「私に聴こえるもの、見えるもの」1983年度「筑波通信№12」

2020-03-10 10:23:10 | 1983年度「筑波通信」

PDF「私に聴こえるもの、見えるもの」A4版6枚

   「私に聴こえるもの、見えるもの」   1984年3月

 仕事をしながら聴くともなくFM放送をかけていたところ、いわゆるシンガーソングライターと言われているある人が、次の音づくりのためにスタジオにこもっています、と話しているのが耳に入った。要するにレコードづくりなのだろうが、しかしそれは、彼らが演奏をして、それを単純に録音するという話ではなさそうで、もちろん単に作曲をしているということでもないようだった。察するにそれは、種々な音を、最新の録音技術:エレクトロニクスを駆使して、変形、変調、あるいは増幅縮小し、かつそれらを合成し、彼の言う音をつくりだすことであるらしい。そして、その合成の結果、彼がよしとしたその音がレコードなりテープに(最終的に)収録され売りに出される、ということのようであった。たしかにこれは、通常の概念での演奏ではなく、まさしく音づくり以外の何ものでもない。もしもスタジオの音づくりの場面ではなく、いわゆる普通の意味での演奏のときはいったいどうするのだろうか、と一瞬疑問がわいた。そういうことは一切しないのか、それともカラオケでもながすのか、あるいはスタジオでやったと同じ操作をコンピュータに覚えこませて、その場で合成させるのか。

 聞くところによれば、最近のレコードやテープは、概して、いわゆるライブ版と言われるもの以外(これだって怪しいものだが)こういったいわゆる音づくりのやりかたでつくられるのだそうである。変形、変調などはともかく、一小節だけのつけはずしなどお茶のこなのだそうである。だめな部分だけ、つけ代えることができるという。こうなってくると、演奏会で聴く音楽と、レコードで聴くそれは、まったくちがうジャンルなのだと言ってもよいだろう。

 

 それにしても、ここ二十年ほどの問の音響技術の進み具合は大変なものだ。 Hi-Fi (High Fidelity:高忠実度、高再現性)などという耳新しかったことばも、今ではすっかり日常語の仲間入りをしてしまっている。いかにして原音に忠実に録音し、そして再生するか、録音再生の音域をいかに拡げるか、ゆがみひずみをいかに少なくするか、などといった点はとっくに克服されてしまったらしく、今では再生の段階で自分の好みの音をつくるのだそうである。その意味では原音に忠実というのではもはやない。よく、いわゆる暴走族とくくられる若者たちがシャリシャリしたような音をさせて音楽をかけているのに出あうことがあるが、それがこれである。カラオケが、エコーをかけて、だれが歌ってもうまく聴こえるようにしているのもこれである。ことばのとおりにHi-Fiだったら、カラオケはとても聴いていられないだろう。

 最近では、音を一たんいわば多くの点に分解して信号化し、再生時には再びそれを合成するというデジタル方式なる録音法が開発されたそうである。まじりあった音も、このやりかただと分離されて記録されるから、それぞれの音が鮮明に澄んで録音されるらしい。これだと、点を多くすればするほど鮮明になる理屈である。

 私には、その理屈は、一応理屈としては納得はするものの、いまひとつ合点のゆかない所がある。私は、今はやりのワープロの印字を対比して考えているのである。ワープロの印字も、いうならばデジタル方式で、いくつかの点で構成されている。今のほとんどのワープロの印字では、その点の数が少ないから、なんともみっともないごつごつした字になっている。この点の数を多くすれば、あるところから先は、一見したかぎりでは人の目をごまかすことができる。これは理屈である。実際、朝日新聞の文字は、これもワープロ同様にいくつかの点で構成されているのだが、虫めがねででものぞいて見ないかぎり、それに気づかない。分解する点の数が多いからである。私がこの通信で使っているのは、昔ながらの活字によるタイプライターである。この活字をいくつかの点に分解しなおして印字したとき、たしかにその点の数を増加させてゆけば、あるところから先は、その点に気づかなくなるように思える。しかしそれは、元の字に忠実だと言えるだろうか、これが私の合点のゆかない点、疑問なのである。ある一つの面積を算出するのに、それを点の集積であるとの考えかたは、その昔微積分の初歩で習ったことだが、しかしそのとき、求めるべき実体は、その点が無限である、として求められたのであって、有限の段階でやめたわけではなかった。だが、ワープロの印字は、多分これからさき、もう少し点の数は増えるにしても、一見したところ点の集まりには見えない、というあたりでその分解をやめてしまうだろう。

 近ごろの印刷では、昔の活字・活版に代って写植:写真植字が大勢を占めようとしている。いわゆる写植オフセットというやりかたである。伸縮自在だから、たとえば辞典類の大判、小判を一つの原版から容易につくることができる。ところがこれも、元はと言えば写真、つまり粒子の集まり、このごろは解像力のよいレンズ、印画紙ができてきたとはいえ、一見したかぎり点に見えないだけで、点の集まりであることには変りないから、縮少したりするとボテッとしてくる。実際に活版本と写植本とをならべて比較すると、たちまちにしてその差が分るはずである。これはグラビアによる写真と新聞紙上の写真のできあがりのちがいと同様で、新聞写真は多数の点に分解されているのだが、いくらその点の数を密にしてみても、グラビア(グラビア印刷:チェコのカール・クリッチが発明した印刷法。写真印刷に適している。)にはかなわないのと同じなのだ。

 

 だが、ここで見てきたような印刷・印字の場面でのデジタル分解ならまだ救われるというものだ。なぜなら、点に分解する前の字なり写真の元になる生の姿が実体として(目に見えるかたちで)存在するからである。ところがこれが音となると、たしかにある実体はありそうに思えるけれども、いわば目に見えるかたちでそれを確定することができない。音を周波数のちがいであるとして定義したところで、それは単に音というものが空気の振動であり、その振動のちがいが音のちがいをつくりだしているという説明にすぎないのであって、それは決して私が聴いている音のリアリティではないのである。

 そういう意味では、デジタル録音の音が澄んで明解である、というのは、はたして原音に忠実ということになるのだろうか、という疑問を私は抱くのである。それが澄んだ録音になるというのは考えてみればあたりまえであるわけなのだが、原音ははたして澄んでいたのだろうか。この問題は、原音とは何を指しているか、ということに帰結するだろうと思われる。すなわち、楽器が発している音をいうのか、それとも、私たちが聴いている音をいうのか、このどちらを原音と考えるかである。

 いろいろと考えてみると、いわゆるエレクトロニクスを駆使してのここ二十年ほどの音響技術・Hi-Fi化の進歩は、まず全てが、この音源側の音についてのHi-Fi 化であって、聴く側のそれではなかった、ということに気がつく。音源側のHi-Fi化が聴く側のHi-Fi化に等しい、という何らの保証も、またその検証もないままに、技術は進んできてしまったのではなかろうか。不幸なことに、私たちが聴いている音の実体を目に見えるかたちで表わすことができないことをいいことに、私たちは高忠実度録音の名のもとに、実はまったく別種の、造成された音を聴く破目になっていたのかもしれないのである。

 

 私がこのように思うには、それなりのわけがある。

 私の知人に昔ながらの蓄音機を持っている者がいて、それでSP版のレコードを聴いたことがある。それはまったくの古典的蓄音機で、回転はゼンマイ仕掛け、音の増幅は例の朝顔形のラッパ、電気とは無縁の、エジソンそのままのやつである。それでたしかバイオリンの曲を聴かせてもらったような記憶があるのだが、正直言ってそれはかなりのショックであった。もちろん最近のLPなどとちがってザーザー雑音が入るのだがそのなかから聴こえてくるバイオリンの音色は、まさにほんもののバイオリンのそれなのである。簡単に言えば、リアリティそのものなのだ。バイオリンという楽器の音を聴いているのではなく、バイオリニストが弾くバイオリン曲を彼のそばで聴いている趣があるのである。つまり、音楽が聴けるのである。その意味で、私には、これほどの高忠実度録音はない、と思えたのだ。これは当然だと言えば当然で、機械が吸いこみ刻みつけたものは、機械の吸いこみ口で機械がとらえた音であって、音源の音でも、また分解・分析した結果の音でもない、いうならば生の音に近いものだからである。まじりあった音。にごった音(そのように聴こえる音)も、ただそのままに機械に吸いこまれ刻みつけられ、それが今、ほぼ復原されて私に聴こえているのである。

 

 そうしてみると、エジソンのあと、録音再生の面でさまざまに行われてきた技術革新は、はたしてエジソンが夢見て、そして望んでいたことと、まったく同じことを目ざしていたのかどうか、疑問に思えてくる。

 さきに、楽器の発している音を原音とするか、それとも私たちに聴こえている音を原音とするか、それが問題である、と書いたけれども、ことによると、こう区別することに疑問を持たれる方があるかもしれない。つまり、楽器の発する音を聴いているのであって、発するものと聴こえているものとは同一ではないか、と。だから、楽器の発する音を精密にとらえればよいではないか、と。ところがこれは明らかにちがうのだ。

 補聴器というものがある。聴力を補うために、音を増幅してくれる機器である。これを使ってみると、驚くべき事態に当面する。ありとあらゆる音の全てが増幅され、その全てが均等に聴こえてくるのである。音量を少なくしていっても、この均等に聴こえるということは変らない。これは、私たちが通常耳にしている事態とはまったくちがった異常な世界なのだ。このことは補聴器を使ってみなくても分る。最近では、よく音楽会のライブの録音や生が放送されることがあるが、それを聴いていると、会場内のざわめきやせきばらいの声の多さ、大きさに驚かされる。会場内では絶対にあのようには聴いていない(聴こえていない)はずなのだ。これも、均等に音を伝えてくるからである。かつての蓄音機が、生の音に近いものを伝える、と書いたのも、それは、現代の録音よりもより生ではあるが、そこでもまた補聴器同様に、音を均等に拾っていて聴こえないものまで聴こえてしまうはずだからである。

 つまり、実際の場面では、私たちは、全ての音を均等には聴いていないのである。といって、私たちが聴いていない(聴こえていない)音が存在しないのか、というとそれはちゃんと存在していて、補聴器でもかければ、いやでもその存在に気づかされる。

 つまり、現代のエレクトロニクスを駆使した音響技術が、原音の録音再生の高忠実度、精密化を競った結果、私たちが聴いているもの、あるいは私たちに聴こえているもの、に対してはまったく忠実ではなくなってしまったのである。これは、本来(たとえばエジソンの時代には)音楽とは、まずもって私たちあっての音楽であったのに、少なくともこの技術の場面では、私たちぬきの、音になってしまった、と言うことに他なるまい。そうであるとき、音楽家と称する人たちが、今私は音づくりをしています、と言うというのも、無理からぬ話なのかもしれまい。

 だが、音楽とは、そもそも、単なる音響でしかなかったのだろうか。

 私がここで言いたかったことは、音なり音楽なり、あるいはそれに係わりをもつ技術というものに対して、音というものを私たちと乖離した存在として見なす見かたで理解され、追求されているということ、そして、それの結果として(その追求が精度をあげればあげるほど)、私たちが私たちの耳で聴く、音楽を楽しむ、という局面でのリアリティに対する精度は、逆に悪くなってきているのではないか、ということについてであった。簡単に言ってしまえば、音としての精度を上げれば上げるほど、私たちが聴いているもの、私たちに聴こえているものの実像から、どんどん離れていってしまっている、ということなのである。

 しかも、このような状況は、なにも音についてだけなのではなく、私たちをとりかこむおよそ全てのものに対しても、同様な考えかた、追求のされかたが横行し、人問と人間以外のものがみな全て、乖離した存在として扱われる傾向にある。コンピュータの隆盛は、コンピュータの宿命であるデジタル方式の思考に拍車をかけ、人とものは分離され、そして人もものもまた点に分解され、そこで描かれる点描が、あたかもそれが実像であるかのごとくに扱われる。私たちが聴いているもの見ているもの、そのリアリティは、知らぬまにみなその点描にすりかえられてしまうのだ。それでいて、それらのデジタル的分解が実像と等値であるとの保証は、未だかつてだれもしていないのである。

 かくして、いまや、いったい何が私たちにとっての実像、つまりリアリティであったのかさえ判別しかねるほど、虚像が充ちあふれ、その虚像にもてあそばれるような世のなかになってしまっているように、私には思えてならない。

   ・・・・・今の世では、かつてなかったほどに

   物たちが測落する――体験の内容となり得る物たちがほろびる。

   それは、

   それらの物を押しのけてとって代るものが、魂の象徴を伴わぬような用具に過ぎぬからだ。

   拙劣な外殻だけを作る振舞だからだ。そういう外殻は

   内部から行為がそれを割って成長し別のかたちを定めるなら、

   おのずからたちまち飛散するだろう。

   鎚と鎚(つち。かなづち。)とのあいだに

   われわれ人間の心が生きつづける、あたかも

   歯と歯とのあいだに

   依然 頌める(ほめる:ほめたたえてのべる)ことを使命とする舌が在るように。

   ・・・・・

もう60年も前に、詩人は既に、このような状況の予兆を敏感に感じとっていたようである。

 

あとがき

〇なんとか休むことなく持ちこたえ、一年が過ぎてゆく。少しばかりこの一年は早かった。 というのも、昨年はこの通信を書くことが私のペースメーカー、つまり行事になっていたが、今年はなんとなくいろいろなことが時間を占有し、やむを得ずそのすきまをねらって通信の時間を確保する破目になったからである。

〇今号の内容は、いわゆる研究(もちろん建築についての研究のことである)が、ますます人問と乖離したものになってゆくことに憤慨を覚えたことによっている。 建物なり空間なり、あるいはそういったものをつくりだす技術なりが、すべてそれだけが人問の存在から切り離された形で論じられることが、いわゆる研究の正統であるかの風潮があいも変らず根強いのである。 私たちが生きている日常のなかでは、ものは決して均質・等質にとらえられているわけでなく、そしてまた、そのもののつかまえかた(括りかた)自体、決して一様であるわけがないのにも拘らずそこのところはまったく無視され、一様・等質・均質なものの世界に直接的に私たちがつきあっているかのように見なされる。 それは決して私たちの実像ではないはずなのだが、科学的であるとの名目のもとで、そういった研究の成果という虚像の群に、無意味にもつきあわされるのである。 そして、私たちにとって、私たちをとりかこむものはどのようにして在るのか、などについて問うことは(それこそ最も大事なことであるにも拘らず)残念ながらアレルギー反応を生じせしめる。そのようなことは思弁的におちいり、科学的でなく、成果が得られない、あるいは序論にすぎない、と言うのである。 しかし、今の世のなか、むしろ序論(文中で書いた、分解してもなお元のものに等位であるとの保証)なしの話が多すぎる。 そして、明らかに私の学生時代よりも、事態は一層悪くなっているようだ。もっとも、そうだからこそ、この通信のタネがなくならないのであるが・・・・・。

〇信濃毎日新聞社というところは大変なところだと思う。先に紹介した「土は訴える」の出版元であるが、そこから最近「森をつくる」という本が出た。この内容は例のごとく大変に濃く、大新聞「朝日」がやっている緑のキャンペーンなど、どこかに吹き飛んでしまうだろう。一地方新聞社の(多分)ほんの数人の記者たちが、日本の林業の問題を、とことん調べつくして分りやすく説いた本である。 ことは、森林浴が健康によい、などという単純な話ではないのである。 この本をつくった人たちのものの考えかたは、決してデジタル方式ではない。どろどろしたものを、決してきれいなものに組みかえたりせず、どろどろしたものとしてとらえるのである。

〇四月から、更に続けて書かせていただこうと思う。 ご批判、ご叱正を願う。

〇それぞれなりのご活躍を祈る。

      1984・3・3               下山眞司


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「道 の 理」 1983年度「筑波通信№11」 

2020-02-25 10:51:25 | 1983年度「筑波通信」

PDF「道の理」1983年度「筑波通信№11」 A4版7頁

「道 の 理」    1984年2月

 いささかあわただしかったのだが、昨年の暮も押しつまったころ、用あって(というより、用をまとめてこなすべく)甲州・牧丘、信州・駒ヶ根、そして上州・松井田と駆け足で巡ってきた。甲州・牧丘は甲府盆地の東北端、武田信玄の根拠地であった塩山(えんざん)から更に数kmほど笛吹川をさかのぼった所にある町、信州・駒ヶ根は信州と言っても言わゆる南信、諏訪湖に発する天竜川が大地を切りこんでつくった伊那谷にある町、東に赤石山脈(南アルプス)西に木曽山脈(中央アルプス)がそびえ連なっている。駒ヶ根の名は木曽駒ケ岳の根もとにあることからつけられた、もちろん町村合併にともなう新しい名である。さきほどの牧丘も同じく新しい名である。上州・松井田は、これは古くからそう呼ばれていて、関東平野のどんづまり、山一つ越えれば信州という碓氷峠の下にある町である。

 牧丘と駒ヶ根は共に中央自動車道沿いにあるから、車を使うと一時間半かかるかどうかの近さである。鉄道(中央線、飯田線)を乗り継いでも二時間半程度で行けるもっとも乗り継ぎの便がよければの話である)。しかし、駒ヶ根から松井田へとなると、いささかやっかいである。その問には八ケ岳山塊や秩父山塊が横たわっているから、山を越えるか、山をまわるかしなければならない。だから、駒ヶ根あたりから見ると、松井田|など、はるか山の彼方の町、遠い何の関係もない町のように思えてしまう。しかし、駒ヶ根と松井田が、互いにまったく関係のない町であったかというと、そうではない。古代の主要幹線道である東山道(とうさんどう、あづまやまのみち)は、この二つの町を通っていたのである。それぞれの町の近くに、東山道の宿駅が設けられていた。因みに、現在の中央自動車道のルートは、信州以南では、ほほ東山道のルートに沿っている。中央道は恵那山トンネルで美濃へ抜けるが、東山道もそのあたりで峠越え(神坂峠)をして美濃へ通じていた。

コピーにたえる地図がないので鉄道と主たる道だけ書きだしました。詳しくは、お手元の地図帳(中部地方)をご覧ください。

 

 駒ヶ根あたりから上州へ抜けようとすると、今ではいくつもの立派な道ができている。けれども、それらは決して新しい道なのではなく、そのほとんどが古来存在していた道すじに手を加えたものなのだ。あの東山道のルートも、多少の変更はあるものの、現在も生きている。東山道がどのようなルートをたどったかについては、細部においては諸説あるらしいが大略次のようなものであったらしい。天竜川沿いにその右岸:西岸を上ってきた道は、辰野(たつの)のあたりで天竜すじから分れ、塩尻(しおじり)へ向い山越えをする。そのときの峠が1982年4月の「通信」に記した善知鳥(うとう)峠で、この道すじに沿って中央線が走っている。(中央線は諏訪から天竜に沿って南下し、またこの道すじに沿って北上するというえらく遠まわりのルートをとっているのである。)このあと東山道は今の松本へ向い北上して、松本をすぎたあたりで東に転じてまた山越え(今の保福寺峠越え)をして現在の上田あたりへ出る。あとはほぼ現在の信越線・国道18号ルートと同じルートを通り、上州へと向う。

 地図でも分るとおり、この道すじは大変に遠まわりのルートである。その時代に別のルートがなかったわけではない。同じ山越えをするのでも他にいくつものルートがあったことが知られている。江戸期の幹線道であった中山道は、このような遠まわりではなく山を越えている。そのルート、上州から佐久を通り一直線に諏訪へ抜けるルートも、しかしそのとき新たに開発されたわけではなく、これも既に古来存在した道すじであったらしい。つまり、南信から中信・上州へと通じる道すじ(いずれも山越えをともなう)には古来いく通りものやりかたがあって、言わゆる官道(古代の東山道、江戸の中山道など)は、それら既存の道すじのなかから一つを選んで整備したにすぎないということだ。とかく官道などとそれだけを数えあげたりすると、その他には道などなかったかのような錯覚についおちいりがちなのだが、それはあやまりで、道はたくさんあったのだ。そして今、多分それらを踏襲したと思われる立派な山越えの道が、いくつも通じているのである。

 

 だから、駒ヶ根から松井田にまわろうとする私の前には、今、いく通りもの道がある。どの道をとったらよいか、となるといささか思案せざるを得ない。このいく通りもの道のなかで、そのうちのいくつかは既に通ったことがあるから、物好きの私としては、できれば通ったことのない道を走ってみたい。例の古代東山道ルート:保福寺峠越えもやってみたいのだが、今年はいつになく寒い。多分道はいたる所で凍結しているにちがいない。私のタイヤはスパイクではない。チェーンは持ってはいるものの、つけっぱなしで走るのはいやだし、かといってつけたりはずしたりするのもわずらわしい。結局のところ、峠越え山道はあきらめ、少しばかり遠まわりなのだが、それらの山をぐるりとまいて、松本から長野まわりで上田へ出ることにした。松本から長野までは国道19号、長野からは18号、という月並みな道である。

 このルートも、特に松本・長野間の犀川(さいがわ)沿いの道すじは通ったことがないから、多少の遠まわりも苦にすることもない。地図を見ると判るのだが、松本から長野へはもう一本ルートがある。国鉄・篠ノ井線に沿い篠ノ井経出で長野に向う道である(と言うより、その道に沿って鉄道が敷かれたのである。)これは、先のルートが川沿いなのに対して、全くの山越えルートで、だから、鉄道もトンネルだらけである。姥捨(うばすて)伝説の冠谷(かむりき)山はその近くである。この道の交通量は、今は少ないようである。

 

 犀川(さいがわ)は松本から善光寺平・長野へとそそぐのだから、地図の上などで単純に考えると、なにも山越え道など通らずに犀川沿いに下った方が、ずっと楽のように思えるのだが、実際に走ってみて、そうではないことがよく分った。松本から長野までおよそ20km、その間の標高差は200m、これを犀川は一気に駆け下りる。それゆえ大地はV字型に深く切りこまれ、少し大仰に言うと、両岸には切りたった壁が連なっている。道は当然下り坂で、その谷間の底を曲りくねりながら走り、今でこそ道幅も広く楽に通れるけれども、その昔には通り抜けるには相当に苦労する難所であったにちがいない。山越えの道はたしかに疲れはするだろうが、その点ではむしろ安全で楽であっただろう。

 考えてみると、古代の東山道が、江戸期の中山道のルート:木曽川すじを通らずに天竜川に沿った理由の一つも、木曽川すじの地形的険しさが手に負えなかったからではないだろうか。木曽川すじとはちがって、天竜沿いには長大な河成段丘が発達しており、その段丘を横切るいくつかの河川(天竜の支流である)の川越さえ克服さえすれば、あとはその段丘上をたどる平坦で楽な道を得ることができる。実際この河成段丘はみごとなもので、山脈に沿い、その山脈の足元から天竜川までの数kmの幅の大地が、およそ30分の1の傾きで横たわっている。そこに立つと、少し大仰に言うと、平衡感覚がゆらいでくる。しかし、この段丘上は、牧地や畑地としては絶好の地で、人々もかなり古くから住みついていたらしく、今でもあちこちに数多くの遺跡が眠っているようである。古代において、このあたり一帯はかなり栄えていたのである。そして、東山道がここを通ったもう一つの、そしてより大きな理由は、ここが栄えていたからだ。東山道という官道の目的は、時の中央政府のそれによる地方管理にあり、管理するに耐えない(つまり、栄えていない)土地を通ることはおよそ無意味だからである。木曽路の険しさは、単に通行にとってだけではなく、人々の生活にとっても険しかったのである。東山道が天竜に沿って諏訪に出るルートをとらず、途中から分れ、諏訪を横目に松本へ向ったのも、そうすることによって、諏訪だけではなく松本平から先、善光寺平、安曇野、そして更に越の国をも掌握できるとの算段があったからだと見ることができるのではないだろうか。

 江戸期の中山道は、同じ官道でも、東山道のやりかたとは全く異なっている。人が住み、栄えている土地土地をつないでゆく代りに、むしろ最短ルートをとった気配がうかがわれる。上州・佐久・諏訪、という山越えルート上はもとより、その通った木曽路も全く山のなかで、沿道に栄えた所があったわけではない。むしろ、それとは逆で、官道が通ったために宿場町として栄える村々が生まれてくる。それゆえに、宿場の町としてのみ初めて栄えるという状態になることのできた村々は、ひとたび官道が官道でなくなってしまうと、具体的に言えば、新たな官道:鉄道でも敷かれたりすると、それはずっと以前の宿場町ではなかった時代の、ただひたすらその土地:大地にのみ依存せざるを得ない状態に戻ってしまうのである。これに対し、かつて、はるか昔に東山道の通っていた村々の土地は、東山道が東山道でなくなっでも、相変らず、一定程度栄える可能性のある土地であることには変りはなく、中山道沿いの宿場だけに拠って栄えた町々のように、急転して落ちこむようなことはなかったのである。

 ひところ流行ったような(最近もないわけではないが)鉄道や新しい交通路の開設によってさびれてしまい、ただ昔の面影だけを残している元宿場町を昔のようににぎやかにしよう、などと考えて観光地化に走る試みは、私に言わせれば、その町にとってほんとによいことだとは思えないのである。その町の拠ってたつ基盤が変ってしまったとき、それにも拘らずその過去の幻影に拠ってのみ暮しをたてることには自ずと限界があり、時計の針を停めて暮すようなものだからである。

 ただひたすらその土地に拠って暮さねばならないとしたとき、過去の幻影、過去の栄華のみを夢見るのではない新しい暮し、新しいたたずまいが生まれるはずであり、それがたとえかつての宿場町としてのそれに比べ、一見したところ、見劣りするものであったところで、それは決して悪しきことなのではなく、むしろそれこそがその土地の正当な姿と言うべきではないか、と私には思えるのである。

 

 犀川沿いの道すじには、このような外的な要因による栄枯盛衰とはおよそ縁のなさそうな村々、家々があった。もちろんそれは、あくまでも見かけの上の話で、内実は多様な変化をしているのだろうが、それらは道が拡がろうが、国道に指定されようが、そういったこととは全く係わりのない風情で昔ながらに在るのである。

 先にも書いたように、この川すじの道の両側は切り立ち、道はその最低部を川すれすれに曲りくねって下ってゆくのだが、そこから見上げる両側の山の斜面のはるか高い所に、まさに文字どおり、家々が張りついている。それらは、目線を意識的に上げて初めて視界に入ってくる、と言ってもよいほど川面からはかなり高い所にへばりついているのである。いったいあそこへたどりつく道はどこにあるのだ、という思いが極く自然にわき起ってくると同時に、今走っているこの道と彼らの家々とは、ことによると関係ないのではないか、とさえ思えてくる。一度これは調べてみる価値がありそうである。

 そのうちの、比較的国道に近い集落と、それへつながると思われる道を見つけて寄り道をしてみた。これと同じような感じの集落は、笛吹川の上流でも見かけたことがある。道のとりつきもそっくりである。道はかなりの急坂で、車一台がやっとの幅しかない。集落に行きつくと、道はそこでほぼ終る。ほぼと言ったのは、道はまだどこかへ続いていそうなのだが、あまりも細すぎ、私の車ではあきらめざるを得ないからである。あたりの急な斜面は細々と耕され、ほんとに猫の額ほどの田んぼもある。そのわきのちょっとしたひそみに、茅ぶきの家がひっそりと、しかしある温もりを感じさせて建っていた。それはまわりの地物とすっかり同化してしまっているように見え、建っていると言うより植っている、あるいは生えていると言った方がよさそうである。それはなにも家だけではない。耕された田も畑も、そしてところどころに積まれた石の土留めさえもが人為のにおいを感じさせず、言わば人為のほどこされないずっと以前からそうであったかの風情でそこに在る。それは決して単に古びているからなのではない、と私は思う。

 

 よく時代がつくというような表現がなされるけれども、どんなものでも古くなれば昧がでてくるというわけではない。言わゆる現代建築のなかで、時代がついて昧がでたという例は皆無に近いだろう。それらは古くなると、廃墟というより廃棄物になってしまう。廃墟にはそこにまだ人間の存在を思わす何ものかを見ることができるのだが、廃棄物にはなにもない。今私の目の前にあるいささか傾きかけ、山はだにへばりついている農家には、古いからと言って、廃棄物のおもむきなど何一つない。私がその家に感じた温もりは、決して、単にそこが陽だまりであったとか、あるいはそこで使われている材料が身近かななじみやすいものであるからだとか、そんなことから生じたものではないだろう。たしかにそれが一つの要因であることについては私も否定はしないけれども、しかし、同じような所に同じような材料を用いて建てたからといって、直ちにそれがある温もりを感じさせるものとなる、とは言えないのもまたたしかなことだからである。

 そうだとすると、この温もりは何なのだろうか。

 おそらくそれは、先に書いたあの人為のにおいを感じさせない人為、その人為が持つ本来的な温もりのせいなのではなかろうか。別な言いかたをすれば、そこでなされていることが全て、現代普通に使われる意味ではなく本質的な意味での合理精神に拠ってなされているからなのだ、と言ってもよいだろう。それはすなわち、そこで生きる人間にとってあたりまえと思えるように、あたりまえのことがあたりまえになされる、ということだ。そこに生きる人間をとりまくあらゆるものの存在とそのありようを素直に認め、そのありようを拒否も否定もせず、かと言ってそれにいたずらに押しひしがれるわけでもなく、それらをそれらのありようの理に従って自らの生活のために使いこなしてゆく精神、それが彼らの精神なのだ(もっとも、彼らがそう意識していたかどうかは知らない。)彼らがやってきたことには、てらいはもとより無理がないのである。そして無理がないということこそ、そのことばの本来の意味で、合理的ということに他ならないのである。

 

 そう考えなおしてみると、私がここで見てきた信州のいくつもの道も、古来よりあるものは、まずほとんどが(そのときどきの人々の立場に立ってみると)無理のないものであったことに気づく。それは現今いろいろと問題にされているスーパー林道という名の観光道路のルートのとりかた、つくりかたの無理さと比べると、一層きわだって見えてくる。

 現代の道づくりも、そして家づくりも、それらは全て、合理の名のもとになされているのであるが、そのときの合理のなかみは、明らかに、古来の道や、あるいは今私の目の前にある傾きかけた家をつくってきた人たちの合理とは異なったものなのだ。現代的なやりかたでは、その合理の規範を、そこに生きる人間にとってあたりまえであること、人間をとりまくあらゆるもののありようからみてあたりまえであること、という根本をはなれ、全くちがう何か別のものに求めてきてしまっているのであり、しかも今なお、求めたがっているのである。合理とは、私たちの外に、私たちとの関係を断ち切った形で存在するものでも、するべきものでもなく、あくまでも、私たちにとって合理でなければならないはずではないだろうか。

 

 谷間に入っておよそ一時間半、両側の山も低くなり、谷幅も広がり、それとともに、家々もだんだん低い位置に下りてくる。そして前方の視界が開け、善光寺平とその向うの雪を被った高山が、盆地特有のもやのかかった空気のなかにかすんでいる。道は犀川の北岸を、そのまま進むとまっすぐ善光寺そのものにぶつかる形で善光寺平へと入りこむ。右手には、一段下って、今の長野市の市街が拡がっている。信越線を使ってしか長野市を訪れたことのない私にとっては、善光寺そのものの立地の意味がいまひとつ分らなかったのであるが、今回このようなルートで訪れてみて、初めてそれが分ったように思えた。それは善光寺平の、言わばへりにあたるちょっとした高みにあるのである。そして、今の市街地は、かつてはどうしようもない低地であったにちがいない。善光寺の立地そのものも、これは極めてあたりまえな(もちろんその当時の人々にとってであるが)ことだったのである。

 

あとがき

〇どうもこのところ、せわしいことが続いて、落ち着いて書けない。多忙は犯罪である、気をつけろ、との忠告をいただいた。今回もまた、日をおいて書いているので、どうも集中力に欠けてしまったようである。

〇信州はほんとに山国である。どこへ出るにも必らずどこかで峠を越えなければならない。峠を介して他国とつながっているのである。峠と道、これは興味をもちだすと尽きることなく面白い。できることなら、この信州へ通じる峠と道を、くまなく、四方八方から歩いてみたいと思う。峠の向うとこちら、そのありようのちがいはまことに興味深いのである。地図もない時代に、こういう数多くの道を見出した人たちの道理にも興味がわく。そしてそれはまた、おそらく、水理、すなわち河川に対する人々の考えかたに対しての興味にも連なるだろう。

〇こういうように各地を見て歩いていつも思うのは、どうして今、極くあたりまえの屋根の家が、地方からもなくなってきつつあるのか、ということだ。新しい家の半分は、まわりにある先人の知恵の集積に対して何の関心もはらいもせずにつくられている。だれがこうしてしまったのか。

〇今年は寒い。既に雪は二度も降った。

〇それぞれなりのご活躍を!

     1984・2・1           下山 眞司


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「我が村 ・ 桜村」 1983年度 「筑波通信 №10」

2020-02-11 10:13:02 | 1983年度「筑波通信」

 

PDF「わが村・桜村」(含「枯れ木に花は咲かない」「住宅建築」1983年掲載)A4版9頁

「わが村・桜村」        1984年1月    

 衆議院議員の選挙も終り、諸人こぞっての政治評論の季節も、また元どおりに何事もなかったように、折からの師走のあわただしさのなかに消えていってしまうにちがいない。それにしても、今年の冬は寒い。

 この選挙の一週間前に、わが村でも村長選挙があった。

 わが村桜村は、いわゆる研究学園都市の大部分が属している村である。人口も、昔からの村人たちと、開発とともに新しく流入してきた人たちとから成っている。大学生の大部分が桜村民である。そして、ここでは通常、昔からの村人を旧住民、流入組を新住民と呼んでいるが、もう少し詳しく語りたい人たちは、昔からの村人たちを原住民、流入組の内でも開発当初の何もないころからいる人たちを先住民、いろいろできあがってから入ってきた人たちを新住民と呼ぶことが多い。流入組をこのように分けるにはそれなりの理由がある。同じようによそ者でありながらも、この二者ではものの感じかたがまるっきりちがうからである。この後者の分けかたでの先住民(つまり、何もないときに流入してきた人)たちは、この村が不便であるとか文化がない、などとは決して軽々しくは言わないのだが、新住民(つまり、ある程度までできあがってから移ってきた人たち)は、概して、そういうことを平気でいう。一例で言えば、旧住民はバスの便がよくなった、と言い、新住民はバスの便が悪いという。なぜこうちがうのかと言えば、それは極めて単純な理由によってである。よいか悪いか、その評価基準がちがうからなのである。何もないところに、いわば開拓者のごとくに移り住んだ人たちにとって、一日に数えるほどしかなかったバスの便に比べたら、今はまさに雲泥の差である。こんなにも便利になったのである。そして彼らは、生活の利便を向上させるために、いろいろとやってきた。そういう所で生活するにはどうしたらよいか、身をもって考えてきた。というより、考えざるを得なかった。郷に入ったら郷に従ったのである。

 だが、まるっきりの新住民たちはちがう。彼らの基準は、たとえば東京にある。なにごとも東京なみでなければならないと思う。それでいて緑が多く、空気のきれいなのがよい、などという。言ってみれば勝手なものだ。そういったよさは、あたりが東京なみでないからこそ得られているのにも拘らず、それを(なにもしないで)両方ともいただこうというのである。そして、ここには文化がないと言う。そのときの文化とは、いわゆる東京の文化である。東京の文化というのがいったいあるのかどうかは知らないけれども、とにかく最新の東京の文化、(あるいは情報と言った方がよいのかもしれない)のことなのだ。あるいはそれは、西欧の文化のことなのかもしれない。桜村などでは、東京とちがって西欧からあまりにも遠すぎるというのだろう。それはそうだ。開発区域をちょっとはずれて、同じ村のなかの昔ながらの場所へ行けば、そこにあるのは日本の(あくまでも日本の)農村であり、田舎の香水はときおりただようことはあっても、いうところの西欧の香りなど、これっぽっちもないからである。文化とは西欧の文化を言うのだと(未だに)信じている人が多く、とりわけ学園都市に移り住んだ人たちには学者・文化人と世で呼ばれる人たちが多く、彼らのあこがれはあくまでも西欧であるらしいから、学園都市には文化がない、文化をつくりだすためには教会がなければならない、などと真面目に言いだす文化人さえいるのである。(もちろん新住民の全部がそうだというわけではない。)これは少し度はずれた例ではあるが、しかし、移住者の多くは東京をはじめとした都会での生活に慣れ、いろいろの情報のなかから(つまり選択肢のなかから)選ぶのをあたりまえとしてきているから、そして、選べるものがたくさんあることが文化だと感ちがいしているから、自ら創出しなければなにもない村の状況は、文化がないように見えるのであるにちがいない。

 開発の当初に移り住んだ人たちもまた、当然のことではあるけれどもその移住地のありさまに対して、りつ然とした思いを抱いたはずである。なぜなら、そこには研究学園「都市」の歌い文句とはうらはらに、何もそれらしきものはなかったからである。あるのは、これも場ちがいに見えたはずだが、突然そそりたつ公団住宅風のアパート(つまり彼らの住み家)と建設中の研究施設、そしてはてしなく続く山林田畑と、一雨降れば泥沼になる道・・・・だけ。夜になれば漆黒の闇。住む所があるだけ、まだよしとしなければならない。私白身、1970年ごろであったか、その一角に建てる学校の敷地の下見に来て、いささかどころか大分、その状況に驚いた覚えがある。ここに都市ができるのだろうか、という思いもなくはなかったけれども、それ以上に、関東の東京からわずかしか離れていない所にこんな場所があったのか、という驚きの方が強かったように思う。延々とうねるように続く大地。その上にところどころに散在する村落。そのときの私にとっては、まさに「こんな所に人が住んでいる」という驚きが先にたったのである。バスの便は極端に悪く、かと言って車で歩くにも道をよく知らないと迷うだけ。遠くに筑波山が見えるときだけが唯一のたより。よもや数年後にここに移り住むとは夢にも思わなかったのだが、しかしそのとき既に、あの先住民たちが居ついていたのである。学校用地の下見をそのころやっていたくらいだから、当然新設の学校などあるはずはなく、子どもたちは昔からの村の学校に通い、従って村人たちのつきあいも結構あったらしい。村人たちによる野菜などの青空市場もよく開かれていたようである(このごろはあまり聞かないが、それでも週に一度ぐらい、泥だらけのとったばかりの野菜などをもって、村のおばあさんが尋ねてくる)。

 この先住民たちは、状況が状況だから、かなり早い時点で、ここで都会なみの生活慣行を求めることが無意味であることを悟り、そこでの生活のありかたを考えだすのである。商店が近くにあるわけではなく、あっても雑貨屋さん程度だから、そこで、たとえば週に一度の買だめがあたりまえとなり、そしてそのショッピングのためには、、バスに期待をもてないから、車が必需品となり免許をまず取得することとなる。考えてみると、これはこのあたりの昔からの村人たちのやっているのと同じパターンなのだ。ただ、村人たちは、ある程度まで食糧は自給しているけれども、この先住民たちにはそれがないだけのちがいである(もっともそれは重大なちがいなのだが)。妙な話だが、こういう所に住むと、大型冷蔵庫の意義、そのあるべき姿がよく見えてきて、デザイナーはいったい何を考えてデザインしているのか、文句の一つや二つが言いたくなる。簡単に言えば、そういう状況の下で生活すると、もののありかた、ものへの対しかたはもとより、生活のすすめかたに至るまで、少しばかり大仰に言うと、根源的に考えざるを得なくなるわけなのだ。裏返して言えば、都会的生活での慣行がいったい何であったのかが問われるのである。

 しかしいまや、この先住民たちの数は相対的に少なくなってしまい、新住民が圧倒的多数になっている。彼らの多くは、郷に入って郷に従うこと(つまり状況にあわせて生活を適応させること)をせずに、ただいたずらにないものねだりをしたがるのである。

 

 その一方で、この新住民のふるまいに似た考えかたが行政当局、とりわけ国や県のレベルにあるようだ。町村合併をして「都市」にしようというのである。ここは20万都市にするのが当初の計画だったのだが、いまでも開発地域はもとより周辺まで数えても、その半分にもなっていない。 20万都市の絵にあわせて道路その他を造ってあるから、その維持だけでもけたたましい額になる。村や町だけでは完全に持ちだし、赤字である。「市」にして国から金をせしめよう、というのが合併論の論理であって、そうすれば自ずと文化的にも向上する(その意味は都会なみになる、ということだ)というのである。その人たちは、これまた恐るべき発想をする。たとえば、いま村役場には大学卒がほとんどいない。だから運営が下手だ。市にして職員を精選すれば、ずっとよくなる。こう言うのである。これを合併促進の研修会で、町村職員を集めた席上で広言したというのであるから立派も立派、何をか言わんやである。市にして雇用が増えるというけれども、その職種がいかなるものか、推して知るべしだろう。

 

 この人たちのもう一つ面白い発想は、市になることによって、地価が上り、それはすなわちストック(財産の価値)が増えることであるから歓迎すべきだ、という考えかたである。実際に、いま学園都市開発域のまんなかあたりの地価は、住宅地で、坪あたり25万以上などというのがあたりまえになりつつある。たしかに土地持ちの資産は増えたかもしれないが、なにかそこで商売でもしないかぎり、普通のサラリーマンでその土地を買える人はそうざらにいない。だから、土地持ちの人たちは、やむを得ず草ぼうぼうにして、まさに土地を遊ばせるか、学生相手の下宿屋さんを営んで生活をしているのが多い。元通り畑を作ろうにも、もう作れるような状態では(人も土地も)ないのである。たまたま最近の朝日新聞の地元版に紹介された短歌が、そのあたりの状況を端的に語っているので、ここに転載してみる。

  学園におおかた耕地はつぶされて農婦人夫となり今日も出てゆく

                          (佐藤春介)

 

 開発が言われだしてからそろそろ二十年、実際にいろいろな研究施設が動きだし人が流入しはじめて十年(今年、開設十周年を祝った施設が多い)、開発当初のあの甘い話が決して甘い話ではなかったことを、地元の人たち(原住民たち)は、さめた目でながめはじめているようである。

 あの多くの開発がそうであったように、ここでも開発は地元の人たちすなわち先住民たちの存在を忘れ、あるいは無視した、一方的なものであったのである。

 

 さて、村長選挙はこういう複雑な状況をかかえた村で行われた。有権者数は、昔からの村人(すなわち原住民)約8,000、新たに移住してきた人たち(すなわち先住民と新住民)約17,000(このなかには学生がおよそ2,000はいるだろう)である。流入人口が完全に地元を圧倒しているのである。主たる候補者は、地元人たる元助役と、都市開発を推進したい人たちが強く推す新住民の弁護士。前回のときも同様に地元の元教育長とこの弁護士の対戦であったがわずかな差で地元人の勝利。従って今回の場合は、大方の予想では確実に新住民サイドの勝利になるだろうと思われていた。数の上の単純計算では、どう見ても元助役の側が不利に思えるのである。

 ところが、結果はちがっていた。元助役7,500、弁護士5,000、それにもう一人の共産党候補2,500という結果がでたのである(投票率60%)。

 これは、思いもかけない大差である。

 新聞記者の分析によれば、地元候補7,500の内、少なくとも2,000は移住した人たちからの票ではないか、とのことであった。たしかに、そう考えると勘定が合うのである。そうしてみると、移住民候補者ならびにその支持者たちは、同じ移住民の選択によって破れたのである。ものごとそう単純にはいかない見本のような話である。

 

あ と が き

〇暮になってなにかと忙しく、なにがなんだか分らないうちに歳だけはとってしまいそうである。

〇暮の一日、所用で甲州、信州へ行ってきた。主要国道をほぼ一日車で走る破目になって、例のスパイクタイヤ公害の実態を十分に賞味させてもらった。ほんとにこれはすごい。立寄った家で出してもらったタオルで顔をぬぐうと、たちまちねずみ色である。それにしても、なんとトラックが多いことか。並行して走る国鉄の貨物列車は、機関車がもったいないような短い編成でさっさと行ってしまうのに、国道は荷を満載したトラックの列、おまけにのろのろの渋滞。鉄道線路がもったいない。 トラックは戸口から戸口へとどいて運賃も安いから荷はみんなトラック便に移ってしまったのだというけれども、それではなぜ運賃が安いのか。それは、道路の維持管理費を負担してないからである。国鉄はそれを一式自前でやっている。その費用は自動車諸税とは比べものにならないほどの高額なのである。もし自動車に、鉄道なみの維持管理費を自己負担させたならば、またたく間に自動車利用が減り、鉄道荷物・貨物が増えるはずだそうである。それによる連鎖反応(好ましい方向への)は大変なものだろう。

〇最近、「住宅建築」なる雑誌に寄稿した一文を付します。「通信」に書いてきたことを再編したようなもので、いつぞや紹介した「土は訴える」という本の評に名を借り、言いたいことを言ったという妙な文ですが、ついでにご笑覧ください。

〇新年もそれぞれなりのご活躍を!

       1983・12・29             下山 眞司

 

投稿者より    「筑波通信」の掲載は、今まで通り隔週とさせていただきます。 隔週の間の週は、しばらくお休みを頂きます。

       よろしくお願い致します。                                下山 悦子


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「情 景 二 題」  1983年度「筑波通信№9」

2020-01-28 10:02:08 | 1983年度「筑波通信」

PDF「情 景 二 題」 1983年度「筑波通信№9」

  情 景 二 題

 土浦の駅も今年になって駅ビルが建ち、何の変哲もない普通の近代的な駅になってしまった。昨年までは、一説によれば船に見たてたというそれなりに風情のある木造の建物だった。地力の都市の玄関である国鉄の駅には、このようにその土地のイメージ、シンボルをそのまま形にしてしまった例が、かつては少なくなかったように思う。寺院をかたどった奈良の駅などは、未だそのままだろう。
 その駅の建物も、その都市が元来その門前町として発展してきた、ある寺院を模したものであった。大きな地方都市の駅前ならどこでもそうであるように、この地力中心都市の駅前にも、ロータリーと噴水のある駅前広場があり、バスやタクシー、そして人の群れであふれている。駅側から広場の対岸へは、横断地下道も通じていた。

 ある冬の朝、私はその駅前の、広場をはさんで駅の真向いにあるビルの最上階の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。広場を目の下に見ることができる私の席には、冬の朝日がたっぷりと差しこみ、それだけでも外とは比べものにならないほど暖まっていた。北国の町並みは朝もやのなかにかすみ、昨夜町にも散らついた雪で化粧した山々も、遠くまた近く、朝の光の中で鈍く輝いている。駅前では朝のラッシュが始まっていた。
 私は何ということもなく、ただ広場をぼんやりと見おろしていた。しばらくして私はあることに気がついた。たしかに駅前に車も人もあふれてはいるのだが、それは東京の大きな駅のようにのべつまくなく群れているのではなく波があるのだ。いっとき広場一帯が車や人であふれたかと思うと、次の瞬間にはそれが消えてしまう。どうやらそれは列車の到着・発車時刻と並行しているようだ。列車の時刻が近づくと、広場にバスが集まり始め、そして、最盛期にはあっという間に、それこそ身動きができないほどにバスで埋ってしまう。バスから降りた人たちが、寒そうに駅舎の中に吸いこまれる。そして広場は、空のバスだけとなり閑散となる。しかしそれも束の間、今度は駅舎からどっと人が吐きだされてくる。列車が着いたのである。人々はそれぞれ、歩き、そしてバスに乗り、人もそしてバスも広場から去ってゆく。静かになり始める。駅前には、タクシー待ちの人たちの列とタクシーの列が残っている。がそれも一人また一人、一台また一台と消え、そして、次の列車の到着時刻のころまで、広場にはほんとの閑散が訪れる。 10分もすると、早々と客を送り届けてきたタクシーがぽつりぽつりと戻ってきて、タクシーだまりが埋ってくる。客はいないから、運転手たちは三々五々立ちばなしなどしている。一時の広場の休息の時。歩く人もまばら。人の群れ、車の群れに隠れていた噴水が、多分薄く氷が張っているのだろう、鉛色の水面に落ち、時折吹く寒風にあおられた水が、池の外の路面をぬらしている。
 このような波が、さきほど来もう何度となく繰り返し、広場に押しよせ、そして引いていっていたのである。おそらく、この波動は、その間隔の長短こそあれ、朝から晩まで駅頭を洗い続けているのである。そして、東京あたりの大きな駅でもこれとほぼ同様なことが起きているはずなのだが、ただ、列車の間隔が短かく、そしてまたいくつもの線が乗り入れ、しかも相互の接続も考慮せずに次から次へといわば勝手な時刻に到着し発車するから、全体としては均されてしまい、このようなめりはりのある波動が感じられず、いつでもわさわさしているのである。そしてその場合、ラッシュ時には、ある時間幅で大きくふくらんだ波が津波のように押し寄せ、さきほど書いたこの地方の駅頭を洗うリズミカルないわば心地よくなじめる波動というものは全く感じられない。
 私は興味をそそられて、この駅頭を洗うリズミカルな波の動きを観察し続けた。私があんなにまじまじとバスの屋根を見たことは、そのときまでかつてなかったろう。色とりどりに塗られたバスの胴体はいやでも日常目に入るが、屋根など普段は気にもしていない。それはなかなか愛きょうがあった。ここのバスは全体にてんとう虫かなにかの虫の背中のようだった。ビルの中は厚いガラスで外の音があまり聴えてこないから広場をそういった虫がうごめいているように見えた。

 その押しては返す駅頭の波打ちぎわに、波に動ぜず立ち続ける人物がいた。人の波に埋もれても、波が引くと、相変らず前の所に立っている。駅舎の前ではなく、そこから少し離れた横断地下道の入口近く、人の流れ路からわずかにはずれた所にその人は立っている。若い女性のようである。初め私は気がつかなかったのだが、彼女はもう大分長いことそこに立ち続けていたようだった。彼女は駅の方に向き、列車が到着し、しばらくして人々が駅舎からあふれでてくると、二三歩前に出て身を乗りだすように人波に目をやっている。人を待っているのだ。待ち人は列車に乗ってやって来る。寒いのに、駅舎の中で待てばよいのに、などといらぬお節介めいた思いもわいてきたが、あそこで待つにはそれなりのわけがあるのだろう。人波がまばらになり、待ち人は今度の列車でも来なかったらしい。彼女は再び元の場所に戻る。かなり長いこと彼女はこれを繰り返していたのである。
 私が彼女の存在に気づいてからも、もう三四回は波が打ち寄せたように思うが、待ち人は一向に現われない。何回目かの波が引いていき、広場が閑散となりかけたとき、ついに彼女はあきらめたらしい。やおら彼女はその場を離れ歩きだした。その時、一瞬、腕の時計に目をやったようにも思う。彼女は、ゆっくりと二三歩駅の方へ向う素振りを見せたあと、ひるがえって今度は地下道に向い足早に歩きだした。時計に目をやったように思えたのは、あるいはその時だったかもしれない。彼女は駆け降りるようにとんとんと階段を降りだした。何も知らない人には、それは軽やかな足どりに見えただろう。だが、二三段降りたところで、私は彼女のリズミカルな足の運びが一瞬乱れたのを見た。それは一瞬にもならないほんとにわずかな時間であった。降りるのをやめようとしたかのように見えた。それはおそらく、もう少し待つべきではないか、今去ってしまうとすれちがいになってしまわないか、駅の伝言仮にでも書くか、しかしそれはまずい、・・・・といった彼女の心の内に交錯した思い、迷いの卒直な表われだったのだろう。そして再び一瞬後、彼女はそれを振り切るかのように、前よりも更に足早に地下道へ消えていった。
 
 文章にすると長くなるが、彼女が待つのをあきらめて歩きだし、そして地下道に吸いこまれるまでのできごとは、ほんの数秒の内に起きたことで、普段なら私だって気がつかなかっただろう。
 駅前では朝のラッシュも終りに近づき、列車を降りる人も、そして待つ人たちも少なくなり、駅前特有の昼間のけだるさが訪れかかっていた。

 

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 そのとき建築学科の学生であった彼は、夏季休暇で家に帰っていた。彼の家は地方の小都市にあった。その町は歴史の古い町で、そういう町によくあるように、明治のころに建てられた洋風の建物がまだあちこちに残っていた。
 夏休みの宿題に、彼には建物のある風景のスケッチを描くことが課せられていた。そして、彼はこの洋風の建物の一つを描くことにした。彼が描く気になったのは、病院の建物であった。白っぽいペンキの塗られた木造洋風の二階建の建物で、囲りにはこれも古風な柵がめぐり、そこに開いた門のわきには、そういう建物にはよくあるように守衛所があって、そこには守衛が一人、所在なさげに座っていた。その門へ通じる道の両わきには、これも建物と同じぐらい年月を経ているのだろうか、大きな街路樹がならび、道の上におおいかぶさっていた。さながら緑のトンネルとなったその道は人通りはさほど多くはなく、ただ真夏の太陽が木もれ日となり路面にさしているのが印象的であった。
 彼は、その道のやや病院よりの場所に画架をすえ、そこから木の間ごしに見える建物を描くことにした。よく晴れあがった暑い日の昼下り、その町は盆地にあるから暑い日は滅法暑くなるのだが、この緑の通りだけは時折涼風が吹きぬけ別天地のようだった。通りには涼をとりがてら散歩する人をちらほら見かけるだけだし、病院の構内もときどき白衣の人が通るだけ。あたりには夏の日の午後の静けさがあった。
 彼のスケッチは順調に進んでいたわけではなかった。こった造りのあの洋風の建物は、絵にするとなると結構難しい。はかばかしくなかった。散歩のついでの道草に、彼のスケッチをのぞきこんでゆく人もいた。彼にとってそれは、仕事がうまくいっていないことも手伝って、いらだたしく、うっとうしかった。時間はいたずらに過ぎていった。彼は、今日はもうやめにして明日また来ようかと思いだしていた。
 そのとき、彼はまったく気づいていなかったのだが、彼のそばに和服姿の老人と若い女性が立っていた。彼の後から彼のスケッチを見ている。彼はちらっと彼らを見た。こざっぱりとした身なりの品のいい老人と、大きな麦わら帽子をかぶり清々しいワンピース姿の、年のころ二十四・五の女性であった。二人は連れらしく、どうやら女性の方が絵に関心があるようだった。彼はなんとなく気恥しく、思わず顔が紅くなるのをとめようがなかった。彼女はなお熱心に彼の手先を見つめている。彼の手はますます重くなった。やがて彼らが立ち去る気配を見せ、彼は内心ほっとした。と、そのとき、彼女が後から声をかけた。「明日もいらっしゃるんでしょう?」彼は突然のことにどぎまぎし、あいまいに「ええ、まあ」とだけ応えた。彼らは病院の方に向って、老人の歩調にあわせ、ゆっくりと歩み去った。あたりには、また元どおり、木もれ日が鮮やかに地面に落ちていた。彼はそれっきり、その女性のことなど忘れてしまっていた。
 翌日はあいにく天気はよくなく、ときどき雨がぱらついた。彼は絵を描きにゆくのをやめにした。

 次の日は、再びよく晴れあがり、また暑くなった。あの通りの風景は地面が少し湿っぽい他は一昨日と何も変らず、路面にはあいかわらず夏の陽ざしが木もれ日となり落ち、涼風が通りすぎていた。
 彼が画架をひろげてしばらくたったとき、病院の守衛が彼の方に向って歩いてきた。一昨日ここで絵を描いていた人と同じ人かどうか確認したあと、守衛は彼に白い紙袋をさしだした。けげんそうな顔をした彼に守衛は説明しだした。昨日の午後、若い女の人が尋ねてきて、あそこで絵を描いていた学生さんがもし来たら渡してくれと頼まれたのだという。彼がその日も来ると言っていたので来てみたけれどもいない、少しは待ったのだが列車の時刻がせまり、もう時間がない、とのこと。聞けば、数日の予定で、その病院に入院している祖父を見舞にはるばる京都から来ていて、その日の夜行で帰るのだという。
 彼は、もうすっかり忘れていた一昨日のことを思いだした。大きな麦わら帽子をかぶりワンピースを着た女性が、老人と連れだって、病院の方へ通りを去ってゆく光景が、ありありと目の前に浮んできた。あの女性だ、と彼は思った。彼の心は騒いだ。守衛はことの一部始終を話し終わると、門の方に帰っていった。

 白い紙袋の中には、とりどりの菓子が入っていた。
 彼は、なにか非常にとりかえしのつかないことをしてしまったのではないか、との思いにとらわれてしまっていた。
 あのときはさほど気にもとめず、ちらっとしか見なかったあの女の人の姿を、探るようにして思いだそうとしても、彼の内に見えてくるのは、あの大きな麦わら帽子と清々しいワンピースの姿だけであった。彼はもどかしさを覚えた。どうしてもっとちゃんと見なかったのだろう。どうして昨日描きに来なかったのだ。どうしてどうでもいいような返事をしてしまったのだろう。彼は自分をのろいたかった。

 今でも、夏のふとした一瞬などに、あの大きな麦わら帽子、ワンピース姿、木もれ日・・・・など、あの時の光景が突然彼の目の前に浮んできて、そのたびに、あのある種のもどかしさと、とりかえしがつかないとの思いがないまぜになって、彼の心の一角を横切っては消えるのである。
 重要文化財に指定されてしまったあの病院も、今は他所に移設されてしまって、もうない。そして、あの風景も、今はもう、わずかに彼の心の内に残っているだけである。

 


あとがき

いつもなら、駅頭で目にした情景をもとに、たとえば「駅」についての考えかたの移り変りなどについて、ながながと書くはずである。最初はそのつもりであった。ところが、途中で、後段の話をたまたま耳にして、その話も紹介したくなった。というのも、こういう類の体験は、おそらくだれもが、程度の差こそあれ味わっているのではないか、しかし、普段はすっかり忘れてしまっているのではないか、たまにはこんなこともあるのだ、と思いだし、思い起してみるのもわるくはない、そんな風に思ったからである。そして、今回は何も言わずに、情景だけを書くことにしたのである。

とは言うものの、感想を一つだけ書く。
〇後段の彼の話を聞いたとき、私にも、おぼろげながらその光景・情景を描いてみることができた。そして多分、私もまた淡い悔恨の情を抱くにちがいない、とも思った。ただ、私には「とりかえしのつかない」ということばが今一つ心のどこかにひっかかってならなかった。私はあえて、とりたてて「とりかえしのつかない」と言うようなことはない、と言い切ってみた。当然のことながら、そんな不遜なことが言えるのか、というような反論が返ってきた。はっきりと論理だった理由の用意があって言ったわけでもないから、そう反論されると口をつぐむだけだった。しかし私は、そうかといって前言を撤回したわけでもなかった。
 もし彼が、翌日も絵を描きにきて、あの女性と話を交わし、そしてその日が過ぎていったとしたならば、彼の内にそのときのイメージが強く残っただろうか。まして、昨日のうちに今日のことが全く予想できていて、そのとおりになったとしたならば、やはり何事も残らなかっただろう。残念ながら、私たちには明日の予測はできない。今日になって、昨日までのことをあとづけることだけができる。そしてそのとき、あそこでああしたらこうなっただろう、と思うことはできる。しかしそれは、つまるところ結果論でしかない。悔んだとて戻れるわけがない。そういうように考えるなら、生きてゆくということには、とりかえしのきくことなどなく、全てがとりかえしのつかないことなのだ、と私は思う。おそらく私が「とりかえしのつかないことなどない」などと言ったのは、だったら「とりかえしのきくことを見せてくれ」と言ってみたかったからではないだろうかと思う。えらく強気のように聞えるかもしれないがそうではない。私の内にだって、無数に近い悔恨の情がうず高く積っている。時折精確な人生の設計図を描いておけばよいではないか、などという思いがわかなかったこともないけれども、つまるところ、それは建物の設計以上に難しい。というより不可能に近いだろう。そういえば私が子どものころきらいな質問は、大人が好きでよくやる「将来何になりたい?」という問いかけだった。私はいつも困惑した覚えがある。今の私だったら、なるようになる、などと小生意気なことを言ったかもしれないと思う。もちろん心のどこかに願望めいたものがないわけではなかったろう。しかし、それがどう具体化されるか分りもしていないのに、結果だけを言うのにはためらいがあったのだ。今の私も、基本的には何も変ってないようである。今私は大学の教師をやっているけれども、私の過去のどこを探しても、大学の先生になるなどという願望など見つからないだろう。あるいはそれは、とりかえしのつかない道に入ってしまったのかもしれないけれども、先行どのようになろうとも、それを帳消しにするわけにはゆかないのである。その意味では、あの駅頭の彼女のように、一見軽やかな足どりで、これからも更にうず高く積るであろう悔恨の情を背負いつつ歩くしかないらしい。建物の設計もまた然り。うまくいった、と思うのはそのときの、しかも単なる自己満足にすぎぬかもしれず、何らかの悔恨の情は必らずついてまわる。それでも設計をやるというのはいったいなぜなのか、設計などやれる器か、などと自問自答しはじめ、自分は偽善者ではないか、と思いたくなるときもある。

年が暮れる。新年もまた、それぞれなりのご活躍を!
          

         1983・12・1           下山眞司 


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「 点 と 線 」  1983年度「筑波通信№8」

2020-01-14 10:41:00 | 1983年度「筑波通信」

PDF「 点 と 線 」(1983年「筑波通信№8」A4版8頁)

     「 点 と 線 」

 朝八時半、やや薄くもやがかかり、地物は全て露を帯びている。甲州の十月半ばの朝は、霜の朝ももうそう遠いことではないことを思わせる。
 折しも、黄ばみ始めたぶどう園に囲まれた急坂を、一人のおばあさんが気ぜわしそうに登ってきた。かなりの歳のようだ。家のだれかに送ってもらったのなら、坂の上まで車で来れたはずだから、きっと先ほど国道を上っていったバスを降り、ここまで歩いてきたのにちがいない。坂の途中で一息つきかけ、その時問も惜しむかのように、ほんの一瞬天を仰ぐかの素振りを示しただけで歩みを続け、建物の中に消えていった。
 私は今でもそのときの情景を鮮明に思いだすことができる。丁度そのとき私はカメうを手にしていたのであったが、その印象深い情景に対してカメラを構えることはしなかった。というより、カメラを持っていることを忘れ、おばあさんの心の内に思いをはせ、半ばぼうぜんと、その情景を見つめていたのである。       
 昨日から私は再び「 S 園 」に来ている。冬に向って、暖房の試験のために訪れたのである。そして今日は園の運動会。昨夜は園生たちもはしゃぎ、そして指導員たちは(それを見るのはほんとに久しぶりのことだったのだが)てるてる坊主をつくって、所々にぶらさげ、好天を祈っていた。
 あのおばあさんは、孫の運動会を観に、開始は十時だというのに、心せいてもう訪れたのである。聞けば、孫に会いに、今までも足繁く通ってきているのだそうである。
 
 私も半日つきあうことにした。園には広い庭がないから、運動会は園から2kmほど下った町の中心にある昔の高校分校跡を借りて開かれる。いつもは駐車場になっている元校庭は、今日ばかりは晴々しく飾られていた。昨日のうちに、指導員たちの手で整えられたのである。父母たちも集まり、町の人たちもちらほら様子を見にきている。おばあさんは最前列に陣どり、始まるのを待っていた。
 たどたどしいことばの園生の開会の辞があり、運動会は始まった。全部あわせても百人足らずの、ほんとに小さな小さな運動会だから騒がしくなるほどのにぎわいにはならないけれども、それなりの熱気・活気のある競技がくり拡げられている。会場整備も含め、さきごろ開かれた保育園の運動会よりも立派だ、というのが観にきていた町の人のことばだった。私もその熱気にのまれ、一日カメラマンになる気になった。私は園生たちの素顔を撮りたかった。格好の場所があった。校庭に面した元校舎の二階である。そこからは、全景も、そしてカメラを意識しない一人一人の表情も、手にとるように見ることができる。
 そんな活気のなかで、一度だけ、白けたな、と思えるような瞬聞があった。園生たちにとって、大きな楽しみの一つである昼食のときのことである。昼食は幕の内弁当と園の調理員たちが前日から仕込んだおでんに豚汁。父母たちもそれぞれなにがしかを用意してきているようだった。家族が観に来ている園生たちに家族と一緒の食事が許され、それまで一かたまりになっていた園生の群れから彼らが抜け出たあと、その一瞬は起きた。約半数の、家族がだれも来ていない園生がそこに残された。私は彼らの表情に、寂しそうなかげりを見たような気がしたのだが、それは私の思いこみのせいだけだっただろうか。なにかその一角から空気が抜けてしまったような、そんな気がした。まずいな、と私が思ったとき、その気配を察したかのように、指導員のいく人かが、おでんを載せた盆を持って、努めて快活に、さあ食べよう、と分け入りその場の空気をかえたので、瞬時にしてまた前のように和んだように見えた。だが、彼らは確実に、家族がそこにいるかいないか、その差を感じとったのではあるまいか。ことによるとそれは、彼らにとっては日常茶飯事だったのかもしれないが。
 
 私は、昨夜園の役員の一人から聞いた話を思いだした。いま入居している園生の半数以上のいわゆる家庭環境には、何らかの問題があるのだという。身寄りがない、身寄りはあっても、たとえば兄弟姉妹は、それぞれの生活で手いっぱいである、あるいは経済的に厳しい状況にある、・・・・という環境。昼食のとき園生席にとり残された人たちは、もちろんなかには単なる都合でだれも観に来なかったという人もあるだろうが、大半はそういう事情を背負った人たちだと見てよいだろう。
 そうであるとき、そういう彼らには単なる運動会の昼食時の白けなどとは比較にならない大きな問題がのしかかってくることは自明だろう。
 彼らが更生施設での生活を送るなかで、社会復帰できるまでになった:更生した、としよう。だが、それが、彼らが自立した生活を送ることができるようになった、ということを意味しているかというと、決してそうではない。これはあたりまえだ。彼らの生涯は、依然として、一定程度の「支え」を必要とするのである。だれが支えるか。身寄りはそういう状況にある。彼らが歳をとれば、身寄りも歳をとる。(それは、家庭環境に問題がない場合でも同じである。)つまるところ、園を出たら彼らは一人になる。たとえ就労先が見つかったとしても、拠るべがない。それゆえ、園を出るに出れない。園は更生施設ではなく定住施設化してしまう。その結果、更生施設への(とりわけ信頼がおけると思われる施設への)入園希望者は、列をなして待つことになる。
 これは、つまるところ、制度としてはたしかに養護学校・更生施設・通勤寮・授産施設・・・・といった具合に外見上は整えられてはいても、障害者の生涯という視点から見ると、それはあくまでも単に「点」としての対応しか示していない、ということだ。しかも、それらの「点」の相互のスムーズな連携は決して十全であるとは言いがたい。「点」はあっても「線」がない。健常者ならばそれでもよいだろう。自力で「線」を構築できないわけではないからである。心障者の場合はそうはゆかない。
 いま各地で心障者を抱える親たちの自分たちの施設づくりが盛んになっているが(この「 S 園 」もその一例だし、この園の見学者のなかにもそういう意向を持った親たちが多い)、それらはどれも「点」としての施設ではなく「線」としての施設:自分たちがいなくなったあとでもその代行をしてくれる施設を望んでいる、と見た方がよいだろう。明らかに、制度と要望がくいちがっているのである。

 いわゆる公共施設・社会施設というものは、言うまでもなく、人々の生活を補完するためのものだ。そして、その整備にあたっては、半ば常識的に、人々の生活をいわば縦割りの機能別断面でとらえる対応(たとえば、教育・医療・福祉・・・・)が考えられ、制度化されてきている。先に記した心障者の施設群も、心障者の状態を年令別・成長別、あるいは障害度別に、すなわち機能別に考えられたものだ。それは、少なくとも外見上、心障者の状態に対して、合理的な因数分解で対応しているから、あとは個々の因数:個々の施設を充実すればよいかのように思われる。実際、心障者の施設はもちろん、いわゆる公共施設は全て、この機能分担、縦割り分業でその整備がすすめられているのは事実である。
 だが、こと心障者に対するかぎり、重要な視点が欠落していた。つまり、年令・成長も、障害度の軽減:更生も、それは一個人の上に継続して起きる、という認識:視座の欠落である。だから、現状では、心障者は、その成長とともに、機能別に段階別に用意された施設を次々と渡り歩くことになる。まして、身寄りがない場合には、その人の生涯は、それは本来連続したものであるにも拘らず、いくつかの「点」に分断され、たらいまわしとなる。心障者を抱えた親たちの心配は、まさにこの点にある。親たちは、外見上の合理的機能分担・分業によって、あたかも荷分け作業でもするように、一人の人間を分類して片づける発想ではなくあくまでも一個人の連続した生活に視座をおいた発想を求めているのである。
 しかし、考えてみると、この発想の転換、つまり、人々の個々の生活の視点にたっての公共施設の役割のとらえなおしは、全ての公共施設についてもなされる必要があるだろう。なぜなら、人々の生活を補完することを考える、ということは、人々の生活をその外観上で因数分解・機能分解することではなく、あくまでも、人びとの個々の生活を補完すべく考えるということのはずだからである。言いかたを変えれば、ある公共施設の価値は、単にその施設自体が整備充実しているか否かによってきまるのではなく、それが、人々の個々の生活遂行にあたりどのように取りこまれ有効に働いているか、によってきまるということだ。現状の多くの公共施設には、この個々の人が個々の生活に応じて使う、という発想はなく、あるのは全て、合理的機能分担・分業自体の強化だけだといってよい。それは必ずしも、人々の個々の生活遂行にとって都合がよいわけではない。むしろ、多くの場合は不都合のことの方が多いはずだ。にも拘わらず、不満が顕在化しないのは、人々が(止むを得ず)、先に記したように、それら「点」と「点」の間を自力でつなぎ、とりあえず済ましてしまっているからだ。そして、たまたま心障者の場合はそれがなし得ないがゆえに、顕在化して表われている。多分、いやきっと、こうであるにちがいない。機能別断面で見る分業化・専門化が、そもそもの本義:生活の総体を見えなくしているのである。
 
 先号のあとがきで、最近多発している甲信地方の洪水についての感想を記したが、その後、あいついで、それに係わる話を知る機会があった。一つは、10月10付の朝日新聞「論壇」に載った論文によってである。全文をそのままコピーして載せることにする。 

      

 水田が、洪水の際の遊水池としてもさることながら、洪水になる以前の水量調節弁として重要な役割をもっていた、という指摘は、既に紹介した「土は訴える」という本にも述べられている。長野県下の全水田に10cmの水をためると、その総量は6000万t、諏訪湖に匹敵する水量となるそうである。ということは、降雨時には、なににもまして水量調節のクッション役をしてくれるということに他ならず、見かたを変えると、水田がダムの代りをしていてくれるのである。(ついでに言えば、水田は重要な地下水供給源でもあるという。水田には、代かきから収穫までなんと1500mmの水が注ぎこまれるのだそうである。その水は、元をただせば天水なのであるが、水田はその天水を直接河川へ流下させず、一時滞留させているわけである。)そしてそのある部分は地下へ浸透するのである。)
 昭和の初め、日本の「たな田」(極端な例では「田毎の月」と呼ばれるような例、「千枚田」などとも言われる)を見たアメリカの地理学者が、「日本のピラミッド」つまり、これをつくりあげた農民のエネルギーは、ピラミッド建設のエネルギーにもまさる、と言ったそうである(いずれも同書による)。そして、長野県下では、昭和55年に、全水田面積の20%にあたる水田が、米の生産調整のために消えていったという。それは、先はどの計算でゆくと、中規模ダム一個分、1500万tの機能に相当するのである。そしてまたその減反は、機械化農業に不適な「たな田」状の田(つまり、山ぎわの田)がねらわれるから、その点から考えると、水田のダム機能は、上流に近い所ほど減ったことになる。
 それに加えて、この論文にあるように、全ての小河川はコンクリートで固められ、水があふれないように改修された。結果は、これも論文にあるように、本流が一挙に増水する。タイムラグなく小河川(支流)から水が流れこむからである。そして、本流の断面はそれに耐えきれずに決壊してしまう。多分このような事態は、論者の指摘をまつまでもなくこれから各地で起きるのではなかろうか。
 そして、この事態への対応は、今度は本流そのものの断面拡幅だろう。しかしこれがとてつもないことになるのは自明である。もしそれを完全にやるとしたら、本流流域の耕地は大幅に削限せざるを得ないだろう。

 先般、かねてより構想をたてていた青森のT氏の集中講義がようやく実現を見たが、彼が実際に現地でやりあっている一事例も、まさにこの点であった。土木の専門家たちは、治水というと直ぐに河川をコンクリートで固めたがるのだそうである。タイムラグをもって流れていた時代の水量に基づいて断面を計算して固めてしまい、そこへその結果タイムラグのなくなった水が流れるわけだから、結末は見えている。彼いわく何年かに一度の少々の洪水は大したものではない。それよりも、無用の長物に近い河川改修による被害の方がこわい、と。しかし、専門家が彼の意見をとりいれるのは、常に、何かことが起きてからなのだそうである。
 
 ここにおいても、合理的機能別分担化・分業化・専門化が、ものごとを総体としてとらえる見かた:視座を見失い、ただいたずらに、分担・分業した各「点」のなかだけでことを処理しようとする傾向が見られるのである。風が吹けばおけ屋がもうかる、という話は、単なる笑い話として見るべきではない。そこには、ものごとの生起に係わる真理が語られていると見た方がよさそうだ。もちろん私は専門化・分業化を否定するつもりはない。ただ、ものごとの生起の論理を見失った専門化・分業化は(つまり、その専門のなかだけでことを処理して済まそうとするような専門化・分業化、すなわち「点」的発想は)、それは決して専門・分業とは言い得ない、と思うだけのことである。

 その意味で、T氏がここ四半世紀にわたり青森上北地方ですすめてきた施設創りの紹介は、その発想が単なる縦割りの「点」の集合でない点で(つまり柔軟な点で)まさに傾聴に値するものであった。かといってそれをリアリティをもって語ることは、到底私にはできがたい。その一部のことについては、先年、ほんのその上っ面だけを「七戸物語」のなかで紹介したが、あれではまったく不十分である。なんとかして本にまとめてもらおうと、いま考えているところである。
 彼は、集中講義の最後にこう学生たちに語った:「どこの地域にも通用するようなやりかた、というものはない。それぞれの地域に、それぞれのやりかたがあるはずで、人々はそれを目ざし、専門家はそれを考えなければならないのではないか」と。
 このなかの「地域」ということばは、そのまま「場合」ということばに置き換えてもよいだろう。要は一律の分断法でものを見ては困る、ものの見かたの根本になければならないのは、あくまでも総体を見ることでなければならないということなのだ。

 あの「 S     園 」の役員が語ったことを続けると、いま、この園の設立に係わった親たちのなかで、もう一つ別の夢物語がかわされているのだという。それは、老人ホームの夢である。ゆくゆくは老人ホームをつくりたい、というのである。私がちょっと不審そうな顔をしたのを見て、彼は説明した。老人ホームと言っでも、いま園にいる人たちだけが入るのではない。自分たち、つまり親も一緒に入るのだ、と。老後、自分たちもまた、だれかに支えてもらわなければならないときが来るだろう。そのとき、これも一定の支えを必要とする成年した我が子とともに、そこで暮す。少しのことなら老人の自分たちにもできるだろう。そういう老人ホームをつくれないだろうか。
 聞きようによると、これはこの人たちのエゴイズムだ、と言われかねない。けれども私は、そうは思わなかった。本来、公共施設・社会施設が補完しなければならない人々の生活というものの実相は、(別の言いかたをすれば、人々が公共施設・社会施設に望んでいるものは、)まさにこういうものだと私は思うからだ。いまの制度は、このことをまったく忘れてしまっている。その合理的因数分解の発想のなかで、個々人の姿が見えなくなってしまったからだ。

 

あとがき
〇10月の初め、文中にも書いたけれども、青森のT氏が来られ、集中講義が開かれた。「共存互恵」。これが、彼のこの四半世紀にわたってやってきた地域計画の根本であると言ってよい。普通なら直ぐに町村合併をしてしまうのに、そしてそれこそが合理的だと思われるのに、この青森上北地方の四町村は、あくまでの四町村のまま、しかし合同で、地域の諸々の計画を行ってきた。その計画の卓抜さ、柔軟な発想は、まさに驚くべきものであった。録音して多くの人々に聴いてもらいたいと思うほどだ。その話を聞いてしまうと、一時中央で盛んに言われた「地方の時代」などというせりふがいかに安っぽいものであるか、よく分る。中央はそんなせりふを言う前に、地方が地方であるための最高の策、地方分権の強化こそやるべきなのだ。そのとき多分、地方は中央を上まわった形の動きを示すにちがいない。だが、T氏たちは、中央にほとんどの権限をにぎられたなかでなお、これだけのことをしてきたのである。(T氏が「自治あおもり」誌に書いた論文「共存互恵」が私の手元にある。もしご希望の方があれば、コピーしてお送りします。それにより、四半世紀のほほ概略が分ると思う。)

〇「 S    園 」に泊ったとき、園生のO君のお母さんも来ておられた。私はてっきりO君に面会に来られているのだと思っていたら、実はそうではなかった。指導員の方々と一緒になっていろいろと園生の世話をしていたのである。家にいるよりもここにいる方が安まる、とのことであった。

〇ことしは寒くなるのが早いようだ。紅葉はあまりきれいではないが、毎朝、落葉が道を埋めるようになってきた。そして夜は、とめておいた車の窓に露が一面に下りている。もう少したつと、これが氷になる。そうなるとやっかいだ。うっかりしてウォッシヤーでもかけようものなら、それもたちまち氷と化す。もうじきそういう冬が来る。

〇それぞれなりのご活躍を!風邪をひかれぬように!

        1983・10・31              下山 眞司 


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「動機の必然」 1983年度「筑波通信№7」

2019-12-31 13:05:05 | 1983年度「筑波通信」

PDF「動機の必然」(1983年度「筑波通信№7」)

  動機の必然    

 美術の秋などという言いかたについていつごろから言われだしたのかは知らないけれども、毎年いまごろになるとそういう話題が新聞紙上などを飾るようである。ことしは、それにうってつけの事件が起きてひときわひきたった。ご存知の写真模写の一件である。いや、正確に言えば、入選取り消しの一件と、展覧会場から撤去の一件の都合二件である。作者の弁解や評論家諸氏の講釈など、いろいろと書かれてはいたが、ど素人の私には、いま一つ合点がゆかなかった。合点がゆかないというのは、なぜ写真を模写したのがいけないのかが、私にはよく分らないからである。

 決定的な事実は、なにはともあれ、とにかく一度は、これらの絵は二作とも、よいものとして評価されて入選していた、つまり、審査員のお目がねにかない、絵の質として一級のものとして評価を与えられていたということである。しかしその絵が写真の模写であることが判ったとたん、選外と同等のものにおとしめられる、というのはいったいどういうことなのだろうか。

 制作の課程が分ったとたんに画面に変化が起きるわけもなく、従って絵の質に変化が起ったわけでもない。そうだとすると、入選が取り消され、壁から取り外された理由は、ただ一つ、その絵の質が悪かったからではなく、写真を模写したというただそれだけのこと、その制作課程がいけなかった、ということになるだろう。もっとも、制作課程がいけなかった、などといういわば一般的な言いかただと、逆に、制作課程がすばらしいものならば入選して然るべきだ、という論理が成りたってしまうことにもなるから、つまるところ、写真に拠った、ということがいけないことだと見なされたということになるだろう。しかし、どうして写真に拠ることがいけないことなのか、そのあたりのことが、少なくとも新聞紙上で書かれ言われていることからは、私にはさっぱり分らない。「絵としてよいものならよい」としてどうして済まないのかが分らないのである。

 これが写真のコンテストであって、他人の写真を盗んだとか、まるっきりコピーしたとかいうのならば、人選取り消しになっても不思議ではない。だがこの場合はそうではない。写真を模写しようがしまいが、彼女または彼は人の作品をそっくりいただいたわけではなく、あくまでも自分の目を一度通過させた、その意味では創作をしたことに他ならないからである。だからこそ、審査員諸氏もまた、一度は「よいもの」として認めたのである。写真をもとに絵を描くことは、よほどおぞましきこととされているにちがいない。

 もっとも、ともに写真模写が問題とされたのであるが、この二つの事件はそれぞれその問題のされかたが微妙にちがい、一件は単純に実物の写生ではなく写真を写しとったことの当否が問われ、もう一件では、その写真が自分の撮影によるものでなく他人のものであったことが特に問題とされたようである。だが、そうであるならば、写真を模写したことが露見しなければ話が済んでしまうのか。あるいは、その写真が自分が撮影したものだったならよかったのか。そう考えると、これはどうも作品の質とは関係のない論議のように、素人の私には思えるのである。もしも、「だれだれの写真による〇〇」というような題で出品したら、それは審査の対象になるのか、それともならないのか、そこのところがいまひとつ分らないのである。そういえば、音楽では「だれだれの主題による〇〇」とか「だれだれ編曲の〇〇」(つまり、原曲の作者は別にいる)があって、原曲よりも親しまれよく演奏される例がある。

 

 この事作の当事者である彼女や彼がある写真をもとに絵を描こうと思ったのは、おそらくその写真に彼らの心を動かすなにものかがあって、彼らはそれを絵に描きたかったのだと私は思いたい。それとも、そうではなく、自らの手による写生の省略のために、あるいは写真のもつ表示能力の卓越さにかぶとをぬぎ、つまり表示技法上のために写真を援用したのであろうか。そうだとすれば、彼らは写真のような絵を描いたにすぎなくなり、一度はそれらの絵を入選と認めた審査員たちもまた、その点のみで(つまり表示の技法の点のみで)それらを評価していた、ということになるだろう。

 つまるところ、よい絵というのは、その絵が人に訴えるなにかに拠るのか、それともその表現のしかた:技法に拠るのか、はたまたそのいきさつに拠るのか、いったい何なのか分らなくなってくる。素人の私には、そういう絵を描きたい、というそもそもの動機が作者にあった、つまり、それが写真であれ実物であれ何であれ、そこに作者はなにかを見た、そしてそれを表してみなければいられなかった、そしてそれを表現し得て観る人にもそれが伝わり見えた、そういうものが、「よい」ものが備えもつ要件なのではないか、との極めて単純な考えかたしか持てそうにもないのである。たしかに技法のうまいへたはあるかもしれないが、そのもののよさが単に技法の問題ではないことは、たとえば、西欧のロマネスクのものなどを考えてみれば明らかだと思われる。非常に稚拙としか見えないけれども、そこから伝わるなにかがある。それはつまり、観る人の側のなかにわき起るなにかに他ならない。それらの稚拙としか言いようもないものが、観る人をしてそうさせるのだ。私には、その技法が決して洗練されたものではないにも拘らずそのような具合に訴えてくるのは(あくまでもそれは私の目の前に結実しているものがそうさせるのだが)、その結実しているものに表われているところの、そう作らざるを得なかった動機そのもののせいなのではないか、すなわち、単なる結果物そのものの形の上の「よさ」ではなく、そうせざるを得なかった切実さと言うかあるいは執念とでも言うか、そういったものがどんと迫るかたちで伝わってくるからではないか、と思える。

 

 美術の世界でよくモティーフ(motif:仏語)ということばが使われる。通常の意味は、辞書によれば、芸術的表現活動の主題、ということになるが、ややもすると、単に題材ぐらいの意味としてしか使われていないのではなかろうか。このことばの本義である「動機」としての主題という意味が見失われているのである。

 私がロマネスクのものや、あるいは極く素朴ないわゆる民芸と言われているもの(この呼びかたは私は好きになれないのだが)に魅かれるのは、それらを作った動機:極めてさし迫ったそれを作らざるを得なかった動機が、なんのてらいもなく素直に表われているからではないか、そして、その動機というのが、単なる思いつきや単なる感覚的な衝動のそれではなく、彼らの生活上の必然的な動機だからではないかと思っている。考えてみると、いま作られるものの多くには、こういった迫力ある動機を感じさせるものが少なくなり、いわば表面的な、ただいたずらに皮相的な感覚面だけをくすぐるようなものや、技法上の巧みさだけを追うものが多くなっているような気がしてならない。

 これは私白身の経験上でも言えるようで、資金も豊富でゆとりをもって設計できた建物(そう滅多にあるわけではないが)よりも、極めて厳しい条件のもとで、いわばなりふり構わず、ぎりぎりのところで設計せざるを得なかった建物の方が、どうも結果がよいようなのである。というのも、どうやら、前者の(つまり、いわばゆとりのある)場合には、その建物があらねばならない「必然」についてのつめが甘くなり、その甘いつめのまま、いわば上塗りだけにせいをだしてしまいがちになるからのようで、逆に後者の場合はゆとりはないから「必然」をぎりぎりのところまでつめてかからないとものにならず、それゆえできあがりにもその成果がぴりっとしたものとなって表われるのだと思われる。これを先きほどの言いかたで言えば、その建物を作る「動機」が、しっかりとした「必然」の裏づけを持っているかどうかに係わっているのだ、と言えるのではなかろうか。「必然」のつめを忘れたとき、いかに上塗りに技巧をこらしても、結果はふやけたものになってしまうようである。

 

 先月の末、群馬県の東端にある板倉町という町を訪れてみた。そこは渡良瀬川と利根川にはさまれた河川の氾濫原にできた町で、隣接する埼玉県北川辺町(埼玉県のなかで、この町だけが利根川の北側にある)群馬県明和村、そして館林市の郊外を含めた一帯には、一見したところ、のどかでゆたかな田園風景が拡がっている。

国土地理院 5万分の1より

 

 私がこの町を訪れてみる気になったのはTVのせいだ。たまたまそのころ、TVのローカルニュースのなかで利根川流域の風物を紹介する特集があり、そこで、板倉町に現存する「水塚(みづか・みつか)」を報じていた。板倉町は私のから一時間ほど車で西に行ったところにあり、群馬県方面に行くときはいつも通っていたのであるが、古い町だとは思いつつも、ついぞ尋ねてみることもせずにいたのである。

 あたり一帯のどかでゆたかな田園風景である、と先に書いたが、実際はこのあたりはとんでもない地域である。渡良瀬川と利根川という源のちがう大きな河川がこのあたりでぶつかりあい、一帯はしょっちゅう洪水に見舞われていたのである。いま見るようにひとまず落ちついた風景になったのは、巨大な堤防が築かれ排水設備が施されるようになった極く近年になってからで、以前は常に水の脅威におびやかされていたらしい。だからであろう、集落のあちこちに、水神、竜神がまつられている。

 このとんでもない水の脅威にさらされる土地に人々が住みだしたのは、決して古いものではなく、おそらく近世になってからだろう。氾濫原であるから肥えた土地ではあっても、並みのことでは住めなかったはずである。しかし、時がすぎ、人口も増え、新しい耕地を求めて、人々は押しだされるようにしてここに進出、入植する。やたらに進出したのではない。氾濫原のなかのわずかに高い土地を見つけだし、そこを住み家としたのである。いま、このあたりを遠くから見ると、平原のなかに、まるで島のように、こんもりとした樹林におおわれた集落が浮いているが、これらはほんとに、まずほとんどが、氾濫原のなかのわずかに高い土地だといってまちがいでない。北川辺町のあたりでは、地図にはっきり見えるが、平地のなかを蛇行する川が生みだした自然の微高地(自然堤防と呼ばれる)上に、線状に続く集落を見ることができる(もっとも、遠望する限りでは、なかなかそうは見えない。また、蛇行していた川も、いまはもう川の態をなしてないから、予備知識がないと分らないかもしれない)。

 だが、多少でも小高いからと言って、それで水の脅威からまぬがれ得たわけではない。洪水に対しては、それでは役たたずなのである。かと言って、そこから逃げだすわけにはゆかない。そういう土地で、生き続けねばならないのである。そういうなかから生まれたのが「水塚」というやりかたである。生活してゆくのに最低限必要な物資・家財を水害から守り確保すべく、屋敷の一画に土盛りをして小山を築き、その上に倉を建てておき、万一に備えるのである。この小山には、多分水流による破壊を防ぐためだろう、樹木が密に植えられており、しっかりしたものでは、足元を石垣で固めてある。石など手近かにころがっているような場所ではないから、どこか遠方から運んできたはずで、その点から考えると、石垣で固めたのはより近年になってからだろう。こういう小山を「水塚」というらしい。屋敷の中央に主屋が南面して建ち、水塚は大体その西側にある。なかには屋敷全体を土盛りした家もあるが、それは少なく、ほとんどの場合、主屋は原地盤の上に建ち(原地盤に30cmほどの盛土はしてある)、水塚との比高は2~3m、つまりおよそ一階分ある。だから、遠望すると、水塚の上に建つ倉の屋根の方が主屋のそれを越えてそびえている。倉といってもそんなに大きいものではないし、また土蔵のようなつくりではなく木造のままだから、やぐらのようにも見える。水塚をとり囲む樹木がうっそうと茂って、全体の背景となっている。

 主屋は、大体がこじんまりとした平面で、やたらと拡がるということはなく、その代り、屋根裏も使える中二階~二階建となっている例が多い。屋根裏といってもちゃんとした窓が開いている。養蚕をしていた農家にもこういう例があるけれども、この場合もそうなのだろうか、まわりに桑畑がたくさんあったようにも見えず、私には、このやりかたも水害と関係があるのではないかと思えてならなかった(少しばかり水がつく程度の洪水ならば、それで一時しのぎができそうである。)。

 あとになって気がついたのだが、屋敷地のなかで、水塚を西側に設定するというのも、ことによると、水害を考慮した結果のやりかたなのかもしれない。ここの場合、西側はすなわち川の流れ(したがって洪水のときの流れ)の水上にあたる。そこにおかれた水塚は、その上に建つ倉を守ると同時に、その水下側にある主屋への水流を緩和する防波堤の役割ももっていそうに思えるからである。他の土地の例も調べてみなければ分らないが、ただ単純に西側に置いたわけではなさそうである(西側はまた、冬期の赤城下しが吹きおりてくる側でもある)。

 

 このような水への処しかたは、しかし、一朝一夕にして生まれたものではない。おそらく、何度も水に流され、それでもなおその土地にしがみつかざるを得ない、そういう生活を何代も積み重ねてゆくうちに獲得したやりかたなのである。

 いずれにしろ、この土地での暮しかたを決的づけていたもの、そしてまた、家一軒を作るにあたっての決定的な「必然」・「動機」となったもの、というのは、まさに、この地で住む以上はいかんともしがたく対面せざるを得ないところの洪水への対処のしかたであったと言ってよいだろう。

 

 いまでは、この土地を洪水がおそうということも聞かなくなった。利根川の堤防は昔の3倍の高さになったと言い、低湿地では機械による排水が行われ、もう昔のような心配をしなくてもよさそうに見える。あたりには、都会と同じような家々が、低地もものともせず、建ちはじめている。彼らの家づくりは、既に、水に対するのとは別の「必然」・「動機」に拠っているらしい。いったいそれは何なのだろうか。

 考えてみると、いま、多くのもの作りの場面で、なにゆえにそういう結果でなければならないか、という「必然」をつめることが少なくなりつつあるのではなかろうか。「動機」が「必然」とかかわりないところで発生しているのである。

 

水塚のある家―1  館林市赤生田(あこうだ)

主屋は平屋、中二階がある。左手の建物が水塚の上の倉

  水塚へ上る階段

 

水塚のある家―2 北川辺町曽根    

主屋は二階建

 

あとがき

〇コシヒカリの刈り入れが始まっている。このあたりの稲は8割がたがコシヒカリだそうである。ことしは九月の初めに突風が吹き(これは極めてものすごく、組立て中の鉄骨造の体育館が倒壊したほどであった)腰の弱い品種のコシヒカリはほとんど寝てしまい、おまけにそのあと長雨が続いたので芽の出たものもあるとのこと、困っている農家が多いそうである。それでも、遠くからながめるかぎり、水田は黄金色に染まり、豊かな田園風景に見える。昔は8割がたを一品種で作るということはなかったようである。コシヒカリに集中するのは、それがおいしいからなのはもちろんだが、それよりもなによりも、高い値で売れるからのようである。いま、稲もまた換金作物なのである。その昔、水塚に拠って暮しをたてていた農民がこれを知ったら、びっくりするにちがいない。

〇台風10号が過ぎ、秋の空か拡がるようになった。ことしは台風の数は少ないにも拘らず、やたらと水害があったような気がする。とりわけ甲州・信州がひどくやられているようだ。そういえば、ここ数年、甲信地方は毎度のように被害に遭っているように思う。異常に雨が降ったからなのだろうか。しかし、これまでにこの程度の雨が降らなかったわけはあるまい。治水の計画だって、その程度のことは計算ずみだろう。そうだとすると、別の原因があるはずだ。一つ想像できるのは、開発が山の奥まで進んだことだ。たとえば甲州のぶどう園。いまではかなりの急斜面も、立木を伐りとりぶどう園となる。ぶどうは、極端な場合には10m角の土地に1本のぶどうの樹だけで栽培できる。樹木の密度は極端に小さくなる。結果は明らかであろう。降った雨は直ちに急斜面を流れ下るのである。川にそそぐまでにタイムラグがないのである。川は一気にふくれあがる。

〇風が吹くとおけ屋がもうかる、というのは笑い話ではあるが、ものごとが連関しているという点では真実をついている。スイス以外のヨーロッパ諸国の農業のやりかたは、いま日本の農業がやりかけているのと同様に、速効を旨とする(たとえば、穀物飼料による牧畜:草地によらない)やりかたに戦後このかた切りかわっていたのだが、いまようやく、その見直しが始まっているのだそうである。耕地が荒れはてたのだという、(朝日新聞9・ 30夕刊)。

〇人間が持っている知恵というのは、もっとトータルな視界を持っていたのではなかろうか。

〇先号あとがきで、山形県西馬音内と書いてしまったが、秋田県が正しい。

それぞれなりのご活躍を!

              1983・10・3         下山眞司

 

 

★ロマネスク美術:西ヨーロッパの主として11~12世紀に行われた中世美術をいう。(世界大百科事典 平凡社)より

 

ティロル城(Schloss Tyrol)の聖堂入口  1150年頃 北イタリヤ 大理石 

 

同上左側             故人蔵「ロマネクス」より 慶友出版

 

 

「聖母子像」11・12世紀 ツューリッヒ国立美術館 木彫     「ロマネスク」より

 

 

「栄光のキリスト」1167-88 レオン(スペイン)サン・イーシドロ教会パンテオン・デ・ロス・レイエス 壁画  故人蔵「ロマネスク美術」より 学習研究社

 

「マティルド王妃の刺繍(部分)」1080年頃 麻地 毛糸刺繍0.5×70.34m(全体) バイユー司教区美術館 
1044年4月に現れたハレーすい星を王と人々が驚く様をわずかな色糸で描いた部分。  「ロマネスク美術」より

 

 

 

 

投稿者より

この1年間迷いながらも、故人のブログに拙い編集投稿をしてまいりました。

お忙しい中、お寄り頂き、ありがとうございました。

どうぞよいお年をお迎えください。                                   下山 悦子

 


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「虫に刺されて」 1983年度「筑波通信№6」

2019-12-17 12:00:45 | 1983年度「筑波通信」

PDF「虫に刺されて」(1983年度「筑波通信 №6」) A4版9頁 

  虫に刺されて  (1983年度「筑波通信№6」)

 先日、ものすごく暑い日だったが、久しぶりに池袋から東上線に乗った。昼下がりで空いていたし、冷房もほどよく効いていたから、快適であった。

 川越あたりまではさほど変わった風にも見えなかったが、それから西はわずかな年月の間にすっかり変っていた。沿線にあった緑濃い林は、きれいさっぱりとなくなり、他の私鉄沿線と何ら変りない風景になっている。もちろん、あたり一面に拡がっていた水田も埋め立てられ、見るかげもない。住宅公団の大きな団地や、軒を接した建売住宅が建っているのである。

 そういう新興の住宅地にでも住んでいるのだろう、明らかに都会風のなりをした幼児連れのお母さんが二人、途中の、これも新設の、なんとなく歯の浮くような名のついた駅から乗りこんできた。どうやらスイミングスクールにでも行くのであるらしい。二人ともそのまま青山あたりを歩かせてもおかしくない、いかにも若奥様風のぱりっとしたワンピースを着こなしていたのだが、その脚を見て、やはりここはまだ田舎なのだ、と私は思わずにやりとした。お二人の脚は、出ているところ一面、それはみごとな虫くいの跡。私の経験では、あれはどう見てもぶよの類にくわれた跡のはずだ。いくら林や田んぼがなくなったとはいえ、都心に比べればまだそういう自然は残っているのだ。彼女たちの靴がまたしゃれたものであったから、その虫くいの跡が妙にひきたって見えた。

 私の左足首の近くにも虫くいの跡がある。もういまは二・三箇所かまれた跡が残っているだけだが、十日間ほど膨れあがったままで、いたがゆくてたまらなかった。刺された記憶はまったくないのだが、車の運転席の床に大きなあぶがひっくりかえっていたから、犯人は多分こいつだろう。あぶは、刺しているときには痛みを感じないのである。八月の初句のことである。ちょうどそのころ、車で数日ほど東北めぐりをしてきたのだが、このあぶは、そのときの土産にちがいない。例のごとく、極力主要道や大きな町は避け、発展開発から取り残された町や村ばかり寄ってきたから、多分、その最後の村あたりの産物なのだ。

 

 東北の町や村も、しばらく見ないうちに、大分変ってしまったような気がする。もちろんその印象は外見からくるもので、おそらく生活自体も変ってしまっているだろうが、しかしそこのところは、たまたま通りかかった、いわばよそものの私にはさだかには分りかねる。

 青森県には、北海道へ向って突きでた二つの半島があるが、その東側の半島:下北半島の太平洋に面した海岸沿い、基地の町三沢あたりから北の一帯は、淋代(さびしろ)などという地名もあったりして、わびしい所だった。まさに字の如く風雪を耐え忍んできた、ねじれた細い松林が続き、そこに点在する村々の様子もまたわびしい限りであったような記憶があるが、いまはそうではない。家が、少し大げさに言うと、軒を接するほどにまで増えたのである。その昔は、茅葺屋根の家が数軒、肩を寄せあうように集っていただけで、わびしい風景が延々と続いていたものだが、北の方に行くとまだその気配が多少残っているが、三沢あたりはもうすっかり変わってしまったのである。茅葺の家も数が減り、もう数えるほどしかなく、それも潮風に打たれていまにも朽ちはてんばかりだから、いずれ近いうちに、これらもまた新しいつくりの家にとって代られるにちがいない。

 この、このあたりに増えている新しい家々のつくりは、これはなんと言い表したらよいのか、あえて言えば、まことにけばけばしいものだ。写真を見た人が、まるで盆ぢょうちんだ、と言ったけれども、それはまことに言い得て妙だ。屋根はゆるい傾斜の鉄板で色とりどり、棟や破風は盆ぢょうちんの木部のように模様で飾られ、壁には所々に、これも色とりどりのタイルがはられている。お金は相当かけているのだが、なんとも珍奇に見える。なにも、昔ながらのつくりかたをまるごと経承しろとは言わないが、これではまるで突然変異である。これはいったい何なのだろう。もしかすると、基地の町・三沢が醸しだした独特の空気がそうさせるのかもしれない。たしか、このあたりの人々は、大半が、何らかの形で基地と係わりを持つことで暮しが安定したのだ、というようなことを聞いたことがある。そんななかで、そこから少しはなれた原野のまんなかで、折しもむせるように煙ってきたその地力特有の霧のなかに浮びあがったマンサード屋根の牧舎(ことによると住居)は、軒先までがコンクリートブロック積みだったから最近のものだろうが、なにかほっとするほどさまになっていた。

 

 

 この三沢あたりの風景は、どちらかと言えば特異な風景なのだが、しかし一般に、鉄板葺の家々が多くなっている。しかもそれが、どういうわけか、ほとんど赤茶色:鉄さび色なのだ。屋根だけが妙に浮いて見える。私にとって、東北の普通の町の一般的な印象は、この赤茶色の屋根だと言っても、それほど言いすぎではない。どこの町であったか、国道のバイパスが、川沿いに発展した町をまいて小高い所を通過していたが、そこからながめたその町は、一枚の赤茶色の薄板をもみくちゃにして拡げたような感じであった。

 もとよりこれが初めから赤茶色の鉄板葺であったわけがない。多分、昭和の初めぐらいから徐々に鉄板が出はじめたはずで、それも当初のはコールタール塗りでまっ黒、鉄板も最近のように長尺ものがないから小さいものをひし形や長方形にはいであるし、細工も手がこんでいる。そういうのは見ていて安心できるから不思議である。しかし大部分はより近年になってのもので、赤茶色はトタンによく塗るさび止めペンキの色なのだ。鉄板葺の前は場所によると板葺があったかもしれないが、おそらく大部分は茅葺であったのではなかろうか。だから町によると、茅葺、茅葺の上にそのまま鉄板をかぶせたもの、初めから鉄板葺で考えた(旧い)家、そして最近の鉄板葺、とが混在している所もあり、ちょっとした町では、ほとんどが鉄板葺の建物になってしまっている。そして、更にちょっとした町では、そこへ鉄骨やコンクリートの平らな屋根が続々と進出しだしている。雪が少ない所ならまだしも、雪が降ったらどうするのだろうかと人ごとながら気にかかる。土地土地で微妙にちがった姿をしていた村や町も、どこもどんどん一様になってゆくらしい。そうしてみると、あの三沢あたりの特異な形ときめつけた家々は、ことによると、現代の地域性の表れなのかもしれない、と皮肉に、そして真面目に思えてきたりする。

 それでも、このようにどんどん都会風に、一様になろうとしている町をほんの少し離れると、そこにはあい変らず昔ながらの茅葺の家があったりする。そういう家を見ると、あの町なかで旧い鉄板葺の家にぶつかったときと同じように、妙にほっとするのであるけれども、それは決して私が懐古趣昧だからではないだろう。何と言ったらよいか、あえて言えば、その場にぴったりだからである。屋根だけが浮きあがってくるわけでもなく、壁だけが目だつわけでもない、あるべきものがあるべき姿をして(というより、姿につくられて)そこにある、とでも言う他はない。所を得ているのである。

 

 八甲田山系の北側にある七戸(しちのへ)町から八甲田への道すじのちょうど町の家並みを出はずれたあたりにもそんな家があった。水田から一段上った段丘上の、道に面し、まわりを林と、よく手の入れられた畑とに囲まれた、まだそれほど傷んでいない茅葺の家である。車で町から坂道を上ってくると、まず茅葺の屋根から見えてくる。これはもう、ほんとにさまになっている。小割りのガラスが入った古びた建具がはまっている。後になって取り付けたのではなく、初めからなのだそうである。昭和の初めの建設だ、と柔和な顔つきのおばさんが話してくれた。当時は珍しかっただろう。間取りは普通の農家と同じと言ってよく、ただ、かなりの寒冷地だから、吹き通しになるような縁側はなく、閉じ気味のつくりになっている。土間は向って右:東側にとられ、その一画、東南の角には馬屋が仕切られている。七戸町あたりを、下北半島の下北に対して上北(かみきた、郡名でもある)と呼ぶが、この地方は古代より馬の産地であったらしく、古間木(ふるまき)などの「牧」地名も残っている。 

  東北線の「三沢」駅の旧名は「古間木」:ふるまき:であった。しかし、最近駅の近くにできた引湯の温泉場が「古間木」と書いて「こまき」と読ませたため、こちらの方が幅をきかせはじめたらしい。

  近世、このあたりまでが「南部」に属し、変らず馬の産地で有名で、近代になると軍馬の産地として、戦後は北海道にならぶ競走馬の産地として名が通っている。競走馬は、いま、大きな企業牧場で養成れているが、軍馬ぐらいまでは、個々の農家も農耕馬ともども飼育していたものと思われる。馬屋などは、不用になると改造されてしまい、大抵の場合、復元でもしないとその原形を見ることができないのが普通だが、ここではまだしっかりとした形で改造もされずに残っていたのである。

  南部は曲り家(まがりや)が有名だが、このあたりでは見かけないようである。

 そんな風に思いつつ土間を見せてもらおうとして近づいて驚いた。馬屋はいま納屋としてでも使っているのだろうと単純に思っていたのにそこに何か動物がいる気配がある。しかも大きなもの。それは牛であった。茶色の肉牛である。近づく私に向い、奥から出てきてしきりと威嚇しているのである。奥の力をのぞいて合点がいった。生れたばかりらしいかわいい子牛がいたのである。そういえば、いまこのあたりでは、かつての馬に代り、農家は肉牛・乳牛を飼育していて、あちこちに共同放牧場がある。かつての馬屋は産室として使われているのである。

 土間の一画に馬屋を設ける家のつくりがあるのはかねてより知ってはいても、実際に、馬ではないにしろ、一つ屋根の下に家畜と起居をともにしている生活を見たのは、これが初めてであった。後日、秋田県の田沢湖町の近くでも同じように牛を飼っているのを見かけたから、牧畜・酪農をやっている家では、いまでも古い家をそのように使って暮している場合が多いのかもしれない。

 親牛の威嚇にめげず、近づいて詳さに見てみると、土聞との仕切壁は一応あるものの、板壁はすきすきで向うが透けて見える。あぶが群れて翔んでいる。清潔に整えられてはいるけれども、特有のにおいはあたり構わずである。子牛が育つまでの短い期間だとはいえ、大変そうだ。まして、そんな一時期だけではなく、少なくとも半年以上の長期にわたって、昔は起居を共にしたのであろうから、その大変さは、想像を絶するものがある。そこの所のリアリティには、いま一つ私には近づき難く、まさに字の如く垣間見るのでせいいっぱいだ。

 もんぺ姿のおばさんは、上着も長袖でだぶだぶ、出ているのは顔と手だけ、頭も手ぬぐいをかぶっている。半袖シャツの私は、だから、あぶにとっては格好の標的になる。追っぱらうのに苦労する。昔からの農作業着の姿格好に納得がゆく思いである。あれが体にぴったりだったりしたら、いたる所刺されてしまうにちがいない。私の足首を刺したあぶは靴下の上から刺している。よほど目のつまった厚手の生地でなければ防げまい。そして、そんな厚手の衣服がぴったり体に着いていたら、たまったものではないだろう。体全体をだぶだぶに薄手の布でおおうというやりかたに、変な所で納得する。虫に対しても、陽ざしや暑さに対しても、そしてもちろん作業性も、これはうまくいっている。

 

 蚊帳(かや)というものがあった。後になって聞いておけばよかったと思ったのだが、あの牛飼いの家では、まだ蚊帳をつっているのだろうか。それとも、都会のように、殺虫剤を散いたり、たいたりしているのだろうか。しかしそれでは、どう見ても間に合いそうもない。もちろん、あの東上線の車内で見かけた虫さされのご婦人たちの家では、蚊帳はないはずだ。第一、多分、彼女たちの往む家では、蚊帳をつるにも壁には長押(なげし)はもちろん釘一本打つところがないのではあるまいか。ことによると、彼女たちはもう蚊帳なるものを知らない世代であるかもしれない。いま大学生諸君は昭和三十年代の生れ、もうじき四十年代の生れの人たちが出てくるが、彼らはまず蚊帳というものを知らず、知っていたとしても、実際に蚊帳をつっての生活を味ったことのある人はまず都会育ちの人たちにはなく、地方の人たちでも数少いと思われる。私が高校のころまでは、私の家でも蚊帳をつっていたように思う。もう二十五年ほども昔のことだ。蚊帳をつるのは、子どもにはそれなりに難しく技術がいったし、蚊を入れないようにして蚊帳のなかにもぐりこむのも、それなりのこつがあった。長押の裏側が斜めに切られていることを私が知ったのは、蚊帳つりを通してなのである。それにしても、蚊帳のなかは子どもにとって楽しい世界であった。日ごろ見慣れた屋内に、更に半透明でふわふわした屋内がたちまち出現するのである。それに、麻でつくられたあのはだざわりは清々しい。

     

 

 蚊帳が一般に普及したのは中世以降のようだが、考えてみると、これはなかなかの発明である。とにかく、虫の群れている世界のなかに、虫と無縁の空間をつくりだしてしまおうというのだから、これは並の発想ではない。なにしろ、言ってみれば際限ない虫の群れなのだから、それを一々殺すなどという発想は、どこをたたいても出てこなかっただろう。

 戦後ある時期まで、多分占領軍の指導ではなかったかと思うのだが、蚊の発生源を断つべく、DDTやBHCをやたらと散布したことがあったけれども、これは蚊帳という発想に比べると、たしかに源で断つという局面では合理的ではあるが、かなり無暴で恐しい発想と言うべきだろう。それは、ゲリラを追いだすというたたそれだけの目的で、ゲリラの隠れ家になる密林を根絶やしにすべく枯葉剤を散布したのと一脈相通ずる所のある発想である。日本という湿潤な風土は、必然的に蚊やらその他の虫の世界ともなるわけで、それらだけを不用なものとして除去してしまうことは、それこそ生態系が変りでもしなければできない相談である。実際、最近読んだ「土は訴える」(信濃毎日新聞社刊)という本によると、戦後このかた農業近代化の一環として盛んになった個別害虫対応型の薬剤を初めとした諸種の農薬散布は、土壌の生態をすっかり変えてきてしまっているのだという。そうだとすると、それは、そもそも人々がそれでよしとして拠ってきたはずの風土そのものを、知らず知らずのうちに改変・改悪してきたことに他ならないが、そのことにはだれも気づいていないということになる。

 たしかにもう大抵の所では、蚊帳をつらなければいられないというほどには蚊はいなくなった。私の子どものころには、蚊帳にもぐりこむのに蚊と道づれにならないようにするには相当こつがいったほど蚊がいたものだ。それだけまわりに蚊の住める世界があったのである。蚊帳なしで殺虫剤だけで済ますことができるというのは、言い換えれば、それだけ蚊の往む世界がなくなったということだ。そういえば、私の住む筑波研究学園都市には、不思議なことにせみが少ない。日常的にはすっかりせみが鳴かないことに慣れて気づかなくなっているのだが、旧村部を通りかかって、油ぜみがじーじーと暑くるしく鳴いているのを聞いたりして、そうだ、夏はせみが鳴くんだった、と気がつくほどである。樹木がないわけではない。公園はたくさんあって、多種多様な樹木が植えられている。しかし、まずほとんどせみの声は聴くことがない。おそらく、開発にあたって、地表面をあらかたひっくり返し、改変してしまったため、地中に十年もの年月暮すというせみの幼虫が絶滅してしまったからなのではないかと思うが、さだかではない。東京でさえ、せみは鳴いているのである。せみの声を聴けない夏というのは、考えてみると、淋しいものだが、そのように思うのもまた、私か懐古趣味だからなのであろうか。

 

 つい先日、学園都市に隣接するある町の人たちと懇談する機会があった。その町では、ここ十年ほどの間に簡易水道が普及して、それまでは唯一の飲み水供給源であった井戸が、またたく問に消えていったとのことであった。場所によると夏場枯れたり水量が減ることもあったが、とりたてて汚染がすすんだわけでもないから、いまでもおいしい水を飲みたい人たちが細々と使ってはいるそうである。しかし、コックをひねれば、必要な場所に必要なだけ自由に水が得られる利便性は、たとえ水道料が要ろうが、なにごとにもかえがたく、井戸はほとんど放置され消えつつあるのである。水道の普及による水の白由化が、大きく生活を変えたであろうことは想像に難くない。一例をあげれば、それまでは井戸水が得られず(つまり、掘ってもいい水が得られず)、従って家も建てられなかったような場所(たとえば、低湿地のまんなか)にも家を構えることができるようになり、集落の様相も変り始めている。当然、家うちでの生活にも変化が現われているだろう。

 そして、驚くべきことに、水道化が始まってたった十年しか経っていないのに、既に子どもたちはつるべ井戸が何であるかを知らなくなっている、とその人たちは半ばあきれ、そして嘆いていた。別にこの人たちは町の古老なんかではない。多分、三十代の人たちである。都会ずまいの子どもたちが知らないのならまだしも、現に、使われなくなったとはいえ、まだ姿をとどめているものを見ているはずなのに知らないのだという。おそらく、この記憶喪失の傾向とそのスピードはまさに現代そのものの象徴であると言ってもよいだろう。なぜ井戸が水道にとって代られるのか、つまり、水というものの生活にとっての重さ:意味、水道を敷くということの(本質的な)意味、がまったく省みられることなく、水道の(現実的な)利便性のみをクローズアップし、それをただ使うだけがあたりまえになってしまっているのである。その一方で、「私たちの郷土」のような副読本が編まれ、子どもたちに郷土の昔が教えられるとき、たった十年前の昔のことをいったいどうしてくれるのだ、というのがこの人たちの複雑な思いであるらしかった。

 私にも、この人たちのいらだちがよく分るような気がする。「歴史」を学ぶということが、なにかこう今の生活とは無縁の対岸にある珍しいものを見ることであるかのように扱われ、人間の生活の正当な、あるいは順当な(もちろん、いろいろな波風をも含んでのはなしだが)変遷のストーリーを知るということがないがしろにされているのは、まったくおかしく、まちがっている、と私は思うからである。

 おそらく、つるべ井戸もそのうち「文化財」となり、そして初めて副読本や教科書に載せられ、そういう回り道をして初めて子どもたちは井戸について知るのだろう。だがそのとき、既に、井戸のリアリティは、生活とはほど遠いものとなっているだろう。生活にとっての大事なことと、稀少価値としての大事なことが、混同され、とりちがえられ、あるいは、すりかえられて教えられることになるのである。

 

 さきほどの蚊帳もまた、多分そのうちに「文化財」として、あるいは「民俗資料」として、郷土資料館などの片すみでほこりをかぶるようになるのだろう。もちろん私も、そういう日常の生活用具で、使われなくなったものを、資料として後世へ伝えてゆくことは必要なことだと思ってはいる。問題は、それでいったい何を伝えるか、なのだ。その点で、私は、文化財の「財」の字にひっかかりを覚えるのである。なぜなら、それは得てして稀少価値としての評価のみにすりかわってしまいそうだからである。

 古代以来の多くの使われなくなったものが、文化財にされてきた。たしかにそれらの多くは、正当な、あるいは順当な道すじをたどって使われなくなったものであるにちがいない。それらが使われなくなったのは、それらの本来の役割が(逆な言いかたをすれば、それらのものを必要としたその「必要」が)、他のもの、あるいは、やりかたにとって代られ、受けつがれたからなのである。そういった本来の本質的な役割を、根本的・絶対的に不要とするような状況になったために消失していったものというのはまずほとんどないだろう。まずは大抵、なにかにとって代ったのである。

 では、蚊帳の衰退はどうなのか。網戸がそれにとって代ったか、殺虫剤がそれに代ったか、あるいはそれとも、虫のいない世界になって、根本的に変ってしまったのか。

 

 戦後にぎにぎしく唱えられ実施された「生活改善」運動や、その後のいわゆる高度経済成長・技術革新にともなう動きのなかで、多くのものや、やりかたが消えていった。それらはいずれまた「文化財」としての評価が与えられるのかもしれないが、しかし、それらの多くのものや、やりかたが、すべて、順当な道すじをたどった結果として消失していったとは、私には思えない。むしろ、その消失や変容は、内からの潜在的な活力によって生じたのではなく、外からの、本質を見失った他動的な力によったものではなかったか。

 もちろん、いまさら、消えていったことを、ただ嘆いてみてもはじまらない。問題なのは、戦後このかたの経緯のなかで、ものごとや、やりかたの発展・進歩・成長・・・・変容は、本来、生活に密接に結びついた、生活に根ざした内的な活力によって、その道すじをたどるものであるという重大なことが忘れ去られたことである。

 それはすなわち、それぞれの土地にはそれぞれの生活のしかたがあった(たとえば、同じ作物をつくる場合でさえ、それぞれの土地なりのやりかたがある)ということが見失われ、いわば全国一律のやりかたが推奨されることにも連なってくる。だれも、子どもたちに、たった十年前まで存在した井戸の意味さえも適格に伝えようとしないのである。ことによると、十年前まで非文明であったことなど、知る必要もない、などと思われているのかもしれない。というのも、多くの場面で、都会の基準が絶対的価値基準であるかのように見なされ、それにどれだけ近づくかが目安にされる傾向があり、それに遠いことをもって恥とするかのような気配さえ感じられるからだ。

 ものごとや、やりかたの発展・成長が本来たどるべき(生活の結びついた)道すじは、俗なことばで言えば、そこでの生活の知恵によってたどられるべきなのだが、こういった戦後このかたの風潮のなかでは、もはや、そういった知恵が生まれる素地をもぶちこわされ、ただいろいろのものが受け売りの形でとびこみで入ってくるだけになり、真の意昧での創造力も根こそぎにされてしまう。いま、あちこちで伝統的なる「もの」の見なおしが盛んになってきているようだが、それは決して、単に伝統的なる「もの」そのものをあげつらうべきではない。大事なのは、それらがなぜそうなったか、そしてなぜ消失したのか、そして更に言えば、なぜいまになって、それらを「伝統」としてもてはやさなければならなくなったのか、その点について考えることなのだ、と私は思う。そしてこの視点が、いまの世のなかでは、決定的に欠落しているのである。

 私の左足首の虫くいも、もうわずかに跡を残すだけである。痛みは一時のもの。私もまた、ときどき、あぶに刺されなければならないのかもしれない。

 

 

あ と が き

〇学園都市ではせみが鳴かない、などと書いたせいでもないだろうが、夕方、鳥にでも追われたのだろうか、5階の私の室の窓に、油ぜみが飛びこんできた。少しは増えてきたのかもしれない。

〇東北もまた、いたるところで新しい道がつくられ、そして、まずほとんどの道は舗装されていた。どんな奥地でも、人家のあるところまでは舗装されている。交通事故も増えているのだろう。山形の西馬音内(にしもない、と読むのだそうである)という町を通りかかったとき、警官が一台一台車をとめて何かしているところにぶつかった。検問かな、とも思ったが、なんとなくその場の空気に険しさがない。私もつかまった。検問ではなかった。そこはちょうど神社(アグリコ神社というらしい)の前、神官ともども、通りすがりの車に、お守りを配り、簡単におはらいをしていたのである。交通安全運動というわけである。その町の名産だというそばまんじゅうはうまかった。

〇隣り町によい木造の学校があるときいたので見に行った。昭和26年の建設というから、そんなに旧いものではない。戦後の資材不足のころのものである。しかし手入れがよいから、見ごたえがある。建具などは元のままで、非常にしっかりとしている。外まわりのペンキは、この夏休みに、父母の労力奉仕で塗ったもので、それまでは建設当初のままだったのだそうである。きけば、この校舎は、そもそもが、地域の父母の普請により建ったのだという。学校は、その部落の高台に在るのだが、元は部落のなかにあり、明治からのものであったが、戦後、学校の統合問題が起き、一時は廃校となるはずだった。それに反対する部落の人からの声は開きいれられず、そこで、部落の人たちが自力で全てをまかない造ってしまったのがこの学校なのである。彼らは建築委員会をつくり、いくつかの小委員会のもとで、敷地の取得、資金ぐり、資材あつめ、町との交渉・・・・を実行したらしい。新任の校長先生が散逸していた各種の資料の収拾に懸命になっていたのも好感がもてた。設計も町の大工さんがやったらしく、図面も残っていた。一度、あらためて詳しく調べてみようと思う。参画した人たちは、もう70歳になっている。 30年以上も前のはなしである。そして、いま、若い親のなかには、とりこわして近代的な鉄筋コンクリート建にしたら、などという声も、少しではあるが、出てきているのだという。

〇それぞれなりのご活躍を!   

             1983・8・30             下山 眞司


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「現代 頼母子講・・・・父母による『施設』普請」 1983年8月

2019-12-03 10:20:45 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №5」 A4版10頁 

  現代 頼母子講・・・・父母による「施設」普請・・・・ (1983年度「筑波通信 №5」)

 頼母子(たのもし)講あるいは頼母子無尽という中世以来庶民の問に脈々と生きながらえてきた制度がある。大言海によれば「相救ヒテ頼もしキ意」とあるが、要するに、数人が集まって一定の口数と給付すべき金品を予定し、定期にそれぞれ引き受けた口数に応じた金品の掛込を行い、抽選、入札その他の方法により、順次金品の給付を受ける組合類似のしくみのことである(平凡社・世界大百科事典他による)。

 鎌倉時代に、一団の人々が相寄り、少しづつ金穀を出しあい、これを一団中の困窮者に融通し救済したのにはじまり、神社・仏閣の維持修繕あるいは社寺への参拝費の融通などにも利用されたという。そのしくみは、室町時代にはほぼ現在行われているものと大差ないまでに整えられたらしい。言うならば、いまの共済組合のごとき性格がある。親もしくは親方と呼ばれる一人または数人の発起人とその発起人が募集した数人ないしは十数人の仲間から成り、それを講というのである。江戸期になると、講の目的によっていろいろな目的に広がった。たとえば、特定人の救済のための「親頼母子]、被救済者の特足しない純然たる相互扶助のための「親なし頼母子」などかある(以上、いずれも同上書による)。

 先号で紹介した「 S   園  」の話について、いろいろな声がきこえてきた。建物についてもさることながら、あの「施設」の建設の経緯や、前文で「現在の状況」としてしか触れなかった状況について詳しく知りたいというのである。そして、これをどのように説明したらよいものかと考えていたとき、ふと思いついたのが、なんとなく知っていた「頼母子講」というしくみのことであった。この施設の建設は、言ってみれば現代風頼母子講によって建てられたといえるのではないか、と。そこで事典などをあたって「頼母子」について調べてみたのが前述の内容である。わたしが頼母子になぞらえたのは、それほどまちがったことでもなさそうである。

 

 いま私の手元に、「 S   園  」の建設を願った親たちのガリ版刷りの文集がある。親たちが考えていたことを知るのには、そのいくつかを紹介するのが一番手っとり早いだろう。

 

〇子どもが小学校3年生のころでしたでしょうか。片道1時間半位かかる養護学校に親子で通っていたのですが、電車のなかで、私の向い側に座っている子どもに知らない女の人が何かしきりに言っています。そばに行ってきいてみると、赤ちゃんを抱いた人が立っているので、席をゆずってあげるように話をしていたとのことです。「この子は知恵おくれだから」と言いかけて、思いなおして、子どもを立たせ席をゆずりました。

 「知恵がおくれていても身体はしっかりしている。知恵は遅れていても、世問は、9歳の子は9歳にみる」。だから、頭を使うことは無理としても身体を使うことはできるだけ歳なみにさせなければと思いました。そして、親としてその努力をするつもりでした。ところが、どんなに秀れた教育者の子どもでも、その学業の修業は親ではできかねるように、この子たちの生活習慣の訓練をすることは、なかなか親では難しいのです。人にあずけると「とても良い子」なのに、将来をだれにもまして案じている親には「とても困った子」なのです。かと言って、精神年令が3歳にもならない、身体は大きくなっても、パンドラの筐(かご・かたみ・キョウ)から出てきたといううそとかねたみとかを身につける以前の人間のような人を他人にあずけることはできません。あずける未来も考えられません。私と子どもとは30歳違うので、真剣にその差を縮める方法がないかと考えたものです。考えに考えて悩みに悩んで到達した答が、親がつくり、親が(集って)育ててゆく施設だったのです。・・・・

 

〇・・・・知恵おくれだと分ったとき、あちらこちらと病院めぐり、とうとう大阪では納得がゆかず、治療と教育の場所を求めて上京し、・・・・なけなしの財布をはたいての母娘での東奔西走の明け暮れ、文字どおり、髪ふり乱してのいだ天走り、何とも哀れで、他人の目にはちょっとおかしい姿ではあったのです。泣いた涙の量は計り知れず、眠れぬ夜は数えきれず、・・・・武蔵野の雑木林の中に立ち、闇を見つめたこともあったのです。

 

〇・・これまで親は、先生や近所の方がたの理解と協力を得て、なんとかがんばってきましたが、この先どうあがいても、この子を残してゆくわけで、親なきあと、安心してまかせておける生活の場をつくっておかなくてはなりません。・・・・

 

〇私はこの子がかわいいです。いとおしいのです。またにくらしくもあるのです。こんな澄んだ目をしているのに、こんなにかわいい手をしているのに、努力しないのだろうか・・・・。たとえ少しでも良い効果があってほしい。「生あるものは変り得る」私はこのことばを信じます。現在の社会のなかでは、障害児の生きてゆく基礎はまだまだ非常に微弱だと思います。私たちの子どもがこれからどんなに成長したとしても、それだけで生きてゆくことができるとは考えられません。

 

〇名前を呼んでも何を話しかけても知らん顔、視線をあわせることはほとんどなく、おもちゃなど全く興味を示しませんでした。夜中にきまって目をさまし、大好きなひもをふっては明けがたまで遊んでいる状態が来る日も来る日も続きました。・・・・真夜中に子どもと二人で起きているときなど、「いっそのこと・・・・」と考えたのも一度や二度ではありませんでした。4歳をすぎたころ、幼児グループという(非公認の)通園施設があるのを知り、通いはじめました。そこに2年、(理解ある)幼稚園に1年、(養護学校が義務教育として制度化されてから、その)小学部へ入り、そこを終えて、いまは中学部にいます。・・・・私たちの一番気がかりなのは、学生生活を終えてからのことなのです。・・・・

 

〇土曜日の午後、寄宿舎を尋ねると、待ちかねていたらしく、体じゅうで喜びを表して、ぴょんぴょん跳びはねています。一週間よくがんばったね、というと、おかあちゃん、とこたえます。こういうように呼ぶようになったのは、この養護学校の寄宿舎に入ってからです。それまでの12年間、おかあさん、と呼ばれてみたいというのが夢だったのです。その夢がかなうことになったきっかけは、皮肉にも、主人の入院という不幸があったからです。核家族ゆえの窮余の策で寄宿舎に入れたのでした。それは大きな試練であったとみえ、おねしょをしはじめたり、わざといたずらをしたり、自分の体を傷つけたりして困らせました。それを見るたびに、家庭から離すことはマイナスなのではないかと悩みながらもどうすることもできず、親子ともども耐えるしかありませんでした。

そんなとき、ある日突然、おかあちゃん、と言いだしたのです。それをきっかけに、好きな先生や友だちに愛情を示すようになり、土曜日、おかあちゃん、おむかえ、と自分に言いきかせながら、月曜から土曜までは寄宿舎にいなければいけないのだと納得できるようまでに成長したのです。たまたまやむを得ず家庭から離したわけですが、それまでどおり家庭においたら、はたしてこれだけの成長をしてくれたろうかと思うとはっきり言って私には自信がありません。家庭という温床はもちろん必要条件ですが、この子たちの能力を最大限伸ばしてやるには十分条件とは言えないのだと認めざるを得ません。よき指導者のもとでの生活が望まれるのです。

 

〇・・・・多勢の人のなかほど孤独を感じるということがありますが、(障害児が)普通児のなかへ入ってゆこうとすればするほど、みじめな気持になることも事実で、幾度も挫折感を昧ったものです。健康な人も、障害のある人も、いたわりと謙虚な気持で互いに認めあう社会であってほしいというのが、障害児を持つ親の一番の願いではないでしょうか。いままでの施設はもちろんのこと、老人ホームでさえも、人里離れたさびしい所に建てられることが多かったのですが、(私たちの望む施設は)そうあってはほしくないのです。(私たちの望んだ施設ができ、子どもたちをそこに入れたら)親の役目は済んだとは、わたしたちのだれも思うわけもなく、親だけでは限界がある生涯教育を、専門の方の指導の下でしていただき、そして物心両面でできるだけ支えてゆきたい、というのが、私ども親の心境です。

 

〇児を抱き想いのままに雲を追う 流れゆきたる病児との日々

 

 この文集は、建設予定地の地元の人たちに施設建設の意義を理解していただくために編まれたもので、ここに引用したのはごく一部である。

 おそらく概略お分りいただけたのではないかと思うが、この親たちをして、いわば無暴な施設づくりに走らせたものは、おおよそ次のように要約できるだろう。すなわち、親たちは平均すると30代後半から40代。子どもの年令が10代前半、いわゆる中程度から重度の障害のある子どもを持っていて、家庭だけでの保護に先行きの不安を抱いている。つまり、養護学校を出たあとの行く末が不安なのである。もちろん、通園施設、通勤寮、更生施設、授産施設、あるいは収容施設等、建前の制度としては整えられつつあるが、それでもなお全般的に不備といってよく、入所を待たされることはあたりまえになっている(たとえば、この「そだち園」は更生施設にあたるが、入所志望者は30名の定員に対し、5倍以上の167人もいたのである)。そしてまた、それらの施設の多くは(全てではないのはもちろんだが)人里から隔離されすぎたり、まったく収容所であったりして、子どもそれぞれの個性に対応した指導や教育の点では頭をかしげたくなるものになりがちなのである。ひどい場合には、大きいことはよいことと、という企業論理がもちこまれたりさえするのである。

 親が望むような施設ができるようになるのを待っていても、国などの動きは決して早くない。まして、それを待っていたのでは親子とも歳をとり、先きゆきの不安は増えるばかり。であるならば、指導者を探して自分たちで望ましい施設をつくってしまえないだろうか。

 

 実際、自らの手で自分たちの望む施設を、といういわば無暴な夢は、とある日の午後、喫茶店での(障害児を持つ)数人の母親の会話からはじまったのだそうである。彼らは既に、それぞれ自分の子どもを抱え東奔西走してきているから、いろいろな施設や指導・教育のさまを知っていた。実現の可否は別として、夢に実体をもたせることはむしろ簡単なことだったろう。問題は、実体を実現させ得るかどうかなのである。おそらくそれが母親たちの強みなのであって、父親たちであったならば、実現の見込みなどあるわけはないとして夢は夢として放りだしたにちがいないが、母親たちは逆にかすかな手ざわりをもとに調べだした。一定の自己資金と土地がありさえすれば、国からの補助金によって設立が可能なことが判ってきた。そこまで判ると、さしもの現実的な父親たちも心を動かしだす。数人の母親たちが発起人となり、施設設立を願う集団が発足する。 25の家族(当初は26)が結集するのは、そんなに時開がかからなかった。ほんの数ヶ月なのである。もちろんそれには、この親たちの熱意もさることながら、現在園長をつとめているT氏をはじめとするその道の先導的な指導者・専門家たちの側面あるいは正面からの援助があったことは言うまでもない。

 彼らはいろいろな施設の見学会や、結集した全家族親子の参加する合宿をするなどして意志の結束につとめるとともに、一家族200万円の資金積みたてを行い、あわせ土地選びに奔走した。 200万円という金額は決して小さいものではなく、土地選びはずぶの素人にとっては初めての、しかも海千山千の不動産業者が必らずかんでくる厄介な代物だったといってよい。

 

 土地ははじめから山梨県の東部に白羽の矢がたれられ、いろいろ探された。その理由は、大きく言って二つあった。一つは、東京都内には土地がないこと、仮にあったとしても法外な値であって手がでないこと、あるいは人里離れた場所になってしまうこと、そしてもう一つは、園長自身、ここ十数年山梨県営の心障者施設で活躍されていた関係で、なにかと地元の関係者とのコンタクトが得られやすいことが、運営上も得策だったからである。更に言えば、そこは東京からは車で1時間ちょっと、父母が容易に訪れることができるのも決め手であった。(毎土曜・日曜には東京へ送迎車を出すそうである。)

 土地は、現在の地に決定するまでにいくつもの候補地があった。そして、これが決るまでの経緯は、まさに筆舌に尽し難い。別にとりたててこの種の施設の建設反対が(都会でのように)あったわけではない。むしろ、町を構成している各部落のなかでの微妙な人間関係の確執が部落内での対立を生み(たとえば、あれが賛成するならば反対だ、というようなことも起きるのである)あえて反対をとなえる理由として逆に施設反対を持ちだすこともあったようである。もちろん、施設アレルギ一が皆無であったわけではないが、日夜を問わぬ父母の説明(一戸ずつまわるのである)に、まずほとんどの人たちは納得してくれたのである。いまも、まず友好的だし協力的である。いずれにしろ、土地が最終的に決ったのは、開園予定の8ヶ月前、それまでに1年半以上もかかったのである。その間に、一方では国の補助金の申請は着々と(というと簡単であるが、やたらと書類がおびただしい)進み、その面での可能性は、まず確実なものになってゆきつつあった。いまだからこそ言えるのではあるけれども、この1年半以上にわたる地元の人たちとの接触は、決して無用なことではなかったと私は思う。いまの地元の人たちの理解と好意は、それによって醸成された面が多分にあると思うからである。もっともその時点では、なかなか土地が決らず、土地が決らないことは即補助金も下りないことであったから、いらいらのしどおしであった。

 

 設計者としての私がこの設立に係わりをもったのは、父母たちの結集が終り、土地選びがはじまりだしたころのことであった。つまり、いまから2年半ぐらい前になる。この人たちとの出会いは、まったく偶然だと言ってもよいだろう。大分前に、ちょうど中野の江原小改築問題というこれまた前代未聞の父母の運動に傍から参画していたころ、これも折から制度化された都立養護学校の設計について、その学校へ子どもを通わせることになる母親から相談を受け、都の教育行政に精通していた江原小の母親たちに都への仲介をお願いしたことがあった。養護学校の相談に見えた人が、この今回の「 S  園 」設立のそもそもの発起人(喫茶店で夢を語った人たち)の一人だったのである。江原小の人たちは、ことによると忘れているかもしれない。

 私も何度か、土地選びの段階で、現地を訪れたけれども、しかし、あの父母たちのようには地元の人たちと接触したわけではない。私のしたことは、その段階では、候補地の建設敷地としての可否や問題点を示し、場合によると、そこでの建物の姿を図にしてみること、そして地元の人たちに説明する程度であった。むしろ私はそのとき、この父母の、まさに驚嘆すべき熱意・迫力と、地元の人たち(主にぶどう園などを営む農家の人たちである)のしたたかさと村の人間関係の微妙さ・複雑さに、文字どおり、教えられる、との思いでいっぱいであった。普通の(都会の)設計ならビジネスライクにすいすいと割り切って進む話が、ここではそうはゆかない。おそらく、ビジネスライクにすいすいと事を進めること自体が、どこか重要な点を見失っているのではないか、というようにさえ私は思ったものだ。多分それはまちがっていないだろう。

 土地がさまざまな曲析を経てほほ落着をすると、設計図をひかなくてはならなくなる。てんてこまいをするのは、今度は私たちの番だ。仕事は敷地の高低測量を自前でやることからはじまった。

 そのときまでに、別の敷地での計画案として数案既に提示し、いろいろな検討は行われていたのであるが、敷地が変り、急挙また三案ほど計画案をつくりなおした。そして、いま建っている建物の基本は、実は、ほんの2・3時間で、園長の自宅でつくりあげたものである。昨年の七月半ば、猛烈な雷雨のさなか。いま決めないともう時間がない、まるで試験を受けているような気分で、せっぱつまってつくりあげたものである。とにかくこの案でGOサインがでて実施図面作成に移行するわけであるが、そこに至るまでの諸々の経緯もまた筆舌に尽し難いと言ってよい。しかしそれは、設立運動そのものに比べたら小さな小さなことなのだ。

 

 私が(正確には私たちなのだが)この設立・設計にあたって考えたことは、先号で、少しまわりくどい言いかたではあったけれども、言わせてもらったので、あらためて詳しく言うつもりはない。けれども、一言だけあえて付け加えさせてもらうと、私は、心障者の更生指導・教育(の理想的な形)はかくかくしかじかなものである、あるいはあらねばならない、などということをあらかじめ設定して事をはじめることはしなかった。

 なぜなら、指導も教育も、心障者をしていわゆる社会復帰せしめることをもって目標としても、それへ向っての具体的なやりかた・展開は定型があるわけでもなく、絶対的な姿があるわけではない、ただあるのは、試行錯誤・模索の連続だけだと私は思うからである。だが、ともすると建築家の多くは、その建物での生活のしかた(この場合で言えば、指導・教育のしかた)を定め、それに合うように室を用意すればよい、とする考えかたをとってきたから、そのあるべき生活の型の設定に意をそそぎがちであったように思う。この考えかたは、なにもこの種の建物でなくても、まちがいだと私は思う(これについては、なかば逆説的に「建物は雨露がしのげればよいか」1983.3 昨年度第12号で、分かりにくい書きかたであるが、書いたとおりである)。ならば、この設計で私は何を考えたか。それは極めて単純な話であって、一軒の「家」をつくることなのであった。

 

 実施設計は八月と九月のニケ月。ここで考えられたことのポイントはいかにローコストで質を高めるか、という点に尽きる。建物は約1000㎡の平家建、一部二階。鉄筋コンクリート造が要求される(耐火建築=コンクリートという規定がある。当初、工期短縮をねらい、屋根を鉄骨で考えていたのだが、この規定ゆえに全面的にコンクリートとなる)。かけられる費用は、建物(電気・給排水・暖房・調理設備などを含む)に対して約1億6000万円、坪当り約53万円、おそらくこれは普通の小学校よりも安いだろう。こうなると、重点的に費用を使うしかない。構造を極力簡単にし、既製品を最大限使い(アルミサッシは住宅用の一番安いのを使う、など共通のおさまりを各所に使う一方で、配管の保全を容易にするため全館に床下のピット(トンネル)を設け、温風の床暖房をしくんだりしている。暖房等は、いわゆるセントラル方式をやめ、ブロックごとに制御するようになっている。これも保全経費を安くするためである。こういう施設の場合、建設費もさることながら、運用上の経費が安価になることも重要なのである。床材は相対的には高いものを使っているが、壁や天井材は、多分、これより安いものはないという材料:石こうボードを使っている。しかし実際に見ていただくと判るのだが、それほど安いなあとの感じは受けないはずである。それは、ほぼ全館にわたって、木製の幅本(床と壁の境)、腰長押(こしなげし:床よりの高さ約80cmの位置にまわした帯)、長押(なげし:床より約180cm)、そして天井の回り縁を盛大に設けたためである。天井にも、要所に、木製の縁を付けている。壁の保護にもなるし、またものをはりつけたり、かけたりするのに都合がよい。使った木自体は決して高い材ではないが、たったこれだけで、非常に木村を使ったような錯覚を与え、全体が暖か味を帯びてくるから不思議である。これはなにも私たちの独創でもなんでもない。その昔、フランク・ロイド・ライトという建築家(昔の帝国ホテルを設計したアメリカ人)が多用した手法であり、元をただせば、多分、彼は日本の建築からその手法を学んだはずである。

 

 とにかくローコストに徹し、設計はあがったのだが、次の難題は、いかに年度内工事として完了するかであった。十一月初旬の着工で工期は正規には五ヶ月、大目に見てもらっても六ヶ月しかない。工事は敷地への取付道路からはじめなければならず、足場も悪い。おまけに冬であるから作業時間も短かく、その上寒冷地。これ以上はないという悪条件。実際に本体に手がつけられだしたのは、十二月も末、だから主体は年が開けてからとなってしまった。それでいて、五月の連休前にほぼできあがってしまったのであり、この問の経緯もまた、筆舌に尽し難い、としかまったく言いようがないのである。

 

 そして六月一日、建物はできあがり、施設は開園した。「夢が実体を帯びてくるころは、まさに夢であって楽しかった。しかし、実体が実現するまでは、これはまさに、スリルとサスペンスに満ちた綱渡りの連続であった]とだれかが述懐していたが、それはほんとに実感である。私が先号に付けた「 S  園 によせて」という文の末尾で「・・・・建物は、いま、何事もなかったかのように静かに建っていますが、それは、天から降ってわいたかのごとくに何事もなくそこに在ったわけではないのです」などと言わずもがなのことを書いたのも、この実感が強烈だったからなのである。

 

 施設の建物はできた。しかし、この施設建設を目ざした現代頼母子講は、目的を達したとして解散できるわけではない。目的は建物そのものをつくることではなかったからであり、第一、この大事業は自己資金だけでは成し得ず、補助金の他に、7000万円という多大な借入金をかかえている。それを今後20年間、返し続けなければならない。そして、もう一つ根本的な問題がある。それは、頼母子講とは根本的に違う点なのだが、出資者必ずしもこの施設を利用できない、という点である。それはなぜか。補助金の性格ゆえである。補助金は公共の事業に対する補助であるから、建前としては、入所者を出資者の子どもに限定することはできない、というのである。 200万円という出資が可能な恵まれた人だけが補助金の恩恵を受けられるというのでは不公平である、という行政側の説明は、確かに一理ある。つまり、この講に参加した25人の家族は行政側に言わせると(建前の上では)数少ない秀れた施設づくり:施設運営にのりだした篤志家・ボランティアということになってしまうのである。

 もちろん、ここに結集した父母たちが、単に篤志家たらんとしたわけではないのは言うまでもない。彼らは、それぞれ、将来この施設に自分の子どもたちを入れることを望んでいるのである。そして、現に、この父母たちだけではなく、実は他に多くの父母たちが、自分たちの施設づくりを望んでいるのが実際なのである。これはいったいどういうことなのだろうか。

 端的に言えば、確かに一時に比べれば各種の心障者施設は整備されてはきているが、未だ十分なわけではなく、更に重要なことは、父母たちが心底から自分の子ども(の未来)を託し得ると信頼できる施設がないということを意味しているのである。国や都道府県などが建ててきているいわゆる公共団体立のこの種の施設でさえもが、決して父母の願望に応えているとは言い難く、むしろ、公共団体立の方に問題が多いようである。建物にかけられる費用も多く立派なのだが、建てかたも、規模もそして運営も、単に制度上の施設にすぎない場合が多く、父母たちの目には、字のごとく収容所としか見えないことがしばしばある。実際、父母たちが信頼できる施設というのは、経済的にもきりきりの民間の施設のようである。だが、こういうことは、公共団体立の公共の施設の本義から言って、おかしなことだ。しかし、おかしな現象は、なにもこの種の施設についてだけではない。他のいわゆる「公共施設」が、まずほとんど、その「公共」の本義からかけはなれているのである。ただ、他の公共施設の場合、それを使う側がなんとかやりくりし、また設立側も適当にお茶をにごして済ますことができるけれども、この種の施設ではそうはゆかない。そのありかたのありさま、そのまずさは、ことばの上の説明や弁解では済まず、直接的にしっかり見えてきてしまうのだ。本来、全ての公共施設が、本当の意味で対応していなければならないはずの、その「公共」を構成している「個」の問題に対する想いの欠落が、この種の施設では如実に明らかとなってくるからである。

 その意味では、この「 S 園 」の設立を願う父母の運動は、そしてそれに類するいろいろな、そして各地での運動の顕在化は、まさに「行政]のありかた、いわゆる「地方公共団体」「国」の「公共」に対する理解のしかた:認識のありかた、、を問うていることに他なるまい。人々は、税金という掛金を毎年積んでいるにも拘らず、「地方公共団体」あるいは「国」という頼母子講は、少しも「頼もしく」ないのである。そして、だからこそ彼らは、自らの頼母子講を組織したのである。

 

 だが、ここで、ことによると、一つの疑問が提起されるかもしれない。この人たちは200万円用意できたからいい。借金をしようがしまいが、とにかく 200万用意できた。借金もままならない人たちはどうするのかという疑問である。正直に言って、私にはそれに十分に答える回答がない。そして、こういう疑問があるからといって、この彼らの運動を、ぜいたくな運動だとは思わない。 200万の有無に拘らず、いまの世のなかで、公共施設のありかた・建てられかたの本来のありかたを問う意味では、必要不可欠なことだと思うからである。できる所からやらなければならないと思うし、現に、「 S 園 」設立に係わった父母たちも、200万がない人たちはどうでもよいなどとは、少しも考えていないからである。

 

 まさに筆舌に尽し難いことがいっぱいあった。しかし、この運動の傍に参画できたことは、建築の設計に係わる者の一人として、設計者の係わりかたを問われる意味で、望外の幸であり、そして、現実に建物ができあがったなどということは、まさに信じられないくらいである。

 

 開園後一ヶ月半経った七月半ば、泊りかけて訪れてみた。皆が歓迎してくれた。設計のまずさも目についた。だが、入居者たちは、どうやらそれぞれ好みの場所も見つけ、なじんでくれたようであり、建物は生きていた。そして、全ての職員は、さわやかに、情熱をぶつけていた。多分、この人たちの力で、「 S    園 」が名実ともに「 S 園 」として結果したとき、そこでまたあらためて「公共施設」とは本来何であったかが、世に問えるのではなかろうか。

 

あとがき

〇筆舌に尽し難い、ということばは便利なことばである。これによって、大分話が簡単になる。たとえば、農民のしたたかさ、としか書かなかったことも、具体的に書きだしたらどれだけの分量になるか知れたものではないし、そしてまた都会の生活に慣れた父母の行動原理もまた、この農民のそれと対比して書いてみたくなる。実際のはなし、同じ日本人でこれだけものの考えかたが違う、と感嘆したものであった。

〇私が一番感心し、そして困ったのは、建物づくりはつまるところ人間関係次第でよくもなりまたわるくもなる、ということを、なかなか分ってもらえないことだった。たとえば、同じ一つの細工を仕上げるのでも、職人が気分よく仕事できるかできないかが仕上りを左右してしまう、ということが、近代的契約に慣れてしまっている人たちには不思議のことのようだった。仕様の指示が同じなら、気分のよさわるさとは関係なく仕様どおりに仕上って当りまえだ、と信じてしまっている。理屈は確かにそのとおりなのだが、しかし、それはそうではない。ロボットではなく人間だからである。彼らは同じ10万の仕事だって、仕事にのれば、その10万を、それ以上の価値にすることを心得ていて、そうだからといってやりすぎたとか損をしたとか、決して思わないはずなのだ。

〇この父母たちが、実際に出資した額は200万である。しかしそれは、あくまでも、帳面づらのはなしである。彼らが地元に、ときには泊りがけで日夜訪れ、また勤めを休み役所と話し合いをもち、あるいは集会をもつ、といった諸々の日常的な活動は、もとより手べんとうであり、それは数字に単純に置きかえてみても、多分、出資額に倍する以上のものになってしまうだろう。つまり、単に金さえあればできるというものではないのである。

〇ハングリーな条件の方がよいものがつくれるんですね。いまのところ、見にくる人たちにはわりと好評で助っているが、そのうちの一人が語った皮肉ともなんとも分りかねる評語である。意外とあたっているかもしれないとも思う。

職員は皆若く20代が多い。その活動のさまを何と言い表したらよいかといろいろ考えたけれども、さわやか、ということばしか浮んでこなかった。

暑中お見舞申しあげます。それぞれなりのご活躍を!

       1983・7・28                 下山 眞司


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「開園式のスケッチ・・・・はしがきに変えて」 1983年7月

2019-11-19 10:09:10 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №4」 A4版10頁 

   開園式のスケッチ・・・・はしがきに代えて・・・・   1983年度「筑波通信 №4」

 彼は昨夜慣れないところで寝たせいか、よく眠れず、きょうは朝からきげんが悪いのだという。それでもいまは、食堂わきのギャラリーのベンチにすわりこみ、お得意のひもあそびに興じている。 20cmぐらいのひもを持ち、ひらひらさせたり、まるめたり、またほぐしたり、一心不乱に自分の手元を見つめながらすごしている。それはなにかをつくるのに熱中している職人のようだ。このコーナーが気にいったらしく、どこかへ出かけても、自分の部屋へつれ戻されても、すぐにまたやってくる。ときおりその愛用のひもを私にさしだして、何かを語りかける。

 もう一人の彼は、さきほどからずうっと、もう半ときになるだろうか、廊下の戸を開けはなち、庭に向って立ち、体を左右にリズミカルに、ちょうど起きあがり小法師をゆり動かすように、ゆっくりとゆすりながらそのリズムにあわせて、擬音を発している。というより、そのように私には見える。電車にでも乗っているつもりなのかな、とも思うがよくはわからない。彼はもう、この新しい所に慣れてしまったのか、ときおりそこをはなれて、あちこち見まわってきてはまた同じことをはじめる。

 彼女はお母さんのそばをはなれられないらしい。お母さんのそばにべったりだ。そんなところは、はにかみやの普通の女の子。

 彼のお母さんはつい先日亡くなられたのだという。お父さんの方が彼を一人ここにおいて帰ってしまうことが気になっていたたまれないのに、彼はまるで屈託がない。それがまた、かえって、お父さんを心配させるようでもある。お父さんは、いましばらく、帰るに帰れないだろう。

  ・・・・・・・・・・・

 きょうは、ここしばらく工事監理に通いつめた知恵おくれの人たちの家: S 園 という名である:の開園式、夕べから第一陣が住みだしている。これは、開園式の行事でごったがえしている一隅で目にした光景である。おそらくこれから、こういった場面が、毎日のように、いくつも展開するのだろう。普通の建物だと、人は初め、とまどいは見せつつも、部屋の名をたどり、知った風に歩きまわるのだが、この人たちの場合はそうではない。多分彼らの目の前にあるのは、部屋の名のないそれぞれの空間なのだろう。彼らは素直にそのありのままの空問に向っているのではないだろうか。部屋の名前にこだわらず、空間そのものに対されるというのは、設計者として一番こわいことだ。というのも、普通の場合は、説明のことばでごまかしがきくからである。この場合は、ことによるとごまかしがきかないかもしれないのである。

 いずれにしろ、ともかくも開園式までこぎつけて、ここ二年ほどのいろいろのことどもも、いわばすっかり過去のなかに埋ってゆくのだろう。それでいいのである。建物というもの、いや全ての人の営為というものはこういうものなのだ。ただ、だれがやったかれがやったというのではない、ただそれが天から降ってわいたものだとだけは思ってもらいたくはない。営為は、人の営為だということである。

 

 今号は、開園式のために用意した文章で通信に代えようと思う。因みに、この S 園 は、主として東京西部地区に住む親たちが費用を出しあい、また借金をしてつくりあげた、定員30名、せいいっぱいローコストで建てた小さな園である。なぜ親たちがその気になったか、という点にこそ、現在の状況が示されていると私は思っている。もしも多少なりとも関心がある方があれば、お問いあわせ願えれば、そしてなんらかのご協力をたまわれば、私としてもこの上なく幸いである。

        1983・6・27                 下山 眞司 

 

「 S  園 」によせて   設計者の立場から

 甲州塩山からほぼ北へ、秩父の山々を雁坂峠で越え武州へと通じる昔からの街道があります(車は峠を通り抜けられません)。笛吹川をさかのぼる道すじです。

 中央線を塩山で降り、この街道を二十分ほど車で行きますと、牧丘町という町に入ります。町の本拠地は、笛吹川とその比較的大きい支流との落合いにありますが、町域はかなり広く、あたりの山あいや斜面に点在している多くの集落を合わせてできた町です。牧丘という名前は、古代以来、ここが牧(馬の牧場です)であったことに拠っています(~の牧、というのが元の呼び名のようです)。いまは斜面一帯、見渡すかぎり、ぶどうを主として、桃、李、杏などの果樹園です。四季折々にすばらしい所ですが、とりわけ春さきは、さしづめ桃源郷です。笛吹川の谷奥には雪をかぶった秩父の山なみを望み、そしてその反対、川下:南の方角に、これも雪に輝く富士山が浮いています。そして、その間の人里は、花の色に霞んでいるのです。

 車が街のにぎわいを抜け、五分ほど上り坂を走ると、左手に見るからにお寺さんとわかる建物と、それと少し間を置いて並んで、何用の建物なのか一瞬判断に迷う建物が見えてきます。地面にへばりついたような、黒っぽい寄棟の屋根、土色をした壁の建物です。町の人たちが「御殿のようだ」と言うそうですが、それはお金がかかっているという意味よりも、その屋根の寄棟の形がなんとなくそれを思わせるからでしょう。

 この建物が正式名称「心身障害者更生施設・ S 園 」の建物なのです。そうわかると、大抵の人が、施設らしくないですね、だとか、ユニークな施設ですね、などと言うのだそうです。

 しかし、この建物は、決して、「ユニークな建物」を目ざしたり、あるいは「新しい考えかた」に拠って、設計されたのではありません。ここで考えられ、為されたことは、極く「あたりまえなこと」だ、と私たちは思っています。

  そしてまた、この種の施設を見慣れた人の目に、この建物は、ユニークで、風変りで、そしてことによると異常で非常識なものとして映るかもしれませんが、しかしそれは、そのいままで見慣れたこの種の施設・建物が、あまりにも「ユニーク」「風変り」そしてときには「異常」であったからなのだ、とさえ私たちは思ってもいるのです。

 

 私たちは、旅に出ると、宿屋に泊ります。 

 旅に出る、ということは、その毎日が、日常の毎日とは違った毎日になるということです。

 そして、宿屋というのは(いまでは旅館とか hotel といいます)、人が自分の家をはなれ、いわば異常な毎日を過ごすとき、自分の家の代りをしてくれる、言うならば仮のすまいです。ちゃんとした宿屋でなくてもよい、とにかく仮のすまいがないと、旅の毎日が成りたちません。

 その昔、私たちが旅の途中で仮のすまいとして求めた宿屋は、まずほとんどが、いまの言いかたで言うと、和風でした。というよりもなによりも、それは、日常私たちがすまいとしている自分の家とさほど違わないつくりでした。hotel とか hostel などと呼ばれる西洋の宿屋もまた、その昔はそうであったでしょう。

  宿屋というのは、旅人に仮のすまいを提供し、もてなすことが業でしたから、人々の家とさほど変りのない建物であったというのも当然なことだったと思います。

  因みに、英語の hotel,hostel は、ともに、host という語と関係があります。host というのは、客人をもてなす主人のことです。病院を英語では hospital といいますが、これも hos tの親戚すじの語です、つまり、宿屋、ホテル、病院、・・・・これらは、客人をもてなすことに意義を認めた建物だったのです。(ついでに言えば、バーのホステスも host からきています。接客婦、多分アメリカ産です。もとはやはり hostess 旅人をもてなす女主人の意です。)

  けれども、いまの宿屋、旅館、ホテルは違います。

  仮に和風の昔ながらのつくりの宿屋があっても、そこで私たちが受けるものは、いまひとつよそよそしくなじめません。眠れさえすればよいのだと割りきっても、なかなかそうはゆきません。

 一つには、そのつくりが、和風の形はしていても、私たちの日常の和風とは既に違ってしまったいわば和風様のつくりになってしまっているからでしょう。古い宿屋では、そんなことはありません。

  もう一つは、宿屋商売から、「もてなす」という意識が消えてしまい、単に、仮のすまいの場所だけ提供するという意識が強くなったからでしょう。host する、という原義が薄れたということです。これは当然、建物のつくりかたにも影響します。宿代も、host することへの代償としてではなく、場所代・室代になっています。Host する、ということのなかには、当然のごとく、場所を供して、という意が含まれていたのだと思いますが、いまではそれが、場所代とサービス料に分れたわけです。これが徹底しますと、場所づくりとサービスすることとは、別々に考えられるようになります。合理的だと言えば合理的ですね。近代的なホテルはこの最たるものです。

 

 それでは、この「 S  園 」のような建物は、どう考えたらよいのでしょうか。ここに居る人たちは、それぞれ自分の家を離れ、出てきた人たちです。自分の家・家族から離れている人たちが居るということだけから見ると、宿屋つまり仮のすまいとして考えられるようにも思えます。だが、そうでしょうか。違います。少なくともあの近代的な宿屋やホテルではありません。強いて言えば、あの原義の意味での宿屋です。つまり、それぞれの人の、それぞれの家の代りをしてくれるものです。

 であるならば、この「 S  園 」のような建物は、家つまり人のすまいをつくるのと同じ考えかたでつくらなければならない、と私たちは思います。

 

 しかしいま、このような「施設」や病院の建物も、そこに(仮に)住む人たちに接する人たちも、その多くは、あの近代的・合理的な旅館やホテルの建物、従業員、あるいは経営者、と同じようになってしまっているのではないでしょうか。

  考えてみてください、このような「施設」に(仮に)住む人たちがそれぞれ自分の家にいたとき、親たちは、その子どもたちの面倒を看るのも、しつけを指導するのにも、あの近代的な旅館やホテルの従業員のサービスのようなやりかたでしていたでしょうか。

 host する、ということのそもそもの意味が見失われてしまったのです。あの host を語源とする hospital においてさえ。

 

 この「 S  園 」の建物は、その寸法も材料も、そしてつくりも、できるかぎり、ちょっと大きめの住宅をつくるようなつもりで設計しています。なぜそうしたかは、ここまで述べたことで、おおよそはおわかりいただけただろうと思っています。要は、ここに住まなければならない人たちにとって、ここはすまい:家以外のなにものでもない、ということです。

 

                                                                 「建築設計資料14 心身障害者福祉施設」建築資料研究所 1986年より  

          

 たとえば、この「 S  園 」の床をとりあげてみます。ご覧になればすぐわかることですが、まわりの地面からの床の高さは、普通の木造の住宅の場合と同じです。玄関には、ちゃんと上り框があります。縁側のような廊下に腰かけて足をぶらぶらすることもできます。この高さは、昔の農家の土間と座敷の高低差と同じぐらいの寸法です。日本の住宅では、昔から、土の上では履き物、上り框から上では履き物なしでした。よくはわかりませんが、泥んこになる稲作主体の農業をするなかで生まれた知恵なのかもしれません。こうすれば、土間より上の間は自ずと汚れないでしょう。履き物で上るには相当気がひけます。家のなかに入るときは履き物をぬぐという習慣は、建物のこういうつくりが保ってきたのではないか、とさえ思います。

 しかし、近代的な建物では、床がどんどん地面に近づきました。上下足を厳格に分ける建物においてさえそうです。これでは、風が吹いたって泥は吹き上りますし、どうしたって上の間が汚れてしまいます。履き物のまま、ちょっと上ったっていいや、なんて気にもなります。そうなると、上の間をいつも清潔に保つため、掃除が楽な材料の床がよい、ということになります。泥が上りこんだ床の掃除は、どうしたって乱暴になりますから、材料もそれ向きとなります。合成樹脂製の床材がはやるわけです。

 そして、上下足を厳しく分ける建物では、上の間でも別の履き物を履くのがあたりまえのようになり、だれも不思議にも思わないようです。そして、合成樹脂製の床材だと、ますます履き物が欲しくなります。

 

  「 S  園 」の建物の床は木製です。便所の床まで、一部は木製の材料を使っています。ほんとは、縁側に普通使われる桧の縁甲板を使いたいところですが、残念ながら費用の点で無理でした。それでも、ここで使ったのは、住宅の室内用の床材です。ですから、掃除も住宅での掃除と同じやりかたになります。住宅の掃除と同じような気の配りかたが必要になるでしょう。

 この床の上なら。素足で歩いてもらってもよい、と私たちは思っています。便所だけを除いて。日本の住宅は昔からそうでした。土間より高い上の間では、床上を歩くとともに、そこに坐りもしました。これは、基本的に、いまでも変りありません。でもいまは、板の床の部分はスリッパを履くのがあたりまえのようになってしまいました。洋風が入りこんでから、なんとなくそうなってしまったのだと思います。けれども、スリッパを履くという慣習は、床の上に坐ることもあるようなすまいかたにとって、必らずしも適切だとは言えません。不潔だからです。素足は、汚れればすぐ洗えます。かつての室内履き・足袋も、そしていまの靴下もしょっちゅう洗います。しかし、スリッパはどうでしょう。一週間に一度洗った、などということは聞いたこともありません。スリッパ以外のいわゆる上履きも同じです。要するに、土間からわざわざ離した上の間を、土足で歩いているようなものなのです。旅館の浴場の脱衣場で、スリッパと裸足が同じ床面で混じりあい、不快感を覚えたことがありませんか。

 もとはと言えば、すまいのつくりかた、すまいかた、材料の選びかた、そしてその手入れのしかた、これは全て一体のものとして考えられていたのです。

 いくら生活が洋風化して椅子に腰かけるくらしかたが増えてきても、私たちの生活から、床に坐りこむくらしかたが消えてしまうことはまずないでしょう。以前の私たちのくらしかたは、土間から上では、極端に言えば、坐るか立つかでした。洋風化が時の流れであると単純に考えてしまうと、合理的な生活は、腰かけるか立つかだと、ふと思いたくもなりますが(スリッパ導入は多分そのせいです)、そうではないでしょう。いまの私たちの生活は、坐るか、腰かけるか、立つか、なのです。そうだとすると、昔ながらの和風のつくりでは間尺にあいません。もちろん、洋風でもそうです。

 毎日の生活のなかで、襖や障子の引手の位置が少し低いなと思ったことはありませんか。慣れてしまっているので気にならないとは思いますが、その気になって見なおしてみると、立って開けたてするには少し低めです。いまでこそその開けたては、大抵立つたまましますが、もとはといえば、坐った姿勢で開けたてすることが多かったのです。引手の高さは、それによって、自ずと決ってくるのです。立った姿勢向きでは必らずしもないわけですが、立っての開けたてが多くなったいまでも、その尻尾を引きずっているのです。面白いことに、洋風のドアのノブの位置も、本場のそれに比べると、身長の差を考えにいれても、少し低めです。長い生活慣習のなかで引手の高さはこんなものだという観念ができあがってしまっているからなのでしょう。こういうことはよくあることで、その正常化には時間がかかります。

  しかし、襖や障子をなぜ坐って開けたてしたのでしょうか。

  近ごろ、ある旅館の和室に泊って、こんな経験をしました。その和室は襖をへだて前室につながり、ほんのわずか、10cmほどの段差があります。和室でくつろいでいますと、声がかけられ襖が開きました。女中さんがそこにぬっくと立ちふさがるように立ち、私を見下しています。気押されるような感じです。昔の旅館の女中さんはこんな風には部屋に現われなかったでしょう。必らず坐ってこちらを見ていたように思います。そうしますと、目線がそろいますから気押されるような感じは受けません。

 つまり、坐るか立つかの和風の生活が、襖や障子を坐って開けたてするという所作を生みだしたに違いありません。そうすることによって、坐っている人が脅やかされることがふせげるのです。

  

 いまは、坐る、立つ、の他に、腰かける、もつけ加わりました。そして、坐る姿勢が主となる和室に入るのに、わざわざ坐って戸を開けるというような面倒くさい所作も省略するようになりました。ですから、いままでの和風のつくりのように、和室とその他の部分たとえば廊下がほほ同じ面で続いているようなやりかただと、場合によっては、さきほどの近ごろの旅館での体験のように、和室にいる人がくつろげなくなることが十分あり得るのです。いまの建物で和室を設けるときには、この点を考えに入れてみる必要があるように思います。もしもあの旅館の和室と前室の関係が、ちょうどあの昔の農家の土間と上の聞のような高さ関係であったなら、女中さんが立っていても、別に気押されるような感じを受けることもなかったのではないでしょうか。

 この「 S  國 」の建物の畳敷の室:和室の床面は、ラウンジと呼んでいる板の間(カーペットが敷いてあります)より、ちょうど椅子の高さ分高くなっています。もしそれが、ラウンジの面とほほ同じだったならばどうなるか、想像してみてください。多分、うらびれた、うそ寒い感じの室になってしまうのではないかと思います。

 ただ、この段差は、少し危いのではないか、という声も聞かれます。今後の様子を見ながら考えてみようと思っています。

 床の話にことよせて、「 S  園 」の建物の設計にあたって考えたこと、というよりも、日ごろ考えていること、の一端を述べてきました。要は、一軒の家をつくるのと同じに考えたということです。 そのことは、屋根をはじめ、いわゆる外観を見ていただいても、おわかりいただけるのではないか、と思っています。

 

 けれども、建物づくりは、所詮、いわば舞台をつくったにすぎません。ここに住みつく人たちが、みごとにその毎日を演じることによってはじめて、この建物はほんとの意味での家、ほんとの意味での「施設」になるのだと思います。そして多分、みごとな毎日を演じてゆく上で、舞台に、おもわしくない点が見つかることでしょう。そのようなとき、私たちは、よりよい舞台にしつらえなおすように考え努めるつもりです。私たちは、ここで、みごとな毎日、新鮮で生き生きとした毎日が演じられることを望んでいるのです。

 

 

 そして最後に

 「 S  園 」の建物は、形をなして残りました。しかし、それが形をなすまでの過程は、もう見えません。この「 S  園 」という「施設」設立の想いに燃えた人たちの、まさに血を吐く思いの毎日は、形をなして残るものではありません。そして、建物の工事に着手して以来六ヶ月、その間に実際にこの建物をこしらえるのに手をかしてくれた職人さんは延べ数千人にもなりますが、しかし、この人たち流してくれた汗もまた形をなして残ってはいないのです。

  「 S  園 」の建物は、いま、何ごともなかったかのように静かに建っていますが、それは、天から降って湧いたかのごとくに何事もなくそこに在ったわけではないのです。

 

 そして、この建物が「 S  園 」なのでもありません。くりかえしになりますが、建物は「 S  園 」の舞台でしかないのです。ここに住みつく人たちによって、みごとな毎日、生き生きとした毎日が演じられたとき、それが「 S  園 」なのです。

  末尾になりましたが、あの延べ数千人に及ぶ職人さんたちを操り仕事をしていただいた株式会社 H  組 の方々に篤く感謝の意を呈します。

                   1983年6月1日

                      設計者一同( S  園 建設構想研究会)

 

 

 

  

 

 

                 「建築設計資料14 心身障害者福祉施設」建築資料研究所 1986年より 

 


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「続・水田の風景・・・・風景の成り立ち」 1983年5月

2019-11-05 16:26:46 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №3」 A4版10頁 

 

   ・水田の風景・・・・風景の成り立ち    1983年度「筑波通信№2」

水びたしの風景

 久しぶりに筑波山に登ってみた。あいにく雨上りだったから、遠望はきかなかったけれども、足もとに拡がった景色は一見に値するものであった。私はその景色を見て、いままでこの季節には筑波山に登ったことがなかったことに、あらためて気がついた。それは、いわば初めて見る景色だったのである。

 足もとは、一面の水びたしであった。水が低地を浸し、悠々とした大河のごとくに延々と続いている。その一面の水の拡がりのなかに、緑あざやかな木々のかたまりが、小島のように浮き、家々の屋根が緑の間に見え隠れしている。集落なのである。

 もしこの景色を写真にとり、〇〇川氾濫!などという見出しでも付ければ、なかには信じてしまう人がいるかもしれない。それほど水びたしという感じを受けるのである。ただ洪水と違うのは、水が濁って見えずそして鎮まっていることである。

 この水は、なにも前日からのかなりの雨のせいではない。水びたしに見えているのは、一面の水田なのである。ちょうど田植えどきで、田んぼに水が張られているからなのである。昨年も私は「水田の風景」という一文を書いた(1982 ・ 6 第3号)。それは地上で見た水田の風景であった。そこで私は、ほんのわずかな落差を無数の水平面で構成し、自然流下のまま延々と続く水田、そしてそれを成し遂げた人々は驚異的な存在である、と書いた。そしていま私は、その偉業を上空からながめているわけである。そして、その驚異的な存在を、あらためて印象づけられているのである。数年前、中国の上海から西へ飛行機で飛んだとき、眼下に拡がる広大無辺の大平野の一面が水びたしに見えた。どこに人が住んでいるのかと不審に思ったほどである。だが、このちょうど田植えどきの日本の水田地帯の上空を飛べば、やはり一面水びたしに見えるのではなかろうか。

 

 五万分の一あるいは二万五千分の一の地図を拡げ、それをやや遠くからながめると、河川とその河川がつくりだした氾濫原(かつて河川が流れ、そしてことによると洪水のときにはまた流路になるかもしれないところ)と、その河川が削り残した、あるいは削り得なかった台地・丘陵・山地部分とが、画然として読みとることができる。そして、その平らかなる部分いっぱいに水があふれ流れている場面を想像してみると、それはまさに悠然とした大河の様相になるはずだ。いま私がながめている風景は、それを実際に(流れこそしないが)実現してみせてくれているようなものなのだ。つまり、洪水にあえばひとたまりもないであろうと思われるこの平らかなる部分は、水稲栽培に向いた土地で、そして人々は長い年月のあいだにこの可耕地をすべからく水田と化してしまったということに他ならない。これは大変な事業であると言わねばなるまい。

 なぜなら、(昨年も書いたことだが)いまのいわゆる圃場整備なら、いよいよになれば給排水を機械にたよればよいし、まず第一に広範囲にわたっての地図・測量図がある。その意味ではきわめて合理的にことを処理することができ、いわば容易な土木工事のうちに入るだろう。だが、いま私が見ている風景は、かならずしも全てがそういう近代的な土木工事によってできあがったのではない。それ以前に既にその下地はつくられていたのである。

 

 

  

水田の諸相

 私の足元に拡がっている山すその、少し山側に入りこんだ部分(上の地図参照)は条里制の名残りのある水田である。先述の水びたしの地域の中央を流れる主要河川桜川の一支流域に聞かれたものである。支流が本流に合するあたりの標高が15mほど、そしてこの条里制の遺構のあたりのそれは25~35 mである。そして、合流点から遺構の最奥部までは約3000mであるから平均勾配は150分の1ぐらい、一方合流点から本流の河口までは約15km、従って平均勾配は1000分の1である。1000分の1というのは1000cmつま10m行って1cm上る(あるいは下る)という勾配であるから、いかにゆるやかなものであるかわかるだろう。水はけは悪いと言ってよい。つまり、一帯は湿地帯なのだ。勾配150分の1という傾きは、これはもう目に見えて傾いていることがわかる。 1m50cmで1cmの傾きというのを目の前に描いてみればすぐわかる。水を導くのも、また水はけをよくするのも容易である。因みに、現在の排水管の設計でも、150分の1あればまあ問題はない。

 

 水稲の裁培は、その土地の勾配そのものとは関係なく、言ってみれば水が得られればよい。湿地があれば(得られれば)よいのである。だから、水稲裁培の極く初期段階でも、先に例示した二様の地も選ばれ得たと思われる。だが、1000分の1勾配程度の土地:湿地帯は、いわば常設の湿地帯であり、そもそもその成因からして肥えた土地でもあるから、耕作向きの土地なのだが、同時にそこはまた不安定でもある。増水により、またいつ流れが変るかわからないからである。つまり、常設の可耕地ではあっても、安定した耕地ではなかったのである。

 もとより水稲に拠り定住生活をおくる以上、人々が安定した耕地を求めるのも当然なことだろう。人々が、まず初めに好んで選んだのは、昨年5月の「善知鳥(うとう)によせて」(1982・5第2号)のあとがきで紹介した、「やち」「ぬた」「うだ」など場所によりいろいろな名で呼ばれる「川の源流のような幅も狭く深さもそんなにはない湧水や小河川のまわりの湿地帯」つまり、猫の額ほどの狭い谷状の土地であった。こういうところならまず変動はないから、労せずして安定した耕作が可能であった。あちこち歩いてみると、いまでも、このような土地はまずほとんど水田になっているし、現在荒れはてている所でも、かつてそこが水田であったことを十分にうかがい知ることができる。(休耕田として見捨てさせられたのは、こういうところが多い。)

 もとより、より広い湿地を田とした場合もないわけではあるまい。しかし、安定度の面で、変動の少ない場所は滅多になく、せいぜい河川とは縁の薄い沼沢地ぐらいしか考えられず、そういうところは限られるはずである。

 

 

 だが、こういう「やち」・・・・状の土地は、その生産量を限定してしまうから、それに拠る生活をも限定してしまう。絶対面積が足りないのである。そこで選ばれてくるのが、さきの条里制の遺構の残されているような状況の土地である。水はけよく、河川の増水の影響の少ない土地である。たとえば、ちょうどいま私の眼下に見える河川の一支流がつくりなしたちょっとした平地部分である。上図を参照していただきたい。

 この図の白ぬきの部分が水びたしの部分、つまり水田である。そして図中「筑波町」という標示の「町」の字のあたりから左手に拡がる白ぬきの場所が条里制遺構の地と言われ、つい最近までは実際に条里を目で見ることができたという。古くは水田を「たい」と呼んだらしいが、図中の神郡(かんごおり)、館、臼井、立野、六所(ろくしょ)、・・・・の集落(元はそれぞれが村であった)が筑波町として合する前の一時期は、「田井村」としてまとめられていたようだ。小学校の名は、いまでも「田井」小学校である。

 

 古代、人々はかなり早くからこういうところに目をつけたと思われる。各地に残る遺構も、大体これに似たような場所に多いようである。もちろん、その水田化は、条里制施行以前からのはずである、ここは水稲栽培は容易で、生産性も高く安定し、それに拠る生活もまた安定し得たであろう。そしてそれは、また当然の結果として、為政者の側から見れば、格好の収奪の対象となる。条里制という土地区画制が、単に直接的に収奪を目的として生まれたかどうかは知らないが、いずれにしろ、目をつけられたことはたしかである。それというのも、当時にしてみれば、圧倒的に生産性の高い、しかも安定した収量が見こまれた土地だからである。こういう場所をその拠るべとしての耕地とし得た人々は、当然のこととして、財力と地位を築いてゆく。いわゆる古代の各地の豪族の拠点となった土地もまたこのような場所であった。

 おそらく、かなり時代が下るまで、水田の主役はこのような古代以来の土地と、せいぜいそれの隣接の地であったのではなかろうか。時代とともに、人口増とともに、新田の開発は必然のことではあったろうが、広大な低湿地全域への進出は、まさに夢のようなものであって、辛うじて河川の変動から逃れ得られそうな湿地のなかの微かな高所(せいぜい数m高いだけだ)にへばりつき、不安を抱きながら、耕していたにちがいない。不安定な、しかし広大な、可耕地を目の前にして、その安定化は彼らの常の焦眉の急であっだろう。だが、単純に時間軸で見る限り、安定化の作業は遅々として進まなかった。かといって、もちろん彼らが努力を怠っていたわけではない。第一努力などいうことばで済まされるような生易しいものではなかったろう。なにしろ生活がかかっているのだからである。だから、いわば生活に追われるようにして、低地へ低地へと、攻められるところから順次入殖をしていったのである。その速度は、現代の目からすれば遅々としたものに見えるかもしれないが、それが彼らの速度であった。そして、その長い長い間に、数代いや数十代にわたる間に、低地開拓の技術は、それぞれの地において、着々と醸成されていたのである。もしも、この平野開拓へ向けての技術の醸成・蓄積がなかったならば、徳川は決して関東平野に(江戸に)拠点を置く決断をしなかったろう。それより百年前であったなら、だれが、関東平野をいわば思いのままに扱おうなどと考えただろうか。仮に徳川が政権をとったとしても、百年前なら、江戸は拠点にし得なかった。

 

人が風景をつくる

 実際、江戸期に入ってからの平野低地部の開発は目ざましいものであった。さきほどの地図の白ぬきの部分のなかに見られる集落は、これが山上からながめたとき水びたしのなかの浮島に見えたわけだが、おそらくその根は近世以降に人々が住みついたときの拠点にまでさかのぼることができると思われる。特に江戸期以降、低地の安定化に意がそそがれてこういう集落の根が、低地のあちこちに生えていったのだ。

 当然、平野全体としての生産量は増加したのであるが、各部で見ればこの新開の地の生産性は、既存の地(つまり古代以来の地)のそれに比べると、数等劣っていただろう。たとえば、聞くところによれば、茨城県南から埼玉の中東部へかけては、いまでこそ生産性の高い豊かな米どころであるけれども、生産性が高まりだした(つまり安定しだした)のは大正期からで、それが決定的に安定したのは、なんと第二次大戦後、しかもかなりたってから、いわばつい最近のことなのだそうである。大正ごろより、機械力の導入による排水、乾田化が飛躍的に進み、そして戦後、数度にわたる台風被害(洪水)を契機としての整備が、これも近代的な機械力にたよって進んだからである。それにより、それまで人々の意のままの介入を拒んでいた低湿地が、見事な田んぼと化していったのである。

 このような、土地土地によってその生産性が安定した(つまり生活が安定した)時期が違うということは、その土地に拠ったそれぞれの村の構えに敏感に反映しているように思われる。あの条里制の敷かれたような土地は、いまでもあいかわらず豊かな土地なのだが、いわば古代よりいまに至るまで常に、それに拠った村々の生活を安定したものにしてきただろう。これに対し、低地の新開の地は、決して人々の生活を安定して保証するものとは言い難く、ほんとについ最近まで、極く貧しい状態を強いられていた。因みに、いわゆる民俗学者と呼ばれている柳田国男は13~16歳の少年時代を茨城県南の利根川べりで過しているが、後に、その明治二十年ごろを回顧して次のように記している:「・・・・の町に行ってもう一つ驚いたことは、どの家もいわゆる二児制で(あると)いうことであった。私が兄弟八人だというと、どうするつもりだと町の人々が目を丸くするほどで、このシステムを採らざるをえなかった事情は、子供心ながら私にも理解できたのである。あの地方は四五十年前に、ひどい飢饉に襲われた所である。・・・・」。このあたりは、いまでは穀倉と呼んでもおかしくない風景を呈している。

 

 だから、それぞれの土地が過去たどってきた道すじによって、それに拠った村々の構えが違ってくるのもまったく理の当然なのであり、実際に歩いてみても、その差はその風景に歴然として表われていることを感じることができる。いわば、風景が(人々の営為の)歴史を語っているのである。

 あの古くから開かれ、古くから豊かであったと思われるあたりの村々を歩いてみよう。多分その村々の人たちの田であろう、もう田植えの終った水田のまんなかに降いたち、そこからその村(集落)へ向うことにする。それらの村は、新開の村々とは違い、浮島ではない。四周を水田の海に囲まれてはいない。いわば、水田を海にたとえるならば、その浜辺、特に入江状のちょっとしたひそみだとか、あるいはその海にとびだした半島状の地にへばりついている。さきほどの地図を見ていただければ、このことはお分りいただけるだろう。前者の例が立野や六所の集落で、ここは南に開けた気分のよい所である。後者は神郡や館の集落で、ちょっと見ると島のようにも見えるがそうではなく、裏手の山と地続きである。この後者の場合、神郡と館の間の入江状の部分があるのに、前者の例のように人が住みつかなかったのは、多分、北向きで日陰げのようであるからだろう。

 いずれにしろ、水田と村との間は、坂道があり、そのあたりから樹木がうっそうと茂りだし、木の間隠れに家々が見えてくる。もちろん、古くから豊かな土地だといっても、家々は変っているはずである。だが、家々をとり囲んでいる樹木は、ことによると家々よりも古いのではないかとさえ思えるほどだ。樹木の一本一本は若くても、全体のつくりなす姿:林相は、いわば年季が入っているように見えるのである。道も、そして屋敷への入り口も、どこもみなしっとりとした、人の心をなごませる形を、私の目の前に見せてくれる。道の両側には、屋敷境をなす素朴に刈りこまれに垣根がならび、そこに口を開けた入口からは(ときには立派な門があるときもあるのだが)そこだけ陽をよく浴びた庭が見え、屋敷内が思った以上に奥があり広いのに、ちょっとびっくりする。その庭に面して、母屋が建っている。それはまことに人なつっこい空間である。あの、遠くから見るとうっそうと茂っているように見える林のなかに、どうしたらこんなすきまができるのかと不思議に思えるほど、その陽あたりの庭はゆったりとしているのである。おそらく、こういう集落を真上からながめると、樹林のなかに、ぽかりぽかりとある大きさのすきまがならんでいるのを確認できるのではなかろうか。そして、私たちはとかく、人のすまいというと家という建物そのものを思ってしまいがちなのだが、こういう例を見るにつけ、すまいはこのすきま:樹林のなかにあいた穴全体なのだという意を、あらためて強くする。つまり、樹林や垣根に囲まれた屋敷全体ですまいが成りたっているのである。

 そして、樹林がすまい:屋敷を形づくるのに重要だからこそ、代々手が入れられ世話をされ大事にされ、その結果、あのようにうっそうとした年季の入った姿を呈しているのである。これは一朝一夕にしてできあがったものではないのである。そしてそれはもちろん、いわゆる天然自然の林ではなくまったくの人工林なのである。あの国木田独歩描くとこの武蔵野の雑木林も、なんとなくそれこそが武蔵野の自然などと思われていたようであるが、あれもまた毎年手を入れられた人工の姿で、もし手が入れられなければ、あんな具合の林相にはならないのだそうである。だいたい、いつのころからか、私たちが私たちの身のまわりで見かけるいわゆる自然の景観というものが皆、実はまずほとんど人が手を入れることによって成りたっていたのだという厳然たる事実が忘れ去られ、字のごとく自然のままに放っておかれたものが自然だと思われるようになったのが、決定的な誤りなのである。私たちの身のまわり、日常のまわりには原生の自然などないのである。そして、手を入れるという作業の結果それらが成りたっていたという重大な事実が人々から忘れ去られたとき、原生の自然はもとより、あの人工の自然をも、人々は平気で軽く扱うようになってしまったのだ。生活の必然として手塩にかけるという過程を失ったとき、それらのもののもつ重み、大事さ、ほんとの価値をも、同時に失ったのである。

 

 かくして、その根をはるか昔にまでさかのぼれる村々は、一見してそれと分る実に見事な樹林でつつまれることになり、慣れてくると、遠望するだけで、村の所在が判別できるようになる。

 これに対して、新開の地は、いま一つ、こういう言いかたを許してもらえるならば、すさんだ感じがある。それはもちろん、あの堂々としたいわば完熟の期に入ってしまったような村々に比べてのはなしであり、都会の新興住宅地などに比べれば数等ましである。それはちょうど、成長の過程で現代をむかえてしまったという感じで、続々入りこむ現代風なやりかたが、その順調な成長をとめてしまったかのような気配が見受けられる。考えてみれば、こういう所の方が、あの完熟した村々よりも現代が入りこむすきが多いのである。しかも、生活にゆとりができた、つまり生活が安定したのはつい最近のことだからなおさらである。その上、その安定は、生産性の向上と安定である以上に、現金収入の安定であったから、それまでの変化とは違う様相を呈してしまったのだ。

 あちこち歩いていて気がつくことなのだが、この新開と思われる村々では、いらかをそびえさせ、屋根を神社か寺のように反らせ、やたらと軒が高く、材も太々しい、新築のそれなりに豪華版の家を目にすることが多い。まわりの古い家がつつましいから余計目だつ。実際それは、目だつことに意義を認めているらしい。おそらくそれは、それまでの数代というもの叶えようにも叶えられなかったことを、最近に至っての急激な財力(換金された現金)がそれを可能にし、勢い余ってこういう形に走ってしまったに違いない。ことによると、ほんのつい最近まで飢えにあえいでいた新開の村の方が、金力の点では旧村よりまさってしまったのではあるまいか。逆転したのである。あの新しい家は、そのことのいわばシンボルなのだ。それはまことに奇妙な家である。どう考えたって農業向きには思えず、第一、風景にそぐわない。というより、そういう風景のなかから自ずと生れたのではない。だが私には、一概にそれを否定する気にはなれない。彼らがそうつくりたかった心情は、仮にその吐露のしかたがおかしなものであったとしても、ある意味では当然のことであったのだし、はたがとやかく言うことでもないからである。第一、時間はかかるかもしれないが、もしそれが彼らの生活に適さないことが身にしみて分れば、彼らは(彼らの次の代は)それを修正するに決っているからである。あの古き村においても、もちろんこれほどの突然変異的なことはなかったろうが、これに似たことは過去何度もあったに違いないと私は思う。あの古き村において目にする完熟の姿も、一度にして成ったのではなく、いわば時のフイルターでこされた姿なのではなかろうか。

 

風景の原点

 私はいま、数年前目にしたある光景を思いだしている。茨城県西の、ほんのつい最近まで近代的交通機関から見はなされていたいわゆる陸の孤島と呼ばれた地域を歩きまわったときのことである。そこは、水田主体ではなく畑作が主である(水田がないわけではない)。畑作といってももとは桑畑が主であったようで、それが煙草・茶に変りここ最近は東京向けの野菜の産地に変身し、全般に現金収入が急増した土地柄である。わざわざ全般にと断ったのは、もとは貧富の落差が激しいところのようであったからである。

 このあたりを遠望すると、水田地帯と違い、のどかにしてなだらかな丘が延々と続き、やはり集落はうっそうとした樹林に囲まれている。ここで目につくのは、家々が(つまり屋敷が)いわば角刈りにされた高さ7・8mの樹木に囲まれている姿である。ほぼ方形の屋敷の四周をその巨大な垣根に囲まれているわけだから、遠くからは、緑の立方体がならんでいるように見える。建物の屋根は、緑にくるまれてしまって、まずほとんど見えない。近くによってみると、この巨大な垣根は、常緑の樹木:たとえば椎:をいわば矯正してつくったものだ。垣根の厚みは1~1.5mぐらい。樹木は垣根の長手方向に5~6mおきに植えられ、枝をその長手方向に、ちょうどすきまを埋めさせるように強引に引っ張り、逆に短手つまり厚みの方向への自由な生長を押さえつけることによって、この角刈りはできあがっている。こうなるとそれは、いねば緑の城壁で、入口もこの城壁にアーチ状の口が切り開かれ、あたかも城門のようである。門から中をのぞくと、そこには先に述べたのと同じく人なつっこい落ち着いた空聞が、その外側とはまるで違った空気をともなって拡がっている。こうなるとこれは、明らかに、普通言われるような単なる防風林としての解釈では不足のようだ。これはむしろ、すまいを形づくるためにつくられた壁なのだ。先に述べたあの古き村々のすまいづくりが、樹林のなかに穴をうがつやりかたであったとすれば、ここで見るやりかたは、なにもないところに樹木を植えこむことによって穴をつくるやりかただと言えるだろう。

 この集落から大分はずれた利根川沿いの河川敷のようないわば荒地に(そこは川のそばではあるが水がないから水田にならない)一軒の家が建っていた。どうやらそのあたりをまったく新たに畑にせんとして住みついた人の家らしく、どこかでもらってきた材でつくりあげた、掘立て小屋のようなみすぼらしく見える家であった。私の興味をひいたのは、その家のまわりに、ほんの1~2mの高さの細い樹木が、多分それがその人の頭のなかにある屋敷境なのだろう、方形に、その貧しい家をとり囲む意志を示して植えられていることであった。それは、よく見かける生垣にさえなっていなかった。すきすきなのである。私は、あの堂々とした緑の立方体の屋敷構えの家の映像を、この目の前の屋敷の上に重ねていた。この屋敷は、いつ、あの緑の立方体になるのだろうか。

 私は、この一見みすぼらしい屋敷構えに、人間の強い、しかたかな意志と、日ごろ私たちの身のまわりで目にする風景の原点を見る思いがしたことを、強烈な印象として覚えている。   

 

風景が歴史を語る

 私たちが、自然保護だとか、景観保存だとかいうことばを聞くようになってからもうかなり時間が経ったような気がする。だがそれらは、いまもって、いずれも、既存の自然・既存の景観の保護・保存であって、その意味することは、極端に言えば、一切それらに手をつけるな、ということに等しいだろう。

 だが、私がこの筑波山からながめている水びたしの平野の景観はもとより、およそありとあらゆる私たちの身のまわりに拡がる自然も景観も、どれ一つとして原生の姿のままのものなどありはしない。どれもこれも人が手を入れ、そしてつくり成しかものなのだ。手を入れたからこそ既存の自然の景観も在ったのだ。しかし、人々が(特に大多数を占めるようになった都会の人々が)この人の手によって成りたったという厳然たる事実を忘れてしまったとき、自然も景観も、単なる絵・映像としてしか見られなくなってしまい、手の入れかたさえ分らなくなってしまったのだ。

 私たちの日常をとり囲む自然も景観も、それには絶対的・固定的な理想形があるのではなく、本来、人々の営為を通じて、時代とともに、いわば醸成されて生まれくるものなのだ。そして、だからこそ、風景が歴史を語ってくれるのである。

 だが、いま水びたしの水田の向うに煙っているあの研究学園都市の偉観は、はたして、このような意昧での歴史を語る風景になり得るのであろうか。

 

 

あとがき

〇3ページに載せた地図は、国土地理院の五万分の一地形図を基に、概略、水田として使われている土地だけを残して、網点をかぶせてみたものである。ここにでてくる集落は、まずほとんどが農業に拠る集落なのだが、図中の中央「つくば」とある駅の周辺のかたまりは違う。あたりに水田がないから網点をかけてしまってあるが、しかしここはその周辺と同じく低地であり、山のはりだしなどではない。元はここも水田であったと見てよいだろう。そこから網点を取り除き白ぬきの部分に組みこむと、山すそがつながり、白ぬきの部分も川すじなりの自然な形となる。(ここで言う自然なということばの意味は、もちろん、然るべくしてある、というそのことば本来の意である。)ここは駅ができてから生まれた農業集落とは違う成因の集落:町なのである。

〇こうして見てみると、この地図に示されている地域は、未だに、然るべくして在る地形と、その然るべくして在る性状に対して、人々が然るべく適応した(適応しようとした)様子を歴然として残している地域であると言うことができるだろう。そしてこれが、農業に拠って生きる人たちの必然的につくりだす風景なのである。農業とは、もともと、然るべくして在る土地に、然るべく適応することを業とするものだからである。

〇だが、農業のように然るべくして在る土地に直接的に適応する要がなくなったとき、人々はどう住むのだろうか。「つくば」の駅のまわりの町は、その土地そのものにではなく、駅に拠っている。だが、駅の設定はなにに拠ったのか。そもそも、町に住む人たちの住いの構えかたは、なにに拠ったのか。機会をあらためて考えてみようと思う。ただ一ついま言えることは、たとえば東京も、いまその上に展開している密集した住居を、時間を逆に追い、次々とはぎとってゆくと、ついには3ページに載せた地図同様の状態に戻ってしまうだろう、ということである。といって、私は別に、いわゆるルーツ探しをしようというのではない。ストーリーを、それぞれの時代のストーリー、それぞれの時代をつなぐストーリーを探り、知りたいのである。

かっこうが鳴いている。昨年の、というより、このまえの、こういう日ざし、こういう風、こういう具合の表情を木々が示した、そういう時、やはりこの鳥が鳴いた。人々は、太陽がめぐるということに気づく以前に、めぐる季節に気づいていたのではあるまいか。

〇それぞれのご活躍を祈る。

          1983・5・25            下山 眞司


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「構えの諸相・・・・あり得るべくしてある構え」 1983年5月

2019-10-22 10:53:57 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №2」 A4版10頁 

     構えの様相・・・・あり得るべくしてある構え・・・・ 1983年度「筑波通信№2」 

中央線の沿線風景

 生暖かい雨上りの夜気の一角に蛙の声を聞いたような気がした。四月一日のことである。立ち止った。やはりそうであった。まだ数が少ないとみえて、とぎれとぎれに聞えてくるのである。今年はどういうわけか、春だというのに、いつもなら夜気にむせるほど充ちている沈丁花のにおいがただよわない。しかし、日一日と確実に季節は巡っていたのである。

 私がいま毎週通っている甲州は、四月に入ってからしばらくが見ごたえのある季節である。梅が散り、代って桃やすもも、桜、山つつじ、もくれん・・・・がいっせいに花開く。とび色の大地に花の色がぼうっとかすんでにじんでいる。山あいに、そのとび色の大地を地色にして、まだ葉の茂らないぶどう園、家々のかたまり、そして、にじんだ花の色が、まさに所を得て展開している。かすみのかかった盆地のはてには、まだ雪を輝かせている南アルプスが浮んでいる。中央線の列車が笹子トンネルを抜け甲府盆地へ向け下ってゆくとき、その景色に思わず息をのむのが、ちょうどこの時分のことだ。

 私は中央線が好きだ。たしかに中央線の沿線は都内では有数の人口密集地で、高架橋を走る電車から見る一面の家また家の光景にはものすさまじいものがあるけれども、しかし東海道線などとは違ってそういう光景がはてしなく続くということはなく、新宿を出た列車は小一時間もすると、それまでの光景がまるでうそであったかのように、突然、ほんとうに突然、まったく異った景色のなかにとびこんでしまう。山あいに入ってしまうのである。そこから松本まで、一部を除けば、ほほ同じような景色のなかを走り続ける。見ていて飽きのこない景色である。

 沿線の風景をこまかく見てゆくと、家々は建てなおされ、甲州街道の他に中央自動車道も通るようになり、鉄道自体もスイッチバックなしですいすい急勾配を上ってゆく。風景の一部をなすそれぞれのものは大きく変っているのであるけれども、しかし、その風景全体から受ける印象は、もうひと昔もふた昔も前のころのそれと、なんら変ることないように私の目には映る。人々のありとあらゆる営みは、狭い山峡にへばりついている。たとえば、家々はやっと見つけたようなちょっとした平地部分に群がり、耕すことのできるところは全て耕しつくし、道も鉄道も、近代土木技術の粋をつくした中央自動車道でさえ、その狭い山峡を、そこを流れる川ともども、まるでもつれあった糸のようにひしめき通っている。

 中央線は、地図を見ても、また実際に乗ってみてもすぐ分るように、かなり曲線が多い。しかも小さな曲線の連続である。でき得る限り山はだなりに、そしてまた山はだ沿いに点在する町や村をこまめにつないで走るからである。これに対して、この中央線の線路の右になり左になりして走っている中央自動車道は、近代的な土木技術を駆使し、昔だったら到底思いも及ばなかっただろうと思われるルートを、言わば強引に走りぬけようとするから、いたるところで山半分がなくなり、そのぶざまな切断面を、これまた無粋というか無残というか、モルタル塗りの厚化粧でおおいつくし、あるいはまた、とてつもなく巨大な橋で谷間をひとまたぎにしていたりする。これに比べたら、中央線の橋やトンネルなどは、まるで鉄道模型みたいに可愛らしい。だが中央道の近代的な土木工事にしたところで、つまるところ、いかようにしてみても、まっさらのキャンバスに思いのままの線を引くようにはルートはつくれず、この山峡という大地の形状・状況から逃れるわけにはゆかないのである。要するに、この狭い山峡に対した場面での人々の営みのありかたは、時が変り、人が変り、生活が変り、技術も変ったというのに、基本的にはなにも変っていないと言ってもおかしくない。山峡という大地の形状が、人々の営みかた・そのありかたを、いかんともしがたく左右してしまっているのである。おそらく、このことが私に山峡変らずとの印象を与えているのに違いあるまい。

 

しっくりとおさまるということ

 中央線のトンネルには、車両の大きさぎりぎりの、窓から手を出せば壁にさわれるような、小さなトンネルがときおりある。多分古いトンネルである。こういうトンネルの入口は、きまってものすごくこったつくりになっている。工芸的だと言っても言いすぎでないほど手をつくし、あたかもアーチ状の門のようである。それは、すっかりそのまわりになじんでいる。かならずしもそれは、古色を帯び、樹木が繁茂してしまったせいだけではなく、そのつくりようにあるのだと私は思う。その点、近代土木技術のやりかたは至極淡白である。無造作である。

 だが、もう何回となく中央線を往復し、四季おりおりの風景を目にしているうちに、私はあることに気がついた。たしかに中央自動車道に代表される近代土木技術のやりかたはまことに無造作なのであるけれども、しかし、この山峡で見る限り、それは、関東平野で目にした新幹線の高架橋や東名自動車道のそれのようには、私にそれほどの異和感を与えないのである。私の目が見慣れてしまってなんとも思わなくなってしまったのではないか、とも考え、ここ数回意識してながめているのであるが、どうもそうではないようである。もちろんしっくりこない場所もあるけれども、他の例に比べて、たしかに異和感を感じることが少ないのだ。たとえば、折をみて実際にその気になって見てもらうとよいのだが、中央道の橋や橋脚はまことに巨大で、もしもそれを関東平野の広大な拡がりのなかで目にしたら、多分異和感を持つと思われるし、同様に、盛土をして造った土堤状の部分も、平地で見たら度肝をぬかれるほど大きいはずなのだが、ここではそれほどには感じないのである。

 なぜそうなのか。その一つの理由は極く単純な話で、それらの構築物がいかに巨大であろうとも、その背景になっている言わば大地が造りなした構築物であるところの山々に比べたら、まさに比べものにならないほど小さなものだからである。どんなに低い山だろうと、その形状は、いかんともしがたく人々の営みを圧倒してしまうということだ。さしづめ、お釈迦様の手のひらの上の孫悟空みたいなものなのである。

 しかし、これだけでは、しっくりとおさまっているという感じの説明はつきにくいように思う。というのは、明らかに大地の所作に比べたら小さなことなのに、どうみてもしっくりゆかない、いま一つおさまっていない、落ち着かない印象を持つ場合があるからである。別な言いかたをすると、なにかことが起ったら、たちまちに崩れ去ってしまうのではないか、というような感じを抱かせるのである(もちろん、実際には壊れはしないだろうが)。

 いったいこれは何なのだろうか。

 私は今号の初めのところで、ぶどう園、家々のかたまり、そして、にじんだ花の色がまさに所を得て展開している、と書いたが、いまここで書いたしっくりとおさまっているあるいは落ち着いているという感じは、この所を得ているという表現と同じだと見なしてよいと思われる。

 ことによると、ここに掲げたいろいろな表現は、安定感の一語に尽きるのかもしれないが、しかし安定感だと、単純に形体そのものの安定の度合の話に持ちこまれてしまうおそれがある。それが単純に形体そのものの話でないことは、たとえば非常に危なげながけっぷちに建っている建物でもしっくりおさまっている場合があることや、逆に、どう考えても安定していると見なされてもよい所でも、建てかたが悪いとしっくりゆかない場合があることを考えてみれば、このことばがあまりふさわしい言いかたでないことが分ってくる。

 そのように考えてくると、これらのいろいろな表現のなかで、「所を得ている」という言いかたが一番妥当なのではないか、と私は思う。がけっぷちであろうがどこであろうが、所を得ている、という言いかたなら十分に意を尽せると思うからである。

 

所を得たさま

 仙台の大通りの街路樹は、けやきの並木である。普通、東京あたりの街路樹は台風の時季に枝が刈りとられてしまうのだが、ここのはそうでなく、もちろん手は入れられていると思うが、言わば成長のし放題というおもむきがある。道路はトンネル状におおわれる。木々の枝々は微妙にからみあっている。そして、よく見ると、一本の木の枝が占有し得なかった間隙を、隣りの木の枝が見事に埋めているのである。隣りあう木同志がそれぞれの占有空間を一つの境界線(面)で密に接しているわけで、少し大げさに言えば、一本の木を切り倒したとき、そこにはその木の形をした空間が残っている、と言っても言いすぎでないほどだ。そして、切らなかった方の木、つまり突然できてしまった空き間にさらされる目になった木の枝々が、そこにあった木のおかげで、ひずんだ形になっているかと言うと、そんなことはなく、それなりに見れる形になっている。そうは言ってももちろん独立樹のそれと違った形であるのは確かであるが、けれども、東京の街路樹や、植木屋さんによって散髪され続けた庭木が見せるようなどこかゆがめられたような所はない。木に思いがあるとすれば、まさに(隣りを微妙に気にしつつも)思いのままにそれぞれが枝をはり、全体が形づくられた気配がある。これはほんとに見事である。上海で見た街路樹もそうであった。なんの木であったか忘れたが、街路は完全におおわれ、トロリーバスの架線が枝のなかに埋もれていた。街路樹ではなく、まるで屋敷林のようなおもむきさえあり、下刈りがよくされた林のなかのようでもあった。

 おそらく、「所を得ている」という感じかたは、この街路樹のようにそれぞれが言わば思いのままに(あるいは勝手に)のび放題にのび、それで全体がつくられているような場面において、その一本一本の木々のありかた、構えかたに対して言われるのではないだろうか。あり得べくして(その形で)あった、という感じである。そしておそらく、真の意味での「調和」とは、こういう場面を指して言われるはずなのだが、得てしてこの「調和」という言葉は、このあり得べくしてあるという言わば過程を忘れて、単純に(その結果としての)形の問題に還元されそうな傾向があるので、私はあまり使いたくない。そしてまた、このあり得べくしてあるということは、別な言いかたでは、自然である、という言いかたに置き変えてもよいのだが、これもまた多く誤解されがちな表現であるため、これも私はあまり使いたくない。

 

 つまり、この文の冒頭の、ぶどう園、家々のかたまり、にじんだ花の色が所を得て展開している、というのは、そのそれぞれが、あり得べくしてあるとの感じを、私に抱かせた、ということなのだ。山々に咲き急ぐ自生の木々は、それこそ自然界の法則に素直に従っていて、その意味であるべき所にあってなんの不思議もなく、それを私たちもいつしか知っている。それゆえ、あり得べからざる所にある樹木が植っていたりすると(それを知っている人は)異和感を持つ。(もっとも最近では、このある樹木のあり得べき所についての感覚が損なわれているようで、またそういう時代でもあるがゆえに、ことさら植生の話があらためて論じられたりするのでもある。言わばその昔なら常識であったことどもが、ことによると植木屋さんでさえ分らなくなっていたりするようだ。)

 そしてこういう感じかたは、木々に対してのみならず、それらの生えている大地そのものの形状に対しても、私たちは持っていると言ってよいだろう。川の流れは、大地の形状により流れるべくして流れ、滞るべくして滞りそして淀むことを私たちは(いつしか)知っているし、これは他の大地の形状についても同様である。(もっともこの感覚もまた、どんどん常識の外へとびだしてしまい、代って、そういう感覚を経由しない「知識」が隆盛をきわめつつあるらしいから、この点についても、あり得べくしてという感じかたをする人が少なくなってきているようだ。)

 

 それでは、ぶどう園や家々のかたまりが所を得ているというのはどういうことなのだろうか。ぶどうは確かに植物であり、その生長は自然界の法則に従うかもしれないが、ぶどうとなると様相が違ってくる。まして家々のかたまりとなるとなおさらのことだ。これらは、言うならば人為によるものだ。そういった人為が所を得ている、あるいは、あり得べくしてある、と見え感じられるというのはどういうことなのか。

 あたりまえの話だが、人為は、まずもってして人為が先にあったわけではない。先にあったのは、まず、大地そのものであった。そしてまた、これもまたあたりまえの話なのであるが、いま目にする人為が全て、同時にできあがったわけでもなく、ある人為の前には、既にして、別の人為があったのである。従って、人為とは、まずもって人の大地に対しての処しかたに拠るのであり、そしてまた、既に存している(言わば大地の一部に化しているかの如くにある)人為に対しての処しかたに拠るのである。私はこれを(大地に対する、あるいは、人為に対する)「構えかた」と呼ぶのがふさわしいのではないかと考えている。それゆえ、これら(の人為)が所を得ているという感じかたは、言いかえれば、それらの「構えかた」が当を得ている、あるいは、あり得べき構えを示している、という感じかたなのだと言うことができる。けれども、(言いかたをいろいろと変えてはみたものの)いずれにしたところで、いかなるものを、当を得ている、あり得べくしてある、と言うのかと問われれば、それは結局のところ、私たちの感性に拠るのだとしか言いようがあるまい。

 

構えるということ

 手元の国語辞典から、「構える」「構え」の項をぬきだしてみた。

 構えは当然構えるの名詞形であり、それぞれの項目の一番目に示されている語義は「構」という漢字の原義でもあるようだ。おそらく「かまえる」あるいは「かまう」という日本語がまず存在し、それには(建物を)つくるという意があったがゆえに、それに「構」の字があてられたのだろう。多分、「かまえる」の最も本質的な意味は、二番目の説明にある語義なのではないかと思う。すなわち「ある姿勢をとって相手に対する」という意である。因みに「かまう(構う)」の項を見てみると、その初めに「こだわって気をとられる」「気にかけて対処する」と示されているから、いずれにしろ「かまえる」「かまう」ということばには「対する」「対処する」という意味がもともと含まれているのであろう。

 だから、建物・家をつくることを称して「かまえる」という言いかたがなされた根底には、建物・家をつくるということは、(外物に対して)身構える:ある姿勢をとることと同じようなことだ、との認識が人々の間にあったからなのだと理解してよいのではなかろうか。人が自らの身を外物に対して構えるという感じを、そのまま、建物づくり・家づくりの場面にもあてがうことができる、としたということだ。

 

 おそらく、人が自らの身を外物(もちろん他人も含む)に対して構えるというそのままの意味での身構えるということの(具体的な)感じはだれでもすぐに思い浮べることができるはずである。実際に私たちは私たちの遭遇する場面に応じて、それなりの身構えを(ときには意識してそしてときには無意識のうちに)しているからである。そしてそれが徹底すれば、格闘技の(身)構えの型にまで到達してしまうほどだ。この格闘技の構えの場面が、おそらく、身構え、あるいは、ある姿勢を(外物に対して)とることの本義を端的に示していると見てよいだろう。

 すなわち、外物に対してわが身の存立を確保するための所作、これがその本義に他ならない。外物に対し攻撃をかけるのか、外物の攻撃を防御するのか、それとも外物と平和共存でゆくのか、それによりつくりなす構えは変るかもしれないが、いずれにしろ、どの構えにするかの選択をも含め、その拠ってたつ根本は、わが身の存立の確保以外のなにものでもないはずである。くだいて言えば、自分が安心していられる状態を確保するためにとる姿勢、それが身構えなのだ。そして人は、生れてこのかた、それぞれが、それこそ身をもって、場面なりの身構えかたを学び、身につけてきているのである。

 

 このように「かまえる」ということの本義を考えてみたとき、家をつくり、建物をつくるということをも「かまえる」と称すことの理由が、うっすらと分ってくるように思う。なぜなら、家をつくる、建物をつくるということは、つまるところ、わが身の存立を保証してくれる場所を確保するための所作に他ならないからである。強いて言えば、その場所にいる限り、人は(狭い意味での)身構えをする必要がない。その場所が、彼にとってもはや外物ではない、彼のものになってしまっている、そういう場所。そして、もしもそのような場所を持たなかったならば、彼は常に身構えていなければならないのである。

 もちろんこのような「場所」は、単なる狭い意味での自分の城ではない。なるほどたしかにいわゆる都会的な生活をしている人々にとってはこの自分だけの居場所としての建物だけが狭い意味での自分の城でよいのかもしれないが、しかしそれが全ての人々に共通なのではない。それは、その人がなにに拠って生きているか、つまりなりわいに拠るのであって、先に見てきた山あいの村では、人々は多くいわゆる農業に拠っていたのである。その彼らにとってわが身の存立を保証する場所というのは、単に身の隠し場所であればよいのではなく、まずもって耕すことができる所でなければならないのであり、従って、彼らは自ずと自然界の法則を熟知することになる。言うならば、彼らは秀れた自然科学者なのである。彼らは人為的にぶどう園をつくる。もちろん、ただぶどうを植えれば、それでぶどう園ができるわけではなく、まずもってぶどうを知らなければならない。そして彼らは、ぶどうがあり得べき場所を知り、あり得べき場所を探し、あり得べき場所を造成し、そして初めてぶどう園が誕生する。

 ぶどう園を例として書いたが、およそ農業というのはみなこういうものだったはずである。だから、農業に拠った人々にとって彼らの存立を保証する場所というのは、単に家そのものだけなのではなく、まず耕すことのできる所を含めた全体であり、家屋敷はその一部であったにすぎないと見るべきなのだ(そのように見てくるとき、狭い意味での農民の家の構えが何であったかが見えてくるように思われる。それは決して、単純に、都会風な文化的住居像をあてはめ、比較し論じ得るものではない)。

 こうして、あの山あいでは(農業をなりわいとする)人々が、営々として、自分たちのすまう場所を(広い意味で)構え続けてきたのである。あるいはそれは、大地への積み重なる人為、その人為への新たなる人為の積み重ねであるとも言い得るし、あるいはまた、近代風に言えば、大地に対する土木事業の連続であったと言えるであろう。いずれにしろ、人々のそれらの営みの根にあったことは、(彼らのなりわいの下で)大地を知り、(先行の)人為を知り、自らを知ることであった。そして、自らの存立に支障をきたすがごときことはしない、ということであった。それが、彼らの所作のありかたを決定的にしていたのである。

 

 私の目の前の山あいの風景は、人々がそのあり得べき場所を探し求めた(あるいは、いまも探しつつある)人々の(その土地での生活のために大地へ対した)諸々の営為の結果物により成っているのである。おそらく、なにも山あいに限らず、なんらかの人為の加わった風景というのは全て、本来、こういうものだったのである。つまり、私は、そういった土地での人びとの生活のための構えの結果の諸相とそれらの織りなす全体を見ているわけである。そして、先に述べてきたように、それらの人々の営みは、それぞれそれがあり得べき所でなければ営まれないのが本来の姿なのであり、そこのところが(よそものの、あるいは一見の客としての)私にも読みとれる、つまり、なるほどね、とそれらの彼らの営みの根にあるが私にも分る(ように思える)から、「まさに所を得て展開している」との感想が私の口から出てくるのである。

 そして、多分、そのが分ったように思え、もっともなやりかただと思えたとき、それらが(あるいはそれらのつくりなす全体が)安定したもの、調和したもの、あるいは、自然なもの、として私の目に映るということなのではあるまいか。単なる形象上の安定感調和感、あるいは自然さ、を見ているのではないのである。もとより私が直かに目にしているのは、それらの形象であることにまちがいはないのだが、ただそれだけでよしとしているのではなく、言わばその背後をも見ているということである。なにもこれは私だけの癖なのではなく、大方の人たちも(意識しているかどうかは別として)このように見ているはずである。畑を目にして、畑という形状の単なる形象として見て済ます人はまずいるわけがなく、たとえ作っている作物の名を知らなくても、(人が)なにかを作っている、ということは、だれもが認めているはずである。当然、口に出しては言わないかもしれないが、その背後にいるそれを作っている人たちの存在も識っている、人為の存在を認めているはずなのである。

 

近代的構法の本性

 近代技術による中央道の構築物のうちのあるものが、私に異和感を与えないのは、結局のところ、それらが、所を得ている、あり得べくしてある、との感を私に抱かしめたからなのである。

 だが、そうかといってそれは、それらの近代的構築物が、ここで私が述べてきたようなやりかたでつくられてきたためであるかというと、決してそうではない。それはやはり、他の多くの近代的なやりかた同様、近代合理主義的発想、一言で言えば、経済的効率主義によって貫かれていると言った方がよいと思われる。

 というのも、いろいろ見てみると、先にも書いたように、所を得ていると思えるのはその全てではなく、それにはある種の傾向があることに気づいたからである。それらは、まずほとんど、両側から山が迫ってきた狭い峡谷状の場所において見かけることが多いのである。こういう場所では、既に、人家も耕地もそして道も鉄道も、その厳しい制約のなかでとにかくぎりぎりいっぱいそれぞれの所を得てしまっていて、生まれつきの大地と人為とが、これもせいいっぱいせめぎあっているから、言うならばもはや余裕がない。だから、そこにまた新たに道をつくろうとするとき、昔ながらのやりかたも、近代的なやりかたも、実は、結果として、同じ解答を出すしかないのである。

 つまり、昔ながらの方法では大地の法則に則り、既存の人為を尊重するなかで最も容易な構えをとろうとするだろうし、(そして当面の手持ちの技術では不可能ならば一つの願望として心のうちに暖めておくだろう)、近代的な方法では、人家や耕地はその取得費がかさむから避け(それは別に、既存の人為を尊重しているのではない)、しかも工費がなるべくかからない策をとる(昔ならトンネルでぬけただろうと思われる場所を、いまでは山を取り除く手段に出るのもそのためだ。長期的に見れば絶対に大地の力には勝てないと思うのだが、平然と無残な切断面をさらしている。たしか昨年の夏、その一つが大崩落を起したはずである)。どちらのやりかたをとるにしろ、こういう厳しい制約の所では、結果として同様な結論となるのである。違いは、唯一、その技術の差でしかない。

 それゆえ、ひとたびこういう厳しい条件がゆるむ場所にさしかかると、近代的やりかたは、たちまちその本性を露にする。そこでは経済的効率主義によるフリーハンドを可能にする余裕地があるから、容易にして安易な策をとることになる。そこでは、その土地なりのあり得べくしてあるというありかたを考えるいとまもなく、むしろなかば強引にルートが引かれ、構築物がつくられる。そういう場合、それは全く所を得ているとの感じを私に抱かせないのである。

 

感性の復権

 もう多分お気づきのことだと思うが、私がここで述べてきたことは、結局のところ、私の(ものごとへの)感じかたの話である。そして、そのようなことは、いまの世のなかでは、まったく個人次第のたよりないものだと見なされ、多くの人々は、もっとたよりになるいわゆる客観的な拠りどころを求めようとするだろう。そのようななかで、たとえば経済的効率主義、ひいてはいわゆる近代合理主義は、もっとも手っ取り早いものの一つである。だから、それ的な(もっともらしい)説明を受ければ、人は仮に異和感を感じ、本意でないと思っても、単なる一個人の感じにすぎないではないかと言われ、また思いこみ、引っこんでしまうのだ。だが、それはまちがいだ。私たちは、私たち一個人の感じかたからこそ、まず出直すべきなのだ。私たちは、伊達や酔狂でものごとを感じているのではないからである。私たちにとって、感性の復権こそが急務であると、私は思う。なぜなら、それこそがリアリティに直面しているからで、元をただせば、既存の全ての知識体系も、つまるところはどれもみな、個々人の感性から出発していたはずなのである。

 

 いま山峡は、花の季節に終りを告げ、新緑が輝きだしつつある。そして筑波では、また田植がはじまり、そして、まだひと月も経っていないのに、いまはもう、蛙の声の聞えぬはざまを見つけるのさえ難しい。

 

あ と が き

〇「・・・・その印象のなかで、比較的鮮明に残っているのが、清洲橋と永代橋の姿である。それぞれ違った趣があるが、いずれも均斉のとれた美しい姿態をしていると思った。・・・・私はこの二つの橋の姿を想い起すだけで、隅田川を感ずるのである。この二つの橋は、私にとっての隅田川のシンボルにさえなっているといってよい。よく考えてみれば、橋は人と川とのかかわりを象徴する一つの重要な存在なのかもしれない。川は、そのほとりに住む人びとを結びつけもするし、隔てもする。隔てられた人びとを結びつけるのが舟と橋であろう。そして、舟と違って橋はいつも厳然として存在し、川と人びとの結びつきをその姿によってたえず暗示しつづけるのである。橋が川のほとりに住む人たちのシンボルたりうるゆえんであろう。その点で、近ごろまことに口惜しく思ったのが、新しい新大橋である。まえの新大橋がそれほどみめうるわしかったというわけではない。しかし、今度の新大橋はいささかひどいというのが、私のいつわらざる実感である。機能主義と経済効果主義しか人に感じさせることのないようなこの橋は、象徴としての資格をまったくもっていない。設計者は、毎日人びとの眼に映る橋の存在を何と考えたのであろうか。・・・・新しいこの橋を見るのさえ不愉快である。かつての〈橋梁工学〉には〈美学〉の要素があったようにきいている。建築物と同じように、あるいはそれ以上に、橋梁の設計をささえるものは工学的技術とともに美学であったに違いない。そしてその美学は風土と伝統のなかで育てられた民衆の美意識を基盤として成立するものだったはずである。日本の工学から、いつそのような美学が喪なわれてしまったのであろうか。・・・・」玉城哲著〈水紀行〉より

〇私はこの二年間、「通信」の文中で、徹底して「美」だとか「美しい」とかいうことばを使わないできた。多分、今後も使わないだろう。別に私はその概念の存在を否定しているわけではない。このことばを使えば、なんと簡単にすむことか、と思ったことも何度かある。だから、この引用した文章などみると、その内容に同感を覚えるとともに、あっさりと美学ということばを使っていて、変な言いかただが、うらやましいなと思う。私がこのことばを使わないのは、極めて単純な理由による。得てしてそれが、単に、形象上の問題にすりかえられてしまうからである。仮にそうなると、ものをつくるという人為の本来の存在のありかたが見失われ、形象上の操作におとしめられるおそれがあるからである。

〇四月早々から書きだしたのだが、週に一・二回の甲州行と新学期のなにやかやで、書き終えるのが大分おそくなってしまった。おかげで、蛙の声量に、時の経つ早さを教えられた。

〇三月号に少し触れた「知恵おくれの人たちの家」づくりの発起人の一人から、次のような便りをいただいた。「・・・・園をつくるためにいろいろしたことは、私たちにとっては、やらなければならないこと、〈食べものがなければ食べものを作る〉と同じようなことなのです・・・・。」

〇それぞれのご活躍を祈る。

            1983・5・1            下山 眞司

 


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「ひとそれぞれ・・・・それぞれのストーリー」 1983年4月

2019-10-08 10:16:51 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №1」 A4版10頁 

        ひとそれぞれ・・・・それぞれのストーリー・・・・1983年度「筑波通信№1」

 会話の場面

 「おはよう」

 「おはよ・・・・、あら、どうしたのその顔?」

 「ううん、なんでもない、虫にさされただけよ」

   ・・・・・・

 妙な書きだしで恐縮である。ラジオの番組に「ことばの十字路」というのがある。聞くともなくそれを聞いていたとき、こんな会話が耳にとびこんできた。それも、何回も同じことをくりかえすのである。実は、声優の加藤道子さんが、この同じ台詞を、司会者が指示する場面設定に応じて、その場面での微妙なニュアンスを合んで読み分ける、そういういわば実験を試みていたのである。一つの場面は、まったく単純な、家庭のなかでの朝の一場面としての娘と母の会話、もう一つは、そういう平凡な日々の状景ではなく、ある事件の発端となる場面での娘と母の会話、これがその読み分けにあたっての注文であった。しかも、いまここに記したようなシナリオの一部としての場合と、話しことばの間につなぎの文が入る小説の一部を朗読する場合の二通りについてそれぞれを読み分けていたから、都合四通りの読みかたが試みられたことになる。

 それはもう実に見事であった。それぞれの場面が、ありありと目の前に浮んでくるのである。もちろん、司会者が設定した場面の説明をあらかじめ私は聞いているわけだから、その思い入れによる聞き分けが働いていないわけではないけれども、明らかに読みかた(しゃべりかた)の違いによって、思い浮べる場面が違ってくるのである。

 要は、文字に書きかえてしまうと全く同じ文章になってしまう会話も、その会話が交わされている場面によって、しゃべりかた・話しかたが違っていること、日常では私たちは(なにも声優だけでなく)極く自然にそのように同じことばを使い分け(話し分け)ているということ、そしてまた、私たちが文字に書かれた文章を読むときでさえ、私たちは単にそこに書かれている語句の文字どおりの意味内容だけを読みとっているのではなく、その文章が書き示そうとしている状況あるいは書き手の状況を頭に描くといういわば補完作業を同時に行いつつ、その文章の言わんとすることを限定・判定しているのだということ、こういったことを実験で示してくれたわけである。

 たしかに、私たちの日常の会話の場面を考えてみれば、私たちはその場の状況や、相手の目・身ぶり手ぶりなどまでをも読んで話を交わしているのであって、決してことばそのものだけにたよっているのではないことが直ちに分ってくる。だからこそ、そういう言外のことを全て、耳にすることばを基に補わなければならない電話による会話が難しく、そしてときにはもどかしくさえなるのである。

 

 ときおり聞くだけなのだが、この「ことばの十字路」という番組は、わずか十五分にしてはなかなか面白い。特に今回、その最後に加藤道子さんが語ったことも、これは聞き捨てにできないものであった。司会者が、声優としてのこういう会話の読み分けのこつや苦労などについて尋ねたのに対して、彼女は大略次のように答えたのである。その場面に応じた話しかた・しゃべりかたをすることは、その場面に自分を置いてみればよいのだから、それはそれほど難しくはない。難しいのは、それがどういう場面であるかの判断が直ちにできるかどうかにかかっている。いまここで読み分けた例は難しかった。なぜなら、たった三行の会話部分だけを読まされるのでは、たとえそれが娘と母の会話であることが示され、場面の状況を説明されても、それでその場面がよく分ったわけではない。これが小説やシナリオの一場面ならば、その場面に到るまでの間に、既に、どういう娘と母なのか、どういう状況なのか・・・・などが十分に判ってしまっているから、容易にその場面を我がものとすることができる。しかし、たった三行だけだと、そのほかは全て自分でストーリーを想定するしかないし、第一、この娘と母の関係にしても、ただ一般的な娘と母の関係が分っているなどという分りかたでは到底リアルな場面には行きつけず、その点についてもある仮定をしてみることになる。そういう意味で、不確定な要素が多すぎ、従って役になりきれず、いま一つリアリティに欠けてしまうから、ここでいま試みた読み分けは決してよい出来だったとは思えない、と。(ここでいま私が文章化した彼女のことばも、実際の話しことばではもう少し要領のよい話しかたであって、書きことばで彼女の言わんとすることを極力伝えたいために、いろいろと語間を私が補ったのである。)

 会話の場面では、私たちはある状況を共有しつつ話をすすめているから、わざわざその状況を説明する要がないのだが、書くとなると、この省いたところの状況の説明をまずしなければならないのである。

 

旅での場面

 旅をしている私たちが、とある町に降りたったとしてみよう。その町が初めての町であればなおよい。私たちは、目に入り、そして初めて経験するその町でのものごと、できごとを、それこそもの珍らしげに見、また味わうだろう。そして、そのときの感想やら想いが、その町についてのいわゆる第一印象をかたちづくってしまう。この町への訪問が、そのとき一回限りで終ってしまえば、おそらく、私たちのその町についての理解というものは、この第一印象によりかかったかたちでつくられてしまい、その後いわば永久にその理解がその町に対して語られてしまうことになるだろう。

 ところで、この第一印象、すなわち私たちが目にし経験するものごと・できごとに対しての私たちの(初めの)感想や想いというのが、ただ単純にそのものごと・できごと(の側の責任)に拠ってひき起こされたものなのであるかというと、そうではない。そのときの私たちの視点如何によってそれは左右されると言った方が、むしろ、あたっている。私たちは、そのときまでの(そしてそれからあとの)私たち自らの経験の一部・一場面として、そのとき私たちの目の前にあるものごと・できごとを扱っているからである。いま私たちが目の前にしているものは、通常では、私たち自身の係わるストーリーの一部としてしか、私たちには見えてこないということである。しかしこれは、考えてみればあたりまえなのであって、私たちのストーリーの一部として(とりあえず)扱ってみる以外に、それに対処し、それを位置づける手だてが他にないのである。

 そしてこれが、単に、素通りの一観光客の感想にとどまる限りではとりたてての問題にもならないかもしれないが、しかし、もしも話がそれを越えて進むようならば、問題が起きてくる。すなわち、私たちにその町について理解する必要が生じ、それに対して、一見の客にすぎなかった私たちの印象に拠ってのみそれが語られるとき、つまり、私たちの印象はあくまでも私たちのストーリーの一部でしかないという事実が忘れ去られ、あたかもそれが(万人共通の)普遍的なストーリーの一部であるかのように扱われるとき、そこに大きな問題が生じてくるのである。

 ある町を初めて訪れた私たちの目の前にあるものごと・できごとは、当然その町の人たちの目にもとらえられているだろう。だが、彼らのとらえかたは、これも当然のことながら、私たちのそれと同じではなく、あくまでも彼らのストーリーの一部としてのそれであるはずである。だから、私たちが私たちのストーリーの展開の一局面としていま新たにつけ加えようとしているその町のものごと・できごとは、その町の人たちのストーリーから見れば、その長編のほんの一部、三行はおろか一行にも満たないわずかな部分でしかないのである。もしもこのことを忘れて、その町のものごと・できごとを、私たちの側の視点のみで(あたかもそれが唯一絶対かの如くに思いこみ)推し測るならば、そこでは、ことによれば「ものごと・できごと」の理解はできるかもしれないが、決して「その町のものごと・できごと」についての正当な理解が生まれるわけがなく、むしろ、回復不能に近い誤解と不信の種がまかれてしまうという大問題が生じてくるのである。

 

場面とストーリー

 もう一つ別な事例を考えてみよう。

 三月は入学試験の季節である。受験生ならずともうっとおしい季節である。人が人を右か左かにふるい分けるというのだから、はなはだうっとおしいのである。私の係わっている分野の入試は、いわゆるペーパーテストの点の高低に拠った選別ではなく、いわばそれ向きの資質があるかどうかを見ることになるから容易ではなく、判断に迷う場面も少なくない。それをもおして選別してしまうのであるから、入試が終ったあと、淡い悔恨の情を抱かない人はないと言ってまずまちがいないだろう。ほんとに適切な判断だったろうか、と。(妙な話だが、そのとき抱く感懐は、私の場合、設計した建物が建ってしまったときのそれに似ている。)

 考えてみると、入学試験というのは、「試験」というものを通してたまたま表われ見えた(受験生ひとりひとりのストーリーのなかの)たった三行をもって、受験生を判定する作業であると言うことができる。どのようにしてみたところで、つまるところ私たちにできることは、そのたった三行を見ることだけである。従って問題は、そのたった三行で何を見るかということにかかってくる。もしも、その三行だけが受験生の全てを表わしているなどと思ってしまったら、これはとんでもないことなのだ。私たちは、その三行を基にして、言うならば彼の来しかた行く末のストーリーを思い描いて、この大学に向いているかどうかの判断をする破目になる。それゆえ、受験生にどういう三行を表わしてもらったらよいかが試験問題作成上の大問題となってくるわけである。

 これもこの間放送で聞いたある医者のことばであるが、それによると、いわゆる名医と言われている医者は、患者が診察室へ入ってきた瞬間に一切を察知するのだそうである。つまり、そこへ入ってきた患者の挙動・表情その他そこで患者が示している現象(これはあくまでもたった三行であるにすぎないはずなのであるが)から、単にその現象を知るのではなく(たった三行だけを知るのではなく)それをあらしめているストーリーを見ぬいてしまうということである。病状というある限られた場面に係わるからではあろうが、彼はそれに係わるいわば普遍的なストーリーと、その一環としての三行について、十分に分ってしまっているのである。だから、彼に診てもらう患者は、検査づけ、薬づけの目にあうことがない。名医の行う検査は、彼の察知したことの確認の意味しかもたないから、必要最小限の検査しかしないのである。しかしこれが、三行しか見えない医者になると、話がまったく逆になる。彼には三行だけが見えてストーリーは見えていないから、ストーリーを確定するためにやたらと検査をすることになる。彼は、大量の検査結果のなかから、やっとストーリーを見つけだすのであって、そういう意味では、彼は患者を診ているのではなく、検査結果を診ているわけである。患者は目の前にいるのであるが、彼は検査の向う側に患者を見ているわけである。近代医療は、ことによるとそれを(それこそが科学的であるとして)目ざしてきたのであるのかもしれない。

 

 いわゆる学カテストにのみ拠る入学試験は、この近代的医療における検査に似て、受験者をその検査の向う側に置き、更に悪いことに受験者本人が絶対に見えてこない。なるほどその検査結果も受験者の一面であることはたしかではあるけれども、その結果からいかなるストーリーが読めるのかとなると、皆目見当もつかない。少なくとも、それ向きの資質があるかどうかはその結果だけからは読めないというのはたしかなことである。というより、大学で学ぼうとする人たちのストーリーの確認のための検査という目的がないままの検査:学カテストになってしまっているわけなのだから、そうなるのもあたりまえなのである。もちろん一定の学力が必要なことは認めないわけではない。しかし、私の係わる分野では共通一次試験の結果に加えて論述、口述・面接を加えているのだが、後者により私たちが得る判断は、必らずしも前者の学カテストの結果とは比例していないという事実は注目してよいことだと思う。論述や口述では、本人がはっきりと目の前に出てきてしまい、本人の意向・意志・意欲は、もちろん百%とは言えないけれども、確認することができるのである。私たちは彼がまとめた自分の考えを読み、わずかな時間ではあるが彼と話をし、その三行をもとにしていわば行間すなわち彼なる人物の全容:ストーリーを読むわけである。なかなか名医にはなれないが、しかし、共通一次の点が少々悪かったので偏差値の都合で芸術系の大学なら入ると指導されてきたような受験生は、たちまちにして見破られてしまう(大学で学ぶ目的をはっきり自分のことばとして言えないのである。大抵の場合、そういう彼は、これも多分そう言うように指導されたに違いない他人のことばをしゃべる)。論述・口述は、まともにつきあうと非常にくたびれるけれども、しかしいまのような受験産業専横の時代:偏差値信仰尊大な風潮に対抗するためには、論述・口述だけとは限らないにしても、いずれにしろ本人のストーリーを確認する手だてを講じるようにしようというのが、心ある同僚だちとよく話すことである。私の係わるところでこのような方法がとれるのは、受験者の人数が少ないからで、人によると受験者数が多いところでは効率の面で不可能であると言われてしまいそうだが、言うまでもなく、入学試験というのはただ早く効率的に選別できればよいというものではない。因みに、先日見たTVの報ずるところによれば、かのハーバード大学の入学者選定は学カテストには拠らず(実施しないのだという)志望者ひとりひとりに対しての面接を含む数ヶ月かけての調査に拠るのだそうである。もちろんこれが成立するためには、志望者はもとより、大学の側にもはっきりとした意向・意思・意欲が要求されることは言うまでもない。

 

ものごとの判断

 さきほど私は、近代的な医療は、近代的であり科学的であろうとして、検査結果という客観的諸データの向う側に患者を押しやってしまっているのではないか、と書いた。

 しかし、こういう風潮はなにも医療だけに限らず、いまやあらゆる局面で似たような傾向が表われているのではないだろうか。考えるべき対象を、いくつかの要素に分け要素ごとのデータの群と化す要素分析主義・客観データ主義が、合理主義の名の下に、あたかもそうすることだけが唯一科学的であるかの如くに思いこまれて、いたるところで横行しているように私には思えてならないのである。診察室に入ってきた患者を一目見て彼の状態を察知してしまうようなさきほどの名医は、良く言って名人芸、悪く言うと主観的判断に拠りすぎ客観的裏づけがなさすぎるとして、いま通常では歓迎されないだろう。入学試験における論述・口述試験も、いまもって、その判断に試験官の主観が入り客観性に欠けるとして疑問に思う人が少なくないらしい。

 だが、およそ人間が下す判断で、主観によらない判断というものがあるだろうか。判断するという行為の場面を考えるならば、診察室に入ってきた患者を一目見て判断することも、諸データを多種多様に収集した後におもむろに下す判断も、つまるところは主観によるものであることには変りはないのである。だから、諸データがある方が、あるいは諸データの量が多い方が客観的であると単純に思いこむことは、言って見れば迷信に近いことなのだ。諸データが自動的にある判断を示してくれるわけではないからである。かの名医とて、いいかげんにやまかんで判断をしているわけではもちろんなく、患者に見られるある状況を目にしてそのような状況を示すに到る過程:ストーリーをいくつか思い描き、そのなかから当の患者の状況にもっとも妥当と思われるストーリーを比定しているわけで、彼にとっては、諸データは既に言わば消化されているのである。おそらくそれは、彼の体験により培われたものであろうが、しかしそれは単に経験年数に比例しているわけではなく、彼が常にある現象を見てそれをあらしめるであろうストーリーを見るべくつとめてきたか否かにこそ拠るのだと言うべきだろう。

 逆に言えば、仮に諸データがいくら多量に集まろうが、それらデータをしからしむるストーリーの見通しがたたない限り、それらデータは言わば死語に等しいのである。しかも、そもそもこのストーリーというものは、そういったデータ化された諸要素を、それだけをつぎはぎして語られ得るものではなく、必らず諸要素の間のデータ化されていない言わば空白部分を補い埋めるという作業が必要なのであり、それは見る気がなければ(すなわち、ある見通しがなければ)決して埋められない。第一、「対象をいくつかの要素に分析してみる」ということ自体、それらの要素が言わば天から降ってきたかの如くあらかじめ存在していたわけではなく、「この対象はこれこれの要素の組み立てとして見ることができはしまいか」というある見通しの下の試みにすぎず、従ってその見通しは、あくまでも、そう見通した人の主観に拠らざるを得ないのである。なぜ彼がそのような見通しをたてたのかと言えば、もちろんどこかでそういう見通しを拾ってきたわけではなく、彼のうちに、その対象に係わる事象・現象の(部分ではなく)全体を不都合なく説明して見ようというがあったからである。そして、つまるところ、そのがなければ、見えるのはばらばらの事象・現象だけであって、ことの本質すなわちその事象・現象をあらしめているストーリーは絶対に見えてこない。名医の卵にもなり得ない。

 そして、もしもこの彼の主観に拠る彼の見通しが(少なくいまのところ)その対象に係わる事象・現象を全体として不都合なく説明していると思われたとき、その彼の見通しは(少なくともいまのところ)客観性のあるものとして扱われるのである。端的に言えば、生き生きとした現実に対して、その見通しが、それを損なうことなく対応している、生き写しである、との保証が(少なくともいまのところ)あるということだ。

 

 「客観」ということは、本来、このように一度必らず(それぞれの人の)主観を経過した、その向う側に初めて見えてくるものなのであって、決して(いまとかく思いこまれているように)主観と言わば対立した、主観の外側に存在するものではないし、そしてまた(これもいまとかく思いこまれているように)固定的にして絶対的なものではなく、あくまでも相対的なものでしかないのである。かの名医をして名医たらしめたのは、なにも彼が天才であったからではない。彼が常に(彼の主観に拠る)見通しをもち、そしてその見通しを常に彼の目の前の生き生きとした現実にぶつけてみる、そして見通しを描き改める、そういう(考えてみればあたりまえの)体験をし続けてきたからなのである。常に生き生きとした現実を直視し、しかしそれにおぼれることなく、常に本質へ迫るべく見通しをたて、しかしそれを固定化し絶対視することがないゆえに、逆に彼は、その彼の主観の向うに客観的なるものを見透すことができるようになったのである。要は、彼には、その気があるからなのだ。考えてみれば、大学の入学試験というのは、それぞれの分野でそれなりのその気をもとうとする気のある人たちを探すことなのではないだろうか。その意味では、学カテストの点がそれに応えているとは言い難い。

 

ストーリーを知ろう

 だが実際にはいま、ここで記したような主観と客観の本来の関係はまったく誤解され、ある固定的、絶対的な客観というものが私たちとは別の世界に存在しているかのように、山に入って宝物でも探すように、探しまわる。それはむしろ、あてもなく、と言ってよいだろう。いつかは本命にぶちあたるとでも思うのか、あるいはそれらの群こそが本命をかたちづくるとでも思うのか、目に見えるもの、かたちをなしてとらえられるもの、すなわち数値化してとらえられるものが、それこそが、それだけが客観的なるものだとの思いこみのなかで、収集される。目に見えず、かたちをなさず、従って数値化できないものは、むしろ非合理のものとしてその存在を認められず、認められても不確定で客観的でないとして捨て去られる。さきに私が要素分析主義・客観データ主義と称したのは、こういう傾向を指したのだ。この傾向は一部の人だけではなく、多かれ少なかれ、ほとんどの人に見られるのではなかろうか。みながみな、「裸の王様」を目の前にしていても、データがないと、「裸の王様」と言わなくなってしまっている。逆に、データがあると、見えないものまで見えた気になる。そこに、全ての真実は、目の前にしているものにではなく、データの上にあるかの迷信が誕生する。それは更に、人をしてデータ集めに狂奔させる。悪循環である。と同時に、ますます、生き生きとした現実はデータのかげにかくれてしまう。データの群こそ現実かのようにさえ思われだす。たとえば、学カテストの偏差値がその人の能力の全てを表わしているかの、とてつもない誤解が正々堂々とまかり通り、文句も言えず、言わなくなる。生き生きとした人それぞれは、たった一片のデータのかげで、窒息しかかる。

 いったい、たった一片の、言いかえればたった三行の断片の文章で、しかもその字面だけによって、小説を読んだとする人がどこにいるだろうか。私たちは、小説を一通り読むことに拠って、その三行の意味を逆に知るのではなかったか。私たちに必要なのは、なにごとによらず、ストーリーを知ることであって、三行だけを知ることではない。ただ、私たちが現実に出会う場面は、できあがったある一つの小説の場面ではない。私たちそれぞれが、言わばそれぞれの小説をもっていて、ある同一と思われる場面も、それぞれの小説ではそれぞれ独自の場面に位置づけられるのだ。従って、私たちの出会う場面はいかにしたところでたった三行なのだが、それを理解しようとしてその三行だけをもって処することはもちろん、私の小説を押しつけることも、本来、できないのであり、どうしてもそこで、他の人の小説・ストーリーの存在を認め、またそのストーリーそのものをも推し測り、思い量るという作業が必要になる。そして、この作業はあくまでも私たち個々の主観に委ねられているのであり、他からは与えられるものではなく、また、それこそが真の意味でのコミュニケーションの根になければならないのではなかろうか。

 そして、この互いの主観を通しての作業の果てに、これまた真の意味での「客観的なるもの」の姿が見えてくるはずなのである。

 

あとがき

〇私がいま週に一度通っている工事現場を、たまたま訪れた人がいた。彼は、とても信じられないという口調で、現場監督がなってないときめつけた。場内の整理がなってないというのである。私はまた、それを聞いて、とても信じられないと思った。なぜなら、私自身は整理がなってないとは思っていなかったからである。たしかにその日、現場は見た目には乱雑に見えたはずである。というのも、その前日のかなり夜おそくまで、現場はコンクリートの打設で戦場のような忙しさであり、そのあとかたづけが未だに終っていなかったからである。つまり、私には整理まえの(あとかたづけまえの)乱雑として、彼には整理をさばった乱雑として、見えたということなのだ。

 もし彼が、その翌日この現場を訪れたなら、彼はきっと、まったく逆の感想を述べたにちがいあるまい。こう考えてみると、彼がもらした感想が、仮に事実にあっていたからといって、それをそのまま受けとってしまうのもまことに危険なはなしだということになる。なぜなら、それはたまたま事実にあっていたという可能性の方が強いからである。私は、なぜいま乱雑であるかを説明するのに(つまりストーリーを説明するのに)苦労した。ものごとが「分る」ということは難しいことだと思った。

〇私のところの大学院修士課程の講義には、社会のそれぞれの場面で活躍されている方に語ってもらう番組が組んである。いわゆる非常勤講師というかたちでお願いするのである。非常動講師をお願いするにあたって、当人の資格審査というのが行われる。履歴書と業績目録なるものの提出が求められる。昨年、ある町の行政マンを講師として申請したところ、だめだと判断されてしまった。業績がないからだという。私が彼を申請したのは、彼に、その町の各種の計画を実行に移した業績があるからだったのであるが、だめなのだという。なぜなら、彼が、その業績を論文等のかたちで世に発表していないからなのだという。私はいささかどころか大いにあきれかえり、数ヶ月にわたってかみついた。行政なるものの実績は、一々ペーパーで発表するものではなくそれはその町のなかに蓄積されるものである。こういうと、その蓄積が、いかに秀れたものであるかというなんらかの客観的データか、だれか有名な人のおすみつきがあるか、という。私が彼に語ってもらいたかったことは、その蓄積そのものではなく、そこへ到らしめた活動の課程についてであったのだが、あいにくそれはある定型をもったものでなく、つまり目には見えない類のものだ。数値化されたデータになるわけがない。まして有名な人たちなど、彼がなにをしてきたかなど、知るよしもなければその気もないのだから、おすみつきなどというものもあるわけがない。それよりもなによりも、行政マンというのは、名前をふりかざして表にしゃしゃりでるものではない。こういくら説明しても、まったく分ってもらえず、いまも闘争継続中。その人の履歴とは、本来の意味では、その人のストーリーに他ならず、つまり何をどうしてきたかを示すものなのだと、私は思うのだけれども、どうやら一般には、そこに書きこまれる字句そのものにのみ意味があるらしい。論文があるかどうか、その数がどのくらいあるかだけが問われ、それになんの意味があるかは問われないらしい。勲章の量がものを言うのは、なにも軍隊だけではないようである。

〇ふとしたきっかけで(ことによると思いつきにすぎなかったのかもしれないが)このような毎月通信をはじめてしまって、あっという間に二年間がすぎてしまった。なぜこのような言わばばかげたことをはじめてしまったのかと思う一方、もっと昔からやっておけばよかったとも思う、複雑な気持ちでいる。前者の気持ちは、自分のなかにおさめておいたってよいものを、なぜ他人までまきぞえにしなければならないのか(つまりなぜ他人に読んでもらおうなどと大それた気になるのか)ということに根ざした気持ちである。やはり自己顕示欲の一変形なのではなかろうか、などといろいろ考えてときおり自己嫌悪にもおちいりかねないから、あるところから先は深く考えないことにしている。もっと昔からやっておけばよかったという後者の気持ちは、人に読んでもらうかどうかとは別のところから来る思いで、要は、毎月いろいろ書いてみて、随分と学習もせずに長い時間すごしてきたものだということにあらためて気づいた言わば後悔の念に根ざすものだ。

〇いろいろと書いてみて、「これはこうなんだ」とかねて思っていたことも、いざそれを文章にしてみようと思うと(つまり、文章で説明しようとすると)そのかねて思っていたことが、実はあちこち穴だらけであったということに気づき、そんなに簡単には文章にならないということを、いやというほど味わった。「これはこうなんだ」と思いこんだあと、それをつめるという作業をもう長い間やってこなかった、ということにあらためて気づき、もっと昔から文章にしてみる、その思いを書いてみる、ことをしておくべきであったと思うのである。私の文章のなかに、「ふと考えると」「考えてみると」「そうなのだ、これはこういうことなのだ」的な書きかたが多発するけれども、これはほんとうに文章を書いているうちに「ふと考え」「そうだ、これはこういうことなのだ」と思い到ったそのままを書いているのである。ほんとうはこういう所は舞台裏にしまっておくべきなのかもしれないけれども、なにせぶっつけで書いているからこうなるのである。そしてそれは、もっと昔からやっておくべきだった。

〇もっとも、私のなかでは一方で、舞台裏をかくしてまとまったことだけを書くよりも、具体的な事象・現象を目の前に置いて、そこから思いを右往左往しながら展開するのも、かえってわるくない、とも思っている。場面を共有することを通じて、ことが観念的に走るのがふせげるのではないかと思うからである。

〇私がここに書き記していることは、具体的な事象・現象を目の前にしての、言わばメモのようなものである。こういうメモは大分昔、学生のころ、一度は書きつけたこともあった。それをやめて、随分と久しかった。その当時のそれといまやっていることの根本的なちがいはなにかというと、当時のそれはまったく個人的なおぼえ書であって全てそれは自分のなかで処理すればよかったのであるが、いまやっていることは人に読まれてしまうという条件が一つ決定的に加わるから、単なる思いつきのメモでは済まず、極力つめてみなければならないという状況に、私自身がおかれているという点にある。人が読むのだから呼んで意の通る文章にしたてなければならない。そうすればするほど、埋めなければならない穴がいっぱい見えてきて、尽きるところがない。そういう意味では、この二年間、ほんとうによく学習させてもらったと思う。もっともそれは、人に読んでもらうということに拠っているわけだから、はなはだ虫のいいはなしなのだが。

〇そして、虫のいいはなしだと思いつつも、ことしもまた続けてみようと思う。これも虫のいい話だけれども、ご意見、ご異見があったら、是非問い詰めていただきたい。

〇それぞれのご活躍を祈る。

         1983・3・29              下山 眞司


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