“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-37

2016-10-28 15:53:27 | 「学」「科学」「研究」のありかた



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かなり間が空いてしまいましたが、Late medieval roof cobstruction の 最終項を載せます。前回とあわせお読みいただければ、と思います。

       Side-purlin roof

    Side-purlin roof とは、垂木の側面に、垂木相互の暴れ防止のために添える添木:補強の横材であると推察します。
    以下の図を参照ください。通常のpurlin:母屋とは異なり、屋根の荷重を承けるのが主たる役目ではないと考えられます。

ケント地域で Side-purlin が見られるようになるのは、かなり遅れる。地域によると、比較的大きな建物で、14世紀の第二四半期に crown post に代って使われるようになるが、ケントにはその事例はない。 1340年代の PENSHURST PLACE の屋根では、crown post と併用されているが、典型的なケントの事例とは言い難く、後継事例もない。
イギリス各地の初期の Side-purlin roof の多くは、高い繋梁に至る斜材:brace との併用が目立つ。しかしケントでは、このような斜材が用いられる場合でも IGHTHAM MOTECOBHAM COLLEGE の例のように、その上に crown post が設けられることがあり、また WOULDHAMSTARKLEY CASTLEWROTHAMYALDHAM MANOR のように、垂直方向の部材が見当たらない例もある。
これらの事例は石造であるが、中流以下の人びとの木造架構の建物に用いられるSide-purlin roofは、多くの建物に使われるようになる15世紀後期まで知られていなかった。この工法は、初めに北西部で現れるが、多分 WESSEX 地方から入ってきたものと考えられ、ケント東部で使われるようになるのは、16世紀も第二四半期になってからであろう。clasped purlin(下図参照)、queen-strutwind-brace 併用の小屋組は、世紀の変り目に北西部で見かけるようになる。fig87bNORTHFLECT GRAVESEND に在る1488~1489年建設の THE OLD RECTORY HOUSEや、SUNDRIDGEDRYHILL FARMHOUSENEOPHAMOWLS CASTLE などがその例である。
     clasped purlin
      fig87のように、合掌材:垂木を中途で承け、垂木の暴れを防ぐために設けられる部材:垂木を「留める:clasp」:日本の母屋桁に相当と解します。
      ただし、日本の場合に比べ、材寸が小さめですから、荷重を承けることよりも垂木の暴れ止め:位置の調整が主たる目的と思われます。    



詳細な記録が為された SURREY には、clasped purlinの屋根を架けた事例が多数在り、西部よりも東部の方が進んでいる傾向がうかがえる。しかし、それを普及速度が遅かったからと見なすのは誤りで、比較的新しいclasped purlin roof を、ケント地域内の各地で見ることができる。東部地域には、WEALDEN 形式の2事例:1496~97年建設の CHARTHAMDEANERY FARMSANDWICH 近傍の ASHTHE CHEQUER INNfig87a) が在るが、この2例は似たような屋根をしている。他に、やや小さく、建設年代も遅いと思われる UPPER HARDRESCOTTAGE FARMHOUSE などが在る。CHRIST CHURCH 教区には、同様のclasped purlinの屋根がかなり遺っていると報告されており、また、CHARTHAMDEANERY FARM は修道院によって建設されているから、これら東部地区の事例の発祥の由来には、教会が大きく関係しているものと思われる。
ここまで紹介してきた事例には全て、queen strutwind brace があるが、建設年代が遅いと思われる他の事例は、必ずしもこの特徴を有さない。
16世紀の30~40年代の建設と見られる WALTHAMANVIL GREEN に在る DENNES HOUSE THE COTTAGE の2事例には、煙で黒くなった clasped purlin の屋根が遺っている。
ケント北部の BORDEN に在る SHARPS HOUSE にも crown^post の屋根を補強するために採用された clasped purlinの屋根 があるが、hall は昔の形のままだが、新しい部材は煙で黒ずんでいるから、改造は16世紀に入った頃に為されたのではないだろうか。
16世紀の中頃までには、Side-purlin roof は大半が crown^post roof に改造されたようである。ただ、世紀中期~後期の事例については、今回は、十分に調査・検討されてはいないが、数多くの clasped purlin roof の事例が見つかっている。これらは、特に cross^wing に見られる。いずれも、当初の建物を改造した事例に見られる:、CHILHAMHURST FARMSITTINGBOURNE 近傍の NEWINGTON に在る CHURCH FARMHOUSE などがその例である。Side-purlin roofには別の形式もある。それは butt purlin :太めの母屋桁:を用いる場合で、そこでは、縦方向の部材が、繋梁と垂木の間に単に置かれているのではなく、主要な垂木でしっかりと留められている。この工法は、東部では1600年代以前に現われるが、ケント地域にはやや遅れて伝わったと考えられてきた。しかし太めの母屋を使う事例は特殊であり少なく、その用法はよく分っていない。
イギリスの他地域では、butt purlin :太めの母屋桁 は既に14世紀後期までに現れているが、ケントで最も早い事例は、CANTERBURY の石造の MEISTER OMER'S の木造屋根である。これは、1440年に枢機卿 HENRY BEAUFORTによって建てられた建物である。それから少し遅れてCANTERBURY CATHEDRAL の北西の TRANSEPT :翼廊(本体に対して直角に建つ棟の呼称)に建てられている。MEISTER OMER'S の木造屋根の建設年確定しているとは言い難いが、 butt purlin :太めの母屋桁 が、なぜその頃まで使われなかったのか、その理由は不明である。ケント地域が crown-post 形式 へのこだわりが特に強かったとは思えないから、上流階級の建物の建設や CANTERBURY CATHEDRALでの建築でbutt purlin が用いられなかった理由か分らないのである。
butt purlin 屋根が現れるのは全般に遅い。ただ、普通よりも上層の建物に例外が2例ある。いずれも1500年ごろか16世紀初頭に建てられた造りのよい arch-braced 屋根の建物である。それは HORSMONDENRECTORY PARKcross wingGOUDHURSTTHE STAR AND EAGLE INNfig88) である。

同じような事例が WOULDHAM の STARKEY CASTLE の石造の建屋に遺っていたが、既に改造されてしまった( fi9 89)。

同じようにbutt purlin :太めの母屋桁crown-post 形式 とを併用している事例は、一般的ではないが、SHAKESPEARE HOUSE でも見られるが、そこでは crown post はなく、arch bracebutt purlin が中央の collar purlin と一体になっている。
   註 この部分、直訳しておきます。図がないので理解に苦しみます。
ほとんど同じ頃、単純な butt purlin は、数は少ないが、小さな建物で使われている。これらでは、普通の tie-beam の小屋組と太めの母屋桁と併用されている。FARRINGTONS では、wealden 形式EDENBRIDGE BOOKSHOP の建物は、butt purlin queen strutwind brace とともに用いられているが、。の建物は年輪時代判定法によると1476~77年よりも早い時期の建設とされている(fig 90a)。rocks 、east malling 、larkfield は総二階建の建物は1507~08年の建設と思われるが、この建物では小屋組二つはbutt purlin を使用し、もう一つは clasped purlin の小屋組としている(fig 90b)。垂直方向の安定性は crown strut が担い、wind brace が母屋桁から頂部を結んでいる。これらの屋根は、clasped purlin roof 工法の別種と見なしてよく、中世後に現われる butt purlin 屋根との類似点は少ない。これらの事例では、母屋桁は、梁間に主たる合掌材:垂木を承けるべく架けられ、他の垂木は母屋桁に単に架けるだけではなく、母屋に枘で留めている。ケント地域では、butt purlin がこれまでの想定よりも早くから用いられていたのは明らかではあるが、一般的な工法ではなく、中世後の形式として1600年頃に注目されるようになるまでは、影響は小さかった。

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  以上でLate medieval roof cobstructionの章は了となります。
  次回からは、Form and function:the internal organisation of houses in the laye Middle Agesの章の紹介になります。
  編集に時間がかかりそうです。ご了承ください。

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-36

2016-09-09 10:10:50 | 「学」「科学」「研究」のありかた



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大分間が空きましたが前回の続きです・・・。

Collar-rafter roofs with crown struts
  一部補訂[0908、1010am)

collar-rafter roof の事例中、14件には crown struts繋梁を支える束柱 があった。
この束柱は、crown post とは異なり、繋梁だけを承け、桁行方向の材:母屋桁は承けてはいない。
   註 collar-rafter roofcrown post については、(前回記事「―35」参照)
一見すると、これらは、先に5章で触れた13世紀から14世紀初頭にかけての CANTERBURY 地方の crown struts roof に似ている。これらの事例は、最近になり、 SUSSEX、SURREY 地方の木造建築に見られる似たような形態の屋根も関係しているかもしれないと考えられるようになっている。この地域の事例には、14世紀あるいはそれ以前の建設と見なされる例もあり、それらは、ケント地域でのcrown struts 誕生との関係を確かめるために、調査する価値があるからである。
この14事例のうち12事例では、crown struts は open hall 形式の建物にあるが、そのうちで唯一 EAST PECKHAMOLD WELL HOUSE の事例は、fig86b (下図)のように open truss空間を横切る小屋組 の上にある例である。

多くの事例では、 open truss は取り壊されていて如何なる形状であったかは確認できない。しかし、5事例では、crown strutsは、仕切り壁になっている小屋組にだけに見られる。fig86cSHELDWICHOAST COTTAGE のように、桁行1間で、梁が仕切り壁内だけにあるからである(空中を飛ぶがない)。
第二の注目点は、crown strutsを備えている家屋の形式にある。と言うのも、crown strutsWEALDEN 形式の家屋にはなく、cross-wing にも見かけず、唯一 end-jetty 形式にあることである。その例が、 fig86aSMARDENTOLHURST FARMHOUSE や EASTLINGPLANTATION HOUSE や、 end-jetty 形式 であったと思われるが、現在はきわめて部分しか遺っていないいくつかの事例である。たとえば、EAST PECKHAMHALE STREET FARMHOUSEBUSH FARM COTTAGE などがその例である。
collar-rafter roofのこれらの様態から分るのは、それが15世紀よりもやや早くから現れるということである。
これは、SURRY のMEAD MANOR の1465年建設と考えられる厨房棟でも使われていることでも明らかだろう。同様に、ROCKS,EAST MALTING AND LARKFIELD は用途は不明ではあるが、1507~8年建設と考えられる(下掲のfig90b参照)。

しかし、crown strutsの全てが15世紀後期以降の建設事例だけにに見られるというわけではない。たとえば、WALTHAM の HANDVILLE GREEN などでは、二個の尖頭アーチの出入口があるが、15世紀中期あるいはそれ以前建設と考えられている。
crown strutsが wealden 形式や cross wing では見られないというのは事実であるが、比較的大規模の建物にだけもちいられているように思われる。先に、collar-rafter roof、の家屋の地上階の面積は平均62~68㎡であると書いたが、crown strutsがあり、地上階の全容の分かっている open-hall 8事例の地上階面積は、80から123㎡ある。つまり、平均値を超えているのである。これらの事例は建物の幅(梁行のことか?)も平均より大きく、それゆえ、crown strutsは、過大で補強斜材のない屋根の小屋組で用いられたと考えられてもおかしくない。この束柱が、構造上の役割を十分に果たしているとは言い難いが、しかし、他の役割が在ったとも言い得ない。それは、crown post roof 形式の屋根一般の部材として実用上、あるいは装飾上の役割を担っていたのではなく、比較的格の低い end-jetty 形式や collar-rafter 形式の屋根を有する建物に限定的に用いられたと見なしてよいだろう。以上のように、13世紀あるいは14世紀初期のcrown strutsと大きな関係がありそうだ。この時期の struts も構造的役割を有してはいるが、ケントの場合は、高級な石造家屋だけに事例が見られ、また open tussres :間仕切り部ではなく宙を飛ぶ小屋組:にだけ用いられている。
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次回 Side-purlin roof に続く

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-35

2016-07-09 09:18:12 | 「学」「科学」「研究」のありかた



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Collar₋rafter roofs
   Collar-rafter roof : 垂木 rafter で合掌をつくり、首の部分を繋梁 collar で繋ぎAの字形に組み、それを横並べして屋根を形づくる工法(後掲の図参照)

単純な Collar-rafter roof は、一般にごく初期かあるいはごく後期につくられていると一般に考えられてきた。実際、遺構は、二つの時期に明白に分かれて存在する。先に第5章でみたように、13世紀後期から14世紀初期にかけての遺構(多くは大きな石造建物に見られるが)は、比較的幅(梁間)の狭い付属棟に多い。Crown-post roof が14世紀に一般的になり、社会的に広まるにつれ、Collar-rafter roof が姿を消していったようである。table 2 (下に再掲)で分るように、14世紀後期以降の木造建物には、この形式の事例は極めて少ない。この形式の屋根は15世紀初頭から普及しだすが、それも、16世紀に入ると、全体の四分の一にまで減ってしまう。

このような現象の理由は、Collar-rafter roof 工法とそれを用いる建物の認知度と大きく関係している。この工法は、WEALDEN 形式の家屋には全く存在しない。cross wings を持つ家屋に見られることがあるが、多くは(調査された事例の72%程度) end-jettied 形式unjettied 形式の家屋に用いられている。下に載せる fig85 に示す EAST PACKHAMOLD WELL HOUSEBETHERSDENPIMPHURST FARMHOUSE や、用途がはっきりしない建物や複合形式の建物がその例である(それには、厨房と思われる例も含まれる)。
これらの多くは、規模が小さい。下にこのシリーズ「-26」に載せた 家屋の型式別の床面積を整理した表 fig67 を再掲します。

この表で分るように、WEALDEN 形式の家屋の地上階の面積は、時代によらず平均して80㎡程度である。一方、end-jettied 形式の家屋は、1406~75年には75㎡であるが、以後は64㎡程度に低減している。けれども、Collar-rafter roof の建物は、1475年以前は平均68㎡、以降は62㎡になるなど、時期によらずほぼ一定している。
このような違いは、梁を承ける壁の高さ:桁の高さ:で比べてみても同様である。梁を承ける壁の高さ:桁の高さ:を示したのがtable 4 である(下掲)。
この表は、母屋と cross wing :付属棟とに分けているが、Collar-rafter roof の建物は、母屋では全体の61%が3m以下であり、母屋と付属棟を合わせると、Collar-rafter roof の建物の34%は(この数字がどういう算定か分りません)4mよりも低く、総じて低いと見なしてよいだろう。4mを越える例は、134例中僅か7例に過ぎない。梁を承ける壁の高さ:桁の高さが高くなると、Collar-rafter roof 形式は急減するのである。



これらの図は、建設時期が遅いほど Collar-rafter roof は小さく、丈の低い建物に使われ、建物の規模とこの最も単純な形式の屋根の間に密接な相関があることを示している。更に、この形式が14世紀後期と15世紀初頭には建設例がないのは、建物の規模が直接的に関わっていると考えてよいだろう。この形式が一旦使われなくなった後、5・60年後に再び使われだしたなどということは考えにくい。おそらく、crown post を使える余裕のある裕福な人びとにとっても、その代替工法として重用されたのではないだろうか。
つまり、おそらく、この形式の工法 :Collar-rafter roof は実用的な建物、簡単な小さな建物に使われ続けたのである。この類の建物は、15世紀項は以前までは、少しではあるが建てられ続け、それとともに、Collar-rafter roof も生き永らえたのである。
Collar-rafter roof 工法は、多分、14世紀、15世紀初期を通して途切れることなく用いられたと考えられるが、現在、その後期の事例のみが僅かに遺っているに過ぎない。
                                                     この節 了
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      次回は、Collar-rafter roofs with crown struts の節の予定です。


筆者の読後の感想
二本の材を逆V形に組み合掌をつくるのは、木材で建物をつくる最も基本的で簡単な方法です。ただ、合掌の底辺:梁間:を大きくするには、材:垂木:を長く断面も太くする必要がありますが、それは、針葉樹に比べ広葉樹では至難の業です。しかし、それにあくまでもこだわる。その「熱意」はすごいと思わざるを得ません。
日本の場合、垂木だけで屋根形を構成する方法を早々とやめ、束と母屋桁が屋根の構成材の主役となります。それによって、垂木は細身で済み、屋根の形もいわば「自由」になった、と言えるかもしれません。
この彼我の「発想の転換点」が何に拠るのか、考えてみたいと思っています。

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-34

2016-06-27 14:41:43 | 「学」「科学」「研究」のありかた



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文言補訂[14.41]
Late medieval roof construction

屋根の架構法は、既に存在しない場合や近付くことも不能な場所にあっても、中世建築で元の姿を推測できる唯一の部位と言ってよい。何故なら、当初の形状を、繋梁に穿ってあるの孔や(ほぞ)孔などから推測できる事例が多いからである。そのような調査から、いくつかの家屋では全く知られていなかった屋根を備えていたことが分ってきた。中世の構築技術の進展は、家屋の形式で論じられることが多いが、同様に屋根の架構法の観点で考究することができる。たとえば、地域分布状況からの考究、それぞれの家屋形式で常用される屋根架構法の観点からの検討などである。全容を捉えることが大事で、部分の様態だけからの分析は好ましくないのである。

Crown-post roofs

Crown-post を用いる屋根は、イギリス中に分布しているけれども、15世紀から16世紀の初期にかけて、北東部で最盛期に達している。ケント地域の調査では、1370年以降と見なされる事例の75%、448例中337例が Crown-post 工法に拠る屋根であった。
   註 Crown-post 工法については、このシリーズの「-16」を参照ください。
     そこに掲載の解説図 fig42 を再掲します。図の bCrown-postです。
     合掌の頂部をを承けるのが king-post または king struts それより下部の collar:首回りに設ける繋梁を承ける方法をCrown-postと呼ぶようです。
     その場合、合掌を構成する二面の垂木:rafterは、棟部分で相互を組み合わせ固定しているものと考えられます。
     collar:首回りに設ける繋梁は、大きい合掌のとき、合掌材:垂木・rafter の内側への撓みを防ぐために創案されものと思われます。
     結果として、合掌はAの字形になり安定します。
     おそらく、collar は当初、各合掌ごとに設けられたと考えられますが、数本おきに設け相互を中央部に設けた横材:桁で結ぶようになったのではないか。
     そのとき、更に、この横材とcollar:首回りに設ける繋梁とをからの束柱で承けて安定を強化しようとしたのが、Crown-post と考えられます。
        
下の table2 は、14世紀後期以降建設の木造遺構の、屋根の工法別の年代ごとの分布状況を示した表である。そのいくつかの年代判定は、推量に拠るもの。

表で分るように、14世紀後期では、全体の92%の屋根がCrown-post工法であるが、それより以降では、 collar-rafter 工法の増加や side purlin の採用によって、Crown-postは、時とともに、83%、84%、72%と漸次減少してゆき、16世紀前半に至って、54%へと激減する。最も後期の住居の事例は、1548年建設の PLAXTOLBARTONS FARMHOUSE の二階建の hall に設けられている例であるが、横材に対して二方向の斜材だけのきわめて単純な形である(この事例の 図、写真がないので詳細不明)。
15世紀後期になって side purlin :側面に設ける母屋 が導入されるまで、open hall 上の屋根を端正にすることを望む人びとは Crown-post を採用したのである。
たとえば、屋根の架構形式が記録されている WEALDEN 形式の家屋127事例中、Crown-post 工法以外の屋根は僅か3例に過ぎない。そして、その全ては、side purlin 形式の屋根である。それゆえ、全体的に、最も後期の WEALDEN 形式の家屋では、各種の屋根架構法が可能になっても Crown-post を採用し続けたのである。もちろん、Crown-post工法は、他の形式の家屋にも見られる。
   side purlinpurlin は、母屋と訳される。一般に母屋rafter :垂木を承ける材と考えられるが、この場合は、後項に説明があるが、垂木の側面に添えて、
   垂木相互の「暴れ」を防止する役割を担う補足材と解する。
下の table 3 は、 cross-wing の75%、end jetties 及び各種形式複合家屋の60%以上が Crown-post であることを示している。しかしながら、Crown-post が、WEALDEN 形式 では最も多く、次に cross-wing で多いという事実は、15世紀を通して、人びとにとって、Crown-post 工法の採用がごく普通のことであったことを示唆している。

ケント地域には、大きな、つくりが丁寧な、そしてイギリスでよく知られた木造建物が多いが、それらはいずれも、必ずしも「装飾」が際立っているわけではない。それゆえ、中世後期の装飾の多い SUFFOLK 地域(イギリス東部の州)の建物との同一視は誤りであり、SUSSEX 地域(イギリス南東部)の事例に比べても簡素である。Crown-post の採用への人びとの関心について、この観点を忘れて論じられなければなるまい。
Crown-post の装飾は、一般に、頂部底盤部斜材に、できるだけ簡素に補足的に施されている。1500年頃、大きく最高のつくりの木造家屋を建てた人びとのなかには、より装飾的な屋根を望み、ケントでは一般的ではなかった新しい形式の屋根も採用する人びとも少なくなかった。しかし、全般的に見れば、Crown-post は、ケント地域の人びと一般に幅広く受け入れられた形式・工法であったと言えるだろう。

Crown-post が用いられた約200~250年の間、架構技術上おそび装飾の面での変化・展開は微々たるものであった。付録1 の年輪時代判定法による分析事例が示しているように、後期建設とされる事例と初期のそれとを分別することは容易ではない。というのも、そこに示される各種の様態から、 Crown-post は、当時の木造建築一般に見られる工法であったからである。
13世紀後期から14世紀初頭にかけて、木材を細く小割にするのでなく比較的太い材で用いる傾向がみられる。14世紀のCrown-post は、fig84(下掲) で分るように collar :首部分の繋梁collar purlin :繫梁を結ぶ横材(母屋桁) への斜材の断面がほとんど正方形であることに示されている。

しかし、15世紀中期になると、薄く板状:長方形断面に変ってくる。14世紀には、斜材fig 80afig 81a (下に再掲)のように、soulace を支えていることがあり、更に伸ばしてcollar を越えて rafter まで伸びていることさえある。soulace は、15世紀初頭には用いられなくなるが、fig84g のように、1500年代の丁寧なつくりには再び用いられるようになる。
   soulaceraftercollar を結ぶ斜材の呼称と解します。この材を支える「意味」は何なのか、力の流れはどうなるのか、考えてしまいます。
頂部と底盤部の装飾の変遷は目立つものではなく、区分・分類も至難である。その事例の幾つかを fig84、fig151、fig152 に紹介してあるが、付録1で詳説する。




16世紀になると、屋根架構を格好良く見せることには人びとの関心がなくなり、Crown-post も単純な細身の束柱となり、ときには brace :斜材も設けなくなってくる。
前にも触れたが、ケント地域の人びとは、保守的な気風で、長きにわたり Crown-post にこだわり続けたのである。その結果、架構法の改良などには無関心で、時代を画するような新たな工法をつくりだすこともなかったのである。
                                                              この節 了 
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次回は、 Collar-rafter roofs 他 の節になります。

読後の感想
「合掌」架構への、彼の国の人びとの「執念」とでも言える「こだわり」に、驚嘆せざるを得ません。
ふと思います。彼の国の人びとからは、日本の屋根架構法:束立組は、いったいどのように見えるのでしょうか。

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-33

2016-06-02 14:32:45 | 「学」「科学」「研究」のありかた



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End-jetty houses and end ‘crucks’

先に6章において、小規模で比較的簡素で、年輪判定で遅いと見なされた事例から、「端部跳ね出し(突き出し)形式: end-jetty houses 」の家屋は、主屋に直交して置かれる別棟形式や WEALDEN 形式の家屋よりも後になって発展した形式であると考えられ、よく言われるような後期の形式に先立つ事例ではないことについて触れた。その一つの理由は、それらの多くが、 階上の crucks:upper crucks あるいは end-crucks の名で呼ばれる「湾曲した部材」を持っているからである。この部材は、階上の跳ね出し:突き出し部に設けられ、 half-hipped roof と呼ばれる屋根を承けている。
   half-hipped roof :完全な寄棟屋根ではなく、寄棟屋根の先端部を切り取った形の屋根。fig82, 83 のように、立面上部が台形状になる。
LYMINGEUPSTREET COTTAGESHYTHE 近郊の NEWINGTON にある OLD KENT COTTAGE は、既に公表されている事例である。YALDING 教区の BENOVER にある BURNT OAK は、quasi-aisled :疑似側廊形式の架構で、hallbase ceuck で造られている。一見すると新しい時代のもののように見えるが、調べてゆくと、end crucks が本体とは別の増補された部分であることが分ってきた。このように二期にわたると見なされる事例は他にもある。fig82SMARDEN にある TOLHURST FARMHOUSEfig83DETLINGWELL COTTAGE などがその例である。
   crucks basecrucks については、このシリーズの「-16」「-17」「-18」を参照ください。


二つの部分が見られる場合、どちらが新しい部分か判断に迷う場合があるが、WELL COTTAGEの場合は、きわめて明瞭であった。ここでは、背丈の低かった建物に部材を追加して背丈を高くしている。具体的には fig83 のように cruck 類似の部材が、新しく追加された wall plate梁を承ける桁にあたる部分:を承け、この wall plate が新規の屋根を支えている。
最終的には、STAPLESUMMERFIELD FARMHOUSE のように、end-crucks が両側に二組設けられるような建物も現れるが、SUMMERFIELD FARMHOUSEの建屋は総二階建で、16世紀後期~17世紀に建てられたのではないかと考えられている。
end-crucksのある建物は、概して異様なほど壁の高さが低い。end-jettied 形式の建物や unjettied の建物は、6章でみたように、一般に WEALDEN 形式の建物あるいは直交配置の別棟形式の建物に比べると相対的に壁が低く、その wall plates の高さは平均してGLから 3.8mである。ところが、そのうちで end-crucksを設けた事例(全部で6例ある)は、これよりも低い。3.2mより高い例は一つもなく、平均高は 2.26mと、かなり低い。この建屋に二階を挿入することは、高さと、採光の点で、極めて難しい。とりわけ普通のケント風の寄棟屋根ではなおさら難しい。だから、end-crucksで端部の壁を高くし、屋根を half-hiped roof にする方策は驚くべき工夫なのである。その結果、室は四周各所に設けられ、かつ開口部ある壁も用意できるようになった。また、そこでは、湾曲した cruck-like の部材繋梁承け材として重要な意味を持っている。
これらの事例は、建設が二度にわたっている場合が多く、おそらく当初の平屋建ての端部が増補されたと考えられるが、WELL COTTAGEでは、跳ね出しの二階が既に在ったようだが、階上は屋根裏部屋同然であった。時代判定というものが、正確でないのは珍しいことではない。しかし、end-crucksが二度の時期に造られている傾向が多いこと、そしてそのいくつかは遅れて(多分、 half-hiped roof が別の意味を担うようになってくる頃)現れるという事実、しかも小規模の比較的貧しい家屋に多いこと、これは全て、これらの事例が15世紀後期以降の建設であることを示していると見てよいだろう。
                                                                    この節 了
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筆者の読後の感想は、次回の Late medieval roof construction 紹介後書くことにします。

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-32

2016-05-13 09:56:37 | 「学」「科学」「研究」のありかた


先回から大分時間が経ちました、「続き」を載せます。      *************************************************************************************************************************

Structural details of Wealdens  

Wealden 形式を特徴づける二階部分の前面への跳ね出し一体屋根は、当初から存在するが、初期の事例のいくつかには、細部の架構法や、木材の継手・仕口の点で、Wealden 形式と見なすことに躊躇う例がある。Wealden の中央部の小屋組には、通常とは逆に、wall plate :桁が、の間ではなくの上に置かれる事例が普通に見られる。
   註 wall plate を桁と訳しています。下掲の fig83 を参照ください。
     梁の上に桁を置くというのは日本の折置組、つまり、先ずで承け、その上にを架ける方式、
     wall plate :桁の間に置くとは、京呂組:先ずに架け、その上にを架ける工法を指している、と解しました。
そこでは、hall の表側の壁を越えて伸び、はそこに載せ掛けられるので、hall の前面を横切る形となっている。
   註 この部分の文意は、日本の「出桁(だしげた、でがた)づくり」に相当する技法のことと推察します。fig80bfig81 参照。
当然、この技法は背面でも使われる。そして、このいわば初期の技法は、Wealden 形式の架構で使われ続けている。しかし、14世紀後期から15世紀ごく初期の Wealden では、この技法が建物の他の部分でも、適宜に用いられている。fig79CHART HALL FARMHOUSESANDWICH 近郊の ASH にある UPHOUSDEN FARM では、柱が横向きに据えられている。これは、桁と梁の享け台になる部分を広くするためと考えられる。
   註 これは、fig79 桁行断面図の左から2本目の柱のような例を指しているものと解します。
しかし、この2例に見られる方法は、一般的ではなく、後期の Wealden 形式の建物で、架構上の問題を解決するために採られたいろいろな方策の一つに過ぎない。この方策は、通常は hall 中央部の軸組・小屋組に用いられるが、 fig80b の1399年建設の WEST COURT(在 COLDREDSHEPHERDSWELL )では hall 端部の仕切壁部分の軸組・小屋組でも使われている。 これらは架構上では些細な部分に過ぎないが、世紀の変わり目の頃になっても、Wealden形式の工法は、まだ形成期にあったことを示している。この工法が未完成であったことは、1400年近辺建設のWealden 工法の事例に、片側に aisle:側廊=下屋 のある建物が見つかっていることでも明らかである。
Wealden形式の後期の事例には、更にいろいろな技法が見られる。しかし、fig81 に見られるような一つの「典型」で建てられることは決してなかった。fig81 は、Wealden 形式の中でも最も洗練されている二つの遺構の中央部の軸組・小屋組の断面図である。fig81aTHE MANOR HOUSE は、前面と背面に(屋根:小屋が)跳ね出していて、必然的に、は延ばされたの上に設けられ出桁になっている。fig81bTHE OLD PALACE では、高く反り返った brace :方杖が使われている。これは、最も後期の open hall によくある架構を強調するための colonettes と同趣旨の装飾の一と考えられる。  
   註 colonettes :A small, relatively thin column, often used for decoration or to support an arcade.
この例では、の下に設けられた腕木上に置かれ、屋根勾配は前後で異なっている。これは、小屋の眞束が、小屋組:屋根の中央ではなく、hall の中央にくるように設置されているからである。
   註 腕木で承ける方策が、なぜ片側だけ採られているのか、分りません。
hall と二階建部分との接続法には、各種の方策が採られている。hall二階建て部分とを、一つ屋根の下で前面に跳ね出すWealden 形式のつくりは、建屋をすべて二階建で造るようになるまで続いている。Wealden 形式のつくりで総二階建の一つの事例が、STAPLEHURSTLITTLE HARTS HEATH の調査で確認された1507年の建設の建物である。これは、総二階建建物の最も初期の事例の一つで、おそらく総二階建住居の「効能」がまだ十分に理解されていなかった頃の建設と考えられる。







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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-31

2016-04-25 09:48:06 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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Wealden construction
Development of the Wealden
   註 Wealdenweald 地方 :ケントの南部域:の意と解します。森林地帯のようです。本シリーズ-3を参照ください。

14世紀には、後の Wealden 形式の発明を導くことになる数多くの技法的進展が見られる。
その第一は、それまでの aisled construction の束縛から逃れ、(を承けるの載る)hall の壁を高くする試みが始まった。この実例は、hall 部分だけが遺っている14世紀後期の事例に多く見ることができる。
たとえば、1401年建設の EAST SUTTONWALNUT TREE COTTAGE や、SITTINGBOURNE 近くの NEWINGTONCHURCH FARMHOUSE などでは、quasi-aisled construction がまだ用いられているが( fig72 下に再掲参照)、他の事例では、1364年建設の SUTTON VALENCEHENIKERS (下図 fig80a )や、ALDIGTONPARSONAGE FARMHOUSE のように、aisle :側廊・下屋が全く存在しない。


第二の進展は、二階建ての居室部の必要性が増えたことである。hall の低い端部や天井の低い倉庫上の居室に代って、hall端部は特別の役割を担うようになり、それは、その部分を総二階建に変える契機となるのである。
この願望を実現する一つの方策が、主屋に直交する棟:cross wing を建てることであり、その一例の1380年建設の TEYNHAMLOWER NEWLANDS (下図 fig52 )に、その様態を正確に見ることができる。

このような進展は、ケント地域だけでなく全地域に影響を与えている。ただ、これには第三の、ケント的な方策を考える必要がある。このケント的な方策の存在こそ、The Wealden 形式の進化にとって決定的であった。
それは、建物を寄棟の一つ屋根の下に納めるケント地方特有の技法である。しかしこれは決して新しい発明ではない。最古の事例は1300年頃から見られ、最も有名なのが1309年建設のNURSTEAD COURT である。
   註 NURSTEAD COURTについては、はこの紹介シリーズの第14回に説明があります。また、図、写真を下に縮小して再掲します。

     
        
     

これらの事例は、13世紀後期~14世紀初頭にかけて、COPTON MANORMERSHAM MANOR のように石造家屋に多く在り、おそらく木造家屋でも至る所で見られた思われる。
またこれらは、AYLESHAMRATLING COURTSITTINGBOURNECHILTON MANOR のような大家屋の端部の階上のない部分に多く見られるが、おそらく、PETHAMDORMER COTTAGE のような小さな家屋でも在ったのだろうが、遺っている事例は少ない。寄棟屋根hipped roof を用いたいという人びとの希望は、ケント地域西端部以外では極めて強く、建物・棟が交叉するような場合( cross wing )にも使われている。その事例が TEYNHAMLOWER NEWLANDS や の PETHAMOLD HALLfig51 下に再掲)である。ただ、それらを THAMES (テームズ川)北部域に見られる cross wing :切妻屋根が多い:と同一と見なしてはならない。

先の2事例では、hall の壁が低いゆえに、直ぐに分る。しかし aisle をなくし、hall の壁が高くなると、hall の明り取りの窓も高くすることができ、また、寄棟の屋根の下に一体になった hall wing :付属棟は、見分けがつかなくなる。
これらの事例を見れば、建屋全体を一つ屋根の下にまとめる策が何故生まれた理由がはっきりと見えてくる。
すなわち、それぞれの建屋に寄棟の屋根を架けるよりも、全体を一つ屋根の下に収める方が、工事が容易で工費も低廉だからなのである。る。
これらの事例の示すところが正しいとするならば、Wealden 形式のつくりは独自に発展した、と考えてもよさそうである。この仮説は、fig65 (下に再掲)の示すように、14世紀後期において、ケント地域では Wealden 形式のつくりが、群を抜いて多いことで分る。また、木造家屋では以前から一つ屋根に収めるという傾向が在ったことは、初期の事例に見られる断片的な痕跡の示すところでもある。

実際、hall から wing :付属棟への接続部や、hall から Wealden への接続部の架構、あるいは階上の jetty :跳ね出し部の架構には、ほとんど同じ技法が用いられている。更に、次章(第8章)で触れるが、Wealden形式のつくりの階上の居室の間取りは、ほとんど(主屋+付属棟形式の) wing :付属棟の間取りと同様がである。このような、ある形式から別の形式への変遷は左程驚くべきことではない。この変遷は、基本的に、架構上の問題を解決することに発しているのであり、その第一の課題は、を、独立の柱だけで(下屋:側廊の柱なしで) 如何にして承けるか、という点にあった。
   註 下屋:側廊があれば、梁を承ける上屋:身廊柱は、下屋:側廊の柱で支えられている。
Wealden 形式のつくりが、何時、何処で始まったのかについては、議論の余地がある。Wealden 形式のつくりは、ほぼ完成した形で現れたが、ただ、1370年頃より前には存在しないようだ。
最古の遺構は、1379~80年建設の のCHART SUTTONCHART HALL FARMHOUSE である。下の fig66fig79 が、その全景と断面図。


この建物は、fig 68a(下に再掲) および fig 80a(前掲) の SUTTON VALENCEHENIKERSfig68c(下に再掲) 、fig72b(前掲) の EAST SUTTONWALNUT TREE COTTAGE から僅か数マイルのところにあり、そこでは、同じ時期にaisle :下屋・側廊 なしで hall の梁間を拡げる異なる方策が採られている。

おそらく、 Wealden 形式 は、ケント地域のこの辺りで創案されたものと思われる。しかし、14世紀後期から15世紀初めの10年頃の建設と見なされる事例は、この地域全体から東部 SUSSEX まで、広く分布していることにも留意しなければならない。

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筆者の読後の感想   14.50追記
   ずっと気になっているのが、屋根。「軒の出」がない、あっても短いこと。
   気候が関係しているのはもちろんですが、
   軒を出す習慣がない、少ない、ということが、「跳ね出し(持ち出し)の技法」にも影響しているのではなかろうか、と思うのです。
   jetty と呼ばれる部分、ほとんど「 brace :方杖」が設けられています。
   それは、材料の故なのでしょうか? それとも石造がモデルだからなのでしょうか? 
 

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-30

2016-04-07 10:57:21 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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   Jettied construction
   Jettied construction とは、下図(fig49 再掲)の a b c d e のように、上階を突き出す迫り出す)つくりで、次項の Wealden construction もその一つと言えるようです。
   註 jetty は突き出す、という意味の語のようです。日本語の「迫り出す」「跳ね出す」という意と解しました。
   

14世紀後期に進化を見せた新しい家屋形式は、ほとんどが jetty:突き出し:形式を採る。二階建ての建屋の階上部分を一~三方向を、宙に飛び出させる方法である。その理由について、 jetty:突き出し:形式の歴史とケントで用いられるようになった契機と時期について調べる必要があろう。
最近までは、英国の jetty:突き出し:工法が14世紀以前に発生したとの確証は得られていなかった。しかし、文献記録や遺構から明らかになった最新の諸証拠は、 jetty:突き出し:工法が既に13世紀に知られていたことを示している。
この技法が大陸から伝わったことも確かなようであるが、その時期については、地域によって異なり確かなことは分らない。ただ、この技法は、農村部に伝わる以前に、先ず町場で用いられたようである。ロンドンでは、1244年頃には既に見られ、その頃は、(突き出しが)通行人に目障りだ、と言われていたようだ。13世紀の遺構の中の jetty:突き出し:形式の実例が SUFFOLKBURY ST EDMUNDS で発見された。農村部の建物では、OXFORDSHIRETHE VALE OF WHITE HOUSE , WEST HAGBOURNEYORK FARM jetty:突き出し:形式が年輪時代測定で1285年建設と判定された。その他の OXFORDSHIRE の事例も14世紀前期の建設と見なされている。ESSEX では、WIMBISHTIPTOFTSと、MAGDALENWYNTER'S ARMOURIEcross wing :主屋に直交する増補棟:が13世紀後期~14世紀前期の間の建設と比定されている。

ケントでは、このような早い時期の事例は今のところ明らかではない。先に第4章(“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-12参照)で触れたように、13世紀後期~14世紀前期の木造家屋で、居室部分が当初のままの形状を遺す事例は少ししかない。当時の家屋が、端部に居室のための部分を用意していたのか、それともcross wing :主屋に直交する増補棟を有していたのかも詳らかでないし、また、それらが二階建であったのかどうか、 jetty:突き出し:形式を採っていたのかさえも詳しく知り得ない場合が多い。
明らかに jetty:突き出し:形式の痕跡を遺している最古の事例は、IGHTHAM MOTE の東~西の棟で、1330年建設の石造・木造併用の建物だろう(下図 fig22参照:左端部が jetty になっている)。

jetty形式は、1322年建設の EAST FARLEIGHGALLANTS MANOR の石造・木造併用の建屋、14世紀中ごろの建設のSMARDEN HAMDEN の木造建屋でも用いられていた可能性が高い。しかし、ケント農村部で、かなりのjetty形式の事例が、14世紀の後期:1375~1400年頃に見られ、その頃までには、この形式のつくりは、完成の域に達していた、と考えてよいだろう。
最も早い事例は、cross wing :主屋に直交する増補棟Wealden constructionの双方にほとんど同時に出現している。 CHART SUTTONOLD MOAT FARMHOUSE の1377年建設と記録されている cross wing と1379~80年建築の Wealden constructionCHART HALL FARMHOUSE などがそれである。また、STAPLEHURSTCOPPWILLIAM も、1370~71年頃の建築とみなして間違いないだろう。実際、 unjetty:突き出しなしの建物が現れるのは時期がやや遅くなってからであるから、ケント地域では、この時期、木造総二階の建物は、すべてが jetty:突き出し:形式であったと考えられる。
つまり、この地域で、 jetty:突き出し:形式の工法は、長い歴史がある、ということに他ならない。しかしながら、現在のところ、その起源や発展について、理の通った分析に堪える事例は、少ししか見付かっていない。
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  先回予告のWealden construction の項は、複数節に分かれていますので、次回以降にまとめることにいたしました。

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筆者の読後の感想

   西欧の街並みで、両側の建物の上層階が道路上に突き出し迫り出し)、あたかも道路がトンネルのようになっているのを見かけます。
   地上階を所有地の境界いっぱいに建て、上階を境界の外に突き出して迫り出して)いるのでしょうか?

   そのあたりの実際について、ご存知の方が居られましたら、ぜひご教示ください。


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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-29

2016-03-20 15:02:15 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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空では雲雀が囀り、が庭先まで訪ねてきてくれる季節になりました。春本番です!
しかし、花粉もいっぱい!花粉症で集中力に欠け、先回から大分時間が空いてしまいました。



   Dating of aisled structures

一般に、aisled structures は、全て早い時期の架構法であると見なしてしまいがちだが、遺構を見てみると、(必ずしも全てが旧いわけではなく)これまで観てきた大半の事例は、ほとんどが15世紀になってからの建設であることが分っている。
たとえば、BORDENBANNISTER HALL(下図 fig75b 参照) 類似の ALLENS HILL FARMHOUSE(下図 fig77a 参照) には、Four-centred doorheads があるが、これに似た壁に埋め込まれた束柱を用いていて、同様のFour-centred doorheadsの出入口を有する EASTRYFAIRFIELD HOUSE は建設時期が遅いことが判明している。
   註 Four-centred doorheads :「四つの中心の円弧の集成で描くアーチ型」の頂部を持つ出入口。前回の中ほどに説明があります。


これらの事例は、通常は、crown-post を用いるか、collar-rafter を採るが、WALTHAMANVIL GREENThe COTTAGEfig77b )では、当初の crown-post 形式の屋根(下手側にその痕跡が認められる)が、それに続く部分は、gueen stutswind braces を用いず細身のclasped-purlin 形式の小屋組(煙で黒ずんでいる)に変えられている。この事例の建設年代は確定できないが、16世紀に入る直前又は直後の建設と思われる。
これらの事例のいくつかは、本格的なaisled 形式とは言い難いが、独立の上屋柱がなく、小屋(下屋柱~側柱間の)大梁の上に組まれている。fig77b、77c は、その例である。
   註 queen struts :桁行方向の補強のために、桁行方向の横材(母屋など)と束柱間に設ける斜材・方杖:筋交。
             参考図として fig61 を下に再掲。から母屋にかけて設けられている斜材queens struts
 
     wind braces : 屋根面で、登り梁・垂木相互を斜材で固める方法のようである。下図参照。
             wind braces は、図のように、queen struts 同様、角材と考えられる。
             日本にも小屋組を固めるくもすじかい雲筋交と呼ぶ方法があるが、それに類似か。
             ただし、くもすじかいは、束~束又は垂木下面に厚15㎜程度の薄板を添える簡易な方法で、通常は束柱相互をで固める。和小屋組参照。
             なお、日本では、本建築に斜材:筋交・筋違を使うことは少なく、専ら仮設的使用だった。語彙に見る日本の建物の歴史参照。 
     collar-rafterfig75a のように、rafter:垂木を頂部でA字型 collar :繋梁で結んで固める方法の呼称か。
     clasprd-purlin roof : 前掲のfig75b の頂部のように繋梁上にclasped : 固定した purlin :母屋垂木を留める方法のことか。

aisled structures は、総二階建ての建物にもある。1466年建設の MOLASH にある HARTS FARMHOUSE では、二階建ての cross wing の裏側の aisle :側廊:下屋部分に二階への階段が設けられている。
このようなつくりは、一見、側廊・下屋部分が、主屋の屋根を葺きおろして増築したように見えるが、そうではなく、EASTRYOLD SELTON HOUSE では、single-aisled の軸組(の壁)で暖炉付の二階建ての hallと、通路およびサービス用の部屋とが仕切られている。この形式と細部のつくりは、それが16世紀に入ってからの建物であることを示唆している。
これらが、裏側への増築ではなく、aisled construction であることは、地上階の部屋が前面から背面へ並んでいること、上屋を支える柱が壁に埋め込まれていて二階でしかそれと分らないこと、この二点に示されとぃる。
   註 このあたり、平面図がないので、詳細が分りません。
概して、遅い時期の建物は、規模、形状も小さくなってきて aisled constructionの建物に似てくる。その中で驚くほど規模の大きな上層階級の事例がある。BENENDENCAMPION HOUSE の現在の hall は、改築されてはいるが、fig78(下掲) のように、両側に側廊:下屋があり、2本の身廊:上屋の柱は、下手側の cross wingを兼ねている。

この建物には、前面の crown post で支えられた屋根の下の桁行2間にわたる chamber :居室の下階には、サービス用の部屋が2室ある。その後側に接して、窯場のある厨房がある。その各部のつくりは、1500年代の建設を思わせる。aisled hall そのものは旧いものだが、上屋柱上部の arcade plate:小屋組を承ける桁代りの壁 の位置を示す痕跡などから、現状は、既存の建物に手が加えられたものと考えられる。元の hall の形状を知る手掛かりは何もないが、建物の幅からは、それがかなりの大きさであることが分り、その付属棟の各部のつくりは、建物の用途が多様であったことを示している。ただ、もしもこの類の aisled hall が1500年前後に建てられ続けていたとするならば、他に事例が見付からないのは不可思議ではある。
遅い時期の aisled structure の事例がイングランド南西部の各地で見付かっている。
たとえば、15世紀後期~16世紀初期の建設と判定される事例が、ESSEXSUFFOLKSUSSEX で見付かった。その多くは single aisles であるが、SUFFOLK DEPDEN で見付かった最も遅い時期の事例には、double aisles とケント地域の事例によく見かけるのと同様の spere truss :間仕切小屋組があった。この種の事例は相対的に規模が小さく、時代の新しい規模の大きな事例に比べると、つくりがよいとは言い難く、おそらくある時期多数を占めた事例がたまたま遺ったものと考えた方がよいだろう。
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次回は Jettied construction および Wealden construction の節を紹介の予定です。
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筆者の読後感
日本では、斜材:brace 筋交・筋違は、いわば脇役ですが(この点については前掲語彙に見る日本の建物の歴史に概要を書いてあります)、彼の地では主役の一部なのです。それが、いわゆる洋小屋:トラス組を生み出す根源だったものと思われます。
彼我の「分かれ道」がいったいどこにあったのか、興味は尽きません。


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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-28

2016-02-25 10:30:02 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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   The construction of late medieval houses

   以下の説明には、同じ図が前後して何回も使われますので、ご留意ください。   

ケント地域の中世の建物を有名にしたのは15世紀に現れる新しい形式の家屋である。このタイプの家屋は、背丈の高い hall をつくったり 、2階部分を跳ね出させているが、このようなつくりは、当時の大工職の優れた技能がなければ誕生し得なかった。こうした彼らの卓越した技能を生み出したのは、その時代の社会・文化の変容にあったと言ってよいだろう。
すなわち、人びとが、hall内部で使われる木材が目障りにならないこと、そしてまた、生活の拠点を二階に置くことをを望んでいたことの結果なのである。彼らの望んだ暮しかたが、これは長年富裕層が石造の家屋で行ってきた暮しかたに他ならないのだが、その実現のために新しい架構法を必要としたと言えばよいだろう。
この章は、この時代の構築法の概要を検討し、社会・文化の変容の様態を詳しく知ることを通じて、家屋の形式と架構法との関係をより明らかにすることを目的とする。
各技法とその特性については、家屋(の形式・タイプ)ごとにその内部空間の様態を詳しく観ることで検証することにする。

Late aisled and base-cruck construction

   註 aisled construction とは、「身廊+側廊」形式(日本の「上屋(身舎・母屋)+下屋(庇・廂)」形式の構築法のこと。
     これについては、“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-20を参照ください。
     日本の「上屋+下屋」についての解説は、「日本の建築技術の展開-2」などをご覧ください。

     base-cruck construction は、広葉樹主体の中世イングランドの木造建築特有の構築法のこと。
     これについては、The Last of the Great Aisled Barns-7 を参照ください。

14世紀の後期までには、aisle側廊・下屋を設けない hall の構築法も、よく知られていたにも拘わらず、aisled buildingquasi-aisled building は依然として建てられ続けたようである。先にみたように、これらの事例は、大半が消失してしまったと思われ、遺っている事例の多くは、残念ながら建設時期が判然としない。実際、「年輪年代測定法」が適用できたのは僅か一例に過ぎない。それは、建物が oak :樫を用いていないか、若い木が使用されているからである(註参照)。
   駐 年数の経った樹木でないため、年輪年代測定に使われる「基準年輪」から外れた年輪である、つまり、測定尺度に合わない、という意と解します。
しかしながら、いくつかの事例は、細部の手法から時代が判定でき、そのような諸種の形跡を総合すると、aisled construction は、15世紀中、用いられた続けたようである。
1300年代に建てられた原初的・典型的な aisled hall は、両側に側廊:下屋を設け、桁行2間の例が一般的であるが、このような典型的な建て方は、1370年代には姿を消すようである。
実際、今回の研究調査でも、それ以降の事例は一つも確認できていない。ことによると、中央部に扱いにくい小屋組を持つこの種の建物は、改造・改修せざるを得なかったのであろう。
たしかに、かなり早い時代から遺ってる事例もあり、少し変形した形の aisled hall はある程度見つかってはいるが、全容の遺っている事例は存しない。これは、多くの建物が、世紀末までに改築されてしまったことを意味していると考えてよいのではなかろうか。桁行2間の hall は、その後も建てられてはいるが、遺っている事例は、すべて、身廊:上屋の小屋組が、独立柱ではなく、他の架構法に変えられている。この変更は、14世紀初期のいくつかの事例で早くから認められ、そこでは、 base cruck か( HADLOWBARNES PLACE など)、大きなarch-braceCHILHAMHURST FARM など)が使われている。この方法は、それ以降の事例は、この方法を引き継いでいるようであり、また、より小さな建物に於いても見付かっている。
arch-brace を大きくして用いている事例で確認されているのは、1401年建設の EAST SUTTON に在る WALNUT TREE COTTAGESITTINGBOURNE 近在 NEWINGTON に在る CHURCH FARMHOUSE の2例( fig72 下図)だけである。
   註 arch-braceアーチ状の斜材:方杖

しかしながら、大きな斜材やむくりをつけた梁の使用する点で、これらは初期のHURST FARMに似ているが、これら後期の2例は、図・写真のように、大きな方杖を承ける柱が先端を断ち切ったような不自然な形をしている。
   註 頂部が唐突な終わり方でおさめている、よく考えられた仕事とは言い難い、という意と解します。
      たしかに、The Last of the Great Aisled Barns-7 の写真と比べると、不自然さを感じられる。
base-cruck constructionは、おそらく、身廊柱:上屋柱を省く方策としてごく普通に用いられていた工法と考えられる。ただ、年輪年代測定法の適用できた事例はなく、base cruck だけが遺されている事例では、正確な年代確定は不可能である。しかし、fig73HASTINGLEIGH に在る COOMBE MANOR は、当初の構造的痕跡は皆無ではあるが、小屋組に使われている crown post が後期形式の形状であることなどから、15世紀にかなり入ってからの建設と考えられる。また、YALDING 教区には、きわめてよく似た、比較的小さな NIGHTINGALE FARMHOUSE ( fig56 下に再掲)や BURNT OAKfig74 下図)など、1350年前後に建設の yeoman :独立自営農民あるいは peasant :小作農の住居と思われる事例が在る。


両側に側廊:下屋をもつ桁行2間の hall は、建てられなくなったが、両側ではなく裏側にだけ側廊を設ける事例は、15世紀を通じて建てられている。その初期の一例が、fig75a(下図) の14世紀後期建設と推定されるCHILHAMTUDOR GIFT SHOP and PEACOCK ANTIQUES である。

この fig75a の事例は、普通の WEALDEN 形式の建物で、当初前面には建物全高の窓があり、階上に日当たりのよい諸室があった(図には二階が描かれていない)。そして、後側には側廊:下屋があり、身廊:上屋の小屋組を承ける独立柱が立っている。
他の片側側廊の事例( SETLINGWELL HOUSECHIDDINGSTONESKINNERS HOUSE COTTAGE など)の細部の技法は、それらの建設時期が、(先のTUDOR GIFT SHOP and PEACOCK ANTIQUES よりも)遅いことを示している。
また fig75bBORDENBANNISTER HALL のように、側廊:下屋部分を base cruck に改造し独立柱を取り去った事例も二例ある。この建物の hall の端部(妻側)の壁には、増設された cross wing(主屋 に直交配置の別棟)へ通じる four-centred head (下註参照)の出入口が設けられている。また、EAST PECKHAMOLD WELL HOUSE では、base cruck が1セット用いられていたと考えられるが、確認はされていない( fig86b :下図)。後者は、end-jetty 形式の建物で、fig77c(下図) のように、妻壁部分では、小屋を承ける柱が(下屋:側廊の外部側柱~側柱間を繋ぐ)大梁の上に立てられている。
   註 four-centred headfour-head arch :下図のように、4個の中心の円弧を集成して得られるアーチ形状をいう。
     fig75b の出入口の頂部に使われている。
     イスラム建築に多く、中世イギリスの建物にもよく用いられたモティーフ。以上 wikipedia より。


この2事例は、この架構法が、(他の時期に見られず)15世紀中期乃至は後半だけに用いられたことを示唆している。同じく、SUSSSEX片側側廊+ base cruck工法の建物も、同じ時期の建設と考えられている。
aisled construction身廊:上屋の梁を承ける柱すなわち上屋柱を取り除くもう一つの方策は、中途にある小屋梁: open truss を隔壁位置に移動させる策である(つまり、桁行の間隔を広げる→fig76 はその一例?)。しかし、この方策を用いた事例は、ケント地域ではあまり見かけない。この方策の事例は、14世紀かあるいはそれ以前に稀に存在する。たとえば、SUTTON VALENCEBARDINGLEY FARMHOUSE や後期の quasi-aisled hall などに散見される。HASTINLEIGHCOOMBE MANOR では、隔壁部の小屋組は base cruckを併用しているし、EASTRYFAIRFIELD HOUSE では、fig46(fig47 と併せ下に再掲) の FAWKHAMCOURT LODGE と同じく、小屋梁は、柱なしで で承けている(つまり、日本の京呂組)。これらの事例では、隔壁部の小屋組は、上屋の小屋組・屋根を承ける距離の長い桁を承けるべく強化されている。それによって、 hall には邪魔な柱を省くことができている。
また、小規模の家屋の場合には、小屋組の梁自体を下屋の外側の側柱間に架けることにより邪魔な柱を省いている。つまり、隔壁部の小屋組が新しい役割を持つようになったわけで、その結果 open trussspere truss の役割が不鮮明になった、と言えるだろう。STAPLEHURSTCOPPWILLIAMfig60 下に再掲 )や WESTWELLLACTON MANORfig76 下図)などがその例で、上屋の小屋組を承ける桁を補強するために、桁材を承けるのではなく斜材を斜材で補強するという他に例のない方策が採られている( fig76 )。
aisled construction の建物の上屋柱を省く別の方法は、 hall を桁行1間の大きさに縮小する方策である。その場合、隔ての通路部のうえだけではなく、そこを通り越して、下手側の部屋がいわばかぶさることになる。地上階の平面は、これらの場合も前者(つまり、桁行2間以上の事例)と変らないが、通路部分は隔壁部により hall とは分離し、下手側の部屋の占める面積も多くなる。
   註 この部分の説明は、fig76 の左側の部分のような場所の説明と思われる。
全事例を見る限り、CLIFFE-at-HOOALLENS HILLWALTHAM、ANVIL GREENTHE COTTAGE のように( fig77a,b 参照)、これらもまた片側だけ aisledhall だが、それゆえ、建物前面の壁を高く見せることができている。




                                 
                                                  この節 了
      *************************************************************************************************************************
次回は、Dating of aisled structures の節の紹介になります。
      ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
筆者の読後の感想 
  上屋の小屋組を承ける柱を省くことは、日本でも行われる。
  その場合、日本では、桁行の横材:の寸面を大きくする、差物:差鴨居等を用いるか、fig77c と同じように、梁行の横材:の寸面を大きくする方法を採る。
  つまり、当該柱の負担を 横材で代替する方法である。このあたりについては、「日本の建築技術の展開-25」などで解説。
  これに対して、イギリスでは、横材による方策ではなく縦材:base-cruck などで代替 する方策で対応している、と考えてよいと思われる。
  これにも、おそらく、石造の「伝統」と「広葉樹」による架構の「伝統」が影響しているのではなかろうか。
  つまり、「直材」主体の束立組:いわゆる和小屋組の技法に至らなかった・・・。それゆえ、fig77c などは、珍しいのだろう。
  なお、fig77c では、上屋柱の頂部の幅広部分に折置小屋梁を承け、一段段違いに加工した部分でを承けている(いずれも枘差だろう)。 


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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-27

2016-02-06 09:26:03 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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   Single-ended houses

この節の紹介にあたり、はじめに中世後期の家屋の諸形式・タイプの解説図 fig49 を再掲しておきます。


ここまで、片側だけに付属棟のある家屋については触れてこなかった。一つには、中世の普通の家屋は、open hall の両側に二つの付属棟を設けるのが当たり前と考えられてきたからである。
実際、計画的に片側だけに付属棟を設けた事例が少ない。多分、14世紀後期建設の SANDWICh 近在 ashUPHOUSDEN FARM および1410年建設と思われる EDENBRIDGECOUNTRY FAIR and LIGHT HOUSES94,96 High Street )などが、その稀な事例である。そこでは、増築した際の木材の遺構や外部の風化の様態から、当初は hall は、付属棟の一方の側に接して独立した建物として建っていたものと考えられる。
しかし、16世紀初期以前には、このような事例はきわめて少ない。 多くの事例は、一棟の付属棟だけを遺しているが、そこに接する hall 棟の壁面の骨組をを確認することができる。そしてそれは、既に移設してしまった別の建屋に以前は接していたと考えられる。なぜなら、この部分が風化している例が見つからないからである。しかし、4,5,6,7 BELLE VUE の例のように、hall から別室あるいは当初の付属部への内部へ至る出入口の用意がされている例があるから、実現の有無はともかく当初から別棟を造る意図はあった、と考えてよいだろう。
16世紀になると、片側だけに別棟を設ける小さな家屋が、数は少ないが見つかっている。たとえば、1533年建設の SPELDHURSTLITTLE LAVERALL がその例である。また、1565年以降のいくつかの「遺言書総覧」にも、この種の形式の家屋が記録されている。
しかし、全般的にみれば、この地域に遺っている open-hall の家屋で、2棟で構成されていたとみなされる事例は少ないのである。

   The height of house

この研究・調査を通じて、家屋の諸形式間に、規模だけではなく、高さにおいても多様な事例があることが分ってきた。その結果、その後は調査に際して、常に家屋の高さの測定が行われるようになった。
(ただ、このことに気付くのが遅く)調査家屋全てにおいて測定が行われてこなかったため、最も旧い時期の事例と最近の事例では、fig67 のような五つの建物形式別、五つの時代別に分類するには、収集事例数が少な過ぎる。そこで、建物を、規模については、ごく自然と思われる三つのグループ( cross-wing houses、 wealden houses、 end-jettied,unjettied and uncertain houses )に分けることにし、時期については、年代順に、70年間、50年間、50年間で区分することにした。建物の形式ごとに各期の建物の平均的高さをまとめたのが下の Table 1 である。

表で分るように、 cross-wing の二階建建屋の高さは、中世の間を通して、WEALDEN 形式の二階建建屋よりも高いのが一般的である。一方、WEALDEN 形式の二階建建屋は、end-jetty ,unjettied および形式不確定: uncertain の家屋のグループのそれよりも高さがある。その違いはかなり顕著で、0.3~0.6m 程の違いがある。ただ、いずれの場合も、時期で見るとおおむね一定である。その一方で、cross-wing形式の家屋の hall 部分には、表のように、著しい違いがある。世紀の変り目の時期の hall の高さが、他の形式の一つ屋根の家屋のそれに比べて著しく低い。15世紀後半までには、WEALDEN 形式hall の高さより0.7ⅿ近く高くなっていて、16世紀初期には0.25mは高くなっている。
   註 この部分、原文の通りに訳してありますが、表の、どの部分を指しているのか分りません。
すなわち、cross-wing形式の家屋の hall は、他のどの形式の家屋の hall よりも高さがある、ということが分る。このことを各時期の事例の断面図で示したのが fig71 である。
この表・図から、時代とともに、人びとが、より大きい付属諸室を必要とするようになり、hallcross-wing を同時に建てようとする場合が増加したこと、そして一つ屋根のタイプの家屋の場合には、 hall 部分の占める割合を変えるようになった、ということが読み取れるのではなかろうか。

表に示した三つの家屋のタイプ間の高さの違い、および1370年~1540年の間に起きた変容は、各家屋の形式の存在する地域・地区の変容と深く係っているものと思われる。諸種の事実は、それぞれの家屋の計画には人々の資力と要望が深く係っていること、つまり、彼らの社会的、経済的な地位が深く係っているであろうことを示している。家屋の規模が資産や地位により異なっていることは、さして驚くことではないが、ただ、それだけが建物の計画に影響を及ぼしたと結論付けるのは問題があり、その前に、別の視点:それぞれのタイプの地理学的な分布:の観点からの検討が必要と考えられる。この点については後に10章で触れることにする。
                                                   6章の紹介は、これで 了     
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次回は、 7 The construction of late medieval houses の章の紹介になります。
      ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
筆者の読後の感想
   既存の建屋に直交し増築をする場合、既存の建物よりも高い建物の方が屋根の処理が容易です。fig49 a , b がその例。
   直交部を既存部よりも低くすると、手を加える部位が増え複雑になり、片流れ屋根にするのが簡単ではあるが、できる空間の容積が限定される。
   それゆえに、結局は、既存部よりも高くすることになるのでしょう。これは、ここで紹介されているいくつかの事例写真で明らかです。
   日本には、このような形態の建屋は、古来、少ないように思います。
   日本で既存建屋を大きくするときの方法は、梁行方向では、下屋を設ける:屋根()を伸ばすのが普通です。
   既存部の高さがあれば、を何段も設けることもあります(孫庇などと呼ぶ)。社寺に多く見られます。
   桁行方向の場合には、既存部と同型の小屋組を延長するのが普通でしょう(端部が寄棟なら、寄棟の位置を移動させる・・・など)。
   別棟を設ける場合は、日本の場合、建屋をいくつか渡廊下でつなぐのが普通で、この書にあるような方法はあまり見かけません。
   離れをつくり、渡廊下でつなぐ方法です。
   この方法は寝殿造以来の「伝統」言えるかもしれません。近世でも、大仙院のような計画が普通です。これに対し渡廊下をなくし一体にしたのが孤篷庵です。

   彼の地と日本の違いは、やはり、その地の「環境」の様態が大きく係っているように思えます。
   工法の違いも、所詮は、「環境」に拠る、と言えそうです。

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-26

2016-01-25 16:34:49 | 「学」「科学」「研究」のありかた
寒さに負け、だいぶ間が空きましたが、やっと終りました。先回の続きです。



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   The relationship between size and type of house

[掲載漏れの図:fig142 を追加しました 26日 11.30]


上掲の fig67 は、ケント地域の家屋を形式建設時期大きさ:規模によって分別した表である。
多くの事例が多様な時代の様態を併存していて、また、事例数には、全体が現存する事例、部分的に現存する事例の双方が含まれており、場所・部位(upper ends,halls,lower ends,total ground-floor areas)ごとの規模:大きさ・面積は、それぞれの中間的・平均的な数値である。
できる限り最大の事例を得るために、場所・部位ごとに別々に観ており、また、それら各場所・部位を集積してできる形態・形状を「各形式の代表的な家屋・建屋の形態・形状」と見なしている。そのようにして構成された形態・形状は、全体が現存している事例の平均的規模・面積とほぼ一致することが確認できた。
   註 この「操作」が誤りでないことが示された、ということであろう。
注意すべき第一の点は、ケント地域の家屋の規模が相対的に大きいということである。
イギリスでは、一般に、農家の建屋の地上階の面積は42~59㎡であるのに対し、ケントの木造家屋の大半は平均して、これよりも大きい。一つの時代に建てられたとみなされる事例184戸の地上階の平均面積は79㎡であり、その事例の実に84%が60㎡以上である。実際 fig67 を見ると、16世紀初期の unjettied の事例および形状不明( uncertain )の事例では、付属室部分( upper ends,lower ends )の面積が、60㎡以下であることが分る。ほとんどの家屋には二階建ての付属部があるから、利用可能の面積はかなり大きいことになる。これは、ケント地域に特有のことではなく、イギリス南東部に共通して言えることである。16世紀中期以前に建てられた SUSSEX の家屋を紹介している図では、大地主の邸宅よりも低位の家屋の173事例80%は付属室部分( upper ends,lower ends )の地上階の面積が60㎡よりも大きく、SURREY でも、155事例58%が同様であった(同地の家屋は、これまで、小規模であると見なされてきた)。
注意すべき第二点は、fig67 が示しているように、地上階の総面積が、家屋の形式により大きな差があることである。cross wings (主屋に直交配置の建屋)地上階の総面積は、いつの時代も Wealden 形式のそれよりも広く、Wealden 形式end jetty 形式よりも広い。end jetty 形式wealden 形式よりも小さい(狭い)という事実は、end jetty 形式は遅れて(時代が進んでから)出現するのだ、との論を補強する事実である。一般に、大型の建屋は必ずしも小型の建屋から発展するわけではない、と見なされているのである。unjettied 形式と、形式不定 ( uncertain )の事例はきわめて多様であるが、どちらかと言えば end jetty 形式に近い。そして、形式不定の建屋は、既に触れたように、妻側の跳ね出しの有無に関わらず、正面の壁には跳ね出し部がない( fig49e,f のような形状か)。
   註 たびたび出てくる overall ground-floor area 地上階の総面積とは、日本でいう「建築面積」に相当する概念と考えられます。
     fig49前回を参照ください。

fig67 で明らかなように、総面積が異なるにもかかわらず、一つ屋根の家屋四形式 wealden, end jetty, unjettied, uncertain )の部位別の傾向は、どの時代も似ていることが興味深い。
fig68,69,70 は、実際の事例を単純化した平面図であるが、これらの図は、fig67 とともに、この四形式の家屋のいずれも、14世紀から16世紀初頭にかけて、規模が縮小してゆくことを示している。
wealden 形式では、地上階の総面積は平均で99㎡から82㎡に減少しており、unjettied 形式では79㎡から52㎡へ減っている。しかしこれは、時代が遅くなると大きな建物が建てられなかった、ということではない。wealden 形式の大規模事例7例のうち4例は1476年~1510年の建設であることが分っている。しかし、平均面積が初期の時代よりも減少した事例は、これらの有名な事例よりも、更に多いのである。








概して時代が進むにつれ、小さな規模の家屋の遺構が増える傾向があることから、open hall の大きさが、建物の他の部分に比べ徐々に小さくなってくる印象を受けると考えられるのだが、この「仮説」は、ケント地域で調査された総ての中世家屋の結果に拠って確認された。HERTFORDSHIRE の調査で、ほとんどのopen hall :居住部( living area )は概ね方形で出入り口:玄関が一箇所あり、そこから間仕切で仕切られた通路が長方形に連なっている。
fig68~70 から、ケント地域では hall の占める比率が、(家屋に拠らず)ほぼ同一であることが分るだろう。これは、一つ屋根の建物( unitary roofed dwelling )では、hall の大きさ・広さは、多かれ少なかれ、建物の幅によって規定される、ということを意味していて、桁行寸法をある程度広げ得ない限り、hall 部分の占める比率がほぼ一定にならざるを得ないのである。
fig67,68,79 から、建物端部(妻側)の桁行寸法が目に見えるほど大きな事例がないことが分る。後期の大規模のwealden 形式の事例のなかには、EASTLINGTONG HOUSEfig69e ) のように、背後に同時代に建てられた別棟が在る例も少なくない。こういう稀な事例もあるけれども、一つ屋根の住家では、中世を通してみると、地上階の総面積に占める open hall の割合は45~58%程度が普通である。そのうち、15世紀初期~中期の住家の場合は hall は、平均して <strng>地上階の総面積の49%程度であり、16世紀初期の事例では48%程度だが、この数字の差を有意と見なすには無理がある。
   註 fig69eTONG HOUSEは、unitary roofed dwelling :一つ屋根の住家ではない。
全体の傾向が一定していないのが cross-wing house : 主屋に直交して建つ別棟を有する形式である( fig70 の諸例が、これにあたるものと思われる) 。そこでは、hall の占める比率は常に小さく、36~45%を超えることはない。hall と別棟は直交し、それぞれの建屋の幅は任意であり、それゆえ、その組合せの形式はきわめて多様となる。hall と同時に建設された cross-wing house : 主屋に直交して建つ別棟の事例は決して多くはないが、時代の進行とともに、主屋と別棟の関係には多くの変化があった痕跡が認められる事例は多くある。
14世紀後期から15世紀前半には、別棟主屋の正面に建てられる事例はほとんどない。fig68d~f のように、地上階hall 部分と同一面内にあり、二階部分のみが跳ね出しになっているだけである。
しかし、fig68d の1380年建設の LOWER NEWLANDS のように、別棟: cross wing主屋の(幅内に収まらず)背後に突き出る形で計画されている事例がいくつかある。こういう造り方は上手、下手どちらの側でも可能であるが、14世紀後期には、一般に上手側に造られ上手側の面積の大部分を占めるのが普通であり、総面積もそれによって大きくなっている。しかし、こういう大きな造りのcross wing1 :別棟は、15世紀になると少なくなる。それに代り、 fig70b のようなより小さい別棟が建てられるようになる。これらは、hall を伴わず、別棟だけが遺っていることが多いが、多分、別棟だけを更改することが、旧い建物を改造・改修して利用する容易で費用のかからない方策であったのであり、その時の既存の 丈の低い hall は、後世建て替えられたのであろう(このように考えると説明がつく)。hall の規模が知られている事例の場合、cross wing :別棟が並外れて大きいということはないが、総面積は大きい。これは、( hall は小さくても、)付属室とされる部分の面積が平均よりも大きいからである。
15世紀後期になると、新しいタイプの cross wing : 別棟 が現れる。これらはいずれも、14世紀後期に建てられた大規模家屋を除けば、それまでに建てられた木造家屋のなかで、数等大きく豪奢である。fig70c~70e の事例や OTHAMSTONEACREfig142 下図)、SOUTHFLEET COURT LODGE FARMHOUSE BENENDENOLD STANDEN では、cross wing : 別棟は、建物の後側だけでなく前側にも突き出ている。



   註 この部分、平面図が、L字型だけではなく、T字型、H字型にもなる事例もある、ということの説明であると解しました。
15世紀の事例は)14世紀後期の事例と同じく上手側の棟が大きいのが普通であるが、いずれの側の棟であれ、その付属室部分が大きいため、hall 部分の占める比率が小さくなっているのである。ただし、hall面積自体は、15世紀中期よりも大きくなっている。
   註 15世紀になり、hall は既存のままに、cross wing を任意の大きさに造るようになった結果、全体として hall比率が小さい事例が多くなった、という意と
     解します。
以上の解釈・説明に対して、これらの壮大な家屋の建て主は、他の一つ屋根の家屋を有する(上層階級の)人びとと社会的に同じ階層であるとは思えないから、これらを上層階級の人びとの家屋を同列に扱うべきではない、という意見が出るだろう。けれども、建て主の階層の違いを論点に論じることは極めて難しく、それゆえ、この段階では、すべての木造建築を一様に扱うことにした。この建て主の階層については、第11章において論じることにする。後期の cross wing は、初期のそれとはもちろん、他のタイプの家屋とも、どこか違うということだけを、今のところは念頭に置いておくことにする。

                                                     この節 了
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次回は Single-ended houses および  The height of houses の節の紹介です。
      ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

筆者の読後の感想
   
   日本なら、柱を新たに建て、新たに梁・桁を架け…、「全く新たな形状の家屋」になる、のが「増築」だと思いますが、
   どうやら、彼の地では、「既存の家屋」に隣接して「新たな家屋」を別個に設ける、と考えるのが「増築」のようです。
   それゆえ、「屋根の形状」を論じている、「一つ屋根」か否か・・・。
   いわゆる「和小屋」組は、屋根の形状でそんなに苦労しない、あえて言えばどんな形状にも対応できる。彼の地の工法は、自由度が小さいように思える。

   また、hall がきわめて大きな意味・意義をもっているようです。単なる「用」を越えて、その家屋の「」の表示の意味があるようです。
   日本で、いわゆる「座敷」「床の間」を設ける、のと似ているのかもしれません。


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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-25

2015-12-18 11:42:28 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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   The dating of different house types
fig65 には、14世紀後期からの新しい壁の高い建物の隆盛にともなう建物形式の変容の様子が示されている。この図から、14世紀後期以降に現れる形式は、唯一 WEALDEN 形式 だけである、と言ってよいだろう。
WEALDEN 形式 は、単一の屋根に覆われた中世家屋の究極の形式として見なされ、また、常に、その出現は、 end-jetty 形式:妻側跳ね出し形式よりも遅い、と考えられてきた。しかし、もしもこの判定が間違いないとしたならば、ケント地域の最古の WEALDEN 形式の遺構は、最古の end-jetty 形式:妻側跳ね出し形式の事例よりも遅れて現れなければならないことになる。この時代判定の確度については、後に再考されるはずであるが、この2形式の前後関係の論議は、 HADLOWTHE OLD FARMHOUSE の年輪判定結果によって混乱に陥れられた。何故なら、この事例は、特に、その継手の技法、独特な架構法、古風なくり型などからして、目に見えて「古風な」形式と見なしておかしくないのであるが、これらの「特徴」のどれも、 end-jetty 形式:妻側跳ね出し形式 の建物には見られず、一方、WEALDEN 形式の事例には少なからず見られるからである(註 つまり、この事例の正体は如何?という意と思われます)。
   註  end-jetty 形式:妻側跳ね出し形式
     前回掲載の fig49(下に再掲) の e が、この形式の外観です。

ケント地域で、間違いなく最古と考えられるWEALDEN 形式の事例は、fig66(下図)の1379年~80年建設の CHART SUTTON に在る CHART HALL FARMHOUSE と1399年建設の SHEPHERDSWELL wuth COLDRED にある WEST COURT である。この両者には「古風な」工法や装飾が多数見られる。一方、 end-jetty 形式:妻側跳ね出し形式の最古とされる事例には、これらの特徴は見られないし、年輪判定でも時期がやや遅れる。

   註 SHEPHERDSWELL wuth COLDREDCOLDRED 教区SHEPHERDSWELLの意のようです。日本の〇〇町字△△という表示に相当か?

既に写真を載せた( fig63 下に再掲) PLAXTOLSPOUTE HOUSE は1424年築、CAPELWENHAMS and THISTLES は1431年築と判定されている。

   註  WENHAMS and THISTLES, CAPEL : 上記のように訳しましたが?です。

今回調査された end-jetty 形式:妻側跳ね出し形式 の建物で、その様式、架構法の点で間違いなくかなり旧いと思われる事例は一つもなかった。それゆえ、この様式は、WEALDEN 形式が主流になってからも~40年は造られ続けたと結論してもよいように思われる。ところが、fig65 は、15世紀中ごろまで、この両者は併存していることを示している。すなわち、WEALDEN 形式は15世紀後期には主流となるが、 end-jetty 形式:妻側跳ね出し形式 も相変らず(長い間)建てられ続けたのである。この事実は、WEALDEN 形式で建てることのできる富裕層が増えてくるのは、最初に総二階建ての建物: end-jetty 形式を望み、その建て主となった人びとが多かった時代よりもかなり遅れる、と考えれば説明できるだろう。

unjettied : 上階が跳ね出さない家屋fig49 f 参照)は数が少なく出現するのも遅く、15世紀中期以前の事例は皆無であり、いくつかある事例もこの様式であると確と判定できない。それらの多くは、hall とそれと同時期の建設と考えられる端部:妻側部分から成るが、上階が前面に跳ね出している事例はまったくなく、WEALDEN 形式に似ている例も滅多にない。つまり、その大部分は、flush-walled : 壁面が全面平坦:な、 end-jetty あるいは unjettied 形式の建物と言ってよい。

いろいろな形式の家屋の違いを見分けることは簡単ではないが、それぞれの発展過程は異なっており、また規模においても、それぞれ特有の傾向がある。各地の調査でも、家屋はぞの大きさに従って分類されたが、多くの場合、形式・形態の差異も仕分けの指標とした。
今回の調査で記録された中世家屋の数は、この「規模」と「型式・形態」の二つの観点で調べており、その方策として二つの方法が採られた。一つは、全地域に於いて、家屋の各「構成部位」について分析を行うこと、もう一つは、「形式・形態」をその家屋の「高さ」との関係で考察すること、であった。
                                               この節 了
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今回は、内容の区切りがいいので、ここまでとします。
次回は、第一の観点での考察: The relationship between size and type of house の節の紹介になります。
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筆者の読後の感想
  歴史を「様式の変遷」として考察する「西洋の史学の伝統」を強く感じました。
  私は、学生の頃から、この「考え方」に違和感を感じています。
  学生のとき、「日本建築史」の「様式史」的な講義を受けました。それは多分、明治以降の「学の近代化」による西洋史学方法論の影響だったのでしょう。
  たとえば、「斗栱」の形状は建設時期で異なるので、それにより建物の時代が判定できる、というような内容。つまり、天平はこうで、白鳳はこう・・。
  私はそのとき、違和感を感じたのでした(その時の教場の様子も覚えています。「印象」が強かったのでしょう)。
  確かにそうかもしれない。しかし、「形状」はいわば「結果」であり、「なぜ時代によって異なるのか、なぜそうなるのか」こそが考察対象であるべきでは?
  「時代を標示するために、その方策を採る」?まさか・・・。
  なかには、そのように思う人、そうしないと時代に遅れる、などと思う人もいたかもしれません。
  しかし、現場の「工人」なら、「それだけ」を考えないはずです。
  もちろん、「工人」も、仕上がりが整うこと:仕上がりの格好よさ:に意を注ぐでしょう。
  しかし、彼らの念頭にあったのは「所与の目的を満たし、かつ無事に自立し、格好よいこと」だったはずです。「格好よい」だけでは無意味・・・。
  つまり、「先行」などという考え方は、ものづくりの世界では存在理由がない。「形には謂れがある」。
  私のこの見方・考え方は、以来、今に至るまで、変りありません。

  文中の fig49 。私には a, b 以外はどれも同じに見えます。上階が跳ね出しであるか否か、どちら側に跳ね出しているか・・、単にその違いではないか。
  それを別の「様式」と観るのが合点がゆきませんでした。それぞれごとの、そうなる「要因」は何か?その「説明」はなかったように思えます。
  あえて言えば、建て主の社会的「階層」とその「生活様態」にその因を求めている。それだけなのか・・・?
  後の節に「説明」のあることを期待します。

  なお、文中の「諸形式の時間的前後関係の叙述」を「理解」するのに難儀しました。ゆえに、「誤解による誤訳」があるかもしれません。
  多分、私の上記のような考え方・見方が「理解」の妨げになったのでしょう。
  

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-24

2015-12-08 10:46:30 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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  The pattern of late medieval development

ケント地域の中世家屋の調査により、調査終了時点までに、1370年代以降の建設と判定された477事例について、その詳細が明らかになった。それらは、特別な目的で造られた建物も在るが、総二階建ての事例が多数あり、その他は、全体の形態が分らない断片的な遺構である。しかし、断片的遺構のうちの379事例は open hall 形式で、これらは、いろいろな観点で分析され、この地域の建物の1370年~1540年代の発展と分布の様態を描くうえで貴重であり、役に立たない事例は一つもなかった。ただ、遺構のいくつかは、まったく年代を確定できないため、発展のどの過程にも位置付けることができない。また他の事例は多様な様相を呈していて、それぞれは別の目的があったものと考えられる。更に、まったく記録されなかった事例もかなりある。たとえば、ある wealden 型式の事例は、近づくことができなかったため、数の上では中世遺構の事例として、また wealden 型式の一事例として数えられているが、家屋の「時代-家屋」の考察からは除外されている。
それゆえ、以下の諸表で挙げられる建物の数は、表によって異なっている。たとえば、総二階建てや特別な目的の建物は含まれていない。二階建の建物は事例が少なく、その分析も定かにできていない。それゆえ、これらについての解析は、必然的に推論の域に留まらざるを得ず、解析も項目それぞれ独立に扱っている。

  The chronology of surviving houses

中世の open hall の様態を論じるためには、はじめに建物の建設年代判定の問題について考えておく必要がある。
年代構成の枠組みは、年輪判定法で年代が既定の建物を基に為され、その枠組みの中に、すべての建物の建設年代を位置付けている。なお、年輪判定法によるデータの扱い:問題点については、付録1(後に紹介予定)において詳しく論じてある。
時代を越えて発展過程を表すために、各遺構・遺物は、必ずしもすべてに適切ではないが、およそ40年程度の幅の中に位置づけるようにしている。この時間区分に割り振られた事例は、計算の都合で中間の年代が与えられる。
先ず、fig64 。これは、建物の件数を10年単位でまとめた表である。

対象になし得る建物の実数は378件であるが、事例によってはいくつもの時期にわたるものがあり、架構として際立つ様相を1件として数えているため、図表上では405件になっている。
表は、調査が集中して行われた教区の事例数とそれ以外の教区の事例数に分けて表示している(表の註記参照)。表に入れた全てを数えると、これらの教区の様相・傾向は他の地区のそれと大きな違いはないと思われる。このように色分けしてみると、この表は、全域をくまなく調べなくても、この地域で何が実際に起きていたのか、それを如実に反映していると見なせるのではなかろうか。ただ、建設年を中間の年とする方法で決めるのは逆に不確かさを増幅するのは明らかである。しかしながら、他に「これは」という絶対的な決め手がない以上、この方法が最も妥当であると考えている。
   註 60教区の調査でも(全域調査しなくても)、全域の様態を推測できること、つまりこの研究調査法の妥当性を説いているものと解します。
fig64 は、14世紀中期以降の建設とされる事例が存在しないなかで、1370年代以降の建設の新しい建物の現存数が増え始めることを示している。表に示されている各10年間の事例数は決して多くはないが、初期の状況と以降の状況の違いは注目してよい。しかしながら、15世紀初期には、事例数は増加することなくほぼ一定に推移し、状況の変化を正確に反映していると思われる調査した60教区に限れば、むしろ減少しており、その傾向は1440年~50年代まで続いている。このことは、現存している型式が、後の時代ほどには、その時代の一般的な建物の用途を反映はしておらず、また、一旦ある形式が採り入れられると、それが一定の比率で増える傾向があることを示している。それゆえ、高さの低い建物が後の時代に改造された事例も多いと思われるが、ケント地域に遺っている家屋の多くは、1370年代以降になって着実に数を増していると考えてよいだろう。
しかし、fig64 の示す数値に過度に依拠することは誤りである。たとえば、表に示されている60教区で収集された事例(数の変移)から、15世紀上半期の新築建物は減少傾向にある、と見なすには注意がいる。

変遷のペースの低下は、建物の形式が変わり始める頃と時期が重なっている。
fig65 は、1370年代以降に建てられた open hall を型式別、建設時期別に示した表である。

ただ10年ごとに仕分けるには事例数が少ないので、より大きく34~35年ごとの5期に分けてある。最初は主屋に直交配置の別棟、あるいは open hall :主屋:だけが現存する事例が主で、より新しい側壁の高い建物が少ない。第二期になると、新しい形式が旧型式を上回るようになるが、その多くは重点的に調査した60教区の事例ではない。この展開は予想外ではあるが、fig64 で明らかになっている15世紀初期の事例数減少傾向を何ら説明してはくれない。これらの主屋や別棟が中世の新形式の建物あるいは中世以降の建物に建替えられたのであるならば、中世の遺構の事例数は、減るのではなく増えていなければならない。それゆえ、14世紀後期の短期間の新築ブームの後は、15世紀中期以前の新築事例は数少なかったか、あるいは中世以降に取り壊されてしまうような相変らず小さく高さの低い建物しか建てられなかった、と考えられる。これらの詳細についての論議は後12章で触れるが、このどちらの可能性が強いかを考えるにあたっては、15世紀における農業、経済の不況下では立派な建物を造る費用はなく、不況から抜け出せるのは15世紀下半期になってからである、という事実に留意する必要があろう。それまでは、新形式の建物など、彼らの手の届くものではなかったのである。
新しいより良い建物の建設が急増するのは1450年以降に集中しており、fig64 の示す変遷の様態や、年輪時代判定法で1460年代建設とされた事例がいくつかあることから、新築しようとする気運は既にその頃にあり、増加への変化はその10年間に始まっていることが推論できる。その頃から16世紀初頭の10年にかけて、目に見えて遺構数が増加している。fig64を見ると1480年代、90年代に最大になっているが、遺構のいくつかの年代判定に誤りがあったとしても、この傾向には変りがないだろう。
そして、16世紀初頭には、遺構数は15世紀中期と同程度にまで劇減している。これまでの研究では、見事なつくりの open hall のいくつかは、1520~30年代に建てられたとされてきた。しかし、年輪測定法の判定に拠って、その再考が必要になってきている。open hall 型式流行の最終段階に建てられたと考えられる見事なつくりの建物のなかには、実際は1480年代より以前に建てられているが、1510年代までに総二階建ての家屋に建替えられたと見られる例がある。これは、ある一定の地域の様態である。なぜならば、立派な open hall が建てられなくなる地域がある一方で、16世紀中期の終わる頃までは、幾分印象は薄いが open hall 形式の建物は各地で建てられていたのである。ただ、これら後期の事例で現存している遺構は少ない。
しかしながら、fig64 に示されている open hall 激減の理由として、二階建ての hall の導入を挙げるのは、適切ではないだろう。16世紀初期の新築の二階建て家屋は、これまで正式な数や分析は為されておらず、ただ見つかり次第記録されてきただけである。それらの中には、たとえば1506年建設の LINTONCOURT LODGE 、1507年の STAPLEHURSTLITTLE HARTS HEATH などがある。ただ、このような初期の事例は稀であるが、16世紀後期になると、総二階建て家屋が当たり前のように造られ始める。そして、最も興味深いのは、fig64,65 で分るように、16世紀初頭、新築家屋の総数が、100年前(15世紀初頭)と同じような様態で激減していることである。
                                                この節 了
 
  註 イギリスケント地域の中世の家屋の形態・形式の諸相
    このシリーズの第19回で載せたwealden 形式など、イギリス中世の家屋の諸形式を図解した fig49 を下に再掲します。

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次回は The dating of different house types の節を紹介の予定です。
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筆者の読後の感想
  調査地域内の中世家屋の遺構数の多さ(500に近い!)に驚きました。知る限り、日本では、まったく考えられないことだからです。
  たとえば、私の暮している集落は、総戸数50戸以下と思います。8割以上が地付きの方がた。つまり、代々この地で暮してこられた方がた。
  その方がたの住まいで、明治以前にまでさかのぼると思しき家は多分存在せず、ほとんどは明治以降、おそらく昭和になってからの建設が最多でしょう。
  詳しく調べたわけではありませんが、昭和30年代に建替え・新築のブームがあったようです。
  おそらく、改造・建替えは、何時の時代にも、頻繁に行われてきているのだと思われます。日本の場合、他の地域でも同じでしょう。
  それゆえ、中世の遺構が多数現存するイギリスの様態に、驚かざるを得ないのです。
  何故なのか、ここまで読んだ限りでは、読み解けません。これも工法の違いが関係しているのかな・・・?

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-23

2015-11-18 10:53:13 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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 The implications of partial survival
ここまで触れてきた事例のほとんどは、16世紀あるいはそれ以降になって初めて改造されている。高さの低い open hall あるいは高さの低い二階建ての建屋は中世以降の事例にはほとんど見られない、と論証することと、これらは15世紀早々に屋根裏部屋付の open hall から発展したことを確かめることとはまったく別の問題である。そしてそれは、wealden 特有の建物の起源に関わる論点である。と言うのも、wealden house は当初の頑丈に造られた家屋が改造によって替ったものだということが示されない限り、現存の架構は当初の建物のままであるという論を反駁することができないからである。
   註 この部分は、遺構については、必ず、「建設時から現在に至る経緯」を実証することが必要である、との言及と思われます。

記録のある15世紀建設の open hall のいくつかは、当初の建屋端部:付属室( chamber )部分の反対側に建っている。それゆえ、その部分が独立していることはなく、当初の hall (必ず後に建て替えられる)とともに建っていたはずである。たとえば、EAST SUTTONThe BLUE HOUSEfig62:下図 )では、wealden hasll と1468年に建てられた上手側の付属室部分( chamber と思われる)が当初の(15世紀初期建設と思われる)直交配置の棟( cross wing )に付け加えられている。

   註 当初の「 hall +直交配置の別棟」→当初の別棟を残し「1468年に、当初の hall 部分を wealden 型式hallchamber部 に建替えた」と解します。

fig62EAST SUTTON に在る THE BLUE HOUSE では、wealdenn 型式hall と1468年建設の上手側端部:付属室部分が当初の(おそらく15世紀初頭の) cross wing :付属室棟:に増築されていた。
同様のつくりは、CHISLET の TUDOR HOUSE でも見られる(平面図:fig69a:下図の一段目左 )。


他の例では、当初の建屋は必ずしも cross wing ではないが、新しい hall と同じ並びになっている。SMARDENHADLEY HOUSE では、後ろ側に aisle 型式hall があり、PLAXTOLSPOUTE HOUSEfig63 、平面図 fig68j )では、1424年建設の下手側の跳ね出しのある部分に hall と、その上手側に付属室が1445年に足されているが、これに似た事例は各地で見ることができる。時には、SMARDENBIDDENDEN GREEN FARMHOUSE のように、一世代あるいは二世代前に建てられたと思われる二つの付属室部分の間にあたらしい open hall が建てられているような例もある。


これらの事例には、当初の open hall の何らかの痕跡を遺している事例は一つもなく、おそらく、当初の open hall は、現存している建屋と構造的には別物であったか、あるいはそれよりも建設時期が早かったと見なしてよいだろう。
当初の hall がどのような姿であったかを知るためには、多種にわたる断片的な痕跡を通観して想定してみる必要がある。
SITTINGBOURNECHILTON MANOR  や、AYLESHAMRATLING COURT などでは、14世紀末あるいは15世紀建設と思われるcross wing :付属室棟:が、より初期の建設と思われる現存の aisled 型式hall に増築されている。これらの建屋は、跡形もなく失せてしまった他の中世の hallcross wing とはいささか趣を異にする。
LITTLE CHARTROOTING MANORSTAPLEHURSTEXHURST などの14世紀後期の cross wing :付属室棟:とは大きく異なる。これらの wing は、CHILTON MANORRATLING COURT よりも数等小さな hall に付け足されている。しかし、これらの wing は、現存する中では最も大きく、建物の呼称や諸記録は、これらが当時の平均的な農家よりも上層に属する人びとの建物であることを思わせる。しかしながら、ケント地域には、 CHART SUTTON 教区のように、自由民や小作農により建てられた同様のつくりの建物が現存する地区がいくつか在る。
CHART SUTTON 教区 には、桁行2間の wing:付属棟: が3事例現存している。すなわち、1377年に建てられた OLD MOAT FARMHOUSE 、1400年建設の DUNBURY FARMHOUSE 、そして15世紀初頭:1430年代までに建てられたと推定される WHITE HOUSE FARMHOUSE である。
WHITE HOUSE FARMHOUSE では、hall は16世紀に改築されていて、当初の姿を知る唯一の手掛かりは、wing:付属棟:の隅の柱に遺されていた 枘穴: だけである。それは、以前在った高さの低い hall の上屋桁の位置を示していると考えられる。OLD MOAT FARMHOUSE では、現存の wing と同時代かそれよりも早く建てられた open hall が16世紀に改築されているが、その建物の垂木繋梁は新しい hall に再利用されているが、それを見ると、前代の hall の中央の小屋組の繋梁には crown postking strut が併用されていることが分る。ただ、 NURSTEAD COURT のような堂々とした姿ではない。これらのことから、新しい hall は、いずれも aisled 型式の当初の hall が改築されたと考えてよいだろう。
DUNBURY FARMHOUSE には、wing:付属棟: よりも旧く理解しがたい single aisled hall :片側だけ aisle 型式hall が遺っている。その建設時期や正確な形状は明らかではないが、重要なのは、それがwing:付属棟:よりも旧いのに、木材が次世代の建物: wing と同様にしっかりと組まれていることである。
これらの建物の他に、この教区(CHART SUTTON 教区)には、、1379~80年頃建設の初期の有名な WEALDEN HOUSE である CHART HALL (旧 CHART BOTTOM )FARMHOUSEが在る。そして、その近在の STAPLEHURSTSUTTON VALENCEEAST SUTTON 教区にも旧い家屋が数多く遺っている。その中には、SUTTON VALENCEBARDIGLEY FARMHOUSE の古風の aisled hall も含まれる。それは、14世紀後期または15世紀初期の建物と同じく、hall と 端部の付属諸室がともに遺っているが、それぞれ別の架構である。その多くは地域の平均的農家よりも大きいが、STAPLEHURSTEXHURST を除けば、普通の地主層の建物に似た事例は一つもない。
この地域の14世紀後期~15世紀初期の遺構の例外的な特徴や BARDIGLEY FARMHOUSEDUNBURY FARMHOUSEOLD MOAT FARMHOUSEなどに在るかなり初期の hall の様態からすると、これらの家屋の建て主が、建て替えにあたり一時的なつくりで済ました、とは考えられない。EAST SUTTONThe BLUE HOUSE (前掲 fig62写真参照 )もその一例だが、そこでは15世紀初期の cross wing に接する hall が1468年頃には WEALDEN 形式で再建されている。

後に触れるが、ケントのこの地区で見られる遺構は、地域内の各所に多く遺っている中世の家屋とは、いささか様相が異なり、この点は詳しく考察されなければなるまい。
SELLINDGESOUTHENAY COTTAGEWESTBEREASHBY COTTAGE のような中世の最貧層の人びとの家屋は、痕跡がすべて失われてしまっているが、一時的・仮設的なつくりで建てられていたと思われるが、その形成の過程の詳細は分からない。しかしながら、ここまで触れてきた新たに建てられた高さの低い hall二階建て部分:付属諸室部分:の(中世的には見えない)様態を見ると、きわめて注目すべきことなのであるが、WEALDEN 型式 のような大きな建物が、一時的・仮設的建物から変ってきたように思われる。なぜなら、遺されている多様な形跡・痕跡は、かつては、現存する遺構よりもかなり多くの高さの低い hall (高さの低い hall二階建て部分:付属諸室部分:あるいは高さの低い別棟など)が、存在していたことを思わせるからである。
このことは、これらの多くの建物の架構が、現存する家屋のそれと同じくらい頑丈に造られていることを示している。
それゆえ、それらが遺ることができなかったのは、必ずしも構造的な理由ではないと考えてよく、小地主や小作農たちの間で、そういう頑丈な造りの家屋が永く維持されなかったのには、何らかの別の理由があったものと思われる。すなわち、彼らが自らの家屋が住まいとして十全であると見なして過ごし続けることは滅多になく、大抵何らかの部分的な改造・改修が繰り返し為され、結果として簡易な造りが頑丈で長持ちのする架構に変っていったと考えられるのである。つまり、度重なる改良・改修が長持ちする家屋を産んだということである。
これが、何時頃から始まったのかは、今のところ推測することができない。しかし、この変化が直接14世紀後期の新しい架構の誕生につながるものではないことだけは確かである。
おそらく、14世紀後期までには、旧い架構型式の弱点・限界は広く知られるようになっており、新たに二つの形式の架構が試みられていた。一つは、最新の高佐の低い hall に儲けた、より使いやすい地上階のある高さのある cross wing であった。この方策は、時代の要求に最も簡単に応えられる技法であり、おそらく最初の「解決法」であったのだが、16~17世紀になって、改造・改修がしにくいことが分ってくると、取り壊されることが多かった。
もう一つのより新しく、建物すべてを建て直す必要がない場合に最も採りやすい方策である。それは、、一つ屋根の下に高さのある open hall総二階建ての付属諸室部分を収めるために、梁を承ける桁となる wall plate の高さを高くする策であった。その結果、 hall の高さは以前よりも高くなり、中世の住居の標準形: wealden 型式上階跳ね出し型式:の先駆けとなったのである。そして、今はこれがケント地域特有の形式と考えられ見なされている。そして、これらを建てた人びとには思いもよらないことであったろうが、その建物のつくりは、後世の生活に適応すべく改造すること:二階や、時には屋根裏部屋を設け部屋数を増やす:が容易であり、それゆえ、全面的に建て替える理由も少なかったのである。
この新しい形式の家屋は、ごく普通の工法になっていくが、しかしその流れは遅く、大多数の家屋がその工法で造られるようになるのは15世紀の後半になってからのことであった。現存の open hall の半数以上がwealden 型式上階跳ね出し型式になってくるのは1370年代以降であるが、そのようなつくりの建物が、中世に造られた家屋の大きな部分を占めるなどというのは信じがたい。実際は、こういうつくりの建物の他に、目立たないが多数の高さの低い建物が在ったのである。それらの多くは寿命が短かったかもしれないが、つくりのしっかりした建物も在ったはずで、それらの中には、時代の要求に合わせるべく、部分的ではあるが、高い cross wing :直交配置の別棟:を増補する事例も多数在っただろう。現存する中世遺構の量、型式、建設時期が分析される中で、次の課題わは、何が生き永らえたのか、という点についての考察であろう。数多くの建物が喪失している、という事実を念頭に置いておくのはかなり難しいことではあるが、それら喪失してしまった事例を除いてしまっては、ケント地域の住居の中世後期の全体像を正しく描けくことはできないのである。
                                                この節 了       
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次回は次の節を紹介の予定です。
The pattern of late medieval development
The chronology of surviving houses
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読後の筆者の感想 
  興味深かったのは、架構・工法の変遷、その契機が、日本と全く異なる点です。
  あえて言えば、日本の場合、時代が変っても、工法・技法に「継続性」がある。
  しかし、これまで読んだ限りでは、どうも、彼の地では、それが窺えないように思えます。彼の地では「型式」が先行する・・・。そのように思えるのです。
  そのあたりは、後の節で明らかになるのかもしれません。

  前にも書いたように思いますが、この書の、考察・論議の過程を詳細に開示する著述形式は、日本の「専門書」では見かけたことがなく、きわめて新鮮です。
  それゆえ、専門外の読者にも、あたかも「推理小説」を読むかのように、「当面する問題」が何か、考える「機会」が生まれるのです。
  「専門」「専門家」の「意義」「存在理由」を再考する必要を、改めて感じています。

  

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