「大丈夫と言えば大丈夫?」に、追記を加えました[15日 19.21]。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
先回、1本の丸太で橋や梁をつくる発展形として、はるか昔から、「肘木」の方式が使われていることに触れました。
この図は、「奈良六大寺大観 法隆寺一」(岩波書店)から転載・加筆編集した「法隆寺東院・伝法堂」の肘木の分解図(以前使った図を再掲)です。
同じ距離に丸太を架ける場合、使う丸太の寸法を小さくできること、逆に言えば、同じ丸太を長い距離に架け渡すことができることを、「知っていた」からです。
もちろん、仕事がしやすく、柱の真上で継ぐことができ(現在の木造建築では、柱から持ち出した位置で継ぐ「持ち出し継ぎ」が普通になっています)、より丈夫に柱と梁を接続できることも「知っていた」。
長い丸太:梁を、柱の上部の「狭い」ところに取付けるより、
まず初めに短い丸太を柱に取付け、
その短い丸太を受け台にして「長い丸太」を載せる方が、仕事が容易で、確実なのです。
では、こういう方法を、人びとはなぜ「知っていた」か?
それは、「誰か」に教わったか、あるいは、「自らの経験で、知った」から、です。
もちろん、その「誰か」も、同じような経緯で「知った」はずです。
最初の発案者が誰かは分りません。しかし、突き詰めてゆくと、「経験」「体験」に行き着くはずです。「理論」が先にあったのではありません。
そして、このことは、現在と大きく違う、という「事実」を認識する必要があるでしょう。
なぜなら、現在ならば、行き着くところは「学」になるはずだからです。
言い換えれば、
「経験・体験」がなくても「知った状態になれる」のです。
しかし、
現在の(大方の)人びとの「知った」「知っている」状態は、往時の人びとの「知った」「知っている」状態とは雲泥の差がある、という「事実」をも認識する必要があります。
このことを、先回、学的知識に頼りすぎ、
過ごしている日常の事象の意味を認識しようとしなくなったからだ、と書きました。さらに言えば、日常の事象を観ることより、学的知識の方を重視する「習慣」(むしろ「因習」と言う方がよいかもしれません)が当たり前になっている。
ひどい場合には、「経験」「体験」を無視して「理論」が先行してしまいます。
建築の世界では、「ひどい」の極値と言えるかもしれません。
先回、甲州にある「猿橋」は、「肘木」のさらなる発展形として考えることができるのではないか、と書きました。下に、「修理工事報告書」から転載、加筆編集した「猿橋」の断面図を再掲します。
この橋については、
「木材だけでつくった長さ30mの橋」で紹介しましたが、詳しい年代は分りませんが、近世以前から、この方法で架けられていた、と考えられています(木材が腐朽するため、20~25年ごとに架け替えられていたようです)。
この方法は、古代寺院の「斗栱」で軒を伸ばす方策に似ています。
下図は、これも
日本の建物づくりを支えた技術-13で載せた図の中の唐招提寺の復元断面図および斗栱の詳細です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/a7/54f9fee6b7a99e148692772978987a3e.jpg)
当初の東大寺・大仏殿の軒も、この斗栱を拡大した方法でつくられていた、と考えられていますが、その軒先は、きわめて変動が激しく、ひっきりなしに修理・補修が行われていたことは
「日本の建物づくりを支えてきた技術-12」で紹介しました。
そこでも触れていますが、軒先は不安定であったにもかかわらず、400年を越えて、健在だった。
その間に遭遇した大地震では壊れなかった!
なぜ、大仏殿の軒は変動が激しかったか。
それは、図で分るように、三段目の肘木が、言わば、柱の外に「ぶらさがる」恰好になっているからです。屋根の重さで、どうしても垂れてしまうのです。柱より内側に、肘木に重さが掛かっていたならば、そうはならない。
一般に、支点の左右の重さを釣合わせる方法を「天秤」と称しています。
当初の大仏殿でも、一段目は天秤、二段目は梁の延長、三段目も天秤にはなっていますが、三段目では軒側の方が重く、釣合いがとれずに軒先が垂れてしまった。
しかも、各柱ごとにある斗栱が、それぞれ個別に変動するので、軒先は波を打ったのではないかと思います。
これは、以前に
「失敗の修復で得たもの」で紹介した筑波第一小の体育館の軒先が暴れたのと同じです。
その場合は、@3尺強の登り梁が、それぞれ勝手に変動してしまった。
多分、このことは、当時の人びとも分っていたと思いますが、「仏堂の『形式』」維持との按配で、いい手が見つからなかったのではないか、と思います。
「猿橋」に戻ります。
「猿橋」でも、川側にだけ、梁が迫り出しています。そのままだったら、当然、垂れ下がる。それを防いでいるのが、陸地側の、梁に被さっている地面:土。
実際には、岩石も積まれているようです。その重量が、垂れ下がろうとする動きに抵抗している。
この重石を取り除けば、橋は簡単に崩落する筈です。
また、この橋では、迫り出す側、つまり川側に向って登り勾配になっていますが、これがさらに安定度が増していると考えられます。
もしも、水平に迫り出していると、梁の上の重さで下方へ撓う怖れがあります。
しかし登り勾配だと、先回説明した合掌に伝わる力:軸力と同じで、重さの一部は梁の長さ方向:軸方向に伝わり、その分、梁を撓わせる力が減り、撓む怖れも少なくなります。別の見方をすれば、橋が完成すると、弧を描き、いわゆるアーチの効果が出てくるのです。
日本では、石造のアーチ橋は、江戸末期~明治になってからつくられるようになりますが、アーチ状の形をした木造橋は、それ以前からつくられていたのです。ということは、アーチ状の「効果」を知っていた、と考えてよいのではないでしょうか。
もちろん、この「知識」も、「学的知識」ではありません。「現場の知識」です。
「学的知識」は、本来、「現場の知識」を源に生まれたのですが、現在、これが逆になってしまっている。
ところで、建物づくりでは、「猿橋」のように、土や石の代りになる重石を、建物内に大々的に設けるわけにはゆきません。
この重石の代りに発案されたのが、再建東大寺に使われた「挿肘木」と考えてよいでしょう。「肘木」を柱に貫通させる方法です。
下は、復元大仏殿と同じ技法でつくられたと考えられる南大門の軒先の図と写真です。
貫通させた孔には、埋木:楔が打ち込まれていますから、古代の肘木に比べ、数等頑強です。
しかも、「挿肘木」は、数段ごとに、内部に向って伸びて「貫」となっています。
言い換えれば、「貫」が柱を貫いて外側に出て、「肘木」になっている。
こうなれば、天秤を形づくる重石は要らなくなります。
試みに、この「貫」を、建物内側の柱際で切断したとしましょう。そうすると、軒は当然垂れるはずです。「挿肘木」が古代の「肘木」に比べて頑強であっても、片側だけに荷が掛かれば、垂れは避けられないはずです(もちろん、古代の「三手先」の垂れよりは小さい)。
これは、まことにすぐれた発想です。
さらに、再建東大寺では、隣り合う「挿肘木」相互を、これも何段かの横材で繋いでいます。この材を「通し肘木」と呼んでいます。下がその写真です。
これにより、軒下部に、長手にいわば三角柱が生まれます。その結果、軒の架構はさらに丈夫になります(ただし、現在の最新の「構造理論」では、この「効果」は、多分「評価」できないはずです)。
もう一つ、軒先の暴れ防止に役立っているのは、垂木の先に設けられた「鼻隠し」の存在です。
「鼻隠し」は、浄土寺・浄土堂でも使われています。
中世は、古代に比べ、良材が得にくくなっていましたから、1本ごとのクセに大きな差があり、
とりわけ、材寸の大きな「垂木」は、どうしても暴れが大きくなります。
その暴れを、先端に取付けた「鼻隠し」で止めていたのです。
「鼻隠し」は、「垂木」数本ごとに、「蟻型」で「垂木」に接合されています。
この「通し肘木」に似た材が、「猿橋」にも使われています。
猿橋の復員は約1間、数段重ねた丸太の梁が3列並べて迫り出しています(「木材だけでつくった長さ30mの橋」に、短手の断面図を載せてあります)。
この3列は、丸太をただ並べるのではなく、各段ごとに、相互の間に直交して「枕梁」と呼ばれている材が設けられています。
この材がないと、おそらく、各列の丸太の重ね梁は、それぞれ勝手な動きをするにちがいありません。なぜなら、丸太のクセは、1本ずつ異なるからです。
これを防いでいるのが、「枕梁」なのです。
この「枕梁」は、再建南大門の軒先の「通肘木」と同じ役割を担っている、と考えてよいと思われます。
筑波第一小の体育館の基本設計では、愛本橋や猿橋にならい、
登り梁の各段の間に、下図のように「枕」を設けていました。
棟梁の意向で「枕」を省いたのが、現在建っている建屋です。
軒先に溝型鋼による「堰板」を設けた経緯は、「失敗の修復で得たもの」で触れています。
この「堰板」が、結果として、浄土寺・浄土堂や南大門の「鼻隠し」の役を担ってくれたのです。
ここまで見てきたように、往時の構築物の「形」には、そのどれにも、「そうなる必然性があった」と見なしてよいと思います。
「形」に「謂れ」がある、ということです。
つまり、いずれの形にも、現在の建築家の多くに見られる「こんな恰好にしてみたい」という《身勝手な願望》から生まれたのはない、ということです。
滝 大吉 著「建築学講義録」の序文にある
「
建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様建物に用ゆる事を工夫する学問」
という文言も、すなわち、「形には謂れがある」ということを語っていると言ってよいでしょう。
少なくとも、明治の頃までは、こういう考え方、ものの見かたが、むしろ、当たり前だった、のです。
現在、なぜ、建築家の多くが、「謂れのない」《形》を「望む」ようになってしまったのでしょうか。