3年が過ぎました・・・

2016-01-18 17:16:53 | 回帰の記

黒侘助がぽつりぽつりと咲き出しました。雨が降っているので、数年前の写真を借りてきました。

東京では雪が積もったようですが、こちらは雨が降り続いています。

昨日は阪神・淡路震災発生から21年目でした。
そして今日18日は、私が脳出血で入院した「記念日」です。ちょうど3年が過ぎたことになります。
この間、再発もなく無事に過ごせたことに感謝しています。
相変らず左手足にシビレがあり、歩くとき「ロボット歩行」になりますが、日常的には杖を使わずに済んでいます。
脳に「高次脳機能障害」が遺らなかったことは、本当に幸いでした(暮の免許更新時に受けた高齢者講習会での「認知機能」検査は86/100点でクリア)。
   ロボット歩行:左脚に重心が移るとき、ふらつくので、それを防ごうとして慎重に動き、ぎこちないロボットのような動作になるのです。
           一般に、ふらつきは、「めまい」に拠るものとされ、「めまい」は脳機能に問題があり生じる現象らしいですが、
           私の場合、目を閉じて片足で立ってもそんなにふらつきませんから、
           歩行中にふらつくのは「めまい」に拠るのではなく、左脚の筋力の不安定に拠るようです。
           これは、単に筋力の強さだけの問題ではなく、動作の指令・命令系統の問題でもあるらしい。鈍いのです。
           それを克服するには、体を鍛えるしかない。他の指令・命令系統に代行を促すことのようです。
           そのため、いわゆるリハビリで、雨降りでなければ朝夕欠かさず数キロ歩いていますが、動きがまだぎこちないのです。
           それでも、傍から見ていて、このごろ、歩くスピードが速くなったそうです。諦めずに続けるしかないようです。

寒さは強敵です。みごとに!血圧が上がります。発症時には、170を超えていたらしい。今は、毎朝の通常の測定値は大体120~130。これが冷えてくると、例えば外気が氷点下1~2度になると、あっさりと140に近づくのです。人体というのは大したものだ、と感心します。体を温めようと血流を増やしてくれるのです。それゆえに血圧が上がる・・・。それゆえに、着ぶくれして外に出るようにしています。

まだまだ寒くなるようです。皆様も体調にお気を付けください。

  ところで、「中世ケントの家々」の紹介、やっと2/3ほど終ったところです

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回帰: re‐habilitation :の記-了・・・・「感覚」の復権 : 療法士の方がたへの敬意と謝意を込めて

2013-08-04 14:36:41 | 回帰の記
この夏は、七月の半ばころからミンミンゼミが鳴いています。一方、いつもなら朝から夕方まで鳴き続ける「夏」を代表するアブラゼミが、今年は少ないような気がします。朝夕、あたり一帯に響き渡るヒグラシも少ない。
いつも今頃下の写真のように咲き誇る百日紅も、今年は、葉の繁りのなかに埋もれています(下は一昨年の様子です)。
気象がおかしい、これが実感です。




退院してほぼ二か月半が過ぎました。発症から六か月半。当初は、今ごろ退院ではないか、と考えていました。

今は、左手指先に少し鈍いしびれがあり、同じく左膝の後ろ側がいつも張っている感じが遺ってはいますが、一応普通の暮しを行えています。
これは、まったく初期の適切な治療と、その後の「 re-habilitation の成果」であることは間違いありません。

そして、この折角の「 re-habilitation の成果」の「後退」を避けたいと考え、朝1㎞、夕方2~3㎞ほど歩き(犬に引っ張られて・・・)、また、左手を極力使うよう努めています(「引戸」の開け立てはかならず左手を使う、荷物を左手で持つ・・・など)。

さて、すでに何度も触れてきましたが、私が re-habilitation で「得たもの」は、
「一度失せかかった体の機能」の「回復・回帰」だけではなく、
「人の存在:行動・行為:の『基本』はすべからく『感覚』にある」という「事実」の「確認」が改めてできたことだった、と言えます。
つまり、「感覚」という「概念」、その「地位」の堂々たる「復権: re-habilitation 」です。
    re-habilitation は、日本語では「社会復帰」と訳されています。語本来の意味について、二回目の記事で触れましたが、その部分を再掲します。
   ・・・・・
   あらためて、“rehabilitation” の意味を辞書で調べてみました(研究社「新英和中辞典」に拠ります)。
   rehabilitationとはre-habilitation 、つまり、habilitation を「新たにする」「原状に復す」ということになります。
   では、“habilitation” とは、どういう意味か。
   これが厄介な語。辞書には、habilitate 「特に、ドイツの大学教員の資格をとる、資格があること」とあります。
   ゆえに、その名詞形 habilitation には、察するところ「資格(がある)」能力(がある)」という意味があるらしい。
   それゆえ、re-habilitation とは、「資格復権」「能力再建」とのような意味になるように思われます。
   「社会復帰」という日本語訳は、
   人としての通常の能力を復権すれば、普通に社会で暮せるようになる、とのような意を込めての「意訳」だったのではないでしょうか。
   ・・・・・

私は、学生のころから、建築の設計とはどういうことなのか考え続けてきました。
いわゆる《芸術家肌の建築家》と異なり、建物(の形)を「ひらめきで思い付く」などというのは、私はまるっきり「不得意」でした。だから、はじめのうちは、私なりに「気に入った」既存の事例を「真似る」ことでなんとか「設計(の真似事)」をしていたように思います。その一つがA・AALTOの設計事例であり、そして日本の「古典」事例、特に近世の諸事例でした(日本の古典は、可能な限り、実際に観にゆきましたが、AALTOの設計事例は、書物に拠るしかありませんでした)。
しかし、それでは「先がありません」。「こんこんと湧き続ける発想の泉」はないのか?いろいろと右往左往した結果たどり着いたのが、これまで書いてきたような考え方だったのです。その考え方の根本は、以下に要約できます。

人は常に「何か」に囲まれています。その「何か」を、surroundings と呼びました。日本語なら「環境」です。
なぜ surroundings という語を使うか、については、「 surroundings について-1」で触れました(「空間」という語を使ってもいいのですが、かえって誤解を生みかねません)。
surroundings とは、この記事でも書きましたが、「飛ぶ鳥にとっての『空』」、「魚にとっての『水』」にほかなりません。人にとって、「空」や「水」に相当するもの、そのことを指しています。
人は常に surroundings の「中」に在り、そこを離れて在ることはあり得ず、ときどきの状況に応じ、surroundings に「対応して」行動しているのです。道元の言葉を借りれば、次のようになります。
   ・・・・・
   うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。
   ただ用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。
   ・・・
   鳥もし空をいづればたちまちに死す。
   魚もし水をいづればたちまちに死す。
   ・・・・・
     この道元の言葉に出会ったのは、だいぶ後のことです(上記記事で、もう少し詳しく紹介しています)。
そして surroundings に「対応しての行動」は、「私たちそれぞれの『感覚』に拠って制御されている」のです。これについても、何度も書いてきました(先の記事でも書きました)。
この点について、再び、たとえ話で説明します。
たとえば、ハイキングをしていて、休憩して昼食にしよう、と思ったとき、人はかならず、そのあたりで、「休憩し、食事をするのに相応しい場所」を探すでしょう。
   それとも、どこでもいい、と思うでしょうか。
   ハイキングのような場面では、そんなことはないはずです。
では、場所決めにあたり、人は、休憩し食事をするに相応しい要件を列挙し、要件ごとに「採点・評価」して決めているのでしょうか。
これは一見「最も現代風で《科学的な》方法」のようにも見えますが、そんなことはしないはずです。

大概の場合、一瞬のうちに、無意識のうちに、同行の人たち皆が同意を示す場所が決められるはずです。
そのときの、「ここにしよう」「ここでいい」という「判断」の「根拠」は、同行の人たちの「感覚」「感性」以外の何ものでもありません。
人は常にこのような「的確な判断」を行っているのです。しかし気付いていない!


私は、建物づくりの根幹は、この「事実」を知り、そして、それに基づき「 surroundings を整えること」が「建築の設計」である、との考えに辿りついたのでした。そして、その視点に立つと、いろいろな建物がらみの「事象」の説明がつくことも分ってきました。
要は、「建物づくりの根底になければならないのは、私たちの surroundings に対する『感覚・感性』を尊重することだ」ということになります。

けれども、「拠って立つ基盤は人の感覚・感性である」などという考え方は、到底、「共感を得ることは無理」でした。
なぜなら、これも何度か書いてきましたが、世の中では、「感覚」などというのは「人によって異なる」「不定」で「曖昧」なものゆえ、到底《科学的》とは言い難い、という《考え方》が《常識》になっていたからです。
そこで、いろいろな「思想書」の類を読み漁りました。そして、最先端の現代物理学者が、同様の趣旨のことを語っていることを知ったときは安堵したものです(「冬とは何か:言葉・概念・リアリティ」に載せてあります)。
もちろん、いわゆる「文学」の世界にも、同様の考えに立つ書が多数あることも知りましたし、いわゆる「哲学」や「言語学」の分野にも、・・・・・。
   そのいくつかは、すでに紹介してきました。

そして、「私たちの surroundings に対する『感覚・感性』を尊重する」という考え方に少しも問題はないのだ、と、いわば「自信を持つ」ようになったのです。
しかし、そこまで辿りつきながら、残念なことに、「人のあらゆる『動作・所作』そのものが、自らの『感覚』によって制御されているという『事実』の認識にまでは至っていなかった」のです!
論理的に言って、それは明らかに「片手落ち」、「理」が通っていません。
surroundings への「適応」は、この「動作・所作」の延長上にあるのです。そのことに気付いていなかったのです!私も、世の《科学的思考法》に毒されていたのかもしれません。

ところが、「思いもかけず」、 re-habilitation が、この重要な「事実」の存在、そして私がそれに気付いていないことを、あらためて私に認識させてくれたのです
具体的に、私の目を開かせてくれたのは、若い療法士さんたちでした。
彼らは、人のあらゆる「動作・所作」そのものが「その人自身の『感覚』によって制御されている」、この「事実」を、至極あたりまえのこととして会得し、その下で施療にあたっている、これは、私にとって、きわめて「新鮮かつ衝撃的なできごと」でした。簡単に言えば、私は私の「盲点」を鋭く突かれた思いがしたのです。

ここで、なぜ「会得」と記したか。
それは彼らは、この「事実」を、単に教科書的知識として「知っている」のではないからです。それは、彼らが、施療を受ける側の状況・状態にあわせ、施療法を「案出」することでわかります。「原理」を、臨機応変に「応用」できるのです。

たとえば、PT、OT両方で行われた訓練に、「手に持ったタオルで壁の上部を拭う」というのがありました。なるべく高いところを拭うには、手だけを伸ばすのではなく、足をしっかり踏ん張り、全身を精一杯伸ばす必要があります。PTの「目的」は、そうすることで、脚部をしっかり固定する練習になり、なおかつ姿勢の矯正の効果を期待したものと思われます。
一方OTでは、左手でそれをやるには肩から手先まですべてを働かせなければなりません。それにより、しばらく動かせないでいた部分を、いわば強制的に働かせることになるわけです。この訓練は、PT、OTとも、療法士さんは初めから予定していた訓練ではなく、施療の途中で、いわば急遽アドリブで追加した「課程」でした。ここに私は、彼らの、教科書的知識だけではできない臨機応変の「応用」能力を観たのです。
   この際使ったタオルも、その訓練用に、単に折り畳んだだけではなく手で掴みやすいように、「取っ手」部を縫いこんだ療法士さんお手製の「用具」でした。

人のあらゆる『動作・所作』そのものが、自らの『感覚』によって制御されているという『事実』は、その気になって、自らの「動作・所作」を観察してみれば、自ずと分ることで、しかもその「制御」の様態に感動を覚えるはずです。
今の世の中には、いろいろな場面で数多くの機械的センサーが働いています。
一方、人の「動作・所作」を制御しているのも、私たちの「感覚」というセンサーです。しかし、その性能に於いて、いかなる機械的センサーよりも、私たちのセンサーは優れているのです。
機械的センサーは、たぶん人のセンサーを目指しているのでしょうが、決してそれと同等になることはないでしょう。
なぜなら、私たちのセンサーは、機械的センサーとは異なり、いかなる状況にも微妙に対応できる能力があるからです。
たとえば、先に例に出した眼鏡のツルを掴むという「動作」について考えてみます。
眼鏡のツルを掴むという動作は、言葉にすれば一つですが、何のためにツルを掴むのかに拠って、掴み方が微妙に異なります。
単に眼鏡をはずすときと、眼鏡の曇りをとるためにはずすのでは、はずし方、したがって掴み方も異なりますが、自らの「動作・所作」を観察すると、その微妙な違いにスムーズに対応できていることに気付くはずです。そのとき、指先の動きも微妙に違っています。

この「動作・所作」を完全に機械で模倣しようとしたら、いったい、どのくらいの数のセンサーが要るでしょうか?
「何のために掴むのか」その場面それぞれに応じた数のセンサーを用意しなければならないはずです。しかも、「場面」の数は有限ではなく、いわば無限です。
しかしながら、私たちのセンサー:「感覚・感性」は、いかなる場面にも融通無碍に対応できているのです。
私は re-habilitation を通じて、人の「感覚」の(潜在)能力の大きさ・凄さに気付かされたのです。そして、いったい、その能力を本当に活用しているか、と思わず自問したものです


もしも、なお、「感覚」「感性」など不確定で曖昧だ、と思われる方や、《「科学的」データ》に拠る言辞こそ大事、と考える方には、一度でいいですから、「自らの動作・所作」について「観察」していただきたい、と思います。そして、「感覚・感性」をないがしろのできないことに気付いて欲しいと思います。それは、必ずや scientific とは、どういうことかについても示唆してくれるはずです。


一応平常(に近い)生活を可能にしていただき、さらに、重要なことを教えていただいた回復期病院の若き療法士さんたちには、どんなに敬意と謝意を表しても足りない、と思っています。
本当に有難うございました。



今回は、かつて、私に「感覚・感性」の重要さを教えてくれた書物の一つ、宮沢賢治の「春と修羅」「序」を転載しておしまいにさせていただきます。


       

  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (ひかりはたもち その電燈は失はれ)


  これらは二十二箇月の
  過去とかんずる方角から
  紙と硬質インクをつらね
  (すべてわたくしと明滅し
  みんなが同時に感ずるもの)
  ここまでたもちつゞけられた
  かげとひかりのひとくさりづつ
  そのとほりの心象スケッチです


  これらについて人や銀河や修羅や海胆は
  宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
  それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
  それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
  たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
  記録されたそのとほりのこのけしきで
  それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
  ある程度まではみんなに共通いたします

  (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
  みんなのおのおののなかのすべてですから)


  けれどもこれら新世代沖積世の
  巨大に明るい時間の集積のなかで
  正しくうつされた筈のこれらのことばが
  わづかその一点にも均しい明暗のうちに
    (あるひは修羅の十億年)
  すでにはやくもその組立や質を変じ
  しかもわたくしも印刷者も
  それを変らないこととして感ずることは
  傾向としてはあり得ます

  けだしわれわれがわれわれの感官や
  風景や人物をかんずるやうに
  そしてたゞ共通にかんずるだけであるやうに
  記録や歴史 あるいは地史といふものも
  それのいろいろの論料といつしよに
  (因果の時空的制約のもとに)
  われわれがかんじてゐるのに過ぎません

  おそらくこれから二千年もたつたころは
  それ相当のちがつた地質学が流用され
  相当した証拠もまた次次過去から現出し
  みんなは二千年ぐらゐ前には
  青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
  新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
  きらびやかな氷窒素のあたりから
  すてきな化石を発掘したり
  あるひは白堊紀砂岩の層面に
  透明な人類の巨大な足跡を
  発見するかもしれません

  すべてこれらの命題は
  心象や時間それ自身の性質として
  第四次延長のなかで主張されます


     大正十三年一月廿日  宮 澤 賢 治    宮沢賢治全集(筑摩書房)より

       註 原文は縦書きです。
         「論料」には「データ」とルビがふってあります。
         
         大正という時代は、西欧の「文物」が「輸入」され、大々的に日本特有の「誤解」が始まった時代だ、と私は考えています。
         そういう時代の一文ゆえに、訴えるところが大きい、と私には思えます。
         なお、この一文について、下記で補足を書いています。[註追加]
         「観察・認識・分るということ・余禄」
コメント (2)
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回帰: re‐habilitation :の記・・・・療法士の方がたへの敬意と謝意を込めて-4

2013-07-21 11:00:00 | 回帰の記
先回の記事を書いたのは、世の中が「猛暑」と大騒ぎしていたときでした。
ところが、その後、当地域は北東風が流れこみ、まるで初秋のような気候が続いています。今朝の気温は18度でした。
例年ならとっくに盛りを迎える合歓の木(ネムノキ)の花も、やっと咲き始めたところで、しかも、このところの雨不足のせいか、きれいに咲いていません。


昨日の朝の合歓の木。まだ、ほとんどが蕾。
例年なら、このように咲いている頃です。


発症から一ヶ月経った 2月19日、「回復期病院」へ転院しました。
まだ車椅子でしたから、介護タクシーの厄介になりました。街ではよく見掛けていましたが、自分が乗るなどとは思ってもいませんでした。
転院先の病院では、「急性期病院」からの患者だからでしょう、ナースステーションの直ぐ前の病室に私のベッドが用意されていました。
トイレは、車椅子用のトイレを使うことになりましたが、自走できないので、その都度、看護師さんの援けを借らざるを得ませんでした。これは大変心苦しいものがありました。

翌日からリハビリが始まりました。
「回復期病院」のリハビリは、「理学療法:PT」「作業療法:OT」「言語療法:ST」各40分で、それぞれ主に担当する療法士さんが決まっています。
時間帯は日により異なり、午前は9時から11時半ごろまで、午後は1時半から5時半ごろまでのどこかに設定されます(前日の夕方、翌日の時間割が知らされます)。
その時間になると、担当の療法士さんが、わざわざ1階のリハビリ室から3階の病室まで迎えに来られます。転院当初は、リハビリ室まで、療法士さんに車椅子で搬送してもらいました。これも大変心苦しいものでした。
   リハビリ室担当の療法士さんは、「理学療法士」「作業療法士」「言語療法士」合せて30人以上居られたようです。

「理学療法:PT」の初回は、リハビリ室に着くと、「急性期病院」と同じ「四点杖」で、片道20mほどを往復歩行しました。
療法士さんは、その歩行の様子から、私の「問題点」を判定されるようです。
PTで、最初に指摘された「問題点」は「猫背」つまり、姿勢の悪さと、左脚への体重移動のぎこちなさ(左の膝が「挫屈」を起こすことが多い)、右手右脚への過剰に頼り過ぎ(転院時にあった右膝痛は、その結果)、そしてそれに起因すると思われる右半身の「硬さ」などでした。
姿勢の悪さの他は、本人ははっきり気がついてはいないのですが、療法士さんには、たちどころに分るようです。

「作業療法:OT」の初回では、左手の動作の様態が観察され、私の「問題点」が判定されました。
そのとき、私の上肢は、左手は「万歳」の恰好を維持できず(後にそのとき撮った写真を見せていただきましたが、我ながら情けない姿でした!)、手の掌は、握ることも完全に開くこともできず(つまりグーパーができず)、指折り数えることなどまったくできませんでした。各指を独立に動かすことができないのです。すでに触れた「左手の置き忘れ」や車椅子の「左ブレーキの掛け忘れ」なども伝えられていました。

このPT、OTの初回の「様態観察」と「急性期病院」からの伝達事項から、私の「実情」は、通常の生活を行なえるレベルを100として、35程度であると判定されました。要は、普通の人の35%の能力しかない、ということでしょう。

PTは、毎回、「験しの歩行」をしたあと(最初は「四点杖」でしたが、すぐに「T字杖」になりました)、マットの上で横になり、先ず、右半身の「硬さをほぐす」ことと「体の左右のアンバランスの是正」、そして「体幹の矯正・補強」のための諸種の「訓練」を行ないました。「意識せずに入ってしまっている力(結構、これが多いようです)」を「抜く」方策もあったようです。
これらは、右手右脚に頼りすぎた結果生じた「現象」だったと思われ、先に触れたように、転院時にあった右膝の痛みも、その一つの現れと考えられます。
ただ、この各種の「施療」を具体的かつ適確に記すことは、私には不可能です(メカニズムが分らないのです)。
しかし、施療後、体が「軽い感じ」になり、体の「動き」も楽になったのは確かです。

一つだけ分りやすい例を挙げると、クッション材でつくった直径15cmほど、長さ70cmほどの円柱の上に、背骨を載せて上向きに寝転ぶ「訓練」があります。これは、私自身、その「効果」をよく実感できた訓練でした。
脚は立て膝の恰好で手は体の上に置きます。円柱ですから、この姿勢:円柱の上に背骨が載る:を、立て膝をした脚だけを頼りに維持するのは難しく、上半身自体でバランスをとらなければなりません。
何度かやっているうちに、上半身の左右のバランスを適切に按配することができるようになります。同時に、その時、背筋も伸びていることも実感できる。これが、載っていて「結構気持ちがいい」のです!
この「適切な按配」は、体が「感覚」で「読み取っている」のだと考えられます(かつて、自転車に乗れるようになったとき、おそらく同じような「読み取り」があったものと思います)。この円柱は「ストレッチポール」と呼んでいたと思います。

数分以上この姿勢を維持したあと、円柱から降りてみると、体の硬さはほぐれ、軽く、姿勢もよくなっているように思えました。これは、立ってみると一層よく分りました。当然歩き方にも反映し、歩きが軽快になります。
   同様の円柱は、OTで、テーブル上に体の前に横一文字に置き、それを両手で前後に転がす訓練で使いました。
   円柱の転がりを両手で制御するわけです。「急性期病院」での「雑巾がけ」と同じような「効果」があるようです。
   ただこのとき、「右手のおせっかい」が出てしまう!。左手が転がす動きをとる前に右手が動いてしまうのです。

PTでは、スムーズな体重移動、つまりスムーズな歩行の基礎訓練として、平行棒での訓練がありました。平行棒の間に立ち、体を(腰を)左右に動かし、平行棒に当たるか当たらないかという位置で止める訓練です。右側は簡単ですが左側はなかなか望む位置で止められないのです。
療法士さんは、その様子から、どこに問題があるかを見抜くようで、それが次の訓練のメニューとなるようです。
メニューの最大の眼目は、「体幹の補強」:胸部、腹部、背部、腰部、大腿部・・の筋力の増強訓練だったと思います。
左大腿部の萎えた様子は自分でも目に見えて分りましたが他は分りません。筋肉には外から目に見えるものと、内部に隠れているもの(インナーと呼んでいるようでした。これに対して前者はアウターらしい)とがあるそうで、その内部の筋力も強化が必要で、そのための訓練もあったようです。メカニズムはよく分りませんが、こういった内外の筋が連携して作動しているようです。
   人の体の構造、機構の「凄さ」には本当に驚きます。
具体的な施療はいろいろとありましたが、これも適確に記述することも私にはできません。言えるのは、訓練後、疲れておなかが空くこと!

転院ほぼ一週間、当初の右膝痛は解消していましたが、今度は右臀部に痛みが生じました。右脚の過剰な使用の結果の筋肉痛らしい。しかしこれも、ウソのように2日で消えました。徐々に、右脚への過度な負担が減って来た、体の硬さが消えてきたからのようです。

そして転院から8日ぐらい経って(記録では2月27日)、杖なしでの歩行を試みました。記録によると、15mほど歩いたようです。
それ以後、体幹補強訓練、体重移動訓練とあわせ、毎回、「杖なし歩行」の訓練を行ないました。リハビリ室内を一周するのですが、おそらく一周80mはあったのではないかと思います。
「杖なし歩行」は、出だしは好調に歩き出すのですが、右あるいは左へ方向を変えるとき(特に右へ曲るとき)に、体がふらつき「左脚を摺る」場面が生じます。
また、ある程度歩くと「左脚を摺る」場面が多発します。左脚への体重移動の制御がうまくゆかなくなるのです。疲れてくるからのようです。もちろん、疲れていない段階でも、ときおりそうなります。

3月に入りすぐ、「見守り付き」で「病棟内のT字杖歩行」が認められました。
車椅子からの解放です!
ただし、トイレに行くときもその旨伝え、「監視」がつきます。万一の事態に備えるためです。

リハビリは、それまでのメニューが、更に充実・強化されたようです。
リハビリ室での「杖なし歩行」も距離が伸びました。記録では、「3月6日杖なし歩行60m」とあるそうです。
その後、ほぼ毎日、室内を1周、あるいは2周しました。
「歩けるというのは、こんなにいいものなんだ」と、あらためて思ったものでした。

その数日後、歩行の訓練にあわせ、「T字杖での階段昇降の練習」を行ないました。
最初は、目指す段へ杖を置き、まず右脚をその段に乗せます。次いで、おもむろに左脚を載せる。これを繰り返して登ります。
降りるときは、左足を先に目指す段に置き、次いで右脚を置く。

慣れてくると、杖を使いながら、段に交互に脚を載せる普通の登り方、降り方の練習になります。

この杖を使う昇降に際し、以前に触れたような、登るときの「蹴上げ」面への爪先の擦り、降りるときの踵の擦りが起きました。療法士さんが背後で介護の構えをしていてくださるのですが、怖いものでした。
後に、杖なしで手摺につかまっての昇降訓練もしました。爪先・踵の擦りは同様に起きました。
いずれの場合でも、降りるときの方が怖さがあります。

更に3月13日になると、昼間の「病棟内のT字杖自立歩行」、つまり「見守りなし」が認められ、その5日後、発症から2ヶ月目の18日からは、夜間の「病棟内のT字杖自立歩行」も認められました。
トイレに行くのも連絡不要になったのです。とても気が楽になったことを覚えています。
また、リハビリの終わった後、病室まで、EVを使わずに見守り付きでT字杖を使い階段で帰る練習も何度か行ないました。

ほぼ同じ頃から、「T字杖での屋外歩行の練習」が始まりました。アスファルト舗装、コンクリート舗装、タイル敷き、砂利、芝生、土などいろいろな面を歩きました。一番歩き難かったのは、壊れかかったアスファルト舗装面。杖の石突が結構、路面のひび割れや穴に落ちるのです。砂利や土、芝生の方が楽でした。

この屋外歩行では、スロープでよく膝が崩れたり脚を摺りました。
僅かな勾配ではあっても、斜面では、体勢の制御がうまくゆかないのです(斜面では、脚の裏も斜面と同じ勾配の面を動かなければならないわけですが、その制御が難しいのです)。
特に、平らなところからスロープに差し掛かったその始まりのあたりでよく起き、スロープに慣れてしまえば、比較的起きなかったように記憶しています。

つまり、スロープは、車椅子にとっては段差解消であることは確かですが、脚が自在でない人にとっては、スロープも段差なのです
前の記事で、段差をスロープに変えればバリアフリーになる、と考えるのは勘違いだと書きましたが、それはこの体験を通しての実感です。
   この病院の玄関先の、駐車場から歩道に上がる縁石に鉄板の斜路(長さは1mもない)が設けてありますが、
   この鉄板には、注意喚起のため、黄色のペンキで、ゼブラ模様が描かれていました。危ないのです。

「病棟内のT字杖自立歩行」が認められて直ぐに、「杖なし歩行」の訓練を始めました。そして、それを契機に、リハビリ室への往復を、自力で(見守りなしで)行なうことにしました(EVを使ってのT字杖自立歩行)。
 
歩行の形態は変っても、訓練のメニューはほぼ同じで、より高度になりました。
たとえば、直線上を、右脚左脚を交互に線上に載せて歩く練習(スムーズにはゆかず、かなりふらつきました)、同じことを横方向に行なう練習、この場合は、片方の脚を他の脚の前を通過させて線上に移す動作をともないますから、ふらつきが更に大きくなります。

「病棟内のT字杖自立歩行」が認められてからほぼ1週間後の3月26日からは、「病棟内の杖なし自立歩行」が認められました。
発症から約2ヶ月と1週間、「晴れて」普通に歩けるようになったのです!そして、数日後には、屋外の杖なし歩行の練習も始めました。
4月に入り、駅のホームでの電車に乗り降りを想定した訓練や、身をかがめて高さの低い所をくぐる訓練なども加わりました。生活をしてゆく上に起こるいろいろな場面を想定した訓練、基礎的な動作の応用・組立てと言えるかもしれません。
しかし、身をかがめるのは、筋力を鍛えないと容易ではありません(今でもふらつきます)。
   人間というのは、本当にいろんなことをやっているんだ、とあらためて感心したことを覚えています。

理学療法:PTでは、退院まで、体力づくり、基本的訓練と応用訓練を続けました。自分でも、時折り、リハビリ室から3階の病室まで、EVを使わず階段を使う「自主練習」をやっていました。
そのころ、私の病室は、病棟北端部の部屋に変りました(退院間近な人の場所だそうです)。同じ階の南端に食堂があるので、最も食堂から遠い病室です。その間約70m。食堂から遠い病室では病室での食事も可能なのですが、その往復も歩行訓練になると思い、お断りし、毎回(一日3回、都合約500mになります)往復しました。


路傍のヨイマチグサ(オオマツヨイグサ:通称月見草)の群落。午前中は咲いています。

次に「回復期病院」での手のリハビリ:「作業療法:OT」について、書くことにします。
脚の場合は、「歩行」という「分りやすい」「動作」が主役ですが、手の場合は、そのような「代表的な主役」がありません。先回、次のように記しました。   
・・・・
左手が自在に動かせないということは、思った以上に「不便」でした。
手先を目的とする位置にもってゆくことなどは、とてもできない。
たとえば、眼鏡の曇りをとりたくて、眼鏡ををはずすため、左側の「ツル」を掴もうとしても、手先はそこに届かず、頬をのあたりをさまよう。
健常なとき、手先は、右も左も、目で確認しなくても、目で確認できなくても、「思った」ところへもってゆくことができました
考えてみたら、これは大変な「習慣」です
おそらく、この「習慣」は、目で見て位置を知ったのではなく、手先で触ろうとする何度かの「試行」の結果、長年のうちに「体が覚えこんだ習慣」なのだと思います
人の「動作」には、こういうのがいっぱいありそうです
・・・・
そうなのです。(左)手の動作は、実に多様なのです。そして、欠かせない動作なのです。ところが、まったく気付いていなかった!!
そこで、左手が自在でないときの「作業」の「様態」を、思いつくまま、記してみます。

い)ボタン付きのシャツに着替える
先ず、右手の援けのもとで左腕を袖に通す。先に右腕を通してしまったら、後が続かない(つまり、左腕を通すのは至難のワザになる)。
   シャツを脱ぐときは、右腕が先。左腕を先にしてしまうと、右腕のときが、面倒になる・・・。
   ズボンを穿くのも自在でない左を先にした方が早い。

ろ)ボタンをかける
ボタンの裏側に右の親指をあて右の人差し指で表側を押さえ、そのまま左身頃の所定のボタン孔近くにもってゆく。孔の近くになったとき、人差し指を身頃の孔の方に移す。布越しに人差し指で孔をボタンに近づけ、その孔に親指でボタンを捻じ込む。これを繰り返す。結構時間がかかります。
   普通は、左身頃のボタンの孔のあたりを左手指先で持ち、右手指先が持つボタンの近くへ運んでいるはずです。
   私の左手は、この動作が出来なかった。
   だから、利き手のマヒだったら、大変です。私は右利きだったから右手だけでも出来たのです。

けれども、「ボタンの掛け違い」をすると「悲劇」です!
「悲劇」を避けるには、一番下のボタンから始めるのがいいようでした。右手だけで、一番上のボタンを探り当てるのは容易ではありませんが、一番下のボタンの位置なら目視できるのです。

は)歯を磨くために歯ブラシに歯磨きをつける
右手で持つ歯ブラシに歯磨きのチューブを押す。これも左手ではできない。押す力が出ないのです。かと言って、左手は歯ブラシを持てない。ゆえに、歯ブラシを台に横たえ、右手でチューブを押す羽目になる。

に)コップを持つ
取っ手付きのコップでも取っ手を持てない。取っ手がない場合は、コップをうまく握れない。つまり、左手ではコップが持てない。
それゆえ、すべての作業を右手でするため、作業が連続的に、スムーズには進まないのです。
ご飯茶碗を持つ、味噌汁の碗を持つのも「恐怖」でした。持てても、「ご飯やミソ汁の重心」にうまく対応できなかった・・・。特に、重心の移動しやすい「液体」は難しかった。

ほ)髭を剃る
普通は右手に剃刀を持ち、左手の指先で剃ったあとを確認しつつ剃る。しかしそれができず、剃っては剃刀を置き、右指で確認する・・・という手間の掛かる作業になります(やむなく途中から電動剃刀に変えました)。

へ)手で水を掬う。タオルを絞る
顔を洗おうとして、両手で水を掬うという動作、これも、左の手の掌を、碗型にすることができない、右手だけでは水量が少ない。ゆえにタオルを濡らして顔を拭うことになりますが、肝心の濡らしたタオルを絞ることができない!絞るという動作にも、左手が大きな役割を担っているのです。それゆえ、タオルを少しだけ濡らして拭うことになる・・・・。

と)眼鏡をはずす。再掲です。
左側の「ツル」を掴もうとしても、手先はそこに届かず、頬をのあたりをさまよう。
右手ではずし、左手に持ち替えようとする。親指と人差し指で「ツル」を挟むも、滑ってしまう。
親指の押す力のベクトルと、人差し指のそれとが、「ツル」の芯をはずれて、相手を回転させるような状態なり、「ツル」は極端な場合、手から落ちてしまう。
右手でやってみるとそうはならない。実に「微妙」。
これは、先回触れたコーン状カップの移動訓練と同じく、
この動作は一見指先の問題のように見えるが、そうではないのだ、という「事実」を示していたのです。

ち)爪を切る
右手に「爪切り」を持ち、左手の爪を切る。
このとき、左の指は、切りやすいように、「爪切り」に対して都合のよい位置に動いています。はじめは、そうしていることにまったく気付きませんでした。
左が自在に動かないので、この調整ができず、苦労しました。
左手で「爪切り」を使う段になると、眼鏡の「ツル」を掴むときと同じ現象が起きました。ベクトルの向きが「爪切り」に向わず、「爪切り」が手から離れてしまう、つまり落ちてしまうのです。
   これは、「洗濯挟み」を扱うときも同じでした。
   しかし、後に、「洗濯挟み」は、この「加える力のベクトルの向きの適正化の訓練の道具」として有効でした。

り)PETボトルの蓋を開け締めする
普通は左手でボトルを握り、右手で蓋を開けますが、左手の押さえが効かないと、難儀します。
・・・・・

結局、「作業療法:OT」の「リハビリ訓練」とは、私なりの「理解」で記せば、
基本は「理学療法:PT」と同じですが、いろいろな「具体的な作業」を通じて、たとえば、指先の動きは、「肩(の関節)」~「肩から肘までの腕」~「肘(の関節)」~「肘から手首までの腕」~「手首(の関節)」~「手首から各指までの掌」~「各指(の各関節)」~「指先」、これがスムーズに連携・連動して初めて可能になるという事実を体で実感・認識すること、
つまり、いかなる「動作」にも、それを行なうための「適切な『体勢・姿勢』」があるということを、あらためて体に覚えこませる訓練であると言えるかもしれません。

握力や指先に力を加えることは、必要ではあっても、それだけではダメだということです。
たとえば、眼鏡の「ツル」を持てるようになったとき、あるいは、「爪切り」をうまく操作できるようになったとき、指先の力はきわめて小さなものでよいことを知るのです

OTの施療も、PTと同じく、まず左手を中心に上体・上肢の「硬さ」をほぐすことから始まりました。
先に触れた机の上で円柱を両手で転がすのもその一つ、大きなボールを転がすこともありました。
これらはいずれも、動いてしまう物体に体が付いて行かざるを得ないことを利用した、いわば「他動的、受動的な方法」と言えばよいでしょう。

一方で、「自分自身が能動的に動かなければならない方法」もいくつかありました。

たとえば、直径30cmぐらいのボールを両手で頭より高く持ち上げたり、
高さ2mほどの細いパイプの幹に何本もの枝が45度に突き出ている樹木状、コート掛け状の「装置」で、この突き出た「枝」に、左手で、直径20cmぐらいの「輪」を掛ける練習。
「枝」は、高さも位置も多様に用意されている。高い位置に掛けるには、体を伸ばさなければならない。位置によって、体の向きも自分で調整しなければならない。
また、直径6cmぐらいの表面が網目状の材料でできた長さ2m程度のパイプを左手で握り、座っている場所から程遠い位置に立て、そのパイプを前後に倒す練習もありました。
そのとき、腕を、肘も含めて極力伸ばす。これも、自分で体を伸ばさなければならない。パイプを立てる位置を少し変えることで、体を伸ばす向きも変ってくる。

この練習で使うパイプが、普通の塩ビ管ではなく、表面がざらざらした網目状の材料の管である理由は、その手触りに拠るようです。
人によると、手の触覚もマヒする方が居られるようです。そこで、触感の異なる品々を用意し、その差を認識する訓練にも使うのだそうです。
   私の場合は、触感の違いについては認識できますが、
   少しばかり、温度に対する感覚に違和感があり、また、左手の指先では脈拍を感じることが出来ませんでした。

   ところで、前者のコート掛け型・樹木状の「装置」は、療法士さんが製作されたものなのです。
   材料は給水管に使う塩ビ管(通称20VP)。各種分岐部品を使って器用に組立てられています。
   近くののホームセンターで材料を買い求めて作ったのだそうです。
   そして、枝に掛ける「輪」は、ホースで輪をつくりビニルテープをぐるぐる巻きにしてつくったもの。
   いずれも制作者は女性とのこと。ともに、出来は非常に見事。

   また、後者の表面が網目状のパイプ。
   実はこれは、農地の土壌改良などで使われる「透水管」です。土の中の余分な水だけを抜くために使います。 
   
   その他にも、お手製の「用具」が数多く見られました。
   療法士さんたちは、日夜、よりよい施療の方法を考え続けていて、
   街を歩いていても、店先に並んでいる商品を見ては、これはあの訓練に使える・・などと思い付くようです。
   これは、建物づくりの「職人さん」たちが、常に、当面の「問題」を考え続け、
   また、仕事を上手にこなすために、いろいろと工夫をこらした「道具」を手づくりするのに似ています。

   私は、療法士さんたちの仕事ぶりに接して、この方たちは生粋の「職人さん」だ、と思ったものでした

   今回、「回帰の記」なる一文を書く契機になったのは、前にも触れましたが、
   療法士さんたちの、「専門」:自分の「仕事」:に対する「真摯な態度」を目の当たりにしたからなのです。
   しかも、この方たちは皆「謙虚」です。
   他の「専門家」にえてして見られる、「専門」をひけらかす、などということは微塵もない!

   副題に「敬意」の一語を入れたのも、この点に「感動」を覚えたからなのです。                               
さて、上半身の硬さ、特に肩、肘まわりはほぐれてきましたが、私の場合、硬さが消えなかったのが、手首から指先にかけてでした(現在もなお不全です)。
具体的に言うと、指の関節が痛み、完全な「グー」の形をつくれない、したがって、ものを握りづらい、掴みづらいのです。
そのために、いろいろな訓練が為されました。
先のコーン型のカップの練習もその一つですが、その他、たとえば、机の上の「お手玉」(療法士さんの手づくりです)1個ずつ左手で掴み、移動する、あるいは、鷲掴みにして出来るだけ多く掴む、それを別の場所に移動する・・・、ガラス玉を指先でつまんで別の場所に移す、金属の玉で同じことをする・・・などなど。

なかでも、一番「効果」があると思えたのは、容器に入っている、しかも容器にへばりついているプラスティック製の粘土(セラプラストと呼ぶようです)を、左手の指先を使って「掻き出す」作業。結構、力がいります。数分はかかります。
容器から出した粘土を、陶芸のように、両手でこねる。団子にする、指先だけでで紙のように薄くする・・・。

この練習をした後、しばらくの間は、指はかなり曲げられるようになります。つまり、一定程度「グー」ができる。
また、手首を柔軟にするために、3分の1ぐらい水の入ったPETボトルを握り、中の水を移動させる練習もありました。水の代りにガラス玉の入ったボトルでの練習もありました。いわば、「他動的」に手首を動かさざるを得ない状況にする練習です。
この場合も、練習後、手首の動きが柔らかくなります。
また、中にゴルフボールを入れたお碗を左手で持ち、それを動かして重心の移動に応じて手を動かす練習もありました。バランスを感じとる訓練と言えばよいでしょう。

問題は、こういう練習で「改善した状態」を、持続できないことでした。翌日には少し後戻りしているのです。3歩前進2歩後退・・・。

それでも、退院間際には、先に例に出した左手を使う「動作」のうち、ほとんどは7~8割は「復活」出来ていたように思います。
たとえば、眼鏡の「ツル」は、リハビリを開始して1週間後には自在に掴めるようになり、左手指先を思った場所に(目視できなくても)もってゆくことも出来るようになっていました。
もっとも、そういう状態になっていたゆえに退院が認められたのですが・・・。

ただ一つ、「復活」が遅れていたのが、に)コップを持つ動作。茶碗を持つのも相変わらず不安でした。

そのため、退院後も、週1回の外来・通院リハビリでOT:手のリハビリを継続しています。
しかし、3歩前進2歩後退の状態は今も同じです。
今は、覚悟を決めて、3歩前進2歩後退で良しとしよう、焦らずに気長に直してゆこう、と考えています。


ヨイマチグサの花。昼過ぎにはしぼんでしまいます。

言語療法:STは、PT、OTとは別の小部屋で行なわれました。
その内容は急性期病院と同様、発声、発音の確認(それに関係する部位についてのPTと言えるでしょう)、脳機能の様態を確認するための各種のテストなどでした。

その中で、私の印象に強く残っているのは、療法士さんが、私に積極的に「話をさせる」「喋る」機会を設けられたことでした。

療法士さんご自身がいろいろなことに多様な関心をお持ちの方で、たとえば、リハビリ室に今日活けた花について語ったり、最近行ってきた旅先の話題をだしたりして、いろいろと「話のきっかけ」をつくり、それについて、私に「話をさせる」「喋らせる」のです。一言で言えば、話を「させ上手」そして「聞き上手」なのです。

おそらく、「話をする」「喋る」ことで、言うならば「脳の活性化」、あるいは「脳が休眠・退化することを押し止めよう」という意図があったのではないか、と後になって気が付きました。
   実際、回復したように思えた方で、退院後しばらくして、脳の機能が衰え始める方が居られるのだそうです。
入院していると、「普通」の会話(仕事がらみの会話はもちろん、考えながら話すような会話)の機会が極端に減ります。脳が休眠化するのは目に見えています。
その意味で、STの時間は、今から考えると、貴重な時間でした
  PT、OTの療法士さんたちも、施療中、積極的に患者さんに話しかけています。
  それも、同じような療法士さんの「気遣い」「心遣い」なのかもしれません。


庭先のヤマユリ。野山で見る方がきれいに思えます。

退院し、回復期病院での3ヶ月を振り返ってみて思ったのは、
PTもOTもSTも、つまり、re-habilitation では、根本的に、本人の「感覚」「能動性」が重視されているのだ、ということでした。
「これでよし」という判断は、結局のところ、本人が本人の「感覚」で「納得するかどうか」にかかっている
、ということです。
これは、何でも「科学的物指し」で測るのがよしとされ、そうでないのは「非科学的」とされる当今、きわめて新鮮に感じられました。

そして、自らの「感覚」「五感」を研ぎ澄ますには、本人の「能動性」が不可欠なのだ、ということも、改めて認識させられました。
「能力」は、外から付加されるものではない、ということです。
ここでは、「生身の人間の存在」が、当然のこととして、認められていたのです!!



長くなりました、今回はここまでにします。
次回は、「回帰後」の今、これまで断片的に書いてきた「リハビリに於いて思ったこと」をまとめてみようかと考えています。

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回帰: re‐habilitation :の記・・・・療法士の方がたへの敬意と謝意を込めて-3

2013-07-06 18:16:25 | 回帰の記
関東・甲信地域は梅雨が明けたらしい、とのこと。例年になく早い!少しばかりおかしな気候です。


ムラサキシキブの花が咲き出しています。小さな小さな花です。
これが、秋になると、下の写真のように赤紫の実になります。見事です。



「回復」へ向けての急性期病院での「動作」の「訓練」の最初は、車椅子の「乗り降りの練習」でした。
車椅子に乗らない限り検査にもリハビリ室にも行けないからです。

私は右手右脚が幸い自在でしたから、まず足を右にまわして足をベッドの右外に出します(私のベッドは左側が壁に接し、右側が昇降口になっていました)。当然足は下がって、床に着きます(ベッドの高さが、私の足の長さよりも低かった!からです)。そのとき、動かない左脚もベッドの外に出ます。動かない脚でも、右脚を外に出すと、腰の動きにつられて一緒に動いてくれるからです。ほとんど同時に上体も起きています。無意識に、右肘をベッドについて、その反動を利用していたようです。それでだめなときは(だめな人は)、多分ベッドの手摺を右手で掴むと思います。余程の不安定な状態でない限り、私は手摺を使わなかったようです。
そして、ベッドの端に腰掛ける姿勢になります。

ところが、そのときに、問題が起きるのです。
回復期病院に転院した当初も、よく注意されたことなのですが、
左手を置き忘れてしまう」のです。
脚と違って、肩が動いても、左手の肘から先は、脚のようには付いてこない、かなり意識しないと動いてくれないのです。掛け布団がからまって抜けないこともありました。しかし、左手の存在は感触で分っている・・・。なのに、動かない、付いてこない・・妙な感じでした。
それゆえ、ときには右手で左手を引っ張り出したりもしました。
この現象が、単に左手が動かないせいなのか、それとも、脳の機能障碍で左側の認知能力が失せてしまったからだったのか、今でも分りません
車椅子のブレーキ(停車時の動き出しを停めるためのいわばパーキングブレーキです)は、右の車輪用は右に、左は左側にあり、共に手前に引くとブレーキがかかります。私は、左側のブレーキをよく忘れて注意されました。ブレーキをかけるように極力意識しましたが、左側を引く力が左手にない。そのため、右手を伸ばして引いていました。

乗り移りは、右手を車椅子の右側の手摺に置き、それを頼りに腰を浮かせ体を移動させるコツを、比較的容易に覚えました。右手が勝負!
しかし、左手が利かないので、自走はムリ。押してもらってリハビリ室まで、1階エレベーターで降りて、約150mほど廊下を進みます(増築を繰り返した病院にありがちな屈折の多い迷路のような廊下・・)。


サンショウの実です。キアゲハが卵を産みにきてます。
もうじき幼虫が孵り、葉を食べつくすでしょう。サンショウの葉が好物なのです。


急性期病院でのリハビリは、「理学療法:PT」、「作業療法:OT」、「言語療法:ST」の順に大体各20分行ないました。

理学療法:PTでは、まず、2本の水平の手摺のある通称「平行棒」で、歩行以前の「立つ」練習を行ないました(手摺の高さは、その人の身長:手の位置により調節可能です)。
頼りになるのは、私の場合は、右手と右脚。両脚で立っているように見えますが、実際は右脚で体重を保ち、体が倒れないように右手で手摺を掴んでいる。
次いで「歩行」してみる。脚を前に出す。これも、右手の支えがないとだめ。要するに、右脚と右手を使って「歩いている」ことになるわけです。
左脚に体重がかかると、かなりの頻度で、膝がガクッと崩れ折れました。膝のあたりの筋力が萎えているからのようでした。そして多分、筋肉を作動させる神経系統も休止していたものと思われます。
当然普通の「歩く」状態には程遠い。それでもとにかく、平行棒の中を5mほど「歩く」ことができました。

次いで、「4点杖」を使っての「歩行」となりました。
「4点杖」というのは、石突の部分が4本に分かれている杖です。そのため、杖を床に置くと、杖はそのまま倒れずに立っています(普通の杖は、どこかに寄り掛けなければなりません)。
   普通の杖は、取っ手の形からだと思いますが「T字杖」と呼ぶようです。
   この杖(普通の杖)は、使わないときの置き場、置き方に苦労します。壁に立てかけても滑って倒れてしまい、
   床に倒れた杖を拾うという「動作」は、手足が自在でない人には一苦労だからです。
最初に4点杖を使うのは、杖の安定度が高く、保持が楽で、手の負担が少なくて済むからだと思われます。
4点杖で10mくらいの距離を往復できました。
もちろん、右脚と右手(の杖)が主体の「歩き」です。体重を左脚に移動させると、しばしば、膝が崩れます。
しかし、左脚に体重を移動させることができないと本当の「歩き」にならない。
そこで、急性期病院のリハビリでは、左脚の膝が崩れないように支える「装具」(関節部をいわば「固定する」ためです)を付けての練習になりました。
しかし、それでも右脚と右手(の杖)が頼りであることは同じ。
そういう練習を転院直前まで続け、「かなり軽快に(?)歩けるように」なりました。

しかし、これは、右膝へのかなりの負担となったようです。回復期病院へ転院当初、二日ほどの間、右膝痛に悩まされました

作業療法:OTでは、左手の「固まり」を「ほぐす」ことから始まりました。
万歳をしても、左手は上によく挙がらず、しかも位置を保持できない。高さも右手よりも低い。これは、左手の動作に関わる神経~筋・腱~関節の連携が停止してしまったからのようです。
そこで、はじめは、机の上に置いた折りたたんだタオルに両手の掌を載せ、タオルを、雑巾がけの要領で、最初は前後に、次に左右に机の上を移動させる「練習」。
もちろん左手だけではできないので、左手の上に右手を載せ、右手主導で行ないます。左手は多少の痛みはあるのですが、「やむを得ず」動きに付いてきます。
なるべく遠くまで押しやれば、背筋も延び、手も伸びます。
この練習の後、手の挙げ下ろしも「軽く」感じられるようになりました。「固さ」がいくぶん「ほぐれた」のだと思います。

   このような両手を使っての「作業・動作」訓練はいろいろありましたが、
   左手が自在でないと、得てして、右手のみで遂行してしまいます。それでは左手の訓練にならない
   この「クセ」は、転院した回復期病院でも当初よく現れ、「右手のおせっかい」と評されました
   用が足せればいいではないか、という「楽をしようという気分」が働いてしまうからのようです。

次いで、ソフトクリームのカップ様の円錐形のプラスチック製のカップが底を上に十個ほど重ねてあり、そこから一個ずつ左手で掴んで別の場所に運び積み重ねる「練習」。
上方が先細りになっていますから、最初のうちは、手から滑り落ちてしまい、なかなか掴めません。
何回もやっているうちに、指先にいくら力を加えても滑るだけだ、ということが分り、掴むという動作のコツが少し見えてきます。
その際、同じことを右手でやってみて、その「まね」を左手でやってみる、というのが、結構ヒントになりました右手は「長年の間に覚えて身につけた動作」を忘れていないからです。

急性期病院でのOTのリハビリでは、同じことを繰り返して行なうことで、自分でコツを見付け、体で覚えることを目指しているように思えました。
回復期の病院では、同じことを繰り返すことに加え、「手首の動かし方に注意する」というアドバイスがありました。そのアドバイスから、指先の動きは、手首の動きと連動している、指先だけを考えてはダメ、という「事実」を学ぶのです。「適切に」手首を動かせば、指はそれについてくる・・・。
この「違い」は、療法士さんの「指導法」についての考え方の違いかもしれません。
ただ、私は、こういうアドバイスを頂けるのは、大変有難かったと思っています。なぜなら、「何とかしようという意欲」がわき、コツの修得が早まるように思えたからです。同じことを繰り返す中からコツを自分で見付ける、というのは結構大変です。そのとき、「手首・・・」というヒントは、「見付けるきっかけ」を与えてくれるのです。
   ヒントは一定程度動作を繰り返して、どうしたらよいか悩んでいるころを見計らって与えられたようでした。
   
左手が自在に動かせないということは、思った以上に「不便」でした。
手先を目的とする位置にもってゆくことなどは、とてもできない。
たとえば、眼鏡の曇りをとりたくて、眼鏡ををはずすため、左側の「ツル」を掴もうとしても、手先はそこに届かず、頬をのあたりをさまよう。
健常なとき、手先は、右も左も、目で確認しなくても、目で確認できなくても、「思った」ところへもってゆくことができました
考えてみたら、これは大変な「習慣」です
おそらく、この「習慣」は、目で見て位置を知ったのではなく、手先で触ろうとする何度かの「試行」の結果、長年のうちに「体が覚えこんだ習慣」なのだと思います
人の「動作」には、こういうのがいっぱいありそうです

眼鏡をはずせないことに気が付いた当初、私はそれを、指先がよく動かないからだ、と思っていました
しかし、後に回復期病院のOTのリハビリで、それが大きな勘違いであることを教わります。そして、本当の理由は、先のコーンカップの「練習」にヒントが潜んでいたことを知ることになります。

急性期病院でのOTでは、左手の挙げ下ろしがよくなった以上には「改善」はなく、転院時の左手の握力は!でした(数値は覚えていませんが、右は一定程度あった)。

急性期病院の言語療法:STでは、会話や文章を読むことによって、話しかたの状態・様子が確認されたようです。そのほか、発声するなどのチェックも行なわれました。
認知力、注意力、記憶力については、いろいろなな方法でチェックされました。
たとえば、互いに無関係な単語を三つ示され、他のことをした後、数分経って、それを覚えているかどうか、チェックするなどです。絵に描いてあったモノ見て、しばらく経ってからいくつ覚えているか、などのテストや、すでに触れた時計の文字盤を描いてみるなどのチェックも行なわれました(ペーパーでやる場合、会話でやる場合、両者併用の場合など多様でした)。
   同種のテストは、高齢者(75歳以上:いわゆる後期高齢者)の運転免許更新時にもありました。

特に、私の場合、右脳の損傷ゆえに、左側の状況把握力に危惧がもたれ、視界の左側に注意することを、毎日のように言われました。
この「注意」は、私にとっては「呪術」のような働きがあり、左側のモノを異常なほど気にするようになりました。

   回復期病院に転院、自立歩行ができるようになった後、病室の出入口の左側の枠を気にするあまり、
   かえってそこにぶつかりかける、ということがままありました。
   気にするため、逆にそこに接近していってしまったり、
   そこを避けようとしてかえって歩行がぎこちなくなり、左膝が折れ、ぶつかりそうになるのです。
   それに気付いた後は、そういう場合は左側のモノから必要以上に離れて歩いたり、
   左手で触ることにしました(廊下は、できるだけ真ん中を歩いていました)。
   それを習慣化することで、どうにかこの「呪術」から脱することができました


   こういうことは、健常な場合でもよくあるように思います。
   「心理的な脅迫感」に襲われ、日ごろやっているなんでもないスムーズな動きがぎこちなくなる現象
です。
   たとえば、「そこは危ない」と注意されている場所で
   「危ない目に遭う」「遭いかける」という現象が結構起きやすいように思いますが、
   これには、多分にこの「心理的な脅迫感」が働いているように思います



ブルーベリー。管理しやすいように鉢植えです。もうじき食べられそうです。 

ところで、これまで記してきたリハビリについてのもろもろの感想・考えたことの大半は、急性期病院でのリハビリでのものではなく、転院した回復期病院でのリハビリによるものです。

急性期病院に居るときは、どうにか早く元のようになれないものか、といういわば「功利的な思い」の方が強く、リハビリが何たるものか、正直のところ、深く考えてはいなかった、と言うより、「単なる回復訓練」と言う程度の認識だった、要は、「平均的リハビリ観」の持ち主だった、と言えばよいでしょう。

CTの検査の結果、血腫・浮腫が治まったと判定され、2月19日に回復期病院に転院しました。
この回復期病院には、「リハビリ専門病棟」があります。
「リハビリ専門病棟」には、病室が2階と3階(各階30~40床ほど)、1階に500㎡ほどの広さの小体育室様の「療法室」があり、同じ階に、リハビリも考えたつくりの浴室がありました。

次回は、この専門病棟でのリハビリの体験を通し考えたことで、これまで書き残したことを、覚えている限り、書いてみようと思います。    

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回帰: re‐habilitation :の記・・・・療法士の方がたへの敬意と謝意を込めて-2

2013-06-28 19:06:27 | 回帰の記
冷たい北東気流:やませ:に拠るのでしょうか、
当地は、ここ数日、「梅雨寒(つゆざむ)」の日が続いています。

生い繁る草の中にネジバナを見つけました。背丈15cmほど。ラン科だそうです。

先回の補注 
姿勢が悪いだけでも足を摺りやすくなるのだ!
先回、「・・・健常な人ならば、膝のまわりの筋力で「崩れ」をある程度防止できます。しかし、高齢で筋力が衰えていたり、脳出血などで神経~筋の動きが麻痺していると、そうはゆかないのです。多くの場合、そういう人は、「摺り足」に近い歩き方をしようとします。「摺り足」は、体重の移動が容易だからではないかと思います(足を上げると、ふらつくので、なるべく重心を低めようとするのだ、と考えると分りやすいかもしれません)。私もそうなっていました。今でも疲れてくるとそうなりがちです。・・・」と書きました。
ところが、私の場合は、きわめて単純な理由であることを、数日前の外来リハビリ担当の療法士さんに指摘されました。歩く様子がぎこちなかったからでしょう。
指摘いただいた内容を私なりに総括すると、次のようになります。
「私の姿勢が悪い!」

私は以前から「猫背」です。それを直そうとしても長時間保てない。上半身の筋力が弱いからのようです。
姿勢が悪いと、私の場合、右脚の股関節部分も内側に傾き加減になる。その方が楽だかららしい。つまり、上半身の姿勢の悪さに下半身もならってしまっている、ということ。一方で、左脚の方は、意識して健全であろうと努めている。
そうなると、股関節~地面間の距離が、右の方が内傾している分、左より、若干短くなる。ゆえに左脚が地面を摺りやすくなるのだ(当然重心の保持の仕方も下手になるから摺り足になりやすい)!
実際、意識して上半身の姿勢をただして歩くと、摺ることがなくなる。納得しました
PTの療法士さんから、姿勢を正すこと:体幹を強くすることをきつく言われていたことをあらためて思い出しました。すぐ忘れてしまう!!ボケたかな。


シロツメクサ(クローバー)。西欧からの物品輸送の際、クッション材に使われたので
ツメクサと名付けられたそうです。赤い花のアカツメクサもあります。


以下、今回の本題にはいります。リハビリの概要について、私なりに「解説」してみます。

いったい、「リハビリテーション:rehabilitation 」とは何のことなのでしょうか?

普通、rehabilitation は日本語では「社会復帰」と訳されていて、日常的には「リハビリ」と呼んで済ませているようです。実際に「リハビリ」にかかる前の私の理解も、その程度のものでした。
   なお、以下の文中のリハビリに関わる記述は、
   担当された療法士さんに、下書きに目を通していただいてはおりますが、
   あくまでも、「私の理解」に拠るものです。

そこで、あらためて、“rehabilitation” の意味を辞書で調べてみました(研究社「新英和中辞典」に拠ります)。
rehabilitationとはre-habilitation 、つまり、habilitation を「新たにする」「原状に復す」ということになります。
では、“habilitation” とは、どういう意味か。
これが厄介な語。辞書には、habilitate 「特に、ドイツの大学教員の資格をとる、資格があること」とあります。ゆえに、その名詞形 habilitation には、察するところ「資格(がある)」能力(がある)」という意味があるらしい。
それゆえ、re-habilitation とは、「資格復権」「能力再建」とのような意味になるように思われます。
「社会復帰」という日本語訳は、人としての通常の能力を復権すれば、普通に社会で暮せるようになる、とのような意を込めての「意訳」だったのではないでしょうか。
   註 私は、おそらく、「社会復帰」の語からの「勝手な連想」だったのだと思いますが、
     何となく、habilitation をhabitation:「居住」と同義ではないかと誤解していたようです。

では、どういう人が re-habilitation の対象者なのでしょうか。

次のように大別されるのではないか、というのが私の理解です。
すなわち、
1)骨折などの怪我をして、あるいは何らかの手術などをして、それが治るまでの一定期間、動くことができず、
   その結果従前の能力が失せてしまった人、
     私は子どものころ、左手首を骨折し、一時期副え木を当て、ギプスをしていたことがあります。
     ギプスを取ったあとしばらくの間、左手を自由に動かすことができませんでした。
     そして、動かせるようにする施療はきわめて荒っぽかった記憶があります。
     お構いなしの関節の屈伸運動・・・。今のリハビリとは大違い・・・。

2)脳卒中などにより、脳~神経系を傷め、それゆえに動作の指令が滞り、それゆえに動くことができなくなり、
   従前の能力を失せてしまった人。
体を動かしていない期間が続くと、そのメカニズムはよく分りませんが、体を動かすことができなくなります。
筋肉~腱~関節が言わば「固まって」しまい、脳の「動かせ」という指令に反応しなくなってしまうからのようです。
私の場合、脳出血により左半身の動作を指令する脳~神経系が働かず動作不能の状態に陥ったようです。
出血:浮腫が存在する間に、脳~神経~筋肉・腱~関節の動きが無反応になってしまったのでしょう。いわゆる「麻痺」です。
これを「復元」しよう、というのが re-habilitation なのだ、と言えばよいでしょう。
   註 発症時、手や足が「べらぼうに重く感じられ」ました。
      この「重さ」は、手や足の「自重」らしい。つまり、健康なときは、
      脳~神経の指令に筋肉~腱~関節が無意識に適切に作動して手足を「持ち上げていた」のですが、
      「重い」と感じたのは、私の「意」に応じて手足が動かなかったからなのでしょう。
      どうやら、こういう「動作のメカニズム:脳~神経~筋肉~腱~関節のスムーズな連携」は、     
      赤子のときからの日々の暮しの中で「学習:身につけて」きたもののようです。
      言い方を変えれば、病後の re-habilitation は、赤子に戻って「学習し直す」ことだ、と言えるかもしれません。
このほか、
3)知的障碍や脳の障碍で普通の人が持っている能力を備えていない人。


これはカタバミの花。大きさは1cmもありませんが、黄色が目立っています。

現在行なわれているre-habilitation は、大きく次の三つの治療・療法で構成されているようです。
ア)「理学療法:physical therapy(略称PT)」
イ)「作業療法:occupational therapy(略称OT)」
ウ)「言語療法:speech therapy(略称ST)」

そして、それぞれの治療を実際に担当する専門職が、「理学療法士 physical therapist 」「作業療法士 occupational therapist 」そして「言語療法士 speech therapist 」で、所定の教育課程修了後、国家試験で資格を取得します。

この方たちは、人体の「構造」:生理学的知見、解剖学的知見はもとより、神経~筋肉・腱~関節の連携相関関係について、単なる辞書的知識ではなく、実体験に基づく該博な知見を備えておられます
たとえば、ここの筋は、ここにつながっている、あるいはここと連携して動く、だからそのことを知らないと、知ろうとしないとダメ・・・などということを、きわめてよく知っていて、それを具体的に教えていただくこともあります。
つまり、「部分」は「全体」のなかの部分だ、ということです!
まさに、「ゲシュタルト理論」そのものです。
   「ゲシュタルト理論」は、元は心理学の用語。
   簡単に言えば、部分の足し算=全体ではない
   「部分」の認識には、先ず「全体」の認識が不可欠という考え方。
   私たちのリアリティに合致しているゆえに、すでに書いてきたことでお分かりかと思いますが、
   私は以前から、この「考えかた・見かた」を採っています。  

   
   ところで、
   療法士さんたちの仕事ぶりを見ていて、
   思わず、同じく国家試験による資格である建築士の「様態」と比べてしまいました。
   建築士は、単なる「肩書」になっている感が深いように思えたのです。
   その理由は、「仕事の意味」が分らなくなっている、
   しかも自ら問わなくなっているからだ
と思いました。
   多くの建築士は、「仕事の意味」を、
   設計した建物の「外形」の《恰好のよしあし》に求めたがります

   そして、自らも、周りの人も、「その形の謂れ」を問わなくなっているのです
   それは、《建築士の仕事=自己表現の手段》と勘違いしている場合が多いからではないでしょうか。
   国家試験は、そんなことを建築士に求めてはいません。
   以前に触れたような「いわゆる建築家」の「理解不能」な言動は、だからこそ現れるのではないかと思います。
   こんなことは、療法士さんたちの世界ではあり得ない話です。
   療法士さんたちの世界では、「専門」の「本来の意味」が活きています


それぞれの「療法」の内容を私なりにまとめると、以下のようになります。
   
physical therapy とは、字の通り、physical(身体) の能力の治療の意と思われます。つまり、身体の諸種動作能力の回復を目指す治療。
これが、なにゆえに「理学」という訳語になったのか、わかりません。直訳の方が分りやすかったのではないでしょうか。

occupational therapy は、原語自体よく分りません。
occupation は「、職業、業務」あるいは、「占有、居住、あるいはまた占領、占拠」という意。occupational は、「職業の、職業から起こる(例 occupational disease:職業病)」という意。 
だとすると、occupational therapy とは何だ?
私が受けた physical therapy は主に下肢の機能回復訓練、occupational therapy は主に上肢の機能回復訓練でした(私の場合はいずれも、左側が主)。

そして、実際に occupational therapy を受けているうちに、 occupational therapy というのは、同じ機能回復訓練のうちでも、たとえば衣服の着脱(ボタンをかけることなどを含みます)、茶碗を落さずに持つ、箸をうまく使う、あるいはある道具を使う・・・など、「ある目的的な動作の訓練に直かに連なる physical の治療」であり、そこから「作業療法」という言い方になったのではないか、と思うようになりました。

speech therapy は、speech の語がメインになっているように、もとは「話すことができるようになるための治療」であったと思われます。
脳の受けた損傷に拠って、手足が動かせなくなるのと同様に、「話す」という動作や、ものを食べて飲み込む動作を具体的に担う口の周りの physical な部位が自在に動かなくなることが起きるのです。「ろれつがまわらない」というのが典型的な症状で、嚥下障碍もその一つのようです。
その一方で、発声・発音以前に、「言葉を失ってしまい、話せなくなる」場合があるようです。
人の「行動」「動作」はすべからく脳が司っています。
何か「行動する」「動作をする」というためには、それ以前に、ものごとを「認知」し、とるべき行動・動作を「判断」する、という「前段」が必ず存在します。
「話す」というのも、その「行動・動作」の一つ。こういったすべてを脳が差配しているわけです。
それゆえ、脳のある部分が損傷すると、ものごとを「認知し、判断する」ことができなくなり、その結果として「ものを言うこと」ができなくなったり、「正しく言えなくなる」ことも起り得るわけです。単に「ろれつがまわらない」などということよりも重篤な状況状態です。 
対象が確実に見えているにもかかわらず、その存在を「認知する」ことができず、明らかに見えているものにぶつかってしまったり、対象のある部分だけ、思い浮かべることができない、などということも生じるようです。こういう重篤な障碍は、総称して、「(脳の)高次機能障碍」と呼ぶようです。私についても、その点が心配されたようです。        
   たとえば、脳の右側の重い損傷が起きた方に、時計の文字盤を描いてもらうと、
   左半分が空白の:文字のない:文字盤の絵を描くそうです。                                                
察するところ、「言語療法:speech therapy 」は、単に「発声や嚥下にかかわる physical therapy 」だけではなく、「脳科学」との連携の下で、「脳の機能全般」の re-habilitation を目指しているのかもしれません。
それゆえ、re-habilitation で一番難しいのは(「回復」が難しいのは) speech therapy なのではないかと思います。言わば、「脳機能を再構築すること」に他ならないからです。

   註 担当されたある療法士の方から、
      physical therapy の発祥は、戦時下の傷病兵の「再生・修理工場」としてであったらしい、と聞きました。
      兵士も兵器と同じく消耗品、壊れたら修理して長く使おう、という発想があったのかもしれません。
      また occupational therapy の発祥は、いわゆる精神病院にあるとも言われているとのことでした。
      いわゆる知的障碍などで、普通の人が行なっている普通の動きを為し得ない人びとに、
      普通の動作・「作業」ができるように学習してもらう、ということなのだと思います。
      たしかに、OTとは呼ばれてはいませんが、同様のことは知的障碍者施設でも為されています。

   註 文中の「障碍」という表記について 
      現在、「障害」と表記されている語は、本来、「障碍」と表記していました。
      は、「さまたげる」という意。も同じ。
      つまり、「障碍」:「普通の状態がさまたげられている」状態のこと。
      それが、当用漢字の使用制限の結果「障害」と記すようになり、
      この「害」の字が誤解を生むようになったのです。
      台湾では、「障害者」を「残障者」と記すそうです。「体にさまたげが残っている」という意味です。


どこでも見かけるヒメジョオン(ヒメジオンと呼ぶのが普通かもしれません)の花に
ベニシジミがとまっていました。この時季シジミチョウが多い


次回は、私が「回帰」するまでの「過程」を、思い出せる限り記してみよう、と思っています。

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回帰: re‐habilitation :の記・・・・療法士の方がたへの敬意と謝意を込めて-1

2013-06-22 09:16:24 | 回帰の記

梅雨のなか、ナツツバキ(沙羅の木)の花が盛りです。ハナアブがたくさん寄ってきていました。

私は、リハビリの結果、ほぼ9割がた従前の状態に戻ることができ、5月14日に退院、今は、自宅で、できるだけ以前の生活に戻るべく努めています。
比較的早く自宅に戻れたのは、ひとえに、医療スタッフ、リハビリスタッフの尽力に拠るものであることはもちろんですが、私の入院中の4ヶ月の間、家のこと一切をマネージし、支えてくれた家内の支援がなければ、私は治療・療養に専念できなかったことは言うまでもありません。どんなに感謝してもしきれない、これに応えるのに、これから私にいったい何ができるだろう、と考えつつ過ごしています。

この4ヶ月の入院暮しの間、特にリハビリの間、いろいろと省み、学び直す機会ががありました。
そこで感じたこと、思ったことを、「回帰の記」として記してみる気になりました。「回帰」という標題にしたのは、「復帰した」「回復した」というより「どこからか、戻ってきた」という思いの方が深かったからです。
   なお、文中のリハビリに関わる記述は、あくまでも、私の理解に拠るものです。

はじめに、発症・入院から退院までの経緯について簡単に触れます。
1月18日金曜日、その日は、年明け最初の山梨での現場打合せの予定があり、いつもより多少早めの7時過ぎに3頭の犬の運動のために外に出ました。数日前に降った雪がところどころに残っていて、気温も氷点下5度を割っていたかと思います。
2・30分ほど歩いて家に戻り、朝食をとりはじめたとき、異変に気付きました。
最初に家内が気付いたのですが、新聞を開いている私の左手がおかしい。ちゃんと新聞をめくれていない。私自身もいつものように新聞を捌けないので変だと気付きました。床に落ちてしまった新聞を拾うために立ち上がると、手も足も妙に重たい。喋り方もおかしかった、と家内は言っています(私は気付いていない)。
これはおかしい、病院に行こう、と思いました(脳梗塞か脳出血では?という思いが過ぎったからです)。
地域の中核・基幹病院に「救急外来」という部門があるのを知っていましたので、タクシーを呼んで行くことにしました。タクシーを待つ間、それ以上の「変化」はなく、タクシーまでも自力で歩いて乗り込みました。
   タクシーで行くことにしたのは、救急車だとどの病院に行くか分らないと聞いていたからです。

救急外来のDRの診断は脳出血。その後、このDRが私の主治医になります。
早速検査、ということになり、私はよく覚えていないのですが、それから症状が急変したようです。
10日ほど前、DRに、回復し退院できた旨、お礼の挨拶にうかがいました。
お忙しくお会いできずお礼の手紙を置いてきたのですが、夜DRからメールをいただきました。
メールには「・・・・・(ナースステーションまで)歩いていらしたとのことで、その姿を見ることができず残念であると同時に、下山さんの回復ぶりにスタッフ一同感銘を受けました。私も下山さんを最初に救急外来で診察したときのことを鮮明に覚えていて、検査をしている最中に徐々に麻痺が悪化して椅子に座ることも難しい状態となった所を直接見ているので、現在歩くことができるというだけでとてもうれしく思います。・・・」とありました。家内はそのとき、DRから、「回復しても、歩けなくなるかもしれない」との旨言われていたようです。
脳出血で倒れる、という話をよく聞きますが、おそらく私も、更に長く外に居たならば路上で、あるいは、現場に向っていたら車中で、倒れていたのかもしれません。不幸中の幸いでした。
 
CTとMRIの検査の結果、右脳の被殻(ひかく)という部位に3cm径ほどの血腫・浮腫があることが判明(脳出血の4割がこの場所で発生するそうです)。直ちにICUに入院。
尿管を付け、紙おむつをあてがい、点滴を受けていたようです(その段階で受けた介護認定では「要介護3」とされました。次回の認定では、もちろん、要介護、要支援のいずれにも該当しないはずです。)。
血腫・浮腫は、開頭手術で取除かなければならない場合もあるようですが、私の場合は手術せず、「自然治癒」に委ねることになったようです。
   「自然に・・・」というのはどういうことなのか、後にリハビリ担当のDRにきいたところ、
   脳の中にできた「タンコブ」と思えばいい、頭をぶつけてできたタンコブも、自然におさまる、
   それと同じで血流がちゃんとしていれば消えるのだ、という分ったような分らないような「説明」をいただきました。

ところで、私が緊急入院となった病院は、脳卒中の場合、「急性期病院」と呼ばれ、一定の治癒が進むと「回復期病院」への転院が求められる、という説明を入院時に受けました。
「回復期病院」というのは、いわゆる「リハビリ」を主とする病院のこと。そして、発症から6ヶ月は「急性期」「回復期」の病院に居られますが、そこで治療が終わらない場合は(6ヶ月を過ぎると)、「介護」施設に移らざるを得ないようです。
私の場合は、入院1ヵ月後の2月19日にリハビリ専門病棟のある病院に転院しました。

急性期病院での一日は、朝一番の看護師さんの次の問いかけから始まるのが恒例でした。
1)「お変わりありませんか。」
2)「お名前と生年月日を言ってください。」
3)「今日は何年何月何日で何曜日ですか。」
4)「今居るのは何処ですか(何階か、まで訊ねられることもありました)。」
5)「左足を上げて、そのままにしてみてください。」
6)「左手をまっすぐ挙げて(または、万歳して)、そのままにしてみてください。」
7)「左手を握ってみてください。次に開いてみてください。」(「グー、パーをしてみてください」の場合もありました)。
8)「指折り数えてみてください。」(「チョキを出してください、Ⅴサインをしてみてください。」という場合もありました)。
これは、その日の病状を見究めるための簡易テストと考えてよさそうです。
1)から4)までは、認知能力・記憶力・注意力・言語能力の状態:「脳の状態」:を確認するとともに、顔の表情に「ゆがみ」:麻痺が起きていないかを観察するためのようです。
5)は、足の動作の状態を知るため、6)~8)は手の状態を知るためです。
私は、最初の頃から、足は持ち上げたまましばらく保持できましたが、左手は上げた手を維持することができず、グーパーはもちろん、指折り数えることもできませんでした。握れないし、完全に開くこともできず、人差し指を折ろうとすると、中指はおろか薬指まで一緒に動いてしまう、つまり、それぞれの指を独立に動かすことができない状況でした(現在も未だ完全ではありません)。
   退院後に見たTVで、脳梗塞の早期発見のためのFAST運動というのが紹介されていました。
   朝一番に、
   F:顔の表情に歪みがないか、
   A:手の掌を上向きに腕を前方に突き出し、その姿勢を維持できるか、
   S:話がちゃんとできるか、
     を観察し、少しでも異常に気付いたら、
   T:一時を争い病院へ行くこと、という「運動」。
   早ければ梗塞を取除く薬があるので、重篤化しないで済むからです。
   急性期病院の朝の看護師の問いかけと同じ趣旨だな、と思いました。
   FASTはイギリスで始まった運動で、その結果、イギリスの脳梗塞の発症が激減したそうです。

急性期病院では、毎週CTを撮り、その結果をみて、入院2週間後ぐらいからリハビリを開始しました。リハビリ室への移動は車椅子で搬送(急性期病院に入院中は、移動は完全に車椅子。ただ、左手が利かないので、自分で操作すると左へ左へと回ってしまうため、自走はできませんでした)。
血腫・浮腫がほぼ消えたため、先に触れたように、2月19日に、本格的にリハビリを行なうため、リハビリ専門病棟を備える病院に転院しました。
急性期病院では、一日60分のリハビリでしたが、回復期病院では、午前、午後合わせて120分以上がリハビリの時間でした。


キンシバイも今が盛りです。雨の中、結構華やかです。

専門病棟でのリハビリは、毎日が「目からうろこが落ちる発見」の連続であった、と言っても過言ではありませんでした。
人間の「動作」というのが、きわめて精緻かつ巧妙な「機構・構造」:「脳~神経~筋肉・腱~関節の連携」で成り立っていることを、毎日のように気付かされたからです
同時に、今まで、そのことについてまったく意識し、考えることなく安穏と暮してきた、ということにも気付かされました

足のリハビリでは、「歩くということがどういうことか」を根本から教わりました。
「歩く」というのは、単に左右の足を交互に前へ出すことではなく、出した足へ体重をスムーズに移動させることだ、スムーズとは、体重をスムーズに地面・床面に伝えることだ、そして、スムーズか否かの「判断」「判定」は自らの感覚に拠るのだ、ということをあらためて気付かされました。
力が地面・床面にスムーズに伝わらない、ということは、力学的な言い方をすれば、力のベクトルが、足の軸方向ではなく横方向にも働いてしまう、横方向への分力が生じてしまう、ということです。そうなるとどうなるか。自分の体重によってコケる、つまり、転倒することになるわけです。たとえば、膝がガクッと折れ、膝から崩れるのです。
健常な人ならば、膝のまわりの筋力で「崩れ」をある程度防止できます。しかし、高齢で筋力が衰えていたり、脳出血などで神経~筋の動きが麻痺していると、そうはゆかないのです。
多くの場合、そういう人は、「摺り足」に近い歩き方をしようとします。「摺り足」は、体重の移動が容易だからではないかと思います(足を上げると、ふらつくので、なるべく重心を低めようとするのだ、と考えると分りやすいかもしれません)。私もそうなっていました。今でも疲れてくるとそうなりがちです。
そして、これが高齢者や麻痺の生じた人が「躓きやすくなる」因ではないか、というのが、療法士さんから学んだ「歩行の理屈・原理」から想定して得た私の「結論」です。

バリアフリーという言葉があります。ごく普通には「段差解消」とほぼ同義語と言ってよいかもしれません。「段差をなくせば躓くことがなくなる」、と思われています。
しかし、段差をなくすために推奨されるスロープ・斜路でも、躓くのです。とりわけ、短いスロープで起きがちです。これは、私も実際に体験しました。結構怖い思いをするものです。療法士さんも、意外と転倒する方が多い、と語っておられました。
スロープも段差なのです。特に、短いスロープでは、スロープだ、という認識が遅れ、直前までの平坦路と同じ感覚で(平坦地での摺り足の要領で)歩いてしまい斜面につま先を擦ってしまうのです。    
こういう躓きやすい短いスロープでも、その脇に、手摺でなくても傍に何か、柱1本でも立っていれば、歩く側は安心です。
私がそういうスロープで躓きふらついたとき、思わず脇の植え込みの樹木の葉先を頼りにして体を支えました。枝が少し折れてしまいましたが・・・。
こうした療法士さんから授かった「歩行についての学習」に拠り、以前から何となく感じていた建築やデザインの世界で言われる「バリアフリー」「ユニバーサルデザイン」「人間工学や感性工学によるデザイン」等々の「概念」の「うさんくささ」が何であったのか、「分った」気がしました
それは、いずれも、「人の『動作』の実像・リアリティに拠っていない」から「うさんくさい」のです。 
偉そうなことは言えません。
私も身障者トイレを設計することがありますが、多くの場合、機器メーカーの推奨レイアウトを援用して済ませてきたように思います。そのとき、手摺をどういうように使うか、などとは考えず、「あれば、ないよりもよい」程度の認識で済ませていたように思います。
しかし、実際に身障者トイレを利用するようになって、私はいかに人間の「動き」について(人の「動き」が、精緻かつ巧妙な「機構・構造」:「脳~神経~筋肉・腱~関節の連携」で成り立っているということについて)学習不足であったか、学習しようとする意識に欠けていたかを痛感し、恥かしくなりました
そして、この大事なことを教えてくださった療法士さんたちに畏敬の念を抱いたのでした
なぜなら、彼らは20代~30代です。その年代の頃に、私はそこまでの認識をもち得ていなかった、と思ったからです。 
実際に車椅子でトイレに入り、立ち上がる。立ち上がるときは、たいてい車椅子の手摺に手をつきます。立ち上がった後、衣服を脱ぐためふらつく体を支えようとして思わず手が出ます。そのとき、用意されている手摺を摑むとは限らないのです。相手は壁でもよい。手摺を握るという動作ができない人もいます。手摺の位置が、その人には不都合な場合もあります。垂直のバーは摑めても、水平のバーはだめ、という人もいるのです。実に多様です。用意されている手摺の「適宜な場所」を掴んでいる(「触れている」という方があたっているかもしれません)、というのが実際のようです。
また、人には、その人の「利き勝手」があります。それゆえ、利き勝手の都合で、反対側に壁や手摺があればよいのに、と思う人もいます。このことを考慮したのだと思いますが、私のいた専門病棟には、勝手の異なるトイレが廊下を挟んで向かい合わせに(あたかも鏡像のように)用意されていました。これは正解だ、と思いました(もっとも、「利き勝手」が麻痺の方もおられます。そういう方が一番苦労しているようです)。
ユニバーサルデザインなんて、口で言うほど簡単ではありません
 
階段の歩行練習でも、これまで気付いてこなかったことを気付かされました。
階段については、建築法規に「基準」が示されていて、一般には「踏面(ふみづら:足の裏あるいは履物の載る面)」の奥行が26cm以上、蹴上げ(けあげ:立ち上がりの部分=段差)」の高さが18cm以下であればよいとされています。私のいた病棟の階段は、おそらく、この基準ぎりぎりの寸法ではなかったかと思います。普段、患者はエレベーターを使い、階段は使いませんから特に問題はありません。
しかし、この階段での昇降訓練では、私はよく躓きかけました。登るときにはつま先が前方の「蹴上げ」を、降りるときには踵が後方の「蹴上げ」を擦るのです。そのたびに体には反力がかかるわけですから一瞬コケそうになります。
なぜつま先、踵を擦るのか?療法士さんから教えていただいた「歩行」についてのいろいろな「示唆」を総合してたどりついた結論は以下の通りです。
人は誰でも階段を踏みはずさないように歩を進めます。具体的には、足の裏あるいは履物が「踏面」にまともに載るように心します。これは、エスカレーターに最初の一歩を載せるときに気にすることと同じだと思います。  
階段を目の前にして、足が自在でない人は、段を踏み外さないように特に気を遣います。それゆえ、足:履物が「踏面」にちゃんと全部載るように、登るときはなるべく奥の方に、降りるときはなるべく手前側に、足を置こうという気持ちが自然に働きます。その結果、登るときにはつま先を、降りるときには踵を「蹴上げ」部分に擦ってしまうのです。
概して、かかとを擦ること、つまり降りるときによく起きるようです。降りる方が「怖い」からだと思います。
「踏面」の奥行が履物の長さより大きい場合には、あまり気を遣わないで済みます。
   自宅の外階段に、「蹴上げ」は15cm、「踏面」が30cmと26cmの階段があります。
   段数は両方とも同じ。
   25cmの方でよく踵を擦ります。その階段の方が怖く感じられるからのようです。
   「踏面」の奥行が履物の長さより多少でも長めだと、怖さが生じないのです。 
   多分これは、健常な人がコケないだけですべての人が経験していることです。
つまり、「法規の階段の基準を充たす」=「階段の設計OK」と考えてはならない、ということです。 
階段の設計の要点は、階段を目の前にして、「ここなら登れる」、あるいは「降りられる」、という気持ちを「持ってもらえるようにすること」なのではないでしょうか。この判断も、「感覚」が拠りどころとなります。多くの設計では、このことが見過されているのです。
   たとえば、踊り場の位置。
   登るとき、次の踊り場の床面が見える場合(目線より下に床面がある)は、
   安心して、楽に登れます。
   そういう階段では、降りるときも、怖さを感じません。
   目的地は直ぐそこだ、あそこまで行けばいいのだ、と思えるからだと思います。
   私はこれまで、階段の設計では、できるだけそうなるようにしてきました。
   このコツを最初に教えてくれたのは、アルバー・アアルトの設計事例でした。
   アアルトは、
   人は環境を全感覚で受容し、人体の精緻・巧妙な機構を駆使し動作にうつす、
   このことを正確に認識していたのだと思います。
   だからこそ彼は、いろいろな機器、建具の取っ手、食器、家具、照明など、
   人が使うもの一切を「デザイン」できたのだ、と今になって気付きました。
   知らない方が多いかもしれませんが、アアルトの初期の設計のパイミオのサナトリウム(1933年)は、その好例で、
   細部まで目の行き届いた「凄い」設計です。いずれ紹介させていただきます。
   1933年は、私の生まれる4年も前。これを観ると、最近の建物は一体何だ、と思われる方が多いはずです。
      

ムクゲも咲きだしました。もうすぐ7月。これから夏中咲き続けます。

一日合計120分のリハビリは、時には疲れます。痛みをともなうこともあります。だから、入院されている方の中には、リハビリを嫌がる方もおられました。療法士の方が病棟までわざわざ迎えに来られるのですが、タヌキ寝入りをして起きない方も・・・。
たしかに、疲れるときもあり、痛みをともなうこともありますが、私には、中身の濃い貴重な「特別講義と実習」の時間に思えました。
そして、時間を重ねるごとに、リハビリの中身はもちろん、リハビリに携わる療法士さんたちの仕事、専門性について、世の中では正当に理解されていないのではないか、と思うようになりました
退院後、自宅でなるべく歩行の時間をとり、左手を使う作業をしている旨の私の近況を聞いたある知人が、次のような《アドバイス》をFAXで送ってきました。そこに、「グーパーをして指をそらす。まわりの景色を楽しみながら、楽しく足をあげて歩く。・・・とよい。」などと書かれていました。要は、健康な人が健康を維持するための運動の「処方」です。おそらく、リハビリは、これと同種のことと思われている、これが世の中のリハビリについての「常識」なのではないか、と思いました。
《やむを得ず》、私は「グーパーができない、うまく歩けない・・・ので、かつてはあたりまえにできたいろいろな『動作』、その『コツ』を、リハビリで、療法士さんの示唆の下で、一から学習し直すことに励んできました。」という「返事」を書きました。そういう状況というのはまったく想像することができない、とのことでした。
それで普通なのです。しかし、それでいいのだろうか?
私が今回この一文を書く気になったのは、リハビリとは何なのか、療法士の方々の仕事・専門とは何か、少なくともこのブログを読んでくださっている方々だけにでも、本当のところを知っていただきたい、そして、なるべく広く知ってもらうように努めることが、リハビリに拠って回帰できた私の「義務」ではないか、と思ったからなのです。
皆が知れば、高齢者、障碍者への「理解」も、少しは変るのではないだろうか。

次回では、リハビリとは何か、今回の体験で私なりに得た「理解」を書くことにします。

   退院後、たてつづけに脳卒中に関するTVを見ました。
   その一つ、NHKスペシャル「病の起源」によると、
   脳卒中は、人という生きものの宿命的な病、なのだそうです。
   限られた容積しかない人の頭の中には総延長600kmもの血管がつまっている。
   ゆえに血管は細く、管の壁はきわめて薄い。簡単に破れてあたりまえ。
   現に、日本では、2分に1人の割合で発症しているそうです。
   誰もが脳卒中予備軍だということです。
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