虹立つや 戦争しない 国が好き

2014-10-25 09:30:37 | 近時雑感
虹立つや 戦争しない 国が好き

これは、今年の「奥の細道全国俳句大会」小・中・高生の部の最優秀作品です。

新聞などで話題になったようです。
作者がこの句を詠んだ背景が紹介されている東京新聞の記事を、web版から転載します。。



新聞でこの句に接したとき、私は驚きました。そして、若い方の感性の鋭さに、深く感動しました
戦争のできる国を望む大人たちが目をむきそうです。「愛国」の意味がさりげなく、かつ鋭く、問われています。

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地域の「魅力」とは何か・・・・田舎の人には笑顔がある

2014-10-21 10:57:26 | 近時雑感

モズがけたたましく啼いています。モズの高啼き75日、という諺があるとのこと。
モズの初啼きから、75日後には霜が降りる、ということだそうです。冬が近い・・・。
木守りになる前に、食べられてしまうかもしれないシブガキです。


魅力度ランキングというのがあり、茨城県は、例年、最下位。その県が、人びと一般にどの程度認知されているか、どんなイメージを持たれているか、行ってみたくなるようなところがあるか、・・・などなどを数値化して決まる、要は、「ブランド」としての「評価」のことらしい。
「ブランド」とは、昔、罪人に押した焼印、烙印のことを指す語であったとのこと。転じて、有名デザイナーの制作品やいわゆる銘柄品(上級の品、特製の品として通用するとされる「名前」のある品物)のことを言うようになったらしい。
これをして「不名誉」なことだと思う方が、結構居られるようです。
もちろん私は、まったくそう思わない。むしろ、そういう「観点で一顧だにされない」、ということは、大変誇らしいことだ、と思っています。
「ブランド(品)」=高級(品)、上級(品)、優秀(品)、などと見なしてしまうことは、先回触れた「法令の定める基準」=「公理」という思い込みに通底する、「本質」を確かめない「思考停止の判断?」にほかならないからです。だからこそ、「偽ブランド」が生まれるのです。
行ってみたい、訪ねてみたい、などと思われない方が平穏だ、と私は思います。動物園の人寄せパンダでもあるまいし・・・(パンダさん御免!!)。毎日を平穏に過ごせることぐらい素晴らしいことはないのです。

茨城地域は、一部の都会の住人やブランド好きの方がたからは、いわゆる「田舎」と見なされているようです。
「田舎」の字義から言って、これは間違いではありません。
辞書には、田舎:①田畑が多く、人家が少ない所。⇔都会、②大都会から離れた地方(の都市)・・・とありますが、一般的には、「都会」に比べ、あらゆる点で劣る、というニュアンスが含まれているようです。
劣るか劣らないかは、判断の「物指」次第です。「都会」を高位に置く物指で計れば、田舎が低位になるのはあたりまえ。魅力度ランキングなどというのは、この物指で計ろうという試み、と言ってよいでしょう。
しかし、ある地域の本当の「魅力」というのは、そういう「物指」で測れる訳がありません。

私は、今暮している場所に、満足しています。
もちろん、《件のランキング》の指標とする「魅力」が備わっているからではありません。
ここは、「都会」へ通じる鉄道の「最寄駅」へは、車で15~20分、駅までのバスは、一日数本のコミュニティバスだけ。ここでは車は必需品。役場も郵便局・銀行も、診療所も、スーパーもコンビニも農協の農産物直売所も、ホームセンターも、クルマで5~10分の範囲にあり、20分も走れば大型のショッピングモールもあります。それゆえ、ガソリンが枯渇すると大ごとになります(東日本大地震のとき、一時、そういう状態になりました)。
   都会に比べると、一人暮らしの高齢者は少ないようです。二世代、三世代で暮している場合が多いからです。
   また、「デマンド型乗合タクシー」という制度があり、それを使うこともできます。高齢者は料金200円で、予約制。
   走行ルート、乗降場所が決まっていますが、だいたい何処へでも行けます。
   また、最近は、生協の宅配サービスも増えています。農協もやっているようです。[文言補訂]

しかも、上下水道完備です(農業集落排水という名の下水道が在るのです。霞ヶ浦の農業用排水(養豚などの屎尿の流入)による汚染を防ぐための策です。

家のまわりは、畑地と山林。
新緑も紅葉も、わざわざ遠出をしなくても身近で満喫できます。今、そろそろケヤキが黄葉の季節になってきました。
家の前の公道は、幅6メートルの舗装道路。クルマ通りが多い朝7~8時、夕方5~6時でも、数えるほどしか車は通りません。昼間は、時折営農のトラクターや軽トラが通るだけ。
   住まいは公道から25メートルほど引っ込んだ場所にあります。
   そのアクセスの道は幅5メートルほどで、緩い下り坂、正面に筑波山が見えます。これはまったくの偶然で、暮すようになってから気付きました。
車通りが少ないので、朝夕の散歩も公道の真ん中を歩いています。
何よりも「静か」です。先日来られた客が、その静かさに驚嘆していました。言われてみると、たしかに鳥の啼き声や、虫の声も鮮明です。そう言われて、日ごろ慣れてしまって、気付いていなかったことをあらためて実感しました。今は、梢ではモズがけたたましく啼き、藪ではコジュケイがあらそって啼いています。相変らずキジも時折顔を見せます(そろそろ歓迎されないハンターが現れる季節です)。
夜、カサコソと藪をかき分け現れるのは、どうやらタヌキやウサギらしい。その音で犬が騒ぎます。さすがにイノシシはいない(昔は出たそうです)。

夕方の散歩のとき、よく、学校帰りの子どもたちとすれ違います。
学校は、私の暮すあたりからだと3~4キロ。子どもの足だと40分~50分ぐらいはかかるでしょう。
子どもたちは、10数人連れだって、遊びながら帰ってきます。最初にすれ違ってから10分ほどたって、戻ってみると、相変わらず、最初にすれ違ったあたりを歩いていたりします。時には、道に円座に座り込んで何かしています。虫か何かを見ているらしい。典型的な道草です。多分、帰り道は1時間以上かかるのでしょう。私が家に帰りついてしばらくすると、子どもたちの大きな声が聞こえてきます。家に帰った子どもたちが、今度は、カバンを家に置いて、近くで遊んでいるのです。
こういう状景は、つくばの街中にいたときには、ついぞ見たことがありませんでした。
この地に暮すようになって、最初にこういう子どもたちの姿に接したとき、「懐かしいな」という思いと同時に、この子たちは幸せだな、と思ったものでした。
「懐かしいな」と思ったのは、私の子どもの頃の学校の行き帰りも、こうだったからです。唯一違うのは、私の頃は、特に疎開先では、道の脇に拡がる田んぼや小川も道草の対象地だったのが、ここの子どもたちは、道端だけの道草で、田んぼの方には行かないこと(中学生、高校生になると、君たちこんな所まで来るの?と思うくらい遠回りをして帰ってくるのに会ったりします。自転車通学だからです)。

こういう学校の行き帰りで知らず知らずのうちに子どもたちが身に付ける「知恵」が、大人になって重要な意味を持ってくるであろうことは、容易に想像できます。唐木順三氏の説く「途中」の「価値」です*。しかし、件の「魅力度評定」には、こういう「価値」についての「計測・判定」は入っていないはずです。
   * 唐木順三氏のエッセイ「途中の喪失」

先日、TVで、都会の仕事をやめ、生まれ育った土地:「故郷:田舎」に戻ってきた青年が、田舎の人たちには笑顔があることにあらためて気付いた」と語っていました。そう言われてみると、確かにそうです。散歩のとき、時折、見知らぬ人とすれ違うことがありますが、当然のように、皆、笑顔で挨拶を交わします。時には、二言三言話をしたりもします。何の会釈もない、などというのは、かえって不気味です。すれ違う軽トラなどでも、あれは誰々さんだ、と分りますから挨拶します。これが日常。
しかし、こういうのは、都会に暮し慣れた人にとっては、鬱陶しいことかもしれません。「評価・評点」は低いでしょう。

ときどき、宗教団体(キリスト教系?)の方がたが、グループで布教の案内に来ることがあります。大方は女性の集団です。直ちにそれと分ります。何故かというと、服装が地元の女性たちと違うからです。皆スカート姿。しかも、どう見ても歩きにくそうな恰好。靴も踵が高い!このあたりの女性でスカート姿は皆無です。多くはスラックスだし、高齢の方の中にはモンペ姿の方も見られます。大概、エプロン掛けです。足元はスニーカー。皆、働いているからです。買い物なども、そのままです。このあたりでは、その方が様になるのです。過ごしやすいことが一番なのです。

私どもが、この地を住処に選んだとき、生活上のいわゆる利便性は特に要件には入ってはいませんでした。専ら、環境:surroundings が、選定の基準であったと言ってよいでしょう。
ところが、利便性という点では、先に触れたように、車さえあれば、思いのほか便利だった。これはまさに「想定外」。
環境:surroundings の点では、文句の言いようがない。
農家の方たちの暮し方、子どもたちの日常は、どれも、この環境:surroundings で暮すときの必然的な姿にほかなりません。つまり、往時の人の暮しの姿なのです。
これは、都会では決して目にすることがないであろう立派な「文化」なのです。「魅力」なのです。それが、当たり前のこととして身の回りにあるとき、人はそれに気付かないのです。
これに気付いた時、都会に「憧れ」、「都会化」を望む必要など、まったくないのです。「田舎の人には笑顔がある」と気付いた青年のように、いずれ、多くの若い世代の方がたが、この「事実」に気付いてくれるだろうと、私は思っています。

   もちろん、当地にも、悪しき様態がないわけではありません。
   あからさまな買収など未だに茨城ではあたりまえの選挙の姿などは、その一つ。
   しかしこれは、昨今の大臣の辞任騒ぎを見ると、都会でも同じらしい・・・。これは、田舎、都会に関係ない、日本の「政治の世界の特性」なのでしょう。

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判断の根拠

2014-10-13 16:32:04 | 近時雑感

実生の苗を採ってきて、植えてからほぼ10年経ち、今は高さ5mほどに育った椎の木。
強い筑波颪の風除けを立派に果たしてくれています。多分スダジイでしょう。
今、実:ドングリを一杯着けています。
台風前の静かなひととき。




東日本地震の際に発生した千葉県浦安の分譲宅地の「液状化による被災」の責任の所在を争った裁判の判決が出たとのこと。
判決は、この地震は、想定外の大きさであり、ゆえに、液状化現象も想定外の大きさ、ゆえに、開発側に責任を問うことは難しい、との内容のようでした。その開発にあたっての設計・施工の《設計基準》に液状化対策が考慮されていなくてもやむを得ない、ということでしょう。これは、福島第一原発事故は想定外の津波ゆえだ、というのとまったく同じ、つまり、想定外の事態に対して事前に備えることはムリだ、という「論理」です。

地震の際の低湿地での液状化現象の発生が問題にされるようになったのは、たしか1964年(昭和39年)の新潟地震であったと記憶しています。以来、低湿地での建設に際しての、重要な検討項目の一つになったはずです。
裁判沙汰になった分譲地にあった建物は、木造の分譲住宅。道一本挟んでRCの中層集合住宅が並んでいますが、そこは、液状化とは無縁だった。訴訟は、この「違い」から起こされたようです。なぜ「あっち」は被災しなかったのだ?というのは、分譲住宅購入者の抱いた当然の疑問。しかし、判決は、木造建物だから、RC造の対策のように為されなくてもやむを得ない、ということらしかった。

この判決のニュースに並行して、アスベスト被害の責任問題の判決もありました。こちらは、アスベストの引き起こす健康上の弊害は、知られていて、防ぐことができたはずだ、規制の法定化を急がなかったのは問題である、という判決のようでした。規制する法令がなかったから、企業は対策をとらないでよいと判断した、との「解釈」が判決の根っこにあるように思えます。逆に言えば、規制がなければ、何をしてもよい、ということになります。

この二つの「事件」は、「判断の根拠」と「法的基準」ということについて、考えさせてくれる「話題」のように思えました。
この二つのニュースを聞いて、咄嗟に浮かんだのは、どうも、世の中では、私のなかにある「常識的理解」とは異なり、「法律の規定に従って」為されるのが「正当な判断」と見なされているらしい、という「感想」でした。更に言えば、法律は、人の「常識的理解」を越えるものとして存在するのか、という疑問でもありました。簡単に言えば、「常識的理解」は通用しないのか、「常識的理解」で判断するのは間違いなのか?という疑問です。


液状化現象で、木造分譲住宅で何が起きたのか。
一番大きい現象は、建物が水平・垂直でなくなった、傾いた、ということのようです。もちろん、道路も歪み、それに伴い、外構も傾き、その結果、地中の配管類も破損する例が多く見られたようです。ただ、通常の震災事例のように、建物自体が地震振動で破壊した例は、なかったようです。

この状態を、「常識的」に解釈すると、次のようになるのではないでしょうか。
低湿地の水分を含んだ砂質の地層が地震に逢うと、地層全体が、あたかも海面の如くにうねり波立ち、その上に物体が浮かんでいれば、その物体も、当然、海の上の船のように、波に応じて動くことになります。
ところで、ある地盤に建つ建物は、その地盤向けの基礎を設けることになっています。その「判断」の前提として、その地盤は、どの程度までの重さに耐えられるか調べます。いわゆる「地耐力」です。
法令では、「地耐力」に応じて、基礎の仕様が細かく規定されています。
問題になった分譲住宅も、当然それに従っているでしょう。
これは推測ですが、おそらく、いわゆる「ベタ基礎」が大半だったのではないでしょうか。建物の平面全体に「盤」をつくり、その面積で、建物の重さを地盤に伝えよう、という《方策》です。単位面積当たりの「重さ」を減らそうという考え方です。
この方策を採ると、建物は、基礎ごとまるまる、いわば海面状に浮いている「箱」になっていることになります。海面が波立てば、「箱」は波間を漂います。
そして、海面が静かになったとき、「箱」は、波が止まったときに在った状態で、漂うのを止めます。そのとき、箱が水平である、という保証はありません(まったくの水面・水上だったら、水面は「水平」になって安定し、したがって箱も水平で落ち着くでしょうが、地盤は、水とは性質が違いますから、そうはならないので、結果として、建物は傾いてしまうのです)。
   液状化現象の際、地面から水が噴き出すのは、水が安定状態になろうとするためではないでしょうか。
では、道向うのRC造の建物は、なぜ傾かなかったか。おそらくそれは、建物を、砂質地盤より下の強固な地盤に固定していた、つまり、砂質地盤に浮いている「箱」ではなかったからだと思われます。
   波間に漂う「箱」は、波でどこかに打付けられるというようなことがないかぎり、地震の振動により、直接破損することはありません。
   その意味では、浮いている「箱」は、地震に強い:耐震性があり、これを「免震」効果と考える人もいるようです。

ところで、液状化現象が具体的に如何なる状況・状態を呈するかは、多分、予測不可能でしょう。その場所・地盤を成り立たせている要素・条件は、一定ではなく、まさに場所により異なるはずだからです。おおよその趨勢は分るかもしれませんが、個々の細部はムリでしょう。起きてみなければ分らない、というのが本当のところだと思います。つまり、事前に想定できない。

故に、私が設計者の立場なら、そういう計画は立案しないし、そういう設計に携わることも避けるでしょう。後述しますが、そもそも、そのような低湿地に建物を建てようなどと思うこと自体が根本的に間違いだ、と考えるからです。
そしてまた、もしも購入者の立場なら、そういう物件を買おうとは決して思わないでしょう。
これは、私の「常識的」「感覚的」判断です。

だいたい、私に理解できないのは、なぜ、海浜を埋立して住宅地にしようと考えたのか、という点です。低湿地には構築すべきではない、というのは、古来の「常識」であったことを、私は知っています。
残念ながら、その「常識」は、《科学技術万能》信仰の結果、喪失し、「危ない所にわざわざ構築し、安全を願う」、という本末転倒の事態が《常識》になってしまった、そのように私は思っています。
   東日本地震では、関東平野内陸部でも、液状化による被災宅地が多数ありましたが、そのいずれも、沼沢地のような湿地を埋立てた所のようでした。
   いずれも、私には、「常識外れ」の計画、常軌を逸した計画に思えました。

では、なぜ、かくも《科学技術万能》信仰が《普及》してしまったのでしょうか?「常識」が通用しなくなってしまったのでしょうか?

私は、「法令」が定める各種の「基準」にその因があるように思っています。
「法令」が定めている「基準」なのだから、その「基準」さえ遵守していれば何ら問題は起きない、という「思い込み」が生まれるからです。
そのような思い込みが生まれると、その「基準」が係わる「問題」の「本質」が問われなくなるのです。その方が楽だからです。
建物の「基礎」は、法令の基準に従って設計してあればよい、と考えてしまい、低湿地の持っている「本質的な問題」を考えなくなるのです。
簡単に言えば、法令「基準」が、人から「思考」を奪う、人の思考を停止させてしまうのです。

その先、どういう方向に進むか。何事も「本質を考えずに済ます」ようになります。
アスベスト訴訟がその例ではないでしょうか。
アスベスト(石綿)やグラスウールは、いわゆる「断熱材」にも使われますが、これらは見ただけでも(つまり「感覚的」にも)、この粉末は微細で怖いな、吸いこんだらヤバイな、と思える材料です(グラスウールなどは、触るのも気になります)。
実際、アスベストの粉塵は珪肺→中皮腫の原因になる。その具体的な症状を知らなくても、感覚的な判断で、そういう粉塵が漂わないようにしよう、と普通は思うのではないでしょうか。
その措置を、法令の「基準」「規定」がないからと言って、問題はない、ゆえに策を講じないで済ましてきた。そして、発症者が多発した。これがアスベスト訴訟の発端らしい。
これは、いわゆる「公害」に共通の状況と言えるでしょう。
しかし、法令「基準」「規定」がなくてもそういう状況の発生を防げることは、以前、小坂鉱山の紹介の際触れました。
いったん「公害」物質の排出「基準」値:いわゆる「許容量」が定められると、その値を上回らなければいいんだ、という《発想》《思考》を生み、排出量を0にしようと思わなくなる傾向さえ生じます。これも「法令基準の存在」が惹起する「思考停止」の典型的な事例と言えるでしょう。
法令の規定する「基準」は「公理」ではないのです。
   公理:(数学で)その理論体系の出発点として、証明を要しないで真であると仮定した命題。(新明解国語辞典)

しかし、世の中には、自ら考えずに、「判断」の根拠を他に求めようとする傾向が、強くなっているように思えます。
   標識が50キロだからと言って、わき目も振らず時速50キロで車を走らせ続けることがないのは、瞬間瞬間の周辺の状況を自ら察して判断しているからです。
   その判断は、運転者自らの、「常識的」「感覚的」判断に拠っているのです。
   法令基準に従っていればよい、という「判断」は、字の通り「無理」なのです。

今朝の毎日新聞のコラム「風知草」は、そのあたりについて論じていました。下にコピーして転載させていただきます。
コメント (1)
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この国を―50・・・・「今、そこにある危機」

2014-10-03 15:00:00 | この国を・・・

モクセイの木陰で、シュウメイギクが咲きだしています。

先回の記事(「棒になった話」)にいただいたコメントに
「・・・渋谷駅をお使いにならなくて幸いでした。
東横線渋谷駅は安藤忠雄氏の設計で最近全面改装されたのですが、動線計画が滅茶苦茶で、朝など階段を登るのを待つ人で長蛇の列ができます。
動線計画の悪さをごまかすために、見苦しいサインがそこいら中に貼ってあります。使うたびに怒りが込み上げてくるので、なるべく渋谷駅を使わないようにしています・・・。」と書かれていました。
私は、このコメントに対し、次のように返しました。
「東横線渋谷駅、利用者の不便についての不満、開業当時はメディアで話題になりましたが、以後聞かなくなりました。
都会人は「忍耐強い」のかな?!それとも飽きっぽい?
・・・いくら忍耐強くても、ストレスはたまります。最近、身障者へのいじめ・暴行が街中で多発しているようです。
これなどは、都会に暮す人の中で不満をかこつ方々の、ストレスのはけ口ではないか、と、ふと思ったりします。・・・」

読みそこなった新聞をひっくりかえしていたところ、同じような危惧を抱いている方の一文を見つけました。

日曜日(9月28日)の毎日新聞日曜版にあった心療内科医 海原純子氏の「今、そこにある危機」という表題のコラム記事です。

全文を下に転載します。



私は、このような鬱憤・ストレスの大きな因のとして、「社会的格差」の存在・拡大とあわせ、都会の環境(私の言葉で言えば、 surroundings )の様態が挙げられるのではないか、と考えています。

「社会的格差」で言えば、働く人の(特に若い人の)使い捨てが顕著のようです。また女性の蔑視、障碍のある人びとへの蔑視は、相変らずのようです。
また、先回「棒になった話」で、少しばかり触れましたが、現在の都会の環境(私の言葉で言えば、 surroundings )もまた、そのほとんどが、「そこに人が居る・在る」ことが忘れられている、と私は思っています。
何故そのようになっていなければならないのか、が分らない、つまり、その surroundings が、そこに、そういう形で「存在する、存在しなければならない正当な理由・道理」を感じることができないからです。

何度となく書いてきましたが、そこで目にするのは「理」ではなく「利」。駅の構内のエキナカなどは、その身近な例です。
たしかに、そこにも人は見かけます。しかし、そのとき、人は、商売の対象に過ぎない。言い換えれば、商品の代替物に過ぎない。それを如実に示している言葉が「集客」。駅の階段を登るべく、イライラしながら登る順番を待っている人の群を見て、その数の多さに喜んでいるのかもしれません!?
私は、「階段を登る順番を待つ長蛇の列ができる」という事実を知ったとき、それなら、駅の設計は、工場設計に手慣れた方の方がまだマシではないか、と思ったものです。

便利な駅であることの条件は、そこでの乗降やその駅に乗り入れている各線への乗換がスムーズにできることです。
そして、「スムーズである」とは、おおよその「駅全体の位置・構成が分るようになっていること」、なおかつ、それが分ったら、「行きたい方向に向って思った通りに足を運べること」、と言ってよいと思います。

これは、街についても言えることです。要は、全体・全貌が容易に把握できることです。設計者は、そのようになるべく努めることが責務のはずです。それが「専門」のはずなのです。
全体が把握しにくく、それゆえ、己の感覚で自由に歩けない場所では、人にストレスがかかります。疲労はいや増しに増します。
社会的にも抑圧され、さらには、 surroundings にも苛立たされる・・・・、この憤りをどうやったら解消するか。
海原氏が文中で言われている「弱い者いじめは弱者がすることがある。」「・・・うっぷんをかかえるとそのはけ口は無抵抗な弱者にむかうことがある。今、あちこちで耳にする暴力事件、そのひとつひとつは大きな犯罪ではないと思われている。しかし、弱者に対する暴力、という側面と、心のフラストレーションのはけ口、という心の問題を通して見ると、事件の増加は非常に大きな問題を示唆している。」という指摘は、的を射ている、と私は思いました。
これを読んだとき、咄嗟に、建物づくりや街づくりに関わっている方々に、是非読んでいただき、自分たちは、こういう状況を生み出す「舞台」をつくるのに精を出していないかどうか、精査してもらいたい、と思いました。
しかし、同時に、今の《建築家》には無理だろうな、とも直ちに思い至りました。
なぜなら、彼らの東日本大震災後に発した言説(「理解不能」で詳しく論評)、最近の国立競技場改築問題についての右往左往を見れば、どだいムリなこと。皆、「自己顕示」にしか関心がないからです。彼らにとっておそらく、人は、単なる「作品の点景」以外の何ものでもないのです。

「ジワジワ進む異常は見逃されやすい・・・」これも真実です。放っておいてはならない事態だ、と私も思います。これは、まさに「今そこにある危機」なのです。

時の政権は、若い人や女性の《活用》で《地方》の《再生》などと叫んでいます。
《活用》あるいは《地方》《再生》という「用語」のなかに、既に、なぜ現在のような状況が生じてしまったのか、その真因が隠れていることに気付いてさえいません!この「怖ろしさ」。これも見過ごせない「危機」ではないでしょうか。
たとえば《活用》という用語。そこには、彼らが、人を人として把えていないことが、ものの見事に顕れています。彼らにとっては、人は、使い捨てのモノに過ぎない、との認識があることの証左なのです。
   モノも本来、使い捨てにはできない、してはならないのです。
   このことを往時の人びとは、当然のこととして認識しています。「針供養」「〇〇供養」などの語に、それが顕れています。
  「地方」という用語については、以前「山手線はlocal線だ」で触れました。
今、「地方再生」「国土強靭化」などという意味不明な言葉が飛び交っています。
その中身は、どう見ても、従前の工学的手法によって「全ての地域を都市・都会化する」イメージのように思えてなりません。
各地域、「地方」には、今の都市・都会にはなくなった「人の世」が存在しています。
「地方」に元気がない、などというのは計る物指が違うからではないか、と思います。
「都市・都会」の物指で「地方」を計っても無意味、百害あって一利なしなのです。こういう一律の物指の存在も「危機」です。
「地方」の「不便」は、考えてみれば、人間らしさのバロメーター、人間らしさの濃さの顕れと考えることができる、そのように最近私は思うようになっています。
そういうところに、「都市・都会が増殖させてしまった危機」を、わざわざ持ち込んでもらいたくありません。
私は、最近、限界集落、過疎と呼ばれる地域ほど、豊かな地域であるとさえ思うようになっています。
   そういう場所へ移住する都市の若者が増えているようです。
   この若い方がたの感性は、実に素晴らしい、彼らは「利」ではなく「理」でものごとを考えているのでしょう。
そしてまた、高齢化の今、地域に適切な高度な福祉策を率先・先行して生み出してきたのが、都市・都会から見れば「片田舎」と呼ばれる地域の町村であったこと、これも注目してよいように思います。
   国の福祉政策・制度の多くが、それらの後追い・模倣のようです。
   しかし、「體」を見ず「用」を真似るだけで「本質」は見捨てられることが多く、一律の制度化のため、地域の独自性の創出が阻害されることさえあるようです。

東日本大震災の「復興」「再生」として、新たな《街づくり》あるいは《住宅地計画》が被災地で行われつつあるようです。
詳しくは知りませんが、垣間見るかぎり、そのほとんどは、大都市近郊の「街づくり」や、いわゆる「再開発」、あるいは「新興住宅地開発」のコピーのように思われます。
その地域に生まれ存在していた「村・街」あるいは「住まい」に営々として継承されてきた「その地域なりの surroundings の様態・姿」を在らしめてきた「謂れ・道理」は、まったく顧みられていない、と言えます。それは「再生」とは到底呼べません。
   地山を崩し、埋立てをし・・・、その手法を見るにつけ、広島の土砂崩壊のような災害の引き金にならなければよいが、と思っています。

何事によらず、いかに面倒であっても、事に当っては、常に「ものの理・道理」を考えること、考え続けることが大事であると、あらためて思いを新たにしています。

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