建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

続・日本の建築技術の展開・・・・棟持柱・切妻屋根の農家:補足

2008-02-16 08:51:39 | 日本の建築技術の展開

先回、山梨県:甲府盆地の東部に、当初は屋根裏使用目的のなかった「茅葺切妻」農家、17世紀末建設の「広瀬家」があったことを紹介した。

現在この建物は、小田急線「向ヶ丘遊園」(新宿から急行で20分ほど)下車、南口を出て徒歩10数分のところにある「川崎市立 日本民家園」に移設・保存されている。
なお、この民家園では、各地から移設した建物を、周辺環境をできるだけ元の様子に近く展示している点に特徴がある。「日本民家園」のHPに保存リスト等が載っている。


南側の軒がきわめて低い(頭すれすれである)のは、古い住居の建物に共通する特徴。大分前に紹介した「古井家」も軒が低い(「古井家」については、06年12月13日、07年3月17日に紹介)。

「上屋」+「下屋」方式であるが、小屋組は、東西妻面、平面図の「いどこ」と「なかなんど」境の柱を「棟持柱」、「いどこ」「どま」部分は通常の小屋組方式:柱に梁を架け渡し棟束を立て棟を受ける:を採っている。
もっとも、東妻面では礎石から通しの柱だが、西妻面では、外観写真のように、差物で棟持柱を受けるかたちになっている。
この西側妻面の柱と横架材のつくりなす壁面構成は、巧まずして美しい。

外壁に開口が少なく、内部はきわめて暗い。甲府盆地は、冬季寒さが厳しいこと、そして、建具の加工技術がいまだ完全でなかった時代の建設であったことが、こういうつくりにしたのではないか、と言われている。

「いどこ(ろ)」は、当初、いわゆる「土座」:土間に直接「莚(むしろ)」や「茣蓙(ござ)」などを敷く:であったらしい。

民家園に移築時点では、養蚕農家として、規模は小さいが、写真のような「高野家」同様のつくりに改造されていた。

注意したいのは、17世紀の末の地域の大工さんたちが、理に適った、しっかりとした仕口でつくっていることだ。
これに比べ、現在あちらこちらで見かけ、法令も容認し奨めている架構や仕口は、いかにいいかげんなものか、分るように思う。
およそ300年経った今、《近代科学》が、技術の衰退を強いたのだ。

なお、写真および図版は、「日本建築史基礎資料集成 二十一 民家」(中央公論美術出版)から転載。写真中の文字は追記。

続・日本の建築技術の展開・・・・棟持柱・切妻屋根の多層農家

2008-02-15 11:06:00 | 日本の建築技術の展開

松本行の中央線は、笹子トンネルを抜け、眼下に甲府盆地が拡がり始める頃、「塩山(えんざん)」駅に着く。四月ごろの甲府盆地は、桃や李の花が咲き、全体がかすんで見える。

その塩山の駅のすぐ北側(歩いて数分)に「高野家」(重要文化財)がある。三層茅葺切妻屋根のきわめて大きな家。

高野家は古くから薬草の「甘草(かんぞう)」を栽培、販売していたため、「甘草屋敷」とも呼ばれている。現在の建物は、19世紀初期:1800年代初期の建築。
つくりは、先に紹介した養蚕農家同様、屋根裏のほとんどを使っている。ただ、用途は蚕室ではなく、甘草の乾燥用。

先に紹介の養蚕農家「富沢家」と大きく違うのは、「富沢家」が「茅葺寄棟」であるのに対し、「高野家」は「茅葺切妻」であること。
いわゆる「合掌造」も茅葺切妻だが、「高野家」のそれは、それとは大きく違う。言ってみれば、通常の切妻屋根の建屋が背伸びをした恰好。

茅葺屋根は寄棟、入母屋が普通で、茅葺切妻は、全国的に見てもきわめて少なく、関西・北陸では岐阜、大阪、奈良、富山、そして中部以東では山梨にしかないという。
大阪、奈良などの茅葺切妻は江戸時代も後期になってから現れるが、山梨は1700年代:18世紀前半にはすでに一般化していたようだ。

山梨の茅葺切妻屋根は、屋根裏を蚕室として使うために生まれたという説もある。
しかし、この形式は、この地方で養蚕が盛んになる以前の17世紀後半:1600年代後半に既に見られ、現存最古とされる17世紀後半建設の「広瀬家」が、現在、山梨県から川崎市立日本民家園に移設、保存されている(重要文化財)。
この建物では屋根裏は使われていないが、「棟持柱」による茅葺切妻屋根である。
なぜ甲州・山梨に茅葺切妻が生まれたのか、未だによく分っていないらしい(この項、「日本の美術:民家と町並 関東・中部編」の解説による)。

この「高野家」は、山梨の茅葺切妻に共通する特徴がある。
それは、棟木を「通し柱」の「棟持柱」で支える構造を採ること、棟の一部を一段高くしていわゆる「煙出し」を設け、また屋根裏へ明りを取り込むために屋根面の一部を突き上げていること。煙出しと突き上げの様子は、外観写真にみえる。
「富沢家」のように、平側の屋根を全面切り上げていないのは、切妻屋根のため、妻面からも明りを取り込むことができるからである。

   註 このような甲州の切妻の棟持柱方式の建屋を、
      甲州では「切破風(きりはふ)造」と呼び、
      また、「棟持柱」は「うだつ」、「破風」を
      「はっぽう」と呼ぶことから、妻側の棟持柱を
      「はっぽううだつ」と呼ぶという。
          この項川島宙次著「滅びゆく民家」より。


「高野家」は私が見に行ったころは、まだ建屋に家人が住まわれていて、写真を撮るのは遠慮させていただいた。
上掲の写真、図は、上から、「南面外観」(「日本の美術」より)、「平面図・立面図・断面図」(「日本建築史基礎資料集成 二十一 民家」より)、「二階内部」(「日本の美術」)、「三階内部」「妻面参考写真」(「滅びゆく民家: 間取り・構造・内部編」より)。

「棟」の位置は、平面図上で、桁行方向、座敷部を南北に二分する位置にある。
土間境の太い柱:通称大黒柱も同じ線上(これは、後述のように通し柱ではない)。
土間右手:東側の部屋は、八畳敷の部屋の真ん中に柱がある。これも「棟持柱」。じゃまな柱を取り除く工夫を普通ならするのだが、それをしていないのは、その柱が「棟持柱」だからだろう。

二階内部写真に見える異形の柱は、ほぼ二尺径のクリ材の大黒柱の頂部で二股に分れ、三階床の桁行方向の梁:「中引(なかびき)梁」(通し柱~通し柱の中間で床梁を乗せ掛ける桁行の梁、床梁をこの上で継ぐことが多い)を受けている。

この建屋の「棟持柱」は、梁間の中央を切った「桁行断面図」の、左から、「西妻面」、「部屋境の2本」、土間東の「八畳間の中央柱」、そして「東妻面」の5本で、いずれもきわめて長大。
三階内部写真に見える棟を支えている柱が、部屋境の2本の「棟持柱」である。

各階では、この「棟持柱」に差口で納めた「梁」が、南北に伸び、入側では、「管柱」の支える「桁」がそれを受ける(「管柱」が直接「梁」を受ける、つまり「折置」にする場合もあるようだ)。
つまり、「梁行断面」は、言ってみればヤジロベエ型になる(梁行断面図は「修理工事報告書」にあるはずだが、不勉強でまだ見ていないので紹介できない)。

この方法だと、入側に、ベランダ様の「跳ね出し」を自由に設けることができるなかなかすぐれものの工法なのだが、しかし、隅柱を通し柱、という現行法令の想定範囲にはない工法である。

「高野家」の妻面は、撮影が難しい場所にあり、同様のつくりの建屋の妻面の写真を「滅びゆく民家」から借りた。
少し太めの「棟持柱」に、桁行の「中引梁」が「ほぞ差し鼻栓」で納められていることが分る。
各層の「床梁」は、写真では見えないが、「棟持柱」に「差口」納め。各床梁間に数段見えるのは「貫」。これらがそのままこの建屋の「意匠」になっている。

この地域には、屋根が瓦葺きになった(したがって、屋根勾配は5寸~6寸程度)同様のつくりの建物(棟持柱、越屋根、突き上げ屋根)が、多数現存している(たとえば、塩山から雁坂峠へと向う街道筋)。かつて撮ったそういった建屋の写真を、現在捜索中。

続・日本の建築技術の展開・・・・二階建の養蚕農家・補足

2008-02-11 09:13:23 | 日本の建築技術の展開

「日本の美術:民家と町並 関東・中部編」(至文堂)に、埼玉県・秩父地方にある「富沢家」同様のつくりが紹介されていたので、転載(「内田家」)。

「富沢家」「内田家」ともに、寄棟造の小屋部分に床を張り、二階:蚕室として使う。そこで、小屋裏:二階に明りを取り込むため、寄棟の「平側」:長手側の屋根を切り上げ、その結果、このような形状になる。

同じく、寄棟屋根の「妻側」を切り上げ、二階の明り取りとする屋根は、東京・奥多摩や富士山麓の養蚕農家に見かける(上掲の下の写真)。
その独特の形が兜に似ているというので「かぶと造」などと呼ばれる。
「富沢家」「内田家」は、これに対して、「平側」を切り上げているので「ひらかぶと」と呼ぶという。

地図を開くと分るが、上州:群馬、武州:埼玉、甲州:山梨そして信州:長野・諏訪・佐久は、秩父山塊をもって隔てられ、現在の鉄道、自動車道に頼ると、遠回りせざるを得ないから、相互の関係が薄いように思いがちだが、人馬に依った時代には、これら地域を結ぶ峠越えの道が発達していた。
たとえば、奥多摩は、大菩薩峠を越えれば甲州・塩山である。この街道は、甲州街道の裏街道だった。
そして、塩山を北へ向えば、雁坂峠を経て秩父に至る(最近漸くトンネルが開通)。甲府盆地を西へ進めば諏訪。
諏訪から和田峠で蓼科山系を越えれば佐久(諏訪~佐久のルートは、古代の東山道。中山道もそれを引継いでいる)・・・などなど。
つまり、人馬に拠る時代は、これら各地域は、人びとの交流も盛んであり、互いに影響しあっていたのである。

   註 よく、起源はどこそこにあり、それが伝播してゆく、という
      「文化、技術伝播論」で、発祥地を探したり「系図」をつくる
      などという「研究」があるが、そういう考え方は私は採らない。

      同じような状況下では、人びとは同じようなことを考え、
      機会があれば交流し、他地域のことでも意味があるものならば
      それを吸収して地域なりに消化し、地域独特の文化となる・・。
      これが本当のところだろう、と思う。

      これは、古代、中国や朝鮮から文化・技術・・が到来したとき
      古代日本の人びとがしたこととまったく同じ。
      たとえば、建物全面の基礎に、版築の基盤をつくったのは、
      ほんの一時期。都の四周に城壁:「羅城」を設けるのもやめ、
      「羅城(生)門」だけつくった・・・などなど。


甲府盆地の東、塩山、勝沼周辺には、「棟持柱」を使った独特の「茅葺・切妻屋根」の多層の養蚕農家があり、そこから発展して、茅葺を瓦葺に替えた同じく多層(多くは二階建)の「棟持柱」による養蚕農家を今でも多数見ることができる。

次回は、この地域特有の「棟持柱・切妻屋根」の事例を紹介。

続・日本の建築技術の展開・・・・二階建の養蚕農家

2008-02-09 11:34:56 | 日本の建築技術の展開

「驚きの《実物》実験」の話のとき、「伝統的木造住宅」の柱は太いものだ、という「予断」があるのではないか、と書いた。特に、いわゆる「民家」は骨太だ、と一般に「理解」されているようだ。

   註 最近、長寿命の建物は、太い柱に太い梁・・・などと奨める本が
      出ている。確かに太い材そのものは永もちかもしれない。
      しかし、組まれた架構の耐久性は、材寸ではなく、組み方にある
      という理解が必要なのではないか。
    
「民家は骨太」「骨太は永もち」・・という単純な理解は「誤解」だとして、奈良今井町の二階建町家・「高木家」と、信州・塩尻の「島崎家」を例にだした。
これらの建物の柱は、いずれも平均4寸2分~4寸3分角(約130㎜)。決して太くはない。

   註 島崎家⇒07年5月24,25日 参照
      「日本の建築技術の展開-27」
      「日本の建築技術の展開-27・補足・・・・島崎家について追記」
      高木家⇒07年5月30,31日 参照
      「日本の建築技術の展開-29・・・・二階建の町家 その2」
      「日本の建築技術の展開-29の補足」
      「日本の建築技術の展開-29の補足・再び・・・・高木家の架構分解図」

「島崎家」は平屋建、農家の二階建例はないかと考えていたとき、大分昔に見た「富沢家」のことを思い出した。
上掲の写真、図面がそれである。
昔撮った写真がどこかにあるはずなのだが、ここでは「日本の美術」の写真を転載させていただく。
また、図面は「日本の民家 1 農家Ⅰ」(学研)からの転載。

「富沢家」は、群馬県の渋川から長野原に通じるJR吾妻線の途中・中之条から山を越えて三国街道:国道17号線へ出る街道の峠(大道峠)の手前、「大道」という集落にある。
この集落は、新田開発で開かれたが、地図を開いてみていただければ分るが、標高が高い山深い寒村、古くから養蚕が盛んであったらしい。なお、「富沢家」に「うまや」が4室あるのは、「富沢家」が街道筋の運送をも業としていたから。

上州、甲州そして信州にかけての山地は、江戸期~明治にかけて養蚕が盛んな一帯。独特の養蚕農家が各地にある。いずれも山間の地。群馬・富岡に官営製糸場がつくられたのも、そういう地理的関係からの選定(選定にかかわったのは若きフランスの青年であることは以前書いた)。
今、甲府盆地は、葡萄をはじめ果物の産地として有名だが、ほとんどの葡萄園は、かつて桑畑だったということは、意外と知られていない。養蚕の衰退にともない果樹園に代ったのだ(茨城も養蚕が盛んであった頃があり、元桑畑は果樹やタバコの栽培に代った)。


さて、「富沢家」は、ほとんど総二階と言ってもよいつくりの茅葺農家。二階部分が「踏み天井(根太天井)」の蚕室になっている。
養蚕のしかたには時代によっていろいろと変遷があるようだが、「富沢家」では、通称「ざしき」と呼ばれていた現在の居間に相当する部屋の「いろり」の上の天井=蚕室の床が大きく開けられ、暖気が二階に抜けるようになっている。
また、蚕室の南面は、出桁・出梁でベランダ様の張り出しが設けられ、ほぼ全面が開口、紙障子が入っている。
これに似たつくりは、瓦葺きではあるが、上州・群馬では高崎~伊勢崎あたり、甲州・山梨では勝沼~塩山あたり、そして埼玉では秩父あたり、信州では諏訪周辺で、今でも見ることができる。

この建物では、土間と土間境の柱は礎石建てで太目の材、はねだし部の柱も礎石建てだが、実測矩計図によると127×130mm。
そのほかは土台が使われていて、土台は丈120×幅133mm。柱が土台からこぼれている箇所がないから、先の柱の他は最大でも133mm角。つまり4寸3分角程度である。ただし、必ずしも正角ではない。
「差鴨居」も各所に使われていて、237×125mm、227×120mmなどで、材の幅はほとんど柱幅と同じである。
「差鴨居」上の小壁には、外観写真で分るように欄間が設けられている箇所もある。

使用材は、土間、土間境の太目の柱はクリ、居室部分はスギ、土台はクリ、梁・桁にはクリ、マツ、スギなど。差鴨居は参照図書に記載がないが、マツと思われる。
ということは、材がスギであっても、「差鴨居」を納めるために、柱幅を差鴨居の幅より1寸近くも大きくする必要はない、ということ。

なお、土間には、広さの割には柱が少ない。これは、土間部分の断面図分るように、土間部分の二階床根太を受ける梁(南端部は「出梁」になる)の下に、もう一段、格子梁組を設けることで可能になっている。

何度も書いてきたが、永住の住まいをつくるからと言って、必要以上の材寸の材を使う、などということは普通にはあり得ない、ということ。
なぜなら、材料を収集することは、大変なことだからである(今だって、基本的には事情は変らないはずだ)。
そして、「人びととともにあることがあたりまえ」の工人たちも、基本的に、字の真の意味で「合理的な寸面の材」を使う、つまりムダなこと、「余計なこと」はしない。

   註 「余計」とは、新明解国語辞典によれば
      「それだけ有れば十分だとされる程度を越して、多く有る様子」

日本の建築技術の展開-30・・・・ひとまず終り

2007-06-01 00:18:47 | 日本の建築技術の展開

[補足註追加:6月1日8.24AM、記述追加8.47AM] 

 19世紀の初め~中頃、つまり近世の中頃までには、日本の「建物づくりの技術」は、体系として完成の域に達していたこと、そして、その民間での代表的な一例として、先回、「高木家」を一例として紹介した。
 これらの技術は、工人たちの間の現場での体験を基に洗練され、そして各地に広まっていったものであった。その過程を通じて、使えるものはより洗練され、使えないと判断されたものはいつの間にか新しい技術に入れ替わっていったのである。これは、特に民間にあって著しい。
 本来、技術の進展・展開とは、このような過程で歩むものなのであって、決してある指導者が、あるいは「お上」が指導して進むものではない。その意味で、現代のあり方は本道を大きく外れている。

  註 私が、現代は江戸時代以上に封建主義がはびこっている、
    と言ってきたのは、現代の「お上」が、
    人びとの自由な、自在な発想を認めようとしないからである。
    「頭がいい」のは決して「お上」だけではないのである。
    むしろ、今の「お上」は権力だけあって、
    「頭」は江戸時代よりも数等劣っていると言って過言ではない。
    江戸時代の「頭」についてはあらためて書く。
 
 一方、武家、公家など、いわば上層の建物づくりは、すでに触れたいわゆる「書院造」の延長でつくられ続けていたと見てよい。
 先に見てきた農家や商家の住まいに対して、武士の住まいは、この「書院造」の系譜の上で、どちらかと言えば、その形式だけを倣ってつくられた。
 つまり、大きな小屋裏を設け、桔木を仕込んで軒を深く出し、背丈のある小壁をつくる「正統書院造」の架構ではなく、外形・外観だけを「書院造風」にしたつくりである。
 上層階層の技術は、「匠明」のような「秘伝書」が編まれるように、技術はかならずしも公開されるものではなく、技術は工人の一部に偏在するきらいがあることは否めない。
 そしてそれが、形式・様式だけを追い、形体だけを倣う傾向を生む一つの原因・要因になった、と言えるだろう。

  註 追記:6月1日8.24AM
    世の中ではいわゆる「宮大工」がもてはやされるが、
    そのような工人の「差別化」は、私は好ましいとは思わない。
    むしろ、真っ当な技術の展開を阻害することになる、
    と考えるからだ。
    
 幕藩体制が終り、明治に入ると、工人の世界に「異変」が起こる。
 それまで、工人の養成は、親方の下での修業に任されていたのに対して、学校による教育が始まったからである。
 当初の学校教育による工人の養成の目的は、西欧建築技術の修得にあり、自国の建築技術についての教育がなされるようになるのは、明治も末に近くなってからのことである。
 しかし、系統立てて教えるにも教科書に相当するものが何もない。もちろん、教える側にも知識をもつ者はほとんどいないに等しい。なぜなら、工人を教壇に呼ぶなどという発想はなかったからである。あいかわらず、士農工商の順列意識は残存していたのである。

  註 明治が失った「知恵」は、きわめて大きい。
    明治を「近代化」の礎と考えてよいものか、甚だ疑問である。

 上掲の図は、そのような状況の中で編まれた教科書、明治37年(1904年)に初版が刊行された東京高等工業学校助教授の齋藤兵次郎が編んだ「日本家屋構造」からの転載である。

  註 「東京高等工業学校」
    前身は、明治14年(1881年)設立の「東京職工学校」。
    これは、「工部大学校」で西欧建築のエリートを養成しても、
    実際に現場で西欧風建築をつくる職人がいないことに気付き
    設立された学校である。工学院大学の前身も同趣旨の学校である。
    明治23年(1890年)「東京工業学校」、
    そして明治34年(1901年)「東京高等工業学校」と改称。
    昭和4年(1929年)「東京工業大学」となる。

    なお、当初の「工業」は現在のindustryの意ではなく、
    「手でものをつくる職人」の意であった。 
      「日葡辞書」によると
       coguio:コウギョウ(工業):大工や箱製造人などのような
           手細工の職人 
       「日葡辞書」は、1604年ポルトガルで刊行の
       ポルトガル語の説明付日本語辞書。
       当時の言葉を知る上で、貴重な資料。
       翻訳本が刊行されている(岩波書店)。
       [この項、記述追加8.47AM]

    大工さんで「〇〇建築工業」を屋号としているのは、
    この意で使っているのである。

 同書には、当時の町家や農家の例はなく、掲載されている住居の矩計も、幕末の武士の住まいが手本になっていると考えられる(この点から考えて、おそらく齋藤兵次郎は士族の関係者ではなかろうか)。ここでも士農工商の順列はいまだに否応なく残存しているのである。
 そしてさらにこれに輪をかけた形で《西欧至上主義》が付け加わったため、話はさらに技術の本道から外れ、離れてゆく。

 これらの矩計は、図を見て分るように、明らかに武家にとっての住居のモデルであった「書院造風」の形を追求している。縁側の天井(一・二階とも)などはまさにその例である。
 架構は、町家と変らない背丈であるにもかかわらず「差鴨居」は用いず、二階床は現在の「胴差+床梁」方式(「胴差」の名称は使われていない)、架構は辛うじて「貫」で維持している(それとても、数が少ない)。町家などに比べて、架構の考え方、捉え方がまったく異なるのである。
 おそらく、現行の木造建物の矩計は、これが原形になっていると言えるだろう。
 そして、都会周辺につくられる住居には、これに類似した「書院造風」に「洋風」を加味した、架構としてはお粗末な建物が急速に増加してしまったのである。

 もしもこの段階で、町家や農家の架構方式をも学んでいたならば、現在の建築界の様相も大分違うものになっていたのではないだろうか。
 なぜなら、「書院造風」の建物は、「差鴨居」多用の町家などに比べ、明らかに数等強度が落ち、そしてその架構の弱さが、「筋かい」をはじめとする現行の諸種の補強策の呼び水になったと考えられるからである。

 一方で、農家や町家を見直す動きが、それらを「民家」と呼ぶ形で生まれてくる。私はそれを、「逆差別化」の動き、と理解している。なぜなら、そのような名前を付けたがゆえに、それらを素直に、ありのままに理解する道から遠ざけてしまったからだ。私が極力「民家」という語を使わずにきたのは、それゆえである。
 
 ここまで、「日本の建築技術の展開」のシリーズで、明らかに不十分ではあるが、日本の建物づくりを振り返ってきたのは、今の建築関係者が、あまりにも、自国の建物づくりを知らなすぎる、と日ごろ思っていたからである(自戒の意も含め)。
 先日、あるTV番組で、チェコの街が紹介されていた。そのとき、案内役をしていたのは、チェコの若い建築家であった。私は建築家だから、街の建物や構築物について説明できます・・、と彼女は、案内をかってでたのだという。
 ひるがえって、日本の建築家で、そのように語れる人が、いったい何人いるだろうか?たとえば、京都に行って、人に、いろいろな建物を説明できますか?なにも京都でなくてもよい、自分の住む街について、説明できますか?

 多少でも、何らかの足しになれば、幸いというもの。今後の学習で新たに気付いたことがあれば追加します。

日本の建築技術の展開-29 の補足・ふたたび・・・・高木家の架構分解図:通し柱と差物

2007-05-31 00:39:49 | 日本の建築技術の展開

[追記:5月31日9.45AM]

 「高木家修理工事報告書」に架構および差鴨居、床組の分解図が載っているので、転載させていただく。
 「差鴨居」は「六通り」、床組は「ほ通り」の分解図である(平面図、断面図参照)。

  註 追記
    「みせのま」~「だいどころ」を通る「ほ」通りの床組では
    間仕切上にあたる「六」「十四」通り直上で「鎌継ぎ」で
    継いでいる点に注目。そのため、見えがかりで継手が見えない。
    上に柱がない場合、現在でも使える手法。
    

 「高木家」では、「通し柱」への「四方差」「三方差」等が、手慣れた:あたりまえの技法として、用いられていることが分る。
 おそらく、この頃(19世紀中頃)までには、各種の「継手・仕口」が、道具の改良とともに、ほぼ完成した体系にまで到達し、しかも広く一般に行き渡っていたと考えてよいと思われる。
 なかでも「四方差」「三方差」・・といった技法は、まことに卓抜した技法と言ってよい(ここで使われている「シャチ(栓)継ぎ」などを含め、「継手・仕口」についてはあらためて触れる)。
 
  註 設計者の中には、「四方差」や「三方差」などを、
    柱の断面欠損が激しい、ゆえに柱が折れる・・として
    危険視する人が結構いるようだ。
    しかし、差口の刻まれた柱が、それだけで立っているのではない。
    たしかに、現場への移動中や、建て方時には注意が必要だが、
    組まれてしまえばまったく問題はない。

    第一、もしもこれらが危険な仕口であったならば、
    とっくの昔に廃れていただろう。
      ただし、「差物」の使用は、
      柱が4寸角(仕上り3寸8分角)以上ある必要がある。
      「差鴨居」を多用する建物で、
      4寸3分角の柱が多いというのは、その意味でも妥当なのだ。
     
    また、研究者の中には、
    これらの仕口の部分だけをとりだして強度実験をする人がいる。
    しかし、建物は、一つに組まれた架構全体で成り立つものだ。
    これでは、木を見て森を見ないようなもの。
    森を見つつ木を見るのでなければ、意味がない。
    かつての工人は、森を見る能力があったからこそ、
    「貫」や「差物」の工法を案出することができたのであり、
    また、その効能を理解することができたのだ。

    「通し柱」は、建物の構造強度を高めるためにある、と
    考えている人たちも結構多い。
    しかし、「通し柱」を使うと、ただちに建物の強度が上る、
    などということはあり得ない。
    建物の強度は、部材の組み方、架構全体の組み方に左右される。
    そのために、工人たちは、架構の組み方に工夫をこらしたのであり、
    各種の「継手・仕口」は、そのために生まれたのである。

    では、「通し柱」はなぜ使われたか。
    それは、建て方が容易になるからだ(縦方向の定規になる)。
    これは建て方の現場に立ち会えば、直ちに分ること。
    そして、「通し柱」は、何も隅柱だけにかぎる必要はない。
    このことは、「豊田家」「高木家」の例が如実に示している。
    また、隅柱ではなく棟持柱を「通し柱」として、
    その両側に向けて梁を出し、管柱で支える建て方が
    甲州の養蚕農家にある(塩山の「甘草屋敷」など)。
    つまり、自由自在な発想が肝要だ、ということ。
      残念ながら、現在は、法令の掌の平の上で右往左往し、
      発想が萎縮してしまっている。
      法令が悪いのか、それとも設計者が悪いのか・・・・

    なお、「差鴨居」は、部分的に用いるのは誤用であり、
    見栄で部分的に入れたりすると(「島崎家」の明治の改造)、
    かえって危険になる。
    その意味で、合理的な使い方の例として、
    「豊田家」「高木家」、特に「高木家」は参考になる。
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日本の建築技術の展開-29 の補足・・・・高木家の図面更新

2007-05-30 20:44:12 | 日本の建築技術の展開

 先回の「高木家」の断面図が不鮮明だったので、つくり直し、平面図とあわせ再掲します。
 なお、図中の番付は「高木家修理工事報告書」記載の番付です。

日本の建築技術の展開-29・・・・住まいと架構-その6:二階建ての町家-2

2007-05-30 00:57:47 | 日本の建築技術の展開

 「豊田家」のおよそ180年後に建てられた「高木家」。酒造・醸造業を営んでいた。
 二階建だが、「豊田家」とは異なり、二階は床がすべて同一面、天井は高さが低いが竿縁天井として小屋裏を隠す。このような二階建を、本格的な二階建「本二階」と呼ぶ。
 二階は、積極的に、私的な空間として使われたという。

 架構は、「豊田家」と同じく、各間仕切の交点を「通し柱」として相互を「差鴨居」で結び、「差鴨居」上の束柱で「根太掛け」を受け、「根太」を渡す方式。一階は基本的に「踏み天井(根太天井)。

 しかし、「豊田家」とは、次の点が大きく異なる
 ① 四周に「土台」をまわす。ただし、現在の「布基礎+土台」方式ではなく、
   礎石上に「土台」を流し、柱を立て、床位置の「足固め」「大引」で脚部を
   固める方式。
 ② 可能なかぎり「貫」を入れて柱相互を縫う。
 ③ 「通し柱」はすべて約4寸3分(130mm)角とし、大黒柱を用いない。

 つまり、この建物は、その時代までに蓄積されていた「土台」「通し柱」「足固め」「貫」「差鴨居」という技法のすべてを自在に使った、きわめて洗練された方法で建てられている、と言ってよい。
 大黒柱なしで、柱径をすべて4寸3分角とすることができたのも、この方式に拠るところが大きい。その意味で、現在でも大いに参考になる事例と言えるだろう。

 言ってみれば、「豊田家」~「高木家」の180年は、こういった数々の技法を「消化する」時間だった、と言えるのかもしれない。各所の「仕口」「継手」などもきわめて合理的な洗練されたものとなっている。

  註 この建物でも、柱径が4寸3分角である点が興味深い。
 

 ところで、現在の木造の多層建物では、各階の間仕切位置が一致しない例が多い。つまり、二階(以上)の階では、階下の構造とは無関係に間仕切が設けられる例がきわめて多く、しかもそれがあたりまえと思われている。過日、昨今見かける「不可思議な」架構の例を紹介したが(2月5日)、それもこの《習慣》によって生じている場合が多い。

 それに対して、近世につくられる二階建(以上)の建物では、「豊田家」「高木家」と同じように、主要な架構と各階の間仕切は、原則として一致させるのが当然の仕事であった。逆に言えば、各階の空間構成を見通した上で架構を考えたのである。今でも、鉄骨造やRC造では、これが「常識」ではなかろうか。

  註 なお、現行の「壁倍率の計算」をすると、
    この建物は、東西方向(桁行方向)の壁量が不足する。
    つまり《耐震性がない》とされるはずだ・・。
    しかし、かれこれ1世紀半以上健在である。豊田家」も同様。
    というより、現存の重要文化財の建物の大半は同じはず。
    《耐震》学者は、これらの建物の「対震」について、
    謙虚に検討すべきなのである。

 図・写真は「日本の民家6 町家Ⅱ」(学研)より転載・編集。
 なお、平面図中の番付は、「高木家修理工事報告書」記載の番付にしたがい、筆者加筆。

日本の建築技術の展開-28 の補足・・・・豊田家の二階床

2007-05-28 19:27:21 | 日本の建築技術の展開

 昨日紹介した「豊田家」の断面図が小さかったので、各方向ごとの断面図に分け、あわせて二階床の組み方の詳細を上掲の図にまとめた。
 「日本の民家6 町家Ⅲ」所載の図を、「修理工事報告書」の説明も参考に加工した。

日本の建築技術の展開-28・・・・住まいと架構-その5:二階建ての町家-1

2007-05-27 19:13:02 | 日本の建築技術の展開

 奈良盆地の南端に「橿原(かしはら)市」という町がある。京都から近鉄京都線・橿原線で南へ向い(京都~西大寺が京都線、西大寺~橿原神宮が橿原線、直通運転をしている)、近鉄大阪線(大阪~名古屋)と交差する「大和八木(やまとやぎ)」駅とJR桜井線「畝傍(うねび)」駅が最寄の駅となる町。
 近鉄橿原線で「大和八木」の一つ南の駅「八木西口」を降りて西に数百m歩くと、「今井町」という一画に着く。「大和川」(大阪・堺にそそぐ重要河川)の源流が脇を通っている。

 ここは、室町時代の末ごろ、称念寺を中心に一向宗の門徒の「寺内町」として開かれたという。東西600m×南北300mのまわりに大和川から水を引いて濠を設け、9ヶ所の門からしか出入りできないいわば城砦のような町で、町内の道もところどころに屈折部が設けられている。
 町の住人たちは自治組織をつくり、領主から解放され、自由な商業を行っていた。信長が隆盛の一時期は武装が解除されたが、江戸時代に郡山藩領になると、商業保護政策により町の活力が重用され、従来のように町は自治に委ねられ、ふたたび繁栄する。近世には天領となるが、自治の伝統は引継がれ、金融業を営むものが多かったため、「大和の金は今井に七分」と言われるほどの繁栄をきわめる。

  註 今から3・40年ほど前、町内の道路には、
    一方通行などの交通標識が一切なかった。
    住民の自治意識が強く、
    警察の指導を受け入れなかったからだという。
    今は変っている。

 江戸期を通じて人口4000人程度、戸数は約900、持ち家と借家(長屋)が半々の構成だったという。
 持ち家層の建物には、代々町の「惣年寄」を務めた「今西家」(1650年:慶安3年の棟札)をはじめ、現在重要文化財に指定されている建物が、この狭い町域に数多く集中して残っている。
 今回は、その中でも純然たる商家である1662年(寛文2年)建設と考えられる「豊田家」と、1830~40年(天保年間)の建設と見られる「高木家」をとりあげ、このおよそ180年の間の技術の変遷を見てみようと思う。

  註 この二つの建物は、およそ300mしか離れていない。

    なお、一帯は、今は「伝統的建造物群保存地区」に指定され、
    「書割り」の並ぶような街並みに変ってしまった。
    3・40年前は、歴史ある街に暮す人びとの息吹きが感じられたが、
    今は、単なる一観光地。
    これは「伝建地区」に共通する問題ではないだろうか。


 上掲の図と写真は、酒造業を営む「豊田家」。建物は元は材木商の牧村家の建物だった。

 「土台」の使用はなく、柱はほとんどすべて「通し柱」で礎石立て、脚部は「足固め」で固めている。
 軸部には「貫」が少なく、東側外壁面と北側小壁面に用いられているだけである。

 「通し柱」を各間仕切り交点に立て、相互を「差鴨居」で結んでいる。1間:約6尺5寸が基準寸法のようだ。
 「通し柱」は標準が仕上り130mm(4寸3分)角で、「どま(にわ)」境の2本だけが太い(いわゆる「大黒柱」:1尺1寸角、および8寸角)。
 この太物の使用は、軸部の強度を「差鴨居」に依存するための策と考えられる。
 差鴨居の詳細は、上掲分解図のとおり。
 
 東側壁面には@半間で「通し柱」が立ち、「貫」は3寸6分×1寸2分弱@約3尺2寸、屋内側表し。

  註 この建物でも柱径は130mm:4寸3分角である。
    4寸3分あれば、差鴨居の仕口はまったく問題がない。
    この寸法は、ことによると幾多の事例の積重ねによる
    経験値なのかもしれない。

    淡路島北淡町で、阪神・淡路地震で倒壊した家屋は、
    3寸5分角(仕上り3寸3分)の柱に丈1尺2寸の差鴨居が入れてあり、
    仕口部で見事に柱が折れていた。
    3寸5分角の使用は、近代になってからのことではないだろうか。

 小屋組は、145mm(4寸7分強)角の束柱相互を2寸5分×8分強の「貫」で@平均2尺5寸で縫う。軸部の柱より太い束柱は珍しい。

 二階建てだが、本格的な二階ではなく、小屋裏の利用と言う方がよく、二階には小屋組の見える場所もある(このような二階を「厨子二階(ずしにかい)」と呼ぶようだ)。

 この二階床のつくり方は、現行の方法とは全く異なり、「差鴨居」上の束柱で「根太受」(現在の「小梁」に相当)を支え、それに「根太」を掛ける方式である。二階床はそのまま階下の天井となる(いわゆる「踏み天井」または「根太天井」と呼ぶ)。

 「通し柱」の丈のほぼ中間に、二段の横架材が差されるため、「貫」で縫った軸組と同等またはそれ以上に軸組を固める効果があると考えられる。
 この方法は、商家では地域を問わず使われている。

 「みせ」のモノクロ写真は「日本の美術№288 民家」、差鴨居の分解図は「修理工事報告書」、そのほかの図・写真は「日本の美術6 町家Ⅱ」より転載。一部の図には筆者加筆。

日本の建築技術の展開-27 の補足・・・・島崎家について追記

2007-05-25 01:15:45 | 日本の建築技術の展開

[文字、記述修正:5月25日9.50AM]

 島崎家は、300年近く、時々の暮しの様態に応じ、改造を行い暮し続けられてきた建物である。
 それが可能であった理由の一つとして、「当初の空間の設定が妥当であった」ことを挙げた。
 上掲の図の上段の2図は、当初の空間構成:用途によるゾーン分け:を梁桁伏図上に示した図と当初平面(図の向きが昨日の図、および下段の図と異なり恐縮)。

  註 A:主に作業を行うゾーン、炊事も含む。
      比較的親しい人の出入り可。
    B:食事をはじめ家族が過ごすゾーン、軽作業もなされる。
      親しい人の出入り可。
    C:就寝などきわめて私的な、あるいは神聖なゾーン。
      出入りは限定される。
    D:接客専用のゾーン。
    これは、3月15日の「住居の原型」のゾーン分けにDを加えたもの。

 明治以前までの改造では、このゾーン分けを逸脱しての改造はなされていないことに注目してよい。
 つまり、当初のゾーン分けの規模が適切であったため、ゾーン内の暮し方の変化への対応(間仕切の追加など)は、すべてそのゾーン内で処理されているのである。もしも、当初の空間設定が十分でなかったならば、他のゾーンへの「侵食」などもあったはずである。

  註 各ゾーン区分の適切な規模とその適切な配置、
    これが、永く使い続けることができる建物づくりの
    基本要件:基本設計の要件:であると言ってよい。

 さらに、架構が1間グリッドの格子梁を基本としていることが、改造を容易にしているのである。

 下段は、幕末から明治にかけての改造(柱を抜いて差鴨居を入れる改造)を示している。
 たまたま解体中の「島崎家」を訪れたとき、ある柱(それがどこであったのかは覚えていないのだが)の左右に取付く材のアンバランスに違和感を感じたことを覚えている。
 あまりにも巨大な差鴨居が片側にだけ取付き、柱が折れそうに思えたからである。なぜこんなことを・・、と不思議に思った。

 この点について、「修理工事報告書」の筆者(調査者でもある)は、報告書中で次のように述べている。
  「・・なぜこれらの柱を抜取らなければならないのか、その理由を考えると
  第一に間口を広くして各室を続部屋として使用できるようにしたことであり、
  第二には巨材を入れて見栄を競ったものとみられる。
  だが、最もな理由は、前者であると考えられ、これは明治十二年の当家八代
  の光尚の結婚披露のためとみなければならない。このときの婚姻は幕藩体制
  解体後の、近代社会になって最初の祝儀であった。・・」

 私見だが、それまでの士農工商の順位が崩れ、庶民のそれまで鬱積していた「欲望」が突出したのではないだろうか。このころ、各地の商家:町家や富裕な農家で、その地位を「巨材」「銘木」などで具現化しようとする建物づくりが続出し(高山・吉島家、塩尻・堀内家など)、それが後の「民家像」をつくりだしてしまった原因だと私は考えている。

 しかし、そのような建物づくり:《差別化目的の建物づくり》は建物づくりの本道ではないだろう。
 普通に考えるならば、建物をつくるのに、わざわざ材料を遠方から取り寄せたりするわけがなく、手近で得られる材料を上手に使って建物をつくろうとするのがあたりまえである。もちろん、無駄な労力を要するようなつくりにもしないだろう。
ましてや、「使う材料を人に見せること」などを目的に建物をつくるわけもない。
 「島崎家」は、そのような《差別化目的》の住まいづくりとは縁のない本当の意味の住まいづくり、つまり、住まいをつくる基本を示している好例だと私は考えている。

 なお、かなりの数がある文化財建造物の修理工事報告書の中で、私の知っているかぎりでは、「島崎家修理工事報告書」は、「旧西川家修理工事報告書(滋賀県)」とともに、非常に内容の濃い、つまり調査・考察の行き届いた報告書なのではないか、と私は思っている(「旧西川家」は、「近江商人」の町の一つ、近江八幡市にある商家である。「近江商人」とは何か、いずれ触れてみたい)。
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日本の建築技術の展開-27・・・・住まいと架構-その4:「貫+格子梁」のつくり

2007-05-24 00:31:50 | 日本の建築技術の展開
 
[記述追加:5月24日7.25AM]
[さらに補足追加:5月24日10.27AM、5月25日11.29AM]
 
 上掲の図、写真は、長野県塩尻市の郊外に保存されている重要文化財「島崎家」である。カラー写真は、正面入口側からの全景。
 壁貫材に書き残されていた墨書から、享保年間:1716年~35年ごろに建てられたと見られている。元は武士の出で、一帯の名主を務めた農家であったらしい(ゆえに、この建物にもゲンカンがある)。
 
 塩尻郊外には、緩い勾配の大屋根で建物全体をくるむ「本棟造」が多くあるが、「島崎家」はその原形と考えられている。

  註 普通、「堀内家」が「本棟造」の例として紹介される。
    しかし、その骨太な姿は、明治初めの改造によるものである。

 「島崎家」は、享保に建てられてから現在まで、幾度かの改築・改造はなされたものの、つい最近まで、島崎家により、代々住み続けられてきた。つまり、290年近く暮し、使い続けられてきたのである。

 建物は8間×8間を基本としたつくりで、緩い勾配の石置き板葺き、切妻の大屋根が架かっている(現在は、一部を除き鉄板葺きに変えてある)。
 そして、この8間×8間の各通りに、桁行を下木、梁行を上木にした末口6寸程度の丸太の格子梁が架けられている。長尺ものが多い(最大5間)。
 梁、桁の材種は、マツが主で、他にケヤキ、クリ、サワラも使われているとのこと。[さらに補足追加]

 梁、桁は、柱に「折置」、または「ほぞ差し込み栓」。桁・梁の交差部は、柱の「重ほぞ」、柱がない箇所は「大栓」で縫う。いずれもシンプルでしかも確実な仕口。
 この格子梁構造には、この間、改変・改造はまったく行われていない。

 柱は4寸3分角が標準、礎石建てで礎石に「ひかりつけ」(礎石と貫に残されていた墨で柱の寸法が分った)。決して太くはなく、またいわゆる「大黒柱」などはない。
 材種はカラマツ、サワラ、クリ、いずれも近在で収集。そのほか古材(ほとんどサワラ)が転用されており、転用材の寸面はばらばら。

  註 書院造や塔頭建築の柱も、大体が4寸3分角前後である。

    この建物には、たまたま解体修理中に訪れたのだが、
    「堀内家」が「本棟造」の「典型」と思い込んでいたので、
    その細身の姿に驚かされた。
    以来、「民家は骨太」という《通説》は、
    まったくの誤解だ、と思うようになった。
    骨太になるのは、幕末、明治初め頃からの現象。なぜか?

  註 この建物の基準柱間は、6尺1分:1821mm。
    6尺ではなく+1分になっているのには、意味があるらしい。
    当時、検地にあたり、6尺に1分を足して測るというきまりがあり、
    それが建物へも援用されたのではないか、という。
    このきまりごとの理由は不明。

 この建物には「差鴨居」は、わずかにゲンカンにあるだけで、構造材というよりも見かけのためらしい。したがって、鴨居は「薄鴨居」である。
 軸部は、足もとの「足固め」、そして内法上の「小壁」(かなり背丈がある)に仕込まれた「貫」で固められている(梁行断面図で小壁の背丈が高いことが分る)。「貫」は「足固め貫」も含め、4寸×1寸の材が使われている。[記述追加]
 いわゆる「耐力壁」になるような壁は存在しない。

  註 現在ヌキと呼ばれている木材では、「貫」の役割を果さない。
    丈は3.5~4寸、厚さは最低でも柱径の1/4~1/5は欲しい
    のではないか(4寸角で8分)。[註記追加:5月25日11.29AM]
    
 この建物が、なぜ、300年近く、使い続けることができたのか。
 その理由としては、
 ①構造がシンプルで、しかも丈夫であった
 ②当初の空間構成・各部の広さがきわめて妥当であった
 ③改造が可能な構造であったため、暮しの変化に改造で対応できた
 が挙げられよう。
 特に、単純な方形基準格子上に架けられた「格子梁」は、その格子の下ならば、間仕切りの追加、撤去は容易に行えたのである。実際、改造は常に格子上で行われてきている。

  註 《百年もつ家》などとよく言われる。
    しかし、仮に構造が百年もったとしても、
    暮しの変化に応じて改造もできないようなつくり
    :「筋かい」など「耐力壁」に依存するつくりの建物は、
    永く暮らし続けることはできない。
    2×4工法も同様である。
    これが、最近の木造住居が短命になった一つの理由。

 塩尻近辺には、8間×6間程度の(つまり、「島崎家」から接客部分を取り去った大きさの)「本棟造」が多い。冬の季節風が強く、ときには雪も積もる地域には、このような大きな「土間(ダイドコロ)」を持ったシンプルな形の建屋が適切であったのだろう。

 もっとも、この近在には、1月13日に紹介した茅葺又首構造の「小松家」のような建物も多数ある。
 この並存の理由は一体何なのか、いまだによく分らない。
 異なる文化が、この分水嶺の地において顔をあわせたのかもしれない。

  註 塩尻を境に、北側の水は日本海へ、南側は太平洋へと流れゆく。

 写真、図は「重要文化財 島崎家住宅修理工事報告書」(長野県)より転載。
 加筆は筆者。

日本の建築技術の展開-26・・・・住まいと架構-その3:上屋+下屋方式からの脱却

2007-05-22 11:11:02 | 日本の建築技術の展開

 霞ヶ浦は、地図で見るとY字型、頭をやや北西に傾けた「ざりがに」のような形をしている。その形を形成する半島様の一帯は、標高25m程度の段丘と谷地田が交互に、しかも複雑に入り組み、一帯は肥沃な土地。縄文期までさかのぼる住居址はもとより、古墳も多数ある。つまり、古代以前より人が住み着いた土地。
 その一角にあるのが「椎名家」である。農家だが、牧畜(馬?)などもやっていたらしく、また村役も務めていたという(ゆえに「げんかん」がある)。

 建設は「箱木家」や「古井家」からおよそ1世紀後。
 この建物の工法は、「上屋+下屋」方式の架構からすでに抜け出している。
 屋根は「上屋+下屋」方式同様、中央を「又首」で組み、その先に垂木を掛け下す方式だが、「又首」部分の載る「陸梁」を支えているのは、かつての「上屋柱」ではなく、「繋梁」上に設けられた「束柱」である。つまり、「差物」を自由自在に扱えるようになっていたと考えてよいだろう。

 「繋梁」は外側では柱に「折置」、内側の柱の仕口は「枘(ほぞ)差し、鼻栓」である。「ひろま」と「ざしき」境の鴨居は「差鴨居」、この仕口も「枘差し鼻栓、もしくは割楔」である。「足固め(大引を兼ねる)」の柱との仕口も同様。

 「差物、差鴨居」の柱との仕口は、後の世には、一般に、もっと手の込んだ仕口が使われるが、ここで使われているのは、柱へ横架材を確実に固定するという目的を達する最もシンプルな方法、と言ってよい(金物の補強などしなくても十分丈夫かつ確実で、今でも使える)。
 なお、横架材を柱に「折置」とする方法も、現在はあまり好まれていないが、今でも使える確実な仕口で、これも金物の補強など必要ない。

  註 同じ頃、関西の町家では、
    より確かに横架材を柱に固定するための技法が
    考案されている(現在も使われている「三方差」や
    「四方差」の多用。これについては近く触れる)。

 なお、「ざしき」と「げんかん」の境は、「薄鴨居+付長押」(内側に「貫」)方式である。武家の建物のつくりかた、つまり「書院造」の影響である(「げんかん」から「ざしき」へいざなわれるのは、村々を見まわる武士である)。
 そして、「薄鴨居+付長押」の形に倣うべく、先ほどの「差鴨居」は、やむを得ず一木から長押型を彫りだしている。こういう例は結構あるらしい。

 写真で分るように、小屋組部材の寸面は、全体に細身である。「民家」は骨太だ、というのは明らかに「誤解」であると言ってよい。

 上掲の図および屋内の写真は「日本の民家 1 農家Ⅰ」より転載。なお、図については説明を加筆した。

  註 これまで紹介の事例には、撮影不可の場合を除き、
    自分で撮った写真もあるのだが、プロの腕前にはかなわず、
    資料がある場合には、転載させていただいている。
    ご了承のほどを・・

日本の建築技術の展開-25・・・・住まいと架構-その2:「差鴨居」の効能

2007-05-21 02:59:06 | 日本の建築技術の展開

[記述追加:5月21日、8.25AM][さらに追加、5月22日2.56AM]

 室町時代末に建てられたとされる「古井家」は、典型的な「上屋+下屋」の架構方式で建てられている。
 「上屋+下屋」の架構方式は、すでに触れたように(3月15日)寺院、住居を問わず古い時代に使われた工法である。
 寺院等では、上屋部分、下屋部分を用途に応じて使い分けているが、住居の場合は、両者を合わせて一用途に使うことがあり、空間内に上屋を支える柱が等間隔に並び、使い勝手が悪くなる場合があった。
 「古井家」はその典型例で、上掲の図のように、「おもて」「ちゃのま」「なんど」そして「にわ(どま)」に柱が並んでいる(写真参照。なお、平面図、断面図は3月15日掲載図面の再掲)。
 同じ架構方式の「箱木家」は、「古井家」ほどではないが、それでも「なんど」「うまや」「にわ(どま)」には柱が並んでいる(昨日の平面図参照)。

 「古井家」では、この使い勝手の悪さを解消するための大々的な改造が江戸時代に行われたことが保存修理工事によって明らかになった。そこで使われた技法を解説したのが上掲の図である。これは、「日本の民家 3 農家Ⅲ」(学研)からの転載である。

 その技法は、使い勝手の上で障害になる柱を、「梁」および「差鴨居」を新設して撤去する方法である。
 すなわち、次の方法である。
 ① 不用な柱を抜き、両隣の柱~柱に新たに桁行方向に梁を設けて、
   既存の梁を受ける
 ② 同じく不用な柱の下部を切り取り、両隣の柱~柱の鴨居のレベルに、
   横材:「差物」を取付け、切りとった柱の上部を「束柱」として、
   既存の梁を受ける(横材には平角材のほかに丸太も使われている)
   [記述追加]

 この方法の中で、特筆すべきなのが「差物」で、鴨居を兼ねるため「差鴨居」と呼ばれる。
 なぜ特筆すべきか。それは、公家、武家系の建物、書院造などにはない技法だからである。唯一「差物」「差鴨居」が使われたのは、城郭建築だけではないだろうか。「鹿苑寺・金閣」など通し柱を用いた多層建築でも使われていない。

 そして、この「差鴨居」方式は、一般の住居では、後に、新築時から用いられるようになる。[記述追加]

 これは、すでに紹介してきた「光浄院客殿」に代表される「書院造」や、「竜吟庵」「大仙院」などの塔頭建築(「書院造」と言ってよい)などと比べ、一般の住居の高さが低いことに拠ると言ってよい。

 両者とも内法寸法はほとんど変らないから、違いは小屋裏の大きさと鴨居上の小壁の高さに現われる。
 「書院造」などでは、小屋裏を利用した架構(桔木の利用など:記述追加)が可能であり、また、背の高い小壁内には「内法貫」を初め天井長押裏の「貫」など、「貫」を3尺程度の間隔で設け、これらによって架構を固めることができる。それゆえ、柱間を飛ばしても、鴨居は厚さの小さな「薄鴨居」を後入れにすることができた。

  註 「匠明」では、内法高さの6割を小壁の高さとして推奨している。
    つまり、内法が6尺なら、3尺6寸。
    実際には、光浄院では4尺ほどある。[5月22日、2.56AM追加]

 一方、一般の住居では小屋裏を設ける(つまり天井を張る)ことがなく、小壁の高さも低いから、「貫」を入れても間隔が狭く効果が小さい。
 おそらく、そこで考えられたのが、鴨居に丈の高い平角材を用い構造材として扱い柱間を跳ばす方法、したがって、薄鴨居のような後入れではなく、建て方時に建て込む方法、「差鴨居」方式である。
 この発想は、多分、通し柱で多層の建物をつくる工法、すなわち、床梁を通し柱に取付ける工法から生まれたのだろう。そしておそらく、戦国時代の各地の城郭建築は、その方法の進展・利用を広める効果があったにちがいない(城郭建築には、地域の工人が徴用されており、ことによると、彼らの住宅改造で生まれた発想が用いられたのかもしれない)。

 しかし、なぜ、最初から桁あるいは床梁の寸面を大きくして柱間を跳ばす架構法、すなわち現在普通の工法をとらなかったのか。

 一つは、「差鴨居」の効能の利用は、「上屋+下屋」方式の架構の改造から始まり、その方法が定着したことによる。
 そして、多分これが最大の理由と考えられるが、2本の柱の中途に設けられる「差鴨居」と、その上にある「桁」「梁」、そして「束柱」とが組み合わさり、いわば横「H」型の「合成梁」が形成され、小壁の丈が小さくても([記述追加])、架構の強度が飛躍的に向上すること(書院造などの「貫」と同等以上の効力があること)が、幾多の現場で確認されていたからだと考えられる。
 だから、最初から「差鴨居」を用いるようになると、二方以上に「差鴨居」を用いるのが普通になり、後に触れるが、商家の建築:町家では、2階の床も「差鴨居」で支える方式が採られるようになる(現在の「胴差+床梁」方式ではない)。

 これも後に触れる予定だが、明治以降の都市居住者:多くは士族:の住居には、「差鴨居方式」は少ない(ないと言ってもよい)。これらの住居が、武家階級の住居:書院造の系譜上にあるからである。
 そして、二階建ての都市住居で用いられたのは、商家:町家で発展した「差鴨居」方式の二階建てではなく、書院造のつくりかたを二階建てに用いた「胴差+床梁」方式であった。
 実は、これらは書院造の系譜上にあるといっても、かつての書院造のような背丈の高い建物ではなく、いわば農家や商家同様のスケールに縮小した建物であったことに注目する必要があるだろう。
 なぜなら、かつて農家や商家が柱間を跳ばすにあたって悩んだ背丈の低い建物の架構の強度について、考える必要があったはずだからである。
 しかし、その点についての考慮がなされないまま、ただ方式・型式だけ、書院造が援用されたのである。

 後に触れるが、これが明治以降、地震に弱い住居建築:木造建築:を増やしてしまった最大の原因と言ってよく、いわゆる「在来工法」は、その《救済策》として《考案》されたのである。

 一方、農家や商家では、明治以降も「差鴨居方式」が見られ、現在でも、農家住宅には利用例が多い(もっとも《見栄》のため使用が多いが・・)。

 図、写真は下記図書による。平面図、断面図は、筆者加筆。
 外観、「おもて」の写真:至文堂刊「日本の美術№60 民家」
 「にわ」の写真:小学館刊「ブック オブ ブックス 日本の美術37 民家」
 平面図、断面図、架構改造分解図:学研刊「日本の民家3 農家Ⅲ」 

日本の建築技術の展開-24・・・・住まいと架構-その1

2007-05-20 00:07:11 | 日本の建築技術の展開

 ここしばらく、公家や武家階級の、しかも上層階級がかかわる建物ばかりで、農家や商家、あるいは普通の武士たちの住まいについては触れてこなかった。
 一つには、資料:現存例:が少ないからである。

 現存する住まいで、はっきりと建設時期が分る建物は、1607年(慶長12年)の棟札がある奈良県五條市の「栗山家」が最古という。「栗山家」は、商家で、しかも最上層の住宅であったらしい。

 はっきり建設時期を示す証はないが、現在最も古い建設と考えられているのが、神戸市郊外の山中にあった「箱木家」で(ダム建設で近在に移築・保存)、元禄のころ、つまり1680~90年代の文書に「千年家(せんねんや)」として紹介されており、調査によって、室町時代中期つまり1490年代末から1500年代初め頃の建設ではないか、とされている。
 「箱木家」は農家ではあるが、「地侍(ぢざむらい)」(中世、各地に土着した武士を言う)であったというから、これも上層の住まいである。
 「箱木家」のあたりには、かつて、「千年家」と呼ばれる住まいが他にも多数あったという。

 姫路から北におよそ30キロ、中国山地の一角、兵庫県宍粟(しそう)郡安富(やすとみ)町にも、「千年家」と呼ばれる「古井家」が保存されている。かつて農林業を営んでいたという。
 「古井家」の建設は、「箱木家」よりは遅いが室町時代末(16世紀中頃)まではさかのぼるだろうと考えられている。

  註 「古井家」の平面、断面図は、
    3月17日に、上屋・下屋の説明で掲載している。
    それにしても、なぜ、この地域周辺に「千年家」が多いのか、
    ご教示いただければ幸い。
    

 関東地方では、茨城県新治郡出島村(現かすみがうら市)の「椎名家」が、部材の墨書から、1674年(延宝2年)の建設と判明し、現在、東日本では最古の建物と考えられている。

  註 「栗山家」「箱木家」「古井家」「椎名家」は、
    いずれも重要文化財として調査の上、復原保存されている。

 以上、時系列で建物を並べてみたが、建物の構築技術の進展には明らかに地域差があり、単純に「時系列の記述=建物づくりの歴史」と見なすのは妥当ではない。
 たとえば、室町期は、特に一般の住まいではまだ掘立柱があってもおかしくない頃なのだが(室町時代末1576年:天正4年:建設の「丸岡城」も掘立柱である:4月15日紹介)、「箱木家」はすでに礎石立てで、その痕跡も見当たらない。ところが、東日本では、「箱木家」よりも数等新しい時期に建設された建物でも、掘立柱や土座すまいの例がある。
 したがって、「建物づくりの歴史」を知るには、それらの建設時期を超えて通観して、どのように変ってきたかを見ることが必要になる。そして、最も参考になるのは、建設当初から現在に至るまで(重文に指定されるまで)の変遷が明らかに分る事例である。しかし、そういう事例は決して多くはない。

 上掲の図は、「箱木家」「古井家」および「椎名家」の平面と梁行断面図。同一縮尺に編集。「栗山家」については資料が手元にないので省略。
 いずれも左側が南面にあたる。図が小さいので、拡大してご覧ください。