日本の建築技術の展開-8・・・・衝撃的な構想による工法の出現、そのきっかけ

2007-03-31 18:57:25 | 日本の建築技術の展開

天井を張り、「桔木」を用いる工法が広く普及する一方、少し大きな建物になると、柱列を「長押」で補強しても、架構が強度的に不安なことが分かってきた。
そこで生まれた衝撃的な構想による工法。それが「東大寺再建」で出現したいわゆる「大仏様(だいぶつよう)」である。
ことによると、東大寺の再建が企てられなかったならば、「大仏様」は生まれなかったのかも知れない。

東大寺大仏殿:金堂の創建は751年(天平勝宝3年)という記録があるが、その形は具体的には分かっていない。
創建時の建物は、1180年(治承4年)平家の焼き討ちで類焼焼失するときまで建っていたと伝えられているが、それは、古代では最も進んだ高級な「唐招提寺金堂」で使われた技法を拡大・巨大化したものであったらしい。
それは、軒桁を柱の直上に置くのではなく、柱の列よりも外側に出す方式:「出桁(でげた)」を使って、軒を極力深く出す「三手先(みてさき)」の技法であった。防雨の効果は向上し、見掛けも堂々とした姿になる。

  註 近世の農家や商家などでも
     簡単な「出桁」による軒の出の確保の技法は使われ、
     「だしげた」などと呼ばれる。 

上掲の図は、唐招提寺金堂で使われている「三手先」の詳細と、唐招提寺金堂の推定復原断面図である。

  註 現在の唐招提寺金堂の屋根は後世の改造によるもの。
     元は緩い勾配だった。
     明治期の修理には、身舎の部分にトラス組が使われた。

この技法をいわば拡大コピーしてつくられた巨大構築物:東大寺大仏殿は、記録によると、建立後間もなく、副木(添え木)で柱が補強され、また軒先も垂れ下がっていたらしい。
そのため、古代の工法による復興・復元は無理と判断され、そこで考案されたのが、後に「大仏様」と呼ばれるようになる工法である。
これを推進したのが東大寺復興を使命とした僧:勧進職、重源(ちょうげん)である。
つまり、危なげな巨大建築大仏殿の復興が、技術の進展のきっかけになったのである。

この方法で、東大寺の伽藍はほぼ創建時の規模で復興が成し遂げられたのだが、復興大仏殿はふたたび焼失し、東大寺境内の大仏様の遺構は、「南大門」「法華堂」「鐘楼」などだけである。

  註 現在の大仏殿は江戸期の復興で、規模が若干小さくなり、
     大仏様の工法は部分的である。
     他の大仏様の事例に「浄土寺浄土堂」がある。
    
この工法の特徴は、すでに何度か触れてきたが、部材が全て丸見え、天井はもちろん、化粧材を一切使わないこと(06年10月20日、11月28、29、30日に紹介⇒下註)。
天井を張り、「桔木」を使う方向へ進んでいた当時の技術の主流にとって衝撃的であったことは言うまでもない。

   註 「浄土寺・浄土堂・・・・架構と空間の見事な一致」
      「東大寺・南大門・・・・直観による把握、《科学》による把握」
      「浄土寺・浄土堂、ふたたび・・・・その技法」
      「浄土寺・浄土堂、更にふたたび・・・・続・その技法」      

その内容について、次回、多少詳しく説明してみたい。

なお、以上の説明は、「奈良六大寺大観 東大寺一」「同 唐招提寺一」「日本建築史基礎資料集成 四 仏堂Ⅰ」「日本建築の構造」(先回紹介)などによった。
 

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続々・地震への対し方:地震(earth guake)と建物の関係

2007-03-29 19:50:31 | 地震への対し方:対震
[「日本の建築技術の展開-8」の前にまたまた飛び入り]
[補足の註を追加 9.55PM]

 たまたまTVを見ていたところ、「一級建築士」の方が、能登の地震で壊れた家屋を見聞しながら、壊れたのは、能登特有の瓦の葺き方にある、と語っていた。能登では、風が強いので、瓦を釘で下地に打ち付けるのが普通。だから瓦が崩れもしないでつぶれている、と。
 ある程度は妥当な説明ではあるが、しかし誤解を生む説明でもある。瓦葺きはだめだ、あるいは瓦を釘で打ちつけてはだめだ・・、という風評が広まってしまうことを恐れる。
 瓦だけを、部分だけを見ないで欲しい。なぜなら、同じ葺き方の瓦葺き建物でも、壊れない例があるのだから。

 TVで見たところ、瓦は最近主流の陶器瓦であった。ということは、建物の建設時期もそんなに古いものではない。ということは、布基礎にアンカーボルトで留めてある建物と見てよい(屋根がかぶさってしまい、基礎まで見えなかったので推定である)。

 そこで、地震と建物の関係を、あらためて考えてみたい。
 2月7日に、AIJ(日本建築学会)のHPから転載の《在来工法》についての解説中に、「木造軸組工法の住宅が地震にあうと、柱、はり、すじかいで地震の力を受け持って、土台、アンカーボルト、基礎、地盤と力が伝わります」という一節があることを紹介した。
 この場合、「地震の力」が加わった後の話を述べているのであって、肝心の「地震の力」は、いったい何処からやってくるのだろうか?

 私たちが今、走る電車内で立っている状態を考えてみよう。電車は今順調に走っている。つり革につかまらなくても立っていられる。
 そこへ突然、急ブレーキがかかった。私たちはどうなるだろうか。そしてどうするだろうか。
 私たちは進行方向に体が持ってゆかれ、あわててつり革をつかむか、手摺棒をつかむ。同時に多分、私たちは足を踏ん張るだろう。そのどれにも失敗したら、私の体は前方に突進してしまう。多くの場合、子どもやお年寄りがその目に遭う。
 停まっている電車が急発進したら、これと逆に、体は後に持ってゆかれる。これは日常、急発進でなくても、立っているとき、バスの走り始めによく経験することだ。
 つまりこれは、私たちは、等速で走っている状態、あるいは、停まっている状態(速度が0)を維持し続けようとするのに、立っている足元が別の動きをしてしまい、その結果、予想もしない力が身に降りかかってくる、ということだ。
 この現象を「慣性」として説明したのがニュートン、ニュートン力学の基。動くときの話だけではなく、停まっているものは、いつまでもその姿勢を保ち続ける、と考えたからこそニュートンはただ者ではなかったわけ。

 地震がある。地が震える、地面が揺れる(earth quake)。そのとき建物はどうなるか。この場合、建物はずっと停まっていたわけだから、そのまま停まり続けようとする。
 つまり、地震により建物に起きる挙動は、「慣性」によるものだ、ということ。建物にかかる力は「慣性」によって生じる、ということだ。
 つまり、「対震」を考えるには「慣性」を考えなければならない、ということになる。
 
 「だるま落し」の遊び、積み木を何段か積んでおいて、中段の積み木を横からハンマーで叩くと、叩かれた積み木だけが跳び、上に積まれていた積み木がすとんと落ちて跳んだ積み木の位置におさまる遊びを経験したことがあろうかと思う。
 この「跳んだ積み木が地面」、「すとんと落ちた積み木が建物」と考えればよいのである。
 そして、このような地面にただ置いただけの建て方がかつての日本の建て方:いわゆる「伝統工法」。言ってみれば、地面と縁を切り、地面の揺れに追随しないやり方。

  補足の註
    まったく縁が切れているわけではない。
    礎石に彫られた孔にダボが入っていたりするし、
    それがなくても礎石や布石との間の摩擦もある。
    しかし、ボルトで留めるのとは全く違う。
    つまり、基礎+ボルトに比べると、
    相対的には、縁が切れていると言える、ということ。

 この遊びで、積み木と積み木を両面テープか何かで接着したらどうなるか。ハンマーで叩いたら、上に詰まれた積み木ともども、跳んでしまう。つまり、積まれた積み木は共倒れ。
 両面テープを貼った状態、実はこれが「基礎に木造部分を緊結せよ」、と言う
現在の法律が規定している建て方:いわゆる「在来工法」。言ってみれば、地面の動きに追随し、ともに動くことを奨める工法。

 ふたたび「だるま落し」遊び。
 積む積み木の最上段を、下の段より数等「重い積み木」にして積み木を全部両面テープで貼りつける。そして下の方の積み木を横からハンマーで叩く。どうなるだろうか。
 重い分、最上段は現状位置を保とうとするから(重ければ重いほど、現状位置を保とうとする)、積み木の塔は、ハンマーの方向とは逆:後方にそったいわば弓なりになろうとして、テープが剥がれるかもしれない。つまり、塔が折れる。
 これが、基礎に緊結した重い瓦屋根の建物は壊れやすい理屈。
 
 では、先の最上段を数等「重い積み木」にして、しかし互いはテープでつながない普通の「だるま落し」ではどうなるか。
 重い分、最上段は、より強く現状位置を保とうとするから、そのまま真下にすとんと落ちる。高さ:段数が減っただけでほとんど位置が変らない。
 これが、かつての「建物を礎石に据え置いた建物」に地震のときに起きる現象。
 べらぼうな大きさの瓦屋根の西本願寺などの大寺院建築が、地震で平気なのは、多分、この理屈。
 しかし、すとんと落ちても、なぜ骨組は歪まずに平気なのだ?これが「日本の建築技術の展開」の究極の目的。
 
 長々と書いたけれども、このように考えれば、かつて工人たちがたどり着いた日本の建物づくりの技術が、現場の体験を基にいかに考え抜かれたものであったか、
それに反し、「法令が規定する木造建築の諸規定・規制」が、いかに考えが浅いか、分かっていただけるのではないかと思う。

  註 最近、木造建築の免震を説く人たち、
    業者たちが増えてきたが、
    少しは日本の建築技術に
    目を向けたらどうなのだろうか。

    そして、耐震・免震を、
    また、自らは設計をせず(考えず)
    「確認申請の許認可」を、
    商売のネタにするのは、
    「技術の本道・王道」ではあるまい。

 さて、少し寄り道をしたけれども、決して今後の話と無関係な話ではない。
 日本の工人たちがたどり着いた究極と言ってもよい技術について、「日本の建築技術の展開-8」へ続けよう。
コメント (4)
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日本の建築技術の展開-7・・・・中世の屋根の二重構造

2007-03-28 14:37:36 | 日本の建築技術の展開

[4.50PM 補足を加筆]

 先回、天井の出現と「桔木」の出現について簡単に触れた。
 平安時代前期の建物は、ほとんど遺構がないため、どのように架構が変遷していったか、その経過を知ることが難しかったという。
 ただ、法隆寺の大講堂を解体・修理をした際の調査によって、屋根の構造の原型、つまり平安時代の初め頃の屋根の架け方が判明する。

 この点について、唐招提寺の屋根構造の原型を、屋根裏の精細な調査から推定した、奈良時代建築に詳しい浅野清氏の解説を、以下にそのまま紹介する。
 出典は、シリーズ「日本の美術245:浅野清 日本建築の構造」(至文堂)。

  註 この書は、日本建築の構造を明快、簡潔に解説している。
    参考図書としてお薦め。
    なお、以下の解説は下記論文が基になっている 
    浅野清「日本建築に於ける野屋根の発生に就いて」
    日本建築学会論文集30号 昭和18年

    氏の代表著作:「法隆寺建築綜観」便利堂 昭和28年 ほか

 ・・平安時代には全く別な必要から、わが国独特な二つの大きい成果をあげている。一つは野屋根(のやね)の発明、もう一つは開き戸の他に引き戸を工夫した点で、その日本建築に及ぼした効用は極めて大きかったのである。 
 ・・・・・
 ・・・(一般に)身舎(もや)の垂木よりも庇(ひさし)の垂木の勾配を緩くし、更に飛檐垂木(ひえんだるき)の勾配を緩くしていたのであるが、これは、一つには側柱(がわばしら)上の桁から外での垂木の下りをあまり大きくしないためであった。

  註 「檐(えん)」は「のき」「ひさし」、屋根の葺き下した端の意。

 日本人は平安時代になると、奈良時代に貴族や僧侶の間で試みられていた中国風の椅子やベッドの生活は全く捨て去って、もっぱら座る生活に徹してしまったのであったが、そうなると床板を張り、周囲に縁側を設けることになる。また座る生活には、高い天井よりも、ずっと低く、座って落ちつく室内空間が好まれるようになり、自然、柱も短くされたが、そうなると軒先の下ってくるのは目障りになって、なるべく垂木の傾斜を緩くしたくなった。しかし・・あまり緩くすれば、・・雨の始末に困ってくる。特にわが国のように強い風を伴う雨に見舞われる地域では・・緩い勾配の屋根にすることは許されない。

 こうして工夫されたのが、下から見える垂木の勾配を緩くし、その上に別に実際に水を流す屋根(野屋根)を載せることであった。
 わが国では平安時代前期の建物がほとんど残っていないので、この構造の発達の経過を追跡することは至難であるが、幸い正暦元年(990年)に再建された法隆寺講堂の解体修理による調査で、徹底的に改造されていた屋根構造の原形を復原することができたので、その結果について説明しよう。
 ・・・・・
 復原修理された現状で見られるように、この堂では身舎(もや)一面に梁の下に天井が張られているので(上掲内部写真)下から屋根裏の見えるのは庇部分のみであるが、ここでは地垂木の傾斜をずっと緩くしておき、身舎の垂木は上方にあって実際に雨水を受ける役をつとめていて、下から見えている庇の垂木とは無関係になっている。
 次に飛檐垂木(ひえんたるき)の先端に、横にずっと取りつく茅負(かやおい)のL型に造られた入隅を利用して、そこから身舎の垂木の下端近くの垂木(野垂木)上面へかけて太さも地垂木と変わらない直材の垂木を、下から見える垂木の倍の間隔に配置していた。

  註 図のサイズが小さいため、分かりにくく恐縮

 この堂では、垂木(化粧垂木)の上には板を打たないで、木舞(小舞)を並べて土を塗る方式であったので、この垂木の断面は上面が山形になって、そこに木舞を絡む縄を通す孔があけられていた(上掲写真)。しかし、その上にかけられた下からは見えない垂木(野垂木)は長方形断面で、上面の角に木舞を縛る縄を通す穴があけられていた。身舎の上方の垂木にも同様な穴があったので、くの字形に配されたこの二つの野垂木の上に編まれた木舞の上に土を盛って瓦屋根が葺かれていたことがよく分かった。

  註 仕上げは、木舞上に土を置き、下から返し土をして、白土で化粧する。 

 こうした構造が成立すると、その効用は最初の目的を超えて、大きい結果をもたらすことになってきた。
 その最も重要な点は、この化粧垂木以下の下部構造と上部の屋根構造の間の縁が絶たれて、自由に下部とは全く関連のない屋根もあげることができるようになったことである。そうした例をいくつか挙げてみよう。
 (1)非対称の平面に対称の屋根をあげる。
    兵庫県「鶴林寺太子堂」(説明略)
 (2)並堂を改装して、一つ屋根の堂にする。
    奈良県「当麻寺曼荼羅堂」(説明略)
 (3)複雑な内部空間を一つ屋根に納める。
    京都府「浄瑠璃寺本堂」(説明略)
 (4)天井による構造材の隠蔽。
    座る生活が固定し、動きの少ない動作が多くなると、落ちついた穏やかな
    室内空間を求めて、力強い梁のような構造材を隠すため、その下(全面
    に)天井を張った、これは法隆寺講堂の身舎でも見たが、小堂になると長
    押のすぐ上に、小組格天井、折上小組格天井を張るか、または天井と長
    押の間に蟻壁、連子欄間などをはめたものを生じるようになった。

 建具及び雑作の発展 (省略:いずれ紹介の予定)
 ・・・・・

 現状矩計(上掲の上段の図)では、大梁に丸太の太鼓を使い、「桔木」で軒を支えた構造になっている。建物全体の間口も9間あるが、元は8間であった。
 なお、上掲の図には、原書より転載の上、文字を加筆している。

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続・地震への対し方・・・・地震は分かっていない

2007-03-27 12:36:47 | 地震への対し方:対震
[「日本の建築技術の展開-7」に進む前に飛び入り]

 能登半島を中心に大きな地震があった。最近、大きな地震がよく起きる(しかも、地震としばらく縁のなかった地域で・・)。
 そして、そのたびに分かること。それは、「地震は未だにまったく分かっていない」という事実。
 おそらくこれから先も、次々に、地震のたびに、「分かっていないこと」が「分かってくる」のだろう。それには限りがない。永遠に続く。

 何度も紹介するが、「・・伝統構法は、現代的な科学技術とは無縁に発展してきたものであるだけに、その耐震性の評価と補強方法はいまだ試行錯誤の状態であり、今後の大きな課題である。・・(坂本功)」という木造建築の権威の発言の論理矛盾。
 氏らが説く木造耐震法は、「地震」が分かっているものとしてつくられた理論が基だ。「現代科学で分からないものは分からない」と言いながら、「現代科学で分かっていない地震」に対抗していることになる。
 「分かってもいない地震」を「力でねじ伏せてやろう」というのだから、ドンキホーテ的と言わざるを得ない。
 
 昔の人なら、地震は「人智の及ばないこと:現象」として理解したはずである(それは、彼らが科学的知見、科学的思考法を持っていなかったからではない)。
 だからと言って、彼らは、「人智の及ばない力にねじ伏せられてもしかたがない」と考えていたわけでもない。
 彼らは、「地震とともにあればよい」と考えたのである。言ってみれば、「揺れに対して無駄な抵抗はせず、揺れるに任せようではないか」ということだ。それが、かつての日本の工人が行き着いた「工法」いわゆる「伝統工法」だったのではなかろうか。
 具体的に言えば、揺れても、部材がバラバラにならないようにだけ注意して、揺れに身を任せていればよい、と考えたのだ。

 そろそろ、地震の力なるものを(勝手に)設定し、それに耐えるという思考法から脱却したらどうだろうか。そうでもしないかぎり、地震のたびに「耐震の前提」を変更しなければならず、それでは「いたちごっこ」だ。

 むしろ、必要なのは「疫学的」方法・思考法ではないだろうか。
 たとえば、今回の地震でも、同じ地域で、破損・倒壊した建物と、大きな被害を受けない建物とが併存している(27日付朝日新聞電子版に上空からの写真がある)。「何が壊れ、何が壊れないのか」、それを知ることから始めるのである。
 おそらく、かつての工人は、その視点で、いろいろと仮説をたて、ものごとを観ていたにちがいない。
 今だったら統計的処理をするのだろうが、彼らは経験の蓄積・継承を通じて(これは、結果的には統計的処理にほかならないのだが)、あるべき工法・技術を考えてきたのだ。

  註 こういう方法は、病気の発生原因等を調べるときになされてきた。
    それを「疫学的」方法という。

 これに対して、今の学者・専門家は、何度も言ってきたように、壊れたものしか見ない(あえて「観ない」と書かず「見ない」と書く。意味がちがうからだ)。
 しかも、ドンキホーテ的。ドンキホーテには愛嬌があるが、彼らにはない。あるのは傲慢。
 今こそ「耐震」から「対震」へ、思考法の転換が必要なのではないだろうか。
コメント (6)
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余談・・・・中国最古の木造建築

2007-03-26 01:50:07 | 日本の建築技術の展開

[追記:2.30AM]

 日本の古代の建築には、大陸:中国の工人の技術が移入されている、というのが通説である。
 そこで、中国の木造建物を。ただし、実物は観たことがない。

 上掲の写真・図は、中国で現存する最古の木造建物とされる山西省、「五台山仏光寺」の建物である。857年の建立というから、唐代の後期にあたる。日本では平安時代中期か。

 しげしげと眺めていると、いろいろと面白い。
 たとえば部材の名称。「虹梁(こうりょう)」は「月梁」。
 屋根勾配は緩い。日本で現存する建物では「新薬師寺本堂」がこの勾配に近い。当初、奈良時代の建物はどれも緩勾配だったようである。後に勾配は急になる。日本の風雨に対する改良と思われる。

 移入・導入される異国の文化・技術が、どのように消化されていくのか、興味深い。忘れてはならないのは、そのときの自国の文化・技術が何であったのか、ということ。
 これを忘れると、文化は《高いところ》から《低いところ》へ流れる、たとえば、文明・文化の発祥はギリシャ・・・などという「一方向文化論」「ルーツ論」になってしまう。ちょっと考えれば、では「ルーツのルーツはどこにあるの?」という話になるのは自明なのに!

「図像中国建築史」を通観してみたけれども、丸太を使った「桔木」方式はないようだ。だとすると、これは独自の発案か。もしかすると、それは「民間」のアイディアだったのではなかろうか。

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日本の建築技術の展開-6・・・・古代から中世へ:屋根・軒の構成法の変化

2007-03-25 03:16:33 | 日本の建築技術の展開

[補足追加:10.00AM]

 先回の「追記」で、小屋の「筋違(すじかい)」について触れた。
 転載した室内の写真の原本を見ると、「又首(さす)」が棟木を支えていることが分かるが、解体したところ「棟束(むなつか)」を先行させ、それを左右から斜めに支える箇所があり、その一見「又首」様の斜め材を「筋違」と呼んでいるようだ。そう理解すると転載した記述の意味がよく分かる。
 このような方法は、後で触れるが、屋根:軒の構造が変り、「束」が多用されるようになった当初に使われたと考えられている。
 
 古代以来、日本の建物の軒の出はきわめて深い。それは「妻室」の側面図を見ても分かる。この例では、2.5mは出ているだろう。

 軒の出を深くする理由は、「見かけ」の問題ではなく、むしろ「用」のためであったと考えた方がよいように思える。つまり、いかに風雨を建物の壁にあてないようにするか、そのための策と考えるべきだろう。

  註 防水材、塗料、シーリング材などを信用するからだろうか、
    最近の建物は、軒の出が少なすぎるように思う。

 先回図を示した「斗組(ますぐみ)」も、いかに梁を受けるか、という工夫でもあるが、同時に、何段にも重ねる「斗組」により、順に迫り出し、軒を深くする工夫でもあった。
 この「斗組」による軒の出の確保は、「桔木(はねぎ)」の出現により大きく変る。
 大分前に(昨年11月7日の「天井の話」)、当初、室内には天井がなく、小屋組をそのまま表していたが、次いで「化粧小屋組+野屋根」の工法へ変り、室内高の調整に「天蓋」を設ける方法も現れ、空間が大きくなるにつれ、室内全面に「天蓋」が張られる、つまり天井で小屋組が「隠れる」ようになる。
 天井は、当初は、小屋組を「隠す」ことが目的ではなく、あくまでも空間の高さの調整ためだったようだ。

 しかし、結果的に小屋組が隠れることになると、そこで新たな工夫、すなわち、従前のように「斗組」で軒を迫り出すのではなく、天井裏を利用して軒を出す方法が考案される。それが「桔木」である。「桔木」には、「丸太」がそのまま使われる(元が軒先:図参照)。

 これには、小屋組の「又首」方式から「束立(つかだて)」方式への変化が関連する。
 先の「法隆寺・妻室」では、「又首」の棟木の下に「束(つか)」が組み込まれている。「又首」には本来「棟束」は不要。棟木はそれで支えられるからだ。
 「又首」方式は、基本的にはいわゆるトラス、原理的には、あるいは梁間が小さいときには、力は部材の材軸方向だけにかかると見てよいが、梁間が大きくなると、屋根の重さで「又首」の部材が撓んでくる。瓦屋根なら特にその可能性が大きい。おそらく「束」の発想は、この「撓み」に対する「つっかえ棒」から生まれたものと思われる。

  註 1月13日に紹介した長野県塩尻市郊外の「小松家」の小屋組は、
    又首:合掌の撓みを押える斜め材を入れた好例である。

 「つっかえ棒」が常用されれば、あえて「又首」を設ける必要がないことに、直ぐに気付くだろう。何本かの横架材を束で支え、その上に「垂木」を架ければ済む。そこで「又首」組から「束立」組への転換が急に進んだものと思われる。
 また、「束立」組は「又首」方式に比べ、小回りがきく利点もあるから、それも転換を進めた大きな要因の一つでもあったろう。

 しかし、垂直に立つ「束」は、倒れやすい。そこで斜めの材で梁から「束」を支えればよい、というわけで「又首」様の「筋違」が生まれたのだろう。これには、当然、従来の「又首」方式がヒントになっているはずである。

  註 現在、普通は「束立」組を「和小屋」と呼ぶ。
    これは、明治になり西欧の「トラス組」:「洋小屋」が移入され、
    それとの区別で生まれた呼称である。
    しかし、西欧に「束立」組がないわけではない。 
  註 「束」は「束柱」の略。
    「束」の語義は、「短い」という意味。「束の間」の「束」である。
    つまり、「短い柱」のことを「束柱」と言う。

 この方法は、鎌倉時代の中ごろまで、つまり、「貫」の方法が普及するまで使われたようだ。
 上掲の図は、「桔木」を使う工法が分かりやすい奈良の郊外にある「秋篠寺(あきしのでら)」の断面図である。
 この建物の建設年代ははっきりしないが、鎌倉時代に建てられ何度かの改造で変容していたものを、明治年間に修理したのが現状の建物である。
 そして、諸資料を基に復原推定断面図では、桔木上に束立で小屋を形成する初期の姿が示され、棟木を支える束を斜めに支える「筋違」があったものと推定されている。つまり、これは「法隆寺・妻室」と同じ考え方、垂直に立つ「束」を支えるための考案にほかならない。

 しかし「筋違」の使用は、小屋の「束」にも「貫」が使われるようになり、自然と消滅して行った。
 作業性から言えば、「筋違」の方が明らかに簡単だ(「貫」を貫通させる孔を彫る作業は、機械加工が可能な現在とはちがい、数等面倒な仕事であった)。

 だから、「貫」に変って行ったのは、「貫」の性能、その信頼性が高く評価されたからだと考えてよい。

 「桔木」で軒が支持されるようになると、もはや、従前の「斗組」は不要になる。しかし、「斗組」の形式は「様式」として継承される。ただ、すでに構造的な用はなくなっているため、まさに形式的になり、小ぶりになる。同様に、垂木も、実際に屋根を受ける垂木は「野垂木」になり下からは見えず、見えるのは化粧の垂木:「化粧垂木」となり、これも小ぶりになる。もっとも、「桔木」を受ける「枕」は、上図のように「化粧垂木」の上に載せられている。

 この「化粧」材と「野物」材による架構法が、古代末以降、しばらく続くことになる。

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日本の建築技術の展開-5・・・・古代の工法(3)

2007-03-23 21:02:40 | 日本の建築技術の展開

 [追記を追加しました:21時24分]

 法隆寺西院廻廊のすぐ東側に細長い建物が二棟、平行して建っている。廻廊側が「東室(ひがしむろ)」右側が「妻室(つまむろ)」である。なお、廻廊の西側には「西室」がある(昨日の伽藍配置図参照)。

 これらの建物は「僧坊」で、「東室」と「妻室」は中庭を挟んだ各房が一組の構成になっていたという。「東室」側は「大房」と呼び、主人の僧が居住し、「妻室」側は「小子房」と呼び、従者の住まい兼日常生活の雑用の場にあてられていた。要は、学生:学問僧の寄宿舎である。

 この建物は、平安時代の建設とされているが、奈良時代の工法を踏襲しているとのこと。
 各房(室)の境を円柱、中間はほぼ方形の角柱で三等分する。
 各室の境、中間とも組物を使わずに直接桁を載せ、梁は桁に「渡りあご」で架け、「又首(さす)組」を組み、棟木を「又首」頂部の三角形に「大入れ」でかぶせ、棟木~桁に垂木を渡し、直接瓦を葺いている。
 このような工法の遺構は、この建物だけらしい。
 法隆寺の他の建物が「斗組」であるのに対して、これはきわめて簡潔、簡素な工法である。

 おそらく、当時の普通の建物は、このような工法を採っていたのではなかろうか。

 「東室」も簡素なつくりであるが、後補が多く、当初の姿ではなくなっているということなので、紹介は省略。

 なお、以上の説明は「奈良六大寺大観 法隆寺一」所載の解説によっているので、詳細は同書を。

追記
 同解説に「方杖」「筋かい(筋違)」について、興味深い記述があったので、転載する。
 「(この建物の)棟木下の方杖は東室にもその痕跡があって、こうした簡単な建物にはむしろ古くから使われていたらしい。鎌倉初~中期の桧皮葺もしくは板葺の簡単な小屋組にも、これに類似した筋違の使用が見られるが、小屋組構造の発展につれて、むしろその後は消滅していった。小屋組の中に貫が採り入れられて、方杖(一種の又首とみてよい)から筋違、やがて貫を何段にも縦横に組む構造へと変化したのである。」

  註 上掲の写真には、方杖はない。復原されたこの建物では、
    南北両端の房に方杖を入れている、とのこと。

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余談・・・・法隆寺の境内

2007-03-22 20:41:55 | 建物案内

 法隆寺の建物をいくつか例に出しているが、ふと気が付いた。建築に関わっている人で、法隆寺などのいわゆる古建築を観に行く人が減っているのではないか、と。
 最近では、定番だった中学、高校の奈良・京都への修学旅行も減っているらしい。ある建築関係の人が集まる講習会でたずねてみたところ、「東大寺・南大門」を観たことのない人がいたくらいだ。
 「そうだ、京都行こう」などというコマーシャルに誘われて京都や奈良へ行っても、古建築などはあくまでも「観光」の対象、そこに建物づくりのノウハウを観ようなどという人は少なくなっているのではなかろうか(現代に役立つわけがない、と思っているのでは?)。

 それはさておき、今日は、何回も例に出す法隆寺の建物が、境内のどこにあるかを示す伽藍の配置図を載せることにする。
 画面の都合上、西院と東院に分けるが、両図はつながっている(スキャンの関係で、縮尺は多少ズレていると思う)。
 バス通りからの松並木の参拝道は図の下側になる。

 西院から東院への道の両側は「版築」の「築地塀」。時代が経っているので、風化して「版築」の層がはっきり見え、「版築」の工法がよく分かる。

 東院の前の南北に走る道を北へ向うと、法輪、法起寺を経て大和小泉の「慈光院」へ1時間半ほどで着く(「慈光院」は、昨年11月10日に、少し触れた)。


 次回は、西院回廊のすぐ東に、「東室(ひがしむろ)」とともにある「妻室(つまむろ)」の架構について。
 この建物は、寺院:学問所には必須な建物:僧坊であるが、「斗組」を使わない簡素な架構である。

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日本の建築技術の展開-4 の補足・・・・本の紹介

2007-03-21 02:34:04 | 日本の建築技術の展開

 もう大分前の初版だが、「草思社」から「日本人はどのように建造物をつくってきたか」というシリーズが刊行されている。

 その第一巻が『法隆寺:世界最古の木造建築』である(1980年10月初版)。
 著者は、西岡常一、宮上茂隆、挿図は穂積和夫。

 西岡氏は奈良・法隆寺大工棟梁、宮上氏は建築史家(故人)。穂積氏は松田平田設計事務所を経たフリーのイラストレーター。

 敷地の選定、材料の収集、施工法、道具、寸法・・・など、建物をつくることにかかわるおよそすべてについて、分かりやすく、解説している。しかも間違いのない内容。読者想定は、小学校6年以上対象、とのこと。
 「建築史」は、とかく《向う側の話》《もう済んだ話》・・にされているのが現状だが、この書を読むと、「設計とは何か、何を考えることか・・」などと反省を迫られるのではないかと思う。なぜなら、今、「設計」は「見てくれ」だけに陥っているように見えるからだ。

 上掲の図は、その中から、昨日紹介の部位の説明の部分。

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日本の建築技術の展開-4・・・・古代の工法(2)

2007-03-20 19:28:43 | 日本の建築技術の展開
 
「柱」「頭貫」「斗」「梁(虹梁)」がどのように組立てられているかを示したのが、上の図と写真。
 上段は、ごく一般的な教科書「日本建築史図集」(彰国社)にある解説図。
 下段の写真と図は、「法隆寺金堂」の解体修理の際の記録。

 「法隆寺金堂」では、「頭貫」は、柱間ごとに(複数の柱間に及ぶ場合はその間で)柱に彫られた凹部にただ落し込まれているだけで、「建築史図集」所載の図のように、「継手」も設けず、「ダボ」あるいは「栓」で柱に固定もしていない。つまり、きわめて簡単な仕口。

 以前、取手の「竜禅寺三仏堂」(重要文化財、室町時代の建立)の解体修理現場で「斗」の納め方を実際に観たことがあるが、各部材の刻みの精度は甘く、きっちりと隙間なく納まるのではなく、部分だけ見るかぎりガタガタであった。おそらく、奈良時代の建物も同様だったろう。
 ところが、全体が組み上がるとそのガタが消えてしまうようだ。

 もともと木材は一本ごとに癖が異なる。
 そういう材で架構をつくるとき、全体を固く締め付けるように組めば、その癖の出現を押え込むことができる。「貫」を用いるようになってからの架構はこの方法を採っていると言ってよい。

  註 「貫」や「継手・仕口」で固く締め付けてあった建物を解体すると、
    押え込まれていた部材の癖や捩れが一気に現われる。

 一方、古代のような架構法では、部材相互の接合部の逃げが多かったため、それが逆に癖の違いを相殺してしまい、それがガタの消える理由と考えられる(それぞれの材は、いわば勝手に捩れているのだが、全体的にはプラスマイナス0となる)。つまり、この場合、接点の数が多いほど有効なわけだ。
 おそらくこれは、結果を予想していたというより、結果としてそうなったのだろう。

 それでもなお横からの力に耐えるには無理があり、それが「長押」の発案になったのである。

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日本の建築技術の展開-3・・・・古代の工法(1)

2007-03-19 21:39:13 | 日本の建築技術の展開

 古代の工法、と言っても、普通の住居の遺構がないから、自ずと寺院等の建物の工法で説明することになる。

 上の写真・図は、礎石上に建てるようになってからの建物で、先回触れた「身舎+廂(上屋+下屋)」の構成で建てられ、それが明快に分かる例として選んだ。

 先回(3月16日)の解説図では、柱に直接「梁」が架けられるように見えるが、寺院等の建物では、柱列の頂部に桁行方向に「頭貫(かしらぬき)」を納め、柱相互を一定程度つないだ後、柱位置に「斗(ます)」を据えて「梁」を架ける方法を採っている。
「斗」には軒の出もからみ、各種あるが、上の二例も、その点でも最も簡単な例である(「大斗(だいと)」)。

 しかし、この方法だけでは、地震や風などによる横からの大きな力では、簡単に転倒する。
 そこで考案されたのが、柱の内外に角材を添え、釘打ちして柱列を固める「長押(なげし)」の手法である。

 上掲の「法隆寺東院・伝法堂」では、開口上部と床位置に二段の「長押」が設けられている。開口上の長押は「内法長押」、下を「地長押」と呼ぶ。
 しかし、「内法長押」は正面と背面だけで、側面にはない。側面は小屋組もあって変形しにくいと考えられていたのではなかろうか。

 一方、新薬師寺本堂では、「長押」と見なされる材は、開口上部だけである。これは、むしろ、開口装置取付け用の材と考えた方がよいかもしれない。

  註 壁の下部の土台のように見える材は、「地覆(じふく)」と言い、
    壁の納めのための材で後入れ。

 この二例の建設時期は、奈良時代、ほとんど同じ頃である。同じ時期でも各様のつくりかたがあったものと思われる。
 特に、新薬師寺本堂は、当時の、「長押」を用いない、ごくあたりまえの礎石建ての建て方:工法だったと考えられる。

 その後、12世紀末に「貫」工法が現れるまで、「長押」を設ける手法は隆盛をきわめることになる。

  註 3月1日に、「長押」と「貫」が併存する建物
    「東大寺・法華堂(三月堂)」の写真を載せた。
    違いがよく分かる。

 なお、各建物については、3月17日(断面図)、昨年11月8日、10日にも関連事項を掲載しています。

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日本の建築技術の展開-2 の補足・・・・身舎・廂、上屋・下屋の例

2007-03-17 12:33:44 | 日本の建築技術の展開
 上掲の図は、「身舎(母屋)+廂(庇)」あるいは「上屋+下屋」の架構でつくられている実例である。
 いずれも柱は等間隔で並ぶ。
 「東山三條殿」は、一見、桂離宮同様の雁行型の建物のように見えるが、「身舎(母屋)」部分に網掛けをしてみると、いくつかの建物を渡り廊下でつないだ「分棟型」であることが分かる。

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日本の建築技術の展開-2・・・・軸組工法の出発

2007-03-16 23:21:59 | 日本の建築技術の展開
 今から4・5千年前の縄文遺跡:青森の三内丸山遺跡では、地面に三角形の屋根を架ける「竪穴式の建物」と「掘立の柱で屋根を受ける建物」が並存していたようだ。掘立式の建物は、倉などに使われたらしい。
 しかし、軒高のない「竪穴式」から、軒高の確保できる「掘立式」への移行は自然の流れだろう。

 掘立式の方法は、立てる柱よりひとまわり大きな穴を地面に掘り、柱を立て、石や土をまわりに詰めて柱を自立させる(上掲の図参照)。こういう柱を2本立て、それに横材を架け渡す、この架構を何列か横並びにしてそれに三角形の屋根の下地:又首(さす)を載せれば建物全体の骨格ができあがる。

  註 上の説明は、2本の柱に梁を架けできる逆コ形を横に並べる場合。
    2列の柱列にそれぞれ桁を架け、桁の間に梁を架け渡す方法もあった。

 三内丸山遺跡の掘立柱は、径が1m近いクリの丸柱を2mほどの深さの穴に埋められていたというが、普通の建物ならば、持ち運びや作業性を考えると、どんなに太くても直径5寸~7寸程度だったろう。
 このことは柱の上に架け渡す横材:梁にも言え、作業性から長さも太さも決まってくる。
 現在でも、人力だけで作業をするとなれば、直径は5~7寸くらい、長さは3間:5.4mぐらいが限界だろう(江戸中期の農家で、柱が4~4.5寸角、梁が径6寸前後長さ3~5間である)。つまり、つくられる空間の大きさは、作業性の限界から、自ずと決まってしまう。しかし、それでは空間の大きさが足りない場面が当然生じる。

 そのようなとき、空間の大きさを拡大する最も簡単な方法が、最初につくった「本体」に「付け足し」を加える方法である。
 通常、本体を「身舎または母屋(もや)」あるいは「上屋(じょうや)」、付け足しを「庇または廂(ひさし)」あるいは「下屋(げや)」と呼んでいる。

  註 社寺などでは「身舎・母屋」「庇・廂」、
    一般の住居では「上屋」「下屋」が使われている。

 「庇・廂」「下屋」は、本体のどの面にも任意に付けることができるが、その例を示したのが上掲の図である。
 「入母屋」屋根の語源は、この構造方式にある(母屋:本体の四周が庇・廂で取り囲まれている)。もっとも、現在の「入母屋」屋根は、形だけ「入母屋」型にした、いわば「似非・入母屋」である。

 掘立式の場合、柱は自立するから、横材:梁や桁を架けることは比較的容易である。だから、柱への梁の取付けも簡単で済み、簡単な方法:仕口で梁は柱に架けられた(上掲の図参照)。

  註 ただし、掘立式は、地震があった場合、地面に追随して架構が揺れる。

 「掘立式」の最大の問題は、柱自体が腐ることである。
 柱の腐蝕は、柱と地面の接点近くで起きやすい。腐蝕菌に適度な酸素と水分が供給される場所だからである。逆に、常に水分が補給されるような地下水位より下にある場合(水中なども含む)は、酸素の供給が不足し、腐蝕しにくい。三内丸山遺跡一帯は地下水位が高く、それゆえ、数千年もの時を経ても柱脚が遺っていたのである。

 この地面際の腐蝕を避けるため、上層階級の建物から徐々に、「礎石」を据え、その上に柱を立てる方法へ転換する。

  註 掘立式は、明治年間でも農家住宅では見られたという。

 「礎石建て方式」は、「掘立式」とは大きく異なる。「礎石建て」は、柱の自立が難しく、よほど大径の柱でないかぎり、自立は不可能である。
 したがって、柱を立てるには「仮設」工事が必要になる。多分、斜め材:筋かいで仮止めする方法が採られただろう。少なくとも柱4本、横材4本で直方体が組まれるまでは仮設は不可欠だった。

 「礎石建て方式」になっても、「身舎・母屋+庇・廂」「上屋+下屋」の架構法は継承され、はからずも、「庇・廂」「下屋」が、「身舎・母屋」「上屋」を横から支える「控柱」「控壁」の役割を担うことになる。

  註 社寺の屋根の「反り」は、当初、
    「身舎・母屋+庇・廂」の架構法でつくられていた。
    すなわち、「身舎・母屋」に段差なしで緩勾配の「庇・庇」を付け、
    「逆ヘの字」型をつくり、土居土を敷き並べ反りをつくっていた。

 しかし、「礎石建て」では、直方体が構成されても、「掘立」方式に比べ、数等不安定であり(特に地震や大風)、当然、横材と柱の取付け:仕口も含め、倒壊を防ぐ工夫が必要になる。実際、倒壊事例はかなりあったようだ。

 それゆえ、「礎石建て」になってからの工人たちの工夫・対応は、地震や台風の多い日本の木造建築技術の進化・展開の原点と言えるだろう。次回以降、触れることにする。

  註 上掲の水抜き溝を彫った法隆寺・食堂の礎石は、
    きわめて丁寧な仕事であり、現在でも有効な方法である。
    昨年10月20日に紹介の浄土寺・浄土堂の
    柱底面に彫られている通気のためと思われる溝のように、
    かつての工人は、木材の特徴、その維持に対して、
    きわめて慎重に気を配っていたことが分かる。

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日本の建築技術の展開-1・・・・建物の原型は住居

2007-03-15 20:04:16 | 日本の建築技術の展開
 2月の初め、1950年制定の建築基準法で規定された木造建築:いわゆる「在来工法」:は、長年にわたり蓄積されてきたわが国の木造建築技術とは「似て非なるもの」であることを書いた。

 ところが、、建築の関係者でも(建築士、確認検査機関・役所の職員、そしてときには大工さんでも・・)、この事実について知る人が少なくなってきたのが現状である。つまり、かつてはあたりまえであった日本の建築技術について、知る人が少なくなったのである。

 このような状況になった理由を挙げると、
 一つは、1950年以降の生まれの方々が大きな比率を占めるようになったこと(生まれてから日常身のまわりで目にする建物の大半が、基準法仕様の建物になっていた)、
 一つは、《新しいもの》《外国のもの》には関心を持つが、自国の、しかも「古いもの」には関心を持つ人が少なくなったからであり、
 そして最も大きな理由は、長い歴史を持つ日本の建築技術を、単なる歴史上の話として、「歴史」の中に閉じ込めてしまった「木造建築の《専門家》たちの言動」、それに従った「建築行政」と「建築教育」にあるだろう。

  註 「現在」が、「過去」とは無関係に存在すると見なすのは、
    日本だけではないだろうか。

 そこで、ここしばらく、どのように日本の建築技術が展開してきたか、私流の「日本建築史」を書いてみようと思う。


 最初に、建物をつくるとはどういうことであったか、から話を進めよう。それ抜きに建築を語っても無意味だからである。

 上掲の図は、上段は「原初的な状況下での住居」、下段は神社の一例。
 昔から、「『住まい』がすべての建物の原型である」と言われてきている。これは、間違いのない事実である。なぜなら、人が最初につくる建物は、その材料が何であれ、「住まい」であることは確かだからだ。
 そして、住まい以外の建物をつくるときは、「住まい」に倣うのである。
 それは神の家:神社を建てるときに如実に表われている。その一例を示したのが下段の図である。これら神社の空間は、上段の原初的な住居と変らないのである。

  註 神社には、諏訪大社のように、「神の家」:本殿がない例もある。
    本殿の代りに、諏訪大社の場合は「木」が神の拠り代となっている。
    山が神体の場合もある。

 上段の図は、川島宙次著「滅びゆく民家:間取り・構造・内部編」から、原初的な状況下の「住まい」を抜粋編集したもの。
 A、B、Cの区分けと説明は筆者の加筆。

  註 同書は3巻からなり、川島氏が実地調査をもとに編んだ貴重な書だが、
    残念ながら絶版である。
    出版社は「主婦と生活社」であるが、この出版社もすでにない。

 図中の解説でも触れているが、そして昨年12月12日・13日でも書いたが、「原初的な住居」、つまり「住まいの原型」は、「出入口が一箇所の囲われた一室空間」である(図は日本の木造の例だが、他地域、他の工法でも同じことが言える)。
 その一室空間:ワンルームの中をどのように使っているかを、川島氏は実地に赴き調べ、図に書き込んでいる。
 A、B、Cの性格付けは、それを基に筆者が区分けしてみたもの。
 
 現在、住宅の設計は、これも以前に触れたが、必要な部屋を数え上げ、それをどのように並べるかを考え、全体をまとめる手法をとるのが一般的である。
 しかし、上掲の例で明らかなように、原初的な住居では、まったく逆であることが分かる。つまり、初めには部屋というものがない。必要に応じて決められた大きさの一室空間が先ずつくられる。その空間内を、場所場所の性格に応じて使い分ける。そして、一室空間の使い分けが固定化してくるにつれ、部屋が生まれる。それも、最初から明確な区画があるのではない。
 この空間の使い分けの拠りどころになっているのは、明らかに、感覚的に捉えられた出入口との位置関係である。感覚的に、出入口から最も遠いところは最も安心できる場所、寝る場所とされ、また神を祀るところになる(上掲の図の場合は、いずれも、「物理的距離」=「感覚的距離」である⇒下註参照)。
 これは考えるまでもなくあたりまえ、出入口の近くを寝る場所に選ぶ人はいないはずだ。

  註 出入口近くの上に2階のような場所をつくったとすると、
    物理的には出入口に近くても、
    感覚的には遠い場所:Cゾーンとすることができる。

 この「空間の使い分けの原理:A、B、Cのゾーン分け」を考えることは、人の感性:感覚による判断だから、現在でも変らずに通用するはずだ。そして、このことを意識したならば、明らかに住居の設計手法も変ってくる。

 しかし、最近の住宅では、この原理を無視し、玄関近くに寝室を設けることを厭わなくなっているらしく、そういう例をよく見かける。また、便所や浴室なども、明らかに先の区分けのCのゾーンに属すべき場所だが、玄関そばに置く例も枚挙にいとまがない。

 そして、この原理は、住居以外の設計においても通用する。この原理を意識していたならば、昨年11月23日に紹介した「患者を不安に陥れる病院」などは絶対に生まれないはずだ。つまり、受付や薬局はA、またはBに、診察室はCゾーンに属す。A~Cを、出入口との関係で人の感性を判断基準にして考えれば、自ずと答は見えてくる。そして、うまくゆけば、案内板:サインの数も激減するだろう。  

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煉瓦・・・・その活用

2007-03-14 01:03:20 | 煉瓦造建築

昨日紹介した小坂鉱山の煉瓦造建築の煉瓦は、小坂の現地で焼成されたものだ。色から見て、かなり良い焼き上がりの煉瓦である。

煉瓦というと、明治の「近代化」を連想するのが普通だ。
私自身も、喜多方で農村の中の煉瓦造を見たときは、なぜ農村に煉瓦造?という疑問が湧いたものである。この疑問が、昨年の12月に紹介した喜多方の煉瓦造:煉瓦蔵=木骨煉瓦造を調べるきっかけであった。

喜多方を調べ、そして小坂を見て、あらためて煉瓦という材料の持つ特性・特徴を知るようになった。また、なぜ数千年にわたり、途絶えることなく使われてきたのかもおぼろげながら分かってきた。

煉瓦の良さは、先ず、原料:土が足元にあること(どこにでもあること)、土を練り成型して焼けばできること、それを積むのは誰にもできること、積めばそのまま仕上がりになること、その上、積む人の気持ちが仕上りに表れること、さらに、耐久性があり、時とともに貫禄がつくこと、そして、万一壊すことがあれば再び土に帰ること・・・などが挙げられよう。
 
喜多方の煉瓦造に触発され、応用してみた建物が上掲の写真である。竣工後20年を越えたが、今のところ煉瓦壁(1枚積み)は亀裂も入らず健在である(目地には、喜多方にならい、砂漆喰を使っている)。

この建物では、煉瓦は1階の内法まで積んでいるが、2階建ての建物で2階まで木骨式で設計したところ(1階は1枚半積みで鉄筋補強、2階は1枚積み)、確認申請時、検査官は、これは組積造だからRCか鉄骨の臥梁で補強しろ、という。
では、煉瓦半枚貼りならいいのか、と訊ねると、それならいいとのこと。かえって剥落の恐れがあると思うがそれでいいのか、と訊くと、法律的にはいい、との返事。争っても時間の無駄、やむを得ず、鉄骨を上部にまわして片がついた。

設計の「確認」というのはいったい何なのか?いつも不思議に思う。
設計を「確認」しておきながら、ことが起きると設計者だけに責任を押し付ける。ならば、最初から、一切を設計者に任せればよいのである。そして、その方が、近代以前のように、設計者そして設計の質が上るはずだ。

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