補足・「日本家屋構造」-6・・・・縁側 考 : 「謂れ」について考える  

2012-10-31 18:36:44 | 「日本家屋構造」の紹介
試みに「縁側」を検索すると、最初に WIKIPEDIA の「解説」が出てきます。 
そこには、下記のように書かれています。
  縁側(えんがわ)は、日本の和風家屋に独特の構造で、
  家の建物の縁(へり)部分に張り出して設けられた板敷き状の通路である。
  庭等外部から直接屋内に上がる用途ももつ。
  欧風建築では、ベランダ、ポーチといったものが意匠的には似通っている。
  障子が、薄明かりの中でその向こうの人や風景を見えるような見えないような
  曖昧さの中に感じることが出来るのと同じように、内でもなければ外でもないという縁側に、
  空間を仕切る意識が希薄な日本家屋空間独特の曖昧さの構造を見る、という文化論も語られる。

「縁側」、それは「中間領域」である、などという論がありました。
これは、「外部空間」という《概念》が言われだされた結果、対語として「内部空間」という《概念》が語られるようになり、「縁側」はそのどちらに属するか不分明な領域である、というところから派生した《概念》と言えばよいでしょう。
   ただし、「外部空間」とは何を言うか、ちゃんとした定義は聞いたことがありません。
いろいろと語られた「外部空間」論(?)は、いわゆる「環境」:私の用語で言えば SURROUNDINGS :について語られるようになる契機になったことは確かですが、残念ながら、常に「結果についての論」でしかなかった、と私は考えています。
   たとえば、清水寺の参詣道が微妙に曲がりくねるのは、
   あたりの風景が「みえがくれ」することを意図している、
   などという「解釈」がそれです。
   このことについては、かなり前に、下記で書いてます。
      道・・・どのように生まれるのか
つまり、目の前に存在する(人為によって生まれた)モノを、「見かけの形についてのみ語る論」に終始し、それがなぜ「そういう形になっているのか」、すなわち「形の謂れ」を問う視点が捨て去られてしまうおそれがあるからです。「人為」の「中味」についての考察が抜けてしまうのです。
「空間を仕切る意識が希薄な日本家屋空間独特の曖昧さ・・・」という冒頭に転載した WIKIPEDIA の「解説・文化論」も、その類の「代表格」と言ってよく、昔から(あるいは昔の)日本の家屋には、縁側が付きもので、空間の仕切りがなかった、かの如き理解が為されかねません。おそらく、寝殿造あるいは桂離宮などが「真の日本家屋だ」などという理解が念頭にあるのではないか、と思います。
   和風の、という言い方には、片方に、洋風の、という語が隠れていますが、洋風という言い方は
   いわゆる「近代化」以後の話と言ってよいでしょう。
しかし、日本の家屋に、古より縁側があったわけではありません。
よくCMなどで見かける茅葺農家の陽のあたる縁側で、作業をしたり茶飲み話にふける光景。こういうのを見ると、農家には縁側があるものだ、あるいは、必ずあった、と思ってしまっても不思議ではありません。
しかし、農家:農業を営む人びとの住まいに、昔から縁側が付きものであったわけではないのです。

当初の農家は、きわめて閉鎖的、極端に言えば、開口は出入口しかなかったのです。
現存最古と言われている農家は、室町時代の建設と考えられている兵庫県の古井家箱木家です(古井家は当初の位置に保存、箱木家は直ぐ近くの地への移築保存です)。
東日本では、茨城県の江戸時代中期建設の椎名家が現存最古とされ、現地で保存されています。
   残念ながら、日本には、室町時代以前の住宅の遺構事例がありません。
   日本の建築史学で、住まいの歴史に関心がもたれるようになったのは、
   ほんの近年だからです(第二次大戦敗戦後と言って言い過ぎではないでしょう)。
   もしももっと以前から歴史学が住まい関心があったのならば、室町以前の事例も保存されたはずです。
   西欧の木造建築では、中世の事例がかなり遺されているようです。
これらの最古とされる事例は、復元考察の結果、建設当初はきわめて閉鎖的であり、縁側が設けられるのは、かなり後になってからのことが分っています。
このことを、架構の視点で触れたのが、これもだいぶ前の下記の記事です。
   「日本の建築技術の展開-24・・・・住まいの架構-その1」

しかし、閉鎖的であるのは、農家だけに限りません。
一般に、住まいは、「閉鎖的」であたりまえなのです。
これは、洋の東西を問わない、そして地域に拠らない、「住まいの原理」と言ってよいでしょう。
しかし、日本の貴族の住まい:いわゆる寝殿造などは全面開放ではないか、という疑問が生まれるかもしれません。
この点についても何度も触れたように思いますが、この「疑問」は、住まいをどのように理解するかに係っています。
いつの頃からか、建物を「物:モノ」として理解することが「常識」になってしまいました。したがって、「住まいをつくる」ことは、「住まいというモノ」をつくることであると「理解」し、そういう「理解」があたりまえだ、というようになってしまったのです。それゆえ「外部空間論」などという「論」が現れたのです。
   「モノ」づくりに邁進する現代の建築家の思考もこの「理解」が根にあるはずです。
   多分、彼らには「モノ」しか見えないのです。
しかし、ひるがえって考えて見ます。
自ら「住まい」をつくるとき、いったいどんな「モノ」をつくるでしょうか?何を考えて「モノ」をつくるでしょうか?
こういう問をたてても、ことによると、あんな風の「モノ」にしたい、和風がいい、イタリア風がいい・・・、などと考えるかもしれませんから、過酷な状態の場合を考えてみることにします。
たとえば、ホームレスになった場合、山中ではぐれてしまった場合(はぐれる、というのは、自分の現在位置が比定できない状態、人は常に、自らの現在位置を比定しながら生きている)、あるいは戦火に焼かれたとき・・・。要は、「原始的」状況に置かれたとき。
そのとき人は、先ず、何を考えるか。たとえば、いかにして一夜を過ごそうとするか。
眠くなったから、まわりを気にせず倒れて寝込む、などということは決してないはずです(酔っ払ったとき以外は・・・)。夜を過ごせると「思える」居場所を、先ず探すでしょう。
あるいは、たとえば、昨年の震災のとき、だだっ広い体育館に避難を余儀なくされた方がたが、自分の居場所をどのように確保しようとしたか、を思い出してもらってもよいでしょう。
そのような場合、人は、自らの一時的な居場所を、周辺から隔離することにより確保しようとするに違いありません。
避難所になった体育館では、居場所を段ボールなどで囲っていました。ホームレスの方がたが行なうのに似ています。その方がたは、天井まで囲います。これが住まいの原型である、と私は考えています。
つまり、住まいは、先ずもって、SURROUNDINGS の中に自らの居場所となり得る所を確保することである、と考えてよいのではないでしょうか。すなわち住まいの「空間」
したがって、当初は、SURROUNDINGS の中で閉鎖的になるのです。そうすることで「安心」することができるからです。
寝殿造の場合、実は、SURROUNDINGS の中で、他と区画された壮大・広大な「囲まれた土地」にいわゆる「寝殿造の建物」が在った。貴族にとっての「住まい」は、その区画され囲まれた土地の中すべてであったのです。
   このことは、以下で触れています。  
   「分解すれば、ものごとが分るのか・・・・中国西域の住居から
   この西域の住居を観て、このような私の考えは「確信」に変りました。
この記事で触れているように、農家縁側が現れるのは、農業を営む方がたが「屋敷」を構えることができるようになってはじめて、寝殿造をつくった貴族と同様の「心境」になり得たと考えてよいのです。
そうなるまでの時間は測り知れないものがあったと思われます。
   この点についても、くどいほど何度も書いてきました。
   2010年10月1日の「建物をつくるとは、どういうことか-1」からの16回のシリーズは、いわば、その「まとめ」です。

では、縁側は、新たに「付加」された部分だったのでしょうか。
否です。先の「日本の建築技術の展開-24」で触れた「住まいの架構」がそれを可能にしたのです。
   「付加する」ことで縁側をつくるようになるのは、おそらく近世になってからのことだと思います。

下に、以前に載せた古井家の架構模型と間取りの変遷図を再掲します(2010年2月13日記事)。

     
     
       「古井家」の建設時からの間取りの変遷。       
       図中の青の●印は板戸、○は紙張り障子、□は襖です。
古井家は、古代の架構法、上屋の四周に下屋をまわす架構法を採っています。
   寝殿造寺院では、上屋・下屋ではなく身舎(もや)・ or (ひさし)と言いますが、基本は同じです。
   寝殿造では、下屋(庇・廂)を何重にも設ける例があり、その場合、孫庇などと呼んでいます。
   このあたりについては、下記をご覧ください。
   「日本の建築技術の展開-2
   「日本の建築技術の展開-2の補足
この記事でも書きましたが、下屋庇・廂)は、本来、上屋だけでは不足する面積:空間容積を拡大するために採られてきた方法ですが、おそらく、永年のうちに、下屋(庇・廂)は架構を安定させるのに有効であることに気付いたのではないでしょうか。いわば控柱の役を果たしてくれるからです。これは、西欧でも同様で、(木造の)教会建築は、その代表的な例です。

古井家の場合、梁行では、中間に柱が1本立っています。原初的な家屋では、両脇の2本の柱:上屋柱が梁を支えていて、中間には柱はないのが普通です。
柱を1本立てることで面積:空間容積を増やすことはできたわけですが、それでいてなお下屋が付けられ、しかも、下屋の幅が僅か3尺程度であることからみて、これは架構の安定のためと考えてよいのではないでしょうか。 
ただ、下屋を設けると、当初平面図で明らかなように、おもてなんどちゃのまには、壁際に上屋の柱が林立します。どまにもあります。
これらの柱が「なければいいのに」と思った場面がたびたびあったに違いありません。
住み手が数代経過し、江戸の時代に入ると、邪魔な柱を取除く工夫が施されます。
   その工夫:方法については下記をご覧ください。
   「日本の建築技術の展開-25
図の②で、おもてどま上屋柱がなくなっていることが分ります。
当初のおもては、ざしきおもてに建具で分けられています。
   このことは、住まいは、諸室の足し算でつくられるのではないこと、
   住まいづくりは、先ず一つの空間を確保することから始まる、ということ、
   その一つの空間を分割して諸室が生まれるのだ、という「真理」を語っています。
   当然、最初の空間の大きさ次第で、分割して生まれる諸室は異なってきます。
この改造にあたって、ざしきおもての南側に、濡れ縁が設けられていることに注目してください。
ざしきおもての南側の開口は、狭く、建具は板戸です。
しかし、建設当初に比べると、ここから外へ出てもいい、あるいは、ここから中が見えてもいい、という「意志」があるように思えます。
おそらく、この時代には、当初の建屋の中にだけ「我が領域を確保する」という意識が薄れていたのではないでしょうか。建屋周辺も、我が家の「うち」と認めることができたのです。
   「うち」と「そと」という語の意味は、きわめて「深遠」です。
   いかなるとき、「うち」と言うでしょうか。たとえば「うちの会社」の「うち」とは何か。
   ある国語学者は、「うち」とは、第一人称で語れる範囲・領域のこと、と解説しています。
   簡単に言うと、第一人称で語れる人ならば、住まいの奥深く呼び入れる、
   住まいの中で共に居られるのは、第一人称で語り合うことのできる人だけなのです。
   第二人称の方は、どま、玄関まで、第三人称で呼ばれる方がたは、玄関前まで、ときには門前払い。
しかし、つくられたのは濡れ縁縁側ではありません。
さらに時が過ぎると、濡れ縁ざしきの前だけになり、おもての南側にえんが現われます。
そして、このえんは、下屋の部分に相当します。
狭い下屋の部分に新たな「意味」を見つけた、と言えるかもしれません。

このえんは、濡れ縁とは違って、夜になると、雨戸を閉めることで、それ以前の様相、つまり、かつての囲いの中に戻ります。
夜は、自らの領域の確保にとって、いちばん不安な時間。昼間は、周辺をも「うち」と見なすようになっても、夜はそうはゆかない。雨戸がそれを「解決」してくれたのです。
このように、縁側は、雨戸の発明とともに、元から在る空間の中に、設けられるようになった、と考えられます。
   雨戸については、日本における「建具」の歴史をあらためて考えなければなりません。
   それについては、別途、触れることにします。
四周すべてが開放されている寝殿造では、夜昼問わず一日中全面開放であったわけではないようです。要所、特に身舎上屋にあたる部分は、夜間、蔀戸で囲われたのです。朝夕のその開け立ては大変な作業だったでしょう。

寝殿造の流れを受け継いだ書院造では、広縁にその名残りが見られますが、この場所も農家と同じく下屋:廂の部分にあたります。
書院造の初期の姿と考えられる方丈の建屋を観ると分りますが、どれも四周に下屋:廂が回っており、その南面が広縁になっています。
ただ、この広縁は、外部に面して建具はありません。夜間、上屋:身舎の部分にのみ、板戸:舞良戸(まいらど)で閉じられます。
   この事例は、下記をご覧ください。
   「日本の建築技術の展開-17
   「建物づくりと寸法-1
書院造は、玄関:入口から奥に向って徐々に畏まってくるつくりになっていますが(最奥は上段)、これは、上下関係を強く意識する武家に好まれ、武家の住まいに、その方式が受け継がれます。
これは、武家の中の上層階級だけではなく、すべてに好まれたようです。
下は、普通の武家:侍の屋敷と旗本の屋敷、そして大名の江戸屋敷の平面図です。いずれも「日本建築史図集」(彰国社)からの転載です。



侍屋敷の南面にがまわっています。柱がありますから、屋根の下と考えてよいでしょう。広縁の系譜と言えるでしょう。
このは、夜間も開放されています。閉じられるのは、の内側です。
旗本の住まいの南と西面にもがまわっていますが、この場合は外周に雨戸が設けられています。
   この図では、東側にも縁がありますが、ここには雨戸はないようです。
   雨戸を設けることは、旗本であっても、容易なことではなかったのでしょう。
大名の屋敷では、すべてのに建具の表記がありますが、それがどういう様子であるのかは、この図では分りません。一番南側のは、戸袋があるので雨戸と分ります。

この3例については、断面図がないので縁側部分が架構の上でどのようになっているかは分りませんが、推測すると、下屋部分につくられているのではなく、いわば、縁側のために付加されているのではないか、と思われます。
縁側という場所が、一つの独立した要素、あるいは「形式・様式」となった、と考えてもよいのではないでしょうか。
それは、かつて、軒下の組物や、あるいは長押が、本来の役割を失って、ただ形式・様式として遺ったのと似ているのかもしれません。
   こう考えるのは、武家の住まいで、農家の縁先と同じような「光景」が展開したとは思えないからです。

これはまったくの私見ですが、
近世までは、架構と空間は緊密な関係のもとにあったのに対し、
近世も終盤に近づくと、そして明治になると更に、架構と関係なく空間をつくるように変ってきた、
つまり、先ずはじめに「形」(あるいは形式、様式)があり、架構はその「形」をつくるためにあるのだ、と考えるようになってきた、ように思えます。「技術」が、それを可能にするような段階に至っていたからかもしれません。
   「形式・様式」となった「空間」には、そこに「生身の人間がいなくなっている」のです。
   あるいは、人の在った空間が、「モノ」になってしまった、と言ってもよいでしょう。
これは、紹介中の「日本家屋構造」の構成が、架構全体を観ることからではなく、各部分の解説・説明から始める、という叙述になっていること、簡単に言えば、部分の足し算で語っていること、にも私はその気配を感じています。

一言で言えば、古代から近世まで、人びとにとって、架構=空間であった。しかもそこに、生身の人が居た。
しかし、技術が進展した結果、空間>架構、架構は空間に従う、という傾向・志向が出てきた、そして、その挙句の果てが、近・現代の建築の世界なのだ、と私は考えています。そこでは、空間から生身の人が消され、空間さえも単なる「モノ」と見なされる。

建物づくりは、先ず、架構=空間でなければウソだ、架構がいいかげんな空間はウソだということです。
なぜなら、空間>架構、架構は空間に従うと考えだしたとたん、「空間」が「モノ」と見なされだしたとたん、「形の謂れ」が無節操になってしまうからです。その空間の存在の根拠について考えることもせず、まったくの「思いつき」で済ましてしまうようになるからです。
   そこに人が居ればそうはならない。しかし、それを嫌うようになる。
   やりにくいからです。思うようにならないからです。
空間>架構、架構は空間に従うという「思考」があたりまえになってしまったとき、「モノづくり」に熱中する「理解不能」な建築家たちが横行するようになったのではないでしょうか。

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進行中の仕事

2012-10-27 17:30:15 | 建物づくり一般
今、現場が佳境に入っています。
現場は山梨県塩山の近く、かつて甲州と秩父を結んだ街道、雁坂(かりさか)峠の南側、「巨峰」の発祥の地と言われる牧丘。字のとおり、古代は牧だったらしい。[説明追加]
   秩父山地を囲んで、甲州、秩父そして信州・佐久には、よく似た養蚕農家があります。[説明追加]
私のところからだと、片道3時間半から4時間の場所。現場に居られるのがやはり3時間半から4時間。
現在、月に1~2度現場に行き、あとはメールや FAX あるいは電話での打合せで進んでいます。昨日、金曜日、行って来ました。

つくっているのは30年前に建った知的残障者居住施設の増築。
敷地はかなりの斜面。
30年前は、辛うじて平らな部分を整地して建てましたが、それでも南側に約2mの擁壁を設けました。
今回は、そのさらに南側の斜面に建てることに。
   どういうわけか、斜面に建てる仕事が多い・・・・。

施設の性格上、極力、一層:同一平面:でありたい。
しかし、かなりの急斜面(元は、数段の段差のあるぶどう園)。擁壁で盛土は先ずあり得ない。地山をいじらずに使いたい。
幸い地山は、地表から平均1.2m下が厚いシルト質の地盤(はるか昔の火山灰の蓄積でしょう)。表土は、かなり手が入っている。[説明追加]
そこで、既存の敷地とほぼ同高の面を、鉄骨の架台の上につくることに。
要は、鉄骨に支えられた人工地盤。人工地面は、鉄骨架台上にデッキプレートを敷いて、RCのスラブをつくる。
その上に建屋をつくる。
建屋は、いまどき見かけないコンクリートブロック積み。保温材を使わなくても、保温性がいい。
CBの壁の上に、ふたたび鉄骨の小屋を架ける。これは軽量鉄骨。
全体を軽くすることで杭工事は不要になった。
   CB造:補強コンクリートブロック造:が塀専用のごとくになっているのは
   かねがね もったいないと思ってきました。保温性もいい。多分空洞があるからでしょう。
     ただ、開口のつくりかたは要注意。
   今回も、建築のブロック工を探すのに苦労したようです。建築ブロックの経験者がいない!

現在、人工地盤が仕上り、その上にCB積が進行中。
そこまでの過程を、写真でざっと紹介します。ただ、地形:根伐段階は省略。

先ず、鉄骨架台の建て方。
この方式に至るまでに、半年以上かかりました。
最初は、懸崖造を鉄骨でできないか、と考えたのですが、ダメ。いわゆるラーメン構造になり、エライことになってしまった。
木造のようにはゆかないらしい。なぜ木造は平気なのだろう??
そこで至ったのが、この方杖方式。方杖を四方に広げ、梁を受ける方法。
梁の受け方、方杖の受け方は、木造の柱頭などの方法の(特に古代の)原理を参考にしました。
設計図はいずれ紹介します。
   材寸などは増田 一眞 氏に示唆をいただいて設計図を描き、
   その妥当性を構造計算で確認していただきました。
   


建て方中。
梁が未だ架かっていないところがある。建て方は小さなクレーンで行なっています。
写真の正面、狭い箇所はスパン2.1m、広いところは5.6m。
亜鉛メッキが工費の都合でできず、グラファイトペイント防錆に変更。
この写真は、グラファイトペイント塗装前の段階。
鉄骨の脚部はコンクリートでくるむ。

以下は、グラファイトペイント塗装の終わった鉄骨架台の状態。
2枚の写真の奥の方に、既存の擁壁が見える。
人工地盤面は、ほぼこの擁壁の高さになる。
地盤面と地山:現状地盤:との落差は最大で7m弱。
この「床下」は高さがほぼ2階分あるので、確認申請審査で、竣工後ここを使用してはならない、と釘をさされています!

写真の箇所では、奥行スパンは、3.15m・2.1m・3.15m、計8.4m。
2,100mm(1,050×2、700×3)を基準寸法にしています。
   3.15m=2.1m×1.5。
   5.6 m=2.1m/3×8。[説明追加]



鉄骨の柱は8.5吋:216.3mm径の鋼管(厚1/3吋≒8.2mm)。
方杖は不等辺山型鋼(125×75)2枚あわせ、梁は溝型鋼(200×90)の2枚あわせ。
いずれも9mm厚のプレートを挟んで高張力ボルト締(昔ならリベット)。[説明追加]
大型のトラックが入れないので、小ぶりの材を現場で集積する方法を採っています。
メッキを施したデッキプレートは、形枠の代り。構造要素とは考えていません。
要は、いわゆるジョイストスラブ(繁根太床版)の形枠にデッキプレートを使う、という方法。
   最近は、デッキプレートを構造要素とする方法が盛んなようです。
   
下の写真2枚は、少し離れて見た姿。
銀色に見えるのは、地盤の端部に設けたフェンス。亜鉛メッキの溶接金網製。
風雨に直接曝される箇所のみ、溶融亜鉛メッキが施されています。[説明追加]




床下にもぐるとこんな具合。
上下水、電気等の配管がぶら下がっている。


次の2枚はデッキプレート上の配筋中の写真。



鉄筋が立ち上がっている部分は、CB積みの基礎になるところ。
スラブを打った後で、あらためてCBの立ち上がり筋をセットし、コンクリートを打つ。

CB基礎の打設も終り、現在CB積が進行中。CBは、B種150mm厚。
この写真で写っているコンクリート部分は、建屋の床下になる。床仕上り面は、CB基礎の天端。

CBの中途に見える空隙は、壁が交差する箇所。壁のCB積がすべて終わると、この空隙にコンクリートが充填される。

年内には屋根まで仕上がる予定。
以後の経過は、またの機会に紹介します。
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この国を・・・・34:不足

2012-10-27 10:43:21 | この国を・・・
原発事故は、風化し始めているように思えます。
咽喉もと過ぎれば熱さをわすれ、人の噂も75日・・・、
月日の過ぎ行くのをひたすら待っている人たち、一部のいわゆる経済人と政治家。

今朝の東京 web で見つけたコラム。
そのままコピーし転載させていただきます。
段落などを変え、そして、最後の一行、太字にさせていただきました。

筆洗 2012年10月27日

後藤貴子さん(50)が小学生になって初めて書いた詩は、たった三行だった。
  おかあさんはでぶです
  すこしやさしいです
  ときどきはらまちにつれていってくれます

後藤さんの母、門馬由利恵さん(75)は福島県の原町で育ち、隣町の小高で家庭を築いた。
患っていた認知症が一気に悪化したのは、原発事故で避難を強いられてからだ。
南相馬市小高区への一時帰宅が許された時、持ち帰ることが許されたのは、大きなごみ袋一枚分だけ。
母が持ち帰った物を見て、後藤さんは驚き、切なくなった。財布も服もない。入っていたのは、幼い娘が詩を綴(つづ)ったノートや、ちびた鉛筆…。
後藤さんは、四十年ぶりに母への思いを詩にした。
  渡されたゴミ袋一枚に
  母の優先順位はくるってる
  貴重品も大切にしてた着物も
  何も入れずに入らずに
  思い出さがすようなものばかり
  もう原町には行けないんだねえ
  何で認知症になったのかねえ
  なんで原発爆発したのかねえ
  母のひとりごと

原子力規制委が出した事故による放射能拡散予測を見て、慄然(りつぜん)とした人も多いだろう。
原発三十キロ圏内に住む人は四百六十万人以上。
政府と電力会社は、本当にその生活を守りきれるのか。
福島の事故では今も十五万人以上が避難生活を送る。
思い出と切り離されて生きるつらさ、むなしさ。
怖いのは電力不足より想像力の不足だ

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閑話・・・・鐘楼 と 釣鐘 の 関係について : 一枚の写真から

2012-10-21 12:22:28 | 構造の考え方
本棚から「岩波写真文庫 12 鎌倉」という写真集が出てきました。
写真集と言っても、B5判60頁ほどの小冊子に近い書物です。下の写真はその表紙。



「岩波写真文庫」は、1950年代から60年代にかけて、多分300冊ほどは刊行されたと思います。全ページが写真、中には今やきわめて貴重なものもあります。
   註 調べたところ、1958年まで、286冊刊行されたとのことです。
      最終巻は、「風土と生活形態」、どこかで探してみたい![註記追加]
因みに、一冊の価格は100円!。私は30年ほど前、古本で500円で買いました(そのとき、「日本建築辞彙」の昭和4年版も同じく500円だった!?)。

表紙はどれもこういうスタイル。どこかで見た方も居られるでしょう。  

その中にあったのが次の写真です。 



鎌倉の東南、由比ガ浜・材木座を挟んで長谷寺、鎌倉大仏のいわば対岸に位置する光明寺の鐘楼だそうです。
この写真集は1950年8月が初版ですから、写真はそれ以前、敗戦直後の撮影と思われます。

釣られているのは梵鐘ではなく、大きな石、と言うよりも岩が 数十個・・・。 
解説に次のようにあります。
   ・・・鐘は弾丸に化けたのか、石が下がっている。そうでないと建物の釣合いがとれぬらしいのだ・・・。

だいぶ前に、奈良時代につくられた東大寺大仏殿は、平安時代末に焼き討ちされるまで何回も地震に遭っていますが、軒は波打っても、壊れることなく建っていたようだ、と下記で書きました。
   「日本の建物づくりを支えてきた技術-12・・・・古代の巨大建築と地震
その中で、鐘楼の釣鐘が「地震で落ちた」という記述が何度か史書に出ていることを紹介しています。他の建物に被害はなく、ただ、鐘は、頻繁に落ちたようです。

釣鐘の代りに巨石群を釣ってある光明寺の鐘楼の写真を見て、
そして「そうでないと建物の釣合いがとれぬらしいのだ」という一文を読んで、
なぜ、東大寺では、大仏殿などの建物は壊れずに釣鐘は落ちたのか、
私は深く考えていなかったことに、あらためて、気付かされました。
   多分、梵鐘が没収されたのは昭和18年:1943年頃でしょう。
   没収に対する抗議の意志表示だ、という見方もできますが、それなら、石一個で十分。その方が効果的。
   「もっこ」にいくつも丁寧に詰めてあることから判断して、解説の言う通りだと思われます。[註記追加]   

きわめて重い梵鐘の釣られている鐘楼は、普通、四本の柱で屋根を支え、その梁から鐘を釣っています。
当然、現代の木造ではありませんから、鐘楼は礎石上に置かれているだけです。
現在見かける鐘楼は、ほとんど、四本の柱のそれぞれが独立の礎石に立っています。

しかし、現在東大寺にある鐘楼(「しゅ ろう」と読むそうです)は、鎌倉以降の再建で、下の写真のような姿をしています。
柱の下に、土台のような材があります。しかしこれは、いわゆる土台ではなく、柱を貫いている地貫(ぢ ぬき)。地貫は四角い枠を形成し、その隅部の上に、四本の柱が、いわば跨って載る形になっています。

   

   なお、現存の東大寺鐘楼の詳細については、下記をご覧ください。地貫の工法についても触れています。
      「東大寺鐘楼
      「東大寺鐘楼-2

先の光明寺の鐘楼の写真では、脚部が大きく写っていませんが、胴貫を使っていること、そして、辛うじて見える右側の脚部の様子から、やはり地貫があるように見えます。
   光明寺をご存知の方、実際がどのようになっているか、ご教示いただけると幸いです。[註記追加]

1) 一般に、地震があると、地面の上に在る物体は、いかなるものも、物体が元あった所:位置を維持しようとします。
   いわゆる「慣性の法則」です。
   それゆえ、地震で地面が右へ動いたからといって、物体は元の位置に留まろうとしますから、
   物体は地面と同時に右へ動くとは限りません。ダルマ落しがその一例です。
2) また、地面が上に動いたからといって、物体が地面と一緒に上に動くわけでもありません。
   その場合は、物体は元の位置を保とうとしていますから、地面の動きにより、強い衝撃を受け、跳び上がるでしょう。  
   逆に地震で地面が下へ下がると、物体は一旦地面から離れ宙に浮いた形をとり、次いで落下して、
   そのとき強い衝撃を受けるでしょう。

しかし、1)の場合、まったく地面とともに動かない、と言うわけではありません。
物体と地面がどのような関係にあるかによって、挙動は異なるはずです。
たとえば、物体が地面に強く拘束されているならば、物体は地面の動きのままに動くでしょう(現在建築基準法で奨められている木造建築はその一例です)。
物体と地面との間に生じる「摩擦」も拘束の一つです。
また、地面に埋められた礎石は、埋め方によっては、摩擦どころか、ほぼ、地面と一体になって動くでしょう。もちろん、掘立て柱も同様です。

物体が軽いか、地面が平滑だったならば、ただ物体が置かれているだけであれば、物体は、いわば地面の上を滑るような、逆に見れば、地面の方が勝手に動いたような状景を見せるはずです。建物の場合でも、相対的に軽ければ、そういう現象が起きると思われます。
   阪神・淡路大地震のとき、淡路島で布石に土台を据えた家屋が横滑りした例をいくつも見ました。下記参照。
実際の地震では、2)のような事象は滅多に起きず、1)と2)が同時に起きます。そのとき、地面に置かれただけの物体は、あたかも跳んだように別の場所へ移動することも起きるでしょう。地震が与えた衝撃で跳んでしまうのです。
   この実例を、阪神・淡路大地震の際、西宮駅の近くで見ました。下記参照。
   「地震への対し方-1・・・・『震災報告書』は事実を伝えたか
   「地震への対し方-2・・・・震災現場で見たこと、考えたこと
鐘楼の建物は地面に置かれているだけですから、地震があると、その状態を維持して(維持し続けようとして)、地面の方がいわば勝手に動く筈です。
とは言っても、まったく地面の揺れと無関係というわけにはゆきません。
礎石は地面に据えられています。したがって、地震に際し、地面なりに動くでしょう。
柱:建物は礎石の上に置かれているだけですから、地震の際、礎石の動き=地面の動きとまったく同じには動きません。地面が勝手に動きます。
しかし礎石と柱の間の摩擦、あるいは地面の縦揺れには無関係ではあり得ませんから、地面の揺れとまったく同じではないにしても、地面に追随して一定程度は揺れ:変動を生じるはずです。
掘立て柱の時代に代って礎石の上に建てるようになった古来の日本の建物では、地震のときには、常にこのような挙動を生じたはずです。
   ただ、その建物の挙動の様態を算定する一定則はありません。置かれている様態によって異なるからです。
   つまり、礎石の様態、置かれ方の様態、重さの分布・・などで、事例ごとにまったく異なります。
   一定則を設定するには、実際の様態を「理想形」に「変形」する必要が生じます。
   しかし、何をもって「理想形」とするか、これは難題です。あまりにも様態はさまざまだからです。
   そこで、この様態の実体に「まともにつきあう」ことを止めてしまった、
   これが、日本で、古来の木造建築の「解析」が行なわれてこなかった理由であろう、と私は考えています。
   一方で、大工さんたち工人は、その「解析」を、身をもって、つまり「経験・体験」で行なってきたのです。
   これを、学者は、「非科学的」だ、と言って批難してきました。これが日本の学者の世界です。
   蛇足:私は、そういう学者の世界こそ non-scientific と言ってきました。


では、鐘楼に釣られている梵鐘と鐘楼とは、いかなる関係にあるのでしょうか。

釣鐘は鐘楼に釣られています。いわば宙に浮いていますから、地震があっても地面の動きとはまったく無関係、元の位置を保ち続けようとするでしょう。唯一、鐘楼にロープで繫がっている。
鐘楼の重さは巨大です。もしかすると、鐘楼そのものと同じか、それ以上の重さがあるでしょう。
この釣鐘の重量は、釣っているロープを経て梁などにかかり、最終的には四本の脚を経て地面に伝わります。
もしも鐘楼の柱が掘立てならば、軟弱な地面ではもぐってしまうかもしれません。そうなることを避けるには、地形(地業)を確実に行い、底面の広い石を用いた礎石建てにする必要が生じるでしょう。

おそらく、古代の東大寺の鐘楼も、そういう大きな礎石を据えて四本の柱を建てていたと思われます。
そしてまた、古代の鐘楼の小屋の架構は、他の東大寺の建物と同じような架構法だったのではないかと思います。
   古代の東大寺大仏殿などの架構法は下記等をご覧ください。
   「日本の建築技術の展開-8

このような礎石上の四本の柱で支えられた鐘楼は、建物自体と釣鐘の重さによって、おそらく柱は礎石に喰いこむような様態を呈していたと思われます。
そういう状態の鐘楼が地震に遭ったらどういう挙動を生じるでしょうか。
鐘楼は、地面に喰いついてるような状態ですから、地面の動きに追随して動く、動かざるを得ない、と思われます。

一方、釣られている釣鐘の方は、追随はしません。極力、元の位置を保とうとするはずです。
この両者の挙動の違いはきわめて大きなものであった、と思われます。
それゆえ、傍からは、大げさに言えば、釣鐘は動かないで、まわりの鐘楼が激しく動き、それに引きずられて釣鐘の頂部:ロープの取付け部が揺さぶられる光景を見たのではないでしょうか。そして、その挙動の差が過大になったとき、釣っていたロープが切れ、あるいはロープを取付けてあった梁が折れ、鐘は落下した、そのような状況になったのではないか、と思われます。

では、大仏殿はなぜ壊れなかったのか。
おそらくそれは、建物が巨大で重かったからです。唐招提寺の拡大コピーのような架構でも、巨大ゆえに壊れなかった・・・。
たしかに大仏殿の総重量は巨大ですが、独立の礎石に載っている柱は、大仏殿の場合、裳階まで含めると総数92本あります。それゆえ、1本の柱が支える重さは、鐘楼のそれに比べ、圧倒的に小さい(正確に計算したわけではありません。いつか試みてみようと思いますが、この判断は復元図を見てのです)。
ということは、礎石:地面との摩擦は少ない。つまり、地面に拘束される割合が小さい。ゆえに、地面が揺れても追随しない。建物の重量が巨大ゆえ、建物は現在位置を容易に維持しようとするのです(慣性の大きさは、重さに比例します)。
結果として、同じ架構法の大仏殿は壊れずに、鐘楼は壊れてしまい、釣鐘が落ちてしまった・・・。
というのが私の解釈です。
   江戸時代に、西本願寺など巨大な建物がつくられていますが、それらもまた、地震で被害を受けていません。
   もちろん、壁は少なく、地面に置かれているだけで、耐震診断をすると補強が求められる建物群です。
   なぜ被害を受けないのか。
   私は、架構法もさることながら、その総重量に理由があると思っています。特に、瓦の重量。
   重い瓦は地震に弱い、というのは人為的神話の類、と私は思っています。
   これについても、先の「地震への対し方-2・・・・震災現場で見たこと、考えたこと」で触れたと思います

では、建立以来たびたび見てきた釣鐘の落下から、工人たちは何を学んだか。
それが、再建東大寺の鐘楼に使われた地貫だったのではないでしょうか。より正確に言えば、貫で組んだ構築物は堅固な立体:箱になること、すなわち貫工法そのものの原理を学んだのです。

つまり、鐘楼と釣鐘の重量を、四本の柱の柱脚部にのみ集中させず、地貫のつくる方形の枠全体に分散させたのです。そうすれば、地面と建物との間の摩擦が格段に小さくなり、地面の動きへの追随も小さくなるからです。しかも、鐘楼全体が堅固な立体:箱になっている。
そうであれば、鐘楼は、地震に遭っても、形も位置も維持し、梵鐘もそのまま。
もしかしたら、鐘楼の下で、それこそ、地面が勝手に右往左往、上下するような光景を呈したかもしれません。
そのとき、この光景に大きく「貢献した」のが、梵鐘の重さだった、と考えられます。慣性の力を大きくしているからです。
つまり、工人は、梵鐘の重さを、単なる「負荷」:余計な重さ:とは考えなかった、のではないでしょうか。
   現在の構造の考え方では、おそらく「負荷」と考えると思います。

岩波写真文庫の説明は、光明寺の鐘楼で、没収された梵鐘の代りに岩石群を釣っているのを、「そうでないと建物の釣合いがとれぬらしいのだ」と書いています。
このような、鐘を没収されてもそのままにせず石を釣るという判断をなさった方は、大仏様を引継いだ鐘楼のつくりかたの原理を知っていたからなのではないか、と私には思えます。

以上は、一枚の写真を見ての、まったくの私のによる事象の解釈です。
どなたか、別のより妥当な解釈があれば、ご教示のほどお願いいたします。 

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「日本家屋構造」の紹介-14・・・・縁側、その各部の構造

2012-10-13 15:53:10 | 「日本家屋構造」の紹介

今回からは、家屋:建物の各部の詳細の解説になります。 

はじめは縁側各部の納め方。全部で四項あり、途中で切るところがありません。
それゆえ、今回は一度に全項紹介しますので長くなります。

縁側は、いまや珍しい存在になってきました。
しかし、つい先日まで、日本の住宅には、縁側があるのはあたりまえでした。
  なお、「日本建築辞彙」の縁側の解説は、以下のようになっています。
  縁側  建物の外方の板敷なる所をいう(英 Veranda. 仏 Ve´randa. 独 Veranda ) 。
  また、縁側の謂れなどについては、別途、補足で説明することにします。 

第一 縁側仕口
第四十四図の図のは、縁側の各部の構造を示した図。
縁側は、(縁柱、縁側柱)、(かまち 縁框 とも呼ぶ)、無目(むめ)、一筋鴨居(ひとすじ かもい)、(吊束、釣束)、そして縁板から成る。
   註 この解説は、未だガラスが使われていない頃の縁側について述べています。
      前記の「日本建築辞彙」の解説も同様です。
      この頃の縁側は、昼間は外気に曝されていました(風雨のとき以外)。
      西欧語の Verannda は、そのような場所を言います。
      明治末、大正に入ると、柱の通りに新たにガラス戸が設けられるようになります。 
      その際は、無目に溝が彫られて鴨居になります(無目とは、目がない、つまり溝がない、という意です)。
      この場合は、 Sun Lounge(英), Sun Parlor あるいは Sun room(米)が相応しいかもしれません。

      また、柱の上部の桁に丸太を使っていますが、角材も可能です。
      丸太を使うのは、武家住宅以来の一種の「流行・様式」と考えてよいと思います。
の上を雨戸を滑らせるため、外側に7~8分の縁:樋端(ひばた)を残しを彫る。の幅は8分~1寸、深さは2分とし、の底にはの板を埋め込む。これを埋樫(うめ がし)という。
   註 溝の幅は、雨戸の見込:厚さによります。
      現在は見込1寸:30mm程度、戸の下部を一部削りとり溝に入る部分を7分:21mmとするのが普通かと思います。  
      往時は、戸をすべて溝に入れる方法が普通で、これをドブと呼んだりしています。
      溝幅に往時と違いがあるのは、加工道具の違いによるものと考えられます。
      埋樫は敷居の磨耗を防ぐためのもの。
      埋樫のいわば代用品がいわゆる敷居滑りです。

縁板は、榑縁(くれ えん)とし、幅3~4寸×厚7~8分、傍:接する端部は合决り(あい じゃくり)に加工し、合釘(あい くぎ)、落釘(おとし くぎ)、あるいは手違鎹(てちがい かすがい、手違と縮めて呼ぶことがある)、目鎹(め かすがい)などで根太上に張る。
   註 榑縁  縁側の長手に沿って板を張った縁側を言う。
           寺社や古代~中世の建物では、短手に厚板を張り、これを切目縁(きりめ えん)と呼んでいます。
      合决り 二材の端部を互いに逆向きのL型に加工し、合せる継ぎ方。
      合釘  両端を尖らしてある釘。
      落釘  下側になった合决り部分に打つ釘。普通の釘。
      手違鎹 両端の爪の部分の向きが、直角になっている鎹。
      目鎹  図のように、片側が爪、他方が平になって釘孔がある鎹。
           爪を板に打ち込み、平部分に釘を打って根太に留める。
      現在の縁甲板は、一端部を凸型に、他端を凹型に加工しているのが普通。
      突起部分を(さね)と呼ぶ。実継(さね つぎ)。あるいは本実継(ほんざねつぎ)。
      この場合は、凹部に釘を打ち(落釘)、次の材の凸部を凹部に嵌めて張ってゆく。
      なお、合决りで、手違鎹目違鎹で留めた往時の縁は、材の乾燥にともない、金物部分がきしむようになる。
      鴬張りという呼称は、そこを歩行する際に生じる音からつくられた語。
無目は幅は柱の幅の9/10、厚さを1寸8分~2寸程度とし、一筋鴨居は、幅2寸2分、高さ2寸程度、溝幅は8分、深さは6分として、無目一筋鴨居との仕口印籠嵌(いんろう ばめ)とする。
   註 印籠嵌 印籠継ともいう。前註の実継の別称。
図の乙は釣束(つりつか)。の下部、無目との仕口は篠差蟻(しの さし あり)とする。図の篠差蟻のために彫るの形を示す。
篠差蟻とは、図のように、蟻型のすべてが入るを彫り、その両端に細い溝を切り、 を嵌めた後、その溝から、(しの):薄い板状の竹を蟻型との隙間に差し込む方法をいう。の役割をして、抜けなくなる。
   註 堅木でもよい。 
図のは、縁桁釣束を取付けるときに用いる仕口で、地獄楔(ぢごく くさび)という。手摺子(てすり こ)などの取付けにも適す仕口である。
   註 これは、現在は、一般に地獄枘(ぢごく ほぞ)と呼んでいると思います。
地獄楔とは、普通の平枘の先端の左右に図のように鋸目(のこ め)を入れ、これに小さなを嵌め、枘孔蟻型に刻み、そこにを打ち込む。そうすることで、の先がの中で蟻型に広がり、が抜けなくなる。
このを使うにあたっては、枘孔の形との開きの間係に留意する必要がある。
   註 一旦取付けた地獄楔は、取外すことはできません(壊すしかありません)。
      この方法は、増築などで、繋ぎ梁を既存の桁・梁に取付ける場合などに用いられます。
      また、切石の礎石独立柱を立てる際、礎石末広がりの枘穴を穿ち、柱の根枘地獄枘にすると、
      金物なしで、礎石に堅く結びつけることができます。
    
次は縁桁仕口
以下に紹介されている縁桁仕口は、の交差する隅の部分。
普通、この部分は合欠きで組まれます。
しかし、交差した材の上には、隅木が載ります。それゆえ、の高さ寸法が小さな場合には、合欠きの上に彫られる隅木のための欠き取りによって材が薄くなり、折れてしまう可能性が大きくなります。
そのような場合の工夫として捻組という手法が発案されています。この点については、「日本家屋構造」では小屋組の最初に触れています。下記を参照ください。
  日本家屋構造の紹介-10・・・・小屋組:屋根をかたちづくる(その1)
捻組も造れない、造っても折れてしまう場合の対策法が今回の仕口です。
これは、言ってみれば、実際は材が交差していないが、交差しているように見せかける方策です。

以下に原文を紹介します。
ただ、この図解は、私にはよく判らないところがありますので、とにかく先ずそのまま現代語に直します。

第二 縁桁仕口
第四十五図は、縁桁の丸木(丸太)を組み合わせた姿図で、これを掛鼻(かけ はな)という。
は、図のの右側のを表わしたもので、下木(女木)になる。この材の木口(こ ぐち)に平枘を造りだし、さらに図のように長手にを彫り、シャチ栓の道を刻む(その結果、木口に2本の突起が残る)。
図のは、その鼻木(はな き)となる材で、掛鼻(かけ はな)と呼ぶ(注 になる木、すなわち鼻木)。
この材には、(材の右側に向って)を造りだす。この竿(さお)と呼び、根元は重枘(じゅう ほぞ)のごとく造り、図のの材(これは、図のの左側の材)の直径ほどの距離をあけたところからその幅を広め、シャチ栓の道を刻む。
このように造りだした竿を横にしての材の孔の内を通し、の材に差し合せ、シャチ栓を仮打ちし、の材を引きつけ(注 を打つとに材が引き寄せられる)丸身に馴染ませ(注 材の丸身に馴染ませる意、と思われる)シャチ栓を本打ちする。
この場合、柱枘の上半分以上はわなぎ枘となるゆえ、上端から割楔で固める必要がある(注 図ので、交差部の上に見える2個の方形は、わなぎ枘の上端と思われる)。
   註 わなぎ枘については下記参照。
      「日本家屋構造の紹介-11

      この「解説」と「図」によると、
      の材すなわち鼻木の材に通すためには、を右に90度回さないとなりません。
      当然、を差し合せるの材も同様にします。
      そのままでは、竿の部分は、右側(図では外側)にあります。
      さらに、そのままではの枘が竿に当たるはずです。
      つまり、の上に載せるために、丙+乙の材を、元に戻す:左に90度回転させることになる。
      ということは、竿の孔の中で回転するということ。
      該当部分は竿の細い部分とは言え、それは可能か?
      これが私の第一に判らない点。

      次に、仮に、このような手順であるとすると、まず初めにを組んで交差させ、次いでに載せる段取りになる。
      この段取りでは、の部分が、作業中に折損する可能性が高い。
      第一、それでは掛鼻にする意味がないのではないか?
      私の理解してきた掛鼻は、いわば最後の工程で化粧のために後付けるもの。それゆえ判らない。
      これが私に第二に判らない点です。
      ことによると、以上の私の工程の「理解」は、誤りかもしれません。
      どなたか、このような刻み、あるいは丸太桁で掛鼻を刻んだ方が居られましたら、
     是非ご教示いただきたいと思います


      なお、掛鼻手法は、鎌倉時代以降の寺院で、木鼻(き ばな)の取付けで発達したようです。

次は、縁框一筋鴨居継手仕口について

第三 および一筋鴨居継手
第四十六図のは、縁框の隅の仕口、隅留二枚枘差(すみとめ にまい ほぞさし)の図解。
図の襟輪欠(えりわ かき)は、取付く柱幅に同じ。へは太枘(だぼ)を打ち、さらに手違鎹などをあわせ用いて取付ける。
   註 図の欠き込みを襟輪と呼ぶのかどうか?
図のは、縁框継手の一例。箱目違(はこ めちがい:L型やコの字型の目違い)を設け
片方の材にを造りだし、部分を柱に大釘で打ち付け、そこへ他の材(図の左側の材)を嵌め合わせる(継目は、柱の芯位置)。
さらに丁寧なつくりは、図ののような箱目違い付竿シャチ継とする。
なお、図のは、一筋鴨居継手の例である。
框、一筋鴨居の深さ、幅などは、第一 縁側仕口で触れたとおり。
   註 ここに紹介・解説されている方法は、現在ではほとんど見かけないきわめて丁寧な仕事です。

縁側の解説の最後は切目縁とその板の張り方について。
切目縁も、今や都会では、絶滅危惧種になっています。

第四十七図のは、切目縁を示す図。雨戸の外側の濡縁に使われることが多い。
の厚さは8分以上1寸以下ぐらいとし、板の角には、図のように敷居際から2~3寸ほどのところまでは大面(だい めん、おお めん)を取る。
先で板を受ける(縁):(縁)は、その外面(そと づら)が、板の木口から板の厚さの1.5~2倍くらい内側になるように設け、の建物側への取付けのために、板掛けに打ち付ける。
框:桁を受けるは、図ののように頭部に蟻型を刻み、框:桁を落とし込む。
板の長さの中央に、幅1寸~1寸4分角で厚さ2.5~3分ほどの堅木製の太枘(だぼ、だほぞ)を立て(註 参照)、合釘・落釘・手違鎹などで(框・桁、板掛けに取付けて)張る。
   註 この太枘は、ちぎりのことか?
      どなたかご存知の方、ご教示ください。
      ちぎり
      を矧ぐとき、相互を確実に接合させるために埋め込むバチ型などをした材をちぎりという。
      なお、板相互の不陸:凹凸が生じないように、板の裏面に吸付桟(すいつき ざん)を設ける丁寧仕事もある。
      木製のまな板の脚はこの方法で取付けてある。
図の丙、丁、戌、巳は、各種の板の張り方を示した図。
丙:敷目板張(しき めいた ばり) 継目部分に目板を設ける張り方。
丁:入実張(いれ さね ばり) 継目に雇い実板(さね いた)を入れる張り方。 雇実(やとい さね)とも呼ぶ。
戌:本実張(ほん さね ばり、ほん ざね ばり) あらかじめ板に:突起部を設けておく。現在の縁甲板はこれ。
巳:合决り張(あい しゃくり ばり、あい じゃくり ばり) 第一項に説明あり。

長くなりましたが、本書の縁側の解説は以上です。

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この国を・・・・33:「死と涙の数を、数えてみろ・・・」:その2

2012-10-12 21:42:25 | この国を・・・
「日本家屋構造」の紹介の続きが難航しています。図が難解なのです・・・。

標題を改題しました。[13日 17.47]

その合間に読んだ今日の毎日新聞夕刊に、今話題になっている映画「希望の国」の監督、園 子温(その しおん)氏へのインタビューが載っていました。
先回、「この国を・・」で触れた「言わねばならないことを言う」義務をみごとに語っていました。
そこで、前回の続きを。

インタビューの中の一節。
   

毎日jp に、載りました。下記をどうぞ。
  毎日jp「原発の呪縛・日本よ・・・死と涙、数えてみろ」[13日 17.47追記]

新聞掲載全文を以下に転載させていただきます。
小さすぎて恐縮。拡大して読んでください。



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この国を・・・・32:「ほっとく・・・」

2012-10-06 18:56:45 | この国を・・・

手入れをさぼった草叢に埋もれているムラサキシキブ。近くの木々のてっぺんでは、モズがけたたましく啼いています。
モクセイも花をつけだしました。
  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
10月8日付毎日新聞朝刊「風知草」は、以下の内容とも関連すると思われる論説でしたので、末尾に転載させていただきます。標題は「映画『東京原発』再び」。
その文の終りにあった言葉。
「人間、終わったことには関心がない。3月11日は終わらないという自覚が重要だ。」
私は、この映画「東京原発」の存在を知りませんでした。[追加 8日 17.39]
更に追加。東京webから今日のコラム「筆洗」。[8日 20.30]
  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

たまたま見たニュースの一画で、福島の女子高生が、現在の「福島の状況」について「要約」としてまとめた言葉、それは「ほっとかれてる・・」でした。
これはきっと福島に暮す方がたに共通の「思い」に違いありません。
   「ほっとく」とは「ほうっておく」の簡略:訛りです。
同じニュースで、自宅の「除染」をされていたご夫婦が、除染しても、取除いた土を自宅の一角に埋めておかなければならず、それがまたストレス。いっそのこと「国会議事堂」の前に置かせてもらいたい、と話していました。

聞くところによると、自民党の総裁選挙で候補に立った方がたで、東北を「遊説」しても、福島を訪れた人はいなかったそうです。
そう、福島は「ほうって おかれた」のです。

原発の更なる再稼動を希求する「経済界」の方がたは、そうしないと「国民」生活がマヒするかの発言をされています。
そのとき、福島に暮す方がたは、この方がたの言う「国民」に含まれているのでしょうか。そういえば、この方がたで、福島の地を訪れたという方もいないようです。
やはり、福島は「ほうって おかれて」いるのです。

この方がたには、一部の人びとを踏み台にして、他の人びとが生きればいいのだ、という「思考」(これを思考と言うかどうかは別にして)がある、としか考えられません。
福島・三春に在住の、僧侶であり作家でもある 玄侑 宗久(げんゆう そうきゅう)氏が毎日新聞で次のように語っています。
「・・・原発所在地と郵便番号の関係を知っていますか。
全国54基のうち39基の所在地の郵便番号は[9]か[0]から始まる。
つまり、[1]で始まるこの国の中心・東京から最も遠い場所に、ほとんどの原発がある。
・・・この国の構造そのものに由来する根深い問題です。・・・」

「脱原発」を言うのは、精神論、感情論だ、という「言説」が、相変わらずあるようです。「理性的」でない、とでも言うのでしょう。
しかし、そういう言説を唱えることこそ non-scientific で non-logical に、私には思えます。それこそ、理性的でない。

「王様は裸だ」と、こともなげに言ったのは子どもでした。
何のことはない、見たこと、感じたこと、思ったことを、そのまま言ったに過ぎません。
しかし、大人も見て知っていたはずなのに、言わなかった。言ってこなかった。
このとき、子どもは「感情的」で、大人は「理性的」だったのでしょうか?
単に、大人は「『利』性的」だったに過ぎません。

各地域で生じた「高濃度の放射性廃棄物」、簡単に言えば除染したゴミの処分場を、生じた地域ごとに、具体的には各県単位に設けるのだそうです。地域のことは地域で、というわけです。
今、その具体的な処分場用地の公表の仕方が問題になっているかの報道が為されています。
そうではないでしょう。
地域のことはその地域で・・・、というのは一見すると「合理的」に見えます。
しかしその「策」が、この「問題」に対してのみ採られるのは、決して合理的ではありません。
先の玄侑氏の言われたことを考えれば、その不合理・非合理が明らかです。
もっと端的に言えば、ご都合主義。誰の?「利」を得る方がたの。
その点を論じなければ報道機関として「失格」ではないか、と私は思います。
この論理が一貫しないやり方を、えらい方がたは、それこそ一貫して続けてきて今に至っているのではないでしょうか。
ここは一つ、国民の生活を心配しておられる経済界や政界の方がたの出番ではないでしょうか。
放射性廃棄物を自ら引き取り、国民の不安の解消をはかる、それをお得意の「ビジネス」にしたらいかがですか。
   もっとも、そうすると、どこか他国へ安全だと称して捨てかねない。今のえらい人たちの考え方では・・・・。
しかし、原発建設を推進してきた自民党も、それを支えてきた経済界も、だんまりを決め込んでいる。現政権にその責を負わせて知らん顔している。さらに、現政権自体、「信念」が失せている。
結果として生じるのは、「国民」、特に福島および周辺の「国民」の負担と困惑。
原発事故直後の、「福島県に暮す人びとは、本当に日本国憲法の下に保護されているのか?」というある町の町長の言は、今も活きている、私はそう思っています。

もうひと月も経ってしまいましたが、九月の初めの東京新聞に「言いたいことを言うのは権利だが、言わねばならないことを言うのは義務である」と論じた社説が載っていました。
王様は裸だ、と言った子どもは、権利と義務を行使したのです。しかし、大人は?
その社説を以下に転載します。


毎日新聞 10月8日朝刊所載「風知草」
  
東京webから今日のコラム「筆洗」を転載します。

まったくうんざりします。

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補足・「日本家屋構造」-5・・・・小屋組(その2)

2012-10-01 22:39:20 | 「日本家屋構造」の紹介


丸鋼を引張り材に使ったトラス組の例。
今回の末尾に、この部分の設計図(断面図)を載せてあります。
  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

[2日 10.25 リンク先追加][2日 18.05 文言追加]

前回に続き、設計講座のテキストから小屋組の残り:トラス組と合掌組の解説部分を転載します。


ここで引用させていただいている書物は、彰国社から出ていた「木造の詳細」。構造編、仕上編、住宅設計編の全3冊からなっています。初心者には大変分りやすかった。
私が参考にしたのは、現在の法令規定前の出版。現在、どのように変っているのか(出版されているのか、も)不詳です。
次は、その書から、詳細図と部材の標準的寸法と仕口の部分の抜粋です。



木造トラス組の実例は、最近の建物では少ないようです。
以下に、明治期の建物で使われている木造トラス組を紹介します。
一つは学校、もう一つは銀行の建物。
いずれも「修理工事報告書」から転載、編集させていただいています。









次に、筆者が関わった木造トラス組の設計例と海外の現代建築の事例。
上の2例:小学校と幼稚園は、いずれも丸鋼を引張り材に使ったトラス組です。
下段は、この設計のヒントになったヘイッキ・シレンの教会の建物。トラスの話のときに紹介したと思います。
   なお、トラス組の生まれた謂れについて、「建築学講義録」に、構造力学を用いない分りやすい解説があります。
   構造力学の誕生前からトラス組はあったのですから、このような解説が為されて
   当たり前と言えば当たり前な話なのです・・・・。
   今の構造の専門家に、こういう解説はできるでしょうか、はなはだ疑問です。
   下記をご覧ください。[2日 10.25 リンク先、文言追加][2日 18.05 文言追加]
   トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-3
以下は、上のカラー写真の小学校の木造トラス組の詳細図(部分)。
上段左側の写真を拡大したのが冒頭の写真です。
梁間は7,200mm。約4間。トラスは各所共通です。


他の海外の事例をいくつか紹介します。
日本では、張弦梁などの事例は多く見かけますが、トラス組の事例は少ない。


   戦後、日本でつくられた(と考えられる)木造トラスの事例を下記で紹介しています。[2日 10.25 リンク先追加]
   みごとなトラス組・・・・尾花沢・宮澤中学校の旧体育館

次いで、トラス組の一と考えられる合掌組について。




以下は、テキストのまとめの部分。西欧の小屋組の事例(断面)をいくつか。


最後に付録。冒頭の写真の部分の設計図。
この建物は、RCの躯体に小屋は木造トラス組、屋根の仕上げは瓦葺です。


次回は「日本家屋構造」本体の紹介を続けます。

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