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山梨県大月市に、橋脚なしで、しかも木だけでつくった橋が形体保存(注)されている。
中央東線の駅名にもなっている「猿橋(さるはし)」で、往古の甲州街道の橋である。中央線の車窓からも一瞬見える。
(注)現在保存されているのは、1984年、形だけ従前(嘉永年間)の復元図に
ならって、鉄、鉄筋コンクリートの骨を木で被覆したいわば「擬木」に
よってつくり直されたものである。
橋脚がないのは、川面(相模川の上流、桂川)から30mの高さに架かるからだ。平面、側面、断面は図の通り。橋長は102尺、およそ30m強。
太い木材を両岸から少しずつはね出してゆき(各段の間には、直交して「枕梁」を組み、相互を固める)、最後にはね出しの先端に水平に「桁:行桁」を渡し、「継行桁」で両岸とつなぎ、「平均材(ならし)」で路面をつくる。
はね出す材は「桔木(はねぎ)」と呼ばれ、建物の場合は屋根の重さで尻を押さえ込むが、ここでは「控」(図では「扣」の字が使われている)が深く両岸の土中に埋められ、土の重さで支えられている。
この工法は、建物の軒を深く出すために、「肘木」と「斗」で少しずつ迫り出してゆく考え方と同じ。長年にわたる経験の積み重ねと直観が、このような素晴らしい工法を生み出したのはまちがいない。
この橋が最初につくられた時期については諸説があるが、近世以前からつくられていたことは確かである。
なにせ材料が木で、風雨にさらされているため、架け替えが頻繁になされ、延宝4年(1676年)以降の架け替えの記録が残されている。それによると、10年から25年に一度、架け替えられている。
末口1尺8寸~2尺、長さ30尺~54尺などというとてつもなく大きい寸面の材料の確保は大変で、1984年の復元の際に「擬木」にしたのも、今後の架け替えの際、材の確保が難しい、との判断があったからだという。
これと同じ工法の橋は、かつては(鉄やコンクリートが現れない時代には)各地の「橋脚のつくれない川」に多数あり、富山県の黒部川には、橋長約60m幅約3mの愛本(あいもと)橋が大正年間まで架かっていたという。黒部川は雪解け時、激流となり橋脚がつくれないため、この工法が採られたのである。
今、木材で大きなスパンの架構(屋根など)をつくるにはトラスが普通だが、この工法を用いてもつくることができる。その一つの試み(と失敗)を紹介の予定。