建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

感想:「分別」のコスト

2011-08-24 11:30:01 | 専門家のありよう


これから更に厚く深い暗雲に覆われるのか、それとも雲が取れ、光明を見出せるのか・・・。

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[リンク追加 27日 9.45][リンク追加 9月3日 19.08][リンク追加 13日19.02]

数日前の毎日新聞に、原発の「廃炉」のプロセスと、それに要するコストについての詳しい解説が載っていました。
毎日jpにも載っています。下記です。

福島には、分別のない人たちの為した「計画」のせいで、無住の地、居住不可の地が生じてしまうようです。

当地の「ごみ」の分別収集はかなり徹底しています。
しかし、これを読むと、原発推進を進めて来られた方がたの、分別のなさが、よく分ります。これに要する費用は、一体誰が負担するのでしょう?!
そして、それ以前に、この方がたの分別の責任は?
こういった方がたをこそ分別しなければならないのでは・・・。

特集ワイド:福島第1原発廃炉 年月も費用も「未知の領域」


なお、ついでに、下記も載せます。
「風知草」

共感を覚える発言をされる方へのインタビュー記事がありましたので追加。[追加27日 9.45]
「この国は・・・」 

原発事故収束には、放射能を帯びた土等々の処理が問題になります。どこにそれを置くのか。この問題についての「反応」に対する香山リカ 氏の発言をリンクします。[9月3日 19.08]

gooニュースで紹介されてiるイギリスの新聞ガーディアンに載った記事。[リンク追加 13日19.02]

「形」の謂れ(いわれ)-7・・・・柱型

2011-08-17 16:16:44 | 形の謂れ
1945年の8月15日も、こんな具合の暑さでした。地面は乾ききっていたのを覚えています。
私はそのとき、疎開で山梨県の竜王にいました。国民学校の3年でした。

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再び、喜多方の木骨煉瓦造の話に戻ります。
いくつか紹介した喜多方の木骨煉瓦造には、柱型を設ける例と、設けない場合とがあります。
その例を、再掲します。
下は、柱型のある例。



そして、柱型を設けない例。



手前は、普通の土蔵の腰壁に煉瓦を平で張った建屋。
奥の建屋は煉瓦造のように見えますが、これは、外壁全面に煉瓦を平で張った例です。これは、煉瓦目地を見ると分ります。平で張るのでは、煉瓦を厚く張る(積む)ことはできません。
この2例に見られる煉瓦は、いわば外装保護材と見た方がよいと思われます。

柱型を設けるか、設けないか、この違いは、現代の建築とは違い、そうなる理由:謂れがあります。
つまり、設計者、施工者の単なる「好み」、「こうしたい」「こうしてみたい」・・・などといういわば「不純な」動機でつくられているわけではありません。
たとえば、先の煉瓦平張りの建屋でも、柱型を設ける気になれば、つくれないことはありません。しかし、この事例では、そういう「気」は、起きていないのです。そうする必要を認めなかったからでしょう。
もちろん、平滑な面を見せたい、と考えたわけではありません。

最初の柱型のある建屋の、そうなる謂れは、下の図を見ると分ります。この図も再掲です。
この例は、木造の骨組の間に煉瓦を充填してゆく典型的な「木骨煉瓦造」で、しかも念入りに計画されている建物です。



この建物の場合、煉瓦は「1枚積」です。壁厚が、煉瓦の長手の寸法になります。

    この図で示しているのは、壁の長手に煉瓦を積んでいる段。
    この1段下及び上の段は、煉瓦の長手をこの煉瓦に直交して積みます。
    したがって、表には煉瓦の小口が見えることになります。
    煉瓦は、上下の段の煉瓦の目地にまたがるように積みます。
    その結果、最初の写真の壁の長手と短手:小口が交互に現れる「表情」になるのです。
    拡大すると、下のようになります。
         

喜多方の木骨煉瓦造では、柱型は、出隅に設けられるのが普通です。
木骨煉瓦1枚積の場合、出隅部では、煉瓦壁の厚みが、軸組への煉瓦壁の喰い込み分だけ薄くなっているのが分ります。
   明治初期に東京や横浜近在でつくられた木骨煉瓦造では、
   軸組への喰い込みがありませんから、出隅でも壁厚は同じです。
出隅部は揺れが生じたとき、どうしても影響が出やすい場所です。柱型は、それを生じさせないためにつくられているのです。つまり、壁厚に大きな差が生じないようにするための工夫。
   この図では、中途の柱に柱型を設けていませんが、柱ごとに柱型を設けている例もあります。

つまり、喜多方の実業者たちは、滝 大吉氏の言う「建築(学)とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様建物に用ゆる事を工夫する・・・」を、当たり前のこととして実践していた、と言ってよいでしょう。

しかし、昨今の大方の(あるいは「話題になる」)建物で為されているのは、この言とは、はるかにかけ離れています。つまり「謂れ」が見当たらない。

日本の場合、鉄鋼製品:鉄骨が構築材料が主流になっていますが、通常、鉄骨は見え隠れの存在になっています。
その理由は耐火性能の確保。
滝 大吉氏の言う「人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様建物に用ゆる」ことは不可能なのです。
「成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様」を、鉄骨自体に求めることはできません。

しかし、このことは、「自分が描いたイメージ」(その「わけ」、「謂れ」は不明です)の実現を望む建築家にとっては、この上ない「幸せな状況」でした。何でもできる・・・!。
西欧の建築界でも、それと似たような「状況」があったようです。
その事例を掲げます。
1980年代に「話題に上がった」建物に、「香港・上海銀行」があります。
この建物は、基本的には鉄骨造です。
普通紹介されている写真では、骨組がそのまま外見になっている、かのように見えるのですが、実際は、それは「見かけ」に過ぎません。
それが分るのが次の写真です。いずれも工事中の写真。“Great Engineers”(1987年 Academy Editions.London 刊)からの転載です。





外見で目立つX状の「形」は、構造部材のように見えますが、実はそうではない。
施工中の写真で、アルミ箔を巻きつけていることから判断して、これは、どうやら設備用。
しかも、ご丁寧に、柱(状の)材に取付く部分を末広がりにしている。
この「形」の拠り所は、設計者の「経験で得た鉄骨の仕口の形」。設計者は、シドニーオペラハウスの最終段階にかかわった Ove Arup。

しかし、19世紀末~20世紀初頭の Architect、Engineer だったらこういうことはしなかったと思われます。
かのベルラーヘなら、「まがいもの、虚偽・・・」と言ったに違いありません。
    「まがいもの、模倣、虚偽からの脱却」 参照。

残念ながら、今、都会で見かける建物で、「これは虚偽ではない」と言える建物は、本当に少なくなったと思います。
そんな中で、やはり、前川國男氏たちの仕事は(特に1960年代前後の仕事は)、虚偽ではない(東北各地にある前川氏のかかわった建物の、今回の震災での被災は少なかった、と聞いています)。

先ほどの香港・上海銀行の施工中の写真を見たとき、咄嗟に思ったのは、あのきわめて湿気の多い地で、こんなことしたら、内部での結露が激しいのでは?ということでした。


私が今回「形の謂れ」を題材にしたのは、滅多に出向かない東京で見る建物たちの、特に最近の建物たちの、どうしようもない「形」に驚嘆したからにほかなりません。新宿西口の繭玉は何だ?!
もっとも、どうしようもない、と思うのはアナクロな私だけかもしれませんが・・・。

私には、滝 大吉 氏が明治年間に語った
建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様建物に用ゆる事を工夫する学問」との言は、
今もって、そしてこれからも永遠に、建物づくりの本質を突いた言説である、と思えるのです。
つまり、簡単に言えば、「形の謂れ」を問い続けることです。
もしも、それは違う、とお考えの方が居られたならば、是非反論をお聞かせください。

「形」の謂れ(いわれ)-6・・・・橋の形・その2

2011-08-04 10:08:34 | 形の謂れ
「大丈夫と言えば大丈夫?」に、追記を加えました[15日 19.21]。

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先回、1本の丸太で橋や梁をつくる発展形として、はるか昔から、「肘木」の方式が使われていることに触れました。


この図は、「奈良六大寺大観 法隆寺一」(岩波書店)から転載・加筆編集した「法隆寺東院・伝法堂」の肘木の分解図(以前使った図を再掲)です。

同じ距離に丸太を架ける場合、使う丸太の寸法を小さくできること、逆に言えば、同じ丸太を長い距離に架け渡すことができることを、「知っていた」からです。
もちろん、仕事がしやすく、柱の真上で継ぐことができ(現在の木造建築では、柱から持ち出した位置で継ぐ「持ち出し継ぎ」が普通になっています)、より丈夫に柱と梁を接続できることも「知っていた」。
   長い丸太:梁を、柱の上部の「狭い」ところに取付けるより、
   まず初めに短い丸太を柱に取付け、
   その短い丸太を受け台にして「長い丸太」を載せる方が、仕事が容易で、確実なのです。

では、こういう方法を、人びとはなぜ「知っていた」か?
それは、「誰か」に教わったか、あるいは、「自らの経験で、知った」から、です。
もちろん、その「誰か」も、同じような経緯で「知った」はずです。
最初の発案者が誰かは分りません。しかし、突き詰めてゆくと、「経験」「体験」に行き着くはずです。「理論」が先にあったのではありません。
そして、このことは、現在と大きく違う、という「事実」を認識する必要があるでしょう。
なぜなら、現在ならば、行き着くところは「学」になるはずだからです。
言い換えれば、「経験・体験」がなくても「知った状態になれる」のです。
しかし、現在の(大方の)人びとの「知った」「知っている」状態は、往時の人びとの「知った」「知っている」状態とは雲泥の差がある、という「事実」をも認識する必要があります。
このことを、先回、学的知識に頼りすぎ、過ごしている日常の事象の意味を認識しようとしなくなったからだ、と書きました。さらに言えば、日常の事象を観ることより、学的知識の方を重視する「習慣」(むしろ「因習」と言う方がよいかもしれません)が当たり前になっている。
   ひどい場合には、「経験」「体験」を無視して「理論」が先行してしまいます。
   建築の世界では、「ひどい」の極値と言えるかもしれません。


先回、甲州にある「猿橋」は、「肘木」のさらなる発展形として考えることができるのではないか、と書きました。下に、「修理工事報告書」から転載、加筆編集した「猿橋」の断面図を再掲します。



この橋については、「木材だけでつくった長さ30mの橋」で紹介しましたが、詳しい年代は分りませんが、近世以前から、この方法で架けられていた、と考えられています(木材が腐朽するため、20~25年ごとに架け替えられていたようです)。
   
この方法は、古代寺院の「斗栱」で軒を伸ばす方策に似ています。
下図は、これも日本の建物づくりを支えた技術-13で載せた図の中の唐招提寺の復元断面図および斗栱の詳細です。

当初の東大寺・大仏殿の軒も、この斗栱を拡大した方法でつくられていた、と考えられていますが、その軒先は、きわめて変動が激しく、ひっきりなしに修理・補修が行われていたことは「日本の建物づくりを支えてきた技術-12」で紹介しました。
   そこでも触れていますが、軒先は不安定であったにもかかわらず、400年を越えて、健在だった。
   その間に遭遇した大地震では壊れなかった!

なぜ、大仏殿の軒は変動が激しかったか。
それは、図で分るように、三段目の肘木が、言わば、柱の外に「ぶらさがる」恰好になっているからです。屋根の重さで、どうしても垂れてしまうのです。柱より内側に、肘木に重さが掛かっていたならば、そうはならない。
一般に、支点の左右の重さを釣合わせる方法を「天秤」と称しています。
当初の大仏殿でも、一段目は天秤、二段目は梁の延長、三段目も天秤にはなっていますが、三段目では軒側の方が重く、釣合いがとれずに軒先が垂れてしまった。
しかも、各柱ごとにある斗栱が、それぞれ個別に変動するので、軒先は波を打ったのではないかと思います。
   これは、以前に「失敗の修復で得たもの」で紹介した筑波第一小の体育館の軒先が暴れたのと同じです。
   その場合は、@3尺強の登り梁が、それぞれ勝手に変動してしまった。

多分、このことは、当時の人びとも分っていたと思いますが、「仏堂の『形式』」維持との按配で、いい手が見つからなかったのではないか、と思います。


「猿橋」に戻ります。
「猿橋」でも、川側にだけ、梁が迫り出しています。そのままだったら、当然、垂れ下がる。それを防いでいるのが、陸地側の、梁に被さっている地面:土。
実際には、岩石も積まれているようです。その重量が、垂れ下がろうとする動きに抵抗している。
この重石を取り除けば、橋は簡単に崩落する筈です。

また、この橋では、迫り出す側、つまり川側に向って登り勾配になっていますが、これがさらに安定度が増していると考えられます。
もしも、水平に迫り出していると、梁の上の重さで下方へ撓う怖れがあります。
しかし登り勾配だと、先回説明した合掌に伝わる力:軸力と同じで、重さの一部は梁の長さ方向:軸方向に伝わり、その分、梁を撓わせる力が減り、撓む怖れも少なくなります。別の見方をすれば、橋が完成すると、弧を描き、いわゆるアーチの効果が出てくるのです。

日本では、石造のアーチ橋は、江戸末期~明治になってからつくられるようになりますが、アーチ状の形をした木造橋は、それ以前からつくられていたのです。ということは、アーチ状の「効果」を知っていた、と考えてよいのではないでしょうか。
もちろん、この「知識」も、「学的知識」ではありません。「現場の知識」です。
「学的知識」は、本来、「現場の知識」を源に生まれたのですが、現在、これが逆になってしまっている。


ところで、建物づくりでは、「猿橋」のように、土や石の代りになる重石を、建物内に大々的に設けるわけにはゆきません。

この重石の代りに発案されたのが、再建東大寺に使われた「挿肘木」と考えてよいでしょう。「肘木」を柱に貫通させる方法です。

下は、復元大仏殿と同じ技法でつくられたと考えられる南大門の軒先の図と写真です。



貫通させた孔には、埋木:楔が打ち込まれていますから、古代の肘木に比べ、数等頑強です。
しかも、「挿肘木」は、数段ごとに、内部に向って伸びて「貫」となっています。
言い換えれば、「貫」が柱を貫いて外側に出て、「肘木」になっている。
こうなれば、天秤を形づくる重石は要らなくなります。
試みに、この「貫」を、建物内側の柱際で切断したとしましょう。そうすると、軒は当然垂れるはずです。「挿肘木」が古代の「肘木」に比べて頑強であっても、片側だけに荷が掛かれば、垂れは避けられないはずです(もちろん、古代の「三手先」の垂れよりは小さい)。

これは、まことにすぐれた発想です。

さらに、再建東大寺では、隣り合う「挿肘木」相互を、これも何段かの横材で繋いでいます。この材を「通し肘木」と呼んでいます。下がその写真です。



これにより、軒下部に、長手にいわば三角柱が生まれます。その結果、軒の架構はさらに丈夫になります(ただし、現在の最新の「構造理論」では、この「効果」は、多分「評価」できないはずです)。
   もう一つ、軒先の暴れ防止に役立っているのは、垂木の先に設けられた「鼻隠し」の存在です。
   「鼻隠し」は、浄土寺・浄土堂でも使われています。
   中世は、古代に比べ、良材が得にくくなっていましたから、1本ごとのクセに大きな差があり、
   とりわけ、材寸の大きな「垂木」は、どうしても暴れが大きくなります。
   その暴れを、先端に取付けた「鼻隠し」で止めていたのです。
   「鼻隠し」は、「垂木」数本ごとに、「蟻型」で「垂木」に接合されています。
   
この「通し肘木」に似た材が、「猿橋」にも使われています。
猿橋の復員は約1間、数段重ねた丸太の梁が3列並べて迫り出しています(「木材だけでつくった長さ30mの橋」に、短手の断面図を載せてあります)。
この3列は、丸太をただ並べるのではなく、各段ごとに、相互の間に直交して「枕梁」と呼ばれている材が設けられています。

この材がないと、おそらく、各列の丸太の重ね梁は、それぞれ勝手な動きをするにちがいありません。なぜなら、丸太のクセは、1本ずつ異なるからです。
これを防いでいるのが、「枕梁」なのです。
この「枕梁」は、再建南大門の軒先の「通肘木」と同じ役割を担っている、と考えてよいと思われます。
   筑波第一小の体育館の基本設計では、愛本橋や猿橋にならい、
   登り梁の各段の間に、下図のように「枕」を設けていました。
   棟梁の意向で「枕」を省いたのが、現在建っている建屋です。
   軒先に溝型鋼による「堰板」を設けた経緯は、「失敗の修復で得たもの」で触れています。
   この「堰板」が、結果として、浄土寺・浄土堂や南大門の「鼻隠し」の役を担ってくれたのです。   



ここまで見てきたように、往時の構築物の「形」には、そのどれにも、「そうなる必然性があった」と見なしてよいと思います。
「形」に「謂れ」がある、ということです。
つまり、いずれの形にも、現在の建築家の多くに見られる「こんな恰好にしてみたい」という《身勝手な願望》から生まれたのはない、ということです。

滝 大吉 著「建築学講義録」の序文にある
建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様建物に用ゆる事を工夫する学問
という文言も、すなわち、「形には謂れがある」ということを語っていると言ってよいでしょう。
少なくとも、明治の頃までは、こういう考え方、ものの見かたが、むしろ、当たり前だった、のです。

現在、なぜ、建築家の多くが、「謂れのない」《形》を「望む」ようになってしまったのでしょうか。

大丈夫と言えば大丈夫?

2011-08-01 18:15:36 | 居住環境
犬たちとの散歩コースの一つに、近在のクヌギの並木道があります。道幅は1間弱。山林の中の道です。クヌギは、根もとで径4~50cm。
そのクヌギの根元の洞は、昆虫や蜂や蝶たちの食堂。
写真は、夕方4時ころの様子です。カブトムシとマダラチョウが食事中。
このときは蜂はいませんでしたが、日によると、スズメバチも群れています。
こんな風景、このあたりの子どもたちは、当たり前すぎて、知らん顔のようです。



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[追加 2日0.08][追記 15日 19.21]

「形の謂れ-6」は、現在編集にかかっていますが、追い込み仕事の関係で進んでいません。

そんなときに、知人から「情報」提供がありました。

東京新聞webで、先日の衆議院厚生労働委員会で、児玉龍彦氏(東京大学先端科学技術研究センター教授 東京大学アイソトープ総合センター長)が、「厳しく深刻な」参考意見を述べられた、という記事を読みました。

知人から、その具体的内容の載った記事を紹介いただきました。下記に転載します。

「7万人の人が自宅を離れて彷徨っている時に、国会は一体何をやっているのですか!」

この「実況」動画を、コメントで紹介いただきました。コメントからアクセスできます。[追加 2日0.08]

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気になった毎日JPのコラム「セシウムさん」を転載します。[追記 15日 19.21]

児玉氏とのインタビュー記事を追加。
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