建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

SURROUNDINGSについて・・・・13(了):勘定できないことも、勘定に入れなければならない

2012-04-28 18:34:31 | surroundingsについて
[補注追加 30日 11.35]

山梨へ行く機会が多く、そのたびに、「ある思い」を抱いて帰ってきます。
それは、二つ。
一つは、中央線の車窓から見る、高尾山の麓に至るまでの間、延々と続く家並の「凄さ」。
もう一つは、帰路、中野あたりから見え始める新宿の高層ビル群の「おぞましさ」です。

東京に住んでいて、
切れ目なく、果てしなく続く家並を、おかしいと思う方はいないのでしょうか。
新宿の競い立つ高層ビル群の「風景」を、汚い、醜い、と思う方は居られないのでしょうか。
   註 風景という語は、本当は使いたくありません。
こういう状態になったのは、そんな昔のことではありません。1970年代以降です。

1900年代の初頭、明治42・3年(1909・10年)測量の国土地理院(当時は陸軍陸地測量部)の地図でみると、東京の市街地は下図(「図集・日本都市史」東京大学出版会 刊より転載)のとおりです。

地図の黒く見える部分が市街地、白い部分は農地、山林等と考えてよいでしょう。

茨城に移り住む前は、東京の西郊に暮していました。
大学生の頃までは、まわりの状況は、この地図とほとんど変わりはなかった、と言ってよいでしょう。もちろん、明治の頃に比べれば、人家は増えてはいます。しかし、農地、山林はいたるところに見ることができたのです。
家の前には、広大な杉の林が広がっていました。そこは、その当時の「都市計画」で、いわゆるグリーンベルトに指定されていたのです。今でもその面影が残っていますが、所有者の代替わりの際の相続税で取られ、徐々に小さくなってきています。
通っていた高校は、グリーンベルトの近くに位置し、まわりは一面芝の栽培地、春先には肥料として撒かれた人糞まじりの砂塵がまともに吹付けてきたものです。 
   以前に触れましたが、現在の環状8号線の周辺がグリーンベルト。
   その外側は、市街化が制限されていました。
その頃、人びとは土地を容易に手に入れることができ、しかも100坪はおろか200、300坪の広さが当たり前でした。その一方、建築費はきわめて高かった。戦後の復興期、木材が高価だったのです。実は、これが住宅金融公庫の生まれた理由。建築費の補助が目的。

しかし、列島改造論議で、簡単にグリーンベルトは消失します。
特に注意する必要があるのは、地価の上昇をもって「経済の繁栄」と見なす、という政策がバックにあることです(当時の国土庁長官のアイディア)。
   このあたりのことについては、「日本に『都市計画』はあるのか?」でもう少し詳しく書いています。

その「結果」は、簡単に言えば、建築費>土地購入費であったものが、建築費<土地購入費に移り変わった。それはすなわち、宅地の狭隘化を促すことになります。
   「評価額」や「路線価」が騒がれるようになるのも、その頃からです。
   そして今は、地価が高いことがはよいことだ、というのが「常識」になっているようです。
   「評価額」「路線価」が下がると、メディアの多くは「悲観」的な論を張ります。
   私には、これがよく分らない。
   「評価額」「路線価」が下がることは、その土地に暮す人びとにとっては最良のこと、と私には思えるからです。
   市街地の中で貴重な存在であった農地や山林は、先にも触れたとおり、代替わりのたびに、
   「相続税」対策で切売りされ、小分けの宅地にされます(中央線沿いでは、30坪≒100㎡程度とのこと)。
   地価が高いため、狭隘化するのです。
   土地が天からの預かりものではなくなった。
   近世まで、土地の大きさではなく、間口の長さに税金が掛けられていたのです。

下の衛星写真は、最近の東京、新宿あたりです。


矢印マークは、都庁の近く。高層ビルの長い影が見えます。西は大体環状7号線のあたりまで写っています。
これが当たり前になっていますから、世界の大きな都市も同じだ、と思う方が多いかと思います。
しかし、それはまったく違います。

下は、同じスケールのロンドンの衛星写真です。
矢印マークは、いわゆるシティ呼ばれるあたりです。

何が異なるか、一目瞭然です。
ロンドンの写真で、黒く見えるのは樹林です。

東京とロンドンの矢印マークからおよそ10キロ程度の位置を、もう少し近寄って見たのが次の2枚です。スケールは同じです。
上が東京、下がロンドンです。ともに鉄道の駅のそばの住宅地です。



   これは、ほんの一例です。
   Google Earth で東京、ロンドンを検索して、いろいろな地区を観てみてください。
ロンドンの住宅も、多分二階建てが主でしょう。しかも、一戸が大きいようです。
なぜこういう違いが生じているのでしょうか。
日本は国土が狭く、人口密度が高いからだ、あるいは、東京一極集中だからだ、というわけではありません。
因みに、2009年のデータでは
大ロンドンの面積は1572平方キロメートル、人口は775万で総人口の約12%。
東京(「東京都」域)は2189平方キロメートル、1320万で総人口の約10%。
ロンドンの方が集中していることになります。
人口密度は、平方キロメートルあたり、ロンドン4932人、東京6024人。
たしかにロンドンの人口密度は東京の8割強。単純に計算すると、東京の50坪はロンドンの62.5坪にあたる。
しかし、この差が東京の様態をつくった、とは考えられません。

それを説明してくれるのが次の地図です。
   ロンドンをとり上げているのには、他意はありません。
   この地図があるからです。  
これは、現在のロンドンの地図に、
1888年(明治21年)の「ロンドン市界」、
「大ロンドン」の境界、
「景観保存地域」
などを書き込んだもの(帝国書院刊「基本地図帳2008」より転載)。
赤色の線で描かれた円は、都心から20キロ圏を示しています。


つまり、ロンドンにはこのようなヴィジョンが100年以上前からあり、それを継承し続けてきたのです。
一方、東京は、ときどきの「都合」で、「適当に」に変えられてきた。

なぜ「適当に」変えられたか。
その理由は、数値信仰。そのなかでも最も単純な「ものの価値を金銭で計る」ことが当たり前になってしまったからではないか、と私は考えています。

たしかに、「ものの価値」を「評価する」ことは難しい。
そこで、手っ取り早いのが「金銭に置き換える」こと。
金銭で計るなら、土地の価格も高いほどいい。それは地域の経済の活性化に連なる・・・。
そうなったとき、SURROUNDINGS への関心・気遣いなど、いっぺんに吹っ飛んでしまいます。
なぜなら SURROUNDINGS への関心・気遣いには、私たちの感覚、感性が係わる。
しかし、「人の感覚・感性」を「数値化する」ことはできないのです。まして金銭に置き換えることなどできない。ゆえに、無視、黙殺しよう・・・・、あるいは「金銭化」できるものだけとり上げよう・・・。地価がその一つなのです。

日本は西欧流の「合理主義」を是として積極的に受容してきました。しかし、何か「勘違い」をしているのではないか、と私は思っています。
「合理(的であること)」=「事象を数値化して捉えること」、と解してしまっているのではないか。

「ものの価値を金銭で計る」ことが当たり前になると、別の「動き」が生まれます。「個別の価値の追求」に励むようになるのです。
建物をつくるにも、まわりは関係ない、「自分の持物の価値」だけを考えるようになります。普通の人びとはもとより、「専門家」さえも、です。
以前、このことを、( SURROUNDINGS に対する)「作法」の喪失、と書きました。
その結果、街並み、家並も、かつての街並み、家並とは、数等見劣りするものになってしまった、と私は考えています。「作法」もまた数値化できない・・・。

   もしかしたら、そこには、個別の価値の足し算で全体の価値が定まる、という考えも潜んでいるのかもしれません。

ロンドンの地図の中に「景観保存地域」を区画する線が見えます。
「景観保存地域」の内容については詳しくは知りませんが、その広さに驚きます。20km圏はもとより「大ロンドン」はその中に入っています。東京で言えば、関東平野の大部分が入る大きさ。
   「景観保存地域」の内容について詳しい方は、ご教示ください。
日本にも「景観法」というのができましたが、個別条項の言及のみです。

何度も触れてきましたが、近世までの(少なくとも、それを多少とも引き摺ってきた昭和初期までの)日本の建物づくりには、 SURROUNDINGS の造成、という「理念」がありました。
西欧でも、「近代建築《理論》」以前は、同様であった、と考えてよいと思います。なぜなら、それが普通の、当たり前の感覚だからです。
どの地域であろうが、人が建物をつくるにあたっては、普通の、当たり前の感覚を拠りどころにするからです。

ところが、1900年代の西欧で、そうでない動きが出てきた。いわゆる「近代建築《理論》」です。端的に言えば、建物の建つ大地が、建築家のキャンバスと見なされるようになってしまったのです。あるいは、人の普通の目線ではなく、俯瞰・鳥瞰の目線でものを考え、つくるようになった、と言ってもよい。
たしかに、俯瞰・鳥瞰では、全貌がよく見える。
しかし、ここで気をつけなければならないのは、俯瞰・鳥瞰で見えているものが、俯瞰・鳥瞰の目線でつくられているわけではない、という事実です。少なくとも近世までは、洋の東西を問わず、普通は、人の目線を拠りどころにつくられていた
   例外は、ローマ帝国をはじめとする植民地での「町づくり」。
   権力を持つと、どうも、そういう風潮が生まれるらしい。
   現代の「建築家たち」もまた、「権力を持った」と考えているのではないか。
   「権力を持つ」とは、「他の一切を見下す視線を持つ」ということ。
   それが「理解不能」な言動・行動の因になっているのではないか。

第二次大戦後、「近代建築《理論》」にかぶれた日本は、明治初頭同様、「旧い日本」をすべて廃棄しようとしてきたのです。
その結果、建物づくりは、《個人主義》に走ります。個々の建物を取り囲んでいる SURROUNDINGS はどうでもよくなったのです。

何度も書きますが、建物は、不愉快だからといって、押入れや倉庫に仕舞いこむことができません。だから、見たくなくても目の前に現れてくる。つまり、不愉快は、その建物が立っている間は永遠に続くのです。これは一種の犯罪である、と私は思います。

最近の建築評論家諸氏は、個別の建物を「評論」します。しかし、その一帯の SURROUNDINGS を含めての評論を、私は読んだことがありません。
いったい、新宿の高層ビル群の街を、どう考え、どう評論するのでしょうか。
そしてまた、所狭しと肩を並べて建つ住宅群の密集を、それを生じさせた訳を、どのように評論するのでしょう。

折しも、直下型地震によって、膨大な数の木造住宅が被災するという「報告」がありました。それへの「対策」として言われるのが、いつものように、耐震化と耐火。
木造建築が悪者にされる。
江戸の町や各地の近世の町も、よく大火があった。しかし、それらの町の密度は、現代ほどひどくはないのです。その上で、きめ細かな防火・消防対策も講じられていた。
狭隘な土地に肩を接して建つのを当たり前、と思うのが間違い、そう私は思っています。人が暮してゆくには、それなりの SURROUNDINGS を要するのです。それは、肩を接してではありえない。
それゆえ、必要なのは、狭隘化の原因が何なのか、宅地が細分化される原因が何なのか、それを考えることこそが最大の対災害策なのではないでしょうか。
SURROUNDINGS は、勘定できない価値です。
しかし、勘定できないから捨てていい、というものではありません。
むしろ、勘定に入れなければならない最大の視点ではないか、と私は思っています。

その視点を持ったとき、近世までに人びとがつくりだした、日本の、そして各地域の、家並や街並み、いろいろな「もの」は、単なる《観光資源》:客寄せの道具:なのではなく、私たちの目の前に、私たちが忘れてきてしまった大事な「原理」を具体的に教えてくれる「もの」として表れてくるはずだ、と私は考えています。
実はそれが「観光」の真の意味なのです。「聴、観」です。そこに流れる風を感じ、光を観るのです。
   補注 下記でも同じようなことを書いています。[追加 30日 11.35]
       「わざわざ危ないところに暮し、安全を願う?!
       「危ない所が街になったのは・・・・江戸の街と今の東京の立地要件は同じか?

SURROUNDINGSについて・・・・12の補遺

2012-04-11 15:27:15 | surroundingsについて
近くに素晴らしい梅林があります。
水戸偕楽園の梅よりも古木です。
「梅林」と言うのは正確ではありません。「並木」と言った方がよいでしょう。
百メートル位手前から見るとこのように見えます。



この道の両側は、栗の栽培や樹木の育苗を行っている農園です。
梅の木も、観光用ではありません。「実用」です。
   当地では、ソメイヨシノは見かけません。多分、小学校の校庭にあるだけでしょう。
   ヤマザクラはあちらこちらにあります。これから、樹林の中で咲きだすでしょう。
   冬場には、多くのお宅の庭先にユズが実っています。
   これも「実用」。

この道が舗装されたのは、そんなに昔ではありません。もともと道はあったと思われますが、細い道だったはずです。
広大な栗園の真ん中あたりに農道が走っていて、それが拡幅されたのです。

近寄ってみると、このような立派な梅の木が鉤の手(かぎのて:L型)に並んでいて、それに囲まれるように、これも年代を経た栗の木が整然と並んでいます。
ただ、栗の方は、それほどの老木はありません。どうしても虫にやられるようです。
農園の奥の方では、栗をはじめ、いろいろな果樹の若木の育成が行われています。
   註 茨城県は、あまり知られていませんが、栗の産地です。
      研究学園都市の一郭、谷田部(やたべ)もその一つ、そこの栗菓子をつくっている店に
      長野県の栗で有名な町の栗菓子が置いてある。
      訊けば、その町にこの地から出荷した栗でつくられた菓子、とのことでした。
     




更に近づくと、大体、一本がこんな貫禄のある姿です。こういう姿が何十本も並んでいる、圧巻です。
当たり前ですが、一本一本、みな姿が違います。



農園の主により、数代、おそらく百年以上、大事にされてきたのです。
今でも、毎年、丁寧に剪定されています。
そういう剪定の積み重ねが、今の姿をつくったのだと思われます。
剪定と言っても、趣味の園芸のそれではなく、梅の実を採るための剪定。

この農園を空から見るとこんな具合です。画像は google mapから。
樹木のない部分が、すべてこの農園です。



このあたりの国土地理院の地図(web版)が下図。


地図では分りませんが、空から見ると、農園は広大な樹林帯を拓いたものであることが分ります。
ここは、まわりの水田からはおよそ20~25mほど高い丘陵の上。
遠くから丘陵を見ると、全体が樹林で覆われているように見えますが、大体、同じように、上は畑地になっています。
   丘陵上には、ところどころに、縄文期の住居址が眠っています。

写真で農園の上~右奥に見える樹林は、同じような台地上ですが、ここは畑にされず針葉樹の人工林です。まだ100年には達していないスギ、ヒノキが大半ですから、戦後国策で為された植林によるものと思われます。

農園を囲むように見える樹林は平地ではなく、丘陵の縁の斜面にあたります。かなりの斜面ゆえに畑地にされず残されているのです。
こういう斜面には、元来の植生と思われる樹林があります。いわゆる照葉樹林。かなりの樹齢の木があります。

この農園が何時頃から拓かれたは詳しくは分りませんが、植えられている梅の樹齢から見ると、かなり以前からあったものと考えられます。

この農園の主は、写真、地図の左側、丘陵の下端の樹林に囲まれて建っているお宅です。
言ってみれば、この丘陵は、このお宅の裏山なのです。
前面の低地で水田、住まいの近くで畑作、そして裏の山で、畑と果樹園を営んできたのです。
   このお宅は、この集落の祖と言ってよいようです。
   つまり、往時(多分、近世初め)、この地を探し出して定着した最初の人の一族。
   そのためか、このお宅の地番は1番地。

この一帯をもう少し範囲を広げて国土地理院の地図を見たのが下図です。
地図の赤枠で囲んだところが、先ほどの農園のあたりになります。


この地図から、集落が決して線や面になって一帯を埋めていないことが分ります。
そして、先の農園の中を走る舗装道路が、明らかに「人工的」なつくりであることも分ります。大体この道に沿って細い道はあったけれども、車など到底通れるような道ではなかったそうです。
実際、地図で、この舗装道路に対してT字型に水田に向う道がありますが、元の地形の一部を掘って、斜面の水田側に盛土をして、車の通れる勾配にしてあります。元来ここに道はありましたが、地形なりの急な坂道。この道は一軒のお宅の真ん中を通っていた。こういう敷地は昔はよくあったもの。しかし、盛土された車道のために、今では敷地の中央に土堤ができたような様相になっています。

この丘陵を通る元来の道は、丘陵の麓を、ほぼ等高線に沿っています。地図の上の水田際の細い黒い線がそれです。
これは、この地に定住した人びとが、自らの感性に拠りつくりだした道なのですが、実際に現地を歩いてみると、集落のそれぞれが、なぜその場所に生まれたか、よく分ります。とても和やかな気分になれる場所です。

集落と集落の間に点在している家々は、ずっとあとに住み着いた人びとの住まいですが、集落のある一帯よりも雰囲気が異なります。
元からある集落は、既存の SURROUNDINGS のなかから自らに相応しいところ探し求めて住み着いた、と考えられますが、後から住み着いた方がたは、多くの場合、既存の SURROUNDINGS に「加工」を施している、と言えるでしょう。
生垣や樹林を新たにつくったりするのが、「加工」の一例です。そうしないと、気持ちが和まない。
もちろん、そこに住み着いたときに、直ぐにつくられたのではなく、しばらくして補完されるのが普通です。その途中の段階のお宅も見かけます。

こうして、徐々に暮す人は増えてはいますが、この先、決して都会のように、低湿地まで埋め尽くされるようなことはないでしょう。
つまり、おそらく、今の状態とほぼ変わらない。
   これが、最寄りに駅があったりしたら、一たまりもありません。
   ここは、最寄の駅まで15~20km。バスもない・・・。   

当地には、防災無線による広報放送が午前と午後一回ずつあります。
いつもは、気象警報、火災発生、行事、お悔やみの案内などですが、最近、外出のときは戸締りを、という警察からのお知らせが放送されました。
実際、集落の方のお宅を訪ねると、玄関の戸は鍵はかかっておらず、時には少し開いていたりするのが常です。ネコの出入りのために開けてある、などという方も居られます。
その意味では、たしかに無用心。
しかし、これまで、空き巣にやられた、などという話は聞いたことがありません。新築の新居住者のお宅に工事人を装った空き巣が入ったという例ぐらい。

実際、工事人を装うなどしなければ、普通のカオをして通り抜けるのは無理なのです。
なぜなら、大体、集落内の道を普段見慣れない人が通ると、すぐに分ってしまうのが常。あれは誰?ということになる。人の目がないようで、どこかで誰かに見られてしまうのです。
これは車でも同じ。今通った車は、見慣れない、あそこに停まって何してるんだろう・・・、見ようとしなくても分ってしまう。
だから、口には出さずとも、どこそこの誰さん、最近見かけないけどどうしたんだろう、・・・などと皆気に掛けているのです。

こういうのは、いつも覗かれているみたいでイヤだ、と思われる方がおられます。都会はそれがないからいい・・、と。
しかし、現にそういう集落の端っこに暮していて、覗かれていると思ったことはありません。
名前も覚えてない子どもたちが、おはよう、こんにちは・・・と声をかけてくる、大人も誰もがすれ違いざまに会釈をする・・・。
そして、時間が経つにつれて、あの子はあのお宅の末っ子、とか、あの人はあそこがお住まいだ・・・、などということが分ってきます。散歩している犬でもそうです。
それは、同じ「範囲」で、繰り返して経験する「状況」から、自ずと分ってくるのです。
これが当たり前の世界。
これが、本来の集落:人の暮す場所:の姿であった、と言ってよいのではないか、と思っています。
「身の丈の知覚の範囲」におさまる大きさ。
人の感覚に納まらないような SURROUNDINGS は、決して集落の立地として選ばれないのです。

SURROUNDINGSについて・・・・12: 身の丈の範囲でなければ SURROUNDINGS は見えない

2012-04-04 18:34:45 | surroundingsについて
[追記追加 6日15.45]

最近たびたび訪れている山梨県で、戸惑っていることがあります。
それは、町の名称。
甲州市、甲斐市、山梨市、笛吹市、・・・。
いずれもいわゆる平成の大合併で生まれた市の名称です。
訊ねてみたところ、地元の人でさえ、分らなくなることがあるそうです。

山梨県は、かつては甲斐国、甲州とも呼びます。ゆえに、江戸と甲斐国を結ぶ街道を「甲州街道」と呼んだ。現在の国道20号は、それを踏襲しています。
県都「甲府」は、甲斐国の府(中)である、と言う意味で付けられた名前。
ところが、これらの新しい市の名称は、そのあたりの謂れを完全に無視していると言ってよいでしょう。
笛吹市という名は、笛吹川沿いに展開していた町村が合併して生まれた市。しかし、流域にある町は他にもまだありますから、その名にもとる(笛吹川は、山梨県を出ると富士川になります)。
   「山梨県の地名」(日本歴史地名大系19 平凡社)によると、
   「甲斐国」は古代律令制の下ですでに在り、
   「甲斐」の名の謂れは「界」ではないか、とされています。
   山中の地域であるところから、他国の人からは、山隠る陰気な国として見られ、
   万葉集での甲斐国の枕詞である「なまよみ」は「半黄泉」、
   つまり「黄泉国」への「境」に近いから付けられたのではないか、という。
   しかし、実際の甲府盆地は、そんな暗い場所ではなく、明るい場所。
   特に、これから、四月になると、まさに桃源郷になります。
   雪をまだ被っている富士、南アルプスそして八ヶ岳、そして秩父山系に囲まれた一帯が、花で埋まるのです。
   「山梨」は、古代の「山梨郷」を継いだ名前。現在の山梨県東部の地域。今は峡東とも言われています。
   明治の廃藩置県で、当初、「甲府県」とされたのが、後に「山梨郷」の名をとり「山梨県」になったとのこと。
   その改称の謂れはよく分らない。

どこの地域でも、現存する地名のうち、いわゆる:あざ(大字:おおあざ)に相当する地名は、ほとんど、明治期に(つまり江戸末までには)存在していた「集落名」です。つまり、歴史が古い。東京など都会でも、かなりの数の地名が近世以前からの名前です。

それらの集落は、決して連なっていることはなく、ポツンポツンと点在するのが普通です
おそらく、都会の姿、特に日本の現在の都会に慣れてしまうと、それは不可思議に思われるかもしれませんが、本当は、その都会の姿が異常なのです。
つまり、集落がポツンポツンと点在するのが、本来正常な姿。

これまで、アアルトの設計法と、現在の大半の建築家の設計法の違いから SURROUNDINGS について考えてきました。
今回は、この「集落はポツンポツンと点在するのが普通だ」ということから、 SURROUNDINGS について考えてみたいと思います。

次の地図は、「建物をつくるとはどういうことか」の最終回に載せた、明治20年頃に造られた福島県北部の地図の再掲です。


「建物をつくるとはどういうことか」で載せたのは、近世までにつくられた町やそれらをつなぐ街道が、今回の津波の被害を見事に免れている、という事実を紹介するためでした。
そのとき、あわせて、集落:街や村はどのようにしてその地に定着したかについても、街道というのは、本来どのようにして生まれたか、若干触れました。そして、なぜ往古の道はくねくねと曲るのかについても触れました(だいぶ前の話の重複です)。

今回は、それらの点について、SURROUNDINGS の視点で触れてみたいと思います。もっとも、このことについては、すでに「再見・日本の建物づくり-1:人は何処にでも住めたか」で、SURROUNDINGS という語を使わないで書いています。

そこで書いたことを要約すると、次のようになります。すなわち、
①人が住み着く、ある場所に定着・定住するには、つまり「集落」を築くには、先ず生物としての生命を維持するのに必要な食料、水が得られる場所でなければならない。
しかし、
②食料と水が得られたとしても、そういう場所なら何処にでも住み着いたわけではなく、選択が行われる。
そして、①を、集落が成り立つための「必要条件」、②の選択にあたっての選別の「拠りどころ」を、「十分条件」と仮に名付けました。

日本では、①を充たす場所は、比較的容易に見つけることができました。それについては、先の「再見・日本の建物づくり-1:人は何処にでも住めたか」でいくつか例を挙げましたし、その他でも触れています。

現在の日本の都会の暮しに慣れてしまうと、①はともかく、②はきわめて分りにくい。
なぜなら、都会では、①も②も、深く考える必要がないからです。つまり、どこだって住める(ように思えてしまう)。
特に②を差し迫って考えることもなくなっています。強いてあるとすれば、最寄の駅に近いか、通勤に便が良いか、まわりに商店があるか・・・、などなどでしょう。それは、「十分条件」というよりも、むしろ「必要条件」。

日本の都会の暮しで、②を感じるとき、それは多分、突然、自分の暮す場所の目の前に、予想もしなかった大きさの建物が建ち、それまで当たり前に享受していた陽射しがなくなった・・、眺められた富士山が見えなくなった・・・などというときでしょう。
そこから、日照権、景観権などという「権利」が問題になる・・。

しかし、その先にあるのが、SURROUNDINGS についての根源的な議論の筈なのですが、残念ながら、そこから先に進みません。何時間陽が当たればいい、とか、建物に使う材料や色はこれこれだ・・・、などといういわば瑣末な話にすり替わってしまっているのです。

私が現在暮している土地の名は、平成の合併以降、「かすみがうら市」といいます。ついこの間まで、つまり合併前は「霞ヶ浦町」、そして町になる前は「出島村」。つまり、「村」が「町」になるときに旧名を消したのです。
もっとも、この旧村名「出島」も、明治22年(1889年)の「町村制」施行によって生まれた6村が、昭和30年(1955年)に合併したときに付けられた名前です。
ややこしいので、整理すると次のようになります。

明治以前、すなわち近世末には、霞ヶ浦に飛び出ている半島状の地には、21の村落・集落がありました。
明治22年、それらが6村にまとめられます。

この6村は、地勢的に近接した村落・集落で構成されています。村の数で言えば、二つが一つになったものから八つが一つになったものがあります。平均すれば三つが一つが多い。
そしてこの6村が更に昭和30年に合併して「出島」村になったのです。村の名は、自分たちの村の在る地域の地形的な「姿」から採ったものと考えられます。冒頭の例とは違い、自分たちの根ざす土地に拠っていた、と見てよいでしょう。

近世末の村落・集落は、戸数、人口は、すべては不明ですが、分っている中の多い例で114戸・939人、小さい場合は14戸・63人程度だったようです。
このシリーズの一回目「SURROUNDIGSについて-1」で、初冬の夕暮れ時、旧友の家を探し歩いてきた女性の話を書きましたが、この女性が当地へわざわざ足を伸ばしたのは、彼女の生い立った村が、私の今いる土地と同じ村に属していたからなのです。
訪ねようとした「友だち」は、学校が同じだったのです。つまり、「暮しの範囲・領域」が同じだった、ということです。
このことは、「集落・村落」とは何か、「隣り近所」はいかなる意味を持つか、雄弁に語ってくれているのです。隣りは単なる隣りではない、のです。

明治の「合併」にあたっては、そのあたりについての「認識」がしっかりとあったように思います。当地の例で見ても、地縁を大事にしています。
昭和の合併も、多少はその認識があったように見えますが、平成の合併は、単なる寄せ集め、規模が大きければそれでいい、というもの。つまり、合併する正当な謂れがない合併が多い。

何が一番変ったか。
合併の奨めの歌い文句は、「行政の合理化」。「行政のムダをなくす」。
しかし、現実は、「暮しやすさ」「暮しの質」の「劣化」です。
なぜなら、明らかに、「行政」は、暮しから遠くなっています。
行政の「目」が、地域の隅々へ、行き渡らなくなったのです。

私が筑波研究学園都市に移り住んだ頃、そこは「桜村」と言い、昭和30年、近世の「栄村」、「九重(ここのえ)村」、「栗原村」の三村が合併して生まれた村でした(栄のサ、九重のク、栗原のラを並べたのが村名の由来)。
移り住んだ当初、村役場の職員たちの村内の把握の確かさに驚いたものでした。
隅々の状況について、きわめてよく知っているのです。
考えてみれば(むしろ、考えるまでもなく)当たり前です。見える範囲が、普通の人の「知覚の範囲」内にあるからです。
その村も、学園都市へと合併し、目配りは劣化しました。
その一つの因は、職員が「地域に定住しなくなったこと」にある、と私は考えています。

近世末まで、村落・集落の単位がきわめて小さかったのは、村落・集落発生に血縁的な要素が大きかったからであるのは勿論ですが、
同時に、普通の人の「知覚の範囲」内に納まる大きさが、暮してゆく上で必須である、と考えていたからではないか、と私には思えます。
おそらく、このことは、いかに「文明」が「発達」しようが、社会の成り立つ基本的な原則なのではないか、と私は思います。

にもかかわらず、現在、平成の合併を越え、道州制など、さらに地域の区画を大きくする動きがあるようです。。
簡単に言えば「大きいことはいいことだ」「数の多さが力になる」・・という発想。その理由として挙げられるのが、またもや「行政の合理化」。

「行政の合理化」とは何か?
先の例で示したように、巷間で言われる「行政の合理化」は、「暮しやすさ」の維持・向上とは逆の方向への動きを生む、と私は考えています。
つまり、「合理化」という名の「手抜き」の奨励にすぎない、私はそう思っています。
「合理化」の名の下で、「理に合わない」方向へ進む。これは言葉による詐欺。


唯一、道州制など、さらに地域の区画を大きくする動きが生むメリットがあります!!

それは何か。

おそらく、そういう都市集中化を促進する動きが活発になればなるほど、それとともに、いわゆる「過疎」「限界集落」と呼ばる地域が更に増えてくるでしょう。
私は、むしろ、この日本という地域にとって、これほど素晴らしいことない、と思っているのです。
なぜなら、都市に集中して暮す人びとは、その暮しかたが永遠に続くものと(何の保証もないのに)思っているはずです。多分、古代ギリシャ人と同じです。
古代ギリシャには、日本のような甦生可能な森林地域はありませんでした。
そして、第一次産業で国内の暮しを賄おうという考えもなかったと言います。国外に依存したのだそうです。そしてそれが、古代の都市国家ギリシャ滅亡の因だ、という説があります。
幸い、日本の森林は甦生が可能、そして、「過疎」「限界集落」と呼ばれる地域は、ほとんどが、甦生可能な森林地域にあります。 

今、日本の人口は減り始めています。
その人口のほとんどが非森林地域の(危険極まりない平坦湿地である)都市へ集中し、多くの為政者はそれを是とし、更に進めようとしています。

先に何が残るか。
「過疎」、「限界」地域に残された、新たに人びとが住み着くことができる豊かな「自然環境」です。おそらく、この先原生の姿に戻っているかもしれませんが・・・。
   追記 人が住まなくなった地域の森林が荒れる、とよく言われます。
       私は、「荒れた」のではなく、「本来の姿に戻りつつある」のだ、と思っています。
       つまり、人が住み着く前の姿へ・・・。
       日本は甦生可能な森林地域にあるからです。 [追加 6日15.45]  

今、「過疎」、「限界」地域に、都会への流れと逆に、住み着く若い方がたが増えているそうです。
その方がたには、「先」が見えているのかもしれませんね。
そこにふたたび、本来の「村落・集落」が蘇るのではないでしょうか。

つまり、道州制や都市化推進策は、一大自然環境保護運動・・・!? 

SURROUNDINGSについて・・・・11: 自然を、不自然に 扱わない

2012-03-22 12:39:14 | surroundingsについて
ここ10日あまり、図面の喰いちがいの整理などのため、留守にしました。なんとか終り、やっと復活できるようになりました。
それにしても寒い。春は名のみ・・・を実感します。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[追記 15.05][図版一部更改 23日 14.30][末尾に関連した内容の新聞記事を転載 23日 17.44]


大分前(2008年3月6日7日)にアアルトの設計した小さな町 SAYNATSALO の役場(書物によると、civic centre と記しています)の建物を紹介しました。
   なお、aの字には上にウムラウト:¨が付きます。

そのときの図版のなかから配置計画図を再掲します。
等高線を強調しましたので、今回の図は色合いが悪くなっています。


下は、この全体の模型写真(俯瞰)です。写真の下半分あたりが上掲の図の範囲です。


   なお、今回の図版は下記によっています。
   カラー版
   “ ALVAR AALTO Between Humanism and Materialism ”( The Museum of Modern Art, New York 1998年刊)
   モノクロ版
   “ Finnish Buildings:Atelier Alvar Aalto 1950-1951”( Verlag fur Architektur・Erlenbach-Zurich 1954年刊)

SAYNATSALO は、フィンランドの中の島の一つ。第二次大戦後、その開発が行われました。この civic centre の建物は、その一環の建設です。
  
アアルトは、この計画でも、既存の土地の「形」を損なうことを避けていることがよく分ります。
図の右上、写真の中央に見える運動グラウンド状の場所は、運動施設( stadium )など公共的施設が集まる場所。
下は、そのあたりが分るスケッチ。

少し濃く描かれているのは公会堂( theatre と記してあります)のようです。
グラウンドの左側にいわば放射状に並んでいる建物の用途が何なのかは、いろいろ調べましたが分りません。
それらの建物が、等高線を斜めに横切るように建っています。
   《建物は平地・平場でなければ》信仰の浸透した現在の日本ではまず見られない建て方です。
   かつての日本の人びとには、そんな《信仰》などなく、土地の形状に対して融通無碍に対応しています。

ここで採られているのは、すでに紹介した例と同じように、土地を雛壇に加工するのではなく、建物の方を土地の形に合わせて段状にする建て方であろう、と思われます。

とにかく、この計画では、先ず一帯を平坦にしてから、などという考えは毛頭もない。

ここで為されているのは、あくまでも、大地の生み出している SURROUNDINGS に素直に応じることである、と考えてよいと思います。
端的に言えば、自然を不自然に扱わない、ということです。
原始以来、人は、いつでも、そのようにして大地の上で生きていたのです。
それを、近・現代は忘れてしまった。いわゆる「合理主義、科学主義」は、その忘却をさらに推進するだけであった、それは、決して scientific ではなかった
、私にはそう思えるのです。   

たとえば、図上で、山裾を右上がりの斜めに一直線の道があります。途中でもう1本の道を合わせ、civic centre に至り、さらに進めば、丘陵を巻いて丘上のグランドに至るのです(その道の一部が図に少し見えています)。

この直線の道は、コルビュジェや現在の建築家・都市計画家がつくる直線の道とは、まったく違います。
ここで見える直線は、その場所に人が立ったときに自ずと足が向く方向に一致しているのです。
つまり、紙の上の単なる「視覚的にカッコイイ線」ではない。
きわめて自然に足が向き、そのまま進むと civic centre に至り、そして丘の上に到達する。
   この役場の建物は、当初は一部に商店が入っていたようです。そこがいわば町の中心だった。

単なる「視覚的にカッコイイ線ではない」ことが分るのは、次のスケッチです。

このスケッチでは、この道を歩いてゆくとき、 civic centre はどのように見えてくるのがよいか、それをいろいろと考えているのです(その様子は、先の2008年3月6日の記事で紹介しています)。
そのスケッチで描かれているのは、「見えてくる建物の姿」です。これは、普通「立面」「立面図」と呼ばれています。
しかし、ここでも、アアルトと現在の建築家では、「立面(図)」に対する考え方、その意味が異なる、と言ってよいでしょう。


かなり前、ある有名建築家と一緒の設計作業にかかわったことがあります。
そのとき驚いたのは、「立面(図)に対するわだかまり、こだわり」の強さでした。そのこだわり方は、私の建物の立面というものへの理解とは、まったくかけ離れていました。
彼は、立面図の上で、例えば開口の位置を、「いいように(勝手し放題に)決めてゆく」のです。
「いいように」とは、「紙の上に描かれた立面図上のカッコヨイ位置」と言えばよいでしょう。

その建物は図書館。窓際に設ける閲覧席の窓を、上下2段に分け、エアコンの必要のない時季には、その日の様子で、上を開けるか下を開けるか随意にできるようにしよう、というのが当方の提案。
したがって、上下を分ける框は、当然座ったときの頭の位置より少し上のあたりが適当。
そうして立面に表れる横一線が、彼は気にくわなかったらしく、その位置を下げたいという。
   これは、昔の建物では、たとえば学校建築などで、ごくあたりまえに為されていた方法です。
   私の通った小学校の建物は、昭和初期の標準的仕様の校舎でしたが、その開口部は三段に分かれていました。
   机の高さ~座った時の頭高まで、そこから立ったときの頭高まで(6尺程度、いわゆる一般的内法高)、
   そしてそこから天井まで。いわゆる「欄間」です。
   「欄間」はきわめてすぐれたアイディア。
   かつての日本の住宅では、夜間、掃き出しの部分は雨戸を閉めますが、
   「欄間」は開閉できました。夏の夜、「欄間」を開けておけば、屋内は自然通気で涼しくなったのです。
   ところが、昨今の流行はシャッター。もちろん「欄間」はない。仮に「欄間」を設けても、シャッターでは無意味。
   
一時が万事、この調子で作業が進められました・・・。
これではついてゆけない、私は途中で作業チームを離れました。

そして、建物は彼の「思い」の通りできあがりました。
結果はどうだったか。
窓際の閲覧席に座ると、ちょうど目の高さに、視線を塞ぐように太い框が連なっていたのです。鬱陶しくて、そこには座りたくない・・・。


アアルトがスケッチで考えていることは、この日本の現代の建築家とはまったく違います。
アアルトは、その道を歩いている人に、建物がどのように現れてくるのが好ましいか、それを考えているのです。
その形のカッコヨサではない。立面図のカッコヨサではないのです。
そこを歩き続けることを遮ることにならないように、
あるいは、
そこへ向うことをこころよく受け留めてくれる・・・、あるいは、そこへ向う期待感が高まるように・・・、
そうなるにはどうしたらよいか、それを考える過程を示している、と言ってよいでしょう。
そこでは、決して、どうだ、カッコイイだろう、この姿は・・・、などという考えはないのです。

端的に言えば、アアルトのスケッチは、既存の SURROUNDINGS を傷めることなく、むしろそれを補完するように、あるいは、新たな SURROUNDINGS となるようにするにはどうしたらよいか、についての思考の過程を示しているのです。

そして、まとまったのが、下の図です。この図も再掲です。


civic centre の模型を俯瞰したのが次の写真です。


これらの図や写真は、たとえそれが上方から見た図や写真であっても、「目に入ってくる図柄」で判断するのは間違いです。
その「図柄」を通して、大地の上の実際の人の目線に転換する「操作」が必要なのです。
これは、たしかに面倒な作業です。
しかし、絶対に必要です。建築に係わる人のいわば「素養」です。
このことを、教育の現場で、教えてこなかったのです!


今、この図の左下側から右斜めに道を歩いてゆくとしましょう。
そのとき、 civic centre の「どこ」が見えてくるか。
見えてくるのは、当初図書館が設けられていた部分の外壁と、その向う側の一段高く、特徴のある議場の屋根のはずです。
しかも、図書館の外壁は、視線に対して斜めに対している。これが極めて重要だと私には思えます。そう見えるように配置したのです。
なぜなら、視線を「そこ」で止めないためです。視線が「道の続き」へと導かれるのです。
   視線に対して直交するように外壁が見えたら、そこで終点、先がない。
さらに、手前の図書館と、後の議会の在るブロックとの間に、「何かが在る」ことも予測できます。
その「何か」は、 civic centre への主な入口になる階段。

おそらく、この計画では、いわゆるサイン:案内標識はまったく必要ないはずです。
あるべきものがあるべき姿でそこにあるからです。
人が SURROUNDINGS にどのように対するものなのか、その対し方の「常識」を「ないがしろ」にするような作為をアアルトは採っていないからなのです。

   補注[追記 15.05]
    civic centre の手前でV字型に合う2本の道(多分車も通れる道)の間に、
   細い道が何本も描かれています。歩道でしょう。
   試みに、この道を、等高線との関係を見ながら、紙の上でたどってみると、
   そのどれもがごく自然な、多分そういう風に歩くだろうな、と思える経路になっていることが分ります。
   山に入って新たな道を切り開くとき、こういう形になります。人のつくる「けものみち」です。
   つまり、単にカッコヨク線を描いているのではないのです。
   こういう道は、アアルトのどの設計にも見られます。
   そしてそれはすなわち、日本の建物づくりの露地のつくり方に他ならないのです。
   人は、道をどのようにつくるものか、分っているのです。
   
私がアアルト(の設計法)にのめりこんだのは、この「姿勢」が、私に共感できたからです。納得がいったからです。
そして、日本の近世までの建物づくりの考えかた、 SURROUNDINGS への対し方と通じることがある、と思えたからです。

そのあたりについて私が考えてきたことを簡単にまとめたのが、「建物をつくるとはどういうことか」のシリーズです(特にその2をお読みいただければ幸いです)。
そこで、建物の「立面」、あるいは「壁面」とは何か、おおよそのことを書いたつもりです。
   註 「建物をつくるとはどういうことか」のシリーズ全編は、下記の末尾にまとめてあります。
     そこから各回へアクセスできます。
     「建物をつくるとはどういうことか-16

つまるところ、私にとって「立面(図)」は、「結果」に過ぎない、ということになるでしょう。
立面図を初めに描くことはないのです。
つまり、建物の立面(図)とは、「そこ」につくろうとした新たな SURROUNDINGS の「境」を成す「もの」の「結果としての形」である、ということです。
したがって、私の場合、設計図としての「立面図」は、最後に手がける「図」になります。
描かれた「立面図」を見て、私が「そこ」につくろうとした SURROUNDINGS の一環になっているとき、自身も納得がゆくし、
納得できないときには、どこかに「間違い」があるときだ、
それがこれまでの経験で得た「事実」です。
そして、「納得のゆく結果」になるようにする、これが未だに難しい・・・。
   註 私が最初に描く図は「断面」です。先ず、それを頭に入れることから、たいていの場合始めます。


余談
昨今の報道によれば、今度の震災を機に、高台へ移転しようとしたところ、高台の山林には、多数の縄文期の住居址が在り、簡単に移り住めない(先ず発掘調査が必要)ことが分ったそうです。
縄文人は、自然を不自然に扱ってはならないこと、そして、人が SURROUNDINGS にどのように対するものなのか、それについて熟知していたのでしょう。
だから高台に暮しの基点を設けたのです。住まいの「必要条件」「十分条件」を会得していたのです。
現代人と縄文人、どちらが scientific であるか、と思わずにはいられない逸話です。


関連した内容の新聞記事を転載します。


SURROUNDINGSについて・・・・10: SURROUNDINGS を念頭に置くと

2012-03-07 18:12:21 | surroundingsについて
ここ3週間ほど、見積書の作成のため、ブログの方がお留守になってしまいました。ようやくまとまりましたので、あらためて始めます。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



先回は、近・現代になってから、
街や住宅地の計画が、俯瞰して見える(机上の紙の上の)「形」の「追及」に終始するようになってしまった、人の生きている大地は、建築家の単なるキャンバスにすぎなくなってしまった、
その「動向」には、多分にコルビュジェの放った多くの「計画(案)」が大きな影響を与えているのではないか、と書きました。
そしてまた、
そういう「計画」が広く「流布」してしまった因は、
その「方法」の方が、従来あたりまえであった方法よりも、格段に容易、楽だったからではないか、と書きました。

従来の方法とは、「人の住まいの原理」に根ざす方法です。
あたりまえですが、この方法による計画は、その地の SURROUNDINGS によって大きく異なります
簡単に言えば、山地と平地では異なってあたりまえ、樹林の多い地域と樹林の少ない地域では異なってあたりまえ・・・、ということです。
つまり、一律に律することはできない、あり得ない、ということです。
ところが、近・現代の街や住宅地の計画の「考え方」では、このきわめて単純な「事実」、SURROUNDINGS は場所ごとに異なるという「事実」、が念頭から消え去ってしまった。
一律に、画一(の規格)によって律することこそ「《近代的、合理的》な考え方だ」という方向に突っ走ってきたのです。
その方が楽だからです。管理しやすいからです。
   
このことについては、下記で書いています。   
   「分解すればものごとが分るのか・・・・中国西域の住居から
   「日本の建築技術の展開-1・・・・建物の原型は住まい

その結果、今や、街や住宅地の計画は平地でなければできない、という神話に近い考え方があたりまえになっています。
震災の復旧でも、平地が少ないから難しい、切土・盛土をしなければならない・・・、という「論」が、大勢を占めているようです。
目の前で、盛土や埋立てで大きな被害が生じたのを見ているにもかかわらず・・・・です。いったい何を見ているのか。
   これについては下記で書きました。
   「建物は、平地・平場でなければ建てられないか?

さて、コルビュジェが巨大なキャンバスへのお絵描きに夢中になっていたのとほぼ同じ頃に計画され完成した SURROUNDINGS を第一義に考えた街、つまり、そこで暮す人びとの立場で考えた街:住宅地の計画があります。
アアルトが1935~37年に設計し、1936~39年に建設されたフィンランドの町です。
それは、フィンランド南部、フィンランド湾に面する港町コトカ(Kotka)に近い小島に計画された CELLULOSE COMBINE の工場(セルローズ組合立のパルプ工場?)と、そこで働く人びとの暮す住宅地の計画です。
冒頭の写真は、その計画の全体模型です。
   今回の図版は、“ ALVAR AALTO Ⅰ”(Les Editions d'Architecture Artemis Zurich 刊)からの転載です。

全体の配置図が下図です。
工場は、水路を挟んだ独立した小島につくられ、大きい方の島全体が住宅地。

特に、住宅地の建物と等高線との関係に注目してください。
等高線の「流れ」に無理がないことが分ります。
つまり、元来の地形のまま、大地に大きな手を加えていない、ということです。


おそらく、今の日本なら、高低差が少ない、だから平らに均すのは簡単だ、と考えるのではないでしょうか。あの起伏の多い多摩丘陵でさえ、山林をなぎ倒し、平らに均すことに精を出したのです。

この配置図を一見すると、どの建物も同じ形をしている、と思われるかもしれません。日本のいわゆる住宅団地を見慣れた目からすると、そう見えてもおかしくありません。
しかし、そうではないのです。
図の下側に、住宅地と工場を結ぶ道が通っています。ここで暮す人びとは、日常的にこの道を使うものと思います。
工場からそれぞれの住宅へ帰るときを想像してみてください。
あたかも、そこへ帰る人を迎える如く人びとを囲むように建物群が並んでいます。
いくつもの建物が、一つの囲みをつくる、そのように建物の角度を微妙に変えて配置しているのです。

しかも、そのとき見えてくる建物群は、日本の住宅団地で見える姿と同じではありません。
同じものを並べているのではなく、一棟ごと、綿密に考えられているのです。
それは、ちょうど、かつての日本の街まちの景色と同じく、建物群は、まわりに無理なくおさまっています。

それを順に見てゆきます。
ただ、それぞれが、配置図のどこにあるのかは、残念ながら分りません。
なお、説明文が見えないと思いますので、図版の下に、原文をそのまま引き写します。


   Workers' row housing,without balconies


 上 Houses for employers
   Three houses comprise one unit for the central heating and hoto-water plant
 下 Housing with balconies which were, however, too small and hardly usable 



   Housing with lager and more useful balconies 

次は、2ページ分、同じ建物図と写真です。

最初は平面図と外観全景。

   Workers'and employees'row houses
   Row houses:every unit contains three apartments and,
   due to the sloping site, some of the entrances could be reached without stirways
次は、この住宅の断面図と近景

断面図で分るように、1階は背後が地面に埋っています。つまり、斜面を整形していない。
この方法を更に徹底したのが、「建物は平地・平場でなければ建てられないか」の最後で紹介した事例です。
こういう建て方は、平らにして建てるよりも、当然、工事にあたり、かなりの気配りを要します。簡単に言えば手間がかかる。
しかし、そこで要する「手間」は、「結果」に十分に反映してくるのです。
たとえば、盛土した部分が沈下したり、切土した箇所で崩落が起きる、などということが起きにくいのです。
なぜなら、そこに在った元々の地形というのは、長年の自然の営みが結果した「安定した」形状だからです。
もちろん、あたりの SURROUNDINGS も維持される

最後は、2階建てで、それぞれが「壁で囲まれた庭( walled-in garden )」を持つ住宅。

   Row houses for supervisory personnel;entrance side
その庭側の外観が次の写真です。


この住宅地は、配置図で分るように、建物の棟数も少なく、決して大きな住宅地ではありません。
この程度の大きさならば、日本のいわゆる住宅団地では、おそらく同じタイプの建物が並ぶはずです。
そして、そこで考えられる建物の「並べ方の論理」も、いわゆる「隣棟間隔」「日照条件」などだけのはずです。

しかし、このフィンランドの住宅地の「並べ方の論理」は、まったく違います。
場所場所の SURROUNDINGS に応じてそこに在るべき建物を考えているのです。それゆえに、建物の「形」も多様になる。
ここでは、建物:住宅の「型:タイプ」が先験的に決まっていないのです。
部分を足し算すれば全体ができる、などという考え方?ではないのです。

私が学生の頃、ちょうど住宅公団のいわゆる「団地」が各地につくられていました。
そのときの設計法は、いくつかの「標準型」を決め、それをいわば適宜に並べる、というものでした。住戸の形:型先にありき、という設計法。
アアルトの採った方法は、まったくそれとは相容れない。
その意味では、《非近・現代的》なのです。
しかし、写真を見て分りますが、その SURROUNDINGS の豊かなこと!

SURROUNDINGS に応じて人の暮す空間をつくることは、これは何度も書いてきましたが、日本の建物づくりの真骨頂であったはずです。
その「考え方」を、何処に置き忘れてきてしまったのでしょうか。


もう少しアアルトの設計事例を見て、そのあとに、かつての日本の事例を見る予定にしています。
     
 

SURROUNDINGSについて・・・・9:コルビュジェにとっては 何であったのか-4

2012-02-21 10:18:16 | surroundingsについて
間があきましたが、続きです。

コルビュジェは、いわゆる「都市計画」「地域計画」においても大きな影響を与えています。
そこで、今回は、そのとき彼は、SURROUNDINGS について、どのように対していたか、を見てみたいと思います。
   今回の図も“ Le Corbusier & Pierre Jeanneret 1910~1929、および同 1929~1934”からの転載です。

次の図は、近代建築史のいろいろな書物でも紹介される有名な「計画図」です。
これは、彼の「町」「都市」あるいは「人が暮す場所」、についての「想い:いわゆる『コンセプト』:考え方」を示していると考えてよいのではないでしょうか。



たしかに、綺麗なパターンです。
しかし、このような「形:パターン」を、人の暮す町の「形」として思い立たせた契機はいったい何だったのでしょうか。
いろいろ調べてみても、それが何であったのかは、少なくとも私には、分りません。ことによると、織物にヒントが?
   最近の「気鋭の建築家」のつくる建物でも、「そういう形」にした謂れが、
   少なくとも私には分らない事例が、たくさんあります。
   「想い:コンセプト」に謂れなどはない、
   それこそが「アイディア」「独創」「思いつき」・・・だと言うのかもしれませんが・・・。

コルビュジェの計画の「契機」を物語っていると(私には)思える「図」があります。
一つは、1930年代、チェコの山あいの町の計画。
計画地の「地形」を表した図と、そこに計画された町の図があります。それを上下に並べたのが、以下の図です。 



縮尺が同一ではありませんが(計画の図の方が縮尺が小さい?)、地形の上でほぼ平坦な河川沿いの一帯に、平地の形なりに「計画」してあるようです。
下図の川の上側にみえる編隊飛行している飛行機のような図柄は、居住地区の集合住居らしい。
この計画でも、左方の河川が合流する広い平地に、先の図と同じような幾何学形態の地区が計画されています。

もう一つ、ブラジルでの町の計画のスケッチ。


この場合も、一方が山(丘?)で囲まれた平坦地いっぱいに、その平坦地の形なりに目いっぱいに計画されています。

そして、この計画でできる町の(完成後の)遠望スケッチが次の図です。



この二つの計画で、コルビュジェの「考え方」が見えてくるように、私には思えます。
最も分りやすく示してくれているのが、上の遠望スケッチだと思います。
町が、まわりの山やまに囲まれて、どんな恰好に見えるか、全体がどんな「風景」になるか、そこに関心がある、と考えられるからです。

これらから察しがつくのは、一言で言えば、
「地面:大地あるいは地形は、(単なる)巨大なキャンバスである」、という考え方。
そのキャンバスに向い、浮かんでくる「想い」のままの《抽象画》を描く。その謂れなど訊いて欲しくない。それは画家の「絵心」なのだ・・・。

コルビュジェは、パリの再開発計画など、多くの「案」を描いています。
それらの「案」の表現、今の言葉で言えばプレゼンテーション、で多く用いられているのは、高層ビルが並び立つ鳥瞰・俯瞰図、あるいは遠景の透視図です。

はっきり言って、そこに暮す人びとの目線の図は一つもない。人びとの目線に近い図も、それは、日常の目線からは程遠いのです。SURROUNDINGS は、単に、「絵」の一部の背景にすぎないのです。


すでに先回も書きましたが、こういう「考え方」は、きわめて「分りやすい」。
なぜなら、SURROUNDINGS など気にせず、「そのものだけを見やればいい」からです。だから、現代の気鋭の建築家たちに受け容れられたのではないでしょうか。SURROUNDINGS など気にせず、机の上の「白い紙」の上で「もの」の形を、「想いのままに考えられる」「フリーハンドで線が描ける」ではないか・・・。
つまり、現代建築は、そのほとんどが、気鋭の建築家たちによる、まさに字の通りの「机上の産物」に過ぎない、と言ってよいのではないでしょうか。そうであれば、以前に書いた「理解不能」な事態が生じてもおかしくないのです。
そしてそれは、そこで暮さなければならない人びとにとっては、不幸なことなのです。
もしも、気鋭の建築家たちが、大地震によって、あらためて SURROUNDINGS の存在、その重要さに気付いた、のであれば幸いですが・・・。


次回は、こういう近・現代の「机上の計画」とはまったく逆の、 SURROUNDINGS を拠りどころにした町の計画例を紹介したいと思います。

SURROUNDINGSについて・・・・8:コルビュジェにとっては 何であったのか-3

2012-02-09 17:48:16 | surroundingsについて
[文言補訂 12日 9.38]

少し間があいてしまいましたが、もう一つコルビュジェの設計例を見ることにします。
今回は“ Le Corbusier & Pierre Jeanneret 1934~1938 ”に載っているパリ郊外にある別荘です。1935年の事例(設計年ではなく竣工年ではないかと思います)。

先ず平面図。



すごく簡潔な平面です。一体、外形はどうなるか。想い描いてみてください。

設計にあたって、コルビュジェは、何を考え、何に拠って、「形」を決めているのか?

それを知る手がかりになるスケッチがあります。
次の図です。



このヴォールト様の形は、おそらく地中海沿岸の諸国に遺っている古代ローマや中世サラセン文化が遺した建物、すなわち、石や煉瓦、日干し煉瓦、あるいは土だけで空間をつくり上げる構築法がヒントになっているのではないか、と思います。

この別荘もヴォールトを使っています。その外観が下の写真。

石積みの壁体にRCのヴォールトを載せる。
先のスケッチ上のいろいろなスタディから察して、コルビュジェの脳裏には、ヴォールトをいくつか集めた「形」にする「想い」:アイディア(今風の言葉で言えばコンセプト):は、初めからあったのではないかと思います。



この「形」にする、という「想い」がコルビュジェの脳裏に浮かんだ「契機」が何であったか、それは推測するしかありません。
ただ、私は、この別荘の建つ「 SURROUNDINGS に対しての観察・熟慮」から生まれたものではない、と思っています。
なぜなら、先のスケッチから、コルビュジェの「関心」は、もっぱら、「ヴォールト様の屋根を被った形態による空間造型」にある、と見なすことができるからです。

この「形」の決定に、唯一 SURROUNDINGS が「影響」したとすれば、それは壁体の材料の「選択」ではないかと思います。
もしも敷地の SURROUNDINGS が、広漠とした樹木の少ない場所であったならば、多分、RCにしたのではないでしょうか。

逆の言い方をすれば、いかなる SURROUNDINGS であっても、建物の「形」は変らない、ということです。

ヴォールトは、室内にそのまま表れます。以下が内部の写真。





この写真から分ることは、それぞれの「室」に相応しい空間の形として考慮された形がヴォールトであった、というわけではない、ということ。
むしろ、ヴォールトの形に「如何に合わせるか」という「考慮」がなされた、と考えられます。
少し厳しい言い方をするならば、足に合った靴を探すのではなく、靴に足を合わせる、という考え、と言えるかもしれません。
その点、コルビュジェは、たしかに「現代建築の先駆者」であることは間違いない、と言えるでしょう。
「現代建築」のほとんどが、「靴に足を合わせる」ことを、人びとに対し「望んでいる」(あるいは人びとに「強いている」)と言っても過言ではない、と私には思えるからです。[文言補訂 12日 9.38]

これは、先に紹介したアアルトの設計とまったく異なる点です。
アアルトは、明らかに、「足に合う靴」を探しています。
だから、常に「そこに暮す人」を考えます。当然、「そこに暮す人」にとっての「 SURROUNDINGS 」を考えることになります。そして当然、彼のつくる建物も「 SURROUNDINGS 」の一つに加わります。
アアルトにとっては、この「考察」の過程は、ごく自然で、あたりまえなことなのです。

もちろんアアルトも、古代ローマや地中海沿岸に遺っている遺構を知っているはずです。
しかし、アアルトは、単にそれらの「形」を見たのではなく、その「形」を在らしめた「謂れ」を観たのだと思います。
つまり、「かくかくしかじかの SURROUNDINGS の中で暮す人びと」の様態と、彼らのつくりだした建物:居住空間、すなわち「その人びとのつくりだした新たな SURROUNDINGS 」、それを「一つの全体として捉らえていた」、そのように私は思います。

アアルトの「思考」は、「『人びと』 と 『彼らのつくる建物・空間』との『関係』」を問う、というような、「対象」をいくつかの「要素」に分け、「それら要素間の関係」として捉えようとする「近代的思考形式」とは明らかに相容れない、と言ってよいでしょう。
つまり、アアルトは、近・現代に在りながら、「近・現代」の遥か向うにいる、のです。それゆえ、アアルトの設計事例は、先回も触れたように、「近・現代的思考」法に慣れた目には「分りにくい」のではないか、と思います。


さて、この別荘の建物に戻ります。
冒頭に載せた平面図で、この建物への主なるアクセスについて見てみます。
平面図と、前掲の外観写真から、そこに見える「石畳」を歩いて、入口に至る、と思われる方が多いと思います。
しかし、そうではないのです。
そのあたりを知ることのできるのが、次のアキソメ図です。

この図には車が停まっています。
これから察するに、この別荘へのアクセスは、図と写真に見える先の石畳に直交しているポツンポツンと置かれた2列の踏み石、と考えてよいでしょう。
石畳は、同じくヴォールトの屋根を持つ「あづまや」への道。

コルビュジェは、軽快に立ち並ぶ樹林の中に建つ建物の絵を描きたかったのではないでしょうか。簡単に言えば、「絵」になることが重要だった。更に言えば、そこに在る建物は、「絵」にならなければならない。
そして更に言えば、設計に関わる図もまた「絵」でなければ、「絵」にならなければならない、のです。コルビュジエのスケッチ、あるいは図面に、鳥瞰図や俯瞰アキソメ図が多いのは、そのためだ、と考えてよいと思います。
以前にも何度も書いていますが、そこで暮す人には、その暮す世界を鳥瞰、俯瞰で見ることはありません。全体の「立体構成」は見えないのです。また、見る必要もない。
鳥瞰図、俯瞰図で全体が「よく分る」ことは、必ずしも、そこで暮す人の目に分りやすいことにはならないのです。むしろ、「必ずしも」ではなく、「絶対に」そうならない、と言うべきかもしれません。

実は、多くの現代の建築設計者は、「鳥瞰図、俯瞰図で全体がよく分る」=「暮す人にもよく分る」と思い込んでいるように、私には思えます。
これが、分りにくい街や建物を、つまり「案内板」をたくさん付けないと分りにくい街や建物を増やしている原因なのです。さらに悪いことは、案内板を付ければ分りやすくなる、と思い込んでいることです。
都市計画にもこの傾向が見られます。「上空」から見た「姿」で計画され、実際にそこで暮す人びとに「混乱」を与える。その「好例」が、「筑波研究学園都市」です。
   都市計画の発祥は、古代ローマの植民地に見ることができる、という説があります。
   実際、各地に、先住の人びとの暮しを無視した円形や碁盤目状の古代ローマの植民都市の遺構がたくさんあります。

ひるがえって、アアルトのスケッチを見ると、そこにあるのは、常に人の目線で描かれていることに気付くはずです。そしてそこには、常に「まわり」がある。そして、これがきわめて重要なことだと思うのですが、最初に SURROUNDINGS と関係ない「形」は脳裏にはないのです。「形」は、SURROUNDINGS への熟慮の結果として生まれてくる
そしてあらためて近世日本の建物を見直してみると、そこでも常に「まわり: SURROUNDINGS 」を「気にしている」ことが分るはずです。

建築の世界で、「環境」や「景観」などという語が使われだしてから、かなりの年月が経っています。
しかし、残念ながら、なぜそれらが問題にされるようになったか、その「謂れ」についての「考察」がなされたようには思えません。
相変わらず、環境と建物、景観と建物・・・といった具合の「論議」がなされ、挙句の果てには、それに関わる「法令」までできてしまった・・・。

いったい、人が建物をつくるとはどういうことなのか、どういうことだったのか、radical に考えることが必要だ、と私は考えています(このブログの主旨でもあります)。

次回、続きを・・・。

SURROUNDINGSについて・・・・7:コルビュジェにとっては 何であったのか-2

2012-01-27 17:58:35 | surroundingsについて
[文言変更 28日9.40][註記追加 29日 17.56][追加 30日 10.47]

[「この国を・・・13」に新しいリンク先を追加しました-「3.11後のサイエンス:餅屋はどこにいる」 28日18.25]
「この国と原発」の続編を「この国を・・・13」に追加しました。[30日18.50]

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

その昔、私の目にとまったコルビュジェの設計例を、もうしばらく、見てみたいと思います。
はじめは、1930年設計の、南米チリの太平洋を望む崖状の土地に建つ別荘。
これは、コルビュジェ設計集の2巻目、“ Le Corbusier & Pierre Jeanneret 1929~1934 ”から転載。
これとそっくりの山荘を、A・レーモンドが、軽井沢につくり物議を醸しました(茅葺屋根でつくった!)。

この事例については、写真は内部の写真僅か1点しかありません。あとはスケッチ風透視図。
最初は、配置図と各面の立面。

これから察するに、海へ向うかなり急峻な斜面、と言うより崖、の中腹に建っているようです。
   チリは、南アメリカ大陸の太平洋岸を南極にまで至る山脈に沿った細長い国。
したがって、建物へは九十九折(つづらおり)に崖を降りてゆく。

今回の図にも縮尺がないので、平面図の記入寸法から想定してください。
断面図の「逆ヘの字」の左側の高さがおよそ5m。
次の図の平面図の左側の矩形の短辺が800、800cm:8m。長辺は2000:20m。  

次は、平面図と建物の中の主なる空間の内観スケッチと、部分の写真。
図だけですと、どこから建物内に入るのか分りにくいので、図を補いました。
平面図の赤い矢印がこの建物の主入口。立面図にも、主入口の扉を赤く塗りました(いずれも、原本にはありません)。




この立地状態からすれば、海側の写真がないのは分ります。普通の視点では、見上げの写真しか撮れない。
しかし、崖の上から、眼下に広がる海とそのに建つ建物の写真は撮れるはずです。ところが、そういう視角のスケッチも写真もない。

私の想像では、多分、コルビュジェには、設計のときに、そういう視角、つまり、崖の上から降りてゆくときに見える「姿・景色・見えかた」は、頭にはなかったのではないでしょうか。

もし、崖の上から九十九折の坂道を降りてゆくときの「見えかた」を「気にしていた」のならば、「逆ヘの字型:V型」の屋根は思いつかないのではないか、と思うからです。
なぜなら、この雄大な景色の中では、いかなる人工物も「小さく」、その「存在」はまわりの景色の中に「吸収されて」しまうはずで、その「吸収」に素直に従わざるを得ないのが普通です。どんなにじたばたしたところで、大地の雄大さにはかなわないからです。

ところが、この「逆ヘの字型:V型」の「物体」は、その形ゆえに、「目立ち」ます。
しかしそれは、いかに目立っても、所詮、象の背中に止まった虫にすぎない。
言い換えれば、その雄大な景色の中では、「浮いて」見えるはずです。写真を撮ると、多分それが明らかになるのではないでしょうか。
   これは、日本の別荘地帯を歩いていてもよくある「風景」です。
   そしてもちろん、新興の住宅地でもよく見かける「風景」。
   建物そのものが気張ってその形を「主張」しても、まわりの景色に馴染まない。
   だから、そういう建物の紹介写真では、大抵、まわりを写さない。

そしてまた、坂道を降りてゆくときの「見えかた」を「気にしていた」のならば、建物への近づきかたにも「工夫」があってもよいのではないか、と私には思えます。
ライトの落水荘や、アアルトのカレー邸は、その「近づきかた」に入念な気遣いが見られることを紹介しました。
けれども、この建物への「近づきかた」は、かなり「無愛想」です。
崖の上から坂道を下り、V字型に坂道を左に折れ、建物の主入口の前に着く。

このような九十九折に道を設けるときは、「どのような九十九がよいか」考えるものだと思います。
つまり、建物の方に向って下り始め、折り返すには、その気分を維持するように努めるものだ、と私は思います。
そうしないと、何のために降りてゆくのか、意味が分らなくなる、逆に言えば、降りてゆく過程が面倒なものに感じられてしまうはずだからです。屈折点の設定が重要になるのです。

しかし、この図(スケッチの配置図)では、下り始めは、まったく建物のある地点とは逆の方向に向っています。言うならば、だんだん建物とは逆の方向に離れてゆく。見えているのは広大な海原。
そしてやおら折り返し、そこで初めて建物が視野に入ってくる。
そして、多分、屈折点のあたりからは、「逆ヘの字」の長い方の「屋根面」が印象強く見えてきます。
しかし、その「見えかた」は、坂を下ってゆく人の目には目立つけれども、そのように「目立つ」意味合いが分らないのではないでしょうか。人の視線は屋根面に沿って上方に向い、主入口前にはゆかないからです。
それゆえ、この九十九折は、意図ある九十九折ではなく、「やむを得ず、単に高度を下げるための九十九折」であるように、私には思えるのです。

人が自分の感覚に拠って開く登山道でも、登る目的・方向にはずれる九十九折はできません。人は、「ある目標を持って」登るからです。
もしも、人の感覚と関係なくできている登山道があるとすれば、それは、人の感覚に拠ってではなく、地図上で計画された場合の道です。
これは、人が暮すことに拠ってできた曲がりくねった道と、都市計画・地域計画でつくられる幾何学的形の道との違いと同じです。

更に、その屋根面は、遠くに見えるはずの水平線に対しても「浮いて」見えるはずです。私には、その屋根面が、かえって「邪魔」に見えます。人がそのとき見たいのは、「眼前の雄大な海、水平線」なのではないか、と思うからです。そこに突出する斜面、それは何か、なぜ?

つまり、この建物へ向って降りてゆくときの「気持ち」を「つかんで」いたならば、この屋根の「形」は生まれないはずだ、と私には思えるのです。
簡単に言えば、屋根もまた、素直に崖の等高線にならう、つまり、水平を維持する形になるはずだ、ということです。
   私事ですが、筑波一小の体育館の設計の際、斜面に並行に置く案の他に、直交させる案も考えました。
   この事例も、主な近付きかたは、坂を下りて建物に至ります。
   敷地の斜面は、敷地のあたりだけにあるのではなく、筑波山の山裾をとりまき延々と続いています。
   もしも直交させる配置を採ると、その建物によって、斜面の連続が断ち切られます。
   そこで、かなり早い時点から、直交案は捨てられました。

では、この建物の「逆ヘの字型:V型」の屋根は、なにゆえに決められたのでしょうか。
その「謂れ」は、断面図で分るように思います。
2階の寝室に至る斜路の勾配と、屋根勾配が同じ、「への字」の屈折点は、斜路の屈折点に一致しています。
つまり、「への字」の屋根型は、当時コルビュジェが盛んに用いていた「斜路」が「根拠」、「動機:モティーフ」になっている、と見ることができます。
そして、この建物の主要部を成す広い空間の大きさも、斜路を「納める」ための大きさである、と理解すると、その広さ(「長さ」)になる「謂れ」が見えてきます。

   実は、最初、この建物へは、平面図の左端の開口部から入るのではないか、と勝手に想像していました。
   前方に海を見ながら降りてきて、その開口部の外にテラスでもあって、そこに至る。そこから内部へ・・・、と。
   それにしては斜路の向きが変だ、と見直したところ、入口が「見付かった」のです。
   そこで、入口に色を付けることにしたわけ・・・。


先回の終りに、
・・・
彼のイメージスケッチには、圧倒的に鳥瞰的なものも含め、視点の高いものが多いのです。この、高い位置に「視座」を置く、という点に、コルビュジエの surroundings への「対応」が読める、そのように私には感じられました。
・・・
と書きました。
今回の事例を詳細にみて、私は、この「思い」を更に強く感じています。
なるほど、それゆえに、コルビュジエは「近・現代」に受け容れられたのだ、とあらためて思ったのです。

おそらく、コルビュジェの中には、別の「想い」があったのではないでしょうか。
それはすなわち、端的に言えば、
「 SURROUNDINGS は、『絵』の『地』に過ぎない」ということです。「主」は建「物」自体。「まわり」:「地」は、単に「建物自体」を「際立てる」ためのもの。[文言変更 28日9.40]
多分、西欧の「近代」の建築は、それで成り立ってきた。建築が SURROUNDINGS とは関係なく存在する、言い換えれば、「それだけ」を「見る対象」として扱うようになったのです。「主」のために「まわり」を整える。
たしかに、その傾向のなかでは、アアルトは異質だった、ことによると「前・近代」あるいは「非・近代」と思われた(だからかえって注目された!)。

一方、日本では、「まわり」にゆとりがなくなった。特に都会では。
そこで、「背景なし」で「建物自体」を「主張」する事例が増えた、そしてそれが当たり前だと思うようにもなってしまった・・・。
   ところが、日本のアニメは「背景」を重視する、という。
   「背景」を、アニメでしか認められなくなった、ということかも知れません。
   つまり、現実は SURROUNDINGS なしの世界になってきた・・・。
   それで「平気」で「居られる」・・・。

   註 追加[29日 17.56]
   少なくとも近世までに、日本の建物づくりでは、
   「まわり」に拠って、つまり SURROUNDINGS を考えることで、その「場」をつくる、
   という考えに到達していた、と考えられます。
   いわゆる「書院造」の造営や、あるいは「茶室」造営の根底に、この考え方を顕著に見ることができるからです。
   SURROUNDINGS なしで、それらの存在を理解できた、とすると、それは可笑しい。
   SURROUNDINGS なしでは、それらは存在根拠を失うはずだ、ということです。
   この近世までの人びとの考え方を、近代になって見失い、
   更に、現在では、そんなことは必要ない、というまでに至っているのではないか、
   そのように私には思えるのです。
   そして、そういう考え方で、「書院造」や「茶室」が、若い人たちに「教えられている」としたならば、
   それは、「文化」の積極的破壊である、と私は思います。
   なにごとも、5W1Hで問わねばならない、私はそう考えています。

   近世の日本の建物づくりの様態を、下記で書きました。ご覧ください。[追加 30日 10.47]
      「日本の建築技術の展開-16・・・・心象風景の造成・その1
      「日本の建築技術の展開-16の補足
      「日本の建築技術の展開-17・・・・心象風景の造成・その2
      「日本の建築技術の展開-17の補足
      「日本の建築技術の展開-18・・・・心象風景の造成・その3
      「日本の建築技術の展開-19・・・・心象風景の造成・その4
      「日本の建築技術の展開-20・・・・心象風景の造成・その5
      「日本の建築技術の展開-21・・・・心象風景の造成・その6」      
   
このように考えると、コルビュジエのスケッチ、そこで描かれる「建物」は、「絵」の「主題」に過ぎないのではないか、と思えます。
そうであれば、彼のスケッチに俯瞰、鳥瞰的な図が多いのも理解できる、とあらためて思えてくるのです。
そしてまた、そうであるからこそ、多くの人びとにとって「分りやすい」のです。

「 SURROUNDINGS との関係で建物を理解する」ということは、面倒な作業を必要とします。
とりわけ、現地に赴き実物に接するのではなく、写真や図面でしか接し得ない場合には、本当にその建物を「 SURROUNDINGS との関係で分る」のは非常に難しい。
相当に想像力を駆使しなければ SURROUNDINGS をつかめない、まして「 SURROUNDINGS との関係」を読み取るなどという作業は、「重労働」です。
アアルトの建物が一般受けしないのは、それを理解するのに面倒な作業を要するからだ、そのように思えます。
しかし、「対象」として扱うなら、簡単なこと。近・現代は、作業の楽な方向に向ってきたのではないでしょうか
そして、「対象」としてはアアルトの設計は「面白くない」。「妙な形」だけが目に入る・・・。「分らない形」。

そしてこの「傾向・風潮」は、まさに「近・現代」の《合理主義的思考》に「適合」した、そう思えます。
一言で言えば、 SURROUNDINGS との関係を取り外して「対象化」してみる「思考」です。

次回、さらにコルビュジェの事例を見てみたいと思います。

SURROUNDINGSについて・・・・6:コルビュジェにとっては 何だったのか

2012-01-17 18:14:05 | surroundingsについて
[書き忘れ追補 18日 7.45]




ここしばらく、時間があると、コルビュジェの初期の設計事例を見ています。
コルビュジェの設計を見るのは、ほんとに久しぶり。
だから、設計集には、紙が貼り付いてしまったり、変色している頁もありました。

   註 普通は「設計集」ではなく「作品集」という語が使われます。
     ただ、建築には「作品」という語は相応しくないと考えていますので、
     私は「設計(事例)集」を使うようにしています。
     「作品」というと、何となく「個人の作品」というイメージが強くなりますが、
     建物はそうではない。
     なぜなら、設計者は個人であっても、通常、
     つくられる建物等は、「設計者個人だけのものではない」からです。
       第一、多くの場合、設計者が身銭を切っているわけではない。
       もちろん、身銭を切ろうが、だからと言って個人のものと考えるのは間違いです。   
     絵や彫刻などの「作品」なら、気に入らなければ、見なければいい。押入れにしまうこともできる。
     建物は、そうはゆきません。
     否が応でも、顔を合わせなければならないのです。
     つまり、その点では、建物は「設計者個人のものではない」のです。
     「作品」という語に慣れてしまうと、この厳然たる事実を、つい忘れてしまう、
     そのように私は思っています。
     この厳然たる事実を忘れると、どうなるか。
     あの「理解不能」者たちのような「感覚」になってしまうのではないでしょうか。

なぜコルビュジェを見る気になったか。
ここ数回、 SURROUNDINGS に素直に拠って設計をしている、と私が理解しているアアルトの設計事例を見てきました。
では、戦後の日本の建築界を風靡したコルビュジェは SURROUNDINGS をどのように捉えていたか、あらためて見てみよう、と思ったからです。
SURROUNDINGS は、誰のまわりにも在ります。
建物づくりに関わるのであるならば、それについて、何かを「想って」いるはずだ

そう思ったのです。

私の記憶の中で印象に残っていた事例を探しました。
先ず、そのいくつかを紹介します。

   参考にしているのは、
   “Le Corbusier & Pierre Jeanneret” Les Editions d'Architecture刊
    この書物は、年代別に編纂されています。
    今回は、“Le Corbusier & Pierre Jeanneret 1910~1929”から。きわめて初期の事例集です。

Le Corbusier は 本名 Charles Edouard Jeanneret のいわば「号」。
設計事例集に名のある Pierre Jeanneret は従弟。

コルビュジェはスイス生まれ(1887年生)、最初は画家を目指し、美術学校に通っていたようです。そこで、建築転向を奨められ、先に建築の仕事をしていた従弟のところへ行った。それで、当初は連名になっている。

コルビュジェは、諸国を観て歩いていて、日本にも来たらしい。その各地への旅行のときのスケッチ:クロッキーが冒頭の図です。
描かれていることから判断すると、建築に「転向」してからの旅ではないでしょうか。
彼の設計には、地中海周辺の建物に倣った事例が多いのは、スイス生まれの人間にとって、地中海周辺は魅力があったのでしょう。
地中海周辺には、ローマの影響や、サラセン文化の影響を受けた SURROUNDINGS が多く見られ、それに通じるところが設計に現れているように思います。
一方で、日本をはじめ、東洋(の考え方)は彼に刺激を与えたようには私には思えません。「湿っぽかった」のかもしれません。


さて、はじめに、“Le Corbusier & Pierre Jeanneret 1910~1929”から、パリの街中とおぼしき場所に建つ LA Maison du Peintre Ozenfant a Paris。
1922年とありますから、コルビュジェ30代初めころの設計。
外観は下の写真。


この設計集には「配置図」付の事例紹介がきわめて少なく、この場合も載ってません。
3階建てで平面図を集成したのが下図。スケールも不明です。


写真と図から「判定」すると、比較的樹木の多い街角の、既存の煉瓦造の建物を改修・改造・増築したものと思われます。
つまり、既存の surroundings に応じている、既存の建物の持っていた「性向」に従った、と考えてよいでしょう。

私としては、既存の煉瓦造の建物の改造前の姿を含め、周辺の様子:surroundings を知りたいのですが、この書の編纂者は、そういう点には関心がないようです。

   註 この書の編纂は、Introduction et Textes par Le Corbusier とありますから
     コルビュジエ自身の趣旨に沿っているものと考えられます。
     その点、まさしく「西欧の近代・20世紀」の「精神」がたくまずして現れている、とも言えます。

この建物の「目玉」は、最上階のほぼ二層吹き抜けのアトリエ。
私の印象に残っていたのがこの写真です。それで採りあげたわけ。
気持ちのよい空間です。ただ、寒そう。

ある頃まで、アトリエというのは、北側採光でしかも天空光が望ましい、とされていました。私が通った大学の彫塑室は、北側でトップライトで明るかった(建築コースでは、彫塑が必修でした)。
   知人の著名な洋画家が、蛍光灯のライティングで絵を描く、と聞いて驚いたことがあります。
   私が依頼された彫刻家の住まいでは、北側で東西からのハイサイドで採光する工房にしました。

次に紹介する事例は、同じく“Le Corbusier & Pierre Jeanneret 1910~1929”から、“ Maisons La Roche & Albert Jeanneret ”。
つまり、左半分は Roche 邸、右半分は Albert Jeanneret 邸。
   Maisons は「邸」という意と理解してます。
   英語の mansion :大邸宅と同義語。
   日本にはいたるところに mansion が建ち、笑えぬ話がいっぱいあるようです。
   日本の若者が、自分の家は〇〇マンションと西欧人の恋人に語り、恋人は日本を訪れて、
   それが apartment house あることを知って愕然とし、しかし若者は怪訝な顔をしていた・・・、などなど。
   私の「実感」では、何よりも、手紙の宛名書きで苦労するのが、この手の〇〇マンション。長すぎる。    

これも所在はパリの街中と思われます。
   後掲のスケッチに、Projet des maisons du‘Square de Docteur Blanche' とあります。
   パリを知りませんが、場所名ではないかと思います。

この事例には、当初のスケッチが紹介されています。

このスケッチとほぼ同じ向きで、建物寄りから見た外観は下の写真。

曲った壁を正面から見ると


平面図を集成すると下図。
書物では、地上階が一番上、次に2層、そして別頁に3層目。更にスケールが異なる。
それでは分りにくいので、この図は、同一スケールで下から地上階、2層目、3層目に編成し直してあります。ただし、基準スケールはどこにも表示がない(こういう建築紹介は、めったに見かけません)。

平面図の左端部を中央の階段(家人用)から見たRoche 邸の HALL が下の写真。
ここに見えている階段は、地上階の入口から、2層にある曲面の壁をもつギャラリーへの主通路。
左手に見える歩廊が、手前にある食堂へ通じています。



[書き忘れ追補 18日 7.45]
今回あらためて、先の外観の写真を見たとき、かつてこれを見たときには多分感じていなかったと思われる大きな違和感を覚えました。
それは、多分にあの曲面をなす壁の存在によるものと思われます。
簡単に言えば、あのような曲面になる「謂れ」が読み取れない、そこから生じた感覚だと思われます。
おそらく、この家を訪れるには、あの曲面の壁を正面に見ながら歩いてくるのでしょうが、その「歩く」という「行動」を受け容れてくれる「形」には、私にはどうしても見えないのです。横から見た写真でも、この曲面は、私には「しっくりこない」のです。

けれども、先に紹介したこの建物の平面のスケッチ:「形」は、コルビュジェの書物にはよく引用されていますから、おそらく「気にいっていた」のだと思われます。
ということは、彼のつくる「形」は、そこに「在る人の感覚」とはまったく関係なく決められている、そのように私には思えるのです。

この外観にタイルを張ると、最近の日本の建物に似てきませんか。


さて、この建物のイメージスケッチをもう一度見てください。
今回あらためて設計集を見ていて気がついたのは、彼の描くスケッチなどの「視点」「視座」の位置の高さ。
後に紹介しますが、彼のイメージスケッチには、圧倒的に鳥瞰的なものも含め、視点の高いものが多いのです。
この、高い位置に「視座」を置く、という点に、コルビュジエの surroundings への「対応」が読める、そのように私には感じられました。

アアルトのスケッチ群を見直してもらうと分ると思うのですが、アアルトにはこういう視点でのスケッチはないのです。
アアルトの目線は、いつも、通常そこに在る人の高さにあります。

コルビュジエのアアルトととの違いは何なのか、何に拠るのか、次回、別の事例を通して考えたいと思います。

SURROUNDINGSについて・・・・4の追補・ロヴァニエミ図書館

2011-12-31 15:37:38 | surroundingsについて
Architectural Monographs 4 ALVAR AALTO( Academy Editions・London )に、ロヴァニエミ図書館の開館時の写真がありましたので、追加紹介します。

先ず、平面図を再掲します。




最初は main readingroom の外壁よりに立って、control desk の方を観たところです。先回の写真は⑤のところですが、その左側④に近い方の「房」のところから見ています。



次は、小さな readingroom 、平面図右手の長方形に近い室を、control desk の方から見た様子。平面図では机が並んでいますが、しつらえは少し変っています。



次はハイサイドの様子。ハイサイド:clerestory と呼んでいます。



以上の写真から、居心地のよさそうな図書館の様子が分ります。
このような雰囲気の図書館は、なかなか日本では見かけないと思います。

その理由は、「図書館 =( public : みんなの)書斎」と考えるか、「図書館=書籍の保管場所」と考えるか、その違いによる、そんなように思えます。
因みに、日本で言う「閉架書庫」は、stock room 。
それゆえ、library 、readingroom 、stock room という構成になるわけです。
「開架」「閉架」という「感覚」がないのです。

大分よくはなってきましたが、日本の図書館には、どうしても「管理」の発想が見え隠れします。つまり、 public ではない。

SURROUNDINGS について・・・・5:続・アアルトのつくる図書館

2011-12-30 17:26:15 | surroundingsについて
先回、ロヴァニエミの図書館紹介の際
・・・この図書館の閲覧スペースの「特徴」は、あたかも「書籍に囲まれ、書斎で書物に好き勝手に接してるという場景・情景」で書物に接することができる、という点にある、と私は思います。
これは、初期に設計したヴィイプリの図書館以来の、アアルトの一貫した「図書館像」である、と言ってよいでしょう(と言うより、彼の「建築像」そのもの、と言った方がよいかもしれません)。・・・
と書きました。
そのヴィイプリ( VIIPURI )の図書館を紹介します。

今回は、以下の書物を参考にしています。
  1)ALVAR AALTO Ⅰ(Les Editions d'Architecture Artemis Zurich)
  2)Architectural Monographs 4 ALVAR AALTO( Academy Editions・London )
  3)The Masters of World Architecture Series:ALVAR AALTO(George Braziller,Inc.)
  以下の図版は1)からの転載です。

この図書館は、今から80年ほど前に建てられた建物です。
1927年、競技設計でアアルトが設計者に決まり、以後敷地に変更などがあって、完成は1935年。
2)によると、アアルトの案は、ギュンナー・アスプルンド( Gunnar Asplund )のストックホルム図書館に大きく影響を受けている、とのこと。

ヴィイプリは、北緯70度近い地域にあり、図書館ができたころ、人口約90,000の町。
しかし、残念ながら、現在、この建物はありません。
ヴィイプリの町も、フィンランドではなくなっています。
1)によると、Russo-Finnish War でソ連領(現ロシア領)になり、町の名も VYBORG になり、図書館の建物は完全に破壊され、廃墟になっているといいます。
それゆえ、残された図面と何枚かの写真によってしか、その様子を知ることができません(ここに挙げた書籍に使われている写真は、すべて同じです)。

どんな所に建っているか、残念ながら地図等はなく、唯一、航空写真があります。



左側の白い直方体の建物が、図書館の建物。右上は教会。

次は、斜めからの鳥瞰。建物全体が分ります。



低い棟が入口側で、この低層部は講堂 lecture room と管理関係諸室です。

平面図・断面図をまとめた図が次の図。


外見はきわめて単純ですが、レベルが微妙に重なっているので、分りやすくするため、原図に色をかけました。
それでも分りにくい。
アアルトは、この単純な直方体の中に、実現すべき「空間」を読み取っていた、逆に言うと、彼が望んだ「空間」を、直方体にまとめ上げた、と言えばよいでしょう。
そしてそれは、きわめて明快。
その空間の構成を、二次元で表わすがゆえに、分りにくい、要するに、図面の上では分りにくい、に過ぎないのです。実際の建物の中にいる人には分りやすいのではないか、と思います。

以下に、実際の建物にいる視点で、写真をまとめます。
歩く順に①~④の番号を振りました。
①:エントランスに入ります。エントランスホールの右手には講堂:lecture room があります。エントランスホールは、その foyer の一部になっています。

library へは、階段を上がり、②に至ります。①と②の段差は1.5mほど(数字が書いてあるのですが、読めない!段数からの判断です)。
   一般に、こういう場合の段差はこの程度になります。
   日本の場合なら、1.3~1.4m(4尺5寸程度)が限度でしょう。身長、したがって目の位置が、
   西欧人よりも若干低いからです。
   こういう場合、階段に足をかける前に、行く先の踊り場の床面が目に入ることが必須と言えるようです。
   想像していただければ分りますが、踊り場床面が目に入らないと、階段は、目の前のバリアになってしまいます。
   つまり、隔壁になる。駅の階段は、やむを得ないから登る。しかし、こういう用途の建物ではバリアになるのです。
   以前、帝国ホテルのロビーを紹介しましたが、そこでも、踊り場:行く先は目線の中に入っています。
     法規の規定どおり踊り場は3m以内にあればいい、というような単純な話ではありません。
     階段については、あらためて書こうか、と思います。

エントランスホールを、②のA位置から振り返って見たのが次の写真です。



写真の様子から、工事終了時に撮られたのだと思われます。

なお、②の位置が断面図のどこにあたるかを示すために、平面図と断面図に * 印を付けてあります。

library に向うには、曲った壁に沿って右へ曲がり、階段を登ります。階段の上り端Bで撮ったのが次。



この階段も、バリアにはなっていません。
それは、段数が少ないこともありますが、この階段の上り端が、library の大きな空間の端に少し入った位置にあるからです。
つまり、②で曲った壁に沿って向きを変えたとき、すでに library の空間の中に入っているのです。
写真に写っている円はトップライト。
壁際に書架が並んでいます。

この階段を登りきったところは、library の下段。library はロヴァニエミの図書館と同じ構成です。
写真をよく見ると、下段部分の書架と上段部の書架が重なって見えていることが分ります。
この階段を登っている人の心情を想像してみてください。期待で歩が速まる、そんな気分になるのではないでしょうか。

そして③に至ります。
目の前に下段の書架に囲まれた空間が広がります。
けれども、来館者は、きびすを返してまだ階段を登ります。登ったところ④に control desk があり、入館が了承されます。後は、館内自由です。
振り返ってCから Library 全体を見たのが次の写真。



同じレベル:上段のD、Eから Library を見たのが次の2枚。
これで Library の全体がつかめます。





下の写真に見える control desk の向う側には、一段降りて reading room が広がります。
天井の高さが切り替わっていることに留意してください(断面図参照)。
   このとき、もしも天井が同一だったらどうなるかを想像することによって、天井切替の意味が分ります。
   実は、こういう「想像の作業」が、設計図を見るときの重要な行為である、と私は思っています。
   それによって、「見る」が「観る」に深化できる、と思うからです。

この空間のつくり方は、その後のアアルトのつくる図書館では、常に見ることができます。 

次はFから見た children's library の全景です。




2)Architectural Monographs 4 ALVAR AALTO には、別の断面図がありましたので、次に載せます。



上は、先の断面図とは逆に切った断面。左が library 、右が reading room 。
下は、左がエントランス側、library の中央部の断面です。この図の右下は children's library 。

ここまで、場所の表記を英語で示してきました。
それは、原本に、 library 、reading room とあり、訳語に悩んだからです。普通は、 library =図書館、reading room =閲覧室となります。
しかし、原本で library とされている所は、通常、日本語では「開架書庫・開架書架」などと呼ばれる場所で、それを「図書館」と呼ぶのは奇妙です。
端的に言えば、日本の図書館には、ロヴァニエミやヴィイプリの図書館のような空間が存在せず、適切な用語がない、ということです。

あらためて library の語義を調べてみると、原義には「書斎」という意味が含まれます。
つまり、ロヴァニエミやヴィイプリの図書館、と言うより、アアルトのつくる図書館は、public library 、すなわち「公共の書斎」を目指している、と理解すれば、納得がゆくのではないか、と思います。


ただ、ヴィイプリの図書館の reading room は、理解に苦しみます。
reading room の読書席は、次の写真のようになっていますが、まるで教室です。これでは読書に没頭できない。
 


おそらく、アアルト自身もそう思ったに違いなく、こういう reading room は、これがはじめで最後、以降のアアルトがつくる図書館では見られません。
また library の大きさも、ヴィイプリの図書館よりも小さくなります。
書物に接する空間、書斎になる空間の大きさには、一定の限度がある、と考えたものと思われます。ヴィイプリは、大きすぎた、と考えたのではないでしょうか。

ロヴァニエミの図書館の library をいくつかの房に分ける方式は、多分、そういうところからの結論だったのだと思います。
この考えは、大学の図書館のような、規模の大きい図書館でも同じです(いづれ紹介したいと思います)。


最後に、講堂の内観。



この天井はダテではありません。それを解説する図が下図。


同様に、トップライトもダテではありません、トップライトの計画のスケッチが下図です。満遍なく明るさを、という計画です。



   ことによると、無段差=バリアフリー、という「考え」をお持ちの方には、
   これほどひどい建物はない、と見えるでしょう。
   しかし、無段差=バリアフリーというのは、点字ブロックをう設置すればバリアフリーと言うのと同じで、
   あまりにも安易だ、と私は思っています。
   この点についても、いずれ書きたいと思っています。


今年は、今回で終りにいたします。
よい年になりますように。
また来年もお読みいただければ幸いです。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

蛇足

建「物」の設計ではなく、「 surroundings の改変」の「設計」である、ということを、ごくあたりまえのこととして実行している設計の例として、アアルトの設計事例をいくつか紹介しています。
しかし、「 surroundings の改変=建築」という考え方について言うのに、本当は、何もアアルトを持ち出さなくてもよいのです。 
なぜなら、このシリーズの2回目に書いたように、中世末期から近世にかけてつくられた多くの日本の建物は、階級の上下を問わず、「建物をつくることは surroundings の改変である」という「事実」を、当たり前のこととして認識してつくられていた、と考えられるからです。
残念ながら、多くの方がたは、日本で為されていることを知ろうとせず、知っていても認めず、それゆえに観ようともせず、ひたすら、国外、特に西欧(最近ではアメリカ)の事例を「ベター」と考える悪弊があります
これは、すでに遠藤 新 氏も述べていることです。

   ・・・・
   かつてブルーノ・タウトは桂の離宮を絶賛したと聞いております。
   そして日本人は今さらのように桂の離宮を見直して、タウトのひそみに倣うて遅れざらんとしたようです。
   ・・・・
      タウトが語らなければ、桂離宮は、とうの昔になくなっています!
      明治以降の日本の「知識人」の「発想」の惨めさの代表です。
      
そんなわけで、西欧の人も、surroundings を考えている、ということを知っていただくために、アアルトを紹介しているのです。
実は、あのミース・ファン・デル・ローエもコルビュジェも、初期には、surroundings の造成を考えた素晴らしい事例をいくつも設計しているのです。
その事実が、多くの人びとに知られていない、というより、多くの人びとが知ろうとしない、だけなのです。
これは、日本で教えられている近代建築史の重大な欠陥によるところが大きい、と私は思っています(いずれ紹介したいと思っています)。
   この点については、「SURROUNDINGS について・・・・1」でも、すでに触れています。
 
最近、このブログに、「待庵」の検索で寄られる方が多いようです。茶室「待庵」についての資料集めなのかもしれません。
「待庵」について触れたときにも、私は単に「待庵」という建「物」についての紹介に終えたつもりはありません。
誰が、なぜ、あの時、あの場所に、あのような「空間・場所」をつくろうとしたのか、その視点で観ないと、あの建物は理解できないはずだからです(いかなる建物でも同じです)。つまり、5W1Hの問いで考えてみる、ということです.
「待庵」には、「 surroundings 」についての、当時の人びとの「考え」が、見事に凝縮している、それが私の理解です。

たとえば、「待庵」を、どこかの博物館などに移築、あるいは等寸の模型をつくり展示することは可能です。
しかし、それでは、「待庵」の「意味」「本質」は失せてしまいます。残念ながら、多くの「待庵」の「解説」は、「どこに在っても待庵が在り得る」、という内容になっています。
しかし、それでは、もしも「待庵」に口があったならば、嘆くに違いありません。「違う」「違う」、「勝手なことを言ってくれるな」と。

そのあたりのことについて、数年前に、「心象風景の造成」として少しばかり詳しく触れています。下記です。お時間があるときに、読んでいただければ幸いです。
   心象風景とは、私たちが、ある具体的な場所にいるときに、
   つまり、私たちを囲む surroundings により、
   私たちの心のうちに生まれる「感懐」のことを言っています。
   この風景は、常に同じではありません。
   同じ場所でも、そのときどきの私たちのありようによって、「風景」は変ります。
      「日本の建築技術の展開-16・・・・心象風景の造成・その1
      「日本の建築技術の展開-16の補足
      「日本の建築技術の展開-17・・・・心象風景の造成・その2
      「日本の建築技術の展開-17の補足
      「日本の建築技術の展開-18・・・・心象風景の造成・その3
      「日本の建築技術の展開-19・・・・心象風景の造成・その4
      「日本の建築技術の展開-20・・・・心象風景の造成・その5
      「日本の建築技術の展開-21・・・・心象風景の造成・その6」   

SURROUNDINGSについて・・・・4:先回の補遺・アアルトのつくる図書館

2011-12-13 01:20:06 | surroundingsについて
進行中の設計の大詰め、図面の各種喰い違いや手直しで、毎日日が暮れています。そんなわけで間があいてしまいました。 

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先回の終りに、アアルトの図書館のスケッチを紹介しました。
今回は、そのスケッチを基に実現した図書館を紹介します。
アアルトの設計事例集:ALVAR AALTO Ⅱ:からの転載です。

この図書館は、フィンランドのラップランド( Lapland )のロヴァニエミ( Rovaniemi )にあるラップランド地域の中央図書館です。
同書にあるこの図書館の解説を、そのまま転載します。

ラップランドの開発にともなうものと思われます。ラップランドはきわめて寒い地域です。

できあがった図書館の平面図と前回紹介したスケッチを再掲します。





この平面図をはじめて見た方は、「いったい、この形は何だ」と思われるに違いありません。普段見慣れた《(日本の)現代建築》とまったく異なるからです。《現代建築》では、こんな「形(の平面図)」は、描かれるはずもない、あまりにも「珍奇だ」!
まして、CADではできない!?

しかし、これを見ると、先に紹介したスケッチがダテでない、考えていたことが「具体化されている」、ということがよく分ると思います。
では、アアルトは、何を「考えていた」のでしょうか。

図書館に近づくと、こんな姿が見えてきます。平面図の右手、①のあたりからの姿。



アーケードに沿って、入口に至ります。
おそらく、この手前側に、人びとが暮す一帯があるのでしょう。
残念ながら、一帯の地図がないので、どういう立地なのかが分りませんが、暮す地域から見渡すことができる低い丘の上にあるのではないか、と思います。
そう考えれば、こういうスケッチが描かれる謂れが納得ゆくからです。

スケッチで考えていたのとはアプローチのルートが変わっています。
ただ、こういう SURROUNDINGS に置かれた場合の人の動きを考えると、ごく自然です。
きっと、案内板などいらないはずです。足の赴くままに歩を進めると、建物・図書館に着いている。当然、人の気持ちに「ささくれ」などは生じないでしょう。


入口を入ると、人を取り囲むのは、以下の写真のような SURROUNDINGS です。

内部は、一つの天井の下、5個の房のように分かれた閲覧スペースが、入口のレベルと、そこから一段下ったレベルの2段で構成されています。
その内の一番大きい閲覧スペースを、②の位置(高いレベル)から見たのが次の写真です。
以下の写真で分りますが、この図書館では、何処にいても全体が見渡せます。
つまり、人は、自分が今何処にいるか(入口から歩いて今は何処にいるか)、比定することができます。
このことは、現今の日本の「公共建築」で見かける「案内表示」がまったく掲げられていないことで分ります。



左手に、メインカウンターが見えます。リファレンスや貸出しは、ここで行うのです。
別の場所にある「管理・事務室」と離れて、閲覧スペースの中に、メインカウンターが「島」になって在る、これはアアルトのつくる図書館に共通するように思います。
日本の多くの図書館のそれと比べてみてください。
日本の多くは、管理の「便宜」のためか、管理・事務室の「縁」にカウンターが在るのが普通です。
つまり、「用のある者はこっちに来い」というのが普通、「用のある」人たちの側に、管理者が進んで入る、というのがアアルトの図書館。
これは「サービス」ということについての「考え方の違い」に拠るものでしょう。

この大きい閲覧スペースは、2つのブロック:房に別れています。

奥の方、③のあたりからメインカウンターの方を振り返ってみたのが、次の写真。



この図書館の閲覧スペースの「特徴」は、あたかも「書籍に囲まれ、書斎で書物に好き勝手に接してるという場景・情景」で書物に接することができる、という点にある、と私は思います。
これは、初期に設計したヴィープリの図書館以来の、アアルトの一貫した「図書館像」である、と言ってよいでしょう(と言うより、彼の「建築像」そのもの、と言った方がよいかもしれません)。
この図書館の閲覧スペースを「五つの房」に分けたのも、「書籍に囲まれ、書斎で書物に好き勝手に接してるという場景・情景」は、広漠とした空間ではつくり得ない、という判断があったからだ、と私は思います。
つまり、あらゆる場景・場景は、「それなりの(大きさの) SURROUNDINGS 」が用意されなければならない、ということです。
「それなり」とは、たとえば、「本に接するなら」、あるいは「診察を受けるなら」・・・と言った「それなり」です。


多分、子どもたちの閲覧スペースと思われるのが、④から見た写真。



入口レベルから一段下った空間、それでいて「上の空間の内」にある、これがこの場所の言いようのないすばらしい場景・場景を生みだしているのだと思います。

次は、⑤から見た写真で、ハイサイドと閲覧スペースの関係が分ります。




このように構成され建物は、外から見ると次のようになります。⑥のあたりから見ています。
ハイサイドが分ります。




この建物には、かつては当たりまえであった、しかし《現代建築》が忘れ捨ててしまった、「建物をつくることの意味」が、ごく自然に表出されている、と私は思います。
アアルトの設計事例は、すべて、「当たりまえ」である、「人の感性に信を置いている」と言って過言でない、と私は思っています。

建物は「《形》の追求」から始まるのではなく、「あるべき場景・場景となるべき SURROUNDINGS の追求」の「結果」、初めて生まれるのです。それが「形の謂れ」にほかなりません。

次回も、更に、アアルトの建物を紹介します。
なぜなら、「現在が忘れてしまった『形の謂れ』」を考えるには、最適だ、と考えるからです。
「単なる建築家の思いつき・《好み》」で建物の「形」がでつくられてしまうのは、「犯罪」に等しい、と私は思っています。それは、人びとにとって最大の不幸です。「理解不能」だからです

  蛇足
  江東図書館の設計では、いろいろと考えましたが、当たりまえですが、アアルトの域には
  到底達し得ませんでした。

  追記
  日本のアニメと西欧のアニメの大きな違いは、日本のそれが「背景」を重視していることだそうです。
  西欧では、キャラクターそのものに集中し、背景は重視しない、とのこと。
  背景とは、すなわち「場景・情景」、 SURROUNDINGS にほかなりません。
  ところが、建築の世界では《西欧化》が進み、 SURROUNDINGS を考えなくなった!
  これは、「建築」の本質に悖る(もとる)ことです。私はそう思います。 

SURROUNDINGSについて・・・・3:ある学校の図書室を見て

2011-11-29 22:10:30 | surroundingsについて
[註追加 30日 8.08][註追加 30日8.55][註追加 30日 18.20][文言改訂 2日 11.55]




先般、ある小学校を見る機会がありました。
老朽化した建物の改築を施した学校です。改装部分と新築部分とが共存していました。

写真や図面を出すと特定できてしまいますので、言葉だけで説明させていただきます。
それゆえ、多少分りにくいかもしれません。

まず感じたこと。
それは新しく建てられた校舎よりも、改装した元の校舎の方が「馴染める」雰囲気であったことです。
それは単に、私が、昔ながらの学校を知っている、あるいは見慣れている、ゆえではありません。
なぜそう思えるのか。
それは、一言で言えば、「空間のつくりかたが奇妙」だからです。

その極めつけは、図書室でした。
南北に走る廊下の東側に沿って、長手が8間、短手が5間ほどの大きさの細長い部屋(特別教室や職員室にある形で、ここは多分、元職員室か)があり、そこが図書室に改装されていました。部屋の東面:長手が外庭に接していることになります。
部屋の南寄りに、廊下からの出入口(引き戸)が一箇所ありました。[文言改訂 2日 11.55]

入口の引戸を開けると、まず目に飛び込んできたのは、昇降口の下駄箱のように並んでいる書架群。
目線方向に、長さ2間ほどの低書架(高さ1.2mか)が1.5m間隔ぐらいに10列ほど並んでいました。
その櫛の歯をすり抜けた奥の窓際に閲覧席があるようでした。
「あるようでした」と書いたのは、私の目線でも、その席が確認できなかったからです。書架がそこまで続いていないから、多分机があるのだろう、と感じたのです。
つまり、子どもの目線だったら、見えない。

思わず、こういう書架の配置は誰が決めたのですか、と尋ねてしまいました。
最終的には、設計者が決めたとのこと。

たしかに、部屋の中央部より明るい窓際の方が本を見るには明るさがちょうどいい。
このような配置にしたのは、多分、この点で決まったのではないか、と私には思えました。
「この部屋のことだけ」考えればそれもいいでしょう。
しかし、子どもたちはこの部屋に「住み着いている」わけではありません。何処からか、この部屋へ来るのです。ドラえもんならいざ知らず、気がついたら突然部屋の中に居た、などということはあり得ず、かならず「何処からか歩いて来る」のです。

この「何処からか歩いて来る」という動作・行為は、本来、それぞれの人・子どもたち自身の「感覚」で為されることであるはずなのですが、最近はそれを無視することが普通になってきています。
これは、かなり昔、迷子になる病院の例でも書きました。
簡単に言えば、案内標識があれば(ありさえすれば)、目的地を訪れることができる、と考えるのがあたりまえのようになってしまっています。
これは、自分の感覚に拠る判断ではなく、カーナビの「指示」に拠り車を動かすのが当たりまえ、というのと同じです。

   註 [追加 30日 8.08]
   それが当たりまえになってしまった理由の一つは、
   私たちの暮す SURROUNDINGS の様態が、
   私たちの「感覚」に拠る「判断」を受け容れない姿になっているからです。
   そういう「様態」の造成に深く係わっているのが、
   実は建築や都市計画に係わっている人たちなのです。
   これは「悲劇」「喜劇」以外の何ものでもありません。

   註 [追加 30日 18.20]
   こうなってしまった原因の一つに、《設計ソフト》に拠る「設計」があるように思っています。[文言改訂 2日 11.55]
   設計という「営為」が、「ゲーム感覚」で処理される傾向にある、そのように私には思えるのです。
   「現実」に対して自らの「実感」を通じての「反応」に拠るのではなく、
   「設計ソフト」が表示する「モニター上の情報」への「反応」でことを決めてよしとする、
   どうもそういう傾向を感じるのです。
   そこでは、「人(の豊かな感性)」が疎んじられています。
   このことについては、現在設計中の事例の構造設計の面で、いたく感じていますので、
   いずれ、詳細に報告させていただきます。
   
さらに言えば、「図書室」という表示があれば、そこが「図書室になる」とさえ思うようになってしまっている。
これは、今の多くの建物では、「図書室」を他の用途の場所名に変えても「通用」するほど「当たりまえ」になっています。

このような「考えかた」は、この学校のいたるところで見受けられました。つまり、設計者が、それで当たりまえだと思っている、ということになります。

考えてみれば(考えて見なくたって)、これは怖ろしいことなのです。
感受性豊かな子どもたちの過ごす場所が、
子どもたち自身の「感覚」で行動できない場所になっている
そういう場所を、大人が、しかも専門家と称する人たちがつくってしまっているのです。

この小学校では、いたるところに、いわゆる《デザイン》がされていました。
たとえば、校門から校舎への通路には、舗装で「模様」が描かれています。
しかし、その「模様」の意味、そう描かれなければならない謂れが見当たらない。
第一、少なくとも、歩いていて、その「模様」が何かを訴えかけてくる、そういうことはまったくない。
もっと言えば、「模様」があるのさえ気づかないかもしれません。なぜ、ここだけ色が変っているのだろう、ぐらいにしか思わないかもしれない。

おそらく、空中から見たら「絵」が見えるのかもしれません。
設計者は、机の上の紙の上を見て、「デザイン」したのです。
しかし、子どもたちは、人は、空中を散歩しているのではないのです。歩いている人に、それは見えない。当然「意味」も分らない。
第一、はたして「意味」があるのかさえ、疑わしいのです。

私は、かねてから、1960年代の建物の「質」は、今のそれに比べ、数等高い、と思っています。そう書いてもきました。
その理由は簡単です。
お金がなかったからです。工費が廉い。
したがって、少ない工費をどう「有効に」使うか、が設計者の腕のみせどころだったからです。
今は違います(もちろん、すべてではありませんが)。
「有効」の意味を考えなくなり、お金が「別のところ」に使われてしまっているのです。
たとえば、この小学校の昇降口の庇には、手の込んだ金属製の庇がつくられていました。
そういうお金の使い方をする一方で、各部屋のつくりは決して「豊か」にはなっていません。むしろ、「ささくれだって」いる。もう少し、神経使ってよ、と言いたくなるほどでした。
子どもたちの接する場所が、子どもたちに、もちろん私にも、馴染めるものではないのです。
私が、旧校舎の部分に行ってほっとしたのは、そこが馴染める空間だったからなのです。空間の形状からして、馴染める形なのです。
旧校舎は、戦前からの校舎建築を継承したものと思われます。
戦前の校舎建築、それは、それぞれの地域の「宝物」でした。人びとの「住まい」の延長上に、自分たちの「逸品の場所」としてつくられていたのです。
それが、人びとに馴染めないものになるわけがないではありませんか!

建物づくりに係わる人たちは、もう一度、私たちにとって建物は何なのか、あらためて考え直してみなければならない、私はそう思っています。
そうしないと、先に「理解不能」として指弾した「建築家」たちと同じレベルになってしまうと思うからです。
あの「理解不能な建築家」たちを、「目標」にしてはならないのです。特に、若い人に向けて、そう言いたいのです。

  註 なお、この点について、別の書き方で10数回、昨年の今頃書いています(下記)。お読みいただければ幸いです。
    [追加 30日8.55]
    「建物をつくるとはどういうことか」シリーズ
    シリーズ各回の内容は、「建物をつくるとはどういうことか-16」末尾にまとめてあります。
    

冒頭に掲げた図は、アアルトが、ある図書館を設計するときに描いたスケッチです。
最初の1枚は設計にとりかかった頃のもの。
2枚目は、もう少し思考・設計が進んだときのものです。

ここから、「その場所」にどのような場所・空間が、つまり、どのような SURROUNDINGS が用意されなければならないか、人は、どのようにその場所を訪れるのがよいか、それに続く内部は、どのように人の前に展開するのがよいか、・・・そういったさまざまな「思考(の過程)」が読み取れる、と私は思います。
これは、先回例に挙げたカレー邸のスケッチと、まったく変りはありません。常に、目の前に現れる(はずの) SURROUNDINGS を「設計」しているのです。考えているのです。

   註 [追加 30日8.55]
   アアルトの設計した建物は、独特の形をとる場合がありますが、
   その「形の謂れ」をも、これらのスケッチは示しています。
     アアルトの建物の形は、フィンランドのフィヨルドを模したものだ、
     などという珍奇な説があります!

彼の設計した図書館には、玄関入ったら直ぐに書架、などというのはありません。
長いこと居たくなる、いろいろと本を手にとって見たくなる、そういう図書館です。それこそが図書館ではないか、と私は思います。
ひるがえって、私の見た小学校の図書室は、子どもたちに本に接することがイヤになることを奨めているような場所。人の過ごす SURROUNDINGS になっていないのです。

アアルトはいろいろな建物をつくっていますが、その残されたスケッチは、いつもこういう調子で描かれています。
次回も、その例を挙げたいと思います。


SURROUNDINGS について・・・・2:先回の補遺

2011-11-15 20:52:15 | surroundingsについて
[文言追加 16日1.45]

先回のおしまいに、アアルトのカレー邸のスケッチを紹介させていただきました。

しかし、アアルトのカレー邸と言っても、知らない方が多いのではないでしょうか。
ライトの落水荘と言えば、大方の方が知っていますし、その外形もすぐに頭に浮かんでくる方が多いと思います。
ところが、カレー邸と言われても、頭に浮かぶ人は少ないと思われます。外形も片流れ屋根で、ライトの建物に比べると、どちらかと言えば「平凡」に見え、印象が弱いからです。

しかし、「surroundings の造成」という点では、これは凄い、と私は思っています。
surroundings へのこだわりの点では、ライトよりも徹底しているかもしれません。

落水荘は、ライトにしては「珍しい」事例なのかもしれません。
ライトは、時折り、「形」に走る、そんな気がしています。ライトの「形」には、surroundings とは関係ない場合があるように見受けられます。その分、ある意味「分りやすい」。「形」の恰好にだけ目を遣っていればいいからです。

一方、アアルトの「形」は、常に surroundings についての模索から生まれているように思えます。それゆえ、「分りにくい」。
なぜなら、アアルトの設計事例は、実際の「現場」に立てば自ずと分ることなのでしょうが、図や写真で「見る」ときは、建「物」だけではなく、「あたり一帯の場景を思い描きながら見る」必要が生じます(もっとも、最近は、アアルトの建物の写真や図を見ても、「物」だけ見て「まわり」に目を遣らない「建築家」が多くなっているように思います)。
「あたり一帯の場景を思い描く」作業は、いわば文章の「行間を読む」作業に似ています。
しかし、この作業は「面倒」です。だから、「一般受け」しないのではないか、と思います。
   これは、「桂離宮」は「分りやすい」が、「孤篷庵」が「分りにくい」のに似ているかもしれません。
   
   

先回の書物(THE LINE――ORIGINAL DRAWINGS from THE ALVAR AALTO ARCHIVE MUSEUM of FINISH ARCHITECTURE 1993年 刊)から、カレー邸の謂れについての説明文を、そのまま転載します。


同書には、先回紹介したスケッチの他にも、数点のスケッチが載っています。
以下に紹介することにします。
説明部分(英文だけ)を大きくして併載します。
 


説明文は、天窓からの光についてのみ語っていますが、このスケッチには、今度つくる建物が、既存の土地に、「どのように取り付くのがよいか」を、アアルトがいろいろと検討している様子が窺えます。
天窓の形を考えている一方で、遠くからどんな具合に見えるようになるか、などなど、考えているようです。





正面の見えがかりの検討のスケッチのように説明にはありますが、むしろ、正面の見えがかりは、土地へのセットのしかたによって決まってくる、それをどうするのがよいか、その検討のためのスケッチ、と見た方がよいように思います。
それは、建物の「外形」スケッチの中に、屋根の下に生まれる空間の概形を描いていることで分ります。
この片流れの屋根は、土地の上に新たにできる(アアルトが新たにつくろうとしている)空間の形の「反映」なのです。
 



terracing というのは、段状にする、という意味のようです。
terrace と言う語は動詞として「段状に整備する」という意があります。
簡単に言えば、地形に合わせるつくりかたの一。
ただ、アアルトのやったことは、わが国の住宅地造成で見られる雛壇をつくることとは違います。斜面を単に平坦地にするのが目的ではなく、建物、あるいは空間を土地に「馴染ませる」ための方法なのです。


これらのスケッチから、アアルトにとって、スケッチは、
既存の surroundings に手を加えるにあたり、従前の surroundings のつくりだしていた場景・情景を傷めることなく維持できる、あるいはさらによい場景・情景にする、そうするためには、どのような「手の加え方」が好ましいのか、それについての模索、その推敲の記録
と考えてよいでしょう。

何度も書いてきているように、建物をつくるということは、単に、一個の建物をつくる、ということではなく、
そこに従前から存在していた surroundings を「改変する」ことなのです。
設計とは、建「物」の設計ではなく、「 surroundings の改変」の「設計」である、ということです。
これをアアルトは、ごくあたりまえのこととして実行している、それが私のアアルトについての「理解」であり、傾倒した理由でもあるのです。簡単に言えば、アアルトの営為が「よく分る」、共感できる、ということ。

そして、これも何度も書いてきていますが、
日本の建物づくりは、階級の上下を問わず、「建物をつくることは surroundings の改変である」、という「事実」を、当たり前のこととして認識していた、と考えてよいでしょう。少なくとも近世までは・・・・。

それはすなわち、「住まいの原型についての認識」つまり、「人がこの大地の上で暮すとはどういうことか、についての認識」、が、往古より、ブレずに、継承されていた、ということに他ならないのです。

今あらためてこう書いているのは、今の世では、この「継承」がますます途絶えつつある、という感を最近とみに感じているからです。
私たちの surroundings は、こんなものでよいのだ、という事態に陥りかねない、と思うからです。もしかすると、そのうち、セシウムに囲まれているのがあたりまえだ、などとなるかもしれません。 

さて、カレー邸の様子を、アアルトの設計集:「ALVAR AALTO Ⅰ」(Les Editions d'Architecture Artemis Zurich 1963年刊)から転載します。
スケッチと対照してみてください。
なお、カラー写真は、「GA №10 」(A.D.A EDITA Tokyo 1971年刊)にあります。

まず、配置図と入口周りを見た写真。
配置図のどのあたりから見た写真か、判定してみたください。

道のカーブの付け方がダテではないことが分ります。
入口に近づく最後のあたりに、少し左にふくらんだところがありますが(写真はその手前で撮っています)、このふくらみは、まさにアアルトの「こだわり」の表れである、と私は思っています。
この「ふくらみ」がなかったら、どうなるか。
こう考えることができるのがアアルトの設計の「醍醐味」なのです。
ただ単に、カッコイイ絵を描いているのではない、のです。[文言追加 16日1.45]

次は1階平面図。


そして入って直ぐに広がるギャラリー。


ギャラリーの先に広がるリビング。


リビングの先に広がる広大な斜面の側から建物を見ると


そして最後に、ギャラリーの断面を描いた設計図。
こういう図面は、最近の設計ではお目にかかれません!惚れ惚れします。
天井のふくらみ、高さ、そして床の高さ・・・、その切替、それらの位置、それがなぜその位置なのか、これを考えるのが「楽しい」のです。
そして、やはり、ここでなければならない、と思い至って感激する・・・。凄いな・・・。


次回は、 surroundings を無視した最近の設計事例を例に話を進める予定です。

SURROUNDINGS について・・・・1

2011-11-03 18:54:42 | surroundingsについて
 

「環境」という立派な日本語があるのに、surroundings という英語で表記するのは、「環境」という語が、本来の意味をはずれ「うす汚れて」しまっているからです。
environment という surroundings 同様の意味を持つ英語もありますが、この語も「うす汚れて」しまっている気配があります( environmental design などという「不埒な」使い方さえあります)。
そこで、専門家を含め、多くの人が使わない(多分、学術的ひびき がないからだと思いますが)「きわめて平凡で、字義どおりに意味が分る」 surroundings を使って書くことにします。
   
   註 環  たま、たまき、環形の玉。めぐる、めぐらす、わ。
      境  さかい、領地、領内。特定のところ、場所。特定の状態、またその場合。
            [白川 静 著「字通」]
      環境 めぐりかこむ区域。あるものの周囲にあるもの、また、その行動する場所・状況。
          あるものとの関係・影響をもつと考えられるもの。
           [諸橋 轍次 他著「新漢和辞典」]   

一週間ほど前、毎日新聞のコラムに「有名な」建築家へのインタビュー記事が載っていました。先に私が「理解不能」で挙げた人たちの一人です。
自ら自らを《前衛》と呼んで憚らない当人の発言もさりながら、私はインタビューを担当している記者の方の「感性」に「違和感」を感じ続けていました。 

なぜなら、記者が日常身を置いている「自らの surroundings 」と「建築」とを、別扱いにしているように感じられたからです。
この記者にとっては、「建築(物)と surroundings は別の世界のもの」である、ということです。

そして、この「前衛家」も同じく「建築(物)と surroundings は別の世界のもの」である、と考えているとみてよいでしょう。
だからこそ、「理解不能」な発言が為されるのです(発言の内容は、「理解不能」で載せたコラムのコピーをお読みください)。

   これは、記事を読んでの私の推測です。
   「別扱いにしていない」のであれば、記事は別の内容になるはずです。
   第一、この《前衛家》をインタビューの対象者とすることもないでしょう。

   私は、これまでも書いてきたように、
   建築(物)と surroundings は、別扱いはできない別扱いにするのは間違いだ
   と考えています。
   建築は、否応もなく、できあがると surroundings の一部になるのです。
   と言うより、往時から、人びとは、人にとっての surroundings となるべく建築をつくってきた
   私の理解では、それが建築の歴史です。

しかし「建築(物)と surroundings は別の世界のもの」という「認識・理解」は、この記者や「前衛家」だけではなく、今、大方の方がたの「常識」になっているのかもしれません。だから、事物・事象に対して、本来なら最も鋭敏な神経を持つべき(私はそのように考えています)「記者」という職業の方でさえ、surroundings の存在、その意味について「無神経」になってしまっているのではないでしょうか。

   もっとも、そういう記事を見かけたのが、この題材で書くことにしたきっかけではありますが・・・。

surroundings とは何か。
それについて、これまで、最も明解に日本語で語った のは道元である、と私は考えています。彼は、「近代」をはるかに超えていた、私はそう思います。
その言とは、何度も紹介している次の文言です。

   ・・・・
   うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、
   鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。
   しかあれども、
   うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。
   ただ用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。・・・
   鳥もし空をいづればたちまちに死す。
   魚もし水をいづればたちまちに死す。
   ・・・・
つまり、surroundings とは、うをにとっての水、鳥にとっての空にほかなりません。
「人」も同じです。
私たち「人」は、surroundings の内で生きているのです。
すなわち、「人もし surroundings をいづればたちまちに死す」 ということです。
   これまでの文章では、「空間」「居住空間」などと記してきました。

この「厳然たる事実」を、そこに浸っている、浸っているのが当たりまえである私たちは、それゆえに、気付かない、忘れてしまっている、のではないでしょうか。

慣れてしまうと感じなくなる、それは、怖ろしいことです。神経を逆なでする「建築物」や「街並み」「家並み」・・に日ごろ「囲まれ続けている」と、「逆なでされていること にさえも気付かなく」なります。
とりわけ、暮しも surroundings も都市化した場所で暮していると、それが当たりまえになります。
しかし、人であるかぎり、人びとの意識の内には、知らぬ間に「逆なでの結果」が鬱積するはずです。
その鬱積の塊りは、いったいどうなるのでしょう?

そして、「人もし surroundings をいづればたちまちに死す」という認識があったならば、一旦ことが起きたら取り返しのつかない surroundings となってしまうことを知りながら、「平和」利用で「安全だ」などと誤魔化して、原発をつくるようなこともしなかったはずです。できなかったはずです。

   註 もっとも、道元は、 surroundings について特に言いたかったわけではありません。
      道元は、より広く、「ものごとを表す文言を、字面どおりに理解してはならない」、
      さらに言えば、言葉・文言の「限界」を認識せよ、
      ということを言いたかったのだと思います(後掲記事参照)。
      たとえば、
      拍手とは、右の手と左の手を叩き合わせて音を出すこと、
      そのとき、音を発したのは右手か左手か、というがごとき発問はやめよう、
      と言えばよいかもしれません。
      近代的学問の「方法」には、こういう手合いが多いように思いませんか?

このことを理解するのは、「近代的知」を「摺り込まれてしまった」現代の私たちにとって容易なことでない、のはよく分ります。
しかし、「人もし surroundings をいづればたちまちに死す」というのは、紛れもない事実、真実なのです。
   
   何故この事実を認識できなくなってしまうのか、「 形の謂れ・補遺:form follows function 」 で書きました。


「認知症」という言葉があります。かつては「痴呆」と言っていました。
しかし「認知症」というのは日本語ではない。日本語になっていない。あえて言うならば「認知障碍」と言うべきだと思っています。
たしかに「痴呆」というのは人の心を逆なでします。「認知障」でもそうでしょう。「害」の字がいけないのです。
しかし、「障碍」ならば、人を傷つけないはずです。
   「碍」は「さまたげる」「さえぎる」「じゃまする」という意味。
   電線の「碍子」は、電気が電線から他に流れないようにするための部品。
   当用漢字に「碍」がない、そこで「害」の字が当てられてしまったのです。
   「知的障害」と「知的障碍」では、意味がまったく違います。
   現在も漢字を元通りに使っている台湾では、「残障者」が使われているそうです。

つまり、「認知障碍」とは、それまでの「普通の」「認知ができなくなった」状態。
   何が「普通」なのか、別の問題が生じますが・・・。

「認知障碍」の方たちは、よく「徘徊する」と言われます。
そのイメージは、行方も定かでなく滅茶苦茶にほっつき歩く、というように聞こえます。しかし、そんなことはない。

もう大分前のことですが(確か以前に書いたような気もしますが)、初冬の冷たい雨がそぼ降る夕暮れどき、60代のはじめとおぼしき女性が突然訪ねてきました。当然雨に濡れています。
昔なじみを探している、どこだか分らなくなった、知らないか、というのです。その人に会うために、かつて歩いた(とおぼしき)道を、数キロも歩いてきたのです。
当然、私たちには分りません。電気ストーブを出して暖まってもらいながら、派出所に援けを求めました。
彼女は素足でした。靴下を履いていたのですが、靴下が濡れてしまうのを避けるためか、脱いで、かばんにしまってありました。昔気質なのです。足が凍えても、靴下が大事。衣料品が貴重品だった時代を過ごした方だと思います。
無事に住所を探してもらい、パトカーでおくり届けていただきました。

彼女は、いたずらに、いいかげんに歩いていたのではありません。ほっつき歩いていたのではないのです。
何がきっかけかは分りませんが、「ある情景」を思い出し、その昔通いなれた友だちの家を訪れることを思い立ったのです。
そのきっかけは、もしかしたら、初冬の夕暮れ時のある光景だったのかもしれません。
思いたったら、矢も盾もたまらず訪ねたくなったのではないでしょうか。心は完全に友だちとの世界に居るのです。冷たい雨に濡れながら、必死に歩いてきました。しかし、風景は変っている・・・。そして、たまたま明りの点いている当方を訪ねたのです。誰もそれを徘徊などといって批判することなどできません。

おそらく彼女の脳裏には、つまり目の前には、ある surroundings が見えていたのです。
それは、私たちが夢の中で見る情景・場景・状景・光景と同じです。
私たちの見る夢は、かならず surroundings をともなっているはずです。そしてそれは、「人もし surroundings をいづればたちまちに死す」ということが「事実」であることの紛れもない証でもあるのです。
そうなのです。彼女は、そのとき、「夢」の中にいたに違いありません。私たちの夢だって、変幻自在ではありませんか。あのとき、彼女の世界も変幻自在だったのです、きっと。
私たちがくたびれたとき、私たちの「本性」が表れます。認知障碍の方がたの「徘徊」が、それを顕にしてくれています。
私たちは、人は、生まれたときからずっと、surroundings の「中」にいます。このように、常に surroundings に囲まれているのです。出ることはできないのです。

私たちは、この「事実」を、そしてこの「事実」を認めたがらない、という事実をも、認めるべきではないでしょうか。


冒頭の図は、アルバー・アアルトのカレー邸のスケッチです。
彼が surroundings を設計していることが、このスケッチから分ります。これは、スケッチの一部です。もっと広い範囲の surroundings のスケッチもあります。
そして、このスケッチが図になったのが下の平面図です。



   出典
    THE LINE――ORIGINAL DRAWINGS from THE ALVAR AALTO ARCHIVE
                  MUSEUM of FINISH ARCHITECTURE 1993年 刊

現代建築の旗手とされるコルビュジェ、ミース・ファン・デル・ローエたちも、その初めのころの設計事例は、皆、 surroundings を設計しています。しかも、実に見事に・・・。
それが、いつごろから、どうして、中期・晩期の設計事例のようになったのか、その謂れについては詳しくは知りません。
しかしアアルトは、私の知る限り、 終生、surroundings の設計に徹しています。日本でも前川國男氏、村野藤吾氏、吉村順三氏などはそうではないか、と思います。

そして、これは大変重要なことだと私は思うのですが、
日本の近世までの建物づくりは、すべからく、階級を問わず、この日本という土地柄のなかで、 surroundings を整えることに徹してきた、と見ることができる、という事実です。
私は、それを、建物づくりとはモノをつくることではない、という意味で「心象風景をつくる」という言い方をしてきました。
それをものの見事に実現した、その数々の事例が私たちのまわりには、幸いなことに、まだたくさん在ります。
別の言い方をすれば、それらの事例に、この日本という風土・場所に暮す人たちの「暮しかた」、すなわち surroundings についての「見かた、考えかた」つまり「思想」が示されているはずなのです。
なぜ、それらに、それらに潜む surroundings についての「見かた、考えかた」つまり「思想」に、目を遣ることをしなくなったのでしょうか。
それらを、鑑賞の対象、モノとしてしか見ないなどというのは、私には、大変もったいない、と思えるのです。

これまでも、この点について、いろいろと書いてきましたが、あらためて視点を変えて、具体的に書いてみたいと思っています。
なぜなら、残念ながら、最近の多くの建築は、かつての人びとが、この風土の中で培ってきた「 surroundings についての思想」を忘れた設計になっているのではないか、私は、そのように、特に最近あらためて、痛切に、思っているからです。