水に浸った大地・・・・田植始まる

2008-04-28 23:09:15 | 居住環境

霞ヶ浦周辺では、この連休は田植の最盛期。
農政担当の行政機関は、品質のよい収穫を考えて、しきりに連休が明けてからの田植を奨めているが、農家は無視。というのも、たとえ機械化が進んでも、やはり田植には人手がいり、連休が丁度よいのだ。

つい最近まで、昨年の名残りが見られた田は、きれいに耕され、そしてここ数日、水が張られるようになった。早いところでは、もう田植が済んでいる。

この時期、筑波山に登ったことがある。そこから観る下界は圧巻である。なにしろ、足もとが全面水浸しの様相だからである。あたかも筑波山は大きな湖の中にそびえているかのように思え、集落は島のように浮いている。普段は気が付かない集落の立地、集落の構造がよく分る。

上の地図は、筑波山麓の国土地理院の2万5千分の1地形図の、水田部分に網掛けをしたもの。この網掛けした部分が、この季節いわば湖面になるのだ。
この地図は、耕地整理が進んだ後のもの。大きな道路の際で水田を埋め立てて商業用地化されだしているが、もう少し古い地図なら、島のような集落相互をつなぐ道も田に埋没していたはずで、田の形も整形ではなく、等高線に沿った形をしていただろう。

少し見にくいかもしれないが、地図中のAと記したところは、古代の「条里制水田」の遺構のあったところ。3・40年前には、その姿をのこしていたが、耕地整理の結果、今は分らない。
まわりの山の裾で湧き出した水は、この西に開いたU字型をした地形のほぼ中央で合わさり小川を形成して、「桜川」(北の「岩瀬」のあたりから来て「土浦」で霞ヶ浦に注ぐ)に合流する。そこは大きな人工を施さなくてもよい自然の田。そういう場所に人は住みついたのである。このあたりでつくられる米がいわゆる「北条米」、水が良いと味も良くなるのだという。

山麓にほぼ等高線沿いに山裾に並ぶBと記した集落・字も、今はかならずしも農業を営んでいる家とはかぎらないが、元をたどれば、古代にまでさかのぼる住居地と言ってよいだろう。
そこでは、裏手に水が湧き、あるいは井戸を掘れば容易に質の良い飲み水が得られる。当然、その水は農業用水になる。人が生きる必要条件はそろっている。しかも後に山を背負った南向きの斜面。人が住み着いて当然な一帯なのである。こういう湧き水がある等高線を湧水点と呼ぶらしく、大体山に応じて決まっているようだ。

Cと記した場所は、いわゆる「新田」。おそらく中世以降の開拓と考えられる。
「新田」には、河川のつくりだした周囲よりわずかに標高の高い自然堤防を拠りどころにした場合と、河川氾濫原の真っ只中に濠を掘り、その土で居住地をかさ上げする場合(環濠集落などと呼ばれる)とがある。
いずれの場合も、飲み水はかならずしも良いとはかぎらず、良質の水を得るには、深い井戸を掘る技術が必要だったと思われる。
ただ、この地図は、河川が改修された後のものなので、このあたりの様相は古い地図を見なければ分らない。

地図左端のDは丘陵の尾根沿いに通る街道筋に生まれた半農半商の家並。

そして、地図の右下「神郡(かんごおり)」から北上し「臼井」あたりから筑波山の山肌をほぼ等高線に直角に直登する道の周辺のEは、江戸幕府がつくった筑波詣のための参詣路沿いの集落。かなりの急坂で、元は階段状になった箇所もあったが、今は車も通れるようにはなっている。しかし車で下るときは前が見えなくて怖い。それほど急なのだ。
道の両側には宿屋、茶店があったという。今は普通の住宅地になっている。

こういった大地の上に人びとに刻み込んできた痕跡を、現代の「開発」や「計画」にかかわる方々の中で、見ようとする人は極めて少ないだろう。
もしも、見る気があり、そして綿密に見ていたならば、「つくば新線」周辺で現在行われているような、「歴史」の抹殺こそが使命、と考えているが如き開発は生まれないはずなのだ。

残念ながら、現代の建築関係者には、人びとにより大地に刻まれた「歴史」を考える「素養」がないのであり、またその必要を説く「教育」もなされていないのである。
最近の建築関係者は、よく「環境」という言葉を使う。しかし、もしも「環境」について口を出すならば、そのためには、「歴史」が必須な「素養」だと私は考える。
おそらく、大地の「歴史」を無視したがるのは、いわゆる先進国と言われる国の中では、日本と、先住民の存在を認めたがらないアメリカだけだろう。

目の前の大地は、単なる不動産と考えたら、大間違いなのである。

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阿仁・異人館-続・・・・写真補足+北鹿ハリストス正教会聖堂

2008-04-25 00:01:03 | 建物案内

[記述追加:11.54]

阿仁・異人館の入口・階段まわりとベランダの詳細、および小屋組トラス。
設計はドイツ人でも、施工は現地の大工職と考えてよいだろう。
当然、煉瓦は現地での焼成。煉瓦積も現地の職方。

ただ、阿仁では、煉瓦を使用した建物を、他に見かけない。
どういうことなのか、調べてないので分らないが、私たちがここを訪ねたときには、すでにこの建物の他には「鉱山町の名残り」はなかった。もしかしたら、時とともに消失してしまったのかもしれない。

下段の写真が「北鹿ハリストス正教会聖堂」の外観。
大館(おおだて)市の郊外の田園地帯の中にある。大館は、小坂のほぼ西にあたり(先回の地図参照)、「米代(よねしろ)川」のつくりだした盆地。

   註 米代川には、中流で小坂からの「小坂川」が流入する。
      鉱山のある所からの川でありながら、鉱山開発が本格化して以来、
      この川では渡良瀬川のような水質汚染が起きていないことを
      以前紹介した。
      鉱毒濾過装置を当然の事業として当初に設置したからである。
        「公害」・・・・足尾鉱山と小坂鉱山参照。
                            [説明・記述追加]

川に沿って、国道103号とJR花輪線が走る。大館から東へ約10数kmのところが聖堂のある字「曲田(まがた)」。

日本での「ハリストス正教会」聖堂の代表は、東京御茶ノ水の通称「ニコライ堂」。あと、函館の聖堂が有名である。

この建物の設計は、ニコライ堂の設計あるいは施工にかかわった者ではないか、とのこと。施工は現地の職方と思われる。

内部は観ることができなかったが(観るにはあらかじめ予約が必要)、木造のアーチを四方から立ち上げてドームをつくるという本格的な構造だという。材料は秋田杉とのこと。

   註 大館市のHPから、ある程度の情報は得られる。

秋田県の文化財になってはいるが、なぜ国の重要文化財に指定されていないのか、分らない。

私は寡聞にして、日本での「ハリストス正教会」の布教の歴史はよく知らない。
秋田県の農村地帯に、どのようないわれでこのような聖堂が誕生したのか、非常に興味が湧く。
ご存知の方がおられたら、是非お教えいただきたい。

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「阿仁・異人館」・・・・阿仁銀山の外国人技師宿舎

2008-04-23 10:33:12 | 建物案内

[カテゴリー変更 4月24日17.12]

小坂の「康楽館」を訪ねた際、旧・「鷹巣(たかのす)町」から阿仁川をさかのぼった山間の町、旧・阿仁(あに)町も訪れている。
かつて「阿仁」にも鉱山があり(「阿仁銀山」)、そこにある通称「阿仁 異人館」を観るためである。
秋田~青森一帯の地図を上に載せた。
一般には、阿仁は「マタギの里」として知られている。

「鷹巣」から山を越えて「角館(かくのだて)」まで、「秋田内陸縦貫鉄道」が走っている。
その鉄道の「阿仁合(あにあい)」駅の直ぐ近くにあるのが、「阿仁 異人館」(上掲の写真)。写真の建物の裏手を鉄道が走っている。

   註 鷹巣町、阿仁町・・は、合併で現在は「北秋田」市。
      「秋田内陸縦貫鉄道」は、第三セクターの運営。
      元は国鉄として計画され半世紀かけて全通したのだが、
      民営化の際、見捨てられたからだ。
      他の第三セクター運営の鉄道同様、存続の危機にあるが、
      最近、存続させる方向で地元の意向が固まったとのこと。

      なお、「鷹巣町」の先進的な福祉政策は有名だったが、
      それを推進してきた町長が選挙に破れ、また合併によって、
      大きく変ってしまった。と言うより、昔に戻ってしまった。
      この間の経緯・事情については、2年前の2006年に書かれた
      次の記事に詳しく述べられています。
        「福祉先進地、鷹巣町の出来事」

この建物は、明治15年(1882年)、阿仁銀山の外国人技師のための宿舎として建てられたという。設計はドイツ人と言われている。

工法は、木造の骨組に煉瓦を積んだもの。
東京の「鹿鳴館」は明治16年建設というから、それよりも前に建てられていたことになる。

なお、大館では、約50㎡のかわいらしい「北鹿(ほくろく)ハリストス正教会聖堂」(明治25年:1892年竣工)も観させていただいた(中には入れなかった)。

明治中期、各地域は、いまだ江戸時代を引継ぎ、活気に満ちていたのである。
そしてその後、「中央」への集中が進み、徐々に、地域の活気は失せ、現在に至る。
それは、近代化を目指したという明治政府が決して「近代的」ではなく、民主化を目指したという第二次大戦後の政府は決して「民主的」ではなかったからである。

なお、「阿仁 異人館」は、1990年、国の重要文化財建造物に指定された。

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康楽館・・・・小坂鉱山直営の劇場

2008-04-22 00:56:33 | 建物案内

[訂正:9.05]

昨年3月11日、13日に秋田県にあった「小坂鉱山」について書いた。

3月11日には、足尾鉱山の鉱毒問題について、世に有名な田中正造の直訴事件のあったまったく同じ年、小坂鉱山では鉱毒除去施設が完成稼動を開始していたことを紹介した。
つまり、都会に近い足尾よりも、山奥の小坂は数等先進的だったのである(その理由についても触れている)。
「直訴事件」があたかも「公害」が問題にされ始めた元年のごとく言われているが、そうではない。
「公害」問題の認識と解決についての先駆者が小坂鉱山にはいたのである。

そして3月13日には、小坂にのこる明治期に建てられた「康楽館」をはじめとするいくつかの建物を紹介している。いずれも、小坂鉱山の経営者によって企画・建設された建物である。

   註 07年3月11日:「公害」・・・・足尾鉱山と小坂鉱山
      07年3月13日:小坂鉱山-補足

上掲の写真は、先日の軽井沢銀山と同じ年に撮影した冬の「康楽館」の写真。
地図は、「康楽館」のある一帯の国土地理院の1980年代のもの。

地図に見える小坂鉄道(大館と小坂を結ぶ)の小坂駅から北へまっすぐに走る道は、道幅10数m、全長およそ500m。鉱山会社(「同和鉱業」の前身「藤田組」)がつくった街路。小坂鉄道も鉱山会社の経営である。
通りには、見事なアカシヤの並木が続いている。上の通りの写真は、北を見ているもので、丁度右手が「康楽館」にあたる。

   註 アカシヤは、煙害で被害を蒙った山林復活のために選ばれた樹種。
      樹種の研究・選択も鉱山会社に拠るもの。
      現在は、小坂のシンボル的な樹木、アカシヤ蜂蜜も名産になった。

地図で分るように、この通りには、幼稚園や病院などの公共的な建物が並んでいる。これらも、鉱山会社によって運営されていた。

通りは、北の端で鉱山事業所へ向う道にT字型にぶつかるが、その道の事業所に向って左側に、今のショッピングセンターに相当する大きな商店「需要品供給所」があった。これも鉱山会社の運営であった(今はない)。

現在は、事業所内にあった通称「鉱山事務所」が「康楽館」の隣りに移築されたという(07年3月13日に移築前の写真を載せている)。ともに、重要文化財。

「康楽館」は、明治43年(1910年)につくられた木造二階建ての劇場。
外観は、写真のようにいわゆる「擬洋風」だが、内部は、江戸の芝居小屋のような畳敷の桟敷。
回り舞台やドイツ製の映写装置も設置されていて、東西の歌舞伎はもとより、最新の映画なども上映されていた。
また、第二次大戦後も、1970年代まで、東北地域の演劇公演活動の中心的な劇場としての役割をはたしていたから、楽屋には多くの著名演劇人の署名入り「落書き」が残されている。


写真撮影は、12月。劇場は冬季閉鎖で、中には入れない時期。小坂は豪雪地帯。そこに、類稀な経営者:久原房之助による鉱山経営の下、独特の「文化」が育まれたのである。[訂正]
もう今はないかもしれないが、1980年代当時は、ペチカ付きの社宅の団地も無住になって残っていた。

類稀な現地経営者は、本社の意向とそりがあわなくなり、日立へと去るのだが(そのあたりの事情については、07年3月11日に触れている)「康楽館」は、彼の離任後の完成、つまり彼のいわば「置土産」だったのである。

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1950年代の鉄骨トラス・・・・長野・松代中学校 旧・体育館

2008-04-19 11:27:23 | トラス組:洋小屋

先に、山形県尾花沢の宮沢中学校体育館の木造トラスを紹介した際、多分、創立時の昭和26年(1951年)の建設ではないか、と書いた。

調べてみると、昭和22年(1947年)の「教育基本法」制定により「六三制」義務教育が始まり、小学校に間借りをするなどして、各地に新制中学が誕生する。

当時は、敷地は比較的容易に確保できたが、建設資材も不足し、建設費は当然高く、新施設の建設状況は各自治体、地域によって差があった。

そのため、昭和28年(1953年)、施設新設にあたっての国庫補助が法制化、たしか、工法別(木造、鉄骨造、RC造別)に国の規定する単価の二分の一が補助されたはずである。

尾花沢の宮沢中学の場合、この地域では、まだ鉄骨造は一般的ではなかっただろう。そして、その出来上がりの様子から察して、学校は村に一つ、地域の「財産」「宝」という意識が強く、地域総出で集めた自前の費用で、地元産の材料を豊富に使いつくられたのではなかろうか。

1960年代(昭和35~44年)初め、青森県の鉄骨造の小学校を設計した際、鉄骨を製作したのは、八戸の造船所であった。当時、青森県内では、建築用の鉄骨を製作できる工場がなかったのである。
また、基礎などの鉄筋コンクリート工事を担当したのは、土木工事の技術者であった。鉄筋コンクリート造も、建築では滅多になかったのである。

1975年ごろ、筑波研究学園都市の学校を設計したときも、鉄筋コンクリート工事に慣れた職方さんは少なかったように記憶している。
しかし、これら青森、茨城の場合、慣れていなかった分、仕事は丁寧であったように思う。それに比べ、今は、手慣れてしまったからか、見ていると相当いい加減な仕事が多いような気がする。

上掲の写真は、私が撮ったのではなく、送ってもらったもの。長野市の松代中学校の鉄骨トラス造体育館。今は撤去されてないそうである。
松代中学のHPで調べたところ、「昭和31年(1956年)1月、講堂兼体育館完成、第一回卒業式挙行」とあるので、それがこの建物ではないかと思われる(そのときは、長野市に合併されておらず、松代町立であった)。

鉄骨は、50~60㎜のアングルによるもののように見える。加工が手慣れているから、専門の鉄工所の手によるものだろう。高圧線鉄塔などを手がけている工場の可能性が強い。

   註 接合は、まだリベットである。今は、鉄塔でもHTボルト。
      東京タワーもリベット打である。

この建物で興味深いのは、柱型部分を露出としていること。
トラスの場合、尾花沢・宮沢中学のように、柱型を内部に設けるやりかたと、松代中のように外へ設ける方法とがある。
前者は、外部がすんなり納まるが、内部では、邪魔になることがある。内部を重視すると、松代中方式になる。
木造の場合だと、柱型が外の場合、多分、トラスを木材の羽目板などで被うだろう。そういう例はかなり多い。
しかし、鉄骨柱型をカバーするとなると、結構面倒だ。第一、隠された鉄部の様子が分らなくなる。ならば、露出させよう、ということになったのではないだろうか。
この写真は、10年ほど前の撮影らしいが、幾分錆が出ている。ということは、鉄塔などで用いられる亜鉛ドブ漬けの鋼材ではなく、普通のアングルに防錆塗料+仕上げ塗装、という仕様だと考えられる。

少しぼやけているが、内部は鉄骨造とは思えない。多分、体育館専用ならば、内部のトラスも露出にしただろう。講堂を重視したと思われる。断面図を見てみたいものだ。

最近、このような鉄骨トラスは少なくなった。こういうトラスは、部材の種類、数が多く、加工の手間を考えると、H型鋼を使う方が安上がり、だからなのかもしれない。あるいは、アングルトラスを設計できる人がいなくなったのかもしれない。しかし、H型鋼使用では、鋼材量は不必要に多くなる。

鋼材加工費は重量あたりで算出しているのではないか?
では、支払われる工事費用は、誰の手にわたっているのだろう?
私なら、手間に還元できるのだから、トラス方式を採るだろう。第一、省資源。

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会津柳津・軽井沢銀山の煉瓦造煙突-2

2008-04-17 10:07:20 | 煉瓦造建築

上の写真は、軽井沢銀山の煙突の近景と、煙突に使われていた煉瓦。

前回、100尺近い高さの煙突が崩落して今は半分の高さ、と書いたが、これは、地震などによる崩落ではない。
冬季、煉瓦の目地が凍結して破裂し、接着力を失ったからだ。煉瓦の中にも、凍結で破砕したものもあるかもしれない。
目地が凍結するのは、使われていた目地材がセメントモルタルではなく「砂漆喰」だからである。
煉瓦が破砕するのは、煉瓦が吸い込んだ水分が凍結するからだ。
写真の煉瓦に付着しているのが、漆喰の残滓である。つまり、漆喰の煉瓦への付着力は強い。今回、写真を撮るために、水で汚れを落したけれども、漆喰は剥がれなかった。

製錬所が稼動を続けている間は、このような崩落は起きなかっただろう。煙突は、いつも暖められているからである。
そして、稼働中であるならば、セメントモルタル目地よりも、漆喰目地の方が、強かったと思われる。以前触れたように、漆喰目地には弾力性があるからだ。また、煉瓦に、喜多方のように釉薬を施すなどの措置が採られていたら、煉瓦の破砕も防げただろう。

この煉瓦は、煙突のまわりの雪の中に落ちていたものを、参考のためにいただいてきたもの。かなり上質の煉瓦で、最近ホームセンターなどで見かける外国産の煉瓦よりも数等良質である。


煉瓦のわきにスケールを置いてあるが、この煉瓦は並みの大きさではない。
約9寸4分×4寸7分、厚さ2寸3分強、メートル法では、280㎜×140㎜×70㎜。三辺の比率が、4:2:1になっている。体積:0.002744㎥。重さは4.96kg、約5kgもある。

現在の日本煉瓦製造KK製の普通煉瓦は210㎜×100mm×60㎜、体積:0.00126㎥。重量は2.5~2.6kg。
つまり軽井沢銀山の煉瓦は、一見したところ、大きさはひとまわり大きいだけだが、体積は2.18倍、重量で現在の煉瓦のほぼ2倍。つまり重い。

   註 現在の日本煉瓦の製品と同等の焼き上がりで、体積比で計算すると
      軽井沢の煉瓦は5.45kgになるはずだが、実際は、約5kg、つまり、
      軽井沢の煉瓦は、僅かだが日本煉瓦の製品よりも密度が低い。

では、軽井沢では、なぜ、このような大きさの煉瓦にしたのだろうか。
2月1日に、“EARTH CONSTRUCTION”では、強い煉瓦造の構築物をつくるには、煉瓦の大きさが大きい(目地が少ない)方がよい、と奨めていることを紹介した(「煉瓦造と地震-2・・・・“EARTH CONSTRUCTION”の解説・続」)。その際、私は、ただ、大きく重い煉瓦は作業性が悪い、と注釈を入れた。
軽井沢の煉瓦の大きさは、作業性よりも、出来上がる煙突の強さを重視したのかもしれない。
現在のようなクレーンや昇降機のなかった時代、おそらく、100尺もの高さの積み上げには苦労したと思われる。


ところで、軽井沢で使われている煉瓦はどこで焼成されたのだろうか。

これも、現在のような運搬機械、輸送システムのなかった時代、まして山中、別の所から運んでくることは考えられない。現地で焼成するしか手だてはなかったはずだ。
以前紹介したが、小坂鉱山でも、煉瓦は自前で製造していた。

   註 鉄道敷設にあたって必要な煉瓦は、当初、敷設する現地で
      焼成するのが常であった。それが、予想外に、喜多方に
      煉瓦造建築を誕生させたのである。
      鉄道敷設がある程度進行すると、日本煉瓦製造㏍などで
      焼成された煉瓦が、鉄道で輸送されるようになり、現地焼成は
      減る。
      碓氷峠のトンネル、橋脚の煉瓦は深谷の日本煉瓦㏍から鉄道で
      運ばれたものだが、富岡製糸場の煉瓦は、現地生産である。
      なお、碓氷峠の近く、安中、松井田にも、煉瓦造建物が多数ある。
      これも、鉄道敷設がもたらしたもので、日本煉瓦製造㏍製煉瓦が
      使われている。もちろん、工場があった深谷にもいくつかある。
      また、喜多方の煉瓦蔵の所在地を地図にプロットすると、
      煉瓦の輸送手段の発達(大八車~トロッコ~トラック)と
      ともに、製造煉瓦工場を中心として同心円状に建設数が増えて
      いることが分る。
      煉瓦造と輸送手段は、切っても切れない関係があったのである。


では、煉瓦という建材を、誰が軽井沢に紹介したのだろうか。
おそらくそれは、新しい銀の製錬法を軽井沢に導入した技術者である。もしかしたら、大島高任かもしれないが、今となっては謎である。


いま、とかく「建築材料」は、建築関係者に、《粗末に》扱われているような気がする。
何のためにどんな性能のものが必要か、それにはどうしたらよいか、などと考えることもないままに、商品カタログから、その歌い文句で、採用を決めてしまってはいないだろうか。昨日も「レディーメード庇」のカタログが送られてきた・・・。
何のことはない、カタログ掲載部材の足し算で建物ができてしまう。これでいいのだろうか。
学生の頃、もう40年以上前になるが、アメリカでは、カタログの図面を集めると設計できる、という話を聞いて呆れたことを覚えている。
何もない時代の人たちの方が、ものごとを真剣に考えていたように思えてならない。

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会津柳津・軽井沢銀山の煉瓦造煙突-1

2008-04-16 07:15:18 | 煉瓦造建築
[記述追加、修正:23.38]

昔の写真が出てきたので、報告。

会津盆地から阿賀野川に沿って新潟へ向うと、福島県・柳津(やないづ)町がある。虚空蔵尊で知られている。
その柳津町の南、柳津から会津盆地西端の町・会津高田に抜ける山越えの道の途中に(県道53号線)、「軽井沢」という場所がある。上掲の地図のほぼ中央である。そこから少し山に分け入ると、上の写真のような大きな煙突が見えてくる(煙突は、ちゃんと垂直に立っています。傾いて見えるのは撮影のせい!)。[記述追加]
これは、1988年の暮、喜多方の帰りに寄ったときの写真。20年ほど前になる。

煙突は煉瓦造で、底辺が2間四方ぐらい。高さは100尺近くあったらしいが、崩落が進み、当時すでに半分ほどになっていた。

軽井沢を訪ねる気になったのは、そこに古い煉瓦造の構築物がある、という話を聞いていたからである。
そこは、かつての銀鉱山とその製錬所跡で、「銀山」という字名として残っており(上段の地図の赤い十字マークの所)、地図にはないが、小字は「御屋敷」という。
煙突は、当時すでに崩落がかなり進んでいたから、今はもうなくなっているのでは?と思って、最近の国土地理院の25000分の1の地図を見たら、ちゃんと煙突マークが載っていた。今なお健在のようだ(下段の地図参照)。

   註 「軽井沢」は、峠に差し掛かる手前につけられる地名である、と
      柳田國男の著作で読んだような気がする。
      たしかに、全国に数ある「軽井沢」は、そういう所にある。

「軽井沢」の鉱山は、江戸時代以前からあったようで、「日本歴史地名大系 福島県の地名」によれば、永禄元年(1558年)頃~元文年間(1736~41年)、鉱石を砕き淘汰し、精製された鉱石を火力で製錬する方法で生産された。燃料は薪。そのため、周辺の山林は禿山になったという。

その書によると、「新編会津風土記」には、諸国から人が集り、一時は小屋が千軒あったといい、寛文年間でも、70余軒の小屋があったようだ。
また集った人たちの遊興の場として、西山温泉郷は繁盛し、各地に水茶屋も置かれ、「招き林」「傾城沢(けいせいざわ)」などの地名が今も残る、とある。
これは、かつて鉱山で栄えた地域に共通する話。ただ、「小坂」のような深い山奥では、鉱山を営む主体が劇場など人びとの生活・厚生事業を自らつくったようである。

上段の地図の「銀山」の南南西2500mほどのところに「久保田」という字があるが、その北を西に向って流れている沢が「傾城沢」で、国土地理院の地図には名称が載っている。「久保田」から道を下ると「西山温泉」郷である。「招き林」とは、上段地図、西山温泉の西側にある「砂子原(すなこはら)」の謂らしい。

下段の地図で、「銀山」の南西に「銀山峠」という場所がある。その名の通り、今ははっきりとした道はないが、鉱山はなやかなりし頃、「銀山」と「西山温泉」を結ぶ人通りの多い道の峠だったのである。

下段の地図の「銀山」のあたりに数軒建物があるが、この一帯の小字が「御屋敷」。江戸期に、ここに「御殿屋敷」があった。鉱山を取り仕切る役所:鉱山事務所である。

鉱山は、先に触れたように、18世紀中頃一旦途絶えるが、幕末になって、オーガスチン式製錬法が導入され再開され、日産80貫の生産を誇るほどにまでなったという。当時、全国でも有数の銀山だった。(なお、記録では、江戸期の生産量は毎月40貫)。しかし、その生産も、明治29年(1896年)終了したという。[記述追加]
この煙突は、その明治期の製錬所の唯一の遺跡である。
多分、明治10年代~20年代初め(1877~90年ごろ)の建造ではないだろうか。喜多方で煉瓦が焼かれ始める10~20年以上前のことだ。[記述修正]
現在、煙突に続いて、いくつかの小屋があるが、ほとんど廃墟に近い。小屋の近くに坑口があるから、多分、そのあたりに製錬所があり、煙突に続いていたのだろう。

   註 オーガスティン法は、小坂鉱山や石見銀山、釜石など、
      明治期の鉱山開発で、必ず出てくる冶金技術である。
      それとともに必ず出てくる一人の人物がいる。
      冶金技術者:大島高任(おおしま・たかとう)である。
      彼は全国の鉱山を歩きわたり新技術を広めたのである。
      もしかしたら、軽井沢にも足跡を残しているかもしれない。
      ちなみに、茨城の「ひたちなか」にある「反射炉」にも、
      彼はかかわったらしい。

私どもが軽井沢を訪れたとき、一帯にはまったく人気(ひとけ)がなかったのだが、ただ一箇所、「御屋敷」の一角の大きな家屋敷にだけ、人が居られた。
その大きな建物は、明治期の鉱山事務所であったらしく、そこで、女性が一人で住まわれていた。古庄(こしょう)さんといわれる品のよい方で、当時、50代後半~60代のようにお見受けした。明治期にも人でにぎわっていたことなど、往年の鉱山の様子をうかがうことができた。
息子さんが会津若松にいて、山を下りるようにすすめられてはいるが、やはりここがいい、ということで暮しているとのこと。週末ごとに、息子さんが訪ねてきているらしかった。
大きな座敷の一隅で、火鉢にあたりながらお話をきかせていただいた。
その後も、折をみて訪ねてたが、いつもお元気であった。いま、どうしておられるのだろうか。

この軽井沢鉱山跡は、「産業遺跡」では無視されているようだが、それは、少し調査が足りないのではないか。
私は、ここは「文化財」に指定する価値のある場所だと思っている。柳津町の重要な文化「遺跡」「史跡」として。
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こういう架構もある・・・・アアルトの体育館

2008-04-14 19:51:59 | トラス組:洋小屋

これは、アアルトが1950~1951年に設計した「ヘルシンキ工科大学」の「屋内競技場」。半世紀以上も前の設計。現存するようだ。中のフィールドは土の床。

写真、図版は“ATELIER ALVAR AALTO”、
競技をしている内部の写真は、“ALVAR AALTO Between Humanism and Materialism”からの転載。

中のトラックは400mか。内部の写真の競技する人と比べると、その大きさが分る。
この架構は、トラス組の替りに、木造の骨に板を打ち付けた巨大な木造の「門型」を地上でつくり(写真参照)、それを順に立て並べ、相互を「振れ止め」でつなぐ、というもの。
大断面の「集成材」を、板材の釘打ちでつくる方法、と言ってよい。多分、どんな糊を使うよりも耐久性があるだろう。糊は、材の表面が接着するだけだが、釘は相互を貫いて、全体を一体にできるからだ。釘の量が、写真で分る(部材の写真に見える黒い筋は釘の列)。

小さな空間では、架構がごつく感じられるかもしれないが、大きな空間では問題がなさそうだ。

今は一般に、大架構というと、すぐに接着剤による「集成材」の大断面材に頼りがちだが、大量にある「間伐材」を利用して、こういう利用法も考えてよいのではないだろうか。
なぜなら、専業メーカーでなくても、誰でも普通につくれる。
もっとも、行政は、実験データを持って来い、と簡単には認めたがらないかもしれないが・・・。

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みごとなトラス組・・・・尾花沢・宮沢中学校の旧・体育館

2008-04-13 02:04:21 | トラス組:洋小屋

上の写真には、1988年7月というメモが添えてあったから、約20年前のもの。
メモには、尾花沢市立宮沢中学校、とあった。

記憶を辿ってみると、東北を観ていたとき、山形・尾花沢の郊外の田園の中に見つけた「気になる建物」である。
googleの航空写真は、尾花沢市のHPで分った宮沢中の住所から検索した現在のその周辺の様子。見にくいが、画面中央、山のふもとの白抜きで書かれた住所のところが、学校所在地。

   註 尾花沢は、積雪地帯である。

外観は写真が下手でよく写っていないが、切妻屋根で、棟の中央に望楼風の塔が載っている(トラスの見上げに、その内部が写っている。換気とシンボルが目的か?)。
平面は、覚えていないが、多分、妻面に付いている下屋のところが入口あるいはステージか?

外観もさることながら、内部を見たとき、その洗練されたみごとな架構に驚かされたことを思い出した。

ムクの木材だけを使って、大きな空間をやすやすとつくりだしている。陸梁:タイバーの類もない。妻面の、漆喰塗りの箇所で、トラスの幅が分る。1.2~1.5mぐらいあるか。

そして、筑波一小体育館のとき、こういう架構は、「私の頭の中に浮かばなかったな」と、一抹の後悔めいた感を抱いたことも思い出した。

おそらくこれは、戦前から続く木造校舎の技術が引継がれていたのではないだろうか。
設計は、そういう技術を受け継いだ、県か市町村の技術者か、あるいは町場の技術者によるものと思われる。
かつて、学校建築は地域の「財産」だったから、各地の学校建築には、その地域のすぐれた技術が結集していたのだ。
残念ながら、そのほとんどは、木造ゆえに取り壊され、無粋なRC、または鉄骨造に替えられてしまった。

   註 もしかして、遠藤新の設計か、と思って調べてみたが、
      宮城には数校設計しているが、山形には設計例はない。

今では、木造でこのようなトラスを設計できる技術者はいないだろう。
もしも遺っていたなら、その技術的レベルは、戦後のある時期の技術を伝える貴重な文化財に指定してもおかしくないのではなかろうか。

   註 尾花沢市のHPで調べたところ、
      昭和22年、新学制にともない、宮沢村立明徳中、高橋中が、
      それぞれ両小学校に併設して開校され、
      昭和26年、両校が統合して、宮沢村立中学校が創立された、
      とある(昭和26年:1951年。基準法制定の5年前)。
      この体育館は、おそらく、そのときに建てられたのだろう。

      ただし、詳しいことは調べていないが、平成5年に新校舎と
      体育館が完成したとあるから、多分取り壊されたに違いない。
     


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羽黒山 五重塔:補足

2008-04-12 14:39:31 | 建物案内

室生寺の塔と同じ感動を受けた、と書いたけれど、室生の塔はきわめて小さくかわいらしい。同一縮尺で断面図を並べてみると、上掲のようになる。参考までに。

写真は、羽黒山五重塔の上層部の見上げ。

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ときには 清々しい話を・・・・羽黒山 五重塔

2008-04-11 19:56:35 | 建物案内

写真を探していたら、かつて訪れた雪の「羽黒山五重塔」の写真が見つかった。

山形県酒田市の東にあたる山地に、修験道(しゅげんどう)の聖地、出羽三山(でわさんざん)がある。羽黒山(はぐろさん)、月山(がっさん)、そして湯殿山(ゆどのさん)である。
それぞれの山頂には、出羽神社、月山神社、湯殿山神社があるが、最も人里に近い羽黒山の出羽神社に、この三社を合祭する三山神社がある。
三山神社の社務所から合祭殿へは、杉木立の中を歩くことになるが、この五重塔は、坂道へさしかかる手前、左側の木立の中にひっそりと立っている。
神社に五重塔?と訝る方もおられると思うが、羽黒山には、かつて多くの寺院があって、この塔は、その寺院の一つの滝水寺のもの、多くの堂宇があったのだが、明治政府主導の神仏分離令で、塔だけを残し、取り払われたのだという。

今から25年ほど前、小坂を訪ねたあと青森へ出て、そこから秋田、山形と日本海沿いに南下、酒田の「山居倉庫」、「土門拳美術館」を訪ね、羽黒山へ向った。
季節は12月、雪が降っていた。訪ねる人もいない。
木立のなかは静まり返り、聞こえるのは、雪を踏む足音と、ときおり枝から落ちて舞う雪の「ささあ」という音だけ。

木の間隠れに五重塔が見えてくる。
室生の塔を初めて見たときと同じような感動を味わった。
それは、単にそのときの周辺の環境のせいではなく、塔そのものの姿によるものであることは間違いなかった。

塔は、相輪頂部まで100尺弱。各層の屋根は杮葺き(こけらぶき)。勾配は緩い。
外部の木部が写真では白っぽく見えるが、着彩はなく、素木のまま。

「日本建築史基礎資料集成 十一 塔婆Ⅰ」の解説によると、全体に古式ではあるが、建立は応安~永和年間(1300年代中以後)ではないか、とされている。
解説は、次のような言葉で締めくくられている。
「都から遠く離れた奥羽の地にありながら、地方的なくずれはなく、洗練された姿を見せている。中世の羽黒修験道が中央との繋がりをもっていたことを示す遺構でもある。」(執筆者は浜島正士 氏)

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またぞろ《長期耐用住宅》話

2008-04-09 18:02:48 | 建物づくり一般
建築界、とりわけ《住宅産業》の周辺では、またぞろ《200年住宅》で騒がしいようだ。次期国会での法案化へ向けてうごめいているらしい。
ことの発端は、前にも書いたが、日本の住宅、とりわけ最近建設される木造住宅の短命さ。

   註 日本のすべての木造住宅が短命なのではない。
      現在の建築法令に基づく事例の多くが短命なだけ。
      07年10月25日に同じことを書いています。 

これも既に何度も書いたことだが、「短命」解消のために第一に考えられているのが「物理的耐久性」のようだ。
同時に考えられているのが、200年住宅向けの「ローン」、そして「不動産取得税、固定資産税の減免」、「転売システムの構築」などらしい。
もちろん、この管轄は、「国交省」。

先ず、「物理的耐久性」について。

木造の建物も、他の材料の建物同様、当初材が永遠に当初の状態を保ち続ける、などということはない。
ただ、木造の優れている点は、改造ができること、そして、部材を交換することで長期にわたり維持することが可能なことだ。法隆寺の場合、当初材はごく一部にすぎないから、建物が世界最古と言うのはおかしい、と世界遺産指定の際、問題にされたほどだ。

   註 ここでの木造建物とは、日本で古来行われてきた木造の
     「軸組工法」を指している。
      いわゆる「枠組工法」:通称「2×4工法」は、性質上
      改造・増築・修理は、基本的に不可能である。
       
私たちは、「現行の日本の建築法令準拠の建物では、改造や保全・維持のための部材交換は、先ず不可能である」という「厳然たる事実」を認識する必要がある。
なぜなら、建築法令の拠ってたつ理論は、「耐力壁」の確保優先のため、改造はもちろん、保全・維持のための部材交換、という点については、まったく考慮していないからである。

木造建物の最も取替えが必要になる部位は、軸部の下部:土台や柱脚である。
ところが、現行法令の規定するアンカーボルト、そして仕口に奨められる金物の類は、部材交換にとっては、障害以外の何ものでもない。
たとえば、傷んだ土台を取替えるには、軸部をジャッキアップして、傷んだ箇所を新材に取替えるのだが、アンカーボルトがあると、柱の「根ほぞ」+「ボルトの出」のジャッキアップを必要とする(いわゆる「伝統的な工法」では、「根ほぞ」分で済む)。
しかも、伝統的な工法では、取替えに際して、新材を水平移動して取り替えることができる「継手」(「台継ぎ」「金輪継ぎ」)も用意されているのだが、アンカーボルトがあると、水平移動の邪魔になり、この「継手」を使うことはできない。
どうしてもアンカーボルトにこだわりたいのなら、この取替えを容易にできるボルトを考案すべきなのだが(捻じ込み式のボルト)、その気配もまったくない。

ホールダウン金物に至っては、柱脚補修・取替えの邪魔になるだけ。

とにかく、補強金物は、改造はもちろん部材交換をまったく考慮していない。
実際、現実に、補強金物オンパレードの建物は短命である、という事実を直視していない!何のための補強なのか?耐久力補強のためではなかったのか?こういうのは、自己矛盾の最たるもの。

さらに、多くの場合、補強金物使用の工法では、それらが隠蔽されるのが常。いわゆる《断熱材》の使用にあたっては、ようやく壁内結露が問題視されるようになったけれども、補強金物面への結露現象については、まったく考慮されていない。考慮されているのは、金物の防錆だけ。金物が錆びなくても、木部は結露で傷んでくる。

つまり、長期耐用住宅の物理的長命を保証するには、増改築を可能にし、かつ、部材交換を可能にするような「建築法令の真の意味の改訂」が必要不可欠だ、ということ。
もっと言えば、《机上で考案される》細かな規定などの法令は一切不要、現場に任せなさい、ということ。
そうすれば、「現場の質」「技術者の質」も自ずと向上する。
近世までの技術の展開・その歴史を直視しよう。国家が、技術に対して机上の論理で口を差し挟んだことなど、一度もない、と言ってよい。
何よりも、そうすれば、不用な人員の削減に連なるではないか・・。

   註 そしてさらに追加すれば、「高気密・高断熱」という
      「いかさまな理論」の呪縛からの解放も必要だろう。
      高気密・高断熱にして、四六時中換気扇をまわす、という
      バカラシサからの脱却、ということ。

次に「長期耐用住宅用のローン」について。

この施策策定者には、長期耐用住宅をつくるには長期で返済するローンが必要だ、という妙な錯覚があるようだ。つまり、100年住宅だから100年ローンが必要!?
なにもそんなに気張らなくても、通常のローンで、増改築可能・部材取替え可能∴長期にわたって暮せる建物、をつくることは簡単にできる。何を誤解しているのだろう。
あるいは、ことによると、「長期・・・」に名を借りて、「〇〇ローン」という新金融商品の創設が目的だったのではあるまいか(今こそ問題になっているが、アメリカ流のサブプライムローンの創設が頭にあったのでは)。要は、新しい金儲け話・・・。

「不動産取得税、固定資産税の軽減」について

前に書いたが、木造に限らず、日本の住宅が中古、つまり社会的財として、継続できなくなっている最大の理由は、固定資産税の高騰と、なによりも相続税の高さにある。相続税について、策定者は何も触れていない。取得税などは、それに比べれば小さい小さい。
これら税金支払いのために、日本の住宅、というよりも住宅の建っている土地の細分化が進み、中古も何も、建物は消失してしまうのだ。
つまり、日本の住宅を社会的財として長命化させる、最も優れた策は、地価上昇を善とする政策・発想:地価上昇=地域経済力の上昇、という思考、から脱却することだろう。
その点でも、土地は天からの預かりもの、との考えに拠る江戸時代の経済政策、土地政策は優れていた、と言わざるを得ないのである。

つまり要約すれば、日本の住宅が短命になったのは、現行の国家の「政策」のゆえなのだ、ということの認識が必要ではなかろうか。小手先の策で、なんとかなる類のものではないのである。

   註 かつて、自然との調和が歌い文句だった筑波研究学園都市で、
      それとまったく逆の方向の「開発」が進んでいる。
      かつて、公務員宿舎であった一帯の数十年経過した樹林を
      根こそぎ伐採し、一戸の敷地50坪の「庭付き戸建て住宅」が
      売り出されている。
      目の前に隣の家の壁が迫り、いったいどこに庭があるの?と
      問いたくなるその「ものすごさ」については、いずれ写真で
      紹介したいと考えている(営業妨害になる?)。
      なぜこの田園地帯で50坪なのか?地価が高騰したからである。
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続・喜多方・登り窯の再稼動

2008-04-06 20:29:08 | 煉瓦造建築

[説明追加、23.34]

「産業遺産」に認定された喜多方の登り窯をはじめとする一群の「活用」について、喜多方市役所から連絡をいただいた。

5日付で書いた「遺産の活用」の続きをかねて、登り窯の焼成過程について説明をしようと思う。

先ず、この「登り窯」は、「遺産」なのかどうか、ということについて。
先回の私の定義で言えば、遺産とは、所期の目的を果し終えたもの、しかし、後世に伝え遺したいもの。
では、この「登り窯」は、目的を果し終えたのか、というと、実はそうではない。
この窯でつくられる瓦や煉瓦に対しては、今は忘れられてしまっているが、根強い需要があった。
なぜなら、その性能が、喜多方の状況(通常の言葉で言えば「風土」)に適合するように工夫・考案されていたからである。
ただ、一回の焼成でつくられる数には限りがあるから(煉瓦換算で約1万本/回)、直ぐに供給できない場合もあった。
そこへ、電気焼成等による大量生産の瓦焼成工場が各地に出現し、トラック輸送で遠隔の地まで、常時、しかも廉価に供給されるようになり、登り窯は休業せざるを得なくなったのである。
良質の地場に合った性能の製品が、廉価な大量生産品によって駆逐される、というのは、今の日本のたとえば衣料品や食品と軌を一にしていると言ってよい。

   註 これをして「市場原理主義」として当然のこと、と容認する
      経済学者がいるが、そこにはかならず「あざとさ」が表われる。
      それは、最近頻発した「食品」の事件で明らか。

更に、規格面でも、国家レベルで画一的に《統一・標準化》されたから、いわば「ふぞろいな製品」の登り窯焼成品は、あたかも劣悪な性能であるかのように誤解さえされてしまったのである。

   註 先回の喜多方・登り窯の記事に、三州瓦の生産者の方から
      次のようなコメントをいただいた。一部を抜粋紹介する
      (全文は、当該記事のコメントでご覧ください)。
      「弊社でも一応全国規模の出荷体制を持ち営業していますが、
      出張の際にそれぞれの土地で古い建物を見るのを楽しみに
      していますが、かつてそれぞれの土地で作られた瓦の色を
      美しいと思うことが度々あります。
      ただこれらの地方の色彩豊かな瓦を駆逐し滅びさせてしまった
      のは私たち三州瓦なのだと気付いたとき、愕然としました。・・」

また、建築法規は、実態を無視して、煉瓦造を頭から耐震性のない工法と見なしているため、建物に煉瓦を用いることが圧倒的に少なくなってしまった。
建築基準法の「浸透」していなかった1960年代までは、喜多方周辺では「木骨煉瓦造」が多数建てられていたのだが、現在は多分認められないと思われる。

   註 1964年(昭和39年)の「新潟地震」では、喜多方もかなり揺れ、
      土蔵の壁の崩落や、煉瓦造の煙突等には倒壊事例が見られたが、
      「木骨煉瓦造」のいわゆる「煉瓦蔵」をはじめとした煉瓦造の
      建物には倒壊に至るような被害はなかったという。
      特に、初期の漆喰目地の建物にはひび割れが少なかった、という
      事実は、注目に値する。
      建築関係者は、単に「法令」を鵜呑みにするのではなく、
      この事実・実態を、冷静に認識すべきではなかろうか。

つまり、喜多方の登り窯を「遺産」化させてしまったのは、すべて、「理の通らない人為」によるものなのだ、と言ってよい。
それゆえ、私は、先回も、そして今回も、「遺産の活用」ではなく、休止していた窯の「再稼動」という言い方をしているのである。

前置きが長くなってしまったが、登り窯とその焼成手順を簡単に説明する。
前回、3月23日の記事の図版もあわせてご覧ください。

上掲の図は、登り窯の断面スケッチ。
このようなトンネル状の窯が、斜面に沿って何連かが並べられる。
この窯の場合、トンネルの長さは4.5m、幅・高さとも約1.1m。これが10連並ぶ。
各窯の段差はおよそ30cm、いくつかの「火道」が窯相互の底に通じている。

写真左列の「上」は、煉瓦の素地の制作。左列「下」のような形枠に、練った粘土を叩きつけて成型する。そのため、密度の高い締った素地ができる(機械による押出し成型だと、圧縮度が少なく密度が低くなる)。
「中」は、形枠でつくった素地の乾燥:天日乾燥。写真「下」の形枠内の煉瓦は乾燥後の未焼成煉瓦(素地)。つまり、乾燥によりこれだけ小さくなる。天日乾燥期間は夏季で一週間、春・秋は一ヶ月程度。

写真右列「上」は、日乾し煉瓦(素地)の窯入れの用意。喜多方では、焼成前に日乾し煉瓦を釉薬に浸す。積んである素地は、釉薬処理済みのもの。
窯の側面の開口から、搬入し、搬入終了とともに、開口は右列「下」のように、土で封鎖される。
なお、この窯では、通常、瓦と煉瓦が同時に焼成されていた(手前側に煉瓦、奥側に瓦を置いた)。

焼成は、先ず、最下段の窯の三つの焚口から約12時間、重油バーナーで火を送り込む。窯は、下から順に徐々に加熱されてゆく。

窯内の様子は、窯側面に開けられた点検口(断面図参照)から覗いて確認する。
最下段・第一連の窯の内部の素地が輝赤色に輝くようになったら、第二連の窯の作業に移る。
第二連からは、両側面の投入口から、10~15分毎に薪を投げ入れて内部温度を一定に保つ(約1200度、点検口から覗いて炎の色:赤から白に変るあたり:で確認する)。第二連の焼成には約3時間。
右列「中」の写真は、第六連の焼成中、薪を投げ入れているところ。[説明追加]

以降は同様の作業を続ける。
各連の焼成時間は、少しずつ短くなる。全てが終るのには約40時間。

窯からの製品取出しは、窯が冷える約二日後。ふさいでいた開口の土壁を壊して取出す。

再稼動でつくられる煉瓦の建物への使用は、今のところ、想定外のようだ。何とかしたいと私は考えている。

   註 1997年、立教大学の礼拝堂(大正9年建設)の修理に際して、
      当登り窯で特注品の煉瓦が製造されたとのこと。
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雑感・・・・続[世界遺産指定=地域の活性化]なのか?

2008-04-05 18:37:40 | 居住環境
先回、次のように書いた。

「木造の建物が長きにわたって初期の「目的」のまま、たとえば住まいなら住まいとして、使い続けられるということは、その建物が、どの時代にも使いこなせる建物であった、しかも補修・改修を加えることのできる建物であった、ということにほかならない。さらに大事なのは、その補修・改修の費用も、そこでの暮しで捻出できる程度であったということ。そうでなければ、維持はできない。
もし維持できなくなったならば、簡単に言えば、そこで暮せなくなったならば、どうなるか。
歴史の上では、多くの場合、暮せなくなった建物、暮せなくなった場所は(暮せなくなった理由はいろいろだが)、放棄されてきた。それが「遺跡」である。
そして、木造の場合、「遺跡」の多くは朽ち果てる。石造などならば、中南米のインカの遺跡のように、密林の中で発見されることもあるだろうが、木造はそうはゆかない。」

白川郷の合掌造のようなたぐい稀な建物の場合、おそらく全ての人が、それが失せてゆくことはもったいない、あるいは、だから保存しよう、と思う。
しかし、「失せてゆく」という心配が持ち上がるのは、あるいは「保存しよう」という動きが生まれるのは、それが既に所期の目的を達し終えたからであり、もしもそうでないのならば、そういう心配は無用であり、保存しようと思わなくても存在し続けるはずである。

私は、この「冷厳たる事実」を、先ず認めるべきだと思う。
なぜか。
多くの場合、所期の目的を終えた建物を、何らかの別の目的で使用することで維持・保存しようという発想がとられることが多い。それをして「活用」と呼ぶようだ。しかし、その「活用」の多くは、その建物を、言葉はわるいが「人寄せパンダ」にして観光客を呼び寄せることのようである。人が集まれば、新しい目的が達せられる、かのように思い込む発想である。観光客の落してゆく金で、建物や地域が現状の姿を維持しさえすればよい、という発想である。

けれども、それがその建物にとって好ましいことではないことは明らかである。その建物は、そのようなためにあったわけではないからである。
まして、それが白川郷のような「地域」全体の場合、そのような「活用」が一般化するならば、建物や地域の「形体」は残っても、その地域の、そしてその建物の存在の「本当の姿」「本来の姿」は見えなくなってしまうのは明らかであり、ことによると、本来の姿が「誤解」されてしまうことさえあり得るだろう。

今はやりの「遺産の活用」は、私には、いわゆる「延命治療」に思えてならないのだ。
地域も建物も人と同じく、静かに寿命を終えてよいではないか。歴史はそれを繰り返してきたのだから。

   註 活用:そのものが本来持っている働きを活かして使うこと。


では、どうしたらよいのか。
それは、雑念をいれず、「歴史的資料としての保存」に徹することではなかろうか。そして、その「本来の姿」を、詳細に描き遺し、後世に伝えることではないだろうか。
それでは単なる「博物館」と何ら変らないと言う方々もいるかもしれない。
それでよいではないか。そのどこが悪いのか。

大事なのは、たとえば、「白川郷という地域に合掌造という建屋が存在した」、それはなぜなのか、それについて深く思考を続けることなのだ。
そしてそれを通じて、今・現在、私たちは、地域や建物に、どのように対してゆくことが必要か、それを考えることなのだ。
単なる観光の対象として、ただ「見た」で済ますこと、済んでしまうことほど怖いことはない、と私は思う。

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雑感・・・・[世界遺産指定=地域の活性化]なのか?

2008-04-02 16:03:31 | 居住環境
[文言追加:4月3日10.11]

先日のTVの報道によれば、世界遺産に指定されて以来、飛騨・白川村では人口が増えてきたという。村から出ていった人が戻ってきたり、あるいはよそから移住する人が増えているかららしい。世界遺産に指定されたおかげで、過疎化に歯止めがかかった、地域の再興だ、と喜んでいる人たちもいるようだ。

しかし、本当にそう思っていいのか、私には少なからず違和感があった。
戻ってきた人たちの大方は、世界遺産目あてに訪れる観光客相手の民宿をやったり、みやげ物店を開くようである。移住する人は、たとえば、合掌造を借りてアトリエなどにする人たち。
なぜ私が違和感を感じるのか。
こんな形で人口が増えたからといって、それが即地域の再興に連なるとは思えないからである。

このごろはほとんど人の口にものらない妻籠宿。言ってみれば、これが「遺産を観光《資源》として《活用》する」動きの日本での走りと言ってよい。
今はどうか。観光客も減ってきたようだ。そして、観光客相手の商売をより活性化しようと建屋の改造をしようとすると、それはできない。「遺産」の改変になるからだ。一方で、「遺産」の原型維持をしなければならない。木造建物の宿命は、それを維持してゆくには、ときには構造部材の取替えをも必要になる補修を常に行わなければならないこと。それには金がかかる。その費用をどうするか・・・。

木造の建物が長きにわたって初期の「目的」のまま、たとえば住まいなら住まいとして、使い続けられるということは、その建物が、どの時代にも使いこなせる建物であった、しかも補修・改修を加えることのできる建物であった、ということにほかならない。さらに大事なのは、その補修・改修の費用も、そこでの暮しで捻出できる程度であったということ。そうでなければ、維持はできない。
もし維持できなくなったならば、簡単に言えば、そこで暮せなくなったならば、どうなるか。
歴史の上では、多くの場合、暮せなくなった建物、暮せなくなった場所は(暮せなくなった理由はいろいろだが)、放棄されてきた。それが「遺跡」である。
そして、木造の場合、「遺跡」の多くは朽ち果てる。石造などならば、中南米のインカの遺跡のように、密林の中で発見されることもあるだろうが、木造はそうはゆかない。

日本の場合、きわめて長期にわたって健在な建物の多くは、社寺建築である。住居では、どんなにさかのぼっても三・四百年程度。暮しの様相が変ってしまうと、ついにはついてゆけない時がくる。
社寺はなぜ長命か?
もちろん、すべての社寺が長命なのではない。放棄された例は、数知れないはずである。
長命な事例は、それを支える人たちが長年にわたり居た、ということ。今は、支える人たちに観光客も含まれるのかもしれない。しかし、観光客だけで、その存在が維持されているのではないことに留意する必要があるだろう。「主体」があるのだ。

では、白川郷の場合は、どうだろうか。各合掌造の「主体」は、今でもあるのだろうか。あの巨大な空間が、現在の暮しにとっても必然なのだろうか。それを維持することの必然もあるのだろうか。維持するための費用も捻出できるのだろうか。その費用は、「世界遺産」なのだから、国なり県なり、あるいは募金で補填すればよい、と考えているのだろうか。あるいは、維持はボランティアに頼めばよい、とでもいうのだろうか。しかも、白川郷は、一個の建物ではなく、「地域」なのだ。[文言追加]

大分前に、福島県、会津裏街道の「大内宿」について触れた(07年6月20、21日)。そこでは、大内集落の子どもたちの通う学校は廃校にして、その一方で、元宿場の通りに観光用に「本陣」をつくっていた。
私には、その施策は本末転倒に思えた。
祖先の遺産を観てもらうことだけで生計をたてる、という暮しが、はたして地域の活性化になるのか。そこに住む人たちに、そういう暮し方をいわば強いることを、地域の活性化というのだろうか。

これも大分前に、信州・塩尻の「島崎家」を紹介した。250年以上、同じ一家が、改造・改修を加えながら代々暮し続けてきた事例である。しかし、その250年の歴史の中で、ある時から以降は、暮しづらくなってきている様がみえる。改造・改修では暮しの変容についてゆけなくなった時である。
しかし、その建物が歴史的な資料としての価値を認められたとき、つまり「文化財」「文化遺産」とされたとき、その家の今の住人は、今の暮し向きの住まいを別に設け、同時に「文化財」の維持・保存をも行う生活に転換した。
このようになるためには、そこで暮す方々の同意と意志が不可欠だろう。
「伝建地区」になる前の奈良・今井町の江戸期建設の住居も、個々の住居に住まわれる方々の「同意」で保存され、「意志」で維持されていたはずである。
伝建地区に指定されてから、極端に言えば、今井町に暮す方々は、伝建地区という「規制」の中で暮さざるを得なくなり、「意志」はいわば無視されることになったように見える。実際、これも以前触れたが、伝建地区になってからというもの、今井町からは、「今」の生活のにおいが失せた、映画のセットのごとくになってしまっている。これでいいのだろうか。

つまり、白川郷も、世界遺産に指定されたがゆえに、逆に、世界遺産という大きな「規制」をかけられたことになったのではないだろうか。
あえて言えば、世界遺産の指定というのは、「人間の(よそ者の)勝手」以外の何ものでもないような気がしてくる。
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