余録・・・・明治の鉄骨トラス:丸山変電所の補足

2009-05-18 08:00:00 | トラス組:洋小屋

4月27日に写真を紹介した「丸山変電所」の図面を、「修理工事報告書」から編集・転載します。

今回は、国会図書館に、修理工事報告書の図面だけを複写依頼したため、鉄骨の詳細寸法等は分りません。
いずれ報告書の「技法調査」部分を複写依頼するつもりでいます。

とりあえず、「丸山変電所」の「蓄電池室」の梁行断面図・桁行断面図(一部)を紹介します。いずれも、修理前の実測図です。
寸法表示をみると、尺・寸で設計してあるようです。

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余録・・・・明治の鉄骨トラス:丸山変電所

2009-05-02 18:31:47 | トラス組:洋小屋

大分前になりますが、現在は重要文化財に指定されている「煉瓦造+鉄骨トラス」の「丸山変電所」を紹介しました(「丸山変電所・・・・近代初頭のレンガ造+鉄骨トラス小屋」を参照ください)。

そのとき載せた以外の写真(スライド)を最近発掘!しました。トラスに関心がお在りの方が、かなりおられるようなので、そのうちのいくつかを新たに紹介させていただきます(一部は重複しています)。

重文に指定される数年前の1990年5月の撮影で、写真がブレている上に保管も悪く、画面が汚れていますがご容赦ください(重文指定は平成6年:1994年、修理工事は平成14年:2002年終了)。


建物は二棟並んでいますが(峠寄りの「機械室」と横川駅寄りの「蓄電池室」)、これは、越屋根の付いている「蓄電池室」の方です。

このスレンダーなトラスは、惚れ惚れします。現代の《技術者》《理論家》に比べ、明治の技術者は数等優れていたのです。

修理工事で、煉瓦造の壁の部分をH鋼で武骨に補強をしたようです。
私の目では、そんな必要はないと思えましたが・・・。
構造屋さんは、「煉瓦造=アブナイ」と頭から思い込んでいる、皆、何か勘違いをしているのではないか、と思います。だって、明治の末からずっと安泰だったのですよ!

変な補強の結果、大きな地震で壊れなければいいな、と願っています。
今盛んに行なわれている「耐震補強」、部分的に強い場所をつくって、わざわざ架構に強弱をつけ、私の目には、むしろ、破壊を奨励しているように思えてなりません。構造屋さんのご見解を聞きたいと思っています。


なお、同時に、86年に撮った「建て方」の工程写真も発掘しましたので、整理して近々に紹介します。「差物工法」の二階建て住宅の「建て方」です。

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喜多方訪問・余録・・・・喜多方のトラス

2008-11-11 10:20:58 | トラス組:洋小屋

「・・・支えた技術」の合間に、喜多方訪問の続きを。

喜多方はラーメンの町ではなくトラスの町だ。
最近の建物には見かけないが、明治・大正そして昭和初期に建てられた建物にはトラス組の小屋の建物が多い。つまり建ってから約80年以上は経っている。
トラスは、喜多方地域に多い煉瓦蔵だけではなく、木造建物でもあたりまえのように使われていたのだ(過去形にしたのは、今は使われていないから)。
しかも、どれも洗練されている。
木造の例は、06年12月19日紹介の写真に載せた(下記註参照)。この木造の倉は、まだ健在であった。

   註 「『実業家』たちの仕事・・・・会津喜多方の煉瓦造建築-2」

上の写真は、「登り窯」の覆屋に使われているトラスと、町の中心部にある「甲斐商店」の元倉庫。
登り窯の覆屋は大正年間、「甲斐商店」の倉庫は明治末年の建設(一時、「吉川商店」の倉庫であった)。

「登り窯」の覆屋はすべて木造だが、「旧甲斐商店倉庫」は煉瓦組積造の二階建て。外観は写真のとおり。一階は煉瓦2枚半、二階は2枚積み。
二階の床は、煉瓦壁間に5寸×8寸ほどの松梁が3尺ピッチで架けられ、根太なしで板張り。

釉薬をかけた煉瓦が全体に使われているから、06年12月16日に紹介の赤煉瓦の組積造の蔵より後の建設と考えられる(下註記事参照)。赤煉瓦は凍害を受けることがあり、そのため釉薬をかけた煉瓦を使うようになるからだ。

   註 「『実業家』たちの仕事・・・・会津喜多方の煉瓦造建築-1」

      なお、甲斐商店倉庫は、以前は中に入ることができなかった。
      今は喜多方の住人が買い取り、整備中。普段は入れない。
      今回は、その方のご好意で内部を見せていただいた。
     

写真のように、ここで使われているトラスには、金物がまったく使われていない。覆屋のトラスの真束下部の「箱金物(はこかなもの)」は最初はなく、「陸梁(ろくばり)」に「枘差込栓打ち(ほぞさしこみせんうち)」だったと思われる。
覆屋は吹きさらし、下からは熱気、煙がいぶす。しかも軸部は木造。そのため、仕口が傷み補強されたものだろう。
「甲斐商店倉庫」のトラスは屋内だから傷んではいない。金物が使われていないことが歴然。仕口に隙など少しもあいていない。仕事はきわめて丁寧、しかも手慣れていて、洗練されている。

   註 写真の陸梁が撓んでいるように見えるが、
      これは、カメラをあおっているため。実際は水平。

トラス組は日本の工法ではない。そうであるのに、この洗練さは、長年使い慣れていたかのようだ。
しかし、以前にも調べたのだが、いったい何時ごろ喜多方地域にトラス技法が伝わったのか、いまだに不明である。
ことによると、鉄道工事(現在の磐越西線)の技師が伝えたのかもしれない。
あるいは、洋風建築が早くからつくられていた山形の方から伝わったか。喜多方から北に峠を越えるとすぐに米沢(もっとも、その峠:「大峠」は難所に近かった。今はトンネルが通っている)。

とにかく喜多方のトラスは一見の価値がある。


ここ四半世紀で喜多方が大きく変ったのは、町なかに、住宅メーカーの手になるどこにでもある住宅が増えたこと。そこだけ写真に撮れば、どこの町だか分らない。多少違う点があるとすれば、屋根。雪が降るため、比較的勾配がきついのと雪止めが付けられている。
ここでも「地域の特性」は、失われつつあるあるようだ。
コメント (2)
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M小学校の体育館-4・・・・妻面の納まり

2008-06-21 21:18:11 | トラス組:洋小屋

[文言追加:23.38][図面更改:6月22日12.17]

巨大な切妻面の受ける風圧は、かなりのものがある。
この屋根は、トラスで組まれた三角柱が横たわった形。しかし、その立体だけで風圧に耐えるには無理がある。そこで、@1800mmの束柱と横繋ぎ材(いずれも□100×100の鉄骨)の一部にH-200×100を添わせることで、しのぐことにした。
外部は屋根面に沿った欄間以外は大壁(中空押出成型セメント板)、内部は、束柱の間にスギ板壁を真壁納めとしている。スギ板は目透かし張りとし、内部に吸音材を封入した(でき上がってみると、野地板の硬さが吸音効果を妨げ、若干反響が著しかった)。

最近、木造、鉄骨造、RC造を問わず、とかく「構造」は「隠れてしまうもの」「隠すもの」というような設計が多いが、私は賛成しがたく思っている。
つまり、舞台の書割り、その支えが構造だと考える人が多いようなのだ。
「構造体」をすべて表しにする、しなければならない、とは毛頭考えないが、「構造体」とはまったく無関係な「外皮」がつくられる傾向にはついてゆけない。

昨今の、杜撰な構造計算・構造計画が多発する現象は、ことによると、設計者の「構造蔑視」「構造無視」の考え方が結果しているのかもしれない。

それにしても、「構造体とは無関係な外皮」を、いったいどのようにして《発案》しているのだろうか。私には、まったく不可解・謎である。

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M小学校の体育館-3・・・・屋根の詳細

2008-06-17 21:56:42 | トラス組:洋小屋

今回は、鉄骨トラスに載せられた瓦屋根の詳細。
瓦の枚数が各部の寸法等の決め手になる。

原図はA1判、縮尺20分の1および10分の1。鉛筆描き。
上掲の図は、原図から抜粋し編集、文字を活字化。

ほぼ設計図通りに仕上がっている。

次回は妻壁の納まりを紹介予定。

(まだ風邪が完全には抜けない!)

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M小学校の体育館-2・・・・トラス組の詳細

2008-06-12 18:48:35 | トラス組:洋小屋

[図版改訂 6月13日 12.48]

上掲は、先の体育館のトラスの工事中の写真と設計図。

この設計では、トラス組:構造体:がそのまま現れることを前提に設計している。これは、以前に紹介したこの小学校の校舎部分での考え方と同じである(「RC・・・・reinforced concreteの意味を考える-1」「RC・・・・reinforced concreteの意味を考える-2」参照)。

材寸の確定、仕口等の構造詳細設計は、増田一眞氏にお願いした。
上の図は、増田氏の直筆図を編集し、文字等を活字に置き換えてある。
原図はA1判、20分の1、鉛筆描き。

メインのトラスの上下弦材は、2L-90×90になっているが、計算上では2L-75×75で十分とのことだった。しかし、何となく不安で一段大きくした記憶がある。仕上がってみると、見た感じ、少しばかりごつく、75でよかったのかもしれない。

G-PLについては、可能なかぎりr をつけている。部材接合部の一体感が視覚的に得られるからである。
また、主トラス相互を桁行方向に結ぶ繋ぎ梁(図のB1)も、アーチ型のラチス梁とした。これも、全体が組みあがったとき、個々の主トラスだけが浮いて見えることをきらったからである。結果は、一定の効果は得られたように思う。

このようにプレートをr を付けて切断したり、アングルを湾曲させたりすることは、手間・加工費がかかるとして、最近ではあまりやらないようである。
しかし、トラス組は、使用鋼材量が圧倒的に少なくなるから、鉄骨工事費総体としては、必ずしも高くはならない。

なお、r 加工は、レーザー利用の切断のため、最近では以前に比べると、数等容易とのことだった。

鉄部の塗装は、内外とも、グラファイトペイント仕上げ。

鉄骨と建築仕上げとの取合い等については次回。

(今回も間が空きました。風邪完治せず・・・)

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M小学校の体育館-1・・・・鉄骨トラス+瓦屋根

2008-06-08 12:23:58 | トラス組:洋小屋
[写真・図面更改 16.43]

長手:桁行36m、短手:梁行27mの大きな競技室をもつ体育館。
小学校の体育館だが、同時に、地区の社会教育・体育施設をも兼ねるため。

写真は竣工写真から。原版はカラーだが、水銀灯の照明の補正をかけていないため、青ずんでいたのでモノクロにした。

図面の原図は100分の1、鉛筆・手描き。平面図の右方が北(図面の上が西)。

RCの躯体に鉄骨トラスの小屋組を架けた切妻型。
躯体のRCは要所に限定し、開口部は煉瓦1枚積あるいはコンクリートブロック(CB:防水19cm厚)積の腰壁で、開口の大きさを調節(場所によると、全面を煉瓦あるいはCB積)。
競技室内壁は、スギ板横目透かし張り(内部に吸音材)、素地仕上げ。
ギャラリーの手摺もスギ板目透かし張り。

外部に面する建具はアルミサッシ、内部の建具が木製を原則としている。

小屋組は、下部を円状(アーチ型)、上部が切妻型のアングルで構成したトラスを@2700mmで配置。加工に手間がかかるが、鉄骨量は少なくて済む。
なお、プロフィールの写真は、このトラス組の躯体取付け工事中の様子。

このトラスの形式は、ベルラーヘの「アムステルダム証券取引所」ホールの鋳鉄製トラスの真似。
もっとも縦横比が違うので、少しも似ていないが・・・(「まがいもの・模倣・虚偽からの脱却・・・・ベルラーヘの仕事」に写真あり)。

屋根は、不燃野地下部表し、瓦(53A型)葺き。
瓦にしたのは、台風の襲来地帯ゆえの策。金属板葺き、特に長尺ものは、風による被害が大きく、最近台風常襲地では、瓦葺きが見直されているという。
瓦が全面飛んでしまうことはまずあり得ず、部分的に被災するだけ。規格品を使用していれば、修復も早い。耐久面でもすぐれている。

次回はトラスの詳細を。

(ここ数日、風邪でダウン。間が空きました。)
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1950年代の鉄骨トラス・・・・長野・松代中学校 旧・体育館

2008-04-19 11:27:23 | トラス組:洋小屋

先に、山形県尾花沢の宮沢中学校体育館の木造トラスを紹介した際、多分、創立時の昭和26年(1951年)の建設ではないか、と書いた。

調べてみると、昭和22年(1947年)の「教育基本法」制定により「六三制」義務教育が始まり、小学校に間借りをするなどして、各地に新制中学が誕生する。

当時は、敷地は比較的容易に確保できたが、建設資材も不足し、建設費は当然高く、新施設の建設状況は各自治体、地域によって差があった。

そのため、昭和28年(1953年)、施設新設にあたっての国庫補助が法制化、たしか、工法別(木造、鉄骨造、RC造別)に国の規定する単価の二分の一が補助されたはずである。

尾花沢の宮沢中学の場合、この地域では、まだ鉄骨造は一般的ではなかっただろう。そして、その出来上がりの様子から察して、学校は村に一つ、地域の「財産」「宝」という意識が強く、地域総出で集めた自前の費用で、地元産の材料を豊富に使いつくられたのではなかろうか。

1960年代(昭和35~44年)初め、青森県の鉄骨造の小学校を設計した際、鉄骨を製作したのは、八戸の造船所であった。当時、青森県内では、建築用の鉄骨を製作できる工場がなかったのである。
また、基礎などの鉄筋コンクリート工事を担当したのは、土木工事の技術者であった。鉄筋コンクリート造も、建築では滅多になかったのである。

1975年ごろ、筑波研究学園都市の学校を設計したときも、鉄筋コンクリート工事に慣れた職方さんは少なかったように記憶している。
しかし、これら青森、茨城の場合、慣れていなかった分、仕事は丁寧であったように思う。それに比べ、今は、手慣れてしまったからか、見ていると相当いい加減な仕事が多いような気がする。

上掲の写真は、私が撮ったのではなく、送ってもらったもの。長野市の松代中学校の鉄骨トラス造体育館。今は撤去されてないそうである。
松代中学のHPで調べたところ、「昭和31年(1956年)1月、講堂兼体育館完成、第一回卒業式挙行」とあるので、それがこの建物ではないかと思われる(そのときは、長野市に合併されておらず、松代町立であった)。

鉄骨は、50~60㎜のアングルによるもののように見える。加工が手慣れているから、専門の鉄工所の手によるものだろう。高圧線鉄塔などを手がけている工場の可能性が強い。

   註 接合は、まだリベットである。今は、鉄塔でもHTボルト。
      東京タワーもリベット打である。

この建物で興味深いのは、柱型部分を露出としていること。
トラスの場合、尾花沢・宮沢中学のように、柱型を内部に設けるやりかたと、松代中のように外へ設ける方法とがある。
前者は、外部がすんなり納まるが、内部では、邪魔になることがある。内部を重視すると、松代中方式になる。
木造の場合だと、柱型が外の場合、多分、トラスを木材の羽目板などで被うだろう。そういう例はかなり多い。
しかし、鉄骨柱型をカバーするとなると、結構面倒だ。第一、隠された鉄部の様子が分らなくなる。ならば、露出させよう、ということになったのではないだろうか。
この写真は、10年ほど前の撮影らしいが、幾分錆が出ている。ということは、鉄塔などで用いられる亜鉛ドブ漬けの鋼材ではなく、普通のアングルに防錆塗料+仕上げ塗装、という仕様だと考えられる。

少しぼやけているが、内部は鉄骨造とは思えない。多分、体育館専用ならば、内部のトラスも露出にしただろう。講堂を重視したと思われる。断面図を見てみたいものだ。

最近、このような鉄骨トラスは少なくなった。こういうトラスは、部材の種類、数が多く、加工の手間を考えると、H型鋼を使う方が安上がり、だからなのかもしれない。あるいは、アングルトラスを設計できる人がいなくなったのかもしれない。しかし、H型鋼使用では、鋼材量は不必要に多くなる。

鋼材加工費は重量あたりで算出しているのではないか?
では、支払われる工事費用は、誰の手にわたっているのだろう?
私なら、手間に還元できるのだから、トラス方式を採るだろう。第一、省資源。

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こういう架構もある・・・・アアルトの体育館

2008-04-14 19:51:59 | トラス組:洋小屋

これは、アアルトが1950~1951年に設計した「ヘルシンキ工科大学」の「屋内競技場」。半世紀以上も前の設計。現存するようだ。中のフィールドは土の床。

写真、図版は“ATELIER ALVAR AALTO”、
競技をしている内部の写真は、“ALVAR AALTO Between Humanism and Materialism”からの転載。

中のトラックは400mか。内部の写真の競技する人と比べると、その大きさが分る。
この架構は、トラス組の替りに、木造の骨に板を打ち付けた巨大な木造の「門型」を地上でつくり(写真参照)、それを順に立て並べ、相互を「振れ止め」でつなぐ、というもの。
大断面の「集成材」を、板材の釘打ちでつくる方法、と言ってよい。多分、どんな糊を使うよりも耐久性があるだろう。糊は、材の表面が接着するだけだが、釘は相互を貫いて、全体を一体にできるからだ。釘の量が、写真で分る(部材の写真に見える黒い筋は釘の列)。

小さな空間では、架構がごつく感じられるかもしれないが、大きな空間では問題がなさそうだ。

今は一般に、大架構というと、すぐに接着剤による「集成材」の大断面材に頼りがちだが、大量にある「間伐材」を利用して、こういう利用法も考えてよいのではないだろうか。
なぜなら、専業メーカーでなくても、誰でも普通につくれる。
もっとも、行政は、実験データを持って来い、と簡単には認めたがらないかもしれないが・・・。

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みごとなトラス組・・・・尾花沢・宮沢中学校の旧・体育館

2008-04-13 02:04:21 | トラス組:洋小屋

上の写真には、1988年7月というメモが添えてあったから、約20年前のもの。
メモには、尾花沢市立宮沢中学校、とあった。

記憶を辿ってみると、東北を観ていたとき、山形・尾花沢の郊外の田園の中に見つけた「気になる建物」である。
googleの航空写真は、尾花沢市のHPで分った宮沢中の住所から検索した現在のその周辺の様子。見にくいが、画面中央、山のふもとの白抜きで書かれた住所のところが、学校所在地。

   註 尾花沢は、積雪地帯である。

外観は写真が下手でよく写っていないが、切妻屋根で、棟の中央に望楼風の塔が載っている(トラスの見上げに、その内部が写っている。換気とシンボルが目的か?)。
平面は、覚えていないが、多分、妻面に付いている下屋のところが入口あるいはステージか?

外観もさることながら、内部を見たとき、その洗練されたみごとな架構に驚かされたことを思い出した。

ムクの木材だけを使って、大きな空間をやすやすとつくりだしている。陸梁:タイバーの類もない。妻面の、漆喰塗りの箇所で、トラスの幅が分る。1.2~1.5mぐらいあるか。

そして、筑波一小体育館のとき、こういう架構は、「私の頭の中に浮かばなかったな」と、一抹の後悔めいた感を抱いたことも思い出した。

おそらくこれは、戦前から続く木造校舎の技術が引継がれていたのではないだろうか。
設計は、そういう技術を受け継いだ、県か市町村の技術者か、あるいは町場の技術者によるものと思われる。
かつて、学校建築は地域の「財産」だったから、各地の学校建築には、その地域のすぐれた技術が結集していたのだ。
残念ながら、そのほとんどは、木造ゆえに取り壊され、無粋なRC、または鉄骨造に替えられてしまった。

   註 もしかして、遠藤新の設計か、と思って調べてみたが、
      宮城には数校設計しているが、山形には設計例はない。

今では、木造でこのようなトラスを設計できる技術者はいないだろう。
もしも遺っていたなら、その技術的レベルは、戦後のある時期の技術を伝える貴重な文化財に指定してもおかしくないのではなかろうか。

   註 尾花沢市のHPで調べたところ、
      昭和22年、新学制にともない、宮沢村立明徳中、高橋中が、
      それぞれ両小学校に併設して開校され、
      昭和26年、両校が統合して、宮沢村立中学校が創立された、
      とある(昭和26年:1951年。基準法制定の5年前)。
      この体育館は、おそらく、そのときに建てられたのだろう。

      ただし、詳しいことは調べていないが、平成5年に新校舎と
      体育館が完成したとあるから、多分取り壊されたに違いない。
     


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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-7

2007-01-17 03:09:38 | トラス組:洋小屋
 
 トラス組の話は、木造トラスを使った設計の紹介(上掲写真)でひとまず終り。
 いずれもキングポストではなく、シレンの用いた方法(丸鋼で陸梁を引張る)によっている。キングポストはとかく重い感じとなるが、この方式(力の大きさが逆になる)では、軽快に仕上がる。また、陸梁の垂下がり(水平)を、トラス取付け後、丸鋼の突っ張りで調整できる利点がある。

 北条幼稚園はおよそ35年前の設計で屋根は片流れ。木造軸組にトラスを架ける方式。
 丸鋼の端部のナットで調整するのではなく、昔懐かしいターンバックルを使っている。よく見ると、陸梁と束を「かすがい」で留めている。本来これは必要ないはず。陸梁は105㎜角だったと思う。
 壁際の火打梁はトラスの直交方向の揺れ防止のため。

 下2葉は、10年ほど前に設計したM小学校の例。北条幼稚園と同形式だが切妻屋根。ただし、RCの躯体にトラスを架ける。
   RCの躯体に鉄骨トラスの屋根を架けたのが竹園東小(昨年10月26日記
   事)。
   なお、M小学校の体育館では、75㎜のアングルだけで構成した鉄骨トラス・
   アーチ梁を架けている。機会を見て紹介。

 ここでは揺れ止めのために、束を挟んで2本のつなぎ材をトラスに直交して抱かせ、その間を電気配線、照明器具設置に利用。陸梁は杉120㎜角。少し太い感じがする。105角で十分だったかもしれない。
 
 筑波第一小学校体育館(昨年10月18日掲載)でもトラスを考えたが、結局ああいう形となった。

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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-6

2007-01-16 00:34:13 | トラス組:洋小屋

 きのうの続き。フィンランドの建築家の設計になる建物のトラス。

 上はヘイッキ・シレンのオタニエミの森の中の教会(近くにはアアルトのオタニエミ工科大学などもある)。学生時代に書物でこの建物の紹介を見たとき、この清冽な空間に驚いた覚えがある。単純にして、明快。

 下はアアルトの設計した「教育大学」の学生食堂の内部。これも単純にして明快。空間を物理的に維持する構造が、そのまま空間の構成要素になる。

 両者とも、私には、建物づくりの理想の姿に思え、大きな影響を受けた。

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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-5

2007-01-15 19:40:30 | トラス組:洋小屋
 
 この数葉の写真とスケッチは、1950年、アアルトの設計で建てられたフィンランド・イマトラの小さな町役場(town hall)の議場の屋根・天井を支えるユニークなトラス。
 ここでは、トラスは隠すものではなく、空間を構成する重要な要素として活躍している。

 このように構造と空間を一体に考える例は、アアルトの設計には多く、フィンランドの他の建築家の設計(次回)にも見られる。

図と写真は、下記より転載
Atelier Alvar Aalto 1950~51(Verlag fur Architectur,Erlenbach-Zurich)
Alvar Aalto(The Museum of Modern Art,New York)



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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-4(改・補)

2007-01-13 10:10:37 | トラス組:洋小屋

 長野県塩尻市の周辺には、興味ある建物が多数ある。
 塩尻は、鉄道で言うと、中央東線、中央西線、篠ノ井線の分岐点、街道で言えば、中山道(江戸~京都)、三州街道(伊那往還:塩尻~伊那谷~遠州)、そして北方へは松本を経て糸魚川へ通じる糸魚川街道(千国道)あるいは長野・善光寺への北国西脇往還(善光寺道)の交差点として栄えた場所。「塩尻」とは太平洋あるいは日本海から届けられる「塩」の最終到着地だから名付けられた、という説があるくらいだ。
 
 このあたりには、建屋を、石置き板葺きで緩勾配の大屋根でくるむ通称「本棟造(ほんむねづくり)」と呼ばれる建物が数多く残っており(今は瓦葺きに変っている)、それらのつくりなす街道筋の街並みも見ごたえがある。
 一般には、「堀内家」が「本棟造」のいわば代表として紹介されている。
 しかし私は、むしろ、「島崎家」と上掲の「小松家」を観ることをお勧めする。いずれも塩尻市の郊外、字片岡にあり、両家は数百メートルほどしか離れていない。

 「島崎家」は「本棟造」の原型と言ってよい建物で、「堀内家」に比べると数等細身の材で造られている。それでいながら、当初の建物を、改修によって約250年以上にわたり住み続けてきた住居である。材の寸面の大小は、そのまま直ぐには構造面での強さと結びつかない、という良い例。

 いわゆる「民家」は骨太と一般に理解されているようだが、骨太になったのは幕末から明治初めの頃のこと。庶民は、無駄に材料は使わない、必要最小限の材で、しかも手近で得られる材料でつくるのがあたりまえだった(《銘木》などという感覚とは縁がないのが庶民)。「島崎家」はその典型と言える建物。

 「島崎家」についてはいずれ紹介するとして、上掲の「小松家」は、「島崎家」の直ぐ近くにありながら「本棟造」とはまったく異なる茅葺の「上屋」だけからなる農家。
 屋内の写真はないので、断面図で想像していただくしかないが、きわめてすっきりしていて、呆気にとられるくらい単純な架構である。一種のトラス組と言ってよいだろう。断面図は、「しもざしき」での断面(右手が「しもざしき」)。

 もちろん、トラスなどという意識のもとでつくられたわけではなく、合掌の垂れ下がりを陸梁からの「つっかえ棒」で支えよう、という発想だ。これは、「現場でなければ生まれない発想」と言えるだろう。机上の知識では、こういう発想は生まれまい(知識としてのトラスが頭に浮かび、こんなのありか、と考えてしまう)。
 註 西欧の各地域の農家の建物にも、同様に、現場で生まれた技が数々あり、
   そしてそれが各地域独特の形状として結果している(これもいずれ紹介)。

 私は、こういう「建築家なしの建築」に潜んでいる溌剌とした発想・技に常に感動を覚える。そこに学びたいと思う。こういう新鮮で溌剌とした発想が、今の「建築家」にできるだろうか?
 最近建てられる建物を見ていると、今の「建築家」の目線は、どこか「建物づくり」とは無縁なところをさまよっているように思えてならない。 

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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-3

2007-01-09 03:08:32 | トラス組:洋小屋
 
 今回は、一般への西欧風建築の普及に影響力のあった「建築学講義録」でのトラス組について。
 ただし、同書にはトラスという言葉は使われず、いろいろな「(西洋式の)屋根のつくりかた」の一つとしていわゆるトラス形式が解説されている(「日本小屋」の解説もある)。

 上の図は、同書から屋根:小屋組解説用の図を抜粋、編集したもので、用語も同書に拠っている。
 ただ、同書では、「垂木」には、[偏が「木」+つくりを「垂」とした字]、また、queen postには、[「夫婦○」:○は、偏を「木」+つくりを「短」とした字]があてられているが、読みも分からず(「めおと△△」と読むらしい)、フォントもないので、queen postのままにしている。

 解説は、張間に応じて、屋根を「どのようにつくるか」という視点でなされている(他の部位についても同様に「どのようにつくるか」が解説される)。
 以下、「屋根のつくりかた」についての同書の解説を意訳してみる。

 ①の「踏張垂木小屋」の「踏張」は「ふんばり」と読むのだろう(coupleは「一対の」という意味で、建築用語では「合掌」に相当)。
 これは、最も簡単な屋根架構法で(現在の通称「垂木構造」)。「垂木」を拝み合わせて、脚元は桁に、頭は棟板の両面で向い合せ釘打ち。 
 図の点線のように、壁を押出す(開こうとする)ので、それを防ぐ必要があり、煉瓦壁のときでも梁間12尺(約3.6m)を越えるときは使わない方がよい。
 木造の壁の場合は、@1間(約1.8m)に「繋梁(つなぎばり)」を渡して左右の壁を繋ぐ。煉瓦壁の場合でも、壁厚が厚いとき以外は、同様に「繋梁」の使用が望ましい。

 ②の「尻留垂木小屋」は、「しりどめ」と読むと思われるが、①の「垂木」の「尻」:根元ごとに「繋梁」を取付ける方法。
 「繋梁」は、通常は天井の「野縁(のぶち)」を兼ねるか、あるいは野縁の「吊り木」を取付けに利用されるため、天井の重さで「繋梁」の中央が垂下することがあり、梁間が12尺(約3.6m)を越えるときは、上部に「帯梁(おびばり)」を添えるとよい。

 ③の「帯梁小屋」は、壁の高さが低いとき、または屋内高を高くしたいときの方法。
 「繋梁」の代りに一段高い位置に梁(「帯梁」)を設ける。
 collarは「襟」のこと、collar-beamは建築用語になっている。
 この方法は、図の点線のように、「帯梁」の下にあたる部分の「垂木」が曲がり、壁を押出すことが起きやすく、上等な構造とは言えない。
 また、@8~10尺(約2.4~3.0m)ぐらいで同様の形状の組物(「帯梁」を設けた「合掌」と考えてよい)をつくり、「帯梁」と「合掌」の取合い箇所に「母屋」を取付け垂木を掛ける例を見かけるが、壁の一部だけに屋根の重さがかかることになり、その結果、壁が多少でも外に傾けば「帯梁」が引張られ、「合掌」も曲げられることになるので好ましくない。
 ただ、②の「尻留垂木小屋」形式に取り付けた(「繋梁」を設けた上、追加した)「帯梁」はきわめて有効である。

 ④の「中釣垂木小屋」(「中釣」は「なかつり」または「ちゅうづり」?)は、②の「尻留垂木小屋」の「繋梁」の垂下を防ぐために図のように棟から「釣ボルト」で梁を釣る方法。
 梁間14尺(約4.2m)以上のときは、「垂木」の中央へ点線のように「帯鉄」を取付けることもある。
 いずれにしても、④の方法は、壁も押出さず、梁の中央の垂下も起きない好ましい方法である。

 ④の架構を大きな梁間に使うと、屋根の重さで「垂木」が下方に曲がり気味になるので、「垂木」の中央を他材で突張る必要がある。この材を「斜柱(しゃちゅう)」と呼ぶ(現在の「方杖(ほうづえ)」)。
 「釣ボルト」では「斜柱」の取付けが難しいので、「釣ボルト」に代り木材の「釣束(つりつか)」を使う。「釣ボルト」を使うときは、小屋梁上に「斜柱」の脚元を受ける鉄製の沓金物を使う(図省略)。

 このように、「合掌」(2本)、「釣束」(1本)、「斜柱」(2本)、「小屋梁」(1本)の計6本の材だけでつくられる最も多用される方法のため「普通小屋」と呼び(図の⑤)、梁間20尺(約6m)以上30尺(約9m)の場合に最適である(現在の通称「キングポスト・トラス」)。

 「普通小屋」を①②の「垂木小屋」のように狭い間隔で並べるのは合理的でないので、図のように組んだ架構(小屋組)を@6尺(約1.8m)で壁上の木製の「敷桁」(壁にボルトで固定)に据え置き、「母屋」を渡して「垂木」を取付ける。「敷桁」に代り石材による「梁受」を設ける方法もある(10月28日掲載の「旧丸山変電所」の鉄骨トラス受けに石材の「梁受」が使われている)。

  註 「普通小屋」については、各仕口の詳細、各部材寸等が詳しく述べられて
    いるが、ここでは省略する。

  註 キングポスト形式の屋根づくりがきわめて「普通」で容易であったから、
     日本での普及も早かった(例:喜多方に於ける木造建築での利用)と
     言えるかもしれない。
     その意味では「普通小屋」の呼称も納得がゆく。

 張間が「普通小屋」が担える長さを越えるときに使われるのが⑥の「二重梁小屋」である(通称「クィーンポスト・トラス」)。

 「小屋梁(現在の通称陸梁:ろくばり)」の張間の両端から1/3の位置のところに立てる2本のqueen postで両端から登る「合掌」の頭を受け、queen postの脚部から「斜柱」を合掌の中間点へ向けて取付け「合掌」にかかる荷を受け、2本のqueen post間は、上部は「二重梁」で、下部は「添梁(そえばり)」で突張る。
 さらに「二重梁」を支える「斜柱」を図のように取付け、「合掌」の「斜柱」取付き位置から、「小屋梁」に向け点線の位置に「釣ボルト」、または「釣束」を設けるのが一般的である(こうすると、いわゆるクィーンポスト・トラスの一般的形状が完成する)。

  註 「二重梁小屋」という呼称は「クィーン・ポスト組」という呼称よりも
     明快である。

 以上紹介したように、現在の建築構造のトラスの解説では、軸力のプラス・マイナス、圧縮か引張りかをベクトルで解析して説明するのが普通だが、「建築学講義録」では、単純な「合掌」から始めて、張間の増加にともない生じる問題の対策として生まれた代表的な小屋組を順に説明し、最終的に通称トラス組に至っている。
 おそらくこの順番は、古人がトラス組の「発明」に至る過程そのものと言ってよい。
 このような解説は、日ごろ「現場」で建物づくりに接している「実業家」たちには、それが「実感」をともなう説明であるため、きわめて分かりやすいものだったに違いない(この書がロングセラーとなった理由の一つだろう)


 残念ながら、これに対して、現在の建築構造の教科書は、先達たち(「実業家」たち)の努力で得られた成果(架構の方法)の分析から生まれた理論:構造力学:が先に立ち、そこから逆に語られるために、理解を難解にしているきらいがあるように思える。
 その意味でも、「常に原点に戻って考える」必要を強く感じる

 
コメント (2)
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