閑話・・・・ウツギのはな

2009-05-31 09:49:44 | 居住環境

いま、ウツギの花が咲き始めています。
かすかに好ましい匂いがただよっています。
モンシロチョウが数羽、カメラを向けたら飛び去りました。

10日ほど前からホトトギスの啼く声もきこえています。
「うのはなの におうかきねに ほととぎす はやもきなくて・・」の、
「うのはな」がウツギです。
漢字では「空木」と書くようです。
幹の芯が空洞であることから付けられたとのこと。

このあたりでは、畑の区界にウツギが植えられています。
キャベツ畑や、芽生えだしたばかりの落花生畑の中に、
点々と白いかたまりが見えます。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-39の補足・・・・浄土堂・当初の土塗壁

2009-05-30 10:01:49 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

先に紹介した「浄土寺・浄土堂」の「小舞土塗壁」のうち、建設当初のままであった部分の写真を「修理工事報告書」から転載します。

上は、修理時の土壁の状態。かなり剥落していますが、「小舞」は健在です。
もちろん、壁土が剥落しても、軸組に影響は見られません。

下は、塗り土を取去って「小舞」だけにした状態。
多少がたついてはいますが、縄はちゃんとしています。この「小舞」を掻き直して、新たに壁を塗り直しています。

なお、「小舞」に縄を巻くことを「掻く」と言い慣わしています。
これは、「日本建築辞彙」によると、「鳥が巣をかける(架ける)」というときの「かける」と同じ意味で、「掻く」はその当て字とのことです。
「縄をかける」「からげる」という動作からきているのだと思います。

また「小舞」は「木舞」とも記し、これも「日本建築辞彙」によると、多分「小間木(こまぎ)」の訛った言い方で、やはり当て字ではないか、とあります。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-39・・・・まとめ・4:多雨・多湿・地震・台風とともに(1)

2009-05-30 00:48:23 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[註記追加 8.16][文言変更 8.20]
[図版改訂 文字を大きくしました。 6月3日 11.41]

先回、多雨・多湿の環境ではいわば宿命的な「木の腐朽」に対して、古人がいかに腐心してきたか、触れました。
つくった建物が容易に腐ってしまっては困りますから、当然のことです。

一方古人は、それより前に、そのような多雨・多湿の環境で、そして頻発する地震、毎年襲う台風に付き合いながら暮すには、どのようなつくりの空間がふさわしいのか、当然考えていたはずです。

大分前になりますが、建物の原型は住居であり、住居の基本・原型は「出入口が一つのワンルームの空間」であること、そしてまた、古い住居ほど、開口部の少ない閉鎖的なつくりであることについて書きました(下註参照)。
それは、その閉鎖された空間だけが「家人が安心して居られる場所」だったからでした。

   註 「日本の建築技術の展開-1・・・・建物の原型は住居」
      「分解すれば、ものごとが分るのか・・・・中国西域の住居から」

中世の文人が、「住まいは夏を旨とすべし」と言っていますが、このことは、たとえ気象に変動があったにしても、古代においても、それ以前においても、そしてまた現代においても、日本の置かれた環境では当を得た言であることに変りはない、と私は思っています。

   註 現代人はそのようには考えてはいない、と思うかもしれません。
      しかし、電力消費量が最大になるのが真夏である、というのは、
      現代人もまた「夏を旨」とせざるを得ない証でもあります。
                          [文言変更 8.20]

その点では、閉鎖的な空間は、蒸れてくると、しのぎにくい場所になったと思います(もっとも、常時人が暮していないからかもしれませんが、民家園などで、真夏、茅葺屋根で土壁で覆われた閉鎖的な空間に入ると、最近のつくりの住居に比べれば数等しのぎやすい)。


当初の閉鎖的なつくりの住まいも、自分が安心して居られる場所が建屋以外に広がると、つまり、自領の屋敷のなかに建屋がつくることができるようになると、建屋自体が壁の少ない開放的なつくりに変ってきます。すでに、古代においても、貴族の住まいはそうなっています(下註:「寝殿造」参照)。

   註 「日本の建築技術の展開-2の補足・・・・身舎・廂、上屋・下屋の例」


では、「壁の多いつくり」と「壁の少ないつくり」では、架構のつくりかたに、何か違いがあったのでしょうか。

おそらく、現在の「建築構造理論」や木造建築の「仕様」を見慣れている方の多くは、「壁の少ないつくり」では、外力に対する「耐力要素」が少なくなるのだから、それに見合う対策を講じなければ地震や大風で倒れてしまう、と考えるのではないでしょうか。

しかし、これまで見てきたように、そのような事実はありません。
つまり、「壁の多いつくり」の架構も、「壁の少ないつくり」も、「架構」すなわち「軸組」「小屋組」には何の違いも見られないのです。

言い方を変えると、架構のつくりは同じで、随意・任意に壁が付加されていたのです。壁の量の多少と、架構の強さは直接関係がないのです。
壁が一定量なければ保てない架構、そんな暮すに不便きわまりない架構などは考えなかったのです。
そしてそれこそが、多雨・多湿、地震が頻発し、台風に襲われるという環境のなかで培われたわが国の建物づくりの技術だったのです。

以上は、長くなりましたが、今回、この点にしぼった「まとめ」を書くための「前置き」です。

現在の木造建築の「専門家」は、もうすでに何度も書いてきたように、『架構は「耐力部分(要素)」+「非耐力部分」で構成される』と考えています。
そして今、これも何度も紹介してきたように、「いわゆる伝統的工法」をも、その考え方で解析?すべく実験を繰り返しています。
「耐力部分(要素)」として挙げられる一つが「壁」です。

そこで、今回は先ず、以前にも触れていますが、かの「浄土寺・浄土堂」では、「壁」をどのように扱っているかを具体的に紹介します。
記述に正確を期すために、今回は「修理工事報告書」のなかの解説をそのままそっくり紹介します。それが、上掲の図版下の文章です。
「浄土寺・浄土堂」の平面、断面、立面などは、下註記事にありますので、お手数ですが、開けてみてください。

   註 [追加 8.16]
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-19」
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-20」

「浄土寺・浄土堂」は、東大寺南大門同様、建立以来、800年以上もの間健在です。「浄土寺・浄土堂」は、大修理も行われたことがなく一時期荒れていたこともありましたが、倒壊に至るようなことはありませんでした。もちろん、その間、何度も地震や台風にも遭遇しています。

したがって、この建物が健在であり続けた理由を、「現在の木造建築の専門家の考え方」で解釈・説明するには、その建物に、有効な「耐力要素」がなければならないことになります。
「筋かい」は見当たりませんから、残るは「壁」。
この建物の「壁」は、上掲の解説にもあるように、「横板壁」と「小舞土塗壁」です。
「横板壁」の板厚は、0.16尺:約5cm弱。土塗壁は上掲の仕様で厚さ0.3尺:約9cm。
柱間20尺:約6m、柱径1.8~2.0尺(約54~60cm)、軒高約18尺:約5.4mです。
この建物の主な壁は「横板壁」ですが、この板厚では、現在の法令規定の「落し込み板壁」と見なすわけにはゆきません。ゆえに、現在の考え方で言う「耐力要素」になならない。
「小舞土塗壁」にいたっては、上掲仕様で分るように、軸組の大きさから見て、まったく現行法令規定:つまり現在主流の「構造理論」には適合しません。

ということは、現行法令の規定する「耐力要素」が皆無なのに、「浄土寺・浄土堂」の建物は、800年以上の歳月、無事だったということです。

つまり、別の言い方をすれば、架構:骨組みだけで外力に堪えてきたのです。
これは、「偶然」なのでしょうか?
そうではありません。「必然」なのです。

少なくとも有史以来、現場の技術者の間で継承され、成長してきた技術の一つの表れが、12世紀の末に一つの「結果」を生んだのです。だから「必然」なのです。

私は、こういった実例が現に厳として存在することを、現代の「専門家」は素直に認めるべきだ、と考えます。
この厳然とした事実を直視したとき、
「伝統構法は、現代的な科学技術とは無縁に発展してきたものであるだけに、その耐震性の評価と補強方法はいまだ試行錯誤の状態であり、今後の大きな課題である。・・・」(坂本功「木造建築の耐震設計の現状と課題」「建築士」1999年11月号より)
などいう戯言を言うのは「無恥」というものではないか、と私は思います。
そして、現在行なわれている「実験」は、「恥の上塗り」だ、とも思っています。

それとも、「浄土寺・浄土堂」や「東大寺南大門」、あるいは「西本願寺御影堂」等々は特別なのだ、とでも言うのでしょうか。

そうではなく、それが普通、それで普通なのだ、ということを、次回は農民の住居「古井家」の「壁」で見てみようと思います。

これは、もう長いことやってきましたが、「現在の(木造)構造理論」では「事実」が解釈できない、ということの確認のための重ねての試みです。
「現代的科学技術と無縁だから解釈できない」のだ、などとして見ないで済ますようなことは、私の「趣味」に合わないのです。
まして、『「現在の理論」で解釈できないものは、その存在を認めない』などという乱暴な論理?を認めるような「趣味」も、私は持ち合わせていません。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-38・・・・まとめ・3:湿気と木材

2009-05-28 00:57:57 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言追加 8.20][註記追加 9.49]

多雨の地域にあるわが国は、世界の中でも樹木がよく育つ地域であることは、今さら言うまでもありません。
しかし、その事実を「実感」として持っているかというと、かならずしもそうではありません。あたりまえすぎて気が付かないのです。

それを「実感」するために、先回、西安と日本の降雨量を比較してみました。
データを付け加えると、西安の西500kmの蘭州では、さらに雨が降らず年間降雨量は317.0mm、そこからさらに900km西北に敦煌がありますが、そこはもうタクラマカン砂漠の東端で、たしか年間降雨量は100mm以下だったように記憶しています(30mm程度だったかもしれません)。

   註 日本での距離感をはるかに逸脱した距離です!

西域の砂漠の中に、朽ち果てた木の柱が立ち並んだ遺跡の映像を見たことがあると思いますが、あれは、かつて水が湧き出していた低地(盆地):オアシス中心に栄えた町の遺構。そしてあの木柱は、朽ちているのではなく風化したもの。
オアシスに水がなくなってから、腐朽には縁がない地域となり、町の遺構の木は腐らないのです。その代わり、砂嵐でまさに「風化」したのです。
別な見方をすれば、手近に樹木があるならば、人は、一番扱いやすい木で建物をつくる、ということの証でもあります。

日本でも、降雨量は土地によって違い、多いところでは年間4000mmに近いところがあります(三重県・尾鷲:3922mm)。ちなみに、最近30年間で、年間降雨量1000mm以下の場所は、少ない方から網走:801.9、長野:901.2、帯広:920.4です。長野県でも松本は1018.5です。古代の中心、奈良、京都は降水量のいわば平均的な地域だ、ということができます。

木で建物をつくる場合、どの地域でも最初は「掘立て式」でつくります。
上掲の上段の図版は、「竪穴住居」の想定工程で、番号順に仕事が進みます。多分、世界中どこでも同じようなものだと思います(図は「日本住宅史図集」より)。

しかし、建ってからあとは、地域によって大きく違います。日本では、「掘立て」の柱は、すぐに腐りだすはずです。
上掲中段の左から2番目の写真は、4・5年ほど前に私がつくった生垣の支柱。
直径10cmほどのスギの防腐剤塗布済の丸太。30cmほど地中に埋めてあったのですが、グラグラしてきたので撤去したものです。これはまだいい方で、地面のあたりで折れてしまったものもありました。地中の部分は、腐り切って土と化してなくなっていたのです。
防腐剤は頻繁に塗り直さなければ効き目がない、といういい見本。

   註 防腐剤を塗布しても、その後点検できないのが現在普通の仕事。

その左の写真は、平城宮跡から見付かった「掘立て柱」の根元。これは腐らずに残っています。1000年以上前のもの。縄文期の掘立て柱の柱根も各地で地中から見付かっています。
このことは、「木が腐るとはどういうことか」を如実に物語っています。

木が腐るという現象は、現在では、腐食菌が木の組織を食料にするからである、ということが分っています。そして、腐食菌は、一定の水分と酸素がなければ生きられません。そのため、地中や水中では、酸素が足りず腐食菌は生きられない、それゆえ、地中深くでは、数千年経っても腐らないのです。生垣の支柱も、もっと深く埋められていれば、深いところは腐らなかったでしょう。
かつて、軟弱地盤の土地の基礎工事に松杭が使われたのはそのためです。旧帝国ホテルにも使われていましたが、地下水位が下がり、腐ってしまい、不同沈下の原因になりました。

こういう「科学的な理屈」を知らなくても、いにしえの人びとは、地面すれすれのあたりで木が腐ってしまうことを知っていました。地面に近いところは、湿気が多く、また雨もよくあたりますから、どうしても腐りやすいのです。
このことを、いにしえの人びとは、「理屈」でではなく、「身をもって」知っていました(残念ながら、今の大方の人びとは、「身をもって知る」ことをせず、「理屈」がないと信用しません)。
そして柱脚の腐食を避ける方法として、柱を地面から遠ざけて立てる方法へ移行します。それが「礎石建て」方式です。

   註 建替えるとき、以前の柱脚部は、地中に埋め殺しにします。
      それゆえ、地中に遺構が残っているのです。

けれども、むかしの人びとは、「礎石建て」になって柱脚の腐食の問題は解決した、とは思っていません。
礎石の上に立てても、また礎石まわりの水はけをよくしても、柱脚は腐りやすい場所だと考えていました。

上掲中段の右側2列の写真と図は、法隆寺の建物の礎石ですが、礎石中心にあけた柱のダボ穴に水が溜まるのを避けるため、水抜き溝を彫っています。また、より「水切り」をよくするため、下の礎石では、石を2段に彫って座をつくってあります。いかに柱脚部を水から護るか、腐心したのです。

   註 図にある礎石の形状は、多分、現在の構造設計者の想定外のはず。
      今なら、底面を平らにするでしょう。
      耐力面積だけを考えるからです。
      しかし、この形状は、「現場」で生まれたもの。
      据えるとき、きわめて容易に安定の状態になるからです。
      なぜ据えやすいか、それは、実際にやってみればわかります。

上掲下段の写真と図は、浄土寺・浄土堂の柱に施されている「細工」を示しています。
礎石は単に平らに加工した石ですが、写真のように、柱の底に十文字に溝(幅9~12mm、深さ3~9mm程度)が彫ってあり、通気・換気孔と考えられています。堂内になる部分の柱にも刻まれていますから、柱脚部の湿気を気にしているのです。

地面に埋められた石は常に地温になっています。そこに湿った空気が来れば、気温によっては結露します。夏の朝など、雨が降った形跡もないのに、舗装道路が濡れていることがありますが、それと同じです。
多分、そういう現象が生じるのを知っていて、こういう策を講じたのだと思われます。石の方に溝をつくらず、木の方につくったのは、仕事が容易だからだと思います。
しかし、このような工夫をしても、写真の一番左の柱のように、柱底が腐食することが起きるのです。

また、図のように、柱に取り付く「貫」の孔にも、溝(幅9~12mm、深さ3~9mm、奥行は貫を通す孔では150~180mm、大入孔では大入れの深さ分)が彫られています。これも、通気・換気孔ではないか、と考えられています。
木材は、小口:断面が湿気を吸いやすいので、これは、小口からの湿気の侵入を警戒したのではないでしょうか。

浄土寺・浄土堂は、12世紀末の建物、「礎石建て」が主になってから、1000年以上経っています。と言うことは、人びとは、礎石建てになっても、ずっと、木材に無用な湿気は厳禁、と考えていたことになります。
この考えは、近世になっても変りないのです。
そして、腐りやすい柱脚だけを、修理・取替える方法:「根継ぎ」の手法:まで編み出すのです。そうすれば、柱脚だけ腐った柱を、全取替えせずに済むからです。法隆寺に行くと、回廊だけでも多数の「根継ぎ」をした柱を目にすることができます。

考え方が変ってしまったのは、「科学の発達」した近代以降です。
「布基礎」で木部の位置を高めて、水から遠ざけようとした。たしかに地面から遠くはなったけれども、そのとき、床下が湿気てしまうことに気が付かなかった。
これは、「科学の発達」の結果、人は「ものごとを、身を持って知ること」、そしてまた「全体を知ろうとすることを忘れてしまった」からだ、「部分・要素の足し算で考えるようになってしまった」からだ、と言ってよいでしょう。[文言追加 8.20]

簡単に言えば、「現場」を知っていれば、布基礎のような発想は生まれず、仮に実施しても「問題」が見付かれば考え直すはずなのです。
残念ながら、そういう「常識」さえも失せてしまったのが現代なのです。
だから、姑息に姑息な「解決策」を継ぎ足して、袋小路に入り込んで、今は、さらに孔を掘り進んでいる状況。何処まで行けば気が済むのでしょうね?

   註 [追加 9.49]
      最近「ベタ基礎」が流行っています。
      私の「実感」では、「ベタ基礎+布基礎」の床下では、
      湿気を帯びた空気が滞れば、かならずコンクリートに結露します。
      「断熱材」を敷き込んでも変りありません。
      「断熱材」があろうがなかろうが、
      コンクリートは地温になっているからです。
      防湿コンクリート打設などもまったく同じ。
      湿気が地面から上がってくる、と考えるのが間違い。
      余程の低湿地でないかぎり、そしてまわりから水が来ないかぎり、
      建物の床下の地面は乾くのが普通です。[「の地面」文言追加]
      神社の床下がアリジゴクの棲家になるのは、そのためです。
      だから布基礎は、床下の土の乾燥化を妨げるのに「有効」なのです。
     

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日本の建物づくりを支えてきた技術-37・・・・まとめ・2:日本の建物づくりの「命題」

2009-05-24 18:44:56 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

最近とみに「耐震」が叫ばれています。何か、最近になって急に地震が頻発するようになった、あるいは大地震が起きるようになった、かのようです。
そしてさらに、日本の建物は、地震に弱い、日本の建物(木造が主ですが)は地震に弱かった、だから「耐震補強」がいるのだ、という印象そして「誤解」を世の人びとに与えるような言説さえとびかっています。

しかし、地震に弱いのは、残念ながら、戦後の「建築基準法に従った建物」であって、古来の建物は、全部とは言いませんが、実は戦後のそれに比べれば地震に強いのです。なぜなら、古来の経験・体験が反映しているからです。

前にも紹介したことがありますが、「理科年表」(国立天文台編、丸善刊)に、有史以来、日本で起きたM6以上の地震(死者1名以上又は家屋等全壊1以上の被害のあった地震)が年代表にまとめられて載っています。もちろん、古代~中世については、あくまでも「記録のあるもの」で、その他にも地震はあったはずです。

上に、「理科年表(2006年版)」から「世界地震分布図(M≧4.0、深さ100km以下、1975~1994)と「日本付近の主な被害地震年代表」のうちの1頁と2頁を載せます。
「年代表」には、2005年3月までに起きたM6以上の被害地震414件が載っていますが、1~2頁には、416年から880年までのおよそ470年間の記録、22件が載っています。
当然、当時の「記録」は限られていますから、実際はもっと起きていたと考えられます。
また、「地震分布図」は、1975年~1994年の20年間の記録ですが、日本は、地震の発生源の真っ只中に位置しているのです(まさか、これを見て、地震がこの20年間に急増した、あるいは集中して発生したなどと思う人はいないでしょう)。

   註 図版は、恐縮ですが、拡大してご覧ください。

つまり、この二つの「資料・史料」で分ることは、
古来、この日本で暮す限り、人びとにとって、地震は、いわば日常茶飯事の現象だった、
ということです。

建物をつくる、その原点は「住まいをつくること」にある、というのは今さら言うまでもないことだと思います。そして、「住まいをつくることの基本」は、「自分たちが安心して閉じ篭もることのできる空間を確保する」ことにあります。
だから、原初的な「住まい」は、地域によらず、外界に対してきわめて閉鎖的な空間になります。具体的に言えば、外界との接点は、その空間の出入口だけ、そういう空間をつくることです。
これは、いかなる地域に置いても共通の「住まいの基本の形」で、異なるのは、材料の違いだけ、と言ってよいでしょう。たとえば、乾燥地域では土が主材料で屋根も勾配は不要、多雨の地域では木が主になり急な勾配の屋根になる・・・などの違いです。

   註 「日本の建築技術の展開-1・・・・建物の原型は住居」

そのような「住まい」をつくるとき、地震などに縁のない地域ならば、普通は、重力だけ考えてつくれば済みます。
ところが、日本の場合は、重力だけでは済みません。地震が頻発し、毎年のように「台風」にさらされます。しかも、日本は、多雨地域であり、かつきわめて高温・多湿の地域でもあります。
簡単に言えば、日本では、「多雨多湿」でしかも「地震が頻発」し、「毎年台風が襲来」するなかで「自分たちが安心して閉じ篭もることのできる空間を確保」しなければならないのです。このような地域は、世界の中でもきわめて特殊と言えるかも知れません。

そのような状況のなかで暮す人びとは、当然、それらの状況・事情(最近の言葉で言えば「環境」です)を勘案しながら住まいをつくるはずです。つまり、「多雨多湿や地震の頻発、台風の襲来にどのように立ち向うか」は、日本で暮す場合のいわば「宿命的な課題」だったのです。

けれども、古代、主に寺院建築で使われた中国伝来の技術は、日本とはまったく異なる性格の地域で生まれ育った技術でした。
日本と交流のあった隋や唐は、中国大陸でも「黄土高原」の東端、現在の西安、当時の長安を中心とした国家です。
西安のあたりは、黄土高原では比較的雨の多い地域ではありますが、しかし日本とは比較になりません。
たとえば、西安の年間降水量は、最近30年の平均で555.8mm/年、東京は1466.7mm、奈良1333.3mm、京都1545.4mmです。この傾向は、古代にあっても同様であったと考えてよいでしょう。
それゆえ、彼の地の植生も日本とは大きく異なります。当然、建物に使われる木材の樹種が違います。彼の地では楊樹の類が多いのです。

第一、木材が建物づくりの主材ではありません。黄土高原の東部は、土と木の複合でつくるのが主だと言ってよい地域です(西部の方は土が主です)。そのため、日本に伝来した技術はそのままでは通用しない場面が多々見付かり、徐々に改良が加えられてゆくことはすでに見た通りです(下註)。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-6」
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-7」

つまり、日本では、そのはじめから、建物をつくるにあたって、自国の「独特の環境」に適応する策を考えざるを得なかったはずなのです。
もちろん、当事者たちは、その環境を「独特」と考えていたわけではなく、彼らにとっては「あたりまえ」のことです。
そして、中国の技術が伝来した頃にも、すでに、その環境に適応した何らかの対応策を持っていたと考えてよいでしょう。
その意味では、仏教寺院建築のために導入された中国の技術によって、「自前の技術」は、いわば「まわり道」することを強いられた、と言えるのかも知れません。

すなわち、今の人のように「耐震」などという「大それた」ことは考えてはいませんが、古来、この日本という地域に暮す人びとが建物をつくる場合、多雨多湿のなかでいかに暮すか、とともに、常にその念頭には、地震や台風の問題があったことは間違いありません。

それゆえ、古来、日本で暮す人びとにとっての「建物づくりの技術」の「命題」は、次の三つに要約されるはずです。
 ① 多雨多湿の環境で暮しやすい空間を確保すること。
 ② ①を充たした上で、地震や台風で簡単に壊れないようにすること。
 ③ そして、常時保守点検ができ、壊れた場合でも、補修・修理が行えること。
そしてこの「命題」は、現在においても生きているはずです。

このシリーズで、これまで見てきたように、わが国の建物づくりとその技術を見直してみると、古来人びとが、ついこの間までは、この「命題」に対して真摯に向き合ってきたことが分ります。
ところが、残念ながら、この1世紀足らずの間に、この「命題」が、建築の世界から喪失してしまったのです。
たとえば、現在「耐震」を唱える人の頭には、①も③もまったくないように見えます。現在の「耐震」を見ていると、「人は耐震のために一生暮す」かの錯覚さえ覚えます。

   註 ただ、ここで考えなければならないのは、人が建物をつくるとき、
      はじめから「本格的なつくりの建物」をつくるわけではない、
      ということです。
      「とりあえずのつくりの建物」で済ます場面もあるのです。
      「台風で吹き飛ばされないように」とか、
      「地震で壊れないように」とかは考えず、とにかく当面、
      「多雨多湿の環境で暮せる」ことだけ考える場面もあるのです。
      むしろ、これが普通の様態と言ってよく、その過程を経て、
      本格的なつくりを考えるようになるのだ、と言えるでしょう。
      しかし、そのような「とりあえずの段階」であっても、
      地震や台風の問題は人びとの頭の中では大きな領分を占めています。
      地震や台風で「壊れるかもしれない」ということは念頭にあり、
      しかし「とりあえず」で済まさざるを得ないのです。

      運悪く「とりあえずのつくりの建物」が多い状態のときに
      地震や台風に遭うと、大きな被害が生じてしまいます。
      明治年間に起きた地震による都市の被災にはそれが多く、
      それだけを見て「うろたえた」学者たちが考えたのが
      いわゆる「在来工法」であったことはすでに見たとおりです。
       「『在来工法』はなぜ生まれたか-4」

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日本の建物づくりを支えてきた技術-36・・・・まとめ・1:まとめに入る前に

2009-05-21 11:54:46 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

若い頃、私に「勇気」と「自信」を与えてくれた文章がいくつかありますが、今、あらためてそのいくつかを思い出しています。

なぜ「あらためて」なのか、それには「理由」があるのですが、それについて触れるのは後にして、先ずその文章を紹介させていただきます。
もしかしたら、以前に載せたことがあるかもしれませんが、何度読んでも含蓄のある文なので、気にしないことにします。

・・・・
我々は、ものを見るとき、物理的な意味でそれらを構成していると考えられる要素・部分を等質的に見るのではなく、ある「まとまり」を先ずとらえ、部分はそのあるまとまりの一部としてのみとらえられるとする考え方すなわち Gestalt 理論の考え方に賛同する。・・・・ギョーム「ゲシュタルト心理学」(岩波書店)より

・・・・
かつて、存在するもろもろのものがあり、忠実さがあった。
私の言う忠実さとは、製粉所とか、帝国とか、寺院とか、庭園とかのごとき、存在するものとの結びつきのことである。
その男は偉大である。彼は、庭園に忠実であるから。
しかるに、このただひとつの重要なることがらについて、なにも理解しない人間が現れる。
認識するためには分解すればこと足りるとする誤まった学問の与える幻想にたぶらかされるからである
(なるほど認識することはできよう。だが、統一したものとして把握することはできない。
けだし、書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質、すなわち、おまえへの現存が欠けることになるからだ。
事物をかき混ぜるなら、おまえは詩人を抹殺することになる。
また、庭園が単なる総和でしかなくなるなら、おまえは庭師を抹殺することになるのだ。・・・)・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より

・・・・
それゆえに私は、諸学舎の教師たちを呼び集め、つぎのように語ったのだ。
「思いちがいをしてはならぬ。おまえたちに民の子供たちを委ねたのは、あとで、彼らの知識の総量を量り知るためではない。
彼らの登山の質を楽しむためである。
舁床に運ばれて無数の山頂を知り、かくして無数の風景を観察した生徒など、私にはなんの興味もないのだ。
なぜなら、第一に、彼は、ただひとつの風景も真に知ってはおらず、また無数の風景といっても、世界の広大無辺のうちにあっては、ごみ粒にすぎないからである。
たとえひとつの山にすぎなくても、そのひとつの山に登りおのれの筋骨を鍛え、やがて眼にするべきいっさいの風景を理解する力を備えた生徒、まちがった教えられかたをしたあの無数の風景を、あの別の生徒より、おまえたちのでっちあげたえせ物識りより、よりよく理解する力を備えた生徒、そういう生徒だけが、私には興味があるのだ。」・・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より

・・・・
私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、そしてついに、絶頂の吹きさらしで域をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。
言葉で示すことは把握することではない。・・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より

・・・・
言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。・・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より

このほか、1955年になされたハイデッガーの講演記録、その真っ向から現代の思考・思考法の「性癖」を、見事に解き明かしてくれている論説にも感銘を受け、「勇気」をもらいました。「放下」という標題で出版されています。
半世紀も前になされたその指摘は、現在でも、いや現在だからこそ、私たちが立ち止まって一考すべき指摘である、と私は考えています。
文章の全文を、2007年9月、下記で、私の「感想」付で紹介していますから、ここでは載せません。長いですが、お読みいただければ幸いです。なお、各回のタイトルは、便宜上、私がつけたものです。

   「打算の思考-1・・・・当面やりすごせばよいのか」
   「打算の思考-2・・・・『科学技術』への追従」
   「打算の思考-3・・・・『打算』から脱け出す」


まだありますが、このくらいにして、以下に、今あらためてこれらの文章を思い出し、あえてまた紹介する気になった「理由」を記しましょう。

ご存知の方もあるかと思いますが、5月19日付で、「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」なる団体と「財団法人 日本住宅・木材技術センター」の連名で、次のような件の「募集」が報じられています。

伝統的木造軸組構法実験項目(試験体)案の募集について
       
伝統的木造軸組構法は、その構造性能について十分には解明されていないのが現状であり、 新しい設計法の確立が望まれています。また、建築基準法においては、このような建築物の安全の検証として、 限界耐力計算等の高度な構造計算を要することが多くなっています。
そこで、一般社団法人木を活かす建築推進協議会では、当該建築物が改正建築基準法における円滑な審査に資するよう、国土交通省の補助を受け伝統的木造軸組構法住宅の設計法の開発を進めています。
その設計法の開発にあたり、伝統的構造要素の構造耐力実験を行います。
伝統的構造要素の実験は、事業者の皆様のご要望の構造要素等についても実験を行うこととし、実験項目(試験体)案を募集いたします。 
ついては、下記によりご応募いただきますようお願い申し上げます。

応募対象 : 伝統的木造軸組構法の構造要素(壁、床、軸組、接合部、その他)

この実験を担当するのは、もうお判りでしょうが、先に私が問題点を指摘し批判した2008年12月の「伝統的木造架構住宅の実物大実験」、2009年2月の「伝統的木造住宅を構成する架構の震動台実験」(下註をご参照ください)の実験をした人たちと同じく、現在、国土交通省の建築基準法がらみで、「木造指針」作成をいわば牛耳っている毎度お馴染みのメンバーの一員です。さらに付け加えれば、このメンバーは、同じ大学・大学院の研究室の「同窓生」で、主宰者はその研究室の主であった人。国土交通省側にも多分いるはずです(未調査)。知れば知るほど旧弊のイヤな世界です。

   註 「『伝統的木造架構住宅』の実物大実験について-1~」
      「『利系の研究』・・・・『伝統的木造住宅を構成する架構の震動台実験』」

「伝統的木造軸組構法は、その構造性能について十分には解明されていないのが現状であり・・」と案内文にあります。
この文言は、私に言わせれば、当実験主催者の「理解・認識」不足を示しています。「科学的に」正確に言うならば、「現在主流をなし、建築法令の基礎となっている構造理論では、十分理解されていない」と言うべきなのです。それはあたりまえ、「伝統的木造軸組構法」は、現在主流の理論によるものではないのですから。

この方々は、性懲りもなく、と言いたくなるほど頑迷に、「伝統的木造軸組構法」を自分たちの「理論」に組み込むべく、「建物あるいは架構は構造要素の足し算である」という考え方にのめりこんでいる、としか思えません。それはもう、彼らの思考を止める「呪縛」と言ってよいのでしょう。

実験の募集要項には、「構造要素」の例として、各種の「継手・仕口」や、各種の「壁の仕様」などが挙げられています。

いったい、それらの足し算で建物あるいは架構が出来上がるなどと、どうして考えられるのでしょう?実際に設計したことがあるのですか?不思議です。

それは「建築の要素の辞書づくり」なのだ、と言うのかもしれません。
しかし、言語の辞書、たとえば「国語辞典」「国語辞書」には、かならず「用例」が例示されます。
けれども、今行なわれている前記の「理論」あるいは「実験」では、「用例」が示されたことはありません。仮にあったとしても、きわめて恣意的に「例」が持出されるのが普通です。
「用語の羅列」「要素の羅列」は、無意味です。
「単語・用語」を知っていたからといって、それに何の意味があるのですか?

それにしても、なぜ、資料はいっぱいあるのに、「用例」を数多く示したがらないのでしょう。もしも、いろいろと「用例」を調べれば、「要素」の実験、「要素の足し算」では「本質に迫れない」ことが分る筈なのです。それが嫌なのか、と疑いたくなります。

この人たちのやっていること、やろうとしていることは、まことに、「書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質を見失い、本質を抹殺する」ことなのです。

私の若い頃、まわりはほとんど皆、「要素への分解」でものごとが分る(判る)、という考えの持ち主でした。ものごとは「要素の足し算」だというのです。
今でもはっきり覚えていますが、「本質」という語は禁句でした。「本質などというものはない」とサトサレたものです。
そんなことが、引用したいろいろな著作を読み漁った当時の理由。いずれも、20世紀の「思潮」に危惧を抱いた人たちの著作です。
そして、建築の世界では、状況は、その頃よりも一層悪くなっている、というのが私の実感です。

「まとめ」に入る前に、鬱陶しい話で長くなり恐縮です。
でも、私たち皆が、「王様はハダカだ」「王様の耳はロバの耳」と「臆面もなく言い続ける」には、どうしても「見かたの転換」「このような見かた・考え方」が必要だ、と思うがゆえに紹介させていただきました。     

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?・・・・この花、見たことありますか

2009-05-19 11:56:32 | その他

「日本の建物づくりを支えてきた技術」シリーズ、そろそろ終ります。

要は、「継手・仕口」は何のための、何を目的とした工夫だったのか、
それを知ることでした。
そして、それを基に、
「近・現代の科学者」たちが、なぜそれを無視・黙殺してきたのか、彼らは本当に「継手・仕口」を知ってはいなかった、知ろうとしていなかった、
それでいて、今になって、「いい加減な実物大実験をする」など「伝統」に「興味」を示しはじめた、それでもなお、学び直そうともしていない・・・、
その「いい加減さ」を広く開示することでした。

私は、「今」、私たちは、これからの建物づくりの重要な岐路に立っている、と考えます。
なぜなら、科学者を自称する人たちが、これまで以上に、いい加減な実験、いい加減な理論をもって、「日本の建物づくり」を規制したがっているからです。

今、この人たちは、「木造建築の耐震化」に躍起になっています。
ここで気をつける必要があるのは、もし、この人たちの推奨する「耐震補強策」を実施して、地震で壊れたら、どういう責任を彼らがとるのか、ということです(私は、耐震補強の結果、かえって壊れる建物が続出するのではないか、と危惧しています)。
彼らは絶対に責任をとらないでしょう。責任は、多くの前例が示しているように、彼らの「指針」にしたがって設計・施工した設計者・施工者になすり付けられるはずだからです。しかし、建築士のなかには、彼らの主催する講習会(有料です!)に出て「耐震補強技術者」になることを望む人たちが大勢いるようです。本当に責任をもって「補強」ができると、お考えなのでしょうか?

今こそ、それぞれが、「偉い人」の言いなりにはならず、自ら理詰めに考えることを励行する時期なのだ、と私は思います。
それはすなわち、「王様はハダカだ」、あるいは「王様の耳はロバの耳」・・、と「臆面もなく、言い続ける」ことなのだ、と思います。


さて、上の写真は、アザミのようですが、ラッキョウの花畑!なのです。
このあたりでは、ラッキョウ(の根)を収穫するのではなく、「ラッキョウの種」の栽培?をする農家が最近増えています。
ラッキョウの収穫なら、とっくの昔に掘り出すのですが、そのため花が咲くのを目にすることもないのですが、種を採るには花を咲かせなければならない、その畑と花の詳細の写真です。
ラッキョウは、ユリ科の植物とのことです。

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余録・・・・明治の鉄骨トラス:丸山変電所の補足

2009-05-18 08:00:00 | トラス組:洋小屋

4月27日に写真を紹介した「丸山変電所」の図面を、「修理工事報告書」から編集・転載します。

今回は、国会図書館に、修理工事報告書の図面だけを複写依頼したため、鉄骨の詳細寸法等は分りません。
いずれ報告書の「技法調査」部分を複写依頼するつもりでいます。

とりあえず、「丸山変電所」の「蓄電池室」の梁行断面図・桁行断面図(一部)を紹介します。いずれも、修理前の実測図です。
寸法表示をみると、尺・寸で設計してあるようです。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-35の補足・・・・「寄せ蟻」:「日本建築辞彙」の解説

2009-05-16 19:24:19 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

はじめに調べておけばよかったのですが、「寄せ蟻」について、「日本建築辞彙」には、次のような解説が図とともに載っていましたので紹介します。

よせあり:寄蟻
釣束ニテ格縁(コウブチ)又ハ鴨居等ヲ釣ラシムル場合ニ用フル仕口ニシテ之ヲ「送蟻(オクリアリ)」トモ称ス。
先ヅ釣束(ツリヅカ)下ニ図ノ如ク蟻枘(アリホゾ)ヲ設ケ次ニ釣ラルル木ノ上端ニ蟻穴及び迯穴(ニゲアナ)を彫リテ蟻枘ヲ迯穴ニ差込ミタル上いざらして蟻穴ニ差入ルルナリ「にげあな」ヲ見ヨ。

にげあな:迯穴
「すあな」トモイフ。釣束ニテ格縁(コウブチ)又ハ鴨居等ヲ釣ル場合ニ釣束下ニ蟻枘ヲ設ケ次ニ釣ラント欲スル木ノ上端ニ二様ノ穴ヲ連ネテ彫るナリ。一ハ図ノ「ニ」ノ如ク蟻枘ノ幅ニ等フニシテ矩形ニナシ他ハ「ア」ノ如ク上ヲ狭メテ彫ルナリ。仍テ枘ヲ先ヅ「ニ」ニ差込ミタル上之ヲいざらして「ア」ニ差込ムナリ。其「ニ」ハ即チ迯穴ニシテ「ア」ハ蟻穴ナリ。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-35・・・・継手・仕口(19):「送り蟻」

2009-05-16 03:55:30 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

今井町の「高木家」のおよそ180年前に建てられた「豊田家」が、「高木家」同様、「差鴨居」を主軸に据えた架構であることは大分前に紹介しました(「日本の建築技術の展開-28」)。
「豊田家」は、「土台」を使わず「貫」も「高木家」に比べるときわめて少しです。
間仕切の交点を「通し柱」にして、「通し柱~通し柱」を「差鴨居」で結ぶ手法は「高木家」と同じですが、「高木家」がすべての柱を4寸2分(12.7cm)角で統一しているのに対して、「豊田家」では「大黒柱」を使い、他の柱も5寸角内外で少し太めです。このあたりは、上掲の軸組架構図を「高木家」の架構図と比べるとよく分ります(「日本の建物づくりを支えてきた技術-32」参照)。

「豊田家」も「差鴨居」がいわば主役ですが、「柱と差鴨居」の「仕口」は「高木家」のそれとは大きく違い、「豊田家」では、上掲の図のように、「シャチ栓」は使ってはいますが「竿シャチ継ぎ」ではありません。

ここでは先ず、図のような、取付け用の「部材」を柱に差して据え、次いで「差鴨居」を柱に差し、先の「部材」の「シャチ」道に「シャチ栓」を打ち込み固定する、という方法です。
この部材を「雇い枘」と呼ぶようです。「枘」を別材で誂えた、という意味でしょうが、「雇い竿」の片側だけを「蟻」で柱に取付けよう、という考え方ですから、「半雇い竿」とでも言った方が分りやすいかもしれません。
このような「仕口」を、「文化財建造物伝統技法集成」では「送り蟻」(「雇い枘」)と表記しています。

「鴨居」を梁などから吊るとき、「寄せ蟻」という方法が使われます。
「吊り木」の下端を「蟻型」に加工し、「鴨居」の方には「蟻型」の頭の幅の箇所に続いて「蟻型」を刻んでおき、吊り木下端を一旦広いところに入れ、横に滑らせ「蟻型」を噛み合わせる、という方法です。手が込んでいますが、きわめて確実な技法です。
この「寄せ蟻」の手法を垂直方向で使い、それに「シャチ栓」を打ったのが「送り蟻:雇い枘」と言えばよいでしょう。

上掲の図の最下段、仕口分解図は、下から見上げた図です。錯覚を起こすかもしれませんが、こうしないと、「送り蟻」:「寄せ蟻」にする部分が見えないのです。恐縮ですが、視角を矯正しながら見てください。
なお、南側に入る「差鴨居」は省略しています。

柱と柱の間の横材に荷がかかれば、横材は下に湾曲しようとします。そのとき、横材の上面側は、柱から離れようとします。ですから、この技法は理屈としては適っています。
もっとも、今の「計算が得意の構造屋さん」は、「蟻」で耐えられるか?という疑いの目で見るでしょう。そして、実際に引張ってみないと気がすまないかも、納得しないかもしれません。しかし、こういう事例は寺社建築でもあたりまえだったようです。ということは、「歴史という実験室」で、すでに確認されている手法・技法なのです。

この部分を詳しく知ろうとしたのですが、取り寄せた「豊田家住宅修理工事報告書」には、「高木家」のそれのようには詳しい図面が載っていません。

また、部材寸法についても、
たとえば、
柱に付いては「当初材の材種は、大黒柱二本は欅材、その他は殆ど檜材を用い二階柱二本は栂材であった。・・・南の大黒柱は断面が一番大きく33.7cm角の面取りに仕上げられ、面内(めんうち)32.2cmであった。北柱(註 「ほ・十二」柱)も次いで断面が大きく28.9cmあり、・・・その他の通し柱は平均15cm(5寸)内外のものが多く、正方形ではなく一辺が長くなっているものが多かった。・・柱の断面平均寸法を14.5cm(4寸8分)と推定し、畳寸法を1.91m×0.955m(6.3尺×3.15尺)とすると・・・柱間寸法は二間であれば・・柱眞々の寸法は13.08尺、一間半では・・9.93尺(となり)・・・この建物は畳を基準とし平面を定めているものとしか思われない。・・」、

「差鴨居」については、「差鴨居の丈は『東なかのま』廻りが最も大きく、大体42.8cm(1.41尺)あり、その他の部屋は27.8cm(9寸2分)程度のものが多く・・・」
と触れてある程度です。

それゆえ、上掲の図は、これらを基に、この仕口の「原理:理屈」を示すために、各部の寸法を推定の上描いたもので、実際の寸法ではありません。

「高木家」の「仕口」は、「差鴨居」の端部を「竿」に刻んで柱を貫き通す方法:「本竿シャチ継ぎ」です。「豊田家」の時代に、この方法がなかったわけではありません。「雇い」の方法も、その時代にはあります。
つまり、「豊田家」でも、「本竿」にすることも、「雇い竿」にすることも可能だった筈です。
では、なぜ「送り蟻」にしたのでしょうか?

これから先は、まったくの私の推測、憶測です。
「本竿のシャチ継ぎ」にするには、大黒柱では、最大で竿の長さが軽く2尺を超えてしまい、長すぎて工事中の維持が難しい。また精度も要求される。
「雇い竿のシャチ継ぎ」とするには、柱の両側について精度が要求される。しかし、そういう精度を得るのは難しい。それは、報告書にあるように、柱の材寸が、それこそ一本ずつ異なることからも分ると思います。

片側だけの「送り蟻」ならば、それなりの精度は確保できる、少なくとも「本竿」「雇い竿」で要求される精度を得る苦労よりも半分の苦労で済む。
おそらく、こういう判断がなされたのではないでしょうか(もちろん、「蟻」で取付くことに何ら問題がないことは経験で知っていたのでしょう)。

つまり、「高木家」の時代に比べ、刻みの精度がよくなかった、いわば、「現場合わせ」:現場で垂直・水平を確保する仕事だった、のだろうと思います。そしてそれが、「豊田家」では、調査・修理担当者が、仕口の詳細な採寸を報告書で報告しなかった理由なのではないでしょうか。

「高木家」建設の頃は、いわばきわめて「近代的」なプレカットができるような時代だったのかもしれません。

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工事中です!

2009-05-13 09:30:31 | その他

アザミが咲きだしました。
中に混じる青紫色の花は、ツユクサ(ムラサキツユクサ)です。

「豊田家」の「仕口」図を作成中です。
非常によく考えた「仕口」なのですが、分解図にするのが難しく、
どうしたら分りやすい図になるか、考えています。
もうしばらく時間を・・・・。

ところで、この数日、「小坂鉱山と足尾銅山」について書いた
大分前の記事に寄られる方が多数おられます。閲覧数の約1割。

   註 『「公害」・・・・足尾鉱山と小坂鉱山』参照

何故なのか、訝っています。
コメント (2)
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余録・・・・「建て方」考

2009-05-09 10:22:23 | 建物づくり一般

梅雨時のような雨がやみ、庭先のアヤメがかがやいています。


ここ数回、二十数年前に設計した建物の「建て方」の一連の写真を載せました。行方不明の写真もありますが、何とか順番どおりにはなっていると思います。

建物の規模は、1階:約150㎡、2階:約80㎡、延べ約230㎡。
「上棟」までに(「垂木」や「根太」を掛けることのできる状態になるまでに)、正味5~6日かかったと思います。

こんなに日数がかかる?と思われる方がおられるのではないかと思います。
しかし、無駄に時間を費やしているわけではありません。
今普通に行なわれている仕事と違って、写真で分るかと思いますが、主要な開口部の「縦枠」「鴨居」「窓台」などは上棟時点に組み上がっていて、後は「方立」や「敷居」などの仕事が残るだけだからです。こういう方法を「建て込み」と言います。この方法は、かつて、町家や農家ではあたりまえでした(寺院建築でも「大仏様」はこの方法です)。
けれども、武家の住まいや、その流れをくむ明治以来の都市の住居、さらにその流れの上で変質した「今の一般に見られる仕事」では、これらは、「造作仕事」として、上棟後の仕事になるのが普通です。

   註 「造作仕事」というと聞こえはよいのですが、本当のところは、
      「おっつけ」仕事がほとんどです!

もちろん、この仕事では、上棟後に、屋根や床下地、壁下地などの仕事もする必要はありますが、これは「今の一般に見られる仕事」でも同じこと。

   註 「今の一般に見られる仕事」は、大概、一日で上棟になります。
      どうしてそうなるかは、言うまでもないでしょう。
      金物を「信仰」して、「継手・仕口」に神経を払わないからです。
      単に工期が短いのは、「合理化」ではなく「合利化」です。


建て方の日数は、「架構の設計」と「敷地の状況」に左右されます。
と言うより、あらかじめ「敷地の状況」を念頭に「架構の設計」をする必要があります。
簡単に言えば、刻んだ材料を何処に仮置きし、どこから組み出すか、を考えた「架構の設計」をする、ということです。いわゆる「番付」も、このことを考えて振ればよいことになります。
とは言うものの、はっきりとそう気がついたのは、この設計の後になってからのこと。たまたま棟梁の考えと一致していたからよかったけれども、それはまったくの偶然。
また、もう少し「手順」を考えてあったならば、あと1日ぐらいは短縮できたかもしれない、と思っています。
この「手順」を、十分とは言えないまでも念頭に入れて設計したのが、以前に紹介した「棟持柱形式」の建物です(「棟持柱の試み・・・・To邸の設計」)。

今ならば、たとえば、「追掛け大栓継ぎ」は使わないなど、さらにもう少し「りこう」になっているかもしれません。
その一例として紹介したのが、「現行法令の下での一体化工法の試み・・・・1~4」
です。端から順に立ててゆけばいい、という考え方で、通し柱を多用して「追掛け大栓継ぎ」も使わずにまとめてみた計画案です。

なお、工事中、「仮筋かい」が少ないのが、写真でお分かりいただけると思います。最初の段階と、あと数回、本当に仮の支えのために使っているだけで、その箇所が組立て終わると、「仮筋かい」をはずしても、架構だけで自立するからです。

また、刻みがしっかりしていて、基礎も正確につくられていれば(つまり、仕事の精度がよければ)、架構の水平、垂直は自ずと確保され、いわゆる「間起こし」などの作業はほとんど不要です。
これが「差物」を多用する「一体化工法」の特徴で、上棟後、架構の上を歩いても、ゆっさゆっさ揺れる、などということはありません。
「今の一般に見られる仕事」では、「仮筋かい」なしではぐらぐら揺れるのが普通です(ときには、本「筋かい」が入っていても・・・!)。

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余録・・・・「建て方」工程写真-4(写真だけで解説:今回で終り)

2009-05-08 09:25:42 | 建物づくり一般

この後、「垂木」掛け、「野地板」張り、「瓦葺き」「煉瓦積」などの工程に入りますが、省略します。

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余録・・・・「建て方」工程写真-3(写真だけで解説:図版改訂・説明追加)

2009-05-07 11:22:45 | 建物づくり一般

建て方中の天候は以下の通りでした。
14、15日小雨~小雪。19日雨のち雪。23日雪。

図④に挿入した文字:改訂しても文字がボケてしまうので追記します!

 四方差の柱の彫り
 計算だけ得意の構造屋さんには見せられない
 柱が折れてしまうと心配する

図⑤に挿入した文字:ボケて読めないので追記します

 二階窓台:腰差物の取付け

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余録・・・・「建て方」工程写真-2(写真だけで解説:図版更新)

2009-05-05 17:29:19 | 建物づくり一般

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