建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

日本の建物づくりを支えてきた技術-9の補足・・・・a)中国建築の架構、b)出桁の諸例

2008-09-30 09:06:06 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

◇ 「中国技術の導入」の実相を、どうしたら確認できるのか?

先回、いろいろな部材の中国での名称を紹介しました。その資料となった図版を紹介します。
一つは「仏光寺」の図版を採った「画像中国建築史」から、もう一つは「中国古建築木作営造技術」という書物から。

上記の書のうち、「中国古建築木作営造技術」は、いわゆる「木割書」的な内容で、古建築と言っても、「隋」・「唐」の時代についてではなく、「清」の時代に行なわれていた寺院の建物づくりの際の「木割」:建物の断面の寸法や諸部材の寸法、部材の割付けなどの決め方:が主な内容。多少「宋」の時代についても触れられている程度(もっとも中国語が読めないので、字面を眺めての感触ですが・・・)。
「隋」「唐」の時代の建物について、中国に文献資料があるのかないのかも、よく分かりません。

先行き触れることになる東大寺再建に使われた「貫(ぬき)」の技術・技法は、日本では「宋」から導入された、「宋」の工人が関わっている、というのが「通説」になっています。しかし、「宋」の時代の技術を知ろうとして、先の「図像中国建築史」を見ても、確かなことは分りません。はっきりと「貫」と思える材が見当たらないのです。
いったい「宋」の技術が導入された、という説の根拠が何だったのか、「日本建築史」の諸著作でもはっきりしません。でありながら、それが「通説」となっている・・・。

そこで、「宋」の技術者は「福建」出身者である、と何かに書かれていたのを思い出し、調べたのが中国南部:「福建省」の住居のつくりかた。
なんと、そこでは「清」の時代に建てられたと思われる住居の建物が「貫」のオンパレード(この件については、下記で触れていますので、ご覧ください)。

   註 「余談・・・・中国の建築と『貫』」

◇ 「出桁:[だしげた]または[でげた」」の諸例

軒を深く出す工夫は、一般の住居でも多く見られます。
「せがい」造り。「せいがい」造り、などとも呼ばれます。
「垂木」を受ける軒の「桁」を、できるだけ外につくろうとする工夫です。

これは、寺院の「組物」のような「面倒な」仕事ではなく、至極単純明快、理屈のままに素直につくられています。仕上りはなかなか恰好のよいものです。
そのため、寺院の「組物」が、軒を深く出すことよりも建物の「格」のための場合があったように、一般の建物でも「格式」「見栄」のために使われる場面もあります。

上掲の写真①~④は、川島宙次氏の採集したもので「滅びゆく民家:屋根・外観 編」からの転載です。

写真①は、陶芸家・浜田庄司氏の住宅として栃木県の益子焼で有名な益子(ましこ)に移築された近在の庄屋の住まい。これは「大戸口(おおどぐち):土間への入口」上につくられている「格式」のための「出桁」の例。
この建物は、現在も益子に行くと見ることができます。

写真②は神奈川と山梨の境、相模湖の近在の農家。2階の屋根全面に「出桁」が二段設けられ、深い軒になっています。養蚕農家ではないでしょうか。

写真③④は、ともに信州諏訪地方の農家。
これは、「格式」や「見栄」のためではなく、高冷の地ゆえの「必然的なつくり」、広く深い軒下をつくり、収穫物を霜から避けて保管するための工夫なのです。
現在でも諏訪地方で(多くはないですが)見ることができます。
なお、同地域の寒風吹きさらしの一帯では、屋敷を取り囲む防風のためにつくられた建屋がすっぽり隠れてしまうような「高生垣(たかいけがき)」も見ることもできます。なかには屋根の形そのままに「切妻型」に整形された「高生垣」もあります(写真があるはずなので、探しています)。

次回

日本の建物づくりを支えてきた技術-9・・・・寺院の屋根と軒-2

2008-09-27 17:32:48 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[出典 追加 19.24]

先回は、一番前面の柱列上での組物の紹介でしたが、今回は、「軒」を深く出すための細工を紹介します。
「垂木」を受ける最前列の「桁」:通称「丸桁(がんぎょう)」が柱列より前へ出れば、同じ断面の「垂木」を架けても、出た分「軒」が深く出る理屈です。
また、柱列上の「桁」:「側桁」の位置が高くなり、建物も立派に見えますから、この点も考えてのことだったのでしょう。

今回の図版は「奈良六大寺大観 東大寺 一」「同 唐招提寺 一」から転載させていただきました。スキャナーの関係で編集してあります。[追加 ]

◇ 「出組(でぐみ)」:「一手先(ひとてさき)」とも言います。

上図の「東大寺 法華堂(=三月堂)」が「出組」が代表例のようです。
これは、先に見た「平 三斗(ひら みつど)」の、「大斗」に架けられた「繋虹梁」の「大斗」から外に飛び出た部分を少し伸ばし、その先端に小さな「斗」:「巻斗」を据え、「肘木」:「秤 肘木(はかり ひじき)」を載せ、さらに三個の「巻斗」を置きもう一段「肘木」を載せ、「丸桁」を受ける方法です。
「秤 肘木」の名前は、多分、「斗:巻斗」の上に天秤状に載っているからでしょう。
きわめて手がこんでいて、たしかに見映えは「平 三斗」よりも数段格好よくなります。
この方式は、中国には例がないようですから、日本の工人たちが独自に考え出したのかもしれません。

このようにして軒を深く出す方法としては、今回は図を載せませんが、一般には「梁」を外に飛び出させ、その先端に「桁」を置く方法:通称「出桁」:「でげた」または「だしげた」と呼ぶ:が採られます。これを何段も重ねるやり方は各地の住宅にあり、現在でも農家住宅では使う例があります(もっとも、「形」だけの例が増えていますが・・・)。
言うなれば、この「出桁」の方法を「中国風の姿」にしてみたのが、「法華堂」の「組物」と考えればよいのかもしれません。

◇ 「三 手先(みてさき)」

これは、「組物」としては最上級とされるもので、古代以来、寺院の中心的建物に用いられています。
形は、中国の寺院の普通の形にきわめて類似してきます。
「一手先」「三手先」とは、柱列から何段「迫出し」を加えるか、その数を言います。前項の「出組」は、「迫出し」が一段なので「一手先」になります。

上掲の「三手先」の図・写真は、「唐招提寺 金堂」の例です。
現在の「唐招提寺 金堂」は改造が加えられた姿で、創建時のものではありません。上には、復元想定断面図と現在の断面図とを掲げてあります。


「三手先」は、図で分るように、二段目までは前項の「出組」と大差はありませんが、三段目は方式が変り、「尾 垂木(おだるき)」上に「斗」が組まれます。
「尾 垂木」は、堂内側の「身舎:上屋」柱列まで伸び、端部が固定されています。「軒」が下がるのを「梃子」の理屈を使って防止しているわけです。

   註 「図像中国建築史」では、「尾垂木」に相当する部材を
      「昂」と標記し、その先端:表に見える部分:下端を「昂嘴」
      反対側の上端部(堂内になる)を「昂尾」と記しています。
      「字通」によると
      「昂」とは、音が「カウ(コウ)」、意味は「上がる」「高ぶる」。
      「意気軒昂(いきけんこう)」の「昂」。
      日本語で言えば「登り」というような意味でしょう。

      「尾垂木」という名称がどこから来ているのかは不明です。
      「垂木」「たるき」は日本語ですから、ことによると
      「大きな垂木」「大垂木」なのかもしれません?
      また、「垂木」を一字で「棰」とも書きますが、この字は
      日本の「造字」だそうです。

なお、「組物」を正面から見た写真で分るように、「丸桁」は、「肘木」の上で継いでいることが分ります。「丸桁」は、「肘木」に植えられた「太枘(だぼ)」で「肘木」に固定されています。
「肘木」がいわば「添え木:副木」の役をしていて、継手としては最も単純な方法と言えるでしょう。しかし、地上から見る限り、「継手」がどこかは判然としません。

   註 「肘木」や「斗」は、古代ギリシャ建築の「柱頭:キャピタル」と
      同じ理屈と言えます。
      石造建築では、横材:梁を、柱と柱の中間で継ぐことは無理。
      そこで、柱の上に置いた面積の広い部材の上に横材を置き、
      そこで継がれていたのです。
      後に、「肘木」「斗」同様、「キャピタル」も形式化します。

先回も触れましたが、日本の場合、平安の頃から「桔木(はねぎ)」と呼ぶ材を屋根裏に仕込んで「軒」を保持する方法が生まれます。
この方法は、誰でも現場で思いつくやり方ですが、中国伝来の「昂」:「尾垂木」も、そのヒントになっているものと思われます。

「唐招提寺 金堂」でも、現状断面図で分るように、改造にあたっては「桔木」が使われています。

   註 トラスも使われていますが、これは明治期の修理によるものです。

この「桔木」は、一般の建物では、外から見えても何の問題はないのですが、寺院等では、「中国風」にこだわるかぎり見せるわけにはゆかず、したがって、寺院では、堂内に「天井」が張られ、「細工」を隠せるようになってから使われるようになります。

この「三手先」の方法は、最上級の見えがかりになるため、奈良時代の巨大建築物「東大寺 大仏殿」にも使われたと言います。いわば「唐招提寺 金堂」の拡大コピーのようなものであったようです。
しかし、その巨大な構築物は、建立直後から柱には副柱が添えられ、軒も下がっていたという記録が残っているそうです。
「長押」で軸組を補強する方法には、限界があったことになります。

次回へ続く

日本の建物づくりを支えてきた技術-8の補足・・・・断面図と堂内の空間

2008-09-23 11:32:50 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[図面更改 15.43]

先回の「日本の・・・技術-8」で載せた建物の大きな断面図と堂内の写真を補足として載せます。出典は前回と同じです。
なお、写真は断面図と合うように編集・加工を加えてあります。

「新薬師寺 本堂」「法隆寺 大講堂」の下から見える「垂木」は、まったくの化粧であることが分ります。
ただ、「新薬師寺 本堂」の場合は、化粧になっている「垂木」でも、十分屋根を受けることができる断面になっていますが、「法隆寺 大講堂」では、若干細身で、それで屋根を支えるには少し不十分な断面に思えます。

「法隆寺 大講堂」は、はっきりしませんが、平安時代初期の建立のようです。「中国伝来の技法」が「形式化」し始めた頃の建物と言えるでしょう。

続きは次回

日本の建物づくりを支えてきた技術-8・・・・寺院の屋根と軒-1

2008-09-21 11:58:09 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[図版更改、出典記入追加 17.39]

寺院建築の特色として、軒下:軒を支える箇所の複雑な形があります。
その形で、これは〇〇時代、〇〇様式、これは△△様式・・などと説明されることが往々ありますが、こういう説明・案内に、建物に興味・関心のある人でも、イヤになることがあるのではないでしょうか。私自身も、学生の頃、そういう説明、そういう見方で見たり、説明・講釈を受けることは、「性に合わない」ことでした。


この軒を支える部分は、「いろいろな部材を組合せている」ところから、一般に、「組物(くみもの)」と呼ばれます。

これを、「〇〇様式云々」という見方ではなく、「建物をつくる、という視点」で見ると、理解の度合いがまったく異なってくるように私には思えます。
たとえば、建物の重さ:重力が、どのように地面まで伝わってゆくか、という視点で見ると、ものごとの見え方、理解の仕方がまったく違ってきます。
「建物をつくる」ということは、一に、力をどう受け止めるか、部材に伝えるか、にかかっていると言って過言ではありませんから、その見方で見る方が素直な見方だと私は思うのです。

人びとが建物をつくるとき、最初は、素朴・武骨なままに、つまり「きれい」かどうか、だとかは考えずに目的とするものをつくった筈で、そうこうしているうちに「なるたけ格好良く」と考える余裕がでてきて、つくり方も洗練される、それが大筋の発展過程と考えてよいでしょう。
その過程を経た後、これまたそうこうしているうちに、「なぜそうなったか」「なぜそうするのか」を忘れる時がきます。「形式化」「様式化」は、そこから始まる、と考えてよいでしょう。言うならば、「形式化」「様式化」は「因習」の一つなのです。


「組物」は一般の建物にはなく、寺院建築において見られることから、中国から伝来した屋根・軒先のつくりかた、と言えます(神社にもないわけではありません)。
そして、日本の古代の建物づくりは、この中国伝来・直伝の技術が、どのように吸収・変容を遂げたか、という視点で見るのがよいように思います。

すでに触れましたが、中国と日本では、同じ「木造」と言っても大きな違いがあります。その最たるものは、材料:木材の違いです。
中国では、日本とは違い、針葉樹が主ではありません。この「違い」は、技術の「吸収・変容」に大きくかかわるはずです。

今回と次回では、この「組物」について簡単に触れたいと思います。

◇ 「大斗 肘木(だいと ひじき)」

「組物」の最も簡単な方法は「日本の・・・-6」ですでに紹介した「法隆寺 東院・伝法堂」と「新薬師寺 本堂」で行なわれている「大斗 肘木」と呼ばれる方法です。上に図を再掲し、その部分の写真も載せました。
字の通り、「頭貫」で繋いだ「柱」の上に、「大きな斗」:「大斗」を据え、それで「虹梁(こうりょう)」を受け、それに直交して「肘木」を載せ、「桁」を架ける方法です。中国では、この「桁」に丸太:円形の材を使うことから、これを日本では特に「丸桁(がんぎょう)」と呼んでいます。
面白いのは、いつの間にか、この位置の「桁」を、角材であっても「がんぎょう」と呼ぶ「習慣」があることです(こういう「習慣的呼称」はきわめて多く、それがものごとを分りにくくしていることが、ままあるようです)。

この「大斗 肘木」方式を「力の伝わり方」で解釈すると、屋根の重さを「垂木」が受け、それは「垂木」を支える「桁」(「母屋桁」「軒桁」)に伝わり、それを「肘木」が受けて「斗」に伝え、「柱」を介して礎石・地面に伝わる、という行程をたどります。「東室」「妻室」の方法に比べ、「斗」「肘木」が中途に加わっていることになります。

   註 「肘木」を柱上に据えて梁・桁を受ける方法も「組物」と
      呼ぶようですが、これはおそらく、中国から伝来しなくても、
      工人たちの知恵として、昔から存在していた方法でしょう。
      柱の上で横材を自由に継ぐことができ、柱と柱の中間で
      横材:梁・桁が撓むのを防ぐのに有効であることは、早くから
      工人たちの間では知られていたと思います。

   註 古い建物では、「肘木」を舟型につくるため、一般に
      「舟肘木(ふなひじき)」と呼びます。
      「肘木」は現在でも有効に使われ、その例などを
      「・・・-4、5の補足」で紹介しました。

これらの建物は、当然、先の「東室」や「妻室」同様の架構、すなわち、「柱」上に「桁」を流し、「梁」を架け、「又首」あるいは「束」立てで「母屋桁」を通し「垂木」を架ける方法で建てることができます。それをあえて中国式の方法で建てるときに採られた最も単純な「形式」がこの「大斗 肘木」方式のつくり方と言えるでしょう。

軒先には、「垂木」が二段設けられています。これは、寺院建築ではどこでも見られる方法ですが、「軒を少しでも先に伸ばす」手立てと考えられ、同時に屋根の「反りをつくる」のに一役買っています。
下段の「垂木」は「地垂木(ぢだるき)」、上の「垂木」は「飛檐垂木(ひえんだるき)」と呼ばれます。

中国でも同様のつくり方をしていますから、これは中国伝来の技法でしょう。

なお、中国の書物(「中国古建築木作営造技術」)では、「垂木」は「檐椽(えんてん?)」、「飛檐垂木」は「飛檐(ひえん)」、そして「丸桁」は「檐檁(えんりん?)」と書いてあります。
ですから、「飛檐垂木」は、中国の名称に「垂木」を足して呼んでいたものと思われます。つまり、「たるき」は元々が日本語なのでしょう。

   註 「字通」「新漢和辞典」に、以下の説明があります。
      「檐(えん)」は「のき」「ひさし」、屋根の葺きおろした端。
      「椽(てん)」は「たるき」。家の棟から「檐」にかけ渡して
      屋根を支える木材。
      角材の「たるき」を「桷(かく)」、丸い「たるき」は「椽」。
      「飛檐」とは、「高い軒」、「飛宇」に同じ。

      なお、中国では、日本とは違い、長い材を得にくいため、
      「母屋桁~母屋桁」ごとに一本の垂木を架けるようです。
     
写真では分りにくいと思いますが、「新薬師寺」では「地垂木」が円形、「飛檐垂木」は角材、「伝法堂」では両者とも角材です。

その点では「新薬師寺」の方が中国方式に忠実のように見えますが、「梁行断面図」を比べて見ると、「伝法堂」のそれと大きく違うことが分ります。
「伝法堂」では、屋根の下を見上げて見える材:「地垂木」が実際に屋根を支えているのに対して、「新薬師寺」の屋根の下に現れている「地垂木」は、屋根を直接支えていません。下から見える「地垂木」の裏側に、実際の屋根を支える材が仕込まれているのです。
つまり、見えている材は「化粧」のためのものなのです。

このような場合、実際に屋根を支えている部分を「野屋根(のやね)」と呼び、その部分を構成する「垂木」は「野垂木」、「母屋桁」は「野母屋」と呼ばれます(現在でも、「垂木」の上に張り屋根を葺く下地になる板のことを「野地板(のぢいた)」と呼びますが、これも「野+地板」なのです)。

中国には、この「新薬師寺」型のやりかたを採る事例はないようです(少なくとも手許にある資料では見ない、ということで、あるのかも知れません)。
私の推量では、「新薬師寺」は、おそらく、日本で当たり前であった工法で「中国式の建物」をつくったのではないかと思います。
極端な言い方をすれば、「野屋根」方式を採れば、いかようにも形をつくれるのです。
実際、時代が下ると、「野屋根」方式は一般化し、実際に見える部分は「化粧」でつくるのが当たり前になります。上掲の「平 三斗(ひら みつど)」の事例に挙げている「法隆寺・大講堂」の断面図に見える「桔木(はねぎ)」の方法は、平安時代以降、普通に行なわれるようになる「野屋根」のつくりかたです。

架構は「野屋根」でつくり「外見は中国式を踏襲する」、これが一時期、日本の建物づくりの「主流」になります。

◇ 「平 三斗(ひら みつど)」

これは、上掲の図・写真のように、「大斗 肘木」方式の「肘木」の上に「斗」を3個横並べに据え、それで「桁」を受ける方式です。
平面上に3個の「斗」がある、というので「平 三斗」と呼ぶわけです。
この3個の小さな「斗」は、「巻斗(まきと)」と呼んでいます(なぜ「巻」の字を付すのかは、私には不明です)。

力の伝わり方は、「桁」の受けた力を、3個の「斗」で分散して「肘木」に伝えること以外は「大斗 肘木」方式と同じです。
ただ、同一線上に「斗」が並んでいますから、3個の「斗」すべてが力を受けるのではなく、そのうちの1個はかならず遊んでいる、と考えた方がよいと思います。
「桁」を3個の「斗」すべてに接するように加工し組むことは(つまり、接点が正確に同一線・同一面上に並ぶようにすることは)、現在でさえ、容易なことではないからです。

そう考えると、「平 三斗」は、おそらく「見えがかり」を考えての細工、簡単に言えば「格好良く見せる」ことを重視したものと見た方がよいのかも知れません。

◇ 「出 三斗(で みつど)」

この方法は、「大斗」の上に、一方向の「肘木」ではなく、十文字に組んだ「肘木」:「枠 肘木(わく ひじき)」を据え、その上に十文字に図のように5個の「斗:巻斗」を置き、これも十文字に組んだ「桁」と「繋梁」を受けるやり方です。
「斗」が建物前面に出ているところからの名称と言えます。

残念ながら「法隆寺東院 礼堂(らいどう)」の断面図が見つからなかったので、写真だけ載せました。

「平 三斗」方式では、軒先の重さで「桁」が前方に押出されやすかったようですが、「出 三斗」は、それをとめる効果があったと言います。
もっとも、この場合も、小屋裏に別途「野屋根」が組まれるのが普通ですから、多分、「見えがかり」を重視した「化粧」の意味が強かった、「中国」風に見せるための仕事に執着したのだと思われます。


ここで見てきた三つの方式は、「桁」の位置はあくまでも柱列の上ですから、軒の出を深くする、軒の高さを高くする、という点では大差はないと言えるでしょう(正確に言えば、「巻斗」の分、高くはなります)。
次回は、軒を深く出す方式、すなわち「桁」を柱列より前面に設ける方法について触れようと思います。


なお、「化粧」を重視するようになると、「形式化」が極まり、「見えがかり」の「組物」「地垂木」「飛檐垂木」は、構造的には意味のないまったくの「化粧」となり、細身になってきます。
このあたりは、何となく「書割り的」つくり方の「現代建築」を思い起こさせますが、これについてはいずれ触れようと思います。

今回の図版は、下記書籍から転載、組合せ等の編集を加えてあります。
なお、断面図の縮尺は、すべて、ほぼ同一にしてあります。
〇「奈良六大寺大観 法隆寺一」 〇「同 法隆寺五」 〇「同 東大寺一」
〇「日本建築史基礎資料集成 四 仏堂Ⅰ」
〇「日本の美術245 日本建築の構造」

次回へ続く

とり急ぎ・・・・再び、「喜多方・登り窯再生プロジェクト」案内

2008-09-16 12:01:59 | 煉瓦造建築

「喜多方・三津谷登り窯再生プロジェクト」が、いよいよ現場で動き出しました。

作業上の資料になるかもしれない、と考え、四半世紀ほど前の焼成時の記録写真を探しだし、現場の方々へお送りしました。
上の写真は、その一部。1984年10月の焼成時の写真です。

夜を徹して、約40時間の大変な作業です。しかし、壮観です。

なお、最上段の写真の屋根瓦は、この登り窯で焼成された喜多方独特の瓦です。写真の色は、ほぼ実際の色の通りです。素焼きに益子焼の灰釉をかけたもの。
この登り窯は明治末年の製作、屋根は大正に架けられたものでトラス組です。

中段の4枚は、焼成中の写真、夜と翌朝の状況。
窯から出ているのは、水蒸気。素地に含まれる水分が、熱せられ気化したもの。
この段階では、水蒸気の出ている窯には火がまわっていません。

下の写真は、焼成終了後、窯出しされた後の登り窯。


このプロジェクトの活動の今後の具体的な日程等も載せましたので、関心のおありの方は、「喜多方市観光協会」(0241-24-5200)、または「NPO法人 まちづくり喜多方」(0241-24-4541)へ連絡してみてください。

また、「案内ポスター」を載せた先回の紹介記事は下記参照。
「とり急ぎ・・・・『喜多方・登り窯』再稼動の案内」

日本の建物づくりを支えてきた技術-7の補足・続・・・・「頭貫」の納め方の変遷

2008-09-13 11:21:10 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言追加 17.47]

鈴木嘉吉著「古代建築の構造と技法」のなかに、最初は柱頭に落し込むだけであった「頭貫」が、「柱」に確実に固定する方法に変ることを、「法隆寺」内の建物の例で紹介されています。上の図がそれです。
詳しく建設年代と照合はしていないのですが、多分、時代順と考えてよいのだと思います。
おそらく、単に落し込んだだけでは、「頭貫」が柱頭からずれ落ちる、などの事例が多発したからではないでしょうか。
この変遷には、当然、道具の変化もともなっていると思います。

この変遷は、当初は単に「壁」の「上枠」:「框」にすぎなかったものが、仕事を続けるうちに、構造部材の一つとして扱われるように変ってきたことを示しています。
つまり、「技術」が進展する過程と、「技術」の進展には「現場での経験と思考」が不可欠である、ということをも示しているのです。[文言追加]

それにしても「頭貫」にこだわり続ける、というのは、「寺院の形式」にこだわったからなのでしょうか。

①は、単純落し込み。「柱」に固定されない。
②は、「合い欠き(相欠き)」釘止め。このあたりから「柱」への固定を考えだすようだ。
③は、いわば「渡腮(わたりあご)」様の方法、さらに釘を打つ念の入れよう。
④は、基本は「合い欠き」。材同士に「鉤型」をつくりだし引っ掛け、「栓」を打つ。「柱」まで「栓」が届いているのか?
⑤は、「柱」に一筋の凸部をつくりだし、「頭貫」側に彫られた同型の凹部をはめこむ。「柱」と「頭貫」はがっちりと組まれる。「頭貫」相互には「継手」を設けていない。「柱」を介して「頭貫」が継がれた恰好。
⑥は、④と⑤を併用する方法。
⑦⑧は、「頭貫」の中途を「柱」に固定する方法。

続き
コメント (1)

日本の建物づくりを支えてきた技術-7の補足・・・・長押の実例

2008-09-12 12:47:12 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

先回載せられなかった「法隆寺東院 伝法堂」「東大寺 法華堂」「唐招提寺 金堂」の「長押」を、写真と図で紹介します。
「伝法堂」の部分詳細図では「長押」がどのように取付いているかが分ります。

なお、当初は「柱頭」に落し込むだけであった「頭貫」は、時が経つにつれて、柱に固定するように変っていったようです。
その変遷の解説図が、鈴木嘉吉氏の「古代建築の構造と技法」に載っています。今回は紹介できませんので、補足-2として、次回紹介したいと思います。


蛇足:近時片々 [文言追加16.36]

先日、このブログに対して、ある人から、「惜しげも無く展開される情報の質にいつも驚いております・・・」旨の「評」をいただきました。
どういう意味なのか判然としなかったのですが、同様のことを別の方も言っていた、との話を聞き、少し分ってきました。
つまり、「知っている、あるいは新たに知った情報」は、「独り占め」にしておけば自分を他から「差別化」できるではないか、「それなのに、あけっぴろげに出してもったいない」ということのようなのです。

私は、その昔から、「『情報』を独り占めしたがる人たち」を身のまわりでたくさん見てきました。
しかし、それで何か「いいこと」でもあるのでしょうか。「差別化」して、売り込んで何がいいのでしょう。
大体いつまでその「差別化」を維持できると考えているのでしょうね。

私が江戸時代に興味を示すのは、どうも、人びとはそういう「差別化」には興味がなかったように思えるからです。
今の世なら「専門家」と呼ばれるであろう人はたくさんいました。
しかし、皆、その「専門知識」を、自分の「地位の維持」のために使う、などということには執着していないように思えるのです。
皆がそれぞれの「知識」「知恵」を「あけっぴろげ」にしているように思えます。それこそ、流行の言葉で言えば「情報の開示」です。
開示した情報をどのように他の人が使うかは、「使う人の裁量」です。ですから、何も「独り占め」にして置く必要を感じなかったのではないか、と思います。
第一、「あけっぴろげ」にしてその人の「価値」がなくなってしまうような、そんな「専門」は「専門」でもなんでもないのです。
そして、そうだからこそ、いろいろな情報を、皆が皆、共有できたし、いいもの、わるいものを自ら判断することができたのだと思います。

これは、今の世とは格段の差があります。
今は、皆、自らの判断を停止し(自らの思考を停止し)「偉い人」の判断に依存し、「偉い人」の言いなりになってはいませんか。
「偉い人」をますます「偉く」させてしまっていませんか。それは、「法律」にまで及んでいます。「法律」が「思考の基準」であるかのようになってしまった・・・!「建築関係の法令」など、そのいい例です。[文言追加]

もちろん、江戸時代にも、今の世で「秘伝書」「門外不出の極意書」などと呼ばれる書き物がありました。しかし、なかみは、いわばメモです。アンチョコです。
それが世にばれたところで、どうということはありません。
それを「門外不出・・・」などと言い出したのは、近代になってからではないのでしょうか。近代人の思考法の裏返しです。

少なくとも日本の近代は、「狭隘な専門」こそ「専門」だとして推し進めてきました。福沢諭吉の「一科一学」の「思想」の結果です。
つきつめれば、「惜しげも無く・・・」という「発想」の根源も、その「思想」に行き着くはずです。

私は、それぞれの人が仕入れた、そして知っている「情報」は、隈なく公開すべきだ、と考えています。「情報」を知っている、あるいは「持っている」人が独り占めしても何の意味もない、まさに「宝の持ち腐れ」、むしろ、「公開」して共有し、論議をし、より意味のある「情報」として育ててゆくことこそ大事だと思うのです。
そして、そうなれば、世の中は今よりも数等明るくなる、と思っています。

以上、この機会に、「蛇足」を書かせていただきました。

次回へ続く

日本の建物づくりを支えてきた技術-7・・・・礎石建ての問題点:その対応策

2008-09-10 10:42:49 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[図版の作成に手間取り、間が空きました]

中国の「仏光寺」を見ると、「軸部」が単純なのに対して屋根部分が複雑なのが目に付きます。
あの軒先の「煩雑さ」は、日本だと鎌倉時代以降、特に禅宗の寺院で見られる程度で、奈良時代にはないと言ってよいでしょう。
それゆえそこで、疑問が湧きます。疑問を抱いた方もあるかと思います。
はたして、9世紀半ばに建設されたそのままの姿なのか?

残念ながら、建設から現在に至る間の「履歴」が分りません。「図像中国建築史」や他の書物でも、その点が分らないのです(中国語を読めれば、文中のどこかに書いてあるのかもしれませんが、少なくとも図や年表等では載っていません)。

多分、「軸部」だけそのままで、「小屋」は後世架け替えたと考えた方が納得がゆきます。「頭貫」「斗」「肘木」方式は、軸部はそのままにして「斗」から上だけ替えることができますから、その可能性が十分あると思うのです。

◇ 「新薬師寺本堂」と「法隆寺東院・伝法堂」

さて、「普通の」日本の奈良時代の建物としては、「法隆寺東院・伝法堂」「東大寺・法華堂」が分りやすいのではないかと思います。ともに架構が明快だからです。
この「新薬師寺本堂」とこの二つの建物を観ると(さらにこれに「唐招提寺 金堂」を加えると)、中国伝来の技術が、どのように日本で消化・吸収されていったのかが分るように思います。

今回は、「法隆寺東院・伝法堂」を見てみます。
上に、「平面図」「立面図(正面図、側面図)」「断面図(梁行、桁行)」「天井見上図」、柱頭の「仕口」の「分解図」と各部の「写真」を載せました。
いずれも「日本建築史基礎資料集成 四 仏堂一」から転載し、文字等を追加しています。

この建物では、「新薬師寺本堂」同様、中国の方法に倣い「頭貫(かしらぬき)」を据える方法を採っています。
ただ、「新薬師寺 本堂」と異なるのは、「立面図」で分るように、桁行面:長手の面、つまり正面:の「柱の外側」の、柱頭部(「頭貫」の下の位置)と柱脚部(礎石より上、床の位置)に、別の横材があることです。「柱」の外側に取付けてあるので、その水平線が目につきます。
この材を「長押(なげし)」と呼び、中国の建物には見られない部材です。

奈良時代以降、鎌倉時代までの寺院の建物には、この「長押」がかならず付けられたと言っても過言ではないのですが、「伝法堂」は、「長押」を付けるようになった初めの頃の建物と考えられます。

◇ 「頭貫」の効能:予想外の役割

中国の寺院建築を紹介したとき、私の推量として、「頭貫」を柱頭に据えるのは、「壁体」を先につくる「土の建築」の方法を引きずっているのではないか、と書きました。
木材を併用して壁をつくり上げるために、「枠」を先行し、そこに詰物をして先ず壁をつくる、という考えです。

先に紹介した「東室」「妻室」のような木造の「普通のつくりかた」でも、「柱」「梁・桁」と「地覆」でつくられる「枠」の中に詰物をして壁をつくります。この場合、「梁・桁」は「壁の上枠」:「軸組の一部」でもあり、同時に「小屋組の一部」でもあります。言わば「共用」していると言えるでしょう。
しかしこれは、あくまでも木造主体のつくりかたの考え方。壁主体の「土の建築」に慣れた人びとは、「先ず壁だ、屋根は後で別途つくる」、と考えるわけです。

しかし、日本の人びとは、中国式の先ず「頭貫」を柱頭に落し込む工法に、「予想外の利点:役割」があることに気付いたのではないでしょうか。

「礎石」の上に「柱」を自立させることは容易でないことは以前触れました。
「折置」や「京呂」で「梁・桁」を架ければ一定程度安定させることができますが、そうなるまでが大変です。「柱」を倒れないように維持しなければならないからです(寺院の「太い柱」は、一般の「細い柱」に比べれば自立させやすいとはいえ、一旦倒れてしまったら立て直しが大変です)。

ところが、「梁・桁」を架ける前に「頭貫」を据えると、「頭貫」は「柱頭」に落し込んであるだけで「柱」相互を力強く繋いでいるわけではありませんが、「柱」相互を「仮止め」する効果は十分にあると考えられます。
「仮止め」しておいてから、おもむろに「小屋組」の工程に入ればよいのです。建てている最中に地震でもないかぎり、柱列は無事に立っていられるでしょう。

さて、建物の「上屋:母屋・身舎」の四周の柱に「頭貫」が据えられ、「上屋」の直方体の外郭:稜線が見える形になります。
同様に「下屋:廂・庇」の「柱」も「頭貫」が据えられ、南北二面の外郭ができあがります。
ただ、「伝法堂」は「二面廂」型で切妻屋根ですから、東西の妻面では、「側面図」で分るように、「下屋」の柱:「側柱」の「頭貫」は、妻面では「上屋」の柱:「入側柱」の中途へ差してあります。こうしないと、「下屋」の柱列が安定しないからです。
多分「入側柱:上屋の柱」への取付き:「仕口」は、単純に「大入れ」になっているだけと思われますが、「仮止め」としては役に立ちます。

◇ 「斗:大斗」の役割

こうしてできた建物の軸部の外郭線:稜線の上に「桁」なり「柱」なりを直接載せることもできるでしょう。
「分解図」で分るように、「斗」を載せるための「太枘:ダボ」を「頭貫」上に植えていますが(「法隆寺金堂」では、柱に植えています:下註参照)、これを「梁」「桁」の固定に使おうと思えば使えるはずだからです。

   註 「日本の建物づくり・・・・技術-6・・・・初期の寺院建築」

では、なぜ「斗:大斗」を介する方法を採るのでしょうか。

一つには、単に中国方式に倣ったまで、とも考えられますが、次のようにも考えられるように思います。
すなわち、「斗」を介することは、水平を確保するために有効な工法である、ということを発見したのではないか、ということです。

「梁・桁」を水平に据えるためには、柱の頂部が同じ水平面上にあればよいわけですが、そのように柱を据えることは容易ではありません。礎石の上で、しかも柱の太さが太ければなおさらです。
しかし、各柱の上に載せる「斗」で高さを微調整することなら、数等簡単な筈です。「頭貫」の天端が水平でなくても「斗」で調整できます。
日曜大工では「飼いもの」で寸法調整をするのはよくやりますが、言わば「斗」がその代りをしてくれるのです。

私は実際に実測をしたことがないので分りませんが、おそらく、「斗」の大きさ:高さは、すべてが同じではないと思います。

◇ 「斗」+「梁」+「肘木」+「桁」の予想外の「効能」と「問題」

「肘木」を介して「桁」を受ける、という方法は、「桁」の太さ:断面を小さくできる上に、「継手」を「肘木」上に設けることができる利点があることは、前回触れました。
「東室」「妻室」の「桁」と「伝法堂」の「桁」を全体の架構の中で見てみると、後者の方が相対的に細いことが分ります。「東室」の「分解図」(下註:両方に同じものを載せてあります)をご覧ください。

   註 「日本の建物づくり・・・・技術-4・・・・礎石建て・1:原初的な軸組」
      「日本の建物づくり・・・・技術-5・・・・礎石建て・2:原初的な小屋組」

「梁行断面図」で見るとおり、「伝法堂」では、「桁」と、「垂木」を受ける「母屋」とが同じ寸法です。「東室」では、「柱」上にかぶさるほどの大きさです。
「伝法堂」の外観を見ると、「頭貫」があるので「桁行」方向にもしっかりとした横材が組まれているように見えますが、「桁」自体は決して大きくないのです。

同時に、この方法では、先の「法隆寺東室」「妻室」のような「普通の木造のつくりかた」に比べると、「部材と部材の接点」の数が格段に増えます。

「普通の木造のつくりかた」の場合、たとえば「法隆寺東室」「妻室」では、「接点」は、「柱と桁」「桁と梁」の2箇所です。しかし、「伝法堂」では、「柱と頭貫」「頭貫と大斗」「大斗と梁」「梁と肘木」「肘木と桁」が「接点」になります。
各「接点」では、部材同士の組合せ部に微妙な「逃げ」が生じます。まして、工具が未発達な段階では、この「逃げ」の大きさは、結構大きなものだったと考えられます(現在の仕事では、特に機械加工になってからは、「逃げ」はほとんどありません)。
けれどもこれは、架構を整形につくる微調整にとって有効だったと思われます。多分これも予想外のことだったのではないでしょうか。

   註 茨城県取手市にある室町時代建立の「竜禅寺 三仏堂」の
      解体修理の現場で「斗」を見て、その言わば「粗い」加工に
      驚いたことがあります。
      しかし、部材が全部組まれれば安定するのです。

さらに各「接点」に「逃げ」があるということは、架構の多少の「揺れ」は吸収してしまう、という効果があることも、多分知ったと思います。
すなわち、「揺れ」によって各「接点」も動きますが、その動きが次の部材に伝わるとき、「逃げ」がある分、消されてしまう、つまり相殺されてしまうからです。

ところが、「揺れ」の大きさが大地震によって生じるような大きさだと、つまり「逃げ」の大きさを超えた動きを生じると、柱頭を繋いでいた「桁」は、「桁」の寸法:太さが相対的に小さいため、「繋ぎ」の効果を失い、柱列は倒れてしまうでしょう。それゆえ、ことによると、大きな「揺れ」「動き」に対しては、「東室」や「妻室」のような「普通のつくりかた」に比べて弱かったのではないでしょうか。

◇ 「長押」の発案

つまり、この「接点」の多い工法は、小さな「揺れ」「動き」に対しては対応できる利点がある一方で、「微調整の範囲」を超える大きな「揺れ」「動き」に対しては弱く、倒壊する例も多発したようです。簡単に言えば、地震に弱かった。

そして、この弱点を補うために考え出されたのが、先に触れた「長押(なげし)」だったのです。すでに触れたように、この部材は中国にはありません。

すなわち、「長押」は、日本ではあたりまえの地震に対して、中国様の方式で建てた建物の四周に「たが」をまわして対応しよう、という発想です。この「たが」は、外周の「柱列」の内側にも設けられ、「柱」を挟んでいます。
別の見方をすれば、柱頭を結んでいる「桁」の脆弱さを、「長押」で補う工夫と言えるでしょう。特に、柱頭部、「頭貫」の下端あたりの「長押」は効果的だったと思います。

先回見たように「新薬師寺本堂」には、「長押」らしい「長押」はありません。そして「伝法堂」では、「柱頭」と「柱脚」に2列設けられますが、妻面は「柱脚」だけです。「東大寺法華堂」では各面に2段設けられています。
「唐招提寺金堂」では、腰の位置にも加えられ、都合3段の「長押」がまわっています。当然段数が多い方が架構を倒れにくくする効果も上がります。

以後しばらくの間、「長押」という部材は、日本の建物の架構上の構造的な「必需品」となります。

ところが、この「長押」は、別の「効果」を生みます。

「柱列」の外側に「長押」を回すと、「長押」の線が「柱」のもつ縦方向の動き:垂直性を弱め、自ずと水平線が強調されます。
そして、この「水平」の強調が、日本の人びとの美意識に適ったようです。
奈良時代以降、寺院建築などでは「長押」を設けるのがあたりまえになりますが、それは、「架構の補強」の意味ももちろんありますが、水平線を強調する、つまり「建物を横広がりに見せる:地面に屹立するのではなく、地面に泰然として座るように見せる」ためでもあったようです。

そしてそれは、いつの間にか日本の建物の「特徴的形式」であるかのように理解されはじめます。そして、「長押」が構造的な意味を失った後世でも、そして現在でも、「和室」の「形式」の一つとして、鴨居の上に「長押」をまわす「習慣」として継承されています(飾り:化粧のための「長押」ゆえに、「付長押(つけなげし)」と呼びます)。 

◇ 「伝法堂」の柱頭部の仕口、継手の詳細

「分解図」と解体時の部材などの写真を「文化財建造物伝統技法集成」より転載させていただきました。文字等を追加してあります。

また、「分解図」には、「伝法堂」の「桁」の「継手」:「鎌継ぎ」の詳細を、各部の寸法が分るように、拡大して追加してあります。

8月20日の「東室」の紹介で載せた「鎌継ぎ」は、「鎌」の先端が「方形」でしたが、ここでは、「矢型」につくられています。

   註 前記註で挙げた「・・・技術-4」を参照ください。 

「鎌継ぎ」は、古い時代のものは「方形」のようです。それが、使われているうちに「矢型」に変ってきます。これは、「方形」だと、鎌の部分が割れて飛んでしまう、つまり「継手」の役を果さなくなってしまうことを知ったからだと考えられます。

これは、材料(この場合は「桁」)の長手方向に「引張ったり押したりする力」が加わったとき(この力は、材料を「曲げたり反らせたり」するときにも生じます)、「鎌」の「首」の部分から飛び出している「方形」の両脇部分が押されたり引張られたりして、木目に沿って割れてしまうからです。
しかし、先端を「矢型」にすると、長手方向に引張ったり押したりする力は、矢型の斜面のところで、「斜面に平行な力(斜面を滑る力)」と「直角の方向の力(斜面を押したり、引いたりする力)」とに分れ、飛びだした部分を割る力は減ってしまうのです。

今ならばここで書いたように「力のベクトル」「力の分解(と合成)」で説明しますが、当然当時は現場での「経験の積み重ね」で得た「知恵」だったのです。先端を斜めにする(「矢型」にする)と、「鎌」が飛んでしまう:割れることが減るぞ、という経験が、「知恵」となり「技法」になったのです。

というより、そもそも「力学」は、こういう「現場の知恵」が先ず存在し、「それはなぜなのか、を考えること」から誕生したのが本当のところなのです。
「力学先ずありき、ではない」ということです。

   註 現在は、とかく、「日常的な経験」よりも「学」が先行します。
      あるいは、「日常的な経験」を蔑視さえします。
      そしてまた、「日常的な経験」の機会さえ少なくなりました。
      あるいは、そういう「経験」自体も蔑視されます。
      そういう「直観的理解」は不要だ、という考えがはびこっています。

「鎌継ぎ」は、古代から存在する最も簡単な「継手」と考えてよいでしょう。
ところが、現在では、町場の仕事を見てみると、この最も原初的な「継手」ではなく、「蟻継ぎ」で済ませている例が増えています。
「蟻継ぎ」は、材料の先端部に「バチ型」の凸部をつくり、相手に同型の凹部をつくってはめる継ぎ方です。
これは、材料を直交させる(たとえば角材と角材をT型に組む)ときに使う「仕口」としてはよく使いますが、「継手」としては、使えなくはないですが、「上等」ではありません。それが証拠に、古代には滅多にないはずです。

「分解図」は、解体された部材の写真を照合してご覧ください。

次回
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日本の建物づくりを支えてきた技術-6の補足・・・・中国・仏光寺:追加

2008-09-04 08:20:07 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

先回載せられなかった中国「仏光寺 大殿」の写真と「梁行断面図」、参考のために「中国主要部地図」、そして現在の「肘木」の利用例の写真を補足します。

「全景写真」は、どのような地理的・地形的環境に「仏光寺」が在るのか、伝えてくれます。
周辺の山々は、一般的な「黄土高原」の山々同様、日本のような植生ではなく、むしろ禿山に近いと言ってよいでしょう。
また、「伽藍」も整形ではなく、いわば地形のままに建っているようです。

「大殿」の近景を見ると、営繕が十分に行われていないように見受けられます。それはそれとして、各所の壁は、煉瓦積(多分焼成煉瓦)でつくられていることが分ります(煉瓦目地が見えています)。

また、今回の「梁行断面図」、先回載せた「桁行断面図」の一部に、木造の軸部を埋めて壁がつくられている箇所がありますが、これも煉瓦積と考えてよいでしょう。
こんな所にも、中国では「土の建築が基本である」ということが、よく表れているように思います。

断面図の分厚い築地塀のような煉瓦積の壁の上部に「角材」が流れていますが、これは、木造軸部の「頭貫:闌額」です。
木造部を組んだ後、「頭貫:闌額」下に「煉瓦壁」を詰め込む、という工程を採っていると考えられます。これは、喜多方の「木骨煉瓦造」のつくりかたと同じです。

なお、正面の木造部では、「柱」「頭貫:闌額」「地覆」でつくられる「枠」の中に、もうひとつ「枠」(図では「門額」となっています)を設けて建具を入れています。このあたりは日本とは違います。


「隋」「唐」の栄えた地域を知る参考のために、中国の現在の地図を載せました(「最新基本地図:2008」帝国書院刊より転載、編集)。中国古代は、黄土高原上で栄えたことが分ります。

下段の写真は、「肘木」の現在の利用例です。「肘木」の上で継ぐことができるため、「桁」材は、長いものを使わずに済んでいます。


次回

日本の建物づくりを支えてきた技術-6・・・・初期の寺院建築

2008-09-02 10:41:48 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[少し間が空いてしまいました][節の題名新設:9月3日 2.11]

先々回と先回とで、木造の「原初的な段階」の「軸組、小屋組」、つまり「柱」「梁」「桁」「又首」そして「垂木」で架構をつくる方法について書きました。
また、「梁」と「桁」の架け方には二通りあり、「梁」を先行して「桁」を載せる方法を「折置組」、「桁」を先行して「梁」を架けるのを「京呂組」と呼ぶことにも触れました。例として挙げた寺院の付属建屋:「法隆寺 東室」「同 妻室」は、ともに「京呂組」です。

いずれにしても、「棟木」は、現在では普通の「束柱」による方法ではなく、「又首」によって支える、という方法が採られていたのです。

事例は存在しませんが、古代には、おそらく一般の建物も同じような方法だった、と考えられます。これは、現存する住宅遺構を見ても、同様な過程をとっていることからの判断です。


◇ 寺院建築と神社の建築

中国から移入された仏教のための寺院建築は、架構法にも中国の影響を大きく受けます。
しかし、神社の建物:「社殿」では、「柱」「梁」「桁」「又首」そして「垂木」で架構をつくる単純な方法は行なわれ続けます。

神社の「社殿」には、その形式に、いくつかの系統があるようですが、上掲の図版の上段は、その内の「出雲大社」系列と「伊勢神宮」系列の例です(ただ、「出雲大社」は何度か改築されていますから、ここでは「出雲大社」の古式を伝えているとされる「神魂(かもす)神社本殿」を例に挙げています)。

   註 私は、残念ながら、今もって出雲大社を訪れていません!

図で分るように、これらはともに、「梁」を先行設置する「折置組」となっています(「神魂神社本殿」では、「桁」にあらためて「梁」を架け、「束立て」で「棟木」を受けていますが、この部分は天井で隠されています)。

◇ 単純な架構の寺院建築

古代の仏教寺院の最も簡単・単純な架構法を分りやすく見せてくれるのが「新薬師寺 本堂」の建物です。
上に、「日本建築史基礎資料集成」から、「正面(南面)の写真」と「正面立面図」「桁行断面図」「梁行断面図」を転載させていただきました。

先に紹介した「原初的な架構法」との大きな違いは、部材に「頭貫(かしらぬき)」「斗(ます)」「肘木(ひじき)」という部材が別途加わっていることです。
なお、この場合の「斗」は、「大きく、基本となる斗」であることから「大斗(だいと)」と呼ばれます。

作業の工程は、
①「柱」を立て、「柱」と「柱」の間に、角材の「頭貫」の上端を「柱」の頂部:上端に揃えて落とし込み
②「柱」頭部に「斗:大斗」を据え
③「斗:大斗」に「虹梁(こうりょう)」を架け
④「虹梁」先端、「柱」の直上位置に「肘木(ひじき)」を「渡り腮」で載せ
⑤「肘木」で「桁」を受ける
という順序になります。

「原初的な架構法」の場合は、「桁」までが一面の壁になりますが、この場合は、壁は「頭貫」下と、「頭貫」上の小壁の二つに分かれることになります。
なお、壁の下部の見切りになっている材は「地覆(ぢふく)」と言い、一見「土台」のように見えますが、そうではなく、「柱」と「柱」の間に後入れされる材です。

「頭貫」は、「貫」という字がありますが「柱」を貫いているわけではなく、いわば、「柱」と「柱」の間に落とし込む形になっています。
上に、「法隆寺 金堂」と「法隆寺 東院 伝法堂」の「頭貫」の「柱」への仕口の図解を載せました。
「法隆寺 金堂」の分解図では「隅柱」への「頭貫」の納め方、「伝法堂」の図では「頭貫」の「継手」(「合い欠き、大栓打ち」)が示されています。

「新薬師寺 本堂」でも、同様な方法が採られていると考えてよいでしょう。

なお、「斗」は、「金堂」では「柱」上の「太枘(だぼ)」で、「伝法堂」では「頭貫」上の「太枘」で取付けています(「伝法堂」の場合、「継手」の「大栓」頭部も併用しているようです)。

◇ 中国の寺院建築

比較のために、「図像中国建築史」(中国建築工業出版社、1991年初版)から、中国の寺院建築の部材名称と中国現存最古と言われる「山西 五台山 仏光寺 大殿」の図面を載せました。

   註 「山西 五台山 仏光寺 大殿」は9世紀半ばの建立。
      奈良時代の日本に影響をあたえた時代の遺構はなく、
      また、資料もないようです。
      日本の修理工事報告書の「実測図」にあたる図面が、
      あるのかどうかも不明です。

上掲の部材名称の解説図によれば、「頭貫」に相当する部材の名称は「闌額(日本読み:らんがく)」となっています。「闌」は「欄干」の「欄」と同義のようです。

『字通』(白川静著)によると、「闌(らん)」「額」の意味は次の通りです。
「闌」:「柬(かん)」は、固く嚢(ふくろ)の上下を括りとめる形。
     [説文]に「門の遮りなり」とあり、門にわたして出入を遮る木を言う。
     ⇒門にさしわたす木、しきり、かまち(框)。

   註 框(かまち):門や窓の枠組み。

「額」:①ひたい ②高くめだつところに標識とするもの、がく(額縁)

それゆえ、「闌額」は、「高いところで目立つ横木」と言ったような意味でしょう。あるいは、額縁のごとき「枠」の意かもしれません。
なお、解説図には、「闌額」の英訳として lintel と書かれています。
lintel に相当する語は「まぐさ:楣」です。
『字通』には、「楣」:①のき、ひさし ②はり、門の横ばり、まぐさ、とありますから、「高いところで目立つ横木」とほぼ同様な意味になります。

また、壁の下部の見切り材「地覆」にあたる材は「地栿」となっています。多分「地覆」と同じような意味だと思われます。

◇ 「頭貫」「斗」「肘木」を必要とした理由:中国建築の特性
 
では、なぜ、直接「柱」に「梁」または「桁」を載せるのではなく、「頭貫」を設け、「大斗」を据え、「肘木」を載せ「桁」を受ける・・・・という工程を採るのでしょうか。

その理由について、私の学習不足かもしれませんが、いまだかつて聞いたり読んだりしたことがありません。


以下は私の推量です。

古代日本が学んだ中国文化は、「隋」「唐」の文化が主体です。
「隋」は581~619年、「唐」は618~907年、「長安(ちょうあん)」の地を都として繁栄しました。「長安」は現在の「西安(せいあん)」。

「隋」「唐」は、現在の中国とは異なり、中国大陸内陸部を中心にしています。
「西安:旧長安」は「陝西(せんせい)省」にあり、西は「敦煌(とんこう)」のある「甘粛(かんしゅく)省」、「五台山仏光寺」のある「山西(さんせい)省」は、「陝西省」の北東に位置します。
世界地図を見ていただくと分りますが、これらの地は、いずれも、黄土高原のいわば台地上にあります(この台地を、黄河に沿って東に下れば、広大な平坦地が広がることになります)。

ということは、建物づくりにおいては、「隋」「唐」は、日本のように木造建築が主体ではなく、「土の建築」と「木の建築」が混在する地域だった、ということです。
そして、その比率は、どちらかと言えば、「土の建築」が主体である、あるいは、建物づくりは「土の建築」が基本で、それを補う形で「木」が使われた、と考えた方がよいのかもしれません。
簡単に言えば、「土」で主要部をつくり、「土」ではつくりにくい箇所を「木」でつくる方法です。

しかも、中国の木は、以前に少し触れましたが、日本のような針葉樹が主体ではなく、楊樹のような比較的柔らかな、しかし弾力性のある広葉樹が主体です。

なお、ここでいう「土の建築」とは、以前「earth construction」で紹介した、「版築」「日乾し煉瓦:adobe」「焼成煉瓦」による建物づくりのことです(下註参照)。

   註 「煉瓦造と地震-1・・・・“earth construction”の解説から」
      「煉瓦造と地震-2・・・・“earth construction”の解説から」

「土の建築」の基本は、先ず、建物の外郭となる「壁」を「土」あるいは「土の加工品」でつくることです。そしてそれに「屋根」を架ける、これが一般的な方法と言ってよいでしょう。
「屋根」は、得られるならば、「木」でつくります。その方が容易だからです。
この点については、簡単に下記で紹介しました。

   註 「分解すれば、ものごとが分かるのか・・・・中国西域の住居から」 

   註 「木」が得にくい地域では、「土」(土の加工品を含む)だけで
      屋根をつくる方法(ヴォールトやドーム)が生まれます。

このような建物づくり:「土」の構築法を身につけた人びとが「木の建築」に、つまり、「木」が主体の建物づくりに立ち向おうとしたとき、人々は先ず何をするでしょうか。
おそらく、先ず、「土の壁」に相当する「木を用いた壁」をつくることを考えるに違いありません。
これは、日本人にしてみれば、「常識外」な対応です。だから、多分、想像できないに違いありません、

その方法は、先ずはじめに「木」で「枠」をこしらえ、「枠」の内側に「土」や「煉瓦」をつめる方法です。つまり、日本で言えば「真壁」です。
こう考えれば、「柱」の上下に横木を渡して「枠」をつくる、つまり「柱」と「闌額」:「頭貫」と「地覆」とで「枠」をつくるのは、ごく自然なことなのではないでしょうか。

そして、「斗」で「梁」を受ける、というのも、「土の建築」で、壁の上で「木」の「梁」をどのように受けて固定するか、を考えたとき考案されたのだ、と思われます。
相手が「土」の壁のときは、「木」の「梁」は、端部を「壁」の中に埋め込んで固定するのが簡単な方法です。
けれども、「煉瓦」ではきれいに納まりますが、「版築」ではかならずしもきれいには仕上がらず、見栄えもいいとは言えません。

   註 喜多方の煉瓦造建築の内、組積造では、トラス梁を
      煉瓦壁に埋め込んだ「枕木」で受けています(下記参照)。
      「『実業家』たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-1」

「梁」を「土の壁」に埋め込まず、見栄えよく据えるには、「壁」の上端に、「梁」を受けるための「用意」をする必要があります。
一つは「壁」上に「土台」様の「木」を流す方法ですが、それには「直材」、まっすぐで曲がりや反り、捩れのな木材が必要になります。
これは日本だったら容易なことで、多分そうすると思います。しかし、楊樹の使用の多い中国では容易なことではありません。直材が簡単には得られないのです。

もう一つの方法は、「梁」を架ける所にだけ「受け台」を「土の壁」の上に据える方法です。これならば簡単です。
そして多分、これが「斗」の考案に連なったのだ、と思います。

では、「斗」を据え、「梁」を「斗」に架けた後、「梁」に直接「桁」を載せずに「肘木」を置くのはなぜでしょうか。
これも、中国の主要木材:柔らかく反りやすい楊樹の「梁」・「桁」(多くの場合、丸太のまま使っていたようです)を、なるべく反らないようにするために生まれた工夫と考えられます。

反りやすい木材で、反りが生じないようにするには、太い材料を使わなければなりません。
しかし、「桁」を、「点」ではなく、つまり、「梁」との「交叉点」だけではなく、「肘木」上の、より広い「線」上で支持すれば、相対的に太い材料にしなくて済みます。
別な見方をすれば、「肘木」は、支持点で「桁」に方杖を設けるのと同じ効果がある、と考えることもできます。

おそらく「肘木」も、現場での経験の積み重ねの中から行き着いた工夫・発案だと思われます。

そしてなによりも、「肘木」の優れた点は、「肘木」の上に「継手」を設けると、簡単な「継手」で、安心して継ぐことができ、しかも見栄えもよい、ということです。
端部に何の細工も施さない切りっぱなしの2材を、「肘木」に「太枘(だぼ)」で取付け、「突き付け」のままでも継ぐことができます。「肘木」がいわば「副木:添え木」の役割をしてくれるからです。
また、「肘木」の上で継ぐと、外からは、一見したところ、「継手」があるのかどうか、分りません。

なお、「肘木」は、現在でも、有能かつ簡単な架構法として使うことができます。

◇ 中国の木造建築と日本の木造建築

すなわち、以上のように、「土の建築」の構築法の延長上で「木の建築」を考えた、これが「中国の木造建築」だった、と考えると納得がゆくのではないか、と私は考えています。

これに対して、日本はもともとが「木の建築」の地域ですから、人びとは、「土の建築」を発祥とする中国の「木の建築」の技術を、ただ単に鵜呑みにするのではなく、日本なりに消化・吸収・変貌・発展させていった、と考えることができるでしょう。

◇ 「新薬師寺本堂」は中国建築の姿を伝えている

さて、中国建築の「部材解説図」に書かれている建物の正面、そして「仏光寺 大殿」の正面は、「頭貫」上の複雑な軒先部分を除けば、「新薬師寺 本堂」の正面にきわめてよく似ていることに気がつくと思います。

「新薬師寺 本堂」の特徴は、奈良時代の多くの建物にある「長押(なげし)」がなく(出入口の部分にだけ、扉取付け枠として「長押」様の部材が付いています)、「地覆」から「頭貫」までが一面の壁であることですが、それはそのまま中国の普通の寺院の壁なのです。
また、屋根の勾配は、他の奈良時代の建物に比べて緩く、それも「中国風」を思わせる原因だと思われます。

◇ 次回へ向けて

屋根の部分、そして、日本で独自に生まれた「長押」の発生理由などについては、次回以降に触れます。なお、屋根のさわりと、新薬師寺の簡単な紹介を下記でしています。

   「新薬師寺・・・・山の辺を歩く」

「山の辺」は、都市化が進んだ奈良のなかでも、まだ昔のおもかげを残しています。そしてこれから、「新薬師寺」の境内は、萩が見ごろになります。
「東大寺」から「春日大社」を経て森の中を歩くと、「新薬師寺」は意外と直ぐです。

次回に続く