観察・認識、そして「分る」ということ-2

2010-08-27 11:41:29 | 論評


ことしは収穫がかなり早まりそうです。今朝の田んぼ。
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[文言変更 27日 15.26][リンク先記入 15.43]
2000年の建築法令の変更に前後して、「住宅の品質確保の促進等に関する法律」というのが、これも立法府で内容の詳細な検討が為された形跡もないまま成立しています。
ここに「性能表示事項」が示されていて、それは更に「住宅性能表示制度」、そして「日本住宅性能表示基準」なるものの制定へと連なります。
「日本住宅性能・・・」とありますから、普通の人がこれを読んで、「住宅の質」に基準に設けられたのだ、と思っても不思議ではありません。

   註 さらにこの延長上に「長期優良住宅制度」があります。

「建築基準法」を要に置いて、「品確法」そして「住宅性能表示制度」で絞ってゆく、このプロットをつくった人たちは、かなりの「脚本家」です。
「『住宅の質』をよくするために国が努力している」という「プラスイメージ」を、人びとが持ってしまうからです。さすがコマーシャルの時代だなあ、と思ってしまいます。

この「プロット」に疑問を呈す、などということは大変難しい。
なぜなら、言葉の上では「できている」からです。正確に言うと、概念を明確にしないまま、語を情緒的な語のイメージで語っているため、どのようにも言い逃れができる、「逃げ」がとってあるからです。
したがって、これらの制度を「理解する」には、こういうプロットをつくった人びとのホンネを知る必要があります。
しかし、いつも巧妙にホンネを隠す、それが上手な人たち。

しかし、ときおりホンネが漏れてしまいます。
「品確法」は2000年4月に施行されましたが(1999年に公布)、その一般向けの「品確法のポイント」という解説が建設省(当時)から出されていますが、そこに、ホンネを書いてしまったのです。
そこには
「良質な住宅を安心して取得できる住宅市場の条件整備と活性化のために」
「21世紀に向けて安心して良質な住宅を取得するために、いま、住宅制度のあり方が大きく変ろうとしています」
とあります。

   註 言葉尻を捕まえるようで気が引けますが、
      「大きく変ろうとしています」とあたかも自然現象の様態を客観的に描写するかのような書き方ですが、
      「(私たち:行政は)住宅制度のあり方を、大きく変えようとしています」と言うべきでしょう。
      実は、こういう「表現」を、この人たちはよく使います。
      つまり、「日本語は主語なしでも文がつくれる」ということを「活用」するのです。
      建築系の学術論文でも見かける「手法」です。

これはどういうことを意味するか。

普通の日本語では、大工さんに住宅をつくってもらうことを、住宅を取得する、という言い方はしません。「大工さんの手許にあるもの」を、取得したわけではないからです。車を買うのとはわけが違います。

したがって、この「解説」の裏側には、「人が住まいを構える」とは、すべからく住宅メーカーにまかせることだ、自動車を買うように住宅メーカーの「提供する」物件を購入することだ、その方向に持ってゆくことだ、という「設定」「思考」が根底にある、ということ。
そうであるならば「取得」という語もおかしくはありません。
これはつまり、「アメリカ型の住宅生産」のイメージ。
その「きわめつけ」は、「この法律は、すべての住宅について適用されます」という文言。

これは、地域の「職方」:「実業者」が、地域に暮す人に「委ねられて」建物をつくる、というわが国の従来の住まいのつくりかたを、いわば全否定する方向の考え方と言えるでしょう。
それはすなわち、「職方」:実業者の否定以外の何ものでもありません。
  [意味が若干異なりますので、「頼まれて」だった文言を「委ねられて」に変更しました。27日 15.26]

第一、「住まいをつくる人」にとって、「住宅市場の活性化」などは無関係のはずです。
それとも、「住まいをつくる」ということは、「住宅市場を活性化する」、つまり、「住宅メーカーの業績を高めること」が目的なのでしょうか。

地域に密着して仕事をしている職方はたまったものではありません。ここに職方否定の考えが如実に示されているのです。

   註 この「論理」は、林業振興のために、国産材を使った住居をつくる、というのにそっくりです。
      住居をつくるのは、林業のためではありません。
      きわめて短絡的な「論理」です。
      こういう「論理」で木造住宅をつくるから、おかしくなるのです。
      林業の振興は、「美味しんぼ」がいみじくも書いてくれたように、外材の関税を一考すれば、解決する話。
     
そして「品確法」は、「せっかく手に入れたマイホームも、性能に著しく問題があったり、・・・重大な欠陥があったりしてはたいへんです。そうした・・・トラブルを未然に防ぎ、万一のトラブルの際も消費者保護の立場から紛争を速やかに処理できるよう・・・制定された法律」であるという説明もあります。

これもきわめて不可解、おかしい。
性能基準なるものを制定し、その基準をクリアしさえすればそれでよし、とすることを認めているに等しいからです。
このおかしさ、問題点は、環境問題で使われる「許容規定」を例にして話すと分りやすい。なぜなら同類の発想だからです。

たとえば、工場排水。その汚れ具合を、「この程度なら許す」、というのが「許容規定」。
しかし、本来、排水は汚れていてはいけない。それが当たり前。
しかし、そうすると「生産」に差し障りが出る。
ゆえに「この程度」を「科学的に」決める。そうして示されるのが「許容値」。
けれども、この「許容値」は、いつのまにかいわば「目標値」にすり替わる。
簡単に言えば、汚れを0にする「努力」をやめる。
そして、いつの間にか「推奨値」になる。
建材のホルムアルデヒドなどについての規制、基準は、まさにこれと同じです。最近ではアスベストも・・・。

   註 以前に「小坂鉱山」の鉱毒除去施設が、精錬の稼動前に完成していたことを紹介しました(下記)。
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ac345dec3d5e5966fe29cb97fa6702cf
      「足尾銅山」の田中正造の直訴事件と同じ1901年の話です。
      同じ年に、片や直訴、片や除去施設の完成。
      「小坂」には、人に言われるのを待つのではなく、自らすすんで、汚れを0にしようとする「努力」があった。
      今、このような「努力する気」が「行政」「業界人」にあるか?

逆に言えば、
「品確法」「日本住宅性能基準」なるものの存在が、
人びとそれぞれが、それぞれの暮しの中で、それぞれが独自の感覚で感じ観察し、状況を認識し、そして「こと」を知る、分る、という過程そのものを破壊してしまう働きをしてしまう、私はそう思います。
つまり、それ以外の判断はするな、という「判断」の押し付け


どうして人びとの「観察と認識」の「自由」と「機会」を保障し見守るのではなく、
人びとから「観察と認識」の機会を奪い、人びとが自らのやりかたで「分る」ことを認めないのでしょう。

やはり、その根として、偉い人たちの頭の中に「大政翼賛会」的思想が蠢いているからだ、としか私には思えないのです。
そしてこの場合、市場原理主義のモデル、アメリカ化が目標の翼賛会。アメリカ式住宅生産化です。

   註 アメリカでサブプライムローン問題が起きなかったら、
      日本にもこの「制度」が移入されるはずだったようです。
      100年住宅、200年住宅というのは、それを念頭においていたのです。
      因みに、「品確法」の担当は、建設省(当時)住宅局 「住宅生産」課
      「住宅をつくる」ことを、何ゆえに「生産」と言わなければならないのか?
      そこに「深い意図」を疑わずにはいられません。
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「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」
まさにその通りの様子です。コシヒカリは倒れやすいのだそうです。
自然には駆け引きなどない。ありのまま、なのです。
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だからこそ、私たちは「裸の王様」になってはならないのです。
純心なこどもたちに「裸の王様」と言われないように、
「裸の王様」に対して、
「あなたは裸だ」と、まわりの目を気にせず、畏れずに、言えるようにならなければならない、と私は思っています


   註 そんなことを考えているときに入ってきたニュース、それが「美味しんぼ事件」でした。


では、そもそも、ここで言われている「性能表示」の中味は何か?
これについて次回考えてみようと思います。

   註 今朝のケンプラッツのニュースによると(下記)、
      昨年の秋の実験で
      想定外の倒壊をしてしまった長期優良住宅実物実験の報告が出されたそうです。
      映像では、強度の弱い方の試験体は倒れていなかった、と私には見えましたが、
      実験主体の見解では、あのときの試験体は、「2棟とも倒壊」、ということにしたようです。
      その理由(言い訳)を2000頁におよぶ報告書で書いてあるとのこと。
      実際の震災の際にも、倒壊か否かの判断に迷って、時間がかかるのでしょうね。
      http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20100826/543027/
      
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とり急ぎ・・・・続・災害防止には木造建築禁止が一番?!

2010-08-24 20:11:50 | 建物づくり一般
ブログを読まれている方から、話題のコミックの当該部分を、資料として使うのは構わないそうです、との付言付きで送っていただきました。

それは、小学館発行の『ビッグコミックスピリッツ』に1983年からもう30年近く連載されている原作:雁屋哲、作画:花咲アキラによる『美味しんぼ』(おいしんぼ)の6月頃の作品。
この連作は、1987年、第32回小学館漫画賞青年一般部門受賞を受賞しています。

それにしても、よく調べてあります。感嘆します。
外材の関税が0だ、などということは、建築関係者の大半は知りません。
そして、2×4工法も、「外圧」により導入したものだ、という経緯も、建築関係者のほとんどは知りません。まして一般の方がたは、・・・。
第一、公共建築・学校の非木造化を推進していた建築学会が、その25年後、突如として木造校舎奨励に舵を切ったのは、外材の関税0、2×4工法のやみくもな導入に対する国内の反発(とりわけ農林省がらみ)に対する懐柔策の一つに過ぎない、ということも知られていません。時期を照合すると、氷解するはずです。
建築学会は、政府の策に協力したに過ぎないのです。そういう「学会」である、ということをあらためて認識してください。

さて、その『美味しんぼ』の、当該の部分を下に頁ごと紹介。
ただ、上段2頁と下段2頁は、掲載された号が違います。
それにしても、ほんとによく調べている!

建築関係者たちは、ここまで調べない。
そして、知っていても、「不味い」ところは都合が悪いとして、押し黙る・・・。
つまり、「裸の王様」に進んでなる、なりたがる・・・。

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工事大幅遅延中です!

2010-08-24 09:28:49 | その他


8月末になってもまだ元気に咲いているムクゲです。

昨日、講習会で配付していただく資料の原稿を送りました。いつもより1日遅れ。
工事を再開するつもりが、昨日は今年一番の暑さ!土浦で36度を越えたらしい。
これは百葉箱での、つまりいわば日陰の測量。日なたは体温を遥かに越えたはず・・・。
外から吹き込む風も熱を帯び、机の上に置かれたものは、どれも暖まっている。
さすがに体も頭も動きが鈍くなる。

この際、じっくり、ゆっくり、時間をかけて書くことにしました。
次回はかなり遅れるでしょう。今週中に上がれば上出来かな・・・。

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とり急ぎ・・・・災害防止には木造建築禁止が一番?!

2010-08-19 20:37:08 | 建物づくり一般


我が家の前にある藪。
以前は柿木畑。実生のシュロがあり(もしかして、持ち主が植えた?)、そこにカラスウリとヘクソカズラがからみついています。
それでも毎年シュロは確実に成長しています。これが自然界のエネルギーです。
   *****************************************************************************************

[註記追加 20日7.00][追加 20日 11.53][語彙訂正 21日 11.13]
ケンプラッツのニュースで、私はよく知りませんが、木造建築をダメにした一つの原因は、日本建築学会だ!と明言したあるコミックが話題になっているそうです。
建築学会も、捨てては置けぬ、沽券に係わる、というわけで、「止せばいいのに」、下記の「解説」をホームページで掲載しています。

http://www.aij.or.jp/jpn/databox/2010/20100726-1.htm

なぜ「止せばいいのに」と言うか?
端無くも「本性」が出てしまっているからです。

これは、1959年秋の伊勢湾台風の直後、その年の建築学会の大会で、500名ほどの「有志」が集まって出した「決議」のようです。

ホームページは次のような書き出しで始まっています。
「本会が1959年9月の伊勢湾台風による甚大な被害の直後におこなった『建築防災に関する決議』において、火災、風水害防止のため『木造禁止』の決議をしたのは歴史的事実ではありますが、決議前後の状況と切り離されて『木造禁止』だけが一人歩きしますと、『木造禁止』の意味および本会の活動に対する誤解を招くことになりますので、・・・・」

この台風では、15万棟を越える被災家屋があり、そのほとんどが木造であった・・・、そこから「木造は災害にはダメだ」という「結論」が「導き出された」のだと思われ、事実、そういうことが解説にもあります。

   註 「短絡的」という語があります。
      この方がたの対応は、まさに、「短絡的」の見本です。[註記追加 20日7.00]

よく考えてみてください。
伊勢湾台風が通過した地域には、いったい、総計でどのくらいの家屋があったのでしょうか。おそらく、はるかにその数字を上回る家屋があったはずです。つまり、その数字をはるかに上回る数の木造建築が無事であった、ということです。

   そしてまた、有史以来、台風は、頻繁に日本を襲っています。
   その間に建てられた建屋は、すべて木造のはずです。
   それが、木造ゆえに、壊滅したのでしょうか。
   そんなことはありません。
   そういう災害に如何に備えるか、人びとは「知恵」を培っていたはずなのです。
   これも、立派な「歴史的事実」。
   木造がダメなら、とっくに日本には人が住めなくなっていたはずです。
   そんなことはない。これも「歴史的事実」。
   そこに「知恵」を見つけたのは人びとなのです。
   学会の方がたは、「知恵」を見抜きましたか?
   頭からバカにしていませんか、人びとを。

そのとき、scientific に考えるならば、
では、その15万棟の木造家屋は、どういうところにあったのか、
無事な家屋はどういうところにあったのか、
と考えなくてはなりません。そのように私は考えます。
私の知る限り、被害を蒙った家屋は、ある地域に集中しています。つまり、かつての人びとならば決して住み着かない場所です。低湿地です。

私は、そこに住み着いた人びとが悪い、などと言っているのではありません。
そういうところにしか住まいを設けられない人びとがいたのだ、そうせざるを得ない社会だった、ということを言っているのです。
建築学会の偉い方がたは、そのことについて、そういうところは、危険なのだ、と言ってきましたか?住むべきではない、と言ってきましたか?助言してきましたか?そういうところには住むべきではない、という「都市計画」を諮りましたか?

そうではないはずです。
建築学会をはじめとする偉い方がたが言ってきたことは、そういう低地などではベタ基礎にしなさい・・・などの施策だけだったのではありませんか?
たとえば、東京でも、環状8号沿いにグリーンベルトを設けるという昭和初期の構想は、1960年代だったと思いますが、あっさり廃棄されます。そのとき、それに「抗議」した建築学会の「偉い方がた」はおられましたか?
むしろ、グリーンベルト撤廃に加担したのは「偉い方がた」だった、のではないですか?

つまり、建築学会の偉い方がたの目は、言葉は悪いですが「近視眼的」に過ぎ、前後左右の見通しが悪くなっているとしか思えません。「日和見」です。「定見」がない。
一言で言えば、scientific とは縁が遠い人たち。

今、木造建築の振興のために学会は努めている、と解説は言います。
しかし、かつて、公共建築の非木造化を推奨したのは、紛れもなく建築学会です
学校建築の非木造化を奨めたのは建築学会、手のひらを返したように木造の奨めを説くようになったのも建築学会・・・・
そこに「定見」がありますか?これは「日和見」の典型です。これが偉い人たちなのです。
   註 この点については、資料を基に、下記で書いています。
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/3b6f3e8a95496606517aa2ed5bf578ab
      これは、下記シリーズの一部です。[語彙訂正 21日 11.13]
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/b9957b5eb2065b38dbc67fdae5ece87d[追加 20日 11.53]

こういったことを、端無くも、今回の「事件」への対応で、「本性」を示してしまったのです。《止めとけばよかったのに・・・・》。

学会という「裸の王様」を、偉い人たちに気を遣うまわりの目を畏れずに、「彼らは裸だ」と堂々と言ったこのコミック(を書いた人)は、大したものだ!と私は思っています。物書きはこうでなければならない、とさえ思います。
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本題の方は、もう少し時間がかかります。週明けかも・・・。

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とり急ぎ・・・・「沈黙の春」再来?

2010-08-14 11:45:25 | 居住環境


ちょうど昨年の今ごろ撮ったハスの花です(今年は撮りに行ってませんので・・・)。

[文言変更 14.40]
最近、ミツバチがいなくなった、スズメを見かけなくなった・・・などのニュースをよく聞きます。
幸い、当地ではそういうことは未だ起きていないようですが、たまたま見た下記のブログに、その理由を推察している投稿論文がありました。
「ネオニコ系」と呼ばれる農薬がその因ではないか、と各地の「観察」「報告」を通して触れています。家庭用の殺虫剤などにも含まれているようです。

著者は、新たな「沈黙の春」の再来を危惧しています。
私なりに理解すると、農薬の「殺虫の性能」だけに「着目」した「科学的開発」が進んだ結果と言えそうです。[文言変更 14.40]

http://lib21.blog96.fc2.com/

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ところで、次回の記事は、講習会資料の編集に手間取っていて、若干遅れます。

少しは涼しくなりましたが、残暑は続きそうです。ご自愛ください。

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観察、認識、そして「分る」ということ-1

2010-08-11 00:10:35 | 論評


7月半ばから咲き出した百日紅。去年よりもかなり早く、今は盛り。これから9月まで、猛暑のなか、息切れすることなく咲き続けます。

◇状況・情況  [註3追加 11日6.50][文言追加 9.59][註記追加 14日 18.53]


これまで、日本の建物づくりの様態について、いろいろな書き方で書いてきました。
私自身、まだ知らないことがたくさんありますが、いろいろと知り、分ってくるうちに、より強く「別の感想」を抱くようになりました。

それは、これまで、多くの「本当のこと」が、「世の中に知らされていない」、「知らされて来なかった」(今の言葉で言えば「開示」されて来なかった)、ということに対する「驚き」の感想です。
そして、「開示される」ことがあるとすれば、一部の方々による、その方々の「特権」としての、きわめて局所的・部分的な「知識」が、あたかもそれが全容であるかのように語られてきた、そのことに対する「驚き」の感想です。
さらに、それを聞いた一般の人たちが、それを鵜呑みにして平気でいる(自ら「知ろうとする」ことを省略している)、そのことへの「驚き」の感想です。

そしてさらにまた、このような「不条理」について、誰も、どこからも異論が出されていない、ということに対する「驚き」の感想でもあります。 

   註 この「風潮」は、敗戦後顕著になったように、私は思っています。
      戦後、戦前以上に、もちろん江戸時代以上に、
      「封建的社会」になってしまったのではないか。
      私たちは、たとえば「三寒四温」「雷三日」・・など
      天候に関する「言い伝え」を知っています。
      これらは、皆、私たちの先達たちが、日常の暮しの観察を通して得たものです。
      私たちは、今、こういう「観察」をしているでしょうか?
      こういう「言い伝え」を後世に残せるような「認識」を得ているでしょうか。


そしてまた、建築にかかわる方々には、「本当のこと」を知ろうとする方が、少ないのではないか、とも思いました。
しかしこれには、あくまでも多少ですが、理由(わけ)があります。
建築にかかわる方々は、日常の仕事を続けるにあたって、「本当のこと」を知る必要を感じるヒマもなく「建築法令」の諸規定にがんじがらめに縛られているからです(まるっきり知る必要を感じない方々も大勢居られますが、・・・)。
簡単に言えば、こうするのがよりよいだろう、と思うことが、法令の諸規定ゆえにできないのです。
いまや、「建物の設計とは、建築法令の諸規定に適合させること」に変容してしまった、と言っても過言ではありません。
これが先般お寄せいただいた方の、「日本は法治国家だから・・・」、というコメントに連なるのだと思います。

さらに言えば、建築士とは、「建築法令の指示する諸規定の単なる具現者」に過ぎなくなった。
それゆえに、その「意味」を省みることなく、「新しい、他とは異なる『形』」をつくることに精を出す以外にすることがなくなってしまった・・・・。あるいはまた、そういう状況を、むしろ、甘んじて受け容れている・・・。その方が、うまく世の中を渡ってゆける・・・。

こういう状況を最もよく表しているのが、「建築家」のつくる建物群であり、いわゆる「住宅メーカー」のつくる建物群であり、そして都会にそびえるビル群であり、そしてまた、あちらこちらで見かけるようになった「耐震補強」を施された建物群・・・と言ってよいのではないでしょうか。

これらは皆、「建築法令」の「指導」に従っている法治国家の模範的建築群。
そしてまた、皆、建物をつくること、建築の本義をどこかに忘れてきたとしか、私には思えない建物群。
その「不条理」についても、誰も、どこからも異論が出ない・・・。甘んじている。

   註 終戦直後、1950年代の建築雑誌は(たとえば「新建築」誌は)、
      今のようなファッション誌ではなく、
      確固とした編集者の信念・思想の下で編集され、
      まさに談論風発、緊張感がありました。
      これからどうしたらよいか、皆真剣だったのです。
      建築評論家も、今のような「有名建築家のお先棒担ぎ」ではなく、
      本当に評論をしていました。


木造建築の場合、「長い歴史をもつわが国の建物づくりの技術・技法・工法」は、ここ約1世紀の間の「指導」によって、ほとんど使うことができなくなってしまいました。
その「指導」とは、現行「建築法令」の「論拠」となっている理論構築者たちによる「指導」であり、具体的には、「建築法令」に基づいて為される行政による「指導」です。

そこでは、「長い歴史をもつわが国の建物づくりの技術・技法・工法」と「その拠って立つ考え方」は、「いろいろな理由」により、まったく無視・黙殺されてきました。
その「理由」の最たるものは、「非科学的」である、ということに尽きるでしょう。
当然、それに対する「抵抗」はありましたが、いつも「非科学的」として、これも無視されてきました。

しかし、そういう「抵抗」の火を、理論構築者や行政は、その「指導」だけで消すことはできません。
なぜなら、建物づくりの実際は、理論構築者や行政が行なっているのではなく、「実業家」が行なっているのであり、
もちろん現在ではすべての「実業者」がそうであるわけではありませんが、
かなりの方々は「長い歴史をもつわが国の建物づくりの技術・技法・工法」の延長上で仕事をしているからです。

   註 「実業家」とは、今の言葉で言えば「職人」あるいは「実務者」のこと。
      明治の頃は、こう呼んでいたようです。
      私は「工人」と呼ぶことにしています。

そして今、「政権」が代ってから、急に「長い歴史をもつわが国の建物づくりの技術・技法・工法」でも建物づくりができるように「建築法令を見直す」、という動きが出てきました。
多くの方々が、この「動き」を「歓迎」しているようで、多くのブログ、とりわけ「いわゆる伝統工法」を旗印とする方々のブログからも、「歓迎」の声が聞こえてきます。
なかには、これまでは東大系が主導してきたが、今度は京大系、だから期待する・・・などという意見も、かなり見受けられます。先般コメントを寄せられた方もそのように見受けました。

しかし、私は、私の見て知るかぎり、東大だろうが京大だろうが、やっていることの根っこは同じ、と見ています。
もっと端的に言えば、「建築法令」で「建物づくり」について、こと細かに規定する、規定しよう、ということ自体、すでに「論理的に、また scientific に」間違いである、誤りである、と思っています。
「実験」を行なうなど「科学的」な装いをとってはいても、そのこと自体、全く non-scientific、non-sense だからです。

そして、それが non-scientific、non-sense であることについて、誰からも、そしてどこからも、異議一つ出されない、この不可思議。
そしてまた、その「結果」を待ち望んでいる人たちが多く居る、という不可思議。
さらに言えば、それを不可思議と思うことが、「非科学的」であるかのような世の中の風潮の不可思議。
これでは、「気が弱い人」は、何も言えなくなってしまうのです。

これについては、もう何度も書いてきましたが、こういうことにお終いはありません。今後も何度でも書きます。そして、異論のある方は、どしどし反論してください。

   註1 これまでもそうでしたが、ここでも、
       「科学的」という語と、scientific という語を区別して使います。
       すべて日本語で通したいのですが、そうすると誤解が誤解を生むからです。

   註2 「京大系、だから・・・」云々というような「判断」は、
       ものごとを、ことの当否ではなく、
       かかわる人の「色」で見てしまう、「色眼鏡」をかけてものを見る見方。
       つまり、non-scientific の典型。

   註3 もちろん、現行建築法令の構造規定が変り、
      「長い歴史をもつわが国の建物づくりの技術・技法・工法」が、
       自由に使いこなせることになることを、私は否定しているのではありません。
       そうではなく、「見直し」によって、「長い歴史をもつわが国の建物づくりの技術・技法・工法を、
       使えるような『規定』に変更すること、を求めること」がおかしいと言っているのです。
       どうして「規定」が欲しいのですか。
       「長い歴史をもつわが国の建物づくりの技術・技法・工法を使えるような規定」がないと、
       つくれないのですか。
       それは、自ら自分の首を絞めるようなものだ、と私は思うのです。

       「技術」は、「規定」の海のなかでは停滞します。
       「建築法令」の下で、「技術」に何らかの展開がありましたか?
       私の知る限り、あるとすれば、諸種の金物の「開発」など、
       「建築法令の規定」をクリアするための《技術》だけではありませんか?
       「建築法令という掌」の上で、遊んでいるだけではありませんか?
      
       「建築法令の見直し」とは、「新たな規定」をつくることではなく、
       「その拠って立つ『考え方』を見直すこと」でなければならない、と私は考えます。

       この私の考えに対して異論・異議があれば、是非お聞かせください。[註3追加 11日6.50]

           
私はこの「風潮」を、「大政翼賛会」的風潮と考えています。
別の言い方をすれば、大樹に拠りたいという風潮。
註で書いた「東大系だから、京大系だから・・・云々」というのもまた、「大政翼賛会」的発想の裏返しに過ぎません。

   註 大政翼賛会
      大政翼賛会と言っても、知らない人が多いかもしれません。
      1940年(昭和15年)、つまり、戦争を始める年の1年前の10月に、
      時の内閣によってつくられた人びとすべてを政府の下に「統制」することを意図して設けられた組織。
      1945年(昭和20年)まで続く。
      一部の政党を除き、政党は解散。
      「隣組」もその末端組織。
      江戸時代の「五人組」をいわば悪用したと言ってよい。
      江戸時代には、これほどまでの「思想統制」はなかった。
      敗戦時、私は8歳。国民学校3年。それでも、その「暗い」空気は覚えています。
      そして、手のひらを返すがごとき「大人」の行動も・・・。
      「国民学校」とは、ナチスドイツにならって小学校を改称した名称。[註記追加 14日 18.53]
  
たとえば、先般の参議院議員選挙で、政権党は敗北。それをして「衆参」がねじれる、として大方のメディアが「心配」した。
そんなに一党独裁がいいのか、私はそう思いました。
戦前の「大政翼賛会」的発想から、敗戦後65年、まったく抜けていないではないか・・・、と。
世の中にはいろいろな考え方、意見があるのがあたりまえ。それが反映されない選挙制度自体がおかしい、と私は思います。
一票の格差だけを問題にするのも、私には、「大政翼賛会」的発想の裏返しに過ぎないと見えてしまうのです。
どこであったか忘れましたが、わが国のメディアの言い方で言えば「少数政党の乱立の結果」、優位に立つ政党がなく、それら少数政党の連立で政治が行なわれている国があったはずです。
私は、むしろそれが「正当」だと思うのです。


ところで、最近の(2000年の)建築基準法の「大改変」(私は「改訂」という語を使いません。改訂とは「改め直すこと」、「改める」には「よい方向に変える」というニュアンスがあり、よい方向に変ったと私は思わないからです)で大きく変ったのは、それまでの「定量規定」が「性能規定」に変ったことだ、と説かれてきました。

この用語は、これまた誤解を生みます。なぜか。
今までは定量規定だったがこれからは性能規定だ・・・。
この用法から、人は「定量」規定が「定性」規定に変った、と思わず思います。
しかし、それは「誤解」。
「性能規定」とは、「性能」なるものを「定量規定」として「数値」で示したもの。

私は、「性能」を数値化して示す、などというのは、偏差値教育で育った世代、市場原理主義に染まってしまった世代に特有な発想に拠るものだ、と思っています。
別の言い方をすれば、何でもランク付けしないといられない世代の人たち。何でも一番を目指せと、その比定の根拠を問わずに、思ってしまう人たち。
数値とランクという色眼鏡を掛けてものを見ていながら、それが色眼鏡ではない、公平無私な眼鏡だと思っている人たち。
数字で示されないとものごとを「認識」できない人たち。
数字で示されないものは、「存在しないものである」と思いたがる人たち。[文言追加 9.59]
そしてそれをして「科学的」だと思い込んでいる人たち。
つまり、scientific なものの見方ができない、できなくなった人たち。・・・

では、「性能」とは何か?彼らは何をもって「性能」と言っているのか。
次回は、これ「ネタ」に考えたいと思います。
コメント (3)
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立秋

2010-08-07 19:44:15 | その他
[「昨日」⇒「今日」に訂正:8日に投稿のつもりで書いていて、7日中に入ってしまいました!ので、訂正します]


残暑お見舞い申し上げます。

今日は立秋。
ここ数日、朝晩は涼しいと感じるようになりました。夕暮れも日ごとに早くなっています。

午前中、補足の写真を撮りに、「椎名家」に行ってきました。
この前は1月。半年で、葺き替えた箇所の茅の色は、すっかり馴染んでいました。ほとんど分りません。
このあたりは一面が樹林と畑です。家は飛び飛びにある程度。空気は意外と乾いていて、椎名家の中に入ると涼しい。土間には水が打ってありました。



この前撮った写真に棟の部分がよく写っていなかったので、それを撮るのが主目的。
夏の陽射しの方が強いから、中も明るいかと思ったら、正月の時の方が明るかった。
陽射しの強さではなく、陽射しの角度が効いていることにあらためて気付きました。
1月には、中の方まで陽が入っていた・・・。そういえば、昔の人は、庇の出を、陽射しの角度と相談して決めたようです。

今回、どうにか撮れたのがこの写真。白くポツンと見えるのは火災の感知器です。



椎名家までの道は、霞ヶ浦の湖岸に一旦出ます。途中には、水田と蓮田が並んでいます。今年は、稲が早くも黄色味を帯びています。蓮の花も咲き出していました。
湖岸から丘陵に登ります。登るといっても標高差は25m程度。出島は、全体がこの程度の標高で、そこに小さな谷地田が数多く刻まれています(海進の時代は、小さな入江だったのでしょう。大体その周辺に縄文住居址があり、貝塚があります)。
このあたりは、関東平野のまんなかあたりとは違い、水田よりも畑地の方が多いのではないかと思います。

朝晩は涼しくなったとしても、まだ残暑は続きそうです。
くれぐれもご自愛のほど・・・。

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日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった・余録

2010-08-02 17:17:59 | 「壁」は「自由」な存在だった
[追補 5日 9.07]

昔懐かしい暑さの夏が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
かなりバテ気味になっていますが、少しは涼しい話題をと思い、清々しい建物を紹介いたします。

かなり前に、神奈川県・川崎の生田緑地の「日本民家園」に保存されている「広瀬家」を簡単に紹介しました。
「広瀬家」は、元は山梨県の塩山(えんざん)にあった17世紀後半の建設と考えられている農家ですが、茅葺の「切妻屋根」で(茅葺の切妻は、例が少ない)、「棟持柱」で棟木を支えているのが特徴の建物です。
四周は土塗り真壁で覆われ、出入口は大戸だけ、あと下地窓が少々ある程度。
これは、寒冷の地で暮すためです。

   註 甲府盆地の東北部には、秩父山系からの笛吹川(ふえふきがわ)が深い谷を刻んでいます。
      笛吹川は盆地中央部で、西北からの釜無川(かまなしがわ)と合流、富士川となります。
      甲府盆地は、四周の山から流れ出る水の遊水地だったわけ。
      この笛吹川の両側の斜面、丘陵は、現在一面のブドウ畑。
      かつて、養蚕が盛んだった頃、桑畑だったところ。その一角が塩山、勝沼です。
      「広瀬家」は、笛吹川の支流をさらに遡った標高600mほどの高地にありました。
      大菩薩峠の麓です。冬季はかなりの寒冷の地です。
      蛇足
      桑とブドウなどの果樹は同じ土質の地を好むようです。
      私の住む近くにも果樹産地がありますが、そこも元は養蚕が盛んだった。

今回、次回の「伝統を語るまえに」の配付資料で「広瀬家」を取り上げようと考え、諸資料を見直して、あらためてその「架構の妙」に感動しました。
そこで、その「妙」を紹介させていただこうと考えたわけです。

下の写真は、民家園に復元された「広瀬家」の全景(南~東面)です。つまり、建設当初(1600年代の後半)の姿です。



塩山にあったとき(つまり、移築前、1960年代後半頃)の姿は、これとは大分違い、開口部が大きく設けられています。



こういう外観の建物は、今でも塩山、勝沼から雁坂峠(かりさかとうげ)へ向う街道筋にたくさん残っていて(ただし、ほとんどは瓦葺きの建物)、甲州の「突き上げ屋根」と呼ばれています(雁坂峠を越えると秩父です)。
養蚕が盛んだった頃、切妻の屋根の中ほどを突き上げて、中2階、ときには3階もつくり、蚕室にしたのです。

下は、建設当初と移築前の平面図です。
はじめに建設当初:民家園にある復元した建屋の平面図。基準柱間は1間:6尺のようです。



次に移築前:当初の建屋に何回かの改造を加えた結果:の平面のスケッチ。
間口×奥行は、当初と変りはありません。

   

当然、「突き出し」のための細工はされていますが、当初の架構の「骨格」には大きな変化はありません。
当初の骨格、つまり、復元建物の桁行、梁行断面図は下図のとおりです。
なお、平面図、断面図は、ほぼ同一縮尺です。



   

図で橙色に塗った柱が「棟持柱」です。

使われている木材は、大半がクリで、太い材にはクリに似た堅木が使われています。
いずれも広葉樹で、直ではありません。
材寸は、柱の太いもので8寸5分角程度、細いもので5寸角程度で、すべて不ぞろいです。

この建物は、一見すると素朴で稚拙のように見えますが、そうではありません。実によく考えられているのです。

この建物の架構は、すべて「仕口」だけで組立てられています。
すなわち、梁・桁などの横材は、すべて柱と柱の間に納まり、「継手」で継ぐということはしてありません。「貫」も、外周の壁下地の部分を除き、同様です。
具体的には、横材は「側柱」の上、「上屋柱」(「梁行断面図」で黄色に塗った柱)の上には、「折置」で取付き、
「柱」の中途へ「梁」が取付く場合は「枘差し・鼻栓打ち」、
「桁行断面図」の中央部の「桁」のように「梁」に載る場合は「渡り腮(あご)」で架けています。
「枘差し・鼻栓打ち」も「渡り腮(あご)」も、細工は簡単で、しかも確実な方法。現在の建築法令でも文句が言えない。

このようにするため、「棟持柱」への取付きでは、「梁行断面図」で分るように、材料の「曲り」を巧みに使って、左右の「梁」の取付き位置に段差を付けています(全体としてはほぼ水平になります)。
また、「繋梁」と「差鴨居」の取付き位置にも段差を付けています。

これらの納め方を見ると、事前に、使用する材料のクセをすべて読み取って使用位置を決める、つまり、架構全体の構想を緻密に描いている、ことが分ります。そうしなければつくり得ないつくり、なのです。これにはあらためて驚嘆しました。

このように隅から隅まで十全に「計算されている」ため、現場で部材を組上げたとき、つまり、屋根も壁も未だつくられていない上棟時、架構はびくともせずに自立するはずです。
言ってみれば、工人冥利につきる建物。


しかしながら、現在の、《木造建物は「(耐力)壁」を設けることによって自立するのだ》という「理論」が染み付いてしまった目には、この建物の場合も、外周の「壁」が効能を発揮していると見てしまうのではないでしょうか。「古井家」をそのように見てしまうのと同じです。

けれども、移築時点で、この建物の外周は改造を加えられ、当初の壁は一部を残すだけの状態になっていました。開口部が大きくとられるようになったからです。
   「広瀬家」の外周の土塗り壁の仕様は、以下のようです。
     「貫」に「縦小舞」を縄でからげ、それに「横小舞」をからげる。
     「横小舞」は柱から浮いている(小舞穴を設けていない)。
     足元は、後入れの「地覆」で納める(「土台」は用いていない)。

実際には、建設時からおよそ300年、建物は、現地で、当初の骨格をほぼ残したまま、健在だった。
それは、この建物の架構が、暮しの変化があっても骨格を変える必要がなく(そのまま使いこなせ)、その間の歳月の負荷に十分に耐えるだけのものであったこと、を示しています。
この建物も、架構がよく考えられていて、「壁は自由に扱える存在だった」のです。


私たちは「(耐力)壁」のシガラミから脱け出す必要がある、とあらためて思います。
そのためには、頭から「先入観」を取去らなければなりません。
頭の中の「店卸し」です。
使いものにならない、要らなくなったものが溜まってしまっているかもしれません。



暑い日が続いています。
家混みの都会でも、かつては、「開けっぴろげ」の建屋があたりまえでした。風さえ通せば、数等暮しやすいからです。
幸い、私の暮す場所では、今でもそれが可能です。夜半になると、寒い、と感じるときさえあります。

今の都会では無理かもしれません。家混みの程度が違うからです。
そしてまた、我が家を涼しくして外気を熱することに精を出している以上、それは「高望み」だからです。

追補 [追補 5日 9.07]
遠藤 新 氏が、日本の住まいの特色について、もっと端的に言えば、日本の建物の「壁」について語っている一文を、以前に紹介したことを思い出しました(下記①)。
そこでは、耐震と称して架構の一部を補強する「風潮」「考え方」を不権衡として戒めています。
9月が近付き、「耐震」が騒がれる時節が来ます。あの関東大地震当日に竣工式を行なった旧帝国ホテルは被災していません。その点についての一文も紹介してあります。あらためてお読みいただけると幸いです(下記②)。

① http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/471c0ea7a47bf05a1a50e60da5fd87e0
② http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/cbf1e115da1b4bfb40b88266eccb245d
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