建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

日本の建物づくりを支えてきた技術-13・・・・東大寺・鎌倉再建:新たな展開

2008-10-30 12:48:40 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[解説追加:11月1日 9.43][訂正:11月3日 11.04]

「日本の・・・技術-12」で、平家の焼き討ちによって消失した「東大寺・大仏殿(金堂)」の当初の平面について紹介しました。その外見は、記録によれば、高さ45mほどの巨大建築だったようです。今見る姿でもその大きさには驚きますが、当初は正面の幅が、もっとあったことが分っています。
この「当初大仏殿」は、いわば「唐招提寺・金堂」を拡大コピーした建て方・つくりかたであったとされています。
しかし、この当初の大仏殿は、軒先が下がり「副柱」による支えが必要だったとは言え、兵火に焼かれるまでの約430年というもの、倒壊もせずに建っていました。その間、幾度も大地震に襲われていることは、先回の「日本の・・・技術-12・余録」で紹介した通りです。

鎌倉初期に、重源の指図の下で、当初の規模を踏襲して「大仏殿」は再建されますが、この建物も1567年(永禄10年)ふたたび兵火により消失してしまい、その姿もまた分らなくなってしまいました。「再建・南大門」は幸い兵火を免れました。

その「鎌倉再建大仏殿」を、建築史家の大岡実氏が、「再建・南大門」の「建て方」を拠りどころに復元したのが上掲の図面です。
なお、「南大門」はその後、再建以来800年以上、ほとんど建設当初の部材のまま、現在もなお健在です。

奈良時代の「建て方」と重源の採った「建て方」の違いを見るために、上掲最下段に「唐招提寺・金堂」の断面図と、その軒先の組物:「三手先(みてさき)」の図を載せました。なお、この図はすでに一度掲載しています。

大きな相違点は、
「唐招提寺」をはじめ古代創建の寺院では、柱頭を「頭貫(かしらぬき)」でつなぎ、その上に据えられた「斗」「肘木」で「軒」を支え、「上屋:身舎」の外側柱を、その中途と「下屋」外周の柱頭を繋ぐ「梁:繋梁」で支え、「下屋」の外側柱に数段の「長押」をまわして固める、という方法を採っています。

これに対して、
「再建東大寺」では、柱に挿し込まれた数段の「肘木」(挿し込まれていることから「挿肘木:さしひじき」と呼ばれます)で「軒」を支え、内部では、柱相互を梁行、桁行各方向とも、数段の「貫」で貫いて固めています。また、一部の「貫」は、そのまま外部へ延長され「挿肘木」となっています。
上掲の図の2段目に、梁行断面図を拡大して部材に色分けをしてあります。

数段の「挿肘木」は、軒先へ向けてのみ、つまり、外壁面に直交して壁のように突き出していて、外壁面に平行の方向:桁行方向の「肘木」は僅かにあるだけです。
その代り、壁のように突き出した「挿肘木」相互を、直交して、数段の「角材」が繋いでいます。図の赤色の丸で囲んだ部分です。この材は、いわば宙を、空間を飛んでいます。こういう材料の使い方は、それまでなかったことです。
これは、桁行方向の「肘木」が延長されたものと見なすことができ、その意味から「通肘木(とおしひじき)」と呼ばれています。
これについては、すでに下註の記事内で南大門の写真で説明してあります。

   註 「日本の建築技術の展開-9・・・・何が変ったか」

この東大寺再建で採られた方法の大きな特徴は、軸組を柱頭部の横材:梁・桁で繋ぐだけではなく、柱頭までの適宜の位置で、数段のレベルに「貫」を通して相互を固める点にあります(「貫」は柱幅の1/4程度の幅の角材で、高さは幅の2倍程度あります[訂正:「1/3~」削除 11月3日 11.04])。
柱に「貫」の断面よりも大きめの孔を穿ち抜き、「貫」の角材を通し、孔の隙間に三角形の「楔(くさび)」を打ち込みます。「楔締め」とも言いますが、木材には弾力・復元力があるので、「柱」と「貫」は固く結ばれます。
こうすると、最近では見かけることが少なくなりましたが、木製の梯子(はしご):2本の細い材の間に登り桟をはめ込んでつくる:のように、部材は細くても頑強な形になります。
言ってみれば、鎌倉再建の東大寺のつくりかたの原理:最小単位のつくりかたは、柱4本と横材4本とで直方体の稜線をつくり、その垂直の各面:4面:を梯子状にすることで強い直方体をつくる方法、と考えることができます。
この方法では、柱間:各面に壁がなくても、丈夫な架構になるのです。これが通称「貫工法」と言われる工法の原理に他なりません。

この方法を考えたのは、重源を支えた宋の福建から来た工人によると言われています。たしかに、以前紹介したように、中国福建省の住居では「貫」を多用する工法が使われています。

   註 「余談・中国の建築と『貫』」

しかし、「柱相互を数段の横材で繋ぐと架構が丈夫になる」ということは、木材の軸組工法で建物をつくる地域であれば、誰でも自ずと気が付いておかしくありません。
なぜなら、柱と柱の間に横材を設ける必要は必ず生じるはずで、そのとき誰もが行なうのは、柱の横腹に孔をあけ横材を挿し込む方法と考えてよいでしょう。
ところが、道具が十分ではないとき、横材の寸法どおりの孔を穿つことは至難の業。多分、大きめの孔をあけ、できた隙間を他の材で埋めたと思われます(「埋木(うめぎ)」)。日曜大工でもよくやる手です。埋木は、隙間より大きめの材を、いわば強引に隙間に打ち込みます。
ところが、やっているうちに、それが意外に強いことを発見します。それを使うようになります。現場の知恵です(木材は弾力・復元力があるからそれを利用するのだ、だから・・・などと考えて案出したものではありません)。
これが「楔」の利用の始まりなのではないでしょうか。

つまり、外国から輸入されなくても、どこでも誰でも気が付いていた「知恵」であって、ことによると、その昔から一般では使われていたのではないか、と私は思います。

   註 佐賀県の弥生時代の「吉野ヶ里(よしのがり)遺跡」での
      推定復元建造物で「貫」を用いているのも、同様の考え方、
      弥生人でも「貫」を使っておかしくない、という考えに
      拠ったのではないでしょうか。

では、なぜ寺院建築では「貫」の導入が遅れたのでしょうか。
多分、「形式」「様式」が「邪魔」をしていたのだ、と思います。
ところが、平安時代も末、世の中に価値観の変貌と言ってもよい変化が起き始めていました。「形式」「様式」から逸脱しても、より「合理的」な方法を採ろう、そう考えたのではないでしょうか。

   註 実際、再建東大寺方式:「貫」工法は、旧弊に従う工人たちからは
      批判・批難を浴びたようです。

そしてまた、平安末:鎌倉初め、良質の木材も枯渇していました。
先に紹介した年表の文治2年(1186年)の項に、「採材のために周防(すおう:現在の山口県東部地域)の杣(そま)に入る」とあります。遠く山口県に木材を求めたのです。すでに奈良近在では木材が得られない時代だったのです(とりわけ、大仏殿などの巨大建築用材はなかった)。それでさえ、古代のような木理の通った木材は少なく、だから、南大門に使われている当初材は、一見して決して素性がよくないことが分ります。[解説追加:11月1日 9.43]

このような木材で架構をつくるにも、「貫」の使用はきわめて有効だったと考えられます。なぜなら、「素性がよくない」=「狂いや捩れが起きやすい」。部材相互を「貫」で固めると、それら部材の多様なクセの発現を、いわば「封じ込める」ことができたからです。


ところで、軒が下がりながらも400年以上建っていた当初の大仏殿はもとより、建造から800年以上経つ鎌倉再建の南大門も、現在の建築基準法:建築法令では《違反建築》に該当します。もちろん、耐震性についても、耐震補強が求められます。礎石の上に置かれているだけでアンカーボルトはないし、もちろん「筋かい」などはありません。おまけに、屋根はべらぼうに大きく、しかも重い瓦屋根・・・・。
ところが、当初大仏殿も、再建南大門も、幾度となく地震に遭いながらも、400年、800年も健在なのです。
これをどう理解・解釈したらよいのでしょうか、そこに学ぶことは何もないのでしょうか。
現在の建築法令を理論的に支えている現在の「構造の専門家」に、是非見解をうかがいたいものです。

次回

日本の建物づくりを支えてきた技術-12・余録・・・・「記録」というもの

2008-10-27 18:16:30 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言追加 10月29日 0.42]

先回、「理科年表」から、東大寺の建物にも影響があったと考えられる奈良近在で起きた地震を、とりあえず東大寺鎌倉再建以前の1185年までについてリストアップしてみました。
1185年の近江・山城・大和のM7.4の地震は、「理科年表」では歴史上で37番目の地震として記載されています。そして、先回リストアップしたのは17件。
ということは、416年から1185年までの約770年に起きた地震の46%が京都・大和近在で起きていることになります。
だからといって、他の地域に比べ京都・奈良近在は地震が多いところなんだ、と思うとそれはもちろん間違い。

「理科年表」に載っているのは、「何らかの記録が残っている地震」。何らかの記録で確実とされるのは、何らかの形で文書に載っているもの。そうでないものは、記録はもとより記憶からも忘れ去られてしまっているのです。

では、「何らかの文書」というのは、どうした場合につくられるのでしょうか。
一番多いのは、時の政権の近辺でつくられるもの。つまり、時の政権の力の及ぶ場所では、何らかの記録が文書としても残る可能性が高いのです。

上記の37件の地震の起きた時期は、主として、奈良から平安時代にかけての期間です。つまり、時の政権が、奈良・京都地域にあった時期。それゆえに、京都近在の地震の記録が多いのです。

その他の地域の地震で、「理科年表」に載っているのは、紀伊・熊野方面と東山道沿線の地域、たとえば岐阜や長野の地震。そこは、時の政権の力が及んでいる地域。それに反し、征夷大将軍の派遣される東国の記録などは先ず存在しないのです。覇権が及んでいなかったからです。もちろん東国ではその間地震がなかったわけではありません。

「理科年表」では、鎌倉時代以後、政権の主たる所在地が関東に移ると、急に東国の地震が増えてきます。正確に言うと、「東国の地震の記録」が増えてきます。


「歴史」と「記録」「文書」。
日本や中国と西欧の「歴史学」は、根本的に違う、という話をきいたことがあります。
日本や中国には、「記録」が「紙」に残される場合:つまり「紙の文書」が多いのに対して、西欧では文書記録は「羊皮紙」に書かれることが多かったと言います。
「紙」と「羊皮紙」の違い、それは、「紙」の方が保存性がよいことだそうです。「羊皮紙」は腐って消えてしまうのに対して、「紙」は残る(燃えないかぎり・・)。そして、紙には「墨」で書かれた。「墨」はきわめて耐久性があります。最近よく発掘される「木簡」でも、「墨」で書かれた文字が消えずに残っています。[文言追加 10月29日 0.42]

その結果、日本の「歴史学」は主として「文書記録」に根ざすのに対して、西欧の「歴史学」は、残された「モノ」に根ざすのだそうです。

ところが、「文書記録」は得てして、とりわけ「公式文書」は、脚色・潤色が行なわれることが多い。しばしば、文書によって同一のことに対する記載内容が異なることが起きる。それでどっちが正しいか・・・などという「論争」が起きる。
西欧のそれは、「モノの解釈」。それゆえ、「解釈」の「合理性」が決め手になるようです。
本当は、「文書の内容」と「モノ」との照合で進めるのがよいのでしょうね。その点では「文書」の多数残されている日本の方が、「学」を進めるのは「条件」がいいはずなのに、そうではなかったようです。

「理科年表」に記載されている「地震記録」は、地震の記録ではあるけれども、それは、政権の変遷の記録である、ということになります。記録に「空白」がある、ということです。
おそらく、今後、何らかの方法で「空白」を埋める、つまり、各地域の「地震記録」を「発掘」する必要があるのでしょう。
「民俗学」の方々の手法、諸寺に残されている「過去帳」の検討なども、その方法の一つなのかもしれません。

次回

日本の建物づくりを支えてきた技術-12・・・・古代の巨大建築と地震

2008-10-23 18:13:15 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言追加、訂正 10月24日 16.22]

平安時代、屋根裏に設ける「桔木(はねぎ)」で自由な小屋:屋根をつくる技術が進展する一方、古代工法による奈良時代を代表する大建築、東大寺大仏殿(金堂)は、軒先の沈下で悩んでいたようです。

   註 なお、先回紹介の「白水阿弥陀堂」の小屋では、
      小屋束相互が「貫」で結ばれていますが、
      これは、後世に付加されたものと考えてよいでしょう。

大仏殿(金堂)は、上掲の年表のように、751年(天平勝宝三年)に完成しています。この当初の建物は、1180年(治承四年)平家の焼き討ちで消失していますから、どのような姿であったかは、言い伝えや絵図などからうかがい知るだけです。
ただ、礎石は残っていましたから、当初の平面は推定できています。
礎石の配置といろいろな文書から、金堂は、梁行7間、梁行3間の「身舎(もや:母屋=上屋)」の四周に1間の「廂(ひさし)」が取付いた「寄棟造(よせむねづくり)」で、さらにその外周に1間幅の「裳階(もこし)」を回していた、とされています。

なお、図、年表とも「奈良六大寺大観 東大寺一」から転載・編集したものです。
また、諸種の記載事項も参考にさせていただいています。
なお、上掲の年表では、スペースの関係で、重源の再興以後を省いてあります。[文言追加]

   註 「裳階」で有名なのは、法隆寺・金堂です。
      建物本体の軒の下外周に差しかけた庇様の部分のこと。

上掲の図は、先に紹介した東大寺の伽藍周辺図から、大仏殿・金堂部分を拡大して、この「身舎」「廂」「裳階」を塗り分けてみた図です。
なお、図中の黒い線で描かれているのは現在の大仏殿・金堂で、この建物は、重源によって再建された建物が1567年(永禄十年)ふたたび戦火で消失、江戸時代にあらためて再建された建物ですが(上の年表以後です[文言訂正])、正面の幅が、当初の建物、重源再建の建物よりも、かなり狭くなっていることが分ります。

当初の建物の高さは、文書に書かれていることから判断するしかなく、しかも、文書によって数字が異なり、現在は15丈程度ではないか、と考えられています。
1丈は10尺、約3mですから、15丈というと、約45mです。
現在の南大門の高さは約25m、当初の大きさになぞらえたとされていますから、大仏殿・金堂は45mあってもおかしくありません。現在の建物で言えば、10数階のビルに相当します。

では、どういうつくりであったか。
その姿が「信貴山縁起絵巻」に描かれていて、「尾垂木(おだるき)」を設けた組物があることから、「三手先(みてさき)」以上の軒組物をもった建物で、いわば「唐招提寺」を拡大コピーしたようなつくりであった、と見てよいようです(下註記事参照)。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-9・・・・古代寺院の屋根と軒・2」

しかし、このような度外れた大きさの建物は、奈良時代の工法では維持できなかったようです。つまり、「三手先」で軒をつくるには無理があったのです。
特に軒の出の沈下は著しく、建立の20年後の771年の項の「副柱(そえばしら)を立つ」というのは、長さ7丈4尺の柱で軒を支えるための工事で、工事はおよそ9ヶ月を要していますから、かなりの本数の「副柱」を立てたのだと思われます。現在ならば重機があるので何と言うこともないでしょうが、人力だけですから、おそらく、軒の高さを調整するだけでも大変な工事だったでしょう。

この他にも、消失までの300余年の間に、隅柱や隅木の取替えが、普通の建物ではありえない頻度で行なわれています。
簡単に言えば、建物の維持は容易ではなく、いわばお荷物だったのかもしれません。

1185年からはじまっている再建の活動の中心にあったのが、「重源(ちょうげん)」です。大仏殿・金堂の上棟が1190年、現存の南大門の上棟は1199年のことです。
そしてそこに、当初大仏殿・金堂の「弱点」克服のために、当時の最高の知恵が結集したのです。
それはまた、技術の転機、あるいは古代から中世への転機となる画期的なできごとでした。

上掲の年表は、重源再興以後を省いていますが、1197年に回廊が風で倒壊、の記録があります。そのはるか以前の989年には、「大仏殿後戸風に倒る」の記録があります。このときの建物は当初のものです。落雷の記録もあります。
しかし、地震に関する記録がまったくありません。平気だったのだろうか?

そこで、「理科年表」で、当時の地震の記録を調べてみました。
同書には、わが国の歴史に現れた416年の地震以降のマグニチュード6以上(と考えられる)の地震の記録が載っていますので、大仏殿・金堂の建立後、奈良近在で起きた地震を順に並べて見ます。

[重源の再建まで]
 東大寺にかかわる記載のある地震に◇マークを付けました。

827年(京都、M6.5~7.0)、856年(京都およびその南方、M6.0~6.5)、
868年(播磨・山城、M≧7.0)、881年(京都、M6.4)、
887年(五畿・七道、M8.0~8.5)、890年(京都、M≒6.0)、
938年(京都・紀伊、M≒7.0)、976年(山城・近江、M≧6.7)、
1038年(紀伊、M不明)、1041年(京都、M不明)、
◇1070年12月1日(山城・大和、M6.0~6.5、東大寺の鐘落ちる)、
1091年(山城・大和、M6.2~6.5)、1093年(京都、M6.0~6.3)、
◇1096年12月17日(畿内・東海道、M8.0~8.5、東大寺の鐘落ち、京都諸寺被害)、
1099年(南海道・畿内、M8.0~8.3、興福寺で被害)、
◇1177年11月26日(大和、M6.0~6.5、東大寺で鐘落ちる)、
1185年(近江・山城・大和、M≒7.4)

上掲年表中の修理等の記録には、対照してみても、上記地震が関係するものはありません。
梵鐘は頻繁に落ちているようです(釣っているロープが切れたようです)が、建物は平気だったのでしょうか。
少なくとも、記録に書かれていないようです。大変興味が湧きます。

ことによると、古代の工法の「遊び」の多い「継手・仕口」が、地震の建物に与える影響を逓減させる効果があったのかもしれません。
つまり、組物の「斗」「肘木」「斗」・・・と組み合わせてゆく各接点での「遊び」が、力を伝えるときに、伝える大きさ・量を減らしてしまう、のはないでしょうか。「ガタ」の効用です。
けれども、重力には、毎日加わり続ける重力には、堪えられなかった・・・のかもしれません。


次回

余談・・・・白水阿弥陀堂・余録:実寸と見えがかり

2008-10-16 22:04:11 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[図版 更改、説明追加 10月17日 17.37]

古寺等の建物を実際に見たあと、実測図面を見ると、断面図、立面図に描かれている屋根の大きさに驚かされるのが常です。
これは、現代建築で普通の平らな屋根ではそれほど感じません。寺社建築は勾配屋根だからなのです。

「白水阿弥陀堂」の場合について、「断面図」と「視角」の関係を調べてみたのが上の図です。
この図は、上掲の正面写真を撮った位置に立つとき、建物の屋根がどのように見えるか、を簡単に図にしたものです。
写真上の比率と図解の視角の比率とがほぼ同じですから、この写真は実際に目にする建物の姿とほぼ同じ、と考えてよいと思います。

この図から、「実際の寸法」と「視角」では、屋根部分と屋根下部分の比率がほぼ逆転していることが分ります。
もしも実寸どおりに見えたなら、頭でっかちの建物に見えるはずです。しかし実際は、丁度よい大きさに見えます。遠くのものほど小さく見える:透視図的な効果のためです。

   註 建物から離れるにつれ、立面図に近く見えるようになります。
      逆に言えば、立面図とは、無限の遠くから見た建物の姿なのです。
      [文言追加]

寺院建築は中国寺院の影響を強く受けています。そのため、初期の寺院建築の屋根は、中国にならい緩い勾配です。「新薬師寺本堂」は、その典型と言ってよいでしょう(下記参照)。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-6・・・・初期の寺院建築」

しかし、緩い勾配の屋根は、日本の気候に合いません。よく雨漏りが起きたようです。そのため、徐々に勾配を急に変えるようになります。
勾配が急になった屋根は、それ以前の屋根に比べ、見える姿:「見えがかり」がまったく変ってしまいます。急な勾配の屋根の方が「屋根の存在感」が感じられ、建物全体も安定した感じになります。
おそらく、屋根の急勾配化は、雨仕舞と同時に「見えがかり」にも留意して建物をつくるきっかけになったものと思います。

試みに、上掲の図上で、「白水阿弥陀堂」の屋根を「新薬師寺本堂」のような緩い勾配に変えてみてください。まるっきり印象が変って見えるはずです。

下段で「唐招提寺金堂」の当初の姿と屋根を変えた後の姿とで、視角がどのように変るか、つまり、「見えがかり」がどのように変るかを図解してみました。その下の図は、当初(推定)と現状の正面図です(同一縮尺)。

「白水阿弥陀堂」は、平安時代も大分経ってからの建設ですが、奈良時代の末、平安時代の初め頃から、「見えがかり」における「屋根の効果」を意識した建物づくりが増えてくるように思えます。
そして、そういう屋根をつくるには、屋根裏に仕込まれる「桔木(はねぎ)」は、きわめて有効かつ便利な工法でした。


このような「見えがかり」に対する感覚は、時代を経てさらに研ぎ澄まされます。
最下段の図は、奈良・今井町に現存する1662年建設の商家「豊田家」の断面図です。左が梁行、右が桁行断面。

建物は総二階建て(二階建て建物の初期の例)、主体は切妻瓦屋根で、妻面は入母屋屋根風になっています。

梁行断面図の左側が街路、つまりこの建物の表側になります。
街路に面した部分は、屋根が二段になっています。下段の屋根の勾配は、上の本体の屋根勾配に対して、緩くなっています。
この方法は、屋根を二段に構えるときの言わば常套手法と言ってよく、こうすることで、街路を歩く人の目には、同じ勾配に見えるのです。

この勾配は、主として人がどの位置から見るか、つまり普通に歩む人の位置の建物からの距離に応じて変わります。つまり、一律ではなく、建物によって(建物がどのような場所に建つかによって)異なります。

いわゆる昔の町の街路(たとえば「伝統的建造物群保存地区」など)が心地よいのは、各建物をつくる人それぞれが、建てるにあたって同様な配慮を心がけているからだ、と言ってよいでしょう(材料や色彩が揃っているから、ではないのです)。

桁行断面図をみると、屋根の幅が、棟位置よりも下の方が小さくなっていることが分ります。
これは、切妻屋根の妻側の「軒」(側軒)の出を、上と下で変えているからです。大工さんはこういう細工をすることを「破風尻(はふじり)を引く」と呼んでいるようです。
この細工を施した建物を実際に見ると、側軒が妻の壁面と平行になっているように見えるため、この「出」の違いには気付かないのが普通です。これも遠くのものは小さく見える:透視図的な効果を考えてのことです(ただ、瓦葺屋根の場合は、瓦を摺って寸法を調整しなければなりません)。

このような「細工」は、どのあたりから建物を見るか、つまりどのように建物が目に入ってくるか、によって異なりますから一律ではありません。
それゆえ、そのあたりは、工人たちの感性・感覚に拠るところが大きく、工人の腕のみせどころでもあったようです。

勾配屋根の設計で「その場所に適切な屋根の勾配」を決めるには、「立面図」での検討は無理で、「周辺を含めた断面図」上で検討することができます。ただし、そのためには(そういう感覚を身につけるためには)、実際の建物に接するとき、常に「断面図を描いてみる」ように努める必要がありそうです。


次回

日本の建物づくりを支えてきた技術-11の補足・・・・白水阿弥陀堂 追加

2008-10-11 22:39:17 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[図版更改 10月12日 8.24]

先回の「白水阿弥陀堂」の補足として、以下を載せます。

1) 「白水阿弥陀堂」の立地を見るために、google earth の航空写真を転載。
   左側は、周辺を含んだスケール、右は寺域。

   寺域が、南面に開いた穏やかな盆地状の土地であることが分ります。
   取り囲む山・丘陵の高さが程々なのです。

   昔の人は、「住まう場所」を探す見事な感覚を持っていたようです。
   平安時代以降、その感覚は時代とともにますます鋭敏になるようです。

2) 「白水阿弥陀堂」の「断面図」と「平面図」です。

   「修理工事報告書」が、近くの大学図書館にあることが判明。
   ところが、その図書館、耐震補強工事で、しばらく使えないという。
   図書館で、そんなこと、あってよいのかな?

   国会図書館にあるのは自明、ただし時間がかかる。
   そこである大学の建築史研究室に勤める若い友人に尋ねたら、
   即刻、メール・添付ファイルで送ってくれた!
   そして更に、今夕、「報告書」全巻のコピーが郵送で届きました!
   上の図は、そのうちの一部です。

   とても綺麗な図面です。元図はおそらく「烏口(からすぐち)」描き。
   元図は大判で、きっと惚れ惚れとする図面でしょう。

   註 「烏口」とは「墨入れ図面」を描くための製図道具。
      2枚の刃の間に「墨」を含ませて描きます。
      紙が刃で切れ、そこに「墨」が入り込むため、
      きわめて鋭利な線が描けます。
      私が学生の頃は、「烏口」習熟が一つの課程でした。
      「墨」は硯で摺るのが最高ですが「墨汁」も使いました。

   図面の寸法は、十三尺四寸・・などと和数字で書いてあるようです。
   報告書上でもよく読めませんが、拡大してみたところ、そのようです。
   だから、「棒尺」も右から左へ・・・・。

   報告書は1956年(昭和31年)刊。同年1月に工事着手、同6月に終了。
   工期も短いのに、報告書の発刊までもされているのには驚きました。

   断面図で分るとおり、屋根裏は、もう一つ室が作れるほどの高さ。
   先回の外観の写真と、実際に観る姿とは大差ありません。
   あの外観を得るために、これだけの屋根が要るのです。
   奈良時代、中国伝来の勾配の屋根をつくっているうちに、
   雨対策もさることながら、見えがかりにも関心がいくようになった、
   それも屋根の架構の変化を呼んだのだ、と思います。

3) 堂内の写真です。
   堂内の「たたずまい」を伝えているとは言いがたいです。
   おそらく、写真では、伝えられないのでは・・・。

関東圏の人は、住まう場所の近在で、奈良・平安の頃の建物にお目にかかることは先ず無理です。事例が少ないのだから当然です。
その中で、ここは、「平泉」と比べても遜色がない平安期の建物を、身近に、ゆったりと観ることができるのです(これが関西だったら、おそらく人混みでしょう)。
あと、その時代の建物のお奨めとして、「羽黒山 五重塔」があります。山形県酒田の近くです。


次回

日本の建物づくりを支えてきた技術-11・・・・自由な展開

2008-10-10 18:54:58 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

9世紀以降になると(つまり、普通の時代区分の「平安時代」になると)、中国直伝の方法から言わば脱却し、自分たちの手慣れた工法での架構、すなわち、見えがかりは伝来の「形式・様式」で、架構は自分たちの方法で、という建物づくりが普通になってきます。
「寺院建築=瓦葺き」という「概念」も薄れ、神社のように「桧皮葺き(ひわだぶき)」の屋根の寺院も増えてきます。
言ってみれば、一定程度「形式・様式」を守りながら、「自由な」建物づくりが行なわれるようになった、と言えるでしょう。これを普通は「和様化」「国風化」などと呼んでいます。

◇ 「阿弥陀堂」の建物

平安時代も後期:11世紀ごろになると、「浄土教」が上流社会で流行します。
そのうち、上層の階級の建てた建物が、たとえば「平等院 鳳凰堂」(1053年)。地方の豪族たちがつくった一例が奥州平泉の「中尊寺 金色堂(ちゅうそんじ こんじきどう)」(1124年)です。
そして「中尊寺 金色堂」を建てた藤原氏の一族・関係者が建てたのが、上掲写真の「白水 阿弥陀堂(しらみず あみだどう)」(1160年)です。
「白水 阿弥陀堂」は、正式には「願成寺(がんじょうじ)阿弥陀堂」、福島県いわき市にあります。「白水」は、「平泉」の「泉」という字を上下に分けた読みです。

この「白水 阿弥陀堂」は低い山:丘陵に囲まれた南が開いた盆地状の土地に寺域が選ばれています。
20年ほど前の秋に訪れたときは、寺域では庭園遺構の調査が行われていて「阿弥陀堂」には近づくことができませんでしたが、周辺は住居もまばらで、寺域に入ったとき、その静謐で穏やかな雰囲気に、まるで別天地に入りこんだような感懐をいだいたことを覚えています。
おそらくその「雰囲気」こそが、「阿弥陀堂」を構えた人たちの夢見た「浄土」の姿だったのだ、と思います。

   註 近年「浄土庭園」が復元されました。

      アクセスは、常磐線「内郷(うちごう)」下車、
      または「常磐自動車道」「いわき湯本IC」から。


今回、秋の一日、久しぶりに訪ねてみました。写真はそのときの撮影です。
今は寺域近くまで家が建てこんできて、普通の都市内公園のようで、少し残念でした。

この「阿弥陀堂」は、屋根が桧皮葺き、当初は内外とも彩色が施されていた、と言います。
軒には「出組」の組物。
材の様子から、復元されたものと思われますが、先に紹介した「東大寺 法華堂」の「出組」のどちらかと言えば剛毅な形に比べ、非常に繊細で優美、洗練された穏やかな形です。

   註 1956年に「修理工事報告書」が刊行されていますので、
      その工事の際、復元製作されたものと思われます。

この「阿弥陀堂」は、堂内に入ることができます。
彩色はすでに消えてしまっていますが、その凝ったつくりの「折上 小組 格天井(おりあげ こぐみ ごうてんじょう)」の繊細さは、実に見事。残念ながら、堂内は撮影禁止のため、紹介できません。書物で探して後日補足します。

この天井の裏には「桔木(はねぎ)」が仕込まれ、束立てで小屋が組まれているはずですが、図面が手許にありません(目下、「修理工事報告書」を探索中です)。

次回へ続く
 

日本の建物づくりを支えてきた技術-10・・・・「天井」をめぐる「解釈」

2008-10-06 09:52:43 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[また間が空きました]

「日本建築史基礎資料集成 四 仏堂Ⅰ」の「概説」に、中国の書「営造法式図様 大木作制度図様」記載の図や、1960年代の中国の「文化財研究誌」(「文物」)記載の図との比較で、日本の初期の仏堂の形式について、彼我との違いが解説されています。

   註 私は「営造法式図様」を実際に目にしたことはありません。
      [文物]とは、日本の[文化財]に相当する語です。
      「文物」とは、そういう名称の「研究誌」です。

ただ、古代、隋・唐の工人たちが、そういった「図」を持って来日したかどうかは定かではありません。むしろ、持っていない、持ってきたのは「頭」と「手」だけ、と考えた方が自然だと思います。

そして、実際につくる立場にたつと、「概説」に書かれている言わば「結果論」だけではなく、いったい彼の国の工人たちは、そのとき何をどのように伝え、そして日本の工人たちは、何をどのように得たのか、そこが一番知りたいところです。

けれども、そのような建物をつくる「経過・過程」は、記録としては残らないのが普通で、また、記録として残ったとしても、かならずそこに「脚色」が入っているはずです。
それは、あたりまえで、やむを得ないことです。
なぜなら、誰も、記録を残すことを念頭に仕事をするはずがなく、後で「経過・過程」を振り返ると、かならず、つくる場面でいろいろと考え、行ったり来たりしながら悩んだことを「整然と整理してしまう」のが普通だからです。ときには、「潤色」も行なわれることでしょう。

   註 現在の建物づくりでは、「記録」を念頭においた仕事が
      多いように感じます。簡単に言えば、写真映りです。

そこで、前回のシリーズでは、「知識」を得るために、どちらかというと、私たちの目の前にある「結果」を考える点に軸足を置いてきましたが、今回のシリーズでは、「つくるときに何を考えているのか、考えていたのか」、という視点に立つように努めたい、と思っています。

当然「記録」はないですから、「当て推量」的なことになり、「資料をもって証明しなければならない」という立場に立てば、「何と非科学的な・・・・、もってのほか」ということにもなるでしょう。
けれども、そういう意味での「科学」にあまりかかずりあうと、どうしても萎縮してしまう、と私には思えます。
以前にも触れましたが、鉄やコンクリートの利用が始まった20世紀初頭のはつらつとした創作活動が、その後の「構造科学」の「進化」とともに萎縮してきたのも、その一つの例だ、と私は思っています(下註参照)。
同様に、木造の建物づくりでも、「建築基準法」とそれを支えてきた「筋かい」使用を必須のもとしてきた「木造工法理論」が世の中に「蔓延」してきた結果、「これが古来木造主体の文化を築いてきた国なのか」、と疑いたくなるような木造建築が増えてきたのもその例と言ってよいでしょう。

   註 「まがいもの・模倣・虚偽からの脱却・・・・ベルラーヘの仕事」
      「鋳鉄の柱と梁で建てた7階建てのビル・・・・世界最初のⅠ型梁」
      「コンクリートは流体である・・・・無梁版構造の意味」
      「閑話・・・・最高の不幸、最大の禍」
      など

それはさておき、先回、「組物」のいろいろを見る中で、あるとき以来「天井」が張られるようになり、それとともに、「天井裏」に架構を支える新たな工夫がなされるようになる例を紹介しました。「桔木(はねぎ)」の活用です。
「桔木(はねぎ)」は、中国建築には見かけませんから、日本独自の発想と考えてよいでしょう。


◇ 「桔木(はねぎ)」と天井裏

「桔木(はねぎ)」の利用など、天井裏がどのようになっているかは、07年3月に図を載せて触れています。

   註 「日本の建築技術の展開-6・・・・古代から中世へ:屋根・軒の・・・変化」
      「日本の建築技術の展開-7・・・・中世の屋根の二重構造」

上掲の図は、「中国・仏光寺」「法隆寺 大講堂」「秋篠寺」の梁行断面図です。「法隆寺 大講堂」と「秋篠寺」の図は、いずれも復元推定の断面図です。これらの図は、どれも、すでに上の註で紹介の記事に載せてあります。

上の図では、3例とも「天井」が設けられています。
このうち、日本の2例の「天井(組入天井)」の裏側は、中国の最古と言われる「仏光寺」のそれと、まったく異なります。

中国のそれでは、天井裏にも、天井の下に見えている部分とまったく同じ架構法が見られますが、日本の例は2例とも、見えている部分とはがらりと様子が異なり、中国式の架構方法は天井裏では使われていません(もっとも、「秋篠寺」では、「虹梁」は見せ、それから上を天井裏としていますが、「法隆寺 大講堂」の場合、「虹梁」も天井裏に隠しています)。

日本での室内に天井を張るきっかけについては、すでに上掲記事で紹介したように、室内高の調整のためだ、と言われています。
すなわち、中国式に倣った緩い勾配の屋根では日本の雨に適応でないため、屋根勾配を急にするようになります。そうなると、屋根の下にできる空間の高さが、そこで暮すには高すぎる感じになります。かと言って適当な高さになるように急な勾配の屋根全体を下げると軒先が低くなる。そこで、屋根勾配を急にし、なおかつ軒高も維持する方法として「天井」を張り室内高を調整する方策が生まれた、という解釈・考え方です。
椅子座式を中心とする中国の暮しと、座式に移行した日本の暮しの違いが影響している、と考えられているわけで、ひいてはそれが「和様」のつくり方にも影響したとされています(この「説明」については、上記記事で詳しく紹介しています)。

では、「仏光寺」に見られる「天井」は何のためなのでしょうか。
ここでは「天井」で隠されている部分も、見えがかりの部分と同じ方式、すなわち「斗」「肘木」を設けて「梁」を受ける方式でつくられています。
この「天井」は最初からなのか、それとも後世のつくりなのでしょうか。

今回は載せませんが、07年3月26日に転載した「仏光寺 大殿」の写真の中に、天井裏の写真があります(下記記事参照)。

   註 「余談・・・・中国最古の木造建築」

これを見ると、天井裏に組まれている「斗」や「肘木」(「斗栱(ときょう)」と言いますが、これは発音は異なりますが中国語そのままの用語です)、そして「梁」「又首(さす)」の類は、天井下の見えがかり部分に比べ、粗い仕事になっています。特に、「母屋桁」の上の「垂木」の切換えなどは、仮設か?と思うほどです。

   註 このシリーズでは、「斗栱(ときょう)」という用語は、これまで
      使っていません。この用語を使わなくても、話はできるからです。
      ここであえてこの用語を書くのは、そういう「用語」があることを
      知っておいていただくためです。もっとも、知っているからといって
      どうということもありませんが・・・・。

この写真から判断すると、「天井」を張るのは、当初からのように思えます。
つまり、当初から「天井で見えなくなる部分:隠れる部分」があった。
しかし、隠れる部分でも、「天井」より下の「見える部分」と同様の架構法を採っていた、ということになります。

では、「仏光寺」では、「天井」はなぜ設けられているのか?
すでに紹介した「日本では座式の生活に合うように天井を張るようになった」という「天井」と、中国の「天井」とは何が異なるのか?という疑問が湧いてきます。


上の2つの日本の例では、「天井」で見えなくなる部分は、言わば徹底して中国式に倣うことをやめているように見えます。
「法隆寺 大講堂」の推定復元図では「桔木(はねぎ)」こそ使われてはいませんが、「地垂木」上に、「枕」を流して「束」を立て「野母屋」を設け「野垂木」を架けるという「野屋根」をつくる方式が天井裏で使われています。
「秋篠寺」では、「地垂木」上に「枕」を長し、「桔木」を受け、「束」で「野母屋」を支え「野垂木」を架ける「野屋根」方式へと変っています。

そして、平安時代頃から始まったこの方法は、後に、近世に至っても、上流社会の建物の屋根架構の「常套的手段」へと引継がれるのです。

おそらく、日本の工人たちは、中国伝来の仏教寺院の形を「形式」「様式」としては受け入れながら、実際につくるにあたっては、日ごろ手慣れた方式を使った、と言えるように思えます。
すなわち、見える部分を「中国伝来の仏寺」の形にしなければ、それは「仏教寺院」とは言えない、見なされない、しかし、隅から隅まで中国式に倣う必要はない、倣わなくても自分たちの方法で建物はつくれる、その方が簡単だし確実、それゆえ、見えがかりが中国風の「仏教寺院」の形式になっていればよいではないか、という「苦しい判断」を日本の工人たちはしたのではないでしょうか。

ここに挙げた2例は、いずれも、先ず「見えがかりとなる中国伝来の形式」をつくり、その上に「野屋根」を架ける、という手順の仕事をしています。先に紹介した「新薬師寺 本堂」も同様です。
すなわち、「化粧の部材:地垂木」の上に「枕」を流し、その上に「野屋根」を組むのです。明らかに「二重手間」をかけることになります(先に紹介の「法隆寺東院 伝法堂」と比べてみてください)。

「見えがかり:化粧となる部分」が先行する、ということは、その「見えがかりの架構」が、その上に載る「野屋根の架構」を支えなければならない、と考えたくなります。それゆえ、当初は、先に「新薬師寺本堂」の紹介の際に、「十分屋根を支えることができる部材」で「見えがかり」がつくられている、と書きましたが、「見えがかりになる部分」でも、本体の架構を支えるに十分な大きさの部材でつくらなければならない、と考えたのだと思われます。
しかし、時代が下ると、「野屋根」を支えるのが「化粧屋根」を介しても下部の軸部:「柱」であり、「化粧」部分の部材を大きくする必要ないことに気付き、だんだん細身になってゆきます(たとえば、「桔木」を受ける「枕」は「地垂木」の上ではありますが、「柱」の直上に置かれていますから、「地垂木」自体は「枕」で潰されない程度の太さであればよいわけです)。


さて、日本の「天井」は座式の生活のために室内の空間の形体の調節が必要になり、使われるようになった、そしてその天井裏が生まれた結果、それを利用する架構法が生まれた、というのは確かに筋の通った解釈ではあります。

しかし、中国にも日本にも「天井」があります。
であるならば、「座式の生活様式に合わせるため」という理由は、中国建築の「天井」の解釈にはなりません。
第一、たとえば「法隆寺 大講堂」は、通常、歩いて、つまり立った姿勢で拝観します。それでさえ、天井が高いな、と思います。座ったら、さらに違和感を感じるはずです。「座式」に適合しているとは思えず、むしろ、そこに置かれた「仏像」との関係で高さが決められている、と考えた方が自然です。

つまり、「椅子座式」「座式」という生活様式と「天井」の存在を直接結びつける必要はないことになり、もっと単純に、「椅子座式」「座式」という生活様式とは関係なく、ということは、彼我とは関係なく、工人たちは『その場に必要な空間形体を獲得するために「天井」を設ける工夫をした』と考えれば済むように思います。
そして、そうであるならば、日本の工人たちは、「見え隠れ」は手慣れた日本のやりかたで仕事をすればよい、と考え、中国の工人たちは、中国の手慣れたやりかた(それは「斗」「肘木」を使う方法なのですが)で仕事をした、と解釈すればよいことになります。

   註 中国の手慣れた手法:「斗」「肘木」を使う方法:は、
      以前に下記記事で触れたように、
      中国建築の主たる発祥:「土の建築」と中国の木材の特徴に
      よるものだ、と私は考えます。
      中国でも、日本と同じような木材の得られる地域の木造建築は、
      日本と類似の方法を採っています。
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-6・・・・初期の寺院建築」


彼我で何が違うかと言えば、日本の工人たちは、伝来の「中国建築」の形式に従わなければならない、あるいは、従わなければならないと思い込む、そういう状況に置かれていた、ということです。

そして、以後の日本の「表(おもて)の建築」(あるいは、「為政者側の」または「支配者側の」建築)の歴史は、この「思い込み」から脱却するという「面倒な過程」をたどることになる、と言ってよいでしょう。

   註 もちろん、中国の架構法から得たことが多々あることは
      否定できません。

これに対して、一般の人びとの建物では、「見えがかり」と「見え隠れ」を、別々の方法で考える、などという「面倒なことはしなかった」のではないでしょうか。

   註 たとえば、明治の末、西洋の建築様式が導入されたとき、
      中央政府に近い人たちは、「煉瓦」は西洋風の建物の材料との
      意識・認識が強く、素直に「煉瓦」と向き合えませんでした。
      ところが、会津・喜多方の人たちは、「西洋風」とは無関係に
      「煉瓦」を自分たちの建物づくりに使ってしまったのです。
      それは、「煉瓦」=「西洋建築」との思い込みを持つ人たちには、
      少なからず「不愉快な」ことだったようです。
     
      そのときに喜多方で使われた煉瓦を焼いた窯が、
      いま再稼動しようとしています。

   註 一般の人びとの建物づくりでも「必死でつくる」時代をすぎると、
      「見えがかり」と「見え隠れ」を別に考えるようになります。
      たとえば、明治初期、商家では「見栄」のために建物をつくる
      「流行」がありました。そうしてつくられた「豪壮な」建屋が、
      「それが民家だ、という誤解」も生んでしまっています。
      先回紹介した「出桁」も、「必要」からではなく「見栄」で
      つくられる例が多くなるのも「必死な時代」を過ぎた後です。
      こういう傾向からの「脱却」も、並大抵ではありません。

「天井」の出現にあたっては、そのときの工人たちの微妙な心の動きが背景にあるように思えます。

次回