学問の植民地主義

2006-12-23 22:35:01 | 「学」「科学」「研究」のありかた
 先に3回にわたり喜多方の煉瓦造建築を紹介した。

 通常、このような新しい工法などが導入されるとき、得てして、それまでの建物づくりにかかわる「実業家」:職人の職種の中には、消えざるを得ない職種が生じることが多い。たとえば、湿式工法から乾式工法への転換は、多くの左官職の仕事を奪っている。
 ところが、喜多方で煉瓦造建築が盛んになって、不要となった職種はなかった。それは、喜多方で主流となった工法が、木骨煉瓦造だったからである。
 喜多方の従来の工法は、土蔵造も含め、主体は木造軸組工法であり、関連する「実業家」は大工、鳶、瓦屋、左官、建具などであるが、木骨煉瓦造では、それに新たに煉瓦職が加わったに過ぎなかった。
 仕事を仕切ったのも従前どおり大工であった。樋口窯業の登り窯のわきの部屋には、こういった実業家たちが集まり、技術を磨いていたという。

 ところで、周知のように、煉瓦造建築は、石造とともに、明治政府が建築の近代化:西欧化にあたり推奨した工法である。
 建物の欧風化と並行して全国的に展開した鉄道敷設や軍事施設の建設も、煉瓦を必要としたため、その需要に応えるため、各地に多数の煉瓦焼成工場が設立された。1900年(明治33年)には、東京および周辺4県だけでもホフマン窯20基、登り窯50余基が稼動していたという(「明治工業史」による)。

 近代建築史の通説では、「明治24年(1891年)の濃尾大地震以降、煉瓦造は地震に弱いという評判が地下水のように地方の人々の耳に浸みこんでいた。・・」(村松貞次郎「日本の蔵」)と書かれるように、煉瓦造は濃尾大地震を契機に下火となり、大正12年(1923年)の関東大震災をもって終りを告げる、と説かれている。
 この通説が誤りであることは、喜多方では、明治30年代以降に盛んになったことで明らかだ。ちなみに、先の村松論文は、実は、喜多方の煉瓦蔵の解説として書かれたものなのだ!ということは、村松は、喜多方の煉瓦蔵について、何も知らなかったということ。だから《専門家》は恐ろしい。

 では、煉瓦造は本当に地震に弱いのか、弱かったのか?
 大正13年(1924年)、前年の大震災について、各面にわたる記録を集めた「大正大震火災誌」(改造社)が刊行されている。その中に、注目すべき一文が載っているので紹介する。
「・・明治中期以降には洋風建築も主として日本人の手で設計され(るようになる)。明治24年の濃尾の大震災は非常に当時の建築家を驚かし、その設計、構造、施工に非常な注意を払ふに至った。それ故にこの頃の建築は煉瓦造でも今度の地震(関東大震災)に比較的安全で、被害も左程激甚でもなく、火事で焼かれたものでも復興は困難ではない。その後の(註:明治末から大正にかけてのものを指す)建築の方が・・反って油断の為に不成績を暴露したものが多い。・・」(同書 岡田信一郎「失はれたる名建築」より)
  註 岡田信一郎
    1883年(明治16年)生まれ、帝大工科大学卒。東京美術学校、
    早稲田大学で教鞭をとる。
    主な設計
    大阪市中央公会堂(1917年、設計競技当選、岡田の原案を基に完成)
    歌舞伎座(1924年、戦災を受けたが教え子吉田五十八の手で復興)

 一方、明治の中頃から大正にかけて、一層の近代化を目指し、一部の建築学者の間に、西欧で始まっていた鉄骨造、鉄筋コンクリート造を導入し煉瓦造に代えようという動きがあり、さかんにその優秀性が説かれていた。震災は、それを説く《絶好の》機会であった。それは「大正大震火災誌」中の次の一文によく表れている。
「・・鉄筋コンクリートと称する詞が新聞や雑誌に可なり多く散見するやうになった、人の口からも度々聞くやうになった。吾々鉄筋コンクリートに関係があるものはそれ程通俗化したことを嬉しく思ふ。わずかに十年以前に比べても全く隔世の感を深くする程の変化を来し特に最近二・三年間に長足の進歩と実施を見た訳で斯界の為に慶賀すべき問題であり将来の発展を希望する。・・」(同上誌、土居松市「震災とコンクリート」)
 まるで震災を喜んでいるあたりは、現代の学者にも通じるところがある。

 ところが、岡田信一郎は、この点について、冷静な観察を行っている。
「・・最も強固であるべき鉄筋コンクリート建築は、設計者の疎漏や工事施工者の放漫によって最も危険なる建物になる。・・」

 岡田の言うように、震災の被害に遭った建物は、材料や工法とは関係なく「壊れるべくして壊れた」というのが本当であって、煉瓦造は地震に弱い、というのはいわゆる風評、さらに言えば意図的な宣伝で、世論操作であったとみてもおかしくないのである。
 これは木造建築についても同じで、「筋かい」はこの頃から宣伝され始める。「筋かい」が主要部材として日本の建築界に表れるのは、この頃からである(日本の建築史には、主要部材としては、一度も出てこない)。

 言ってみればこのような動きは、一定の文化と論理をもったわが国の建物づくりの世界へ、一握りの新興の建築家、建築学者が、《権威》をかさにきて、手前勝手な論理を専制的に押し付けようとした動きにほかならない。

 そしてこの動きは、第二次大戦後、是正されるどころか、ますます激しくなってきている。ある雑誌に、「これは、建築家・建築学者による植民地支配・帝国主義にほかならない」と私は書いた(「建築文化」1986年8月号、「1パーセントの建築家」)。
 この点については、さらに別途書かせてもらう。 

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