建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

1983年度「筑波通信№4・・・・開園式のスケッチ」

2019-11-19 10:09:10 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №4」 A4版10頁 

   開園式のスケッチ・・・・はしがきに代えて・・・・ (1983年度「筑波通信 №4」 1983年7月)

 彼は昨夜慣れないところで寝たせいか、よく眠れず、きょうは朝からきげんが悪いのだという。それでもいまは、食堂わきのギャラリーのベンチにすわりこみ、お得意のひもあそびに興じている。 20cmぐらいのひもを持ち、ひらひらさせたり、まるめたり、またほぐしたり、一心不乱に自分の手元を見つめながらすごしている。それはなにかをつくるのに熱中している職人のようだ。このコーナーが気にいったらしく、どこかへ出かけても、自分の部屋へつれ戻されても、すぐにまたやってくる。ときおりその愛用のひもを私にさしだして、何かを語りかける。

 もう一人の彼は、さきほどからずうっと、もう半ときになるだろうか、廊下の戸を開けはなち、庭に向って立ち、体を左右にリズミカルに、ちょうど起きあがり小法師をゆり動かすように、ゆっくりとゆすりながらそのリズムにあわせて、擬音を発している。というより、そのように私には見える。電車にでも乗っているつもりなのかな、とも思うがよくはわからない。彼はもう、この新しい所に慣れてしまったのか、ときおりそこをはなれて、あちこち見まわってきてはまた同じことをはじめる。

 彼女はお母さんのそばをはなれられないらしい。お母さんのそばにべったりだ。そんなところは、はにかみやの普通の女の子。

 彼のお母さんはつい先日亡くなられたのだという。お父さんの方が彼を一人ここにおいて帰ってしまうことが気になっていたたまれないのに、彼はまるで屈託がない。それがまた、かえって、お父さんを心配させるようでもある。お父さんは、いましばらく、帰るに帰れないだろう。

  ・・・・・・・・・・・

 きょうは、ここしばらく工事監理に通いつめた知恵おくれの人たちの家: S 園 という名である:の開園式、夕べから第一陣が住みだしている。これは、開園式の行事でごったがえしている一隅で目にした光景である。おそらくこれから、こういった場面が、毎日のように、いくつも展開するのだろう。普通の建物だと、人は初め、とまどいは見せつつも、部屋の名をたどり、知った風に歩きまわるのだが、この人たちの場合はそうではない。多分彼らの目の前にあるのは、部屋の名のないそれぞれの空間なのだろう。彼らは素直にそのありのままの空問に向っているのではないだろうか。部屋の名前にこだわらず、空間そのものに対されるというのは、設計者として一番こわいことだ。というのも、普通の場合は、説明のことばでごまかしがきくからである。この場合は、ことによるとごまかしがきかないかもしれないのである。

 いずれにしろ、ともかくも開園式までこぎつけて、ここ二年ほどのいろいろのことどもも、いわばすっかり過去のなかに埋ってゆくのだろう。それでいいのである。建物というもの、いや全ての人の営為というものはこういうものなのだ。ただ、だれがやったかれがやったというのではない、ただそれが天から降ってわいたものだとだけは思ってもらいたくはない。営為は、人の営為だということである。

 

 今号は、開園式のために用意した文章で通信に代えようと思う。因みに、この S 園 は、主として東京西部地区に住む親たちが費用を出しあい、また借金をしてつくりあげた、定員30名、せいいっぱいローコストで建てた小さな園である。なぜ親たちがその気になったか、という点にこそ、現在の状況が示されていると私は思っている。もしも多少なりとも関心がある方があれば、お問いあわせ願えれば、そしてなんらかのご協力をたまわれば、私としてもこの上なく幸いである。

        1983・6・27                 下山 眞司 

 

「 S  園 」によせて   設計者の立場から

 甲州塩山からほぼ北へ、秩父の山々を雁坂峠で越え武州へと通じる昔からの街道があります(車は峠を通り抜けられません)。笛吹川をさかのぼる道すじです。

 中央線を塩山で降り、この街道を二十分ほど車で行きますと、牧丘町という町に入ります。町の本拠地は、笛吹川とその比較的大きい支流との落合いにありますが、町域はかなり広く、あたりの山あいや斜面に点在している多くの集落を合わせてできた町です。牧丘という名前は、古代以来、ここが牧(馬の牧場です)であったことに拠っています(~の牧、というのが元の呼び名のようです)。いまは斜面一帯、見渡すかぎり、ぶどうを主として、桃、李、杏などの果樹園です。四季折々にすばらしい所ですが、とりわけ春さきは、さしづめ桃源郷です。笛吹川の谷奥には雪をかぶった秩父の山なみを望み、そしてその反対、川下:南の方角に、これも雪に輝く富士山が浮いています。そして、その間の人里は、花の色に霞んでいるのです。

 車が街のにぎわいを抜け、五分ほど上り坂を走ると、左手に見るからにお寺さんとわかる建物と、それと少し間を置いて並んで、何用の建物なのか一瞬判断に迷う建物が見えてきます。地面にへばりついたような、黒っぽい寄棟の屋根、土色をした壁の建物です。町の人たちが「御殿のようだ」と言うそうですが、それはお金がかかっているという意味よりも、その屋根の寄棟の形がなんとなくそれを思わせるからでしょう。

 この建物が正式名称「心身障害者更生施設・ S 園 」の建物なのです。そうわかると、大抵の人が、施設らしくないですね、だとか、ユニークな施設ですね、などと言うのだそうです。

 しかし、この建物は、決して、「ユニークな建物」を目ざしたり、あるいは「新しい考えかた」に拠って、設計されたのではありません。ここで考えられ、為されたことは、極く「あたりまえなこと」だ、と私たちは思っています。

  そしてまた、この種の施設を見慣れた人の目に、この建物は、ユニークで、風変りで、そしてことによると異常で非常識なものとして映るかもしれませんが、しかしそれは、そのいままで見慣れたこの種の施設・建物が、あまりにも「ユニーク」「風変り」そしてときには「異常」であったからなのだ、とさえ私たちは思ってもいるのです。

 

 私たちは、旅に出ると、宿屋に泊ります。 

 旅に出る、ということは、その毎日が、日常の毎日とは違った毎日になるということです。

 そして、宿屋というのは(いまでは旅館とか hotel といいます)、人が自分の家をはなれ、いわば異常な毎日を過ごすとき、自分の家の代りをしてくれる、言うならば仮のすまいです。ちゃんとした宿屋でなくてもよい、とにかく仮のすまいがないと、旅の毎日が成りたちません。

 その昔、私たちが旅の途中で仮のすまいとして求めた宿屋は、まずほとんどが、いまの言いかたで言うと、和風でした。というよりもなによりも、それは、日常私たちがすまいとしている自分の家とさほど違わないつくりでした。hotel とか hostel などと呼ばれる西洋の宿屋もまた、その昔はそうであったでしょう。

  宿屋というのは、旅人に仮のすまいを提供し、もてなすことが業でしたから、人々の家とさほど変りのない建物であったというのも当然なことだったと思います。

  因みに、英語の hotel,hostel は、ともに、host という語と関係があります。host というのは、客人をもてなす主人のことです。病院を英語では hospital といいますが、これも hos tの親戚すじの語です、つまり、宿屋、ホテル、病院、・・・・これらは、客人をもてなすことに意義を認めた建物だったのです。(ついでに言えば、バーのホステスも host からきています。接客婦、多分アメリカ産です。もとはやはり hostess 旅人をもてなす女主人の意です。)

  けれども、いまの宿屋、旅館、ホテルは違います。

  仮に和風の昔ながらのつくりの宿屋があっても、そこで私たちが受けるものは、いまひとつよそよそしくなじめません。眠れさえすればよいのだと割りきっても、なかなかそうはゆきません。

 一つには、そのつくりが、和風の形はしていても、私たちの日常の和風とは既に違ってしまったいわば和風様のつくりになってしまっているからでしょう。古い宿屋では、そんなことはありません。

  もう一つは、宿屋商売から、「もてなす」という意識が消えてしまい、単に、仮のすまいの場所だけ提供するという意識が強くなったからでしょう。host する、という原義が薄れたということです。これは当然、建物のつくりかたにも影響します。宿代も、host することへの代償としてではなく、場所代・室代になっています。Host する、ということのなかには、当然のごとく、場所を供して、という意が含まれていたのだと思いますが、いまではそれが、場所代とサービス料に分れたわけです。これが徹底しますと、場所づくりとサービスすることとは、別々に考えられるようになります。合理的だと言えば合理的ですね。近代的なホテルはこの最たるものです。

 

 それでは、この「 S  園 」のような建物は、どう考えたらよいのでしょうか。ここに居る人たちは、それぞれ自分の家を離れ、出てきた人たちです。自分の家・家族から離れている人たちが居るということだけから見ると、宿屋つまり仮のすまいとして考えられるようにも思えます。だが、そうでしょうか。違います。少なくともあの近代的な宿屋やホテルではありません。強いて言えば、あの原義の意味での宿屋です。つまり、それぞれの人の、それぞれの家の代りをしてくれるものです。

 であるならば、この「 S  園 」のような建物は、家つまり人のすまいをつくるのと同じ考えかたでつくらなければならない、と私たちは思います。

 

 しかしいま、このような「施設」や病院の建物も、そこに(仮に)住む人たちに接する人たちも、その多くは、あの近代的・合理的な旅館やホテルの建物、従業員、あるいは経営者、と同じようになってしまっているのではないでしょうか。

  考えてみてください、このような「施設」に(仮に)住む人たちがそれぞれ自分の家にいたとき、親たちは、その子どもたちの面倒を看るのも、しつけを指導するのにも、あの近代的な旅館やホテルの従業員のサービスのようなやりかたでしていたでしょうか。

 host する、ということのそもそもの意味が見失われてしまったのです。あの host を語源とする hospital においてさえ。

 

 この「 S  園 」の建物は、その寸法も材料も、そしてつくりも、できるかぎり、ちょっと大きめの住宅をつくるようなつもりで設計しています。なぜそうしたかは、ここまで述べたことで、おおよそはおわかりいただけただろうと思っています。要は、ここに住まなければならない人たちにとって、ここはすまい:家以外のなにものでもない、ということです。

 

                                                                 「建築設計資料14 心身障害者福祉施設」建築資料研究所 1986年より  

          

 たとえば、この「 S  園 」の床をとりあげてみます。ご覧になればすぐわかることですが、まわりの地面からの床の高さは、普通の木造の住宅の場合と同じです。玄関には、ちゃんと上り框があります。縁側のような廊下に腰かけて足をぶらぶらすることもできます。この高さは、昔の農家の土間と座敷の高低差と同じぐらいの寸法です。日本の住宅では、昔から、土の上では履き物、上り框から上では履き物なしでした。よくはわかりませんが、泥んこになる稲作主体の農業をするなかで生まれた知恵なのかもしれません。こうすれば、土間より上の間は自ずと汚れないでしょう。履き物で上るには相当気がひけます。家のなかに入るときは履き物をぬぐという習慣は、建物のこういうつくりが保ってきたのではないか、とさえ思います。

 しかし、近代的な建物では、床がどんどん地面に近づきました。上下足を厳格に分ける建物においてさえそうです。これでは、風が吹いたって泥は吹き上りますし、どうしたって上の間が汚れてしまいます。履き物のまま、ちょっと上ったっていいや、なんて気にもなります。そうなると、上の間をいつも清潔に保つため、掃除が楽な材料の床がよい、ということになります。泥が上りこんだ床の掃除は、どうしたって乱暴になりますから、材料もそれ向きとなります。合成樹脂製の床材がはやるわけです。

 そして、上下足を厳しく分ける建物では、上の間でも別の履き物を履くのがあたりまえのようになり、だれも不思議にも思わないようです。そして、合成樹脂製の床材だと、ますます履き物が欲しくなります。

 

  「 S  園 」の建物の床は木製です。便所の床まで、一部は木製の材料を使っています。ほんとは、縁側に普通使われる桧の縁甲板を使いたいところですが、残念ながら費用の点で無理でした。それでも、ここで使ったのは、住宅の室内用の床材です。ですから、掃除も住宅での掃除と同じやりかたになります。住宅の掃除と同じような気の配りかたが必要になるでしょう。

 この床の上なら。素足で歩いてもらってもよい、と私たちは思っています。便所だけを除いて。日本の住宅は昔からそうでした。土間より高い上の間では、床上を歩くとともに、そこに坐りもしました。これは、基本的に、いまでも変りありません。でもいまは、板の床の部分はスリッパを履くのがあたりまえのようになってしまいました。洋風が入りこんでから、なんとなくそうなってしまったのだと思います。けれども、スリッパを履くという慣習は、床の上に坐ることもあるようなすまいかたにとって、必らずしも適切だとは言えません。不潔だからです。素足は、汚れればすぐ洗えます。かつての室内履き・足袋も、そしていまの靴下もしょっちゅう洗います。しかし、スリッパはどうでしょう。一週間に一度洗った、などということは聞いたこともありません。スリッパ以外のいわゆる上履きも同じです。要するに、土間からわざわざ離した上の間を、土足で歩いているようなものなのです。旅館の浴場の脱衣場で、スリッパと裸足が同じ床面で混じりあい、不快感を覚えたことがありませんか。

 もとはと言えば、すまいのつくりかた、すまいかた、材料の選びかた、そしてその手入れのしかた、これは全て一体のものとして考えられていたのです。

 いくら生活が洋風化して椅子に腰かけるくらしかたが増えてきても、私たちの生活から、床に坐りこむくらしかたが消えてしまうことはまずないでしょう。以前の私たちのくらしかたは、土間から上では、極端に言えば、坐るか立つかでした。洋風化が時の流れであると単純に考えてしまうと、合理的な生活は、腰かけるか立つかだと、ふと思いたくもなりますが(スリッパ導入は多分そのせいです)、そうではないでしょう。いまの私たちの生活は、坐るか、腰かけるか、立つか、なのです。そうだとすると、昔ながらの和風のつくりでは間尺にあいません。もちろん、洋風でもそうです。

 毎日の生活のなかで、襖や障子の引手の位置が少し低いなと思ったことはありませんか。慣れてしまっているので気にならないとは思いますが、その気になって見なおしてみると、立って開けたてするには少し低めです。いまでこそその開けたては、大抵立つたまましますが、もとはといえば、坐った姿勢で開けたてすることが多かったのです。引手の高さは、それによって、自ずと決ってくるのです。立った姿勢向きでは必らずしもないわけですが、立っての開けたてが多くなったいまでも、その尻尾を引きずっているのです。面白いことに、洋風のドアのノブの位置も、本場のそれに比べると、身長の差を考えにいれても、少し低めです。長い生活慣習のなかで引手の高さはこんなものだという観念ができあがってしまっているからなのでしょう。こういうことはよくあることで、その正常化には時間がかかります。

  しかし、襖や障子をなぜ坐って開けたてしたのでしょうか。

  近ごろ、ある旅館の和室に泊って、こんな経験をしました。その和室は襖をへだて前室につながり、ほんのわずか、10cmほどの段差があります。和室でくつろいでいますと、声がかけられ襖が開きました。女中さんがそこにぬっくと立ちふさがるように立ち、私を見下しています。気押されるような感じです。昔の旅館の女中さんはこんな風には部屋に現われなかったでしょう。必らず坐ってこちらを見ていたように思います。そうしますと、目線がそろいますから気押されるような感じは受けません。

 つまり、坐るか立つかの和風の生活が、襖や障子を坐って開けたてするという所作を生みだしたに違いありません。そうすることによって、坐っている人が脅やかされることがふせげるのです。

  

 いまは、坐る、立つ、の他に、腰かける、もつけ加わりました。そして、坐る姿勢が主となる和室に入るのに、わざわざ坐って戸を開けるというような面倒くさい所作も省略するようになりました。ですから、いままでの和風のつくりのように、和室とその他の部分たとえば廊下がほほ同じ面で続いているようなやりかただと、場合によっては、さきほどの近ごろの旅館での体験のように、和室にいる人がくつろげなくなることが十分あり得るのです。いまの建物で和室を設けるときには、この点を考えに入れてみる必要があるように思います。もしもあの旅館の和室と前室の関係が、ちょうどあの昔の農家の土間と上の聞のような高さ関係であったなら、女中さんが立っていても、別に気押されるような感じを受けることもなかったのではないでしょうか。

 この「 S  國 」の建物の畳敷の室:和室の床面は、ラウンジと呼んでいる板の間(カーペットが敷いてあります)より、ちょうど椅子の高さ分高くなっています。もしそれが、ラウンジの面とほほ同じだったならばどうなるか、想像してみてください。多分、うらびれた、うそ寒い感じの室になってしまうのではないかと思います。

 ただ、この段差は、少し危いのではないか、という声も聞かれます。今後の様子を見ながら考えてみようと思っています。

 床の話にことよせて、「 S  園 」の建物の設計にあたって考えたこと、というよりも、日ごろ考えていること、の一端を述べてきました。要は、一軒の家をつくるのと同じに考えたということです。 そのことは、屋根をはじめ、いわゆる外観を見ていただいても、おわかりいただけるのではないか、と思っています。

 

 けれども、建物づくりは、所詮、いわば舞台をつくったにすぎません。ここに住みつく人たちが、みごとにその毎日を演じることによってはじめて、この建物はほんとの意味での家、ほんとの意味での「施設」になるのだと思います。そして多分、みごとな毎日を演じてゆく上で、舞台に、おもわしくない点が見つかることでしょう。そのようなとき、私たちは、よりよい舞台にしつらえなおすように考え努めるつもりです。私たちは、ここで、みごとな毎日、新鮮で生き生きとした毎日が演じられることを望んでいるのです。

 

 

 そして最後に

 「 S  園 」の建物は、形をなして残りました。しかし、それが形をなすまでの過程は、もう見えません。この「 S  園 」という「施設」設立の想いに燃えた人たちの、まさに血を吐く思いの毎日は、形をなして残るものではありません。そして、建物の工事に着手して以来六ヶ月、その間に実際にこの建物をこしらえるのに手をかしてくれた職人さんは延べ数千人にもなりますが、しかし、この人たち流してくれた汗もまた形をなして残ってはいないのです。

  「 S  園 」の建物は、いま、何ごともなかったかのように静かに建っていますが、それは、天から降って湧いたかのごとくに何事もなくそこに在ったわけではないのです。

 

 そして、この建物が「 S  園 」なのでもありません。くりかえしになりますが、建物は「 S  園 」の舞台でしかないのです。ここに住みつく人たちによって、みごとな毎日、生き生きとした毎日が演じられたとき、それが「 S  園 」なのです。

  末尾になりましたが、あの延べ数千人に及ぶ職人さんたちを操り仕事をしていただいた株式会社 H  組 の方々に篤く感謝の意を呈します。

                   1983年6月1日

                      設計者一同( S  園 建設構想研究会)

 

 

 

  

 

 

                 「建築設計資料14 心身障害者福祉施設」建築資料研究所 1986年より 

 


1983年度「筑波通信№3 続・水田の風景・・・・風景の成り立ち」

2019-11-05 16:26:46 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №3」 A4版10頁 

 

   ・水田の風景・・・・風景の成り立ち  (1983年度「筑波通信 №3」 1983年5月)

水びたしの風景

 久しぶりに筑波山に登ってみた。あいにく雨上りだったから、遠望はきかなかったけれども、足もとに拡がった景色は一見に値するものであった。私はその景色を見て、いままでこの季節には筑波山に登ったことがなかったことに、あらためて気がついた。それは、いわば初めて見る景色だったのである。

 足もとは、一面の水びたしであった。水が低地を浸し、悠々とした大河のごとくに延々と続いている。その一面の水の拡がりのなかに、緑あざやかな木々のかたまりが、小島のように浮き、家々の屋根が緑の間に見え隠れしている。集落なのである。

 もしこの景色を写真にとり、〇〇川氾濫!などという見出しでも付ければ、なかには信じてしまう人がいるかもしれない。それほど水びたしという感じを受けるのである。ただ洪水と違うのは、水が濁って見えずそして鎮まっていることである。

 この水は、なにも前日からのかなりの雨のせいではない。水びたしに見えているのは、一面の水田なのである。ちょうど田植えどきで、田んぼに水が張られているからなのである。昨年も私は「水田の風景」という一文を書いた(1982 ・ 6 第3号)。それは地上で見た水田の風景であった。そこで私は、ほんのわずかな落差を無数の水平面で構成し、自然流下のまま延々と続く水田、そしてそれを成し遂げた人々は驚異的な存在である、と書いた。そしていま私は、その偉業を上空からながめているわけである。そして、その驚異的な存在を、あらためて印象づけられているのである。数年前、中国の上海から西へ飛行機で飛んだとき、眼下に拡がる広大無辺の大平野の一面が水びたしに見えた。どこに人が住んでいるのかと不審に思ったほどである。だが、このちょうど田植えどきの日本の水田地帯の上空を飛べば、やはり一面水びたしに見えるのではなかろうか。

 

 五万分の一あるいは二万五千分の一の地図を拡げ、それをやや遠くからながめると、河川とその河川がつくりだした氾濫原(かつて河川が流れ、そしてことによると洪水のときにはまた流路になるかもしれないところ)と、その河川が削り残した、あるいは削り得なかった台地・丘陵・山地部分とが、画然として読みとることができる。そして、その平らかなる部分いっぱいに水があふれ流れている場面を想像してみると、それはまさに悠然とした大河の様相になるはずだ。いま私がながめている風景は、それを実際に(流れこそしないが)実現してみせてくれているようなものなのだ。つまり、洪水にあえばひとたまりもないであろうと思われるこの平らかなる部分は、水稲栽培に向いた土地で、そして人々は長い年月のあいだにこの可耕地をすべからく水田と化してしまったということに他ならない。これは大変な事業であると言わねばなるまい。

 なぜなら、(昨年も書いたことだが)いまのいわゆる圃場整備なら、いよいよになれば給排水を機械にたよればよいし、まず第一に広範囲にわたっての地図・測量図がある。その意味ではきわめて合理的にことを処理することができ、いわば容易な土木工事のうちに入るだろう。だが、いま私が見ている風景は、かならずしも全てがそういう近代的な土木工事によってできあがったのではない。それ以前に既にその下地はつくられていたのである。

 

 

  

水田の諸相

 私の足元に拡がっている山すその、少し山側に入りこんだ部分(上の地図参照)は条里制の名残りのある水田である。先述の水びたしの地域の中央を流れる主要河川桜川の一支流域に聞かれたものである。支流が本流に合するあたりの標高が15mほど、そしてこの条里制の遺構のあたりのそれは25~35 mである。そして、合流点から遺構の最奥部までは約3000mであるから平均勾配は150分の1ぐらい、一方合流点から本流の河口までは約15km、従って平均勾配は1000分の1である。1000分の1というのは1000cmつま10m行って1cm上る(あるいは下る)という勾配であるから、いかにゆるやかなものであるかわかるだろう。水はけは悪いと言ってよい。つまり、一帯は湿地帯なのだ。勾配150分の1という傾きは、これはもう目に見えて傾いていることがわかる。 1m50cmで1cmの傾きというのを目の前に描いてみればすぐわかる。水を導くのも、また水はけをよくするのも容易である。因みに、現在の排水管の設計でも、150分の1あればまあ問題はない。

 

 水稲の裁培は、その土地の勾配そのものとは関係なく、言ってみれば水が得られればよい。湿地があれば(得られれば)よいのである。だから、水稲裁培の極く初期段階でも、先に例示した二様の地も選ばれ得たと思われる。だが、1000分の1勾配程度の土地:湿地帯は、いわば常設の湿地帯であり、そもそもその成因からして肥えた土地でもあるから、耕作向きの土地なのだが、同時にそこはまた不安定でもある。増水により、またいつ流れが変るかわからないからである。つまり、常設の可耕地ではあっても、安定した耕地ではなかったのである。

 もとより水稲に拠り定住生活をおくる以上、人々が安定した耕地を求めるのも当然なことだろう。人々が、まず初めに好んで選んだのは、昨年5月の「善知鳥(うとう)によせて」(1982・5第2号)のあとがきで紹介した、「やち」「ぬた」「うだ」など場所によりいろいろな名で呼ばれる「川の源流のような幅も狭く深さもそんなにはない湧水や小河川のまわりの湿地帯」つまり、猫の額ほどの狭い谷状の土地であった。こういうところならまず変動はないから、労せずして安定した耕作が可能であった。あちこち歩いてみると、いまでも、このような土地はまずほとんど水田になっているし、現在荒れはてている所でも、かつてそこが水田であったことを十分にうかがい知ることができる。(休耕田として見捨てさせられたのは、こういうところが多い。)

 もとより、より広い湿地を田とした場合もないわけではあるまい。しかし、安定度の面で、変動の少ない場所は滅多になく、せいぜい河川とは縁の薄い沼沢地ぐらいしか考えられず、そういうところは限られるはずである。

 

 

 だが、こういう「やち」・・・・状の土地は、その生産量を限定してしまうから、それに拠る生活をも限定してしまう。絶対面積が足りないのである。そこで選ばれてくるのが、さきの条里制の遺構の残されているような状況の土地である。水はけよく、河川の増水の影響の少ない土地である。たとえば、ちょうどいま私の眼下に見える河川の一支流がつくりなしたちょっとした平地部分である。上図を参照していただきたい。

 この図の白ぬきの部分が水びたしの部分、つまり水田である。そして図中「筑波町」という標示の「町」の字のあたりから左手に拡がる白ぬきの場所が条里制遺構の地と言われ、つい最近までは実際に条里を目で見ることができたという。古くは水田を「たい」と呼んだらしいが、図中の神郡(かんごおり)、館、臼井、立野、六所(ろくしょ)、・・・・の集落(元はそれぞれが村であった)が筑波町として合する前の一時期は、「田井村」としてまとめられていたようだ。小学校の名は、いまでも「田井」小学校である。

 

 古代、人々はかなり早くからこういうところに目をつけたと思われる。各地に残る遺構も、大体これに似たような場所に多いようである。もちろん、その水田化は、条里制施行以前からのはずである、ここは水稲栽培は容易で、生産性も高く安定し、それに拠る生活もまた安定し得たであろう。そしてそれは、また当然の結果として、為政者の側から見れば、格好の収奪の対象となる。条里制という土地区画制が、単に直接的に収奪を目的として生まれたかどうかは知らないが、いずれにしろ、目をつけられたことはたしかである。それというのも、当時にしてみれば、圧倒的に生産性の高い、しかも安定した収量が見こまれた土地だからである。こういう場所をその拠るべとしての耕地とし得た人々は、当然のこととして、財力と地位を築いてゆく。いわゆる古代の各地の豪族の拠点となった土地もまたこのような場所であった。

 おそらく、かなり時代が下るまで、水田の主役はこのような古代以来の土地と、せいぜいそれの隣接の地であったのではなかろうか。時代とともに、人口増とともに、新田の開発は必然のことではあったろうが、広大な低湿地全域への進出は、まさに夢のようなものであって、辛うじて河川の変動から逃れ得られそうな湿地のなかの微かな高所(せいぜい数m高いだけだ)にへばりつき、不安を抱きながら、耕していたにちがいない。不安定な、しかし広大な、可耕地を目の前にして、その安定化は彼らの常の焦眉の急であっだろう。だが、単純に時間軸で見る限り、安定化の作業は遅々として進まなかった。かといって、もちろん彼らが努力を怠っていたわけではない。第一努力などいうことばで済まされるような生易しいものではなかったろう。なにしろ生活がかかっているのだからである。だから、いわば生活に追われるようにして、低地へ低地へと、攻められるところから順次入殖をしていったのである。その速度は、現代の目からすれば遅々としたものに見えるかもしれないが、それが彼らの速度であった。そして、その長い長い間に、数代いや数十代にわたる間に、低地開拓の技術は、それぞれの地において、着々と醸成されていたのである。もしも、この平野開拓へ向けての技術の醸成・蓄積がなかったならば、徳川は決して関東平野に(江戸に)拠点を置く決断をしなかったろう。それより百年前であったなら、だれが、関東平野をいわば思いのままに扱おうなどと考えただろうか。仮に徳川が政権をとったとしても、百年前なら、江戸は拠点にし得なかった。

 

人が風景をつくる

 実際、江戸期に入ってからの平野低地部の開発は目ざましいものであった。さきほどの地図の白ぬきの部分のなかに見られる集落は、これが山上からながめたとき水びたしのなかの浮島に見えたわけだが、おそらくその根は近世以降に人々が住みついたときの拠点にまでさかのぼることができると思われる。特に江戸期以降、低地の安定化に意がそそがれてこういう集落の根が、低地のあちこちに生えていったのだ。

 当然、平野全体としての生産量は増加したのであるが、各部で見ればこの新開の地の生産性は、既存の地(つまり古代以来の地)のそれに比べると、数等劣っていただろう。たとえば、聞くところによれば、茨城県南から埼玉の中東部へかけては、いまでこそ生産性の高い豊かな米どころであるけれども、生産性が高まりだした(つまり安定しだした)のは大正期からで、それが決定的に安定したのは、なんと第二次大戦後、しかもかなりたってから、いわばつい最近のことなのだそうである。大正ごろより、機械力の導入による排水、乾田化が飛躍的に進み、そして戦後、数度にわたる台風被害(洪水)を契機としての整備が、これも近代的な機械力にたよって進んだからである。それにより、それまで人々の意のままの介入を拒んでいた低湿地が、見事な田んぼと化していったのである。

 このような、土地土地によってその生産性が安定した(つまり生活が安定した)時期が違うということは、その土地に拠ったそれぞれの村の構えに敏感に反映しているように思われる。あの条里制の敷かれたような土地は、いまでもあいかわらず豊かな土地なのだが、いわば古代よりいまに至るまで常に、それに拠った村々の生活を安定したものにしてきただろう。これに対し、低地の新開の地は、決して人々の生活を安定して保証するものとは言い難く、ほんとについ最近まで、極く貧しい状態を強いられていた。因みに、いわゆる民俗学者と呼ばれている柳田国男は13~16歳の少年時代を茨城県南の利根川べりで過しているが、後に、その明治二十年ごろを回顧して次のように記している:「・・・・の町に行ってもう一つ驚いたことは、どの家もいわゆる二児制で(あると)いうことであった。私が兄弟八人だというと、どうするつもりだと町の人々が目を丸くするほどで、このシステムを採らざるをえなかった事情は、子供心ながら私にも理解できたのである。あの地方は四五十年前に、ひどい飢饉に襲われた所である。・・・・」。このあたりは、いまでは穀倉と呼んでもおかしくない風景を呈している。

 

 だから、それぞれの土地が過去たどってきた道すじによって、それに拠った村々の構えが違ってくるのもまったく理の当然なのであり、実際に歩いてみても、その差はその風景に歴然として表われていることを感じることができる。いわば、風景が(人々の営為の)歴史を語っているのである。

 あの古くから開かれ、古くから豊かであったと思われるあたりの村々を歩いてみよう。多分その村々の人たちの田であろう、もう田植えの終った水田のまんなかに降いたち、そこからその村(集落)へ向うことにする。それらの村は、新開の村々とは違い、浮島ではない。四周を水田の海に囲まれてはいない。いわば、水田を海にたとえるならば、その浜辺、特に入江状のちょっとしたひそみだとか、あるいはその海にとびだした半島状の地にへばりついている。さきほどの地図を見ていただければ、このことはお分りいただけるだろう。前者の例が立野や六所の集落で、ここは南に開けた気分のよい所である。後者は神郡や館の集落で、ちょっと見ると島のようにも見えるがそうではなく、裏手の山と地続きである。この後者の場合、神郡と館の間の入江状の部分があるのに、前者の例のように人が住みつかなかったのは、多分、北向きで日陰げのようであるからだろう。

 いずれにしろ、水田と村との間は、坂道があり、そのあたりから樹木がうっそうと茂りだし、木の間隠れに家々が見えてくる。もちろん、古くから豊かな土地だといっても、家々は変っているはずである。だが、家々をとり囲んでいる樹木は、ことによると家々よりも古いのではないかとさえ思えるほどだ。樹木の一本一本は若くても、全体のつくりなす姿:林相は、いわば年季が入っているように見えるのである。道も、そして屋敷への入り口も、どこもみなしっとりとした、人の心をなごませる形を、私の目の前に見せてくれる。道の両側には、屋敷境をなす素朴に刈りこまれに垣根がならび、そこに口を開けた入口からは(ときには立派な門があるときもあるのだが)そこだけ陽をよく浴びた庭が見え、屋敷内が思った以上に奥があり広いのに、ちょっとびっくりする。その庭に面して、母屋が建っている。それはまことに人なつっこい空間である。あの、遠くから見るとうっそうと茂っているように見える林のなかに、どうしたらこんなすきまができるのかと不思議に思えるほど、その陽あたりの庭はゆったりとしているのである。おそらく、こういう集落を真上からながめると、樹林のなかに、ぽかりぽかりとある大きさのすきまがならんでいるのを確認できるのではなかろうか。そして、私たちはとかく、人のすまいというと家という建物そのものを思ってしまいがちなのだが、こういう例を見るにつけ、すまいはこのすきま:樹林のなかにあいた穴全体なのだという意を、あらためて強くする。つまり、樹林や垣根に囲まれた屋敷全体ですまいが成りたっているのである。

 そして、樹林がすまい:屋敷を形づくるのに重要だからこそ、代々手が入れられ世話をされ大事にされ、その結果、あのようにうっそうとした年季の入った姿を呈しているのである。これは一朝一夕にしてできあがったものではないのである。そしてそれはもちろん、いわゆる天然自然の林ではなくまったくの人工林なのである。あの国木田独歩描くとこの武蔵野の雑木林も、なんとなくそれこそが武蔵野の自然などと思われていたようであるが、あれもまた毎年手を入れられた人工の姿で、もし手が入れられなければ、あんな具合の林相にはならないのだそうである。だいたい、いつのころからか、私たちが私たちの身のまわりで見かけるいわゆる自然の景観というものが皆、実はまずほとんど人が手を入れることによって成りたっていたのだという厳然たる事実が忘れ去られ、字のごとく自然のままに放っておかれたものが自然だと思われるようになったのが、決定的な誤りなのである。私たちの身のまわり、日常のまわりには原生の自然などないのである。そして、手を入れるという作業の結果それらが成りたっていたという重大な事実が人々から忘れ去られたとき、原生の自然はもとより、あの人工の自然をも、人々は平気で軽く扱うようになってしまったのだ。生活の必然として手塩にかけるという過程を失ったとき、それらのもののもつ重み、大事さ、ほんとの価値をも、同時に失ったのである。

 

 かくして、その根をはるか昔にまでさかのぼれる村々は、一見してそれと分る実に見事な樹林でつつまれることになり、慣れてくると、遠望するだけで、村の所在が判別できるようになる。

 これに対して、新開の地は、いま一つ、こういう言いかたを許してもらえるならば、すさんだ感じがある。それはもちろん、あの堂々としたいわば完熟の期に入ってしまったような村々に比べてのはなしであり、都会の新興住宅地などに比べれば数等ましである。それはちょうど、成長の過程で現代をむかえてしまったという感じで、続々入りこむ現代風なやりかたが、その順調な成長をとめてしまったかのような気配が見受けられる。考えてみれば、こういう所の方が、あの完熟した村々よりも現代が入りこむすきが多いのである。しかも、生活にゆとりができた、つまり生活が安定したのはつい最近のことだからなおさらである。その上、その安定は、生産性の向上と安定である以上に、現金収入の安定であったから、それまでの変化とは違う様相を呈してしまったのだ。

 あちこち歩いていて気がつくことなのだが、この新開と思われる村々では、いらかをそびえさせ、屋根を神社か寺のように反らせ、やたらと軒が高く、材も太々しい、新築のそれなりに豪華版の家を目にすることが多い。まわりの古い家がつつましいから余計目だつ。実際それは、目だつことに意義を認めているらしい。おそらくそれは、それまでの数代というもの叶えようにも叶えられなかったことを、最近に至っての急激な財力(換金された現金)がそれを可能にし、勢い余ってこういう形に走ってしまったに違いない。ことによると、ほんのつい最近まで飢えにあえいでいた新開の村の方が、金力の点では旧村よりまさってしまったのではあるまいか。逆転したのである。あの新しい家は、そのことのいわばシンボルなのだ。それはまことに奇妙な家である。どう考えたって農業向きには思えず、第一、風景にそぐわない。というより、そういう風景のなかから自ずと生れたのではない。だが私には、一概にそれを否定する気にはなれない。彼らがそうつくりたかった心情は、仮にその吐露のしかたがおかしなものであったとしても、ある意味では当然のことであったのだし、はたがとやかく言うことでもないからである。第一、時間はかかるかもしれないが、もしそれが彼らの生活に適さないことが身にしみて分れば、彼らは(彼らの次の代は)それを修正するに決っているからである。あの古き村においても、もちろんこれほどの突然変異的なことはなかったろうが、これに似たことは過去何度もあったに違いないと私は思う。あの古き村において目にする完熟の姿も、一度にして成ったのではなく、いわば時のフイルターでこされた姿なのではなかろうか。

 

風景の原点

 私はいま、数年前目にしたある光景を思いだしている。茨城県西の、ほんのつい最近まで近代的交通機関から見はなされていたいわゆる陸の孤島と呼ばれた地域を歩きまわったときのことである。そこは、水田主体ではなく畑作が主である(水田がないわけではない)。畑作といってももとは桑畑が主であったようで、それが煙草・茶に変りここ最近は東京向けの野菜の産地に変身し、全般に現金収入が急増した土地柄である。わざわざ全般にと断ったのは、もとは貧富の落差が激しいところのようであったからである。

 このあたりを遠望すると、水田地帯と違い、のどかにしてなだらかな丘が延々と続き、やはり集落はうっそうとした樹林に囲まれている。ここで目につくのは、家々が(つまり屋敷が)いわば角刈りにされた高さ7・8mの樹木に囲まれている姿である。ほぼ方形の屋敷の四周をその巨大な垣根に囲まれているわけだから、遠くからは、緑の立方体がならんでいるように見える。建物の屋根は、緑にくるまれてしまって、まずほとんど見えない。近くによってみると、この巨大な垣根は、常緑の樹木:たとえば椎:をいわば矯正してつくったものだ。垣根の厚みは1~1.5mぐらい。樹木は垣根の長手方向に5~6mおきに植えられ、枝をその長手方向に、ちょうどすきまを埋めさせるように強引に引っ張り、逆に短手つまり厚みの方向への自由な生長を押さえつけることによって、この角刈りはできあがっている。こうなるとそれは、いねば緑の城壁で、入口もこの城壁にアーチ状の口が切り開かれ、あたかも城門のようである。門から中をのぞくと、そこには先に述べたのと同じく人なつっこい落ち着いた空聞が、その外側とはまるで違った空気をともなって拡がっている。こうなるとこれは、明らかに、普通言われるような単なる防風林としての解釈では不足のようだ。これはむしろ、すまいを形づくるためにつくられた壁なのだ。先に述べたあの古き村々のすまいづくりが、樹林のなかに穴をうがつやりかたであったとすれば、ここで見るやりかたは、なにもないところに樹木を植えこむことによって穴をつくるやりかただと言えるだろう。

 この集落から大分はずれた利根川沿いの河川敷のようないわば荒地に(そこは川のそばではあるが水がないから水田にならない)一軒の家が建っていた。どうやらそのあたりをまったく新たに畑にせんとして住みついた人の家らしく、どこかでもらってきた材でつくりあげた、掘立て小屋のようなみすぼらしく見える家であった。私の興味をひいたのは、その家のまわりに、ほんの1~2mの高さの細い樹木が、多分それがその人の頭のなかにある屋敷境なのだろう、方形に、その貧しい家をとり囲む意志を示して植えられていることであった。それは、よく見かける生垣にさえなっていなかった。すきすきなのである。私は、あの堂々とした緑の立方体の屋敷構えの家の映像を、この目の前の屋敷の上に重ねていた。この屋敷は、いつ、あの緑の立方体になるのだろうか。

 私は、この一見みすぼらしい屋敷構えに、人間の強い、しかたかな意志と、日ごろ私たちの身のまわりで目にする風景の原点を見る思いがしたことを、強烈な印象として覚えている。   

 

風景が歴史を語る

 私たちが、自然保護だとか、景観保存だとかいうことばを聞くようになってからもうかなり時間が経ったような気がする。だがそれらは、いまもって、いずれも、既存の自然・既存の景観の保護・保存であって、その意味することは、極端に言えば、一切それらに手をつけるな、ということに等しいだろう。

 だが、私がこの筑波山からながめている水びたしの平野の景観はもとより、およそありとあらゆる私たちの身のまわりに拡がる自然も景観も、どれ一つとして原生の姿のままのものなどありはしない。どれもこれも人が手を入れ、そしてつくり成しかものなのだ。手を入れたからこそ既存の自然の景観も在ったのだ。しかし、人々が(特に大多数を占めるようになった都会の人々が)この人の手によって成りたったという厳然たる事実を忘れてしまったとき、自然も景観も、単なる絵・映像としてしか見られなくなってしまい、手の入れかたさえ分らなくなってしまったのだ。

 私たちの日常をとり囲む自然も景観も、それには絶対的・固定的な理想形があるのではなく、本来、人々の営為を通じて、時代とともに、いわば醸成されて生まれくるものなのだ。そして、だからこそ、風景が歴史を語ってくれるのである。

 だが、いま水びたしの水田の向うに煙っているあの研究学園都市の偉観は、はたして、このような意昧での歴史を語る風景になり得るのであろうか。

 

 

あとがき

〇3ページに載せた地図は、国土地理院の五万分の一地形図を基に、概略、水田として使われている土地だけを残して、網点をかぶせてみたものである。ここにでてくる集落は、まずほとんどが農業に拠る集落なのだが、図中の中央「つくば」とある駅の周辺のかたまりは違う。あたりに水田がないから網点をかけてしまってあるが、しかしここはその周辺と同じく低地であり、山のはりだしなどではない。元はここも水田であったと見てよいだろう。そこから網点を取り除き白ぬきの部分に組みこむと、山すそがつながり、白ぬきの部分も川すじなりの自然な形となる。(ここで言う自然なということばの意味は、もちろん、然るべくしてある、というそのことば本来の意である。)ここは駅ができてから生まれた農業集落とは違う成因の集落:町なのである。

〇こうして見てみると、この地図に示されている地域は、未だに、然るべくして在る地形と、その然るべくして在る性状に対して、人々が然るべく適応した(適応しようとした)様子を歴然として残している地域であると言うことができるだろう。そしてこれが、農業に拠って生きる人たちの必然的につくりだす風景なのである。農業とは、もともと、然るべくして在る土地に、然るべく適応することを業とするものだからである。

〇だが、農業のように然るべくして在る土地に直接的に適応する要がなくなったとき、人々はどう住むのだろうか。「つくば」の駅のまわりの町は、その土地そのものにではなく、駅に拠っている。だが、駅の設定はなにに拠ったのか。そもそも、町に住む人たちの住いの構えかたは、なにに拠ったのか。機会をあらためて考えてみようと思う。ただ一ついま言えることは、たとえば東京も、いまその上に展開している密集した住居を、時間を逆に追い、次々とはぎとってゆくと、ついには3ページに載せた地図同様の状態に戻ってしまうだろう、ということである。といって、私は別に、いわゆるルーツ探しをしようというのではない。ストーリーを、それぞれの時代のストーリー、それぞれの時代をつなぐストーリーを探り、知りたいのである。

かっこうが鳴いている。昨年の、というより、このまえの、こういう日ざし、こういう風、こういう具合の表情を木々が示した、そういう時、やはりこの鳥が鳴いた。人々は、太陽がめぐるということに気づく以前に、めぐる季節に気づいていたのではあるまいか。

〇それぞれのご活躍を祈る。

          1983・5・25            下山 眞司


1983年度「筑波通信№2 構えの諸相」

2019-10-22 10:53:57 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №2」 A4版10頁 

1983年度「筑波通信 №2」 1983年5月

      構えの様相・・・・あり得るべくしてある構え・・・・

中央線の沿線風景

 生暖かい雨上りの夜気の一角に蛙の声を聞いたような気がした。四月一日のことである。立ち止った。やはりそうであった。まだ数が少ないとみえて、とぎれとぎれに聞えてくるのである。今年はどういうわけか、春だというのに、いつもなら夜気にむせるほど充ちている沈丁花のにおいがただよわない。しかし、日一日と確実に季節は巡っていたのである。

 私がいま毎週通っている甲州は、四月に入ってからしばらくが見ごたえのある季節である。梅が散り、代って桃やすもも、桜、山つつじ、もくれん・・・・がいっせいに花開く。とび色の大地に花の色がぼうっとかすんでにじんでいる。山あいに、そのとび色の大地を地色にして、まだ葉の茂らないぶどう園、家々のかたまり、そして、にじんだ花の色が、まさに所を得て展開している。かすみのかかった盆地のはてには、まだ雪を輝かせている南アルプスが浮んでいる。中央線の列車が笹子トンネルを抜け甲府盆地へ向け下ってゆくとき、その景色に思わず息をのむのが、ちょうどこの時分のことだ。

 私は中央線が好きだ。たしかに中央線の沿線は都内では有数の人口密集地で、高架橋を走る電車から見る一面の家また家の光景にはものすさまじいものがあるけれども、しかし東海道線などとは違ってそういう光景がはてしなく続くということはなく、新宿を出た列車は小一時間もすると、それまでの光景がまるでうそであったかのように、突然、ほんとうに突然、まったく異った景色のなかにとびこんでしまう。山あいに入ってしまうのである。そこから松本まで、一部を除けば、ほほ同じような景色のなかを走り続ける。見ていて飽きのこない景色である。

 沿線の風景をこまかく見てゆくと、家々は建てなおされ、甲州街道の他に中央自動車道も通るようになり、鉄道自体もスイッチバックなしですいすい急勾配を上ってゆく。風景の一部をなすそれぞれのものは大きく変っているのであるけれども、しかし、その風景全体から受ける印象は、もうひと昔もふた昔も前のころのそれと、なんら変ることないように私の目には映る。人々のありとあらゆる営みは、狭い山峡にへばりついている。たとえば、家々はやっと見つけたようなちょっとした平地部分に群がり、耕すことのできるところは全て耕しつくし、道も鉄道も、近代土木技術の粋をつくした中央自動車道でさえ、その狭い山峡を、そこを流れる川ともども、まるでもつれあった糸のようにひしめき通っている。

 中央線は、地図を見ても、また実際に乗ってみてもすぐ分るように、かなり曲線が多い。しかも小さな曲線の連続である。でき得る限り山はだなりに、そしてまた山はだ沿いに点在する町や村をこまめにつないで走るからである。これに対して、この中央線の線路の右になり左になりして走っている中央自動車道は、近代的な土木技術を駆使し、昔だったら到底思いも及ばなかっただろうと思われるルートを、言わば強引に走りぬけようとするから、いたるところで山半分がなくなり、そのぶざまな切断面を、これまた無粋というか無残というか、モルタル塗りの厚化粧でおおいつくし、あるいはまた、とてつもなく巨大な橋で谷間をひとまたぎにしていたりする。これに比べたら、中央線の橋やトンネルなどは、まるで鉄道模型みたいに可愛らしい。だが中央道の近代的な土木工事にしたところで、つまるところ、いかようにしてみても、まっさらのキャンバスに思いのままの線を引くようにはルートはつくれず、この山峡という大地の形状・状況から逃れるわけにはゆかないのである。要するに、この狭い山峡に対した場面での人々の営みのありかたは、時が変り、人が変り、生活が変り、技術も変ったというのに、基本的にはなにも変っていないと言ってもおかしくない。山峡という大地の形状が、人々の営みかた・そのありかたを、いかんともしがたく左右してしまっているのである。おそらく、このことが私に山峡変らずとの印象を与えているのに違いあるまい。

 

しっくりとおさまるということ

 中央線のトンネルには、車両の大きさぎりぎりの、窓から手を出せば壁にさわれるような、小さなトンネルがときおりある。多分古いトンネルである。こういうトンネルの入口は、きまってものすごくこったつくりになっている。工芸的だと言っても言いすぎでないほど手をつくし、あたかもアーチ状の門のようである。それは、すっかりそのまわりになじんでいる。かならずしもそれは、古色を帯び、樹木が繁茂してしまったせいだけではなく、そのつくりようにあるのだと私は思う。その点、近代土木技術のやりかたは至極淡白である。無造作である。

 だが、もう何回となく中央線を往復し、四季おりおりの風景を目にしているうちに、私はあることに気がついた。たしかに中央自動車道に代表される近代土木技術のやりかたはまことに無造作なのであるけれども、しかし、この山峡で見る限り、それは、関東平野で目にした新幹線の高架橋や東名自動車道のそれのようには、私にそれほどの異和感を与えないのである。私の目が見慣れてしまってなんとも思わなくなってしまったのではないか、とも考え、ここ数回意識してながめているのであるが、どうもそうではないようである。もちろんしっくりこない場所もあるけれども、他の例に比べて、たしかに異和感を感じることが少ないのだ。たとえば、折をみて実際にその気になって見てもらうとよいのだが、中央道の橋や橋脚はまことに巨大で、もしもそれを関東平野の広大な拡がりのなかで目にしたら、多分異和感を持つと思われるし、同様に、盛土をして造った土堤状の部分も、平地で見たら度肝をぬかれるほど大きいはずなのだが、ここではそれほどには感じないのである。

 なぜそうなのか。その一つの理由は極く単純な話で、それらの構築物がいかに巨大であろうとも、その背景になっている言わば大地が造りなした構築物であるところの山々に比べたら、まさに比べものにならないほど小さなものだからである。どんなに低い山だろうと、その形状は、いかんともしがたく人々の営みを圧倒してしまうということだ。さしづめ、お釈迦様の手のひらの上の孫悟空みたいなものなのである。

 しかし、これだけでは、しっくりとおさまっているという感じの説明はつきにくいように思う。というのは、明らかに大地の所作に比べたら小さなことなのに、どうみてもしっくりゆかない、いま一つおさまっていない、落ち着かない印象を持つ場合があるからである。別な言いかたをすると、なにかことが起ったら、たちまちに崩れ去ってしまうのではないか、というような感じを抱かせるのである(もちろん、実際には壊れはしないだろうが)。

 いったいこれは何なのだろうか。

 私は今号の初めのところで、ぶどう園、家々のかたまり、そして、にじんだ花の色がまさに所を得て展開している、と書いたが、いまここで書いたしっくりとおさまっているあるいは落ち着いているという感じは、この所を得ているという表現と同じだと見なしてよいと思われる。

 ことによると、ここに掲げたいろいろな表現は、安定感の一語に尽きるのかもしれないが、しかし安定感だと、単純に形体そのものの安定の度合の話に持ちこまれてしまうおそれがある。それが単純に形体そのものの話でないことは、たとえば非常に危なげながけっぷちに建っている建物でもしっくりおさまっている場合があることや、逆に、どう考えても安定していると見なされてもよい所でも、建てかたが悪いとしっくりゆかない場合があることを考えてみれば、このことばがあまりふさわしい言いかたでないことが分ってくる。

 そのように考えてくると、これらのいろいろな表現のなかで、「所を得ている」という言いかたが一番妥当なのではないか、と私は思う。がけっぷちであろうがどこであろうが、所を得ている、という言いかたなら十分に意を尽せると思うからである。

 

所を得たさま

 仙台の大通りの街路樹は、けやきの並木である。普通、東京あたりの街路樹は台風の時季に枝が刈りとられてしまうのだが、ここのはそうでなく、もちろん手は入れられていると思うが、言わば成長のし放題というおもむきがある。道路はトンネル状におおわれる。木々の枝々は微妙にからみあっている。そして、よく見ると、一本の木の枝が占有し得なかった間隙を、隣りの木の枝が見事に埋めているのである。隣りあう木同志がそれぞれの占有空間を一つの境界線(面)で密に接しているわけで、少し大げさに言えば、一本の木を切り倒したとき、そこにはその木の形をした空間が残っている、と言っても言いすぎでないほどだ。そして、切らなかった方の木、つまり突然できてしまった空き間にさらされる目になった木の枝々が、そこにあった木のおかげで、ひずんだ形になっているかと言うと、そんなことはなく、それなりに見れる形になっている。そうは言ってももちろん独立樹のそれと違った形であるのは確かであるが、けれども、東京の街路樹や、植木屋さんによって散髪され続けた庭木が見せるようなどこかゆがめられたような所はない。木に思いがあるとすれば、まさに(隣りを微妙に気にしつつも)思いのままにそれぞれが枝をはり、全体が形づくられた気配がある。これはほんとに見事である。上海で見た街路樹もそうであった。なんの木であったか忘れたが、街路は完全におおわれ、トロリーバスの架線が枝のなかに埋もれていた。街路樹ではなく、まるで屋敷林のようなおもむきさえあり、下刈りがよくされた林のなかのようでもあった。

 おそらく、「所を得ている」という感じかたは、この街路樹のようにそれぞれが言わば思いのままに(あるいは勝手に)のび放題にのび、それで全体がつくられているような場面において、その一本一本の木々のありかた、構えかたに対して言われるのではないだろうか。あり得べくして(その形で)あった、という感じである。そしておそらく、真の意味での「調和」とは、こういう場面を指して言われるはずなのだが、得てしてこの「調和」という言葉は、このあり得べくしてあるという言わば過程を忘れて、単純に(その結果としての)形の問題に還元されそうな傾向があるので、私はあまり使いたくない。そしてまた、このあり得べくしてあるということは、別な言いかたでは、自然である、という言いかたに置き変えてもよいのだが、これもまた多く誤解されがちな表現であるため、これも私はあまり使いたくない。

 

 つまり、この文の冒頭の、ぶどう園、家々のかたまり、にじんだ花の色が所を得て展開している、というのは、そのそれぞれが、あり得べくしてあるとの感じを、私に抱かせた、ということなのだ。山々に咲き急ぐ自生の木々は、それこそ自然界の法則に素直に従っていて、その意味であるべき所にあってなんの不思議もなく、それを私たちもいつしか知っている。それゆえ、あり得べからざる所にある樹木が植っていたりすると(それを知っている人は)異和感を持つ。(もっとも最近では、このある樹木のあり得べき所についての感覚が損なわれているようで、またそういう時代でもあるがゆえに、ことさら植生の話があらためて論じられたりするのでもある。言わばその昔なら常識であったことどもが、ことによると植木屋さんでさえ分らなくなっていたりするようだ。)

 そしてこういう感じかたは、木々に対してのみならず、それらの生えている大地そのものの形状に対しても、私たちは持っていると言ってよいだろう。川の流れは、大地の形状により流れるべくして流れ、滞るべくして滞りそして淀むことを私たちは(いつしか)知っているし、これは他の大地の形状についても同様である。(もっともこの感覚もまた、どんどん常識の外へとびだしてしまい、代って、そういう感覚を経由しない「知識」が隆盛をきわめつつあるらしいから、この点についても、あり得べくしてという感じかたをする人が少なくなってきているようだ。)

 

 それでは、ぶどう園や家々のかたまりが所を得ているというのはどういうことなのだろうか。ぶどうは確かに植物であり、その生長は自然界の法則に従うかもしれないが、ぶどうとなると様相が違ってくる。まして家々のかたまりとなるとなおさらのことだ。これらは、言うならば人為によるものだ。そういった人為が所を得ている、あるいは、あり得べくしてある、と見え感じられるというのはどういうことなのか。

 あたりまえの話だが、人為は、まずもってして人為が先にあったわけではない。先にあったのは、まず、大地そのものであった。そしてまた、これもまたあたりまえの話なのであるが、いま目にする人為が全て、同時にできあがったわけでもなく、ある人為の前には、既にして、別の人為があったのである。従って、人為とは、まずもって人の大地に対しての処しかたに拠るのであり、そしてまた、既に存している(言わば大地の一部に化しているかの如くにある)人為に対しての処しかたに拠るのである。私はこれを(大地に対する、あるいは、人為に対する)「構えかた」と呼ぶのがふさわしいのではないかと考えている。それゆえ、これら(の人為)が所を得ているという感じかたは、言いかえれば、それらの「構えかた」が当を得ている、あるいは、あり得べき構えを示している、という感じかたなのだと言うことができる。けれども、(言いかたをいろいろと変えてはみたものの)いずれにしたところで、いかなるものを、当を得ている、あり得べくしてある、と言うのかと問われれば、それは結局のところ、私たちの感性に拠るのだとしか言いようがあるまい。

 

構えるということ

 手元の国語辞典から、「構える」「構え」の項をぬきだしてみた。

 構えは当然構えるの名詞形であり、それぞれの項目の一番目に示されている語義は「構」という漢字の原義でもあるようだ。おそらく「かまえる」あるいは「かまう」という日本語がまず存在し、それには(建物を)つくるという意があったがゆえに、それに「構」の字があてられたのだろう。多分、「かまえる」の最も本質的な意味は、二番目の説明にある語義なのではないかと思う。すなわち「ある姿勢をとって相手に対する」という意である。因みに「かまう(構う)」の項を見てみると、その初めに「こだわって気をとられる」「気にかけて対処する」と示されているから、いずれにしろ「かまえる」「かまう」ということばには「対する」「対処する」という意味がもともと含まれているのであろう。

 だから、建物・家をつくることを称して「かまえる」という言いかたがなされた根底には、建物・家をつくるということは、(外物に対して)身構える:ある姿勢をとることと同じようなことだ、との認識が人々の間にあったからなのだと理解してよいのではなかろうか。人が自らの身を外物に対して構えるという感じを、そのまま、建物づくり・家づくりの場面にもあてがうことができる、としたということだ。

 

 おそらく、人が自らの身を外物(もちろん他人も含む)に対して構えるというそのままの意味での身構えるということの(具体的な)感じはだれでもすぐに思い浮べることができるはずである。実際に私たちは私たちの遭遇する場面に応じて、それなりの身構えを(ときには意識してそしてときには無意識のうちに)しているからである。そしてそれが徹底すれば、格闘技の(身)構えの型にまで到達してしまうほどだ。この格闘技の構えの場面が、おそらく、身構え、あるいは、ある姿勢を(外物に対して)とることの本義を端的に示していると見てよいだろう。

 すなわち、外物に対してわが身の存立を確保するための所作、これがその本義に他ならない。外物に対し攻撃をかけるのか、外物の攻撃を防御するのか、それとも外物と平和共存でゆくのか、それによりつくりなす構えは変るかもしれないが、いずれにしろ、どの構えにするかの選択をも含め、その拠ってたつ根本は、わが身の存立の確保以外のなにものでもないはずである。くだいて言えば、自分が安心していられる状態を確保するためにとる姿勢、それが身構えなのだ。そして人は、生れてこのかた、それぞれが、それこそ身をもって、場面なりの身構えかたを学び、身につけてきているのである。

 

 このように「かまえる」ということの本義を考えてみたとき、家をつくり、建物をつくるということをも「かまえる」と称すことの理由が、うっすらと分ってくるように思う。なぜなら、家をつくる、建物をつくるということは、つまるところ、わが身の存立を保証してくれる場所を確保するための所作に他ならないからである。強いて言えば、その場所にいる限り、人は(狭い意味での)身構えをする必要がない。その場所が、彼にとってもはや外物ではない、彼のものになってしまっている、そういう場所。そして、もしもそのような場所を持たなかったならば、彼は常に身構えていなければならないのである。

 もちろんこのような「場所」は、単なる狭い意味での自分の城ではない。なるほどたしかにいわゆる都会的な生活をしている人々にとってはこの自分だけの居場所としての建物だけが狭い意味での自分の城でよいのかもしれないが、しかしそれが全ての人々に共通なのではない。それは、その人がなにに拠って生きているか、つまりなりわいに拠るのであって、先に見てきた山あいの村では、人々は多くいわゆる農業に拠っていたのである。その彼らにとってわが身の存立を保証する場所というのは、単に身の隠し場所であればよいのではなく、まずもって耕すことができる所でなければならないのであり、従って、彼らは自ずと自然界の法則を熟知することになる。言うならば、彼らは秀れた自然科学者なのである。彼らは人為的にぶどう園をつくる。もちろん、ただぶどうを植えれば、それでぶどう園ができるわけではなく、まずもってぶどうを知らなければならない。そして彼らは、ぶどうがあり得べき場所を知り、あり得べき場所を探し、あり得べき場所を造成し、そして初めてぶどう園が誕生する。

 ぶどう園を例として書いたが、およそ農業というのはみなこういうものだったはずである。だから、農業に拠った人々にとって彼らの存立を保証する場所というのは、単に家そのものだけなのではなく、まず耕すことのできる所を含めた全体であり、家屋敷はその一部であったにすぎないと見るべきなのだ(そのように見てくるとき、狭い意味での農民の家の構えが何であったかが見えてくるように思われる。それは決して、単純に、都会風な文化的住居像をあてはめ、比較し論じ得るものではない)。

 こうして、あの山あいでは(農業をなりわいとする)人々が、営々として、自分たちのすまう場所を(広い意味で)構え続けてきたのである。あるいはそれは、大地への積み重なる人為、その人為への新たなる人為の積み重ねであるとも言い得るし、あるいはまた、近代風に言えば、大地に対する土木事業の連続であったと言えるであろう。いずれにしろ、人々のそれらの営みの根にあったことは、(彼らのなりわいの下で)大地を知り、(先行の)人為を知り、自らを知ることであった。そして、自らの存立に支障をきたすがごときことはしない、ということであった。それが、彼らの所作のありかたを決定的にしていたのである。

 

 私の目の前の山あいの風景は、人々がそのあり得べき場所を探し求めた(あるいは、いまも探しつつある)人々の(その土地での生活のために大地へ対した)諸々の営為の結果物により成っているのである。おそらく、なにも山あいに限らず、なんらかの人為の加わった風景というのは全て、本来、こういうものだったのである。つまり、私は、そういった土地での人びとの生活のための構えの結果の諸相とそれらの織りなす全体を見ているわけである。そして、先に述べてきたように、それらの人々の営みは、それぞれそれがあり得べき所でなければ営まれないのが本来の姿なのであり、そこのところが(よそものの、あるいは一見の客としての)私にも読みとれる、つまり、なるほどね、とそれらの彼らの営みの根にあるが私にも分る(ように思える)から、「まさに所を得て展開している」との感想が私の口から出てくるのである。

 そして、多分、そのが分ったように思え、もっともなやりかただと思えたとき、それらが(あるいはそれらのつくりなす全体が)安定したもの、調和したもの、あるいは、自然なもの、として私の目に映るということなのではあるまいか。単なる形象上の安定感調和感、あるいは自然さ、を見ているのではないのである。もとより私が直かに目にしているのは、それらの形象であることにまちがいはないのだが、ただそれだけでよしとしているのではなく、言わばその背後をも見ているということである。なにもこれは私だけの癖なのではなく、大方の人たちも(意識しているかどうかは別として)このように見ているはずである。畑を目にして、畑という形状の単なる形象として見て済ます人はまずいるわけがなく、たとえ作っている作物の名を知らなくても、(人が)なにかを作っている、ということは、だれもが認めているはずである。当然、口に出しては言わないかもしれないが、その背後にいるそれを作っている人たちの存在も識っている、人為の存在を認めているはずなのである。

 

近代的構法の本性

 近代技術による中央道の構築物のうちのあるものが、私に異和感を与えないのは、結局のところ、それらが、所を得ている、あり得べくしてある、との感を私に抱かしめたからなのである。

 だが、そうかといってそれは、それらの近代的構築物が、ここで私が述べてきたようなやりかたでつくられてきたためであるかというと、決してそうではない。それはやはり、他の多くの近代的なやりかた同様、近代合理主義的発想、一言で言えば、経済的効率主義によって貫かれていると言った方がよいと思われる。

 というのも、いろいろ見てみると、先にも書いたように、所を得ていると思えるのはその全てではなく、それにはある種の傾向があることに気づいたからである。それらは、まずほとんど、両側から山が迫ってきた狭い峡谷状の場所において見かけることが多いのである。こういう場所では、既に、人家も耕地もそして道も鉄道も、その厳しい制約のなかでとにかくぎりぎりいっぱいそれぞれの所を得てしまっていて、生まれつきの大地と人為とが、これもせいいっぱいせめぎあっているから、言うならばもはや余裕がない。だから、そこにまた新たに道をつくろうとするとき、昔ながらのやりかたも、近代的なやりかたも、実は、結果として、同じ解答を出すしかないのである。

 つまり、昔ながらの方法では大地の法則に則り、既存の人為を尊重するなかで最も容易な構えをとろうとするだろうし、(そして当面の手持ちの技術では不可能ならば一つの願望として心のうちに暖めておくだろう)、近代的な方法では、人家や耕地はその取得費がかさむから避け(それは別に、既存の人為を尊重しているのではない)、しかも工費がなるべくかからない策をとる(昔ならトンネルでぬけただろうと思われる場所を、いまでは山を取り除く手段に出るのもそのためだ。長期的に見れば絶対に大地の力には勝てないと思うのだが、平然と無残な切断面をさらしている。たしか昨年の夏、その一つが大崩落を起したはずである)。どちらのやりかたをとるにしろ、こういう厳しい制約の所では、結果として同様な結論となるのである。違いは、唯一、その技術の差でしかない。

 それゆえ、ひとたびこういう厳しい条件がゆるむ場所にさしかかると、近代的やりかたは、たちまちその本性を露にする。そこでは経済的効率主義によるフリーハンドを可能にする余裕地があるから、容易にして安易な策をとることになる。そこでは、その土地なりのあり得べくしてあるというありかたを考えるいとまもなく、むしろなかば強引にルートが引かれ、構築物がつくられる。そういう場合、それは全く所を得ているとの感じを私に抱かせないのである。

 

感性の復権

 もう多分お気づきのことだと思うが、私がここで述べてきたことは、結局のところ、私の(ものごとへの)感じかたの話である。そして、そのようなことは、いまの世のなかでは、まったく個人次第のたよりないものだと見なされ、多くの人々は、もっとたよりになるいわゆる客観的な拠りどころを求めようとするだろう。そのようななかで、たとえば経済的効率主義、ひいてはいわゆる近代合理主義は、もっとも手っ取り早いものの一つである。だから、それ的な(もっともらしい)説明を受ければ、人は仮に異和感を感じ、本意でないと思っても、単なる一個人の感じにすぎないではないかと言われ、また思いこみ、引っこんでしまうのだ。だが、それはまちがいだ。私たちは、私たち一個人の感じかたからこそ、まず出直すべきなのだ。私たちは、伊達や酔狂でものごとを感じているのではないからである。私たちにとって、感性の復権こそが急務であると、私は思う。なぜなら、それこそがリアリティに直面しているからで、元をただせば、既存の全ての知識体系も、つまるところはどれもみな、個々人の感性から出発していたはずなのである。

 

 いま山峡は、花の季節に終りを告げ、新緑が輝きだしつつある。そして筑波では、また田植がはじまり、そして、まだひと月も経っていないのに、いまはもう、蛙の声の聞えぬはざまを見つけるのさえ難しい。

 

あ と が き

〇「・・・・その印象のなかで、比較的鮮明に残っているのが、清洲橋と永代橋の姿である。それぞれ違った趣があるが、いずれも均斉のとれた美しい姿態をしていると思った。・・・・私はこの二つの橋の姿を想い起すだけで、隅田川を感ずるのである。この二つの橋は、私にとっての隅田川のシンボルにさえなっているといってよい。よく考えてみれば、橋は人と川とのかかわりを象徴する一つの重要な存在なのかもしれない。川は、そのほとりに住む人びとを結びつけもするし、隔てもする。隔てられた人びとを結びつけるのが舟と橋であろう。そして、舟と違って橋はいつも厳然として存在し、川と人びとの結びつきをその姿によってたえず暗示しつづけるのである。橋が川のほとりに住む人たちのシンボルたりうるゆえんであろう。その点で、近ごろまことに口惜しく思ったのが、新しい新大橋である。まえの新大橋がそれほどみめうるわしかったというわけではない。しかし、今度の新大橋はいささかひどいというのが、私のいつわらざる実感である。機能主義と経済効果主義しか人に感じさせることのないようなこの橋は、象徴としての資格をまったくもっていない。設計者は、毎日人びとの眼に映る橋の存在を何と考えたのであろうか。・・・・新しいこの橋を見るのさえ不愉快である。かつての〈橋梁工学〉には〈美学〉の要素があったようにきいている。建築物と同じように、あるいはそれ以上に、橋梁の設計をささえるものは工学的技術とともに美学であったに違いない。そしてその美学は風土と伝統のなかで育てられた民衆の美意識を基盤として成立するものだったはずである。日本の工学から、いつそのような美学が喪なわれてしまったのであろうか。・・・・」玉城哲著〈水紀行〉より

〇私はこの二年間、「通信」の文中で、徹底して「美」だとか「美しい」とかいうことばを使わないできた。多分、今後も使わないだろう。別に私はその概念の存在を否定しているわけではない。このことばを使えば、なんと簡単にすむことか、と思ったことも何度かある。だから、この引用した文章などみると、その内容に同感を覚えるとともに、あっさりと美学ということばを使っていて、変な言いかただが、うらやましいなと思う。私がこのことばを使わないのは、極めて単純な理由による。得てしてそれが、単に、形象上の問題にすりかえられてしまうからである。仮にそうなると、ものをつくるという人為の本来の存在のありかたが見失われ、形象上の操作におとしめられるおそれがあるからである。

〇四月早々から書きだしたのだが、週に一・二回の甲州行と新学期のなにやかやで、書き終えるのが大分おそくなってしまった。おかげで、蛙の声量に、時の経つ早さを教えられた。

〇三月号に少し触れた「知恵おくれの人たちの家」づくりの発起人の一人から、次のような便りをいただいた。「・・・・園をつくるためにいろいろしたことは、私たちにとっては、やらなければならないこと、〈食べものがなければ食べものを作る〉と同じようなことなのです・・・・。」

〇それぞれのご活躍を祈る。

            1983・5・1            下山 眞司

 


1983年度「筑波通信№1 人それぞれ・・・・それぞれのストーリー」

2019-10-08 10:16:51 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №1」 A4版10頁 

 1983年度「筑波通信 №1」 1983年4月

       ひとそれぞれ・・・・それぞれのストーリー・・・・

 会話の場面

 「おはよう」

 「おはよ・・・・、あら、どうしたのその顔?」

 「ううん、なんでもない、虫にさされただけよ」

   ・・・・・・

 妙な書きだしで恐縮である。ラジオの番組に「ことばの十字路」というのがある。聞くともなくそれを聞いていたとき、こんな会話が耳にとびこんできた。それも、何回も同じことをくりかえすのである。実は、声優の加藤道子さんが、この同じ台詞を、司会者が指示する場面設定に応じて、その場面での微妙なニュアンスを合んで読み分ける、そういういわば実験を試みていたのである。一つの場面は、まったく単純な、家庭のなかでの朝の一場面としての娘と母の会話、もう一つは、そういう平凡な日々の状景ではなく、ある事件の発端となる場面での娘と母の会話、これがその読み分けにあたっての注文であった。しかも、いまここに記したようなシナリオの一部としての場合と、話しことばの間につなぎの文が入る小説の一部を朗読する場合の二通りについてそれぞれを読み分けていたから、都合四通りの読みかたが試みられたことになる。

 それはもう実に見事であった。それぞれの場面が、ありありと目の前に浮んでくるのである。もちろん、司会者が設定した場面の説明をあらかじめ私は聞いているわけだから、その思い入れによる聞き分けが働いていないわけではないけれども、明らかに読みかた(しゃべりかた)の違いによって、思い浮べる場面が違ってくるのである。

 要は、文字に書きかえてしまうと全く同じ文章になってしまう会話も、その会話が交わされている場面によって、しゃべりかた・話しかたが違っていること、日常では私たちは(なにも声優だけでなく)極く自然にそのように同じことばを使い分け(話し分け)ているということ、そしてまた、私たちが文字に書かれた文章を読むときでさえ、私たちは単にそこに書かれている語句の文字どおりの意味内容だけを読みとっているのではなく、その文章が書き示そうとしている状況あるいは書き手の状況を頭に描くといういわば補完作業を同時に行いつつ、その文章の言わんとすることを限定・判定しているのだということ、こういったことを実験で示してくれたわけである。

 たしかに、私たちの日常の会話の場面を考えてみれば、私たちはその場の状況や、相手の目・身ぶり手ぶりなどまでをも読んで話を交わしているのであって、決してことばそのものだけにたよっているのではないことが直ちに分ってくる。だからこそ、そういう言外のことを全て、耳にすることばを基に補わなければならない電話による会話が難しく、そしてときにはもどかしくさえなるのである。

 

 ときおり聞くだけなのだが、この「ことばの十字路」という番組は、わずか十五分にしてはなかなか面白い。特に今回、その最後に加藤道子さんが語ったことも、これは聞き捨てにできないものであった。司会者が、声優としてのこういう会話の読み分けのこつや苦労などについて尋ねたのに対して、彼女は大略次のように答えたのである。その場面に応じた話しかた・しゃべりかたをすることは、その場面に自分を置いてみればよいのだから、それはそれほど難しくはない。難しいのは、それがどういう場面であるかの判断が直ちにできるかどうかにかかっている。いまここで読み分けた例は難しかった。なぜなら、たった三行の会話部分だけを読まされるのでは、たとえそれが娘と母の会話であることが示され、場面の状況を説明されても、それでその場面がよく分ったわけではない。これが小説やシナリオの一場面ならば、その場面に到るまでの間に、既に、どういう娘と母なのか、どういう状況なのか・・・・などが十分に判ってしまっているから、容易にその場面を我がものとすることができる。しかし、たった三行だけだと、そのほかは全て自分でストーリーを想定するしかないし、第一、この娘と母の関係にしても、ただ一般的な娘と母の関係が分っているなどという分りかたでは到底リアルな場面には行きつけず、その点についてもある仮定をしてみることになる。そういう意味で、不確定な要素が多すぎ、従って役になりきれず、いま一つリアリティに欠けてしまうから、ここでいま試みた読み分けは決してよい出来だったとは思えない、と。(ここでいま私が文章化した彼女のことばも、実際の話しことばではもう少し要領のよい話しかたであって、書きことばで彼女の言わんとすることを極力伝えたいために、いろいろと語間を私が補ったのである。)

 会話の場面では、私たちはある状況を共有しつつ話をすすめているから、わざわざその状況を説明する要がないのだが、書くとなると、この省いたところの状況の説明をまずしなければならないのである。

 

旅での場面

 旅をしている私たちが、とある町に降りたったとしてみよう。その町が初めての町であればなおよい。私たちは、目に入り、そして初めて経験するその町でのものごと、できごとを、それこそもの珍らしげに見、また味わうだろう。そして、そのときの感想やら想いが、その町についてのいわゆる第一印象をかたちづくってしまう。この町への訪問が、そのとき一回限りで終ってしまえば、おそらく、私たちのその町についての理解というものは、この第一印象によりかかったかたちでつくられてしまい、その後いわば永久にその理解がその町に対して語られてしまうことになるだろう。

 ところで、この第一印象、すなわち私たちが目にし経験するものごと・できごとに対しての私たちの(初めの)感想や想いというのが、ただ単純にそのものごと・できごと(の側の責任)に拠ってひき起こされたものなのであるかというと、そうではない。そのときの私たちの視点如何によってそれは左右されると言った方が、むしろ、あたっている。私たちは、そのときまでの(そしてそれからあとの)私たち自らの経験の一部・一場面として、そのとき私たちの目の前にあるものごと・できごとを扱っているからである。いま私たちが目の前にしているものは、通常では、私たち自身の係わるストーリーの一部としてしか、私たちには見えてこないということである。しかしこれは、考えてみればあたりまえなのであって、私たちのストーリーの一部として(とりあえず)扱ってみる以外に、それに対処し、それを位置づける手だてが他にないのである。

 そしてこれが、単に、素通りの一観光客の感想にとどまる限りではとりたてての問題にもならないかもしれないが、しかし、もしも話がそれを越えて進むようならば、問題が起きてくる。すなわち、私たちにその町について理解する必要が生じ、それに対して、一見の客にすぎなかった私たちの印象に拠ってのみそれが語られるとき、つまり、私たちの印象はあくまでも私たちのストーリーの一部でしかないという事実が忘れ去られ、あたかもそれが(万人共通の)普遍的なストーリーの一部であるかのように扱われるとき、そこに大きな問題が生じてくるのである。

 ある町を初めて訪れた私たちの目の前にあるものごと・できごとは、当然その町の人たちの目にもとらえられているだろう。だが、彼らのとらえかたは、これも当然のことながら、私たちのそれと同じではなく、あくまでも彼らのストーリーの一部としてのそれであるはずである。だから、私たちが私たちのストーリーの展開の一局面としていま新たにつけ加えようとしているその町のものごと・できごとは、その町の人たちのストーリーから見れば、その長編のほんの一部、三行はおろか一行にも満たないわずかな部分でしかないのである。もしもこのことを忘れて、その町のものごと・できごとを、私たちの側の視点のみで(あたかもそれが唯一絶対かの如くに思いこみ)推し測るならば、そこでは、ことによれば「ものごと・できごと」の理解はできるかもしれないが、決して「その町のものごと・できごと」についての正当な理解が生まれるわけがなく、むしろ、回復不能に近い誤解と不信の種がまかれてしまうという大問題が生じてくるのである。

 

場面とストーリー

 もう一つ別な事例を考えてみよう。

 三月は入学試験の季節である。受験生ならずともうっとおしい季節である。人が人を右か左かにふるい分けるというのだから、はなはだうっとおしいのである。私の係わっている分野の入試は、いわゆるペーパーテストの点の高低に拠った選別ではなく、いわばそれ向きの資質があるかどうかを見ることになるから容易ではなく、判断に迷う場面も少なくない。それをもおして選別してしまうのであるから、入試が終ったあと、淡い悔恨の情を抱かない人はないと言ってまずまちがいないだろう。ほんとに適切な判断だったろうか、と。(妙な話だが、そのとき抱く感懐は、私の場合、設計した建物が建ってしまったときのそれに似ている。)

 考えてみると、入学試験というのは、「試験」というものを通してたまたま表われ見えた(受験生ひとりひとりのストーリーのなかの)たった三行をもって、受験生を判定する作業であると言うことができる。どのようにしてみたところで、つまるところ私たちにできることは、そのたった三行を見ることだけである。従って問題は、そのたった三行で何を見るかということにかかってくる。もしも、その三行だけが受験生の全てを表わしているなどと思ってしまったら、これはとんでもないことなのだ。私たちは、その三行を基にして、言うならば彼の来しかた行く末のストーリーを思い描いて、この大学に向いているかどうかの判断をする破目になる。それゆえ、受験生にどういう三行を表わしてもらったらよいかが試験問題作成上の大問題となってくるわけである。

 これもこの間放送で聞いたある医者のことばであるが、それによると、いわゆる名医と言われている医者は、患者が診察室へ入ってきた瞬間に一切を察知するのだそうである。つまり、そこへ入ってきた患者の挙動・表情その他そこで患者が示している現象(これはあくまでもたった三行であるにすぎないはずなのであるが)から、単にその現象を知るのではなく(たった三行だけを知るのではなく)それをあらしめているストーリーを見ぬいてしまうということである。病状というある限られた場面に係わるからではあろうが、彼はそれに係わるいわば普遍的なストーリーと、その一環としての三行について、十分に分ってしまっているのである。だから、彼に診てもらう患者は、検査づけ、薬づけの目にあうことがない。名医の行う検査は、彼の察知したことの確認の意味しかもたないから、必要最小限の検査しかしないのである。しかしこれが、三行しか見えない医者になると、話がまったく逆になる。彼には三行だけが見えてストーリーは見えていないから、ストーリーを確定するためにやたらと検査をすることになる。彼は、大量の検査結果のなかから、やっとストーリーを見つけだすのであって、そういう意味では、彼は患者を診ているのではなく、検査結果を診ているわけである。患者は目の前にいるのであるが、彼は検査の向う側に患者を見ているわけである。近代医療は、ことによるとそれを(それこそが科学的であるとして)目ざしてきたのであるのかもしれない。

 

 いわゆる学カテストにのみ拠る入学試験は、この近代的医療における検査に似て、受験者をその検査の向う側に置き、更に悪いことに受験者本人が絶対に見えてこない。なるほどその検査結果も受験者の一面であることはたしかではあるけれども、その結果からいかなるストーリーが読めるのかとなると、皆目見当もつかない。少なくとも、それ向きの資質があるかどうかはその結果だけからは読めないというのはたしかなことである。というより、大学で学ぼうとする人たちのストーリーの確認のための検査という目的がないままの検査:学カテストになってしまっているわけなのだから、そうなるのもあたりまえなのである。もちろん一定の学力が必要なことは認めないわけではない。しかし、私の係わる分野では共通一次試験の結果に加えて論述、口述・面接を加えているのだが、後者により私たちが得る判断は、必らずしも前者の学カテストの結果とは比例していないという事実は注目してよいことだと思う。論述や口述では、本人がはっきりと目の前に出てきてしまい、本人の意向・意志・意欲は、もちろん百%とは言えないけれども、確認することができるのである。私たちは彼がまとめた自分の考えを読み、わずかな時間ではあるが彼と話をし、その三行をもとにしていわば行間すなわち彼なる人物の全容:ストーリーを読むわけである。なかなか名医にはなれないが、しかし、共通一次の点が少々悪かったので偏差値の都合で芸術系の大学なら入ると指導されてきたような受験生は、たちまちにして見破られてしまう(大学で学ぶ目的をはっきり自分のことばとして言えないのである。大抵の場合、そういう彼は、これも多分そう言うように指導されたに違いない他人のことばをしゃべる)。論述・口述は、まともにつきあうと非常にくたびれるけれども、しかしいまのような受験産業専横の時代:偏差値信仰尊大な風潮に対抗するためには、論述・口述だけとは限らないにしても、いずれにしろ本人のストーリーを確認する手だてを講じるようにしようというのが、心ある同僚だちとよく話すことである。私の係わるところでこのような方法がとれるのは、受験者の人数が少ないからで、人によると受験者数が多いところでは効率の面で不可能であると言われてしまいそうだが、言うまでもなく、入学試験というのはただ早く効率的に選別できればよいというものではない。因みに、先日見たTVの報ずるところによれば、かのハーバード大学の入学者選定は学カテストには拠らず(実施しないのだという)志望者ひとりひとりに対しての面接を含む数ヶ月かけての調査に拠るのだそうである。もちろんこれが成立するためには、志望者はもとより、大学の側にもはっきりとした意向・意思・意欲が要求されることは言うまでもない。

 

ものごとの判断

 さきほど私は、近代的な医療は、近代的であり科学的であろうとして、検査結果という客観的諸データの向う側に患者を押しやってしまっているのではないか、と書いた。

 しかし、こういう風潮はなにも医療だけに限らず、いまやあらゆる局面で似たような傾向が表われているのではないだろうか。考えるべき対象を、いくつかの要素に分け要素ごとのデータの群と化す要素分析主義・客観データ主義が、合理主義の名の下に、あたかもそうすることだけが唯一科学的であるかの如くに思いこまれて、いたるところで横行しているように私には思えてならないのである。診察室に入ってきた患者を一目見て彼の状態を察知してしまうようなさきほどの名医は、良く言って名人芸、悪く言うと主観的判断に拠りすぎ客観的裏づけがなさすぎるとして、いま通常では歓迎されないだろう。入学試験における論述・口述試験も、いまもって、その判断に試験官の主観が入り客観性に欠けるとして疑問に思う人が少なくないらしい。

 だが、およそ人間が下す判断で、主観によらない判断というものがあるだろうか。判断するという行為の場面を考えるならば、診察室に入ってきた患者を一目見て判断することも、諸データを多種多様に収集した後におもむろに下す判断も、つまるところは主観によるものであることには変りはないのである。だから、諸データがある方が、あるいは諸データの量が多い方が客観的であると単純に思いこむことは、言って見れば迷信に近いことなのだ。諸データが自動的にある判断を示してくれるわけではないからである。かの名医とて、いいかげんにやまかんで判断をしているわけではもちろんなく、患者に見られるある状況を目にしてそのような状況を示すに到る過程:ストーリーをいくつか思い描き、そのなかから当の患者の状況にもっとも妥当と思われるストーリーを比定しているわけで、彼にとっては、諸データは既に言わば消化されているのである。おそらくそれは、彼の体験により培われたものであろうが、しかしそれは単に経験年数に比例しているわけではなく、彼が常にある現象を見てそれをあらしめるであろうストーリーを見るべくつとめてきたか否かにこそ拠るのだと言うべきだろう。

 逆に言えば、仮に諸データがいくら多量に集まろうが、それらデータをしからしむるストーリーの見通しがたたない限り、それらデータは言わば死語に等しいのである。しかも、そもそもこのストーリーというものは、そういったデータ化された諸要素を、それだけをつぎはぎして語られ得るものではなく、必らず諸要素の間のデータ化されていない言わば空白部分を補い埋めるという作業が必要なのであり、それは見る気がなければ(すなわち、ある見通しがなければ)決して埋められない。第一、「対象をいくつかの要素に分析してみる」ということ自体、それらの要素が言わば天から降ってきたかの如くあらかじめ存在していたわけではなく、「この対象はこれこれの要素の組み立てとして見ることができはしまいか」というある見通しの下の試みにすぎず、従ってその見通しは、あくまでも、そう見通した人の主観に拠らざるを得ないのである。なぜ彼がそのような見通しをたてたのかと言えば、もちろんどこかでそういう見通しを拾ってきたわけではなく、彼のうちに、その対象に係わる事象・現象の(部分ではなく)全体を不都合なく説明して見ようというがあったからである。そして、つまるところ、そのがなければ、見えるのはばらばらの事象・現象だけであって、ことの本質すなわちその事象・現象をあらしめているストーリーは絶対に見えてこない。名医の卵にもなり得ない。

 そして、もしもこの彼の主観に拠る彼の見通しが(少なくいまのところ)その対象に係わる事象・現象を全体として不都合なく説明していると思われたとき、その彼の見通しは(少なくともいまのところ)客観性のあるものとして扱われるのである。端的に言えば、生き生きとした現実に対して、その見通しが、それを損なうことなく対応している、生き写しである、との保証が(少なくともいまのところ)あるということだ。

 

 「客観」ということは、本来、このように一度必らず(それぞれの人の)主観を経過した、その向う側に初めて見えてくるものなのであって、決して(いまとかく思いこまれているように)主観と言わば対立した、主観の外側に存在するものではないし、そしてまた(これもいまとかく思いこまれているように)固定的にして絶対的なものではなく、あくまでも相対的なものでしかないのである。かの名医をして名医たらしめたのは、なにも彼が天才であったからではない。彼が常に(彼の主観に拠る)見通しをもち、そしてその見通しを常に彼の目の前の生き生きとした現実にぶつけてみる、そして見通しを描き改める、そういう(考えてみればあたりまえの)体験をし続けてきたからなのである。常に生き生きとした現実を直視し、しかしそれにおぼれることなく、常に本質へ迫るべく見通しをたて、しかしそれを固定化し絶対視することがないゆえに、逆に彼は、その彼の主観の向うに客観的なるものを見透すことができるようになったのである。要は、彼には、その気があるからなのだ。考えてみれば、大学の入学試験というのは、それぞれの分野でそれなりのその気をもとうとする気のある人たちを探すことなのではないだろうか。その意味では、学カテストの点がそれに応えているとは言い難い。

 

ストーリーを知ろう

 だが実際にはいま、ここで記したような主観と客観の本来の関係はまったく誤解され、ある固定的、絶対的な客観というものが私たちとは別の世界に存在しているかのように、山に入って宝物でも探すように、探しまわる。それはむしろ、あてもなく、と言ってよいだろう。いつかは本命にぶちあたるとでも思うのか、あるいはそれらの群こそが本命をかたちづくるとでも思うのか、目に見えるもの、かたちをなしてとらえられるもの、すなわち数値化してとらえられるものが、それこそが、それだけが客観的なるものだとの思いこみのなかで、収集される。目に見えず、かたちをなさず、従って数値化できないものは、むしろ非合理のものとしてその存在を認められず、認められても不確定で客観的でないとして捨て去られる。さきに私が要素分析主義・客観データ主義と称したのは、こういう傾向を指したのだ。この傾向は一部の人だけではなく、多かれ少なかれ、ほとんどの人に見られるのではなかろうか。みながみな、「裸の王様」を目の前にしていても、データがないと、「裸の王様」と言わなくなってしまっている。逆に、データがあると、見えないものまで見えた気になる。そこに、全ての真実は、目の前にしているものにではなく、データの上にあるかの迷信が誕生する。それは更に、人をしてデータ集めに狂奔させる。悪循環である。と同時に、ますます、生き生きとした現実はデータのかげにかくれてしまう。データの群こそ現実かのようにさえ思われだす。たとえば、学カテストの偏差値がその人の能力の全てを表わしているかの、とてつもない誤解が正々堂々とまかり通り、文句も言えず、言わなくなる。生き生きとした人それぞれは、たった一片のデータのかげで、窒息しかかる。

 いったい、たった一片の、言いかえればたった三行の断片の文章で、しかもその字面だけによって、小説を読んだとする人がどこにいるだろうか。私たちは、小説を一通り読むことに拠って、その三行の意味を逆に知るのではなかったか。私たちに必要なのは、なにごとによらず、ストーリーを知ることであって、三行だけを知ることではない。ただ、私たちが現実に出会う場面は、できあがったある一つの小説の場面ではない。私たちそれぞれが、言わばそれぞれの小説をもっていて、ある同一と思われる場面も、それぞれの小説ではそれぞれ独自の場面に位置づけられるのだ。従って、私たちの出会う場面はいかにしたところでたった三行なのだが、それを理解しようとしてその三行だけをもって処することはもちろん、私の小説を押しつけることも、本来、できないのであり、どうしてもそこで、他の人の小説・ストーリーの存在を認め、またそのストーリーそのものをも推し測り、思い量るという作業が必要になる。そして、この作業はあくまでも私たち個々の主観に委ねられているのであり、他からは与えられるものではなく、また、それこそが真の意味でのコミュニケーションの根になければならないのではなかろうか。

 そして、この互いの主観を通しての作業の果てに、これまた真の意味での「客観的なるもの」の姿が見えてくるはずなのである。

 

あとがき

〇私がいま週に一度通っている工事現場を、たまたま訪れた人がいた。彼は、とても信じられないという口調で、現場監督がなってないときめつけた。場内の整理がなってないというのである。私はまた、それを聞いて、とても信じられないと思った。なぜなら、私自身は整理がなってないとは思っていなかったからである。たしかにその日、現場は見た目には乱雑に見えたはずである。というのも、その前日のかなり夜おそくまで、現場はコンクリートの打設で戦場のような忙しさであり、そのあとかたづけが未だに終っていなかったからである。つまり、私には整理まえの(あとかたづけまえの)乱雑として、彼には整理をさばった乱雑として、見えたということなのだ。

 もし彼が、その翌日この現場を訪れたなら、彼はきっと、まったく逆の感想を述べたにちがいあるまい。こう考えてみると、彼がもらした感想が、仮に事実にあっていたからといって、それをそのまま受けとってしまうのもまことに危険なはなしだということになる。なぜなら、それはたまたま事実にあっていたという可能性の方が強いからである。私は、なぜいま乱雑であるかを説明するのに(つまりストーリーを説明するのに)苦労した。ものごとが「分る」ということは難しいことだと思った。

〇私のところの大学院修士課程の講義には、社会のそれぞれの場面で活躍されている方に語ってもらう番組が組んである。いわゆる非常勤講師というかたちでお願いするのである。非常動講師をお願いするにあたって、当人の資格審査というのが行われる。履歴書と業績目録なるものの提出が求められる。昨年、ある町の行政マンを講師として申請したところ、だめだと判断されてしまった。業績がないからだという。私が彼を申請したのは、彼に、その町の各種の計画を実行に移した業績があるからだったのであるが、だめなのだという。なぜなら、彼が、その業績を論文等のかたちで世に発表していないからなのだという。私はいささかどころか大いにあきれかえり、数ヶ月にわたってかみついた。行政なるものの実績は、一々ペーパーで発表するものではなくそれはその町のなかに蓄積されるものである。こういうと、その蓄積が、いかに秀れたものであるかというなんらかの客観的データか、だれか有名な人のおすみつきがあるか、という。私が彼に語ってもらいたかったことは、その蓄積そのものではなく、そこへ到らしめた活動の課程についてであったのだが、あいにくそれはある定型をもったものでなく、つまり目には見えない類のものだ。数値化されたデータになるわけがない。まして有名な人たちなど、彼がなにをしてきたかなど、知るよしもなければその気もないのだから、おすみつきなどというものもあるわけがない。それよりもなによりも、行政マンというのは、名前をふりかざして表にしゃしゃりでるものではない。こういくら説明しても、まったく分ってもらえず、いまも闘争継続中。その人の履歴とは、本来の意味では、その人のストーリーに他ならず、つまり何をどうしてきたかを示すものなのだと、私は思うのだけれども、どうやら一般には、そこに書きこまれる字句そのものにのみ意味があるらしい。論文があるかどうか、その数がどのくらいあるかだけが問われ、それになんの意味があるかは問われないらしい。勲章の量がものを言うのは、なにも軍隊だけではないようである。

〇ふとしたきっかけで(ことによると思いつきにすぎなかったのかもしれないが)このような毎月通信をはじめてしまって、あっという間に二年間がすぎてしまった。なぜこのような言わばばかげたことをはじめてしまったのかと思う一方、もっと昔からやっておけばよかったとも思う、複雑な気持ちでいる。前者の気持ちは、自分のなかにおさめておいたってよいものを、なぜ他人までまきぞえにしなければならないのか(つまりなぜ他人に読んでもらおうなどと大それた気になるのか)ということに根ざした気持ちである。やはり自己顕示欲の一変形なのではなかろうか、などといろいろ考えてときおり自己嫌悪にもおちいりかねないから、あるところから先は深く考えないことにしている。もっと昔からやっておけばよかったという後者の気持ちは、人に読んでもらうかどうかとは別のところから来る思いで、要は、毎月いろいろ書いてみて、随分と学習もせずに長い時間すごしてきたものだということにあらためて気づいた言わば後悔の念に根ざすものだ。

〇いろいろと書いてみて、「これはこうなんだ」とかねて思っていたことも、いざそれを文章にしてみようと思うと(つまり、文章で説明しようとすると)そのかねて思っていたことが、実はあちこち穴だらけであったということに気づき、そんなに簡単には文章にならないということを、いやというほど味わった。「これはこうなんだ」と思いこんだあと、それをつめるという作業をもう長い間やってこなかった、ということにあらためて気づき、もっと昔から文章にしてみる、その思いを書いてみる、ことをしておくべきであったと思うのである。私の文章のなかに、「ふと考えると」「考えてみると」「そうなのだ、これはこういうことなのだ」的な書きかたが多発するけれども、これはほんとうに文章を書いているうちに「ふと考え」「そうだ、これはこういうことなのだ」と思い到ったそのままを書いているのである。ほんとうはこういう所は舞台裏にしまっておくべきなのかもしれないけれども、なにせぶっつけで書いているからこうなるのである。そしてそれは、もっと昔からやっておくべきだった。

〇もっとも、私のなかでは一方で、舞台裏をかくしてまとまったことだけを書くよりも、具体的な事象・現象を目の前に置いて、そこから思いを右往左往しながら展開するのも、かえってわるくない、とも思っている。場面を共有することを通じて、ことが観念的に走るのがふせげるのではないかと思うからである。

〇私がここに書き記していることは、具体的な事象・現象を目の前にしての、言わばメモのようなものである。こういうメモは大分昔、学生のころ、一度は書きつけたこともあった。それをやめて、随分と久しかった。その当時のそれといまやっていることの根本的なちがいはなにかというと、当時のそれはまったく個人的なおぼえ書であって全てそれは自分のなかで処理すればよかったのであるが、いまやっていることは人に読まれてしまうという条件が一つ決定的に加わるから、単なる思いつきのメモでは済まず、極力つめてみなければならないという状況に、私自身がおかれているという点にある。人が読むのだから呼んで意の通る文章にしたてなければならない。そうすればするほど、埋めなければならない穴がいっぱい見えてきて、尽きるところがない。そういう意味では、この二年間、ほんとうによく学習させてもらったと思う。もっともそれは、人に読んでもらうということに拠っているわけだから、はなはだ虫のいいはなしなのだが。

〇そして、虫のいいはなしだと思いつつも、ことしもまた続けてみようと思う。これも虫のいい話だけれども、ご意見、ご異見があったら、是非問い詰めていただきたい。

〇それぞれのご活躍を祈る。

         1983・3・29              下山 眞司