「道 の 理」 1983年度「筑波通信№11」 

2020-02-25 10:51:25 | 1983年度「筑波通信」

PDF「道の理」1983年度「筑波通信№11」 A4版7頁

「道 の 理」    1984年2月

 いささかあわただしかったのだが、昨年の暮も押しつまったころ、用あって(というより、用をまとめてこなすべく)甲州・牧丘、信州・駒ヶ根、そして上州・松井田と駆け足で巡ってきた。甲州・牧丘は甲府盆地の東北端、武田信玄の根拠地であった塩山(えんざん)から更に数kmほど笛吹川をさかのぼった所にある町、信州・駒ヶ根は信州と言っても言わゆる南信、諏訪湖に発する天竜川が大地を切りこんでつくった伊那谷にある町、東に赤石山脈(南アルプス)西に木曽山脈(中央アルプス)がそびえ連なっている。駒ヶ根の名は木曽駒ケ岳の根もとにあることからつけられた、もちろん町村合併にともなう新しい名である。さきほどの牧丘も同じく新しい名である。上州・松井田は、これは古くからそう呼ばれていて、関東平野のどんづまり、山一つ越えれば信州という碓氷峠の下にある町である。

 牧丘と駒ヶ根は共に中央自動車道沿いにあるから、車を使うと一時間半かかるかどうかの近さである。鉄道(中央線、飯田線)を乗り継いでも二時間半程度で行けるもっとも乗り継ぎの便がよければの話である)。しかし、駒ヶ根から松井田へとなると、いささかやっかいである。その問には八ケ岳山塊や秩父山塊が横たわっているから、山を越えるか、山をまわるかしなければならない。だから、駒ヶ根あたりから見ると、松井田|など、はるか山の彼方の町、遠い何の関係もない町のように思えてしまう。しかし、駒ヶ根と松井田が、互いにまったく関係のない町であったかというと、そうではない。古代の主要幹線道である東山道(とうさんどう、あづまやまのみち)は、この二つの町を通っていたのである。それぞれの町の近くに、東山道の宿駅が設けられていた。因みに、現在の中央自動車道のルートは、信州以南では、ほほ東山道のルートに沿っている。中央道は恵那山トンネルで美濃へ抜けるが、東山道もそのあたりで峠越え(神坂峠)をして美濃へ通じていた。

コピーにたえる地図がないので鉄道と主たる道だけ書きだしました。詳しくは、お手元の地図帳(中部地方)をご覧ください。

 

 駒ヶ根あたりから上州へ抜けようとすると、今ではいくつもの立派な道ができている。けれども、それらは決して新しい道なのではなく、そのほとんどが古来存在していた道すじに手を加えたものなのだ。あの東山道のルートも、多少の変更はあるものの、現在も生きている。東山道がどのようなルートをたどったかについては、細部においては諸説あるらしいが大略次のようなものであったらしい。天竜川沿いにその右岸:西岸を上ってきた道は、辰野(たつの)のあたりで天竜すじから分れ、塩尻(しおじり)へ向い山越えをする。そのときの峠が1982年4月の「通信」に記した善知鳥(うとう)峠で、この道すじに沿って中央線が走っている。(中央線は諏訪から天竜に沿って南下し、またこの道すじに沿って北上するというえらく遠まわりのルートをとっているのである。)このあと東山道は今の松本へ向い北上して、松本をすぎたあたりで東に転じてまた山越え(今の保福寺峠越え)をして現在の上田あたりへ出る。あとはほぼ現在の信越線・国道18号ルートと同じルートを通り、上州へと向う。

 地図でも分るとおり、この道すじは大変に遠まわりのルートである。その時代に別のルートがなかったわけではない。同じ山越えをするのでも他にいくつものルートがあったことが知られている。江戸期の幹線道であった中山道は、このような遠まわりではなく山を越えている。そのルート、上州から佐久を通り一直線に諏訪へ抜けるルートも、しかしそのとき新たに開発されたわけではなく、これも既に古来存在した道すじであったらしい。つまり、南信から中信・上州へと通じる道すじ(いずれも山越えをともなう)には古来いく通りものやりかたがあって、言わゆる官道(古代の東山道、江戸の中山道など)は、それら既存の道すじのなかから一つを選んで整備したにすぎないということだ。とかく官道などとそれだけを数えあげたりすると、その他には道などなかったかのような錯覚についおちいりがちなのだが、それはあやまりで、道はたくさんあったのだ。そして今、多分それらを踏襲したと思われる立派な山越えの道が、いくつも通じているのである。

 

 だから、駒ヶ根から松井田にまわろうとする私の前には、今、いく通りもの道がある。どの道をとったらよいか、となるといささか思案せざるを得ない。このいく通りもの道のなかで、そのうちのいくつかは既に通ったことがあるから、物好きの私としては、できれば通ったことのない道を走ってみたい。例の古代東山道ルート:保福寺峠越えもやってみたいのだが、今年はいつになく寒い。多分道はいたる所で凍結しているにちがいない。私のタイヤはスパイクではない。チェーンは持ってはいるものの、つけっぱなしで走るのはいやだし、かといってつけたりはずしたりするのもわずらわしい。結局のところ、峠越え山道はあきらめ、少しばかり遠まわりなのだが、それらの山をぐるりとまいて、松本から長野まわりで上田へ出ることにした。松本から長野までは国道19号、長野からは18号、という月並みな道である。

 このルートも、特に松本・長野間の犀川(さいがわ)沿いの道すじは通ったことがないから、多少の遠まわりも苦にすることもない。地図を見ると判るのだが、松本から長野へはもう一本ルートがある。国鉄・篠ノ井線に沿い篠ノ井経出で長野に向う道である(と言うより、その道に沿って鉄道が敷かれたのである。)これは、先のルートが川沿いなのに対して、全くの山越えルートで、だから、鉄道もトンネルだらけである。姥捨(うばすて)伝説の冠谷(かむりき)山はその近くである。この道の交通量は、今は少ないようである。

 

 犀川(さいがわ)は松本から善光寺平・長野へとそそぐのだから、地図の上などで単純に考えると、なにも山越え道など通らずに犀川沿いに下った方が、ずっと楽のように思えるのだが、実際に走ってみて、そうではないことがよく分った。松本から長野までおよそ20km、その間の標高差は200m、これを犀川は一気に駆け下りる。それゆえ大地はV字型に深く切りこまれ、少し大仰に言うと、両岸には切りたった壁が連なっている。道は当然下り坂で、その谷間の底を曲りくねりながら走り、今でこそ道幅も広く楽に通れるけれども、その昔には通り抜けるには相当に苦労する難所であったにちがいない。山越えの道はたしかに疲れはするだろうが、その点ではむしろ安全で楽であっただろう。

 考えてみると、古代の東山道が、江戸期の中山道のルート:木曽川すじを通らずに天竜川に沿った理由の一つも、木曽川すじの地形的険しさが手に負えなかったからではないだろうか。木曽川すじとはちがって、天竜沿いには長大な河成段丘が発達しており、その段丘を横切るいくつかの河川(天竜の支流である)の川越さえ克服さえすれば、あとはその段丘上をたどる平坦で楽な道を得ることができる。実際この河成段丘はみごとなもので、山脈に沿い、その山脈の足元から天竜川までの数kmの幅の大地が、およそ30分の1の傾きで横たわっている。そこに立つと、少し大仰に言うと、平衡感覚がゆらいでくる。しかし、この段丘上は、牧地や畑地としては絶好の地で、人々もかなり古くから住みついていたらしく、今でもあちこちに数多くの遺跡が眠っているようである。古代において、このあたり一帯はかなり栄えていたのである。そして、東山道がここを通ったもう一つの、そしてより大きな理由は、ここが栄えていたからだ。東山道という官道の目的は、時の中央政府のそれによる地方管理にあり、管理するに耐えない(つまり、栄えていない)土地を通ることはおよそ無意味だからである。木曽路の険しさは、単に通行にとってだけではなく、人々の生活にとっても険しかったのである。東山道が天竜に沿って諏訪に出るルートをとらず、途中から分れ、諏訪を横目に松本へ向ったのも、そうすることによって、諏訪だけではなく松本平から先、善光寺平、安曇野、そして更に越の国をも掌握できるとの算段があったからだと見ることができるのではないだろうか。

 江戸期の中山道は、同じ官道でも、東山道のやりかたとは全く異なっている。人が住み、栄えている土地土地をつないでゆく代りに、むしろ最短ルートをとった気配がうかがわれる。上州・佐久・諏訪、という山越えルート上はもとより、その通った木曽路も全く山のなかで、沿道に栄えた所があったわけではない。むしろ、それとは逆で、官道が通ったために宿場町として栄える村々が生まれてくる。それゆえに、宿場の町としてのみ初めて栄えるという状態になることのできた村々は、ひとたび官道が官道でなくなってしまうと、具体的に言えば、新たな官道:鉄道でも敷かれたりすると、それはずっと以前の宿場町ではなかった時代の、ただひたすらその土地:大地にのみ依存せざるを得ない状態に戻ってしまうのである。これに対し、かつて、はるか昔に東山道の通っていた村々の土地は、東山道が東山道でなくなっでも、相変らず、一定程度栄える可能性のある土地であることには変りはなく、中山道沿いの宿場だけに拠って栄えた町々のように、急転して落ちこむようなことはなかったのである。

 ひところ流行ったような(最近もないわけではないが)鉄道や新しい交通路の開設によってさびれてしまい、ただ昔の面影だけを残している元宿場町を昔のようににぎやかにしよう、などと考えて観光地化に走る試みは、私に言わせれば、その町にとってほんとによいことだとは思えないのである。その町の拠ってたつ基盤が変ってしまったとき、それにも拘らずその過去の幻影に拠ってのみ暮しをたてることには自ずと限界があり、時計の針を停めて暮すようなものだからである。

 ただひたすらその土地に拠って暮さねばならないとしたとき、過去の幻影、過去の栄華のみを夢見るのではない新しい暮し、新しいたたずまいが生まれるはずであり、それがたとえかつての宿場町としてのそれに比べ、一見したところ、見劣りするものであったところで、それは決して悪しきことなのではなく、むしろそれこそがその土地の正当な姿と言うべきではないか、と私には思えるのである。

 

 犀川沿いの道すじには、このような外的な要因による栄枯盛衰とはおよそ縁のなさそうな村々、家々があった。もちろんそれは、あくまでも見かけの上の話で、内実は多様な変化をしているのだろうが、それらは道が拡がろうが、国道に指定されようが、そういったこととは全く係わりのない風情で昔ながらに在るのである。

 先にも書いたように、この川すじの道の両側は切り立ち、道はその最低部を川すれすれに曲りくねって下ってゆくのだが、そこから見上げる両側の山の斜面のはるか高い所に、まさに文字どおり、家々が張りついている。それらは、目線を意識的に上げて初めて視界に入ってくる、と言ってもよいほど川面からはかなり高い所にへばりついているのである。いったいあそこへたどりつく道はどこにあるのだ、という思いが極く自然にわき起ってくると同時に、今走っているこの道と彼らの家々とは、ことによると関係ないのではないか、とさえ思えてくる。一度これは調べてみる価値がありそうである。

 そのうちの、比較的国道に近い集落と、それへつながると思われる道を見つけて寄り道をしてみた。これと同じような感じの集落は、笛吹川の上流でも見かけたことがある。道のとりつきもそっくりである。道はかなりの急坂で、車一台がやっとの幅しかない。集落に行きつくと、道はそこでほぼ終る。ほぼと言ったのは、道はまだどこかへ続いていそうなのだが、あまりも細すぎ、私の車ではあきらめざるを得ないからである。あたりの急な斜面は細々と耕され、ほんとに猫の額ほどの田んぼもある。そのわきのちょっとしたひそみに、茅ぶきの家がひっそりと、しかしある温もりを感じさせて建っていた。それはまわりの地物とすっかり同化してしまっているように見え、建っていると言うより植っている、あるいは生えていると言った方がよさそうである。それはなにも家だけではない。耕された田も畑も、そしてところどころに積まれた石の土留めさえもが人為のにおいを感じさせず、言わば人為のほどこされないずっと以前からそうであったかの風情でそこに在る。それは決して単に古びているからなのではない、と私は思う。

 

 よく時代がつくというような表現がなされるけれども、どんなものでも古くなれば昧がでてくるというわけではない。言わゆる現代建築のなかで、時代がついて昧がでたという例は皆無に近いだろう。それらは古くなると、廃墟というより廃棄物になってしまう。廃墟にはそこにまだ人間の存在を思わす何ものかを見ることができるのだが、廃棄物にはなにもない。今私の目の前にあるいささか傾きかけ、山はだにへばりついている農家には、古いからと言って、廃棄物のおもむきなど何一つない。私がその家に感じた温もりは、決して、単にそこが陽だまりであったとか、あるいはそこで使われている材料が身近かななじみやすいものであるからだとか、そんなことから生じたものではないだろう。たしかにそれが一つの要因であることについては私も否定はしないけれども、しかし、同じような所に同じような材料を用いて建てたからといって、直ちにそれがある温もりを感じさせるものとなる、とは言えないのもまたたしかなことだからである。

 そうだとすると、この温もりは何なのだろうか。

 おそらくそれは、先に書いたあの人為のにおいを感じさせない人為、その人為が持つ本来的な温もりのせいなのではなかろうか。別な言いかたをすれば、そこでなされていることが全て、現代普通に使われる意味ではなく本質的な意味での合理精神に拠ってなされているからなのだ、と言ってもよいだろう。それはすなわち、そこで生きる人間にとってあたりまえと思えるように、あたりまえのことがあたりまえになされる、ということだ。そこに生きる人間をとりまくあらゆるものの存在とそのありようを素直に認め、そのありようを拒否も否定もせず、かと言ってそれにいたずらに押しひしがれるわけでもなく、それらをそれらのありようの理に従って自らの生活のために使いこなしてゆく精神、それが彼らの精神なのだ(もっとも、彼らがそう意識していたかどうかは知らない。)彼らがやってきたことには、てらいはもとより無理がないのである。そして無理がないということこそ、そのことばの本来の意味で、合理的ということに他ならないのである。

 

 そう考えなおしてみると、私がここで見てきた信州のいくつもの道も、古来よりあるものは、まずほとんどが(そのときどきの人々の立場に立ってみると)無理のないものであったことに気づく。それは現今いろいろと問題にされているスーパー林道という名の観光道路のルートのとりかた、つくりかたの無理さと比べると、一層きわだって見えてくる。

 現代の道づくりも、そして家づくりも、それらは全て、合理の名のもとになされているのであるが、そのときの合理のなかみは、明らかに、古来の道や、あるいは今私の目の前にある傾きかけた家をつくってきた人たちの合理とは異なったものなのだ。現代的なやりかたでは、その合理の規範を、そこに生きる人間にとってあたりまえであること、人間をとりまくあらゆるもののありようからみてあたりまえであること、という根本をはなれ、全くちがう何か別のものに求めてきてしまっているのであり、しかも今なお、求めたがっているのである。合理とは、私たちの外に、私たちとの関係を断ち切った形で存在するものでも、するべきものでもなく、あくまでも、私たちにとって合理でなければならないはずではないだろうか。

 

 谷間に入っておよそ一時間半、両側の山も低くなり、谷幅も広がり、それとともに、家々もだんだん低い位置に下りてくる。そして前方の視界が開け、善光寺平とその向うの雪を被った高山が、盆地特有のもやのかかった空気のなかにかすんでいる。道は犀川の北岸を、そのまま進むとまっすぐ善光寺そのものにぶつかる形で善光寺平へと入りこむ。右手には、一段下って、今の長野市の市街が拡がっている。信越線を使ってしか長野市を訪れたことのない私にとっては、善光寺そのものの立地の意味がいまひとつ分らなかったのであるが、今回このようなルートで訪れてみて、初めてそれが分ったように思えた。それは善光寺平の、言わばへりにあたるちょっとした高みにあるのである。そして、今の市街地は、かつてはどうしようもない低地であったにちがいない。善光寺の立地そのものも、これは極めてあたりまえな(もちろんその当時の人々にとってであるが)ことだったのである。

 

あとがき

〇どうもこのところ、せわしいことが続いて、落ち着いて書けない。多忙は犯罪である、気をつけろ、との忠告をいただいた。今回もまた、日をおいて書いているので、どうも集中力に欠けてしまったようである。

〇信州はほんとに山国である。どこへ出るにも必らずどこかで峠を越えなければならない。峠を介して他国とつながっているのである。峠と道、これは興味をもちだすと尽きることなく面白い。できることなら、この信州へ通じる峠と道を、くまなく、四方八方から歩いてみたいと思う。峠の向うとこちら、そのありようのちがいはまことに興味深いのである。地図もない時代に、こういう数多くの道を見出した人たちの道理にも興味がわく。そしてそれはまた、おそらく、水理、すなわち河川に対する人々の考えかたに対しての興味にも連なるだろう。

〇こういうように各地を見て歩いていつも思うのは、どうして今、極くあたりまえの屋根の家が、地方からもなくなってきつつあるのか、ということだ。新しい家の半分は、まわりにある先人の知恵の集積に対して何の関心もはらいもせずにつくられている。だれがこうしてしまったのか。

〇今年は寒い。既に雪は二度も降った。

〇それぞれなりのご活躍を!

     1984・2・1           下山 眞司

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