建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える                下山眞司        

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桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-1

2007-06-11 21:59:36 | 桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介
 今からおよそ四半世紀ほど前、1980年(昭和55年)、当時新日本製鉄㏍から刊行されていた「季刊 カラム」№78に、桐敷真次郎氏の『耐久建築論・・・建築意匠と建築工法の間・・・』という、今読んでも、いやまさに今だからこそ、傾聴すべき論説が載っている。
 桐敷氏は、当時、東京都立大学で教鞭をとられていた方で、建築史、特に西洋建築史、近代建築史の碩学。著作も多く、身近なところでは、大学向け教科書でも、西洋建築史、近代建築史を書かれている(共立出版「建築学の基礎」など)。

 日常の仕事に追われ、とかく忘れがちな問題について、再考する契機になれば、と思い、紹介することにする。
 抜粋して紹介する方法もあるが、誤解を生むといけないので、全文を数回に分けて紹介しようと思う。ただ、読みやすいように、段落は原文と変えてある。
 長くなると思うが、ご容赦。


  『耐久建築論・・・建築意匠と建築工法のあいだ・・・』  桐敷真次郎

1.はじめに

 建築の美学とか建築哲学というものは、おそらくこの世で最もむずかしい学問のひとつに数えられるであろう。古今の大哲学者といわれる人々が、誰一人として建築家を納得させるような学説を残していないし、美学・美術史の大家・碩学にしてもほぼ同様というよりほかないからである。
 その理由の第一は、もちろん建築を生み出す要因と条件があまりに複雑多岐に亘っていることにある。しかし、それらが最も単純な場合でも、建築の問題はそれほど簡単にならない。つまり、建築美学の困難さは根源的なものであり、他の芸術と異なる建築独自の性格にかかわっているためといってよい。

 例えば、建築構造と建築意匠はしばしば分離して論じられるが、いかに構法が自由になり、どのような形態も思うがままにつくれるようになっても、構造と意匠を切り離すことはできない。煉瓦造にみせかけたコンクリート造は、やはり本当の煉瓦造と異なる意匠をもち、近代構法を用いた古典様式は、やはり古代・近世の古典様式建築とはならない。

 しかし、工法と意匠のこうしたかかわり合いは、近代の建築においては過去の時代には見られないほど大きな結末をもたらしていると思う。
 それは耐久力の問題である。物理的な意味においても、経済的な意味においても、近代建築の耐久力は史上最低のレベルに達しており、それが無意識のうちに意匠の問題にも影響を及ぼしてきた。
 この問題を追及してゆくことによって、近代建築の極端な一面性をある程度明らかにすることができる。あえて耐久建築論なる意匠論を提示する所以もそこにある。


2.ヨーロッパ都市建築の耐久力(1)

 近代建築の歴史的起点をどこにするかについては、かなりな議論が必要であるが、かりに、様式的に最初の「新様式」と呼ばれたアール・ヌーヴォーやゼツェッションの出現、そして構造的に近代の代表的構法となった鉄筋コンクリート造の出現(鉄骨造の出現ははるかに早いが)を起点とすれば、近代建築の歴史もほぼ90年になる。また、近代建築の普及を第一次大戦後(日本では関東大震災後)とすれば、近代建築の一般化以来、ほぼ60年を経たということができる。

  註:90年、60年は、執筆年の1980年を基点とした計算である。

 この間に、近代建築は近代社会に適合した建築様式として全面的に受け容れられる状況となった。しかし、その受け容れられかたは、必ずしも初期のパイオニアたちが意図した輝かしい全面的勝利(旧様式の完全な打倒)ではなかった。
 つまり、近代建築は、その建築様式としての正当性、或は永続的な魅力によって受容されたのではなく、主としてその短期的な経済性や利便性によって歓迎されてきたということである。
 これは、どの国においても、戦争や動乱のたびに近代建築の飛躍的増大が見られたことから明らかである。
 これは不気味な徴候であった。

  [以下、次回につづく]

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