「耐震補強」 と surroundings

2013-08-13 09:41:53 | 構造の考え方
残暑お見舞い申し上げます。
立秋とともに、猛暑がやってきました!


雨水を一時的に溜めている池に、毎朝ヒメスイレンが咲きます。

[註記追加 14日 8.50]

学校の校舎の「耐震化:耐震補強」が進んでいない、という報道がありました。私の暮す茨城県はワースト5に入るそうです。

学校校舎の「耐震補強」で一般的なのは、既存の校舎の開口部のいくつかに、鉄骨製または鉄筋コンクリート製のX型の「筋違(すじかい)」を設置する方策です。
以前にも書きましたが、この施策の必要が報道されるたびに、私は「違和感」を感じます。

その違和感は、大きく分けて二つあります。
一つは、「耐震補強」の拠って立つ「建物の骨組み:架構についての考え方」についての「違和感」、もう一つは surroundings の観点からの「違和感」です。
いずれも、「これでいいのか?」という「疑問」に連なります。

前者:架構についての考え方:に対しては、すでにその「可笑しさ」「異常さ」( non-scientific であること)については、何度も書いてきましたので(後註記事もその一つ)、今回は、後者: surroundings の観点からの「違和感」:について特に触れることにします。

言うまでもなく、学校の校舎は、たとえば小学校は、6歳から12歳までの子どもたちが、昼間の大半を過ごす場所です。
すなわち、四六時中子どもたちを取り囲んでいる surroundings 、「居住環境・居住空間」にほかなりません
そのとき、開口部に設けられている大きなX型の筋違は、surroundings として、なくてはならないものでしょうか?
当然ですが、必要ありません。
   必要だ、と思われる方は居られますか?
6歳から12歳というのは、感受性豊かな子どもたちが、各自の感性に磨きをかける大切な時期です。
子どもたちは、surroundings との「応答」のなかで、感性に磨きをかけるのです。
そのとき、日常的に接する surroundings が、重要な意味をもつのは言うまでもないでしょう。
そして、開口部に設けられるX型は、邪魔以外の何ものでもないのです
。それとも、必要ですか?

明らかに、現在進められている「耐震補強」は、人の暮す surroundings を損なうことになる、という点については一考だにされていないのです
つまり、子供たちの成長に好ましくない環境が、教育を管轄するはずの文部科学省の推奨の下で、「耐震補強」という《大義》を立て、つくられているのです。
これはきわめて恐ろしいことだ、と私は思います


   いわゆる重要文化財建造物も、同じような耐震補強が求められていて、「文化財」の意義が失われつつあるようです。これも文部科学省の管轄!

   世の中には、この「耐震という必要不可欠な策」に異論を唱えるなどは、(国家の)《大義》に反するという「言論統制」に近いフンイキが漂っています。
   私はそれを「霊感商法」と同じだ、と書きました(後註参照)。なんだか、戦時下を思い出させます。
   
     なお、茨城県がワースト5であるということは、環境破壊が幸いまだ進んでいないということかもしれません!

もちろん私は、地震の際の安全性を確保することを不要と言っているのではありません(あえて「耐震」とは言いません。「耐震」などと「おこがましい」ことを言うから、進むべき方向を間違えるのです)。
   カテゴリー「地震への対し方・対震」で、この点に関する記事35編ほどがまとめてありますので、お読みください。[註記追加]

必要なのは、surroundings を確保したうえで、地震の際の安全性を確保することのはずです
それを為し得ていない方策は、「技術」と呼んではならないのです。
なぜなら、「技術」とは、「人間の生活に役立たせるために、その時代の最新の知識に基づいて知恵を働かせ様ざまなくふうをして物を作ったり加工したり操作したりする手段」のことです(「新明解国語辞典」による)。
しかし、現在行われている《耐震補強技術》には、「人の生活・暮し」の視点が全く欠けているのです

こういう耐震《技術》の「誕生」の背景には、どこか、原発《技術》の「誕生」と似たような状況があるように思えます。
かかわる《技術者》たちは前後左右が見えなくなり、「技術」の本来の意味を見失ってっているのです。
これは、もしかしたら、「理」を忘れ、「利」の追及に走りたがる現在の日本の「工学」の世界特有の現象かもしれません
。    
   「壁は自由な存在であった」シリーズで紹介したように、
   日本の建物づくりでは、
    surroundings を確保したうえで、地震時の安全性をも確保する技術を、中世~近世初頭には確立していた
と考えられます。
   まったく「壁」のない「風通しの良い」「今でも暮せる」建屋が、400年近く、何度も地震に遭いながらも健在なのです。
   こういう例は多数あります。しかし、工学研究者たちの目には入らないようで、研究の対象にさえなっていません。何故か?
   「解析」の方法が(分ら)ないからのようです・・・。
   しかし、かつての工人たちは、そういう「技術」を習得していたのです。もちろん「学」の存在しない時代に、です!
   彼らは「理」を「感覚」で把えることができたのです。「直観」による理解です。


耐震補強の名の下での私たちの surroundings の破壊を、私たちは黙認してしまっているのではないでしょうか。

   註 下記もお読みください(カテゴリー「地震への対し方・対震」にも入っています)。
     「耐震診断・耐震補強の怪-1」
     「耐震診断・耐震補強の怪-2」
     「耐震診断・耐震補強の怪-3」
コメント (3)
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理解不能・・・・ものを吊下げるアンカーボルト!

2012-12-06 10:33:05 | 構造の考え方
先回の記事に、注目すべき東京新聞社説を追加・転載しました。[6日 18.25]

前線が通過する前の朝陽の差す今朝の谷向うの風景。


「日本家屋構造」の紹介の続き、編集が遅れています。
その間に、笹子トンネル事故への感想。

笹子トンネルは、今の現場へのルートの手前、東京寄りにあります。
トンネルは1977年の完成とのこと。最初の建物の竣工が1983年、現場への往復によく使っていました(今は、車での東京横断は疲れるだけなので鉄道を使っています)。
鉄道:中央東線は、日本の鉄道の中でもかなり早い頃の建設で、甲州街道(国道20号)に沿ってごく自然なルートを採っています。だからカーブが多く、急な坂道を避けるためにトンネルが多い。トンネルも無理をしないルートを採り、当初のものは石積や煉瓦積。鉄道の笹子トンネルは、戦後に増設されたのを含め2本ありますが、当初のは煉瓦積のようです。

中央線から、中央道がよく見えます。中央線と比べると、まさに近代土木技術による建設。
特に目に付くのが長大で巨大な鉄骨(立体)トラスの橋桁。中には100m近い距離を飛ばしているようです。
いつも、部材がスレンダーだな、近代初頭なら、そして、建築でやったら、こうはゆかないだろうな、と思いながら見ています。
と同時に、いつも、あの巨大な橋桁の塗装の補修は大変だろうな、と思ってもいました。実際、褪めて塗り替えた方がよさそうに見える箇所がたくさんあります。

そんな時に起きた事故。
最初はどういうことか分らなかった。崩落というので、トンネルの壁が崩れた、何故、と思ったら違っていた。天井が落ちたという。
これも最初はどういうことか分らなかった。天井がある、とは思っていなかったからです。
詳細を知るに及んで、今度は、目を疑いました。
天井を吊るために、鉄骨をトンネル本体にアンカーボルトで留めてある。それが落ちたらしい・・・。
アンカーの字義は錨。船を繋留するための用具。
基準法仕様の木造建物や鉄骨造の建物を基礎(多くの場合はコンクリート製)に固定するのが通常のアンカーボルト。
私は、物体をコンクリート製の構築物に吊下げるためにアンカーボルトを使う例があることは知りませんでした。そして、トンネルのコンクリートの壁にアンカーボルトを据え付けるのは大変だったろうな、と思いました。
鉄骨建築の基礎のアンカーボルト据付の精度を確保することは、地上でさえ難しいことだからです。
と思っていたら、なんと、このアンカーボルトは後付けなのだという。後付けなら、たしかに寸法を採るのは簡単です。

機械の据付けにもアンカーボルトを使いますが、その場合、後付けの方法がよく採られます。言ってみれば、機械の横ずれを防げばよいからです。
後付けは、ドリルで孔を穿ち、そこへ直の(棒状の)ボルトを埋め込む。
叩き込んで先を拡げる方法(木造の場合の地獄枘のような方法)が普通でしたが、近年、ケミカルアンカーと称する接着剤を使う方法が増えています。
どうやら、このトンネルでは、天井吊下げのために、ケミカルアンカーを使っていたらしい。

上から重さが掛かる地上ならともかく、引きぬく力がかかる天井に使う、この「発想」が、私には皆目理解できませんでした。理解不能!
   基礎に植えられたアンカーボルトに引き抜こうとする力が掛からないわけではありません。
   しかしそれは、常時ではない。起きることもある、程度です。
   吊るす場合は、常時、引き抜く力が掛かっているのです!!
建物の基礎に設けるアンカーは、コンクリートに埋る部分を、棒状ではなく、L型あるいはU型に加工します。簡単に抜けないようにするためです。天井なら当然そうするだろう、だから施工が大変だったろうな、そう思った。
しかしそうではなかったのです。

私は、以前から、土木構築物の構造計画は、建築の構造計画よりも一歩先に進んでいる、と思っていました。図体の大きさに見合って、全体を見渡す目がすぐれている、そう思っていたのです。
ところが、今回の事故で一変しました。
現代技術は、近代初頭の技術よりも、衰えている。これは、土木界でも同じだった!

近代初頭、鉄やコンクリートなどの新しい材料が使われだした頃、人びとは、ものごとの当否を、それぞれの感性で判断した
幸か不幸か「学」が発展途上?だったからです。
しかし、現在は、「学の成果」に依拠すれば何の問題もない、として一切を疑わなくなってしまった!
今回の場合、引張れば簡単に抜けることを承知の上で(もしかしたら、承知していなかった?)、接着剤が防いでくれる、と判断した。
おそらくその「判断」は、接着剤の試験データに拠ったものと思われます。
容易に引き抜くことができる形状を、モノを天井に吊る際に使う、つまり、下から垂直の孔を穿ち、そこへ真っ直ぐな棒を差込み、その先にモノを吊せば、当然、棒は簡単に抜ける、それを防ぐにはノリで接着すればいい、そういう「発想」を平気でする、そして何ら疑わないことに、私は驚きました
   小さなものを吊るすときに使う先がフックになっているヒートンという金具があります。
   これには、埋まる部分にネジが切ってある。それは、相手に密着するためです。
   ネジがあるのとないのとでは、吊るすことのできる物体の重さに大きく差が出ます。
   ネジの方法は、木材や鉄材では可能ですが、コンクリートには使えません。材質が緻密でないからです。

多分、いろいろな場面で、同様なことが起きている、そしてこれからも起きるだろう、そんなふうに感じています。
考えてみれば、いや、考えて見るまでもなく、原発安全神話もこの一つ。


どうしたらこういう状態を抜け出せるのか。
人びとの持つ感性を信じること、人びとの感性を埋没させるような動きから撤退すること、
そして、多くの実体験の機会に恵まれるようにすること、ではないかと思っています。
   たとえば、建築の仕事の場合で言えば、ソフトに頼らないこと!
   先ず手仕事:手描き、見よう見まねの手描き、次いで習熟したらソフト、
   この手順が必要なのではないでしょうか。
   何のことはない、これは、はるか昔、ものごとの修得について、世阿弥が語っている要諦です。
   

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閑話・・・・鐘楼 と 釣鐘 の 関係について : 一枚の写真から

2012-10-21 12:22:28 | 構造の考え方
本棚から「岩波写真文庫 12 鎌倉」という写真集が出てきました。
写真集と言っても、B5判60頁ほどの小冊子に近い書物です。下の写真はその表紙。



「岩波写真文庫」は、1950年代から60年代にかけて、多分300冊ほどは刊行されたと思います。全ページが写真、中には今やきわめて貴重なものもあります。
   註 調べたところ、1958年まで、286冊刊行されたとのことです。
      最終巻は、「風土と生活形態」、どこかで探してみたい![註記追加]
因みに、一冊の価格は100円!。私は30年ほど前、古本で500円で買いました(そのとき、「日本建築辞彙」の昭和4年版も同じく500円だった!?)。

表紙はどれもこういうスタイル。どこかで見た方も居られるでしょう。  

その中にあったのが次の写真です。 



鎌倉の東南、由比ガ浜・材木座を挟んで長谷寺、鎌倉大仏のいわば対岸に位置する光明寺の鐘楼だそうです。
この写真集は1950年8月が初版ですから、写真はそれ以前、敗戦直後の撮影と思われます。

釣られているのは梵鐘ではなく、大きな石、と言うよりも岩が 数十個・・・。 
解説に次のようにあります。
   ・・・鐘は弾丸に化けたのか、石が下がっている。そうでないと建物の釣合いがとれぬらしいのだ・・・。

だいぶ前に、奈良時代につくられた東大寺大仏殿は、平安時代末に焼き討ちされるまで何回も地震に遭っていますが、軒は波打っても、壊れることなく建っていたようだ、と下記で書きました。
   「日本の建物づくりを支えてきた技術-12・・・・古代の巨大建築と地震
その中で、鐘楼の釣鐘が「地震で落ちた」という記述が何度か史書に出ていることを紹介しています。他の建物に被害はなく、ただ、鐘は、頻繁に落ちたようです。

釣鐘の代りに巨石群を釣ってある光明寺の鐘楼の写真を見て、
そして「そうでないと建物の釣合いがとれぬらしいのだ」という一文を読んで、
なぜ、東大寺では、大仏殿などの建物は壊れずに釣鐘は落ちたのか、
私は深く考えていなかったことに、あらためて、気付かされました。
   多分、梵鐘が没収されたのは昭和18年:1943年頃でしょう。
   没収に対する抗議の意志表示だ、という見方もできますが、それなら、石一個で十分。その方が効果的。
   「もっこ」にいくつも丁寧に詰めてあることから判断して、解説の言う通りだと思われます。[註記追加]   

きわめて重い梵鐘の釣られている鐘楼は、普通、四本の柱で屋根を支え、その梁から鐘を釣っています。
当然、現代の木造ではありませんから、鐘楼は礎石上に置かれているだけです。
現在見かける鐘楼は、ほとんど、四本の柱のそれぞれが独立の礎石に立っています。

しかし、現在東大寺にある鐘楼(「しゅ ろう」と読むそうです)は、鎌倉以降の再建で、下の写真のような姿をしています。
柱の下に、土台のような材があります。しかしこれは、いわゆる土台ではなく、柱を貫いている地貫(ぢ ぬき)。地貫は四角い枠を形成し、その隅部の上に、四本の柱が、いわば跨って載る形になっています。

   

   なお、現存の東大寺鐘楼の詳細については、下記をご覧ください。地貫の工法についても触れています。
      「東大寺鐘楼
      「東大寺鐘楼-2

先の光明寺の鐘楼の写真では、脚部が大きく写っていませんが、胴貫を使っていること、そして、辛うじて見える右側の脚部の様子から、やはり地貫があるように見えます。
   光明寺をご存知の方、実際がどのようになっているか、ご教示いただけると幸いです。[註記追加]

1) 一般に、地震があると、地面の上に在る物体は、いかなるものも、物体が元あった所:位置を維持しようとします。
   いわゆる「慣性の法則」です。
   それゆえ、地震で地面が右へ動いたからといって、物体は元の位置に留まろうとしますから、
   物体は地面と同時に右へ動くとは限りません。ダルマ落しがその一例です。
2) また、地面が上に動いたからといって、物体が地面と一緒に上に動くわけでもありません。
   その場合は、物体は元の位置を保とうとしていますから、地面の動きにより、強い衝撃を受け、跳び上がるでしょう。  
   逆に地震で地面が下へ下がると、物体は一旦地面から離れ宙に浮いた形をとり、次いで落下して、
   そのとき強い衝撃を受けるでしょう。

しかし、1)の場合、まったく地面とともに動かない、と言うわけではありません。
物体と地面がどのような関係にあるかによって、挙動は異なるはずです。
たとえば、物体が地面に強く拘束されているならば、物体は地面の動きのままに動くでしょう(現在建築基準法で奨められている木造建築はその一例です)。
物体と地面との間に生じる「摩擦」も拘束の一つです。
また、地面に埋められた礎石は、埋め方によっては、摩擦どころか、ほぼ、地面と一体になって動くでしょう。もちろん、掘立て柱も同様です。

物体が軽いか、地面が平滑だったならば、ただ物体が置かれているだけであれば、物体は、いわば地面の上を滑るような、逆に見れば、地面の方が勝手に動いたような状景を見せるはずです。建物の場合でも、相対的に軽ければ、そういう現象が起きると思われます。
   阪神・淡路大地震のとき、淡路島で布石に土台を据えた家屋が横滑りした例をいくつも見ました。下記参照。
実際の地震では、2)のような事象は滅多に起きず、1)と2)が同時に起きます。そのとき、地面に置かれただけの物体は、あたかも跳んだように別の場所へ移動することも起きるでしょう。地震が与えた衝撃で跳んでしまうのです。
   この実例を、阪神・淡路大地震の際、西宮駅の近くで見ました。下記参照。
   「地震への対し方-1・・・・『震災報告書』は事実を伝えたか
   「地震への対し方-2・・・・震災現場で見たこと、考えたこと
鐘楼の建物は地面に置かれているだけですから、地震があると、その状態を維持して(維持し続けようとして)、地面の方がいわば勝手に動く筈です。
とは言っても、まったく地面の揺れと無関係というわけにはゆきません。
礎石は地面に据えられています。したがって、地震に際し、地面なりに動くでしょう。
柱:建物は礎石の上に置かれているだけですから、地震の際、礎石の動き=地面の動きとまったく同じには動きません。地面が勝手に動きます。
しかし礎石と柱の間の摩擦、あるいは地面の縦揺れには無関係ではあり得ませんから、地面の揺れとまったく同じではないにしても、地面に追随して一定程度は揺れ:変動を生じるはずです。
掘立て柱の時代に代って礎石の上に建てるようになった古来の日本の建物では、地震のときには、常にこのような挙動を生じたはずです。
   ただ、その建物の挙動の様態を算定する一定則はありません。置かれている様態によって異なるからです。
   つまり、礎石の様態、置かれ方の様態、重さの分布・・などで、事例ごとにまったく異なります。
   一定則を設定するには、実際の様態を「理想形」に「変形」する必要が生じます。
   しかし、何をもって「理想形」とするか、これは難題です。あまりにも様態はさまざまだからです。
   そこで、この様態の実体に「まともにつきあう」ことを止めてしまった、
   これが、日本で、古来の木造建築の「解析」が行なわれてこなかった理由であろう、と私は考えています。
   一方で、大工さんたち工人は、その「解析」を、身をもって、つまり「経験・体験」で行なってきたのです。
   これを、学者は、「非科学的」だ、と言って批難してきました。これが日本の学者の世界です。
   蛇足:私は、そういう学者の世界こそ non-scientific と言ってきました。


では、鐘楼に釣られている梵鐘と鐘楼とは、いかなる関係にあるのでしょうか。

釣鐘は鐘楼に釣られています。いわば宙に浮いていますから、地震があっても地面の動きとはまったく無関係、元の位置を保ち続けようとするでしょう。唯一、鐘楼にロープで繫がっている。
鐘楼の重さは巨大です。もしかすると、鐘楼そのものと同じか、それ以上の重さがあるでしょう。
この釣鐘の重量は、釣っているロープを経て梁などにかかり、最終的には四本の脚を経て地面に伝わります。
もしも鐘楼の柱が掘立てならば、軟弱な地面ではもぐってしまうかもしれません。そうなることを避けるには、地形(地業)を確実に行い、底面の広い石を用いた礎石建てにする必要が生じるでしょう。

おそらく、古代の東大寺の鐘楼も、そういう大きな礎石を据えて四本の柱を建てていたと思われます。
そしてまた、古代の鐘楼の小屋の架構は、他の東大寺の建物と同じような架構法だったのではないかと思います。
   古代の東大寺大仏殿などの架構法は下記等をご覧ください。
   「日本の建築技術の展開-8

このような礎石上の四本の柱で支えられた鐘楼は、建物自体と釣鐘の重さによって、おそらく柱は礎石に喰いこむような様態を呈していたと思われます。
そういう状態の鐘楼が地震に遭ったらどういう挙動を生じるでしょうか。
鐘楼は、地面に喰いついてるような状態ですから、地面の動きに追随して動く、動かざるを得ない、と思われます。

一方、釣られている釣鐘の方は、追随はしません。極力、元の位置を保とうとするはずです。
この両者の挙動の違いはきわめて大きなものであった、と思われます。
それゆえ、傍からは、大げさに言えば、釣鐘は動かないで、まわりの鐘楼が激しく動き、それに引きずられて釣鐘の頂部:ロープの取付け部が揺さぶられる光景を見たのではないでしょうか。そして、その挙動の差が過大になったとき、釣っていたロープが切れ、あるいはロープを取付けてあった梁が折れ、鐘は落下した、そのような状況になったのではないか、と思われます。

では、大仏殿はなぜ壊れなかったのか。
おそらくそれは、建物が巨大で重かったからです。唐招提寺の拡大コピーのような架構でも、巨大ゆえに壊れなかった・・・。
たしかに大仏殿の総重量は巨大ですが、独立の礎石に載っている柱は、大仏殿の場合、裳階まで含めると総数92本あります。それゆえ、1本の柱が支える重さは、鐘楼のそれに比べ、圧倒的に小さい(正確に計算したわけではありません。いつか試みてみようと思いますが、この判断は復元図を見てのです)。
ということは、礎石:地面との摩擦は少ない。つまり、地面に拘束される割合が小さい。ゆえに、地面が揺れても追随しない。建物の重量が巨大ゆえ、建物は現在位置を容易に維持しようとするのです(慣性の大きさは、重さに比例します)。
結果として、同じ架構法の大仏殿は壊れずに、鐘楼は壊れてしまい、釣鐘が落ちてしまった・・・。
というのが私の解釈です。
   江戸時代に、西本願寺など巨大な建物がつくられていますが、それらもまた、地震で被害を受けていません。
   もちろん、壁は少なく、地面に置かれているだけで、耐震診断をすると補強が求められる建物群です。
   なぜ被害を受けないのか。
   私は、架構法もさることながら、その総重量に理由があると思っています。特に、瓦の重量。
   重い瓦は地震に弱い、というのは人為的神話の類、と私は思っています。
   これについても、先の「地震への対し方-2・・・・震災現場で見たこと、考えたこと」で触れたと思います

では、建立以来たびたび見てきた釣鐘の落下から、工人たちは何を学んだか。
それが、再建東大寺の鐘楼に使われた地貫だったのではないでしょうか。より正確に言えば、貫で組んだ構築物は堅固な立体:箱になること、すなわち貫工法そのものの原理を学んだのです。

つまり、鐘楼と釣鐘の重量を、四本の柱の柱脚部にのみ集中させず、地貫のつくる方形の枠全体に分散させたのです。そうすれば、地面と建物との間の摩擦が格段に小さくなり、地面の動きへの追随も小さくなるからです。しかも、鐘楼全体が堅固な立体:箱になっている。
そうであれば、鐘楼は、地震に遭っても、形も位置も維持し、梵鐘もそのまま。
もしかしたら、鐘楼の下で、それこそ、地面が勝手に右往左往、上下するような光景を呈したかもしれません。
そのとき、この光景に大きく「貢献した」のが、梵鐘の重さだった、と考えられます。慣性の力を大きくしているからです。
つまり、工人は、梵鐘の重さを、単なる「負荷」:余計な重さ:とは考えなかった、のではないでしょうか。
   現在の構造の考え方では、おそらく「負荷」と考えると思います。

岩波写真文庫の説明は、光明寺の鐘楼で、没収された梵鐘の代りに岩石群を釣っているのを、「そうでないと建物の釣合いがとれぬらしいのだ」と書いています。
このような、鐘を没収されてもそのままにせず石を釣るという判断をなさった方は、大仏様を引継いだ鐘楼のつくりかたの原理を知っていたからなのではないか、と私には思えます。

以上は、一枚の写真を見ての、まったくの私のによる事象の解釈です。
どなたか、別のより妥当な解釈があれば、ご教示のほどお願いいたします。 

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ご案内

2012-06-16 17:57:43 | 構造の考え方
「日本家屋構造」の紹介、次回分は、ただいま編集中です。もうしばらくかかりそうです。
  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

NPO「伝統木構造の会」から、
奈良県今井町の重要文化財「高木家」について、
増田一眞氏による構造解析講習会を開催する旨、案内をいただきました。
承諾を得ましたので、転載させていただきます。
  高木家は、幕末に、奈良・今井町の大和川沿いの低地につくられた商家。
  竣工時から何度も地震に遭遇していますが、健在の建物です。下記で紹介しています。
   「日本の建築技術の展開-29
   「同-29の補足
   「同-29の補足・ふたたび
   「高木家の地震履歴
   「日本の建物づくりを支えてきた技術-33・・・・高木家の竿シャチ継ぎ」(追加 17日 14.38)

詳細は、「伝統木構造の会」にお尋ねください。  
  

 

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「最高の不幸」・・・・シドニー・オペラハウス(SOH)の場合

2010-03-12 07:33:02 | 構造の考え方
[文言改訂 12.12][標題更改 最大の不幸⇒最高の不幸 15日 8.06]

1957年、シドニー・オペラハウス(SOH)の設計競技で、ウッツォン(Jorn Utzon)の案が選ばれました。海原をゆく軽快な帆船の如き、画期的な案。
ウッツォン(Jorn Utzon)は、1918年生まれのデンマークの建築家(~2008年)。

建物は1959年に着工、1973年に竣工していますが、設計から完成に至るまでには紆余曲折がありました。

下の図は、D Walker 著“GREATE ENGINEERS”(1987年 ACADEMYEDITIONS LONDON,ST MARTINS PRESS NEWYORK 刊)に載っている原案から実施案に至る間の構造計画の変遷を示したもの。
番号0が原案、番号11が、実施に移された方法(原本とは異なる表示にし、0と11には色をかけるなど、編集し直しています)。

当初のウッツォンの構想では、鉄筋コンクリートによる「卵の殻」あるいは「貝殻」のような構造:「シェル構造」を考えていました。
しかし、その構想案は、構造の専門家からは、実現不可能とされてしまいます。そのシェルの形が実際の貝殻のように「不整形」だったからだと思われます。

構造には、英国の構造専門家オブ・アラップ(Ove Arup 1895~1988)がかかわっています。
   パリ万博の頃の生まれですから、
   その後の「目覚しい構造学の《発展:理論化》」の波を、まともにかぶった世代です。[文言改訂 12.12]



原案と比べたとき、完成したSOHは、それなりに異彩をはなってはいますが、原案の持つ溌剌とした動的な姿は消滅してしまった、つまり、似た形ではあるけれども別物、という感を私は否めないのです。
ウッツォン(Jorn Utzon)のつくる建物は、もっと人懐っこいのです。
   ウッツォン(Jorn Utzon)を特集した雑誌(多分“ZODIAC”だったと思う)があったはずなのですが
   探しましたが見付からない!見付かったら紹介します。
   そこに、SOHの原案が詳しく載っていたような記憶があります。

もう少し詳しく見れば、ウッツォンの構想は、シェルではあっても、いくつかの幾何学形体を連続させて生まれるシェル形である、と理解できます。
ところが、構造計画案は、単純な幾何学形体にこだわっています。
実際、実施案では、球の分割で考えていることが、先の書物に載っている次の図で明らかになります。



これは、実施された構造計画を説明したもので、左側の図のように球体を切り取り、それをそれぞれ二つ合わせると、それぞれが4ヶ所のシェルになる、というもの。
なぜ、このようにしたか。
解析が容易だからではないか、と私は見ています。
「明解な(簡単な)解析」のために、「整形」が必要不可欠だったのではないでしょうか。

しかし、幾何学的に整形の形体は、きわめて「独立性」が強く、他と交わり関わりあうことを拒否する形体です。
その性向は、たとえ分割したところで消えません。
できあがったSOHの「生硬さ」は、そこから生まれていると私には思えます。

これに対して、ウッツォンの構想は、周辺と交わり関わりあう。と言うより、「そのことを意識して」生まれた構想と考えられます。原案のもつ「動的な感じ」も、そこから生まれているのでしょう。
これは、アアルトや、先に紹介したピエティラをはじめ、多くの北欧の建築家たちに共通する「感覚」「感性」の生み出すもの。
彼らには、常に「まわり」がある。彼らのつくる建物には、常に「そこに在る人たちの目線」がある。
簡単に言えば、彼らは単に「もの」をつくっているのではないのです。ましてや、「写真映り」の良し悪しなどは念頭にありません。
   建物は、単なるオブジェではないからです(最近の建物は、巨大オブジェ化しているように私には見えます)。

アアルトやピエティラなど北欧の建築家たちの発想には、常に、第一に、「そこに、人がいる」のです。あくまでも、「そこに在る人にとっての『もの』」なのです。
そして、「そこに在る人」に見えているのは、その『もの』だけではなく、「まわり」のなかの『もの』なのです。
   これが、私が北欧の人たちの建物づくりに魅かれた理由です。
   そしてそこに、日本の建物づくりと共通のものを見出したのです。
   と言うより、だから、北欧の建物に共感をもったのだと思います。
   (もっとも、最近の北欧の建物は、大分変ってきたようです。)

逆に言えば、ウッツォンの考え方は、現在の「最先端の人たち」には理解されなかったのです。私は、そう思っています。
それゆえに、まさに「現在」を象徴するかのように、「最大の不幸」が起きた、すなわち「理論が実作を追い越した」のではないでしょうか。

もしも、一時代前の構造家、マイヤール(Robert Maillart 1872~1940 スイス人:下記参照)が構造計画にかかわっていたのなら、より構想原案に近い建物になったのではないか、とも思っています。
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/57cabf50891c46748c87f1af526565dc

先回のピエティラの学生会館、その構造計画図は手元の資料にはありません。
しかし、その構造設計は、意外と簡単なものだったのではないか、と思います。
たとえば、あの不整形な屋根版。
想像するに、一様のシングル配筋がなされていて、ただ、面の折れ曲がる箇所(峠や谷)は一定の幅だけダブルにする(幅は、対面する峠・谷までの距離により決める)、壁・柱に接する箇所では、壁・柱からの鉄筋を飲み込ませる・・・など、模型を見ながら、言ってみれば「定性的」「感性的」に、大工さんが木材の材寸を決めるのと同じように、決めたのではないでしょうか。何となく、私には、そう思えるのです。
そして、もしも「現在風の」構造家がかかわったならば、やたらと補強梁などが加わり、結果として総重量が増えてしまったのでは、と思います。
SOHもまた、あのような構造方式になったため、総重量はかなりのものになったのではないでしょうか。
未だに、私には、あのSOH実施案が「正解」だったとは、どうしても思えないのです。
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「現場(発想)」と「理論」、あるいは「地上」と「机上」の関係・・・・補足

2010-03-10 14:04:10 | 構造の考え方
先回のピエティラ設計、オタニエミ工科大学「学生会館」の平面図を編集しなおしました。

室名は原本のままです(縮尺1:800とありますが、それは原本のサイズのときの表示です)。
ただ、Poli room, TKY office, PTK room が何の部屋を意味するか、不明です。

地上階(Ground Floor)平面図


上階(1st floor)平面図


なお、“ARK”の表紙に、この建物の真上から見た模型写真が載っていますので、大きめのサイズで転載します。


この模型は、角材をいくつか横並べして削ってつくってあるようです。
フィンランドは雪がかなり降ります。屋根に雪を溜めるのは好ましくありませんから、極力水はけをよくしてあるはずです。
そういった点も含め、模型で形体を検討したものと考えられます。
当然ですが、周辺の地形も板でつくってあります。
図版を大きめにしたのは、多少でも形体の様子がよく見えるように、と考えたからです。

もしも、この建物を実際に見た方がおられましたら、感想などお聞かせください。
この建物ぐらい、図面、写真だけで空間を想像するのが難しい建物はないように思います。

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『帝国ホテル(旧)』は、なぜ関東大地震で被災しなかったか・・・・「構造学者 建築を誤まる」

2009-12-13 17:44:24 | 構造の考え方
[註 追加 21.50][図版更改 14日 0.53]
大正12年(1923年)9月1日は、関東大地震の発生した日ですが、その日、竣工式を行なっていたのが『帝国ホテル(旧)』でした(着工は大正8年:1919年)。

この建物の設計については、当時の「専門家:構造学者」の多くが危険視していましたが、被害はありませんでした。

その翌年、大正13年、雑誌『科学知識』(大正13年1月号)に、F・L ライトの右腕として建築にかかわった遠藤 新(えんどう あらた)が、『帝国ホテルの構造について』と題する小論を寄稿しています。

彼はそのなかで、「構造学者 建築を誤まる」として、地震後の東京の建築は必ず悪くなる、と心配しています。
まことに核心を突いています。東京どころか、日本中の建築がおかしくなったのですから・・・。

   雑誌『科学知識』の関東大地震の前年、大正11年4月号には、
    F・L ライト自身が、「新帝国ホテルと建築家の使命」と題して寄稿し、
   何を考えて設計したかを述べています(訳 遠藤 新)。

『帝国ホテルの構造について』において、遠藤 新は、
沼沢地に等しかった東京・日比谷での、当時の「専門家の常識」をくつがえす構築の工夫について詳述し、
あるいはまた、
「鉄筋コンクリートは木に準じて使うべし」、「柔道の理論は建築にも当て嵌まる」など、
当時はもちろん、現在の専門家は決して考え及ばない、瞠目すべき考え方をも記しています。

また、当時の建築(構造)界が、震災後、こぞって建物の「剛体化」へと動いていた様子や、
F・L ライトは、初め構造学を専修した人で、明快な構造学の見識のある人物であったこと、なども紹介されています。

一読すると、F・L ライトが(遠藤 新 もまた)、ものごとへの対し方・考え方がいかに柔軟であったか、いかに構造についてセンスがよかったか、よく分ります。

当初、抜粋し、概略をまとめて紹介しようかとも考えたのですが、全文を紹介した方がよいと判断し、「遠藤 新 作品集」から、そのままスキャンして転載することにします。鮮明でなく、また文語体で読みにくいかもしれません。

なお、ライトの『新帝国ホテルと建築家の使命』も、機会をみて紹介します。

   これから1週間ほど、仮称「建築技術史年表・試案」作成の思案のため、
   お休みをいただきます。
   なお、18日には、ちょうど1ヶ月経ちますので、「木を活かす・・・協議会」へ、
   「資料公開開示」の督促をする予定にしています。

   註 帝国ホテルの平面図等は、下記をご覧ください。[追加 21.50]
      「再び、設計の思想・・・・旧帝国ホテルのロビーに見る」



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基礎の重さ

2009-11-13 21:55:21 | 構造の考え方
[追記追加 11月20日 20.02]

   以下の記事は、10日ほど前に載せるはずだったのですが、
   例の「倒壊事件」で遅れ遅れになってしまいました。
   折角急いで資料を送っていただいたのに、
   送っていただいた方には、大変失礼いたしました。

福島県いわき市の「建築設計事務所 檜山延雄+まちづくり工房」の事務所ブログ「木の暮らしblog」(下記)に、次のような興味深い記事が載っていました。
   http://ameblo.jp/3-mikan/

   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

   約16坪の木造住宅の重量を計算しました。
   材木や、下地材、板金、タイル、サッシなど上物の重量は約 5.6t。
   布基礎の鉄筋コンクリートや捨コン、砕石などの重量は約 17.5t。

   建物全体の総重量は約 23.1t。
   基礎の重量は、上物の約3倍です。
 
   地面にかかる、建物全体の平米あたりの重量を、
   基礎の底辺の面積から出したところ、1.5tでした。
   その内、基礎を除いた上物の平米あたりの重量は、約 0.3t。
   基礎部分の平米あたりの重量は、約 1.2t。

   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

早速、図面と計算書を参考のため、お送りいただきました。
2間×5間の横長の木造総二階。一階は根太天井、二階は小屋表し。二階は4坪が吹抜け、ゆえに総床面積16坪。

敷地が水田を埋め立てたところで、地盤調査をしたところ、1㎡あたりで1.5tの重さしか置けない土地。
そこで、設計した建物の重さを詳しく調べた結果が上のデータ。

   建物の設計図もいただいていますが、実際にこれから建つ個人の建物ですから
   図面は載せません。
   それではトップが淋しいので、関係ありませんが、
   いま紅葉になりだした神社の杜の写真を載せました。

建物の重さは、通常は、建築基準法施行例(84、85条)の規定する「荷重」の数値を基に計算することになっています。

その基準で計算してみます(〇〇Nは、各面の1㎡あたりの値)。
  屋根:金属板      200N×71㎡=14200
  木造の母屋         50N×71 = 3550
  2階天井(板打上げ)   150N×36 = 5400
  1階天井(珪カル敷き)  150N×18 = 2700
  1階床            150N×33 = 4950  
  2階床            320N×18 = 5760
  外壁(板+漆喰)     590N×90 =53100
  積載荷重         1800N×53 =95400
     合 計              185060N

   1㎏≒9.8N  ∴185060N≒18884㎏=18.9t

この荷重によって、基礎の計算をすることになるわけですが、これを支えるための基礎の重さは、上の計算式に含まれているのでしょうか?
そうでないとすると、この数字に基礎の重さ、おそらく20t近くを足した重さに堪える基礎、という事になります。
そうだとすると、大変なことになりますから、おそらく、あの数字で基礎を設計して大丈夫だという「経験値」なのでしょう。

実は、いままで真剣に計算したことがなかったのですが、あらためて考えて見ると、法令はこと細かく数値を並べてはいますが、実は about なのですね。

それにしても、約6t程度のものを支えるための基礎が、その約3倍、18t必要になる、どう考えても異常です。
軟弱地盤で盛んなベタ基礎にしたら、もっと大変なことになるわけです(ざっと略算すると、ベタ分が約6tほど追加されて、都合約24t。上物の4倍)。
そうだとすると、木造建築の場合、ベタ基礎は、ベタ基礎を支えるためにあるようなもの。軟弱地盤を考慮していることになるのかどうか、わけのわからないことになります。

結局、桧山氏は、独立基礎に設計変更したとのことで、次のようなメールをいただきました。

  底盤1m角に300φの(L=600)束(つか)を18箇所にしました所、
  基礎重量が8.3tとなりました。
  布基礎の場合約17.5tでしたので9.2tも減りました。
  この建物の場合、この独立基礎1ケ所で受け持つ荷重は1.3t/㎡となりました。
  地耐力1.5t/㎡ですので計算上OKとなります。
  独立基礎の方が床下の通風、メンテナンスも容易になります。

  「布基礎」、最近はやりの「ベタ基礎」と、木造の基礎は
  この二通りしかないようになってますが・・・・そんなことはありませんね。
  状況に応じた考えができなくなっています。
  残念です。

もしも、昔ながらに地形(地業)を確実丁寧に行い石場建て:礎石建てにしたならば(これについては、後で触れる「登米尋常高等小学校」の基礎地形が参考になると思います)8tものRCが不要になり、結局のところ、地面に載る総重量もほとんど上物だけになるでしょう。
しかし、それでは確認申請が通らない・・・!

「布基礎」は、悪い地盤での建物の不動沈下を防ぐための発案だったわけですが、逆に、「布基礎」の重さのために、基礎ごと傾くこともあり得るのです。ベタ基礎では、実際にそういう事例があるようです。

こうしてみると、あらためてわが国の木造建築が、石場建て:独立基礎でつくってきたのは、きわめて理に適った方法だったのです。
礎石の下の地形(地業)が確実に行われていれば、不同沈下は、先ず起きないのです。
実際、何度も例に出す奈良・今井町の「高木家」は、きわめて地盤が悪いにもかかわらず不同沈下らしいものは見当たらなかったといいますし、明治につくられた宮城県登米(とよま)の木造二階建ての「登米尋常高等小学校」も、地下水位のきわめて高い河川敷のような土地に建っていますが、この場合も切石の独立基礎:石場建てであるにもかかわらず、不同沈下はきわめて僅少だったといいます(下記記事参照)。建設後、現在、「高木家」は155年、「登米尋常高等小学校」は120年経ってます。

   註 「トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-2:登米尋常高等小学校」
      同建物の平面図と外観写真は、下記
      「スナップ・・・・登米尋常高等小学校」

桧山氏の言われるように、木造建築の基礎は布基礎、あるいはベタ基礎にしなければならない、という現行法令の規定は、そしてその厳守を求めるのは、奇怪至極な話なのです。
別の見方をすれば、建て主は、余計なものに金を払っていることになります。
その分、地域の建設業が潤う?そういうのは少しも地域経済振興にはなりません。

やはり、なぜ布基礎推奨なのか、基礎とは何か、根本から考え直す必要があるのです。

追記 [追記追加 11月20日 20.02]

登米尋常高等小学校の基礎・地形(地業)について、解体修理にあたった方(ishi goro 氏)からコメントがありました。
しかし、コメントで隠れているのはもったいない内容ですので、記事の方にコピーします。

   旧登米小学校校舎の背面には、現在の登米小学校の校庭があって、
   ここに旧校舎の一部が張出していたことが古写真から判明しました。
   それで、校庭の一部を発掘したところ、確かに古写真の通り、
   入念な地業が現れたのです。
   地業を確認しただけで、発掘は終わったのですが、
   おそらくこの下には、小端建ての割クリ石が敷き詰められていたものと想像します。

   当時の根切りは当然手堀りですから、地盤の堅さ、特に根切り底の堅さは
   サウンディングなどしなくても土工の感覚でわかります。

   実はこの感覚が非常に大切だったと思います。

   根切り底をしっかりすることがいかに大切かを教えてくれた現場でした。
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模型づくりで・・・・3の補足――遠藤 新 の「構造」「材料」についての考え方

2009-10-14 12:24:54 | 構造の考え方

これまで、たびたび、遠藤 新 が、架構・構造のありかたについて述べている旨触れてきましたが、今回紹介させていただきます。

遠藤 新は、関東大震災の翌年、耐震策として提唱された筋かいや金物補強について、批判した論を述べています。

また、他の所で、建築を立体として扱うべきである、あるいは、建築にとって材料とは、構造とは、についても論を展開していますので、それも紹介します(このほかにも、紹介したい言葉は、たくさんあります)。
いずれも、おそらく、当時の「主流」の方々からは無視された論であろうと思いますが、その論点は、的を射ている、と私は考えています。

  なお、関東大震災当日が竣工式だったという旧 帝国ホテルの構造についても
  詳しく述べた論説もあるのですが(帝国ホテルは被災していない)、
  それはあらためて紹介させていただきます。

上掲は、1924年(関東大震災の翌年)に 遠藤 新 の設計した小住宅の平面図・立面図のスケッチと解説です。
出典は「遠藤 新 作品集」。
以前に紹介した彼の「住宅論」を参照しつつご覧ください(下註)。

   註 「日本インテリへの反省・・・・遠藤 新 のことば」

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

◇ 筋かいボート不適当   「婦人の友」大正十三年一月号

濃尾の地震のあった後、世間は一斉に耐震構造に腐心したらしい。

   註 濃尾地震:明治24年(1891年)10月28日に発生したM8.0の地震。
・・・・・
そこで入れられたものは、筋かいとボート・・だ。
これほど不都合なものもない。
然し地震に恐れを為している人達はこんな風に納得した。
「一体日本の家は開けひろげ過ぎる。壁にしよう。ここに筋かいだ、あそこにボートだ。これで安心して寝られる」と。
所が六月はまだよい。七月になった、八月が来た。寝られる家が寝られないのだ。蒸し暑いのだ。

   註 ボート:bolt ボルトのこと。
      彼の耳にした発音どおりに表記したらしい。

地震のほとぼりのある中は我慢もした。然し一年とたち二年となって、筋かいとボートはだんだん影をひそめた。・・・そして大正十二年(1923年)九月の一日、あの地震だ。

世間は、またうろたえた。そしてそこでもここでも耐震構造の御談義だ。所で何というかと思えば、博士から棟梁、出入りの大工さんまで筋かいだボートだと同じことをいうておる。
地震だけ進歩して、世間はちっとも進歩していない。御説に従ってまた数年暑苦しい目を辛抱するか。そしてまたやめて仕舞うか。

所で、そのやめるというのは、実際、地震のほとぼりのなくなった健忘性のためではない。事実、これは日本建築に不適当な方法なのだ。やめるしかないのだ。

その不適当な理由はどうか。
一体、日本建築は、説明するまでもない屋根と柱の家だ。開け放しの吹き抜けだ。その柱と柱の間に障子がはまって居り、雨戸が入って居り、硝子戸が立って居り、そして偶々(たまたま)薄い壁が思い出した位ついている。

筋かいというのはこの思い出した程しかない壁の所にしかつけられないのだ。それで日本の家全体が強まりっこはない、筋かいを用いろというのが無理だ。

「それでも少なくともそこだけは強くなるではないか」と、その通り。
然し建物の一部分だけが強いということは、却ってよくない。
世間に所謂(いわゆる)「不釣合いは不縁のもと」で、不権衡は不健全である。外(ほか)の部分が弱められるか、強い打撃をうけるかに終る。・・・・

   註 権衡(けんこう):秤の錘と計り竿のこと。釣合、均衡と同じ意。

・・・・・
要するに、日本建築の本性と根本的に撞着(どうちゃく)を持って居るのだ。
・・・・・
それから桁と柱の継目を強める為に、燧(ひうち)を45度に入れてボートでしめろという。一体日本建築の何所にそれをしろというのか。日本建築では、相憎(あいにく)みんな小壁か欄間になって居て、この力学の第一頁に書いてある様なことは遺憾ながら出来ないのだ。
・・・・・
接合部が弱いというのは柱が各自独立してる時の心配で、一体となっている柱にはその心配はあり得ない。
・・・・・
今は、見渡す所バラック、そのバラックをご覧ください。
法外な頬杖や、鎹(かすがい)やボートや筋かいが、乱用に乱用されてる。困ったものだ。バラックにすらこんあ風であるから、本建築になったらどんな事をするだろう。
私が、震後の建築が、必ず悪くなることを今日断言しているのは理由なくしてではない。
建物が・・・頬杖責めボート責め、筋かい責め、ありとあらゆる所謂(いわゆる)耐震責めに遇うている・・・。
・・・・・                    
               
◇立体的新建築  「建築評論」大正九年四月号

『日本の建築家は「新しい」という事許り(ばかり)考えて「正しい」という事をおろそかにした。新人の意見の不徹底がそこに因する。何が正しいか、立体建築観が正しい。

此迄(これまで)の建築家は人の心を考慮に入れていない。
心理の考慮なき建築は死人を容るるに適して生きたる心の住家とはならない。
いま有りとあらゆる建築家は棺箱を作ってそれに人を入れることを強要してる罪人だ。
建築は建築家の主観の体現だ。インホメーションばかり漁っている連中に建築家を求めたって居ない。』

『壁は壁で階段は階段で人間と何等の交渉もなく冷やかに配置されてあるという従来の態度をよしたい。
従来の壁に手摺りをつけて「是が階段というものだから構わず上ってゆけ」という態度をよして階段を上る時の心持を汲みとって、手摺のかわりに壁で温かくかこんでみた。

廊下から室にはいる時も低い六尺位の天井をつけて先ず室にはいる前の気を順備せしめる様にした、電燈の配置や植木鉢の置き方までも温かにやらなければならぬ。
天の橋立を遠くから眺めて美しいとか何とかいう態度をよして実際に松林の間を通った時の気持ちを表そうというのである』云々。

◇材料が先きに立つということ
   「アルス美術講座」(昭和二年刊) 「建築美術」より
・・・・・
材料が主であるということ、とって置きの意匠があって、その為めに、材料を切りさいなむで造るのでなしに、初めに、自然の材料があって、その材料に引きずられる様にして、人間がものをつくるということ。
そこには、いうべからざる力が美と共に居る。

工夫(こうふ)がレールを片づける、二本の枕を置いてその上にのせる。単純な構架に、極めて不用意な一無造作な自然がある。
私はあれを見る度、「ああいい建築があるぞ」と思う。
この無造作な構架が少し変形して鳥居になった。更に変化すれば、染物屋の干台にもなった。祭の時の小屋掛、正月のしめかざりを売る歳の市の小屋にもなった。

此等の構架には、人間をぐんぐん引きずって行く力づよさが見える。
勿論、人間の方には目的がある、然しその目的を叶えさして貰う為に、人間が一所懸命おとなしく材料のいいつけをきいている様な趣きがある。
自然らしい美と、原始的な力が其所に湧き溢れて居る。

然るに、建築を大きくばかり造っても、其所に材料の持つ大きさが出て来ないと意気地がない。
今日の構造学には、こゝな用意がない(尤も構造学というものは、いつになってもそんな用意を知らないものだが)。

そして、建築は材料に引きずられずに構造学に引きずられる。
そこで、建築が意気地なくなる。
思いつきや、利口さや、小手先やの細工は、更にも建築を弱く、小さく、意気地なくする。

文化の爛熟の間にも、一脈の単一至純な原始的な力が潜んで居るようでなくてはいけない。
私は、いつも、建築場の簀囲い(さく・がこい)を見て、その、力ある表現に驚く、鉄骨の組み立てを見て、そこにある建築美に打たれる。
そして出来上って建築が、いつも、この囲いと鉄骨とを裏切ることを悲しむのである。
・・・・・
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

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模型づくりで・・・・3――立体≠部材の足し算

2009-10-12 01:45:19 | 構造の考え方
[文言追加 12日 9.12][註記追加 12日 9.20][タイトル副題変更 12日 9.23]

とりあえず、建物模型づくりが終り、敷地に載せて、一案の終了。上掲の写真がそれで、谷側と山側からの写真です。
一応、リアルに見えます。

この模型とともに、台風襲来の前日、甲府盆地に行ってきました。
内容を論議して、12月前に第2案を練ります。模型があると論議が早い。

ところで、今回の計画は、急傾斜のひな壇という敷地の状況から、床下になる部分が大きくなり、平屋なのに二階建てのようになるので、工費の低減のために、鉄骨造を想定しています。

福祉施設は耐火建築にする決まりがあります。
一般には、鉄骨造も可なのですが、既存の部分:模型で寄棟になっている部分は、一部を除き、寄棟屋根までRC造です。

当初は、屋根だけは鉄骨の壁式のRCで考えていたのですが、福祉施設の「耐火」はRCに限る、という補助金を出す東京都の独自の規定で、やむを得ず屋根もRCになった経緯があります。

最初から寄棟屋根の計画だったかどうかは覚えていませんが、鉄骨造なら、切妻だったのかもしれません。鉄骨では、寄棟型の加工が面倒だからです。

このRCの寄棟屋根は、厚さ12cmのRC版で寄棟型をこさえ、それをRCの壁が支えている形をとっています。舟をひっくりかえしたような形です。

RC造で寄棟にしたのには理由があります。
切妻型では逆V型が開くのを防ぐ陸梁などを繁く入れる必要がありますが、寄棟型は、それだけで形状を保てる形であるため、開き止めを繁く入れる必要がなく、その分、屋根の重さを軽くできる、と考えたからです。

RC造は、コンクリートが固まれば板状になりますから、板紙の模型とまったく同じと考えてよいでしょう。
実際、構造計算では、薄いコンクリート版で済み、ダブル配筋(鉄筋を二段設ける)で10cm厚で十分ということでしたが、現場の施工が難しくなるので12cmにした記憶があります。

  屋根の勾配は3.5/10。
  斜面では、固めのコンクリートにしないと、どんどん下に流れてしまいます。
  しかし、固めにすると、10cm厚ではダブルの鉄筋が邪魔をして、コンクリートが流れません。
  そこで厚みを2cm増やしたのです。
  なお、屋根を支える壁と壁の距離が飛ぶ所では、補強のために梁を設けています。


しかし、実は、木造の寄棟も、板紙模型と同じに考えられる、つまり、それ自体で形状を保てるのです。

木造の屋根では、屋根下地として「野地板」を「垂木」に打ち付けます。
木造の二階床でも、普通は「粗床板」を「根太」に打ち付けます。
これらの「野地板」「粗床板」には、かつては無垢の板が使われるのが普通でした。
ところが、現在の建築法規では、「合板」(構造用)が奨められています。
床面では、「無垢板」使用の場合は床面の四隅に「火打ち」を設けることが規定されているのです(「合板」のときは、付けなくてもよい)。
小屋梁面でも同じです。

   註 「火打ち」:入隅に斜め45度にいれる斜材を言います。
      マッチ等のなかった時代に使われた火打鉄(ひうち・がね)の形が
      三角形であったことから、三角型の材を火打ちと呼ぶようになった
      とのことです。「燧」とも書く。(「日本建築辞彙」による)

なぜ「合板」ならよく、「無垢板」ではだめなのでしょうか?
ここに、はしなくも、現在の大方の建築構造の《科学者》の考え方が現われています。

それは、「合板」張りの長方形の「戸板」と、「無垢板」張りの長方形の「戸板」を平行四辺形になるまで力を加えたとき、「無垢板」張りの方が、「合板」張りよりも早く変形する、という《事実》から言われるのです。
この《事実》自体は、誤りではありません。
そして、この「戸板」が、建築構造の《科学者》用語でいう「構面」にあたります(下記参照)。

   註 「とり急ぎ・・・・また『伝統的木造住宅を構成する架構の震動台実験』」
      「『利系の研究』・・・・『伝統的木造住宅を構成する架構の震動台実験』」

問題は、実際の構築物の「長方形の床面」を平行四辺形に歪めるような力は、どういうとき生じるか、ということです。
結論を言えば、そんなことは、「立体」になっていれば、先ず起きないのです。

いま、きわめて単純に「直方体」の架構を考えます。
そのとき、床面は(一階でも二階でもよい)「長方形」です。
この「長方形の床面」が「平行四辺形」に歪むには、①「直方体」全体が「平行四辺柱体」のようになるか、あるいは、
②床面に相当する位置で、架構が捩れていなければなりません。

では、そのような状態は、どんなときに生じるか、想像してみてください。

②のようになるには、雑巾を絞るような力を架構に加えなければなりません。ゆえに先ずあり得ない。

①のような状態にするのも大ごとです。
なぜなら、架構全体を「平行四辺柱体」にするのは容易なことではないからです。
これは、日曜大工で小さな箱や小屋をつくっても「実感」できるし、あるいは、組立てた「直方体の段ボール箱」を「平行四辺柱体」に歪めるべく押してみれば、たちどころに分ります。そんなことは、一体化した「立体」においては、先ず起きないのです。

つまり、架構に組み込まれた床面では、「無垢板」であろうが、「合板」であろうが、「構面」単体に歪み:変形を起こすような現象は、簡単には生じ得ない、ということになります(大地震であろうとも)。

すなわち、「架構=立体物の強さは、単なる部分:部材の強さの足し算ではない」ということにほかなりません。

つまり、「構面」なるものと「非・構面」で構築物が成り立っている、という考え方は、机上の計算のための、きわめてご都合主義の「発想」なのです。
これについては、上記の「利系の研究」で、「構面」の実験を「構体」つまり「立体」で行うという実験者の自己矛盾を指摘しています。
そして、この「考え方」は、人間社会も「役に立つ人間」と「役に立たない人間」とから成り立っているという考え方に直結します。
だからこそ、自分たちの《研究》の結果をもって、他を律しようなどという「おこがましい発想」に至るのです。[文言追加 12日 9.12]

これは、「無垢板」張りの寄棟屋根はもちろん、切妻屋根でも同じ、架構に組み込まれたら、存分に「立体」効果を発揮しているのです。
実際、棟上げをして野地板、粗床板が張られるとともに、架構全体が強固になってゆくことは、現場で体で確認できます。

いまの多くの建築関係の《科学者》は、いわば、「木を見て森を見ず」、全体が見えていないのだ、と言えるでしょう。あるいは、森とは、単なる木の寄せ集めと考えているのかもしれません。

   註 《科学者》諸氏よ、
      机上で「計算」にいそしむ前に、建て方中の建物の上に登り、
      棟上げまでの状況の変化を、逐一、体で味わってください。
      そしてまた、できれば、日曜大工でいいから、
      自ら実物をつくってみてください(「模型」でも可)。
      そして、「現在の理論」と「実際」の齟齬を体感してください。

ついでに「おかしな」ボルトの話を。
小屋組で、水平な「梁」を「桁」に「蟻掛け」で架けるとき(「京呂組」できわめて多く使われる仕口です)、「梁」が「桁」からはずれやすい、ということから、一般に「桁」~「梁」を「羽子板ボルト」で結ぶことが法規で求められます。

これも「構面」的発想:部分だけ見る考え方に起因した「対策」なのです。

いったい、「梁」が「桁」からはずれる、というのはどんなときでしょうか。
それは、「梁」の架かっている「桁」と「桁」との間が開いたとき、距離が伸びたときです。
では、「桁」と「桁」の間が開く、というのはどんなときに起きるでしょうか。
1本の「梁」のかかっている面だけとりだせば、そういう場面は簡単に起こすことができます。つまり「構面」単体では簡単に起き得ます。

しかし、実際は、「架構」に組み込まれていますから、そういうことは簡単には起きないのです。
組み上がった段ボール箱の、対面する側面間を簡単に広げることができますか?

もっとも、いわゆる「在来工法」の場合には、これは危険な仕口になるでしょう。なぜなら、架構を「一体化する」ことを考えない工法、「立体」を考えない工法、それが「在来工法」だからです。
つまり、「火打ち」や「羽子板ボルト」は、いわゆる「在来工法」においてのみ、「必需品」なのです。

   註 一度ヒマをみて、「構造用教材」に載っている「在来工法」の軸組模型と、
      「古井家」「高木家」の軸組模型をつくってみようと考えています。
                             [註記追加 12日 9.20]

以上が、「模型が強ければ、実物も強い」と言える理由の説明です。
またまた長くなってしまったので、こういった点に付いての 遠藤 新の言葉の紹介は先送りします。

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模型づくりで・・・・2 ―― 立体の強さ≧単材・部材個々の強さ

2009-10-10 03:19:46 | 構造の考え方

[註記追加 10日18.54]

敷地模型ができたあと、それを参考にしながら、建物の計画を進めます。

こういうとき、計画案の敷地・環境への整合性の確認のために、いつも計画建物の模型をつくっています。今回は、敷地の縮尺に合わせて1/200。

建物模型は、1/100程度以上なら模型用のバルサも使えます。1/50程度以上の大きさなら、スチレンペーパーも使えます。
しかし、1/200では、それらは無理。
そこで紙を使うことにしました。
普通は白ボール紙:板紙を使いますが、今回は「板目紙(いため・がみ)」を使いました。「板目表紙」とも言うようです。

「板目紙」は、昔から書類などの束を綴り紐で綴じるとき、その表紙に使う紙。
元々は和紙を何枚も重ねて圧縮した紙だったようです。

「板目」の呼び名は、圧縮するときに、台の板の木目が紙の上に残るからか、あるいは、乱暴に扱っても傷みにくいことから「傷め紙」か、その謂れはわかりません。
今は代用品。それでも、普通のボール紙よりも、折れや破れには強いようです。その上、白ボール紙よりは価格も安い!

今回の「板目紙」は、厚さが約 0.7mm。1/200では約15cmにあたります。

計画平面図と断面図に合わせて紙を切って部材をつくり、糊で接着して組立ててゆきます。
後ほど詳しく見て行きますが、ヘナヘナな紙の部材が、組み立ててゆくにつれ、ヘナヘナではなくなります。

学生の頃、模型づくりの巧い先輩が、模型が簡単に壊れなければ、実際も丈夫なはずだよ、と言ったのを覚えています。
実際、「木造軸組の模型」をつくっていると(当然、縮尺は1/30程度以上になります)、その意味がよく分ります。そして私も先輩の言に同意します。
なぜなら、できあがった軸組模型を押さえこんだり、ゆすったりしたときに「手に感じる感覚」は、現場で棟上げ時点の建物の上で「体に感じる感覚」とさほど変らないからです。

逆に言うと、模型に力を加えたときに模型に生じる微妙な「変化」を感じることから、実物に起きるであろう状況・様子をうかがい知り、場合によると、設計を修正することもできる、私の経験では、そのように考えて大丈夫なのです。
それゆえ、「実物大実験」をしなくても、また計器でデータをとらなくても、十分に「手の感覚」で、「どのような状況が起きるか」、自分の感覚器官によって想像できる、と言ってよい、と私は考えています。
これは、実際に木を切ったり、削ったり、孔をあけたり、釘を打ったり・・・ということを通じて、木に対する対し方が徐々に分ってくる、というのと似ています。

もっとも《科学者》たちは、そんな「個人の感覚」や「直観」など、信用できないと言うでしょう。
《科学者》たちは、「力学」などの学問体系が存在しなかった時代、ものごとには何の進展もなかった、Ⅰ 型鋼は「断面二次モーメント」の概念が発見されてから発明された・・・、とでも考えているのでは?(下註参照)

   註 「鋳鉄の柱と梁で建てた7階建てのビル・・・・世界最初の I 型鋼」


木造建築ではない場合の模型でも同じ。
今回は1/200でしかも「板目紙」。
今回は、実際の模型のほかに、手順を追って説明するために、説明用に模式的な模型で、手順ごとの写真を撮りました。

先ずはじめに、平面を「板目紙」に写して「基盤」をつくります。
板紙1枚ですからヘナヘナのまま。
これを模式的な模型で説明すると上掲の[A-1]に相当します。
支えになっている台の間隔は約20cm、つまり約40m。

ヘナヘナですから、重いものを載せると[A-2]のように撓みます。
この重石(おもし)は、ホッチキスの針で7.5グラムが2本(1本あたり100個の針)、計15グラム。

次に、部屋の「間仕切」を貼り付けます。模式的模型の[B-1]。
当然間仕切が重石になって、若干「基盤」つまり「床」が撓みます。
先ほどの重石を載せると、当然ですが、さらに撓みます。その状態が[B-2]です。

次に、開口部面を貼り付けます。
今回の「模式的模型」では、簡単にするため、「窓台」の「腰壁」だけをつくりました。[C-1]がその様子です。

こうなると様子が変ってきます。
重石を置いても撓まないのです。それが[C-2]の状態。
もちろん、目では確認できませんが、若干は撓んでいるはずです。
撓みの大きさは、窓台の「腰壁」の高さによって変ります。もしも、開口部を全部塞いでしまえば、まったく撓まないでしょう。
「腰壁」ではなく、「小壁」、つまり開口を「掃き出し」窓としても、ほぼ同じです(模型はつくってありません)。

撓まないのは、1枚の床に単なる重石になってしまう「間仕切」が載っているのではなく、いわば「引き出し」に「仕切り」が付いた形に変った、つまり「引き出し」状の「箱状の立体」に「仕切り」が付いたからなのです(「小壁」の場合は、逆さにした「引き出し」になります)。
こうなると、[B]の状態では単なる重石にすぎなかった「間仕切」も、窓台の「腰壁」と合わさったことで(つまり、L型、U型を構成したことによって)、重石に堪える役割を担うようになったのです。
こんな模型でなくても、私たちは、「箱」型は丈夫だ、ということを、日常で知っています。物を容れる段ボール製の箱です。あんな薄い段ボール紙の箱で、重いものを運べるのです。これと同じこと。

   註 現在の構造学では、多分、腰壁(小壁)は構造には役立たない、と
      見なされるはずです。[註記追加 10日18.54]

さて、間仕切、開口部の組立が終ると、今度は「屋根」を架けます(もう少し大きな縮尺なら、天井をつくる場合もあります)。
今回は、屋根を「切妻型」で考えています。

「切妻型」:逆V型は、模型では1枚の紙に切れ目をいれて二つ折りにしてつくります。[D-1]がその模型です。
二つ折りにした紙は、平らな紙とはまったく違い、[D-2]のように、重石を載せても撓みません(これは見た目での判断です。精密に測れば若干は撓んでいるでしょう。なお、この写真は撮る角度を誤まったため、二つ折りの様子が見えません!)。
「切妻」の勾配が急なほど、撓みにくくなります。逆に言えばより重い重石を載せられます。この模型は勾配5/10、つまり5寸勾配。

もっとも、重石を重くしてゆくと、「切妻型」:逆V型は開いて平らになろうとします。
開かないようにするには、底辺にあたる部分に両辺の開きに抵抗するものを設ければよいことになります(模型ならば「糸」を張ってもよい)。
段ボール箱も、蓋をするかしないかで、大きく違います。

この屋根部を先の[C]に接着して模型としてできあがりです。それが[E]。

こうなるときわめて丈夫になります。
[E-1][E-2]は、[A][B][C][D]に載せた重石のそれぞれ1.5倍、2倍にしたときの様子です。まったく撓みません(もちろん、見た目での判断で、精密に測れば若干は撓んでいるでしょう)。

これは、「切妻型」の屋根が、[C]に接着したことで、「床」「間仕切」「腰壁(あるいは「小壁」)、そして「屋根」が一体になった「立体」を形づくり、段ボール箱で言えば蓋をした状態になったからです。
そしてそのとき「間仕切」は、いわば「竹」の「節」の役割をはたしているのです。

以上のことは、「薄い紙」でつくった模型でさえ、「立体」になると、紙1枚の強さからは考えられないほど、きわめて強固になる、ということを示しています。

しかし、これは模型だから、ではありません。
実際の建物でも、木造でもRCでも・・・同じこと、すなわち、「単材」を集めて「立体」に仕上げる、これが「建築」の基本と言ってよいのですが、同じことが起きている、と考えられます。
「立体」に仕上げられた建物は、使われている「単材」あるいは「部材」個々の「強さ」とは比べものにならない「強さ」を獲得することを予想させます。それは、「単材・部材それぞれの強さの足し算」以上の強さだ、ということです。


もちろん、実際の切妻型の「屋根」は、紙の二つ折りのような簡単・単純なものではありません。
だから、おそらく《科学者》からは、こんな小さな模型での現象・状況を、実際の建物に援用できるわけがない、そんな「感覚」や「直観」に頼るなんて何と非科学的な・・・という「声」が上がるでしょう。

長くなりましたので、それについては、次回、私も同意する模型づくりの先輩の「模型が壊れなければ実物も丈夫」という「言」、すなわち、模型での現象・状況を、実際の建物に援用できる、と考える「理由」を書くことにします。

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模型づくりで・・・・1 ―― ものの使いよう

2009-10-01 09:02:19 | 構造の考え方
[追記 追加 10月1日 9.54 ][文言追加 17.38][註記追加 10月2日 10.25]

ここしばらく「熱中」していたのは、上掲写真の段丘部分に建てる建物の計画案の作成。
建物は「心身障碍(害)者施設」。35人が暮しています。[文言追加 17.38]
甲府盆地の東隅、標高約500mのところにあります。一帯は葡萄:巨峰の産地。
   
   註 「障害者」の「害」の字は「碍」にすべき、という動きがあります。
      「碍」は、「碍子」の「碍」。「さまたげる」という意。
      碍子とは、電気の通るのをさまたげるためのもの。
      「害」の意とはまったく違います。

   註 [追加 10月2日 10.25]
      中国・台湾では、「障害者」ではなく、「残障者」という語を使うそうです。

30年ほど前に、心障者・児の父母たちが基金を出しあい設立した法人が運営。そして今から28年前、当初の建物が生まれました。きわめて厳しい条件の下での計画ゆえ、面積などぎりぎり(「続・RC造とは何か・・・・窓のつくりかた」に、この建物の外観などを、少し載せてあります)。

そこで30周年をむかえるにあたり、増改築で少しばかり「ゆとり」を設けようという計画。

現在の敷地は前面(東南に面します)がひな壇型に整地されている葡萄園、背後は山の急峻な斜面、そういう地形の一画。
その東南の葡萄園の敷地を譲り受け、そこに増築をして居室を増やし、できるだけ個室化し、居住者の高齢化に応えるように全体を改修する、という計画です。
その葡萄園、元々山の斜面を段丘化してあり、高低さは約12~13m(先回6~7mと書きましたが、6~7段の書き違いでした!)。

こういう計画では、敷地模型が絶対に必要になります。高低の感覚は、図面の上ではなかなかつかみにくいからです。

普通、高低差のある敷地の模型をつくるには、数mm厚のコルク板やスチレンペーパーを等高線に従って切取り、それを何層か張り合わせてつくるのが簡単です。
しかし、この場合は、高低差が約12~13m、しかも一段が0.8mから2mのひな壇になっていますから、それをつくるとなると、通常のやりかたではとんでもない枚数のコルク板やスチレンペーパーが必要になります。
縮尺も、本当は1/100ぐらいほしいのですが、そうなるときわめて大きくなってしまうので、1/200としました。それでも約65cm×60cm(つまり、1/100にすると、各辺がこの2倍になる)。

そこで、急斜面の場合よく使う方策、上掲の下から2番目の写真のような骨組をつくり、その隙間を充填する方法を採りました。
骨組は、厚3mmのスチレンペーパーを、測量図から作成した任意の位置の断面図に従って切り、所定位置に糊付けします(木の板の方がよいのですが、それでは加工が大変)。

隙間の充填には、ボンドを混ぜた水で練った鋸屑を使うと仕上りはきれいなのですが、これも結構大変。練り土を使ったこともありますが、重い上に干割れが入ってしまいダメ。もっとも、土壁塗と同じで、スサを入れて少しずつ時間をかけて埋めればよいのでしょうが、それでは時間がかかり過ぎる。

そこで、簡単で早く仕上がる方法として、骨の上に紙を貼る方策を採りました。
紙は障子紙です。この方法を採るのは二度目。前回は仕上りがベコベコになったので、今回は水張りの方法を応用しました。仕上りはまあまあの出来(写真参照)。

適宜の区画大に障子紙を切り、貼る前に、あらかじめ紙に水を刷毛引きします。
これを骨組に糊で貼り付けると(糊は障子貼り用の澱粉糊)、最初はベコベコしていても、乾いてくるとピンと張るのです。
おそらく和紙を使い、正麩糊(しょうふ・のり)を使うのが最適なのでしょうが、和紙に類似の市販の障子紙と普通の澱粉糊で代用。

これは和紙や障子紙の効能です。ときには、骨組から紙が剥がれるくらいにピンと張ります。洋紙ではダメなようです。古い建物の襖の下地には、反古紙を数重に貼ってあります(袋貼りのようですが)。

薄い紙も、四周を枠に固定すれば、一気に丈夫になり、ちょっとした物なら、置いても簡単には破れません。ましてこのようにピンと張れば、物を置いても撓みません。
両手でただ拡げた紙に物を載せると簡単に真ん中が落ち込みますが、紙を両手で引張っていると、同じ物を載せても落ち込む量が減ります。この場合は、水張りによって、自ずと引張り効果が生まれているのです。
この理屈を使ったのが pre-stressed concrete です。

襖や障子が意外と丈夫なのも、木骨と和紙と糊の協働作業の結果と言ってよいでしょう(洋紙では「張り」が出ないようです)。
薄い紙でも、「使いよう」で「効能」が違ってくるのです。

「材料の使いよう」は、「材料」を建物の架構に使う際の基本的な点である、と言えると思います。
つまり、「材料」自体の性質:強弱などだけに目を向けていてはダメ、要は「使いよう」にあるということ、逆に言えば、「使いよう」を考えずに材料を云々しても無意味だ、ということです。
そのためには、常に、「部分」ではなく「全体」を見渡すことが必要になります(この模型づくりでいえば、材料の特質と、それに手を加えることで生じるであろう「変貌」の想定を含め、「工程」全体を見渡すことに相当します)。こういう「見方」の「養成」は、おそらく経験・体験に拠るしかないのではないか、と思います(経験・体験と言っても、必ずしも「現場」の経験・体験を必要とするわけではなく、「日常」の中での経験・体験でも十分ではないか、と思います)。

ちなみに、先回紹介した遠藤新氏が、関東大震災後叫ばれた木造建築への「ボルト・金物」や「筋かい」の使用の奨めは、架構全体でなく木の柱だけ見ているから生まれる考え方だ、という的を射た見解を、震災の翌年に書いていますので、次回紹介します。


   追記 喜多方の煉瓦焼成は、55時間かけ、23日の午前3時に無事終了、
       との連絡がありました。追って詳細をお知らせします。
                           10月1日 9.54 追記

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現行法令の根底にある「思想」・・・・学界の木造建築観、耐震観

2009-06-27 11:08:18 | 構造の考え方

ここ50回ほど、再び「日本の建築技術」について見てきました。
現在の法令が進めている木造工法・技術と、ここで見てきたことが、まったく関係がないこと、つまり、わが国の建築技術の歴史上で断絶していること、そして現在の法令が進めている木造工法・技術は、長い時間をかけて培われてきた技術の蓄積を、無視・黙殺していることが分っていただけた、と思っています。

そこで、念のために、現在の法令を支えている建築の学界の考え方を、学界を代表する「日本建築学会」のホームページから抜粋して紹介します(これは以前にも紹介したことがあると思います)。

ホームページのなかに、「市民のための耐震工学講座」というのがあり、そのなかに、「一般の人びと」向けの「木造建築」についての「解説」が載っています(下記「目次」の「木造建築」の冒頭にある「木造軸組工法」の解説)。
以下は、その部分からの転載です。

上掲の図は、その「解説」中にある図27、図28を、下本である「構造用教材」から別途コピーしたものです。なお、「図28」の右側の仕口図は、ホームページにはありません。「考え方」を知るために同じく「構造用教材」から転載し追加したものです。
そしてこれが、先回私が「世界中のどこに出しても恥しい」と呼んだ木造軸組工法で、それがわが国の代表的建築教育用の教科書「構造用教材」に、モデルとして載っているのです。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

市民のための耐震工学講座

 1995年1月17日の阪神・淡路大震災では,木造住宅で多数の人々が犠牲になりました。また,鉄筋コンクリート造や鉄骨造のマンションも大きな被害をうけました。
 日本建築学会では,この地震による被害の調査結果やこれまでの耐震の研究成果を,住宅建設の現場や一般市民の方々に還元するために,文部省の科学研究費補助金をうけて,住宅の安全性に関するセミナーを全国的に開催しました。
 本書は,そのセミナーのテキストとして編集したものです。その構成として,前半では,地震と地盤および建物の構造に関する基礎的なことがらについて説明しています。後半は,今回の地震の被害状況の報告になっています。
 専門的なことがらを,できるだけ正しく伝えるように努力しましたが,説明不足のところや素人の方には難しいところがあると思います。しかし,本書を読むだけでも,相当の知識が得られるように配慮したつもりですのでできるだけ多くの方々に読んでいただいて,耐震について考える手がかりとしてくだされぱ幸いです。
 本書のために資料や写真を提供してくださった方々と編集に協力していただいた方々に感謝いたします。

目次

安全と安心について
阪神・淡路大震災の被害について
地震について
地盤について
建物について
木造(住宅について)
鉄筋コンクリート造
鉄骨造
新耐震基準について
防災について
地盤の被害
木造の被害
鉄筋コンクリート造の被害
鉄骨造の被害
火事災害
引用文献・編集委員会
   

木造は日本の豊富な森林資源を背景として,昔から現在まで日本の住宅生産において大きな役割を果たしてきています。そして現在では,木造のつくり方には大きく,木造軸組工法と木造枠組壁工法と木質パネルエ法があります。

木造軸組工法

 木造軸組工法は,図27,28のように柱と はり と すじかい が主要な部材で,地震の水平力に すじかい で耐える構造です。木造軸組工法は「在来工法」とも呼ぱれます。しかし,木造軸組工法と一つの工法のように言っていますが,厳密には一つの工法とは言えません。木造軸組工法は在来工法と呼ばれていることからも分かるように,昔からある様々なつくり方をまとめてそう呼んでいるのです。そのためにこの工法の中では,現在も地方的な差や技術的な幅があります。逆に考えると,そのように様々なつくり方や技術のレベルが存在していたために,阪神・淡路大震災では,在来工法の中に大きな被害をうけたものがでてしまったといえます。

 木造軸組工法の住宅が地震にあうと,柱,はり,すじかいで地震のカを受け持って,土台,アンカーボルト,基礎,地盤と力が伝わります。

図27 木造軸組構法の構造
図28 木造軸組構法の軸組
--------------------------------------------------------------------------
編集:日本建築学会「わが家の地震対策」セミナー企画・編集委員会

日本建築学会(C)1995
このページは,日本建築学会編のリーフレット「わが家の地震対策」をもとに作成したものです。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

「前文」に、「専門的なことがらを,できるだけ正しく伝えるように努力しましたが,説明不足のところや素人の方には難しいところがあると思います。しかし,本書を読むだけでも,相当の知識が得られるように配慮したつもりです・・・・」とあります。
この「木造軸組工法」の「解説」を読まれて、「相当の知識」が得られたでしょうか?

これは「相当な代物」です。
もしこれが「学界」「学会」の共通認識だとするのならば、その「知性」のほどを疑われてもよいのではないか、と私は思います。
それとも、一般向けだからどうせ分らないだろう、とでもいうことなのでしょうか。

前段の木造軸組工法=在来工法、という解説も無茶苦茶ですが、それを超えて「すごい」のは、「木造軸組工法の住宅が地震にあうと,柱,はり,すじかいで地震のカを受け持って,土台,アンカーボルト,基礎,地盤と力が伝わります。」という部分です。

「地震の力」「地震の水平力」はいったいどこから来て「柱、梁、すじかい」にかかるのでしょうか。「重力」のように、いつでも物体にかかっている力なのでしょうか。

皆さまは、どのようにお考えですか。
「相当の知識」が得られたでしょうか。

いわゆる「耐震補強」も、こういう「考え方」の下で進められているのです。
ここでは載せませんが、この「解説」の続きにある「耐震診断法」で診断すると、ほとんどすべての「古建築」「古い農家住宅」「古い町家」・・・・は、過去の大地震で、とっくの昔に倒壊していなければなりません。


「おかしいもの」はおかしい、そういう声を高らかに発したいものです

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「利系の研究」・・・・「伝統的木造住宅を構成する架構の震動台実験―伝統技術の活用のために―」

2009-02-16 19:20:48 | 構造の考え方

[註記追加 2月17日 9.10][同 9.40][同 9.48][文言追加 9.58]

16日二度目の記事です。「感想」が冷え込まないうちに・・・・。


今回の実験は、昨年に行なわれた実験(下註参照)の続きだそうです。

   註 「木造建築と地震・・・・驚きの《実物》実験」

文章は(あるいは言葉づかいは)、自ずと、その文章の書き手の「思考の構造」を表してしまうものです。
上掲の文章は、今回の実験の趣旨、目的について書かれたもので、今朝の(深夜の)記事でも掲載しました。ただ、今回は、私の「気になった」箇所に傍線をふってあります。

この文章は、主に、報道関係者へのプレスリリースを目的としているものと思われますが、報道と言うのは、広く一般に公開されるのがあたりまえですから、より正確な物言い、言葉づかいが必要になるものだ、と私は思います。
どうせ一般は専門的なことは分らないのだから、「適当に」説明すればいいや、などというのはもってのほか、むしろ一般向けにこそ、丁寧で間違いのない説明が求められるのではないでしょうか。

おまけに、これは、「科学的な実験」なのですから、なおさら、実験の趣旨も文章も正確でなければならない、と私は思います。
そこで、私が疑問に感じた箇所に傍線をひいたわけです。
文章の順序とは関係なく、「気になる箇所」を見て行きます。

一番気になるのは、「研究概要」中の「垂れ壁と柱から構成される『架構』面を対象として」という箇所です。註書きに、「架構」とは「柱、はり及び壁などから構成され、建物を支持する構造体」とあります。
そして、「実験の目的」には、その「対象」が「伝統的木造建築物の耐震要素となる垂れ壁と柱からなる構面」と言い直されています。

実は、ここに最大の「思考上の問題」があります。
それは、実験担当者の頭の中に、「伝統的木造建築」も、現行の「在来工法:法令の推奨する軸組工法」と同じく、「耐震要素となる部分」と「耐震要素にならない部分」とから成っている、という「思い込み:先入観」があることです。

これは決定的に誤りです。
わが国の工人たちが行き着いた建物の架構のつくりかたは、「架構体」全体で外力に対応する(「対抗する」ではありません)という考え方です。
部分の足し算では考えるようなことはしていません。
もちろん、強いところと弱いところをわざわざつくることは決してしていません。

これは、工人たちが「現場」で行き着いた結論と言ってよいでしょう。
実際に現場で建物をつくっていれば、むしろ、そのような結論になるのが当然なのです。
そしてまたそれは、詳しく日本の建築の歴史:技術史を見れば、誰にでも(専門家でなくても)、自ずと分る、理解できる「事実」です。

   註 「・・・の技術」シリーズで、ここしばらく「浄土寺浄土堂」
      そして「古井家」などの架構法を見てきて、あらためて私は
      わが国の工人たちの考えた架構法は「一体化立体化」である、
      という考え方に確信を持つようになりました。   

残念ながら、この実験者は、この「事実」を無視しているのです。
そうでありながら、この実験者は、「伝統的木造建築物の耐震要素となる垂れ壁と柱からなる構面」の「性能評価」をするのだと言っておきながら、実験にかける「試験体」を見ると、「構面」を組み合わせた「箱:立体」を「試験体」としています。
しかも、直交する面は、構造用合板による「伝統的木造住宅」にはあり得ない頑強な「箱」です。[文言追加 2月17日 9.58]
これでは、「構面」の実験ではなく、「構体」の実験です。
「構面」の性能評価をするのならば、このような立体をつくっては実験の趣旨・目的に反します。
実験の趣旨に従うのであれば、1枚の「構面」だけを実験しなければ趣旨・目的に反します。「科学」の常道をはずれています。

   註 物理学ならば、「構面」のデータの取得と「宣言」したならば、
      なんとかして 「構面」を自立させ、実験するでしょう。
      そして、そもそも物理学ならば、「架構体」を「在来工法」的
      に分解して扱わないでしょう。
      つまり、ありのままに「架構体」の挙動を観ようとするでしょう。
                      [註記追加 2月17日 9.48]

では、彼はなぜ試験体を「構面」ではなく「箱」:「構体」にしたのでしょうか。
それは、彼が、「構面」だけでは自立できないことを知っていたからです。そこで「常識」が働いたのです。建物の「架構」とは「立体」である、という「常識」です。
この実験で、実験者のいうところの「構面」に生じる諸現象のデータは、実験にかけられた「箱」:「構体」を構成する「一構面」に生じたデータなのであって、純粋「構面」のデータではない、ということに気が付かなければなりません。
はたして実験者は気付いているのでしょうか。

   註 「概要」文中に言う「木造住宅の一部を取り出し
      簡略化した架構面からなる試験体のため、
      1方向の加震実験により評価に必要なデータを
      取得することが可能・・」の文言に、
      この「実験」が「データのための実験」であって、
      「伝統的木造住宅そのものの挙動を知る実験」ではない、
      ということが如実に表れています。
      これは、先に行なわれた「実物大実験」と同じです。
                   [註記追加 2月17日 9.10] 

      もしかして、「各構面の足し算が全体である」とでも、
      考えているのでなければ幸いです。
                   [追加 9.40] 

そして、もしも気付いているのならば、根底の考え方、すなわち「伝統的木造建築物」を「在来工法」的な観方で扱うことを改めなければなりません。      

そして、もしもこのことに気付いたならば、たかだか2年ほどの、誤った理解の下での実験で得られたデータをもって、耐震設計法の構築に資する、などと言うのも誤りであることに気付かなければなりません。

「在来工法」がはびこる以前のわが国の「建築架構技術」は、気の遠くなるほど長い年月の「現場」の実験で鍛え上げられてきた技術です。
それを、たかだか数年の「実験」結果だけで指針を与え指導する、などというのがいかに非科学的な所作であるか、認識して欲しい、と思うのは私だけなのでしょうか。

   註 もしもこういう実験を基に、
      「伝統的木造住宅」に耐力壁を設ける、というような「指針」や、
      「差鴨居」上は小壁にせよ、というような「指針」を出すなどと
      いうことを「目的」としているならば、
      それはすでに、「伝統的木造住宅」を否定していることなのであり、
      「活用」どころか「伝統技術」を抹殺することに連なるのです。
                       [註記追加 2月17日 9.10]

ここまで書いてきて、私は、このブログを読んでいただいている方から聞いた「ある言葉」を思い出しました。
すなわち、

いわゆる「工学系」の学者・研究者は、「理系」ではなく「利系」である。

どういうことかと言うと、「理:すじみち」を究めることよりも、「利:功利に走る」から・・・。

そう言われて見ると、この実験も、そのように見えてきました。
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とり急ぎ・・・・また「伝統的木造住宅を構成する架構の震動台実験」

2009-02-16 01:56:48 | 構造の考え方

「シリーズ」の図版を工事中に、2月18日に標記のような実験がある、とのニュースを知りましたので、紹介します。

正式な実験の「標題」は、以下の通りです(上掲図版にあります)。

「伝統的木造住宅を構成する架構の震動台実験――伝統技術の活用のために――」

今回は、先ず、このブログを読まれている方が、この「実験」について、それぞれにお考えいただくのがよいと思いますので、私はここでは「論評」を控えます。

図版は、主催者である建築研究所、防災科学技術研究所のHP所載の「ニュース:プレスリリース」から、研究概要、実験の目的、今回の試験体の図面(別紙1)、試験体の写真(別紙3)のみを転載しました。
その他は実験主体、事前に実験した試験体図面(別紙2)、入力地震波、実験スケジュール、取材申込法などです。それらを知りたい方は、上記研究所のHPをご覧ください(「挨拶前文」以外、どちらの研究所HPでも同じです)。

次回に、この研究・実験についての、私なりの「感想」を書かせていただきます。
そのため、「シリーズ」の方は、少し先になってしまいますが、ご了承ください。
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