信州・松代「横田家」-3:図版作成工事中

2009-08-30 18:05:48 | 日本の建築技術

「横田家」の架構の解説用の図版を編集・作成中です。
少し時間がかかります。

上の写真は、横田家とは無関係。
昨日訪ねてきた「稲田石(いなだ・いし)」(国会議事堂などにも使われている花崗岩)の採掘場です。採掘が始まって、百年以上経っているとのこと。

   註 「笠間焼」の笠間から少し西に行ったところ。
      国道50号、水戸線「稲田駅」の近くにあります。

地上レベルから眺めていますが、とてつもない大きさ、深さです。写真では、そのスケールが分らないと思います。
段状の部分、一段が2m以上はあるでしょう。
上段左の写真の中心の少し左に、普通の大きさのダンプカーがとまっています。これと比べてください。

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信州・松代「横田家」-2・・・・木造軸組工法の真骨頂

2009-08-26 20:03:43 | 日本の建築技術
[図版改訂 27日 8.53][註記追加 27日 10.30]

今回は、「横田家」の空間構成を写真で紹介したいと思います。
カラー写真は、近影。モノクロ写真は「重要文化財 旧 横田家修理工事報告書」からの転載です。いずれにも説明を加えてあります。なお、モノクロ写真の撮影時には、外構の「塀」は未設です。
「平面図」等も「同修理工事報告書」から転載、加筆しました。

「横田家」は、当然ながら「木造軸組工法」によっています。
現在、一般に、「木造軸組工法」は、「耐力壁」(「筋かい」も含みます)を設けることによって架構を維持する工法、と考えられています。

しかし、すでに触れてきたように(下註参照)、「木造軸組工法」は、本来、柱間を「壁」にするか「開口」にするかは、まったく随意・任意の工法なのです。
「横田家」でも、この「木造軸組工法の特性」が巧みに用いられています。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-23の付録」 
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-41の付録」                                     
                        [註記追加 27日 10.30]

平面図で明らかなように、外郭は異型ですが、間取りそのものはきわめて単純です。
柱は原則として1間の格子の上に据えられ、その柱間を「漆喰塗りの真壁」か、「開口装置」としているだけです(「客待の間」と「茶の間」の間に柱間半間の部分があります)。
「開口装置」として、建具は、明り障子、襖、板戸の三種類、開閉方式としては、引き違い、片引き、開きの三種類で、それらを適宜に組合せています。

   註 柱間は、5尺8寸×2尺9寸の畳を敷く「内法制」とのことです。
      1間が1815mmになっているのはそのためのようです。

これらの空間は、物理的に言えば、単なる直方体の空間です。
しかし、「壁」と「開口」をどこに設けるかによって「空間の趣き」が異なってくるのです。
「壁」と「開口」およびその「装置」の様態、それと「床」(どの部屋も「畳」です)、「天井」(客用の空間:平面図の着色部分:はいずれも「竿縁天井」です)でつくられる空間によって、そこに在る人に沸き起こる「心象風景」は異なってきます。
したがって、どこを「壁」にし、どこをどのような「開口」にするかは、そこで生まれる「心象風景」の当否で決められている、と言ってよいでしょう。

   註 客用の空間以外は、「南の間」(二階部分の階下)の「踏み天井」を
      除き、天井を設けず、小屋がそのまま見えています。

たとえば、「式台」から「玄関の間」「客待の間」を通り「座敷」に導かれると、人はすっかり落ち着いてきます。その間の変化がきわめてスムーズなのです。これは、経由してきた「空間の移り変わり」が人をしてそうさせるのだ、と言ってよいでしょう。

「空間」の様態、「空間の移り変わり」の様態は、「壁」「開口」の位置で微妙に違ってきます。
試しに、「横田家」の間取りをシングルラインで描き、柱間を「壁」にするか「開口」にするか、いろいろと置き換えてみると、それによって「空間の様態」「空間の移り変わり」の様態が異なってきて、「そこに在るときの心象風景」も自ずと異なってくることが分るのではないか、と思います。

このような「実体のつくりかたで心象風景を造成する」という「技法」は(別の言い方をすれば、「心象風景造成のために実体をつくる」という「技法」は)、私の見るかぎり、「茶室・露地」や「書院造」で顕著なように、室町時代初め頃に始まり、安土桃山の頃には、すでに手慣れたものになっていたように思われます。
おそらく、江戸時代には、一般の人びとにもあたりまえのものになっていたのではないでしょうか。
そして、これを可能にしたのが、壁や開口を任意・随意に設けることができる「木造軸組工法の特性」だったのです。
つまり、「横田家」は、きわめて素直に、あたりまえのように、「木造軸組工法の特性」を活用しているのです。

「横田家」は、竣工直後から、何度も改造を加えています。ときには柱の位置も動かしています。現在の「在来工法:耐力壁依存工法」では不可能なことですが、「壁」のところが「開口」になったり、「開口」が「壁」になる、などの変更も多々あります。
ということは、「横田家」は、基本的に、「木造軸組」そのものだけで架構を維持できたのだ、と考えてよいでしょう。
実際、18世紀末から現在まで、損壊なく健在です。震度5を越える地震もあった「松代頻発地震」でも、特に被害はなかったのです。

次回は、「横田家」の架構について紹介します。

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信州・松代「横田家」-1・・・・真田藩士の住まい

2009-08-22 11:03:15 | 日本の建築技術
[註記追加 19.46]

信州・松代は、現在は長野市松代になっていますが、それは市町村合併に伴うもの。
上掲の航空写真(google earth より)で分るように、善光寺の門前としての長野市街からは、千曲川を隔て東南20㎞ほどのところに位置します。東から南、西南にかけて山に囲まれ、その山系から千曲川へそそぐ河川によってつくられた低地です。東南方向へ山を越えると、中山道・「上田」に出ます(現在も街道があります)。

この千曲川周辺一帯が「川中島」。「上杉氏」と「武田氏」との合戦の場。「松代」は、その「武田氏」の居城「海津城」のつくられた場所、後に、17世紀初め、「真田(さなだ)氏」の居城となり、「松代城」となり、以後、城下町が形成されます。
明治の廃藩置県により、松代は「松代県」になりますが、後に「長野県」に併合、中心は善光寺門前町の「長野」に移り、県庁も鉄道も「長野」になります。
しかし、その結果、「松代」には「近代化」の「開発」の波は押し寄せず、そのため「城下町」の姿を後世に残すことになります。

「横田家」は、「真田家」の家臣。奥会津・横田の出ゆえに「横田」を姓としたと伝えられています。
「旧・横田家住宅」は、「横田家」の七代が1794年:寛政6年に建てたもので(「墨書」があった)、敷地も当時の大きさを維持し、「表門」「隠居屋」「土蔵」もすべてその当時に建てられたようです。
このように、屋敷全体にわたり当初の様子を維持している武家住居の事例は少ないようです。
なお、敷地の大きさは約3600㎡あり、その北半分を屋敷地にあて、南半分は畑地としていました。

   註 「旧・横田家住宅」と称するのは、
      現在は「横田家」はここに居住せず、長野市に土地家屋とも
      寄贈されているため。

「松代」は、第二次大戦中に、「大本営」の地下壕が設けられたこと、そしてまた1965年:昭和40年から数年にわたって、最大震度5、最大M5.4 の地震が頻発したことでも知られています(有感地震だけでも数千回あったようです)。
そして、その地震を機に、旧大本営地下壕内には「精密地震観測センター」が設けられました。

   註 「精密地震観測センター」の設置は、「松代地震」の前だ、
      とのご指摘がありました。
      むしろ、「歪計」の設置が済んだら、それを験すかのように、
      地震が頻発したのだそうです。
                      [註記追加 19.46] 

上掲の図版は、松代地域の航空写真、これは上方が北です。
次は「横田家」の屋敷全図で、これは右方が北になります。
次は「横田家」の「当初復元平面図」と「修理前平面図」で、これは下方が北になります(このようにしたのは、屋敷前の道路から建屋に向う動きに合わせるためです)。首をひねりながらご覧ください。

写真や断面図などは次回にまわし、今回は「配置図」「平面図」だけ紹介します。それには理由があります。
見ての通り、この建物は、普通見慣れた農家や武士の住居とは、大分趣(おもむき)が異なります。
「修理前」の複雑な形は、「当初」の建屋に増改築を施した結果ですが(解体調査の結果、建てられた直後から、かなりの頻度で改造が行われたことが分っています)、「当初」の建屋も相当に「異型」です。
屋根は茅葺で、しかもほんの一部に、飛び出した形で二階があります。
いったい全体がどのような形体になっていたか、架構ともども想像してみてください。
そしてまた、式台から「客」として訪れた場面、住まいの主としての日常の場面で、空間がどのように捉えられるのか、想像してみてください。

間取りは何の変哲もなく見えます。しかし、そうではないのです。
初めて尋ねたとき、私は、その空間構成の妙に感心したことを覚えています。

なお、「松代頻発地震」による建屋の被害はありません。

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ただいま図版編集中

2009-08-20 02:48:07 | その他

信州・松代(まつしろ)に、18世紀につくられた武士の住まいが残っています。
数年前に訪れ、その空間のつくりかたの見事さに驚いたことを覚えています。
教科書などで紹介されている普通の武士住居(たとえば山口・岩国の「目加田家」)とは、かなり異なります。茅葺、一部二階建てです。

重文に指定され、報告書も出ていますので、今回それを取り寄せ、紹介すべくただいま編集中です。しばらく時間をいただきます。


ここ数日、いつもの年の夏休み明けの9月のような天候。気温は低いものの、日照も回復しました。一時どうなることかと思われた稲も、一息ついたようです。上の写真は、最近のたんぼの様子です。

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雑感・・・・落とし穴

2009-08-17 03:43:05 | 専門家のありよう

残暑お見舞い申し上げます。
近在の蓮田では、いまごろが花の咲くころ。

8月になると、毎年TVやラヂオはドキュメンタリーをはじめ、多くの特別番組が組まれる。今年は例年になく濃い内容のものが多かったように思う。
その中でも、「人間魚雷・回天」と「セミパラチンスク核実験場」についてのドキュメンタリーは深く考えさせられた。そこに関わった人々に、共通の「思考」が見て取れたからである。
それは、視野が狭まったときに、ややもすると陥る「思考」、「目的」追求のためには「手段」を選ばなくなる「思考」である。

すべての人がこの「思考」に陥るわけではない。
自らを「選民」「選良」と思い込んだ人ほど陥りやすいようだ。そのとき、その他大勢は、彼らの目には、単なる「もの」、あるいは意のままに動く「ロボット」としてしか見えなくなる。

「回天」には、こういう「非正常」なアイディアをあたりまえのように発想し、設計を指示した人びとと、設計した人びとがいる。そして、つくられた「回天」への「乗務」を命じた人と、命じられた人。

「セミパラチンスク核実験場」は、当時のソビエト・ロシアの中枢の人びとが計画した「核爆弾」開発のための実験場。
現在のカザフスタンの草原地帯の広大な土地を使った。
もちろん無人の地ではなく、計画された草原地域の境界沿いには、近接していくつかの村落があった。その草原地帯で牧畜を営んで暮す人たちである。

1940年代に、ここを実験場として選定した人たちは、実験場として「こんなによいところはなかった」と言う。発言の主は、一流の科学者。村落のあること、そこに多くの人びとが暮していることを知った上での発言。大した影響はない、というのである。
これは、原発立地、廃棄物処理施設立地に際して、今でも言われる言葉と同じ、「為にする言」であることは言うまでもない。

「セミパラチンスク核実験場」周辺の村人たちには、何が行なわれるのかは説明がなかった。そして、今から18年前まで、数十回にわたる核実験(地下実験も含む)が行なわれ、村人たちの飲料水である地下水も、当然放射能を浴びた。
放射能を浴び続ける人びとには、特有の障害が発生した。白血病や癌の多発である。
しかし、実験当事者(国)ならびに科学者は、実験との因果関係をなかなか認めない。

原発立地、廃棄物処理施設立地にからんでの「大した影響はない」という明確な根拠の開示のない発言同様、科学者による非科学的なご都合主義。得てして科学者や技術者が陥る性癖。判断の根拠が、「功利性」に委ねられてしまう。それは、自らの「保身」のための結論としか考えられない。功利性が、科学性よりも優位に立つのである。
しかし、村人たちには、代々に引継がれる障害の多発。いまでも続いている。

これに比べると、「回天」の設計は、もっと「単純な思考」の結果だ。
しかしそれを、戦時中という異常な事態での思考と見たら間違いだ。
なぜなら、現在の選良・選民たちの思考も、「回天」の発想者、製造指示者、設計者と何ら変っていないからだ。
建築界はその典型。すべての人びとの思考を停止させ、一律の方向にもってゆこう、という動向を「法令」によって行なうのは、「立法府」を経由した民主主義的形体を採っているかのようでいて、実は、「回天」を生んだ思考と何ら変っていない。あるいは、むしろ、より「巧妙」になった「操作」と言ってよいだろう。
そして、その「判断」が予期せぬ結果を生んでも、言を左右にして責任は認めない。

民主主義といえば、どう考えても「非正常」としか思えない「動き」もあった。
例の「派遣」の業態を規制する法改正の気配に対して、「改正反対」を唱える署名運動。派遣規制は雇用の機会を少なくしてしまうから、というのがその「論拠」。
人を「もの」扱いにしておきながら、数の多少をもってコトを決めようというたくらみ。「民主主義」を「多数決主義」と「誤解」した行動である。

そんな中で「救われた」のは、ある空調機メーカーの行動を報じたドキュメント。その会社は、その分野ではぬきんでている有名な会社。
そこでは、ある時代の社長が、いわゆるリストラ、すなわち不況の際でも、就労者の首切りは一切行なわない主義を唱え、以降その方針を貫いてきているのだという。今回の「不況」でも同じ。
理由はきわめて簡単だった。不況だからといって就労者の首を切れば、「技術」の継承に断絶が生じてしまう、という理由。
以来、「技術」にとって、蓄積と継承が重要だ、という認識が、会社首脳はもちろん、就労者すべてにとっての「常識」になった。

あたりまえのことが、稀有のことに見えてしまう変な時代!

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「建築」をどのようにつくるか・・・・落水荘のRC・2

2009-08-13 21:13:10 | RC造

先回に続き、“FALLINGWATER”から、落水荘の施工過程についての写真、解説図を紹介します。
上掲の図は、工程を追った解説図。①~⑤の順に工事は進みます。

その下の図は、「落水荘」の構造を示す断面図で、塗りつぶしてあるところが「落水荘」の構造を担っている部分です。

工事は、先ず「落水荘」を支える「柱脚」の設置から始まります。それが①の図。

その段階を撮ったのが下段左の写真。「柱脚」の上に接続用の鉄筋が見えますが、その上に見えている壁のように見える白い部分が何なのか分りません。

「柱脚」の上に載る「床版:スラブ」と同時に打設するのが普通ですが、ここでは、あたかも現代の橋梁工事のように、分離して施工しています。

このようにしたのは、多分、その上に載ってくる主階の床のつくり方によるものと考えられます。
通常のRCでは、柱に梁をかけ、そこに床を載せる、という方式を採りますが、「落水荘」の方法は、「柱脚」の上に、いわば「引出し状の箱」を載せるやりかたです。
下段右の写真で分るように、「落水荘」では、「手摺」にあたる部分も、構造に一役かっているのです。したがって、「引出し状の箱」は、コンクリートで一体に仕上げる必要があります。
そうかと言って、「手摺」~「柱脚」全部を同時に打設することは至難の技。そこで、「柱脚」を先につくっておき、「引出し状の箱」をそれに載せる、という手順を踏んだのでしょう。

   註 こういう構造は、現在の法令規定遵守の方々からは
      おそらく、認められないでしょう。

なお、「引出し状の箱」の底の部分に、「梁」状の箇所が等間隔に並んでいます。これは通常「逆梁(ぎゃくばり)」と呼び、箱の底を補強する役割を担っています。
「逆梁」は、仕上がると何のことはないのですが、この施工は難しい。この梁の打設用の形枠は、スラブの厚さ分、宙に浮かせてセットしなければならないからです。
コンクリートは、先ずスラブに流し込みます。場合によると、「手摺」の上端、「梁」の上端からも流し込みます。スラブ全体に所定の厚さになるようにコンクリートを拡げます。その厚さ分、「逆梁」の形枠は浮かせてあります。
スラブの打設が終ったら、ある程度コンクリートが固まるまで、しばらく時間をおきます。時間をおかないで「逆梁」にコンクリートを流し込むと、スラブの方にまわってしまうからです。

断面図で分るように、「落水荘」の天井は、コンクリートに直接仕上げてあります。
その代り、床はコンクリートに直仕上げではありません。
説明によると、「逆梁」の上に、レッドシーダー(米杉か?)の根太兼大引を敷き並べ、板床を張り、石を張る仕上げのようです。
この仕上げ法にはいささか驚きます。石板を木材で支える、などというのは先ずしないからです。

「逆梁」の高さ分、床下に空洞ができますが、ライトは、その空気層のもつ保温効果(現在の常用語でいう「断熱」効果)を考えていたようです。

   註 ライトは、土の保温性を利用しようと、
      盛土の上に住居をつくることもしています。

解説図の②~⑤からも同様の工程を踏んでいることが分ります。

なお、断面図で分りますが、この建物の「重心」を求めると、おそらく「柱脚」の中央部の上あたりにくるはずです。2階、3階が山側に引いて置かれているからです。解説によると、ライトは、滝の上への跳ね出しを維持するために、全体のバランスの平衡を考えていた、とのことです。

「逆梁」工法は、実験室や調理室など、床下に各種の設備配管が必要で、それらの保守・点検が必要な場所向きの工法です。床を剥せば、配管類が一目瞭然に分り、上から作業ができるからです。
ただし、RC工事には手間がかかります。6階建ての実験室棟をこの方式で設計したことがありますが、設備配管工事はきわめて楽です。その代りRC工事は神経を使ったことを覚えています。


以上見てきたように、ライトは、新しい工法:RCを、その理屈:原理をもって理解していた、と考えられます。RCの特徴を見抜き、架構の「立体化」にきわめて効能がある工法、と理解したのだと思います。
そうでなければ、「引出し状の箱」で架構を考えたり、あるいはまた「逆梁」の発想など、生まれてこないと思えるからです。やはり、大変な人物です。

最近巷に生まれる建物を見ていると、私は、今あらためて、材料・工法について考えなおさなければならない時期に来ているのではないか、と思えてなりません。現在の建物は、ベルラーヘではありませんが(下註)、まがいものや虚偽に満ち満ちている、と私には思えるのです。

   註 「まがいもの、模倣、虚偽からの脱却・・・・ベルラーヘの仕事」
コメント (2)
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とり急ぎ、ご案内

2009-08-12 18:48:14 | 煉瓦造建築

とり急ぎのお知らせです。

会津・喜多方では、今年も登り窯による煉瓦の焼成を行ないます!
上掲の案内が来ましたので、転載します。
今年は、2回火入れを行ないます。

なお、部分的に昨年焼成した煉瓦を張った建物もできあがっています。

関心のある方は、上記案内ポスター中の連絡先(下記)へ。

 三津谷煉瓦窯再生事業プロジェクト実行委員会
  0241‐24‐4541 担当:江花 様
  Eメール ebana@velostyle.net

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「建築」をどのようにつくるか・・・・落水荘のRC・1

2009-08-10 19:17:08 | RC造

「落水荘」の話から、大分遠回りをして「建築」とは「何をつくることか」について考えてきましたが、ここでは、「何」を「いかにつくるか」を、「落水荘」の施工手順を通じて考えてみたいと思います。

普通、建築を紹介する書物や雑誌は、「できあがり」は紹介しても、施工過程について紹介することはめったにありません。
しかし、「過程」を踏まないで「建築」が出現することはあり得ません。

「施工過程」は、材料によって、独自の形をとるものです。
たとえば、木造とRCとではまったく「過程」は違います。
したがって、「設計」自体も、違ってきて当然です。
けれども、その「違い」を考慮せず設計が行なわれているのが現実のように思えます。
それは多分、設計者の多くが、「できあがり」の姿を、いわば勝手に、恣意的に、材料の違いを無視して「想像」するからなのだと思います。
もちろん、材料については意識はしていると思いますが、あくまでも、「表現される形」の点での意識なのです。だから時折り、どう考えても「無理」な施工を強いられたはずの「表現」を見受けます。

聞くところによると、最近「イメージ・スケッチ」を「提示」して、その「実現」は工事担当者にお任せ、という設計・設計者?が増えているのだそうです。「どうやってつくるか」はまったく考えていないのです。
かつて、江戸幕府の作事奉行(さくじ・ぶぎょう)のように、建物づくりの差配に長けた人たちがいました。小堀遠州はその一人です。
しかし、そういう人たちは、「どうやってつくるか」を詳しく知って差配していたのです。いや、一般の人たちでさえ、「どうやってつくるか」は知っていました。

ライトが「落水荘」を設計したのは、ヨーロッパでRC造が橋などの土木工事や建築工事で盛んに使われだし、それまでには見たこともない構築物がつくられていた頃です。その一人、積極的にRCにかかわったマイヤールについては、かなり以前に紹介しました。

   註 「コンクリートは流体である・・・・無梁版構造の意味」

ライトは、「落水荘」の設計の前後に、「無梁版構造」によるジョンソンワックス・ビルを設計しています。ヨーロッパの建築界の動向を知っていたのです。

マイヤールの仕事は、その見事な形をつくるために、数多くの木造構築物をつくることのできる量の資材を用いた壮大な「形枠工事」が必要だったはずですが、残念ながら、書物で、施工中の様子は見たことがありません。
「落水荘」には、幸い工事中の写真が残されていました。上掲の写真は、その一部です。

「落水荘」では、木製の形枠でコンクリートを流す方法の他に、石積みで外周部をつくり、そこにコンクリートを流し込む方法も採られています。左側の写真が打設中の写真。
これは、煉瓦壁で周壁をつくり、その中に石灰と土と砂利をまぜたものを流し込んだローマの壮大な構築物で使われた方法と同じで、コンクリート打設後、「形枠」を壊す必要がありません。周壁に使われた煉瓦形枠が、そのまま構築物の仕上り面になります。

   註 前川國男氏は、特性の窯芸ブロックを形枠にした建物を
      数多く設計していますが、その場合は、積んだ窯芸ブロックの
      外側に合板形枠を張っています。 

もっとも、ローマ時代には、アーチ、ヴォールト部分には木製の「型枠」が使われています。ただ、アーチ、ヴォールトの形を規格化して、少ない種類の「形枠」を使い回していたようです。使った「形枠」は、大事に保管して他の構築の際に使うのです。貴重な木材を無駄にしないための方策です。
話は横にずれますが、喜多方の登り窯にも、煉瓦積みの窯の補修用にヴォールト用の形枠が保管されています。

迫り出し、跳ね出しの部分では、そのための専用の「形枠」を支柱で支えることが必要になります。これが上掲右側の写真です。
この「形枠」ならびに「形枠」を支える支柱の類い:「仮設」材は、完成後撤去することになります。

現在の普通のコンクリート工事の場合、仮設に使われた「形枠」のかなりの部分は、再利用はできず、廃棄されます。
「落水荘」の場合も、支柱の材はともかく、「形枠」材で再利用できたのは少なかったと思われます。
これは、RC造のいわば宿命的な特徴と言ってよいでしょう。
それゆえ、RC造の設計では、「形枠」の合理的な利用、すなわち無駄に仮設材料を使わない方策を考慮することが、設計の重要な要点だ、と私は考えています。
そのことに気付いた経緯も、先の「コンクリートは流体である・・・・」で書いたような気がします。

   註 プレキャストコンクリートの使用は、施工工程の無駄を省くために
      生まれたと考えてよいと思います。
      また、鋼製の「形枠」を使い、その寸法を単位尺度にして
      設計する方法を採る設計者もいます。

写真の下の2枚の図は、「落水荘」の工事のためにライトが用意した設計図面と思われます。
上の図は、敷地への建物の配置、下は、建物の上部を支える部分の計画図です。
先回紹介した「測量図」に基づいて計画されていることが分ります。

次回は、各階の構築手順の解説図がありますので、それを紹介したいと思います。

今回の図版も、Edgar Kaufmann.jr 著“FALLINGWATER”(ABBEVILLE刊)からの転載です。 
コメント (1)
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「建築」は何をつくるのか-4・補足の補足・・・・妻籠宿

2009-08-08 00:38:18 | 居住環境

[註記追加 9.03]

先回、「妻籠宿」の簡単な断面図を載せました。
「妻籠宿:その保存と再生」(彰国社)という書物があったのを思い出したので、そこから図版をいくつか転載します。

写真は「寺下」という地区の様子です。「寺下」は、最下段の図の、通りに色を付けた一帯。写真は、その左端から望んだもの。ほぼ目線で撮っています。

上の地図は、「妻籠宿」周辺の地形図。
「妻籠宿」は中山道の宿場。この地形図から、街道そのものが、地形に素直に従って通っていることが分ります。
ある土地を人が歩くとき、なるべく体にかかる負担を避けるために、できるかぎり水平移動を試みる。それが等高線に沿った道となって結果するのです。
今は、車優先の考え方になっているため、この事実が忘れられていますが、どこの地域にも、よく見ると、この「原初的な道」が残っています。

山を越えたりするときは、谷筋を登るか、尾根筋を登るか、の二つがありますが(両方混在するときもある)、その選択は、地域の特徴に拠っているようです。
これについては、大分前に、「清水寺」のい参詣道で触れました(下註)。

   註 「道・・・・どのように生まれるのか」

信州・長野県は、いたるところに「峠道」があり、地形図で調べると、興味深いものがあります。
「中山道」、古代の「東山道」を地形図の上で追いかけると、非常に面白い。なぜ、「東海道」ではなく、「東山道」、「中山道」だったのか、など興味は尽きないのです。
「諏訪」から「佐久」へは、いくつもの「峠道」があり、どれも「東山道」「中山道」の内の一つで、それぞれに感興があります。

次の二枚の図は、妻籠宿全体と、その部分「寺下」地区の拡大図です。

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「建築」は何をつくるのか-4・補足

2009-08-04 10:42:29 | 設計法

[註記追加 23.04]

前回の屋根を二段構えにする理由の説明図が、上掲の上ニ段の図です。

上段の図は、屋根の大きさ:高さによって、実際に私たちが目にする姿が変わってくることを示したもので、例として「唐招提寺」の「当初想定断面図」と、「現状断面図」とで比較しています。
当初は、中国に倣った緩い勾配で、その場合は、おそらく現在見るような凛とした姿ではなく、非常に穏やかな、あるいはのどかな佇まいだったのではないか、と思います。
屋根の見え方によって、あたりの雰囲気がまったく変ってしまうのです。
なお、大きさはまったく違いますが、当初の姿に似た穏やか・のどかな感覚は、「新薬師寺本堂」で味わえるのではないかと思います。
詳しく見てはいませんが、中国の場合、このような点については、あまり神経を使っていないように見受けられます。

二段目の図の右側は、「破風尻を引く」例で、今井町・「豊田家」を例にしています。左側の図には、「通り」側の二段構えの屋根の勾配を記しています。「高木家」などよりも、勾配は急です。

   註 [註記追加 23.04]
      勾配の設定や破風尻をどの程度引くかは、工人の「勘」による、と
      考えてよいでしょう。
      日常の「見る」「観る」ことを通じて会得したものと思われます。

三段目の図は、「通り」に対して、二階を迫り出すつくりかた。
「中山道・妻籠宿(つまご・じゅく)」の例です。
山地ゆえに、元来は板葺きの緩い勾配の屋根です。
「通り」の幅は、今井町などに比べ、相当広い。そのため、迫り出してきても、天空が狭められることはなく、むしろ、落ち着いた佇まいをつくりだし、旅人を招き入れるような空間になっています。

次の三段の図版は、「妻入り」の町家の例です。
降雪地では、屋根から落ちる雪が出入口を塞ぐため、「平入り」:屋根が「通り」に向って傾斜するつくり:は避けざるを得ません。そのために「妻入り」にして、奥行の短い「庇」を設けています(もっとも、敷地内に落ちた雪の処理も大変です)。
この「庇」を、「通り」に沿ってつなげれば、「がんぎ」と呼ばれるアーケードになります。青森の弘前、黒石などに今でも残っています(青森では「こみせ」と呼ぶ場合もあるようです)。中越地域にもあります。

最下段は、群馬県・沼田にあった「妻入り」の商店です(現在は、移築されています)。
いずれの例も、「平入り」の町家と同じく、「通り」と「建屋」の関係に意を注いでいることが分ります。その結果、「通り」は単なる通路ではなくなるのです。

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「建築」は何をつくるのか-4・・・続々・建物づくりと「造形」

2009-08-03 09:36:12 | 設計法

上掲の地図は、奈良・今井町の町並の図です。「日本の民家6 町家Ⅱ」からの転載、「通り」に色を付けました(一部、塗り忘れがあります!)。

現在の町並に比較して、「通り」の幅がきわめて狭いことが分ります。2間程度。
人が主人公の時代の町ですから、決して狭いわけではなく、大体この程度だったのです。なお、街道筋の宿場町では、人が行き交うため、5間ほどの幅になります。

お寺さんや神社は、大きな区画を占めているため、「通り」から門を入って建屋に至る形をとっていますが、一般の建屋は、商家であることもあり、「通り」に直接面する形で建屋が建っています。
もっとも、こういう町なかでは、区画は間口に対して奥に長いため、商家でない場合も、建屋は「通り」に面して建てられています(それでも、今井町の場合は、京都あたりのそれに比べると間口は広い)。

「通り」に面して建屋を建てるとき、どのように構えるかを知るには、今井町は好例と言えるでしょう。

「通り」に面して建屋が建つと、「通り」の両脇が、建屋によって固められ、「通り」の空間を、否応なく形づくってしまいます。

もしも、「通り」に面して、平屋あるいは二階建て(~三階建て以上)の建屋の壁がまっすぐに立ち上がっていると(軒の出た建屋か、軒のない建屋かによって、趣きが多少異なりますが)、「通り」はいわばU字溝のような形になり、「通り」を歩く人の目には、ほぼ道幅と同じ天空が見えるだけになり、「通り」が直線だったりすると、「通り」の方向性だけ強くなってしまうでしょう。
日本では、こういう例は、あまり見かけません(最近は別です)。

日本で多く見かけるのは、今井町のような町並です。
今井町の場合、「通り」に接して建屋の「通り」面は、かならず壁面が二段階になります。しがたって、屋根も二段構えになります。。
すなわち、上掲の写真や断面図で分るように、「通り」に接して「平屋」の部分があり、その背後に「本体」の壁が立ち上がる方法です。
「本体」自体は、平屋建ての場合もあり、二階建ての場合もあります(ところによると、三階建ての場合もあります)。

上掲の平面図で、そのあたりを、概略色分けしてみました。黄色部分が「通り」、グレイの部分が平屋部の屋根のかかっている部分です。

この「通り」に面する「平屋」の部分は、奥行、つまり幅は狭く(大体3尺程度)、この部分が「通り」から建屋への「踏み込み」の場所として使われます(上掲の平面図のように、高木家、米谷家とも、その「踏み込み」の先に大戸があります)。

   註 上掲の図だけでは分りませんが、「通り」を挟み向いあう二軒の
      大戸:玄関が、真正面に向き合うことはまずありません。
      後から建てる建屋は、大戸位置を向いの建屋と微妙にずらすのです。
      既に建物が建っている地区に新たに建屋をつくる場合、
      先回触れたように、実際に「通り」を敷地に向って歩き、
      ごく自然に敷地に取付く場所は、向いの家の入口の真正面には
      なりません。そこに「何か」を感じているからだと思います。

   註 「大戸」を入ってからの「空間」の配列には、
      すでに触れた住まいの原型:A、B、C、(D)のゾーン分けが
      明快に読み取れます。

このように壁面を二段構えにすると、「通り」の上には広く天空が広がり、「通り」の方向性は押さえられ、それぞれの建屋の前には「淀み」が生まれ、「暮しの匂い」もただよう空間になるのです。「通り」は単なる「通路」ではなくなっている、と言えばよいでしょう。

これは、それぞれの建屋をつくる人たちには、「通り」から「わが家」へ、そして「わが家」から「通り」へ、この「動き」に見合った「空間」:自らのまわりに展開する「空間」のありようをしっかり見据えているからだと考えられます。
というと意識的にやっているように思えますが、無意識のうちにそのようにしている、というのが本当のところなのだと思います。つまり、「身に付いている」のです。それが「常識」なのです。

   註 今井町が「伝建地区」に指定される前、本当に「暮しの匂い」を
      感じることができました。
      家々はそれぞれに年輪を刻んだ表情をし(それが普通の家並)、
      たとえば、家の中からは、その家の若者が聞いているに違いない
      大音量のポップな音楽が漏れ聞こえてくる、
      あるいは、食事の用意の音や匂いも漏れてくる・・・・。
      「伝建地区」になってからは、そこはあたかも映画村、
      時代劇のセットのようになっています。
      これでは、そこを訪ねても、本当の意味の「観光」にはなりません。

このような「気遣い」は、最近の都市近郊の分譲宅地に建つ住宅では、めったにお目にかかれません。
最近の都市近郊の宅地の一区画の大きさは、ことによると今井町の標準的な区画よりも小さく、したがって、「通り」に面せざるを得ないのが普通です。
しかし、そこでの建屋の建て方を見てみると、多くの場合、広い敷地のなかに建てることを考えたような建屋になっています。「通り」から入り、しばし歩いて玄関にたどりつくかのようなつくりの建屋が、「通り」に面している例がきわめて多いように思います(おそらく住宅展示場でみたモノを、まわりと無関係にセットするからなのでしょう)。
そのため、「通り」と「建屋」の間には、「空間」の断絶がある、「空間」が小間切れになってしまうのです。別の言い方をすれば、「個々の建屋」+「通り」+「・・」という足し算で街ができあがってしまう、ということです。
当然、生まれる「通り」は、そこを歩く人にとっても「無愛想」になってしまいます。

今一般に、「よい町並」が語られるとき、その「よさ」の因を、そこに並ぶ建屋の「形」「材料」「色彩」などに求められるのが普通です。
「伝建地区」に指定された今井町で、修理や改造をするとき、少なくとも「通り」に面する箇所は、「重文指定」の建物の外観に倣うように求められるのも、その考え方によるものです。その結果「時代劇のセット」になってしまいます。

私は、この考え方は誤りだと考えています。
私たちが、そこで暮していないにもかかわらず、「いいなあ」と思う町並、「心和むなあ」と思う「通り」というのは、そこで暮す人たちのつくりだした「通り」と
「建屋」に、「今の」私たちが「共感を覚える」からだ、と私は考えます。
あえていえば、そこで目にする「空間」に、そこで暮す人たちの、そこで暮す「暮し方」「気遣い」が表れ、それが私たちに好ましく思えるからなのだと思います。

であるからこそ、ちょっとしたことにも気を遣ってつくるのです。
たとえば、断面図や写真で分りますが、先に触れた「通り」に面する「平屋」の部分の屋根の勾配が、本体の建屋の屋根の勾配よりも緩いのが普通です。これは、今井町だけではありません。一般にそうなっています。
上掲の「高木家」の外観写真は、「通り」から、普通の目線で撮っています。
断面図では、二階建ての部分と手前の部分では屋根勾配が違っていますが、写真ではほとんど同じに見えます。
それは、実際に目に映る「もの」の姿は、遠くのものほど小さく見えるものだからです。

   註 米谷家の外観写真は、「通り」を歩く人の目線よりも
      高い位置で撮った写真です。

大きな屋根の社寺を、写真で見るのと断面図で見るのではまったく違います。これも同じことです。断面図を見て、屋根の大きさ・高さに驚くことがあります。
二段構えの屋根の勾配を同じにした建屋の場合、高い部分は低くなって見えてしまうのです。

今回は図を載せませんが、「通り」に平行に棟が伸びる建屋の場合、たとえば高木家のような例の場合、この「気遣い」は、妻面:「けらば」についても払われます。軒先の部分の全長よりも、棟の部分の全長を若干長くするのです。
逆に言えば、棟の長さよりも、軒の長さ:幅を若干縮めるのです。これを「破風尻(はふじり)を引く」と呼ぶようですが、こうすることで、目には、両妻面の「けらば」「破風」が平行になっているように見えるのです。
言ってみれば、「透視図」の原理です。
かつての工人たちは、この原理を承知していたのです。

屋根勾配は、基本的には、葺き材で最低限の勾配は決まります。しかし、実際には、その限界勾配以上であれば任意です。
その「任意」のなかで、建屋が建ったとき、現地に立って見える屋根の見え方を考慮して勾配を決めればよいわけです。

しかし、どのように見えるのがよいか、ということは、建屋単体で考えるわけにはゆきません。その建屋の立面図だけで考えても意味がないのです。なぜなら、早い話、ある勾配の屋根を持った建物も、それがどのような場所にあるかによって、見え方がまったく変ってくるからです。新たにその建物を設けたことで生まれた空間が、その場に適しているかどうか、によって、屋根が急すぎる、あるいは緩すぎる、・・・と「感じられ方」に違いが生まれるのです。
勾配を持つ屋根の場合、この判断が、「でき上がり」に決定的な意味をもってきます。
私の場合、周辺との関係で「これはいいな」という事例に会ったとき、極力、周辺を含めた断面図を、頭の中で描いてみることにしています。そういうことを重ねているうちに、工人たちは、建屋の前をどのような空間にするかによって、勾配を変えているらしいことに気付きました。これは、前面が斜面と平坦である場合で、できる空間に違いが生まれることで明らかです。
アアルトのスケッチを見ると、通りを歩いて建物に近付く各段階での「見え方」を、何枚も描いてチェックしていることが分ります。それは、あくまでも、「見え方」のチェックであって、立面図のチェックではありません。その「見え方」が基になった断面が決められて、結果として立面図が描かれるのです。
かつて、わが国の工人たちは、こういうスケッチを頭の中で描いていたに違いないのです。

この「気遣い」は、軒先・軒下部分にも注がれます。
軒先・軒下もまた、立ち位置、目線の位置で「見え方」が変ってきます。
平屋の軒の場合、人に被さるように見える場合には、人は、その下に招きいれられるような感じになります。被さるように見えるかどうかは、軒の深さ:出によって異なります。そしてまた、そこがどのような場所であるかによっても違います。

今井町の場合では、全般に軒の深さ・出は大きくありません(一般に町家は少ないようです)。それに代って、「踏み込み」部分で「招きいれる」空間をつくっています。町家の場合、敷地を有効に使うために、壁位置をできるだけ「通り」に近付けたからだと思われます。
今井町では(他でもそうですが)、二階建ての場合、二階の軒下部分のつくりに意を注いでいます。そこは必ず通る人の目に入る箇所だからです。平屋の場合は、それほど気にしていません(上掲最下段の図参照)。

このように、現在のような設計図を描かなかった時代、人びとは、実際に目の前に生まれるだろう空間を頭の中に想像・想定しながら、空間づくり・建物づくりをしていた、と考えてよさそうです。
どうやら、事前に設計図を描くようになってから、「実際の見え方・感じられ方」ではなく、「図上・紙上の見え方・感じられ方」で決めるようになってしまったように私には思えます。
少なくとも建築の設計図では、あくまでも「実際」を「紙」に投影したものでなければ、意味がない、と私は思います。

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