「形」の謂れ(いわれ)-4・・・・トラスの形

2011-06-28 12:17:05 | 形の謂れ
[リンク先追加 20.46]

喜多方の煉瓦造では、そのほとんどがいわゆる「トラス:洋小屋」を使って屋根を架けています。下の写真の上2枚は、このシリーズの最初に紹介した樋口家の煉瓦蔵内部、小屋組の詳細です(3枚目は2階床梁の煉瓦への納め)。



しかし、これらをつくった喜多方の工人:実業者は、「トラス」という言葉は知らなかったのではないでしょうか。
もちろん、「煉瓦造」⇒「西欧の建物」⇒「西欧の小屋組:トラス」、という発想で、つまり、煉瓦造には洋小屋:トラス、と思って使ったわけでもありません。
なぜなら、以前にも紹介したように、喜多方では、木造の建物の屋根にも、ごく当たり前にトラスが使われているからです。
その写真だけ、再掲します。農家の納屋の小屋組です。



   なお、08年11月の「喜多方訪問・余録・・・・喜多方のトラス」に、
   登り窯の木造の覆屋のトラスと、少し大きい煉瓦組積造に使われているトラスの写真があります。
   この二例は、ともに、梁行4間:約7.2mのトラスです。

現在の建築関係者(学習中の方がたも含みます)の多くは、「トラス」というと、材料の長手方向(「軸」方向と呼んでいます)の強さだけを使った工法、すなわち、部材を横から押して曲げようとする力はかからない、という「力学」が教える「知識」で「理解」するのではないでしょうか。
そして、さらには、その具体的な「形」としての「キングポスト」、「クィーンポスト」・・・といった「具体的な姿」をもって「理解」するに違いありません。

けれども、いわゆる「トラス」組は、力学誕生前から存在します。
   古い住居の「又首(さす)」あるいは「合掌」だけで三角型をつくる屋根組は、
   トラスの最も単純な形、と言えます。
   これは、竪穴住居以来の方法で、日本に限らず、世界の各地域で行われています。

つまり、「力学」の知識の下で生まれたものではない、ということです。
このことは以前にも下記で触れています。

「トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-3」

西欧の「建築技術」を詳述している 滝 大吉著「建築学講義録」にも、当然ですが、「トラス」組も紹介されています。しかし、トラスという語で紹介はしていません。
その一例が下図です。



これは、いわばトラスの完成形の一つ。
いきなり、こういう形が生まれたわけではなく、そこに至るまでには、多くの試行錯誤があったはずです。

先の「トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-3」では、「建築学講義録」の洋小屋についての解説を紹介しましたが、そこでは、小屋を組むにあたり、諸種の場面ごとに、そこで生じる「問題」を解決するための種々な方策、という形で解説がされ、「リキガク」の「リ」の字も出てきません。
下図はそのときに載せた図版の再掲です。



   いわゆるトラス組の「発展」過程を見ることができる典型例として、
   以前に長野県塩尻にある小松家を紹介してあります。下記をご覧ください。
   きわめて単純な、又首:合掌と、又首が撓むのを防ぐための、きわめて単純な手立てを見ることができます。
    「トラス組・・・・古く、今なお新鮮な技術-4(増補)」
      

それぞれの「形」には、それぞれ、そのようになる「謂れ」があります。
「こんな形にしたい」などとという「願望」が先にあるのではありません。

この場合には、こんなことが起きてしまうから、そうならないために、こうしよう、という手順でできあがるのです。そして、そのとき、できあがる形を「成丈格好よく」しよう、という気持ちが働いています。
これが、本当の意味の「デザイン: design 」ということ。
それぞれの「形の謂れ」の詳細は、前掲の「・・・新鮮な技術-3」をご覧ください。
   現代の《建築家》には、たとえば張弦梁をどこかで知ると、必要もないのに使いたがる傾向があります。
   張弦梁というのは、弓の原理を使って長い距離を跳ばす方法。

重要なのは、「建築学講義録」では、いわゆる「力学」的解説はまったく為されていないことです。

なぜ重要なのか?

そこで為されている「解説のしかた」は、「建築する」場面で、当面するであろう問題を、どうやって解決するか、という「考え方」に徹しているのです。
たとえば、「又首で屋根を組んだが、幅が大きくなると、又首の斜め材が撓んでしまう、どうすれば撓まないようにできるか・・・」といった具合に説明が進みます。
   「建築する」とは、字の通り、「建て築く」意です。
私は、こういう考え方:発想は、きわめて「基礎的・基本的な発想:見かた・考えかたである」と考えていますが、残念ながら、今の多くの建築関係の方がたは、これが不得意のように見受けられるのです。
とりわけ、《学的知見》を先に身につけてしまっている若い方がたは、きわめて不得意のようです。
私は、「力学」の知識を身につけ、それを「知恵」にまで高めるためには、この基礎的・基本的な見かた・考えかたが必須であろう、と常々思っています。
それは、「こうしたら、何ごとが起きるか、生じるか、直観で見る、直観で理解する」こと。
そのためには「経験」が必要なのです。
「直観」は、日ごろの暮し、日ごろの経験の中で培われ、鍛えられるもの。ところが、どうもそれが希薄のように見える。
「直観」なんていうのは、非科学的と「思い込んでいる」、あるいは、「思い込まされている」からのようです。
そうではありません。これについても、これまで、いろいろと書いてきました。
たとえば
「東大寺南大門・・・・直観による把握、《科学》による把握」
「建物をつくるとは、どういうことか-6・・・・勘、あるいは直観、想像力」[追加 20.46] 

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感想・・・・素晴らしい論理

2011-06-26 23:57:35 | 専門家のありよう



今日は、一日中、寒く、霧雨が降り続いていました。
その中、今年もムクゲが咲きだしました。ほぼ去年と同じ頃です。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

[註記追加 27日 8.48]

「玄海原発」の稼動再開に向けて、「住民に対する説明会」が開かれた、というニュースが報じられていました。
「住民」というのは、説明者側が選んだ住民。選んだ「基準」は不明です。しかも、僅か7人。
この「説明会」を、地元のケーブルテレビを通じて放送した(させた)とのこと(メディアの「役割」も問われるはずです)。

この期に及んで、まだ「前代」と同じようなことを繰り返している、同じようなやり口が通用すると考えている、その時代錯誤もさることながら、その「内容」を聞いて、驚きました。

一言で言えば、「安全と見なされるから安全である」、という恐るべき論理。しかも、訳の分らない《専門用語》を「これみよがしに」に並べている。
これで、人を納得させることができる、考えているとするならば、福島原発の事態を、まったく真摯に理解していない、ということを証明しているようなもの、と私なら考えます。

世の言う「安全神話」はタメにするものだった、という事実が明らかになった今、別の新たな「神話」をつくればコトが進むと考える、その安直さ。
多分、この次は、稼動を再開しないと、地元(の「経済」)が疲弊するぞ、金をやらないぞ、という「脅迫」のはず。
地元の「長」の発言に、すでにその兆しが見え隠れしていました。

金をばらまいて、地域が潤う、ということを「経済」(あるいは地域の振興)と言うのは、誤りです。私は、そう思います。
「経済」とは、本来どういう意味であったか、考え直すべきではないでしょうか。

ついでに言えば、水産業に「民間の資本」を注入すると復興が進むいう「提案」や、山を崩して盛土と合わせて平地をつくり街をつくる、という「提案」も報じられました。
これもまた、この期に及んで、まだこんなことを言うのか・・・・、というのが私の感想です。
そういう「提案」は、やはり、「経済」という語の原義が忘れ去られていることの証左にほかならないのです。

「経済」とは、「経世済民」(経国済民)を略した言葉です( economy の原義も考えてください)。
この原義にそわないのであるのならば、別の語を使ってもらいたいものです。別の語、たとえば「銭儲け」。

経済については、下記を。
「経済とは何だ」

27日付毎日新聞のコラムにも、福島原発の地下防汚壁建設が進まない「素晴らしい論理」の存在が指摘されています。[追加 27日 8.48]
  「風知草」

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「形」の謂れ(いわれ)-3・・・・煉瓦の色

2011-06-19 22:23:37 | 形の謂れ
若菜家の作業蔵の壁の煉瓦の色は、一階と二階で色が違います。下は、作業蔵をクローズアップした写真です。



喜多方の煉瓦造の煉瓦の色は、大半が作業蔵の一階の外壁の煉瓦の色、あるいは味噌蔵の外壁の色、暗赤色です。
ところが最初に紹介した樋口家の煉瓦造の蔵は、かなり明るい赤色です。前回の写真をクローズアップしたのが下の写真。



この二つの建物で使われている煉瓦は、いずれも樋口窯業の登り窯でつくられたもの。

なぜ、このような色の違いがあるのか。
もちろんそれは、「こんな色にしたい」、というような「当代風な願望」の結果ではありません。

暗赤色の煉瓦は、素地に釉薬をかけて焼いてできる色。釉薬は、当初は「灰汁」だったようです。
わざわざ、素地にこの釉薬をかけて焼成したのです。

その「謂れ」は、樋口家の煉瓦造の腰の様相に始まります。

煉瓦は多孔質です。
したがって、一定程度、水を吸います。
煉瓦が水を吸い、その段階で気温が下ると、孔に吸い込まれている水も凍結し、体積が増えます。ひどいときは、その結果、煉瓦は粉砕され、アンツーカ( en tout cas )のようになります。

また、降った雪が壁際に積ると、壁の温度は雪・外気よりも多少は高いですから、接触面で雪は溶けてきます。溶けた雪・水は、夜になり外気が冷えてくると再び凍ります。その結果、雪と煉瓦は氷によっていわば一体になります。

朝になり、気温が上がってくると、雪は再び溶けてきて沈下し始めます。
そのとき、壁際では、まだ雪と煉瓦壁は一体の様相を呈していますから、雪の沈下につれて、煉瓦の表面が削り落とされてしまうのです。いわば、壁面を滑る氷河。
樋口家の蔵の壁の下部にみえる凹みや傷は、その結果生じたものです。

この現象を避けるには、煉瓦の焼成温度を1,200度よりも高くするとよいとされます。硬く焼けて、破砕しなくなるからのようです。
しかし、登り窯では、どの煉瓦をも1,200度にするのは難しい。どうしてもムラが生じる。

   樋口家の煉瓦の削られた孔は、煉瓦の端ではなく、中央部にあります。
   これは、焼成のとき、素地の外面と中央部では焼成温度が違う、端部は高く、
   中央部が相対的に低いからだと思われます。

そこで、喜多方では、煉瓦の表面に水を通さない層・膜をつくり、水の吸い込みを防止する方策が考えられたのです。
それは、素地の表面に釉薬をかける方策でした。
釉薬の中に、煉瓦素地をくぐらせるのです。全面ではなく、外面に現れる面に釉薬をかけます。
釉薬は、通常の食器などでも使われます。素焼きでは水を吸ってしまうため、それを防ぐ手だてです。

もっとも容易に得られる釉薬が灰汁、木の灰を水で溶いたもの。喜多方では、当初、これが使われました。
この釉薬は、焼き上がると暗赤色になります。それが若菜家の作業蔵の一階と味噌蔵の外壁の色。
後に、同じような色に焼き上がる益子焼の釉薬を使うようになります。

喜多方では、瓦にもこの釉薬がかけられています。瓦の凍害を防止するためです。

   なお、中国地方の北部、山陰地方を中心に、
   喜多方の瓦や煉瓦よりも明るい、黄色味を帯びた赤色の瓦を多く見かけます。
   これも凍害防止を意図した瓦です。
   瓦焼成の最終工程で塩水をかけるのだそうです。
   そこから「塩焼き」と呼ばれています。
   この工程によって、瓦の表面にガラス質の皮膜が生じるのです。
   この地域の建屋は大半がこの瓦で葺かれていたため、独特の風景を醸し出しています。
   もっとも、最近は、塩焼きではなく、釉薬をかけて同じような色に仕上げています。


このように、喜多方独特の煉瓦の色は、塗料見本やタイル見本のなかから、お好みの色を選んだわけではなく、そうなる「謂れ」があるのです。
ある時代までの建物の形や色などは、そのどれにも「謂れ」がある。そうなるべくしてそうなっている、のです。
その背後にあるのが、建物をつくる「本当の技術」
なのだ、と私は考えています。

    それにしても、最近の新興住宅地に建てられる建屋の屋根葺材や外装の「多様さ」はいったい何なのでしょう。
    建物の建つ地域特有の「環境条件」への対応など、《最新の科学技術》で整えられる、と思っているらしい。
    それゆえ、そこには、その地ゆえの「そうでなければならない謂れ」が見当たりません。
    一言で言えば、《住宅メーカー》という「建築家」の、勝手のし放題。
    私の見るかぎり、諸地域の屋根や、煉瓦造や石造、あるいは木造、RC造・・・特有のそれを模したもの。
    その材料の選択の根拠は、いったい何処にあるのでしょう。ベルラーヘの言を思い起こします。
    「まがいものの建築、すなわち模倣、すなわち虚偽(Sham Architecture;i.e.,imitation;i.e.,lying)」
    後世の歴史家は、この「現象」を、どのように解釈するのでしょうか。

   蛇足 
   石材でも多孔質の石材は凍害を受けます。
    ところが、同じ多孔質の石でも、凝灰岩の大谷石は、雪が積っても凍害を受けません。
   よく分かりませんが、多分、組成物質の結合力が強いからではないでしょうか。
   寒冷地である栃木県日光市内に、大谷石造の教会があります。
   大正頃の建設ではないかと思いますが、健在(のはず)です。
   また、大谷石は火にも強い。暖炉を花崗岩でつくると割れてしまいますが、大谷石は割れません。
   ライトも暖炉を大谷石でつくっています。

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感想・・・・強いリーダー?

2011-06-18 10:59:27 | その他


梅雨のなか、いろいろな花が咲きだしています。
これはキハギ。
すさまじく成長力のある木です。いまごろから夏の間、ずっと咲き続けます。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

昨今、強いリーダーを望む《論調・意見》が、政界や一部のメディアに見られます。
私は危惧を感じています。第二次大戦前の頃を想起させるからです。

私は、昭和16年、開戦時4歳でした。詳しくその時代の空気を知っているわけではありません。ただ、戦時中そして昭和20年以降を通して、世の中の「変節」「ご都合主義」を、詳しく見てきました。子どもだったから、かえってよく素直に見えたのかもしれません。
だから、強いリーダーを求める「深意」に、危惧を感じるのです。

そして、強いリーダーでありたいと考える「リーダーを自認する方がた」は、その「補完」として、数をたのみにしようとします。数の多少でものごとを決めるのが民主主義だと思い込んでいる。だいたい、「大政党」からしてそういう気配。ことによると、数の大小が真実を決める、とでも思っているのでは、と考えたくなります。「ものごとの『理』」には目を遣らない・・・。それでいて科学技術を云々する・・・。

そういう《リーダー》願望人が関西や中部圏の知事や市長にいるようです。
どうみても、国家統制をよしとする種族、大政翼賛会志向の人間のように、私には思えます。君が代斉唱を条例で定めてしまったり、鳥取県の議員数は6人でいい、などと言うところに、その気配が窺われます。いずれも私より、若い方です。

そんな折、香山リカ氏が、ダイアモンド・オンラインで、その点について明解に「解説」していました。下記からアクセスできます。

「強いリーダーは必要か」

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「形」の謂れ(いわれ)-2・・・・煉瓦の形状 と 軒蛇腹・再び

2011-06-15 10:33:22 | 形の謂れ
[文言註記追記 15日 10.36][リンク先追加 15日15.20][解説追加 16日 7,13][註記追加 16日 7.50][説明訂正 16日 19.24]

先回は、喜多方では珍しい「組積煉瓦造」の蔵の軒蛇腹を見てみましたが、
今回は、喜多方で最も多い「木骨煉瓦造」の蔵を見ることにします。
そのいわば代表的と言えるのが、
喜多方の煉瓦を焼成している樋口窯業の登り窯から北0.5kmほどの「三津屋」集落にある「若菜(わかな)家」の蔵です。
その外観が下の写真です。



正面がいわば納屋にあたる作業蔵(現在は観光レストランになっています)。右手は味噌蔵だったと思います。

よく見ていただくと、両者の煉瓦の「目地」が違うことが分ります。
正面の作業蔵は、煉瓦の長手の見える段の上下は、煉瓦の短手:小口が並んでいますが、味噌蔵の方は、各段とも長手が並んでいます。つまり、前者は、長手と小口が交互に並び、後者では各段が長手、ということです。

これは、《化粧》、つまり、《そういうように見せたい》ためにそういう形状の目地になっているのではありません。
これには「謂れ」があります。
その「謂れ」は、「煉瓦の積み方」です。

これが極めて重要なことなのですが、
「煉瓦の積み方」は、表面の見え方に大きく係りはしますが、その「見え方」のために「積み方」を変えているわけではないのです。
これらは、「どのように積むのがより良いか」、そう考えた結果の「見え方」なのです。
ここでも、滝 大吉 氏の説く「建築とは・・・・・、(材料を)成丈恰好能く、丈夫にして、無汰の生せぬ様建物に用ゆる事を工夫すること」が実行されているのです。
つまり、そのような「工夫」が、よい「結果」を生む、ということです。

   残念ながら、最近の建築の「見え方」には、こういう正統な「工夫」ではなく、
   例の水戸芸術館の宙に浮く花崗岩のように、
   「作家」の「かくかくしかじかに見せたい」ための、ただそう見せたいための(その理由は不明)
   《工夫》ばかりが目に付くように思います。
   私には、本末転倒に見えます。

作業蔵と味噌蔵の目地の違いは煉瓦の積み方にあり、
作業蔵は煉瓦「1枚積み」、
味噌蔵は煉瓦「半枚積み」なのです。

「1枚積み」、「半枚積み」とは、煉瓦を積んでできる「壁の厚さの呼び方」と言ってもよいでしょう。
つまり、「1枚積み」とは、壁の厚さが「煉瓦長手の長さ1枚分」、ということ。「半枚積み」は、「長手寸法の半分の厚さ」、ということになります。積み方は後述します。
このことは、煉瓦の長手の寸法と短手の寸法が、約2:1の比率になっていることを意味しています。

   なお、先回紹介した樋口家の煉瓦蔵は、1枚半積みです。
   1枚半積みについては別途書きます。

現在市販の煉瓦:JIS規格では、長手が210mm、短手が100mmです。そして厚さは60mm。
なぜ210mmに対して100mm?半枚・半分ではないではないか?
これは、短手・小口を横並べにして、隙間すなわち目地を10mmとると210㎜になる、という計算です。
目地の10mmは、これも単なる化粧のためではなく、そこに接着材を入れるための隙間。
接着材のことを「モルタル( mortar )」と言います。

   英和辞書で mortar を引くと、「しっくい」と出てきます。
   古代の煉瓦造ではモルタルに石灰を使っていました。石灰=しっくいです。
   日本でも同じです。ポルトランドセメントが生まれるまでは、どこでも石灰なのです。
   セメントの意味も「接着材」です。   
   ポルトランドセメントを使ったモルタルがセメントモルタル。現在は、これを「モルタル」と呼んでいる。
   初期の喜多方の煉瓦造もしっくい目地です。

では、なぜ厚さが60mmか?
これは、他の煉瓦の寸法から推察して、小口を縦に3個並べ、その隙間:目地を2つ分とった総和が長手寸法になることを意図したのではないか、と思っています。
ただし、目地10mmとすると、小口3個分では200mmにしかならず、実際にはこれで苦労します。

ところで、JISで、なぜ210×100(×60)mmになったのか?
これがよく分らないのです。

   註 調べてみると、JIS規格は、215×102.5×65で、
      市販の 210×100×60 は「当分の間認める」とあります。
      なお、215×102.5×65 は「製品寸法」で、「呼び寸法」は 225×112.5×75とのこと。
      このようにした理由は不明です。[註記追加]

喜多方の煉瓦はこの「規格」ではありません。

喜多方の煉瓦は、平均して、7寸2分×3寸4分5厘×2寸2分です。
   一個ずつ、大きさは微妙に異なります。
   いろいろ調べて、多分、これを「基本寸法」にしてつくったに違いない、と推定した寸法です。
   どうやって調べたか?
   壁面で計るのです。その平均値。いわば疫学的調査。

この寸法は「理」が通っています。
目地を3分として、
短手横並び2個:3寸4分5厘+3分+3寸4分5厘7寸2分
小口横並び3個:2寸2分+3分+2寸2分+3分+2寸2分7寸2分

ではなぜ長手が7寸2分なのか。
これは、喜多方の木骨煉瓦造と関係があります。

喜多方では、先ず木造の骨組をつくります。通常の木造建築の上棟の段階まで進むと、次いで、その軸組の間に煉瓦を積む、という方法を採ります。

木骨煉瓦造は、各地域にありますが、喜多方では、軸組の外側に積むのではなく、軸組に噛むように積んでゆく点に特徴があります。
喰い込みは、おおよそ柱径の半分ほど。

   普通の木骨煉瓦造は、軸組の外側に積むため、地震のとき、木造部と煉瓦造部とが別の動きをします。
   明治期の東京や横浜には、このつくりがかなりあったようですが、ほとんどが地震で倒壊したようです。
   喜多方の場合は、新潟地震の際の倒壊例はないとのこと(煙突の類は倒壊しています)。

   以前に、1枚積みの木骨煉瓦造の実際を紹介しました。「煉瓦を積む」をご覧ください。[註記追加 16日 7.50]

喜多方の木造建築の基準寸法:基準柱間は6尺が一般的です。
この柱間1間に対して、煉瓦を長手で8本横並べに割り付けたとき、1本あたり7寸5分、これから目地分3分を引いて7寸2分。これを基本の寸法にした、と考えられます。

   基準柱間のような「拠り所」がない場合の煉瓦寸法は、どのように決められるのか、については、
   以前に紹介した“EARTH CONSTRUCTION”にも解説がなかったように思います。
   おそらく、手で持てる大きさ、重さと構築物の丈夫さとの兼ね合いで決めるしかないのだと思われます。
   これも以前に紹介した会津・軽井沢銀山の煉瓦、これは途方もない大きさでした。
   なお、「軽井沢銀山の煙突」の記事から、“EARTH CONSTRUCTION”の当該部分にアクセスできます。

少し煉瓦寸法の説明に深入りしました。これも「謂れ」の一つだからです。

   アルミサッシの新規格、これが「謂れ」不明の訳の分らないモノ。
   従来の既製建具の「規格」には、実際の「暮し」に裏打ちされた「謂れ」があった。
   「建物づくりと寸法-1」「建物づくりと寸法-2」参照。[リンク先追加 15日15.20]
   新規格にはない。
   新規格をつくったのは、非現場の人たち。ヤミクモに200mmピッチで「整理した」だけ・・・。
   こういう非合理なことを、現場の人はやらない。


若菜家の木骨煉瓦造、作業蔵の構造分解図は下図のようになります。

   

この場合は、煉瓦1枚積み、つまり、壁厚は、煉瓦長手寸法分です。
1枚積みの場合、最初に壁厚方向に1枚ずつ横並べに積むと、次の段は、それに直交して壁の長さ方向に、先の煉瓦の上に2列積んでゆきます(最初の段をどういう積み方にするかは任意です)。これが一番簡単な積み方で、通称「イギリス積」と呼ばれます。
   
   同じ1枚厚の壁を、同じ段に長手と短手を交互に並べる積み方、をフランス積みと通称しています。
   他にもありますが、イギリス積が間違いく積めます。[解説追加 16日 7.13]

そのときの重要な注意点は、下の段と上の段の「目地が重ならないこと」、つまり目地が上下繫がらないことです。このことは、“EARTH CONSTRUCTION”でも触れられています。
繫がる場合を「イモ」と呼び、繫がらない場合を「ウマノリ」と呼んだりします。
これは、万一亀裂が入り始めたとき、亀裂が進行しないようにするためです。
その結果、目地が写真のようになります。

一方、味噌蔵では、各段、長手が並んでいます。これは、半枚積みだからです。
そして更に言えば、この蔵は典型的な「木骨煉瓦造」ではありません。
つまり、この煉瓦は「外装」、木造軸組の外側に長手一皮の煉瓦壁を張り付けたつくりなのです。壁面につくられたアーチを見ると分ります。
これは「煉瓦造」風を装ったつくり、言ってみれば、きわめて現代風なつくりなのです。けれども、煉瓦造の本物を手本にしていますから、現代のそれとは比べものにならないほど出来はいい・・・!


この二つの若菜家の蔵の軒先は、先回の樋口家の蔵のそれとは大きく違い、しっくい仕上げになっています。
若菜家野例では曲線を描いています。直線で納めたのが下の写真です。
喜多方の土蔵造は大抵この形式の軒になっていて、「繰蛇腹(くり・じゃばら)」と呼ばれています。
この手法を木骨煉瓦造でも踏襲した、と考えられます。
喜多方の木骨煉瓦造が、以前から喜多方にあった土蔵造の漆喰壁を煉瓦壁に置き換えたつくりである、ということを示す証なのです。



下は、その外観がいろいろなところで紹介されている喜多方北郊杉山にある蔵座敷。ここでは、土蔵造の軒は深くありませんが、土蔵造の上にいわば覆い屋を掛けた形で軒の出の役を覆い屋がしています。



曲線にしろ直線にしろ、そのつくりかたは構造分解図のように、小舞を掻いてしっくいを塗りつけています。
これは、普通の土蔵の方法とは違います。代表的な土蔵の例が下図です。
近江八幡・西川家の土蔵。関西の土蔵の典型と言ってもよいかもしれません。



ここでは、少し出た垂木に縄を捲き、それを下地にしっくいを塗り篭めています。
その工程写真は、「土蔵の施工」で紹介させていただいています。

喜多方の建物のような深い軒の土蔵造の場合、商家や城郭のように深く出した垂木や出桁・梁を一々塗り篭める方策もありますが、あまりにも手間がかかりすぎ、そのためこのような方策:「繰蛇腹」が考えだされたのではないか、と思います。今流に言えば、耐火被覆、防火被覆です。

なお、上のモノクロ写真の例の建屋の煉瓦は、目地から分りますが、「積んだ」と言うより、「張った」と言った方がよい例です。いわば厚いタイル張りです。外壁を風雨、風雪から護るための策です。
杉山の蔵座敷の腰には、煉瓦ではなく竹がスノコ状に張られています。煉瓦が現れる前の仕様だと思われます。[説明訂正 16日 19.24]

なぜ、腰に煉瓦を張るか?
一般に、建物の壁の下部:腰と呼ばれる部位は、日本のような風をともなう雨の多い地域では、雨に打たれることが多い。雪国の場合は、積った雪の沈下にともない壁材が剥落することがあります。積った雪が壁面に凍りつき、雪が沈下する際に壁を傷めるのです。

   雪の少ない地域でも、腰は雨に打たれます。塗り壁では必ず被害を受けます。
   したがって、風雨の激しい地域では、腰の塗り壁部分の表面を板壁で覆います。
   関西や四国地方では、腰の板壁は縦羽目がほとんどですが、これは、水はけのよさを考えたものでしょう。
   横羽目は、水のはけが悪いのです。
   ところが、最近見かける建物では、腰部分を塗り壁、上部を板壁にする例が多い。
   おそらく、西欧の石積み、煉瓦積の建物の外観だけを真似て設計したのではないでしょうか。
   「謂れ」が考えられていないのです。
   以前紹介のイタリア・ドロミテに、地上階を石積みでつくり、その上を木造にした例があります。
   [文言追記]
   
今回紹介の「若菜家」の煉瓦の色が、2階部分と下部で色が違っています。2階部分は明るい赤、下部は暗赤色。
こうなる「謂れ」と「腰に煉瓦を張る」こととは関係があります。
この色違いは、単なる「化粧」ではありません。
その「謂れ」は、先回紹介の「樋口家」の蔵の腰の部分の「姿」に示されています。
次回は、その点について。

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「形」の謂れ(いわれ)-1・・・・軒蛇腹

2011-06-08 11:55:36 | 形の謂れ
[文言補訂 15.04、18.03][誤字訂正 9日16.00]

水戸市にある「水戸芸術館」の前庭に、《宙に浮いている》「御影石(花崗岩)」が置かれています。いわゆる「アート」です。
もちろん、重い「御影石(花崗岩)」を自在に宙に浮かすことは、この地球上では不可能です。
裏へまわると、鉄の棒で石を支えているのが見えます。おそらく「作者」は、その《想いを貫徹する》ために(!)、見えない鉄の棒が欲しかったに違いありません。

こんな具合に「意表をつく」のは簡単なことです。
今や《芸術》の世界では「意表をつく」ことに躍起になっている、そんな風に私には思えます。
そして、その端っこに、「建築家」の「作品」もあるようです(多くの「建築家」は、端っこではなく中央に居たいようですが・・・)。

   設計した建物を「作品」と称することに、私は違和感を感じます。
   私にとっては、自分が設計した建物は、私の「作品」ではなく、あくまでも「設計事例」にすぎません。

   「作品」と言ってしまったとき、その建物に必ず存在するはずの「人」が消えてしまいます。
   つまり、「作品」と称すると、それは、「作者」一個人のものになってしまい、
   その「建物に存在する人びと」(そこを「使う」、あるいは、そこで「暮す」と言ってもよい)は無関係な存在、
   あるいは、「人びと」は居なくてもよい、
   あるいは、「作者」が適宜に扱える点景としての単なるモノになってしまうはずだからです。
   《アート》用語で言えばオブジェ。
   はっきり言えば、「作者」にとっては、そこに居る人びとは、無用なのです。
   それは、多くの「建築作品」を見れば自ずと明らかになります。
   まさに、「意匠」あるいは「真美」とは何であるかは別として、伊東忠太の言う
   「実体を建造物に藉り意匠の運用に由って真美を発揮するに在る」を実行しているのです。[誤字訂正 9日16.00]
 
私の知る限り、かつての「芸術」には、こんな類の「作品」はなかったように思います。
もちろん、建物にもそんな類のものはなかった、そんな「作者」の「作品」などあろうものなら、人びとから「総好かん」を喰ったに違いありません。
その意味では、現代はお人よしばかりの世の中になってしまった・・・。
少し大げさに言えば、「『もののかたち』とは何か」について問う「習慣」が喪失してしまっている、そんな風に私には思えるのです。

ここしばらく、トラス、特に「横川の変電所」のトラスの断面図を紹介した記事と、「竿シャチ継ぎ」解説の記事へのアクセスが多いのが気になっています。
もしかすると、トラスや竿シャチ継についての「宿題」「課題」でも出されているのかもしれません。

たしかに、「トラス」も「竿シャチ継」も、見事な技術・形です。
ただ、それらを「その部分、形だけを知る」ことで終わってしまわなければいいが、と思っています。
今の世の風潮として、そういう《知識》だけを集めて終わってしまうのではないか、という「危惧」を感じているのです。

「トラス」という技術・形も、「竿シャチ継」という技術・形にも、そうしなければならない「謂れ」がある、その「謂れ」に思いを馳せることこそ必要なのではないか、と思うのです。

   こう書いているとき、メールで、「恐るべき本」が世に出回っている、との話を知りました。
   《古民家鑑定士》資格という民間の団体が勝手につくった《資格》があるようです。
   その講習会の《教本》に、《本当は服を掛ける目的ではない長押》という見出しの項目があるのだそうです。
   こういう怖ろしい《知識》が盛り込まれた《教本》で古民家鑑定の資格が得られる・・・!
   ついでに言えば、目の玉が飛び出そうな高額な講習料の講習数回で《検定》が受けられる・・・。
   日本ってこんなエゲツナイことが当たり前なところになってしまった!
   

そこで、予告した喜多方の煉瓦造の見やすい大きさの図版の紹介かたがた、この点について考えてみたいと思います。

次の写真は、喜多方に現存する煉瓦造建築では最も古い一つと考えられる蔵の外観です。
喜多方の煉瓦造は、九割方が「木骨煉瓦造」ですが、これは煉瓦を積んで木造の床と屋根を架けた「組積煉瓦造」の典型と言ってもよい建物です。
   なお、以下の写真、図版は、2006年12月に「実業家たちの仕事」で使用したものです。



さて、この外観から見てゆきます。

煉瓦造の建物で現在手近で見られる例としては、横浜の倉庫群ぐらいしかありません(もちろん、各地に残っていますが、大都会には滅多にありません)。そしておそらく、これらが、「煉瓦造とはこういう形をしているものだ」、といういわば基準形になっていると言ってもいいかもしれません。
たとえば、上の写真の軒まわりの煉瓦のデコボコ。
普通「軒蛇腹(のき・じゃばら)」と呼び、この場合は煉瓦造なので「煉瓦蛇腹」と呼んでいます。横川の丸山変電所の図を見ても、軒まわりに同じように設けられています。
そういうことから、これは煉瓦造建築特有の「軒まわり」に設ける「飾り」、いわゆる「意匠」と思う方もおられるかもしれません。

しかし、単なる「飾り」ではないのです。この「形」には「謂れ」があるのです。

下図は、この建物の構造図解です。

      

煉瓦造の軒蛇腹は、壁の本体から、煉瓦を一段ごと少しずつ外側に迫り出してつくられます。
迫り出した部分の重心位置が、本体の壁より大きく外に出てしまうと、煉瓦の重さで崩落してしまいますから、そのあたりの兼ね合で「迫り出しの出」が決まってきます。

   子どもの頃、積木遊びで、どれだけ迫り出せるか、やったことのある方もおられるでしょう。

   なお、煉瓦を円形に積み、このように一段ずつ、円の内側に少しだけ迫り出し積み続けてゆくと、
   つまり、等高線状に煉瓦を積んでゆくと、
   最終的に円錐形あるいはドーム形の構築物ができ上がります。
   イスラム圏には、この方法でつくられた直径40m近いドームがあります。

この迫り出しには、そうする理由:「謂れ」があります。

屋根の軒先は、一定程度、壁の外面より外に出る必要があります。
そうしないと、屋根から流れ落ちる雨水が、壁を伝わって流れます。
日本の雨は、多くは風をともないますから、ただでさえ壁が濡れます。それゆえ、日本の建物では軒の出が大事に考えられてきました。
木造の場合は、垂木で軒の出を調節します(「出桁(だしげた)」、「出梁(だしばり)」という方法もあります)。

   この点については、いろいろなところで触れてきました。
   ところが、若い方がたの中には、軒の出を嫌う方が多いようです。
   私も若い頃、そういう時期がありました。軒の出の「恰好がつかない」のです。
   軒の出の調子を整えられるようになったのは、大分経ってからのことでした。
   それは、建物を「断面図」で考えるようになってからのこと。
   「断面図」は、「空間」を紙の上でとらえる最高の手段の一つということに気付いたのです。

煉瓦造でもその方法を採ることはできますが、煉瓦造の壁と木造の軒の接点で、きれいに納めるのがやっかいです。
その上、この建物の場合は「蔵」ですから、その部分を木造にするわけにゆきません。
   土蔵づくりでも、軒の出は、普通の木造よりも少ない。
   それは、軒を土で塗り篭めるには、軒を深く出せないからです。[追加 18.03]
そのためには、煉瓦造で軒を納めるのがいい。そこで考えられたのがこの「蛇腹」を設ける方法です。蛇腹の上で、木造の軒先が止まっているのです。

   西欧など煉瓦造の多い地域でも、同じように納めています。
   煉瓦造が多い地域とは、すなわち木材の得にくい地域。
   ということは、すなわち、雨の少ない地域。
   それはすなわち、軒の出は深くする必要のない地域です。[補訂 18.03]
   この煉瓦造の多い地域の煉瓦造の方法を、喜多方で煉瓦を積んだ「実業家」が会得していたようです。
   以前の紹介の際に、その「実業家」は、東京へ出て煉瓦積を習ったことに触れました。

また、会津のような雪の多いところでは、屋根の上でかたまった雪は、直ぐには地面に滑り落ちるわけではなく、しばらくの間、いわば柔らかい餅のように軒先から垂れ下がり、しかも内側(壁側)に曲ってきて(よく分かりませんが、おそらく、雪の層の表側が裏側よりも伸びるために内側に曲るのでは?)、壁に接して壁を傷めてしまうことがあるそうです。そのために、ある程度の軒の出が必須。

ですから、この蔵の場合は、煉瓦造の本場のそれに比べ、蛇腹が大きくなっています。横川の変電所の例も、この蔵のようには出ていません。横川は寒いけれども雪は少ない。
妻側の蛇腹もかなり出ていますが、軒先の蛇腹を妻側に回してくると、必然的にこうなります。
   大分昔に青森で聞いた話ですが、軒先から垂れ下がった柔軟な雪の板は、
   曲ってガラス窓にぶつかり、ガラスを割ってしまうそうです。


「建築学講義録」の著者、滝 大吉 氏は、その書の中で、
   建築学とは木石などの如き自然の品や、煉化石、瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を
   成丈(なるたけ)恰好能く(かっこうよく)、丈夫にして、無汰の生せぬ様建物に用ゆる事を工夫する学問
と書いていることを紹介しました。
   この場合の「建築」は、字のとおりの意味、すなわち「構築する」「つくる」ことを指しています。

私は、ここに書かれていることが、まさに、「デザイン: design 」ということの本義であると考えています(英英辞典で de-sign の原義を調べても、同じような意です)。
つまり、「このようにする」「このように考える」ことが「意匠」なのです。「謂れ」を考えることなのです。
「意匠」とは、「匠」に「意」をそそぐことなのであって、単に「形」を「いじくる」ことではない、単なる「思いつき」ではない。ましてや「意表をつく」ようなことではないのです。

   「謂れ」:そう言われる(そうされる)正当な理由(新明解国語辞典)

その意味では、「作品」づくりに没頭する最近の「建築家」のつくる建物:「作品」には、「形」はおろかその全てに「謂れ」がない、と言えるかもしれません。

ここしばらく喜多方の煉瓦造を題材にして、「『形』の謂れ」について考えたいと思います。

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求められるのは「実業者」

2011-06-02 22:42:22 | 専門家のありよう


梅雨に入って、庭の遊水池(とは少し大げさ、雨落溝の雨水を一時的に溜めている小さな池:農業用のFRP製500リットルの水槽)のヒメスイレンの葉の上で、夜が更けてくるとどこからか出てきて鳴き交わすアマガエルのうちの一匹。今は全部で3匹。にぎやかです。
フラッシュにもびくともせず。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

先回、お粗末な「建築家」の思考について書きました。
もちろん、「お粗末」とは、私の感想です。

むしろ、お粗末と思わない方がたの方が、現在の建築界では、多いのかもしれません。
なぜなら、建築設計に係わる方の多くが、皆、一儲けしようと思っているか、あるいは、《アーティスト》でありたいと思っているか、そのどちらかだ、と言っても少しもおかしくないような状況に見えるからです。
つまり、「建物をつくる」という行為が、いったい、どういうことであるのか、皆忘れてしまっているように、あるいは、分ったつもりでただ「やり慣れた」行為をしているように、私には思えるのです。
そうであるならば、先回紹介したような「建築家の発言」が「脚光を浴びる」のも合点がゆくというもの。

建築界がこのようになった最大の要因は、明治の近代化策にあった、というのが私の持論です。
簡単に言うと、明治に始まった「建築教育」、その背後に潜む「思想」にある、ということです。

その「思想」にいわば反旗をひるがえした人がいなかったわけではありません。
「近代化」の教育を受けたにもかかわらず、その問題点を自ら修正すべく動いた人びとです。その一人が滝 大吉 氏です。
滝大吉 氏が重視したのは「実業者(家)」の存在でした。

「実業者(家)」とは、実際に建物づくりに携わる人たち、先回紹介した「現代の代表的建築家」とは異なる人たちです。
滝 大吉 氏は、「実業者(家)」がいなければ建物はつくれないことを実感していたのです。それは、今だって変りはありません。

現在、多くの建築設計者は、「設計図」を描きます。
しかし、多くの場合、その「設計図」では建物はつくれません。どのようにしてつくったらよいか、その図には示されていないのが普通だからです。
言ってみれば、まさに「絵に描いた餅」。つまり、「こんなものにしたい!」という「設計者」の《イメージ》にすぎない。
   何故、「こんなものものにしたい」のかは、多くの場合、不明です
したがって、必ず「施工図」なるものが必要になります。そして、そうするのが「当たり前」にさえなっています。しかし、本人には「施工図」が描けないのが普通。
私は、それでは「設計」図ではない、と考えています。できるかぎり、設計図だけで現場が仕事ができる、そういう図にしたい。そうでなければ「設計」の意味がないのではないか。
   前川國男 氏の(事務所の)設計図は、現在の多くのそれとはまったく違い、本当の設計図になっています。
   あの時代の設計図は、大抵そうなっています。皆、本当の「建築家」だった!

   実は今、心身障碍者施設の設計の追い込みでてんやわんやです。
   できるかぎり、設計図だけで仕事ができるように、いろいろと仕事の手順を考えながら描いています。
   それゆえ、手直しが多い!!


では、現在のような状況に何故なってしまったのか、滝 大吉 氏は何をしたか、当時の「実業者」の仕事はどんなものだったか・・・などについて、以前に書いた一連の記事の一部をを下記にまとめてみました。2006年に書いたものですが、私の考えは何ら変っていません。

日本の「建築」教育・・・・その始まりと現在 どこで間違ったか
まがいもの・模倣・虚偽からの脱却・・・・ベルラーヘの仕事 建物の形体とは何か
「実業家」・・・・「職人」が実業家だった頃 滝大吉著『建築学講義録』について
実体を建造物に藉り...・・・・何をつくるのか  《建築計画学》の残したもの
「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-1
「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-2
「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-拾遺
学問の植民地主義  《権威》の横暴

なお、「実業家たちの仕事」で紹介している喜多方の煉瓦造の図が小さくて読みにくいので、近日中に大きな図版で紹介させていただきます。

 

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