梅雨明け・・・夏本番

2016-07-30 10:45:52 | 近時雑感


数日前に梅雨明けの「宣言」があり、以来、連日夏空が続いています。今、遠く南の方に入道雲が現れ始めました。
幸い、南北の開口を開けておくと、風がよく通り、「暑い!」という感じにはなりません。今のところ、エアコンは動かさずに済んでいます。

この暑さを口実に、ここしばらくブログの更新を休ませていただこうと考えております。「夏休み」です。ご了承ください。

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復刻・「筑波通信」―7   「峠」について  

2016-07-25 11:57:01 | 復刻・筑波通信

草繁る


「峠」について                    1982年1月1日刊 の復刻
   復刻・編集にあたり相当整理しましたが、かなり長くなります。ご容赦ください。

昨年の春以来(1981年の春です)この三月に卒業してゆく学生の数人が、協同して鉄道の枕木を使って山小屋を造っている。これは、彼らの「卒業設計」。資金集めから木材の加工・組立てまで全て自分たちでやるのだから、これは、教室で聞く下手な授業などより、数等よい学習になったようである。また、おそらくこれは、彼らにとって、大学時代の最も充実した「体験」として心に刻まれたものと思う。
彼らの山小屋の現場は、今ごろは雪の中。

信州の中央部、西に松本、北に上田・小諸、北東に佐久、南に諏訪、少し離れて南東に甲府の街々があり、これらの街々のある平地・盆地に囲まれる形で一連の山塊がある。西から言うと、美ヶ原霧ヶ峰蓼科そして八ヶ岳へと連なる山塊であり、観光地として有名な一帯でもある。
   「日本地図帳」を開きながらお読みいただければ幸いです。
彼らの「現場」は、この蓼科山中、大門峠という峠を少し北に下った標高1400mに近い地点に在る。
この峠を含め、この山系には、その南と北に展開する街々を結ぶ山越えの道が、古来数多く開かれていたらしい。古代の東山道もこの山系を横切っていたことがあるようだし、近世の中山道も諏訪から佐久へこの山中を縫っている(現在の国道142号は、その道筋に従っている)。つまり、この山中には、既に廃れたものも含め、数多くの峠が並んでいたのである。その多さは他に類を見ない。
この一帯に、私は以前から興味があった。ここは高冷・寒冷の地。何故こんなところに道を開いたのか、不思議でならなかったからだ。そしてまた、この山系の麓の街々のあるところより一段上がった斜面、特に南面の高原状の一帯には(今は開拓地や別荘地になっているが)縄文期をはじめとする住居址、集落跡:遺跡群が所狭しとばかりに密集していて、これも私の興味をそそるものであった。
何故、この高冷・寒冷の地に?
そして、諏訪に生まれ諏訪を愛する考古学者:藤森栄一氏の諸著作でそのあたりのことについていろいろと教えていただき、かねてから実際に訪ねてみたいと思っていたのである。そして昨年の夏、彼の学生諸君の山小屋を見るついでに、この山系の南北を、十分とは言えないまでも歩き回り、貴重な体験を得ることができた。そこで、以下に、その際「峠」について考えたことを書くことにする。

諏訪に暮す人が、「ごく普通に」小諸・佐久・上田あるいは長野に行こうとする場合、今は鉄道を使うことになろう。しかし、鉄道は、地図で分るように、これらの山々の縁を回って走っているから、地図の上の直線距離では直ぐそこでも、かなりの時間を要するはずで、「遥か山の彼方の遠い町へ行く感じ」を抱くはずである。概して、今の鉄道は「中央」と「地方」を結ぶには非常に便がよいけれども、地方の街々を結ぶことに関しては、一時よりも便が悪くなっており、東京から長野に行くよりも、諏訪から長野に行く方が時間がかかるかもしれない。また、自動車を使うにしても、主要国道(国道20号、18号、19号など)も大体鉄道と並行しているから、結構時間がかかる。
主要な鉄道も主要道も、「地方」の街々を結ぶことよりも「地方」を「中央」に結びつけることに意が注がれているから、山の向うとこちら側とをつなぐことなどは念頭にはなく、もし注ぐことがあったとすれば、それは、そうすることがそのときの「中央」にとって「都合がよい」からだと言っても過言ではない。「中央」が近畿にあった古代には「東山道」は東国への近道だったし、江戸期の「中山道」も江戸と近畿を結ぶ近道であった。しかし、「中央」が東京になってからの鉄道敷設では、この山越えの部分は避けられ、山の両側に、それぞれ、東京長野東京松本を結ぶ鉄道が敷かれることになる。それは、山越えの鉄道が技術的に難しかったからではないはずである。なぜなら、鉄道の碓氷峠の山越えを見れば明らかである。
時の政府が、中山道全線の鉄道化の必要を認めなかったのである。その結果、山系の南北は鉄道とは無縁のままとなり、「山の向こうとこちら」になってしまったのである。先に「ごく普通に行く」となるとと書いたが、この「ごく普通」の状態は、鉄道敷設後の話であり、鉄道敷設以前は、「山越え」が「ごく普通」だったに違いなく、当然そのときは「山の向うとこちら」という感覚などなく、両側はもっと密で近しい関係にあったと考えられる。
つまり、鉄道敷設は地域の人びとの関係まで一変させてしまったのである。誰もわざわざ山越えをして上田へ行こうなどと思わなくなってしまった。人びとは歩かなくなった。

人びとの往来が減り、人びとの往来に拠っていた町の生活が、言わばその活動を停止し「変化」が停まってしまった(停まらざるを得なくなった)その道筋の街々が、最近になって、「伝統的街並」と称されてもてはやされている。
確かに、鉄道敷設後に寂れてしまった中山道沿いの街々には、歩いてみると分るが、今現に栄えている街々にはない心和むものがあるのは事実である。
しかし、それらの街並みをそのように在らしめた中山道は、既にその役割を失ってしまっているのも事実である。つまり、それらの街々は、中山道に拠らない生活を、その昔中山道に拠って造ってしまった「つくり」の中で、それを変えることもできず、言わば止むを得ず営んでいるのである。
中山道華やかなりし頃、活気あふれる町筋の家々は、頻繁に建て替えも行われていたに違いない。そのとき街の人びとは、先人・先代のやったことを単に順守するのではなく、もらうものはもらい、捨てるものは捨てる、つまり彼らの主体的判断でことにあたったはずである。それは、ただ受け継ぐという安易な営みではなかったのだ。
すなわち、今もてはやされている「伝統的街並」とは、そういう言わば人びとのダイナミックな活動が、鉄道の敷設にともない、突然停止を余儀なくされ、言うなれば時間が停まってしまった時の姿に他ならないのである。
昨今盛んに言われる「街並保存」の動きに、私が今一つ納得できないのは、それゆえである。一つには、そういう「保存運動」というのが、大抵(鉄道で訪れた)「よそ者」の発想であり、そこで生活・暮している人たちのことが念頭にないように思えるからである。それは、そこで生活・暮す人たちに、「時間を停めて生きろ」と言うに等しい。そのような僭越なことが許されてよいのか。
そして更に、そういった「旧いものを保存することで満足する」、その安易な考え方に同調できないからである。
確かに、こういった心和む街並がどんどん消えてゆく。そして、心和まない、むしろ逆なでするようなものになってきている。それとの対比の中で「旧きもののよさ」を見出したからといって、それらを保存すれば済むというものではあるまい。まして、それらを保存すれば、「現代のやりかた」への免罪符になるわけでもあるまい。
このような「よいものを遺しておけばよい」とするような「単純な」考えかたは、今の街並を心和まないものにしている「つくりかた・考えかた」の裏返し、つまり「構造」が全く同じであると、私には思える

彼等には、「街々や街並の形成:生成のダイナミズム」が全く見えていない。そこに生き・暮した人びとの、そのときどきの主体的な自らの感性に拠る判断の積層・蓄積のうちにそれらが成ったことが見えず、その成因を、ただ徒らに(変えることもできずに止むを得ずそのまま遺ってしまった)目の前に在る「もの」、その「ものの形:造形そのもの」に求めようとしているのだ。

敢えて言えば、人間の歴史は、まさに「つくりかえの歴史」であると言ってよいだろう。
ゆえに、私たちが「保存」しなければならないのは、出来上がった結果としての「もの」そのものではなく、そのような「結果」をあらしめた「つくりかえの論理:すなわちものづくりの論理」、そしてそれを支えてきた「感性の存在」であり、その「存在」を保証することである。そうでなければ、今私たちがやることは、決してその「よき旧きもの」以上のものには成り得まい。そして、そうでなければ、「旧きよきものを保存する」ことは、単なる骨董趣味と何ら変りないことになってしまう。

先月の初め(1981年12月初め)、学生たちと桂離宮を見学した。ちょうど修復中で、檜皮葺きの屋根も新しくなって、それまでの見慣れたいわゆる古色とは全く違って見えた。おそらく建設当初はこうだったのだろう。
この姿を見て、ある人たち:同業の教師で、いわゆるデザイナーを自負する方だったが:の「感想」は、「まわりと馴染んでなく、《元通りになるのに》!!どれだけ時間がかかるだろう」というものであった。
私に言わせれば、この姿が「元通り」なのだ、いや、木材も含めすべての材料が「新しい色」をしていたとき、それが「元通り」なのだ。この山荘を実際に使ったのは、たかだか数十年だから、その時この建物はいわゆる「古色」にはなっていなかったはずだし、第一、造営者も三百年後の《よさ》を思って造ったわけでもあるまい。
この人たちのつぶやきを小耳にはさんで、私は、、《桂離宮が素晴らしい》と言う人たちは、「何をもって素晴らしい」と言っているのか、その「《素晴らしい》のなかみ」を疑いたくなった。今、自分が(勝手に)「いい」と思った諸点、それをこれを造った人たちも求めていた、そう勝手に思い込んでいるのだ。
ここには、「誤り」が二重に積み重なっている。そして、そうか、こういう見かたで「教育」が行なわれてきたのだな、これは大変なことだ、と改めてことの重大さに気付かされたのである。
何故このような「事態」になるのか?
端的に言えば、ものごとを what と how だけでしか問わなくなっているからではないだろうか。
すなわち、本来、ものごとは 5W1H すべての疑問詞をもって問うべきなのに、問を「省略」しているのである。
今触れてきた「伝統的街並保存のはなし」も「桂離宮のはなし」も、そこでは when where who why の問いが欠落し、あるのは、what と how だけである。はたして、それだけの視点・問いで、人間の営為を語れるか、ものが造れるか?否である。
「旧きよき街並」を実際に造ってきた人たちや桂離宮造営に関わった人たちは、当たり前のこととして、これらの全ての「問」でものごとにあたっていたはずである。それを忘れてしまったのは、今の私たちだけ。その結果、「それはそれ、昔は昔、今は今・・・」という「発想」が当たり前になってしまったのだ。
旧いものも新しいものも、このすべての「問」で問うた時、初めて、そして当然のこととして、その「本当の姿」、」「それが存在する意味」が見えてくるのではなかろうか。私が旧きものに学ぶのは、少なくとも、そして必ずしも、その「形」ではない。私が学ぶのは、それらを造るのに関わった人びとの5W1Hによる身の処し方なのだ。もし保存が必要だとしたら、彼らの「身の処し方」をこそ保存しなければなるまい。


敷石の上で一休みしているシオカラトンボ

峠の話に戻ろう。
先に、山越えの道が鉄道の開通にともない廃れてしまった、と書いた。しかし、昨今、この廃れた道が、装いを新たに復活しだしたのである。専ら歩くしかなく、まったく鉄道に比べ歩が悪かった峠越えの山道が、自動車の普及にともない、見直されてきたのである。そして今、実際に車で走ってみて山の「こちら」と「向う」が驚くほど近いということを改めて発見する。だから、徒歩が全てであった時代、山の向うとこちらは、鉄道敷設後生まれてしまった遥か山の向こう側という感覚とは全く異なり、相当に「近しい」間柄であった、と考えるのが自然だろう。
今、これらの峠道のいくつかは、舗装道路になっているが、その道筋はほとんど古来の道を踏襲している。こういう道筋を見つけ出した先人たちの営みには、ただ驚くばかりである。彼らは、私たちの時代とは違い「正確な地形図」など持っていなかった。今の道路は、おそらく「正確な地形図」の上で策定されるのだろうが、彼らは違うのだ。道のつくられ方:策定法が、根本的に異なると言ってよいだろう。
どこが異なるのかについては、山小屋づくりの学生たちの「経験談」が明らかのしてくれる。
今話題にしている山系の蓼科から美ヶ原にかけて、新規に観光道路が造られているが、そこを走った学生たち曰く。
    古来の道を踏襲したと思われる道では、たとえば、蓼科山は、多少振れることはあっても、常に前方に見え隠れするのだが、
    新しい観光道路では一定せず、突然後方に見えたりして、どこへ向っているのか分らなくなり(現在居るところが分らなくなり)
    「道路標識」に頼るしかなかった・・・。

では、この山越えの最短ルートはいかにして造られたのだろうか。おそらく、中山道などの主要道が生まれる以前から、このようなルートはいくつもあったに違いない。主要道は、その中から選ばれて整備されたものと思われる。
こういうルートを、地図・地形図のない時代に、人びとはいかにして見付けたのか?
これについては、諸説ある。
現在主に人びとが暮している低地よりも一段高い高原状の一帯に、縄文期の人びとの居住地が在った。彼らは、背後に拡がる山地一帯を生活圏としていた。そういう山地が在るがゆえに、人びとはそこに暮したのだ。ゆえに、一帯は「彼らの(脳裡の)地図」に組み込まれていた。
彼らは、はるか山中に貴重品・必需品の黒曜石の鉱脈を発見した。この地産の黒曜石が山を越えた各地で見付かっているから、そいう地を結ぶ道も既に在ったと考えられている。と言うより、それぞれの地を拠点とする生活圏が互いに接していて、そこを黒曜石が通過していった、と言った方が適切かもしれない。そして、そういったルートが時を越えて受け継がれてきた、というのが主要「街道」誕生の有力な解釈である(もちろん、途中で廃れてしまったルートもあるに違いない)。
また、この一帯は、低地農業主体になる以前から盛大に牧畜がおこなわれたらしい。この地の他、信州から上州・甲州の山地一帯は馬の産地で、各地に遺る「〇〇牧」などという地名にその名残がうかがえる。
すなわち、有史以前から、この山地には常に「人びとの暮し」が在り、それゆえ、有史以前からの「道の遺産」も継承されてきた、と言うことができるだろう。
これらのルートは、どういうところを通っているか。
こういう山地の古来からの道のルートのとりかたには、いくつかのやりかたがある。おそらくその方策は、現地に立って道を探るにあたっては、今でも通用するだろう。
一つは、等高線に沿って歩を進める、いわゆるトラバースしてゆくやりかたで、これは、各地の山村で集落間を結ぶ道によく見かける。距離は長くなるが、歩行が楽になる。特に稲作主体の集落になってからは、集落は大体等高に並ぶから(水田る水の得やすい場所は、大体等高に並ぶ)道も当然等高線沿いになるのである(これは、実際に山間地の集落を訪れたり、地形図を詳しく見ると分る)。
因みに、関東平野の北辺を通っていた東山道を復元してみると、赤城山麓の、ほぼ等高線上に点在する自然湧水に拠る集落:村々を繋ぐ形で走っているという。
   註 このあたりについては、10年ほど前に、「居住の条件:人はどこに住みだしたか」で、他の場所を例に簡潔に書いています。

もう一つは、高低を詰める場合の道で、これには、谷筋道尾根(筋)道がある。古来の道で、斜面を《やみくもに》登り詰めるような道のつくりかたは、先ずないと言ってよいのではないか。私が知っている唯一の例は、武田信玄上杉攻略のために造ったという甲州から善光寺平へ向う軍事用直線道路だけである。「信玄棒道」と呼ばれ今話題にしている山系の一画にその跡が遺っている。地形図で見ると、全く呆れるほど、みごとに最短距離を強引に突っ走っている。これは、例外だろう。
   註 このあたりについても、10年ほど前に「道・・・どのように生まれるのか」で触れています。

山越えの道では、尾根筋道よりも谷筋道の方が、圧倒的に多そうだ。考えてみれば当然かもしれない。
実際に現地に行って山々を遠望すると、山越えの道のの位置をおおよそ比定することができる。大体そこは山々の「くびれ」の部分である。いわゆる「鞍部」である。(外国語でに相当する語を探すと、この鞍部を意味する col が出てくる。外国でも、道はそういうところで山を越えるのだ。他には、外国語では pass という語がに相当するようだ。
この「くびれ」の部分には、必ず川が切り込んでいる。逆に言えば、川はそのあたりから始まっている(流れ出している)。しかも、その鞍部を境にして両側に必ず川が在ると言ってよい。これは全くの「自然現象」。すなわち、山越えの谷筋道は、両側から谷川沿いに登り詰め、最後にこの鞍部で顔を合わせているのである。
水の性質上、川は低地へ向けて最短距離を流れ下る。ゆえに、谷筋道は、通ることができるならば、峠:鞍部に向う最も効率のよい道筋なのである。第一、谷川という目印があるから、支流を見間違えなければ迷う恐れも少ない。
おそらく、そのような谷筋道の中から、最も歩きやすいルートが、道:街道として確立していったのだろう。
また、そういう河川が平地に出る辺りには、扇状地などの台地が形成されるが、そこは人が住み着く絶好の場所でもあった。今の大きな町は、大体そのような場所に在る。そういう場所に生活・暮した人びとにとっては、農業が生業の主体であったとしても、背後の谷筋を遡った山地もまた、彼らの手の内に在ったと考えられる。つまり、一帯は彼らの「私の地図」に組み込まれていたはずである。
私たちは、とかく、山のこちらの町と向うの町を結ぶ最短ルートの道が、「後になって、意図的に造られた」かのように考えがちだが、そうではなく、それぞれの側に人びとが、それぞれ地の理に従って生活・暮しを確立していった結果、期せずして、鞍部:峠で両者が顔を合わせたに過ぎない、と考えた方が理に適っているだろう。そして、両側の生活圏相互の交流が盛んになれば、その峠道も街道として整えられる。そしてまた、道筋の村や町は、農業だけではなく「街道」に拠った生活・暮しを営む村々、町々へと変っていった、多分、これが峠道の成り立ちの「筋書き」と言える。
先に触れた「信玄棒道」が現在のような精確な地図のない時代に造り得たのも、その土地に住み着いた人びとの生活圏をよく知り、それを繋ぎ合わせてできる全体像を、目の前に見えるものを基に想定できる鋭敏な感性を人びとが持っていたからこそ可能だったのである。
彼らは、正確な地図、各種の情報を持っている私たちよりも、数等優れた「ものの見かた、捉えかた:感性」を身に着けていた
こういう「感性」を、私たちは、何時、何処に置き忘れてきてしまったのだろうか。しかも、現実は、こういう「感性」を失ってしまった人たちが、いい街並だ、桂離宮は素晴らしい、などとその保存を説き、それどころか、人びとの生活・暮しに関りをもつものを造ったりしているのである・・・。

最近は非常に精密な航空写真(空中写真と呼ぶらしい)が撮れ、このごろの地形図は、それが基になっているらしい。それを見ると、古来から継承されたと思われる道と、最近造られた道とを直ちに見分けることができる。地形・地勢と無関係に造られている道と、そうでない地理に応じている道とが際立って見えてくる。もちろん、前者が最近の道である。最近の道は、地理から考えて極めて「無理な」形状を示すが、古来の道は言わば淡々と地形・地勢のなかに「通れる」場所を探し、選んで走っていて、ゆえに地形・地勢にすっかり馴染んで、道だけが浮きだって見えるようなことがない。先日、人工衛星から撮った関東北部から信越にかけての地域の写真を手に入れたが、そのあまりの見事さに驚嘆した。住めそうな場所という場所には、いかなる山あいといえども人が住み着いていると言ってよく、それらを結んで非常に自然な形で道が在る。そこから窺える居住地域とそうでない地域のモザイク、それらを結ぶ道の網目、その「合理性」は、現代の諸々の計画を圧倒しており、現代のそれは、古代の営為の跡に比べれば、さながら「ひっかき傷」のようなものでしかない。
それは、「大地という自然が備え持つ合理性」に対して、「科学技術という偏狭な合理性」が対抗しようとした「手負い傷」
に見えた。
古来、「大地に拠って生活・暮した人びと」は、「大地の備え持つ合理性」を知らないまま(知ろうとしないまま)、大地に手を付けるような無思慮・無謀なことは、やってこなかったのだ。



ところで、ここで何度も用いてきた「峠」という字は、いわゆる「国字」、すなわち日本で創られた文字である。峠的な地形が中国にないはずがないから、彼らはそういう場所にどういう字をあてるのか興味があり、中国を訪れたとき、中国人の通訳の方に訊ねてみた。ところが納得のゆく答が返ってこないのである。頭をひねっては、「頂」かなあな、どと私たちの持っているイメージにはぴったりこないような答しか戻ってこない。
結論的に言うと、「峠」に相当する字がないらしいのである。それは当然のことだ。もしもそのような字があったならば、国字が創られることはなかったはずだからである。
では、中國の人びとが、「峠」に対応する字を何故もっていないのだろうか?
いろいろ考えているうちに、もしかすると、私が「峠」という字に抱いていた観念が間違っていたのではないか、と思うようになった。
私は、「峠」を、道を登り切った所、そこから先は下る一方になる所、そういう地形的場所を示す「地形名称」と思っていたのだが、その字は、単なる形状を示すものではないのである。
峠的形状の場所に対する地形名称に、「たわ」とか「たるみ」というのがある。これは、鞍部:col に相応する。
   相模湖の近くに「おおだるみ峠」と呼ばれる峠がある。大垂水峠と書いたと思う。
だから、地形的名称ならば、あえて「峠」という字を創らなくてもよいだろう。
そして、峠の場所を地図や実地を見ていて思い至ったのは、この字は、地形そのものを指しているのではなく、そのような地形的な場所が有するいわば「生活的な意味」が込められているのではないか、ということであった。
端的に言えば、「二つの生活圏の接点」を意味するのではないか。「峠を越える」ということは、暮し慣れた所を離れ、慣れない違う場所に行くということだ。人びとは、峠に神を祀った。人びとは生活圏の境界に立ち、それぞれの生活圏の神に、旅の前途の安全を願ったのである。
峠を境に二つの生活圏・文化圏が隣り合う。それぞれは、それぞれが独自であって、峠越しに交流する。交流で得たものを、それぞれがそれぞれなりに消化し成長してゆく。だから、峠の両側は、似ているようで異なっている

思い出して柳田国男の「地名の研究」を読み返してみた。そこに、「峠」を「ひょう」「ひょ」と読む所があることが紹介されていた。
柳田の解釈は、それは、境・境界を意味する「」の字の「音読み」ではないかという。峠的な地形が「村界」であった、というのである。後になって、「ひょう」に新字の「峠」があてがわれ、読みだけが遺ったのではないかという解釈である。
   註 :①こずえ。高い枝。②すえ、はし。いただき。③しるし。めじるし、④まと。めあて。・・・(新漢和辞典) [追記25日11.50]
なぜ中国に「峠」に相応する字が存在しないのか?
彼の地では、峠的地形は、生活圏の境界ではなかった。
彼らの生活圏の境界は、そのような自然地形に拠ることはほとんどなく、境界は、自らが言わば「勝手に設定する」ものだった。それは、彼の国には確固とした城壁・市壁:囲障・囲壁が在るのに、日本にはない、彼の国の文化を積極的に採り入れても、囲壁は造ろうとはしなかったことにつながってくるはずである。
ゆえに、彼の国では、「峠」の字は不要だったのではなかろうか。一方、日本では、それを必要としたのである。





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大暑?!

2016-07-22 14:36:37 | 近時雑感


今日は大暑だそうです。暦の上では一年で一番暑い頃、を意味するとのこと。
学校も夏休みに入りました。
例年なら、その頃から夏の日照りが厳しくなるのですが、当地は、ここ数日も、涼しいというよりも肌寒い日の連続・・・。
天気図を見ても、夏をもたらす太平洋高気圧が見当たりません。「暑中お見舞い」という常用句も使えませんね。

冷夏?農作物は大丈夫なのか、心配です。

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梅雨寒

2016-07-16 11:06:46 | 近時雑感

合歓木
今日は朝から晴れ間が見えますが、昨日までの数日、当地は「涼しい」を通り越して、少し「肌寒い」という感じの毎日でした。
朝から陽射しはあるのですが、冷たい北東風が吹いています。今午前11時、少し雲が広がり始めています。夕立があるかも、という予報。

シリーズものの編集、続けていますが、少し進行ペースが落ちています。もう少し時間がかかりそうです。


17日追記。[17日10.05 追記]
今日も似たようなどんよりとした空模様です。しかし、朝の少し陽が射した頃、何と、ミンミンゼミが鳴きました、普通は、もっと暑い日が続いた夏の終りに鳴くのではなかったか、と少しばかり訝りました。

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梅雨の晴れ間

2016-07-10 10:30:25 | 近時雑感

次から次へと咲きほこるムクゲ。百日紅ももうじきでしょう。

今日は、昨日までの梅雨空が嘘のように、朝からよく晴れています。
梅雨空とはいえ、昨日の雨はひどくはなかった。
雨が激しく降った翌朝、道路にはたくさんのミミズが現れます。おそらく、土の中が雨で酸欠状態になり、空気を求めて土から出てくるものと思われます。土の農道なら何の問題もないのですが、結構舗装道路にも現われます。舗装道路の方が乾燥しているからかもしれません。しかし、乾燥しすぎです。たくさんのミミズが、土に戻れず、息絶えています。時には車にひかれているのもいます。行き場所の選択を間違ったのです。小さなカタツムリが歩いていることもあります。

今日はおそらくヒグラシが鳴くのではないでしょうか。夏はもう直ぐです。

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-35

2016-07-09 09:18:12 | 「学」「科学」「研究」のありかた



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Collar₋rafter roofs
   Collar-rafter roof : 垂木 rafter で合掌をつくり、首の部分を繋梁 collar で繋ぎAの字形に組み、それを横並べして屋根を形づくる工法(後掲の図参照)

単純な Collar-rafter roof は、一般にごく初期かあるいはごく後期につくられていると一般に考えられてきた。実際、遺構は、二つの時期に明白に分かれて存在する。先に第5章でみたように、13世紀後期から14世紀初期にかけての遺構(多くは大きな石造建物に見られるが)は、比較的幅(梁間)の狭い付属棟に多い。Crown-post roof が14世紀に一般的になり、社会的に広まるにつれ、Collar-rafter roof が姿を消していったようである。table 2 (下に再掲)で分るように、14世紀後期以降の木造建物には、この形式の事例は極めて少ない。この形式の屋根は15世紀初頭から普及しだすが、それも、16世紀に入ると、全体の四分の一にまで減ってしまう。

このような現象の理由は、Collar-rafter roof 工法とそれを用いる建物の認知度と大きく関係している。この工法は、WEALDEN 形式の家屋には全く存在しない。cross wings を持つ家屋に見られることがあるが、多くは(調査された事例の72%程度) end-jettied 形式unjettied 形式の家屋に用いられている。下に載せる fig85 に示す EAST PACKHAMOLD WELL HOUSEBETHERSDENPIMPHURST FARMHOUSE や、用途がはっきりしない建物や複合形式の建物がその例である(それには、厨房と思われる例も含まれる)。
これらの多くは、規模が小さい。下にこのシリーズ「-26」に載せた 家屋の型式別の床面積を整理した表 fig67 を再掲します。

この表で分るように、WEALDEN 形式の家屋の地上階の面積は、時代によらず平均して80㎡程度である。一方、end-jettied 形式の家屋は、1406~75年には75㎡であるが、以後は64㎡程度に低減している。けれども、Collar-rafter roof の建物は、1475年以前は平均68㎡、以降は62㎡になるなど、時期によらずほぼ一定している。
このような違いは、梁を承ける壁の高さ:桁の高さ:で比べてみても同様である。梁を承ける壁の高さ:桁の高さ:を示したのがtable 4 である(下掲)。
この表は、母屋と cross wing :付属棟とに分けているが、Collar-rafter roof の建物は、母屋では全体の61%が3m以下であり、母屋と付属棟を合わせると、Collar-rafter roof の建物の34%は(この数字がどういう算定か分りません)4mよりも低く、総じて低いと見なしてよいだろう。4mを越える例は、134例中僅か7例に過ぎない。梁を承ける壁の高さ:桁の高さが高くなると、Collar-rafter roof 形式は急減するのである。



これらの図は、建設時期が遅いほど Collar-rafter roof は小さく、丈の低い建物に使われ、建物の規模とこの最も単純な形式の屋根の間に密接な相関があることを示している。更に、この形式が14世紀後期と15世紀初頭には建設例がないのは、建物の規模が直接的に関わっていると考えてよいだろう。この形式が一旦使われなくなった後、5・60年後に再び使われだしたなどということは考えにくい。おそらく、crown post を使える余裕のある裕福な人びとにとっても、その代替工法として重用されたのではないだろうか。
つまり、おそらく、この形式の工法 :Collar-rafter roof は実用的な建物、簡単な小さな建物に使われ続けたのである。この類の建物は、15世紀項は以前までは、少しではあるが建てられ続け、それとともに、Collar-rafter roof も生き永らえたのである。
Collar-rafter roof 工法は、多分、14世紀、15世紀初期を通して途切れることなく用いられたと考えられるが、現在、その後期の事例のみが僅かに遺っているに過ぎない。
                                                     この節 了
       *****************************************************************************************************************
      次回は、Collar-rafter roofs with crown struts の節の予定です。


筆者の読後の感想
二本の材を逆V形に組み合掌をつくるのは、木材で建物をつくる最も基本的で簡単な方法です。ただ、合掌の底辺:梁間:を大きくするには、材:垂木:を長く断面も太くする必要がありますが、それは、針葉樹に比べ広葉樹では至難の業です。しかし、それにあくまでもこだわる。その「熱意」はすごいと思わざるを得ません。
日本の場合、垂木だけで屋根形を構成する方法を早々とやめ、束と母屋桁が屋根の構成材の主役となります。それによって、垂木は細身で済み、屋根の形もいわば「自由」になった、と言えるかもしれません。
この彼我の「発想の転換点」が何に拠るのか、考えてみたいと思っています。

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復刻・「筑波通信」―6   「蔵」のはなし:「必要」ということ

2016-07-03 14:03:00 | 復刻・筑波通信

ムクゲが咲きだしています

「蔵」のはなし:「必要」ということ                    1981年12月1日刊 の復刻

こがねむしは かねもちだ かねぐら たてた くら たてた・・・」という童謡がある。
この「童謡」の「詞」の「裏側」には、「蓄財したもの:財産」を格納する場所、それゆえ富裕な人びとが備えるもの、という「理解」、つまり、「蔵」という概念に対する《社会的「通念」》が潜んでいるように思える。いったい、「蔵」とは何なのか。

新潟で日本海にそそぐ阿賀川を遡ると、越後平野を過ぎ山あいを渓谷状に北上し会津盆地に入る。川は盆地の西端をゆるやかに流れ、今度は先の山あいの山塊を巻くようにその東側を再び渓谷状を成し南へと上流へ向う。つまり、会津盆地を転回点としたUの字形を成し、その囲まれたところに山系・山塊がある、ということになる。この上流部を総称して南会津と呼ぶ。川を更に遡ると(概ね南に向うのだが)、山にぶつかる。そこの峠を越えると、そこは関東平野を流れる鬼怒川の上流部になる。日光へはもう直ぐである。この川筋の道は、江戸と会津を結ぶ重要な街道の一で、川路(かわぢ)と呼ばれたらしい。今の川治温泉は、川路温泉だったわけである。
それはさておき、このUの字形に囲まれた山塊のなかに、それこそまさに「辺地」を絵に描いたような山村 S村がある。この村へは、西側の阿賀川支流沿いに入るのが比較的緩やかな道であるが、あとは、会津盆地からも南会津からも険しい峠を越えなければならない。冬季の積雪は村内で3mを軽く超えるから、冬は、先の支流沿いの道(これも時には途絶えることがある)を除いて、完全に途絶する。つまり、孤立してしまうのだ。
S村の村域は、先の阿賀川支流沿いにいくつかの集落が点在する形で展開しているが、元もとは二つの村であったという。
一つは、概ねその川の中下流域の比較的平らな部分、もう一つはその上流の低い峠を越えたところにある小盆地のO集落で、そこはかつて独立してO村であったという。だから、このO村は最奥の集落ということになる。
このO集落は、川沿いの道を下から、いくつもの集落を通り抜けて遡ってゆき、人家がなくなって山道になり、村のはずれに来てしまったなと思いながら、小さな峠を越え下り坂になったとたん、突然前方に家々の屋根がひしめくように、まさに呆気にとられるような形で現われる。たしかに村を名乗ってもおかしくない大きな集落である。
今は車で訪れるが、歩いて訪れたならば、そしてそれが春先で花でも咲いている頃ならばなおさら、まさに桃源郷にでも入り込んだような気分になるに違いない。そのとき一緒に訪れた皆が一様に思ったのは、「こんなところに人が住んでいる」という驚きに近いものだった。
しかし、この「こんなところに・・・」という感想は、よく考えてみる必要がある。人里からあまりにも遠く離れたところに人がいる、という意味もあるし、「常識」からすると人の住めそうにないところに人が住んでいる、という「驚き」の意味も含まれているだろう。
では、東京:都会を見て、どうして「こんなところに」人が住んでいるのか、と思わないのだろうか。何故こんなところにひしめきあって住んでいるのか、と驚いてもいいと思うのだが、誰も不思議に思わないようだ。
そうしてみると、「こんなところに・・・」という感想は、ある特定の視座から一方的に見たことによる感想に過ぎない、ということになる。だから、この「特定の視座」というのが何なのか、ということが問われなければなるまい
人がそれぞれ自分中心のものの見かたを持つというのは確かであるけれども、だから都会に住み慣れた人がこういう山村を見て「こんなところに・・・」と驚いてもまったく構わないし、当然かもしれないが、しかし、その「見かた」「驚き」が直ちに「標準的」普遍的」なものであると見なされてしまっては、それは誤りだ。それでは、肝腎の「人それぞれ」の存在が消えてしまう。都会に住む人だけが人ではない。ましてや、そういう視座・見かたが多数決によって、つまりそういう見かたをする人の数の多少によって正当化されたり、妥当と思われたりするのは論外のはずである。しかし今、大多数の人は都会に住み、彼らの先祖をたどればこういう山村に暮していたかもしれないなどということはすっかり忘れ、都会に慣れ切ってしまっているから、彼らの「見かた」は唯一・絶対であるかの錯覚を持ってしまうのだ。
実際、村に住み暮している人の立場から見れば、「こんなところに・・・」と思われること自体、不可思議で、不当に思えるだろう。彼らは、その場所なりに、彼らなりの生活をしてきているからである。自分他とが「辺地住まい」などとは、まったく思いもしなかったはずである。今は対比する都会や町場の話も伝わってくる。そうであってもなお、「こんなところに・・・」という「感想」は、彼らにとって不当であることは変りあるまい。
私たちの多くは、都会的生活に慣れ切ってしまっているが、しかし、それが唯一・最高の、それゆえに目指すべき標的であるかのように、つい見なしてしまいがちな、そういう悪い癖は、即刻捨て去らねばなるまい。
「期待される人間像」などというのがまったく人を人と思わぬ不当な考えかたであるのと同様、あるべき生活像みたいなものを《抽象的》に定型化するのも、これもまったく不当なのだ。

さて、この「辺地の村むら」で、私にとって印象深かったのが、「蔵」であった。家という家がそれぞれ、少し大げさに言えば母屋よりも立派な「蔵」を持っていたことだ。遠くからも「蔵」が際立って見えた。一見したところ、一帯は決して農業生産高の高いところには見えない。両側から比高はそれほどではないが山が迫り、耕地は限られ、水田用地も狭い。寒冷の地だから、稲作の普及も比較的最近のことだろう。おそらく、元もとは畑作や林業が生業だったのではないか。
   「越後上布」の名で知られる織物の原料「からむし」(チョマ)は、この村の特産で、その栽培法は「焼畑」そのものである。
   こういう山間の村むらでつくられた繊維が集められ加工され献上されたのが「越後上布」である。
つまり、耕地も狭くしかも気候的にも厳しいこの土地からの収益は決して豊かではなく、そこで暮せる人口にも自ずと制限がある。そういう土地柄で、「富」や「財産」を蓄積するなどということはあり得ない。
そうでありながら、全ての家に立派な「蔵」がある。それは、私が勝手に思い込んでいた「蔵」の「概念」とはまったく相容れない。
何故、この「貧しい村」の家々の「蔵」は立派なのか? 
村の人の話を聞き、また考え直してみて、それが至極当然であることに気が付いた。
この「蔵」は、食糧備蓄用の建物なのである。この地域は、年中行事のように「冷害」に遭うのである。それゆえ、最低限来年の分は当然として更にその翌年の食い扶持を保持することが、この土地で暮してゆくために必要だったのである。余剰物や「財」をしまうのではなく、暮しの必需品をしまっていたのである。「蔵」は、この土地で暮してゆくためには絶対に欠くことのできない建造物だったのだ
このことに気が付いたとき、それまで、「蔵」を単に「一般的な意味での倉庫」と見なして済ませていた自分自身の「阿呆らしさ」にも気が付いたのである。
確かに倉庫であることには違いないが、「単なる倉庫」という区分けでは、町中の蔵もこの村の蔵も同じものになってしまうのだが、そして私たちが日ごろ見慣れているのは町なかの商家のそれであり、あるいはまた豪農の家のそれであるがゆえに、蔵というと、何となく蓄財の象徴のように思えてしまうのである。
そして私は、建物の「理解」にあたっては(既存のものも、これからつくるものも)、まずもってその建物に係わる人びとの「生活」の「理解」、その場所で生きてゆく人びとの「生活」の「理解」から始まらなければならないという至極当たり前のことを、あらためて、いやというほど思い知らされたのである。つまり、ある地域にはその地域なりの「生活」がある、という私の「理解」「考えかた」そのものが、未だに「観念的」「机上の理屈」の上のそれであった、ということが明らかになったのである。それまで、私の眼は、いったい何を見ていたのだろうか。

この村の中央部に、もうぼろぼろの、しかし決して取り壊せない、正確に言えば、もう「しばらくは取り壊せない」、強いて呼ぶなら「集会所」とでも言うしかない木造の建物があった。補助金で公民館としてでも建替えることはできるのだが、今はそれはできない、取り壊す気になれないからだという。何故か?
この建物は、この村の「適正人口」と深く関わる建物なのである。
この村では、つい最近まで、こん「適正人口」を保つための策が採られていた。すなわち、長男は家を継ぐが、二・三男は、分家できず、いわば運命的に一生その家の下男同様の生活をして過ごすのだという(娘は必死になって嫁入り先を探して嫁がせる)。長男が嫁をもらうと、彼らは、夜はもちろん、家に居にくくなる。大家族的な生活が為されていたのである(だから、家一軒が白川郷ほどではないが、大きな小屋裏のあるつくりになっている)。
そこで、昭和の初め頃であったか、各家の居ずらくなった似た者同士が集って、協同で夜を過ごす集まり場所をつくろうということになり、役場に土地を提供してくれ、そうすれば、工面して自分たちで「集まり場所:小屋」をつくるから、と申し出た。そして、土地が提供され、彼の「集会所」ができあがったのだという。これは、いわゆる単なる集会所ではない。彼ら二・三男たちの「生活必需品」であったわけなのである。この「運動」への「参加」のしかたは、各人の立場に応じて、資材の現物提供、金の提供、技術の提供・・・、という具合に様々であったという。
今でこそ、このような非人間的な二・三男たちの生活はなくなったようであるが(そうは言っても分家できる土地があるわけではないから、村の外:多くは都会に出て、農業以外で働くことになる)、しかし、この設立に関わった人たちは未だ健在である。だから、今はもう用がなくなったからと言って、この建物を取り壊すなどということは、同じ村の人間として、とてもじゃないが忍び難くてできはしない、そういうわけだったのである。
この話を聞いた後では、先のぼろぼろの一軒の小屋が、よそものの私にさえ、「神聖な」ものに見えてきた。これもまた、私の《観念的理屈》の欠陥を糺すには、十分衝撃的であった。
おそらく、村むらの佇まい、つまり、人びとが自らの生活に根ざし培いつくりあげてきた「ものごと」は、こういう具合に「昔」をひきずりながら、変り、展開し、成り立ってきたのに違いない。
私たちが目にするものは、そういった一つのものができあがる過程、そして、できあがったものに対して人びとが向き合ってきた過程、この全過程を背後に秘めたものなのであるが、残念ながら、この過程は決して目に見える形では存在しない。これは、如何ともし難い厳然たる事実だ。しかし、私たちは目に見えるものを見ることを通して、目に見えるものの「背後」を、何とかして見なければならないのだ
これは、理屈としては分っていても、「言う」と「やる」では大違いなのである。その意味で、この村での「体験」は、まさに、私の《太平の夢》を覚醒するできごとであった。


ネムの花

今、私たちのまわりでは、多様な種類の「公共建築・施設」がつくられている。それらは、《社会の needs をとらえて》だとか、《建物の使われかたの研究の結果》などと称してつくられている。
私は、ここで紹介したこの村の「二・三男たちの集会所」のつくられかたは、まさに公共建築のつくられかたの一つである、と思うのだが、《社会の needs をとらえて》だとか《建物の使われかたの研究の結果》というとき、このような意味での「生活の必需品」としての発想で考えられたことがあるだろうか?はなはだ疑問に思う。
「専門家」に見えているのは、その「表現」にいみじくも現れているように、それは、建物の「使われかた」なのであって、決して人びとの「使いかた」ではない。
そして、仮に彼らが「人びと」を気にしたとしても、そのときの「人びと」は、「人びと一般」としてのそれであって、「この町の人びと」、「この村の人びと」ではないのである。
彼らは何故「使われかた」で見ようとするか?それは、「使いかた」を見るとなると、そこに必ず使う主体としての「個人」の存在を考えざるを得なくなるからだ。そんな「生身の人間」個々などは扱っていられない、ということだ。そんなことをしたら、客観的・科学的でなくなってしまう、と信じているか、信じ込まされているからである。
このような「専門家」には、決して、「この村の二・三男たちのneeds」などは分らないだろう。私たちは、こういう人たちを「専門家」として認めてしまって、本当によいのだろうか?
いったい、何時、誰が彼らに「専門家」の称号を与えたのであろうか?私たちが与えた覚えはまったくない。いつの間にか、彼らが自ら名乗り出たに過ぎなかったのではなかったか。
彼らから専門家の称号を取り去ったとき、そこには何も残らない、ことによると生身の彼自身さえも残らないかもしれない。だからこそ、専門家という包み紙に固執するのだと言ってよかろう。 


先日、加藤周一氏のスタインバーグとの会見のエッセイが新聞に載っていた。
「・・・彼の言葉のなかで、私にいちばん強い印象をあたえたのは、・・・廊下を・・・歩きながらスタインバーグが呟くように言った言葉である。その言葉を生きることは、知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中では、どの都会でも、殊にニューヨークでは、極めてむずかしいことだろう。『私はまだ何の専門家にもなっていない』と彼は言った。『幸いにして』と私が応じると、『幸いにして』と彼は繰り返した。・・・」

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