爽やかな話 : 若い方の鋭い感性に感動!

2015-07-27 10:10:13 | 近時雑感
私が毎日必ず寄るブログ「リベラル21」の22日の記事の標題は「若い女性が頑張り始めた」です。
7月15日、国会で強行採決があった日、大坂で開かれた安保法制反対緊急街宣アピールでスピーチした21歳の女性のスピーチ全文の紹介です。
紹介記事を書かれた小沢氏は、その内容の素晴らしさに感激して紹介することを考えたようですが、私も感動しました。
まやかしのたとえ話で説明した気になっている我が宰相などはひとたまりもありません。
この若い女性は、問題の所在を確実に捉えていて、論理も明晰です。ごまかしは一切効きません。
私も、これは多くの人に知ってほしい内容である、と感じましたので、全文転載させていただくことにいたしました。



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「理解」のしかた・・・・「主語」は?

2015-07-23 11:00:06 | 近時雑感
この26日は、「ポツダム宣言」が発せられた日。それを受諾して、日本の「敗戦」が決まり、いわゆる「終戦」に至る。
しかし、私は、詳しく「宣言」を読んだことがない。その点は、我が現首相と同じ!?

昨22日の毎日新聞夕刊のコラムに、この「宣言」の根底にある「重要な考え方」が紹介されていました。それが、そのコラムの標題「無条件降伏したのは誰?」なのです。
即ち、「主語は誰なのか」ということ。

下に全文をコピー転載させていただきます。



参考として、以下に、ポツダム宣言の日本外務省訳の全文をコピー転載します。太字の部分が、田中優子氏が文中で触れている条項です。

ポツダム宣言

千九百四十五年七月二十六日
米、英、支三国宣言
(千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ)
一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ
二、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国カ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
三、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ
四、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ
五、吾等ノ条件ハ左ノ如シ
吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ右ニ代ル条件存在セス吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ
十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ
十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス
                                                         (出典:外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻 1966年刊)

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暑中お見舞い申し上げます

2015-07-20 15:58:33 | その他


暑中お見舞い申し上げます

ここ数日、暑い日が続いていましたが、幸いなことに、今日の当地方は、30度前後で推移しています。
東風:「やませ」(冷たい海風)が入っているからのようです。

このところ、仕事は午前中の一・二時間に限ることにしています。夏休みモードです。
   ただ、朝夕のリハビリ散歩(朝1㎞、夕方2㎞ほど)は、樹林近くの木陰のコースを選んで、休まずに続けています。
   手足のしびれによるマイナスを補うために、筋力の維持が必須だからです。

「中世ケントの家々」の続きが気になっているのですが、締め切り仕事でないことをいいことに、無理はしないことにします。そのため、次回まで、かなり間が空きますがご容赦ください。

まだ、暑さはこれからが本番のようです。皆様、くれぐれもご自愛ください
コメント (1)
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続・《斬新なデザイン》って何?・・・《建築家》の正体、露顕!

2015-07-18 10:02:27 | 形の謂れ


今日は、雨中に清々しく咲く山百合とはうらはらの、鬱陶しい話になります・・・。


国立競技場の件、設計競技の審査委員長を務めた《建築家》の記者会見での「発言」が報道されていました。
私にはきわめて「恥ずかしい」「聞くに堪えない」内容でした。

彼は言います。「設計競技は、アイデアのコンペで、コストの議論はない・・・・・」
これを聞いたら、明治の先達、滝 大吉 氏は絶句するのではないでしょうか。
   「建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様に用ゆる事を
   工夫する学問

   これは、滝 大吉 氏の「建築(学)」の「定義」です。これは、時代を問わず、真理である、と私は考えます。「理」が通っているからです。

この《建築家》の「建築観」では、アイデアは、コストとは別の問題、という「認識」が根底にあることになります。
そういう《アイデア》は、私に言わせれば、まさに「絵に描いた餅」以外の何ものでもない。

更に、こうも言う。「宇宙から舞い降りたような斬新な案に心を動かされた?!
こうも言っているらしい。「あのアーチが、競技者に高揚感を与える・・・
私は、この《建築家》の「心」と「視座」に疑義、そして何よりも「不安」を感じました。大丈夫か?正気か?

「宇宙から舞い降りたような斬新な案・・・」、多分これは、設計案の「外観図」を見ての彼の「率直な感想」なのでしょう。この外観図は、「鳥瞰図」、bird's-eye view と言います。つまり、鳥の目で見た図という意味。
実際、こういう具合に見えるのは、神宮の杜に棲む鳥たちだけでしょう。
競技場を訪れる観客の目にはもちろん、競技場で競技する「選手」たちの目にも、絶対に見えない視点です。
つまり、彼は、単に、この「」に「心を動かされた」に過ぎず、そこに在る「競技場」に心を動かされたわけではないのです。
大きな勘違いと言うべきでしょう。
先回「意匠」:「デザイン」の語についての「新明解国語辞典」の解説に、買う人の注意を引くためにする製品や美術工芸品などの形・色・模様などについての新しい考案とあることを紹介しました。
彼の設計・デザインについての「理解」は、まさに、この「解説」の域に留まっているのです(提案者も同じです)。

ましてや、「アーチが競技者に高揚感を与える・・」だと?
おそらく、競技者にとって、彼の視界をさえぎるこの巨大なアーチの黒い影は鬱陶しいもの、気持ちを殺ぐものに映るはず。競技者は、広々と眼前に天空が拡がっていることを望むに違いありません。
つまり、かの「審査委員」の《建築家》は、「豪快なアーチ」⇒「高揚感」・・・、という「連想ゲーム:言葉遊び」に夢中になっているに過ぎないのだ、としか私には思えません。
君は一体「何」を「審査」したのですか?

今回の事態を見て、いつかコメントで指摘があった、東急東横線「新・渋谷駅」の「判りにくさ」、「使いにくさ」の因は、その設計者であるこの《建築家》の思考構造にあるのだ・・、とあらためて再確認でき、納得がゆきました。
彼にとって、おそらく、駅を通る人びとは、単なる「点景」、彼のつくる《造形》の「お添え物」に過ぎないのです。
   註 私は、幸いにして、東急渋谷駅を使うことがないので実感はありませんが、その「分りにくさ」「不便さ」は一品だそうです。

今回の「事態」に拠って、いわゆる《著名建築家》の正体が、鮮やかに露顕した、と私には思えました。
更にこれは、単に一《建築家》の問題ではなく、彼らの造るものをもてはやしてきた「建築界」全体の問題でもあり、
そしてそれを唯々諾々として鵜呑みにして認めてきてしまった(《専門家》《有識者》の《見解》を無批判に受け入れて平気な)当世の社会全体の問題でもある。
今こそ、何ごとによらず、自由闊達に「王様は裸だ」と、個々人が発言し続けることが求められているのだ、と私はあらためて思いました。

   以前に書いた同様の記事 : 「ここに《建築家》は要らない」 も折があったらお読みください。[追記 19日 9.00am]

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《斬新 な デザイン》 って何?

2015-07-11 15:21:13 | 形の謂れ

梅雨空の下、咲き誇るムクゲ。

「国立競技場」の件、だいぶ騒がしい。
この競技場の「計画案」については、当初から、「斬新なデザイン」という「表現」が使われ続けてきました。相変らず使われています。
これに、私は、当初から「違和感」を感じ続けてきましたが、ずっと黙ってみてきました。
しかし、やはり、これは看過できない、看過してはならない、「異議」を唱えておかなければならない、と思うようになった次第です。

斬新」とは、「新明解国語辞典」には、「趣向がきわだって新しい様子」とあります。
「新漢和辞典」には、「斬」は唐時代の方言で、「はなはだ・きわだって」の意で、ゆえに「斬新」とは「非常に新しい」こと、とあります。「広辞苑」も「新明解国語辞典」と大差なく「趣向のきわだって新しいこと」とあり、用例に「斬新奇抜」とあります。
趣向」とは、物事を実行したり作ったりする上のおもしろい(変わった)アイデア」とあります(「新明解国語辞典」)。
「デザイン」は、訳語として、一般に「意匠」があてられますが、「意匠」とは「趣向」の意と解されています。
要するに、「斬新なデザイン」とは、「(競技場としては)目新しい、今まで見たことのない(奇抜な)形」である、ということになるのでしょう。

しかし、いろいろ語られているなかで、「競技場とは何か」という論議がまったく見られないのが、私には不可解でした。

私の見解は、きわめて簡単です。この計画案の形態には「形の謂れがない」。

話題の主題になっている「巨大なアーチ」、競技場として、これでなければならない必然性があるか?ということです。
これは、単に、提案者が「やってみたかった」にすぎないのではないか。
何故「やってみたかった」?人の目を引くから・・。

この場合の「人の目」は、多分、設計競技の「審査委員の目」のこと・・・。
「新明解国語辞典」の「意匠」の解説の一に、「意匠の語は、デザインの訳語、買う人の注意を引くためにする製品や美術工芸品などの形・色・模様などについての新しい考案。」とあります!
言い得て妙。おそらくこれは、今の世の一般の「《デザイン》観」を総括した文言と言えるかもしれません・・・。
   多分、こういうものの見かたの延長上に《差別化》という「概念」もあるのでしょう。

報道を見る限り、設計競技の審査において、「競技場とは何か」という「本質的な」視点が論議された、という「形跡」は、見当らないようです。今回の件について批判的な「識者」の「見解」も、専ら「工費」の話。

建築学とは、木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様に用ゆる事を工夫する学問」という「文言」は、何度も紹介してきましたが、明治に西欧の建築工法を紹介する書を書いた滝 大吉の言葉です。
   この文言は、まさに、「デザイン」「設計」という「概念」の定義と言ってよい、と私は考えています。

この「文言」には、「何をつくるのか」については、「言うまでもないこと」という「前提」があります。
この、「言うまでもないこと」は、当時の専門家には、専門家として「あたりまえのこと」だったのですが、当今の《建築専門家》(今回の設計競技の審査委員も含む)にとっては、必ずしも「あたりまえ」ではありません。

   先にリンクした「形の謂れー8・・・再び建物とは何か」で詳しく触れています。
そうであるにも拘らず、「競技場とは何か」という「本質的な」論議が見られないのです。
いったい、「競技場」とは何か
私の「理解」は、次のようになります。すなわち、
各種「運動・スポーツ」を得意とする人びと(通常の語で「選手」)が、一堂に会して、その技と能力を競う場所であり、その場所へ、一般の人びとが、「日常の生活の時間」を割いて集い、(「選手」たちの)「競技」を観て、ある種の「感懐」を抱いて再び「日常」に戻る、そのような「運動・スポーツを得意とする人びと」と「一般の人びと」の「邂逅の場」、それが「競技場」である
   これは、「学校」を、単なる「教室の集合体」ではなく、「子どもたちが、その日常の一部を過ごす場所」、
   また、「病院」とは、単に、諸医療専用室、病室・・からなる、のではなく、病んだ人びとが、その「治療」のために「日常を過ごす場所」
   と理解するのと同じです。
   このあたりについては、「形の謂れ-8」で触れています。

コメント (2)
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続・正体露顕

2015-07-08 11:09:53 | 近時雑感

ここ数日、字のごとく、降り籠められています。本当によく降ります。
庭の遊水地で、ヒメスイレンが開きました。
ムクゲも梅雨空の中、にぎやかに咲きだしました。


「正体露顕」で取り上げた例の「暴言・妄言」問題、政権は、どうも、「ほとぼり」の冷めるのを待っているように思えます。
しかし、こればかりは、「のど元過ぎれば熱さを忘れ」てはならない、と私は思います。
何故なら、これは、単に「一部の」人間の「暴言・妄言」なのではなく、政権党の「本質」がチラッと見えたに過ぎないと思えるからです。この方々は、いったい、何を「取り戻そう」と言うのでしょうか?

このあたりについて、6月30日付毎日新聞「特集ワイド」が、彼らの提示した「《改正》憲法」草案を詳細に分析、論じていましたので、だいぶ時間が経ちましたが、 web 版から下に転載させていただきます。内容を知ると、実に「たまげた」内容で驚くばかりです。




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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-16

2015-07-01 10:50:06 | 「学」「科学」「研究」のありかた

     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
だいぶ間が空きましたが、今回は、Early roof construction in stone-walled buildingsの項の紹介です。
      *************************************************************************************************************************

      Early roof construction in stone-walled buildings  石造壁建物の初期の屋根工法

      Roofs with lateral members only  横材主体の屋根


石造の建物の屋根は、必ずしもすべて木造と同様の工法でつくられていたわけではない。ただ、先に触れた NURSTEAD COURT (断面図 fig43 : 下図)は例外で、木造と同じく aisle 形式でつくられていて、tie-beam :繋ぎ梁レベルから下には truss :小屋: を構成する部材はなく、truss は屋根の形状の構成にだけかかわり、それゆえ、 passing brace :交差する brace duplicate braces : fig38b のように、斜材を重複してつくることか? をつくる組み方には適さない。それゆえ、木造建物に見られる長い屋根部材(合掌材のことか?)は、 collared rafters (合掌に組んだ垂木の中途:襟首: collar :に入れた横材とでA型に組む: fig33の屋根端部参照)の単純な工法、あるいは、scissor braces 工法へと変わってゆく。collared rafters は、 main truss にだけではなく屋根全面にわたって用いられるようになる( fig33参照 )。


   註 この部分の原文、難解、それゆえ、筆者の想像で訳しています。
       説明のために、fig33fig38 を下に再掲します。
             
       この図の右上、屋根の端部の合掌:垂木をA形に組む組み方が、collared rafters と呼んでいる部分。
             

当初の工法による屋根と考えられる遺構の一つが、1230年代の建設とされる LUDDESDOWN COURT に断片的に現存している。主屋とその右手の別棟の石造の切妻壁に、当初の scissor-brace 形式truss :小屋組が遺っており、小さい方の棟の妻壁には多辺形をした truss が健在である( fig39 )。この truss は、collar :繋ぎ梁:と 単純な cissor brace で構成され、壁上には当初期の ashlar piece :束柱:も見ることができる。交叉する部位では、木材はすべて重ねられており、特にashlar piece :束柱 rafter :垂木=合掌材は、交叉部で材相互を刻んで重ね合せている( notched lapsfig39a 参照)。

secret notched lap は、CANTERBURYCHRIST CHURCH PRIORY の大執事邸でも見られるが、農村の事例では見たことがない。
   註 secret notched lap :一見したところ、刻んで重ねてあることが分らない、という程度の意と解しました。
このような屋根の工法に加え、LUDDESDOWN COURT の床の組み方は、13世紀の木造建築の一般的な工法を示していると言ってよいだろう。すなわち、床は、支柱に支えられた太い spine beam :背骨、竜骨の上に組まれている。spine beam :背骨、竜骨と支柱の仕口、 spine beam の継手の詳細は外からは見えない。
   註 この部分の原文は、次の通りです。
     多分、桁を「殺ぎ継」で継いでいることの説明ではないかと思われますが、語意が分りませんので、上記のように簡単に訳しました。
     they are lodged on massive spine beams, carried on samson posts which are scarfed in an unusual and not fully visible manner, with face-halved scarfs
     with sallied and probably under -squinted butts.
     なお、fib39b の解説文中の bolster は、日本語では肘木と呼ぶ部材の名称で、英語の原義は枕木です。
     日本の工法では、支柱頭枘肘木を取付け、肘木は何本かの太枘(ダボ)で固定します。
     この方法を採るとき、桁の継手は、特に設けず、突付けで済ますこともできます。

fig40fig41 のような scissor-brace 形式 や、collar-rafter 形式の屋根は、石造建築においては、長い間使われている。1303年建設の CHARTHAMCHRIST CHURCH PRIORY官邸(現在は執事邸)では、soulace で補強された二段の collar :繋ぎ梁:をもったcollar-rafter 形式の屋根が、遺されている( fig40 参照。おそらくそこには、louver :越屋根が設けられていたのだろう)。

   註  soulace fig40 のように、 collar :繋ぎ梁 rafter :合掌:垂木材の接続部を、方杖様の斜めの材で補強することを呼ぶようで、
      その部材もsoulace と呼ぶらしい。
      中世イギリス木造建築によく見られる方法のようです。


collar :繋ぎ梁soulace は、SQUERRYES LODGE(平面図 fig5下に再掲 ) の小さい方の建屋にも使われている。この建屋は13世紀中期の建設と推定されるが、この架構は、構造的には必ずしも必要とは考えられない。同様な架構は、1290年建設の OLD SOARfig20 下に再掲)や、1342年建設の IGHTHAM MOTEchapelfig22 下に再掲)にも見られる。scissor braces collar :繋ぎ梁 を併用した LUDDESDOWN COURTの架構にきわめて似た屋根が、 THANETMINSTERMINSTER ABBEYhall のある建屋の初期建設の部分にも遺されている。CHRIST CHURCH PRIORY官邸であった MERSHAM MANORCOPTON MANORACRISE HOAD FARM(これらはいずれも1320~1330年代より後に建てられたと思われる)には、collar がなく strong>scissor braces だけの架構が建屋全部に使われている。COPTON MANOR では、fig41a のような架構が、規模のまったく異なる3棟に使われている。
この経緯から、こういう簡略形の(collar がなく strong>scissor braces だけの形式の)屋根が、その効能の当否を考えることもなく使われるようになるのは、strong>scissor braces と collar :繋ぎ梁 を併用する工法より若干遅れて始まったと考えられる。
   註 構造的な観点を欠いて形式だけを真似する事例が増えた、ということを述べているのだと思われます。


縦方向の強化の施されないタイプの別の形式の屋根が、ケントの初期の石造家屋に見られる。これは、crown-strut 形式と呼ぶ方式で( fig41 参照)、beam :梁collar :繋ぎ梁との間に梁間ごとに縦方向の支柱を設ける工法である。この形式の屋根が、CANTERBURYBLACKFRIARS (ドミニコ会の修道院か?)の refectory :食堂に現存する。屋根材を含む建設資金が1237年~1259年に取得されていることが判っているので、この屋根形式は、その頃に造られたものと考えられる。
CANTERBURY 以外にも、世紀の替る前後に建てられた事例が二つある。
一つは、SALMESTONEST AUGUSTINE の邸宅chamber であったと思われる13世紀後期~14世紀のごく初期の建設と考えられる建屋の屋根で、もう一つは、前掲fig41bGREAT CHART にある COURT LODGECHRIST CHURCH PRIORY 官邸:の hall の屋根で、1313年の建設であることが判っている。これらは、ともに農村地域に在るが、これまで触れてきたscissor braced 形式 collar-rafter 形式の屋根工法に類似していて、CANTERBURY の宗教施設の工法の範疇に属すと言ってよく、いずれも、CANTERBURY の石工や大工の手によって造られたのではないだろうか。
   註 crown-strut形式など、crown-・・・king-・・・については、次項以降に解説があります。

     King struts, crown post and the introduction of longitudinal roof timbers   King struts, crown post縦方向の屋根部材の採用

イギリスで、何時ごろから小屋組に縦方向の部材を用いるようになるか、については、長い間論議されてきている。この論議は、13世紀のイギリスの屋根の構築に、大陸、特にフランスとフランダースの工法が関わっているかについて、そしてそれがどのような経過でイギリス国内にに普及していったか、その二点が主な論点であった。これらの論点は、単にケント地域以外の各地の建物だけではなく、また、一般・世俗の人びとの建物はもとより、教会関係の建物の屋根に関わるものであった。今回の調査研究では、未だに工法の起源こついての最終的な結論には達し得ていないが、13世紀後期~14世紀初頭の英国内の多様な屋根工法の起源に関わる従前より詳しい知見は明らかになった。
CANTERBURY の建物の一群は、13世紀の第三四半期の建設と推察される。その事例のうちで、最も重要な2事例は、ST AUGUSTINES' ABBEYGUEST HALL と、CHRIST CHURCH PRIORY THE TABLE HALL である。両者とも、合掌の頂部に達する king strut :束柱があり、その柱に collar :繋ぎ梁枘差で 取付け支えている。ST AUGUSTINES' ABBEY では collar :繋ぎ梁 が二段設けてあり、CHRIST CHURCH PRIORY の屋根は、scissor brace 形式 で架けられている。
king strut :束柱自体の形は多様で、入念に他の部材と接続されているのが普通である。他の材の支えがない独立の king strut :束柱 が使われるのは、英国南東部、CANTERBURYを中心とした一帯およびその周辺に限られ、必ずしも一般的な方法ではないようである。
それらの事例のほとんどは14世紀の第1四半期に建設されたのは確実で、ただ、その起源が13世紀第3四半期までさかのぼり得るかは今もって疑問点として残されている。 THE TABLE HALL の建設時期は、文献記録から、1823年以前であるとする説が有力ではあるが、部材に施されている moulding :化粧彫り:の形から判断すると、13世紀のかなり遅くかあるいは14世紀初頭の建設と見なした方が妥当に思われる。 一方、、ST AUGUSTINES' ABBEYGUEST HALL の建設時期は文献記録はないので、その周辺の建設時期の判っている建物群から勘案して推定するしかない。それによれば、1260年代までさかのぼり得るが、確かであるとは言い得ない。その他の一群の CANTERBURY の建物は、ほとんどが1300年頃の建設と見なしてよさそうである。 THE TABLE HALL と同様な特徴を持つ strong>CANTERBURY の THE EASTBRIDGE HOSPITALchapel の屋根の建設時期は、「年輪時代測定法」に拠って、暫定的なデータではあるが、1301年という結果が出ている。
今回のケント地域の調査で、king strut :束柱:形式 の屋根を持つ事例が一つだけ新たに見つかった。
それは、fig42a (下図)の SALMESTONE GRANGE(大地主の邸宅)の現存の建屋(当初から木造の建物である)の屋根で、明らかにCANTERBURY の建物群の架構法の影響が見られる。

この屋根は、great chambercrown strut 形式の屋根の先駆けと言え、確かなことは言えないが、いずれも1326年建設の chapel よりも早い時期の建設と見てよいだろう。

石造建物の屋根の工法は、最終的に、crown-post 形式に行き着くようである。
crown-post 形式の工法は、tie beam の上に建てられた柱:束柱で、collar :繋ぎ梁を支持する方法であるが、king strut :束柱:形式とは異なり、束柱は、合掌頂部までは伸びず、collar :繋ぎ梁で止まる。通常は、束柱の脚部と頭部に化粧彫りの施された「」が設けられ、 fig42b(前掲)、fig44a(下掲) のように、頭部の座に取付いた斜材が、collar :繋ぎ梁~合掌材を結ぶ soulace :斜材(前掲 fig40 の註・解説参照)とcollar :繋ぎ梁相互を長手に繋ぐ材:とを支えている。
現存するking strut 形式 が、大多数の crown-post 形式よりも先行していたことは明白であるが、しかし、当初の両者の関係は、未だに詳らかではない。イギリスのなかで最も旧いcrown-post 形式の屋根は、WELTSHIRE, SALISBURYTHE OLD DEANERY(管区長邸)CAMBRIDGESHIRE, BOURNMANOR FARM (荘園内の農家か?) の遺構で、ともに1260年代もしくは70年代の建設と考えられる。その他に散在している遺構事例は、いずれも13世紀の最後の20年に建てられたと考えられているが、その中にはケント地域の事例が若干含まれる。
PLAXTOL OLD SOAR fig42bfig44a )の石造の chamber の crown-post 形式は1290年建設であるとする説や、AYLESHAMRATLING COURT fig9 下に再掲)の木造 aisle 形式hallcrown-post の屋根は13世紀第4四半期の建設とする説に異論があるのも当然である。
   
最近になって、これら中世初期の建物の建設年代推定の確度は、「年輪年代測定法」によって、EAST SUSSEX WARBLETON の木造の OLD RECTORY の建設が1292,3年と判定されたことで、その妥当性が認められるようになってきた。この遺構には crown-post は現存していないが、その痕跡は遺っている。
ケントで「年輪測定法」によるデータがある初期の crown-post の事例は、1309年と判定された NURSTEAD COURTの屋根である( fig43:下に再掲、fig44b:下図 )。
       

NURSTEAD COURT では、crown-post のささえる短い yoke :繋ぎ材の上にking strut を想起させるように垂直の柱が立っている。この他の比較的初期の事例は、すべて全石造あるいは石造木造混淆の建物で、fig44e に示す1322年建設の EAST FARLEIGHGALLANTS MANOR (荘園)の附属棟、fig42c の1326年奉納の記録のある SALMESTONE GRANGEchapel 、そして1330年代よりも遅い建設と考えられる SOUTHFLEETOLD RECTORYhallchamber IGHTHAM MOTE (内観:fig13 、全容: fig22いずれも既掲 )などである。

   註 crown-post king strut :は、イギリスに於いても語の使用・理解に混乱が見られるとのこと。
     おそらく、crown :王冠⇒ king と連想するからではないでしょうか。[追記 3日16.50]
     私は、crown-post crown は、その形状が、「樹冠:枝を張った樹木の頂部:crown 」に似ていることからの呼称・通称・俗称ではないかと推察します。
     ただし、彼の地の辞書には、そのような解説は載っていませんでした。
     

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   この項を読んでの筆者の感想
     crown-post についての原文の解説・説明は、よく分らない点があります。
     crown-post は、tie beamごとに立っています。
     tie beamの間隔は長手方向の柱間ごとですから、tie beamの間隔も同様に柱間ごとになります。
     それゆえ、crown-post の頭部から梁間方向:、tie beamの方向に出る斜材が支えているsoulace :斜材合掌材も柱の間隔であることになります。
     したがって、これ以外の合掌材には、支えがないことになります。このことから、
     おそらく、crown-post 頭部からの斜材が支えている合掌材(+ soulace )は、垂木ではなく、いわゆる登り梁(+ soulace )であり、
     その上に適宜母屋が置かれ、垂木が架けられるのではないか、と推察します。
     fig44a の写真には、この母屋材が見あたりませんが、多分、天井母屋下面に設けられているのではないでしょうか。
     もっとも、fig42 の断面図にも、この材は記されていません? ゆえに、疑問は解消されません!
     なお、soulace 斜材が支える方式にも、違和感を感じます。
     collar を支えるようにすれば、合掌材collar との接続部を補強する soulace の必要もなくなるからです。
     fig43 ではそのようになっています。ただ、その場合の soulace の架構上の役割がよく分りませんが? 単なる形式、様式か・・・。
     このようないわば「面倒な」工法が生まれたのは、ことによると、直材が得やすい日本には base-cruck 方式の発想が生まれなかったように、
     針葉樹主体の地域と広葉樹主体の地域の違いが、関わっているのかもしれません。
     それゆえに、おそらく、日本の工人は、こういう方向には向わなかったのではないか、とも思いました。
     このあたりについて注視しながら、このあとの解説を見てゆきたい、と思っています。


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 次回は次の項目を紹介する予定です。
 Crown post and king struts in timber buildings
 The relationship between crown post and king struts
  Base crucks and quasi-aisled construction in timber buildings
     

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