清新で溌剌としていた時代・・・・鉄を使った建物に見る-3

2010-03-05 22:03:13 | 鉄鋼造
[文言追補 3月6日 16.26]

1889年パリ万博・機械館の工事は、二つの会社が担当し、それぞれが別の方法でトラスの「建て方」を行なっています。

下は、一社の採った方法の工事中の写真と解説図です。


仮設足場が左右の柱脚部と棟位置につくられます。
トラスは、棟を中心に左右対称ですが、建て方は左右を別々に持ち上げ、棟の位置のピンで繋ぎます。
片側だけでもかなり重くなるため、さらに二分して持ち上げています。

図の右側は、右側になるトラスの「建て方」を示したもの。
二分されたトラスの柱脚部を柱脚になるピンに噛ませ、トラスの上側になる端部に結んだロープを右側の足場上部の滑車に掛け、中央部の足場下のウィンチで曳くと、所定の位置まで持ち上げることができます。
   当時のウィンチは、図にハンドル様のものが描きこまれているので、手動:人力ではないかと思います。不明です。

その際のピンに噛ませる方法が下図です(左半分のトラスの場合の図です)。
図のように、トラス端部にロープを掛けて持ち上げ、ピンからの位置を正確に計り木材の枕を噛ませます。
ロープをさらに曳くと、端部が持ち上がるとともに、自重も加わって、トラスは図のA点を中心にして回転してピンに載る、という手順のように推察されます。


次の図はもう一社の採った方法です。
工事中の様子は、写真ではなく、銅版画かペン画のようです。写真を下図にして描いた(彫った)のではないでしょうか。銅版画やペン画の方が、写真よりも保存性がよかったからではないかと思います(先の写真はかなり見にくくなっています)。

5基の足場をつくり、その上に、梁行方向に「橋」を架け、さらにその上に塔状の足場を2基立てます。これはどうやら「橋」の上を移動できるようです。
右側の図は、足場全体を、短手から見た図です。

あとは、先の方法と同じく、ウィンチで引き上げて、トラスを組立てます。

“LOST MASTERPIECES”の著者は、後者の方策の方が効率がよい、と書いています。
たしかに、「橋」の上を自在に歩けるわけですから(先の方法では、一旦地上に降りてからでなければ、もお一方の足場には行けません)作業性は数等よいと考えられます。

いずれの足場も丸太でつくってあるようです。かなりまっすぐですから針葉樹でしょう。

この「建て方」をみると、先ず「構想」があり、次いで、どのように建てるか、が検討されたと考えられます。
今なら、「建て方」が難しいから、あるいは構造に無理、無駄があるから・・・として、「構想」だけで終わってしまうのではないでしょうか。
たとえば、シドニー・オペラハウスは、ウッツォンの原設計とはまったく違って、生硬な形になってしまいましたが、それは当時の「新鋭の構造力学」が「介入」したからのようです(その「変遷」をいつか紹介します)。
機械館が構想どおりに建てられたのは、万国博覧会だったからでしょうか。
私にはそうは思えません。それが「時代の空気」だったのだ、だからこそ清新で溌剌、颯爽とした建物が生まれたのだ、と私は思います。

なお、“LOST MASTERPIECES”には、この機械館のトラスの構造解析図も載っていますので、以下に紹介します。
この部分については、解説を原文のまま載せます。


この話題は、これで終りです。

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清新で溌剌としていた時代・・・・鉄を使った建物に見る-2の補足

2010-03-04 11:07:50 | 鉄鋼造
[説明文言追加 15.38][一時、文章がヘンになっていました。元に戻しました 17.43][感想追加 18.15]

1889年パリ万博機械館のトラスの組立て・建て方の図版を編集中です。

その前に、“LOST MASTERPIECES”には、このトラスの原設計図が一部載っていますので、それを前回の補足として紹介させていただきます。
前回紹介の図は、この原設計図をトレースしたものと思われます。

この当時、すでに「型鋼」が製造されていたようで、図中には各部材の寸面の指示が書かれています。

字が小さいので、すべて書き直して貼り付けようか、とも考えましたが、原図の雰囲気も見ていただきたいと考え、図版を大きくして字が読めるようにしました。
もちろん、手描きで墨入れの図面。文字はペンか。

   リベットを飽きることなく、大きさも変えて描いています。今のCADなら繰り返しで描くでしょうが、
   とにかく手描きは「味」があります。
   こういう手描きの、手を抜かない、細部まで考えてある図を見ながら鉄を加工する職人の方々も、
   おそらく、描いた人の「意気」を感じて仕事をしたに違いありません。
   私の感じでは、無愛想なCADの図面で仕事をすると、仕事もきっと無愛想になるのではないか、そう思います。
   図面はコミュニケーション手段なのですが、本来それは、単に図に描かれたことのコミュニケーションではなく、
   設計図を描いた側の「人」をも伝えるものだった、そのように私は思っています。
   CADに全面依拠しておられる方々は、どうやって「人」を伝えているのでしょうか。
   それともこれは、「古い」人間の戯言なのでしょうか?    [感想追加 18.15]

いわゆるアングル:L型鋼を A・l と記しているようです。その他は、大体現在と同じではないかと思います。
なお、riv とあるのはリベット打ちの意です(図の丸点は、すべてリベットです)。
リベットも規格化されているようです(14mm、22mmなどと径が描いてあります)。

   リベットは、丸頭のついた鋲のこと。接合する2材に鋲の径よりやや大きめの孔をあけておき、
   2材を合わせ、その孔に炉で赤くなるまで熱した鋲を通し、両側から鋲をハンマーで叩きます。
   灼熱した鋲は、叩かれることで孔いっぱいに広がり、2材は密着します。
   そのとき、鋲の反対側:先端は、専用の冶具により、叩かれると丸頭になります。
   リベットは、最近、まったくと言ってよいほど使われなくなりました。
   溶接が普及する前は、鋼製の鉄道やバスの車両もリベット打ちでした。
   
   1960年代:東京タワー建設工事のころは、リベット全盛でした。
   学生のとき、工事中の東京タワー建設の現場を見学させていただきましたが、あの高所で、
   灼熱した鋲をポンと放り投げると、それを軽々と受け、すばやく所定の位置に打ち込みます。
   さすが鳶さん!と感心したことを覚えています。
   もちろん、素手で投げたり受けたりするわけではなく、専用の受け皿などを使っています。
   リベットを熱するのは、仕事の進捗とともに移動する炉によります。
   300mを越える高所にも灼熱の炉があったのです。
        一時、文章がヘンになっていました。元に戻しました[17.43]。
     
下は、前回のA部詳細にあたる箇所の設計図です。


そして、次の図はトラス脚部(E部詳細)の設計図。

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清新で溌剌としていた時代・・・・鉄を使った建物に見る-2

2010-03-01 18:01:19 | 鉄鋼造
[語句追加 3月2日 8.51]

先回概要を紹介した1889年パリ万博・機械館のアーチ・トラスの詳細図を転載します。
細部が分るように、図版は大き目に作成しました。


アーチ・トラスの柱脚部の写真。
人物と比べてください。アーチ・トラスがいかに大きいか分ります。

下がアーチ・トラスの全体図(半スパン)です。左右対称です。

            
A、B、E部の詳細を、頂部から順に載せます。
図はいずれも原設計図をトレースした図のようです。
          
             頂部。両側から持ち上げたトラスをピンで留めます。
             重機のない時代ですから、これが大変な仕事だったらしい。

           
            アーチの中途部。下屋の部分が取付きます。


柱脚部分。ここもピン。
グラウンドレベル(GL):地表面をピンの芯位置にしています(上掲写真参照)。
典型的な3ピン構造。ピン一点に力が集中する方策。
こういう架構は、それまではなかったと思います。
これは「構造力学」の成果です。架構=必要空間。見事です。

   今回は紹介しませんが、天井や壁には装飾がありますが、
   架構を飾るようなことはしていません。

アーチ・トラスが建て終わると、その上に屋根が架けられます。
屋根は、棟を中心にしてガラス屋根です。そのクローズアップが下の写真です。


写真の赤枠内を示したのが下の図です。

巨大なアーチ・トラスに直交して約10.5mごとに「つなぎ梁」が架けられ、
その「つなぎ梁」から「登り」方向に「垂木」に相当する部材が伸び、
その上に直交してガラスが載る台:「母屋」が据えられる方法を採っています。

部材相互の仕口:接合部には、かならず円形のハンチが設けられています。
   部材寸法が接合する他の部材よりも小さめになる場合(特に丈)、力がスムーズに伝わるように、
   材寸を徐々に低減させて所定の寸法にしてゆく方法を「ハンチを付ける」と言います。
   最近の仕事では、面倒くさがって滅多にやりません。
   ハンチを付けると、見た目にも自然に見えます。
   かつてM小学校の体育館のトラスでは、つなぎ部材はアーチに、部材相互接続のためのプレートには、
   すべて r を付けました。
   力の流れに応じているように見え、安心感があります(下註参照)。
   実際の力の流れも、見た目どおりなのではないかと思います。[語句追加 3月2日 8.51]
    註 http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/6fec6d219bdeb01d66a5f6e0056ddeab

ガラス屋根の雨仕舞は完全です。
シーリング材などない時代ですから、素直に「水の流下の法則」に則っています。
これだけ段差を付ければ、吹き上がりも心配なかったと思われます。
ただ、左上の棟の部分がどうなっているのかは、写真を見ても判然としません。


この巨大な機械館の構築物は、すべて人力だけでつくり、組立てられました。
組立てにあたってはいろいろな方法が考えられています。
それについては次回紹介します。

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清新で溌剌としていた時代・・・・鉄を使った建物に見る-1

2010-02-27 17:45:23 | 鉄鋼造
暗い話を吹き飛ばすには・・・、と明るい話題を探していたとき、手に取った書物:“LOST MASTERPIECES”(1999年、Phaidon Press,London 刊)で、清真で溌剌とした建物を見つけました。

この本には、1851年ロンドンに建てられた Joseph Paxton 設計のクリスタル・パレス(水晶宮)、1905~10年にニューヨークにつくられた McKim,Mead and White 設計のペンシルバニア駅とともに、1889年に建ったFerdinand Dutert 設計の「パリ万国博・機械館」が紹介されています。エッフェル塔がつくられた万博です。
いずれも近代建築史の書物にはかならず載っている建物で、当時の技術で鉄とガラスを最大限使った建物です。
そしてまた、いずれも溌剌としていじけたところがない。きわめて健やかです。

イギリスのワット(蒸気機関の発明者)とブールトンが、世界最初の鉄鋼を使った建物、7階建ての木綿工場(紡績工場?平面は長さ140ft:約35m×幅42ft:約10.5m。高さは25m前後)をマンチェスターに建てたのが1801年(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4e20811a5310328a715054d0bdf9c0f6参照)。
クリスタル・パレスの頃は、まだ緒についたばかりだった「材料力学」「構造力学」も、それからほぼ50年、パリ万博やペンシルバニア駅の建てられる頃には、「微積分学」を駆使してほぼ体系化されています。

ただ、この時代、これらの「学」は、現代とは異なり、設計者の意図を裏打ちするために使われていることに注目したいと思います。
当時は、「理論が実作を追いこす」ことがなかったのです(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4f8f4651ffc6129b69ebb7e286bc8be9)。

これは、日本でも同じ。当初、日本でも、「学」は「謙虚」でした。
それは多分、建物づくりに係わる「学」の「根」は「現場」にあることを知っていたからです。
おかしくなったのは、「学」が「現場」を離れ、「机上」で遊びだしてからなのです。


クリスタル・パレスはよく紹介されていますので、今回は、パリ万博・機械館を紹介します(もっとも、この書物にはクリスタル・パレスの施工過程も詳しく載ってますので、紹介したいとは思っています)。

下の図版は、1889年パリ万博の会場全体を俯瞰した図と会場全図(配置図)。
配置図の右端の赤い線で囲った部分が機械館。
同じく左端の黄色にぬった箇所は、エッフェル等の脚部。



機械館の平面図と外観を当時の写真から(右側は絵葉書らしい)。
平面図は、配置図の機械館を左に90度回転してあります。





断面透視図で見る全容。アーチの幅は360フィート:111メートル。とてつもない大きさです。


下は立面図。



下の左上の写真は竣工後の機械館内部。人の大きさに比べていかに巨大かが分ります。
他は実際の展示の様子の写真。


今回は、この建物の概要の紹介まで。
この書物(“LOST MASTERPIECES”)には、設計図と施工工程の解説が載っていますので、次回、整理して紹介します。
現在のような重機がない時代ですから、施工はすべて人力による建て方です。

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アンリ・ラブルースト・・・・architectとengineer

2006-12-02 23:20:37 | 鉄鋼造

新しい材料である鉄やガラスを盛大に使った建物としては、1851年ロンドン大博覧会の「クリスタルパレス」が有名である。ただこれは、催事用の建物。その数年後、きわめて「実用的な」建物が、パリにつくられた。
上掲の図・写真がそれで、1858年に着工、1868年に完成したBibliotheque Nationale:国立図書館:である。その書庫部分は、何の修理・補修も要せず、現在も使われているという。
なお、私は、この建物を観たことはない。書籍による知識のみだ。
以下に、S.Giedion著“Space,Time and Architecture”の解説を参考にしつつ紹介する(図、写真も同書による)。

設計者はHenri Labrouste(アンリ・ラブルースト:1801年~1875年)。
彼の生まれた1801年は、ワットが鋳鉄造の7階建て工場をつくり、また、鋳鉄製の巨大なロンドン橋の計画が提案された年。
そのようないわば[ざわざわした時代]に育った彼は、Ecole des Beaux-Arts:美術学校:を最優秀学生として卒業、賞として5年間イタリアに留学する。
彼は、イタリア各地のローマの遺跡の構造物の随所に見られる構造上のすぐれた技術に驚嘆、「それぞれの構造物の背後に秘められた精神、各構造組織(l'organisme de chaque construction)」を把握するように努めたという。「 」内は、太田実氏の訳による。以下同じ)。

当時のフランスでは、共に官立の、1794年創立のEcole Polytechnique:理工科学校と、1806年創設のEcole des Beaux-Artsとが、高等教育機関として双璧の地位を占めていた(1794年はフランス革命中、1806年はナポレオン治下。Ecole des Beaux-artsはancien regime:旧制度:復活のための教育機関としてナポレオンが創設)。
Ecole Polytechniqueには、上級の工科大学への準備教育機関の役割があり、当時のフランスのそうそうたる数学者、物理学者などが教授をつとめ、「理論科学と応用科学との結合」という重要な役割を担っていた。

その一方、Ecole des Beaux-Artsは、当初から、「建築と他の美術との結合」を目標としていたため、徐々に時代の流れから離れ、「芸術を日常生活から孤立化させる傾向」を強くしていた。

当然、この2教育機関は建築の世界にも大きな影響を与えていたが、19世紀中ごろには、この二つの代表的教育機関間の離反が目立つようになり、その結果、建築界では、次のような問題が論議されたという。
 ① architectの訓練は、いかなる過程で行われるべきか。
 ② engineerはarchitectとどのような関係を持つべきか。
   また、それぞれは、どのような専門的職能を持つべきか。

ワットが鋳鉄を使った工場建築を手がけたように、そして橋などの設計家マイヤールがRCの建物を設計したように、すでに産業革命以降、「芸術家という象牙の塔」にこもって旧来の様式にこだわっていた当時のa rchitect の世界に、徐々に engineer が立ち入り活躍するようになっていた。
こういう《象牙の塔》の外での engineer の種々の成果は、建築の世界にも、単に様式を踏襲するのではなく、あらためて construction の視点から『建築』を考え直すべき、という機運をもたらした。

幾多の人びとの試行を経て、construction と architecture との空隙を埋めた一つの例が、ここに紹介する Henri・Labrouste :ラブルースト:の国立図書館である。
彼は、この建物の前に、別の図書館 Bibliotheque Sainte-Genevieve(1840~50年)を設計している。
それは、柱や梁、小屋組などすべてを鋳鉄と鍛鉄によりつくり、しかも、ワットの工場と同じく石造の外壁でくるまれてはいたが、しかし、鉄造の部分は石壁によりかかることなく独立、自立していたという。
この経験を踏まえ、その延長上で、この国立図書館は設計されている。

19世紀になり、図書の出版が増え、その収納のための容量の確保が当時の図書館の課題であったという。また、当時は、現在の開架書庫スタイルはなく、閲覧室と書庫からなるのが一般的であった。
透視図に描かれている閲覧室は、方形で、16本の鋳鉄製の柱(直径1ft、高さ32ft)が相互に半円状の梁で結ばれ、4本の柱に囲まれた小方形単位ごとにヴォールトを構成、ヴォールトは薄い陶板製、中央は採光用の円い開口になっている(詳細は図面がなく、不明)。

閲覧室から半円形の平面の受付事務室を経て書庫に続く。
書庫は、閲覧室とはまったく異なり、前代までの様式をうかがわせるところがない。
書庫は、地上4階、地下1階、90万冊を収納できる広さ。屋上はガラス張りで、各階の床が鋳鉄製の格子状になっているため、日の光は格子を透けて書庫の上から下まで差しこむ。
書庫への歩みをなるべく最短にするため、中央の吹抜けには、対向する書庫間に橋が架けられている。

この格子床は、当時の蒸気船の機関室に使われていたものの応用という。
現在の図書館建築でも、閉架の積層書庫で、床がすけすけの構造が用いられている。

なお、皮肉なことに、この図書館の設計図は、Bibliotheque Nationaleにも保存されていない、つまり失われてしまっているとのこと。

私がこの建物を紹介するのは、その素直な『用に見合う空間の実現法』に共鳴するところがあるからである(特に書庫)。
なお、今回、architect,engineer・・と記し、建築家、技術者、との訳語を用いなかったのは、その語を用いると、本義が誤解されると思ったからである。西欧での意味と日本での意味は大きく異なる。太田実氏の訳でも、建築家、技術者・・と訳した上で、原語の『読み』をルビで付している)。construction と記し、「構造」と書かなかったのも同様である。
 

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鋳鉄の柱と梁で建てた7階建てのビル・・・・・世界最初のⅠ型梁

2006-10-16 23:49:23 | 鉄鋼造

S・ギーディオン著、大田実訳「空間・時間・建築」上下2巻(丸善刊)は、1950~60年代の学生には、近代建築、現代建築の誕生を知るための必携・必読の書であった。そうではあったが、学生の頃は、少なくとも私には、まだその内容の意味がよく理解できなかった。分かりだしたのは、実際の仕事をしだしてかなり経ってからである。
そして、最近の建物を見るにつけ、あらためて新しい材料が使われだした近代以降の建築の歴史・過程を見直す必要があるのではないか、と思い、ときどきひもといている。このままでは、建物をつくること、あるいは技術、その本質がどこかへ消えてしまいそうに思えるからだ。

上の図面は、イギリスのワット(蒸気機関の発明者)とブールトンが、1801年にマンチェスターに建てた7階建ての木綿工場(紡績工場?)の設計図である。
平面は長さ140ft(約35m)×幅42ft(約10.5m)。高さははっきり分からないが、25m前後はあると思われる。

四周は7階まで石積み、中に鋳鉄製の柱(右側の図がその詳細)を2列並べ(間隔はおよそ14ft:約3.5m)、柱の頂部に鋳鉄製のⅠ型の梁を架けている。ギーディオンはそれを「時計の機械がケースに包まれているように、(鋳鉄の骨組が)外郭の石造壁に包み込まれている」と表現している。
各階の床は、梁と梁の間はレンガのアーチをつくり、その上にコンクリートを流しているが、これも画期的。

Ⅰ型、H型の鉄骨は今ではあたりまえ、その寸面は断面二次モーメントで決める。しかし、断面二次モーメントの概念が生まれるのは、ワットの時代から半世紀あとの話。
では、彼らは寸面をどうやって決めたのか。
それは、彼らがすでに木造の建物などを多数つくってきて、その経験の中から得た部材や架構のなかの力の流れ、伝わり方、部材の応じ方・・・の実感を基に、「直観」で決めたのである。

およそ50年後、構造力学の創生にかかわったフェアバーンも、この設計に舌をまいている。
建物はすでにないが、設計図面が保存されている(上の図はその一部)。
 
19世紀末から20世紀の初め、すなわち、技師たちが構造力学だけに依存せず、自らの感性を信じていた時代、鉄筋コンクリートの構築物にも、目を見張るような事例が多数ある。いくつか紹介したいと思っている。
 
図は、S.GIEDION“SPACE,TIME and ARCHITECTURE”Fifth Edition(Harvard)より転載させていただきました。 
コメント (3)
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鉄の橋-2

2006-10-12 00:28:22 | 鉄鋼造

 日本で現存最古の鋳鉄橋が二橋、中国山地のほぼ中央、兵庫県朝来(あさご)市に保存されている。
 朝来は江戸期に生野(いくの)銀山が栄えた地で、姫路から北へおよそ50キロの地点、播但線が通っている(地図参照、見にくくて恐縮!)。
  地図は『日本大地図帳 三訂版』から転載。

 日本の鉄の橋は、1878年(明治11年)につくられた鋳鉄橋「弾正橋」が最初と言われているが、兵庫に遺されているのは1885年(明治18年)完工の「神子畑(みこはた)」鋳鉄橋と「羽淵」鋳鉄橋である。いずれも重要文化財。
 この二つの橋は、明治になって発見された神子畑銀山から、鉱石を生野の精錬所に運ぶ輸送路としてつくられ、全部で五橋あり(先の二橋だけが現存)、一時はレールが敷かれ、トロッコや鉄道馬車も走ったという。

 写真は「神子畑橋」。
 橋の長さ16m、幅は約3.6m、設計製作は当時の工部省、建設は地元の人たち。
 一説によると、部材(鋳造品)は横須賀でつくられ、海路運ばれた後、陸運で現地に運ばれたという。陸路は今なら車で2時間ほど、当時は人力だけだから、大変な作業だったろう。

 1992年の夏、当時、たまたま鉄骨の大屋根の設計をしていたこともあり、鋳鉄による構築法を見ておこうと思い現地を訪れた。写真はそのときのもの(「羽淵橋」は、時間の都合で見ることができなかった)。

 その設計の神経の細やかさには、隅田川にかかる鉄の橋に通じるものがあった。
おそらく、《近代化》の世になっても、工人たちには、近世まで培われてきた「ものをつくることの真髄、その裏づけとなる繊細な感性」が引継がれていたのである。

 なお、全景写真の奥に見えるロープは、左手にある林業地からのもので、橋とは無関係。
 関心のある方は、詳しい写真が「技術のわくわく探検記:生野鋳鉄橋群」に載っていますのでご覧ください。

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鉄の橋-1

2006-10-11 11:42:34 | 鉄鋼造

 日本橋をまたぐ首都高速の橋が話題になっている。いまさら何を?という気がするが、しかし首都高の橋のひどさは、日本橋だけではない。

 日本橋のすぐ近く、隅田川に出ると、吾妻橋、両国橋など関東大震災後につくられた鉄の橋をいくつも見ることができる。
 そのどれも、どこから見ても(橋の下からでも)よく考えられ、デザインされている。
 もちろん、力の流れに対しても素直で、単に見えがかりだけ考える最近の《デザイン》とは違う。

 鉄の橋は、言うまでもなく、材料の主役として鉄がデビューした産業革命以後つくられるようになる。
 その世界最初の例が、産業革命の揺籃の地、イギリスCoalbrookdaleに1779年につくられた鋳鉄のアーチ橋、The Severn Bridge(図・写真)で、現在文化財として保存。長さは31m、川面からの高さ14m。

 石のアーチを手本に設計、五つの部分に分け鋳造(最大21mの部材を砂型で鋳造:当時では画期的な大きさの鋳造)、木造の「蟻継ぎ」「殺ぎ継ぎ」あるいは「楔締め」などを応用して組立て、リベット、ボルトは使っていないとのこと。
 鉄の総量は約480トン、今ではこんなには要らない。

 一番長いアーチ橋の中央が「ヘの字」に盛り上がっているのは、図の手前の左側(写真では手前)の橋台が土圧で川側に押されたからだという(石の場合は、石の重さで土圧に耐えている)。
 技術の進展の一過程を示していて興味深い。

 今だったら「計算しないと分からない・・・」と思って、やらないにちがいない。「計算できる、計算できた・・・」というのは、はたして「分かること、分かったこと」なのだろうか、技術にとって進歩なのだろうか?

図は『つくりながら学ぶやさしい工学②:橋』(草思社)
写真は“Greate Engineer"(ACADEMY EDITIONS,LONDON)からの転載です。

 日本では、1885年につくられた鋳鉄橋が文化財として保存されている。
 「鉄の橋-2」で紹介します。

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