「第Ⅳ章ー1-3 犬山城, 参考 彦根城」 日本の木造建築工法の展開

2019-07-25 15:47:16 | 日本の木造建築工法の展開

PDF 「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー1-3, 参考」

 

3.犬山城  二層までは1602年(慶長7年)、三・四層は1620年(元和6年)  所在 愛知県 犬山市

                           日本建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより

 二層までは、丸岡城松本城とともに、戦国時代、実際に戦闘のために使われた城郭の遺構。 

 木曽川の南岸にあり、穀倉地帯を一望にする場所に構えられている。地図印。 この点は、丸岡城松本城などに共通する城郭建築の立地条件である。

 国土地理院1/20万地形図より転載・編集

 

1)各階 平面図   単位 m

日本建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより転載・編集

 2)断面図  単位 m 

  

日本建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより転載・編集

 

3)矩計図  矩計図は、前頁の黄色枠内を示す 単位 m

 

天守一階 南側部分 鴨居は差口で納まる:差鴨居 右奥は上段の間              上段の間内部 付長押がまわる

 

 1階・2階部分矩計

 

 ここでも外観は寺院建築にならっているが、内部は当時の民間のつくりかたに拠っているものと考えられる。

地下2階・地下1階部分矩計

 

 

参考 彦根城  1604年(慶長9年)~1606年(慶長11年) 所在 滋賀県彦根市

西からの遠景      日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより

 

 徳川が論功行賞として井伊氏に与えた城であるため、戦国期の城とは異なり、権威の象徴としての城郭建築

他の城郭同様、外観は上層の工法、内部は一般の工法を用いている。     

  平面図 上から 天守三階 二階 一階 

               

 

断面図 上:桁行(南北) 下:梁行(東西)  平面・断面図・写真共に建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより

  

 

天守一階 階段まわり  梁行断面参照 付長押をまわす                  天守三階 付長押をまわしている


(「第Ⅳ章-1-参考 姫路城」に続きます。)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「第Ⅳ章-1-参考 姫路城」 日本の木造建築工法の展開

2019-07-25 15:46:45 | 日本の木造建築工法の展開

 (第Ⅳ章ー1-3」より続きます。)

 

参考 姫路城   所在 兵庫県 姫路市

 1346年(正平2年)赤松氏により築城。 1580年(天正8年)秀吉により改造。 1601年~1609年(慶長6~14年)池田輝政により現状天守群完成。

 

建築史基礎資料集成城郭十四 城郭Ⅰより転載・編集

 

 現在の天守群は、戦乱期の姿ではないが、城郭建築の原則:防御・篭城の場所を築く:は遵守している。

 断面図のRC部分は解体修理の際の後補。

 

 

 菱の門から天守へ向う経路は、屈折が激しく、まわりの状況から判断して歩を進めると行き止まりになり、しかも末広がりの広場状で行き止まる、などと言う場所もある。天守へ向う多勢の人間が、進んで来た方へ引き返す際には末広がりを逆にたどることになるため時間がかかる。そこを城から襲撃する・・という計画も防御のための一手法。もっとも、姫路城が戦闘の場になったことはない。

 城を計画した人物は、人は常にまわりの状況を判断して歩を進める、次の行動に移る、一人のとき、大勢のときでは行動が異なる・・などについて、熟知していたことになる。通常の行動の裏をかけば城の基本ができる。そういう観点で配置を観ると、興味深い。

 このような感覚・感性を、当時の人たちは、工人、一般の人を問わず、持ち合わせていた。戦国時代を中心に生まれる方丈書院茶室などのつくりかたにそれが表われている。方丈書院茶室などは、「人の行動に対する理解」を真っ当に具現化した例であり、その逆の発想でつくられたのが城郭建築である。 

 

 ろの門からはの門 へのアクセス  原色日本の美術 12 城と書院 より

 

姫路城の架構についての解説  

 日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰ より抜粋 この解説は、土台、通し柱、差口による横架材:差物・飛貫、貫・・による架構の一般的な解説として通用する。)

 ・・・・構造面からみると大天守は南北の中心線上に、東西相対して並べた二本の大柱を基本として組立てられている。

 東大柱は礎石上で径がほぼ一メートルあり、地下から六階の床下にまで達する通し柱である。西大柱も同様な太さで、同じく六階の床にまで達しているが、東大柱と違い三階床の位置で継がれている。 両大柱は各階とも周囲の繋梁で繋がれ一体化されている。

 第二次大戦後の修理において、この途中で継がれた西大柱を新材にかえる予定で、その用材を木曾に求めたが、輸送の途中で事故のため折れてしまった。

 したがって、西大柱は再び途中で継がれることになったが、『修理工事報告書』によると、東西両大柱が周囲と繋梁で固められるので、六階床までの通し柱が二本立っている場合には、組み上げて行くとき、作業が困難になるとのことである。

 三階床で西大柱が継がれていたことと、全体の構造が三階で上下に別れていることとの間には構造上の関係があったのではないかと考えられる。  

 東西の大柱のほかには、架構全体を通すようなはないが、二階あるいは三階分を通して全体の構造を一体化する役割を果しているが数多くみられる。それらは大別して地階から二階(三階床下)までに入れられているものと、四階から六階に及ぶものとに分かれる

 地階から二階への通し柱は、母屋廻りおよび外廻りにあり、中庭に面する北側外廻りでは地階から二階まで、母屋廻りでは地階から一階、一階から二階の二種、また、地階のない石垣上にあたる外廻り部分では一階から二階にかけて、通し柱を用いている。 これらの通し柱は、地階から二階までを一体化するのに役立っている。

 一方、上方では四階から五階、五階から六階の、いずれも外廻りに、通し柱が用いられている。これらは、四・五・六階を一体化する役割を果している。

 しかし、三階の部分は上方下方いずれからも両大柱以外に通し柱はなく、すべて管柱である。三階をはさんで上下の構造は別々で、二本の大柱が繋ぎの役割を果している。・・・

註  城郭の部材は大寸であるが、近世の住居(二階建て商家)では、4.3寸角程度の柱で同様の工法が採用されている。

補足 同書所載の詳細図から判定すると、大柱以外は、通し柱管柱とも、1尺2寸角程度である。 は厚2~2.5寸、丈5~10寸。は大寸もので17寸×12寸。

  

 以上のように、当初の城郭建築は、領地の支配・防御という目的を持つ建物・拠点を、できる限り短時日でつくり上げることに力点が置かれています。

 丸岡城において見られた掘立柱の利用や、多くの城郭で使われている土台の利用も、その一つの表れとみることができます。

 また、天守を可能な限り高くするために設けられた天守台の築造では、石積みの技法を含め、人工による地盤の造成の技術にも大きな進展を促しました。 

 とりわけ、土台の利用は、礎石建ての最大の難題である寸法の決定を格段に容易にしました。

 各地の城郭を見ると、土台は必ずしも水平に設置されているわけではありませんが、土台が斜めに設置されている場合でも、土台天端からの梁・桁までの寸法の決定は、個々が礎石建ての採寸よりも簡単であることには変りありません。 土台は工事を急ぐ城郭建築で生まれたと考えられているのも無理がありません。

 土台の利用とともに、城郭建築では、通し柱差物飛貫差鴨居のように差口で取付けられる横材:の利用が目に付きます。いったん一組の通し柱差物などで梯子型に組み上がれば、それを定規にして、以後の組立の進行が容易になり、しかも架構が揺るぎないものになるからです。

 鹿苑寺 金閣のように、多くの場合、通し柱は建物の四周に使用しますが(隅柱だけではありません)、城郭建築では、四周に限らず要所を通し柱にする事例が増えてきます(たとえば丸岡城では隅柱だけが通し柱ですが、松本城では外周母屋との境の柱を通し柱としています)。

 これは、架構の自立性を強化することで工事中の支保工などの仮設工事を簡略化でき、結果として建て方時の工程が短縮できることを意図したものと考えられます。

 このような計画が可能であったということは、工人たちは、構想時点において、全体の姿はもちろん、その施工手順まで頭に描いていることを意味します。

 それは、工人たちが仕事を進めるにあたって描いた指図(さしず)建地割図(たてちわりず)板図などに示されています。

  

天守建地割 平図  古図に見る日本の建築 国立歴史民俗博物館編集 至文堂発行 より


 

宝永度後桜町院御所建地割図 (部分) 古図に見る日本の建築 国立歴史民俗博物館編集 至文堂発行 より

 

 上の図はその一つで、「天守建地割」は三重三階の天守建地割図です。図の右肩に書かれている中西元雅とは、17世紀末~18世紀初頭にかけて奈良・興福寺の堂塔の造営にかかわった興福寺大工とのことです。どこの天守であるかは不明ですが、奈良近在の城郭と思われます。図の右半分は立面、左半分は断面を表しています。断面には、普通、寺院建築では見えがかりには使われない枘差し鼻栓打ちが描かれています。これは一般では普通に使われる仕口ですから、城郭建築では、一般、上層を問わず、有用な技法が適宜に使われていたことを示していると言えます。

 下の図は、時代がさらに下った18世紀末の後桜町院御所の造営に使われた矩計図の部分。全長8m、幅45cm、礎石から軒桁まで詳細に描かれています。

 図の表側には礎石天端を基準に2丈4尺まで1尺ごとの目盛と、3間半まで半間ごとに目盛が打たれています(1間は6尺5寸)。 この図を基に尺杖をつくり施工に使用したようです。

 

 これらの図は、現在の設計図で言えば施工図にあたると言ってよく、その図で仕事を進めることができる、言い換えれば、仕事に必要な情報がすべて表記されている言ってよいでしょう。 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「忙中閑話 三題」   1982年10月

2019-07-21 10:36:45 | 1982年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №7」1982年10月 A4版4頁 

        忙中閑話 三題  1982年度「筑波通信 №7」

  「鉄の女」イギリスの首相が来日し、研究学園都市を訪れ、とある研究所で、そこで開発している機器による(コンピュータによる)肖像画を目の前でつくり贈られ「ワンダフル!」と言ったとかいう記事が、その画のコピーとともに新聞に出ていた。多くの人もまた、「ワンダフル」と言うかどうかは別としても、驚くにちがいない。

 だが、もしも一人の画家がいて、首相の前にすすみでて、すらすらと彼女の肖像画を描いて手渡したとしたらどうなるか?おそらく彼(あるいは彼女)は、たちまちにしてつまみだされてしまうだろう。少しおかしいんじゃない?多分多くの人はそう思う。仮にその手描きの肖像画がコンピュータによるそれに比べていかにすばらしいできであったとしてもそれには決して驚かず、つまみだすことの方に夢中になるだろう。

 そうしてみると、この「ワンダフル!」がいったいなにに対して発せられたのかが問題となる。言うまでもなくそれは、機械に(人間の目に極力近いように)図像を識別させ、更に描かせようとする試みが、ここまで到達したということに対するもので(本来は)あるはずである。その技術の発展はたしかにすごいことである。そしてそれはまた、絵の下手な人が描くスケッチよりも、正確であるという点では(なにが正確なのかは別の問題としても)たしかに正確のはずである。だから、多くの新聞で、なにかものすごいことが行なわれた、日本の技術の勝利、とでも言うかのような胸をはった紹介のされかたがなされていた。

 恐ろしいのは、この驚きの段階を越えたあとの、人々のこの「技術」に対する対しかたである。うっかりすると、機械が画を描くことができるようになった、その技術のもつ価値が、描かれた画の価値にすり代ってしまう。機械の描く画に価値があって、人間が描くものには価値がないなどということにもなりかねない。だれでもがと言ってもよいほどいま多くの人がコンピュータに気がいっている。全く同じことも、コンピュータを一度経由させて言わせると一段と価値が高まるかのごとき風潮さえ見うけられる。

 だがしかし、コンピュータにことを処理させているのは、他でもない、人間であるということは忘れてもらいたくない。機械は、人間によって教えこまれた有限の数のパターンの処理のしかただけを正確に覚えているだけなのだということを忘れてもらいたくない。仮に機械に臨機応変の処理をさせることができるようになったとしてもその場合もまた教えこまれた場合の数だけに対してのものであって、それは決して本来の意味での臨機応変ではない。教えられなかった場面に対しては、お手あげなのである。

 そして、こんなことは言うまでもないが、人間の目は、そして人間の思考は、有限ではなく無限の対応を示すことができる。しかも、ひとりひとりが、である。そしてまた、機械はいつでも(一度教えこまれたら最後)同じ結果を生みだすだろうが、人間は人により、そして場面により、どこを切っても同じ金太郎あめみたいなわけにはゆかないのだ。逆な言いかたをすれば、そうであることこそ(金太郎あめでないことこそが人間であることの証なのだ。

 しかし世のなかには、人々がみな金太郎あめであることを望む人たちがいる。コンピュータのように、いつでもどこでも寸分違わぬ画を描くような人々に人々を仕立てあげたがっている人たちがいる。

 そして、機械が画を描くということに対する単純な驚きが、それを越えて機械や技術に対しての(単純な)信奉になってしまったとき、もともとそれらの機械や技術を考えだす根幹に存在していたはずの、私たちそれぞれの感性が見失われ、信じなくなり、金太郎あめができあがる。

 私たちは、なにも自らすすんで金太郎あめになる必要はない。仮に下手だと人に言われようが、私たちひとりひとりが描く画に、コンピュータの描くそれよりも、比較にならない(し得ない)価値がある。

 


 教科書の「記述・表現」問題。「近隣諸国との友好を損なう」から改めるのだという。それで「決着する」のだという。

 問題はそんなことだったのだろうか?         

 近隣諸国(だけではないが)の人々が問題にしたのは、教科書によって若い世代の人々に対して正しい事実であるかの如くに「知らされること」が(なにも近隣諸国の人々の視点にたたずとも)事実と異なっていたからに他ならず、しかもなににもまして、それらの事実は全てそれらの諸国において起きた彼らにとって「こちら側」のことだったからである。要するに「うそつき」だからなのである。「うそつき」だから「友好」のためにならないと言ったのである。ことの本質は、事実と「知らせることの内容」との関係のはなしなのであって、もちろん単なる文章表現の問題ではなくその内容のはなしだったはずなのだ。

 おかしなことが、おかしなままであまりにも多くまかり通るとき、そのおかしなことがいつのまにかあたりまえなことのように思われてしまうようになる。あやまりをあやまりと見ぬき、言う感性がまひしてしまうのだ。なぜなら、誤った情報、誤りではないにしても言わば一方的な解釈によった情報の洪水のなかで生きるとき(しかもそれが唯一絶対であるかの装いをこらしていると)、私たちは自らの感性によるその真・偽正・誤に対しての判断を省略し(他人のつくった判断に委ね)、それらをうのみにしてしまいがちだ。というのも、考えてみれば、日常的に身のまわりにあるものは(本来が)あたりまえなものだと思うのが人の性の善なるところだからだ。身のまわりに人々がつくりだし整えてきたものは全て、本来は人々がその性の善なるところに拠ってつくりだしてきたはずなのであって、そういう意味で人々は、まずその最初から、人々を「おとしいれ」たり、「だまし」たりすることを目標にかかげてきたことはなかったと私は思いたい。そのような場合なら、自らの判断を省いてうのみにしたとしてもまだ救われる。少なくともまだ人々を互いに信じているのだから。

 いまほど人の性の善なることを無視し、あるいは逆用し、「人為」的にものごとを処理しあるいはつくりだしている時代はないと思う。人々を信じるために、一見矛盾するようにも見えようが、身のまわりに充ちあふれる情報はそのまま信じない、一度自らの感性を通過させるという過程を(面倒でも)とる必要がありはしまいか。いま、情報(知らされること)は必らずしも「事実」とは限らないのだから。

 


 「ペルシャ秘宝」のほんもの・にせもの論議が新聞紙上をにぎわしている。にせもの・ほんもの論議。なにがほんものなのかという論議、にせものをほんものとして売った商売の当否について・・・・・いろいろ言われ書かれている。そして・・・・「秘宝展」で商売をしようとしたデパートの社長がその職を追われ、・・・・それで一件落着したのだろうか?まさか某社長をやめさせるのが目的の記事であったわけではあるまい?

 もしあの「秘宝」が全て正真正銘のほんものだったら、それにいくら高い値がつこうが(あるいは高い値がついていればいるほど)その「価値」が高くなることはあっても、決してけちはつかなかったにちがいない。ほんものなんだからそれでいっこうにかまわない?

 私には、にせものだろうがほんものだろうが(にせもの・ほんもの論議はそれはそれとして)、あれほどさわぐのならば、新聞はもっと重要な問題に触れるべきではなかったかと思えてならない。その問題とは、なぜペルシャの出土品:当事国にとっては文化財であるはずの物:がその国の外に持ち出され(売買の対象にされ)ているのか、ということである。いわゆる先進諸国(この場合には日本は含まない)の国宝扱の品物がその国の外で売買の対象になっているというはなしは、まずきいたことがない。必らずといってよいほど、それら「秘宝」は、いわゆる発展途上国というていのいい呼び名で呼ばれる諸国のものだ。もとはといえば、この先進諸国があの植民地「進出」時代に勝手に持ちだしたのである。日本の国宝級の品物が国外にあるのも大方はそれだ。ときには先進諸国の学者たちでさえ現地に行っては持って帰っている。その人たちが(学問のためといえばきこえはいいが、言ってみれば盗みに近いかたちで現地の「文化」を持ちだした人たちが)文化を語っているわけだ。これもまた「侵略」以外のなにものでもないと思うがどうだろう。

 なぜなら、その国で生まれたものはその国の必然で生まれたのであり。そのものの本来の価値はその国にそれが存在してはじめて意味あるのであって、決して骨とう品としての値だんによるわけではないからだ。その多くを骨とう品にしてしまった(そういう風習にしてしまった)のは、文化がすすんでいると称した先進諸国の人たちだったのである。早いはなし、中国の「文化財」を見るのに、なぜイギリスやドイツやアメリカ・・・・に行かなければならないのか。中国のものは、そしてペルシャのものも、いずれの国でつくられたものも、そのつくられた国の大地の上ではじめてその本来の意味を持つのである。考えてみれば、文化はその土地をはなれて生まれもせず、従って語るわけにもゆかないのである。文化にあたる英語cultureの原義もそうのはずである。

 ときあたかも「侵略」論議が教科書問題にからんで盛んであった。しかし「侵略」はなにも「武力侵略」だけではなかったのであり、言うならばそれと併行して「文化侵略」があったということを広く知らせる絶好の機会だったのに、新聞は某社長の「非行」論議で終ってしまうようである。

 

あとがき

〇もう稲刈がはじまった。夜気のなかに稲わらを燃やしたにおいがこもっていたりする。なつかしいにおいである。

今回は締め切り仕事に追われる破目になった結果、ついに雑感を三つならべるだけに終ってしまった。ほんとはこの三つの雑感を一つのはなしにまとめてみたかったのであるが、いかんせん時間がなかった。 残念。 ラフ・スケッチの段階をそのまま書くわけで、言わば私の舞合裏。

〇その代りというわけでもないけれども、この六月に別のところに書いたものが活字になったので、そのコピーを同封させていただく。これは実は、昨年十二月の通信「蔵のはなし」を全面的に改編書きなおしたものである。

〇それぞれなりのご活躍を! 

      1982・9・27                    下山 眞司


「筑波大学芸術年報1982年」より PDF「『環境』の見方・見えかた(その5)使いかたと使われかた―」B5版4頁 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「第Ⅳ章-1-1 丸岡城」 日本の木造建築工法の展開

2019-07-13 16:29:33 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅳ章ー1-1,2」A4版13頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 「日本の木造建築工法の展開 Ⅳ  近世ー1」 

 ・・・・我々は、ものを見るとき、物理的な意味でそれらを構成していると考えられる要素・部分を等質的に見るのではなく、ある「まとまり」として先ずとらえ、部分はそのある「まとまり」の一部としてのみとらえられるとする考え方すなわち Gestalt 理論の考え方に賛同する・・・。    ギョーム「ゲシュタルト心理学」(岩波書店)

 

・・・・私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、そしてついに絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。

言葉で示すことは把握することではない。・・・・・・・言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。

おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの 意味があろう?それなら辞書と同様である。・・・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)

 

主な参考資料  原則として図版に引用資料名を記してあります。

日本建築史図集(彰国社) 日本住宅史図集(理工図書) 日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版) 修理工事報告書  日本の美術 (至文堂) 原色 日本の美術(小学館)      

 

Ⅳ-1 近世の典型-1:城郭建築・・・上層階級と庶民の技術の融合

 室町時代:1392年(明徳3年)~1573年(天正1年)  安土桃山時代:1573年(天正1年)~1603年(慶長8年) 

 室町時代を前・中・後期に分け、後期(1528年~)を戦国時代と呼び、近世に含める分け方もありますが、ここでは、室町時代までを中世安土桃山時代以降を近世として扱うことにします。

 多層工法の例として、室町時代の後期:戦国時代になり各地に生れた城郭建築のうち、現存する2事例を簡単に紹介しました。 城郭建築は、各地域の武士が領地拡大を競って群雄割拠し、その拠点として築いた建物です。それゆえ、当初の城郭建築は、実用に徹しています。すなわち、自らの領地全域を見渡せ、万一の場合には籠って防戦できる、そういう建物を、極力早く築き上げることが求められました。その一例が、土台と通し柱、差物(飛貫)の活用です。

 また、その工事には、それまで武士と係わりがあった工人たちだけではなく、支配地域の一般の人びとの間で仕事をしてきた工人:民間の工人たちも重用されます。それゆえ、城郭建築には、一般の住居などの架構技術(粗い加工の木材で、柱、梁差物飛貫)、を一体に組み、そのまま仕上げとする)と、上層階級の架構技術(整えた木材で、二重屋根桔木を用い、張り天井付長押などで空間を整える)が適宜用いられた、と考えられる点が多く見られます

 そのような視点で、代表的な城郭建築を詳しく見てみます。

 

1.丸岡城 1576年(天正4年) 所在 福井県 坂井市 丸岡町 霞

  

 現存最古の城郭建築遺構。所在は地図上印箇所。九頭竜川北岸の平野一帯を望む標高17mほどの丘陵上に天守台を築き、建つ。 (地図は国土地理院発行20万分の1地形図より)

 信長の下で、柴田勝家による築城。明治維新に際し、天守以外ほとんど取り壊された。明治年間まで、数回の修理が行われている。安政地震で鯱が落下。福井地震では天守台が緩み、倒壊。

 

▽  北からの遠望                写真は日本基礎資料集成十四 城郭Ⅰより

 

1)各階平面図 単位 尺、 天守は三層。一層の上にニ、三層が載る形をとる。 二層、三層は同一形状。

 平面図は、下から一層、二層、三層。図中の各柱まわりの数字は、柱の大きさを示す。基準柱間:6尺3寸。

 

                    日本建築史基礎資料集成十四 城郭Ⅰより転載・編集

  

 一層は、黄色枠内の母屋と、それを囲むからなる。黄色枠内の母屋の柱はすべて、印以外、当初は掘立柱だった。

 掘立柱は、石垣で築かれた天守台天端面から下約3尺3寸の土中に礎石を据え、を立て、厚板で根巻をして漆喰を塗っていた。ある時期に、根元を切断し、地盤上の礎石建てに替えている。庇部は、石垣上に土台をまわし、柱を立てている。

 〇印を付したは、礎石建てに変更した後、二層・三層を受けるために追加された補強柱。この柱は、両脇の柱の礎石上に土台を渡してその上に立つ。二層三層は、四隅の通し柱

 天守台天端面が糸巻状の形(中央部が凹んでいる)ため、他の城郭とは異なり、土台は石垣上には設けられず、別個に礎石を据えている。そのため、石垣と土台の隙間を塞ぐために、土台水切小屋根を付けている。

 

 

2)断面図  単位 尺、   桁行(西~東)断面図、 梁行(南~北)断面図

建て方の手順  ① 一層の中央部の東西方向の掘立ての柱列に飛貫を通し、大桁を架ける。

  ② 大桁の上に、直交して、母屋部の南側および北側の掘立柱を結ぶを架ける。

  ③ ②で架けたに直交して二層、三層の南側および北側の柱列を受けるを架ける。四隅はし柱。

写真で分るように、内部は農家あるいは商家同様のつくりとし、外部は二重屋根桔木を用いている。

                                    日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより

  

天守 二層内部 北~南面を見る(梁行断面図参照)        天守 三層内部 東~南面を見る(梁行断面図参照)

  

天守一階 北~東面を見る                      天守一階 東~南面を見る 

 天守一階 南~西面を見る                                 カラー写真は、高村幸絵氏 撮影提供による。

 床梁下に取付けられた横材が目をひく。両脇の差口で取付く。飛貫と言うべきか。 差口:一材が他材に差さる状態を総称

          

3)矩計図  単位 尺 

  

 東南側から見上げ   原色 日本の美術 城と書院 より      

 石垣の天端が糸巻状のため、一層部の土台と石垣の間にできた隙間を、土台から掛けた板葺きの小屋根で塞いでいる。 南面(写真の左側の面)では、板屋根が石垣の外側に飛び出している。

 矩計図礎石建てに変更後の図)  日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載・編集

 

 諸種の技法が、混合して使われている。

 外観を形づくるために、寺院で多用された二重屋根:桔木が使われているが(図の部)、二重にしているのは外側の軒裏部分のみ。内部では、化粧垂木野屋根とも表し。

 全般に、屋内は部材すべて表しの一般の人びと:民間の建屋の工法で、図の部の付長押など、部分的に上層の建屋のつくりかたが唐突に付加されている(三層内部写真参照)。

 図の部の下段の横材は、飛貫、差物・差鴨居と同じ役を担っている(桁行断面図参照)。民間の工法の援用と考えられる。

 図の部は、数段通したを表しの小壁。柱径が7寸前後ゆえ、は5寸×2.3寸程度。このようにを表しで使うのは、一般ではあたりまえな使い方。

 礎石建ては後補。当初は掘立て。 大引足固を兼ねる。

 柱、梁・桁、貫(差物)で組んだ架構は自立し、壁の位置は任意。

 

(「第Ⅳ章-1-2 松本城」に続きます。) 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「第Ⅳ章ー1-2 松本城」 日本の木造建築工法の展開

2019-07-13 16:29:05 | 日本の木造建築工法の展開

(「第Ⅳ章-1-1」より続きます。) 

 

 2.松本城  着工1594年(文禄3年)竣工1597年(慶長2年) 所在 松本市 丸の内

 

東側からの遠望 背後は松本平北アルプス          建物は、外観は五重、内部は6階

 東面 近景

日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより

 

 松本、塩尻周辺は、古来、肥沃な土地が広がるとともに、交通の要衝の地でもあった(東山道北国街道などが、この地を通過する)。

 松本は、北へ下る幅10km内外の平野:松本平、安曇野の東に位置し、したがって、松本城は平地に天守台を築く平城である。右図の〇印。

  国土地理院発行20万分の1地形図より 

 

 室町時代は小笠原氏、以後、武田、木曾、そして小笠原氏へとめまぐるしく領主が変り、1590年(天正18年)以降、石川和正が治めることになる。

 松本城は石川氏による築城で、その下で松本城下町の整備・拡張も並行して行なわれている。

 

1)土台の支持法 杭に代る支持柱の埋め込み

 

 図は、右手が北                   日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載・編集

 

 松本城は、平城であるため、天守台天守を築く地盤:は、平地に石垣を築き、盛り土をしてつくっている。

 不安定な盛り土面上に天守を築くために、既存地盤上に建物の土台を支える支持柱を16本立てている(上図の印)。 その上に組まれる土台を受ける礎石が、上図のように、別途、築かれた天守台上に据えられている。

 既存地盤に建つ支持柱は、長さ4.95m(約16尺)内外、径38cm(約1尺2~3寸)程度のツガ(栂)の丸太。

 土台は、支持柱の柱頭の枘に取付く。支持柱相互は、柱のほぼ中央部で、径33cmの丸太の差物で結ばれていた(支持柱枘差し)。

 つまり、石垣内部に土台支持柱を組み、石垣を積みながら内部に土を充填しつつ、土台支持柱を埋め立てる方法が採られたきわめて珍しい工法である。

 

2)各階 平面図(含 基礎伏図、土台伏図)  図は左:南右:北  天守(いぬい)小天守では、階が異なる。   日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより

 

 日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより

 

3)矩計図-1 天守 一階・二階    平面図-3対応) 各図共通事項  単位 尺 

 天守は、二階建てを三層積む方法を採っている。 各矩計図は、断面図の橙色枠内を表示。 図中の羽子板ボルト等は、解体修理時になされた補強。

  

 一階、二階では、外周母屋庇部の境の柱が通し柱の厚さは柱径の30%程度。

  矩計図

                断面図・矩計図共に日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載・編集

 矩計図 着色部分:土塗壁 外部:各部塗篭 内部:真壁 垂木~垂木間の軒天井部も塗篭。 軒天部の小舞垂木上全面に通して設けている(図参照)。

 各層(1・2階、3・4階、5・6階)共通床梁は、各階とも格子状に組む。各方向とも、通し柱頭部には、折置。中途階では、通し柱枘差とし、鼻(端)栓またはシャチ継。 交差部は相欠きまたは渡腮。 は2~3間ものを柱上で継ぐ。継手台持継

 

 4)矩計図―2 天守 三階・四階 平面図-5,6対応)

三階 南西を見る   柱列は、通し柱。 床梁(四階床)は各方向とも、柱に枘差。  写真のように鼻(端)栓で納めるほかに、シャチ継も併用されていると考えられる。

               写真・断面図・矩計図共に日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載、図は編集

 この図の柱2本は通し柱。 五階の断面は、飛び出している部分を描いている。  

 4階、5階、6階は、居住空間としているため、付長押を設けている。

 3階床を受けるは、柱上で台持継で継がれる。そのうち、上階柱位置にあたる箇所には、肘木を設ける。 

 床板の継目には、下から目板を打っている。

 

5)矩計図-3 天守 五階 平面図-7対応)

 矩計図は、突き出しのない部分。

 五階、六階は、南・北面の通し柱平面図ー7,8参照)

                         断面図・矩計図共に日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載・編集

 

 

6)矩計図ー4 天守 六階 平面図ー8対応)

 

 

 六階では、野屋根も表し(矩計図に見える軒先ボルトは修理時の補強)。

 

                        断面図・矩計図共に日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載・編集

 

 矩計図のように、建物は各所を分厚い土壁で塗り篭めているが、土壁部は目的・用に応じて任意に設けられている。 このことは、建物は基本的に架構そのもので自立していて、土壁部には依存していないことを示している。 これは、他の城郭にも共通している。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 『地方』 の重さ・・・・八月十五日によせて」  1982年9月

2019-07-07 10:02:12 | 1982年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №6」1982年9月 A4版10頁 

      地方の重さ・・・・八月十五日によせて・・・・     1982年度「筑波通信 №6」

地図の上のアメリカ

 アメリカ帰りの人から、おみやげに向うの道路地図をもらった。一ページがわら半紙よりひとまわり(縦横とも1~2㎝)大きく、見開き二ページに一州がおさまるようになっている。日本のそれを見慣れている目には驚くことばかりであった(もっとも、ヨーロッパのそれを見てもそれほど驚いた覚えはないから、アメリカが少しばかり独特なのかもしれない)。

 驚きの一つは、言うまでもないが、その国土の(私たちからすると)途方もない大きさについてである。その昔、カリフォルニアの半島に日本列島がすっぽり入ってしまうと教わって驚いたことがあるけれども、しかしその驚きはどちらかと言えば実感の裏づけを欠いた観念的なそれだったように思う。いまこうして道路や町々の所在がこまかく書きこまれた地図を見ていると、日常的な尺度・感覚でその巨大さがあらためて伝わってくる。

 はじめのうち私は、なんとなく日本のそれを見るようなつもりでながめていたのだが、ふと気になってその縮尺を調べてみた。なんと、そのほとんどが百万分の一から百五十万分の一といった縮尺なのである(見開きニページに一州をおさめるため、州ごとで縮尺が違っている)。日本の道路地図は大抵見開きニページでわら半紙の大きさ(いま私の見ているアメリカのそれの半分)で、縮尺は大体四十万分の一である。そして中学・高校の学生用地図帳も見開きニページでわら半紙大であり、試みに「関東・中部地方」を開いてみると、それが百五十万分の一で東は福島県、西は京都府あたりまで入っている。念のために言えば、一州の半分の大きさに、である。一州が実にけたたましいほど(私たちの目からすると)大きいのである。はじめ私は、ページごとに縮尺が違うなんて不親切な地図であるなどと思っていたのだけれども、そう思うのはやはり日本に慣れた目のせいで、日本でのように一日のうちに地図の数ページ分を動いてしまうなどということは彼の国ではまずないのである。州境近くを動く場合の他は一度開いた見開きのなかでことは足りるのである。ページごとの縮尺の違いなど、この地図の目的上、問題にならない。いずれにしろ、日本に慣れた目を大幅に修正しながら見ないと、とんだ錯覚を起こしかねない。

 もう一つの驚きは、その地図の上に網の目のようにひろがる道の形状の特異な形についてのものである。もちろん例外はあるが、まず八割がたは東西・南北に向きをそろえた方形の格子状をなしている。百万から百五十万分の一という縮尺の地図では町なみ家なみは当然書きあらわせず、道も他の地物もいわば記号化されて書かれることになる。そのためかえって道の格子がきわだって見えてくる。それはあたかも(スケールは全く違うのだが)条里制の水田(あるいはその跡をとどめる地図)を見ているかのようである。それが顕著なのはもちろん平原状の大地の場合で、山地ではさすがにそうではない。しかし。平原状だからといってたとえば関東平野をおおう道がほとんど全て格子状をなしているなどという姿を、私たちは想像できるだろうか。私たちの道は、川にぶつかれば素直に向きをかえるのをいとわない。彼の地に川や起伏がないのかというと、そんなことはない。よく見ると川もちゃんと流れているし、当然ながらその向きも東西・南北を向いているわけではなく勝手気ままに流れている。そして道は、よほどの大河でない限り、およそ川の向きなどおかまいなく、その初志をまさに字のとおりに貫徹している。道というのは、およそいかなる形をしていようが全て(ことばの本義で言えば)人工物なのだけれども、この地図の上の道を見ていると、これこそが人工であって私たちにとってあたりまえな道の方は自然物であるかのように見えてくるからおもしろい。

 しかし、全部が全部格子様なのではない。よく見てゆくと、この大平原のなかに、全体から見ると異質に見えるのだが、微妙に曲りくねり、東西・南北の向きには関係なく斜めに走る道も見えてくる。地図の上では異質だけれども、私はこれに出会って少なからずほっとした。それは私たちが普通目にしてきた道とそっくりだからである。しかし、この道はなぜ斜めなのか。理由は単純なはなしである。これは素直に川に沿った道なのである。明らかにこの道は例の格子様、の道とはその成因が違うとみてよいだろう。大きな町、その地方の中心と思われる町は、どうやらこの斜めに走る道に沿ってあるように見える。そういったことを考えてみると、この斜めの道は多分この地方の古道なのではあるまいか。そして格子様の道は開拓の結果として生じたもの、道としてよりもむしろもともとは地割線に違いあるまい。

 つまりこういうことだ。人々は下流から川に沿って開拓を目的にさかのぼってくる。まず、適当と思われる場所に仮にとどまり、そこを拠点にまわりの土地を物色し定着地をきめる。つまり、仮の場所は言わば前進基地、開拓中の土地が前線である。まさに字のとおりフロンティアである。開拓がすすむにつれ、それを支える前進基地は町として発展してゆく。そして開拓した農地は整然と区画され、その塊界線がそれらを互いに結ぶ道とされる。おそらくそのとき、それら方形の線が全土をおおう道路網になるなどという発想はなかったに追いない。そうなったのはずっと後になってからだ。なぜなら。拠点の町へゆく道はともかく、開拓地を越えて更に先へすすむ道は、彼ら定住地を見つけてしまった開拓者たちには当面必要なかったはずだからである。それを全土をおおう道路網の一つとしてくみこんだのは、多分、後の時代の別の(目的をもった)人たちなのだ。

 実際に見たこともなく詳しく調べたわけでもないのにこういうように思うのは、およそどこの国であっても、全土をおおう道路網の建設が人々の定着・定住よりも先行するはずがないからである。先行するのは、まず人々が定着すること、そしてできた村々や町々がそこに住む人たちの必要に応じて道を介してつながってゆく。そのとき彼らが、はるか数百㎞も先の(自分たちの生活とは、自分たちの側から見て、何の関係もない)町や都とのつながりを第一義的に考えるわけがない。たしかにいまでこそ、まず基幹としての道路を整備し、それから開発をすすめる、というのがあたりまえになっているけれども、それはあくまでも近代の合理主義的考えのしからしめるところなのであって、唯一そういう見かただけで古今人々がその住む大地に拠って営んできたことを見てしまったら、何度も言ってきたことだけれども、そこにはとんでもない誤解が生まれてくるだろうと私は思う。そしてまた、そういう近代的開発の目でしかものを見ないならば、あの格子状の網の目の下に、ことによるとこの開拓をした人々以前に住みついていた人たちの道が隠されているかもしれないことに、全く思いもおよばなくなってしまうかもしれないのだ。

 

地図のなかの人々

 こういった驚きをともないながら地図を見ていると、それが全く見知らぬ土地の地図だからでもあろうが、その地図の上のすみずみで暮している人たちの生活というのはいったいどういうものなのか、いろいろな思い・想いがわいてくる。

 たしかにはじめのうちは地図をひろげその縮尺を確認し、その大きさにためいきをつき、名も知らぬ町々を順にたどってゆき、隣り町までちょうど土浦と東京ほどの距離があるのだ。などとどちらかといえばその物理的な側面での感嘆をくりかえしていたわけなのだが、そのうちに、こういうような状況のなかで暮している人たちの生活(感覚)というのはいったいどんなものなのだろうか、とても気になりだしてきた。

 たとえば、そこの町に住んでいる人たちにとってアメリカの政治の中枢ワシントン、あるいは文明の先端をゆくと思われているニューヨークなどなど私たちもよく知っているアメリカの代表的な都市やそこでの動向は、いったいいかばかりの意味をもつものなのだろうか。あくまでも私の感じにすぎないのではあるが、その町に住む覚悟をしている限り、おそらくそれらははるかかなたの言わばどうでもいいこととして受けとめられているのではなかろうか。すなわち、あそこはあそこ、ここはここ、というとらえかたが至極あたりまえになされているのではないかと思う。なにしろ、ワシントンなどははるかかなたの地の果てにあり、さきの地図なら何ページもめくらなければならないし、そこへ仮に行くとなれば、日付はともかく時計の針は何度か変更しなければならないのである。ことによると、ワシントンなどときくと、まず自分の州の(隣り町の一つとしての)ワシントンを頭に描くかもしれないのである(ワシントンなる地名は、私たちの知るあの有名なもののほかにも各地にたくさんあるのだそうである)。もちろんたずねてみたわけでもなく調べたわけではないのだが、多分まちがってはいないと思う。

 つまり、そこの町に住む人たちの日常的な暮らしの世界のなかには、そのはじめに抽象的なアメリカ全体:「全国」などという観念は決して入ってこないだろうということだ。「全国」的な世界は、その日常生活の何段階か上の次元のはなしなのであって、まずはその町でしかあり得ない(その町だから当然の)ものごとが考えられると見てよいだろう。そして、これだけ広い国土だと、一生自州はもとより自分の町のまわり数百㎞以上の外に出たこともなく終ってしまうというのも決して珍らしくはないだろう。そう考えてくると、成功をおさめたアメリカの(いなかの)おじいさん・おばあさんが世界一周の旅にくりだしてゆくというのも、なんとなく分るような気がしてくる(「農協さん」などと少しばかり皮肉った表現がされている日本の農家の人たちの海外旅行もまた、これに似た側面があるのではないかと思える。彼らもまた、土地にとりくめばとりくむほど、自分の「世界」だけで過ごし終ってしまうことが多いからである)。

 

 こう見てくると、少しばかり短絡的かもしれないが、アメリカが一つの「中央」による国内政治ではなく、各「地方」:各州の州政治を基とした連邦制をとっているのが、まことに理の当然であると思えてくる。

 「統一的」あるいは「画一的」なやりかたで「全国」一律に処するなどということは、物理的にもまず不可能だからである。この百五十万分の一という地図の上に辛うじて点となって書き示された町に、もはやその縮尺では目に見える点にもなり得ない人々が住んでいる。しかし、その人々の存在ゆえにその町や村が存在する。この人たちは、まさに「草の根」なのである。この広大な土地の地図は、それが広大であるがゆえにかえってこの「草の根」の存在をひしひしと感じさせてくれるのである。そして、そういう「草の根」が繁茂しているがゆえに町が在り、州が在る。州という「林」がなりたつ。そしてその集合体が合衆(州)国すなわちUnaitedstatesという「森」となっている。また、そうならざるを得ないのだ。現実に「草の根」たちがどう扱われているかは知らない。しかし、アメリカの(少なくとも建前としての)民主主義とはこういうものなのだろう。いや、なにもアメリカに限らなくたってよい。およそどこの国においても、「草の根」の存在しない村や町もそして国も在るわけがない。とりわけ「国」というような抽象的な存在が「草の根」より先に在るわけがない。

 だが、日本の様相はどこか違う。日本ではむしろ「中央」という名の大樹が、「草の根」を一本残らずむしりとり根こそぎにしてしまうことによって繁茂している。更にまた繁茂しようとしている。はたしてそれが「国力」を強くなることなのであろうか?そしてこの日本の様相は、国土が狭いという特性ゆえの日本なりの当然の様相なのであろうか?たしかに「統一的」「画一的」なことの処理は、狭いがゆえに数等やり易いだろう。しかし、やり易いということと、「草の根」の存在を認めるかどうかということとは、本来別の問題である。先に記したように、国土が広かろうが狭かろうが、そして「画一的」な処理がし易かろうがしにくかろうが、「草の根」すなわち個々の人々は、厳然として存在する。仮にその個々の人々の個々としての存在が(ある人たちにとって)都合が悪いからといって、現実に、そして諭理的に言っても、その存在を消し去ることは絶対にできない。

 私はいま、あのアメリカの地図を見ていて、そこに「草の根」の存在を見たと書いた。しかしほんとは、日本の地図の上にもそれを見なければいけないのである。もしその上に、そこで暮す人々の姿が見えてこないならば、それはそこに土地ではなく単なる地面の拡がりを見ているにすぎない。こういう見かたが横行するとき、頭のなかからは日々を暮らしている生身の人間が消えていってしまう。そして、そういう人々が存在しない前提のもとで、次から次へと人々に係わりをもつことがらが処理されてゆく。これを矛盾と言わずとして何と言うのだろうか。

 

「地方」のニュース‥‥事実とニュース

 八月の七・八日、所用で山梨県へ行った。泊ったのは一足信州に入った富士見町(八ヶ岳のふもとで、名前のとおり信州から東へ向うとここへ来てはじめて富士山が一望のもとに見わたせる)であったが、そのあたり(富士川の上流にあたるが)一帯、南アルプスへかけて、ちょうど一週間前の台風十号で相当ひどい被害を受けたようであった。ようであったと書いたのは、現地に着くまで被害について全く知らなかったからで、私は車ででかけたのであるが、私は運よく車が通れるようになって間もなくの道を通ったらしく、一日前だったら来れなかったのだそうである。そんな情報は、訪れる前何も知らなかった。

 実際こんな場合、知るといったって、私たちはどうやって知るのだろうか。だれか知りあいでもその町にいれば、いちはやく知り得たかもしれないが、そうでもない限りせいぜい新聞・ラジオ・テレビのニュースによるしかなく、そのころニュースは東海道線の富士川鉄橋の倒壊や東名・中央両高速道の土砂くずれによる不通など、どちらかといえば首都圏にとって何らかの係わりもちそうな障害について多く報じられていたように思う。道路情報というのがあり、電話一本で状況を知り得るのであるが、報道に拠る限り私の目的地は大したことはないと頭から思いこんでしまっているから、私は問いあわせをしようとは思わなかったのである。実際はかなりの被害であった。その時信州は、東京方面からの二通りの幹線:信越線・中山道と中央線・甲州街道:が両方だめになり、一時的に孤立の状態だったのだそうである。そういう具合だから、あちこちで浸水、洪水、鉄砲水、土砂くずれがあり大変だったらしい。よく考えてみれば、富士川下流の鉄橋が倒壊するほどの水が流れた以上は、その上流の雨がいかにひどかったか自明のはずなのだが、ニュースで報じられるとどうしても報じられた一件にのみ目がいってしまって、関心もそれだけで終ってしまい、その背景・全景:全体像にまでは目をやらないで済ましてしまうのである。

  私はその地の新聞、信濃毎日や山梨日日を読んで、やっとのことで現地の状況の大体についておぼろげなその姿を知ることができた。というより、筑波で読んだ向う側の「中央」紙の報道と、そこで読んだこちら側の「地方」紙の報道とをあわせてみて、今度の台風十号がどんな具合に列島を横切っていったかがはじめてよく分ったような気がしたのである。

 なにも今回のこの経験によってだけではないのだが、とかくこういう場面に出くわすと、いったい「中央」紙なる新聞の紙面をにぎわす記事というのは何なのか、あらためて考えざるを得なくなる。なぜなら、現場に居あわせでもしない限り、多くの人々は、その読む「中央」紙において報じられた個々の事例だけによって、たとえば今回の台風十号についてのイメージを、勝手に、描いてしまうだろう。それで全てだと、つい思いこんでしまうのだ。(もちろん、その勝手は必らずしも読み手の責任ではない。)そして多分、人々は分った気になってしまうはずである。

  言うまでもなく、全ての事件、あるいは全景をくまなく報ずることは不可能であるから、報じることの内容に対して必ずある種の選択が行われよう。だから、その選択のなされかたの当否はともかく、少なくとも、そこに記されていることはあくまでも全体の一部にすぎないということを私たちは知るべきであり、そしてまた、そのほんの一部分のことがらをもとに、私たちが個々に、その全体:全景あるいは背景について思いをはせるべきなのではないだろうか。おそらくそれが、知ろうとする私たちにとっての最低の努めのはずである。

 

「中央」からのニュース・・・・知らされることと知ること

 実際、「中央」の近くに住み時折「地方」に出向いて、その地の新聞やテレビを見ていると、日ごろ気づかずにすごしていた、同一のことがらも自分の立つ場所によって全く違う見えかたをするものだ、ということにあらためて気づく。言わば、向う側に押しやって見ていたものを、こちら側に近づけて見れるようになり、私の立場の所在の確認をせまられることになる。いつもいったい何を見ていたのか、ということだ。

 よく「地方」でテレビの(特にNHKの)ニュースをきいていると、「きょうの日曜日は久しぶりに夏らしい青空がひろがり・・・・」だとか「きょうは九月一日、夏休みも終りきょうから新学期、まっくろに日焼けした子どもたちが元気よく・・・・」などと言っているのに出会うことがあるけれども、たまたまその日一日その地が曇っていたり、あるいはその地が寒冷地であったりすると(寒冷地の二学期は八月二十日ごろにははじまっているから)実にもう白々しくきこえることがある。多分、これを東京で見ている人は別になんとも思わず、そういえばそうだったなどと思うだけだろう。あたかも「全国」的なはなしをしているようでいて、実はそれは東京のはなしをしているからなのだ。ことによると、東京のことは「全国」に通じるかの錯覚におちいっているからなのかもしれない。いや、ことによると、知らせる方も知る方も、錯覚どころか素直に(ほんとに)そう思ってしまい、更にそれどころか、その「全国」共通からはずれているようなことがまるで悲いことでもあるかのように思っているのかもしれない。それがたまたま自分の身のまわりで起きたことがらについてのニュースのときには、事実と違うではないかと白々しく思うだけで(もしかすると、そういうことに慣れてしまって、軽くまたかと思うだけで)、その他のことは、多分、そのままうのみにしてしまう。

 考えてみると、これはまことにこわい、恐ろしいことだ。なぜなら、事実を知るのではなくニュースを知ったことで、あたかも事実を知ったかの気になってしまう。それに慣れてしまうと、自らが(事実を)知るということが忘れ去られ、(事実を)知るということ自体も他人まかせになってしまう。自ら知り得ていないことまで、知っているかの錯覚におちいりかねない。そうなれば、自ら知らないがゆえに分らない、と言うことさえもなくなり、だれもが分っているかの気にさえもなってしまう。つまり、自らのものごとの判断が放棄されるということである。ものごとの判断までも他人まかせとなる。

 しかしほんとうは、自ら知り得ない、それゆえ分らない、そうはっきり言いきることが大事なのであり、そう言いきれるとき(つまり、知ったかぶりですごさないとしたとき)、実は逆にそこにおいてはじめて、自ら知ろう、分ろう、と努める気持がわいてくるのではないだろうか。「中央」から(だれかの手によって)整理された事実だけが知らされるのに慣れ、それが全てだと思いこんでしまったとき、私たちは、この自ら知ろう分ろうと努める気持さえ失なってしまうに違いない。そして、私たちがそれに慣れてしまったとき、そのとき私たちに知らされるものはいったい何か。そしてそのとき、私たちはどのようなふるまいかたをするようになるか。多分そうなったとき、私たちは、ひとりひとりの判断を忘れて、画一的な判断を(別に強制されているとも思わず、あたかも自らの判断であるかの如くに)するようになるのではなかろうか。

 

 実際、昭和二十年八月十五日以前において私たちがおかれていた状況はまさにこういうものであったと思うし、その後三十七年を経過したいま、民主主義を片方で(建前として)かかげつつ、ある種の人たちがつくろうとしているものもまたこういう状況に他なるまい。そうでなければ、あれほどしつこく教科書の画一化にこだわるわけがない。私たちがともすればおちいる知らされたことを事実そのものと思いこむ錯覚が巧みに利用され、私たちの(強制されているとも気づかない)画一的な判断を生む状況づくりが着々と行なわれている。そしてまた、情報量の増加、しかも一見したところ多種多様な情報は、人々をしてただ単純にいろんなことや考えがあるのだと思わしめるだけで、かえって自らが自らにより知ろうとする気を起こさせなくなってしまっている。そしてその多種多様な情報でさえ、それは決して多種多様な人たちによって発せられているのではなく、端的に言えば、「中央」にいる(「中央」こそ全てであると思いこんでいる)ある種の人たちによって発せられていると言ってよいだろう。それらもまたテレビのニュースと同じに、必らず一度「中央」を経由して「全国」に流されるのであり、このやりかたは、ことによると戦前戦後を通してなんら変らなかった極めて日本に特有な現象なのではなかろうか。

 しかしいったいなぜ全ての情報やニュースが「中央」からあるいは「中央」を経由して伝えられなければならないのだろうか、そしてそれが(日本では)あたりまえになっているのだろうか。

 たとえば、さきのアメリカの道路地図の上に見つけた名もきいたこともない小さな町でも、ニュースは「中央」から伝えられるのだろうか。そうではないだろう。新聞でいえば、彼の地には日本のような「中央」紙はない(系列はあるようだが)。「全国」紙はなく(系列はあっても)全ては「地方」紙である。というより「全国」紙、「地方」紙ということばがないはずだ。どれもがいわば「地方」紙なのだから。かのニューヨークタイムズにしたところで、基本的にはその名のとおり一「地方」の新聞にすぎない。なぜそれがあんなに有名なのかといえば、それは発行部数によるのではない、その内容によってだろう。当然あの小さな町のあたりにも「地方」紙があるに違いない。部数はとるに足らない小さな新聞。そしてそれは多分、その「地方」の目で編集されているに違いない。言わば、「世界」は彼らの目でもってとらえられる。もちろんニュースは通信社から配られるだろう。だが、そのあつかいかた:つまり編集は、あくまでも彼らの目によるはずである。つまり、その新聞はその「地方」のためにつくられるのだ。おそらく、諭説や主張や論評もまたその「地方」に根ざして説かれるだろう。ことによると、中立をよそおうなどということもなく旗じるしの鮮明な新聞がいくつもあるのかもしれない。そして、もしその論説や主張が、その「地方」を越えた共通性普遍性のあるものであれば、それはまたすすんで他の「地方」紙(有名無名を問わず)転載されることもあるというはなしもきいたことがある。

 すじの通った一「地方」の主張は、それが仮に数の上ではとるに足らない「地方」や「地方」紙であったとしても、それは無視・黙視できない価値を認められるということだ。もちろん実態を詳しくは私はしらない。しかし、建前は、その土壌は、基本的にはこういうものだろうと思われる。あの広大な広がりという物理的状況では、こうでなければ成り立つまい。すなわち、「中央」ではなく、「中央」だけではなく、そして「中央」におもねることもなく、一「地方」がそれぞれ「世界」を語ることができる。これが日本なら、正しい情報は「中央」だけが持ち得るのだと自他ともに思いこんでいるから、正しくない、あるいは情報量の少ない「地方」の見解なんてとばかり一笑に付されるのがおちだろう。そして実際各地の「地方」紙で、自負と見識をもって編集している例はほんとに少ないように思う。その少ない例では、一般紙面はもとよりその投稿欄などを見ると、一見して地元の人たちに支えられているというのが分かる。しかし、大かたの場合は、第一面から三面記事みたいで読む気がおきない。まるで、その「地方」のことも全て「中央」にまかせておけばよいかのようである。

 たとえば、私が住む茨城ではいわゆる科学万博が数年後に開かれることになっているけれども、地元の新聞はのっけからそれを行なうことがよいことであるかの前提で話をすすめている。万博を成功させよう、といういわばキャンペーンの先兵を卒先してつとめているといってよい。なぜなら、それを契機としての「中央」からの「公共投資」という名の「下付金」が欲しいからなのだ。おそらくこれはなにも万博がらみだけではなく他のことも同じだろう。およそ県政というものが、いかに「中央」に対していい子ぶりっ子をしておこづかいをたくさんもらうか、という点にのみ関心があるわけで、地元の新聞はそれを援護することに意味を見つけているようなのだ。「中央」のその「地方」に対する施策に唯々諾々として従うことをもってよしとする。万博がどういう意味をもつかなどという論議はそっちのけでそれによっておちる金勘定が先になる。第一、そのおりてくる下付金のでどころがそもそもどこであったかを忘れている。言ってみれば、もとはそれぞれの「草の根」から集められたものだ。ある地方行政の担当者が、やたらに使途をこまかく規定した補助金をいろいろくれるよりも、それらをまとめた金をくれた方がどれだけよいかわからない、それに、なにも一度国:「中央」に吸いあげてから再びもどってくるという過程もあほらしい、と言っていたけれども、これはある面で正当に思える。しかし現実はそうでないから、少しでも「中央」に近い方が「地方」のためになるという発想になり、それに大抵慣れきっているわけである。

 だから、国家的スケールのプロジェクトから、どうみても地域の限定されるものまで、およそ全てが「中央」の意図どおりに動くことになる。そして、「地方」も「地方」紙も多くの場合それに迎合する。「地方の時代」などときこえのよいことばがでまわったけれど、その発想元もまた「中央」なのであって、それの意味はあくまでも「中央」の体制化のもとの(「中央」のための)「地方」であり、それは決して「地方の自治」ではないのである。考えてみれば、「地方」からの発想が基本となるのがあたりまえにあたりまえになっていたならば、あえて「地方の時代」なる新語(珍語)が生がれるわけがない。

 

知ることと知らせること

 このように見てくると、いま私たちがおかれている、そしてあたりまえだとさえ思い、慣れきってしまっているこの状況、そしてそれに慣れきって、どこかえらい人たちから知らされることをもって事実の全てと思いがちな私たち自身の状況、これはまた大変に恐ろしい。


 「中央と地方の問題は、その地域がそれぞれにもつ固有性によって、いっそうむつかしいものになっている。地域の社会と文化、人間の暮らしかたの総体を真に深く理解し得るのは、まずそこに住むもの自身であり、そこに住むものが、自分たちの暮らしかたの実態と地域に深く横たわっている問題とを、広く他の地方や中央の人々に知らせる必要がある。だが、情報時代といわれる今日においても、それが実際にむつかしいこと、無限にむつかしいことは変りがない。

 近世末期に越後湯沢の一商人にすぎない鈴木牧之が、『北越雪譜』二編七巻を著して、雪に埋もれて暮らす自分たちの地域のことを、巨細、天下の人々に知らせ、その理解を深めようとしたのは、稀有の出来ごとであった。」(益田勝実<北越雪譜のこと>より)

  

 むつかしいことは分りきっている。しかし、私たちに残されているのは、そしてそれはつまるところはじめにして終りでもあるのだが、私たちが私たち自らを語ることだけだろう。なぜなら、さきにも書いたけれども、「中央」という大樹が「草の根」よりも先に存在するわけではないからである。別に「草の根」は、得体の知れぬ「中央」のために在るのではないからである。知るということは、知らされることを知ることではなく、私自身が自分の目で知ることだからである。そしてそれは、少なくとも、三十七年前の八月十五日以降、私(たちの世代)が身をもって身につけてしまった考えかたでもある。

 

あとがき

〇暑い。むし暑い。乾いた空気がほしい。

〇暑いのと、いろんな仕事が重なったことで、ついに今号はまとめるのがおそくなってしまった。

〇教科書問題。あの戦争で、なにも学ばなかったのだろうか。学んだのは、多数決だけだったのか。

〇空気が少し澄んできた。

〇それぞれなりのご活躍を! そして、その共有されんことを!

           1982・8・21                       下山 眞司

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「第Ⅲ章-4-2 箱木家」 日本の木造建築工法の展開

2019-07-01 16:42:00 | 日本の木造建築工法の展開

PDF 「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章ー4-2」A4版5頁

 

2.箱木家  室町時代後半     所在 神戸市 北区 山田町衝原(つくはら) 移築保存

  箱木家は、主屋と離れが近接して建てられている。

 修理時の調査で、離れ部を右90度回転して2棟を合体、増築して1棟としていたことが分った。ここでは、主屋部を採りあげる。 

 

 

 修理時点平面図        平面図・断面図は重要文化財 箱木家住宅(千年家)修理工事報告書より転載、断面図は編集

 

 

 

 復元 平面図

 

 箱木家のある山田町衝原(つくはら)一帯は、六甲山系の北側に位置し、中世の摂津山田庄にあたり、ここには、ほかにも多くの千年家と呼ばれる住居があった。 その理由は不詳であるが、山陽道の脇街道が通り、交通の要衝として栄えていたことも、一つの因と考えられる。

 箱木家は、ダム工事により、近在別敷地への移築保存の形を採った。

 主屋は、古井家同様、上屋+下屋の構成で、下屋まわり土塗り大壁で囲われていたと推定された。 ただ、南面の下屋は縁になっている。

 

主屋 復元 平面図

 

 

 

主屋 復元 桁行断面図 なんど~だいどこ~にわ      色塗り部分は貫

 

 古井家では足固貫内法貫が主体で、土間部の桁行棟通りのみに飛貫を設けているが、箱木家では、内法貫は設けず、足固貫飛貫だけである。 特に、飛貫は、梁行桁行のほぼ各通りに入れているのが注目される。

 

  

 修理時 南面                        修理時 北面

   

 復元後 南面         日本の民家3 農家より    復元後 東~北面

 

 修理時点には、大きく改造されて、下屋まわり四周の土塗り大壁部はすべて消失し、を含め当初材はなかった。

 移築保存で建物の撤去後、発掘調査が行われた結果、下屋まわりの礎石土壁基底部の一部(縦小舞の痕跡)が発見され、その結果、壁の仕様が特定された。

壁の仕様(前出の古井家の壁仕様参照)

 古井家と同じく、縦小舞:径2.5cm内外の粗朶(そだ)に、横小舞:同じく粗朶小舞縦小舞に絡め、土を塗り篭める方法。したがって、下屋柱相互を縫うはなかったものと考えられる。

 

 △ 復元後 南面部分  

 

 梁行断面図 おもて~だいどこ 

 梁行断面図 にわ部分    断面図とモノクロ写真は重要文化財 箱木家住宅(千年家)修理工事報告書より

 

復元後の内部写真  重要文化財 箱木家住宅(千年家)修理工事報告書より転載・編集(文字は編集)

にわ上部の小屋架構 全般に、材寸は古井家よりも太めである。 

 

にわからだいどこを見る   飛貫側柱にも設けている。

 

材料および材寸  箱木家住宅修理工事報告書には、材寸については、下記材料以外、記述がない。

:マツ  上屋柱 14.7㎝~16.2㎝各角、面取り 目標寸法は5寸角か? 下屋柱 当初柱消失 復元では12.0㎝角

梁・桁:マツ  上屋梁 約15㎝×17.0㎝程度直材、および丸太  上屋桁 記述なし 渡腮  柱~梁~桁:折置組、柱頭重枘差し 

:マツ  足固貫 詳細記述なし 当初柱の貫孔:12.1㎝×6.0㎝、胴付枘差しとあるので、12.1㎝×7.0~7.5㎝程度か?   飛貫 詳細記述なし 当初柱の貫孔:12.1㎝×6.0㎝、梁行方向は柱に胴付枘差しとあり、12.1㎝×7.0~7.5㎝程度か?  他は貫孔と同寸とあり、12.1㎝×6.0㎝程度、継手は柱内略鎌相欠き)。  

付長押:マツ 見付 平均3.8寸  他の材の材寸は、写真上で、柱、小屋梁との比較により、推定するしかない。

 なお、報告書掲載の現状変更説明書では、飛貫内法貫と表記している(近世住居の用語によったため、との註釈がある)。

 

おもて南面

床~鴨居下端:約5尺  付長押は、飛貫鴨居とは独立して別個に取付けられている。

の位置が開口部上端:鴨居とは離れていることから、内法貫ではなく飛貫と呼ぶのが適切。 を隠さない点が、方丈建築との大きな違い。 住居建築でも、近世には、飛貫は用いられず、鴨居レベルに内法貫を入れるようになる。

おもて北面

付長押上の壁は割り竹張り内部に飛貫が通る。割り竹張りの理由は不明。


  南側 縁部分

 

 箱木家では、写真のように、下屋部上屋部とを繋ぐ材は、足固垂木だけである点に留意する必要がある。古井家では、内法貫上屋柱下屋柱を繋いでいる。

 下屋まわり四周の土塗り大壁部はすべて消失し、を含め当初材はなかったにもかかわらず、このように復元した理由は報告書に記述はない。

 おそらく、飛貫位置が下屋の桁位置より高いため、繋ぎはない、と判断したものと推測される。上屋柱に当初柱が少なく、繋ぎ材の確認ができなかったことも一因と思われる。 下屋まわりの復元にあたっては、近世住居の壁のつくりかたが援用されたため、違和感がある.

 

 なお、下屋まわり大壁は、古井家同様、構造的な役割は持たないと考えられる。構造的に必要であるならば、撤去することは不可能のはずであるが、後に撤去改造され、修理時には消失していた。

 

 古井家箱木家とも、建設当初、外壁四周は大半が土塗り大壁でくるまれています。しかし、各建物の解説で触れましたが、下屋上屋はほとんど分離・独立していて、大壁部分は一見建物を維持・自立させる役割を担うように見えても、その働きはしていないと考えられます。

 また、上屋礎石建て下屋礎石建てですが壁部は土塀の如く地面から立ち上がるため、上屋下屋では挙動が異なるはずですが、それにより起きたと思われる損壊などはなかったようです古井家の北面土壁は修理時著しく破損していましたが、その主因は地盤沈下によるものです。)

 古井家箱木家とも、四周の壁を取り去ると、壁のない架構だけが残ります(間仕切の壁は薄い板壁か土塗の真壁壁です。そのような架構が、なぜ400年を越えて健在であったのか、考えて見ます。 

 

 古井家箱木家のつくりかたは、以下のとおりです。

① 先ず、地形(地業)の後、据えた礎石上に5寸~6寸角あるいは末口5寸程度の丸太でからなる逆コの字型をつくり何列か横並べし(列数は規模による)、次いでの両端にを架け居住空間の外形をなす直方体:上屋部分の軸組をつくる。 

② 直方体位置に大引を兼ねた足固貫を柱間に通し、柱頭近くで内法貫飛貫を柱間に通す。

③ 上に屋根の外形をなす小屋組をつくる。又首組にするか束立組にするかは任意。

④ 必要に応じて下屋部分をつくる。繋梁は設けず、で繋ぐ箱木家ではもない)。 

⑤ 垂木を架け、屋根を葺き、を張り、柱間に開口装置任意に充填して仕上がる。

 

古井家住宅 梁行断面図・桁行断面図  日本の民家3 農家Ⅲより転載・編集

 

 古井家箱木家は、小屋貫は近世の住居と同程度の材 (丈3.5寸~4寸×厚:柱径の1/3程度ですが、足固貫、内法貫、飛貫は、丈が4寸程度、厚は柱径の40~50%近く(約2寸5分程度)の材が使われ、端部は胴付を設けて厚2寸ほどの枘につくりだし柱に差して楔で締めているのが特徴です。

 また、足固貫以外はすべて表しとなり、この点は、付長押で隠す方丈建築と大きく異なります方丈建築は、丈:2.8~3.5寸、厚:柱径の30%程度。表すことはせず、付長押で隠している。 

 古井家箱木家の架構法は、部材は全般に細身ですが、原理的には浄土寺 浄土堂の架構法と同じで、胴付を設けてに差して楔締めにしている点は、近世の差鴨居の原型と見ることもできます。

 すなわち、細身の材による軸組部は、その上に載る小屋組と下部の床組により平面形状が保たれ、上屋上部の柱間を縫うと、上屋四周の下屋上に垂木によってできる三角柱古井家の場合)の働きで軸組部の垂直が保たれ(これは、方丈建築の桔木のつくる軒下の三角柱と同じ働きです。)、これらが綜合して、木造部だけで自立が可能であった、と考えられます(上図参照)。

 しかも、下屋部と上屋部の繋ぎが緩いため、下屋外周の土壁部礎石建て上屋部の挙動の差も吸収減殺されます。実際、修理時の破損状況を見ると、地盤沈降、補修不全による雨漏り、粗漏な改造・改修に起因する破損が主で、架構自体に起因する破損は見当たりません。 

 箱木家の近在には、同じく中世に建設され、良好な状態で住み続けられてきた阪田家がありましたが、昭和37年(1962年)焼失してしまいます。この事件は、その後の住居遺構調査を進める契機になりました。

 昭和25年(1950年)の文化財保護法制定時、文化財として指定されていた建造物は270件余のうち住居は2件、文化財保護法制定後の1960年(昭和35年)頃においても僅か31件にすぎません。これは、日本の建築史学において、住居は研究対象として扱われてこなかったことを示しています。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする