SURROUNDINGSについて・・・・13(了):勘定できないことも、勘定に入れなければならない

2012-04-28 18:34:31 | surroundingsについて
[補注追加 30日 11.35]

山梨へ行く機会が多く、そのたびに、「ある思い」を抱いて帰ってきます。
それは、二つ。
一つは、中央線の車窓から見る、高尾山の麓に至るまでの間、延々と続く家並の「凄さ」。
もう一つは、帰路、中野あたりから見え始める新宿の高層ビル群の「おぞましさ」です。

東京に住んでいて、
切れ目なく、果てしなく続く家並を、おかしいと思う方はいないのでしょうか。
新宿の競い立つ高層ビル群の「風景」を、汚い、醜い、と思う方は居られないのでしょうか。
   註 風景という語は、本当は使いたくありません。
こういう状態になったのは、そんな昔のことではありません。1970年代以降です。

1900年代の初頭、明治42・3年(1909・10年)測量の国土地理院(当時は陸軍陸地測量部)の地図でみると、東京の市街地は下図(「図集・日本都市史」東京大学出版会 刊より転載)のとおりです。

地図の黒く見える部分が市街地、白い部分は農地、山林等と考えてよいでしょう。

茨城に移り住む前は、東京の西郊に暮していました。
大学生の頃までは、まわりの状況は、この地図とほとんど変わりはなかった、と言ってよいでしょう。もちろん、明治の頃に比べれば、人家は増えてはいます。しかし、農地、山林はいたるところに見ることができたのです。
家の前には、広大な杉の林が広がっていました。そこは、その当時の「都市計画」で、いわゆるグリーンベルトに指定されていたのです。今でもその面影が残っていますが、所有者の代替わりの際の相続税で取られ、徐々に小さくなってきています。
通っていた高校は、グリーンベルトの近くに位置し、まわりは一面芝の栽培地、春先には肥料として撒かれた人糞まじりの砂塵がまともに吹付けてきたものです。 
   以前に触れましたが、現在の環状8号線の周辺がグリーンベルト。
   その外側は、市街化が制限されていました。
その頃、人びとは土地を容易に手に入れることができ、しかも100坪はおろか200、300坪の広さが当たり前でした。その一方、建築費はきわめて高かった。戦後の復興期、木材が高価だったのです。実は、これが住宅金融公庫の生まれた理由。建築費の補助が目的。

しかし、列島改造論議で、簡単にグリーンベルトは消失します。
特に注意する必要があるのは、地価の上昇をもって「経済の繁栄」と見なす、という政策がバックにあることです(当時の国土庁長官のアイディア)。
   このあたりのことについては、「日本に『都市計画』はあるのか?」でもう少し詳しく書いています。

その「結果」は、簡単に言えば、建築費>土地購入費であったものが、建築費<土地購入費に移り変わった。それはすなわち、宅地の狭隘化を促すことになります。
   「評価額」や「路線価」が騒がれるようになるのも、その頃からです。
   そして今は、地価が高いことがはよいことだ、というのが「常識」になっているようです。
   「評価額」「路線価」が下がると、メディアの多くは「悲観」的な論を張ります。
   私には、これがよく分らない。
   「評価額」「路線価」が下がることは、その土地に暮す人びとにとっては最良のこと、と私には思えるからです。
   市街地の中で貴重な存在であった農地や山林は、先にも触れたとおり、代替わりのたびに、
   「相続税」対策で切売りされ、小分けの宅地にされます(中央線沿いでは、30坪≒100㎡程度とのこと)。
   地価が高いため、狭隘化するのです。
   土地が天からの預かりものではなくなった。
   近世まで、土地の大きさではなく、間口の長さに税金が掛けられていたのです。

下の衛星写真は、最近の東京、新宿あたりです。


矢印マークは、都庁の近く。高層ビルの長い影が見えます。西は大体環状7号線のあたりまで写っています。
これが当たり前になっていますから、世界の大きな都市も同じだ、と思う方が多いかと思います。
しかし、それはまったく違います。

下は、同じスケールのロンドンの衛星写真です。
矢印マークは、いわゆるシティ呼ばれるあたりです。

何が異なるか、一目瞭然です。
ロンドンの写真で、黒く見えるのは樹林です。

東京とロンドンの矢印マークからおよそ10キロ程度の位置を、もう少し近寄って見たのが次の2枚です。スケールは同じです。
上が東京、下がロンドンです。ともに鉄道の駅のそばの住宅地です。



   これは、ほんの一例です。
   Google Earth で東京、ロンドンを検索して、いろいろな地区を観てみてください。
ロンドンの住宅も、多分二階建てが主でしょう。しかも、一戸が大きいようです。
なぜこういう違いが生じているのでしょうか。
日本は国土が狭く、人口密度が高いからだ、あるいは、東京一極集中だからだ、というわけではありません。
因みに、2009年のデータでは
大ロンドンの面積は1572平方キロメートル、人口は775万で総人口の約12%。
東京(「東京都」域)は2189平方キロメートル、1320万で総人口の約10%。
ロンドンの方が集中していることになります。
人口密度は、平方キロメートルあたり、ロンドン4932人、東京6024人。
たしかにロンドンの人口密度は東京の8割強。単純に計算すると、東京の50坪はロンドンの62.5坪にあたる。
しかし、この差が東京の様態をつくった、とは考えられません。

それを説明してくれるのが次の地図です。
   ロンドンをとり上げているのには、他意はありません。
   この地図があるからです。  
これは、現在のロンドンの地図に、
1888年(明治21年)の「ロンドン市界」、
「大ロンドン」の境界、
「景観保存地域」
などを書き込んだもの(帝国書院刊「基本地図帳2008」より転載)。
赤色の線で描かれた円は、都心から20キロ圏を示しています。


つまり、ロンドンにはこのようなヴィジョンが100年以上前からあり、それを継承し続けてきたのです。
一方、東京は、ときどきの「都合」で、「適当に」に変えられてきた。

なぜ「適当に」変えられたか。
その理由は、数値信仰。そのなかでも最も単純な「ものの価値を金銭で計る」ことが当たり前になってしまったからではないか、と私は考えています。

たしかに、「ものの価値」を「評価する」ことは難しい。
そこで、手っ取り早いのが「金銭に置き換える」こと。
金銭で計るなら、土地の価格も高いほどいい。それは地域の経済の活性化に連なる・・・。
そうなったとき、SURROUNDINGS への関心・気遣いなど、いっぺんに吹っ飛んでしまいます。
なぜなら SURROUNDINGS への関心・気遣いには、私たちの感覚、感性が係わる。
しかし、「人の感覚・感性」を「数値化する」ことはできないのです。まして金銭に置き換えることなどできない。ゆえに、無視、黙殺しよう・・・・、あるいは「金銭化」できるものだけとり上げよう・・・。地価がその一つなのです。

日本は西欧流の「合理主義」を是として積極的に受容してきました。しかし、何か「勘違い」をしているのではないか、と私は思っています。
「合理(的であること)」=「事象を数値化して捉えること」、と解してしまっているのではないか。

「ものの価値を金銭で計る」ことが当たり前になると、別の「動き」が生まれます。「個別の価値の追求」に励むようになるのです。
建物をつくるにも、まわりは関係ない、「自分の持物の価値」だけを考えるようになります。普通の人びとはもとより、「専門家」さえも、です。
以前、このことを、( SURROUNDINGS に対する)「作法」の喪失、と書きました。
その結果、街並み、家並も、かつての街並み、家並とは、数等見劣りするものになってしまった、と私は考えています。「作法」もまた数値化できない・・・。

   もしかしたら、そこには、個別の価値の足し算で全体の価値が定まる、という考えも潜んでいるのかもしれません。

ロンドンの地図の中に「景観保存地域」を区画する線が見えます。
「景観保存地域」の内容については詳しくは知りませんが、その広さに驚きます。20km圏はもとより「大ロンドン」はその中に入っています。東京で言えば、関東平野の大部分が入る大きさ。
   「景観保存地域」の内容について詳しい方は、ご教示ください。
日本にも「景観法」というのができましたが、個別条項の言及のみです。

何度も触れてきましたが、近世までの(少なくとも、それを多少とも引き摺ってきた昭和初期までの)日本の建物づくりには、 SURROUNDINGS の造成、という「理念」がありました。
西欧でも、「近代建築《理論》」以前は、同様であった、と考えてよいと思います。なぜなら、それが普通の、当たり前の感覚だからです。
どの地域であろうが、人が建物をつくるにあたっては、普通の、当たり前の感覚を拠りどころにするからです。

ところが、1900年代の西欧で、そうでない動きが出てきた。いわゆる「近代建築《理論》」です。端的に言えば、建物の建つ大地が、建築家のキャンバスと見なされるようになってしまったのです。あるいは、人の普通の目線ではなく、俯瞰・鳥瞰の目線でものを考え、つくるようになった、と言ってもよい。
たしかに、俯瞰・鳥瞰では、全貌がよく見える。
しかし、ここで気をつけなければならないのは、俯瞰・鳥瞰で見えているものが、俯瞰・鳥瞰の目線でつくられているわけではない、という事実です。少なくとも近世までは、洋の東西を問わず、普通は、人の目線を拠りどころにつくられていた
   例外は、ローマ帝国をはじめとする植民地での「町づくり」。
   権力を持つと、どうも、そういう風潮が生まれるらしい。
   現代の「建築家たち」もまた、「権力を持った」と考えているのではないか。
   「権力を持つ」とは、「他の一切を見下す視線を持つ」ということ。
   それが「理解不能」な言動・行動の因になっているのではないか。

第二次大戦後、「近代建築《理論》」にかぶれた日本は、明治初頭同様、「旧い日本」をすべて廃棄しようとしてきたのです。
その結果、建物づくりは、《個人主義》に走ります。個々の建物を取り囲んでいる SURROUNDINGS はどうでもよくなったのです。

何度も書きますが、建物は、不愉快だからといって、押入れや倉庫に仕舞いこむことができません。だから、見たくなくても目の前に現れてくる。つまり、不愉快は、その建物が立っている間は永遠に続くのです。これは一種の犯罪である、と私は思います。

最近の建築評論家諸氏は、個別の建物を「評論」します。しかし、その一帯の SURROUNDINGS を含めての評論を、私は読んだことがありません。
いったい、新宿の高層ビル群の街を、どう考え、どう評論するのでしょうか。
そしてまた、所狭しと肩を並べて建つ住宅群の密集を、それを生じさせた訳を、どのように評論するのでしょう。

折しも、直下型地震によって、膨大な数の木造住宅が被災するという「報告」がありました。それへの「対策」として言われるのが、いつものように、耐震化と耐火。
木造建築が悪者にされる。
江戸の町や各地の近世の町も、よく大火があった。しかし、それらの町の密度は、現代ほどひどくはないのです。その上で、きめ細かな防火・消防対策も講じられていた。
狭隘な土地に肩を接して建つのを当たり前、と思うのが間違い、そう私は思っています。人が暮してゆくには、それなりの SURROUNDINGS を要するのです。それは、肩を接してではありえない。
それゆえ、必要なのは、狭隘化の原因が何なのか、宅地が細分化される原因が何なのか、それを考えることこそが最大の対災害策なのではないでしょうか。
SURROUNDINGS は、勘定できない価値です。
しかし、勘定できないから捨てていい、というものではありません。
むしろ、勘定に入れなければならない最大の視点ではないか、と私は思っています。

その視点を持ったとき、近世までに人びとがつくりだした、日本の、そして各地域の、家並や街並み、いろいろな「もの」は、単なる《観光資源》:客寄せの道具:なのではなく、私たちの目の前に、私たちが忘れてきてしまった大事な「原理」を具体的に教えてくれる「もの」として表れてくるはずだ、と私は考えています。
実はそれが「観光」の真の意味なのです。「聴、観」です。そこに流れる風を感じ、光を観るのです。
   補注 下記でも同じようなことを書いています。[追加 30日 11.35]
       「わざわざ危ないところに暮し、安全を願う?!
       「危ない所が街になったのは・・・・江戸の街と今の東京の立地要件は同じか?

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「日本家屋構造」の紹介-2

2012-04-23 18:26:52 | 「日本家屋構造」の紹介


[註記追加、補注の表のズレ修正 24日 15.16]

原本は、「構造編」「図面編」とに分けてあります。したがって、結構読みにくい。
どのように編集すると分りやすいか考えた結果、今回は、「構造編」の解説文と、「図面編」の解説図を、隣り合わせになるように編集して載せる方法を採りました。
しかし、すべてがうまくゆくとは限りませんので、後になって変えるかもしれません。
今回は、紹介の試行版です。
なお、原本には汚れがありましたので、可能なかぎり消去しました。

今回の合併掲載部を印刷すると、若干ボケますが、読むことはできます。
   もう少し鮮明な図版は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリー
   「日本家屋構造」を検索して得られる PDF 画像から印刷できます。
   ただ、その場合は、構造編、図面編別々に検索することになります。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

解説は、木材の成育場所による違い、日向か日陰かによる違いから始まります。

 註 欠けて読めない文字
   4行目最後の字:傾斜を「成」す
   5行目最後の字:其下方に「面」したる(その下方に面した)


 図中の字句の注解  文字は、右から左へ読んでください。
   釿:ちょうな(手斧)音:きん、こん   普通は「手斧」を使うようです。
     右下の図は、手斧の刃を正面から見たものと思われます。
   鉋:かんな
   墨壷:すみつぼ 
   墨指:すみさし




一段目は、木材の「腹」「背」の成因についての解説。
二段目は、木材の取得法ならびに往時の運送についての概説。第五図の右下の断面図の赤線は、原本では「太線」として表示されている部分です。
三段目は、木表、木裏について。(往時の)製材道具について。
四段目は、製材法の解説。
五段目は、木材の収縮の状態、木材のクセに応じた使い方について。


 補 注 
   樹木の成長の仕組みと木材の性質、あるいは木材に含まれる水分などについての補足説明を、
   一昨年の講習会(「伝統を語る前に」)で配布した資料から、抜粋して転載します。
   ただ、資料中にあった写真は省きます。

 1.樹木の成長の仕組み・・・・樹木は生き物

   樹木は、樹皮とその内側の形成層木部から成っています。
   形成層とは、樹木の成長している部分です。
   形成層は樹皮のすぐ内側の厚さは数分の1mmほどの薄い層です。
   木部は、辺材(へんざい)と呼ばれる外側の部分、心材(しんざい)と呼ぶ内側の部分からなります。
   製材された板などを見ると、白い部分と赤味を帯びた部分があります。
   白い部分が木部の樹皮側の場所:辺材で、白太(しらた)と言い、
   赤味を帯びた部分が木部の芯に近い:心材で赤身(あかみ)と呼んでいます。                                 
   樹木は根から養分・水分を吸収し、辺材を上昇して葉に至り光合成で新たな養分に変り、
   樹皮部を降下して形成層に供給され、細胞が螺旋(らせん)状に増殖します。
   そのため、製材後、材が捩れる原因になったり、螺旋状の捩れた木理が現れる場合もあります

   また樹木の成長は季節によって度合いが違うため、日本のように四季のある地域では、1年間の成長の幅を、
   はっきりと読み取ることができます。
   この1年間の成長の幅を年輪と呼んでいます。
   成長の幅は、暖地では広く、寒地では狭く目がつんでいます。
   目のつんだ材の方が、強度的には強いようです。
   四季のない地域の樹木では年輪は見られません

   樹木の細胞は、幹の方向:軸方向に長い細胞と、幹の径の方向:放射方向に長い細胞に分けられますが、
   針葉樹では、軸方向に長い細胞が95%を占め、広葉樹では80% 程度です。                                           
   ヒノキ・スギは30~40年生で直径が30cm程度、高さは10mを軽く越えます。
   このような細い樹木が、苛酷な自然環境の中で強風などでも折れずに立ち続けることができるのはなぜでしょうか。
   針葉樹の軸方向の細胞の大きさは、一個の直径は数十μ(ミクロン:1/1000mm)、長さは数cmで、
   幹の軸方向に細いストローを束ねたように並んでいます。
   風などで簡単に折れてしまわない理由は、こういう組織が備えている特性にあります
   つまり、樹木の組織には、常に、外周側:樹皮の側では幹を締め付けるような力が、
   上下方向では引っ張りあう力が蓄えられています。
   強風で幹が曲がろうとするとき、このあらかじめ蓄えられている力で抵抗して、
   簡単には曲がらず、よほどのことがないかぎり折れることもありません。
   樹木を鋸で切ろうとしたとき、抵抗を受けるのもそのためです


   そして、樹木を伐採し製材すると、樹木の各部に蓄えられていた力が解き放され、
   製材した木材に収縮や捩れなどを起こす原因の一つに
なります。
   木材は、鉄などのように均質ではなく、部位によって性質が異なり、
   さらに環境に応じて変動する
のが特徴で、
   木材を利用するときには、この特性に十分注意しなければならないのです。

 2.白太、赤身の違い

   樹木を構成している細胞の殻:細胞壁は、高分子化合物でできていて、環境の変化に応じて、
   分子のレベルで水分を吸収したり、放出したりしています。                   
   この水分のことを結合水と呼んでいますが、
   生きている樹木の細胞は、
   最大で、乾燥したときの木材の重さの30%にあたる大量の水分:結合水を吸収できる
と言われています。
   特に、根からの水分・養分が通る辺材:白太には、水分:樹液が多量に含まれています。      
   まだ乾燥していない段階では、辺材:白太部分にはたくさんのカビが生えてることがあります。
   樹木が成長すると、若いころに成長した形成層は活動をやめ、細胞の抜け殻が残ります。
   この部分が心材:赤身で、
   赤味を帯びた色は、細胞をつくっていたセルロース、リグニン、タンニンなどによる
ものです。
   心材:赤身の細胞の抜け殻の空洞には、自由に水分が入り込みます。
   これは普通の水で、自由に吸・放出を繰り返すので自由水
と呼ばれます。
   しかし、この部分は養分が少ないため、未乾燥のときでもカビもあまり生えません。
   白太と赤身に含まれる水分の量を含水率で示した     
    未乾燥木材(生材)の含水率
     材 種 辺材(白太) 心材(赤身)
     ス ギ  223%     130%
     ヒノキ  160%      42% 
   含水率が大きいと、含まれる水分量も大きいことを表します(含水率については後註)。
         (愛媛県八幡浜地方局産業経済部林業課作成資料)

 3.木を乾燥するとは、どういうことか・・・・木材の生態

   木材を使うときは、よく乾燥した木材を使うことが大事と言われます。
   しかし、木の乾燥について、一般に正しく理解されていないように思われます。
   伐採した樹木を放置すると、最初に心材:細胞の抜け殻に入っていた自由水が蒸発し、
   自由水が全部蒸発し終わると、辺材に含まれている結合水が蒸発を始めます。
   そのまま放置を続けると、外気中の水分と樹木の中の水分が平衡の状態になり、
   結合水の蒸発がとまります。
   これが、樹木を自然乾燥させたときの状態で、気乾(きかん)状態と呼びます。
   伐採した樹木を1年間放置すると、気乾状態になる
と言われています。

   しかし、気乾状態のときでも、
   木材に含まれる水分量は、年間を通して一定ではなく、季節や周囲の状況により変動します

   逆に言うと、周辺の環境の湿度を調節しているのです(調湿機能)。
   木材は、季節や置かれた環境により含水率が異なり、
   しかも樹種によっても、また同一の樹種でも1本ごとに異なり、同一のものはありません

   これも、鉄などと大きく異なる点です。

   下の数値は、樹種別の平衡状態の含水量の年間の変化(平均値)です。 

    12㎝角3m芯持材の含水量の年間の変化 
            最高(7月) 最低(1月) 最高-最低
    平衡含水率  18%     13%     5%
     ス ギ    2710g    1960g    750g
     ヒノキ    3500g    2530g    970g
      (愛媛県八幡浜地方局産業経済部林業課作成資料)
     註 芯持材とは、心材を含んで製材した木材を言います。

   平衡状態になった木材を、さらに人工的に乾燥し続けると、含まれる水分は0になります。
   この状態を全乾(ぜんかん)状態(絶乾(ぜっかん)状態)と言います。
   しかし全乾状態を保ち続けることはできず、
   普通の環境では、全乾状態の木材は空気中の水分を吸収して、平衡状態に戻ります

   樹種によりますが、平衡状態の含水率は15%前後と言われています。
   けれども、常に一定なのではなく、上表のように、季節で異なるのです。 
   自然乾燥(天然乾燥とも言います)をしても人工乾燥をしても、
   普通の環境の下では、決して木材中の水分が0になることはなく、
   しかも含まれる水分の量も年間を通じて一定ではなく、
   置かれた環境に応じて増減している、水分の吸・放出を繰り返すのが木材の重要な特性
なのです。

   この木材特有の性質を妨げると、
   たとえば、外気との自由な接触を途絶えさせたりすると、重大な問題が生じてしまいます。
   そして、この点についての理解が最も不足し、誤解も多いように思われます。

 4.木材の含水率とは?

   では、木材の含水率とはどういうものなのでしょうか。
   重さが100グラムの木材を、全乾状態にしたら80グラムになったとします。
   ということは、水分が20グラム含まれていた、ということです。
   普通の感覚では、100グラムのうちの20グラムだから20%、と考えますが、
   木材の含水率の定義は特別なのです。
   木材の含水率は、含まれていた水分の量が、全乾状態:カラカラの状態の木材の重さの何%にあたるか、
   という表し方をします。
   この例では、
   水分20グラムはカラカラの木材80グラムの4分の1ですから、含水率は25%ということになります。
   計算例 含水率15%の木材100グラムに含まれる水分は何グラムでしょうか?
       含まれる水分をaグラムとすると、カラカラの木材は(100-a)グラム
       木材の含水率の定義によって
       a÷(100-a)=0.15 → a=15-0.15a
        ∴1.15a=15
        ∴a=15÷1.15=13.043...グラム となります。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

以降、原本の紹介とともに、補足を加えてゆくことにします。

 

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この国を・・・・22: 素晴らしすぎる論理

2012-04-18 14:31:33 | この国を・・・
丘陵の縁にある近世の墳墓跡のヤマザクラが咲きだしました。
下界では、田んぼの水張りが始まっています。


数日前、福井県・大飯原発の再稼動は、社会の弱者の救済のためだ、という偉い方の発言が報じられました。
こういう「論理」は、頭のどこらあたりから生まれるのだろう。覗いてみたいものです。
すばやく、こういう発言をする政治家に対し、真っ向から矢を放った論説、それが15日付の東京新聞の社説です(「この国を・・・・21」にも貼り付けてあります)。

地元、国民の安全はどこへ」(東京新聞12.04.15社説)]

   その中から抜粋

   ・・・・
   枝野氏は「電力不足が社会の弱者に深刻な事態をもたらすことを痛感した」とも会見で述べた。
   関電はこのまま再稼働ができないと、一昨年並みの猛暑になったとき、最大約二割の電力不足になると試算した。
   政府はそれを再稼働を急ぐ理由としているが、その見通しは広く検討されたものではない。
   節電の効果や電力融通の実態も、国民にはよく分からない。
   そもそも、
   電力不足の影響が病人や高齢者に及ばないように工夫をするのが、
   政治本来の仕事ではないのだろうか。

   ・・・・

ついでに、同紙、16日付「筆洗」欄から
「日本は考えどころだぜ」
まったく同感です。

   一週間ほどでwwb上からは消えるようですので、その際は、改めてプリントアウトしたコピーを転載します。

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「日本家屋構造」の紹介-1

2012-04-14 11:17:00 | 「日本家屋構造」の紹介


明治37年(1904年)に刊行された「日本家屋構造」という書籍があります。
上は、その中表紙です。

明治初年以来、建築の世界で押し進められてきた「洋風化」一点張りの方向への「反省」の一つの現れでもあるようです。
著者は当時の「東京高等工業学校」の教師、齋藤兵次郎氏。
   書物には、「教員」と記されています。現在の助(准)教授、講師に相当すると思われます。

後掲の「序」において、氏は、「規矩準縄*の家に生まれ・・」と紹介されていますから、現役の大工棟梁と考えてよいでしょう。
   * 後註参照 
この書は、「東京高等工業学校」の教科書でした。
すでに紹介している「建築学講義録」「日本建築辞彙」とともに、明治年間に著された建築関係の三大書として、現在でも意義のある貴重な書である、と私は考えています。
   後掲の著者の書かれた序には、「規矩術を秘匿から解放する」旨のことが書かれています。
   「技術」が一部のものとして広く公開されない悪しき弊は当時もあったのでしょう。

この書の内容は、ブログでこれまでも一部を抜粋して使わせていただいてきました(「日本の建築技術の展開-30」参照)。
木造建築:日本の普通の建築法について、きわめて初歩的なことから書き下ろしている点で、全容が広く知られていないのはもったいない、と思い、時間がかかるかと思いますが、逐一紹介しよう、と思うに至りました(「日本家屋構造」というカテゴリーでまとめます)。

このブログに、たとえば木材の乾燥について、あるいは仕口・継手について・・・など、かつては当たり前であった「知識」について調べるために寄られる方がかなりの数居られます。それらについて、この書は、一から説いています。
   なお、この書は、発刊以来50年を経過していますので、国会図書館で、全巻の複写サービスを受けられます。
   今回紹介するのは、大学図書館を通じて複写した初版本です。
   
   20年ほど前、この書の復刊ができないかと考え、
   出版関係の方に著作権者について調べていただきましたが、かないませんでした。
   どなたかご存知の方が居られましたら、ご連絡いただければ幸いです。

「東京高等工業学校」は、浅草・蔵前にあった、現在の「東京工業大学」の礎になった学校です。
明治14年に設立された官立の「東京職工学校」が、明治23年「東京工業学校」に改称、明治34年「東京高等工業学校」になっています。

「職工学校」がなぜ生まれたかについては、以前に書いたように思います(下註)。
同じ頃、「職工学校」と同様の主旨の学校は民間、つまり私立でも多数設立されています。
現在の「工学院大学」もその一つで、始まりは「工手学校」と呼んでいます。
   註 日本の「建築」教育・・・・その始まりと現在
      「実業家」・・・・「職人」が実業家だった頃

   なお、「工学院大学」のホームページの「工学院大学沿革」欄に、
   「工手学校」設立に至るまでの明治年間の「工業」界、建築界およびそれに係わる教育界の様子が
   きわめて簡潔かつ明解にまとめられています。
   明治の「近代化」の様相を、これほど簡潔にまとめた文を、私は読んだことがありません。
   是非、寄ってみてください。

さて、「日本家屋構造」の刊行の目的は、以下の「序文」に書かれています。
なお、漢字は本字体、仮名は旧仮名遣いで右書きですので、読みにくいかもしれません。
後に、字句の注解を付けました。



  字句注解 
   規矩準縄 き く じゅん じょう
     規:ぶんまわし、円形を描くための道具=コンパス。
     矩:差金、指金(さしがね)。直角(L形)状につくった物差し(物指し)。
        曲尺・曲金:まがりがね とも呼ぶ。
     準:水盛り(みず もり)。水平を調べる道具、水準器。水計り(みず ばかり)とも呼んだ。
     縄:墨縄(すみ なわ)、墨糸(すみ いと)。直線を印すために用いる糸。
        水平を見るときに張る糸は「水糸(みず いと)」。
       註 「縄」が、「基準」:規範、法則の語源。
    ゆえに、「規矩準縄の家」:規矩準縄を常用する家業、大工棟梁の家系。
   襲ぎ つ ぎ:世「襲」
   余職を君と共にし:私は、君と職を共にし・・
   富膽 ふ たん:ゆたかである。
   曩に  さき に:以前に。かつて。(字音:どう、のう)
   構造: structure の意ではなく、字義通り、construction の意。
   製圖:製図。
     圖(図):①くわだてる、計画する、工夫する、考える。②はかりごと、計画。③えがく、写す。・・・
    ゆえに、ここでの「製図」は、単に「図を描く」という意ではなく、「設計」の意。 
   慨し がい し:歎き、憤り。
   嘱に酬ゆ しょく に むくゆ:(著者からの)序文の依頼に応える。
   吝むなからむ おし む なからむ:しぶるものではない、転じて、高教を歓迎する。

全編の総目次と、あわせて、初めに紹介する「上巻」の目次を転載します。
総目次は、字が小さいので読みにくいかもしれません。
この書は、一貫して「なぜか」について触れています。つまり、「結果」だけではなく、そうなる「謂れ」をも説明しています。








次回から、上巻の内容を目次順に紹介させていただきます(週に一度か、十日に一度程度になるかと思います)。
   なお、「日本の建築技術の展開-30」で触れたように、
   この書は、主に、書院造の系譜の武士階級の家屋が中心で、
   農家、商家の構築法は、あまり触れられていません。
   
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SURROUNDINGSについて・・・・12の補遺

2012-04-11 15:27:15 | surroundingsについて
近くに素晴らしい梅林があります。
水戸偕楽園の梅よりも古木です。
「梅林」と言うのは正確ではありません。「並木」と言った方がよいでしょう。
百メートル位手前から見るとこのように見えます。



この道の両側は、栗の栽培や樹木の育苗を行っている農園です。
梅の木も、観光用ではありません。「実用」です。
   当地では、ソメイヨシノは見かけません。多分、小学校の校庭にあるだけでしょう。
   ヤマザクラはあちらこちらにあります。これから、樹林の中で咲きだすでしょう。
   冬場には、多くのお宅の庭先にユズが実っています。
   これも「実用」。

この道が舗装されたのは、そんなに昔ではありません。もともと道はあったと思われますが、細い道だったはずです。
広大な栗園の真ん中あたりに農道が走っていて、それが拡幅されたのです。

近寄ってみると、このような立派な梅の木が鉤の手(かぎのて:L型)に並んでいて、それに囲まれるように、これも年代を経た栗の木が整然と並んでいます。
ただ、栗の方は、それほどの老木はありません。どうしても虫にやられるようです。
農園の奥の方では、栗をはじめ、いろいろな果樹の若木の育成が行われています。
   註 茨城県は、あまり知られていませんが、栗の産地です。
      研究学園都市の一郭、谷田部(やたべ)もその一つ、そこの栗菓子をつくっている店に
      長野県の栗で有名な町の栗菓子が置いてある。
      訊けば、その町にこの地から出荷した栗でつくられた菓子、とのことでした。
     




更に近づくと、大体、一本がこんな貫禄のある姿です。こういう姿が何十本も並んでいる、圧巻です。
当たり前ですが、一本一本、みな姿が違います。



農園の主により、数代、おそらく百年以上、大事にされてきたのです。
今でも、毎年、丁寧に剪定されています。
そういう剪定の積み重ねが、今の姿をつくったのだと思われます。
剪定と言っても、趣味の園芸のそれではなく、梅の実を採るための剪定。

この農園を空から見るとこんな具合です。画像は google mapから。
樹木のない部分が、すべてこの農園です。



このあたりの国土地理院の地図(web版)が下図。


地図では分りませんが、空から見ると、農園は広大な樹林帯を拓いたものであることが分ります。
ここは、まわりの水田からはおよそ20~25mほど高い丘陵の上。
遠くから丘陵を見ると、全体が樹林で覆われているように見えますが、大体、同じように、上は畑地になっています。
   丘陵上には、ところどころに、縄文期の住居址が眠っています。

写真で農園の上~右奥に見える樹林は、同じような台地上ですが、ここは畑にされず針葉樹の人工林です。まだ100年には達していないスギ、ヒノキが大半ですから、戦後国策で為された植林によるものと思われます。

農園を囲むように見える樹林は平地ではなく、丘陵の縁の斜面にあたります。かなりの斜面ゆえに畑地にされず残されているのです。
こういう斜面には、元来の植生と思われる樹林があります。いわゆる照葉樹林。かなりの樹齢の木があります。

この農園が何時頃から拓かれたは詳しくは分りませんが、植えられている梅の樹齢から見ると、かなり以前からあったものと考えられます。

この農園の主は、写真、地図の左側、丘陵の下端の樹林に囲まれて建っているお宅です。
言ってみれば、この丘陵は、このお宅の裏山なのです。
前面の低地で水田、住まいの近くで畑作、そして裏の山で、畑と果樹園を営んできたのです。
   このお宅は、この集落の祖と言ってよいようです。
   つまり、往時(多分、近世初め)、この地を探し出して定着した最初の人の一族。
   そのためか、このお宅の地番は1番地。

この一帯をもう少し範囲を広げて国土地理院の地図を見たのが下図です。
地図の赤枠で囲んだところが、先ほどの農園のあたりになります。


この地図から、集落が決して線や面になって一帯を埋めていないことが分ります。
そして、先の農園の中を走る舗装道路が、明らかに「人工的」なつくりであることも分ります。大体この道に沿って細い道はあったけれども、車など到底通れるような道ではなかったそうです。
実際、地図で、この舗装道路に対してT字型に水田に向う道がありますが、元の地形の一部を掘って、斜面の水田側に盛土をして、車の通れる勾配にしてあります。元来ここに道はありましたが、地形なりの急な坂道。この道は一軒のお宅の真ん中を通っていた。こういう敷地は昔はよくあったもの。しかし、盛土された車道のために、今では敷地の中央に土堤ができたような様相になっています。

この丘陵を通る元来の道は、丘陵の麓を、ほぼ等高線に沿っています。地図の上の水田際の細い黒い線がそれです。
これは、この地に定住した人びとが、自らの感性に拠りつくりだした道なのですが、実際に現地を歩いてみると、集落のそれぞれが、なぜその場所に生まれたか、よく分ります。とても和やかな気分になれる場所です。

集落と集落の間に点在している家々は、ずっとあとに住み着いた人びとの住まいですが、集落のある一帯よりも雰囲気が異なります。
元からある集落は、既存の SURROUNDINGS のなかから自らに相応しいところ探し求めて住み着いた、と考えられますが、後から住み着いた方がたは、多くの場合、既存の SURROUNDINGS に「加工」を施している、と言えるでしょう。
生垣や樹林を新たにつくったりするのが、「加工」の一例です。そうしないと、気持ちが和まない。
もちろん、そこに住み着いたときに、直ぐにつくられたのではなく、しばらくして補完されるのが普通です。その途中の段階のお宅も見かけます。

こうして、徐々に暮す人は増えてはいますが、この先、決して都会のように、低湿地まで埋め尽くされるようなことはないでしょう。
つまり、おそらく、今の状態とほぼ変わらない。
   これが、最寄りに駅があったりしたら、一たまりもありません。
   ここは、最寄の駅まで15~20km。バスもない・・・。   

当地には、防災無線による広報放送が午前と午後一回ずつあります。
いつもは、気象警報、火災発生、行事、お悔やみの案内などですが、最近、外出のときは戸締りを、という警察からのお知らせが放送されました。
実際、集落の方のお宅を訪ねると、玄関の戸は鍵はかかっておらず、時には少し開いていたりするのが常です。ネコの出入りのために開けてある、などという方も居られます。
その意味では、たしかに無用心。
しかし、これまで、空き巣にやられた、などという話は聞いたことがありません。新築の新居住者のお宅に工事人を装った空き巣が入ったという例ぐらい。

実際、工事人を装うなどしなければ、普通のカオをして通り抜けるのは無理なのです。
なぜなら、大体、集落内の道を普段見慣れない人が通ると、すぐに分ってしまうのが常。あれは誰?ということになる。人の目がないようで、どこかで誰かに見られてしまうのです。
これは車でも同じ。今通った車は、見慣れない、あそこに停まって何してるんだろう・・・、見ようとしなくても分ってしまう。
だから、口には出さずとも、どこそこの誰さん、最近見かけないけどどうしたんだろう、・・・などと皆気に掛けているのです。

こういうのは、いつも覗かれているみたいでイヤだ、と思われる方がおられます。都会はそれがないからいい・・、と。
しかし、現にそういう集落の端っこに暮していて、覗かれていると思ったことはありません。
名前も覚えてない子どもたちが、おはよう、こんにちは・・・と声をかけてくる、大人も誰もがすれ違いざまに会釈をする・・・。
そして、時間が経つにつれて、あの子はあのお宅の末っ子、とか、あの人はあそこがお住まいだ・・・、などということが分ってきます。散歩している犬でもそうです。
それは、同じ「範囲」で、繰り返して経験する「状況」から、自ずと分ってくるのです。
これが当たり前の世界。
これが、本来の集落:人の暮す場所:の姿であった、と言ってよいのではないか、と思っています。
「身の丈の知覚の範囲」におさまる大きさ。
人の感覚に納まらないような SURROUNDINGS は、決して集落の立地として選ばれないのです。

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この国を・・・・21: 政治判断?

2012-04-08 19:04:53 | この国を・・・
1週間ほど前に撮った写真です。まだ5分咲きほどでした。
今日あたりは、もう散っています。桜はこれから。


[追補追加 9日 10.15]
[「地元、国民の安全はどこへ」(東京新聞0415社説)リンク追加 15日 9.48]
   その中から抜粋
   ・・・・
   枝野氏は「電力不足が社会の弱者に深刻な事態をもたらすことを痛感した」とも会見で述べた。
   関電はこのまま再稼働ができないと、一昨年並みの猛暑になったとき、最大約二割の電力不足になると試算した。
   政府はそれを再稼働を急ぐ理由としているが、その見通しは広く検討されたものではない。
   節電の効果や電力融通の実態も、国民にはよく分からない。
   そもそも、
   電力不足の影響が病人や高齢者に及ばないように工夫をするのが、
   政治本来の仕事ではないのだろうか。

   ・・・・

原発の再稼動に向けて、訳の分らない動きが見えます。
再稼動するかしないか、その判断は「政治判断」なのだそうです。
「政治判断」とは、いったい何もの?

思わず「政治」という語を「辞書」で調べてしまいました。
「政治」という語は、意味を変えてしまったのでしょうか?
それは違います。
「政治家」と自称する方がたの「勝手な思い」によって「判断」をする、そんな意味は、「政治」という語の何処にもないのです。

語を適当に、というより「都合のいいように」使うのは、「政治家」という方がたの思い上がりに過ぎない、と私は思います。

言葉は正しく、本来の意味で使いたいと思います。そうしないと、言語の重さがなくなってしまいます。

そんな風に思っていたら、またまた、東京新聞の社説(下記)は明解、明快な論調です。
とりあえずは東京webにリンク。

「花拾うがごとく丁寧に」

以下がプリントアウトした全文です。
文中にある文言を抜粋。

   歴史はなぜ繰り返されるのか。
   その答えなら明らかです。
   歴史自身には、繰り返しなどありません。
   ・・・・・
   今、水俣が、東北が、福島が、威儀を正して日本に問うています。
   私たちは、いつ、どこで、何を、どう間違えたのか。
   私たちは、散り敷いた花びらを拾い集めるように丁寧に、
   その問いに向き合わなければなりません。
   ・・・・・



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SURROUNDINGSについて・・・・12: 身の丈の範囲でなければ SURROUNDINGS は見えない

2012-04-04 18:34:45 | surroundingsについて
[追記追加 6日15.45]

最近たびたび訪れている山梨県で、戸惑っていることがあります。
それは、町の名称。
甲州市、甲斐市、山梨市、笛吹市、・・・。
いずれもいわゆる平成の大合併で生まれた市の名称です。
訊ねてみたところ、地元の人でさえ、分らなくなることがあるそうです。

山梨県は、かつては甲斐国、甲州とも呼びます。ゆえに、江戸と甲斐国を結ぶ街道を「甲州街道」と呼んだ。現在の国道20号は、それを踏襲しています。
県都「甲府」は、甲斐国の府(中)である、と言う意味で付けられた名前。
ところが、これらの新しい市の名称は、そのあたりの謂れを完全に無視していると言ってよいでしょう。
笛吹市という名は、笛吹川沿いに展開していた町村が合併して生まれた市。しかし、流域にある町は他にもまだありますから、その名にもとる(笛吹川は、山梨県を出ると富士川になります)。
   「山梨県の地名」(日本歴史地名大系19 平凡社)によると、
   「甲斐国」は古代律令制の下ですでに在り、
   「甲斐」の名の謂れは「界」ではないか、とされています。
   山中の地域であるところから、他国の人からは、山隠る陰気な国として見られ、
   万葉集での甲斐国の枕詞である「なまよみ」は「半黄泉」、
   つまり「黄泉国」への「境」に近いから付けられたのではないか、という。
   しかし、実際の甲府盆地は、そんな暗い場所ではなく、明るい場所。
   特に、これから、四月になると、まさに桃源郷になります。
   雪をまだ被っている富士、南アルプスそして八ヶ岳、そして秩父山系に囲まれた一帯が、花で埋まるのです。
   「山梨」は、古代の「山梨郷」を継いだ名前。現在の山梨県東部の地域。今は峡東とも言われています。
   明治の廃藩置県で、当初、「甲府県」とされたのが、後に「山梨郷」の名をとり「山梨県」になったとのこと。
   その改称の謂れはよく分らない。

どこの地域でも、現存する地名のうち、いわゆる:あざ(大字:おおあざ)に相当する地名は、ほとんど、明治期に(つまり江戸末までには)存在していた「集落名」です。つまり、歴史が古い。東京など都会でも、かなりの数の地名が近世以前からの名前です。

それらの集落は、決して連なっていることはなく、ポツンポツンと点在するのが普通です
おそらく、都会の姿、特に日本の現在の都会に慣れてしまうと、それは不可思議に思われるかもしれませんが、本当は、その都会の姿が異常なのです。
つまり、集落がポツンポツンと点在するのが、本来正常な姿。

これまで、アアルトの設計法と、現在の大半の建築家の設計法の違いから SURROUNDINGS について考えてきました。
今回は、この「集落はポツンポツンと点在するのが普通だ」ということから、 SURROUNDINGS について考えてみたいと思います。

次の地図は、「建物をつくるとはどういうことか」の最終回に載せた、明治20年頃に造られた福島県北部の地図の再掲です。


「建物をつくるとはどういうことか」で載せたのは、近世までにつくられた町やそれらをつなぐ街道が、今回の津波の被害を見事に免れている、という事実を紹介するためでした。
そのとき、あわせて、集落:街や村はどのようにしてその地に定着したかについても、街道というのは、本来どのようにして生まれたか、若干触れました。そして、なぜ往古の道はくねくねと曲るのかについても触れました(だいぶ前の話の重複です)。

今回は、それらの点について、SURROUNDINGS の視点で触れてみたいと思います。もっとも、このことについては、すでに「再見・日本の建物づくり-1:人は何処にでも住めたか」で、SURROUNDINGS という語を使わないで書いています。

そこで書いたことを要約すると、次のようになります。すなわち、
①人が住み着く、ある場所に定着・定住するには、つまり「集落」を築くには、先ず生物としての生命を維持するのに必要な食料、水が得られる場所でなければならない。
しかし、
②食料と水が得られたとしても、そういう場所なら何処にでも住み着いたわけではなく、選択が行われる。
そして、①を、集落が成り立つための「必要条件」、②の選択にあたっての選別の「拠りどころ」を、「十分条件」と仮に名付けました。

日本では、①を充たす場所は、比較的容易に見つけることができました。それについては、先の「再見・日本の建物づくり-1:人は何処にでも住めたか」でいくつか例を挙げましたし、その他でも触れています。

現在の日本の都会の暮しに慣れてしまうと、①はともかく、②はきわめて分りにくい。
なぜなら、都会では、①も②も、深く考える必要がないからです。つまり、どこだって住める(ように思えてしまう)。
特に②を差し迫って考えることもなくなっています。強いてあるとすれば、最寄の駅に近いか、通勤に便が良いか、まわりに商店があるか・・・、などなどでしょう。それは、「十分条件」というよりも、むしろ「必要条件」。

日本の都会の暮しで、②を感じるとき、それは多分、突然、自分の暮す場所の目の前に、予想もしなかった大きさの建物が建ち、それまで当たり前に享受していた陽射しがなくなった・・、眺められた富士山が見えなくなった・・・などというときでしょう。
そこから、日照権、景観権などという「権利」が問題になる・・。

しかし、その先にあるのが、SURROUNDINGS についての根源的な議論の筈なのですが、残念ながら、そこから先に進みません。何時間陽が当たればいい、とか、建物に使う材料や色はこれこれだ・・・、などといういわば瑣末な話にすり替わってしまっているのです。

私が現在暮している土地の名は、平成の合併以降、「かすみがうら市」といいます。ついこの間まで、つまり合併前は「霞ヶ浦町」、そして町になる前は「出島村」。つまり、「村」が「町」になるときに旧名を消したのです。
もっとも、この旧村名「出島」も、明治22年(1889年)の「町村制」施行によって生まれた6村が、昭和30年(1955年)に合併したときに付けられた名前です。
ややこしいので、整理すると次のようになります。

明治以前、すなわち近世末には、霞ヶ浦に飛び出ている半島状の地には、21の村落・集落がありました。
明治22年、それらが6村にまとめられます。

この6村は、地勢的に近接した村落・集落で構成されています。村の数で言えば、二つが一つになったものから八つが一つになったものがあります。平均すれば三つが一つが多い。
そしてこの6村が更に昭和30年に合併して「出島」村になったのです。村の名は、自分たちの村の在る地域の地形的な「姿」から採ったものと考えられます。冒頭の例とは違い、自分たちの根ざす土地に拠っていた、と見てよいでしょう。

近世末の村落・集落は、戸数、人口は、すべては不明ですが、分っている中の多い例で114戸・939人、小さい場合は14戸・63人程度だったようです。
このシリーズの一回目「SURROUNDIGSについて-1」で、初冬の夕暮れ時、旧友の家を探し歩いてきた女性の話を書きましたが、この女性が当地へわざわざ足を伸ばしたのは、彼女の生い立った村が、私の今いる土地と同じ村に属していたからなのです。
訪ねようとした「友だち」は、学校が同じだったのです。つまり、「暮しの範囲・領域」が同じだった、ということです。
このことは、「集落・村落」とは何か、「隣り近所」はいかなる意味を持つか、雄弁に語ってくれているのです。隣りは単なる隣りではない、のです。

明治の「合併」にあたっては、そのあたりについての「認識」がしっかりとあったように思います。当地の例で見ても、地縁を大事にしています。
昭和の合併も、多少はその認識があったように見えますが、平成の合併は、単なる寄せ集め、規模が大きければそれでいい、というもの。つまり、合併する正当な謂れがない合併が多い。

何が一番変ったか。
合併の奨めの歌い文句は、「行政の合理化」。「行政のムダをなくす」。
しかし、現実は、「暮しやすさ」「暮しの質」の「劣化」です。
なぜなら、明らかに、「行政」は、暮しから遠くなっています。
行政の「目」が、地域の隅々へ、行き渡らなくなったのです。

私が筑波研究学園都市に移り住んだ頃、そこは「桜村」と言い、昭和30年、近世の「栄村」、「九重(ここのえ)村」、「栗原村」の三村が合併して生まれた村でした(栄のサ、九重のク、栗原のラを並べたのが村名の由来)。
移り住んだ当初、村役場の職員たちの村内の把握の確かさに驚いたものでした。
隅々の状況について、きわめてよく知っているのです。
考えてみれば(むしろ、考えるまでもなく)当たり前です。見える範囲が、普通の人の「知覚の範囲」内にあるからです。
その村も、学園都市へと合併し、目配りは劣化しました。
その一つの因は、職員が「地域に定住しなくなったこと」にある、と私は考えています。

近世末まで、村落・集落の単位がきわめて小さかったのは、村落・集落発生に血縁的な要素が大きかったからであるのは勿論ですが、
同時に、普通の人の「知覚の範囲」内に納まる大きさが、暮してゆく上で必須である、と考えていたからではないか、と私には思えます。
おそらく、このことは、いかに「文明」が「発達」しようが、社会の成り立つ基本的な原則なのではないか、と私は思います。

にもかかわらず、現在、平成の合併を越え、道州制など、さらに地域の区画を大きくする動きがあるようです。。
簡単に言えば「大きいことはいいことだ」「数の多さが力になる」・・という発想。その理由として挙げられるのが、またもや「行政の合理化」。

「行政の合理化」とは何か?
先の例で示したように、巷間で言われる「行政の合理化」は、「暮しやすさ」の維持・向上とは逆の方向への動きを生む、と私は考えています。
つまり、「合理化」という名の「手抜き」の奨励にすぎない、私はそう思っています。
「合理化」の名の下で、「理に合わない」方向へ進む。これは言葉による詐欺。


唯一、道州制など、さらに地域の区画を大きくする動きが生むメリットがあります!!

それは何か。

おそらく、そういう都市集中化を促進する動きが活発になればなるほど、それとともに、いわゆる「過疎」「限界集落」と呼ばる地域が更に増えてくるでしょう。
私は、むしろ、この日本という地域にとって、これほど素晴らしいことない、と思っているのです。
なぜなら、都市に集中して暮す人びとは、その暮しかたが永遠に続くものと(何の保証もないのに)思っているはずです。多分、古代ギリシャ人と同じです。
古代ギリシャには、日本のような甦生可能な森林地域はありませんでした。
そして、第一次産業で国内の暮しを賄おうという考えもなかったと言います。国外に依存したのだそうです。そしてそれが、古代の都市国家ギリシャ滅亡の因だ、という説があります。
幸い、日本の森林は甦生が可能、そして、「過疎」「限界集落」と呼ばれる地域は、ほとんどが、甦生可能な森林地域にあります。 

今、日本の人口は減り始めています。
その人口のほとんどが非森林地域の(危険極まりない平坦湿地である)都市へ集中し、多くの為政者はそれを是とし、更に進めようとしています。

先に何が残るか。
「過疎」、「限界」地域に残された、新たに人びとが住み着くことができる豊かな「自然環境」です。おそらく、この先原生の姿に戻っているかもしれませんが・・・。
   追記 人が住まなくなった地域の森林が荒れる、とよく言われます。
       私は、「荒れた」のではなく、「本来の姿に戻りつつある」のだ、と思っています。
       つまり、人が住み着く前の姿へ・・・。
       日本は甦生可能な森林地域にあるからです。 [追加 6日15.45]  

今、「過疎」、「限界」地域に、都会への流れと逆に、住み着く若い方がたが増えているそうです。
その方がたには、「先」が見えているのかもしれませんね。
そこにふたたび、本来の「村落・集落」が蘇るのではないでしょうか。

つまり、道州制や都市化推進策は、一大自然環境保護運動・・・!? 

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