ところがである。木材業組合の積算は、1018万円也。大工さんの4倍強である。材木店(小売店)価格との注釈があった。

 私は言った、「こんな価格なら、地域の材にこだわる必要はない。隣接地域から、同質の材が、これよりずっと安く手に入る」と。
 すると、出席していた組合の代表が、「失礼なことを言うな、そんなことを聞くために出席したのではない、退席する」と言う。
 私は言った。「それは違う。こんな値を入れる方がよほど失礼だ。大工さんの見積もりがおかしいとでも言うのか。これでできるという大工さんに対して失礼ではないか。地域産材の活用を本当に願っているのか?」

 彼は、退席せず、会議の進行をずっと聞いていた。そして、しばらくしてから言った。「この『比較表』はなかったことにしてくれ、引っ込めてくれ」、と。
 引っ込めたところで、事実は事実。

 私は思った。この地域の木材業者は、もちろん全部ではないだろうが、胡坐をかいて商売しているのだ、と。それで商売できているのだ。高く売れればそれに越したことなない、という腹積もりなのだろう。かつての近江商人のツメのアカでも煎じて飲ませたくなる。
 これが他の地域ではまったくちがう。青森にしろ岩手、秋田にしろ、関東甲信越の神奈川、栃木、群馬、長野・・・関西、中国、四国、九州・・皆本気だ。

 どうやらこれは、この地域の「精神風土」が現われたにすぎないらしい。いろんな口実、大義名分を立てては商売に利用しようとする人たちが目に付く。この地域のNPOには、商売のためにNPOを利用している例が結構多い。
 もちろん、みんなではない。真っ当な人たちが、他地域よりも少数派、だということ。

 いささか呆れた「事件」ではあった。

   ここ数日ブログの書込みをしなかったのは、
  会議の用意の為に時間がなかったから・・・。

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続・故郷とは何か・・・・異郷と故郷

2007-08-04 22:20:37 | 居住環境
[註記追加:8月6日8.42AM]

 昨日紹介した『農村から都市への人口流出』は、岩本由輝氏の論説『故郷・離郷・異郷』の途中の章で、冒頭、つまりこの論説の出だしは、『近世欠落移民にとっての故郷』。岩本氏が調べ上げた一欠落農民の一生を基に、故郷とは何か、論じた一章である。

 「欠落」は「かけおち」と読む。
 近世、特に江戸時代、庶民が他郷へ逃げ失せること、をこう呼び、現在の失踪、出奔に相当すると言ってよい。
 ここでも、少し長いが、全文紹介する。そこで描かれている話は、小説のような実話である。読みやすいように、段落は変えてある。

  註 以下の文章内の地名は、著者執筆時のもの。
    先般の市町村合併で、変更になっている場合もあると思われる。



 一八八五年(明治一八)三月末、福島県標葉郡:しねは・ぐん:野上村下野上:しものがみ(現双葉郡大熊町下野上)から妻と二人で兵庫県と岡山県のそれぞれの故郷に向けて旅に出た男がいる。池田七兵衛といい、当年五〇歳であった。七兵衛は、一八五二年(嘉永五)、一七歳のとき、但馬養父郡:たじまやぶぐん:建屋村:たきのやむら(現兵庫県養父郡養父町建屋)から陸奥中村藩の標葉郡刈野村立野(現福島県双葉郡浪江町刈野)に欠落(かけおち)という形で移住してきた十一戸の非合法移民(註参照)の家族の一人であった。

 彼は移住の旅の途中および到着直後に両親を相次いで亡くしてしまったが、間もなく縁あって野上村の素封家(そほうか)の養子となり、そこの一人娘と一緒になる。これが彼の最初の妻であるが、その死後、備前上道郡:じょうとうぐん:神下村:こうしたむら(現岡山市神下)からやはり欠落してきた移民の女性と再婚する。彼の故郷を訪ねる旅に同行したのは、この二度目の妻である(岩本由輝『浄土真宗信徒移民の経路についての一考察』一九八八年 「山形大学紀要 19-1)。

原 註
 陸奥中村藩では、近世後期における人口減少に対応するために、浄土真宗大谷派および本願寺派という教団組織の手を借りて、一八一三年(文化一〇)以降、主として北陸地方の欠落農民を移民として導入している(岩崎敏夫『本邦小祠の研究―民間信仰の民俗学的研究』一九六三年)。
 浄土真宗の教団組織を利用したこのような移民導入は、一七九三年(寛政五)、常陸笠間藩によって先鞭をつけられたが、中村藩では、幕末までに北陸地方のみならず、西日本各地からおよそ三〇〇〇戸の移民を招致している(「移住と開発の歴史―ムラの形成と変貌」『日本民俗文化大系6:漂泊と定着―定住社会への道』 一九八四年 小学館)。
 浄土真宗教団は、幕末に蝦夷地、近代になってから北海道、ついでハワイ、アメリカ合衆国、カナダ、ブラジルなどへの移民にかかわりをもつが、近世後期の笠間藩や中村藩でみられた事例はその前史をなすものである。なお、一七九三年(寛政五)以降、北関東幕領のいくつかの代官所管内で行なわれた他幕領からの移民導入の場合にも、非合法ではないが、浄土真宗の教団組織が具体的にかかわっている(秋本典夫『北関東下野における封建権力と民衆』一九八一年 山川出版社)。

 刈野村の浄土真宗本願寺派光明寺の檀家である七兵衛夫妻は、その所持していた「御判帳(ごはんちょう)」によれば、一八八五年(明治十八)四月一日に福島県東白川郡棚倉町の大谷派(現単立)蓮生寺の御判を受けたのを皮切りに、八月二七日に京都の浄土宗知恩院にいたるまで、四ヵ月をかけて親鸞廿四輩(にじゅうよはい)遺跡寺院の多い北関東から東京に入り、さらに東海道筋の浄土真宗寺院を中心に親鸞にゆかりのある一二二の寺院と二つの神社を順拝していることがわかる(岩本由輝 前掲「移住と開発の歴史」一九八四年)。おそらく夜になれば、これらの寺院に泊めてもらい、掃除などの奉仕をすることによって食事を供されたのであろうが、そうしたことはかつて移民のさいの旅において現実に行なわれたことだろう。

 二人の旅はもちろん信仰にもとづくものであった。しかし、単にそれだけではなく、自分たちが移民してきたルートを逆にたどることによって、欠落(かけおち)という形で離郷したとき、再び訪れることはあるまいと覚悟していた故郷に帰るための儀式のようなものが感じられる。移民のときと異なり、逃げ隠れせずに自由に旅のできる時代になっていたとはいっても、徒歩での四ヵ月の旅は決して楽なものではなかった。八月二七日、妻が京都で疲労のために倒れ、おそらく予定していたであろう、そこから先の順拝を続けることができなくなった。七兵衛はとりあえず彼女を神下村のその兄の家まで連れて行く。

 このあと、七兵衛は、一人で念願の故郷である建屋村(たきのや・むら)に行く。そして、菩提寺の本願寺派西念寺で先祖の墓を確認することができたが、村内に知己はいなかった。建屋村からは七兵衛たちと一緒に十一戸が刈野村に移民していたわけであるし、そのとき残った八戸も間もなく欠落(かけおち)していたのである(『大熊町史』一巻)。
 彼が生れた屋敷にも隣近所にも住人はいたが、知らない顔ばかりであった。それらの住人たちは彼をきわめて冷淡に扱ったようである。故郷の現実は、彼が心に描いていたものとはあまりにもかけ離れていた。そこはすでに彼にとって異郷でしかなかったのである。彼は二度と建屋村を訪れまいと決意する。

 妻の兄の家に戻った七兵衛は、それから半年あまりの間、妻の看病につとめるが、彼女は快方に向かわず、とても旅のできる状態にはならなかった。
 彼は、野上村を出てから一年後の一八八六年(明治十九)三月末、妻を兄夫妻に託して帰途に就く。彼は、帰りも近江路から北陸路の浄土真宗寺院を順拝し、会津を通って七月中旬に野上村に戻っている。
 その後、彼は野上村こそが自分の故郷であると思い定めたようで、二度と故郷に帰りたいとはいわなかったようである。建屋村のことは話題にもならなかったらしい。
 彼の子孫が彼の故郷について建屋村であると知ったのは、孫の代になって仏壇を修理したさい、そのなかに隠すようにしまわれていた「御判帳」を発見したときであった。
 なお、七兵衛の妻は、ついに彼のもとに戻ることができず、兄のもとで生涯を終えている。彼女自身にとって、それは不本意なことであったかも知れないが、彼女が故郷で最期を迎えることができたのは、そこに肉親がいたからなのである。もし兄の家がなかったら、そこは彼女にとってやはり異郷でしかなく、病いの身を横たえる場所すら与えられなかったであろう。

 七兵衛夫妻のそれぞれ異なる故郷体験のなかに、われわれはともすれば美しく語られる故郷なるものの本質を見出すことができるのではなかろうか。
 七兵衛の故郷喪失は離郷のときに始まった。しかしそのことは、彼が領主の支配からの自由と生産手段である土地への緊縛からの自由を、一時的にではあれ、獲得したことを示している。そして、このような形での農民移動が現実に全国的な規模で生じていたことは労働力の商品化を必然たらしめるものであり、資本主義成立のための前提条件をなすものであった。
 それは近世村落共同体の解体であり、人々が中世の漂泊とは異なる新たな漂泊を強いられる段階の到来を意味していたのである。(この章了)

 

 これは、先回紹介の「故郷を唄う」唱歌が現われる直前の話である。

 しかし先回紹介の「唱歌」には、何か、離郷を奨める、もっと正確に言えば、村を離れて都会の労働力になれ、そして、歳をとったら故郷へ帰れ、という「におい」がしてならない。若い人を都会へ誘い、歳をとった者たちには帰郷をすすめる(都会にいても役立たないから若者と交替してくれ)、そういう「ためにする」ものであったのかもしれない。だからこそ「美しく語られる」のだろう。

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故郷とは何か・・・・田舎と都会

2007-08-03 23:12:03 | 居住環境
 [註記追加8月4日9.25AM]

 「ふるさと納税制度」なるものが検討される由。
 そしてまた、もうじき盂蘭盆。「ふるさと」がとかく話題にのぼる季節。そして、必ずどこからか、「うさぎおいしかのやま、こぶなつりしかのかわ・・・」、あるいは「さらばふるさと、さらばふるさと、ふるさとさらば・・・」「こころざしをはたして、いつのひにかかえらん・・・」などという唄も聞こえてくる季節。

 「ふるさと」という言葉を聞くたびに、思い浮かぶ書物がある。というより、その書物にあった一つの気になる論説。
 それは1994年に第一刷が刊行された「岩波講座 日本通史 第18巻 近代3」所載の岩本由輝氏(東北学院大学)が書かれた『故郷・離郷・異郷』という標題の論説。長い論説なので、要約は結構難しい。そこで、要所を原文から転載する形で紹介させていただく。

 この論説の中に、『農村から都市への人口流出』という一章がある。そこでは、「都市」と「農村」の関係について、これらの「ふるさとをうたう」唄の誕生を通じて論じている。これは全文を転載する。都市と農村、あるいは「いわゆる中央」と「いわゆる地方」との関係について考える原点に触れていると思うからである。
 


 故郷といっても別に決まった概念があるわけではない。離郷した人間がそれぞれの境遇からさまざまな故郷のイメージをつくり出す。
 ひたすら懐かしい故郷もあったであろうし、悲しく思わなければならない故郷もあった。いつでも喜んで迎えてくれる人たちのいる故郷もあったろうし、帰りたくても帰ることのできない故郷もあった。しかし、いずれにせよそれぞれの有するイメージが増幅されるなかで、あたかも万人に共通するような故郷ができあがる。それは幻想であったかもしれないが、そのような幻想を生み出していったものとして、いわゆる小学唱歌の故郷を唄った歌を挙げることができるのではなかろうか。義務教育の課程で、児童たちは故郷の地で、将来、離郷するしないにかかわらず、故郷の歌を唄い、歌詞を記憶することになるのである。

 近代を迎え、農村から都市への人口流出が盛んになるが、その流れは二〇世紀を迎える前後において急になる。小学唱歌として故郷の歌がとりあげられるようになるのは、そのような時代的背景があってのことであり、その歌詞にみられる情景に共感を抱く人たちが増えてくるのである。
 一八八八年(明治二一)刊行の『明治唱歌(一)』に載った大和田建樹(おおわだ・たけき)作詞の「故郷の空」は、その最も早いものの一つであろう。そこでは、「故郷の空」「故郷の野辺(のべ)」「わが父母(ちちはは)」「わが兄弟(はらから)」がスコットランド民謡“Comin' Through the Rye”の曲を編曲したものにあわせて唄われるのである。
 そして、一九〇七年(明治四〇)刊行の『中学教育唱歌集』には犬童球渓(いんどう・きゅうけい)の「旅愁」と「故郷の廃家」が載る。前者ではオードウェイ作曲の“Dreaming of Home and Mother”の曲にあわせて「恋しやふるさと、なつかし父母(ちちはは)、夢じにたどるは、故郷(さと)の家路(いえじ)」と唄われ、後者ではヘイス作曲の“My dear old Sunny Home”の曲にあわせて離郷後久しいのちに訪れた故郷で、「あれたる我家(わがいえ)」をみ、「さびしき故郷(ふるさと)」を実感することが唄われている。
 また一九一三年(大正三)刊行の『新作唱歌(五)』に載った吉丸一昌(よしまる・かずまさ)の「故郷を離るる歌」では、ドイツ民謡の曲にあわせて、「さらば故郷(ふるさと)、さらば故郷、故郷さらば」と離郷が唄いあげられる。
 そして、この離郷の歌を承けるような形で、一九一四年(大正三)刊行の『尋常小学唱歌(六)』所載の高野辰之(たかの・たつゆき)作詞・岡野貞一作曲の「故郷」では、「故郷(ふるさと)」の山川を唄い、「父母(ちちはは)」や「友がき」の健康を気遣ったあと、「こころざしをはたして、いつの日にか帰らん」と帰郷を誓うことになっている。
  注 歌詞等は、堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』岩波文庫 一九五八年

 これらの小学校唱歌に描かれている故郷は農村である。あるいは田舎といってもよいが、そこにはもちろん山村も漁村も含まれる。そして離郷する先は具体的には歌詞には現われないが、都市・都会である。つまり、農村が故郷で、都市は異郷ということが前提になっている。都市が故郷で、農村が異郷である人もいるし、都市から都市へ、農村から農村への移動もあるわけであるが、それではさまにならないようである。また、事実としても農村から都市への人口流出が最も多かったのである。
 柳田(注 柳田國男)は、「日本の都市が、もと農民の従兄弟に由って、作られた」として、日本では近代以前から都市はつねに農村から出てきた人によって形成されてきたことを強調し、それが近代以降になってさらに強まってきたことを明らかにする(『都市と農村』朝日新聞社一九二九年)。

 農村から都市への人口流出という形で離郷を促進したものに鉄道の開通がある。新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)は、その結果として生ずる「人口の都会に漸殖(ぜんしょく)して田舎に漸減する事実の影響は単に農業にのみ止まらで(とどまらで)、全国の経済的生活にも種々の関係を醸成す」といっている(『農業本論』 裳華書房一八九八年)。そして、横井時敬(よこい・ときとし)は農村から都市への人口流出を「都会熱」と名づけ、「宛も(あたかも)一種の伝染の病」とみなし、農村を滅亡させる原因になると警鐘を鳴らし、健康・健全な田舎から不健康・不健全な都会に出ることを堕落ときめつける(『田舎に於ける都会熱并に之れが予防策』一九〇一年「大日本農会報」)。

 これに対して、柳田は「元来人口の都会集注、即ち今時田舎の若者が都会へ出たがる傾きは、人類発展の理法」であり、「心理上経済上極めて自然なる趨勢である」といって横井の主張を批判し、「此の(かくの)如き人口の移動」は「田舎に余って居る労力を都会に供給し、都会に余って居る資本を田舎に持って行」くという「経済政策の極意」を「不十分ながら天然に為し遂げる」ものであると評価するが、そこには柳田が都会に出てきた「田舎の若者」の多くは「或年まで働い」て「相応に金が溜まれば乃ち(すなわち)田舎に帰る」と考えていたことを反映している(『田舎対都会の問題』一九〇六年 大日本農会第百四回小集講演)。
 小学唱歌「故郷」の「こころざしをはたして、いつの日にか帰らん」というのがこれにあてはまるものであろうが、果たして実態はどうであったろうか。(この章了)


 柳田の論調は、最近の政府の言を聞いているみたいだ。

 先日の新聞に象徴的な記事があった。
 ネットカフェで寝泊りしている若者に、今度の選挙で投票する?と訊ねたら、投票したいのはやまやまだが、選挙権は故郷にある。選挙の為に帰る金があれば、ここで1週間暮せる、だから帰れない、という答が返ってきたという。

 この記事を読んですぐさま思い出したのが、星野哲郎作詞の「帰れないんだよ」という歌。ちあき・なおみの歌唱で有名。
 その中に「・・・秋田へ帰る汽車賃が あればひと月 生きられる だからよ だからよ 帰れないんだよ・・」という一節がある。

 戦後直後の「集団就職」にしても、皆が皆、故郷に錦を飾ったのだろうか。柳田の望みは、現実ではないのである。
 大体、田舎の労力は「余って居る」のだろうか。

 そして、折しも、派遣大手に業務停止命令。まるで、先の介護大手のそれのコピーのようだ。この事態は、コンプライアンスの厳守、なんてもので修復できるものではあるまい。こういう企業形態の存在を含め、事態の真因が追究されてしかるべきだろう。

 註 山谷などには、「手配師」と呼ばれる人集めがいた。
   人を職場に送り込み、その給料の上前をはねる《商売》。
   これを、規制緩和の名の下に「合法化」したのが「派遣業」ではないか。
   上前を利益とするところは、派遣会社は手配師と何も変りはない。
   だとしたら、いかに利益を上げるか、に走るのもまた当然。
   コンプライアンスの厳守などと言ってごまかしてはなるまい。
   コンプライアンスを厳守していれば、
   モラルを外れたことでもよい、という論理がまかり通る。
   

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「基準」ということ・・・・最近の地震による被災状況を観て

2007-08-01 01:56:55 | 論評
[註記追加8月1日1.33PM]

 今回の中越沖地震に対して、いつもならばあれこれと騒ぐ「耐震の専門家」たちが、今回は黙して語らないように私には思える。何故なのか?

 今日の報道では、先の中越地震で被害を受け、いまは流行の「耐震補強」を施した建物が、全壊はしなかったが、ふたたび壊れたと伝えていた(新潟大学災害復興科学センターの調査報告についての報道)。
 全壊しなかったから「耐震補強」の効果があった、という見方が喧伝されるのかと思っていたら、そうではなかった。
 そこでは、建っている場所についての何らかの対策が必要、という調査者の言が報じられていたから、さすがにそのようなおこがましい言い方では済まされない、との認識があったものと思われる。これはきわめて正常なことだ。

  註 同センターの調査を正確に紹介すると、
    刈羽村の2集落の15戸が(いずれも砂地の丘陵の裾にある)、
    中越地震と今回の地震と二度にわたり被災した。
    内訳は、中越地震で被災し
     ①全壊して新築したものの、今回大きく損壊した例:2棟
     ②大規模補修で再建したが、大きく損壊した例   :6棟
     ③全壊して新築し、軽微な被害があった例      :3棟
     ④修繕して軽微な被害があった例           :4棟
    補強によって生命にかかわる倒壊は防げたとも言えるが
    後背の丘陵全体の対策など大規模な対策が必要とし、
    集団移転も選択肢の一、としている。


 柏崎刈羽原発の被災状況が、当初の発表とは異なり、きわめて大きいことが日ごとに明らかになってきた。
 原発が受けた地震の力は、想定の数倍に達していたと言う。おそらく、これからこの数値が「基準」になるのかもしれない。そしてまた新たな被災によって「基準」が変る。このような「いたちごっこ」は、もういらない。どうして、こういう「発想」の無意味さを、最先端科学者たちは自覚しないのだろうか。

 柏崎刈羽原発の設計で、私にはまったく理解できなかったのが、原子炉本体とそれ以外の「基準」に差を設けた「設計指針」である。
 たとえば、原子炉外の配管類は、より低い基準で設計されていたらしい。しかし、それらは原子炉建屋に接続する。「耐震」の程度が違うのだから、当然、接続部に破損が生じてもおかしくない。そして実際、破損が起きている。接続していないのなら問題はなかっただろう。しかし、接続しなければ意味がない。だとすると、当然予想できることに対応し得ない「基準・指針」とは、何だ?この安易な考えは何だ?そこに窺えるのは、「経済合理主義」。

 どうだろう。これを機会に、あるいは契機に、「基準」というものを改めて考え直してみたらどうだろう。「建築《基準》法」も含めて。

  註 同時に、「耐震」の概念をも改めて考え直し、
    現況の《定義》が不都合なら、語を変えることをも
    躊躇してはならないだろう。

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