建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

建物をつくるとはどういうことか-5・・・・「見えているもの」が「自らのもの」になるまで

2010-10-29 19:03:11 | 建物をつくるとは、どういうことか


   近くの集落内にある「道しるべ」。今は地図の赤い円で示した場所にある。
   「馬頭観世音」だけの碑は、あちらこちらの集落内でかなり見かける。
   書かれている土地名とそこへの方角を照合すると、
   矢印を付した道と、この道に直交する道の右手(地図の上方)は往時のままらしいが、
   左手(下方)は、右手からの延長で、等高線に沿っていたのではないかと思われる(赤い点線)。
   「道しるべ」も、多分、丁字型にぶつかるあたりにあったのだろう。
   普通、こういう石には立てた時期などが裏側に刻まれているが、
   この石の裏面は破損していて、分らない。

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◇「私の世界」が、「点」から「面」に広がるまで・・・・初めから「全体」は分らない [副題追加 30日 8.20]

「明日香のような山あいの地に居住した人びとが、平地へ、徐(おもむろ)に、怖ず怖ず(おずおず)と出てゆく、その『展開』はどのようにして可能になってゆくか」、このことを考えるための「前段」について、先回書きました。

今回は、その本題。
ただ、そういっても、真正面から書くには考慮に入れる「要素」が多すぎます。
そこで、ごく単純な場面を設定して考えることにします。

どういう場面か。
私が、ある初めての所:まったく知らない場所へ行く、という場面です。
それでも話しにくいので、さらにもう少し状況を限定します。
たとえば、所用である人の自宅を訪ねることになった。しかし、その人は知っているが、自宅は初めて。

〇〇駅の北口で降りると、駅前から広い道が見えるから、その「道なり」に10分ほど歩くと右手に神社が見えてくる、その裏手、という「情報」は教えてもらっている。
だからと言って私にとっては「分っている」という状態ではない。あいかわらず「未知」であることには変りありません。

私にとって「分っている」のは、駅まで。
つまり、大げさに言えば、駅は、私にとって「既知の世界」と「未知の世界」の境。「既知の世界の出口」であり、「未知の世界への入口」、ということになります。
したがって、駅を出た私の目の前には「未知の世界」が広がっているわけです。それが「見えているもの」。
それは、私にとっては「未だ分っていないもののかたまり」。「何かある」ということは分っていても、それが(私にとって)「何であるか」が分らない。かたまりの大きささえ分らない。言ってみれば不気味で不安。

   これが夜だったりすると、不安は激増します。
   「見えているもの」のほとんどは「暗いもの」「よく確認できないもの」だからです。

改札を出た。目の前にはいろいろな「景色」が広がっている。いろいろなものが「見えている」。なるほど「広い道」が見える。

駅を出て歩きだします。あらかじめ「情報」を得ているから、すいすいと歩を進めているか、というとそうではありません。
おそらく傍から見ると、目はキョロキョロとあたりを見まわし続けているはずです。ときには、人にぶつかりそうになったりして・・・。つまり、いわゆる「おのぼりさん」の風情。

そのとき、私は、まったく何もしないで、ただ「情報」どおりに、歩を進めているのではないのです。
何をしているか、というと、一所懸命、「分ろうとしている」のです。
どのようにして?
「想像」をたくましくして・・・。
「自分の歩みの方向」は正しいのだろうか、つまり、自分の歩みが「正当」であるかどうかの確認を、懸命になってやっているのです。
ところが、「正当」であることを保証してくれるものは何もない。だから、「不安」なのです。目がキョロキョロになるのです。
もしも、自分の歩みの「正当性」に「疑問」を抱いたら、つまり「正当ではないらしい」という「確信」を持ったら最後、歩みは止まるでしょう。
でも、普通は歩を進める、「見当をつけて動きまわる」のです。「見当をつけて動きまわる」とは、「試行錯誤」と言い換えていいでしょう。「見当をつけない動き」は試行錯誤ではありません。

   町なかだからこれで済みますが、山などでこれをやると遭難します。
   町なかなら、一応、何処へ行っても、人の世界。
   もっとも、人の世界だからといって、農山村では通じません。
   
つまり、私がしていることは、「自分の歩みの正当性を得よう」という試み。
「私は目的地に正しく近づいている」「私は、未知の世界の入口と目的地(この場合は駅と訪問先)を結ぶ線上に確かにいる」という「確信を持とうとする試み」なのです。
すなわちこれも、すでに触れた、人が常に行なっている「自分の所在確認の作業」「定位の作業」にほかなりません。

しかし、私がしていることは、結局のところ、「まわりに見えるものを見ての(勝手な)『私の判断』」以外の何ものでもないのです。だから「見当」なのです。「勘」「直観」と言ってもよいでしょう。
「その判断が正しいと」いう「保証」は、「自分がその目的の地にたどりつくだろう」と「信じる」こと以外にないのです。
すれ違う人が、尋ねもしないのに、あなたの歩みは正しい、などとは言ってくれません。だから不安になるのです。

つまるところ、「これでいいだろう」と懸命になって自分の「判断」を「信じている」に過ぎないのです。

目的地にたどりついたとき、私の不安は一気に吹き飛びます。
実際は「情報」どおり10分程度であっても、かなりの時間がかかったように思えているはずです。それゆえ、不安感の解消のよろこびの程度も大きいのです。
それは、単に目的地に着いた、ということだけによるのではなく、私の「定位」作業が間違っていなかった、ということへの安堵感、自分の「想像力」への感謝・評価の念も多分に入っているはずです。

   これは、事前の「情報」に簡単な地図が添えられていた場合でも変りありません。
   たしかに目に見えているものと地図とを対照して自分の現在地を容易に比定できますが、   
   「目的」が目に見えてこないかぎり、程度こそ軽いものの、不安であることには変りないのです。
   道行く人に尋ねたところで、私が訪れる人を、その人が知っているわけがなく、
   せいぜい地番で尋ねるぐらいしかできません。
   そして、〇本目の交差点を過ぎてすぐ、などという「情報」を得ても、不安は多少緩和されるだけです。

   また、この「不安」は、「案内板」「サイン」があれば解消されるか、というとそうではありません。
   たしかに一定程度、たとえば「方向」などの判断の援けにはなっても、
   「定位」の援けになっているわけではないからです。
   「案内板」「サイン」で得られる情報だけでは、「自らの了解」には達しないのです。

   駅で観察していると、明らかにこの地は初めての人だ、と見える人は、たいてい、案内板に目をやっていません。
   先ずもって「自分の感覚による定位作業」に忙しく、「案内板」に目をやる「ゆとり」がないのです。
     これについては、以前、「かならず迷子になる病院」を例にして書いています。
     http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/d17820975974c21230a13c527f26af2d

   その意味で、古き駅舎、初期の駅舎では、そういうことがなかった。
   自分の感覚による「定位」作業が容易だったからです。おのぼりさんにも分りやすかった。
   だから、「案内板」も、今よりもずっと少なかった。
   設計者が、人の動き方をよく分っていたからなのでしょう。 
   「案内板」で何とかなる、などというのは、きわめて姑息な考え方なのです。
   そして、最近の町や建物は「姑息」の集積・・・。


無事に訪問先に着き、話も済んで帰途につきます。

その「帰途」も、出発点だった駅にスムーズに戻れる場合と、
そうではなく、
駅に着くまで、往路と同じく、不安でどうしようもない場合とがあります。
夜などは、後者が多いはずです。
何がそうなるのか、考えてみます。

駅から訪問先の「途中」で私の目の前に次つぎと現れるものが、私にとって何の特徴もなく均質なものに見えるとき、
簡単に言えば、同じような感じのものが並んでいるとき(たとえば、最近の新興の住宅地の中などはそうです)、
私の内に沸き起こる不安は増幅されるばかりで、時間の経つのも長く感じられるでしょう。

そうではなく、時折り、均質に感じられないものや場所、別の言い方をすれば、何か他とは大きく異なる特徴が感じられるものや場所は、私の目にとまります。
そして、そういうものや場所は、行程の途中の私にとって、重要な役割を持つことになるのです。

先ほど、駅から歩を進めて、「自分の歩みの『正当性』に『疑問』を抱いたら、『正当ではないらしい』と思ったら最後、歩みは止まるでしょう」と書きました。
そのとき人はどうするでしょう。
一つの策は、道行く人に尋ねる。
しかし、あいにく尋ねる人に会わなければ、人は普通は出発点の駅に戻るはずです。出発点から「出直す」のです。

しかし、もしも、行程の途中で、「何か他とは大きく異なる特徴が感じられるものや場所」を認めていると、どこかで歩みが止まってしまったとき、人は出発点:駅まで戻らずに、先ほど見つけた「何か他とは大きく異なる特徴が感じられるものや場所」まで戻れば済むのです。
つまり、そこが目的地へ向うための、いわば「前進基地」になる、ということです。

通常は、行程の途中がすべて均質であることはなく、目的地までの間に、いくつもの「前進基地」が築かれます。

そして、このいくつもの「前進基地」を往路において築くことができたとき、帰路は大きな不安感を抱くことなく駅まで戻れるのです。自ら築いた「前進基地」を目指して歩けばよいからです。
逆に、「前進基地」を築くことができずに目的地へ到達したときは、帰路もまた、不安にさいなまれるのです。

   道案内をするとき、私たちは、かならず「ある指標となるもの」を指示します。
   それは、多分それが、その人の「前進基地」になるであろう、という私の「勝手な想定」が根拠です。
   つまり、私たちは、そのとき、私たちの「共通の感覚」「感性」に「信を置いている」のです。
   先ほど触れた「案内板」も、この「共通の感覚」「共通の感性」に依拠しているならば効果があるはずです。
   残念ながら、現在の多くの「案内板」は、このことを失念しています。

今でもありますが、農山村の道には、よく、要所に「道しるべ」が立っています(冒頭の地図と写真参照)。右へ行くと、どこを経て何処に至る、左は・・・、と記されています(もっとも、自動車の普及が、往時の道を替えてしまって、道しるべも失せてしまっている場合が多い)。

何が「要所」か?
道が分岐するような場所が「要所」です。
しかし、単に分岐しているわけではない。
分岐する場所は、何処でもよい、というわけではないのです。それが、現在つくられる道路との大きな違いです。
簡単に言えば、「分かれるべくして分かれる」ような場所でしか道は分かれない。
たとえば、地形が大きく変化する場所、峠状の場所、あるいは、そこへ来るとある風景が見える(「当て山」と呼ぶようです。「一本杉」「六本木」・・などというのもそれだったはずです)・・・などなど。
そういうところを「選んで」道は分岐しています。そういうところを、往時の人びとは分岐点として選んだのです。
これは、人の心の内を見通した計画であった、と言ってよいでしょう。
しかしそれは、「わざわざ意識して心の内を見通すべく努めた」のではなく、往時の人びとにとっては、「当たりまえのこと」だったのです。そういうところでなければ、道をつくらなかった。
要は、道はどのようにしてどうしてつくられるか、ということです。この点については下記でも書いています。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/262176cccda7b41acd735a3d8f2732ac

   実は、カーナビに頼っての運転では、往路の「経験」は、帰路に役立つわけではなく、
   と言うよりも、「経験」にはなっておらず、
   帰路もまたカーナビに頼らなければならないはずです。

ところが、「前進基地」がいくつか設定できても、帰途で迷うことがあります。
一つは、そのいくつかの「前進基地」相互がどれも同じように見える場合です。どういう順番に並んでいたか分らなくなるのです。
もう一つは、それぞれの「前進基地」には差があるけれども、その配列の順には何の特徴がない、どういう順番だったか分らなくなる場合です。

私の頭の中には、出発点と目的との間は、いくつかの「前進基地」:「点」とそれをつなぐ「線」で描かれているのですが、これは、そうして描かれた「地図」が、「あやふや」な場合にほかなりません。
もしも、その配列がきわめて印象に残るものであるときは、迷うことはありません。おそらく、当たりまえのように、すいすいと出発点の駅に着くはずです。したがって、不安感も生じません。

   私は、中学の頃、非常に野性味あふれる教師の引率で、八ヶ岳・赤岳に登りました。
   梅雨時で、雨が降っていました。野辺山から尾根沿いの登山道を登るコース。
   昭和20年代のことで、案内標識などない。
   野性味あふれる、というのは、その引率になってない引率法。
   尾根を登る、ということで、いわば、「勝手に」それぞれの判断で登る。
   雨中で頂上の小屋に着き、それから下山。これもバラバラの下山。
   尾根を下るのだから分りやすいのは確か。
   しかし、登りで見ていた風景と下りでみる風景は微妙に異なる。
   それでも、往路で見かけた風景・ものに出会うと、これで間違いない、と思い安心する。
   ところが、時に、この次には、こんな場所に出るはずだ、と思っているのに、ない。
   これは、きわめて不安になる要素。
   実際は、その風景の「出番」の記憶が、私の中で間違っていただけ。
   「思っていた」順番を変えて現われる。
   同じような「風景」であるために、配列が分らなくたっていたのです。

   しかし、約100人の生徒は、誰一人として迷子になることもなく、夕刻までには帰着。
   おそらく、引率の教師は、この尾根道筋では、
   普通の感覚があれば、迷うことはない、と考えていたのだと思う。

   今では考えられない話。

以上は、知人宅を一度訪ねる場合の顛末。

しかし、これが数度以上繰り返されると、だんだん「慣れ」が生じてきます。繰り返すたびに、不安の度合いも少なくなる。つまり「日常化」するのです。

その場合でも、二つの場合が考えられます。
一つは、「拠点」:「前進基地」の配列順を「覚えこむだけ」の場合です。これは、「繰り返し」の度合いが少ない段階です。
そのとき、私のなかに描いている地図は、あたかも鉄道の路線図のように、「点」と「線」からなっています。駅が「点」です。

もう一つは、何度か繰り返しているうちに、「拠点」をつないでいた「線」の部分に、さらにいくつかの「点」を読み取れるようになり、さらには、「線」の幅が広くなってくる場合。つまり、「面」として理解できるようになる段階。
心に「ゆとり」が生まれたため、それができるのです。

こうなってくると、私の「出発点」と「目的地」を結ぶ「線」は、今日はこのコース、・・と言う具合に、その「面」の中で任意に選ぶことができるようになります。
つまり、初めは「未知の世界」にあった知人宅は、私の「既知の世界」に組み込まれたのです。
私は、その「面」の中、言い換えれば「既知の世界」に組み込まれた一帯では、自由奔放に行動できることになったのです。
なぜなら、そこでは、自らの「定位」がきわめて容易だからです。言い方を変えれば、「定位」はしているのですが、それを意識しないで済んでいるのです。

   日常では、人は「定位」の作業をしていないように見えますが、そうではなく、
   「定位」作業は常に行なわれているのです。ただ意識していないだけ。


これまでの話の「駅」を、新たにある場所に居を構えた地点:居所に置き換え、「知人宅」をそこでの暮しで必要な場所(たとえば商店や役場、耕作地、仕事場、・・・など)に置き換えてみたとき、そこに、人が「新たな土地・地域に馴染んでゆく過程」が見えてくるはずです。
簡単に言えば、これが、「山あいの地に居住した人びとが、平地へ、徐(おもむろ)に、怖ず怖ず(おずおず)と出てゆく」過程にほかなりません。
「徐(おもむろ)に、怖ず怖ず(おずおず)」とした行動になるのは、最初は不安の度合いが大きいからなのです。

そしてまた、以上のことは、同時に、「人にとって住居とは何か」、そしてまた「建物の設計とは何をすることか」を考えるヒントをも示している、と私は考えています。

次回は、ここで見てきた「過程」で起きる諸事象、たとえば「勘違い」について・・・、考えてみます。

The Last of the Great Aisled Barns-5

2010-10-26 09:09:11 | 建物づくり一般
“Silent Spaces――The Last of the Great Aisled Barns ”( Little, Brown and Company 1994年刊)所載の建物紹介の続きです。

今回は、ドイツの LOWER SAXONY : NIEDERSACHSEN (ドイツの州名)の地域の OSNABRUCK 近郊にある1750年に建てられた農家。
46ft(14m)×118ft(36m)。下の写真は、幅46ftの正面:妻面です。

今は移築されて博物館に在るようです(写真の解説文参照)。



NIEDERSACHSEN とは、「ザクセン低地」とでもいう意味なのでしょうか。
NIEDERLANDE:NETHERLANDS 低地の国:オランダ。

今回は、解説の文字が読めるように、図版を、ちょっと大きすぎるかな、という大きさにしました。

下に、平凡社「常用 世界地図帳 1985年版」から LOWER SAXONY 地域の地図を載せました。
1985年版ですから、まだ「ドイツ民主共和国」があった頃の地図です!



SAXONY というのは、英和辞書によりますと、エルベ川とライン川とに挟まれた地域で、古代 SAXON:サクソン民族が居住した地域、とのこと。
エルベ川、ライン川には黄色の線で、そして LOWER SAXONY: NIEDERSACHSEN にはオレンジの線でアンダーラインを付けました。
OSNABRUCK (オスナブリュック)はオレンジの線の四角で囲んであります。

この町の緯度は、北緯52度。北海道のさらに北、樺太(サハリン)の中部にあたります。 LOWER SAXONY全体が、51度以北!

エルベ川とライン川:この二つの大河の間の距離は約500km。東京~大阪がすっぽり入ってしまいます。
日本を見慣れた目には、ちょっと想像できない大きさの平野です。

下の写真は、出入口の詳細。
この建物も、上屋+下屋(母屋+側廊)のようなのですが、図面がありません。
正面:妻面の繁く入っている柱は、46ftという幅から計算して、@約0.9m程度ではないかと思われます。
ほぼ柱と同じピッチで、柱と同じ断面と思われる横材が入っていますが、各材は柱に「枘(ほぞ)差し、込栓打ち」で納めてあります。要は差物。こうしてできあがる軸組の空隙部を煉瓦で充填して壁になる。
北緯52度ですから、極力、開口部を少なくし、保温性のよい煉瓦にしたのでしょう。もちろん、それ以前は小舞を掻いた土壁のはず。
日本なら「貫」にするところ。厚い壁にしたいためだと思われます。

   註 煉瓦と土の保温性能は、ほぼ同じです。
      そして、その「保温性能のよさ」は、伝導率ではなく、
      「潜熱」に拠るもの、と考えられています。

建て方には大変に手間がかかったものと思われます。中世には考えられない。



写真の解説には、この出入口の構えは、石造の教会建築の影響だろう、とあります。

全般に凝ったつくりで、中世の建物にあった素朴さは感じられません。
日本でも近世も末になると同じような現象が見られますから、こういう傾向は、いずこも同じなのかもしれません。

次は、妻面の詳細と棟飾り。
よく見たら、茅葺でした。
この破風の飾りかたは、日本でも見かけます。こうしたくなる「気持ち」も、いずこも同じ、という感じを受けます。



次は、妻面の出梁・桁部分の詳細。
梁の小口に彫物がつくれるのは、材が堅木だからだと思います。日本では、「木鼻」がせいいっぱい。
よく見ると、一本ずつ、彫られているものが違うようです。



迫出しの支えに設けられている「方杖」は、日本では「肘木」でつくるところ(方杖がないわけではありません)。
柱へは、多分、「枘差し」と思われます。そして、梁へは「枘差し 込み栓」、しかも2本。

「方杖」に施された「彫り」。日本でも、こういう箇所には同じような「彫り」が見られます。たとえば、雨戸の戸袋の側板の下部。
そうしたくなる「気持ち」も分ります。
もっと激しいのは、禅宗様の寺院。中国伝来ですから、中国の人たちも、同じような「気持ち」を抱いたのでしょう。
もっとも、これも、当初、中世以前なら、何も彫らずに素材のままだったはず。

少しゆとりが生まれると「彫りたくなる」。この気分、気持ちはよく分ります。
それをどの程度で止めておくか、何となく、その「程度」に、「時代」が反映されるような気がします。
「程度」を決めるのは、所与の目的を、どう意識しているか、その「意識」の程度。
ひどくなると、「所与の目的」が何だったかをも忘れてしまう。つまり、意識下にもなくなる。それが多分「現代」。

建物をつくるとはどういうことか-4 の余談

2010-10-22 11:51:15 | 建物をつくるとは、どういうことか




[文言追加 16.55]
私の住むところの南側に隣接する元・柿の果樹園を東から見た写真です。
右手側、住居に近い側10mほどは、夏場は藪蚊の襲来を防ぐため、下草を刈らせていただいています。
それより南側は、成り行きまかせ。
そこは恰好の鳥の棲みか。キジをはじめ、いろいろな鳥が集まっています。
今は、地面ではコジュケイが、梢ではモズが、けたたましくときどき叫んでいます。
ノウサギやイタチもいるようです。[文言追加 16.55]

これから狩猟のシーズン。気になります。

下の写真は、成り行きまかせの箇所のクローズアップ。
縁辺植物:各種の蔦類がからんでいます。朱色の実のなるカラスウリもその一。少し中に入ると、蔦は減ります。それが縁辺植物の名の由来らしい。
この中にも柿の木があるのですが、実は少ない。右手の下草を刈った所の木には、いっぱいです。
手前の畑は、つい最近まではいろいろな作物があった。
草が生えていないのは、頻繁に耕しているのと除草剤によるもの。

元は大きな貝塚の一端であるため、場所によると、土器の破片が無数に散らばっています。貝塚は、貝殻の捨て場だけでなく、壊れた土器も捨てたようです。もちろん、食べ残しの食料も捨てたのでしょう。

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[註記追加 23日2.54]
先回紹介した臼井吉見氏のエッセイには、次のような話もあります。
概略以下のようなエピソードです。

上高地近くの温泉場のある湯治宿。その宿屋の北側に布団部屋があった。
その布団部屋が、大正の頃から、その宿の「最高の部屋」となった。
その部屋の窓から、北アルプスが一望できるからであった・・・。

どうやら、その頃から、今の《観光》が流行りだしたようです。
諏訪の宿に泊った客人も、その走りの《観光客》の一人でしょう。
そして、先回の「松の木川」の「奥入瀬(川)」というのも、然る文人が名付けたのが《普及》したと言います。
おそらく、地元の人たちは、そんな名では呼んでなかった。それこそ「松の木川」だったのでは・・・。しかも、上流と中流、下流では呼び名も違っていた。千曲川、筑摩川、信濃川などもその例かもしれません、

《観光》は、かなり古くから、上層の人びとには、その「気」があったようです。
「借景」もその一つ。
京都洛北の「園通寺」は、17世紀中過ぎに後水之尾上皇が修学院離宮をつくる前に探しあてた山荘の跡(後に「園通寺」になった)。「比叡山」を東に望む書院が「借景」。
たしかに、いい具合に「叡山」が見える。一時、「叡山」の手前の宅地開発などで「借景」が危ぶまれましたが、条例で規制して何とか持ちこたえているとのことです(最近行っていないので詳細は分りません)。

   註 大和小泉の「慈光院」でも、「借景」が危ぶまれていることは、以前書きました(下記)。[註記追加 23日2.54]
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/f84c80fa9dd1dd4ddba93e9143019ce8
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/d8d775756b82dc9e45d08d39f68f39dd


では、その「叡山」の眺望の素晴らしいところで、一般の人びとの家々はどういうつくりになっているか、大分前ではありますが、歩いてみたことがあります。
まったく関係なくつくってありました。
「叡山」が見えたからどうだっていうの?という感じ。
日ごろ、「叡山」の見えるところにいることは重々承知。なぜ、家の中から眺める必要があるか、ということでしょう。

これは、信州の「富士見」という名の町を歩いたときも同じ。
そこは、八ヶ岳や南アルプスが一望でき、南アルプスの先に富士が見える。信州で富士が見えるのはここ、ということから「富士見」という名をもらったようです。有名人が滞留したサナトリウムなどもあり、島木赤彦などの歌人もよく訪れたらしい。
別荘もある。そしてその別荘の多くは、家の中から八ヶ岳、あるいは南アルプスや富士を望むようなつくりになっています。
そこでも、村の人びとの家々を見て歩きましたが、ここでも、そういった山が見えるからどうだっていうの、という感じ。つまり、まったく無視。
第一、「富士見」という名前自体、後になって付けられた名前。元々はいくつかの小村。その小村には、景色がいいことなどを思わせる名前はまったくないのです。

ところが、建築家の多くは、たとえば「叡山」の見えるところに建つ住居では、かならず家のなかから「叡山」が望めなければならない、と勝手に思ってしまう。
私はそれをドライブイン建築と呼んでます。本当は建築家こそ、その地の人になりきらなければならないのに、「率先して」《観光客》になってしまうのです。

町の名や土地の名前に、「《富士》見」だとか「《田園》調布」、「〇〇《学園》」・・という名を付け始めるのは、どうも昭和のはじめ頃からのようです(阪急電車の創立者の小林一三の発案という説があります)。
「調布」というのは古い。それに《田園》を付けて、自然豊かであるかの装いをした。
その頃からの命名には、売り込みに使える「特徴的」景観や、あるいは「願望」を名前にすり込む例が増えるのです。後の「あざみ野」「美里」「豊里」「美野里」・・・というのと同じ。「あざみ」など消えてしまっても、「あざみ野」・・・。
だから、ごくあたりまえの風景・景観、「松の木がある」、などというのは名にならない。「六本木」などというのは、今でこそ有名ですが、今の人なら名付けない。けれども、「〇〇本木」という名は至るところにあります。「別れの一本杉」を作詞した人は、人びとの心が分る人。「別れの富士見坂」なんていったら、味気ない。

埼玉に「春日部」というところがあります。これは元は「粕壁」。住宅公団が開発にあたり団地名を「春日部」にした。「粕」の音:カスがイヤだったに違いありません。その結果、今はこれが《正式名》になっています。
千葉の柏の近くに「豊四季」というところがあります。
これも住宅公団が強引に付けてしまった名前。元は「十余四(とよし)」。それに「キ」をつけて「トヨシキ」→「豊四季」。
公団には《文人》がいたらしい。この《文人》は、語のイメージで商売をする《達人》。実際の住宅団地は、四季など感じられない味気ない姿だった。

ここにはまだ「十余二(とよふた)」・・などの名が残っています(交通情報で、国道16号の案内で、よく聞きます)。
これは、江戸時代、開拓地に付けた名前のようです。これもまた随分無機的な付け方ですが、要するに、地番。開拓地には結構多い。たとえば年貢額に係わる「三反田」「五反田」・・・など。

「地名」というのは、なかなか興が尽きないものです。
久しぶりに「地名の話」をぱらぱらめくっていたら、群馬の「下仁田(しもにた)」は、イノシシが好む泥田:ヌタから付いた名では・・、などという話が載ってました。

建物をつくるとはどういうことか-4・・・・見えているもの と 見ているもの

2010-10-20 00:28:25 | 建物をつくるとは、どういうことか
◇「見えている」ものは、「すべて知らなければならない」か?

先回、「明日香のような山あいの地に居住した人びとが、平地へ、徐(おもむろ)に、怖ず怖ず(おずおず)と出てゆく、その『展開』はどのようにして可能になってゆくか」、この点について次回考える、と書きました。

そのためには、その前段で、「ある重要なこと」を認めておく必要があります。
おそらく、このことの説明だけで今回は終わってしまうでしょう。

この「ある重要なことを認めておく」作業のために、いろいろなところで、いつも引用してきたのが、臼井吉見氏の随筆集「残雪抄」(筑摩書房 1976年刊)にある一文「幼き日の山やま」の冒頭の次の一節です。
読みやすいように、段落は変えてあります。

  ・・・
  宇野浩二に「山恋ひ」という中篇小説がある。諏訪芸者と、作者とおぼしき主人公との古風な恋物語である。
  この主人公が、諏訪の宿屋の窓から、あたりの山々を眺める場面が小説のはじめに出てくる。
  湖水の西ぞら、低くつづく山なみの上から、あたまだけのぞかせている一万尺前後と思われるのを指して、
  あの高いのは何という山かね?ときかれた番頭は、
  さあ?と首をかしげる恰好をして、たしかに高い山のようですが、名前は存知ませんという。
  木曾の御嶽ではないのかねとかさねて訊くと、さあ、そうかもしれませんね、ともう一度首をひねってみせる。
  君はこのごろどこかよそから来たのかね?と問うと、
  いいえ、私はこの町の生れの者でございます、と答えて、気の毒そうな顔つきをするのである。
  この小説の書かれたのは大正の中頃だが、当時の読者だって、この番頭変ってると思ったにちがいない。
  いまの読者なら、なおさらのことだ。
  ・・・

   註 「諏訪」とは「諏訪湖」。客は、湖の北岸にある温泉街に泊っている。

      臼井吉見を知っている方は、もう数少ないのかもしれません。
      長野県安曇野の出身の評論家・作家。1905年~1987年。
      筑摩書房から出されていた雑誌「展望」の編集長を長らく務めた。
      晩年の小説「安曇野」は、
      明治末~昭和初頭にかけての近代日本の「文化界」の状況を描いた作品。

参考のために、下に一帯の地図を載せます(平凡社「常用 日本地図帳」1985年版より編集)。
     


右手の四角で囲んだのが「諏訪湖」(湖面の標高は759m)、左下の赤い円で囲んだのが「御嶽山(おんたけさん)」(標高3063m)です。
「諏訪湖」と「御嶽山」は直線で約60km離れています。
「御嶽山」の北には「乗鞍岳」から「北アルプス」が、東には「中央アルプス」「南アルプス」が「木曾谷」「伊那谷」を挟んで並列、「諏訪湖」の北東に「蓼科山系」、東に「八ヶ岳」があります。
「北アルプス」「御嶽山」「中央アルプス」「南アルプス」「八ヶ岳」は標高約3000m前後、「蓼科山系」は2000m程度、より近く「諏訪湖」を囲む山々は高くても1000~1500m以下です。


この一文は、いろいろのことを考えさせてくれます。

先ず、この「客」も「番頭」も、「御嶽」を「知っていた」という点では同じです。
ところが、多分東京から来たと思われる「客」は、
信州の人間ならば信州の山である「御嶽」がどれか指し示すことができて当たり前である、と思っているのに対して、
同じ信州でも諏訪の生まれの「番頭」は、名前は知っていても、どの山がそれかは知らなかった。
つまり、知っているのは、ともに「御嶽」という「名」だけ。
東京の人間・客は「信州の人間は指し示して当たり前」と思っているが、「諏訪の人間は、指し示すことができなくて当たり前」と思っている。

著者は、「この小説の書かれたのは大正の中頃だが、当時の読者だって、この番頭変ってると思ったにちがいない。いまの読者なら、なおさらのことだ。」と書いていますが、現在なら、大半の人がそう思うでしょう。
それどころか、現在なら、地元生まれの番頭は、訊かれなくても、あれは何々山、これは・・・、と《案内》にこれ努めるに違いありません。それが《サービス》と思い込んで・・・。


考えてみれば、あるいは、考えるまでもなく、ここに出てくる「地元生まれの番頭」こそが、「人間本来の姿」なのだ、と私は考えます。

ある頃から、人は「目に見えている」ものすべてを知らなければならない、かのように思い込まされるようになった、と私は思っています。

臼井吉見氏の書かれているところによれば、大正頃からそういう「風潮」が、特に「都会」の「一部の人びと」の間から、生まれてきた。簡単に言えば、《知識》の「収集」が「教養」と思われ始めた。
   
   註 唐木順三氏が「教養ということ」というエッセイで、
      「教養」も「文化」も英語にすれば culture になるが、
      「教養」という語は culture の語源であるところの
      cultivate という意からは遠い、という趣旨のことを書かれています。
      だから、「近代文化人」の「教養」は、得てして、
      西欧と日本を含む東洋の「知識」の「理」のないごった煮である・・・とも。
      要は、「自ら培った知識ではない」「身に付いたものではない」ということ。
      このエッセイも「現代史への試み」(筑摩書房「筑摩叢書」1963年刊)に載っています。
     
現代人は、おそらく、この頃の「風潮」を、さらに増幅して継承している、と言ってよいのではないでしょうか。
「たくさんの《知識》を集めることをもってよしとする」、それで「ものごとが分った、と思ってしまう」風潮・・・。

では、なぜ「番頭」は、
「御嶽」という山があることは知っているのに、
そして、
「目に見えている山々」の中に「それ」が在るのに、指し示すことができなかったのでしょうか。

この答は、きわめて簡単。
「番頭」は、「その山に関心がなかった」からです。
「番頭」にしてみれば、目に見えている高い山ではあるけれども、高いからと言って、目立っているからと言って、そして、「世に有名な」山であるからと言って、「関心をもたなければならない理由がない」ということです。

では、なぜ関心がないか。
臼井吉見氏は、先のエッセイの後半で、次のように記しています。すなわち、それが「答」。

  ・・・
  信濃のように、まわりを幾重にも山に囲まれている国では、この番頭のようなのは、
  当時としては決して珍しくはなかった。むしろ、あたりまえだったといってよい。
  生まれたときから、里近くの山に特別に深く馴染んでいるので、
  奥の高い山などには、とんと無関心で過ごしてしまうのが普通だった。
  わらびを採り、うさぎを追い、きのこを探し、すがれ蜂を釣ったのは、みんな里近い山でだった。
  近くの山なら、松茸は、どこどこの松の根もとだとか、うさぎの道は、どこそこの藪かげだとか、
  知識経験の豊富な蓄積があった。
  おとなたちが、木を伐り、薪を集め、炭を焼くのも、これまた近くの山だった。
  ・・・

   註 もしかすると、ここで書かれている「里近くの山」が、
      最近流行の言葉の「里山」だ、と思われる方がおられるかもしれません。

      しかし、「里山」という語は新造語です。「広辞苑」でも、初期の版には載っていません。
      「新明解国語辞典」には、最新版にも載ってない。新語なのです。

      流行の「里山」は、単に、人の暮す場所の近くに在る山、というような意味と言えばよいかもしれません。
      この一文が描いているような形で、近くに暮す人びとの暮しに直接結びついているわけではないのです。
      要は、単なる(都会住まいの人たちが)「賞味するための」山、林・・・なのです。
      (都会住まいの人たちが)関心を持つようになったのは、自分たちを「慰めてくれる」近くの山や森や林が、
      「荒れてきた」ことに始まります。
      しかし、「荒れてきた」というのは、きわめて勝手な「言い草」です。
      山や森や林は、(都会住まいの人たちの)慰めのために在るのでしょうか。
      その山や森や林が「荒れてきた」のは、自然の破壊なのでしょうか?

      1970年代頃だったと思いますが、埼玉の「野火止(のびどめ)」にあった「雑木林」が、
      「宅地開発」によって消えかけたとき、その「保存運動」が起きました。
      「運動」の結果、「手をつけてはならないという保護条例」の下で保存されることになった。
      どうなったでしょう?「雑木林」ではなくなってしまったのです。
      「雑木林」はなぜ「雑木林」という形態であったのか、ということを忘れていたのです。
      「雑木林」は、毎年、人が手をつけていたから「雑木林」の形になった。
      なぜ「手をつけたか」。暮しのための「燃料」として。狭義の「自然破壊」の結果なのです。
      ただし、「手のつけ方」が、木の成長の理に即していた。そこが、単なる破壊ではなかった。
      今の単なる「自然保護」とは違うのです。
      「自然保護」とは、「自分の好みに合うように状況を維持すること」ではないはずです。

      今、「里山」を「復活させよう」という「運動」が各地で行なわれているようです。
      私は疑問を持っています。
      そのために、「わざわざ」山へ出向き、下草を刈る。それは、その人びとの暮しとは無関係。
      多分、長続きしないでしょう。
      私は、そのまま、「なるようになればよい」のだ、と思っています。
      樹木には各種の蔦がからみ(たしか「縁辺植物」と呼んだと思います)、
      人の入れないような姿になるでしょう。

      私の暮している所に接して、昔の柿や栗の果樹園があります。もう10年以上、手を入れていません。
      ゆえに「荒れて」います。
      蔦がからみ、鳥がもってくるのでしょう、いろいろな実生の樹木が増えつつあります。ジャングルです。
      しかし、それこそが「自然」の姿なのです。それを「荒れた」というのは、人間の「身勝手」。
      おそらく、林相は姿を変えるでしょう。そうして、原始の姿に戻るのです。それが自然というもの。
      私はそう思っています。「里山」などと、軽々しく言わないでほしい・・・。
      第一、自分の住んでいる場所自体が、「壮大な破壊の結果」なのです。

      日本の山が荒れていると言われます。
      木材の利用が減ったため手入れがされなくなったからだ、だから国産材の利用促進・・・。
      放置しておいたらどうなるか。山が荒れますか?
      いいえ、この日本という環境では、
      山は、自然の理に即して、長い時間をかけてではありますが、原始の姿に戻るだけです。
      皮肉な言い方をすれば、それが最大の自然保護かもしれません。


ところで、先の一文にある子どもたちの行動、それは、親たちの行動、つまり「暮し」があったからこそ生じたのだと考えなければならないはずです。
子どもたちは、特に昔の子どもたちは、「冒険」をしました。しかしそれは、親の行動、行動範囲を知っての上での「冒険」なのです。

そして今、私たちは、地図などで、多くの「地名」を知っています。
そして、「地名を知った」ことで、その地を「分った」気になることが多いはずです。

ここでもう一度、引用した一文に戻ります。
そこに、「木曾の御嶽ではないのかね」という客の問があります。なぜ「木曾の」という修飾語があるか。
それは、各地に「御嶽」と呼ばれる、あるいは標記する山が多数あるからなのです。
たとえば、奥多摩の「御嶽」。これは「みたけ」と呼びます。諏訪の近くでは、南アルプスの「北岳」も「御嶽」。これは「おんたけ」と呼ばれます。ほかにも全国にあります。だから、「木曾の」という修飾語が要るのです。

しかし、「木曾の御嶽」の地元では、「木曾の」は不要です。
「御嶽」とは、まさに字の通り、その山への「尊称」です。木曾の地域に暮す人びとにとって、その山は畏敬の対象、信仰の対象になっていた。ほかの地域の人たちがどのように思うかなどは関係がない。それで「御嶽」で済んだのです。

   註 会津・磐梯山の場合の「会津」は、磐梯山があちこちにあるからではありません。
      地元では当然「磐梯山」だけで通じる。
      民謡の「会津磐梯山」は、元は越後の民謡の系譜と言います。
      そのため「地域」を明示したのではないでしょうか。

しかし今は全国の地図がある。そこには山の名も含め、「地名」が載る。それをもって人びとはその名が「普遍的」「絶対」のものと思っています。
そしてさらに、それを「知る」ことは、その地を「知る」ことであるかのように思い込んでいるようにも見えます。
流行の「ご当地検定」などはまさにそれです。
その地についてのいろいろの《知識》を知っていることが、その地を「分っている」ことであるかに思い込んでしまう・・・。

この「常識」を覆す一文、これも何度も、いたるところで引用する一文がありますが(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/49fc6e8dc23d63eb552d4402916e96eaの文中でも引用しています)、ここでも再掲します。   

農業経済学を専門とする玉城 哲(たまき・あきら)氏のエッセイ「水紀行」(日本経済評論社 1981年刊)の中にある「松の木川」という一文の一節。
なお、同氏と旗手勲氏の共著「風土―大地と人間の歴史」(平凡社 平凡社選書 1974年刊)も名著です。

  ・・・
  冷害の青森県上北(かみきた)地方をあるいていたとき・・・《田舎のバス》はそのうち橋にさしかかった。
  橋のたもとに「一級河川・相坂川」という看板がでている。・・・建設省が掲げたものである。
  相坂川といっても、ほとんどの人はどんな川か知らないであろう。
  私も・・・あの有名な奥入瀬川が「相坂川」であるとはまったく知らなかった。
  そこで、私もいささかいたずら心をおこして、隣りのおばあさんにきいてみた。
  「おばあさん、この川の名前知っているかね」
  「おら知らねえな、よその人はオイラとかいうがな」
  たぶん、そんなような返事だったと思う。私はいささか唖然として、思わずききかえした。
  「おばあさん、川の名前知らないのかね」
  「川の名前など、おら知らねえ、松の木があれば松の木川だ」
  そのときうけた私のショックを、ここで表現することは容易ではない。
  私はしばらく、何と言ってよいかわからないまま、まったく沈黙に陥り、車窓の風景を眺めるだけであった。

  私たちは気軽に、地図に書いてあるからということで、利根川とか、淀川とか、木曽川などといっている。
  そして、それが地元で何と呼ばれているかなどということなど考えてみもしない。
  ところが、それはしばしば地元の人びとにとってはよそ者のいい方なのかもしれないのである。
  ・・・

考えてみれば、ある「もの」に名前が付けられるのは、
そこに生きる人びとにとって、その「もの」が「暮す上での必然」であるからなのであり、
それは地図の作成者が地名を地図に書き込むのとは、まったく異なる、
ということを、この玉城氏の一文は示してくれているのです。
そうであるのに、今、私たちは、地図の地名を知って、知った気になってしまう・・・。

   註 明治になって、軍事目的で、陸軍の陸地測量部が全国の地図作成に努めます。
      最近映画で話題になったのは、その一端です。
      明治20年には、「迅速図」の名で公刊されています。
      そのとき地図に載せられた「地名」は、たとえば北アルプス一帯の地名では、
      測量隊が先に測量した側での呼び名が地図上の「地名」になったと言われています。
      同じ山の呼び名が、向こうとこちらで異なっているのに(それで当たり前)、
      地図では測量隊の「先着順」で一つに絞ってしまった、つまり、
      早く測量が終わった側の測量隊が採集した「名」が付けられた、ということです。
      この一文の例は、戦後、当時の建設省が、川を「水系」として「整理」し、そのときに付けた例。
      なお、谷川健一編「地名の話」(平凡社選書)には、
      各界の方が書かれた「地名」についての興味深い話が載っています。

先回、「・・・カーナビはGPSなどにより、いわば他人がつくる地図。簡単に言えば、『余計なもの』まで入っている。私たちが自分の中に描く『地図』には、『必要なもの』だけ入っている。・・・」と書きました。
この一文に出てくる「おばあさん」は、まさにそれを「地で行っている」のです。
「相坂川」という《公式名》は知らなくても、「おばあさん」は、その川の「素性」については、よく分っているはずです。なぜなら、その川とともに暮してきているからです。
《公式名》を知っているからと言って、何が「分り」ますか?
むしろそれは「余計な夾雑物」。知らなくたって何の問題もない。
あるいは、それを「知る」ヒマがあるのなら、もっと他の「必要なこと」を「知る」「分る」ことに努めるべきではないか・・・。《公式名》を「知る」のは、それからでも遅くない。

さて、延々と書いてきました。

私たちは、いつの間にか、、あるものごとに係わるいろいろな《知識》を集めることをもって、そのものごとが「分る」のだ、とのように思い込むようになっている気配があります。おそらくそれが「近代」というものだったのかもしれません。
その結果、これもいつの間にか、私たちは、ものごとを、私たち自らの目をもって、私たちの「必要に応じて見る」ことを忘れてしまっているように思えるのです。

別の言い方をすれば、私たちが、私たちが本来持っている「感性」で、直にものごとを見ることよりも、《知識》をいろいろと集めることを優位に置くようになってしまった、ということです。

しかし、考えるまでもなく、いろいろな《知識》というものも、誰かの「感性」により得られたもののはずです。彼の「感性」が、私たち個々の「感性」よりも絶対にすぐれている、ということはあり得ません。
本来「知識」というものは、「私たち個々の感性」によって淘汰されることによって磨かれるものであり、そのためには、私たちは《知識》を鵜呑みにしてはならないのです。

冒頭に「明日香のような山あいの地に居住した人びとが、平地へ、徐に、怖ず怖ずと出てゆく。その『展開』はどのようにして可能になってゆくか」、その過程を考えるには、「ある重要なことを認めておく」必要があると書いたのは、この「事実」を認めること、
つまり、私たちもまた、「諏訪の番頭」、あるいは「松の木川のおばあさん」の立ち位置に返らなければならない、ということです。
その立ち位置に立ってはじめて、「その過程」を考えることができるのだ、と私は思っています。

また長くなりました。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

The Last of the Great Aisled Barns-4

2010-10-16 11:20:54 | 建物づくり一般
[文言更改 16.51][文言追加 16.57][文言追加 17.03]

“Silent Spaces――The Last of the Great Aisled Barns ”( Little, Brown and Company 1994年刊)所載の建物紹介の続きです。

今回は巨大なスケールの事例。
13世紀初頭の修道院。
場所はフランス。多分、パリの南西約200km、ロアール川~アンドレ川の流域、別掲の地図の赤線で囲んだあたりと思われます。



一点透視図で描くと下図のようになります。この方が分りやすいかも知れません。

上屋および一段目の下屋の柱列、桁行方向に、「飛貫」様の材が入っています。これは、洋の東西を問わない「現場で工人たちが生みだした知恵」と言えるでしょう。[文言追加 17.03]



平面図のように、木造の建物の四周に石積みの壁をまわしたつくりになっています。
柱間( bay )は13間ありますが、木造部分は11間で、両妻側の1間は、石積みの壁によってつくられています。
側廊:下屋が二段構え。日本の例で言えば、母屋(上屋)に庇(下屋)、孫庇(孫下屋)がついた形。
平面は170.5ft×80ft(52m×24.5m)、棟高44ft(13.5m)。すごい広さです。

この巨大な空間を、修道院では、どのように使っていたのかは、よく分りません。



建物内の写真ではよく分りませんが、母屋:上屋のトラス梁を受ける柱は、柱頭を内側にバチ型に広げ、柱直上に「桁」を据え、「桁」にトラスの「梁」を掛ける方法を採っています。日本の「京呂組」です。
その部分の図解および組立て手順の説明が下図です。

組立ては、先ず、「桁」の取付いた上屋の側面にあたる部分を地上で組み、それを立ち上げ、「梁」を掛ける、トラスを組む・・・という手順(クレーンのある今ならトラスを地上で組んで持ち上げるでしょう)。

柱頭には、b のように、「桁」を納めるためと、「梁」を取付けるための2個の「枘(ほぞ)」がつくられています。
そのうちの「梁」を取付けるための「枘」が内側に飛び出したバチ型の部分に刻まれています。つまり、この「枘」は、柱の直上ではなく、内側にずれていることになります。

桁と梁の仕口が a で、大きな「蟻型」をつくっています。日本でも、京呂組で梁を桁の内側に納めるときには「蟻掛け」を使いますが(通称「兜蟻(掛け):かぶと・あり(かけ)」、こういう大きな「蟻型」ではありません。

このように柱頭をバチ型にする方法は、フランスだけではなくイギリスなど各地にあり、いずれの場合でも、柱頭に割れが入ることが多いようです。
下の写真は、左側がこの建物の柱頭の割れ、右は同様のつくりのイギリスの例で、割れの拡大を防ぐために、柱頭のバチ型部を帯鉄で締めて補強してあります。



この書物の説明では、この割れの原因を、「梁」の乾燥による収縮に求めていますが、それにしては割れが大きすぎるように思います。
むしろ、風などによる小屋の揺れの影響ではないでしょうか(勾配の急な屋根は、風圧を受けやすい)。
梁は桁に大きな「蟻型」で取付いていますが、それよりも、柱頭の「枘」との取付きの方が強いと考えられます。
したがって、「蟻型」で取付く「桁」と「梁」の接合部は容易に緩むのに対して、長い「枘」で取付いた「梁」と「柱」の固定の程度は強く変形しにくいため、揺れが繰り返せば、「枘」を設けてある柱頭のバチ型部分に力がかかり、その結果、その部分に割れが入ってしまう、と考えられます(図に赤線で示してあります。a、bの符号と赤線、写真の赤丸は筆者記入)。[文言更改 16.51]
このバチ型の発想は、ことによると、石積みなどのハンチを基にしているのかもしれませんが、木理のある木材には、いかに堅木のオークといえども、不向きの方策なのではないでしょうか。

その点、柱上に「肘木」を使う方法はすぐれていると言ってよいでしょう。[文言追加 16.57]

なお、下の写真のように、側廊が一側で石積みの壁がまったくない、つまり木造の柱だけの建物もあります。
市場:Market‐Hall で、あちらこちらに似たような建物があったようです。この例は、下屋は一重です。
これだけしっかりと立体に組まれれば、地震国日本でも、簡単には壊れないでしょう。

書き忘れましたが、これまで紹介してきた諸例は、いずれも、木造部は礎石に据えただけです。



続・一休み:もう一つの記事

2010-10-15 00:00:00 | 居住環境


10月13日の毎日新聞(東京版)には、もう一つ気になる記事がありました。
「発信箱」の同じ頁の「記者の目」。
これを、私のコメントなしで、そのまま載せます。少し字が小さいかもしれません。ご容赦。


一休み:別の地図の話

2010-10-14 10:58:49 | 居住環境


叢になっている庭の一画のムラサキシキブ(コムラサキ)。
別の場所に植え替えたはずだったのに、根が残っていたらしく、植え替えた方よりも健やか!さすが山野草。

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[図版更改 15日8.19]
昨日の毎日新聞(東京版)朝刊のコラム「発信箱」に、興味ある一文が載っていました(下記)。



人は常に自分中心の「地図」を描いている。
ところが時に、その地図が、唯一にして絶対のものと勘違いする場面がある。
そしてそれは時に、中華思想に連なる。簡単に言えば、ひとりよがり。

   註 中華:自国を、世界の中心に在る、最もすぐれた国と見なしたこと(新明解国語辞典)。

人それぞれがそれぞれの地図を描き、なおかつ互いにその地図が分る。そうあってはじめて共通の地図が生まれる。私はそう思っています。

TVのニュースの時間の始まりには、どのTV局も、かならずと言ってよいほど、バックに都会の映像が流れます。
なぜ、農山村の映像がないのか、私はいつも不思議に思っています。農山村の映像が出てくるのは、「ふるさと・云々」というような番組のときだけ。「ふるさと」って何?

おそらく、製作者の頭の中には、そういう「地図」が「固定・定着」しているのでしょう。
そういうニュースの中で、「限界集落」がどうのこうのと言ってみたところで、リアリティに欠けるではありませんか。

そんなことを思わず思ってしまった記者の発言でした。
そしてそれは、日本中にいかんともしがたく蔓延っている、中央と地方、都会と田舎、という固定的な二項対立的発想をも思い起こさせてもくれました。
これについては、以前、下記で、ある論説を紹介させていただいていますhttp://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/09699199453fa9aa7c71caa15a2ba471

建物をつくるとはどういうことか-3・・・・途方に暮れないためには‐‐‐‐

2010-10-12 07:26:06 | 建物をつくるとは、どういうことか
◇「途方に暮れる空間」

先回、次のように書きました。
・・・
私たちは、「私たちを取り囲むもの」を常に(無意識のうちに)「観て」、それによって「私たちの中に生じる『感覚』に応じて行動をしている」ということを示しているのです。
私たちは「取り囲まれている」、言い換えれば、私たちは常に「私たちを取り囲むもの」の中に「居る」、あるいは「在る」のです。
そのような「もの」の海の中に居る、在ると言ってもよいでしょう。
この「私たちを取り囲むもの」を言い表す適切な言葉がありません。
通常使っているのは「空間」です。英語で space 、ドイツ語では raum 。
・・・

しかし、「空間に居る、在る」と言っても、私たちにとっての「空間」は「宙」ではありません。もしそれが「宙」であるならば、それこそ私たちは「宙に迷う」ことになるでしょう。私たちの場合、「空間」とは、常に「大地」と等値と言ってよいと思います。

そして先回、次のようにも書きました。
・・・
目の前にあった「平面図の黒い部分」が突如として消失してしまった場面を考えてみましょう。つまり、そこに在るのは自分だけ。
多分、「立ちすくむ」以外にないはずです。字のとおり、「途方に暮れる」という状態。
これは、目隠しをされて何もない荒野に連れてこられ、目隠しをはずされ放って置かれたに等しい。
・・・

なぜ立ちすくみ、途方に暮れるかといえば、それは、
私たちは常に自らの「定位」を拠りどころにして行動しているのに、その肝腎な「自分が現在在る位置」が、「その直前に在った位置」との「連続」を切り離されてしまったからなのです。
では、その「連続」は、どのように維持されていたのか。

私たちの「定位」:位置の確認は、私たちを取り囲む「空間の様態」を観ることで為されています。
常に、「空間の様態」を自分の中に取り込んで、自分なりの「地図」を描き、そこに自分を置いているのです。
私たちは「動いて」いますから、当然「地図」は、ひっきりなしに構成し直されます。
その「地図」を描けない状況になったとき、私たちは自分の所在が分らなくなり混乱に陥るのです。
このような「自分の地図」を構築・構成することのできる私たちの頭は、いかなるカーナビよりも優れものと言えるでしょう。

   カーナビとの違いは、カーナビはGPSなどにより、いわば他人がつくる地図。
   簡単に言えば、「余計なもの」まで入っている。
   私たちが自分の中に描く「地図」には、「必要なもの」だけ入っている。
   初めてのところへ駅からタクシーで向う場面を考えると、この事実はよく分ると思います。
   タクシーに乗れば、目的地には無事に着きます。
   では、次の機会に、自分で駅からスムーズに目的地に行けるか、というと、まずできないでしょう。
   できたとしても、いろいろ迷った挙句の果てのはず。
   初めての場所に人に案内されて行く場合も同じです。
   次回、一人で行けることは、まずありません。迷います。
   これは、タクシーに乗ったり、人に案内されて行くときには、自分の中に「地図」が描けていないからなのです。
   より正確に言えば、「地図」を描くために「必要なもの」を、「自分の目で見ていない」からです。
   自分の地図がつくられていない、ということ。
   それゆえ、一人で、自分だけで行動するときに、途方に暮れるのです。

したがって、人がこの「大地」という「空間」の中で過ごすようになって以来、人は常に、「途方に暮れる」ような場所ではなく、確実かつスムーズに、自らの「定位」のできる場所を探してきたはずだ、と言ってよいでしょう。
そうすれば、「安心して」日常を過ごせるからです。
「安心して」とは、そのたびに「地図」を描き「定位」する必要がない、「磁石」の針を見なくても、自分の位置を知ることができる。簡単に言えば、「慣れ親しんだ場所」「地図を描く必要のない場所になり得る」、もっと言えば、「目をつぶっていても歩けるくらいになり得る」場所、ということ。
容易にそのような状態になる場所を、人は選ぶはずです。

   もちろん、その場所で、人が生物として生きられることが条件です。
   つまり、生物としての生存条件:水と食料の確保:が得られること。
   以前、これを「必要条件」と書いています。
   そして、「なり得る」場所であっても不快と感じる場所は、最初には選ばれません。
   これを「十分条件」と書きました。

このことは、初めに人びとがどのようなところを「好んで」「定着・定住」したかを観ると、如実に分ります。

下は、現在の奈良盆地の地図です(帝国書院刊「最新 基本地図帳 2008年版」より)。



今、奈良盆地は、主として、大阪のベッドタウンとして「開発」され、ほとんど家々に埋め尽くされようとしています。
しかし、今から半世紀ほど前、1960年代には、まだ昔の面影:この盆地に定着した人びとの「大地との付き合い方の歴史」:を遺していました。

奈良の盆地の東半分には、古代、南北に大きく3本の道が通っていましたが、その跡は現在でも、部分的ですが、残存しています。
盆地中央を南北に走り、後に「平城京」の「朱雀(すざく)大路」になるのが「下つ道(しもつみち)」。
盆地の東の縁辺を南北に走るのが「上つ道(かみつみち)」。これはほぼ、いわゆる「山の辺の道」。
そして、この二本の道の中間を南北に走るのが「中つ道(なかつみち)」です。

この中で、最も古くからあると考えられるのは「上つ道」つまり「山の辺の道」です。
「上つ道」沿いに、古代の遺跡が多く見られることがそれを示しています。
「上つ道」沿いには、南の桜井あたりから、「三輪山」山麓の「大神(おおみわ)神社」、今話題の「巻向:纏向:(まきむく)古墳」「箸墓(はしはか)古墳」、「石上(いそのかみ)神宮」などがあります(天理教の本部も・・・)。「上つ道」の北端が「東大寺」「興福寺」界隈になります。
この「上つ道」「中つ道」「下つ道」は盆地南端で盆地の縁をなす丘陵にぶつかりますが、その山あいには、他と比べものにならないほど多数の古代遺跡が見られます。

この「盆地南端の山あい」が、「飛鳥」「明日香」と呼ばれる一帯。「藤原京」「平城京」になる前の古代奈良の中心の一なのです。
なお、奈良盆地の西の端を形づくる山沿い一帯:葛城:にも古代に発する遺構が多数あります。

   註 「あすか」は2000mに近い山々の連なる紀伊山地・山塊の北辺にあたります。当然、鳥獣も多い。
      「あすか」に「飛鳥」の枕詞が与えられたのも、多分、それに由来したのでしょう。    
      「日の下」の「くさか」と呼ばれた地域が生駒山系の西にあります。
      「くさか」では、上る日が、そこを通る。ゆえに、日の下。
      そこから「日下」と書いて「くさか」と読むようになったと言います。

つまり奈良盆地には、古代、盆地の周囲に人が住み着き、盆地中央部、広大な平坦部には、初めは人が住んでいなかったのです。そこはおそらく低湿地だったのです。

下の写真は、飛鳥の地を航空写真、地図は飛鳥の史跡図です。
航空写真は、おおよそ上の地図の赤枠内にあたります。
史跡図は、門脇禎二著「飛鳥」(NHKブックス)からの転載。




飛鳥の一帯には「のどかな農村風景」が広がります。航空写真は、それを見事に物語ります。
そして、古代には、森林の被う部分は、面積も密度も、この写真よりも遥かに大きく濃いものだったと思われます。

ちなみに、ドイツ語の raum は、語源的には、「開墾ないしは移住の目的で、ラオム、すなわち森林内の間伐地をつくること」を意味していると言います(Otto Friedrich Bollnow 著「MENSCH UND RAUM」、邦訳 せりか書房刊「人間と空間」より)。
日本でも、人びとは、初め、山裾の森林を切り開いて定住・定着したと考えてよいのではないでしょうか。

   関東平野の西北の山沿い:群馬から埼玉にわたる
   「多胡(たこ)の碑」の「吉井」から「越生(おごせ)」「高麗(こま)」「飯能(はんのう)」あたりにかけて、
   朝鮮半島からの渡来人たちが定着した、と考えられている一帯がありますが、
   そこも緩やかな起伏の多い、のどかな田園風景が広がります。
   開墾される前は、ここも森林で被われていたと思います。
   なお、一帯にある地名:「甘楽(かんら)」「烏川」「鏑川(かぶらがわ)」「神流川(かんながわ)」は、
   いずれも「カラ」「韓(から)」が語源と言います。
 
   佐賀の弥生期の「吉野ヶ里遺跡」も、
   当初は、森に被われた襞の多い丘陵の縁辺のいくつかのムラが始まりだったようです。

これらのことは、少なくとも日本では、先ず初めに、山や丘陵の麓の樹木に被われた「こじんまりとした潜み」が定住・定着の場所として選ばれている、ということを示しています。
そして、時が経つとともに、藤原京、平城京へと、徐(おもむろ)に、怖ず怖ず(おずおず)と、より広い空間:平野へと出てゆくのです。

初めに「こじんまりとした潜み」が選ばれる理由は、そこでならば「定位」が容易、つまり、「安心が容易に得られる」からにほかなりません。
その程度の広さ・大きさの空間が、字の通り「手ごろ」だからなのです。
言い方を変えれば、「定位」のために「手を加える」必要がない。つまり、そこなら「途方に暮れる」ことがないのです。一言で言えば「分りやすい」。

1960年代、このあたりをよく歩きましたが、「今を生きる人びとの集落」が、ごく自然に古墳や遺跡と並んで在る姿に「和み」を覚えたものです。
多分それは、その場所:空間に、「ここで暮せる」「ここなら暮せる」という気分を私が感じたからにほかなりません。

   このことについては、すでに、筑波山麓を例にして下記でも書いています。
   古代、筑波山麓にも人びとが初めに住み着いています。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/3705be0597d34c5d34aa9c9d28009677
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/31a97d11acdc29d010ec4d548e7df7b5

それから30年後、あたりを歩いたとき、すでにその「空間」は失われていました。集落が、「現代の」家並に囲まれてしまっていたからです。
別の言い方をすれば、気持ちよく散策することもできず、「途方に暮れる」風景の連続だった。

おそらく、「現代」は、「ここで暮せる」という「空間」は自らの住居の中に限定され(それさえもきわめて怪しげなのですが)、「定位」の連続、その必要性を「失ってしまった」あるいは、「それで構わなくなってしまった」と考えてよいのでしょう。

かつては、私たちの暮す「空間」は、「面」に広がり「線」で繋がっていたのですが、いまや、個々バラバラの「点」の「無秩序な集合」になってしまった、と言えばよいでしょう。
前後左右無関係バラバラの「空間」で構わない・・・。それでも、表向きは「途方に暮れない《つもり》」でいられる。
「無縁社会」になってあたりまえなのです。

しかし、本当はそうではない。その証拠がカーナビの隆盛。人にとって、「定位」が重要なのです。しかし、自分でやれなくなってしまった。それだけの話。

   このことについて、
   すでに半世紀も前、唐木順三氏が、
   「途中の喪失」というエッセイで(筑摩書房刊「現代史への試み」所載)
   道草をしながらの登下校と通学バスでのそれとの比較、
   歩く旅と鉄道や飛行機によるそれとの比較などを通して論じています。
   私たちは、「途中」を無意味な過程と考えている気配があります。
   「古代」には「途中」があった。それは少なくとも「近世」までは継承された。
   そして、私たちの時代は、途中を省くことを奨め、それを「合理化」と言った。

以上は、日本の場合です。
世界中が日本と同じではありません。
たとえば、降雨量の少ない地域では、日本と違い、山裾に居を定めることはありません。山裾では、飲み水が得られないからです。
人びとは、水を得られる場所に向います。あたりで一番標高の低い場所、そこで辛うじて地下水に接近することができるからです。もしも、そこで水が湧いてでもいようものなら、そこは最高の場所です。それがオアシス。
多くの場合、そういうところは、日本の山裾のように「潜み」などはなく、いわば広漠としています。山々は、遥か遠くに見えるだけ。
つまり、基本的に「途方に暮れて」しまってもおかしくないところ。
しかし、人はそういうところに暮さなければならない。
彼らが「途方に暮れない」ために頼りにしたのは、きわめて壮大なものでした。天空です。
乾燥地域の空は澄み切っています。数限りなく星が耀きます。それが磁石の指針、現代のカーナビ。
彼らは、夜空の天体の様相を頼りにして「途方に暮れる」ことを避けたのです。

日本固有の星の呼び方:呼び名は、「昴(すばる)」だけだと言います。まして固有の「星座」名など・・・。
日本で知られる星座の名称に、「蠍」「水瓶」・・など乾燥地域でなければ見かけない、あるいは必需品でない、そういうものの名があるのは、いかに彼らが天空を観ていたか、その証なのです。日本はそれを必要としなかった。ゆえに、日本固有の星占いもない・・・。
第一、日本の天空は、湿気で霞んでいることの方が多い・・・。

そして彼らの住まいも、日本のそれとは、形状が異なります。自然の地形が頼りにならないため、人工的に「地形」をつくることに精を出すようになります。これは、いずれ、もう少し詳しく書こうと思っています。

日本の話に戻ります。
明日香のような山あいの地に居住した人びとが、平地へ、徐に、怖ず怖ずと出てゆく。
その「展開」はどのようにして可能になってゆくか、そのあたりについて、次回考えて見たいと思います。

長くなりました。ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

The Last of the Great Aisled Barns-3

2010-10-08 09:58:26 | 建物づくり一般
“Silent Spaces――The Last of the Great Aisled Barns ”( Little, Brown and Company 1994年刊)所載の建物の紹介続きです。




写真下の説明によると、
これは先回紹介したノルマンディのセーヌ・マリティム地域の南西にあたるカルバドス地域(地図の黄色線の四角に囲んだ一帯のどこか)に残されている12世紀後半~13世紀初頭に建てられたと思われる Benedictine 派の修道院(abbey)に属する小修道院(priory)。
近年、半分に仕切る壁が設けられ、農作業用の納屋として使われている。

先回の例とは違い、石積み造りの上に木造の小屋(この場合はトラス)を載せる方法です。
アーチで支えられた石の壁の上に、小屋梁を受ける「枕木」が据えられています。
そのあたりは、版築土壁の中国の寺院と同じです(その流れをくんだと思われるのが古代日本の木造寺院で使われた「頭貫(かしらぬき)」)。

この書の著者:写真家(Malcolm Kirk 氏)は、このような Aisled Barns を Multifunctional Buildings と呼んでいますが、まったくその通りです。
「上屋+下屋」方式でつくる方法は、もしかしたら、地域や建築材料によらず誰もが考え付く工法なのかもしれません。

下の写真は、「小屋」と「柱頭」( capital )の詳細。「柱頭」がそれぞれ違っています。
10~13世紀の頃、各地にあったローマ時代の遺構から「材料」を集めてつくることが多かったそうですから、もしかしたら、これもそうかもしれません。しかし、それにしては、大きさが同じ・・・。

壁部分の詰物には煉瓦も使われているようです。

壁に見えるいくつかの窪みは、各柱の直上で、同じ高さにあることから推定すると、壁を積んでゆくときの足場用ではないでしょうか。
先ず石でアーチをつくり(形枠の上)、煉瓦や石を詰めてゆく(セメント:接着材は石灰:漆喰:シックイでしょう)、そのときの足場。
丸太など木材を柱の手前に柱ごとに縦に立てる。アーチの逆V字型部分に少し詰物を積んだ後、そこに横材になる木材の片方の端部を載せ、もう片方を先の縦丸太に結わえる。
この横材間に足場板になる材を渡し、詰物を積み続ける。詰物の材料は、バケツのような容器にいれてロープで持ち上げる。
一定の高さまで積むと足場を一段上げる・・・。多分こういう工程をとったのではないかと思います。
詰物がそのまま見えているところが、いい。後には、そうした詰物の上に化粧の材を貼り付けるようになる。


よく見ると、部分的に亀裂補修の跡が見えます。色から判断して、今の一般的なセメント:ポルトランドセメントを使用していると思われます。

   蛇足 石灰:シックイは気硬性、ポルトランドセメントは水硬性。
       シックイは石灰の中国読み。




建物をつくるとはどういうことか-2・・・・うをとりいまだむかしより‐‐‐‐‐‐

2010-10-05 09:23:37 | 建物をつくるとは、どういうことか
◇私たちは「囲まれている」

今回は、図面の「白い部分」とは何か。

先回載せた前川自邸の平面図を借りて話を進めます。
ただ、話を進める都合上、原図にあった家具、棚などの類は消してあります。



この平面図の中央部にある室:居間:の南面と北面は、床までの開口:「掃き出し」です。
南は屋根まで吹き抜けで、全面開口です。北も同様ですが、吹き抜けの中途に二階の廊下:ギャラリーがあり、開口は上下に二分されています。居間への入口はギャラリーの下にありますから、そこからは北面の上部は見えません。

まだ明るい夕暮れ時、この家に暮す家人が、外出から帰ってきたとしましょう。
おそらく、黄色の線のように歩いて〇印のところまで来る。
この図面では、この室は真ん中に何もない。畳敷きなら、それもあり得ます。
そこで、畳敷きであるとしましょう。

疲れた、とにかく一休み、と床に腰をおろす。そのとき、どっちを向いて腰をおろすでしょうか。

おそらく、私だったら南の方:南側の庭の方:を向いて座ると思います。
「歩いてきた成り行き」で、北の庭の方へ向き直って座ることはないと思われます。東あるいは西の壁の方を向いて座ることもないでしょう。
  読まれている方も、試みてください。あなたならどうするか。

あるいは、この室の真ん中に、四角のテーブル:卓が室の各面に並行して置かれていたとしましょう。そのとき、私は卓のどの辺に座るでしょうか。
多分、卓の西側、右手に南庭を見る位置に座るのではないか、と思います。北庭を背にする、あるいは南庭を背にするとは考えにくい。
まして、東側に座ることはないでしょう。

卓がないときは、南を向いて座る、卓があるとそうはしない・・・、卓がある、なしで微妙に変ってしまうはずです。

もし、この家を訪ねてきた人だったらどうでしょうか。
その場合も、この家の主を尋ねてきたのか、よくある《内覧会》などで「建物を見に」きたのかによって違います。

この家の主を尋ねてきたのであるならば、〇印のあたりで、家の主の指示のあるまで待つでしょう。

「建物を見に」きたのであるならば、おそらく、いや多分、壁や床や天井・・・・を見るはずです。これは、建築《鑑賞者》の「常識的行動」。そしてまた、多くの《建築家》の「常識的行動」でもあります。
この「(多くの)建築家の常識的行動」は、先に見た「家人の行動」とはまったく異なることに注意する必要があります。
家人そして客人は、そのように「部分」をしげしげと見ることはありません。

   「立面図」を気にする建築家が意外と多い。
   ところが、できあがった建物の立面をしげしげと見るのは、建築家や建築評論家あるいは観光客。
   一般の人、あるいはその建物を普段使っている人は、しげしげと見ることもせずに通り過ぎるのが普通です。
   しかし、しげしげと見ることはなくても、その建物はイヤだ、とか好ましいとかは感じている。
   ただ、そこを使っている限り、イヤだからといって使うことをやめるわけにはゆかない・・。
   これが建物の「宿命」。押入れにしまえないのです。


さて、家人、客人、はたまた鑑賞者のどの立場であっても構いません。
〇印の所へ到達したとき、魔法がかかり、目の前にあった「平面図の黒い部分」が突如として消失してしまった場面を考えてみましょう。
つまり、そこに在るのは自分だけ。
多分、「立ちすくむ」以外にないはずです。字のとおり、「途方に暮れる」という状態。
これは、目隠しをされて何もない荒野に連れてこられ、目隠しをはずされ放って置かれたに等しい。

このとき、「白い部分」がなくなったのではありません。
なくなったのは「黒い部分」であって、言うなれば、あたり一帯すべてが「白い部分」になってしまったに過ぎない。私たちは「白い部分」の海に埋没してしまった。

このことは、「黒い部分」とは何か、示唆しています。
すなわち、
「黒い部分」とは、「私たち」が「途方に暮れない」ために、「探すか、あるいは、つくったもの」であるということです。
そこから、砂漠の民や海原に出た人たちが、天上の星を頼りにした理由、ひいては、天上に「星座」を見出した理由も分ってくる筈です。


ところで、今仮想したような、突然魔法がかかったり、目隠しをされて連れてこられる・・・などということは、私たちの日常では普通ではあり得ません。それが「日常」です。
つまり、私たちの行動は、常に、「途切れることなく連続」しています。
とかく忘れがちですが、これもきわめて重要なことです。

では、私たちの「連続した行動」は、どのように「実現」しているのでしょうか。

先に掲げた平面図に、黄色の線を書き込んであります。多分、このように歩くだろう、という「軌跡」を(私が)想定した線です。

平面図を見て分るように、平面図上に書かれている「通路」は、曲る箇所ではすべて直角に折れ曲がっています。
一方、黄色の線は、ところところで、直角ではなく、斜めに描いてあります。
それは、それぞれの所で、「その方向に歩を進めるのが自然だ」、と私が判断するだろうと思えるからです。
それは、私の目の前に広がっている「ものの集合」を見ての「咄嗟の判断」です。
すなわち、「あちら」の方へ行こうとしている自分が、目の前に広がる「ものの集合」を見て、自然と足が向く方向、それが「斜め」に結果するのです。あるいは、なるべく「近道を」、という気分が働いているのかもしれません。

   イグ・ノーベル賞をもらった「粘菌」の行動は、そういうものらしい。

これは目の見える私たちの場合ですが、目の見えない方がたも、慣れてしまうと斜めに歩けるそうですが、初めての場面ではきわめて難しい、という話をきいたことがあります。
だから、点字ブロックが直角ではなく斜めに曲るように敷設されている例を見かけますが、初めてそこに来られた目の見えない方にとっては混乱の原因になるのです。

それは、目の見えない方がたは、自分の前方と、自分の左右という直交軸でものごとを感じて自分の位置を知る、「定位」の根拠とするからだそうです。言うなれば、直交軸の交点:中心に自分が居る。
自分を中心:0点に据えた直交座標をつくっている、と言った方がよいかもしれません。

   点字ブロックを敷設さえすれば、目の見えない方がたへの「対策」が済んだ、というのは
   目の見える人の「思い込み」にすぎないのです。

しかしこれは、目の見えない方がただけではなく、目の見える私たちもまた同じです。
複雑に曲がりくねった道が多数ある村落よりも、碁盤目状の条里制の道路の街が分りやすいのは、「定位」が容易だからなのです。
私たちも、目の見えない方がたとまったく同じ「定位」の行為を日常的に行なっているのですが、それを意識していないだけなのです。

   私の住んでいる所は、初めての人はかならず迷子になります。道が微妙に曲っているからです。
   よく道を尋ねられます。遠方から来た人も隣町の人もいます。手には地図を持っています。それでも迷う。
   地図の上のどこに今いるのかが分らなくなっているからです。
     カーナビはそのためのもの、などとは言わないでください。
     「カーナビで分った」ということは「地理が分った」ことではないからです。
   昼間でさえそうですから、夜になったら迷うこと必死です。
   しかし、住み慣れると、「住み慣れた範囲ならば」、夜でも歩けます。
   それは、「日常」の暮しが、そうさせるのです。
   そして、考えてみれば、そこに暮す人びとにとって分れば、それでいいのです。
   「よその人」が分る必要はない。これがかつての村落の構造の基本だった。

くだくだと書いてきましたが、これらのことは何を意味しているのでしょうか。

それは、私たちは、「私たちを取り囲むもの」を常に(無意識のうちに)「観て」、それにより「私たちの中に生じる『感覚』に応じて行動をしている」ということを示しているのです。
私たちは「取り囲まれている」、言い換えれば、私たちは常に「私たちを取り囲むもの」の中に「居る」、あるいは「在る」のです。
そのような「もの」の海の中に居る、在ると言ってもよいでしょう。

この「私たちを取り囲むもの」を言い表す適切な言葉がありません。

通常使っているのは「空間」です。英語で space ドイツ語では raum 。
適切でない、と言ったのは、この語彙は、外国語でも、多様な意味に使われ、したがって、注意しないと混乱を生じてしまうからです。


以上ざっと書いてきたことが、私たちの「日常」の大雑把な姿です。
そして、この「日常」は、常に、「意識することなく」営まれています。

ところが、「このことを意識下に置こう」とするとき、「妙な事態」が生じるのが、これまた常です。
すなわち、
「私たちが常に“空間”“space”“raum”に居る、在る、ことは間違いない事実である」と認めた上で、
では、
「人」と「空間」とは、どのような関係にあるか、
という脱け出すことが容易ではない「議論」に陥ってしまうことが多いのです。

この「議論」は、私たちが得てして気付くのを忘れてしまう「落し穴」です。
そしてまたこれは、「建築」を論じるとき、よく陥る「落し穴」でもあります。
先回紹介した西山氏と丹下氏の「論争」もまた、この「落し穴」のなかでの「論争」であった、と私は考えています。
そして現在の多くの建築の研究の「基盤・前提」も同じです。

なぜ脱け出せない「落し穴」であるかは、すでにくだくだと書いてきたことでお分かりいただけるはずです。
このとき話題の対象にしている「人」とは、抽象的なそれではなく、「日常の生活をしている人、暮している人」のこと。
私たちの「日常」は、「空間」で営まれている、「日常」と「空間」は切っても切れない関係にあること、はすでに見てきた通りです。
したがって、一方に「人」「人の日常」があり、他方に「空間」があり、その二者の関係を論じる、という「論議」自体、成り立たないのです。
そういう「論議」は、「人の日常」は「空間」に於いてなされている、という事実を忘れてしまっているから生まれるのです。
そのような二項対立的論議は、両者をともに「抽象」したときにはあり得るかもしれませんが、
建物づくりで考えなければならない論議は、「抽象的な人(の生活・暮し)」ではなく、「日常」のそれ、すなわち「生き生きとした私たちの姿・実態」のはずです。

しかし、「近代科学」の名の下では、得てして、一方に「人」「人の日常」があり、他方に「空間」があり、その二者の関係を論じる、二項対立的なものの見方が主流を占めてきた。
1950年代の西山氏と丹下氏の「論争」は、いわばその表立っての先駆けであり、以後何等の進展がなかった点では掉尾を飾るものでもあった、と言えるのではないかと私は思います。

   今は、このような二項対立的ものの見方さえ失せてしまっているのではないでしょうか。

この二項対立的なものの見方、発想を生んでしまうのは、「一つの語に対して一概念が対応しているように見えてしまう」ということに拠るのかもしれません。
ある意味では、言語というものが必然的に持ってしまう「特徴」「性質」。とりわけ、西欧の言語:表音文字系の言語には多いようです。それに「近代の思考」が飛び付いた・・・。

考えて見るまでもなく、私たちが抱く「概念」は、必ずしもそれに「ある一語」が対応する、というものではありません。
逆に言えば、ある一語が意味するものは、とりわけ表意文字体系の一語では、きわめて「幅が広い」のです。したがって、何らかの修飾語を付したり、あるいは「文体」の中で位置付けないと、その「幅」を限定することができないのです。

しかし、ここに書いたことを忘れると、論議は滅茶苦茶な状態になってしまいます。
今の建築に係わる「研究」の多くがその「落し穴」に陥り、そしてそれが多くの不条理な「指導」を生み出している・・・。

このような二項対立的なものの見方の持つ危さについて、すでに中世になされた「鋭い指摘」を私たちは知っています。

   ・・・・
   うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、
   鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。
   しかあれども、
   うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。
   ただ用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。・・・
   鳥もし空をいづればたちまちに死す。
   魚もし水をいづればたちまちに死す。
   ・・・・

これは、鎌倉初期を生きた道元(どうげん)が「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」に書き記している文言です。
いつの世でも、表意文字の国でも、「対象」「事象」を二項対立的に見てしまう、それによって簡単なことをも複雑にしてしまうこと、すなわち、得てして人が陥りやすい状況について、道元は問い質したのだと思います。

無機的な二項対立的論議に疑義を抱き、いろいろと考えていたとき、この文言に会いました。そのときの驚きは今でも忘れられません。
私たちは、いかんともしがたく「空間に在る」のだから、そのありのままに接しようとすることは誤りではない、そう後押しをしてくれたのです。
   
   「正法眼蔵」に「正式に」接したのは、石井恭二氏による現代語訳(河出書房新社、1996年初版)。
   初めに接したのは、学生時代、唐木順三氏の諸著作を通じてでした。

これが、昔、私がたどり着いた地点。
「私たちは常に空間に在る」。それが図の上の「白い部分」。
白い紙に、線を引くということは、だから、おそろしいこと。
それを考えることからすべてが始まる。

The Last of the Great Aisled Barns-2

2010-10-02 12:31:44 | 建物づくり一般
先回紹介した barn の詳細です。
“Silent Spaces:The Last of the Great Aisled Barns”からの転載です。



建っている場所はノルマンディ、下の地図の黄色の円で囲んだあたりにあるようです。
上の写真の説明に、地名が出ていますが、この地図には見当たりません。
蛇行している河はセーヌ川。地図は、昭文社刊「世界地図帳」より。



13世紀の Templar Barn とありますが、 Templar が何を意味するのか、よく分りません。
どなたかご存知でしたらご教示ください。

なお、 five-bay とは、「柱間」が5、つまり5間という意味です。「柱間」を bay と言います。

また、柱の説明もよく分りません。
説明文の字が小さくなってしまいました。
そこには、こう説明が書いてあります。
 Each arcade post carries double plates, one cantilevered inward above the other.

double plates とはどのことか分らないのです。
どなたかその解釈を・・・。

柱はオーク、樫のようです。
上まで一木で、方杖の足元を載せるための柱の突起部の刻み、感動します。まったく素直。何の衒いもない。

垂木は棟位置で相欠きで交叉しているように見えます。

いずれにしても、現在は(写真撮影時は)農業用の納屋に使われていた。
こういう事例は、つまり宗教施設が農業などの用に供されるなどということは、日本では、聞いたことがありません。
もしかしたら、昔はあったのかもしれませんね、廃寺などで。
もしご存知でしたら、お教えください。

なお、この書物は、一貫して、「ロマネスク建築」・・・という言い方で括ることをしていません。

建物をつくるとはどういうことか-1・・・・建「物」とは何か

2010-10-01 00:38:32 | 建物をつくるとは、どういうことか
◇「建物をつくる」とは、「物」をつくることではない、ということ

今、多くの方が、モニター上で図面を描き、プリンターで図化しているのではないでしょうか。
しかし、私たちの世代は手描きの時代。
トレーシングペーパー(以下トレペと記します)に鉛筆や墨で手描きで図を描き、それを「青焼き:青図」にするのが普通だった。今では、その場合でも電子コピーになり、「青焼き:青図」はまったく過去のもの。
それゆえ、「青焼き:青図」を知らない人の方が多いと思われます。

「青焼き:青図」は、簡単に言えば「日光写真」と同じ理屈。
印画紙にトレペを重ねて光の中を通して現像すると青色の地に描いた線が白抜きになって仕上がる。
これはきわめて保存性能が高く、日時が経っても線が消えてしまうということはありません。
下の図は、この表示法による前川自邸の平面図。青地ではなく、黒地にしてあります。



この「青図」も、青と白が逆転する「白図」と呼ばれる方式が生まれてきます。これは、現在の電子コピーやプリンターによる表示法、一般に書物に載る建築図面と同じです。
「白図」の場合は、白地に線が青で記されます。ただ、これは青図とは印画紙の薬剤が違い、保存性能はきわめて悪い。線が消えてしまう:退化してしまうのです。

この表示法で示した前川自邸の平面図が下の図です。普通、書籍などでは、この方式。



    図の描き方にもよりますが、一般には、
    青図式の表示法の方が、各室や庭などが、浮き上がって見えます。
    白図の場合は、区画するもの:壁など:の方が目に入りやすい。
    ゲシュタルト心理学でいうところの「地」と「図」の関係です。

こういう時代、ある方が、これは書物に載った図面を念頭に置いているのですが、
「白い部分をつくりだすために黒い(青い)部分がある」
という名言を残しています。
長い前説は、この名言を紹介するためのもの。

つまり、「白い部分」、いわゆる「室」に相当する部分は、「黒い部分」、つまり「壁」なり、「柱」なりがなければ生まれない、ということ。
そして、通常は、白い部分の上には屋根があり、外から見れば、外周と屋根からなる「立体」に見えます。この「立体」を、普通「建物」と呼んでいるわけです。

ただ、以前に紹介した中国西域の住居のような全体に被さる屋根:上蓋のない場合には、全体がそういう「分りやすい」立体物になっていませんから(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/96fa99810f1b340e57b5b01db1b38e7b)、「建物=箱」の見かたに慣れた人は、どれが「建物」なのか、ハタと困るわけです。
そして、そういう場合を、日本人の多くは、「建物」と計画的な「庭」からなるコートハウス形式などと呼びます。どうしても「建物」:上蓋の付いた「立体」:がないと合点がゆかないからなのでしょう。

この「建物=箱」は、当然ですが、かならず「形」を持ちます。
そこで、多くの人、特に建築設計に係わる人たちは、その「形づくり」を気に掛けます。
いわゆる「造形」です。そこで、建物づくり:建築も「造形芸術」の一つと見なされるわけです。
おそらく建物づくり:建築に一番近いと考えられるのが「彫刻」でしょう(「現代芸術」でいうインスタレーションなども含みます)。実際、そのように考えて設計しているのではないか、と思われる建築家もいます。

では、
建物づくり:建築を、そういう「造形芸術」と同一の類に括ることはできるのでしょうか?
括るのは根本的に誤りである、と私は考えます。
それゆえ、建物づくりについて、「そのような意味での造形」面から論じたり考えたりすることも誤りである、と考えます(昨今の「建築評論」には、こういうのが意外と多い)。
理由は簡単です。
いわゆる「造形芸術」は、気に入らなければ近付かなければいいし、何なら「押入れにしまって」しまえばいい。
しかし、
建物づくりの「造形」の場合は、私たちは、否が応でも、それに付き合わなければならないのです。気に入らないからと言って、「押入れにしまう」ことができない。
なぜなら、建物づくりでつくられるものは、
それがたとえ特定個人に係わるものであっても、かならず「不特定多数の人びとが係わらざるを得ない」ものになってしまう、
というのが厳然たる事実だからです。
簡単に言えば、個人のものであっても、かならず他人の目に触れるものになってしまう、ということです。

だから、「他人の目」「他人のこと」を考えてない建物づくりは、得てして、不愉快な気分に人を落し込みます。

もちろん、このときの「他人の目」「他人のこと」とは、《芸術鑑賞》者のそれを言っているのではなく、「日常を暮している人の目、人のこと」です。
簡単に言えば、「見たくもない人まで、無理やり見なければならない」というのは、あってはならないのです。

   註 昨今生まれる家並み、町並みが、かつてのそれに比べ馴染めない理由はそこにあります。


さて、仮に「外形」の立体:「建物」:を認めたとしましょう。

問題は、その先です。
この「外形」すなわち「建物」と、内包されている「白い部分」とが、
どのような関係の下で成立しているのか、
あるいは
まったく関係ないお互い独立の事象なのか、
という点についての考察です。
   註 最近は、どうやら、まったく関係ないお互い独立の事象、という考え方が主流のようです。 

そのとき、全体に上蓋が被さらない中国西域の住居がヒントを与えてくれます。
すなわち、
「建物をつくる」ことをして、「建『物』をつくる」、つまり「上蓋のある立体物:箱をつくる」こと、と理解してはいけないのです。
「上蓋があるか否か」つまり「箱」になっているかどうかは、「建物をつくる」こととは関係がない、ということを、中国西域の住居の例は示しています。
あるいは、「建物をつくる」ことをして「建『物』をつくる」という「解釈」では、少なくとも、中国西域の住居の例を、それが住居であるにも拘らず、説明することができません。

「住居」というものを理解するのに、いくつもの「解釈」法がなければならない、というのは、どう考えてもおかしいのです。

   註 でも、建築に係わる方がたは、意外とそういうのがお好きのようです。
      たとえば、
      往年の日本の建物づくりを解釈できない「理論」をつくる、などは、
      その最たるものでしょう。

では、
「建物をつくる」とは、どういうことなのか。

そのことを、先の「名言」は明快に語っています。
すなわち、「白い部分をつくりだす」こと、それが建物をつくることにほかならないのです。

では、「白い部分」とは何だ。

これが次の問題です。

この、建物づくりで最大にして根源的な問題について、これまでも散発的には書いてきましたが(一例:下註)、次回、その点に「集中して」私の考えを書くことにします。

   註 ここに書いた「黒い部分、白い部分」については、
      ライトの「落水荘」を題材に下記でも書いています。
      ただ、「白い部分とは何だ」という点については、詳しく迫っていません。
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ca8d0d32d8257caa77e34e53f37acf60
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