若い頃、私に「勇気」と「自信」を与えてくれた文章がいくつかありますが、今、あらためてそのいくつかを思い出しています。
なぜ「あらためて」なのか、それには「理由」があるのですが、それについて触れるのは後にして、先ずその文章を紹介させていただきます。
もしかしたら、以前に載せたことがあるかもしれませんが、何度読んでも含蓄のある文なので、気にしないことにします。
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我々は、ものを見るとき、物理的な意味でそれらを構成していると考えられる要素・部分を等質的に見るのではなく、ある「まとまり」を先ずとらえ、部分はそのあるまとまりの一部としてのみとらえられるとする考え方すなわち Gestalt 理論の考え方に賛同する。・・・・ギョーム「ゲシュタルト心理学」(岩波書店)より
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かつて、存在するもろもろのものがあり、忠実さがあった。
私の言う忠実さとは、製粉所とか、帝国とか、寺院とか、庭園とかのごとき、存在するものとの結びつきのことである。
その男は偉大である。彼は、庭園に忠実であるから。
しかるに、このただひとつの重要なることがらについて、なにも理解しない人間が現れる。
認識するためには分解すればこと足りるとする誤まった学問の与える幻想にたぶらかされるからである
(なるほど認識することはできよう。だが、統一したものとして把握することはできない。
けだし、書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質、すなわち、おまえへの現存が欠けることになるからだ。
事物をかき混ぜるなら、おまえは詩人を抹殺することになる。
また、庭園が単なる総和でしかなくなるなら、おまえは庭師を抹殺することになるのだ。・・・)・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より
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それゆえに私は、諸学舎の教師たちを呼び集め、つぎのように語ったのだ。
「思いちがいをしてはならぬ。おまえたちに民の子供たちを委ねたのは、あとで、彼らの知識の総量を量り知るためではない。
彼らの登山の質を楽しむためである。
舁床に運ばれて無数の山頂を知り、かくして無数の風景を観察した生徒など、私にはなんの興味もないのだ。
なぜなら、第一に、彼は、ただひとつの風景も真に知ってはおらず、また無数の風景といっても、世界の広大無辺のうちにあっては、ごみ粒にすぎないからである。
たとえひとつの山にすぎなくても、そのひとつの山に登りおのれの筋骨を鍛え、やがて眼にするべきいっさいの風景を理解する力を備えた生徒、まちがった教えられかたをしたあの無数の風景を、あの別の生徒より、おまえたちのでっちあげたえせ物識りより、よりよく理解する力を備えた生徒、そういう生徒だけが、私には興味があるのだ。」・・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より
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私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、そしてついに、絶頂の吹きさらしで域をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。
言葉で示すことは把握することではない。・・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より
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言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。・・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より
このほか、1955年になされたハイデッガーの講演記録、その真っ向から現代の思考・思考法の「性癖」を、見事に解き明かしてくれている論説にも感銘を受け、「勇気」をもらいました。「放下」という標題で出版されています。
半世紀も前になされたその指摘は、現在でも、いや現在だからこそ、私たちが立ち止まって一考すべき指摘である、と私は考えています。
文章の全文を、2007年9月、下記で、私の「感想」付で紹介していますから、ここでは載せません。長いですが、お読みいただければ幸いです。なお、各回のタイトルは、便宜上、私がつけたものです。
「打算の思考-1・・・・当面やりすごせばよいのか」
「打算の思考-2・・・・『科学技術』への追従」
「打算の思考-3・・・・『打算』から脱け出す」
まだありますが、このくらいにして、以下に、今あらためてこれらの文章を思い出し、あえてまた紹介する気になった「理由」を記しましょう。
ご存知の方もあるかと思いますが、5月19日付で、「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」なる団体と「財団法人 日本住宅・木材技術センター」の連名で、次のような件の「募集」が報じられています。
伝統的木造軸組構法実験項目(試験体)案の募集について
伝統的木造軸組構法は、その構造性能について十分には解明されていないのが現状であり、 新しい設計法の確立が望まれています。また、建築基準法においては、このような建築物の安全の検証として、 限界耐力計算等の高度な構造計算を要することが多くなっています。
そこで、一般社団法人木を活かす建築推進協議会では、当該建築物が改正建築基準法における円滑な審査に資するよう、国土交通省の補助を受け伝統的木造軸組構法住宅の設計法の開発を進めています。
その設計法の開発にあたり、伝統的構造要素の構造耐力実験を行います。
伝統的構造要素の実験は、事業者の皆様のご要望の構造要素等についても実験を行うこととし、実験項目(試験体)案を募集いたします。
ついては、下記によりご応募いただきますようお願い申し上げます。
応募対象 : 伝統的木造軸組構法の構造要素(壁、床、軸組、接合部、その他)
この実験を担当するのは、もうお判りでしょうが、先に私が問題点を指摘し批判した2008年12月の「伝統的木造架構住宅の実物大実験」、2009年2月の「伝統的木造住宅を構成する架構の震動台実験」(下註をご参照ください)の実験をした人たちと同じく、現在、国土交通省の建築基準法がらみで、「木造指針」作成をいわば牛耳っている毎度お馴染みのメンバーの一員です。さらに付け加えれば、このメンバーは、同じ大学・大学院の研究室の「同窓生」で、主宰者はその研究室の主であった人。国土交通省側にも多分いるはずです(未調査)。知れば知るほど旧弊のイヤな世界です。
註
「『伝統的木造架構住宅』の実物大実験について-1~」
「『利系の研究』・・・・『伝統的木造住宅を構成する架構の震動台実験』」
「伝統的木造軸組構法は、その構造性能について十分には解明されていないのが現状であり・・」と案内文にあります。
この文言は、私に言わせれば、当実験主催者の「理解・認識」不足を示しています。「科学的に」正確に言うならば、「現在主流をなし、建築法令の基礎となっている構造理論では、十分理解されていない」と言うべきなのです。それはあたりまえ、「伝統的木造軸組構法」は、現在主流の理論によるものではないのですから。
この方々は、性懲りもなく、と言いたくなるほど頑迷に、「伝統的木造軸組構法」を自分たちの「理論」に組み込むべく、「建物あるいは架構は構造要素の足し算である」という考え方にのめりこんでいる、としか思えません。それはもう、彼らの思考を止める「呪縛」と言ってよいのでしょう。
実験の募集要項には、「構造要素」の例として、各種の「継手・仕口」や、各種の「壁の仕様」などが挙げられています。
いったい、それらの足し算で建物あるいは架構が出来上がるなどと、どうして考えられるのでしょう?実際に設計したことがあるのですか?不思議です。
それは「建築の要素の辞書づくり」なのだ、と言うのかもしれません。
しかし、言語の辞書、たとえば「国語辞典」「国語辞書」には、かならず「用例」が例示されます。
けれども、今行なわれている前記の「理論」あるいは「実験」では、「用例」が示されたことはありません。仮にあったとしても、きわめて恣意的に「例」が持出されるのが普通です。
「用語の羅列」「要素の羅列」は、無意味です。
「単語・用語」を知っていたからといって、それに何の意味があるのですか?
それにしても、なぜ、資料はいっぱいあるのに、「用例」を数多く示したがらないのでしょう。もしも、いろいろと「用例」を調べれば、「要素」の実験、「要素の足し算」では「本質に迫れない」ことが分る筈なのです。それが嫌なのか、と疑いたくなります。
この人たちのやっていること、やろうとしていることは、まことに、「書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質を見失い、本質を抹殺する」ことなのです。
私の若い頃、まわりはほとんど皆、「要素への分解」でものごとが分る(判る)、という考えの持ち主でした。ものごとは「要素の足し算」だというのです。
今でもはっきり覚えていますが、「本質」という語は禁句でした。「本質などというものはない」とサトサレたものです。
そんなことが、引用したいろいろな著作を読み漁った当時の理由。いずれも、20世紀の「思潮」に危惧を抱いた人たちの著作です。
そして、建築の世界では、状況は、その頃よりも一層悪くなっている、というのが私の実感です。
「まとめ」に入る前に、鬱陶しい話で長くなり恐縮です。
でも、私たち皆が、「王様はハダカだ」「王様の耳はロバの耳」と「臆面もなく言い続ける」には、どうしても「見かたの転換」「このような見かた・考え方」が必要だ、と思うがゆえに紹介させていただきました。